五月九日のことだ。この日林町のモミヂといふ旅館で、呉清源ごせいげん八段をかこんで、文人碁客の座談会があつた。豊島与志雄、川端康成、火野葦平に私といふヘボ碁打である。呉八段も今度例の神様からはなれたので、この座談会では気軽に神様の話もできるだらうと、私はそれをタノシミにしてゐたのである。
 去年、本因坊薫和くんわ・呉清源の十番碁の第一局目が火蓋をきつたのがこの旅館で、私はそのとき観戦記者として対局の前夜から対局者と一しよにこの旅館へカンヅメにされたことがあつた。その晩、本因坊と私は定刻にモミヂへ来たが、呉八段は神様と一しよに行方不明で、主催者の新聞を慌てさせたものであつた。その当時の呉八段は、神様のせゐで、見る目も痛々しいものであつた。神様は信者もへり、後援者もなく、ケン族五六名ぐらゐの小人数に落ちぶれて、津軽のどこかへ都落ちして、神様ケン族の生活費はもつぱら呉八段の対局料に依存してゐたやうである。
 夜陰に及んで、やうやく姿を現した呉八段は、ヨレヨレの国民服に、手垢や泥にまみれた小さなズックのボストンバッグを小腋にかゝへてゐた。ひどい疲れ方である。新聞社の人の話によると、神前の行事に終夜ねむらされぬことが多く、コックリやりだすと蹴倒されて魂に気合をかけられ、睡眠不足のアゲクには精神異常となつて、妄覚を起してしまふ。つまり呉八段に対する神様の戦法の最有力の一つは、眠らせぬ、といふことらしい。彼の対局料一つによつて神様ケン族の生計を支へてゐるに拘らず、神前に於て彼の蒙る虐待は特に甚しいものださうで、さる諷刺雑誌の記者が信徒に化けこむことに成功したが、この記者も呉八段が神の怒りを蒙つて内務大臣だかに荒々しく蹴倒され、踏みつけられるのを見たといふ。
 去年の春先であつたが、私は津軽から上京中の呉八段と彼の宿舎で碁を打つた。その翌日、彼は上京中の対局料をたづさへて津軽へ戻るところであつたが、封も切らずに、全部神様にさゝげてしまふのだからね、と、新聞の人がガッカリして私に云つた。
「それで、対局に上京といふ時に、たつた三百円、旅費を下げ渡されてくるのだからね」
 呉八段の世話係の彼は、狂信ぶりがイマイマしくてたまらなさうであつた。
 本因坊戦の対局の朝、呉八段は八時をすぎて、本因坊や私が新聞を読み終つて雑談してゐるところへ、やうやく起きてきた。よほど熟睡したらしかつた。それでゐて、イザ対局がはじまると、本因坊の手番の時は、自然にコックリ、コックリやりだす。フッと目がさめ、気がついて、立ち上る。たぶん冷水で顔を洗つてくるのぢやないかと思はれた。なるほど、神様がねむらせないといふのは本当らしいなと思つた。幸ひ対局中は神様からはなれてモミヂへカンヅメであるから、次の夜も熟睡ができて、対局の二日目から、目がパッチリと、睡気もはなれてゐた。
 この碁は第一日目を終日コックリ、コックリ打つた碁だから、彼に良い筈はない。本因坊必勝の局面であつたが、三日目に本因坊が悪手で自滅してしまつたのである。この対局の数日前に神様ケン族は上京して、呉八段の下宿先へ落ちついた。ここでドンチャン騒ぎのお祈りを日夜にわたつてやらかすので、家主に立退きをせまられ、神様は警察へ留置された。それを呉八段がもらひ下げて、ネグラを求めて何処かへ去つたが、恐らく呉八段はそれらの俗事のためだけでも殆ど眠る時間がなかつたであらう。まつたく見るも無慙な様子であつたが、カンヅメといふことゝ、対局が三日にわたつて行はれ、朝九時から夕方の六時までといふ無理のない時間割が幸ひして、一日は一日毎に生色をとり戻してゐた。今の将棋式にその日指しきりといふ徹夜例であつたら、コックリ、コックリの呉八段に勝味はなかつたであらう。
 第七局が東京で行はれた時も、私は見た。そのとき、豊島・火野両氏も来てをり、呉八段の勝に終つて、対局者をかこんで酒をのんだ。酒をのまない呉八段は、私のとなりで碁の雑誌を読んでゐたが、それは呉清源を論じた誰かの文章であつた。それを読み終つて、雑誌をペラペラめくつてみて、又よみだすのは自分を論じた文章のところだ。何度ペラペラやつても、結局よむのは、それだけだつた。もつとも、素人相手の碁の雑誌に、彼の心を惹く記事がほかに有るはづはないのだが、そこの何頁だけを手垢で黒く汚れてしまふほど読んでゐるので、をかしかつた。彼は孤独で、さびしいに相違ない。彼の切なさは、私にも同感できるものであつた。それは去年の秋であつたが、呉清源は神様からはなれるかも知れない、はなれたい気持がうごいてゐる、といふことを新聞の人からきいた。その時から半年あまりすぎてゐた。
 座談会で、私はつとめて神様のことを訊かうとしたが、彼はヌラリクラリと体をかはしてしか語らうとしなかつた。なぜ神様とはなれたか、どういふところが不満であつたか、棄教した今日ハッキリ答へるかも知れないと思つてゐたが、神様そのものは実在します、といふやうな返答の仕方で、つとめて要領を得られないやうな話しぶりであつた。
 いづれは又、別の神様へ辿るであらう。
 要領を得ない座談会で、面白をかしくもなく、後味がわるかつた。告白狂じみた我々文士とちがつて、呉八段がつとめて傷口にふれたくない気持はわかるのであるが、もつと気楽に、言ひきれたら、彼の大成のために却つて良からう、と私には思はれた。
 座談会が終つて帰らうとすると、廊下に女中が待つてゐて、読売の文化部長の原君が来てをり、お待ちしてをられます、といふので、二階へ行つた。すると、塚田名人と升田八段もゐるのである。北斗星君、赤沢君、みんな知つた顔である。
 私はトッサにヤヤと思つた。将棋の名人戦が塚田二勝一敗で、四回戦が翌々日の五月十一日に湯河原で行はれることになつてゐる。木村が挑戦者に勝ち残つて、名人戦がはじまつた。それは私が精神病院に入院中の出来事で、その一回戦は、木村が全然勝つた将棋に、深夜に至つて疲労から悪手の連発で自滅したといふ。私は深夜になると彼がボケルのを見て知つてをり、益々甚しいらしい報道にウンザリして、名人戦への興味を失つてゐたのである。
 ところが、原君の座敷へ行つてみると、はからざる塚田、升田がマッカな酔顔をあげてニヤニヤしてゐる。もつとも、升田の方は青くなる酔顔だ。もう相当に酒がまわつてゐる様子であつた。
 私がヤヤと思つたのには、わけが有るのである。一昨年のことであるが、木村升田三番勝負の第一局が名古屋で行はれ、私は観戦記を書くために東京から木村と同道で出向いた。そのとき、木村が升田に向つて、塚田は偉いよ、昔から実に勝負を大事にするからね、オレみたいに、明日の対局に今夜対局地へくるなんてことはしないからね、対局の三日ぐらゐ前、おそくて二日前には対局地へついて、静養してゐるのだからね、と云つた。
 升田は木村の一日前に名古屋へ来てゐた。その心構へに当てつけたワケではなかつたらう。彼の自戒とも自嘲ともつかないやうな心事と、それに若干の誇り、オレは立場上さうすることが出来なかつたんだといふ見栄も、いくらかは含まれてゐたかも知れない。
 彼は十年不敗の名人であり、大成会の統領で、名実ともに一人ぬきんでた棋界の名士で、常に東奔西走、多忙であつた。明日の対局に今夜つくはおろかなこと、夜行でその朝大阪へついて対局し、すぐ又所用で東へ走り西へ廻るといふ忙しさであつた。彼はそれまでストレートで升田に負けてゐた。それは概ね東奔西走の間に於ける対局で、塚田に敗れて名人位を譲る七回のうちにも、あわたゞしい対局をいくつか行つてゐたといふ。それでも勝てる、と思つてゐたのだ。升田に敗け、つゞいて決定的な破綻、名人位を譲るといふ悲劇にあひ、彼の自信は根柢から崩れ去つたのである。
 あれは二年前の六月六日であつた。覚え易い日附であるから、忘れることがないのである。中野のモナミで行はれた名人戦の第七局。その対局で彼は名人位を失つたのである。私はその対局をツブサに見てゐた。記録係までウンザリして散歩にでるやうな木村の長考の間も、ガランとした対局室に、常に私だけが二人を見まもつてゐたのである。
 まことに木村は断末魔にもまさる切なさであつた。彼は夕食にも手をつけなかつた。もうその時から疲れきつてゐたが、夜の九時ころ、塚由が長考してゐる時、彼は記録係へ「応接間へよびに来てね」と云ひ残し、薄暗い応接間の肱懸ひじかけ椅子にグッタリのびてゐた。
 零時ごろには、すでに敗北は明らかで、一秒ごとに名人位を去りつゝある苦悶がにじみでゝゐた。ともすれば、その苦悶に破綻しようとする苦痛を抑へて、彼は必死に気持を立て直さうとしてゐた。そのために、彼は顔面朱をそゝぎ、鬼の顔に、ふとい静脈が曲りくねつて盛りあがつてゐた。悲しい殺気であつた。彼はもう将棋を争つてゐたのではなく、名人位を失ふといふ切実な苦悶に向つて殺気をこめて悪闘してゐたのだ。
 駒を投じて数時間後、朝酒に、彼はいくらか落ちつきを取り戻してゐた。
 オレは時間に負けたんだ、と彼は云つた。オレは読んで読みぬくんだからね、と。
 そして、又、云つた。オレは席のあたゝまるヒマもなかつたのだ。夜行でついて、すぐ対局して、又、すぐ引返す。それで負けないと思つてゐたんだ。それでも勝つのが当然、オレが負けるなんて思ひもよらない不思議だと思つてゐたね、と。
 オレは然し今度は負けると思つてゐた。時代だ。時代に負けると思つてゐた。古いものが亡びる時代だからね、と。
 すべては当つてもゐるし、当つてもゐない。その秘密は、当人が深く心得てゐるはづである。
 まさしく私も、いはゞその「時代」を感じてゐたのである。私は彼が負けると思つた故に、対局を見物にでかけたのだつた。それは然し、私にとつては「時代」ではない。彼はすでに負けるべきところに来てゐたのである。
 私が木村升田三番勝負を見物に名古屋くんだりへ出かけたのは、名人位を失つてからダラシなく負けこんでゐる木村に立直りのキザシを見たからであつた。特に升田にはストレートで負けつゞけてゐる。その年には挑戦者の四人の一人に加はることも出来ない。それにひきかへ、升田はA級筆頭で、自他ともに許す次期名人の候補であつた。私は木村が勝つかも知れないと思つたし、勝たせたいとも思つた。私は彼の立直るキザシを信じてゐたから、私がそれに助力することが出来るかも知れないと思つてゐた。
 升田は二日前に名古屋へ来てゐたが、酒をのみつゞけて、節制がなかつた。彼は木村を呑んでかゝつてをり、負ける筈がないと思ひあがつてゐた。そして升田は対局の前夜に乱酔して木村と碁をうち、酔ひがさめて、ねむれなくなつてゐた。翌日の対局も軽佻で、気負ひにまかせて慎重を失ひ、簡単に敗れてしまつたのである。それに反して、木村は甚しく慎重であつた。
 私がモミヂの二階にはからざる塚田升田を見てヤヤと思つたのは、それらのことを思ひだしたからである。
 名人位四回戦は翌々日にせまつてゐる。おそくとも対局地へ二日前について静養してゐる習慣だといふ塚田が、大切な名人戦を目の前にして対局地でもないところで酒をのんでゐるのである。湯河原までバスもいれて三時間ぐらゐのものかも知れないが、勝負師の心構えとしては、かうあつてはならないものである。
 私の顔を見ると、升田がヒョウキンな目を光らせて、
「オ、塚田名人とオレとは親友だ。親友になつた」
 と、云つた。
 私がこの前升田に会つたとき、彼はまだ戦後は塚田と指してはをらず、塚田と指したい、それが何よりの望みだと云つてゐた。それを何べん云つたか分らない。そこには、木村老いたり、見るべきもの、すでになし、といふ即断と気負ひ、悪く云へば、いくらかの嘲りと傲りがあつた。彼はいさゝかならず神がゝり的な気質であるから、木村に対してかう即断すると共に、塚田に対しては、若干の怖れがあつた。
 いはゞ升田は、木村将棋を否定することを念願として、今日まで大成してきたのである。一生の狙ひは打倒木村であつた。木村を破つたのは升田が先だが、名人位を賭けた大勝負では、塚田が一足先に木村を破つて名人位を奪つた。
 木村を敗るのはオレだけだと思つてゐたから、升田がもし一足先に木村を敗つて名人位をとれば、塚田などは眼中におかなかつたに相違ない。彼はむしろ大山を怖れたであらう。ところが、塚田の方が一足先に木村を敗つて名人位をとつたから、木村を敗つて名人位をとることだけを一生の念願としてゐた彼は、自分の偉業を塚田の中へ転移して、敬意を払つた。
 塚田は名人となつても、評判はさのみではなく、弱いと云ふ者が多かつたから、さういふ点でもツムヂ曲りの升田をして却つて逆に塚田は強いと云はせた意味もあつた。塚田の強さが外の奴らには分らん、といふ意味もあつた。木村への反撥から、塚田は強いと云はせた意味もあつた。木村を侮る共犯として塚田を自分の陣営へいれるやうな意味もあつた。
 彼が塚田強しといふ意味は、すべて木村をめぐつてだ。塚田は木村と対蹠たいせき的な鋭い棋風であるが、一抹、彼とは似た棋風でもある。そして彼が塚田と共同戦線的感情をいだく理由は、本来は対木村であるが、つゞいて、もつと切実な、対大山といふ感情があつたと思ふ。この弟弟子は棋風は木村に似て、あるひは勝負師としてのネバリではそれ以上であるかも知れない。その冷静な勝負度胸は、この子供のやうな小さな男に、無気味に溢れてゐるのである。
 木村と、つづいて大山をめぐつて、升田は塚田強しと逆説したが、本心は木村と大山に敵意があつてのことであり、塚田に対してさのみ怖れてはゐなかつたであらう。然し、大山が塚田に挑戦して敗れたことによつて、彼はその安堵の気持を再び塚田強し、大山いまだ至らずと置きかへ、めぐりめぐつて、塚田強しといふ縄で彼自身が縛られてゐたやうだ。
 塚田は、二年前に名人位を奪つた朝、少しの酒に目のフチを赤くして、嬉しくも何でもないやうなドロンとした顔をしてゐたが、私が升田のことを云ふと、
「僕は升田は怖くないです。今まで升田に負けたことはありません」
 と、きびしく云ひ放つた。彼がこんなに力のこもつた云ひ方をしたのは珍しい。それはたしかに升田は怖くない、といふハッキリした気持があつてのやうであつた。
 神がゝりの升田は、鋭い直観を重ねたアゲクに、いつの間にやら、自分を自分の縄によつていましめて、そのアゲクが、去年の塚田升田五番将棋で、敗れ去つたのであらう。その時から、彼は外面、益々塚田の棋風をしたひ、塚田強し、と云ひ、塚田を親友とよび、塚田と親友になつたと云ひふらしてゐるものゝやうである。
 つまり、升田の心は、まだ自立してゐないのである。自分一人で立ちきるだけの自信がないのだ。彼が塚田強しと云ふのは、木村大山をめぐつてのことであり、木村大山を完全に否定するだけの自信の欠如からくるところである。彼が木村怖るゝに足らず、大山いまだ至らず、と云ひ放つ時、イヤ/\さうではない、といふ声を最も敏感に聴いてゐるのは彼であつた。彼は不当な気負ひによつて心ならずも怖るゝ者を怖れずと云ひ、その犯罪感を自分一人で支へきれずに、塚田を共犯に仕立てゝゐるのであつた。そして、又、アゲクには、塚田強しといふことを、実在の事実として、自ら負担せざるを得ないやうになつてしまふのであつた。
 私は塚田を見ると、ふと思ひだしたことがあつた。私の近所へ火野葦平が越してきたが、その近くに塚田正夫といふ表札のかかつた家があつた。戦災後にできた安バラックだから、もとより将棋名人の新たに住む家である筈はない。けれども、それを思ひだしたから、
「僕の近所に塚田正夫と表札のでた家ができてね。六畳と三畳二間ぐらゐのバラックだから、名人の新邸宅とは思はなかつたが、同じ姓名があるものだと驚いたよ」
「案外、かこつてゐるのかも知れないぜ」
 と原四郎がひやかすと、塚田はショボ/\と酔眼をしばたゝいて、ニヤリとして、
「僕もそんなことをしてみたいと思ふけど、うまく行かなくつてね。ほんとに、してみたいんだ」
 と、云つた。なんとなく板につかない。そのくせ本人の真剣さは分る。中学生がお金持ちになつて、大人なみのことをやらうと力んでゐるやうな恰好であつた。
 話が翌々日の対局にふれた。
 私は第一回戦に木村がボケて自滅した新聞記事を読んで以来、この名人戦に興味を失つてゐたから、
「木村があゝボケちやア、見物にでかけるハリアヒもないよ」
 と云ふと、実に、その時であつた。塚田升田の態度が同時に改まつた。そして、二人が、まつたく、異口同音であつた。
「イヤ、今度の三局目はさうぢやなかつた」
 升田は坐り直して、名人戦一席の浪花節でも語るやうにギロリと目をむいて、唸るやうにあとを続けた。
「第三局は驚くべき闘志だつた。負けて駒を投じてからも、闘志満々、あとの二局を見てゐろ、といふ凄い気魄がこもつてゐた。今までの木村ぢやない。驚くべき気魄だ」
「今までの木村ぢやない」
 と塚田が和した。驚くほどキッパリした言ひ方であつた。
 それは私に色々の思ひを与へた。まつたく、異口同音であつた。しかも、二人の態度が同時に改まつて、私の言葉をきびしく否定したのである。反射的に、そゝつかしいほどセッカチに物を言ふ升田と、感情を表はすことのない塚田の二人が、この時に限つて、まつたく同じ一人のやうな物の言ひ方をした。木村の闘志、この次を見ろといふ凄味のある気魄、今までの木村ではないといふ実感が、歴然と頭にしみ、木村の鬼のやうなマッカな顔が彷彿とした。
 塚田までが、反射的に、態度を改めて云ふからには、よほどのことであらう。それにひきかへ、塚田の方は、翌々日の対局をひかへて、これでいゝのだらうかと私は思つた。女をかこつてみたいなどゝ、変に真剣味のこもつた云ひ方をするところに、塚田の不安定な気持がこもつてゐることなどが、私の頭によみがへつてきた。
 木村が名人位を失つたころのオゴリたかぶつた様とアベコベである。私は塚田が第四局に負けるだらうと思つた。然し、勝つかも知れない。けれども、もしも第四局を失つたら、第五局は必ず負けると思つた。なぜなら、木村が名人位を失ふ時に漠然と「時代」を感じて敗北の予感に怖れたよりも、もつとノッピキならぬ切実さで、塚田は追ひつめられるに違ひないから。なぜなら、十年不敗の木村が塚田の実力を怖れたよりも、今日の塚田は十年不敗の木村の実力を知つてをり、その木村が闘志と気魄で第五局目の彼を威圧するに相違ないからである。モミヂの二階では、まだ闘志を感じてゐるだけで怖れずに済んでゐるが、四局を失つたあとの五局目では、ノッピキならぬ恐怖の対象となつて彼の前を立ちふさぐに相違ない。
「第五局があると思つちやいかん。あとはないものと思つて、第四局で勝負をつけな、いかん」
 と升田が塚田をいましめて云つた。ほんとかな、と私は思つた。親友は、ほんとに、さう思つてゐるのかな。空々しかつた。
 第四局は果して木村が勝つた。私はさつそく文藝春秋社へ出向いて、第五局を見物して書きたいから、毎日新聞社へ許可をもとめて欲しいと頼んだ。
 まもなく、こんな噂が伝はつてきた。升田が人に云つてゐると云ふのである。オレは塚田とは親友だが、今度は親友が負けて、木村が名人位を奪還するだらう、と。彼には分る筈である。升田は人間の勝負心理については、文士のやうに正確に知つてゐる。私がモミヂの二階で感じたよりも、もつと深く、彼は親友の敗北について感じてゐたかも知れない。

          ★

 第五局は、皇居内の済寧館で行はれるといふ思ひもよらぬことゝなり、大手門を通過する為の胸につける造花などが届けられて、私は慌てた。私はネクタイをもたないから、先づネクタイの心配から始めなければならない。どうも礼儀は苦手であるから、心細い思ひをしたものだ。
 自動車で乗りつけなくちやア悪からうと、東京駅からタクシーに乗つたが、滑りだして一分間ぐらゐ、ハイ、大手門です、と降された時にはテレました。門衛が五六名ゐて、当日参観者の名簿に照し合はせて通過を許してくれる。
 皇居内と云つても大手門をくゞつて、とッつきに在るのが済寧館で、誰でも行けるパレスコートがもッと奥手にあるやうである。私の到着が九時四十五分。対局開始の十時に十五分前であつた。
 下駄箱の並んでゐる玄関があつて、小学校のやうである。すぐ道場へ行つてみると、なんとも広い道場である。柳生の道場が十八間四面といふのは講談本でオナジミであつたが、こゝは矩形の道場で、玉座を中に、剣道と柔道に二分され、柔道の方は四囲に板の間を残してチョボ/\と畳がしかれてゐる。その畳が百三十五畳あつたやうだ。道場全部を通算すれば、どれぐらゐの広さになるのだか、キャッチボールはおろかなこと、子供は野球ができるのである。
 畳敷きの上の玉座寄りに緋モーセンを敷き、三方を四枚の屏風でかこつて、八畳ぐらゐの対局場ができてゐる。ボンサイだの木彫などの飾り物がおいてあるが、こんな物でも運んでこなければ殺風景で困つたらう。一見して、どうしてもハラキリの場といふ舞台面である。それ以外の何物でもない。事実に於て、どちらか一人がハラキリをするやうなものであるから、まことにどうもインサンである。
 道場の壁板には段級名の名札がかけてある。皇宮警察といふやうな、お巡りさんの道場なのだらう。広さは広いが、安普請であつた。皇居内の建造物といふので、国宝級の重々しい建物を考へてゐた参観者には、案外なものであつた。
 柔道の畳だからバネが仕掛けてあるのである。そのせゐで、畳の上を人が一人歩いても、対局場がブルブルふるへる。どんなに静かに歩いてもブルブルふるへるのである。私は始め、十何間に二十何間といふ柱なしの建物の上に、安普請のせゐで、トラックが通るたびに揺れるのだらうと思つてゐた。
「今はいゝけど、夜になつたら、畳の上を歩く時に注意してもらはなくつちやア」
 と、木村は対局前にひどく気に病んでゐたが、私にはその意味がのみこめなかつた。対局前の道場は参会の人と各社の写真班で人だかりが出来て右往左往してゐるから、畳の上を歩くために揺れるのだといふことが分らない。
 ところが木村は、対局の前日、毎日新聞を訪ね、済寧館の下見をしてゐたのである。ここにも木村のこの一戦に賭けた心構へが見られるのである。十年不敗の名人位についてゐたころの、東奔西走、夜汽車にゆられて寝不足で対局場へ駈けつけたころの彼ではない。二年間の名人位失格は彼に多くの教訓を与へたのだ。彼はもう根柢的に謙虚であつたし、一局の勝負に心魂をさゝげつくす勝負師であつた。対局前日に対局場の下見をして、人が畳の上を歩くたびに畳敷きの全体がブルブルふるへることも知つてゐたし、恐らく皇居といふと勝手が違つて、門衛だの、どつちへ行つたらいゝのやら、対局当日にはじめて出かけたのでは色々と慌てゝ取り乱すこともあるかも知れない。さういふ心配が起るのは当然で、一介の見物人にすぎない私ですら、対局場へ辿りつくまでは異様な気持であつた。
 私自身のさういふ不安に思ひ合はせても、木村が対局前日に下見をしたといふ心構えには、彼の万全の用意が見られるのである。対局二日前に、湯河原ならぬモミヂの二階で酔つてゐた塚田と比べて、これらの心構えの相違はハッキリ勝負にでゝくるはづだ。塚田のあれは第四局目であり、第五局目ではなかつたけれども、もう遅い。あそこでまいた種がここで芽をだすのであり、すべてこれらの心構へといふものは、一朝一夕のものではない。十年不敗の木村は十年間にまいた種の累積の上で、宿命的につぶれたのであり、塚田はこの二年間の心構えのアゲクとして、遂にこの第五局へ持ちこんでしまつたのである。
 私が対局場へ行つて、二三分ブラブラしてゐると、塚田木村両対局者が対局場へ現れた。塚田は例の無口、無愛想で、知人がゐても挨拶する気もないらしく、木村は知つた顔に挨拶して、私にも、御カゲンがお悪かつたさうで、いかゞですか、などゝ云つたが、ソワソワして、どことなく落付きがなかつた。
 定刻十分前に二人はもう盤に向つて坐る。カメラに入れるためだ。十組にあまるカメラマンが前後左右からフラッシュをたく。駒を持つて下さい、とカメラマンが先番の木村にたのむ。
「今、駒を持つちやア、こまるよ。その手をやらなくちやア、いけなくなるからね」
 と、木村は困つた笑ひ。まア、いゝや、ぢやア、かう、駒を持ち上げた手ぶりをしよう、と、駒をとつて、盤の上へ手をふりあげた形をつくる。
 私も、西村楽天、大山八段などゝ盤側にならんで、うつされる。
「ぢやア、カメラの方は十二時の休憩まで、ひきとつて下さい」
 定刻がきたのである。盤側にのこつたのは、記録係のほかに、倉島竹二郎君と私、そのほか二人ほど居るだけ。あたりは静かになつたが、フラッシュの閃光と、入乱れる跫音あしおとが八方を駈けくるつた慌しさは、それから十分すぎた後も、私の気持すらも落付かせようとはしない。すでに、十時、そのまゝ対局は始つたけれども、まことにケヂメがつかない。
 木村一分考へて二六歩、塚田すぐ八四歩、二五歩、八五歩。ここまできて、五手めに、木村の長考がはじまつた。
 対局といへば、しよッちゆうタバコをふかしてゐるやうなものだが、十分すぎても、どちらも、まだタバコをとりださない。先づ木村がタバコをとりだす。つられたやうに塚田もタバコをとりだす。木村、キョーソクにもたれる。塚田の顔はマッカである。日やけかしらと私は思つたが、塚田は酒をひッかけたらしいぜ、と誰かゞ云つた。あるひは、さうかも知れない。万全の用意をつくして対局場の下見までした木村ですら、なんとなくソワソワと落付きがない。塚田には追はれる不安があるし、心構えの累積からきた圧迫感があるはづだ。それをハグラカスために、あるひは酒といふ窮余の手を用ひたことも、有り得ないことではないのである。
「ほんとに飲んだの?」
 と、私がきいたら、その人は慌てゝ、
「いえ、さう思つたゞけです」
 と、言葉を濁した。彼はその日の世話係の一人であつた。
 五手目が木村七六歩。ここに、三十三分使つた。たつた八時間の持時間に、いつも終盤時間ぎれで苦しむ木村が、こんなところで三十三分も考へるのは、をかしい。彼は心の平静をとりもどすために、三十三分を浪費したのだらうと私は思つた。木村はギッチョらしい。左手で駒の曲つてゐるのを直してみたり、酔つ払ひのやうにグッタリとキョーソクにもたれて四十度ぐらゐも傾いてボンヤリ天井をむいてタバコをふかしてゐる。落付かう、落付かう、と努力してゐるのだらう。そして実際に、この三十三分のムダ使ひによつて、その後の彼は一手ごとに延び延びと落付いてきた。今まで見た彼の対局のうちで、この日ほど彼の心が平静だつたのを私は見たことがない。
 三二金、七七角、三四歩、七八銀、七七角成、仝銀、二二銀、四八銀、三三銀、七八金、六二銀、六八王、六四歩、四六歩、七四歩、四七銀、
 ここまではノータイム。塚田はじめて、三分考へた。袴の中へ両手をつッこんでキチンと上体を直立させてゐる。はじめから終盤のやうに神経質である。徹夜で指しきる将棋は夜が更けて終盤近くなると、対局者は充血してマッカになり、コメカミに静脈が曲りくねつて盛りあがるものだ。木村も塚田もさうである。木村が名人位を失つた二年前の対局では、その盛りあがつて曲りくねつた二人の静脈が、今も私の目にしみてゐるのである。ところが、この対局の塚田は、盤に坐つたはじめから、すでに終盤のやうに神経質で、充血し、コメカミに静脈がもりあがつてゐたのだ。彼の心はコチコチかたまつて、なんの余裕もないやうに見えた。
 六三銀(三分)、三六歩、四二王、一六歩。
 そのとき塚田便所へ立つ。倉島君が顔を上げて、えゝと、便所はねえ、それから立上つて、案内に立つた。私も便所がどこにあるのか知らないが、よつぽど遠いところに在るのだらう。
 塚田が便所から戻つてくると、木村が記録係に、オ茶、とさゝやいた。記録係の方へ、グッと上体をねぢりよせて、さゝやいたのである。その隣席の私には聴きとれない小声であつた。読みふける塚田を思ひやつてのことであらう。木村がこんな配慮をするのも、私は今まで見たことがなかつた。記録係が戻つてくると、毎日新聞のオバサンが礼儀正しく、畳敷きの外側の板の間だけをグルッと一周してオ茶を捧げて持つてくる。畳の上を歩くと地震のやうにゆれるから、これも木村の注意によるのかも知れない。私は対局場の揺れるのが畳をふむためだといふことを、まだその時はさとらなかつた。そして、皇居内ともなれば、万事小笠原流に、しとやかなものだと感心してゐたのである。そのうちに、見物人も私一人となつて、対局者が便所へ立つたりすると、きはめて静かに歩いてゐるのに、全体がブルブルふるへるのである。なるほど、木村はちやんと調べてゐたのだな、と、その時になつて分つたのである。
 塚田二十分考へて、五二金。そして咳ばらひをする。木村タバコをくはへ、左手でマッチをする。やつぱりギッチョである。然し、駒台は右の方においてあり、駒を動かすのも右手である。タバコをくはへて、フラリと便所へ立つた。
 木村十八分考へて、一五歩。パチリと叩きつけた。終盤になり、顔面朱をそゝいで静脈がもりあがるころになると、両々自然にパチリと叩きつけるやうになる。時には、パチリと叩きつけ、もう一度はさみあげでパチリと叩き直す。塚田も木村も次第にさうなるのである。然し、パチリと叩きつけたこの日の第一回目は、これが始まり。
 塚田五四銀、五六銀、とノータイム。ちよッと考へて四四歩。
 木村十一分考へて、極めて慎重な手つきで、五八金、パチリとやる。合計木村六十三分。
 三一王、七九王。
 塚田は自分の手番になつて考へるとき、落ちつきがない。盤上へ落ちたタバコの灰を中指でチョッと払つたり、フッと口で吹いたりする。イライラと、神経質である。二年前の名人戦で見た時は、むしろダラシがないほど無神経に見えた。午前中ごろは木村は観戦の人と喋つたり、立上つて所用に行つたり、何かと鷹揚らしい身動きが多かつたのに、塚田は袴の中へ両手を突つこんで上体を直立させたまま、盤上を見つめて、我関せず、俗事が念頭をはなれてゐた。今と同じやうにウウと咳ばらひをしたり、ショボ/\とタバコをとりだして火をつける様子は同じであるが、それが無神経、超俗といふ風に見えた。今日は我々にビリビリひゞくほど神経質に見えて、彼は始めからアガッてゐるとしか思はれない。木村が次第に平静をとりもどしたにひきかへて、塚田の神経はとがる一方に見えた。
 塚田八分考へて、七三桂。消費時間、合計三十一分。
 木村、十六分考へて、八八王。
 茶菓がでる。木村すぐ菓子を食ひ終つて、お茶をガブガブとのみほしてしまふ。
 塚田、六五歩(八分)それから菓子をくひはじめる。ちよッとしか食べない。お茶もちよッとしか飲まない。
 木村、三七桂(十四分)パチリと打ち下して、タバコをグッと吸ひながら、記録係の方をヂロリと睨む。
 塚田、四分考へて、ウフ、ウフ、ウフ、と咳ばらひをしながら、二二王。
 木村、九六歩(二分)。塚田、九四歩、ノータイム。
 木村、片手をついて身体を記録係にすりむけて、何かヒソヒソと云ひかけると、塚田が便所へ立つた。すると記録係も立ち去り、塚田が便所から帰つてまもなく、オバサンが例の小笠原流、板敷の上をグルッと一周して、お茶を捧げてきた。今度も、木村のヒソヒソ声はオ茶の注文であつたらしい。すぐガブ/\と飲んでしまつた。塚田も一口お茶をのむ。二人は同じやうに腕組みをしたまゝ、全々身動きがない。木村の手番なのである。沈々黙々たるまゝに、午後一時がきて、昼休みとなる。
 二時半、再開。
 見物人は、午前中の中程から、私ひとりである。ほかの人たちは、みんな控室にゐる。控室は二つあつて、一つは毎日新聞の招待客。一つは各社や、ラヂオ、ニュース映画などの記者控室である。
 一手指すたびに、記録係が指手と使用時間を書いた紙片を屏風の隙間から出しておく。毎日新聞の係りが見張つてゐて、ソッと忍び足でやつてきて、これを控室へ持ちかへる。こゝには、土居、渡辺、升田、大山、原田、金子等々の八段連がつめかけてゐて、指手の報らせがくるごとに研究がはじまるのである。
 人々は畳の上を歩く時は、注意して忍び足で歩いてゐるが、どうしてもブルブルふるへる。対局場に人の姿がへつてヒッソリすると、どんなにひそかに歩いてもダメである。
「ブルブル地震のやうだね」
 と、木村がふと顔をあげて云つた。
「終盤になつたら、歩くのに、注意してくれたまへ」
 と、記録係に念を押した。
 休憩後、坐つて十分間ほど考へたと思ふと、木村は立つて、便所へ行つた。生理的なものよりも、気分的な必要によるものゝやうである。
 木村、四八飛と廻つた。昼食前から考へて、合せてこの手に六十六分。消費時間は合計百六十一分。塚田はまだ四十三分である。
 塚田、ここで、長考をはじめる。ここが策戦の岐路、運命の第一回目の岐れ道ださうである。
 小笠原流のオバサンが三時の茶菓を運んできた。見物人は私ひとりである。木村、ふと私の前に茶菓のないのを認めて、坂口さんにも、とオバサンに言ふ。木村、便所へ立つ。私へも茶菓がきたので、私はゼドリンをのむ。どうも、ねむいから、仕方がない。
 私はこの二月以来ゼドリンを服用したことがない。アドルム中毒で精神病院へ入院して、退院以来、一般の発売も禁止されたし、これを機会に、覚醒剤も催眠剤も用ひない決心でゐた。けれども、この日は考へた。眠くなることが分つてゐるのである。ほかの参観人は将棋の専門家、又は、好棋家で、棋譜をたのしむ人たちであるから、控室で指手を研究してたのしんでゐるが、私は将棋はヘタクソだから、さうは、いかない。もつぱら対局者の対局態度を眺めてゐるのが専門で、だからこそ、ほかの見物人はみんな控室でワア/\やつてゐるが、私だけは盤側を離れたことがないのである。哀れな見物人である。指手の内容が分らないのに、二時間の長考にオツキアヒをしてゐるのだから、バカみたいなもので、ねむくなるのは当然だ。仕方がないから、覚悟をきめて、ゼドリンを持つてきた。昔、たくさん買ひこんだゼドリンが、まだ残つてゐたのである。
 塚田、ぼんやり立つて、足をひきづるやうに便所へ去つた。もう四十分ちかく考へてゐる。塚田が立ち去ると、木村は記録係に向つて、ニコニコした笑顔で、
「濡れたタオルがあるといゝね」
 と相談をもちかける。旅館だつたら、そんな気兼ねもいらないだらうが、皇居の中では事面倒で、記録係も立ち上つてウロウロして、
「あるでせうか。忘れまして」
 と悲しさうな顔である。
「あゝ、いゝよ。なければ、いゝよ」
 木村は笑顔で慰める。年若い方の記録係が不安な面持で去つた。
「対局は冬がいゝね。夏は暑くて」
 記録係の山本七段に話しかける。木村の笑顔は澄んでゐる。彼の心の平静さが、よく現れてゐる笑顔である。私は彼と一しよに名古屋へ旅をしたが、汽車の中では、彼はこんな風に平静で、いつも静かに笑つてゐる男であつた。然し、対局の最中に、こんなに静かに冴え冴えとした笑ひをうかべて、気楽に話してゐるのを見たことはない。
 非常にむし暑い日であつた。外はどうやらポツポツ雨がふりだしてゐる。湿気の深い暑さなのである。山本七段と私が立つて、道場の窓をあけてみた。いくらか涼気がはいつてくる。
「ねえ。羽織、とらうか」
 彼は私に笑ひかけた。
「その方がいゝでせう」
 と私は答へた。
 木村が羽織を脱ぎ終つたところへ、塚田が便所から戻つてきた。羽織をぬいだ木村の姿をチラと見て、彼も黙々と羽織をぬぎ、無造作にグチャリと投げだした。
 小笠原流のオバサンが冷水でしぼつた手拭ひを持つてきた。
 塚田は、また、長考をつゞける。
 木村、今度はヒソヒソ声ではなく、茶を一杯ください、とハッキリと云つた。山本七段が立つて、しばらくすると、毎日新聞の係りが私をよびに来て、
「一番むつかしいところださうですから、ちよッと席をはづして下さい」
 私はすぐうなづいて去つた。道場を出るところで、佐佐木茂索氏にバッタリ会つた。
「今、来たところでね。どうです、形勢は」
 と、見に行かうとするのを、これも注意をうけて、
「あゝ、さうですか。さうだらう。無理もない」
 と、私と一しよに控室へはいつた。二年前の名人戦はさうではなかつたが、この名人戦は、むつかしいところへくると、見物人に退席してもらうことになつてゐたのである。
 控室へ行くと、佐佐木氏が、
「どうです。君の予想は。どつちが勝ちますか」
「木村ですね」
 私は即坐に答へた。
「木村の落ちつきは大変なものです。あんなに平静な木村の対局ぶりは見たことがありませんよ。気持が透きとほるやうに澄んでゐますね。アベコベに、塚田は、堅くなつて、コチコチだ」
 茂索さんは、ふうン、といふ顔をした。彼は塚田に賭けてゐたのださうである。

          ★

 こんなに賑やかな控室風景は珍しい。将棋の八段が〆めて五十何段つめてゐるところへ、碁の藤沢九段、素人五段安永君など勝負師がより集つて、碁将棋に余念もない。遊び事に専門の方をやりたがらぬのは自然の情で、将棋指しが面白さうにのぞきこんでゐるのは碁の方であり、碁打ちは将棋をのぞきこんでゐる。
 そのうちに、面白い勝負がはじまつた。大山八段と二枚落ちで指しわけた安永五段が、よし、碁でこい、と七目おかせて、やりだしたのである。大山八段は、碁の射ち廻しは私と同じ程度のやうである。違ふとこをは、彼が天成の勝負師だといふことである。安永五段は下手名人と自称し、下手をゴマ化すのに妙を得てゐる。そのゴマ化しに大山八段はかゝらない。ヂッとひかへて、ムリを打たない。よく置石を活用してガッチリと押して行くから、安永五段は文句なしに二局やられてしまつたのである。
「大山に七目おかせて、安永が勝つもんか。てんで勝負にもならせん。七目なら、オレはいつでも大山にのる。どうだい。やらうぢやないか」
 倉島君がひやかした。よし、やらう、といふことになつて、安永君も真剣である。よッぽど、口惜しかつたらしい。白の方が黒の何倍も時間をかけて考へこんでゐる。かなり良い碁に持つて行つたが、やつぱり白がつぶれてしまつた。
 私は大山八段を見たのは、この日が始めてゞある。原田八段も、さうだ。将棋の力といふものは私には分る筈はないのだが、勝負師といふ点では、大山はちよッと頭抜けてゐるやうだ。
 私は木村、升田とは碁を打つたことがある。どつちも力碁で、升田ときては、ひッかき廻すやうな碁であるから、まだ力の弱い大山は升田にひッかき廻されて負けるさうであるが、力が弱いのだから仕方がない。然し、持つてゐる力をどれだけ出してゐるかと云ふと、大山は十分に出しきつて、ほとんど余すところなく、升田は勇み肌でポカも打つ。
 碁に於けるこの性格は、本職の将棋の場合も当てはまるに相違ない。大山にはハッタリめいたものがないのである。非常に平静で、それを若年からの修練で身につけたミガキがかゝつてゐるのである。兄弟子に升田のやうなガラッ八がゐて、頭ごなしにどやされつゞけて育つたのだから、平静な心を修得するのも自然で、温室育ちといふ生易しいものがないのである。勝負師の逞しさ、ネバリ強さは、升田の比ではないが、大山がこゝまで育つた功の一半は升田といふ柄の悪い兄弟子が存在したタマモノであつたかも知れない。これに比べると、東京方の原田八段は、棋理明※(「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1-85-31)であるが、温室育ちの感多分で、勝負師の性根の坐りといふものが、なんとなく弱々しく見受けられた。
 大山と私は、この対局がすんでから、NHKの依頼で、対談を放送した。私は将棋を知らないのだから、対談なんて云つたつて、専門家を相手に語るやうなことはない。アナウンサーが私に質問してくれゝば、それに応じて感想ぐらゐは語りませう、と引受けておいた。
 イザ放送がはじまると、アナウンサーはひッこんで否応なしに対談となり、なんとなくオ茶は濁したけれども、まことにツマラナイ放送になつた。そのとき、大山八段が、いかにもションボリした顔で、私に向つて、
「坂口さん、打ち合はせておいて、やれば良かつたですね」
 残念さうであつた。大山は、かういふグアイに、放送に際しては、演出効果まで考へてゐる男なのである。対談に於て、構成を考へてゐる。心底からの図太い勝負師であつた。
 夕食休憩になつたが、私が対局場を去つて以来、塚田が七十五分考へて、七四角、と一手指したゞけであつた。それからの二時山間あまり、木村が考へつゞけて、まだ手を下さぬうちに、七時夕食となつたのである。
 八時に再開。対局場の中へはいつちや悪いから、道場の片隅から、私はそッと見てゐた。木村がにわかに駒をつかんで、パチリと叩きつけ、もう一つ、強く、パチリと叩きつけた。それが八時二十分。外は雨。宵闇がたれこめて、明暗さだかならぬイヤラシイ時刻であつた。
 木村の指手は、四九飛。この手に百五十七分つかつて、合計三百十八分であつた。
 塚田、六四金(四分)木村、二十六分考へて、二六角。それから、四三銀(三分)四五歩(二十七分)五四金、四四歩、四四同金左(三分)四七金、八六歩(三十八分)同銀、五五銀、四五銀(二十五分)
 このとき、凡そ十時半。四囲はとつぷり闇につゝまれ、光の中へ照らしだされた屏風がこひの緋モーセンは、いよいよもつてハラキリの舞台であつた。
 ここで、又、塚田二回目の長考がはじまつた。この時までの消費時間は、木村の三百九十六分に対して、塚田はわづかに百六十三分であつた。
 控室へきてみると、もう碁将棋で遊びふけつてゐる者はゐない。部屋の中央へ将棋盤をだして、土居、大山が盤に対し、金子八段が盤側にひかへて、駒をうごかし、次の指手の研究に余念もない。将棋はまさしく勝負どころへ来てゐるのである。
 土居、大山、金子の研究では、どうしても木村よし、といふ結論になる。そこへ倉島竹二郎がやつてきて、オイ、記者室の方で升田と原田がやつてるが、あつちぢや、塚田よしの結論だぜ。大山は木村に似た棋風だから、木村の思ふ壺の結論がでるんだよ。升田は塚田に似た棋風だから、この部屋の連中の気がつかない手を見つけてゐるんだ、と報告した。
「そいつは、面白い」
 と、豊田三郎が記者室へ走つて行つた。私も記者室へ行つて、原田八段から説明をきいたが、必ずしも塚田がいゝといふ結論ではない。結局、ここの指手の研究では、原田八段が最も偏せず、あらゆる場合を読みきつてゐたやうである。彼の研究相手は渡辺八段。升田は私と入れ違ひに、私たちの控室へ行つてゐた。
 問題は、つゞいて、四五金、同桂、四四歩まできて先の変化で、下手からは六三金と打ちこむ手がある。大山はこのあたりで、も一つ控えて、上手の銀の打ちこみを防ぐことを主として考へてゐたやうである。この方法で、大山の通りに行くと、木村必勝の棋勢となつてしまふのである。
 このへんの細いことは無論私には一向にわからない。わからなくつて書いてゐるのだから、私自身もバカ/\しいが、まア、怒らずに読んで下さい。間違つてゐても、責任は負ひません。大山は木村に近い棋風だから、木村のいゝ将棋になるのだと倉島竹二郎がいふ。そして、升田は大山の気付かぬ手を指してゐるぜ、といふ。それが三八銀と打ちこんで飛車に当てる手であつた。
 ところが、これも八段連が考へてみると、飛車が七九へ逃げる。銀が二三へ成る。角が五九へ逃げて、つゞいてこの角が七七へ廻ることになると、やつぱり木村がいくらかいゝといふ話だ。塚田の成銀が遊び駒になる上に、この角が敵王のコビンに当る急所を占めるからである。
 ところが原田八段は、この当りを消すために先づ六六歩、同歩と歩をつきすてゝ一歩呉れておくことを考へてゐた。そして、かうなると、まだ形勢は不明で、わからん、と云つてゐた。
 これを教へてもらつて控室へ戻つてくると、大山、土居、金子に升田も一枚加はつて、今原田から教はつてきたと同じことに一同がちやうど気がついたところであつた。
「何や分らん。もう、知らん」
 升田は目の玉をむいてニヤリとして、
「オレ、ちよッと、ねむりたうなつた」
 とキョロ/\あたりを見廻したが、敗残兵のやうなのが五六人、右に左に入りみだれて隅の方でねむつてゐるから、場所がない。然し、彼は元気がよく、眠りに執念してゐる目付きでもなかつた。
 そこへ、八十三分の長考が終り、塚田の指手が報らせてきた。
 六六歩。
 まさしく原田の読んだところ。そして又、他の八段も今しもそれに気付いたところだ。控室に、ワッと、どよめきが、あがつた。木村はそれをノータイムで、同歩、ととつてゐるのである。
「塚田名人、強い」
 升田が我が意を得たりと、ギロリと大目玉をむいて、首をふつた。それだけでも、ほめ足りなくて、
「ウム、強いもんやなア。この線、読みきつたんや」
 と、指で盤を指して、すぐ引つこめた。つまり、塚田が読み切つたといふ、この線、を指し示したわけだが、四筋だか、七筋だか、六筋だか、人垣に距てられてゐた私には分らなかつた。
「なんぼうでも、手はでゝくる。きはまるところなしぢや」
 と、土居八段が、もう研究がイヤになつたか、大きく叫んで、ねむたうなつた、研究はヤメぢや、といふ意志表示をやつた。そのとき、十二時五分前だ。
 持ち時間があといくらもない木村が、又、長考にはいる。八段連の研究によれば、いよいよ四筋の戦ひとなり、塚田が三八へ銀を打つて、木村の飛角が逃げる段どりとなるのである。この筋を最も早く見出した原田によれば、形勢不明、戦ひはその先だといふことである。
 某社の人が私のところへゼドリンをもらひにきたが、ちよッと声をひそめて、
「坂口さん、今、木村前名人がフラフラと便所へ行つてますがね。ひとつ、前名人にもゼドリンを飲ませてくれませんか」
「疲れてゐますか」
「えゝ、なんだか、影みたいにフワフワと歩いて、ちよッと痛々しいですよ」
「さうですか。ぢやア、飲ませませう」
 当年四十五才の木村は、夜になると、疲れがひどい。午前二時の丑ミツ時が木村の魔の時刻と云はれて、十二分の勝ち将棋を、ダラシなく悪手で自滅してしまふのである。今期名人戦の第一局がその一例で、かうボケちやア、木村はダメだと私が思ひこんでゐたのは、そのためだ。かうなると、肉体力は勝負の大きな要素である。
 私は一年半ほど前に、木村にゼドリンを飲ませて、勝たせたことがあつたのである。例の名古屋に於ける木村升田三番勝負である。木村の疲れが痛々しいので、夕食後にゼドリンを服用させた。そして、木村はこの対局に勝つた。翌朝彼は、どうも、あの薬は、よく利きますが、あとが眠れなくつて、と、目をショボ/\させてゐたものである。碁将棋の連中ぐらゐ、この薬を用ひるに適した職業はない筈であるのに、妙に、誰も知らないから、不思議である。彼らの対局は一週聞か十日に一度であるから、習慣になることもない。そして彼らは、云ひ合したやうに、深夜の疲れを最も怖れてゐるのである。そのくせ、この薬を誰も知らない。
 さすがに若さは別で、四十ちかい連中以上が十二時すぎるとノビてしまふのにひきかへ、大山、原田、碁の藤沢などは、翌朝の五時になつても、目がパッチリと、疲れの色がほとんどなかつた。
 その大山でも私のゼドリンの小箱を物珍しさうに手にとつて眺めて、
「これのむと、ほんとに、ねむくないのですか」
「さうです。だけど、君や藤沢君の顔を見ると、ちッとも疲れたやうぢやないね。対局になると、やつぱり、疲れるの?」
「ええ、十二時前後から、頭脳がにぶつて、イヤになります」
 彼はいつも話声が低く静かである。そして、
「これは、いくらですか」
 と、いかにも大阪人らしく、値段をきいた。
「この薬はね。もう薬屋では販売できなくなつたから、お医者さんから貰ひなさい。名人戦だの、挑戦者決定戦だのと、大切な対局だけに使ふ限り害もなく、まるでその為にあるやうな薬だから」
 と、私は大山に智恵をつけておいた。私は実際、彼らこそ、この薬を服用すべき最も適した職業の人と考へてゐるのである。名人戦といへば死生を賭けたやうなものでもあるし、覚醒剤の必要な対局は、A級棋士で年に十回、挑戦試合が五回、それだけしかないのである。我々のやうにノベツ用ひて仕事をするから害になるが、彼らは年にせゐぜゐ二十回、そしてそこには、元々、死生の賭けられてゐる性質の対局なのだ。
 私は某社の人にうながされて、廊下へでゝ、便所から戻つてくる木村を待つた。木村が現れた。フラリ/\と千鳥足、ヂッと一つどころに坐りつゞけるせゐもあらうが、対局棋士の歩行は自然そんな風に見える。
 私は彼に寄りそつて、
「この前、名古屋でのんだ薬、のみますか」
 と、きくと、彼は急にニヤリとして、
「えゝ、ありがと。実はね。ボク、お医者から、クスリをもらつてきたんです」
 さう答へて会釈して行き過ぎたが、ふりむいて、又、ニコニコ笑ひ顔をした。
「たぶん、坂口さんのと、同じクスリぢやないかしら」
 云はれてみると、踏段を登つて道場へ去る彼の足どりはシッカリしてゐた。又、私に笑ひかけた彼の目は澄んでをり、たしかに彼の顔には疲労が現れてゐなかつた。
 モミヂの二階で、塚田升田が異口同音に云つた。第三局は別人だつた、と。木村は決してボケてゐない、と。この次を見てゐろとばかり驚くべき気魄と闘志であつたといふ。私はそれを思ひだした。
 けだし、近代戦である。これも、まさしく一つの戦場なのである。爆撃下にもおとらぬ死闘であつた。年齢的に劣勢な木村が、覚醒剤を用ひたとて、咎める方が間違つてゐる。さすがに勝負師の大山が、この薬に並々ならぬ関心をいだいたのは当然であらう。
 木村、四十九分考へて、四五金。ノータイムで、同桂、四四歩。ここのあたりは控室の合計五十四段が先刻予想してゐた通りである。
 木村、二十二分考へて、六三金。以下ノータイムで、四五歩。六四金。同銀。ここのところも、控室の予想の通り。
 そッと道場へ行つてみる。もう、翌朝の一時半になつてゐる。戸外は風雨であるが、薄暗い道場の中央に、屏風がこひの中だけが照りかゞやいて、何一つ物音もなく、ヒッソリしてゐる。木村が手拭で顔をふく。塚田もふく。塚田はそれから眼鏡をとつてジュバンの袖でふいてゐる。木村がアグラをかいた。
 ほかに見物人はゐないけれども、たつた一人、異様の人物が端坐してゐる。済寧館の武道教師とおぼしきヒゲのある人物で、坐り方が武術家独特のものである。木綿のゴツゴツした着物に袴をはいて、屏風の中の光の下から二三間離れた薄暗がりに微動もせず端坐してゐるのである。自然体であるけれども、肩がピンと四角にはつて、腰が落ちてをり、彫刻のやうにこの場に似合つてゐるのである。まるでハラキリ見届け役といふやうであつた。
 木村が猛烈な力をこめてパチリと駒を叩きつけたのは、ちやうど一時半だつた。三七角(二十四分)これも控室の五十四段が見てゐた手である。
 この次の手が、運命の一手であつた。
 私は控室へ戻つてゐた。五十四段の棋士の中からも落伍者がでゝ、土居八段がねころんでゐる。若い者の天下である。土居八段に代つて、金子八段が大山八段と盤に向つて研究してゐる。碁のまるまるとふとつた藤沢九段が、全然ねむけのない澄んだ目を光らせて、熱心に説明をきいてゐる。ねむる、ねむる、と云ひながら、目を光らせて、のぞきこんでアレコレ言葉をはさんでゐるのは升田八段である。
 二時十分であつた。運命の手の報らせが来たのは。
 塚田、五二桂(三十九分)
 棋士たちが、アッといふ声をあげた。
「エ? ナニ、ナニ?」
 大声をあげて、人をかきわけたのは升田であつた。
「五二桂? ホウ。そんな手があつたか」
 誰一人、予想しない手であつた。升田の目が、かゞやいた。妙手か悪手かわからないが、人々の意表をついたこの一手に、彼は先づ感嘆を現した。
 意表をつかれた棋士一同は、にわかに熱心に駒をうごかしはじめた。
「無筋の手や」と、升田。
「無筋ですな」と、金子。
 どういふ意味だか、私には分らない。私は金子八段にきいた。
「無筋の手ッて、どういふことですか」
「つまりですな。相手の読む筈がない手です。手を読むといふのは、要するに、筋を読んでゐるんです。こんな手は、決して相手が読む筈のない手なんですよ」
「時間ぎれを狙うてるんや」
 と、升田がズバリと云つた。その時、木村の時間は、あますところ四十四分であつた。木村の読む筈のない手を指した。木村あますところ四十四分といふ時間を相手にしての塚田の賭博なのである。全然読まない手であるから、木村は面食ふ。そして改めて考へはじめなければならない。今まで木村が考へてゐた色々の場合が、みんな当てが外れたわけで、何百何十分かがムダに費されたわけである。そして、あますところ四十四分で、このむつかしい局面を改めて考へ直さなければならないのである。あます時間が少いので、木村はその負担だけでも混乱する。そして思考がまとまらぬ。時間は容赦なく過る。木村はあせる。塚田は、そこを狙つたのだ。
 私は今期の名人戦はこの一局以外に知らないが、塚田の戦法は、主として、木村の時間切れを狙ふ同一戦法であつたといふ話である。
 棋士一同アレコレ考へたが、先の予測がつかないやうであつた。ところが木村は、この時まつたく勝算があつたさうだ。この日の木村は、あくまで平静であつた。時間ぎれといふ、将棋そのものゝ術をはなれた塚田の奇襲は、まつたくヤブ蛇であつた。
 木村、十六分考へて、四八金。
 これも、控室の予想を絶した一手であつた。
「渋い手だね」
 と、金子が嘆声を放つと同時に、
流石さすがだなア」
 と、升田がうなつた。
 塚田、九分考へて、三三桂。木村ノータイムで二九飛。
 私は又ソッと道場へ忍んで行つた。その時午前二時三十五分であつた。二時五十分。塚田、駒台から銀をとりあげて、決然たる気合をこめて叩きつける。四六銀(十六分)。ただもう戦闘意識だけといふ、ちよッと喧嘩腰の力のこもり方であつた。負け気味のボクサーが、たゞもうテクニックなく、やけくそにぶつかつて行くラッシュに似てゐる。興奮し、ウハズッてゐるとしか思はれない。
 それに対する木村は、落ちつきはらつて、パチリと打つ。二六角(二分)つゞいて、塚田、四四桂(七分)六三角(一分)この時までに、木村四百五十五分を使ひ、塚田は三百七十六分使つてゐる。
 ここまでの指手を私が控室へもたらすと、土居、大山、金子、異口同音に、塚田が悪くした、とつぶやく。控室の高段者連、ここで塚田の敗勢をハッキリ認めた。
 塚田三六桂(二十分)木村ノータイム、五八金。塚田、また二十分考へて、三五金。
 この報らせが来た時、
「アア、あかん」
 土居八段はすぐ首をふつた。
「塚田名人、どうか、しとる。魔がさしたんぢや。負ける時は仕方のないもんぢや。それにしても、ひどい手ぢやなア」
「なぜですか」
 と、私。
「これは、ひどい手ぢや。せつかくの持ち金を使うて、たゞ角道をとめたといふだけ、ほかに働きのない金ぢや。これで金銀使ひ果してしもうて、木村前名人、さぞかし安心のことぢやらう」
 土居八段はハッキリあきらめたやうだつた。彼には塚田に勝たせたい気持があつたのであらう。
「オイ、これや。これや。前名人の左手がタバコをはさんで、頭の上へ、こう、あがりをるで」
 と、升田がその恰好をしてみせた。勝勢の時の木村の得意のポーズなのである。
 それから十分ほどすぎて、次の指手の報らせがきた。
 五九角(一分)五四銀(七分)七四角ナル。六二飛。三七飛。
 控室の一同が、その指手を各自の手帖に書き終つたばかりの時である。人が一人走つてきた。
「勝負終り。木村が勝ちました」
 アッといふヒマもない。一同がひとかたまりに道場へ走りこんだ。
 二年前に勝つた時もさうであつたが、負けた塚田も、表情には何の変化もなかつた。いつも同じショボ/\した眼である。
 あとの指手は、六三銀。八三馬(一分)八二歩。三八馬。四二飛。三六歩(一分)仝金。三七歩。仝銀(一分)仝角。四六歩。二四歩(二分)まで。
 時に、四時二分。

          ★

 録音機がクルクル廻つてゐる。木村、塚田、金子の三人が放送し、大山と私が対談を放送し、西村楽天氏らが放送した。夜は明けてゐた。
 私が控室へ戻つてみると、升田がひとりハシャイでゐる。思ふに彼は、すでに来年の挑戦試合を考へ、自らを挑戦者の位置において、亢奮を抑へきれないのであらう。
「悪い手を指すもんぢやなう。塚田名人ともあらう人が。日頃の鋭さ、影もない。負ける時は、あゝいふものか」
 升田は小首をひねつて、
「然し、木村前名人は、いや、すでに木村名人か。木村名人は、強い」
 ひとりハシャイでゐる。
 大山がそッと戻つてきて、私に並んで、窓を背に坐つた。彼はいつも物音がなく、静かであつた。私は大山にきいた。
「木村と塚田、どつちの勝つた方が、君にありがたいの?」
「さア?」
「升田は木村が勝つたので、ハリキッてゐるらしいが、君は塚田が勝つた方がうれしいんぢやないかね」
「さうでもないです。別に僕には、どつちがどうといふ区別はないです」
 然し、かういふ問題について、棋士の表現は大方当てにならないと見なければならない。みんな本心を隠し、時にはアベコベに表現する。大山はいつも平静で、敵をつくらぬ男であるから、なほさらである。放送で対談したとき、塚田の五二桂は時間ぎれを狙つた手でせう、と私がきいたら、イヤ、さうでもないんです、と彼は言葉を濁した。ところが塚田自身は、木村、金子との放送で、自らハッキリと、あれは木村の時間ぎれを狙つた手であつたと言つてゐるのである。大山は、本当のことを言ふことなどは念頭にないのである。それを当然だと思つてゐる。そして、私との対談に前もつて打合せなかつたことを後悔し、対談の構成とか、演出の効果を主として考へてゐるのである。この図太さは、棋士多しといへども、大山をもつて随一とする。頭抜けたアクターであり、その底にひそむ勝負師の根性ははかり知れないものがあるやうである。
 人づてにきいたところによると、升田は親友が名人位を失つたので、その日一日ヤケ酒をのんだといふ。もとよりウソッパチであらう。彼ぐらゐ木村の勝利に亢奮し、来年の挑戦を夢みて、すでに心も浮き立つ思ひの者はゐない筈なのであるから。その点、升田もアクターであるが、ちよッとアチャラカのアクターであり、大山は本舞台のアクターといふ感じであつた。
 木村と塚田が肩を並べて私たちの控室へやつてきた。木村の顔は明るかつたが、わざと明るさを隠すやうに、人々の背の後へ隠れ、壁にもたれて坐つた。塚田は入口へペタンと坐つた。
「僕の負け方は、見苦しくなかつたでせう。僕は見苦しくなかつたと思つてるんだけど」
 塚田は人々を見廻して、きいた。ちよッと敵意のこもつてゐる鋭さであつた。
「見苦しくなかつたとも。みんな、感心してまつせ。実に立派な態度やつた」
 と、誰かゞ云つた。私が放送室でチラときいた時も、塚田は、負けた態度が見苦しくなかつたらうときいてをり、又、参観の人々は、名人位を失つた塚田の態度がいつもと変らず、実に立派だといふことを口々に言ひ合つてゐた。
 まだ二人が対局中の控室でも、誰かゞ云つてゐた。木村は勝つた時のこと、負けた時のことを考へ、負けても取り乱さないやうに、充分心をねり、覚悟をかためてきてゐるさうだ、といふことを。
 負けた時に見苦しい振舞ひのないやうに。まことに悲しい思ひであるが、彼らがそこまで心を配らなければならないのも、心構えとしては当然かも知れない。
 私は然し思ふのである。ムダなことだ、と。勝つか、負けるか、試合の技術に全力をつくすだけでタクサンぢやないか。ほかは余計なことである。全力をつくし、負けて、泣きくづれたつて、いゝぢやないか。名人ともあらうものが、負けて、泣いて、とりみだして、といふ、さういふ批評の在り方が間違つてゐるのである。
 私は先日、刑務所からでゝゐる雑誌をもらつた。その中に、死刑囚についての座談会があり、刑務所長やら教誨師やらが死刑囚を語つてゐるのだが、死につくときの死刑囚の態度が立派だといふことを述べて、死に方が立派で、とりみだしたところがないために、その人間が魂の救はれた人であり、まるで英雄のやうにさへ語られてゐるのであつた。それに対して、小川といふ人が、たつた一人、かう云つてゐる。
「さうかなア。立派に死ぬといふことが、そんなに偉いことなのかなア」
 この人のつゝましい抗議は、この座談会では一顧も与へられてゐないのである。名人戦の参会者も同じことだ。死に方、負け方が見苦しくないなどゝ、ひそかに感嘆をもらしてゐるのである。かういふバカバカしい人々にかこまれて、見苦しくない死に方、負け方などに執着してゐる塚田が、気の毒でもあつたが、私はバカバカしくて仕方がなかつた。
 とりみだして、泣くがいゝぢやないか。変なところへ気を使はずに、あげて勝負に没入するがいゝぢやないか。そんなことよりも、将棋そのものの術をはなれて、相手の時間ぎれなどを狙ふ策戦の方がアサマシイぢやないか。私は、塚田は敗ける性格であつたと思ふ。はじめから圧倒されてをり、負けるべきことを感じてをり、はじめから小股すくひを狙つてをり、そして負ける者のあの気魄、負けボクサーのヤケクソのラッシュをやつたゞけの闘志であつたと思ふ。彼は対局のはじめからアガッてゐて、最後まで平静をとりもどしてゐなかつた。
 誰かゞ木村に云つた。
「持ち時間を長くしなきや、いけませんね。名人戦に時間に追はれるなんて、ひどいですよ。せめて名人戦だけは」
 と、月並な言葉であつた。なぜなら、誰しも云つてゐる言葉であるし、木村自身が、二年前、名人位を失つた時に、アア、時間に負けた、と叫んでゐることでもあるからである。
 ところが、この時の木村の返事が変つてゐた。彼は無造作に答へた。
「イヤ、君。時間はいくらあつたつて、同じことだよ。時間がたくさん有りや、はじめのうちに余計考へるだけのことで、どのみち終盤で時間がつまるのは、おんなじさ」
 仰有おっしゃいましたね、といふところだらう。これだけ考へが変つたゞけでも、この二年間は木村にムダではなかつたのだらう。
 木村と塚田は自動車で帰つた。私と大山は肩をならべて、まだ人通りのすくない濠端から東京駅、京橋へ歩いた。私たちは毎日新聞の寮へ行つて、酒をのんだ。私はまだ二十七の風采のあがらぬこの小男の平静な勝負師が、なんともミズミズしく澄んで見えて、ちよッと一日つきあひたい気持がしたからであつた。

底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
   1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第一二号」
   1949(昭和24)年8月20日発行
初出:「別冊文藝春秋 第一二号」
   1949(昭和24)年8月20日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:土井 亨
2006年7月11日作成
2009年6月20日修正
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