昭和十三年(一九三八年)十月一日、郵船靖國丸でヨーロッパへ向つて神戸を出帆し、翌十四年(一九三九年)十一月十八日、郵船淺間丸でアメリカから横濱に入港した。
 旅行の目的は、イギリスの諸大學で、交換教授として、能の藝術理論を中心として日本文化の特質について講義することであつた。講義したのは、ケインブリヂ、オクスフォド、ロンドン、リーヅ、ダラム(ニューカッスル・アポン・タイン)の五大學と、二三の學會であつた。その頃、イギリスとの國際情勢が思はしくなかつたので、政府當局の人たちも大使館の人たちも心配してくれたが、また、私自身も最惡の場合の覺悟はしてゐなくもなかつたが、事實は、意外にも、むしろ反對に、頗る氣持よく迎へられ、リーヅ大學では、エドワード・ヂェイムズ教授夫妻が私たち夫妻のために講義期間中自分たちの家庭を提供してくれたり、ケインブリヂではサー・アーサー・クィラクーチ教授が、近年さういつたことは全くなかつたのださうだが、特に私のために老躯を提げてチェアマンになつてくれて、非常に厚意に充ちた長い紹介の挨拶をしてくれたりした。クィラクーチ先生は私の講義がすむと、その大きな手をさし出して、あなたの話は政治問題に觸れなかつたから愉快だつたといつた。私が政府から派遣されたので、國策の宣傳の方へでも脱線しはしないかと心配したのではないかとも思つたが、さうでもなく、學問とか藝術とかの世界では、政治外交の方面では望めないお互ひに心をゆるし合へる親和の結びつきがあるもので、それを私のまづい言葉の中にも感じて喜んでくれたに相違ない理由を發見した。
 その他、オランダではハーグ藝術協會で、フランスではソルボンヌ大學と演藝學會(パリ)で、イタリアでは極東協會(ローマ)で、それぞれ一囘もしくば二囘の講演をしたが、ドイツでは七月から八月へかけての惡い時期(後になつて見ると大戰勃發の直前でもあつた)ではあり、私自身も少し疲れてゐたので辭退し、フンガリアからも招待されたが、スケデュールの變更がむづかしいのでこれも辭退し、アメリカの大學と博物館へは戰爭が始まつて約束の期日までに行かれなくなつたので、これも無線電信で辭退し、結局、旅行の最後の部分は戰爭の區域外へ逃げ出すことの苦勞で過ごしてしまつた。
 今度の旅行で痛切に感じた一つの重要なことは、西洋諸國では、われわれが日本で想像してゐる以上に、日本のことを殆んどなんにも知つてないといふことである。殊に、日本の文化方面に關しては驚くべく無知だといふことである。尤も、私が相手にした少數の團體は、東洋とか藝術とかいつたやうな問題に關心を持つてる人たちが大部分だから、これは例外とすべきであるが、一般知識階級の人たちは、支那のことについては多少知つてゐても、日本のことについてはまるで知つてゐない。日本が戰爭に強いことはよく知つてるけれども、日本に昔からすぐれた文化があつたといふことについてはなさけなくなるほど知つてゐない。これは日本のために損である。日本の文化その物のためばかりでなく、政治外交軍事のためにも損である。しかし、日本は長い間さういつた努力を世界に對してしなかつたのだから仕方がないともいへる。
 けれどもまた考へて見ると、西洋がわれわれの文化の本質を知らないやうに、われわれもまた西洋の文化の本質を、知つてるつもりでゐても、實は本統にはあまりよく知つてゐないのである。人のことはとにかく、私自身がさうである。私は西洋文學を專攷して、彼等の文學思想が彼等の文化或ひは國民性といかなる關係に於いて發生し發展したかについて、長い間考へても見、調べても見て、大體わかつてるつもりであつたが、實際彼等の生活の中に立ち交つて考へ直して見ると、自分の知識は或る特定の個人の意見であつたり、偏見であつたりすることを發見する場合が少くなかつた。だから、出直さなければだめだと考へた。西洋がわかるためには、自分を空しくして西洋の中にはひつて見なければわかる筈はないと考へた。
 さういふ心がまへになつて、私は自分の與へられた義務がすむと、あとの時日をばできるだけさういつた意味での見學に費した。しかし、私は文學研究者であり、文化研究者であるから、他の政治研究者・經濟研究者・軍事研究者等のやうな態度を取ることはしないで、專ら私自身の研究に役立つやうな見方をした。さうした研究の結果は、他日機會を得て、まとまつた形で發表したいと期待してゐる。
 此處に集めた十六篇はそれとはちがつた性質のもので、もつと輕い氣持での、見學して歩いた諸國の都市・風景・舊蹟・美術などに關する印象記である。私は講義のことに頭を使つてない時は、できるだけ多くの物を見て、できるだけくわしくメモを取つて置いた。それを皆すべて整理したら、此處に集めたものの數十倍の分量にもなるだらう。けれども日本へ歸つて來るとまた忙しい生活が始まり、整理したいと思ひながら、なかなかそれもできない。そのうち次第に印象も薄れて書けなくなるかも知れないと思つてゐた時、『日本評論』に一箇年間續けて何か書いて見ないかと勸められ、初めは一箇國について一題目づつ書いて見ようと思つて書き出したのだが、一箇國で二つ書いたところもあれば、一つも書かなかつたところもある。『日本評論』以外では、『思想』『文學』『文藝春秋』『帝大新聞』に書いたものを加へた。ほかに新たに書き足したものも數篇ある。最後の『大戰脱出記』は歸朝の當時『中央公論』に勸められて書いたものを添へたのである。
 校正しながら讀み直して見ると、どうも少し囘顧的でありすぎたり、考證的でありすぎたりする傾向が目だつ。しかし、之も私の物の見方のくせだから我慢していただきたい。私は、西洋の今日の文化は過去の文化の堆積の結果だと思つてるので、それを根本から見直してみたいといふあたまが働いてゐた。また西洋のことは西洋の人が一番よく知つてる筈ではあるけれども、彼等とても根據のない自尊心を固執したり、辯護し得ない偏見に煩はされたりすることがないとも限るまい。それで彼等の間では立派な傳統となつてる問題でも、われわれはわれわれとしてそれを修正し得ない理由はないと思つてゐる。だから、さういつた問題に逢着すると、つい理窟をいつて見たくもなるのである。
 それに、歴史的背景を描いて物を見ようとするくせが私にはあるやうだが、これはわれわれが例へば奈良へ遊びに行く場合を假定して見て、奈良の文化史的背景を實感しないで、ただ大佛を拜んだり鹿を見たりするだけでは、殆んど見學の意味をなさないことを考へてくださるならば、西洋の現状を西洋の文化史的背景の前に置いて見ようと試みた私の努力が、必ずしも個人的道樂でもないと理解していただけるだらう。
 終りに臨んで、これだけのものが本になるまでに、松本正雄・赤羽尚志兩君の厚意に負ふところが多かつたことを感謝する。

  昭和十六年七月
著者

底本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
   1941(昭和16)年12月10日第10版
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2006年9月19日作成
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