ヨーロッパとニッポンが初めて接触いたしましたのは、今から四百年ばかり前のことでありますが、その当時に、ニッポンの性格とヨーロッパの性格とが引き起こした摩擦とか、交渉とかいうものを私の見た眼から、皆さんにお話してみたいと思います。
 具合のいいことに、その当時ニッポンへやって来ました、皆さん御存知のいわゆるキリシタン・バテレンという、あれはカトリックのほうの宣教師なのでありますが、神父と申しますような人たちが、それぞれ故国へ手紙をやったり、報告を出したりしていまして、これらが今日残っておりまして、当時の事情を知るために非常に大切、貴重な文献となっております。
 ニッポンにも、この当時の事件とか事情とかを書いたいろいろの手記、記録というものがありますけれども、残念ながらニッポン製の資料というものは役に立たないのであります。殆んど駄目であります。
 それと申しますのが、ヨーロッパなどの外国の人たちの観察の方法と、ニッポン人の観察の仕方とは、本来的に非常に差異がありまして、ニッポン人はどうも物事を大いに偏って見る傾向がありまして、たとえば烈火のごとく怒ったとか、ハッタとにらんだとか、そんな風に云ってしまって、それだけで済ましてしまうという形が多いのであります。物事をそれらの物事そのものの個性によって見る、そのもの自体にだけしかあり得ないというような根本的にリアルな姿を、取得しておらないのであります。そういうことが、まことに不得意なのであります。
 でありますから、実例をとって申しますと、織田信長が本能寺で殺されました時のことを、「信長記」という本がありまして、それに書いてあるのを読んでみますと――
「明智光秀の軍隊はやにわに亀岡から下りて参りまして、本能寺を取り囲んで、ドッとばかり勝鬨かちどきをあげて、弓、鉄砲を打ちこんだ。本能寺のほうでも眼をさまして、中から豪傑連中が飛び出して、明智勢のなかに斬り込んだ。初めのうちは、明智勢がたじたじとなりましたが、そのうちにそれらの連中が討死しますと、だんだん寄手の勢いが強くなった。織田信長までが寺の廊下へ現われまして、片はだ脱いで槍を持ち出して、近づくやつを突き落した。そのうちに矢が片腕に当りましたので、部屋の中央にもどって来て、火をかけて自殺した」
 ――こんな風に書いてあるのであります。
 ところが、この当時に、この本能寺という寺のあった所から、約一丁ばかり離れた場所に、京都に於けるたった一つのキリシタンの教会があったのでありますが、この教会におりましたヨーロッパ生れの神父たちは、真夜中に戦争らしい物音に眼をさましたのであります。それからまァ、いろいろと避難の用意などをあれこれと致しまして、夜の明けるのを待ちまして、もっともたゞ黙って待っていたのではありません、尽せるだけの手段を尽してあらゆる方面から情報をあつめたのであります。可能な限りの探査を行ったのであります。全然、落ちついていたわけであります。これらの人々によって収集されたニュースは、適当にまとめられまして、直ちにそれぞれの本国に報告されたのであります。
 その報告によりますと、こういうことになるのであります。――
「明智の勢は、本能寺を取り囲んで、それから本能寺のなかに乗り込んで行ったのではなく、本能寺のほうでは謀反などという嫌疑すらも持っておりませんでしたので、誰も手向ってゆく者がない。どこに一人も抵抗する者もなく、どんどんと這入って行って、信長のいるらしい部屋のところまで来てしまった。信長は顔を洗って手拭いで拭いていました時に、そこに、先頭にはいって来た奴が弓を射った。その矢が背中に刺さりましたので、ぐっと振り向くとその矢を抜きとって、薙刀なぎなたをとるとしばらくの間戦いました。そうしていると今度は、鉄砲の弾丸が片腕に当りましたので、寝所のなかに這入って切腹した」――という説と、「寝所のあたりに火をつけた」という説と二つあるのでありますが、その直後のことは誰も見ていたわけではありませんから、まるっきり分らないのであります。
 ところが、同じこの事件についての、キリシタン・バテレンの連中の報告というのが、実に精確きわまるものなのであります。その証拠があるのであります。彼等の報告は今日もいろいろな形式で書物になって、私たちの手にはいりますから、それをお読み下さるとお分りになるのでありますが、そういうものと、ニッポン人としては珍らしくリアルな手記を残している一人の人間の書いていることとを比較されますと、私の申すことが御諒解になれると思うのであります。
 ここで私の申します、リアルな記録を残した、例外的な一人のニッポン人というのは、明智方として、本能寺へ寄せた軍勢中の大将の一人で、ホンジョウ・カクエモンという男のことなのであります。彼の覚書によりますというと、信長の死の前後は次のようになっております。これは手記でありますから、この部分もごく簡単であります。――
「本能寺のなかへ乗り込んだ時には、相手のなかで誰も手向って来る者がない。或いは自分を仲間だと思っていたのか、自分が這入っていっても手向いする者がなかったのか。それだからと云って、寝ている者もなかったし、気を配ってみたけれども鼠一匹すらも姿を見せなかった。せめて二、三人でもと思ったが、おどり出して抵抗して来る者もなかった。そもそも抵抗というものを何ひとつ感じることなく、信長の寝所へゆきついたのであった」――
 こんな風なことが誌されております。
 この一例でも分って頂けると思うのでありますが、すこしも他に煩わされることがなく、自分自身の体験そのものを、明確に書き上げた日本人の手記というものは、滅多にないのであります。これなどは実に特別な、特殊の例なのでありまして、殆んど、いや全ての者は、物事の本態を見るということを忘れているのであります。いつでも他人の思惑が考えられていまして、独立の個人の自由な考えとか、観察方法とかは許されていないし、許されなければブチ破ってやろうという人物はいなかったのであります。ニッポン人にとっては、毎時でも、もっと一般的な、嘘があってもかまわぬから一般的でさえあればいいというような調子がお得意なのでありまして、相も変らず、ハッタとにらんだとか、烈火のごとく憤ったとかいう云い方、そういう方式、どうにでもなるというような一般的な観察で片づけてしまおうとする考え方、従ってそのような手記、記録がぞくぞくと現れているのであります。むしろ、そればかりであります。
 このような観察の仕方にくらべますと、ヨーロッパ人たちの物事の見方というものは、個々の事物にしかない、それぞれのその物事自体にしかあり得ないところの個性というものを、ありのままに眺めて、それをリアルに書いておりますので、それだけに非常に資料価値が高いのであります。そのリアリティというものは尊敬すべきであります。
 今日、私たちニッポン人というものが、外国のいろいろな物事の真似をする時には、この意味での外国の性格、そうしてニッポンの性格というものをよく知り、殊に申したいのは、ニッポン人にはこのような性格上の欠点があるということを、よく知っておく必要があるということであります。
 しかし、それは今日の話でありまして、この話の当時にありましては、今私が申したような、個性に即した物事の見かたとか、観察の仕方というようなものは、驚くべきことには、婦女子の感覚だと云われていたのであります。そして、なされていたのであります。それはどういうことかと申しますと、その当時の考え方では、男子たる者は、もっと大ざっぱに物事を考えなければいけないので、こういった細かい物事にはわざと眼をふさいで、気がついていても気がつかない振りをするほうが立派なのだ、という人生観がずーっと流行していたからであります。それが絶対的な権威をもったニッポン的人生観であったわけであります。こういうバカバカしい事が、ニッポン人一般の、物事の観察法、世界観といいますか、人間観察というものを大変に遅鈍にさせまして、実態にふれることのない、抽象的な考え方をはびこらせることになったのであります。抽象的にならざるを得なかったのであります。弱いのであります。
 前にも申しました通りに、ニッポンと西洋とが接触しましたのは四百年ほど前のことでありまして、キリスト紀元の一五四三年、十六世紀、ニッポンで申しますと天文十二年であります。ちょうど、足利末期の戦国時代の始まりかけた時であります。但しこの時は、ヨーロッパ人は初めからニッポン本土へ来ようと思っていたのではありません。シナの船が、暴風に吹き流されて、種子ヶ島へ漂着したのであります。そのシナ船には、ポルトガル人が三人乗っておりました。
 この三人のポルトガル人が鉄砲を持っておりました。この時にニッポンに初めて鉄砲が伝ったのであります。これが例の、われわれが種子ヶ島と云っておる、あれであります。これはまた、ヨーロッパとニッポンが接触いたしました初まりなのであります。
 御存知のマルコポーロでありますが、彼の手記に書いてあるニッポンは、ジパングということでありまして、黄金で出来あがっている国だということになっております。そのように彼は報告しておるのであります。この報告によってニッポンへやって来る人間が、大変に多くなったのであります。そういう志を持つヨーロッパ人が急激に増加したのであります。
 けれども、皆さん御存知のいわゆるキリスト教というものが、このニッポンへ渡来いたしまして、そして、本当の意味でニッポンと外国とが政治的に接触いたしましたのは、それから六年ほど経ちました一五四九年の、七月十五日のことでありますが――これはキリスト教の歴史という点で考えますと非常に大切な日なのであります――、この日に、フランシスコ・ザヴィエルという人物が、ニッポンの土地に初めて到着したのであります。
 さて、この事実についてでありますが、われわれが特に記憶しておかなければならぬことがあるのであります。それは、この時に初めて日本の土をふんだ、このフランシスコ・ザヴィエルという宣教師は、当時、ヨーロッパにおきましても、まれに見る高僧なのでありまして、ジェスイットという宗派は、御存知のとおり今日でも残存致しているのでありますが、この宗派の開祖であるロイラーなる人物の最も親密な協力者であり、また最も信頼された同志であり、自他ともに許した最高の学識を有した高僧であったのであります。とは申しますものの、このジェスイット派と申しますのは、十六世紀の初頭にいたってカトリックが腐敗いたしまして、それに対抗しそれを改革しようとして、例のマルティン・ルーターが新教(プロテスタント)を樹立した、その結果としてカトリックの名声が地に墜ちました時に、こんなことでは不可いけないというので、真のカトリック精神、根本的なものへ還った意味でのカトリックの精神を実質的に回復させなければならぬというので、イエス・キリストの弟子という標語を押し立てて組織されたところの、非常に強力な同志的な結合をもっている宗教団体でありまして、貧乏、童貞、服従という三つの徳目をモットーといたしまして、人間個人の一切の私利とか私慾とかいうものを捨離して、神に仕えるという宗教であります。この宗派のこのモットーは大変に厳しいのでありまして、戒律というようなものが厳しいものであるなかでも、このジェスイット派は、特に厳格な戒律を守るという誓言によって成立した宗派なのでありました。この宗派が確固としたものとなりましたのは、フランシスコ・ザヴィエルがニッポンに到着しました時の九年前、すなわち一五四〇年に到りまして、初めてのことなのであります。
 もともと宗教と申しますものは、長年月にわたってつづいておりますと、どうしても堕落いたしますものですけれども、その例はまことに多いのでありますが、このように宗派の結成の初期といいますものは、何しろ非常に熱狂的なのでありまして、従ってニッポンへ初めて参りましたフランシスコ・ザヴィエルは前に申したとおりでありますが、その後にいたって続々としてやって来ました神父たちも、いずれもヨーロッパにおきましては、最も高徳な僧侶である、ということを記憶しておかなければなりません。
 これらのことを頭の中へ入れておきますと、ニッポンがその当時に於てヨーロッパの影響をはげしく受けまして、殊に精神的には驚天動地というような感動を受けた面がありましたのも、たゞ今申すとおりに、ヨーロッパでもりぬきといった神父たちがそろって、ニッポンへやって来ていたという、特殊な事情があったからなのでありまして、彼の地の宗教事情はともかくとしても、ニッポンにとっては、これは望外の仕合せであったのかも知れないのであります。
 ところで、このフランシスコ・ザヴィエルという人物でありますが、この教父がどうしてニッポンへやって来るようになったかと申しますと、実はザヴィエルはインドで布教するために東洋へやって来ておったのであります。ですが、インドは御承知のとおり熱帯地方でありまして、インドの人間という者は、非常な怠けものでありまして、熱い熱いでどうも仕方がないのですから同情しますが、新しい知識などを求めようという意欲はまず持ってないと云ってよいのであります。もう一つ、インドにはごく古くから伝っている宗教が根強くはびこっていまして、その力はひろいので、新しい宗教を受けつけることをないのであります。
 さすがのフランシスコ・ザヴィエルも、この有様で、悲観しておりますと、たまたま一人のニッポン人が彼のところへやって来たのであります。これは弥次郎という人間であります。
 この弥次郎が、どうしてインドへやって来たのかと申しますと、彼は鹿児島の人間であります。或る時、人を殺しまして、役人に追われて、お寺へ逃げこみました。何んとかして助かりたい。ところが、彼はポルトガルの一商人と友だちでありましたので、そのポルトガル商人に頼みこみまして、鹿児島の港へポルトガル船が碇泊しました時に、うまく乗り込み、海外へむかって脱走しようという手はずをととのえたのであります。その商人から紹介状をもらって、港へ出かけたのですが、ポルトガルの船が二艘来ておりました。この二艘の船の船長は、フランシスコ・ザヴィエルを非常に尊敬していたのでありました。
 船長は弥次郎の話を聴きまして、大いに同情を催したのであります。船長は、弥次郎をザヴィエルに紹介してやろうというので、船へ乗せて、マラッカへ連れて参りました。
 弥次郎はザヴィエルに会いまして、その人格に傾倒したのでありますが、ザヴィエルのほうでも、弥次郎を見ましたところが、今まで眼の前に見ていた熱帯の土人には見ることの出来ない知識、記憶力、礼儀正しさ、を認めただけでなく、その上にいつまでも何かを知ろうとする真面目な努力のひらめきがあることが分りましたので、ニッポン人という人間がこのような人種であるのならば、このニッポンこそは、自分の伝道すべき地域であると考えたのでありました。ザヴィエルは、この弥次郎という人間が、実にどうも誠心誠意キリストの教えを守るので、とても吃驚びっくりしたのであります。彼は弥次郎を、インドのゴアという所にあるキリスト教の学校へやって勉強をさせたのでありましたが、弥次郎はもともとポルトガル人の友だちを持っていましたし、ゴアへ参りましても、普通のニッポン人にくらべますと驚くべきほど早く、たちまちにしてポルトガル語が上達いたしました。また、キリスト教の趣意を理解することにおきましても、長足の進歩をしたのでありまして、そのゴアの学校でも並ぶ者のないほどの、最高の学者になったのであります。
 こんな具合ですから、ザヴィエルは、弥次郎に対して絶大な信頼をよせていたのでありますが、どうも併しこのことの為に、今日になりましてもニッポンの歴史家たちは――主としてキリスト教の歴史を書いておる歴史家のことを云うのでありますが、そして大体に於てはキリスト教徒のほうが多かったのでありますけれども――ザヴィエルを、この上もなく信頼しておりましたので、ザヴィエルの説をもそのままに呑み込むことが多く、弥次郎の人格をもまた非常に高く買っておるようでありますけれども、われわれ文学にたずさわっております者の眼から見ますと、どうも、そういう風には思えないのであります。
 この弥次郎という青年は、いろいろな点から調べてみましても、どうも、そのっきりした身分とか身許とかが、分らぬのであります。明確なところが少いのであります。ポルトガルの商人と親しい人間であったことは確からしいのでありますけれども、ザヴィエルがニッポンの事情について種々と聴きました時にも、宗教のことなどについては、まるで何も知らなかったのであります。従ってニッポンの仏教についてなども何も知らない、無知そのものでありましたので、ザヴィエルが非常にがっかりしたということが、ザヴィエル自身の書簡のなかに書かれておるのであります。ところで、問題がひとたび貿易に関係して参りますと、この弥次郎が実に正確な知識を持っているのであります。このことから判断してみまして、彼が多分商人の出であったろうということが分るのであります。年は三十五、六歳であったということであります。
 思うにこの人物は、非常に世慣れた遊び人でありまして、いろいろと変った境遇に順応することの出来る処世の術を、かなりよく心得ておったのだろうと思うのであります。ですから、郷に入ったら郷に従えというわけで、ザヴィエルに会いますと、彼はこの教父に順応するために多いに努めたのでしょう。また、彼がザヴィエルに傾倒したというのは、本当のことであろうと思いますが、それは、人を殺すぐらいの人間というものは、非常に人に惚れっぽいのでありまして、その点からしても彼がザヴィエルに参ったろうということは肯けるのであります。弥次郎は、キリスト教の教えのなかで何に一番感動したかと申しますと、それはキリスト受難に対してなのでありまして、思うにこの男は一種のボヘミアン的の性格を持っていたに違いないのであります。このような弥次郎がキリストの受難に心を傾けたということ、その事実だけは、一つの事件として肯けるのでありますが、弥次郎はキリスト教徒になったのではないのであります。
 初めのうち、ザヴィエルがそばにおりました間は、真面目な顔をしておりましたけれども、間もなく彼はグレ出したのであります。後になりますと、例の八幡船ばはんせんという、半分は海賊みたいな、半分は貿易をやるような船に乗りこみまして、シナへ這入りこんでいってニンポーという所でシナ人に殺されたという記録が残っております。
 こんな人間でありますだけに、この弥次郎という男は非常に礼儀正しいのです。もともとニッポン人というものは、実際は礼儀正しいところがあるものなのでありますけれども、元来よい人間というものは、むしろ却ってザックバランなものなので、そんなに糞真面目に人と応対などはしないものであります。弥次郎は、おそらくはザヴィエルに対して、何事につけても非常にしかつめらしい態度で応待しておったんだろうと思います。ザヴィエルはそれを大変に信用しまして、おそらくニッポン人というものについての最初の観念におきまして誤っておりましたので、ニッポン人を見る眼に誤解が起ったんだろうと思われる節があります。
 ここにまた面白い事があるのでありますが、私がなぜ弥次郎をそんな人間であるかと申しますかというと、たとえばザヴィエルが――
「ニッポン人は、私が行って布教をしたら、すぐにキリスト教徒になるだろうか?」――という風に弥次郎にたずねましたところが、弥次郎が答えまして――
「いや、ニッポン人というものは非常に理屈っぽい国民で、すぐにはキリスト教徒にはならぬ代りに、道理というものを飲みこめば、改宗します」
 ――という風に答えております。こういうところは、ニッポン人観というものが大いに正確でありまして、仏教の知識が何一つなかったと思われる弥次郎にも似合わない、人間観察の正しさを見せております。
 また、ザヴィエルがポルトガルの船に乗ってニッポンに行こうと申しました時に、弥次郎はそれに答えて、――
「ポルトガルの船乗りというやつは非常に好色で、ニッポンの港へやって来てもとても評判がよくないから、あんな船へ乗っていったら、キリスト教の名声を落します。ですから、シナの船に乗りなさい」
 ――と云って、シナの船に乗せたということであります。こういうことも、ニッポンの歴史家は、弥次郎がこんなことを云ったことは一種の伝説だろうと軽く片づけていますけれども、私はそこに弥次郎の本音があるのだろうと思います。弥次郎は、非常に遊び人的な風格を持った人間でありますから、そういう船乗の生活というものがニッポン人に反撥されるということは、非常によく、実感をもって、知っておったのだと思われるのであります。
 この弥次郎に伴われまして、フランシスコ・ザヴィエルはニッポンに参ったのでありますが、ニッポン人は大歓迎をいたしたのでありまして、初めのうちは押すな押すなの繁昌というわけであります。何しろ七人ほど黒ん坊を一緒に連れて参りましたので、その黒ん坊を大変珍らしがってニッポン人が押しかけました。
 サツマの殿様の島津さんに謁見いたしまして、布教の許可を受けることができました。この時にザヴィエルが、鹿児島のフクソウ寺のニンジという高僧と友だちになりました。このフクソウ寺というのは、鹿児島の島津家の菩提寺だそうで、当時百人ほどの禅僧がおったと申しますから、非常に大きなお寺、サツマで最大のお寺であり、そこのニンジという禅僧は、サツマきっての傑僧であったのだと思います。
 ザヴィエルは、このお寺を借りまして、キリスト教の説教を始めました。
 フランシスコ・ザヴィエルは、フクソウ寺の傑僧ニンジと、毎日のように顔を合せていますし、いろいろなことで友達になったのでありますが、ニンジとは種々の話題をつかまえて話をしておりまして、それが記録みたいなものに残っております。
 ザヴィエルが或る日、フクソウ寺へやって行きますと、百人ばかりの坊主が坐禅をやっておるところでした。これは変った風景に見えたことでありましょう。
 ザヴィエルは、
「あれは、一体、何を為ているのですか?」
 と聞いたのであります。
 ニンジは、
「あゝ、あれですか、あれは瞑想しているのです。目下、苦行をしているのですよ」
 と答えたのであります。
 これがザヴィエルには、なかなか合点が行かない。
「瞑想と云ったって、あんなふうなことをしていて、そもそも、何を考えているんですか?」
 と聞かざるを得なかったのであります。
 この問いを耳にすると、ニンジはにっこりと笑いまして、
「いや、あの連中のことですから、どうせ碌なことは考えているわけがありません。おおかた、明日の御布施がどのくらい集まるだろうとか、出かけて行った先きの檀家で、どんな料理が出るだろうとか、そんなことをでも考えているんでしょう。大したことは考えていませんよ」
 というような返事を与えたのであります。
 この答えはまことに象徴的なものでありまして、禅宗の坊主としては、なるほど云いそうなことであります。尤もな話なのであります。ニンジというこの坊さんが、当時のいわゆる傑僧であり、また事実上でも高僧と云われているような人物でありますだけに、このような言葉には意味があるのであります。大体が、禅というものは人間の持っている人間性、その全べてのものを、そのままに肯定する、というところから始まっているのであります。ニンジも、人間が行動するところのピンからキリまでを肯定する、肯定しようと努力するのであります。彼等にとっては、この人間性の肯定ということが、そもそもの出発点なのであります。
 禅はこのように考えておりますから、例えば人間の強さも弱さもそれらをとにかく全部的に肯定してしまう。その上で、その肯定という基本的努力の上で、自分の自分一個の安心の道を講ずるのであります。安心の世界を見出そうと努めるのであります。
 他人というものには構わずに、自分だけの悟りを求めるというのが禅の建前なのでありますが、それだけに逆にまた他人に対しては寛大な態度をとるのであります。一口に云えば鷹揚になり得るのであります。
 ですからニンジは、しかつめらしい顔をして坐禅を組んでいる、修行中の僧侶たちが、そのままで行い澄ました境地にいるのだ、というふうには、云い得なかったのでありまして、たとえ彼等が人間本来の弱さからして、どんなに俗なことを考えていたにしても、それはそれとして咎めるべき筋合いのものではないと考えているのであります。ごく寛やかな見方をしている訳であります。そこで、そういうことを云ったのであります。
 すると、これを聞いたザヴィエルのほうは、非常にびっくり致しました。日本の坊主というものは、苦行の最中にも、宇宙とか神とか真理とかいうようなもののことは一寸も考えずに、瞑想の間にあってお金のことや料理のことを考えているのである、というようなことを直ぐに本国へそのまま報告した、ということが記録に載せられております。
 また或る時に、ザヴィエルがニンジに向いまして、
「貴方は一体、年齢が若い頃がよろしかったか、年をとってからのほうがよろしいか?」
 ということを聞いたことがあります。
 ニンジはそれに答えまして、
「いや、若い時のほうがよかったですね。若い時には元気があるし好きなことも出来たりするし……」
 と云いました。
 こういった問答があったのでありますが、ザヴィエルは続いてこんな質問をしているのであります。――
「それではですね。今、一人の船乗りが船に乗って、Aの港からBの港へ行こうとしているとする。そういう時に、彼が元気に任せて荒海へ乗り出して暴風にもまれて行くのがよいか、それとも何処かの港へまず近寄り、そこで段々に港から港へと伝わって行くほうがよいか、どちらがよいだろう?」
 これを聞くとニンジは笑い出してしまいました。そして答えた。
「そりァそんなことは極っていますよ。云うまでもありませんよ。港を目指して行くのがいいです。港というものが判っきりしておって、自分が歓迎されるということが分れば、誰だってそこへ行きます。けれども、私は、私の船がどこへ行くのか知っていないんです。自分の行く先が分らないのですから、貴方の云うようなことを聞かれても、私には返事が出来ませんよ」
 こんな答だったのであります。
 ニンジという人は、非常にザヴィエルを尊敬いたしておったのです。それからまたカトリックにも大いに傾倒いたしたのであります。そして自分もカトリックになろうと思って、大変に苦悶いたしたのであります。
 ニンジの帰依しておりました禅宗というものを考えてみますと、この宗教は、人生をそのままで肯定して、その上で自分一個の悟りをひらこうという目的で、坐禅などをいたしまして、観念だけの上で安心をはかろうといたすのであります。死生の大悟などと云いまして、われわれが見ますと、禅の高僧などといいますと、如何にも悟りきった人間であるようでありますが、高僧であればあるほど、そういう自分自身の悟りが未熟であることを知っておるのだろうと思います。そういう悟りの場に於ても、仏教には実践がないのでありますから、具体的な手がかりというものはないのであります。自分が何をしておるか分らないのであります。
 ところが、ザヴィエルのほうは、貧窮ということを第一のモットーといたしまして自分自身の全生涯をそれで計っております。そして、他人の幸福のためにすべてを捧げて生きようというふうに、彼の生涯はそれにかかっているのであります。
 そういった、実践の目標の判っきりしている宗教の前へ出ますというと、禅宗の如き宗教は、全然意味をなさないのであります。自分自身が高僧であればあるほど、悟りの内容の空虚さが分って来るのでありまして、その点でニンジは非常に苦しかったのであります。
 ザヴィエルが帰国しました後で、彼の弟子のアルメードという布教師が来たのでありますが、そのアルメードに向って、ニンジは、
「自分は禅僧としての地位と名望のようなものがあるので、公然とキリスト教徒になることは出来ないが、どうか自分に洗礼をさずけて貰えないだろうか。そして、自分は殿様の菩提寺の坊主をやっているのだから、殿様の死んだ時には、自分としては、お寺へ葬らなければならぬ。それは仕方のないことなのだから、そいつだけはどうか勘弁して呉れないか」
 というようなことを云って頼んでいる。
 そうするとアルメードは、
「それは不可いかん。貴方は、名誉とか地位とか、そのようなものは、すべて捨ててしまいなさい。すべてを捨てなければ、洗礼を授けるわけにはゆかない」
 と判っきり答えています。それでとうとう、ニンジは洗礼を授けて貰えなかったのであります。アルメードは帰国し、再来し、さらに三度目にサツマへ参りました時には、ニンジは死んでおったのでありますが、死ぬ時に、洗礼を受けないで死ぬのはまことに残念だ、という遺言のあったことをアルメードが聞いていることが、伝わっております。
 この禅僧とカトリック僧侶との交渉は、もう一つあるのでありますが、フランシスコ・ザヴィエルは、ニンジに会ってから後に豊後ぶんごへ行きました。そうして、フカダジという禅僧と会っているのであります。この時に、フカダジは、ザヴィエルの顔を見まして、
「あなたは何処かで見たことのある顔ですが、如何がですか、私の顔に見覚えはありませんか?」
 と聞いたのであります。
 それを聞いて、ザヴィエルはびっくりしました。一度もこのニッポン人とは会ったことがない、従って顔を見たことがないのでありますから、驚くのも無理はありません。そこで次のように答えたのであります。
「いや、あなたの顔は見たことがありません」
 この答を聞いて、フカダジは大笑いをしたのであります。そして自分の寺へちょうど来ていた、ほかの禅僧のほうを向きまして、
「この人は、おれの顔を見たことがないなどと云うが、大変な嘘つきだよ」
 というようなことを云ったのであります。話しかけられた禅僧もフカダジの云うことが分ったような顔つきをしていましたが、ザヴィエルには納得がいかないのであります。これは納得のいかないのが当然なのでありまして、ザヴィエルは、
「これはおかしなことを聞くものだ。私は曾つて嘘というものをついたことがない。今も嘘をついた訳ではないのだ。どうして、私を嘘つきだなどと云うのです」
 となじったのであります。
 フカダジはそう云われて、こんな答をしております。
「あなたは、そんなに白っぱくれていられるけれども、今からちょうど千五百年前に比叡山で、私のために金を五百貫見つけて呉れた商人というのが、あなたじゃありませんか。それを忘れて貰っちゃ困る。それともあなたは、ほんとに忘れたのですか?」
 こんな言葉であります。
 これは、そもそも禅問答なのであります。
 ザヴィエルのほうは、そんなことは頭のなかに初めからはいっていない。禅問答の要領などというものは、御存知ないのであります。これは知らないのが当然であります。まるっきり問題になっていない。ですから、このフカダジという坊主を、大変な出鱈目をしゃべる奴だと思ったのであります。そこで、
「あなたは一体、幾歳になるのですか?」
 とフカダジに聞きました。
 フカダジは答えて曰く、
「私ですか、私は五十二才です」
 すると、ザヴィエルは、
「五十二才という人間が、千五百年前に、比叡山で金を貸すことが出来るということは、おかしいではありませんか。そんなことはあり得ない。あなたは、どうしてそんなことを云うのですか」
 と問い詰めたのであります。
 これには禅僧もすっかり参ってしまったのであります。
 つまり、禅には禅の世界だけの約束というものがあるのでありまして、そういった約束の上に立って、論理を弄しているものなのであります。すべては、相互に前もって交されている約束があって始めて成り立つ世界なのであります。
 例えば、「仏とは何ぞや?」と問いますと、
「無である」「それは、糞掻き棒である」とか云うのです。
 お互いにそういった約束の上で分ったような顔をしておりますけれども、それは顔だけの話なんであります。分っているかどうかが分らないのであります。
 ですから、実際のところは、仏というものは仏である、糞掻き棒は糞掻き棒である、というような尋常、マットウな論理の前に出ますというと、このような論理はまるで役に立たないのであります。そして、このような一番当り前の論理の前に出まして、それを根本的に覆えすことの出来る力がどんなものだか、どこにあるかと云いますと、それは実践というものと思想というものが合一しておるところにしかないのであります。
 ところが、このような生き方は、禅僧にとってはまことに困難なのであります。それで、禅僧というものは、約束の上に立っている観念でだけものごとを考えているばかりでありまして、実践がない。悟りというようなものを観念の世界に模索しておるのでありますから、智力というものに頼ってはいても、実際の自分の力なるものがどのくらいあるのか、分っておる人間はいないのであります。ですから、カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動の前には、禅僧は非常に脅威を感じるのであります。自分の実力のなさ、みすぼらしさを感じるわけであります。そうして、禅宗を信じる者が、僧侶でありながらカトリック教へ転向するということが、大いに流行したのであります。それは、今日、われわれが想像いたしますよりも、遥かに多数なのであります。これは今日から見ますと驚くべきことではありますけれども、事実なのでありまして、それは記録に残っておるのであります。
 このフカダジとの問答などがありましてから、ザヴィエルは鹿児島を去って山口へ行きました。
 山口で布教をいたしましてから、さらにザヴィエルは京都へ行ったのでありますけれども、その当時の京都は、戦争のまっ最中でありまして、一体ニッポンという国の主権がどこにあるのだか、それが分らないという目茶苦茶な状態にあったのであります。これにはザヴィエルもまごついたのであります。併し、宣教師一流のしつっこい、熱心な探索によりまして、ようやくのことで、足利将軍の逃げまわっている姿を見つけ、つかまえて、ニッポンに布教を許してくれるようにと頼んだのであります。こいつは当時にあっては大変な仕事であったでありましょう。とにかく、ザヴィエルはそれをやってのけたのでありますが、こんなところにもカトリック僧の実践力をうかがうことが出来るのであります。
 ところで、このザヴィエルの布教の許可の願いに対して、足利将軍のとった態度というのがはなはだ妙なのであります。ザヴィエルはその時に乞食みたいな恰好をしておりました。一見したところ、如何にも見すぼらしい僧侶でありまして、どうもこれが高僧とは思えない。全然、威厳というものがないのであります。これには将軍ががっかりした。ですから将軍のほうは、
「お前は、おれに対してそういうことを頼んでいながら、そもそも贈り物というものを持って来ているのか?」
 と問いただしました。ザヴィエルは、
「贈り物は山口においてあります。ここまでは、あまり長い旅行だったものですから、持って来ていない」
 と答えたのであります。将軍はそれを聞くと、
「贈り物がなければだめだ」とはねつけたのであります。
 ザヴィエルは、こう云われて、諦らめてしまいまして、山口へ帰ったのであります。ザヴィエルはそこで考えました。――もう将軍に会っても、こんな混乱した時代じゃ意味がない、会ったって無駄だ。贈り物も将軍なんかにはやらない、山口の殿様にやってしまおう。――
 ザヴィエルは贈り物を山口の殿様に呈上することに極めましたが、前に将軍にあって懲りたことがありますから、今度は身なりに気をつけました。
 きらびやかに盛装をいたしまして、山口の殿様に会い、贈り物をすると、殿様のほうではその威容に打たれまして、尊敬の念をおこしました。そうして直ぐに、布教の許可をもらうことが出来たのであります。盛装と贈り物がモノを云ったことになります。
 それから、ちょうどこの頃のことでありますが、例の豊後と申す土地へ、ポルトガルの商船が一艇やってまいったのであります。もっとこまかく申しますと、豊後の府内というところの直ぐそばにある臼杵(ウスキ)と申す所へ参ったのであります。
 このポルトガルの商船のなかで、東洋の布教師であるフランシスコ・ザヴィエルが山口に来ているという話だから、一つ呼ぼうではないかということになりました。使いの者の言葉を聞いて、ザヴィエルが臼杵までやって参りますと、船のほうでは、それ東洋布教師が来たのだ、というわけで、船中の全員がそろって盛装して出迎えに行ったのであります。
 一方、ザヴィエルのほうはどうかと申しますと、いつものとおり乞食に似たような姿恰好をいたしまして、馬へもカゴへも乗らずに徒歩でやって参ります。それだけならまだいいのでありますが、ザヴィエルは、旅の途中で熱病にかかりまして、身体に熱はあるしだるいしという訳で、フラフラしながらやって来たのであります。
 みんなが、
「どうか、馬に乗って下さい」
 と云ってすすめても、云うことを聞きません。仕方がないから出迎えに来た盛装の連中も、みんな馬に乗っていましたのに、わざわざ降りてしまいまして、そうしてザヴィエルの後からぞろぞろといて参ります。そうして、いよいよポルトガルの船の碇泊をしております所まで参りますと、六十三発の大砲をぶっ放しました。
 臼杵の城内では驚きました。そら、ポルトガルの船が海賊と戦争を始めたというので、あわてて兵士をくり出しまして、あわてて救援に参ったのであります。けつけて行って聞いてみると、案に相違して、今、高僧が来着したから、礼砲を打ったのだという話であります。駛けつけた連中は、非常に吃驚りいたしまして、帰ってそれを城中へ報告します。
 臼杵の殿様はそれを聞いて、そんなにみんなが尊敬している高僧ならば、ぜひ会いたいものだというので、また使いが飛んで、ザヴィエルは臼杵の殿様に会うことになりました。
 この殿様というのが、大友義鎮よししげ、後に宗麟そうりんと名を変えた人であります。この対面の時というのが、実に大変なものでありまして、ポルトガル商船の一行は、豪華版をひろげたのであります。
 まず行列の最前列には、楽隊がずらりと並び、その後には金モールや銀モールの美しい、凛々しい服を身につけたポルトガル人が騎馬で、並んだのであります。次ぎにはザヴィエルが乗物に乗りまして、またその後には船長が土産物を沢山に盛りあげた姿で、乗り込んで参りました。
 この土産物を差出して、謁見ということになったのであります。その威儀の堂々たるところに、大友宗麟は感動してしまいまして、直ちにキリスト教の布教を許したのでありますが、それだけでなく、この様子を見て、即時その場で改宗する者まで出て来ました。
 この時ザヴィエルが約一時間ぐらいの説教をやっておりますと、その短い間にどんどんと改宗者が現われて参ったのであります。これはちょっと驚くべきことであります。その後もキリスト教の伝播は非常に早かったのであります。が、とにかく、この最初の時の早さというのは大変なものであります。
 そこで、ニッポン人は、威風堂々として、意気の盛んな儀容を示さなければ、信用もしなければ、尊敬もしてくれない。そして、音物いんもつをやらなければ、贈り物をしなければうまくゆかない。このようなことを悟ったのでありますが、こういうことは全部、本国へ云い送っているのであります。
 また、ニッポン人は非常に文化が進んでおり、知識慾が旺盛であり名誉を重んじ、寛仁大度である、非常に誠実な国民であるけれども非常に好奇心が強い、とも云われておりました。何か珍らしい物をもって行けば、ニッポン人の好奇心をそそり、魅力となるであろう、黒人でも一緒に連れて行ったらよかろうなどと書いた手紙などもあります。
 或る時、ポルトガル人がこのニグロの一人を信長のところへ連れて行きました。信長はこのニグロを見て吃驚りいたしました。信長という人は非常に理智的な人でありまして、ニッポンには珍らしいくらい、現代的な知性を持っていた人物でありますが、これは嘘だろうというので、裸にしまして、ふんどしまで取らして、手で身体を触ってみましたが、どうしても分らない。今度は、お湯で洗わしてみても色が落ちない。こりゃア本物だというので、一緒に連れて来た僧からこのニグロを譲りうけて、これを自分のお茶坊主みたいにして使っておったそうであります。
 これはニッポンの記録にも残っておりますし、また本能寺の変の時には、このお茶坊主が刀を抜いて戦いまして、本能寺が落城いたしますと、今度は信長の子供の信忠の二条城に行って、明智勢を向うにまわして、戦いました。明智勢は彼の刀をもぎとり、投げ捨てて、お前なんかは殺さないと云いました。そこで捕虜になりまして光秀のところへ連れて行ったのですが、ニッポン人ではないから勘弁してやるということで、教会のほうへ帰してやったそうであります。その記録は今日も残っております。
 どうも、尻りきれとんぼですが、時間が参りましたので、結論がありませんが、この辺でやめておきます。
――歴史に関する或る講演・終――

底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「歴史小説 創刊号、第一巻第二号」
   1948(昭和23)年10月1日、11月1日発行
初出:「歴史小説 創刊号、第一巻第二号」
   1948(昭和23)年10月1日、11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:oterudon
2007年7月15日作成
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