一

 イタリアとシチリアの海岸は、どこへ行っても、南国らしい澄み透った空と紺碧の海があって、強烈な陽光が燦々と降りそそぎ、その下に骨ばった火山系の山彙が変化の多い形貌で展開し、古い石造の家屋が密集したり、散在したりして、橄欖・扁桃・柘榴・ぬるで・いちじく等の果樹、或いは赤松・糸杉などの樹林が点綴し、葡萄が茂り草花が咲き出て、自然の装飾の濫費を感ぜしめられるが、その中でも最も強い印象を与えられて、いつも一番に思い出すのは、エトナを中心とするカターニアからタオルミーナへかけての海岸の美観である。ヴェズヴィオを背景とするナポリの海岸も美しいし、人によるとカプリの島の奇観を説き、アマルフィの勝景を挙げる者もあり、またヴェネチアの海もわるくはないし、国境を越えてニイスの付近も忘られぬものではあるけれども、恐らくエトナの麓の海岸は、それ等すべての美観を以ってしても遠く及ばないものと言えるだろう。
 私たちはナポリから船で一夜を明かして、パレルモに上陸し、シチリアの島を不等辺三角形に一周して、シラクーザから汽車でその海岸を北上してタオルミーナに着いたのは六月八日(一九三九年)の夕方だった。町は海岸の停車場から五キロほど山道を曲りくねって登った所に嶮しい階段のように造られ、海抜二〇〇米の懸崖の上に家が家を負んぶしたような奇観を呈している。家屋の大部分は古代・中世から保存されて来た頗る興味ある様式のもので、今は人が住みながら、パレルモ芸術協会の特別保護建造物として指定されている。旅行者のためのホテルやペンシオネの多くは、しかし、近代様式で、町から少し低い位置の坂の中腹とか崖の出っ鼻とかに建てられてある。私たちの泊ったホテルはボオ・セジュルといって、カポ・タオルミーナとカポ・サンタンドレアの間のイソラ・ベラの小島の浮かんでる美しい入江を見下す断崖の上に立っていた。
 其処へ到着するまで車はうねうねした坂道を唸りながら駈け登ったが、坂道を曲る度に展望が開けて、夕映の空を背景として斑らに雪を戴いたエトナの高峰が次第次第に高くなり、その裾野がイオニア海に滑り込んで幾つもの長汀曲浦を造っているのが瞬間ごとにより広く見晴るかせるようになって行くのが愉快だった。私は雲仙を思い出したが、タオルミーナの景観は雲仙よりも遥かに大きく、打ち開けて、明るく、輝かしく、且つ甚だ美しいものに思われた。そういった印象を与えられた主な理由は、雲仙では雲仙その物に登るのであるが、タオルミーナではエトナを前に眺めながらタウロスの山に登るのだからに相違ない。それに南欧の空の明るさと海の青さも此の評価を助けていることは言うまでもない。
 まず実景に目を見張った後で、ホテルに着いて案内記を読み直して見たらば、タオルミーナの景観はシチリア第一であるのみでなく、全ヨーロッパに於いても美しさにかけては並ぶものが少いと書いてあった。そういわれても決して誇張だとは思えなかった。

    二

 しかし、タオルミーナの興味は、そのすばらしい自然の構成だけではなく、古い豊富な歴史と詩の聯想にも十分に旅行者を満足させるものがある。今の町の建設は紀元前四世紀の初葉で、それまではイオニア人の都市ナクソス(タオルミーナの南四キロ、今のスキソ付近)が栄えていたのを、ディオニュシウス一世はギリシア勢力絶滅のためにそれを破壊すると同時に、シケリア人をしてタウロスの山腹に新都市を建設させた。それが今のタオルミーナで、その頃はタウロメニオンと呼ばれていた。ディオニュシウスは卑賤から身を起し、下層階級者に支持されて強力な軍隊を組織し、ギリシア人をシチリア(シケリア)から駆逐して、自ら僣主となり、シラクーザ(シュラクサイ)を中心として大いに武威を振るい、王としては猜疑心が強く、無理な政治はしたけれども、一面に於いては文化の保護者であり、彼自身相当にすぐれた詩才の所有者で、悲劇作者でもあった。
 シラクーザにもネアポリスの丘の上に大きな円形劇場が遺っているが、タオルミーナにも町の北東の高台(海抜二一三米)に見事な円形劇場が遺っている。シラクーザは紀元前八世紀以来の歴史を持つ古代の大都市でギリシア時代には百万以上の人口を持っていて、ヒエロ一世の宮廷には詩人ピンダロス、シモニデース、エピカルモス、バッキュリデース、アイスキュロスなどが賓客として迎えられていたから、その劇場ではアイスキュロスの悲劇も上演されたであろうし、或いは彼自身役者として其処に立ったこともあったかと思われるが、タオルミーナの劇場は前述の如くディオニュシウス以後のものだけに、ディオニュシウス自身の作品が初めには上演されたのかも知れない。
 それはとにかく、タオルミーナの劇場は何よりもすぐれた形勝の位置に置かれてあるのが特長である。大きさはシラクーザの劇場(直径一三四米)には及ばないが、それでも直径一〇九米、オルケストラの直径三五米を数え、シチリア現存劇場中第二位を占め、また、ローマ時代改築の赤煉瓦の舞台建造物が白い列柱と共に遺っているのは、劇場建築史の貴重な資料として見るからに有りがたく感じられるものである。しかし、それにも増して私を感歎せしめたものは、見物席から眺めたそのすばらしい背景だった。私は書物と図面の上ではギリシア劇場の発達の様式は知っていた。それが後期に及んでいかに大掛かりな舞台建造物を持つようになったかも知っていた。けれども、ギリシアでは舞台建造物の実物は見ることができなかったが、今シチリアに来て、目のあたり列拱と列柱を見ていろいろ発明するところがあって、喜ばしかった。その喜ばしさは、道具部屋・楽屋が此の程度まで複雑なものになり、同時にそれが舞台の背景としていかに有効に使用されたであろうかが実感された為のみでなく、その建造物は更に遥かに後方の自然の景観と融合して劇場全体の背景としても巧みに利用されていたことを発見したからであった。
 私は見物席のいろんな高さに立って眺めて見た。見物席は岩山を彫り刻んで造られた型の如くの半円形階段席であって、どの席からも舞台の後方に海が見え、高い席だけが海を大きく見るようになっている。細長い窓を幾つも持った赤煉瓦の建物の前には大理石のコリントス式円柱が列び、それが舞台の後方から左右に翼を張って、窓の間に、両翼の端に、また高い席から見ると建物の上に、イオニア海の蒼波がひろがって、その上にエトナが雪に蔽われて煙を噴いてる美しさは、近代劇場のいかなる背景も及ばないものである。古代の二万人の観客が此の美しい景観の前に坐って、舞台の上の三人の役者とオルケストラの上の十五人の合唱舞踊者の描き出す形と謡う声を娯しんだ有様を想像すると、パリやローマの夜の室内の演劇からは到底想像もつかないほど、明るい、朗らかな、自由な、健全な空気が漂っていたことが思いやられる。
 同じことはシラクーザの劇場でも感じられた筈であったが、其処では舞台建造物が失われていたので、私の貧弱な想像力はそれを実感することができなかった。しかしタオルミーナの劇場と同じく、其処の劇場も山の上に造られ、岩磐を利用した見物席は海の方へ打ち開けていたので、背景活用に類似の創意が働いていたことは推定される。

    三

 ギリシア劇場の位置は、タオルミーナ第一の展望台となってるほど勝れたもので、殊に座席の最上列に立つと、実地を見ない人には到底想像もつかないほどの大きな美しいパノラマが展開される。東は海で、西は山で、その山の、すぐ目の前にはタオルミーナの古い町がバナナの果実のように断崖の上にかたまり合って、古代の城壁で囲まれ、その一番高い所(三九六米)にアクロポリスと呼ばれた城砦カステロがあり、その後の高い所(六三四米)にモラの城砦カステロがあり、更にその後にモンテ・ヴェネレの奇峰(八六四米)が聳えている。これ等は鋭い線と複雑な色彩で造り上げられて怪奇な印象を与えるが、それから視野を南へ転じると、その部分の空間は殆んどすべてエトナに独占されている。エトナの遠望は孤立したところは富士に似て居り、その高さ(三三〇〇米)も富士に近いが、富士よりも大きく根を張って、裾野が直接海の中へ走り込んでるのと、残雪の間から噴煙を立てているのがちがう。登って見ると幾つも峰があったり、熔岩流が無数にあったりするけれども、直径二五キロを距てたタオルミーナから眺めると、山容はなだらかな線となって、海の紺碧との調和が譬えようもなく美しい。その海の水平線を辿って北の方へ視線を向けると、其処はメシナの海峡で、晴れた日の午後にはレジオの町まで見えるそうだ。レジオはイタリア半島の長靴の尖にあたる地点で、メシナの対岸である。
 私たちは辻馬車に乗ってタオルミーナの町を見て廻った。人口五千足らずの小さい町であるが、町その物がさながら一つの博物館の趣がある。ギリシア時代の遺物としては劇場の外に城壁や城砦があり、下ってはローマ時代・サラセン時代・ノルマン時代と次々の建物が、多くは断片的ながら、繕われて遺って居り、十四世紀のドゥオモ(カテドラレ)や、バディア・ヴェッキオなどが少しも目だって見えないほどに、すべての住宅が皆古物である。町の入口には古代の城門があり、城門から城門へはすぐに達するほど、家々がごちゃごちゃに寄り合って、本通コルソといっても裏道のようであり、広場ピアツァといっても狭くるしく、どの建物も小さく、低く、せせこましく、それが却って古代・中世の生活の姿を残しているのが、旅行者には此の上もなく興味があり、ローマよりも、ロンドンよりも、パリよりも物珍らしく見られた。況んや幾何学の見本のようなベルリンなどは、それに較べると甚だ散文的である。尤もニュー・ヨークとなると、別の見方でまた興味をそそるものはあるけれども。
 タオルミーナの古い町を見て私はポンペイの発掘都市を思い出した。ポンペイも道幅が狭くて不規則な町だが、平地だけにタオルミーナのおもしろさに欠けている。タオルミーナはポンペイのような廃墟でないから、家は破損したり繕われたりしていても、とにかく人が住まって、生きてる町だけに、おもしろさは格段である。昔の噴水の周りに人がたかっていたり、古風なカフェの軒下に大勢腰かけていたりしてるのを見ても、風俗がいかにも鄙びていて、一九三九年という感じはしなかった。
 それにつけても、日本を訪問する外人が、横浜に上陸してまず失望し、東京に入って更に失望する心理がよくわかるような気がした。もし世界中がどこも一色に統一されて変化も特色もなくなったら、地球の表面はいかに退屈な場所となることだろう。旅行者の興味は九九パーセント失われてしまうに違いない。

    四

 タオルミーナに着いた翌日、私たちは周遊バスでエトナに登り、帰途カターニアの町を見物した。
 地理学者の説によると、シチリアは地中海が出来た時にアフリカから切り放され、それからずっと後にイタリアの本土からも切り放され、今日地図で見る如く、長靴の尖で跳ね飛ばされた道化役者の帽子のような形で残っている。そういった歴史以前の地質生成の経過を語るものは、アペニン山系で、それは長靴半島を北から南へ貫き、メシナの海峡をくぐり、三角帽子の東と北の縁を縫って海の中へもぐり込んでいる。その東の縁の終止点となって飛び上ってる所がエトナの山で、高さはアルプス山彙に属するものを除けばイタリア第一であるのみならず、活火山としてはヨーロッパ第一位である。他所ではエトナと呼ばれるが、島では単にラ・モンタニュ(お山)と呼び、またサラセン侵入時代からモンジベロ(山の中の山)という呼び方も伝わっている。
 第一の特長は、非常に老齢の活火山であることで、ホメーロスの詩には見えないが、ピンダロスの詩には紀元前四七六年の噴出についての叙述がある。古来噴出の確証あるものは約八十回で、その内、最も激烈を極めたものは紀元前に三回(三九六年、一二六年、一二二年)と紀元後に十四回(一一六九年、一三二九年、一五三七年、一六六九年、一六九三年、一七五五年、一七六六年、一七九二年、一八一二年、一八一九年、一八四三年、一八六五年、一八八六年、一八九二年)で、殊に十九世紀に入ってからが最も激烈を極めたというから、老いてますます旺んな山である。今世紀になってもすでに五回(一九〇七年、一九〇八年、一九一〇年、一九一一年、一九二三年)の噴出をしているから、油断のできない老山である。
 登山の季節は六月から九月までで、春は雪崩なだれがあって危険で、冬は吹雪で警戒されることが多いそうだ。登山季節といえども、二千米以上の部分は嶮峻であり、それに火山灰が深くて登攀に困難だということだ。しかし、私たちの場合は、バスで五合目まで登り、其処の料亭リストランテで食事をして帰って来たのだから、大きな顔をしてエトナに登ったともいえないわけだろう。
 それでも登って見なければわからないものをいろいろ見ることができた。前にも言った如く、遠くから眺めると屹立した山のようであるのに、行って見るとまるで広い高原の上を通ってるようで、高山に登っているという感じがしない。それほど根を大きく張った山で、その高原の上を一周するバスが別に走っているが、そのルートは約一一三キロで、八時間を要するそうだ。私たちのはまっすぐに五合目まで登るのに、タオルミーナを朝の九時二十分に出て、目的地に着いたのは殆んど正午であった。登山の順路はカターニアを出発点とするようにできているが、私たちはそれを逆に行って、帰りにカターニアに下りた。
 初めはエトナを一つの大きな土塊として遠く眺めていたが、いつしかそれが二つに分れ、三つに分れて、噴煙の出てるのは向って左の山の向側だということがわかって来た。麓の村々には DUCE NOI と記した大きな標板がところどころで見られた。イタリアの本土では到る所で見たものだが、シチリアでもムッソリーニに対する信頼は行き亘ってるものと見える。エトナの北寄の新らしい噴火口のある二つの山にはモンティ・ムッソリーニ、モンティ・ヴィットーリオ・エマヌエーレの名前が付いてるそうだ。
 エトナには熔岩流が大小約二百あると聞いたが、私たちもその内の幾つかを横断した。熔岩流については浅間の鬼の押出を知ってるから特に珍らしくは感じなかったが、北へ東へと数多く流れているのには驚いた。通り過ぎた熔岩流を越して、遙かの下の方に小さい山々が青く重なり、その向うに美しい海が横たわってるのを見下すようになるまでには、幾つも森林地帯を通ったり、牧場を通ったりした。森林には濶葉樹の大木が多く、牧場には羊が群がっていた。道路は幅広く、よく舗装されて、諸所に地名と標高が記されてあった。モンテ・サン・レオ一一八二米、モンテ・リナッツィ一二六二米、モンテ・ソナ一三七二米、等々。
 カパンニ・アツラというカフェ・リストランテの前に最後にバスは停まった。他にも一台バスが来て、部屋の中は遊覧客で一ぱいになった。皆思い思いの皿を注文して、まず腹をこしらえ、食後付近の原を歩いて見た。岩の間に菫やその他の小さい春の花が咲き出て、少し先の小高い所には雪が消え残って居り、真白なエトナの最高峰も手がとどきそうに近く見えた。しかし、エトナに登ってるつもりだったが、エトナは向側にあった。
 帰りはマスカルチア、グラヴィナなどの村を過ぎた。沿道には葡萄畑があり、果樹園があり、花が咲き、新緑が萌え出て、のどかな情趣に溢れていた。

    五

 しかし、カターニアの町に入ると私は少からず失望した。カターニア(カタナ)はナクソスと共に紀元前八世紀から聞こえたイオニア人の植民都市であったにも拘らず、来て見ると平凡な近代都市で、歴史的には殆んど見るべき何物も遺っていない。そのわけを尋ねて見ると、昔から各民族の断え間なき争奪戦に曝されて、古くはドリス人に、アテナイ人に、カルタゴ人に、またローマ人に、ゴート人に更に、サラセン人に、ノルマン人に、と、次第に荒らされ、破壊され、それに加うるに、更に恐るべきエトナの熔岩流と大地震に襲われて壊滅に壊滅を重ね、殊に一六九三年の震災は壊滅を完成し、潰れ残った家屋は僅かに五戸に過ぎなかったという。しかし、それにも拘らず、人間の神経麻痺性と健忘症は驚くべきもので、廃墟の上にまた新らしい都市が建てられ、今では人口三十万、シチリア第二の大都市として、巨額の果物・硫黄を産出している。此の地は気候がよいので、昔は保養地として聞こえていたが、今日は賑やかな商業地として知られている。
 バスは町の目貫の通をゆっくり通り、二三箇所に停まって見物したけれども、さして興味を惹くものとてはなかった。ドゥオモは十七世紀以来の、大学は十二世紀以来の歴史を持つそうだが、前者は震災で大部分破損し、後者は極めて最近の改築で感心しなかった。新らしいから感心しないのではなく、様式に見るべきものがないから感心できなかったのである。
 ギリシア劇場とローマ風の円形競技場もあったというが、後者は近年漸く発掘され、前者はまだ熔岩層の下に埋没したままである。見たうちで注目に値すると思ったのは、新らしいものだけれども、ヴィラ・ベリーニの庭園だった。樹林が深々と繁って、緑の蔭が涼しく、花壇も美しく整理され、ベリーニを初め、カヴール、マッツィーニなどの胸像が数多く並んでいた。
 ヴィンチェンコ・ベリーニ(前世紀の作曲家)とマリオ・ラピサルディ(ガリバルディの先輩)がカターニアの誇りとする人物らしいが、それよりも私にはホメーロスに次いでの大詩人といわれた合唱舞踊歌の完成者なるステーシコロス(ティーシアス)が晩年を此処で送って此処の土となったということの方に親しみが感じられた。しかし、それとても別にしるしがあるわけではなく、ただ伝説である。尤も、伝説の方が怪しげなしるしなどよりわれわれを信用させる場合も少くない。
 伝説といえば、シチリアの諸所には神の時代から英雄の時代へかけての伝説がいろいろ遺っているが、カターニアからタオルミーナへ帰る間にもポリプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)ーモスの伝説で有名な地点を通った。それは現実のカターニアに対する私の失望を十分に償うに足りるものだった。
 カターニアから鉄道線路――それは前の日に私たちが通った所だった――にくっ付いたり離れたりして、海岸を北の方へ走っていると、物の十キロも来たかと思う頃、中世風の一つの城砦カステロが絵のような形で丘の上に聳えていた。その少し先の海の中に、ばら撤かれたように小岩が幾つも白波に洗われていた。ポリプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)ーモスの七つの島というのだそうだ。ポリプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)ーモスはキョクロープス(一つ目の巨人)たちの棟梁で、オデュセウスの一行を岩窟に封じ込んで食おうとしたが、一つきりない目を潰されてオデュセウスを取り逃がし、漕ぎ去る舟を目がけて盲滅法に丘の上から岩を投げかけた。その岩が七つ水面に出ているのだという。果して七つあったかどうか、実は通り過ぎてから気がついたので、数えるひまがなかった。
 それから少し行った所に、アチスという小さい川があった。これもポリプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)ーモスに関係のある伝説の川で、ポリプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)ーモスは美しい妖精ニンプヘのガラテアに懸想したが、ガラテアはアチス(アキス)という愛人があったので拒絶すると、巨人はアチスを殺そうとした。それでガラテアは彼を川に変形させてその愛をつづけた。
 他愛もない童話のような伝説ではあるが、ホメーロスの美しい詩を読んだ者には、その伝説の場所を通ったことがわけもなくうれしくなる。何千年か以前にオデュセウスが十年間の漂泊をしていたのも、こういった明るい美しい海岸から海岸を伝って行ったのかと思うと、ホメーロスの幻想が急に生き返り、おぼろになった詩の世界へ久しぶりで引き戻されるように感じられた。
 そういえば、もう通り過ぎてしまったが、カターニアを出ると間もなく、七つの島よりもずっと手前に、熔岩流の流れ込んだ小さい入江があった。今はオニナの入江と呼ばれているそうだが、古代からの言い伝えでは、オデュセウスが舟を着けた処だということになっている。それは、タオルミーナの手前の、昔のナクソスの遺跡を越した所にジャルディニの入江というのがあって、一八六〇年八月十八日にガリバルディの一行がカラブリアを指して船出した所だと教えられたのと同様、私にはそれも真実に思われた。一つは歴史の真実であるに対し、他は詩の真実であるというだけの差違である。
(昭和十三年―十四年)

底本:「世界紀行文学全集 第六巻 イタリア、スイス編」修道社
   1959(昭和34)年10月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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