三高木工所の戸口には、
「選挙中休業」のハリガミがでている。候補者の主人はそれですむであろうが、従業員は困るだろう。近所の噂をきいてみると、
「従業員たって、小僧のようなのも合わせて七八人の事ですよ。みんな選挙運動に掛りきりですから、商売は休業でも多忙をきわめているのですよ」という話であった。三高吉太郎という人物は、終戦後この土地へ現れて冷蔵庫を造って当てた。今では職人も使って木製の家具類を造り、このへんではモウケ頭の方だ。しかし、この立候補でモトのモクアミになるんじゃないかと近所の取沙汰であった。
 代議士に当選すれば金になるかも知れないが、立候補だけでは金になる筈がない。店の宣伝という手もあるが、冷蔵庫やタンス製造という商売にはキキメがないだろう。
「つまり政治狂というヤツだな」
 誰しもこう考えるにきまっているが、これが、どうも、そうらしくない。
 寒吉は自分がこの近所に住居があって、聞くともなくこの噂を耳にしたから、そこは新聞記者のカンというもので、これは裏に何かがあるかも知れないぞとピンときた。
 しかし、彼のように全然無名で地盤も顔もない候補者に、どんな裏がありうるだろうか。他人の票を散らすために立てられる候補者もあるが、他人の票を奪うからには、それだけの顔も力もなければならぬ。三高吉太郎にはそれがない。せいぜい百票もとれれば上出来であろう。
「しかし、人間は理由のないことはやらない。たとえ狂人ですらも」
 これはさる心理学の本に書かれていた文句であるが、まさに寒吉はそれを発止とばかりに思いだしたのである。
「ファッショかな」
 顔に似合わぬキチガイじみた街の国士がいるものだ。それは彼がその演説をぶつまで、隣の人にも気がつかない場合がありうる。発作の時まで隣家の狂人が分らぬように。
 ところが寒吉は折よく社の帰りに、駅前で彼の演説をきくことができた。それはまさに珍奇をきわめたものであった。
「ワタクシが三高吉太郎、三高吉太郎であります。(前後左右に挨拶する)よーくこの顔をごらん下さい。これが三高吉太郎でございます。(ヨー色男という者あり)イエ、ワタクシは色男ではございません。(ケンソンするなという者あり)ワタクシはよーく自分をわきまえておりますが、顔も頭もフツツカ者でございます。(人々ゲラゲラ笑う)たとえワタクシが代議士に当選いたしましても、日本の政局に変化はございません。(当り前だという者あり。人々益々笑う)ワタクシは再軍備に反対でありまするが、日本は再軍備をいたしましては、国がもちません。まず国民の生活安定(以下略)」要するに新聞紙上に最も多く見出される再軍備反対要旨につきる。なんらの新味もなく、過激なところもない。おまけに、弁舌は至って冴えない。
「なんのための立候補だろう?」
 どうにも理解に苦しむのだ。直接本人に当ってみようと彼は思った。新聞記者の悪い癖だ。直接本人に当ったところで、本音はきける筈がない。まして裏に曰くがあれば、本音を吐かないばかりでなく、詐術を弄するから、ワナにかかる怖れもある。本音を知るには廻り道。それを知りながら、むやみに当人に会いたがるのが記者本能というものだ。
 寒吉は夜分三高木工所を訪れた。取次に現れたのは四十がらみの人相のわるい男であったが、彼の名刺を受けとって、
「オヤ。新聞記者? 新聞記者か。アハハ。新聞かア。アハハ。アハハア。アハハハハハ」
 彼の素ットンキョウな笑いは止るところがなくなったようである。その笑い声が寒吉をみちびき、奥の部屋で主人に紹介を終っても、笑い声は終らなかった。三高はイヤそうに顔をしかめたが、笑い声を制しなかった。選挙中は何事も我慢専一という風に見えた。
「立候補の御感想を伺いに参りましたが」
「まアお楽に」候補者らしく如才のない様子だが、それがいかにも素人くさい。それだけに、感じは悪くなかった。
「立候補ははじめてですか」
「そうです」
「どうして今まで立候補なさらなかったのですか」
「それはですね。要するに、これはワタクシの道楽です。ちょッとした小金もできた。それがそもそも道楽の元です。金あっての道楽でしょう。御近所の方々もそれを心配して下さるのですが、ワタクシはハッキリ申上げています。道楽ですから、かまいません。かまって下さるな。ワタクシに本望をとげさせて下さい、と」
「本望と申しますと?」
「道楽です。道楽の本望」
「失礼ですが、ふだんからワタクシと仰有おっしゃる習慣ですか」彼はギョッとしたらしく、みるみる顔をあからめて、
「失礼しました。ふだんはオレなぞとも云ってましたが……」馬鹿笑いの男が部屋の隅できいていて、今度はクスクス笑いだしたので、寒吉は三高が気の毒になった。
「無所属でお立ちですが、支持するとすれば、どの政党ですか」
「自由党でしょうな。思想はだいたい共通しております。しかし、もっと中小商工業者をいたわり育成すべきです。それはワタクシの甚だしく不満とするところでありまして、またワタクシの云わんとするところも……」
 演説口調になりかけたので、寒吉はそらすために大声で質問した。
「崇拝する人は?」
「崇拝する人?……」
「または崇拝する先輩。政治的先輩」
「先輩はいません。ワタクシは独立独歩です。一貫して独立独歩」力をこめて云った。彼の傍に芥川龍之介の小説集があった。およそ彼とは似つかわしくない本である。
「その本はどなたが読むのですか」
「これ? ア、これはワタクシです」
 彼は膝の蔭から二三冊の本もとりだして見せた。太宰治である。
「面白いですか?」
「面白いです。笑うべき本です」
「おかしいのですか」
「おかしいですとも。これなぞは難解です」
 こう云って一冊の岩波文庫をとりだした。受け取ってみると、北村透谷だった。
「学歴は?」
「中学校中退です。ワタクシは、本はよく読んだものです。しかし、近年は読みません」
「読んでるじゃありませんか」
 彼は答えなかった。疲れているらしい。
「何票ぐらい取れると思いますか」
 ときいたが、チラと陰鬱な眼をそらしただけで、これにも返事をしなかった。彼の本心をのぞかせたような陰鬱な目。
「これが本音だ!」
 寒吉はその日を自分の胸にたたんだ。その他の言葉は、みんな芝居だ。ワタクシという無理でキュウクツな言葉のように。
「要するに、裏に何かがある」それを掴んでみせるぞと寒吉は決意をかためた。

          ★

 次の休みの日、寒吉は早朝から待ちかまえて、三高吉太郎のトラックをつけた。どこで何をするか逐一見届けるつもりで、部長を拝み倒して社の自動車を一台貸してもらったのである。どこで何をするか。誰に会うか。何が起るか。彼は部長に笑われてきたのだ。
「裏に何かがあるッて、何がある積りだい?」
「たとえば、あるいは密輸。あるいは国際スパイ……」
「なア、カンスケ君。選挙は特に人目をひくものだ。それに監視がある。選挙違反という監視だ。その監視の目は選挙違反だけしか見えないわけじゃないぜ。わざわざ監視のきびしい選挙を利用する犯罪者がいると思うか。しかし、まア、貴公が大志をかためた以上は、これも勉強だ。やってみろ」
 お情けに車をかしてくれた。何かが起ってくれないと同僚に合わせる顔がない。
 三高のトラックは赤線区域へはいって行った。パンパン街の十字路で演説をぶちはじめたのである。「シメタ!」寒吉の胸は躍った。
 パンパン相手に演説ぶつとはおよそムダな骨折じゃないか。だいたいパンパンというものは移動がはげしいし、転出証明もない者が多く、たいがい選挙権を持たない連中だ。選挙権があったにしても、わざわざ投票にくる筈はないじゃないか。もし投票にくるとすれば、だいたい顔役のいる土地だから、票の行方は一括してきまっていると見なければならない。その顔役にツナガリのない者がここで演説したってムダなことだ。いかに選挙に素人でも、それぐらいのことは分るはずだ。
「なぜ、ここで演説をぶつか」
 その理由がなければならぬ。寒吉は車を隠して近寄り、様子をうかがった。
 三高は例の如くまず四方を拝んで、再軍備反対論から説きはじめている。赤線区域のオトクイ先のゆうなるものはアチラの兵隊サンと近ごろの相場はきまっている。戦争あってのパンパン稼業に再軍備反対をぶッても仕様がなかろう。そのせいでもあるまいが、誰も聞いている者がない。したがって何かがあれば一目で分る状態だが、別に何もない。先方には何も起らないが、寒吉の方は多忙である。
「ネエ、チョイト。遊んで行かない?」
「いま、仕事だよ」
「何してんのさ。ギャングかい? アンタァ」
「アイビキだよ」
「ワタシというものがありながら。さア、承知しないよ」
 手をとり足とり、ズルズルとひきこまれる。必死にふり払って、そこをとびだす。次の隠れ場で、また、やられる。どこへ身を隠しても、必ずやられる。おかげで監視は甚だ不充分であったが、彼の目にふれた限りでは全く何事も起らずに三高の演説は終ったのである。
 次にトラックが止ったところはお花見の名所だ。晴天温暖の気侯にめぐまれて、お花見は出盛り。そのド真ン中で三高の演説がはじまったから、大変だ。
 彼はその場所に応じる変化を心得ていない。人影のないパンパン街でも四方を拝むぐらいだから、演説の方は益々もって紋切型。
「ワタクシはこのたび立候補いたしました三高吉太郎、三高吉太郎であります。ワタクシの顔をよーくごらん下さい。これが三高吉太郎であります」
 と例の如くにやりだしたから、あまり関心をもたなかった花見客もドッと笑って、意外に大きな人だかりになってくれたのは有りがたいが、いずれも酒がはいっているから、ヤジのうるさいこと。よそではヤジのはいらぬところにまで四方から半畳がとんで大賑い。一番うるさく半畳をとばすのが、オモチャのチョンマゲをかぶった酔客である。ところが、これを、よく見ると、先夜寒告が三高を訪れたとき、取次にでてバカ笑いした人相の悪い四十男である。「さては、奴はサクラだな」
 なるほど、いかにもサクラに向く人柄だ。花見の場所へ先廻りして酔客に化けているのがいかにも役柄にはまった感じ。ところが、先生本当に酔っているらしく、半畳やマゼッカエシをとばせるばかりで、一向にサクラ的な言辞がない。しかし、それが時宜に適していたのだろう、酔ッ払った聴衆の黒山のような群のなかで、まともにサクラ然とした言辞を吐けば、一そう笑いものになるばかりでなく、いかにもみすぼらしい見世物になってしまうだろう。ともかくゲラゲラ笑われても、たのしまれているのは何よりだ。
「皆さまの清き一票は何とぞ三高吉太郎、三高吉太郎にお願い致しまーす」
 と叫んで演説を終ると、ゲラゲラパチパチといくらか拍手も起って、
「よーし。心配するな。オレが引受けた」
「ときに、ここは何区だね」
 なぞと声援がとんだほどである。
 三高のトラックは花見の中を遠慮深く通りすぎて止った。すると三高は候補者のタスキをはずし、運動員にかこまれて、花見の人群れへ戻ってきた。そして彼らも花の下で一パイやりはじめたのである。
「候補者の花見なんて聞いたことがねえや。いよいよ変だぜ、この先生は」
 寒吉もつくづく呆れた。寒吉も弁当はブラさげてきたが、一升ビンの用意はない。当り前だ。仕事のつもりだもの。ところが三高先生の一行はチャンと何本かの一升ビンの用意もととのえてきている。先廻りのサクラもこの地に配しておいたほどだから、ここで飲むために予定してきた一升ビンに相違ない。
「予定はキチンとしているらしいな。すると、もっと手のこんだ予定ができてるかも知れないぞ。いよいよ面白くなってきた」
 このお忍びの酒もりへ、さらにお忍びの誰かが合流するだろうと寒吉は考えた。
 ところが、やがて合流したのは、例の人相のわるいサクラだけだ。そして間もなく一同酔っ払ってしまったらしい。仲間同士でケンカをはじめたのだ。
 寒吉はわざと離れて、顔を見せないようにして監視していたから、ケンカの原因は分らない。いきなり殴り合いが起っていた。殴り合いの一方はサクラだ。彼の目に見えたところだけでは、殴られた方がサクラであった。殴った方は運動員の一人で、三高ではなかった。寒吉が駈けつけた時には、もう人だかりができていた。殴り合いは終っていた。サクラはホコリを払って立ち去るところであった。また、けたたましく笑いながら。
 一人が仲間にだかれて泣いている。泣いているのは三高であった。三高は両側から抱くようにして選挙のトラックへ連れ去られた。その泣き男が演説をぶッた候補者だということに気のつく者もいないらしい。ケンカもここが一ツじゃないし、泣き男も彼だけではなかったろう。色とりどりの酔ッ払いがここを晴れと入り乱れているのだ。
 三高の一行はトラックで去った。サクラはそこには現れなかった。
 三高のトラックはまッすぐ自宅へ戻った。酔ッ払ッて選挙演説はぶてないから、この日はこれで終りらしかった。
 三高が泣いて連れ去られる時、寒吉はこれが終りと直感したから、彼が泣いて何を喚いているのかとすぐ後までズカズカ近づくと、彼の喚きは実に人々のオヘソをデングリ返してしまうほど悲痛また痛快なものだった。
「ああ無情。ああ……」
 彼はダダッ子のように手足をバタバタふりながら、また喚いた。
「放さないでくれ。ああ無情。ああ……」
 そしてトラックへ運びこまれたのである。
「ウーム」
 寒吉は思わず唸って敗北をさとった。
「ワタクシは何をか云わん」彼がそれからヤケ酒を飲んだのは云うまでもない。

          ★

 翌日、かなりおそく、彼が出勤しようとして通りかかると、今しも三高のトラックが彼をのせ、家族に路上まで送られて出発しようとするところである。奥方とおぼしき婦人は意外に若くて、善良そうな、ちょッと可愛らしい女であった。赤ん坊をオンブしていた。
「トウチャン、シッカリ!」と云って、赤ん坊に手をふらせた。トラックは走り去った。これを見ると、ムラムラと寒吉の心が変った。ミレンが頭をもたげたのである。
「そうだ! 奥方の話をきくのが残されている。ウッカリだ。新聞記者の足は天下クマなく話を追わなければならない」そこで奥方をつかまえて暫時の質問の許しを得た。
「昨日は御主人は酔って御帰館でしたな」
「ええ。ふだんは飲まない人ですのに」
「ハハア。ふだんは飲まないのですか」
「選挙の前ごろから時々飲むようになったんですよ。でも、あんなに酔ったことはありません」
「なぜでしょう?」
「分りませんわ。選挙がいけないんじゃないですか。立候補なんてねえ」
「奥さんは立候補反対ですか。よそではそうではないようですが」
「それは当選なさるようなお宅は別ですわ。ウチは大金を使うだけのことですもの、バカバカしいわ。ヤケ酒のみのみ選挙にでるなんて変テコですわよ」
「ヤケ酒ですか、あれは?」
「そうでしょうよ。私だって、ヤケ酒が飲みたくなるわ」
「なぜ立候補したのでしょう?」
「それは私が知りたいのよ」
「なにか仰有ることはあるでしょう。特にヤケ酒に酔ッ払ッたりしたときには」
「絶対に云いませんよ。こうと心をきめたら、おとなしいに似合わず、何が何でもガンコなんですから。なにかワケがあるんでしょうが、私にも打ち開けてくれないのです」
 奥方の声がうるんだ。しかし、寒吉にとってはバンザイだ。やっぱり何かあるのだ。奥方にもナイショの秘密。敗北せざるうちからのヤケ酒。これがクサくなければ、天下に怪しむべきものはないじゃないか。だが、功を急いではいけない。奥方は秘密を知らないのだから、いらざる聞きだしをあせらずに、まず奥方の心をとらえておくことだ。
「御心配なことですね。ですが三高さんも必死の思いでしょうから、できるだけ慰め励ましてあげるようになさることですな」
「私もそのつもりにしてるんですよ。そして、せめて一票でも多いようにと、蔭ながらね」
「ゲッ。いけませんよ。あなたが蔭ながら運動すると選挙違反ですよ」
 こう云われても涼しい顔をしているのは、選挙違反という言葉にも縁遠いようなよくよく世間知らずの生活をしているせいだろう。あるいはロクに教育もないのかも知れない。善良そうではあるが、めったに新聞も読まないような女に見えた。そこで寒吉が選挙違反について説明の労をとると、その親切だけ通じたらしく、彼女はニコニコして、
「ありがとう。でも私が蔭ながらしてるのは、神サマを拝むことだけですよ」
 彼女の顔はあくまで涼しいものだった。
 社へでて部長に報告した。
「なんでケンカになったんだ」
「それが分らないんですが、大方サクラの奴が仕事に忠実でないから、横ッ面を張られたのでしょうな。酔えば張りたくなるような奴なんですよ」
「それじゃア何から何まで変なところはないじゃないか」
「女房にも立候補の秘密をあかしてなくともですか」
「バカ。秘密がないからだ」
「ナルホド」
「しかし、記事にはなるかも知れんな。花見酒の候補者。書いてみろ」
「よして下さいよ。そんなの書くために一日棒にふりやしないよ。今に見てやがれ」
「アレ。まだ諦めないのか」
「諦められないとも。こうと睨んだ稲荷カンスケの第六感、はずれたタメシは――」
「大ありだ」
「その通り!」寒吉はパチンコにもぐりこんで、半日ウサをはらした。
 寒吉はコクメイにメモをしておく習慣があった。社会部記者の目は一物も見逃すべからずという戒律の然らしめるところで、ヒマあればこれを取りだして心眼を磨くのである。
「これだ! ざまア見やがれ!」
 メモに「陰鬱なる目。彼ののぞかせた唯一の本音」とある。鬼の首とはまさにこれだ。この目をつかんだ以上は。
 しかし、その後はパッとしたことがない。
「やっばりケンカは変なことのうちだな。パンパン街の演説だってタダモノのやれる芸当じゃねえや。してみれば、みんな変じゃないか。よーし。毎朝奥方を訪問しよう。ポチャポチャッと可愛いとこがあらア。毎朝の訪問にしちゃ気がきいてるなア、これは」
 変なところにハゲミをつけて、出勤の途中に毎朝ポチャ/\夫人訪問を忘れないことにした。パチンコでせしめたキャラメルなぞを手ミヤゲにしながら。
 そんな次第でポチャ/\夫人とはかなり打ちとけた話をする仲になったが、立候補の秘密の方はそれに比例して影が薄れるばかりである。なぜなら、打ちとけるにつれ、夫人は心配そうな様子を見せなくなったからである。
「主人が代議士になったら、どうしましょう。代議士夫人ねえ」なぞと途方もないことを口走るシマツになったからである。
「よくよくバカだな、この女は」
 と寒吉はタンソクしたが、また、可愛い女だと毎朝の訪問が目当てのちがうタノシミになるというダラシのない有様になった。
 そのうちに選挙が終った。三高吉太郎の得票一三二。百を越したのはアッパレというべきだ。まさに事もなく終幕となった。
 そのとき起ったのが小学校の縁の下から発見された首ナシ死体事件である。その小学校は三高木工所の裏隣りであった。死体の主は誰だか分らなかった。

          ★

 寒吉はこの事件の発生とともに変テコな胸騒ぎがして仕様がなかった。どういうワケだか、これと三高に関係があるような気がするのである。三高木工所は仕事を再開したが、気をつけてみると、例の人相のわるいサクラの姿はどこにも見えない。死体はそろそろフランしていたが、死後二週間ぐらいだろうという。ちょうど花見のころに殺された死体なのだ。そう云えば、寒吉は花見以来サクラの姿を見たことがない。もっとも、あれ以来、三高のトラックがでかけたあとでちょッと留守宅を訪ねるだけのことだから、運動員を見かけることが少かったせいもあった。
 しかし、あのサクラ男が行方不明なら、誰かが騒ぎだしそうなものだが、それもないのである。寒吉は何気ない様子で三高木工所へ立寄り、働いている若い男にきいた。
「選挙で従業員がへったじゃないか」
「へりやしないよ。元のままだ」
「四十がらみの人相のわるいのが居ないじゃないか」
「四十がらみ? それはここの大将だろう」
「大将じゃないよ」
「四十がらみの職人なんて居るかい。ずッと若いのばかりだ」
「選挙のときに居たじゃないか」
「選挙のときは休業よ」
「選挙の仕事をしていたぜ」
「選挙の時にはいろんなのが手伝いにくらアな」
「花見の演説のときサクラの男がいたろう」
「知らねえよ、そんなの。選挙の話なんぞはクソ面白くもねえ。よしてくれ」
 腹をたててしまった。わざと隠しているような様子もないが、総じて選挙の話をしたがらないようだ。しかし、それは、選挙の結果が人ぎきのわるい得票数に終ったせいのようだ。選挙の話がでると軽蔑されてるようなヒガミが起るらしい風でもあった。
 この上はポチャ/\夫人からききだす一手であるが、選挙が終ってみると、面会を申しこむのも手掛りがない感じで、そのためにシキイをまたぐ勇気がでない。休みの日に半日往来で待ち伏せして、買い物にでたところをようやく捉えることができた。
「選挙のとき、三高さんの運動員の一人に貸してあげた物があるんだけど、その人、居ませんかね」
「運動員なら全部居る筈ですわ。従業員ですから」
「ところが居ませんよ」
「そんな筈ないわ。やめた人ないもの」
「四十がらみの男ですよ。ボクがはじめてお宅へ行ったとき取次にでた男なんです」
「そんな人いたかしら?」
「いましたよ。キチガイじみた高笑いをした男がいたじゃありませんか」
「そう、そう。江村さんね。あの人は従業員じゃありませんよ。ウチの者じゃないのよ。選挙の運動員でもないわ。たまに来て手伝ったことはありますけど、お金を盗んで、それッきり来ないわ」
「お宅のお金を盗んだのですか」
「ええ。選挙費用を十万ほどね。選挙のことだし、今さら外聞がわるいから表沙汰にもしないのよ。ひどい人」
「いつごろ盗んだのですか」
「ハッキリ覚えていませんわ。あの人なら貸したが最後、返さないわよ、ウチでなんとかするでしょうから、主人に云ってみて下さいな」
「それほどの物じゃないんですよ、ただ奥さんの顔を見たから、ちょッときいてみる気になっただけさ。あの人は、いったい何者ですか。人相のわるい男でしたね」
「むかしの知り合いらしいわ。私たちの結婚前のね。どんな知り合いかよく知りませんが、よくない人よ。私の知らない頃の主人の友達なんて、なんだか気が許せない気がしてイヤなものですわ。主人まで気が許せなく見えるんですものね、その人のおかげで」
「そんなにイヤな奴でしたかね」
「私のカンなのよ。でも、ウチの者は、従業員たちも、みんな江村さんを嫌ってたわ。主人をそそのかして立候補させたのも江村さんだろうッて」
「だって、選挙の参謀でも事務長でもなかったのでしょう」
「それは悪い人は表へ出たがらないもの上。結局お金をチョロまかして逃げちゃったわ」
「だって、たった十万でしょう」
「大金じゃありませんか」
「選挙費用のうちじゃ目クサレ金ですよ。お宅だって、百万や二百万は使ったでしょう」
 さすが違反を怖れてか返事をしないのは上出来であった。
「別に貸した物が欲しいわけじゃありませんが、一度御主人にお目にかからせて頂くかな」
「そうなさいな。人のしたことでも、カカリアイのあることならキチンとしてくれる人ですよ」
 わざと三四日の間をおいて、寒吉は夕食後和服姿にくつろいで三高を訪問した。
 三高は彼を見るなり、「江村があなたから何か借りッ放しだそうですが」
「イエ、それはもういいんです。それどころか、あなたこそ大変な被害をなさったそうですね」
「イヤ。これも選挙費用のうちですよ。そう思えば、問題はありません。もう選挙のことは思いだすのもイヤです」
 夫人がそれをひきとって、
「四五日前に、選挙に使ったもの、みんな燃しちゃったんですよ。店の若い人達もモシャクシャしてるものですから、あれもこれも燃しちゃえで大騒ぎでしたよ。選挙事務所で使ったイステーブルまで景気よく燃しちゃったんです。ここの家じゃア有り余る物ですから燃しちゃっても平気のせいもありますけどさ」
 寒吉はハッとした。犯罪の跡を消すには煙にするに限ることは云うまでもない。
 しかし、四五日前といえば、いかにも日がたちすぎている。誰かの死体が発見されてからでも十日にはなる。犯罪を隠すためなら、もっと早く燃すべきだ。部屋の中を見廻すと、芥川や太宰の本はもう見られなくて、およそ通俗な雑誌類があるだけだ。
「芥川や太宰はもうお読みにならないのですか」こうきくと、夫人がそれに答えて、
「それも燃しちゃったんですよ」
 三高はフッフッと力のない笑声をたてた。苦笑であろう。
「変な本、ない方がいいわ。ふだん読みもしない本」
「選挙の時だけ読んだんですか」
「選挙前から凝りだしたんですけど、自殺した人の小説本ですッてね。面白くもない。でも、あの本だけは、私もあとで読んでみたかったわ。アア無情」
「アア無情?」
「ジャンバルジャンですよ。私も結婚前から、話にはきいていた本ですもの」
 寒吉は声がとぎれて出なくなってしまったのである。
「アア無情」それは酔ッ払ッて泣きだした三高のセリフではないか。三高は酔余のことで覚えがないのか、今までと変りなく、ちょッと苦笑しているだけである。
「あのときのセリフには深い曰くがあるらしいぞ」こう気がつくと、矢も楯もたまらない気持になり、寒吉はイトマをつげて大急ぎで自宅へ戻ると、メモをひらいた。

          ★

 その時のセリフは、メモに曰く、
「ああ無情、ああ……」
 三高泣く。また曰く、
「放さないでくれ。ああ無情、ああ……」
 三高手足をバタつかせて、もがき、また泣く。と書いてあった。それだけである。
 これだけでは、別に曰くがあるとは思われない。彼は速記の心得があるから、言葉のメモは正確の筈なのである。
「どうも、変だな。なんだってジャンバルジャンを読んだのだろう。それと芥川や太宰の小説と、どう関係があるのかな。ポチャ/\夫人は自殺者の小説だと云ったが、ほかのも自殺者の小説なのかな」
 メモを見ると、三高曰く、これだけは難解なりと云って示したのが、北村透谷。しらべてみると、これも明治初年に自殺した文士の一人である。自殺文士の元祖ともある。
 しかし、ああ無情の著者ビクトルユーゴーは、自殺者ではなかった。百科辞典を見ると、フランスの総理大臣までつとめた政治家であり文豪である。
「これが彼の政治熱の源泉かなア。しかし、先生の選挙演説にビクトルユーゴーもジャンバルジャンも出てきやしなかったな。芥川も太宰もでてこない。文学的な表現はなかった。彼がそれらの本から学んだものは一言といえどもなかったな」どうもしかしフシギだ。泣きながら「ああ無情」と喚いたのは、酔ッ払いの単なるウワゴトとは思われない。ふだん通俗な雑誌しか読まない男が、俄かに「ああ無情」や芥川や太宰を読むのはタダゴトではない。岩波文庫の北村透谷に至っては、新聞記者の寒吉が辛うじて名前を心得ていただけで、彼が自殺者であることすらも知らなかったほどの失われた過去の文士である。なんらかの重大な理由がなくて、三高がそれらの本を取り揃える筈がない。
「これらの東西の文学書に一貫した共通性があるのかなア。それが分ると謎がとけるかも知れないが、ワタクシは文学のことは心得が浅いのでな。そうだ。ひとつ、巨勢こせ博士にきいてみよう」
 巨勢博士というのは博士でもなんでもないが、妙テコリンな物識りで、彼と同年輩、まだ三十前の私立タンテイである。二三年前、不連続殺人事件という天下未曾有の怪事件を朝メシ前にスラスラと解決して一躍名をあげたチンピラである。
「あのチンピラ小僧め、案外マグレ当りがあるようだから、ひとつ相談してやろう」
 そこで寒吉は幼友達のタンテイ事務所へ駈けつけたのである。

          ★

 巨勢博士は寒吉の話を謹聴し、しきりに質問し、また熱心にメモをしらべた。
 そのうちに彼は次第に浮かれだした。
「君のメモの才能は見上げたものだね。いまに偉くなるぜ。新聞記者の王様になるかも知れないな。しかし、犯人はつかまらないから、タンテイ根性はつつしむのが身の為だ。せいぜいボクの智恵をかりに来たまえ。君のメモに結論の一行を書きたしてあげるよ。犯人の名前でね」
 寒吉は気をわるくした。このチンピラはどういうものか会うたびに胸がムカムカする。その過去の厳粛なる歴史の数々をようやく再確認して、しまった畜生メ、来るんじゃなかったと気がついたのである。
「メモを返せ。帰るから」
「結論の一行を書きたしてもらッてからでもおそくはないぜ。昇給のチャンスだからな。このメモの中に金一封があるんだけど、君の力だけじゃアね」巨勢博士はメモを取り返されないように手でシッカと押えながら、
「北村透谷ぐらい読んでおけよ。三人そろッて自殺した文士だと知っていれば、君の注意はもっと強く働いていたろう。自殺した文士はそのほかにもいる。近いところでは牧野信一、田中英光。しかし、その本は彼の手もとになかった。たぶん、本屋にでていなくて、手にはいらなかったせいだろう。北村から太宰まで知ってたからには、ほかの自殺文士の名はみんな知ってた筈だからさ。なぜなら、何らかの理由が起るまでは、彼は自殺文士の名前なぞ一ツも知らなかった。彼が文学を知らない証拠には、太宰の本を笑うべき本、おかしい本だと云っている。したがって文学的コースを辿って読むに至った本ではなくて、ある理由から一まとめに知った名だね。さすればその一まとめの意味は明らかだろう。曰く、自殺さ。たぶん、彼自身が自殺したいような気持になって、自殺文士の書物を読みたい気持になったんじゃないかね」
「知ったかぶりのセンサクはよせ」
「失礼。君の新聞記者のカンは正確に的をついていたのだよ。君の矢は命中していたが、不幸にして、君には的が見えないのだ。達人の手裏剣がクラヤミの中の見えない敵を倒しているようなものだ。水ギワ立った手のうちなんだね。ところがボクは笑止にも的を見分ける術だけは心得ているらしいな。自殺文士の本に何らかの読む理由があったように、ああ無情も読む理由があったのは云うまでもないね。そして、君の疑いは正確だった。泣きながらアア無情と喚いたとき、三高はその秘密をさらけだしているじゃないか」
「ウソッパチ云いなさんな。ああ無情と云ってるだけじゃないか」
「放さないでくれ、ああ無情と云ってますよ」
 と巨勢博士はニヤニヤ笑った。
「それが、どうしたのさ」
「自分のメモを思いだしてごらんよ。三高氏は手足をバタバタやりながら、放さないでくれと云ったのさ。その喚きは、ちょッと不合理でしょう。放してもらいたくない気持なら、しがみつく筈ですよ。ところが、手足をバタバタやって人の肩から外れたいような動作をしているのはナゼですか」
「オレの耳、オレの速記は正確そのものだ」
「ワタクシの耳、ワタクシの速記でしょう。紳士はふだんのタシナミを失ってはいけません」
「メモを返せ」
「あなたのメモは正確そのものですよ。ただ、音の解釈がちがったのです。手を放さないでくれの意味ではなくて、何かの秘密を話さないでくれ、アア無情、アア……こう解釈しなければならなかったのです」
 寒吉はコン棒でブンなぐられたようにガク然としてしまった。思わず立ち上りかけると、巨勢博士はニヤリと制して、
「まだ早い。落ちついて。落ちついて。三高氏はそもそも選挙演説のヘキ頭から、自分がジャンバルジャンであることを語っているのです。それ、メモをごらんなさい。よろしいですか。ワタクシはこのたび立候補いたしました三高吉太郎。三高吉太郎でございます。よーく、この顔をごらん下さい。これが三高吉太郎であります。とね。つまり、三高吉太郎という顔のほかにも、誰かの顔であることを悲痛にも叫んでいるのですよ。その誰かとは、ジャンバルジャン。即ち、マドレーヌ市長の前身たるジャンバルジャン。つまり三高吉太郎氏の前身たる何者かですよ。それはたぶん懲役人かも知れません。ジャンバルジャンのように、脱獄者かも知れません。そして、たぶん、そのときの相棒が江村という人相のわるい男なのでしょう」
「なんのために、叫ぶのさ」
「ボクにその説明を求めるのは、新聞記者のやり方ではないね。しかし、たぶんヤケでしょう。一度は自殺しようと思った時があったに相違ないです。しかし、選挙に立つことを思いたったところを見ると、ヤケを起したのでしょうかね。オレの顔を知ってる奴は出てきやがれ、というヤケかも知れないね。そのころから、ヤケ酒を飲みはじめたらしいから、あるいは、そうではないかと思いますよ。そしてせっかく粒々辛苦の財産をジャンジャン選挙に使いはじめたのですね。江村にせびられて身代をつぶすぐらいなら、公衆に顔をさらして、勝手に身代をつぶしてみせらア、ざまアみろ、というヤケでしょうかね。なんとなく、その気持、分りやしませんか。しかし、むろん本当の心は、自分の前身も知られたくないし、身代もつぶしたくないにきまっています。ですから、この顔をよーくごらん下さい。とヤケの演説をしながらも、酔えば、ああ無情、話してくれるな、と泣くのです。そのアゲク三高氏が江村を殺したにしても、ねえ、アナタ。ちょッと、金一封はもらいたくないと思いませんか」巨勢博士は笑いながらメモの上から手を放した。その顔は、しかし、次第にマジメになった。寒吉はその顔に答えるように、うなずいた。そしてメモをとりあげてポケットへおさめた。
 数日後、三高吉太郎氏は寒吉につきそわれて自首した。しかるのち、寒吉の特ダネとなり金一封となったことを附け加えておこう。
 巨勢博士の推理は殆ど完全であった。三高氏と江村は、終戦のドサクサに北海道の牢屋を脱獄した徒刑人であったのである。

底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
   1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第七巻第八号」
   1953(昭和28)年6月1日発行
初出:「小説新潮 第七巻第八号」
   1953(昭和28)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年7月16日作成
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