一

 オランダには三日半きりいなかったけれども、小さな国だから、毎日車で乗り廻して、それでも見たいと思っていたものはあらかた見てしまった。
 五月一日(一九三九年)の昧爽、フーク・ファン・ホランドに上陸した時の第一印象は、いかにも物静かな、どことなく田舎くさい、いやに平ったい国だという感じだった。前の晩おそく、雨の中をハリッジを出帆して、百五十マイルの航程を七時間、北海の波に揉まれて、それでもどうにか眠ることは眠ったのだが、まだ幾らか寝が足りなかったので、公使館から廻してくれた車を捜すにも寝ぼけ眼だったに相違ない。尤も、捜すとはいっても、埠頭の税関所につづいた停車場の構内には車は二三台しか見えなかったから、わけはなかったのだが。
 フーク・ファン・ホランドから首都ハーグまでは北東へ十マイルそこそこの距離だった。雨あがりの空からは和やかな朝の陽光が沿道の耕地に降りそそぎ、静かな・田園的な・平坦な国土の印象がいつまでもつづいた。ハーグに入ってもその印象は失せなかった。ハーグは十八世紀までは「ヨーロッパ最大の村」といわれた。十九世紀の初葉、オランダ王となったルイ・ボナパルト(ナポレオン一世の弟)に依って都市の特権が与えられ、今日では小さいながら王宮もあれば議会もあるけれども、また、中世以来の旧市街の外に新しい近代都市的区域も出来てはいるけれども、商業がなく、産業がないためか、なんとなく田園的な空気が漂っていて、せいぜい別荘地といったような印象をしか人に与えない。ハーグ den Haag という名前――正しくいえば、S Graven Hage(伯爵の囲い地)――が示す如く、昔は領主(伯爵)の狩猟の足溜まりの場所だったのが、近代に至って政治・外交の中心地となっても、その色彩はずっと褪せなかったものと見える。
 そこへ行くと、アムステルダムとかロッテルダムとかの海港都市は、近世初期のオランダ海運業の隆盛と共に発展した土地だけあって、形貌からいっても実質からいっても、一種の国際都市的特色を持っていて、ある意味ではオランダ的でないといってもよいだろう。
 オランダ的特色というのは、平たい土地に運河が縦横に網を張って、堤防が到る所に築かれ、運河には舟が泛び、町ならば吊橋やはね橋が架けられ、田舎ならばその傍で風車がくるくる廻ってなければならない。そうして、家屋は(都会には例外として六、七階の高層建築も見られるが)概して低く小さく、しかし田舎は田舎なみに飾り立てて、清潔に掃除してあり、風俗は(都会では一般ヨーロッパとあまり変らないけれども)地方では昔ながらの野趣をおびた絵画的の服装が保存されてある。即ち、女は白い蛾の翅のような帽子をかぶり、肩から胸へかけてレイスなどの付いたさまざまな形のきれを掛けて、スカートの上には赤とか青とか茶とか色とりどりの縞の前垂みたいなものをうしろへ廻してまとい、女も男も足には大きな木履を穿く。しかし、それ等は都市では今日見られない。今日都市に多く見られるのは自転車で、ハーグでは市民も官吏も自転車が多く、大臣も女王さえも自転車を乗り廻すと聞いた。自転車の数が五十万あるというから、人口の約一〇パーセントは自転車に乗るわけである。土地が平坦なのと国の狭いのがそれに都合がよいからに相違ない。
 一体オランダほど風土が国民の生活に影響を及ぼしてる国はヨーロッパのどこにも見出せない。国内の或る部分では、地面が海面よりも低いので、堤防が到る所に築かれてあることは既に述べたが、その堤防の上には楊柳の枝などをかぶせて泥で固め、それを数年ごとに取り替えねばならないので、その費用だけに年額千五六百万フロリンを支出するそうだ。そういった堤防を必要とする土地が全国の面積の約半分に及んでるということで、オランダの古い諺に「神は海を造った。われわれは陸を造った」というのも、十世紀以来のそういった土木的努力を考えさせるものでなければならぬ。土地が国民の生活を変更したと共に、国民の生活も土地を変更させないでは措かなかった一つの例でそれはある。今一つの例は運河で、これは道路の代用として、また下水の代用として、また都市ではしばしば塀がこいの代用として使用され、都市にも田舎にも無数に開鑿されてあるが、大きいのになると巾十間深さ一間ぐらいのもある。そうして、田舎では、運河の付近には大きな風車が幾つも立っていて、製粉・製材・製紙等に利用されるほかに、低地の水を汲み上げて運河に移す役目をもさせられている。

    二

 オランダのそういった風土的特色は、都市殊にアムステルダムとかロッテルダムとかいったような海港都市ではあまり見られないといったが、それでもレンブラントが一六四〇年に写生したアムステルダムの風景画(エッチング)を見ると、高塔の聳えた建物と並んで大きな風車が幾つも立っていて、前景は水草の生えた沼が荒地の景観を呈している。だから、その頃はオランダが航海と貿易によって富裕になりかけた時代で、アムステルダムなどはすでに国際都市的性質をおびていたといわれるにも拘らず、まだそういった田園的特色が見られていたものと思われる。今日でも、ハーグ、ライデン、ユトレヒト、ハーレムなどでは、大体からいって、町は近代化されてありながらも、なお昔を思わせるものが少なからず残っている。旅行者にとっては、それが大きな魅力である。
 しかし、オランダ人としては、すべての都市が早く近代化して、アムステルダムの如くロッテルダムの如くなることの方が或いは望ましいのではないかとも思える(その証拠には、ハーグの新区域ムッセンベルクの住宅街の如きは、ベルリンの郊外にでも行ったような新様式の機構を持っている)が、旅行者としては、世界のどこででも見られるようなそんなものには興味は感じない。やはりオランダではオランダ的な物が見たい。同じことが日本を訪問する外国人旅行者の口から聞かれるのを私たちは知っている。東京のような近代都市は別として、京都とか奈良とかの千年以上の伝統を持った旧都では、趣のある古いものをむざむざと壊して安っぽい新しいものに取り替えるような心なき企を、みだりにやってもらいたくないと希望するのは、ひとり外国人のみではないだろう。同じ意味で、オランダ人の中にもハーグやライデンやユトレヒトなどをば純粋にオランダ的に保存したいと熱望する者が少ないと聞いた。実際、世界中どこへ行っても似たり寄ったりの景観を持つようになったら、旅行の興味は恐らく半分以上なくなってしまうだろう。
 その点、ヨーロッパでおよそベルリンぐらいおもしろくない都市は少ないといってもよい。街衢がいくはよく整頓され、家屋も道路も清潔に保たれてはあるが、なんだか方程式を見るような都市で、それ以上でもなければ、それ以下でもない。旅行者としては、むしろ、割り切れないものにぶっ突かった方が興味がある。同じドイツの都市にしても、ハイデルベルヒとかフランクフルト・アム・マインとかニュルンベルヒとかになると、十分に旅行者を楽しませるものがあるけれども。
 オランダも大体において旅行者を楽しませるものを持っている。殊に私たちの行った時は、春がたけなわになりかけて、気候はよく、木木は芽を吹き、花は蕾を破って、どこを見ても美しく、ハーグも、ライデンも、ユトレヒトも皆美しかったが、殊にハーグからライデンへドライブした時に通った沿道の花畠の美しさは決して他国では見られないものだった。それはテューリップ畠と、アネモネ畠でひろびろとした耕地の間に途方もなく大きな毛氈を敷きひろげたように、しかも、このテューリップ畠は赤は赤一色、黄は黄一色、白は白一色で、中に紫はアネモネの花畠だった。このテューリップの大量栽培は、花はってロンドン、パリ、ベルリン等へ出すが、目的は球根をアメリカへ輸出するためである。
 しかし、テューリップもアネモネも美しければ、バタ・チーズ・野菜・卵等の産出も多量であれば、また風車もおもしろければ、運河・堤防も珍らしかったが、それ等にもまして私にいつまでも忘られない印象を与えたものはオランダの絵画であった。殊にレンブラントの作品であった。

    三

 レンブラントとかフランス・ハルスとかヤン・ステーンとかを除けば、正直にいうと、私はオランダの絵画についてあまり多く知らなかった。ロンドンの博物館で初めて多くの実物に接し、後ではパリでもベルリンでもミュンヒェンでも数多くオランダの画を見る機会を持ったが、しかし、最も系統的に且つしみじみとそれ等に親しむことのできたのはオランダの博物館であった。殊にハーグのマウリツハウスとアムステルダムの国立博物館リイクスムゼウムであった。
 一般的に見て、オランダの画は目立って手堅い写実の基礎の上で発達している。一方では風景・静物などの地味な画題をいかにも細かく精密に写生してるかと思うと、また一方では風俗画ともいうべき種類のものを多少のヒューマーを交えながら巧みに描き出している。そうして、概して小さい作品が多く、中には微細画ミニアチャーといえるような作品も少くない。そういった行き方が流行したというのも、主として国民性と国情に因るものであって、オランダがヨーロッパの北に偏したテュートン民族の国であり、新教の国であることを考えると、また、近代に入って科学が逸早く発達し、同時に実際主義的思想が行き亘り、経済的には交通貿易の隆盛と共に富裕になった国であることを考えると、その美術がロマンティクな奔放に飛躍せず、神秘的な晦渋に偏せず、情緒的な滲泄を見せないのもむしろ当然であり、どこまでも堅実な写実主義の苗床であった理由が理解される。そうして、その苗床で成長した最大の樹木こそレンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(一六〇六ー六九)だったのである。
 レンブラントを十五歳の年長者なる同時代のルーベンスに比較すると、同じネーデルランドの画家でありながら、何と相違のあることだろう。前者はどこまでも地道な写実主義から出発して、執拗にその道から踏み出すまいとかじりついているに対し、後者は奔放自在に筆を駆使して天に登ったり地にもぐったりして端倪を知らざるものがある。どちらも抜群の色彩家ではあるが、前者は暗褐色の主調を最後まで守り通しており、後者は赤赤とした鮮明な絵の具を吝みなくぬたくり附けて、途方もなく大きなカンヴァスの上にはちきれそうな肉体を無数に列べ立てて居る。どちらも比類なき技術家ではあるが、前者はその技術が技術以上のものを描き出し、人間の魂の姿を見せる高さにまで達しているに対し、後者はややもすれば腕にまかせて技術をひけらかそうとする野心が鼻につく。そんな意味で私はルーベンスの画はヨーロッパの到る所でまたかと思うほど数多く見せられたが、正直にいうと、最後まで馴染まなかった。尤も、ルーベンスは前古未曾有の流行児で、各国の宮廷貴族からいつも注文が殺到し、生涯に二千以上の作品を製造するにも多くの弟子の手を使ったことは確実であるから、彼の真の技術を調べるには限られた少数の作品にのみついて見るべきであるが、それ等について見ても私の趣味は遂に彼に親しみを感じることができなかった。そこへ行くと、レンブラントは、写生や習作の端に到るまで、どの一枚の画にも足を留めて仔細に凝視させないでは措かない魅力を持っている。

    四

 レンブラントはライデンの貧しい粉屋の四番目の息子に生れ、風車で揺れる小さい部屋の中で、子供の頃から父や母や妹をモデルにしたり、自分の顔をモデルにしたりして、画ばかり描いていた。初めは教師に就いたこともあり、先輩の作品を模写したこともあり、イタリアの作品はあまり彼に訴えなかったようであるが、ルーベンスは或る時期には相当に彼を動かし、いつもルーベンスのことを考えていたようである。けれども、ルーベンスとはおよそ反対の行き方をするようになった。というのは、彼のあたまの中にもやもやしていたものを表現するには、他人の表現法では間に合わないことをはっきりと自覚したからである。それで、彼は自然を師として彼自身の表現法を発明した。形を正確に造り出して色と光で調子を出すことについての独得の表現法である。それは彼にとって生涯の研究問題であった。もちろん技術の問題ではあったが、それを指導するものは彼の心の内奥に燃えさかる人間知に対する探究の情熱であった。彼を遂に美術史上に於ける最も特色ある偉大な芸術家として造り上げた情熱であった。彼が「オランダのシェイクスピア」といわれるのも、その点で頗る適切な評語である。
 シェイクスピアはストラトフォド・オン・エイヴォンの雑穀肉屋の息子に生れ、ろくに学校生活もしないで、あれだけの人間学を独力で世間から習得し、大学などでは到底学び取ることのできない才能を以って、世にも稀な芸術品を数多く作り上げた。レンブラントも少年の頃文法学校に通ったきりで、父は犠牲を払っても四男だけはライデンの大学に入れたいと思っていたけれども、彼の情熱は画のこと以外には向かなかったから、父の希望を満足させることはできなかった。彼は二十五の年にアムステルダム――国際都市として膨脹しつつあったアムステルダムへ出て、職業的画家の生活に入った。
 オランダでは事業に成功した者や職業組合が、貴族のするように、画家に自分たちの肖像を描かせる風習があった。若いレンブラントにも注文が殺到した。彼は忽ち有名になり、美しいサスキアを妻に持ち、金は手に入るにまかせて荒く使った。殊に諸国から輸入された美術品・骨董類をめちゃくちゃに買い込んだ。まるで自分の家を博物館にするのではないかと思われたほどだった。結婚して八年目に妻のサスキアは死んだ。一人の息子を残して。その頃からレンブラントの名声は次第に落ちて行った。彼の芸術心が世俗の要求を十分に充たしてやるように彼を努力させなかったからであった。彼は貧苦と戦わねばならなくなった。彼は絵筆の代りにエッチングの針を持つことの方が多くなった。年若い無教養の女中ヘンドリキエ・ストッフェルスと同棲して、世間から全く隔絶されるような生活に入った。けれども彼の製作欲は衰えなかった。以前にエスパーニャの圧迫から切り抜けて自由になっていたオランダは、今度はイギリスと戦争を始めて窮乏に見舞われ、極度の恐慌が疫病と共に来襲した。逆境のレンブラントはそのあおりを喰って高利貸に責め立てられ、遂に破産した。ユダヤ人の部落に蟄居ちっきょして悲惨な生活をつづけたけれども、誰も助ける者はなかった。しかし彼の製作欲はますます熾烈しれつを加えた。貧苦と労作のため、五十に近づくと肉体は頓に衰え、壮年の頃逞ましく見えていた顔は縦に深い皺が二つ刻まれてあったが、今やそれを横ぎって横に幾つもの皺が波打つようになった。そうして、皮膚はたるみ、目は曇って来た。けれども製作欲の火は果しなく燃えつづけた。遂に五十二歳で瞑目した時、彼は殆んど乞食同様の境涯に落ちて、地上に一物の所有品をも持たなかったが、数えて見ると四十年聞に約七百の作品を遺した。そのいずれを見ても、魂の躍動を感じないものはないが、殊に晩年の作品だけが深刻で調子の高いものがあるのはすばらしい。自画像だけでも約五十を数え、そのうち二十は晩年の自画像で、晩年も最後の自画像に近づくだけ、加速度的に心境の飛躍を感じさせるのは驚嘆すべきである。

    五

 レンブラントの作品は、他の大家と同様に、世界中に散ってしまって、本国のハーグとアムステルダムの博物館では二十三、四しか見られない。それでも大作が集まってるのと粒が揃ってるので、見ごたえがある。
 ハーグのマウリツハウスでは「解剖講義」(一六三二年)と「殿堂の披露」(一六三一年)と「サウルの前で竪琴を弾くダヴィデ」(一六六五年頃)が目立った。
 殊に「解剖講義」は一度見ると決して忘れることのできない画である。中央に裸にされた男の屍骸が仰向けに足を踏み伸ばして横たわって居り、その左腕の下膊筋だけが皮膚を剥ぎ取られて赤く露出している。その芋茎ずいきのようなきんの束をピンセットで鋏んで示しているのはトゥルプ教授で、彼は当時オランダで一流の解剖学者であり、またレンブラントの保護者でもあった。教授の右側(画面の左側)には五人の同業者が熱心にのぞき込んでそれを見ている。屍骸を隔てて教授と向かい合った位置(画面の左の隅)には二人の男が講義を聴いている。聴講者はその背後にもまだ幾人か並んでいるのであろう。何となれば、講義者トゥルプ教授の視線はその二人の頭を越して画面の外に投げられてあるから。これはレンブラントの構図にしばしば見る特長で、事件がややもすればカンヴァスの範囲外に及ぶ。
 一体、解剖のデモンストラティオンといったようなものは普通人には面を反向けられがちなもので、今日でも日本では大学・専門学校の解剖学の実習以外には公開されないことになってるようだが、オランダは三百年前からその方面の科学的進歩はいちじるしく、前野蘭化・杉田玄白等の学徒が初めて西洋科学を受け入れたのもオランダの解剖学であった。しかし、解剖のデモンストラティオンを画題として考えると、いかにも散文的で、味のないもので、下手に描いたら徒らに醜悪を暴露するに過ぎないような結果にならないとも限らない。オランダには、レンブラント以前に、この種の画題を取り扱った画家はたくさんあって、皆似たり寄ったりの構図で、教授と屍骸をまん中に取り囲んで輪を作ってる聴講者の群を描くのがきまりであった。しかるにレンブラントは、トゥルプ教授の依頼を受けてアムステルダムの外科医組合のために組合員の顔を描くことになった時、まず上に述べたような構図を考え出したのであった。画の性質がもともといわゆる組合員肖像画の注文であるから、各自の似顔を描かねばならないのである(その氏名は画の中の一人が手に持ってる紙に記されてある)が、画家としてはそれでは満足しきれなかった。で、彼は驚くべく犀利さいりな透視力を以って各自の顔を通して性格を読み取り、それをいつまで見ていても飽きることのない生きた表情として描き出した。
 画面を一瞥してまず感じるものは、一人の死んだ男と七人の生きてる男の対照である。裸にされた血ののない青白い肉体と、着物で包まれた赤赤した顔の対照である。それ等の顔には目が光って理知が閃いている。七人は、教授(だけは帽子をかぶってる)を除いて皆無帽で、黒の服に白の飾襟を附け、赤い鬚を生やしているが、表情と姿勢はそれぞれの性格を表わして、まちまちである。一致してる点は講義する教授の言葉の理解に注意を集めてることである。それをばピンセットの尖に持ち上げられた腱を凝視しながら理解しようとしてる者もあれば、くうを睨んで理解しようとしてる者もある。主題となってるものを求めれば「科学に対する情熱」とでもいおうか、それがこの画を緊密に統一している。生命のない青白い肉塊が中心ではなく、冷静な教授の唇の間から漏れて首を集めている人たちの耳に入って行く理知の言葉が中心である。その首の集まりはピラミッド型を構成して、光と色調で頗る巧みに画面の上に浮き出している。
 二十五歳の青年画家レンブラントはこの野心的な大幅(5.3X7.1 ft.)に依って一躍して名を成したといわれるが、その形の確実と構図の安全と色彩の沈着は五十歳の老大家の作品といっても誰も疑うものはなかろう。私はヴァティカノでミケランジェロの美しい高貴な「ピエタ」を見て、それが二十三歳の時の彫刻だということを思い出した時、天才の魂の老熟に心を奪われたが、同じ驚嘆はレンブラントの「解剖講義」に対しても押し包むことができなかった。

    六

 アムステルダムの国立博物館リイクスムゼウムでは「夜警」(一六四二年)と「織物商組合評議員」(一六六一年)が有名であるが、そのほかに「エリザベト・バース」(老婦人の像)と「或る婦人の像」(中年の婦人の像)と火事で焼け残った「解剖講義」(一六五六年)の断片も忘られないものである。
「夜警」の評判は殆んど世界的で、それがあまりに私を期待させた為か、白状すると、それほど圧倒されはしなかった。大きさ(12X14 ft.)と描かれた人数の多いこと(二十数名)とすばらしい明暗法の技術には驚いたが、画の中から迫って来る力に感心する前に、まず雑然たる構図の混乱に悩まされ、それが最後まで鑑賞を妨げた。或いは私の鑑賞力の偏狭なためかも知れないが、今、写真を取り出して見直して見ても、その時の印象がまだこびりついていてどうすることもできない。
 私たちを案内してくれたカルコーン君は、画面の中央前方に暗褐色のびろうどの上衣を着て右手に杖を持ち左手をひろげて前にさし出した大尉フランス・バニング・コックを指ざして、どうです、あの手は画面から外へ突き出してるじゃありませんか?といった。全くその通り、その手は画面から飛び出してるように見えた。それと並んで中尉ウィレム・ファン・ラウテンブルクは黄いろい皮の上衣を着て左手に短い槍を提げ、大尉と話しながら歩いて来る。その二人の主要人物については申し分はないが、あとの二十余人の姿は暗い背景の中に溶け込んで、飛道具を持ってる者、鉾を突いてる者、槍を横たえてる者、旗をさし出してる者、太鼓を叩いてる者、それ等が話し合ったり、脇見をしたり、振り返ったり、てんでんまちまちの形で群がって、何をしているのだかわからない。
 この画も実は組合員肖像画として注文を受けたもので、アムステルダムの市会議事堂に懸けられるために、市民射撃隊がコック大尉とファン・ラウテンブルク中尉に引卒されて射撃隊組合本部から繰り出す光景を描いたものである。それが長い間夜警団の勢揃えを描いたものと誤解されていたというのも、画の目的がわからなかったからに相違ない。よくよく見ていると説明の付きかねるものがいろいろ発見されるが、例えば画面の左寄りに赤い服を着た射撃手の後に少女が一人と子供が一人いる。彼等はこの騒ぎの中で、しかも射撃隊組合本部の建物の中で何をしてるのだろうか? そんなことは問題にしないとしても、全体がばらばらになっていて、どうも私にはまとまりがつかない。まとまりのつかない所をねらったのだといえばそれまでだが、それでは画家の沽券こけんに関するだろう。
 しかし、私が心配する前に、この画は描き上げられるとすぐアムステルダム市民の不満を買った。第一に、組合員の大部分が不満だった。大尉と中尉だけはよく描いてあるが、あとの組合員は全部端者はもののように蔭に押し込められて中には顔さえも判明しないものが少くないので、大枚千六百フロリンを払って却って侮辱を買ったと彼等は思い込んだのだ。その不満が市民一般に感染し、それ以後レンブラントの名声は急に低下して行ったと伝えられている。けれどもそれはレンブラントのために弁護しなければならぬ。レンブラント以前にフランス・ハルスも(ハーレムの射撃隊組合のために)、ラフェステンも(ハーグの射撃隊組合のために)、類似の注文を受けて描いたが、しかしレンブラントは単に二十幾人の似顔を並べて描くのでは彼の芸術的本能が承知しなかった。彼は組合員の顔を材料にして一つの「画」を作り上げることに専ら興味を持った。彼はオランダの各都市の市民が自由のために武装して立った歴史を思い出して、市民の勇気を主題とする一つの「画」を作り上げることに注文を生かそうと企てた。丁度その頃は愛妻サスキアが重態の病床に就いていて彼は心を煩わされていたが、この画の完成に心を打ち込んで、憂苦をまぎらしていた。もとより組合員某某等(その氏名は画面の円柱の上に懸けられた紋章の楯の表に書かれてある)各自の気持などは眼中に置くレンブラントではなかった。元来彼はモデルを虐待するので有名だったが、製作に打ち嵌まるといかなるモデルも一草一木と同じようにしか思えない芸術家的心事は容易に同情される。しかしレンブラントは市井の俗人の感情をひどく損なって、大きな犠牲を払わなければならなくなった。肖像画の注文は途絶え、しばらくは風景画を描いたり、エッチングを彫ったりしていなければならなかった。
「夜警」の製作にはそういったいきさつがあったことを思うと、私も多くの鑑賞家と共に口を揃えて「夜警」礼讃をしたくなるような気持もあるが、正直のところ、私には此の画のよさがよくわからないのである。
 そこへ行くと「評議員」の方はよくわかる。アムステルダムの織物商組合の五人の評議員が、ペルシア風の緋のテイブルクロスで蔽われた一つのテイブルの上に書類を置いて商議していると、後の羽目板に倚つかかるようにして一人の召使の男が無帽で立っている。召使を除く五人は皆同じ服装をして、びろうどの黒服に白く光る平襟を附け、黒の鍔広の帽子をかぶっている。壁の羽目板の黄褐色とテイブルクロスの緋色の間に、六人の服装の白と黒が美しい対照をつくっている。ハーグの「解剖講義」の場合は、中央に一部分を裂かれた屍体が横たわっているだけでも注意を惹き易いが、これは一冊の帳簿が置かれてあるだけで、話されてる問題は、しかも、商売上のことであろうから、最も平板な極めて散文的な効果しか与え得ない筈であるのに、事実は反対で、見れば見るだけ興味の津津しんしんたるものを覚える。というのは、其処には生きた「人間」の心が動いてるからである。五人の顔がそれぞれ特長を持って性格を表わして居り、話されてる一つの問題がそれを強く統一している。中央に片手を上向けて話してる男は恐らく組合の評議員長であろう。その左手に腰を浮かして立ってる男は、性急な性格が眉宇の間に現れ、その後に掛けてる男は一番年長者で温和な性格を示している。右側の二人もそれぞれちがった神経を働かしながら、五人が五人ながら頗るまじめな態度で、いかにも尊敬すべき市民の代表者の印象を与える。召使も作法を心得たつつましさで、忠実に命令を待っている。
 今彼等の間では何が商議されているか知らないけれども、見ているとその話が聞こえるような気がする。此の画もみんなの視線がカンヴァスの外へ向いてることを見遁してはならない。彼等は何を見ながら話してるのだろうか? 想像を逞しうすることが許されるならば、彼等は今アムステルダムの市会議事堂に集まってるのだから、その壁板の反対の側に書かれてある格言に目をやってるのではなかろうか? 其処にはオランダの商業を当時世界的に最も信用すべき状態にまで高めた格言が記されてあった。「明確に示された事に於いては約束を竪く守れ。正直に生活せよ。情実によって判断を誤る勿れ。」これがその言葉だった。この精神がオランダの市民を高潔にし、オランダの交易を信用あるものとした。殊に毛織類の取引はオランダが世界で優位を占めていたから、その評議員たちは、取りも直さず、オランダの実業界を代表する名士たちでなければならなかった。
 そう思って見ると、この画は市民生活の道義的最高精神を主題としたもので、恐らくレンブラントの後期に於いて最も熱情をめて描いた物の一つであろう。新興オランダの市民意識のほかに、北方人・新教徒としての民族的社会的意識も強く感じられる。結局は彼の研究題目なる「人間」の群像を描いたのであるが、そういった気質に特長づけられた「人間」を描いたのである。ハーグの「解剖講義」を描いてからすでに三十一年、「夜警」を描いてからでさえすでに十九年を経過している。それだけ画家の技術は円熟し、性格透視の力量が深まっているのは当然というべきであろう。

    七

 オランダで見たレンブラントは大作と組合員肖像画がおもなものだったから、私の感想も自然その方面のものに制限されたが、しかし、私一個の趣味でいうならば、レンブラントの最大の特色は「人間」研究を目的とした個人的肖像画に一番よく現れているように思える。殊に自画像と近親者(息子ティトゥス、妻サスキア、及びヘンドリキエ)の肖像に。
 というのも、つまりは、彼が「人間」の研究者であったからだと思う。人間の中でも近親者は一番よく理解していた筈であり、更に彼自身をば彼が一番よく理解していた筈であるから、従って自画像が特によくできてるのではあるまいかと思う。考えて見ると、彼がライデンの風車の下の貧しい家の片隅で描き始めたのも彼自身の顔と近親者(その頃は父と母と妹)の顔だったが、それを死ぬ間際まで飽きることなく描きつづけたというのも、まことに驚くべき不退転の精魂ではあった。
 その頃の他の画家たちと同じく、レンブラントにも「聖書」から題材を取った画が少からずある。けれども、いわゆる宗教画と趣を異にする点は、その場合にも、彼は「人間」を描くことが本意であって、その人間の置かれた境遇を「聖書」の伝説から借りたに過ぎないことである。例えばハーグの「殿堂の披露」にしても、(それはハーグの「解剖講義」の前年、二十四歳の時の作品だが)、背景となっている殿堂の内部と大階段、大階段の上にうごめいている三四十人の人物はすべて暗さの中に退き、大階段の下に明るく浮き出している七人(赤ん坊を加えれば八人)の人物が中心である。その中でも、淡青色の長衣の胸に両手をあてて膝まずいているマリアと、彼女から赤ん坊のキリストを取って両手に抱えて、目を天の方へげて膝まづいている金色の袍を着たシメオンが、主要人物である。マリアの傍に片膝を立てて鳩を持っているヨセフ、その前に立って右手を伸ばして祝福を与えている祭司の後姿、その他のラビたちは、従属的人物である。画面の右下のベンチに掛けてその光景を見ている二人の老人も従属的人物である。レンブラントのねらったところは、救世主の生誕を見て安心して死んで行かれるわが身の幸福を神に感謝するシメオンの心情と、シメオンの預言にわが子の偉大な運命を知った聖母の心情である。それが比較的小さい画面に、大幅のような構図で描かれ、明暗法や彩色法に力を入れてるので、性格描写が二の次になってるような印象を与えるが、その他の「聖書」からの画、例えば、ルーヴルの「エマオの晩餐」(一六四八年)とか、ドレスデンの「サムソンの結婚祝宴」とか、ベルリンの「サムソンとデラヤ」とかになると、殊に後の二つの如きは純然たる性格描写の作品である。
 性格描写となると、やはり、肖像画の方が行動や背景の助けなしに幾らでも深く掘り下げて行く手腕を持ってるレンブラントだから、それ等を見て歩いて、天才の成長を跡づけて見ることは、楽しみでもあれば学問にもなる。ロンドン、パリ、ベルリン、ヴィーン、等、等、到る所の博物館に必ず幾つかのレンブラントの傑作は見出せるので、私は他の大家のよい作品を見て歩く間にも、常にレンブラントを捜し出すことを忘れなかった。そうして、その度に、ハーグやアムステルダムを思い出し、遂にオランダはレンブラントによって最も強く印象されるようになった。
(昭和十四年)

底本:「世界紀行文学全集 第八巻 ドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー編」修道社
   1960(昭和35)年7月20日発行
底本の親本:「西洋見學」日本評論社
   1941(昭和16)年9月10日発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月9日作成
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