私は日本酒の味はきらひで、ビールの味もきらひだ。けれども飲むのは酔ひたいからで、酔つ払つて不味が無感覚になるまでは、息を殺して、薬のやうに飲み下してゐるのである。私は身体は大きいけれども胃が弱いので、不味を抑へて飲む日本酒や、ビールは必ず吐いて苦しむが、苦しみながら尚のむ。気持よく飲めるのは高級のコニャックとウヰスキーだけだが、今はもう手にはいらず、飲むよしもない。ジンやウォトカやアブサンでも日本酒よりはいゝ。少量で酔へるものは、味覚にかゝはらず良いのである。
 酔ふために飲む酒だから、酔後の行状が言語道断は申すまでもなく、さめれば鬱々として悔恨のほぞをかむこと、これはあらゆる酒飲みの通弊で、思ふに、酔つ払つた悦楽の時間よりも醒めて苦痛の時間の方がたしかに長いのであるが、それは人生自体と同じことで、なぜ酒をのむかと云へば、なぜ生きながらへるかと同じことであるらしい。酔ふことはすべて苦痛で、得恋の苦しみは失恋の苦しみと同じもので、女の人と会ひ顔を見てゐるうちはよいけれども、別れるとすぐ苦しくなつて、夜がねむれなかつたりするものである。得恋といふ男女二人同じ状態にあるときは、女の方が生れながらに図太いもので、現実的な性格がよく分るものであり、だから女の酒飲みが少いのかも知れぬ。
 女はそのとき十七であつたから、十一年上の私は二十八であつたわけだ。この十七の娘が大変な酒飲みなのである、グラスのウヰスキーを必ずぐいと一息で飲むのである。何杯ぐらゐ飲んだか忘れたが、とにかく無茶な娘で、モナミだつたかどこかでテーブルの上のガラスの花瓶をこはして六円だか請求されると、別のテーブルの花瓶をとりあげてエイッと叩き割つて十二円払つて出てくる娘であつた。しよつちう男と泊つたり、旅行したりしてゐたが処女なので、娘は私に処女ではないと云つて頑強に言ひ張つたけれども、処女であつたと思ふ。日本橋にウヰンザアといふ芸術家相手の洋酒屋ができて、そこの女給であつたが、店内装飾は青山二郎で、牧野信一、小林秀雄、中島健蔵、河上徹太郎、かう顔ぶれを思ひだすと、これは当時の私の文学グループで、春陽堂から「文科」といふ同人雑誌をだしてゐた、結局その同人だけになつてしまふが、そのほか中原中也と知つたのがこの店であつた。直木三十五が来てゐた。あの当時の文士は一城をまもつて虎視眈々、知らない同業者には顔もふりむけないから、誰が来てゐたかあとは知らない。
 中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一メートルぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウ※[#小書き片仮名ヰ、143-12]ングやアッパーカットを閃かしてゐる。私が大笑ひしたのは申すまでもない。五分ぐらゐ一人で格闘して中也は狐につまゝれたやうに椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こつちへ来ないか、私が誘ふと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言ひながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になつたが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずといふ顔をした。それほど惚れてはゐなかつたので、ほんとは私と友達になりたがつてゐたのだ。そして中也はそれから後はよく別れた女房と一緒に酒をのみにきたが、この女が又日本無類の怖るべき女であつた。
 私は十七の娘のことを考へると、失はれた年齢を、非常になつかしむ思ひになる。もう、再びあのやうな嘘のやうな間の抜けた話はめぐりあふことが有り得ない、年齢的に、否、二十八の私は驚くほど子供でもあつた。
 私はそのころ別の女の人に失恋みたいなことをして(これが又はつきり失恋でもないのだから始末がわるい、非常にいりくんだ精神上の絡みがあつた)さういふわけで、十七の娘のことなど行きづりの気持しかなかつたのに、娘の方では八百屋お七のやうに思ひこんで私を愛してこの娘は変な手練手管などまだ眼中にないのだから、酒飲みの私を愛する故に彼女も亦威勢よく酒をのみ(まつたく常にグッと、一息で誰でも呆気にとられるのだ)そして私達は飲み仲間の歓呼の声に送られて堂々と出発し、銀座を飲み歩いて巡査に叱られたり、そして、あつちのホテルだの、こつちの宿屋で酔ひつぶれた。けれども娘は頑として肉体の交渉を拒絶し、娘は私に、私は処女ではないのよと言つて抱きついて色々悩しいことをするのだけれども、この娘はたしかに処女とは如何なるものであるか、男女関係の最後の、交渉がどういふものであるか、全然知らなかつたのだと思ふ。だから私とこの娘は中原中也だの隠岐和一だの西田義郎だの飲み仲間の声援に送られて頻りに諸方のホテルで夜を明したけれども、まつたく肉体の交渉はない。私は思ふに、終戦後現れたフラッパーの中には案外この種の何も知らない女が相当数ゐるのではないかと考へてゐる。そしてこの種の何も知らない娘に限つて外形的に大無軌道をやらかすのではないかと考へる。
 私が京都に「吹雪物語」を書いてゐたとき、下宿屋の娘がこの年頃で京都名題なだいの不良少女で、無軌道であつたが素直な気立のよい娘であつた。その後、中学生の三人の不良少年に強姦されて半狂乱になつてそれから転落が始つたが、結局この種の運命は仕方がないので、不良少女は大概よい魂の所有者なのだが教養が低いから堕ちると高さがなくなる。
 私の友達の十七の娘はその後結婚して良い母になつてゐる筈であるが、この娘はフランス文学者の娘で日本の古典文学に本格的な教養を持つてをり、私の原稿を読んで仮名や誤字を訂正してくれたが私が又今もつて漢字だの仮名遣ひなど杜撰ずさん極る知識の持主なのだから、あんまり沢山誤字があつたり仮名遣ひが間違つてゐたりして、十七の不良少女に仮名遣ひを教へて貰つて恐縮したものである。
 私は胃が弱いので、酒やビールだと必ず吐いて苦しむので、これはヂッと飲んでゐると尚いけない。少しづつ飲んで梯子酒をすると割合によい。一番よいのは汽車の食堂で、これは常に身体がゆれてゐるから、よく消化して吐くことが殆どないのである。だからダンスをやらうかと思つたが、昔のダンスホールは酒を飲ませないものだから、非常に厭味なところで、ダンスもつい覚える気持にならなかつた。それでも、どうも酒を飲んで動かないのが苦痛の種でありすぎたから、酒場の女給から教へてもらつて(四五日)ボックスといふ奴、これが又バカ/\しくて、いつそひとつ石井漠にでも弟子入してやらうかと思つたぐらゐである。あのころはウヰスキーでもジョニーウォーカアの赤レベルだともう薬のやうに厭な味が鼻につき、私はコニャックかオールドパアでないと気持よく酔ふことができなかつた。今はメチルでも飲みかねないていたらくで、味覚の方が思想よりも下落してしまつた。そして近頃は酒量がすくなくなり、早く酔ふやうになつたから、却つて吐くことがすくなくなつたが、日本酒とビールは今もだめで、焼酎でもインチキ・ウヰスキーでもメチルの親類でも、ともかく少量で酔ふアルコールの方を珍重する。
 昭和十二年の一月だか二月だかであつたと思ふ。私はドテラの着流しのまゝ急に思ひたつて京都へ行つた。隠岐和一を訪ね、彼から部屋を探してもらつて、孤独の中で小説を書いてみようと決意したのである。その晩私は隠岐に招待されて祇園のお茶屋で酒をのんだ。祇園の舞妓といふものを見るためであつたが、三十六人だかの舞妓がゐるうち二十何人だか次々に見せてもらつたが、可愛いゝのは言葉ばかりで、顔も美しいとは思はれず変にコマッチャクれてゐるばかり、話といへば林長二郎だのターキーのこと、伝統的な教養といふものを何も見出すことができない。十五六の女学生と話をする方がどれぐらゐ清潔でいゝか分らない。踊りなども一向に見栄えのしない、たゞ手が延びたりひつくりかへつたり縮んだり、動かない方がよつぽどましだと私はウンザリして酒をのんでゐた。
 舞妓の一人に東山ダンスホールのダンサアが好きでそのダンサアと踊りたいと言ひだしたのがゐて、私達は自動車を走らせ四五人の舞妓をつれて深夜のダンスホールへ行つた。もう十二時をすぎてゐた。このダンスホールは東山の中腹にたつた一軒たてられた景色のよいところで、もし酒を飲ましてくれるなら、私は外の場所では酒を飲まないと思つたほどの良いところであつた。
 舞妓の一人が、踊りませうと私に言つた。よろしい、私は即座に返事をした。私がダンスホールといふところで踊つたのは、このときたゞ一度あるのみ。ドテラの着流しで小さな舞妓と(この舞妓は特別小さかつた)踊つたことがあるだけ。
 私はこのとき、酔眼モーローたるなかで一つの美しさに呆気にとられてゐた。それは舞妓の着物、あの特別なダラリの帯、座敷の中で踊つたりぺチャクチャ喋つてゐるときは陳腐で一向に美しいとも思はなかつたのだが、ダンスホールの群集にまじると、群を圧して目立つのだ。ダンサアの夜会服などは貧弱極るものに見え、男も女もなべて他の見すぼらしさが確然と目にしみ渡るのである。伝統のもつ貫禄といふものを思ひ知らされたのであるが、それにしても伝統の衣裳をまとふ、その内容が空虚では仕方がないので、然し、小さな舞妓のキモノが群集の波を楚々とくゞりぬけて行く美しさは今でも私の目にしみてゐる。

底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「光 第三巻第四号」
   1947(昭和22)年4月1日発行
初出:「光 第三巻第四号」
   1947(昭和22)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:藤原朔也
2008年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。