παραμ※(鋭アクセント付きε、1-11-49)νει γ※(重アクセント付きα、1-11-38)ρο※[#無気記号付きυ、U+1F50、120-3-3]δε※[#重アクセント付きι、U+1F76、120-3-3] ※[#無気記号と鋭アクセント付きε、U+1F14、120-3-3]γ
         ――― Menandros

 とうとう! ――アクロポリスの西の坂道を車で駈け登りながら思った。――とうとうパルテノンを見る日が来た。紀元前五世紀のペリクレスのアテナイの文化の抜萃エピトミといわれるパルテノン、世界に二つとない美の結晶と謳われるパルテノン、簡素で逞ましいドリス様式と優雅ですっきりしたイオニア様式の融合した華麗の典型なるパルテノン、建築家イクティノスとカリクラテスと彫刻家プ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)イディアスの比類なき技術の三部合奏ともいうべきパルテノン。いつかはそれを見たいと、どんなに長い間望んでいたことか! そのパルテノンを見られる時がとうとう来た。しかも、予期していたより、半年も、一年も早く。それだけ喜びも大きかったが、あわて方もまた小さくはなかった。というのは、古代の遺物でも、近代の記念物でも、顕著なものを見る前には、私は必ずできるだけ準備をして貧弱な知識を補うことにしていたのに、その時はアレクサンドリアからナポリへ直行するつもりで乗った船が、偶然にもピレウスに寄港することになったので、拾い物をしたような気でアテナイを訪問はしたものの、準備をする余裕がなかったからである。
 坂の上に車を棄てて、大きな石段を拾って登ると、頭の上にのしかかるようにプロピュライア(門の家)と呼ばれる建物の残骸が聳えている。正面に六本のドリス式の円柱と内側に二列にイオニア式の円柱と石壁の一部分が遺っているだけだが、パルテノンもエレクテイオンもまだ見ないうちだから、その柱列の美しさにまず圧倒された。
 その傍を通り過ぎて、東の方へ、更に高い頂上の広場を横断して、左手に低くエレクテイオンの華奢なイオニア式の柱列とそれにつづく長い石壁を見下しながら進んで行くと、行手にはアクロポリスの王冠パルテノンが威容を正して待っている。
 なんとおびただしい円柱の簇立であることか! ペンテリコスの石山から切り出したといわれる白大理石も二千四百年の星霜をけみして乳色に古び、溝彫の流れも柱胴の脹らみも或る柱には精巧な美しさをまだ保ちながら、多くの柱には溝彫の稜が到るところに無慙に欠け壊れ、西側だけの柱列には、破損しながらも、柱頭キャピタル軒縁アーキトレイヴ彫刻帯フリーズ軒蛇腹コーニス、更にその上の三角破風ペディメントさえも、まだ見られるけれども、その他の側では、それ等のものはすべていたましく崩れ落ちて、わずかに半分ほどの高さに折れ残った円柱が石筍の如く立ち枯れてるような有様で、屋根はもとより、天井もすべて脱け落ちたままである。壊れた大きた鳥籠を据えたような形である。
 そういった殿堂の残骸に対して私はしばらくはただ茫然と立ちつくしていた。その残骸に肉を付け皮を被せて、もとの美しい姿に戻して実感することに骨が折れたからである。その経験にはエジプト見学以来かなり苦労はして来たけれども、欠損した石の堆積を、想像に依って美の完全な形に復原することはなまやさしい仕事ではなく、新しい遺物に出逢うごとにその苦労を繰り返さねばならないほどの煩わしさだった。しかし、それだけの手続を経なければ、私には満足するように建築美が実感されないのだから仕方がなかった。

 想像の仕事は、まず全体の形を完成することだった。次に部分的に装飾を付加することだった。パルテノンの場合には、内部に本尊をも安置しなければならなかった。そうして最後には色彩を施すことだった。それには多くのギリシア学者の復原設計図を見た記憶が役立ったことは言うまでもない。
 全体の構成を完成することはそれほど困難ではなかった。小さい平面的な写真から大きな立体的な実物を想像するのは厄介だけれども、此の場合は実物が壊れながらも目の前にあるのだから大きさのことは問題ではなく、ただ欠損した部分をつくろい、不足した部分を補えばよいのだった。パルテノンの大きさは長さ二二八呎・幅一〇一呎といわれるが、観点の位置によっては、長さは幅の二倍以上とは見えない。それを高さ三四呎のドリス式の円柱四十六本が取り囲んで、大きな屋根を支えていたわけである。柱列は東側と西側に八本ずつ、南側と北側に十七本ずつ、計算する時は四隅の柱は重複するので合計四十六本となるわけである。
 各円柱の柱頭はがっちりした軒縁の巨石を支え、軒縁と比較的薄い軒蛇腹の間には、彫刻帯フリーズが幅広く取り捲いて、その上には世に隠れもないプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)イディアスの浮彫の傑作が展示されてあった。そのうち磨滅した部分は今もそのまま残っている。更にすばらしい浮彫の大作は東側と西側の正面ファサードの軒蛇腹を底辺とする横長い二等辺三角形の破風に見出された。
 以上は殿堂の外側の構造で、内側にも東の端と西の端にそれぞれ六本ずつのドリス式円柱が並び、それを前後にして中に石壁で囲まれた内殿があった。内殿は二つに仕切られ、東側の三分の二はヘカトンペドス・ナオス(百歩殿)と呼ばれ、西側の三分の一はパルテノン(処女殿)と呼ばれた。東側の入口からはいると、まずプロナオス(前殿)があり、中央の鉄の格子扉の先がヘカトンペドス・ナオスで、名称は部屋の長さが歩測して百歩あったからである。これがアテナイ国家の神殿で、左右に九本ずつ、正面奥に三本のドリス式柱列があって、部屋を四つに区切り、中央が内陣、左右と奥が廻廊で、内陣の突きあたりにプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)イディアス作の本尊アテネ・パルテノスの巨像が立っていた。首と両腕は白象牙で、衣服は黄金で造られてあった。右手にニケ(勝利の女神)の像を載せ、左手には槍と楯を持っていた。楯の内側には大蛇がうずくまっていた。
 次に西側の入口からはいると、東側のプロナオスと[#「プロナオスと」は底本では「プロナスオと」]対応の位置にオピストドモスと呼ばれる前房があり、鉄の格子扉の先は、イオニア式の四本の円柱を持つパルテノン(処女殿)になっていた。これは奉納の神物を所蔵する場所で、礼拝の場所ではなかった。それにも拘らず、その部屋の名が殿堂その物の名として用いられるようになったのを以って見ると、処女神にとっては貴重な部屋だったのだろう。
 ヘカトンペドス・ナオスと、その前房と、パルテノンとその前房と、以上四つの部屋は、結合した一つの神殿で、その外部の軒蛇腹の下には、此処にも四面とも、プ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)イディアスの浮彫の絵巻物が展げられてあった。また、ヘカトンペドス・ナオスの外壁とパルテノンの外壁には大きな壁画が描かれてあった。
 壁画はいうまでもなく、浮彫さえもすべて彩色されてあった。浮彫を持つ破風と彫刻帯の地色も彩色されてあった。軒蛇腹と軒縁も恐らく彩色されてあったのだろう。また軒縁には一つの柱頭の上ごとに二つずつの割合で黄金の大きな円盤が貼りつけられてあった。
 それ等がすべて外側の四十六本の白大理石の円柱に支えられて、三段に畳み上げられた石のステュボラテス(平台)の上に載っかったところを、碧玉を溶かしたような南欧の空を背景にして眺めた景観はどんなに華麗なものであっただろう! 地盤を石灰岩から出来た海抜五一二呎のアクロポリスの岩山であり、前面の西方は谷を隔ててすぐ前にアレオパゴスの岡、少し離れてニュンプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)の岡、ムゼの山、プニュクスの岡と対し、その間から近くプ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)レロンの入江を、遠くサラミスの海を望み、他の三方は脚下にアテナイの市街を拡げて、東北には遠くペンテリコスの山を、東南にはヒュメトスの連山を、西北にはアイガレオスの丘陵を望み、丘陵の彼方にはエレウシスの高原がつづいて、キタイロンとパルネスの俊峰がその先に立っている。それ等をすべて見はるかす形勝の地であるから、アクロポリスはアテナイにとって天下を支配すべき主神鎮護の霊地として尊ばれた。クセノプ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ロスに依って伝えられたソクラテスの言葉に従えば、「殿堂と祭壇に最もふさわしい場所は、最も目立つ所であると共に、また最も登り難い所でもあるべきだ。何となれば、人がその方へ向って祈ることも望ましければ、近づくには心を浄くすることも望しいから。」
 それこそパルテノンを戴くアクロポリスの山でなければならなかった。アクロポリスの山は、今もそうである如く、三面とも断崖で、わずかに西側の一方から険しい坂道と石段を拾って登れるだけだった。
 アクロポリスはアテナイを支配し、またギリシア連邦を支配し、同時に世界を支配した。支配者はパルテノンの内殿の女神アテネだった。しかし、今は殿堂はがらんどうで、本尊もなければ、荘厳もなく、ただ欠け古びた円柱の駢列をみるのみである。幻想は蜃気楼の如く、出来上ったかと思うと、忽ち薄れて消えそうになる。けれども復原の影像は、一度組み立てられると、薄れながらもいつも二重映しに荒廃の現形をつくろい、その後は写真を見ただけでも紀元前五世紀の姿を想像させるように助けてくれる。これは全く現場を見たおかげだと私は思っている。

 ギリシアの全盛時代はペルシア戦争(紀元前四八〇年)に続く半世紀間で、アテナイが全ギリシアを支配し、ペリクレスがそれを指導していた。その全盛時代の最大の記念物がパルテノンである。ペリクレスがイクティノスとカリクラテスに命じてパルテノンの建立に着手させたのは紀元前四四七年で、九年後には一と通り完成してプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)イディアスの手に成ったアテネの本尊を安置したと伝えられている。それは長い間アテナイの悩みであったペルシアの侵略を徹底的に撃退した後の戦勝の気勢の旺溢の結果であって、国家的・民族的礼拝の標幟を示す意図から出たものであった。
 けれども、その時初めてアクロポリスの上にパルテノンが建てられたのではなかった。アクロポリスの上にはそれより幾世紀も以前からアテネが祀られ、エレクテウムが建っていた。ホメーロスの謂わゆる「よく造られたエレクテウスの家」といい、また「富んだアテネの家」というのがそれであった。エレクテウス(エリクトニウス)は伝説上のアテナイ人の祖先で、身体は童形で首は蛇で、アテネとヘプ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)イストスの子供だといわれる。アテネの神殿の付近に祀られたのもそれが為だった。
 しかし、更に溯ると、アクロポリスには神殿の建てられる前に王城が築かれてあった。伝説ではそれをクレタのミノタウロスを退治した英雄テセウスの時代まで持った行くことになってるが、ギリシア民族の最古の記憶は最初の王ケクロプス(紀元前十一世紀?)の宮殿がアクロポリスにあったとしている。その頃の古い城壁の跡と推定されるものが今もプロピュライアの後方とアクロポリス博物館の後方に見られる。
 王城の位置に最初のパルテノンとエレクテウムが建てられた時、アッティカはアテネの崇拝に依って政治的に統一されていた。しかし、その殿堂はクセルクセスのペルシア軍に侵入されて焼かれた。それから三十三年目にペリクレスはパルテノンの再建に着手したのだった。今から考えると、これほどの殿堂が十年とたたないうちに完成したというのは信じ難いようでもあるが、古い記録にも「急速の完成」を見たとあるから、本統かも知れない。いずれにしても、今日反証の根拠はない。
 エレクテイオンの完成から約二十年たっていた。これはパルテノンがドリス様式を基調としたのに対し、純然たるイオニア様式で、殊にその南側の人口に我慢づよく頭に屋根を支えて立つ六人の娘の立像(カリュアティデス)によって有名である。これはギリシアには珍らしいモティフであるが、実物は姿態の美しさが頭の上の重そうな実感を(写真で見る時のように)起させる余裕を与えない。
 プロピュライア(門の家)はペリクレスの晩年に出来たものといわれる。ドリス様式とイオニア様式の混合で、初めに見て通った表玄関の六本のドリス式円柱が五つの通路を作っていたが、今はその間を通さない。昔国家の正式の行列がパルテノンに向って行進する時は、その中央の通路を通った。屋根の上には青銅のアテネ・プロマコスの武装した巨像が立っていて、槍の尖の鍍金がコロナの岬角を迂回する航海者の目標になっていたというので有名だった。
 その外にも、アクロポリスにはキモンの建てたプ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)イディアス初期の作品なる鍍金したアテネの青銅巨像がプロピュライアの後方の広場に立っていた。
 しかし、今はそういった物はすべて失われて、前にも述べた如く、アクロポリスの山上はただペンテリコスの大理石の堆積に過ぎない。

 誰がアクロポリスを破壊したのか?
 ペリクレスの晩年にはスパルタ戦争があったり、悪疫が流行したり(ペリクレス自身もそのために死んだ)して、アテナイは衰微に傾いたが、それでもアクロポリスの美観はまだ失われなかった。テュキュディデスに拠ると、アテナイの町でさえ壊れた石の一片だに見られなかったというから、最も神聖視されたアクロポリスの山上の整然たる美観は想像に余りあるものであったに相違ないが、それはローマ時代までも保たれ、最初の皇帝アウグストゥスはアテナイの町を飾り立て、アクロポリスの美観を保つように助力した。その以前にユリウス・ケーサルもアントニウスもアクロポリスを訪問した。アントニウスの如きはアテナイ市民の請いを容れてアテナイの主神アテネとの結婚式を挙げたりした。彼自身ディオニュソスを以って任じていたのである。しかしアクロポリスを最も尊重したローマ皇帝はハドリアヌスだった。彼は比類なきギリシア狂で、しばしばアテナイを訪問しては都市美の完成に努力し、オリュンピウスの称号をズェウスと共に分つほどの人気を博した。今でもアクロポリスの東麓にはハドリアヌスの門が遺って[#「遺って」は底本では「遺っ」]いるが、門の内側(北西)にはギリシア文字で「これは嘗つてはテセウスの町であったアテナイである」と刻み、外側(南東)には「これはハドリアヌスの町で、テセウスの町ではない」と刻んである。その門から外の区域は彼の拡張した都市で、ハドリアノポリスの名で呼ばれていた。ハドリアヌスはそれほどの熱心なアテナイ保護者であったから、アクロポリスの美観は昔のペリクレス時代にも劣らずよく保たれたといわれている。それは紀元二世紀の前半のことであった。
 紀元三世紀に入ると、北方の蛮族が南の方へ目を向けてギリシアは不安の状態になって来た。その頃はローマの勢力が弛んでいたので、皇帝ヴァレリアヌスの頃になると蛮族は南下してギリシアに侵入し、次の皇帝ガリエヌスの時代にはアテナイは包囲され、その次の皇帝クラウディウスの時代にはアテナイは遂に蛮族に占有された。その後再びローマ軍の手に恢復はされたけれども、アクロポリスの美観はその時かなりひどく損傷されただろうと推定される。
 しかし更にひどい破壊は四世紀に入ってゴート民族の侵入によって行われた。殊にその世紀の末葉、皇帝テオドシウスの時代には、後にローマの大略奪をやったゴート王アラリクが、アクロポリスをめちゃくちゃに荒らした。殿堂は破壊され、神像は倒され、宝物は盗まれた。その状況はシュネシオス(新プラトン学派のキリスト教徒)によって五体を焼かれる殉教者に譬えられている。それを昔の盛装したアクロポリスを見物に出かけたパウサニアス(二世紀のギリシア人)の記述と比較すると、何という相違だろう!
 けれども、五世紀の頃までは、アクロポリスは荒廃しながらも、まだアテネの殿堂としてのパルテノンを持っていた。それを根本的に変質させたのはキリスト教であった、それは外から働きかけた蛮族の破壊とはちがって、内側で仕向けた一層深刻な破壊で、パルテノンをキリスト教の礼拝堂に化してしまった。ペルシア軍の侵入を撃退したギリシア軍の名誉を主題とした殿堂の壁画は抹殺されて、キリスト教の聖徒の光栄がフレスコで描かれた。けれども破風と彫刻帯の浮彫は高い所にあったから当時はまだ手を付けてなかった。後年ロード・エルジンがそれを剥がしてイギリスへ持ち去った時、古代ギリシアの文化に憧憬の熱情を持っていた同国人バイロンは憤慨して、
But who, of all the plunderers of yon fane
On high, where Pallas linger'd, loth to flee
The latest relic of her ancient reign,
The last, the worst, dull spoiler, who was he ?
と叫んだ。けれども、ロード・エルジンは冒涜者の最後の者ではあったかも知れないが、最悪の者であったといえるかどうかは問題である。ヘラスの宗教の立場からいえば、最悪の者はキリスト教徒であったといえなくはない。
 それ以上の悪質の冒涜はトルコ人によって行われた。トルコ人はアテナイに侵入するとパルテノンを回教のモスクに変形し、南西の一隅に尖塔ミナレトを建てたりした。その後(一六八七年)アクロポリスに立てこもっていたトルコ軍を包囲してヴェネチアの砲兵隊から発砲した弾丸が、パルテノンの殿堂(それをトルコ軍は火薬庫にしていた)に命中して、今日見るが如き無慙な破損を与えた。侵略と戦争の無思慮がそこまで達すると沙汰の限りである。ギリシアが破壊された後では、ローマが西洋古代文化の唯一の宝庫となっている。今日、イギリスはローマの爆撃を手びかえているが、同様の思慮が十七世紀にも費されたとしたら、アクロポリスはもっと完全に保存されていたであろうにと惜まれる。破壊は一日にして行われ得るが、建設は容易ではない。殊にパルテノンの如き美しさは、少くともエジプトを除いては、世界の西半球のどこにも見出されないものであるから、人類の文化の記念物として当然もっとよい状態に保存さるべきものであった。
 ギリシア自体が無力でその記念物を保存し得る能力がなかったので、近代に入ってその遺物を安全な場所に移すべきだという意見が擡頭した時、フランス人が最も熱心で、イギリス人がそれに次いで熱心だった。フランス大使ショアシュール・グウフィエ伯と副領事フォヴェル(画家)が逸早くパルテノンの彫刻を運び去り、つづいてイギリス大使ロード・エルジンが運び出した。バイロンを憤慨させたのはその時のことだった。それが褒むべき行為であったかどうかは別として、とにかく私たちはルーヴルとブリティシュ・ミュージーアムに行けば、プ※(小書き片仮名ヘ、1-6-86)イディアスの作品が飽きるほど見られるのだから、便利は便利である。
 しかし、できることなら、古代の記念物はすべてもとの場所に置いて見たいものである。

 私たちがアクロポリスを瞥見した時は、まだエジプトの夢のさめないうちだった。だからパルテノンを見ても、エレクテイオンを見ても、プロピュライアを見ても、ルクソルの殿堂・カルナクの殿堂・プ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)レの殿堂・エドフの殿堂などを思い出して、それ等と比較することなしには考えられなかった。
 比較の結果については他日機会を得て詳細に論じて見たいと思っているから、此処にはこれだけのことを付記して置くと、ニルの沿岸からアクロポリスに行った時の印象は、私たちが奈良から京都付近へ行った時の印象によく似ていた。宇治の鳳凰堂の華麗はまことに均斉を得た典雅その物ともいうべきではあるが、法隆寺・薬師寺・唐招提寺に見るような強さの中に発見される美しさに於いて物足りない感じを免かれない。パルテノンとエジプトの殿堂の対照は必ずしもそれにぴったり当て嵌まるというわけには行かないが、何より大きさに於いて、また単純さに於いて、及び力強い逞ましさに於いて、美の最高の表現を完成している点にかけては、エジプトの作品を見た後でのギリシアの作品は、何となく物足りなさを覚えて、その美しさは決して繊細ではないけれども、それに近い印象を否むことができなかった。
 そのことを、ローマでも、ロンドンでも、パリでも、ベルリンでも、そういった問題に関心を持つ人に逢った時、話したけれども、誰も私たちの意見に全幅の同感を表明する人はなかった。思うに、ヨーロッパ人は皆ギリシア系統の文化の中で生活しているので、その問題を公平に批判し得ないのであろう。一つはまたエジプトの遺物の実物を見てない者が多いから価値判断ができないのであろう。その点アメリカの学者には私たちに同感する者を見出した。それだけアメリカ人は文化的伝統が薄いから自由に意見を作り得るのではないかと思った。
(昭和十三年)

底本:「世界紀行文学全集 第十六巻 ギリシア、エジプト、アフリカ編」修道社
   1959(昭和34)年6月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2011年6月27日作成
2011年8月3日修正
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