先ず範疇に就いて一般的に考えて見ることが必要であると思う。範疇は云うまでもなく哲学の根本的な問題であり又終局的な課題でもあるであろう。古典的な起源と複雑な歴史的変遷とに加えて、現在に於て又将来に於て、人々は夫々云おうとする処を云うであろう。範疇は何であり又何で無いか、何が範疇であり又何が範疇でないかを議論するであろう。私は併しながら之を議論し之を決定しようとは思わない。ただ多くの所謂範疇論がとった様々の形の基に、或る一定の「条件」があり或いは又無いということだけを取り出して見ることが出来るならば、充分である。
 吾々は事実に面接して生きており、吾々は事実を見そして之を語る。茲に事実とロゴスとが対立している。ロゴスは吾々の側に於てあり、事実とは吾々の彼岸に於てあることであるから、この対立が正しく主観的と客観との対立――主観客観という概念を出来るだけ一般的にするならば――なのである。このような意味に於て、認識は主客の対立なくてはあり得ない。縦え主観が客観を構成するのであると云っても、「与えられたもの」「課せられたもの」――之が一般的な意味で客観である――なくして構成が成り立ち得ようか。主客の対立を先ず許しての上でなければ、主観が客観を構成するという転回的な言葉も実際上は虚しい合言葉に終る外はない。認識は主客の対立を予想する。故に逆に主客の対立を予想する一切の立場は、この意味に於て、「認識論的」な立場であると云うことが出来る。さて範疇は嘗てロゴスと共に始まった。アリストテレスの範疇表が文法に由来する――併し之はその偶然であることを証明するのではなく寧ろ却って今私が云うていることからその必然性が主張されることになる――と説いたトレンデレンブルクの研究がすでに之を具体的に示している(Geschichte der Kategorienlehre 参照)。併しながら注意しなければならないことは、ロゴスと共に始まったとしても範疇は、後に明らかとなる通り、必ずしもロゴスから生れたということになるのではない。それは事実から生れたかも知れないし、又事実とロゴスとの本来の同一がもし在るならば之から生れたかも知れない。処が元来、範疇は事実に就いて始めてその意味を有つことが出来るのであるから、今もし範疇がロゴスから生れたと仮定すれば、それは「認識論的」な意味を有つことになるわけであり、もしそうでない場合には他の意味を有たなければならないわけである。この後の場合、即ち認識論的ではない処の意味を有つ時、私は範疇をば「存在論的」と呼んで好いであろう。向に私が「条件」と云ったのはこの「認識論的」又は「存在論的」を指したのである
* 私は範疇に就いての「認識論的」と「存在論的」との対語を O. Spann の“Kategorienlehre”から借りた。無論その区別は必ずしもこの人の思想に相当しないかも知れない。
 繰り返して云えば、認識論的とは主観と客観との対立を予想することそのことである。そして範疇が認識論的であるというのは従ってそれがロゴスから生れるということであった。処がその淵源(Genesis)をロゴスに有つものは「論理的」(logisch)である。かくて認識論的範疇の第一の性質は論理的であることになければならぬ。処が又一般に、論理的であるものは概念か判断か推論かの形に於てなければならぬということを何人も認めなければならない。故に範疇は第二にこの三つのものの何れかの形に於てある筈である。但しこの三つのものが本来どういう関係にあるかという――例えば概念は実は一つの判断であり之が又実は一つの推論でなければならぬというような――論理学的な議論はしばらく別として、今は仮に之を各々独立に考えて置こう。併し中にも重大なのは概念と判断である。であるからして或る範疇が概念乃至判断の形に於てあることを知ることが出来たならば、それが認識論的であることを着想するのが自然である。さてカントは感性と悟性とを、即ち直観と概念とを区別して、恰も時間と空間とが純粋直観(乃至直観形式)であるように、範疇は純粋概念、「純粋悟性概念」であるとする。それは「純粋悟性の本当の基本概念」と考えられる。かくて範疇はまず第一に概念なのである。併し乍ら何物かが概念であると云われる時、そこには区別しなければならない二つのものが意味されていることを私は注意したいと思う。同一ということは一つの概念である。併し云われる如く吾々は同一なるものを見又聴くことは出来るかも知れないが、同一そのものを見又聴くことは出来ない。というのは吾々はこの概念に当体する存在を承認することが普通の意味に於ては不可能なのである。普通の意味に於てというのは、同一とか相似とかいう関係概念が意味する関係は或る意味に於て存在するかも知れない、併し関係の項が存在すると同じ意味に於て存在するのではない、ということである。今茲に可能である二つの場合は、この関係そのものが何の特殊の存在をも有つのではなくその故にこそ夫を概念であると考えるか、或いは又そうではなくして、それが或る特殊の存在を有ち、そしてかく存在する、関係に就いて我々が関係という概念を有つか、二つである。之を一般に範疇に就いて云い改めれば、範疇が概念であると云うのは、範疇が存在ではなくして概念であると云うのか、それとも範疇は存在しているが其の上に吾々がそれに就いて範疇という概念を所有するのであると云うか、のどれかである。今もし後の場合であるならば、たとえ吾々が範疇という概念を用いて思索するにしても――何となれば概念を用いずして思索することは出来ないから――範疇そのものは概念であるのではない。主観がそれを思索すると否とに関らずそれは存在するものであろう。故に約束に従ってそれは存在論的であるのである。之に反してもし前の場合であるならば、関係の項を関係せしめることに於て関係が成り立つと同じく、範疇は範疇されるべきものを範疇する処に成り立つのであるが、範疇そのものが概念であるに反して範疇されるものは存在であることになるから、範疇と範疇されるものとの間に必ず対立がなければならないわけである。処がこれは主観と客観の対立に外ならない。故に約束に従って之は認識論的である。不用意に、範疇が概念であると云う時、それはなお存在論的とも認識論的とも考えられる余地があるわけである(この混雑は恐らく概念が一切のものを自らの内に含み得る能力、云わば平均性 Nivellierung を持っていることから起こるであろう)。さてカントの考えは何れであるのか。明らかに認識論的である。このことは第二にカントの範疇が判断の形に於てあることによって再び証明されるであろう。「範疇は、与えられた直観の多様が夫によって規定される限りに於て、正にこの判断の機能に外ならない」(K. d. r. V. B., S. 143)。処が少くとも此の場合に於ては判断は判断されるものに就いての判断である。客観に対する主観である。故に茲に於ても亦カントの範疇は認識論的でなければならない(概念ということが直ちに認識論的ではないことと同じに又それに類して、判断ということも直ちに認識論的であるのではない。「論理的」ということに就いてもかく云うことが出来る。之は後に明らかとなるであろう)。カントの範疇をかくの如き意味に於て――認識論的という意味に於てである――徹底したものはヴィンデルバントである。彼によれば範疇は、それが判断に於てあろうと概念に於てあろうと、“Formen des beziehenden Denkens”に外ならない。範疇とは「思惟の総合的形式、即ち直観的に与えられた内容が、統一する意識によって互いに結び付けられる関係」と考えられている。それは「意識に於ける多様の総合的統一」から「生れる」のである(Vom System der Kategorien 参照)。であるからそれは思惟にぞくし又意識にぞくし、又それから生れる。処が已に用いた考え方を繰り返せば、この場合では思惟は思惟されるものに就いての思惟であり、意識は意識されるものに就いての意識である外はない。茲に認識論的範疇の最も判明な典型を見逃すことは出来ないであろう。
 カント従って又ヴィンデルバントの範疇が認識論的であることは判ったとして、それが更に一つの特徴を有っていることを忘れてはならない。というのは、主観と客観との対立を予想しながら夫は、なお且つ常に主観――概念、判断、思惟、意識など――に於てあるものと考えられていることである。そこで吾々は主客の対立に立ちながら今や主観には非ずして客観に於て之を求めて見る理由がありはしないか。人々は次のように云って反対するかも知れない。仮にカントの範疇論に於て、主客の対立が予想されていることを許すとしても、そのことからしてその範疇が主観にのみぞくすということは出て来ない。真理の客観性が成り立つための条件として範疇が求められているのであるから、云い換えれば範疇が真理の客観性を構成するのであるから、範疇が主観にぞくすと仮定すれば同時にそれは又客観にもぞくさなければならない。理性の普遍的必然性が同時に実在の真理内容であるということこそカントの範疇論の真髄ではないか。故に之を主観にぞくすものと決めて、之とは別に、改めて客観にぞくすものを求めようとすることは、全くその理由がない、と。併し私は第一に真理の客観性と吾々が今云うている客観とを区別しなければならないのである。数学の命題は一つの客観的真理であるであろう、併しそれであるからと云ってそれは客観であるのではない。或いは数学の命題と雖も数学の世界の一つの内容であり、一切の「世界」は客観であるから、それは又客観にぞくすと考えることが出来る、と云うかも知れない。併しそうすれば私は第二にこのような可能的な世界――永久真理の世界――と実在界――事実真理の世界――とを区別しなければならない。私が主観に対して客観と呼ぶものは後者を含むもののことである。処がまた云うであろう。その実在界と雖もカントに従えばまた主観の構成の外ではない、例えば一つの原因甲に一つの結果乙が従うという実在内容を認識するものは、即ちそれを構成するものは、主観そのものである、従って例えば因果の範疇は主観にぞくすと共に従って又客観にぞくすこととならざるを得ないではないか、と。併しそう云うならば、私は第三に実在ということと、客観ということとの区別を明らかにしなければならない。後の原因甲が結果乙を伴うということを此の一定の瞬間この一定の場処の一つの実在内容であるとする。そうすれば同じ瞬間同じ場処で原因丙が結果丁を伴うということは実在内容となることは出来ない。然るにそれにも関らずこれは向の場合と同じく客観にぞくすであろう。因果関係は主観に於て行なわれるのではない。又更に此の瞬間此の場処に於て向の二つの因果関係の何れもが又如何なる因果関係もが行なわれなかったにしても、又更に一般に如何なる範疇の働きの当体も現われる余地がなかったとしても、何ものかが(それは実在内容ではあり得ない)なお客観にぞくさねばならぬ。範疇の当体はこの客観に於て始めて現われるのである。即ち之を云い換えれば一切の実在内容を除いても、なお客観は残る筈なのである。之が両者の区別である。処がこのことは却ってカント自身が次のように云い表わしている処のものである。即ち、悟性概念たる範疇と直観形式たる時間空間は別である、と。範疇は実在内容を規定し、現象は客観を与える。かくて範疇(それは主観にぞくしている筈であった)は客観なる現象に就いて範疇はするが、併し之を構成することは出来ないであろう。併しかく云っても無論時間空間による現象界だけが客観であるという意味ではない。けれども以上のことは次のことを証明している。即ち、主観は本当の意味に於ける――所謂真理の客観的妥当性というが如きものではない――客観そのものを構成することは出来ない、ということ。実際、対象の超越性――それが客観である――は正に主観に対する超越性に外ならない。カントに於ては之は第一に範疇に対する現象の超越性となって現われる。併し現象をもなお主観的であると云うならば(併しこの主観的は範疇のそれとは異っている筈である)、第二にそれは物自体のもしくはノウメナの現象に対する超越性となって現われている。処がこのような関係にある主観と客観との対立を仮定することが認識論的であった。それ故カントの範疇は、之を仮定した上に、特に主観にぞくすものであることが明らかとなった。そこで吾々は、主客の対立を仮定しながら且つカントとは異って範疇を客観に於て求める理由がある筈ではないか。
 私にとって範疇をば客観にぞくすと考えたかのように思われる処の人々の内、さし当り代表的な二つの場合、即ちハイデッガー(Heidegger, Kategorien- und Bedeutungslehre des Duns Scotus)とラスク(Lask, Die Logik der Philosophie und die Kategorienlehre)とを参照して見よう。前者。ハイデッガーによれば「範疇は対象の最も一般的な規定である」(S. 232)、それは、「実在界」「対象界」にぞくす。即ちもしこの対象が吾々の求めている客観であるならば、範疇は客観に属すこととなるのである。併しながらこの対象は実は客観ではない。何となればもしこの対象が客観であるとすれば、範疇はまず何よりも思惟や判断等に、一般に主観に、属してはならなかった筈である、処がハイデッガーに従えば、それは一方に於て、「思惟の機能」、「思惟の形」であり、範疇の問題は「判断の問題」及び「主観の問題」へ関係せしめられねばその本来の面目を失うて了うからである。故に範疇は今の場合の意味での客観に属すものではない。吾々はただ彼に於て客観の方向への着眼を発見するだけであって、たとえこの着眼に於て範疇の意味が重大な変化を受けていることは明らかであるとしても、それによってはまだ吾々の探求に適わしい事例を発見することは出来ないであろう。後者。ラスクの「領域の範疇」に於ては純粋形相に属す意味の充実(Bedeutungsfulle)は必ず質料界の特殊によって決定されている。処が特殊の質料を指し示す形式が対象性(Gegenst※(ダイエレシス付きA小文字)ndlichkeit)に外ならない。故に領域の範疇に於ては純粋形象――それは論理的形式一般である――は対象性一般によって決定されているわけである(2 Teil, 2 Kap.)。故にもし人々が範疇という言葉をば単に純粋形相としての論理的形式ばかりではなく、之とは異った意味にまで拡張しなければならないならば――そしてかく拡張されたものが領域の範疇である――範疇とは「対象の形式」でなければならない。かくてラスクに従えば範疇は対象にぞくすこととなる。従って吾々によればそれは又客観にぞくすこととなりそうである。併しながらラスクの対象乃至対象性とは何か。彼によれば「コペルニクス的定立」に従って、対象の領域は又真理の領域でなければならない。対象性とは、たとえそれが純粋形相にぞくすものではないにしても、なお一つの「論理的形式」「最広義に於ける論理的形式」なのである。無論この論理的形式即ち真理は命題とか判断とかに於けるように“gek※(ダイエレシス付きU小文字)nstelt”な意味を有つのではなくして、正に対象を意味するのであるが、この対象というのが実はとりも直さず理論的な「意味」(theoretischer Sinn)そのものなのである。それ故に範疇は対象にぞくし、そして対象が即ち真理であるとすれば、範疇は真理そのものの内にぞくさなければならない。それは「真理の形式」である。処で今もしこの真理が認識の普遍妥当性を意味するならば――それは認識の非普遍妥当性即ち虚偽と対立している――已にカントに於て明らかにしたことによって、それは主観の構成に過ぎないから吾々の求めている客観ではない。之に反して真理をば認識の普遍妥当性以上のものとすれば、それはそれ自体に於てあり従って主観を超越し故に又吾々の意味する客観であると考える以外の可能性はない。範疇は客観に於て求め得られたこととなる。もし今この後の場合を取るならば、吾々はラスクに於て吾々の要求――客観に於て範疇を求める――を満足出来るわけである。この要求の外に併し吾々にはもう一つの要求があった。それは「主観と客観との対立を仮定しながら」という約束である。而もラスクはこの約束をも果している。何となれば「認識ある限りに於て必ず範疇あり、認識論と範疇論とがある」(Gesammelte Schriften, Bd. ※(ローマ数字2、1-13-22), S. 88)、範疇は認識ある処に於て、即ち主観と客観との対立ある処に於て、成り立つものに外ならないからである。ラスクの範疇も亦認識論的である。
 私はこれまでに認識論的範疇の二つの主な場合をとり出した。即ち主観と客観との対立を仮定した上で、第一に範疇を主観に於て求めたもの――カント従ってヴィンデルバントの場合――と、第二に之を客観に於て求めたもの――ラスクの場合――と。第一の場合は何の困難を含むとも考えられないと思う。処が之に反して第二の場合には一つの困難に気付かなければならない。今或る事柄を客観に於て、又は之に就いて、又は之に属すものとして求めると云う場合、客観という言葉を最も純粋にする時、吾々は一体主観と客観との対立ということを仮定するのが、第一に必要であるか。第二にそれは可能であるか。無論主観に就いては之は必要であり従って、又可能である。主観とは客観との対立に於て始めて許されることである。主観という一つの概念が、概念の一切の対立がそうであるように、客観を予想しなければならないばかりではなく、この概念が表わす処の事柄そのものが(概念がではない)客観との対立に由来するのである。客観なくして主観は概念としても事柄としても許されないことである。処で客観も亦主観と異る理由はないと云うかも知れない。処が併しそれは実は当らない。客観に就いても主観の場合と同じくまず客観なる概念とこの概念が表わす事柄そのものとを峻別する必要があると思う。客観は概念として主観との対立を予想してはいるが、併し他方に於て、事柄としては主観との対立を否定しているのでなければ客観と云うこと自身が不可能である。何となれば客観は主観を超越するという意味がなくては一般に意味がないからである。超越とはそれとの対立の否定でなくして何であるか(私は已に概念ということに就いてもこの論法を用いた。カントの項を見よ)。或る意味に於て、対立ということは超越的なるものと内在的なるものとの対立の外はない。何となれば並存的なものの対立にはすでにこの対立を内に含む一般者が必要であり、かくてこの一般者――それが超越的なるものである――とそれに含まれるもの――それが内在的なるものである――との対立だけが残されるからである。併し重大なことには、この対立は内在的なものから見て始めて対立であるので、超越的なるものから見れば対立の否定そのものである。主観と客観の場合も亦之に外ならない。客観の(又は対象の)超越性を主観から見れば、主客の対立であり、之を客観から見れば、その否定でなければならない。即ち客観をば概念――それは主観の見地である――として見ればそれは主観と対立し、之を事柄――それは客観の事実である――から見れば対立の否定そのものである。云い返せば客観は主観から見れば主客の対立を予想するが、客観そのものから見れば対立を予想する理由が無くなって了う。即ち何物かを客観に於て、又は之に就いて、又は之に属すものと考える時、第一に主客の対立を仮定する必要がないのである。又第二にそれは不可能でもある。何となればもし対立を許すとすれば、それを主観から見ることとなり、従って客観そのものに就いて語ることではなくなるからである。以上のことを逆に云えば要するに主客の対立に於ては本来の客観を語ることが出来ないのである。もしラスクの場合の如きものがあるとすれば、それはこのような本来の客観をば「主観の側から」という一つの条件の下に、即ち「主客の対立」という仮定の下に、投影したものに外ならないであろう。客観という名辞そのものがかかる投影の所産である。客観というものは一つの二律背反を有っている、それは主観と対立しながら且つ之を超越する、即ち之と対立しない。恰も吾々が直観と云う時それは一応は概念でなければならないのにも関らず、本来はこの概念を超越することでなければならないと同じである。ラッセルが提出したかの二律背反――「百字以下の文字によっては定義し得ない処の最小の数」は明らかに存在する。併し又存在しない、何となれば百字以上を以てでなければ定義されないその数が今や二十四字を以て定義されているから、かかる数は矛盾している故であると。恰もこの二律背反が茲にも現われるのである。而もそれは主客の対立に投影しようとするロゴスの業による。所謂「コペルニクス的定立」も超越的なものに対するかくの如き内在的な解釈でなければならない。無論之を虚偽であるというのではない。併しまた直接の真でもない。それは一つの条件一つの仮定の下に立っているからである。そして今やこの条件この仮定が問題にとって不充分なのである。そして更にその不充分な理由は、この条件この仮定が問題に対して見当違いであるためである。同じくこの理由からして、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『範疇論』に対しても、私は今の問題の発展解決を要求することは出来ないであろう。少くとも“subjektiv ideale Sph※(ダイエレシス付きA小文字)re”“objektiv reale Sph※(ダイエレシス付きA小文字)re”との対立を除き去らない限りはそうである。さて以上のことから結果するのは次の事柄である。もしも吾々が客観そのものに範疇を求めることを要求するならば、吾々は主観と客観との対立という伝統を除き去らねばならぬということ。私はこの要求を歴史的に必然なものであると主張しているのではない。寧ろそれは非歴史的なまでに根本的な転倒を伴うかも知れない。併しこの種類のことは今の問題とあまり関係のあることではない。さてこの要求は、主観と客観との対立を除き去ることを要求する。処が最初に決めた通り、この対立を予想する場合が認識論的であり、そうでない場合が存在論的である筈であった。であるから範疇を客観に於て求めるという着眼は、吾々をして認識論的範疇を去って、存在論的範疇へと推し進ませずには置かないわけである。
 存在論的範疇は始めから主客の対立を認めない立場に立つ。それ故に厳密に云うならば、客観にぞくすと云う言葉すら意味がない。今この種類にぞくす重な範疇論を挙げるならばその数は非常に多いであろう。私は今その一例を掲げ之を指摘するだけに止めなければならない。ヘーゲルがそれである。
* この立場に於て直ちに思い至るのはアリストテレスの範疇であるであろう。所謂十個の範疇の内最も重大なのは云うまでもなく実体のそれである。処が実体は独り「範疇」の中心であるばかりではなく、同時に又「形而上学」の中心ででもある。然るにアリストテレスに於てその論理学と形而上学との結び付きは、人も云うように、薄弱であることを免れない。この結び付きに重大な興味を持つべき今の問題にとっては、それ故、アリストテレスの範疇の理解は非常に困難である。
 已に最初に明らかにしたように、認識論的な範疇は論理的でなければならない。併しながら逆に論理的なものが凡て認識論的であるのではない。それは存在論的でもあり得る筈である。そして恰もヘーゲルがその一例である。理性的なものは事実的であり又、事実的なものは理性的である、と云うているように、ヘーゲルの範疇はロゴスと事実との同一――始めを見よ――から生れる。それ故これは最初の約束に従えば存在論的範疇の一つの場合である筈であった。さて併しながら存在論的範疇の他の一つの場合もあるのを忘れてはならない。即ちそれが事実から生れる――始めを見よ――という場合である。そしてこの場合には、それはその Genesis に関しては、ロゴスとは全く関係がないからして、論理的であり得ることは出来ない。即ち一般的に云うならば、存在論的範疇は必ずしも論理的ではないのである。処が多くの人々は範疇を一般に論理的、或いは理知的(例えば、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの“Intellektualfunktion”)と考えている。この矛盾はどう解かれるべきであるのか。範疇が論理的であると云う場合には二つの異った理由があると思う。第一は範疇がその Genesis をばロゴスに有つと考えるからである。処が私はそうでない場合にまで範疇を拡張した。であるから茲にあるものは矛盾ではなくして区別であるにすぎない。第二に範疇がロゴスと共に始まると考えるからである。そうすれば無論吾々は之を承認しなければならないであろう。併しながら最初に触れたように、ロゴスと共に始まることとそれから生れることとは全く別である。前者は、あるロゴス以外のものから産れながら而もその産れる場合にロゴスを縁としなければならないということにすぎない。今仮に範疇が事実から生れるとする、即ち範疇とは事実の或る根本的な規定であると仮定する(之は後に明らかとなる)、更に正しく云うならば範疇そのもの――範疇という概念名又は言葉ではない――は事実にぞくすものとする、その時でも吾々はこの範疇をロゴスとして口にすることが出来るのは明らかである。例えば此処に在る物に就いて「此処」として語ることが出来る。そしてかく、範疇そのものを言葉として口にする時、それ以前にではなく、始めて、この範疇そのものに範疇という名が付くのである。けれども範疇と名づけられるべきものがまず在ったのでなければならぬ。であるからして範疇そのものはロゴスにぞくすのではなくして、ただその概念、名、言葉のみがロゴスにぞくす。それは事実にぞくすのであって、ロゴスはただ之に範疇という名を与え得るだけである。範疇がロゴスと共に始まるというのはこのことを指している。その時それは事実にぞくすから、即ちロゴスに生れるのではないから、私の定義した意味で論理的ではない。併しながら無論之を他の意味に於て、即ちロゴスと共に始まるという意味に於て、論理的と呼ぶことは自由である。この後の意味で論理的であることは一切の範疇に就いて始めから承認されていたことである。故に論理的でない処の範疇が示された処で、それは何の矛盾を含むものでもない。一般に云えば存在論的範疇は非論理的である。

 以上のことは存在論的範疇の意義を明らかにした。云い換えれば、一般に範疇をば、主客の対立を用いずに、客観対象乃至事実の内に求める理由が提供されたのである。併しながら同時に以上のことはただ、範疇が何に於てあり若しくは何の形に於てあるかを告げただけである。範疇とは一般に何か、或いは存在論的範疇は一般に何であるか、はまだ少しも決まってはいない。私は、最初に述べたように、之を決定しようとするのではない。ただ私が範疇という概念を用いることによって、寧ろ範疇そのものの問題ではなくして或る他の一つの問題を解き得るためには、即ちかかる条件の下に於ては、範疇が何でなければならないか、を次に明らかにする必要がある。というのは、元来範疇が何であるかに就いては、厳密に云うならば、一致した意見を見出すことが出来ない、であるから或る与えられた問題の解決にこの概念を用いて寄与し得るように吾々は範疇をば適当に解釈し得る筈なのである。又そうでなければ、吾々は範疇を云々する理由を失うて了うわけである。そこで私は範疇をば種々な歴史的制約からは独立に、私自身の問題が要求するのに応じて決めて行こう。併し第一にそれが特に存在論的範疇に就いてでなければならない理由がある。私はこのために此まで存在論的範疇をば求めて来たのである。但し予め断わっておかねばならぬことは、私が範疇は何々であると規定する時、もしも人々がそれは範疇ではない、というならば、私はそれに反対することは出来ない。併し同時に私は人々がそれを範疇以外の既知の何かとして指定することをも許さない。
 かく断わった上で存在論的範疇は何と考えられなければならないか。第一にそれは事実――事実とはロゴスとの対蹠というだけの意味である――の有つ偶然性ではなくして必然性であらねばならぬ。非本質的なものではなくして「本質的」なものであらねばならない。併し具体的なものの所謂本質は決して一義的ではない。卓上の一枚の紙の本質は繊維素とも考えられるし新聞紙とも考えられる。そこで第二にそれを本質的なものの内の「形式的」なものであるとしなければならぬ。そうすれば恐らく繊維素が択ばれるであろう。処が又部分的なものも全体的なものも内容に対して形式を持っている。そして部分的なるものの形式が凡て同一であり従って直ちに全体の形式であることは保証出来ない。もしそうであるとすれば部分の形式はなお全体の形式に対して内容となる。真に形式的なものはそれ故第三に「全体」の形式でなければならない。処が又真に全体なるものは吾々が之を此として指示することは出来ない。此として指示すれば彼が残されるであろう。指示するには他との区別を必要とするからもはや全体ではない。故に指示し得るためには或る一つの特徴(Charakter)を条件としての全体である外はない。かかる全体は領域である。それ故第四に一定の特徴を有つ「領域」の形式である。併し又この形式がこの領域より広い他の領域の形式であるならば(より狭い他の領域であることはない、何となれば領域は一つの全体であったから)、それはこの領域の形式ではなくして他の領域の形式となって了う。故にこの形式はこの領域の特徴を云い表わすものでなければならないこととなる。依って第五にそれは領域の「特徴」である。処が更に又特徴とはすでに夫を有つ領域をば他の一切の領域から区別するために欠くことの出来ないものであった。そして而も領域の特色とする処はその性質上、それが他から区別されることによって始めて成立するということにある。故にこの特徴は領域の成立に必要にして且つ充分な条件となる。かくて最後に存在論的範疇は「領域」の成立に「必要にして且つ充分な制約」であることを必要とするのである。それは一つの「領域の範疇」と呼ぶことが出来る(認識論的範疇であるカントの Conditio sine qua non と之とを比較せよ)。認識論に於ては、制約と云えば直ちに所謂論理的制約が想い起こされる。併し不用意に理論的制約とは云うが、そこには知らず知らずの内に三つの別な意味が結び付いていると思う。第一にそれは心理的からの区別として、即ち心理的ではないものとして主張される。心理的とは心理に於ける或いは一般に経験に於ける、因果関係による発生に関することか、或いは心理的要素からの或いは一般に要素からの構成かであるが、之に対する反対としてそれは主張される。さて範疇、少くとも存在論的範疇は、一般に云って原因とも構成の要素とも考えられる理由がない。であるから吾々は存在論的範疇としての制約をこの意味に於て論理的と呼ぶに異議はない。併し第二にそれは論理にぞくすことであるかの如く考えられている。最初にあるものが論理であり之からの最も広い意味に於ての発展として範疇が導き出される(汎論理主義に於ての如く)か、それでなければ之を論理に還元し得る(例えばAならばBであるという場合の仮言としての条件としての如く)とするか、である。併し明らかに存在論的範疇としての制約はこの意味に於ては論理的ではない。第三に、併し非常に間接な意味に於て、それは主観にぞくすことであるかの如く考えられる。ある意味の観念性の如き之である。観念性をば実在性と区別することは無論差閊えない。けれども若し之をば主観という意味に於て観念性と呼び、客観という意味に於ての実在性と区別するのならば、明らかに存在論的範疇としての制約は観念的ではないと云わなければならない。之は約束に従って主観にはぞくさないからである。さて私が存在論的範疇をば、領域の成立に「必要にして且つ充分な制約」であるという時、この制約は、それ故、第一の意味に於ては論理的であるが――而も之を論理的と呼ばねばならぬ実際的な理由はない――他の一切の意味に於ては論理的であることは出来ない。それは論理的制約――認識論的制約と呼ぶことも出来よう――ではなくして正に「存在論的制約」と呼ばれなければならない(論理的制約であると解釈されているカントの Conditio sine qua non と之とを比較せよ)。存在論的範疇は領域の成立に必要にして充分な存在論的制約である。之までに明らかにすることの出来たのはこのことである。
 この制約に就いて茲に一つ乃至二つの重大な特質を挙げて置く必要がある。向に述べた意味に於て、存在論的制約は論理的制約に較べて、一つの条件、即ち「充分である」という条件、を余分に含んでいる。処がこの充分なる条件とは、それが在れば必ず一定の領域が成立しなければならない処の条件である。即ち条件が直ちに――何となれば問題は論理的ではなくして存在論的であるから――領域そのものを成り立たせなければならない。存在論的制約とは領域の特徴であった筈である。故にこの制約そのものが、特別の言葉を借りるならば「内容」(Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)ten)を有たなければならない。茲に内容というのは、感覚内容(Sinnesqualit※(ダイエレシス付きA小文字)t)、或いは形態内容(Gestaltqualit※(ダイエレシス付きA小文字)t)、或いは総括内容(Gesamtqualit※(ダイエレシス付きA小文字)t)の「内容」を意味する。それはもはや単に形式ということは出来ない。例えば形は成程形式ではあるが、なおその形態内容を有つと考え得る場合に於てのように、それは又内容でもある。であるから吾々は、この制約を制約一般としてではなく、何物かとして――それが内容である――の制約であるとして指し示すことが出来る筈である。仮に今領域ということを問題外に置くとすれば、例えば卓は花瓶の土台としての制約であると云うように、或いは又光が色の透明としての制約であると云うように、何物かとして指示することが出来るであろう。次に之から帰結するのは、この制約が内容であるから、その内部に於て種々なる「規定」を含むことが出来るということである。今の例で云えば土台即ち卓が固いとか軟いとか或いは又透明即ち光が強いとか弱いとかを規定し得るであろう。領域の存在論的制約である存在論的範疇は「内容」を有ち又その「内容規定」を有つことを忘れてはならない。

 以上二つの断章の結果は、唯だ次の二つである。第一に存在論的範疇は領域の存在論的制約――即ち必要にして充分なる――であり、第二にそれは「内容」とその「内容規定」とを有つ、ということ。私はこれだけの結果を用いて次に空間に就いての一つの問題を解こうと思う。それは以上の出発と結果とを客観的な存在へ応用することに外ならない。但し茲に客観的な存在と呼ぶのは最も常識的な意味に於てである――私は之を問題に対して最も忠実な出発点と信じる。それは内界に対して外界と呼ばれるもの、精神乃至意識に対して自然乃至存在と呼ばれるものをいう。私は仮に之を「存在」と名づけてよいであろう。但しそれは存在論的なるものと外延の上で一致を示すのではない。そこで私はこれから「存在」に於て何が存在論的範疇であり、又その存在論的範疇は何かを見出そうとする(以上特に断わらない限り範疇とは存在論的範疇のことである。制約も之に準じる)。
 存在の範疇は何であるか。即ち存在の制約とは何か。それは存在そのものでなければならない。「存在であるということ」自身が夫である。併し存在であるの「ある」は繋辞の is ではない。凡そ繋辞の is は人も云うように、“The truth is that”ということである。然るにこの、という「こと」は、存在論的ではない。何となれば、例えばソクラテスの髪は白かったとすれば、白かったという「こと」は之を或る書籍の内に発見することが出来る、併しソクラテスの髪はその書物のどの頁に於ても白くはない。というのは白かったという「こと」、この dass は、吾々が之を語り考え推測することは出来るが、この語り考え推測するのは、髪が白いのではない。dass はロゴスにぞくしそれと異るものは異るものに属さなければならぬ。故に「こと」は存在論的ではない。故に又「ある」は繋辞ではない。それ故に「存在であるということ」は「存在するということ」なのである。併し存在することの「こと」は今云ったことによって已に存在論的ではない。故に単に「存在する」と云わなければならなくなって来る。私は之を云い表わすのに人々の用いる「存在の仕方」(Seinsweise)という言葉を以てしよう。但しこの場合の「存在」は私が向に約束した処の狭い意味にのみ解釈した上でのことである。さてアリストテレスに従えば存在――それは一般に広い意味に於てであるが――という意味を二つに分けることが出来る。第一は如何なるかの性質の又は何れ程かの量の或いは其の他の述語の「或る物である」ということであり、第二に「何であるか」ということである。処でこの何であるかにも亦色々の意味があるであろうが、第一義に於けるひたすらなる存在そのものは、正にそれに依って以て或るものが存在し得る処のものでなければならない。それは「或るもの」ではなくして「在る」でなければならぬ。之が「実体」である(Metaphysica, Z 1)。処で今吾々が「存在の仕方」を求めるならば、そして仮に存在という言葉の意味を一般に広く解釈すれば、それは「実体」に外ならないこととなるであろう。何となれば前に結果したことによって、吾々の求めているものは「存在する」であったが、この存在を広く解釈すればそれは正にそのままこの「実体」に当て嵌まるからである。実体とは存在の仕方であると云うことが出来る。それでは実体とは、も一歩立入って見ればどんなものであるか。アリストテレスはその解釈の種類に四つの場合を挙げてその尤なるものとして substratum を指定している。それによれば実体とは、他のものがその述語となりそれ自らは他のものの述語となり得ないものを云う(Z. 3)。実体とは論理学的に云うならば常に主語となる処のものに外ならない。実体は一つの併し根本的な――何となれば他のものは之の述語であるから――範疇なのである。併し私はこの実体という範疇――なる程それが存在の仕方を云い表わすことは已に明らかになっているが――それが存在論的範疇であるか或いは又認識論的範疇であるかということを正確に決定しようとは思わない。唯だ併しこの一般的な意味に於ける「存在」の「存在の仕方」としての実体をば、特殊の意味に於ける、即ち私の意味での「存在」へまで限定して見るのが吾々の問題にとって適当であるであろう。無論一般的なものを特殊なものに限定する場合、後者は前者に含まれなかったものを含んで来るから、後者の結果を以て前者の性質を決めることは出来ない。であるからこの限定によって生じた結果をアリストテレスの実体に当て嵌めることは出来ない筈である。念のためこのことを断わっておかなければならない。さて、「存在」に於て「実体」と考えられるものは何か。というのは他のものがその述語となり自らは述語とならないものは「存在」に於て何であるか。「物」がそれである。併し物という言葉も多義であるのであろう。処が吾々は常に「制約」を求めているのである。であるから例えば山であるか樹であるかは物の区別とはならない、それは凡て一種類の物である。故にそれを「物質」(Materie)としての物と云えば一層明らかとなるであろう(カントは Metaphysische Anfangsgr※(ダイエレシス付きU小文字)nde der Naturwissenschaft に於て、物質=物=実体と考えている)。かくて物は吾々の求めている「存在の仕方」であるかの如く思われなくてはならない。何となれば「存在の仕方」と思われる物とは、物としてある、物がある、であって、前に繰り返したことによって無論、物としてある「こと」物がある「こと」ではない。物は存在の制約としての存在の仕方であるかの如く見える。併しながらかく云うことは必ずしも当らないことを注意する必要がある。元来物とは一つの特殊を意味する――恰もアリストテレスの実体がそうであるように。而も明らかにそれは存在に於ける一つの特殊である。即ち領域に於ける――何となれば存在をば存在として他と区別するものが領域である筈であったから――一つの特殊である。故にそれは全体に対する部分でなければならない。処が前に述べたことによって範疇は即ち制約は即ち又存在の仕方は、領域の即ち全体の夫でなければならなかった。それ故物は吾々の求めている処の存在の仕方ではない。吾々は全体に就いて之を探ねなくてはならなかったのである。この特殊に対する一般は何か。まず仮に物を何かの意味で存在の仕方であるとしよう。少くとも存在は物としてあるのであるからこの仮定は許される。併しそうしても物は更に「何処」かになければならぬ。何処かにあるということも明らかに一つの存在の仕方でなくてはならない。今此処にあった物が無くなったとする、そうしても物は無くなったとは限らない、存在しなくなったとは限らない。物は今や彼処にあるかも知れない。所謂「場所による変化」――運動が之である。かくて存在は物としてあるばかりではなく、更に場所を占めてあらねばならぬ。場所に於てなければならぬ。物としてある――それは「こと」ではない――というのは場所に於てあること以外の何ものでもないのである。処が場所とは何か。アリストテレスの「何処」という範疇は他のもの即ち「此処」「彼処」等への関係によるのでなければならない。それは一定の位置――位置(Lage)という範疇を云うのではない――である。場処は関係を含まざるを得ない。場処とは、場処に於てある、という関係である。それは空間関係である。処で何人も物が特殊の空間関係であるということを認めなければならない。それ故空間関係一般が特殊――それが物であった――に対する一般であるということに来なければならぬ。今や物と空間関係とが並べられたであろう。物は特殊である故に「存在の仕方」であることが出来なかった、そして正に此の点で空間関係が「存在の仕方」と想像される優先権を有つわけである。さて今や私は空間関係が実際吾々の求めている「存在の仕方」、即ち存在の領域の必要にして充分な制約、であることをば証明しよう。但しその半ばの事柄、「領域の」ということは、それが一般であり全体であるということから、已に証明されているので、残された証明は「必要にして充分な制約」という事柄だけなのである。而も之は直接に証明出来るであろう。存在するというのはまず第一に物として存在するのである。この意味に於て物が存在するのであって物以外のものが存在するのではない。併し物として存在するためには、即ち物が存在するためには、場処に於て存在しなければならぬ、即ち物が場処に存在しなければならない。場処に於てなければ物としてはあり能わぬ。場処に於て無いものは例えば観念として存在するであろう。併し観念の存在は私の意味での存在ではない。故に場処に於て存在するというのは物として存在するの必要な条件である。即ち存在の必要な条件である。次に又それは充分な条件ででもある。何となれば場処に於て存在するのは物以外の何物でもない。もし物としてなければ場処に於てもない。場処に於て存在すれば、それは物として存在するのである。それは充分な条件である。故に場処に於てある――それが空間関係である――のは、存在の必要にして且つ充分な条件でなければならぬ。吾々は之に依って始めて、物が空間関係という状態――例えば隔っている、続いている、運動している、静止している等――を云々する理由を有つことが出来るのである。故に最後に吾々の求めていた存在の仕方は正に空間関係である。私は空間関係を簡単に空間と名づけよう。そうすれば空間こそ「存在の範疇」である。
 普通、空間内に物が存在すると考えられる。空間と物とは異ると考えられなければなるまい。人々は云うであろう、そうすれば物なくしても空間はあり得るわけである、然るに私は空間が物の充分な条件であることを証明した、二つの事柄は矛盾するではないか、と。併し之は物に就いての考えが私のと違っていることから起こる質疑である。私の物とは飽くまで物としてあるの謂であった。空間はただこの意味に於てのみの物に必要にして且つ充分な制約であった。然るに人々の考えている物は物という存在の仕方ではなくして何かの性質の謂である。例えば太陽であるとか――それは白熱球状の天体である、又は樹木であるとか――それは幹の堅い植物である。恰もアリストテレスが「存在」と区別した処のかの「或る物」をばそれは指している(前を見よ)。処が私の物は正にアリストテレスの「存在」にぞくする。であるから空間と物とは人々の考えるような意味に於て互いに異るのではない。それは一つの状態――存在という――に対する、二つの異った見方――領域の制約として見るか否かの――を云い表わしている。然るに人々による両者の区別は、二つの異った事情の区別――「存在」か或いは又「或る物」かの――である。それは謂うならば存在と現実乃至事実との区別である。物として存在するのは存在であるが、その物が太陽であるか樹木であるかは現実乃至事実である。吾々はこの二つのもの、存在と事実とを峻別しなければならない。而も又物が後者にのみぞくすと独断することも差控えなければならないのである。一言にして云うならば私の所謂物は虚空間にぞくし、人々の云う処の物は実空間にぞくする。物は実空間に於ては性質――例えば感覚内容――となって現われるであろう。処が私の物は正しくかくの如き「性質」ではなかった筈である。
 此までに明らかにすることが出来たのは次の一つの事である。即ち、特定の意味での――尤もそれは最も常識的な出発を有つ――存在に於ける、存在論的範疇は空間である。続く
* 存在論的範疇は内容(Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t)とその規定(Bestimmung)を有つのがその特色であった。故に次には空間の内容とその規定とを査べるのが順序である。
(一九二六・九・一〇)
 繰り返して云うならば、存在の存在論的範疇は空間である。吾々は第一に「存在」に於て問題の手懸りを捉え、第二に「存在論的範疇」という概念をばそれに当て嵌め、かくして空間を析出した。而も私の採ったこの道は、第一の点に於ても第二の点に於ても、常に空間――それが吾々の関心であった――に行き着くことの出来るように、云わば目的論的に組み立てられている。であるから今までの考えの途上にあっては、何故にまず吾々は「存在」という地盤から出発しなければならないか、何故に次にこの地盤に立って「存在論的範疇」を求める方法を採らねばならぬか、は規定的には――反省的でないという意味で――説明されていない。無論この目的論的な述べ方が完備するならば、それは人々をしてこの「何故」という問いを提出する実際的な動機をば失わせる筈である。この完備の終局がその出発点を justify するに違いない。併し私はこの文章に於て無論そのような完備を期すことは出来ないであろう。であるから私は他の一つの手段を以て、即ち規定的に説明することを以て、それに代えたいと思う。
 吾々は何故に「存在」に於て手懸りを捉えなければならないのか。夫々の問題に於て夫々固有な手懸りがあるであろう。吾々が或る一つの問題を提出する時、それに応じて、理想的に云って一定していなければならない一定の手懸りがある。空間の問題に応じては空間の問題に固有な手懸りがある。何人もこの種類の循環を承諾しなければならない。今空間の問題に於て或る一定の手懸りがなければならないことを承認したとして、問題は、この一定の手懸りが何であるべきかである。先ず一般に或る築かれた立場又は或る他の問題からの Konsequenz がこの手懸りであってはならない。何となれば少くともその立場その問題によって養われていない人々にはこの手懸りは正に手懸りの正反対であろうから。それ故何人も彼が特に懐疑的でない限り――それは一つの築かれた立場であるから――承諾するであろう処のもの、この意味に於て常識的である処のものが手懸りとなるのでなければならない(例えば懐疑的な立場から引き出されたデカルトの Cogito は常識的ではない)。さてこのような常識的なもの、而もその内で空間の問題に固有な或るもの、それを私は「存在」と呼んだのである(前半一〇三頁を見よ)、処で吾々は存在以外に地盤を求めることは出来ないか。存在とは内界に対する外界であり、精神に対する自然であり、要するに吾々が、例えば「無い」と否定する時――「在る」と肯定する時ではなく――その尺度として用いる処のかの存在である。「在るならば見せよ」と要求する時の存在である。無論云うかも知れない。存在という言葉に対する吾々の――常識家としての――感覚はより自由であると。併しそう云う人でもそのより自由な存在と私の云う存在との区別を承認する――常識的に――に違いない。そして吾々にとってそれで充分である。何となれば人々がかく区別する時正にその時、人々が空間のことを思い浮べていることは明らかであり、そして私の云う存在が恰も空間をば常識的に含蓄している、ということを人々は其処で告白しているのに外ならないから。空間が吾々の問題となる抑々の理由が存在に就いての吾々の常識的な定立に横たわっている。茲に空間の問題の手懸りを捉えることは、それ故、極めて適切なことであるばかりでなく、それ以外には不可能であるという意味に於て必然的なことでもある。何故に存在が地盤とならねばならぬかが之で明らかとなりはしないか。但し終りに注意して置かねばならぬのは、この手懸りこの地盤は、自らに就いて一定の取り扱い方を何も指定しはしないということである。之から出発するとも云ったが実は出発の場処は茲にあるとしても出発の仕方は茲に掲げられてはいない。それは手懸りではあるが方法ではない。例えばデカルトの Cogito とか純粋経験とかいう出発点は出発の仕方を――方法を――已に指定している哲学的に築かれた立場であるであろう。併し手懸りとしての常識はそれとは全く面目を異にしている。そこには方法が指定されてはいない。それ故にこそ又吾々はこの手懸りを手懸りとしてそこに任意の方法を試みることが出来るのである。処で存在論的範疇を求めるというこの次の過程が恰も、手懸りとは必ずしも直接に関係しない処の――空間という問題を介しては間接に関係しているが――この方法であるのに外ならない。
 次にそれでは吾々は何故に空間を「存在論的範疇」として求めなければならなかったのか。この問いは次の二つの問いの和に分解することが出来る。即ち、第一に、吾々は何故に空間を一般に範疇と見做すか。及び第二に、吾々は何故に空間を――それが一般に範疇であるとして乃至は無いとして――存在論的と考えねばならぬか、の二つの問い。
 第一の問い。私は向に範疇としての空間は存在論的制約であることを主張しようとしたのであるから、そしてこの問いは之を理解させるように答えられるべき筈であったから、今の場合には範疇をば一般に制約という意味に理解しておくのが必要である。範疇とは制約のことであると仮定しよう。そこで空間は何故に範疇と考えられねばならぬか。空間の理論の内最も吾々が慣らされているかのように思われるのは空間表象のそれである。吾々は確かに空間の表象を持っている、これは疑うべくもない事実である。そこで心理学は之をどう説明するか。この場合二つの説明の仕方――その間に切り離すことの出来ない連絡はあるが――を区別出来ると思う。一つは始めから空間表象を与えられたものと仮定しその上でそれの色々の規定を見出そうとする仕方である。例えば空間閾の研究、空間に関する錯覚の研究などが之に属しているであろう。この種の研究は已に空間そのものを予想しているから従ってその限りに於て、空間とは何であるかという空間そのものの研究ではなくして、空間の持っている種々な Merkmale の枚挙とその関係づけであるのに外ならない。それ故この説明の仕方は限りなく進むにも関らず遂に空間が空間である所以のもの――空間とは何であるかと問われたもの――を説明することは出来ない。そこで之を説明しようと企てるのが他の一つの説明の仕方である。即ち空間の発生の問題がそれである。発生という時人々は往々直ちに種属発生的な又は個体発生的な発生に思い至るかのようであるが、併し少くとも空間表象に就いては、このような発生の概念――それを anthropologisch と呼ぶとすれば――の外により実りあるも一つの発生の概念――之が心理学的と呼ばれるべきである――が行なわれる。吾々は寧ろこの発生をば最も広い意味に於て空間表象の構成と呼ぶのが適切であろう。併しながら空間表象のこの構成は恐らく歴史上成功を齎すことが出来なかったのが事実である。無論このように不成功に終ったということは単なる事実に過ぎない、が重大なのは、その理由は、人々が空間表象の発生を説明しようと企てながらその説明の原理をば常に空間表象そのものの内から借りて来るという循環を犯していたことにある。この事実はやがて空間表象の発生を説明することが原理的に不可能であることを想像させるであろう。云い換えれば空間表象は他のものから発生するものではなくしてそれ自身独立な根源的なものであることを思わせるであろう。空間表象のこの根源性を主張したのはシュトゥンプフ(Ueber den psychologischen Ursprung der Raumvorstellung)である
* この点に就いて私は已に紹介と批判との多少を試みた。『思想』五十七号。「幾何学と空間」参照。
 さて茲で考えて見なければならないのは、空間表象の発生が説明され得ないものであるにも関らず何故に心理学者のかくも多くがそれを試みたのであるか、ということである。無論それはその発生が説明されそうに見えたからであるに違いない。心理学者は彼が生理学者や生物学者でない限り恐らく感覚――単純感覚のような――の発生を説明しようと試みはしないであろう。それは説明されそうには見えないから。処で空間表象が説明されそうに見える理由は何処にあるか。複雑であるからである、少くとも単純感覚に較べては複雑であるように見えるからである。というのはより高次のものと考えられるからである。処で低次のものと高次のものとの関係は、少くとも心理現象にあっては低次のものの構成によって高次のものを致すのか、それでなければ高次のものの分析によって低次のものに至るかである。処が向に述べたことによって構成は不可能であった。それ故高次のものの根源性を承認した上でそれの分析によって感覚に至る道だけが残される。即ち空間表象の根源性を承認しその部分或いは要素として例えば触覚を説明するという道だけが残される。もし空間表象も亦単純感覚と同じ直接さに於ける感覚乃至知覚であるとし、それがそれとは異っているが併し常にそれと結び付いている色の感覚の如きものと並べられるならば、両者を常に結び付けている第三のものが丁度今の場合の高次のものである(シュトゥンプフを見よ)。処がこの第三のものは又空間表象でなければならないであろう。何んとなれば色と形態とがこの第三のものに於て結び付くと云うが、両者は云わば同じ権利を持ち寄って第三のものになるのではなくして、色は常に形態に含まれるのでなければならないのに、逆に形態が色に含まれると云うことは言葉通りには意味がないのであるから。このようにして空間表象の根源性の主張は、空間表象そのものに固有な性質――この性質を云い当てるために空間表象という概念が色々の困難に出会わねばならなかったのである――からして、必然的にその高次性(それが感覚や知覚であろうと無かろうと)の主張とならなければ徹底しない。今それが高次であるならば低次のものはその分析によって、それに基いて説明される筈であった。低次のものはそれを条件として始めて一般に考え得られるのである。さてこのことは形態心理学が Gestaltwahrnehmung の名の下に於て実験的に指摘しようと試みている一定の心理的な事実であるばかりではなく、又その心理学をばこの方向に導く理念としてのエイドスをも含んでいる。このような本質は正当な或る意味に於ける心理学の範囲の内に横たわっている事柄ではあるが、心理学を離れる自由を持っている今の場合の吾々にとっては、それは或る一つの哲学的な解釈の土台となることが出来るのでなければならない。というのは、吾々はこの本質的な事情を解釈して次のように云おうと欲する。即ち空間表象は他の感覚――色の感覚や触覚のような――を成り立たせ又考えられ得るようにする処の条件、吾々の言葉を用いるならば一つの「制約」であることを、それ自身に於て指していると。空間表象の近似値的な理解はそれが制約であるという解釈によって、即ち始めの約束に従えばその限りに於て範疇であるという解釈によって、極限的な理解へ飛躍することが出来るであろう。多分之と同じ事情に由来する処の、そしてより積極的に空間表象を範疇と解釈させる処の、も一つの理由がある。心理学者は普通視空間と触空間とを区別する。無論この区別には充分な理由があることである。併し、両者の関係は心理学に於てどう考えられるのであるか。空間表象の Merkmale を枚挙しそれを関係づけるという研究にとっては、両者の関係はその比較という程度以上には恐らく問題の範囲の内に這入って来なくても済むであろう。併し之に反して空間表象の発生を説明しようとする時或いは寧ろその根源性を主張しようとする時、両者の区別は直ちに両者の関係の終局の関係を要求しないではいられない。空間表象が根源的であるとする以上云い換えれば空間表象がそれ自身に於て独立なものである以上、そしてそれは視空間とか触空間とかでなければならないのであるから、視空間も触空間も各々独立な即ち他から導き出すことの出来ない表象であるに違いない。であるから視空間と触空間とが全く別であるか或いはそうではなくして全く一つのものの二面であるかの何れかでなければならない。処が全く別であるとすれば両者が同じく空間という名に値いする理由は何処にもない。無論唯だ偶々同じ言葉が使われるに過ぎないと云うならばそれまでであるが、そうすれば視空間と触空間とを区別する――空間の名に於て――元来の理由が忘れられて了う外はない。吾々は――心理学者であるとないとに関係なく――両者が何かの関係――空間の名に於て――に於てあるという事実をば実は始めから承認して掛っているではないか。もし何かの関係があり且つそれが同じ空間の名に於ての関係であるならば、そうすれば両者は全く別であることは出来ない筈である。そうすれば両者は全く一つのものの二面でなければならないこととなる。私の知る限りでは心理学は両者のこの同一を当然な事実として許しているように見える。そしてこの当然な事実が吾々にとって再び或る一つの哲学的な解釈の土台となるのである。というのはこの事実は、空間表象が、視覚とか触角とかの一般に空間的と考えられる個々の感覚をば超越しているということを指す。視覚と触覚とは視空間と触空間とを通じて第三のもの即ち空間表象そのものに結び付けられている。空間表象は云わば視空間や触空間よりも高次のものなのである。そして高次のものは前の推論を繰り返えすことによって「制約」でなければならない。更にこれは空間表象が本来は空間的でない処の或る感覚にまで自らを強制する力に於て他の一つの徴候を現わす。それは聴空間という概念である。音は或る方向から来るであろう、併し音するのは少しも空間的ではない(触覚や視覚はこの点に於て全く聴覚と異っている)。それにも関らず吾々は聴覚が空間的であるかのように考え易い、それが空間表象が聴覚に致す強制力を云い表わしている。単なる視覚や触覚は聴覚へこのような意味で干渉することは出来ない。この干渉が成り立つのはその何れをも超越する空間表象の遊離性から来るのでなければならない。空間表象のこの遊離性は、それが個々の感覚から制約されるのではなくして却って或る意味に於て個々の感覚を制約出来る、という可能を云い表わす。視覚と触覚とをば視空間と触空間とを通じて結び付け又区別するのは、正に或る意味に於て凡ての感覚に共通である処のこの空間表象である。特殊な意味を付けてアリストテレスの言葉を借りるならば、空間表象は一つの「共通知覚」であるとも云うことが出来るであろう。吾々が視空間触空間という時、又は更に聴空間とさえ云う時、その制約となってそれを統一的に理解せしめるものは共通知覚とも云うべき空間表象のこの範疇性にあるのである。
* 普通「共通感官」と訳されているが「共通知覚」と呼ぶ方が適切であると信じる理由がある。
 空間表象という概念が空間に就いて云わば主観的な概念であるとすれば、之に対して云わば客観的なものは物理的空間である。従来経験の対象であるという意味に於て漫然と経験的空間と呼ばれているものにそれは起源を持つ。そして幾何学も又この経験的空間にその個体発生論的な原因を持っているであろう。併しこの経験的空間に関する認識の発展は、経験そのものがそうであるように、物理学的な研究――最も広い意味に於ての――によって起こされる。物理的研究が一般に空間の認識を助長するにどれ程欠くことの出来ないものであるかを人々はよく口にする(例えば Mach, Space and Geometry 参照)。同時に逆に吾々は空間の認識が又どれ程物理学の発展に欠くことの出来ないものであるかを見逃すことは出来ない。かくして物理的空間は単に普通の意味に於ける経験の根本的な要素であるばかりに止らず、やがて物理学に於ける根本概念でなければならない。処が物理学に於ける根本概念は恐らく限りなくあるであろう。併し物理学的空間はそれ等にも増して根本的と考えられなければならない理由を持っている。というのは、物理学が或る一定の方法――方法という意味を最も正当に広く解するとして――に基いて一定の対象を取り扱うのであるとすれば、物理学的空間は単にこの意味に於ての対象に属すばかりではなくして、正に今の広い意味に於ての方法にも属すのでなければならないからである。恰もデカルトが、吾々の知識を深め広めるための最上の仕方は、対象をばまず大小の大きさの比に還元し、次にこの大きさの特殊なもの――延長――の形に於てそれを吾々の心(imaginatio)の前に据えることである、と云ったように、延長は一般に明晰判明な認識への手段であることを認めなければならない(Regulae ad directionem ingenii, ※[#ローマ数字14、448-上-5])。実際自然科学者が、認識しようとする時は、まず認識の対象を量の関係に引き直し、更にその量を計量する時必ず空間的な量を用いずにはいられないであろう。物理学に於ける空間も亦この意味に於てその手段、方法でなければならない。処が計量を実行する場合――それを測定と呼ぼう――吾々は単に空間に於て計量するというだけではなくして、更に何かの意味に於て実証的な手段に頼らなければならぬ(例えば光とか物質とか)。従って空間そのものも亦この手段によって始めて測定されることが出来るのである。かくして云わば先験的であった空間は今や経験的に規定された空間となる。単に方法であるに過ぎなかった処の、従ってそれだけ対象に向って無関心であった処の、空間が亦対象そのものとなるのである。併しこのことは空間が方法でなくなったのを意味するのではなく、却って正にそれが自ら対象とならねばおかぬ程それ程対象に忠実な方法であることを示している。例えば法則を発見するということは確かに自然科学の方法であるかも知れない、が併しこのような方法そのものは自然科学自身に於て対象として行なわれる法則ではなくして、寧ろ認識論が自らの対象としての自然科学に与える処の法則――そう呼ぶことが出来るならば――であるであろう。それは外から云わば形式的に与えられた方法である。之に対して物理的空間は内から云わば実質的に見出された方法である。実質的であればこそその方法が更に又対象となることも出来たのである。かくて物理的空間は物理学乃至普通云われる処の厳正科学の内部から萌え出た方法でなければならない
* 曾て私は非常に不充分ではあったが、この点に就いて多少内容に立ち入って述べた(『哲学研究』一〇七「物理的空間の実現」参照)。尚この点及び次の点に就いては『哲学研究』一〇六「物理的空間の成立まで」参照。
 処で問題は物理的空間がこのような意味に於て方法であるという事情をば、吾々は何と解釈すべきであるか、に来る。併し凡そ方法というものはそれがどういう種類のものであるにしても、対象に対して偶然でない限り、常に対象の制約でなければならない。それ故今もし物理的空間が物理学的世界形象の成り立つ制約でないとするならばそれが物理学の認識の方法となる理由はない筈である。であるからして物理的空間は物理的世界形象の制約でなければならない。かくて物理的空間にあっても亦空間は「制約」としての性質を直接に指摘されているのである。従って又その限り範疇的と解釈されてよいわけである。さて私は今までに何故に空間が範疇と考えられるかを説明するために、二つの主な理由を掲げて見た。無論茲に要求されているのはその説明であって決してその証明ではない。何となれば之を証明することが仮に出来る性質のことであるにしても、それは明らかにこの文章の全体の後に始めて成り立つべき筈のものであって、決して今の場合のような途中に於て尽されることの出来るものではないからである。併し少くとも空間を範疇と考えねばならぬ必然性――それは論理的な必然性ではないが――は茲に充分に示されたであろう。何故ならば今までのことを裏から反覆して見れば、向の二つの事情、空間表象の根源性と物理的空間の方法的な性質とは、もし空間をば制約という意味に於ての範疇でないと考えるならば、解くことの出来ない夫々の困難を持つことになるから。併し飜って考えて見れば、空間が何かの意味で範疇であるという主張又は予想の、必ずしもその証明の(或いは寧ろ説明の)責に任じる必要はないかのようである。この予想を共にしている多くの――それを疑うものに較べて多くの――哲学者の内から例えばフィヒテをその代表者と解釈することが出来るであろう。人々は又言葉通りの言質をばコーエンに於て(Allheit の Kategorie)捉えるであろう。たとえこれ等の人々が空間そのものの理解ゆえよりも寧ろ恐らく夫々の体系ゆえに、空間を範疇と考えたのであるにしても。
* Er (Kant) bedarf idealer Objekte, um Zeit und Raum zu f※(ダイエレシス付きU小文字)llen; wir bed※(ダイエレシス付きU小文字)rfen der Zeit und des Raumes, um die idealen Objekte stellen zu k※(ダイエレシス付きO小文字)nnen.(Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre, Fichtes Werke, Bd. ※(ローマ数字1、1-13-21)., S. 381)と云うている。
 吾々は第二の問いに来る。空間は――それが一般に範疇であるとして乃至は無いとして――何故に存在論的と考えられねばならぬか。これに答えるために私はまず空間が主観的とも客観的とも考えられないということをこれから証明する。主観的ではないということから始めよう。先ず吾々は空間をば、物から区別しなければならない――之は前半に於てもすでに触れる機会があった。空間と物との区別は何人も認めなければならないと思う。人々は物が空間の「内に」あるとも無いとも考える自由を事実上有っている、そこに両者の区別がある。或いは云うであろう。空間関係を解して物が空間の「内に」あると云うことは困難と無意味とに終らねばならぬ、何となれば「内に」ということがすでに空間関係であるから、向のことは空間と物とが空間関係に於てあるということである、即ち空間が空間の「内に」あることとなるからである、と(Lipps, Die physikalischen Beziehungen und die Einheit der Dinge.)。これが果して空間に就いての困難や無意味であるにしても又ないにしても、少くともこの困難や無意味が空間に於てであって物に於てではないならば、物と空間との区別を求めている今の場合にとってはそれは却って一つの証言となるであろう。両者は別である。そこで吾々は両者をどう特徴づけてその区別を確定してよいか。物と云えば色々の物が考えられるに違いない。まずそれは種々な性質を有っている。処で今その性質を出来るだけ消去して行く時最後に到達することの出来るものは物質と云う概念でなければならぬと私は考える。物質は多分空間の内にあるであろう、併し空間の内にあると云っても例えば図形があるようにあるのではない。図形は空間をば或る観念的とも呼ばれる限界によって切りとったものに外ならぬが、明らかにこの手続きによっては物質が生じはしない。物質の図形――例えば原子のような小宇宙の図形を考えればよい――「に何物か」を加えたものに相当しなければならない。吾々はこの何物かをば最も広い意味に於ける――単に物理的ばかりではなく心理的に見えること触れることなどをも含めた――不可侵透性(Undurchdringlichkeit)と呼んでよいであろう。このような不可侵透性は図形の上に更に加えられるという意味に於て、図形とは別であり従って又空間とは別である。従って広く物と空間とのかの承認された区別の基は実は不可侵透性と空間との区別にあったことが判る。処がこのような広い意味に於ける不可侵透性は恰も吾々が「可感的な実在」と呼んであるものに相当する。Realit※(ダイエレシス付きA小文字)t, Wirklichkeit と名づけられるもの――経験界に於ける――がそれである。それ故空間は今やかかる「実在」乃至「実在性」から区別された事となる。実在性は可能性や必然性と共に Modalit※(ダイエレシス付きA小文字)t にぞくす、処が空間はそのような Modalit※(ダイエレシス付きA小文字)t にはぞくさない――この事は屡々混同されている。空間は実在ではない。リップスは空間の実在性をば次の理由によって否定しようと考える。即ち、空間関係は「物と異る限り空間的には何処にもない」、又物と物との間隙の空間は無であり而も有であるが有であれば物との区別がなくなるから無でなければならない、と(Zur Frage der Realit※(ダイエレシス付きA小文字)t des Raumes)。併しながら少くともこの理由は不用である。何となれば、空間が実在性を有たないのはそれが空間的に何処にもないからではなくして空間が始めから物と異るからであり、又無であるからではなくして空間が始めから物と異るからである。物は実在であり空間は実在ではなかったからである。実在的な空間ということが始めから contradictio in adjecto である。さてそうとすれば空間は real ではなくして ideal でなければならない――Idealit※(ダイエレシス付きA小文字)t は Modalit※(ダイエレシス付きA小文字)t にはぞくさない。そこで直ちに空間が主観的であるかのように思われ易いのである。併し私はこの観念性をば分析して見る必要がある。まず観念性を先験性(Transzendentalit※(ダイエレシス付きA小文字)t)と現象性(Ph※(ダイエレシス付きA小文字)nomenalit※(ダイエレシス付きA小文字)t)とに分解することが出来るであろう。茲に先験性とは一般に、カントの云い方を借りれば、経験と共に始まるが経験から生じるのではなくして却って経験の制約となるということを意味する。即ち今の場合に当て嵌めれば実在ではないが実在の根拠となるという意味である。処で空間は恰もこのような先験性を有たなければならない。何となれば、空間は物質(それが経験的なものの乃至実在であった)と共に始まる――人々は物なくして空間があり得るかを、即ち虚空間の可能を疑うことさえ出来るから――にしても、物質から生じるのではなく――Modalit※(ダイエレシス付きA小文字)t に属する実在からはそれにぞくさない空間を引き出すことは一切不可能であるから――、却って物質の存在の制約となる――空間が一般に制約であることはすでに説明されたが今やそれは物が空間の「内に」あることである――からである。併しながらこのような意味に於ける先験性からは或る人々の考えるようには主観性は出て来ない。何故ならば已に私は最初に一般に存在論的範疇――それは主観的ではない――が可能であることを述べたが、それも亦正にこのような先験性の内に含まれていなければならぬからである。もし夫から主観性が出て来ると思われるならば、それは先験性としての観念性からではなくして偶然之と結び付いていた「或る他のもの」からでなくてはならぬ。それ故空間の所謂先験性からその主観性を導き出すことは出来ない――たとえ後者から前者を導き出すことが出来るにしても。それでは次にこの「或る他のもの」とは何か。それが第二の現象性に由来しているのである。処で吾々は現象性を又二様に解釈出来ると思う。第一に私はまず吾々にとって直接であるもの一般を考えて見よう。という意味は吾々は常に何かの立場に立っているのであるが、そして向に云い及ぼした処のかの「手懸り」としての常識も亦そうであるが、今の場合での直接というのは之のことではない。ではなくして何の立場にも立たない処の(これも亦一つの立場であるとも云われようが)、常識的には必ずしも直接ではないが併し哲学の出発にとって直接である処の、直接さを指す。人々は之を特殊の意味に於て経験とも云い思惟とも呼ぶであろう。がけれどもそのような一定の規定を与えない内に吾々はそのようなもの一般をば、正当な理由を以て、現象と名づけることを許される。直接なものは現象である――之が現象性の第一の解釈。処でこのように解釈された現象性はそれが直接であるその故に少くとも主観性となることは出来ない。何となれば主観性とは主観と客観との対立というある一定の――認識論的な――立場に立っての上のことであり、而もこの対立を認めない処の従ってそれだけ直接であり現象的である処の他の――存在論的な――立場(それをしも立場と呼ぶならば)が已に掲げられているからである。従ってこの現象性によっては空間は主観的と考えられる道を断たれている。残るのは現象性の第二の解釈である。この場合まず最も広い意味の実在――物自体――があり、それが吾々に働きかけ(Ding an sich uns affizieren)又は吾々がそれを写し(Rezeptivit※(ダイエレシス付きA小文字)t)、それらの或る意味に於ける結果が即ち、実在が吾々に現われる、ということである。茲に成り立つのが現象に外ならない――之が現象性の第二の解釈。自体にあっては実在であるものが吾々に向って即ち主観に向って現象にまで堕して来るのであるから、この解釈による現象性は主観性そのものなのである。であるから空間が観念的であるという理由によって――他の理由による場合は知らないが――主観的と考えられる余地はただ茲にだけあるわけである。さて飜って考えて見れば、私が最初に許したのは空間の観念性だけであった。そしてその観念性は決して第二の解釈による現象性を必然的に要求しはしなかった。
 そこで観念性をこの現象性にまで解釈し直すには観念性そのものから出て来ない処の主観という転語が是非とも必要であった筈である。かくして空間の主観性に就いて人々が信じ勝ちである処の必然性が今は取り除かれたことになる、空間の主観性は観念性によって権利づけられるのではなくして却って主観という転語によって自ら自らを権利づけているに過ぎない。今や空間は主観的でなければならないという主張の一つ――恐らく最も尤もらしく見えた――は否定された、けれどもそれが一般に主観的であってはならないという主張はまだ肯定されてはいない。之を肯定するために私は、もし仮に空間を何かの理由で主観的と考え得るならば、即ちそのように主客の対立を許すならば、空間は寧ろ主観的よりも却って客観的と考えられる方が正しいということを示そう。
* 観念性と主観性、実在性と客観性との区別を正当に説いたのは A. Marty(Raum und Zeit, S. 140―160, etc.)であると思う。たとえ彼のカントの空間に対する批評が一般に必ずしもカント学徒を説服するに足りないであろうとも、少くとも今の点に於ては彼はカントに対する新しい解釈の徒労でないことを実際に示してはいないか。
 何故に空間が主観的と考えられ易いかは凡ての場合を通じて、恐らく空間が表象であると考えることから理解出来る。何となれば表象は普通意識にぞくすと考えられ、意識は又普通主観にぞくすと考えられているからである。併しながら意識が凡ゆる意味に於て主観にぞくすということも、又表象が凡ゆる意味に於て意識にぞくすということも、終極に於ては一つの疑問であるかも知れない。仮にそれを何れとしても更に、空間が凡ゆる意味に於て表象であろうということが誤りである。空間表象と区別された空間、例えば幾何学的空間、物理的空間を忘れてはならない。尤も空間が他に優って特に表象と考えられるということには理由――それを茲に説明する余裕はないが――のあることであるかも知れない。その理由が正当であるならば空間即空間表象と見做してよい。そうすればそれは相当の理由によって、但し重大なことには二三の疑わしい条件の下に於て始めて、主観的と考えられるであろう。処が元来表象(表象という概念ではない)とは例えば概念が概念そのものとしてあるように形式的――実質的に対して――であるのではなくして、表象内容(表象という概念内容ではない)を有っていなければならない。表象という概念内容によれば成程表象は主観的であると考えられ得るかも知れない。けれどもそれは表象内容が主観的であることとは全く別である。そして少くとも空間表象の表象内容は主観的ではなくして一応客観的であることを認めなければならない(空間の主観性が疑われ易いという根拠が常に茲に横たわっている)。というのは普通に空間表象は一種の関係の表象であると思われているが、もし単に関係の表象であると云うだけならば、吾々は之を例えば「これかあれか」の関係の表象からどう区別するのであるか。同じく関係と云っても――それは formal な概念である――空間には空間に固有な関係――それは regional な概念である――があるのでなければ、形式的に関係と名づけることすら理由がない。今関係という形式的な概念は相対的という概念内容を有っている、がけれども空間関係という領域的な概念にはこの相対的という概念内容の外に更に絶対的という概念内容が這入って来なければならない。例えば四寸と八寸との関係と一尺と二尺との関係とは形式的には即ち相対的には同一の一対二の関係であるが、之に反して領域的には即ち絶対的には決して同一の関係ではない。今更に概念内容を離れて空間表象そのものの内容に来るならばそれは本来成る絶対的な表象内容であって、その上にあって偶々形式的に相対的な関係が成り立つに過ぎないことを見るであろう。空間の表象内容はこのような絶対者である。そしてこの絶対者は主観ではなくして客観に外ならない。このようにして空間表象は客観的であると云わなければならない。マルティの言葉を借りるならば、所謂 Gestaltqualit※(ダイエレシス付きA小文字)t がこの客観を意味する絶対者である(Raum und Zeit, S. 77―8 u. a. O.)。さてこれまでに明らかになったのは、空間をば(或いは空間表象をば)主観的と考え得る位いならば、即ち主客の対立を許してよい位いならば、寧ろそれを客観的と考えることが事情の上からして必然的である、ということ。之は但し「主客の対立を許すならば」という条件の下に於てそうなのであった。然るに私は今やこの客観的であるということさえ疑わずにはいられない。
 空間表象の表象内容が客観的であると一応考えられると云ったが、私は客観の意味を二つに区別する必要がある――前半を見よ。その第一は認識の普遍性と必然性と、即ち真理の妥当性であり、その第二はそれ自身客観という言葉によっての外は理解出来そうにもない処の所謂客観である。空間表象が表象内容として有っている客観性は明らかに第一の意味の夫ではない。従ってそれは第二の意味の客観である外ない。処が第二の意味に於て(以下はこの意味での客観を取り扱う)一般に何かが客観的であると云う時、普通吾々はある一定の Sph※(ダイエレシス付きA小文字)re――それが客観である――をまず思い浮べ、之にこの何物かが属すと考え做している(之が第一の客観と区別される根本である)。云い換えればまず客観という何かが設けられ何物かはそれに含まれたと考えられて始めて客観的と呼ばれる。もう一度云い直せば客観そのものが客観的なものを超えていることによってそれを成り立たせていると思われている。吾々が客観的と考える時、その心理を解剖すればそうであるであろう。云うならば客観は客観的(対象論的な用語 Objektiv とは関係がない)と区別され得る。少くとも多くの場合にあってはそうである。そこで空間表象が客観的であると云われ得るならば、それをば客観的であらしめるもの、客観は何か。空間表象はどういう客観に含まれることによって客観的と呼ばれる動機を有つのか。処がそこにはこの客観に相当するものは何もない。というのは空間表象をして客観的であらしめるものは、それが空間表象であるということそのことの外にはない。この場合客観的とは空間的ということである。事実人々はこれ以外に空間表象を客観的と呼ばせておく動機を指摘出来ないであろう。そこで私は次のように推論する。まずこの場合吾々は客観性という一つの事情を次のように理解するか、即ちそれは何物かが客観に含まれることによって客観的となることであるとする(そうすれば向の説明によって客観と客観性とは別でなければならない)か、それとも客観性というこの事情に於て実は客観客観的とを区別出来ないとするか、である。処が向に述べた事情からして空間表象を含む処の客観は無かったからして、空間表象は客観的ではあり得なくなる。併しそれは他の一つの事情即ち空間は客観的であるという出発点に矛盾する。それ故前者は成り立たない。さて後者であるとしよう、即ち客観的=客観としよう。処が空間が客観であるが故に空間と呼ばれるのではなくして(何となれば客観とは今の場合を離れてはそれ自身は不定な概念であるから)逆に客観が空間であるがために始めて客観と呼ばれる理由を得て来るのであるから、空間表象を客観と呼ぶ動機は空間表象そのものの内に含まれていなくてはならなかった。之を云い直せば空間表象が客観という概念をこの場合始めて成り立たせているのである。処が元来客観という概念は主観という概念と共に相予想し合う――前半を見よ。そうすれば空間が客観を成り立たせる時すでに又主観をも成り立たせていなければならない。何となれば空間以外に客観という概念を成り立たせる理由が無かったのであるから。従ってその意味に於て空間はこの場合の主客の対立を可能にしているのである。主客の対立がまずあって然る上に空間が成り立つのではない、というのはまず始めに主観と客観という二つの Sph※(ダイエレシス付きA小文字)ren が設けられてあって空間がその何れかに這入っているというのではない、そうではなくしてまず空間がありその表象内容を客観と名づけること――それは客観という Sph※(ダイエレシス付きA小文字)re にぞくしていることではない――によって主客の対立が可能となると云うのである。繰り返して云えば、空間を客観と呼ぶことが許されるならば(客観の Sph※(ダイエレシス付きA小文字)re にあるという事ではない)、その時同時にその空間は主観を含んでいなければならない。故に空間は主観ではないという意味に於ては客観であるとは云えなくなる、即ちそれが特に客観であるとは云えなくなる。従って又客観的でもあり得ない(客観的=客観と仮定してあったから)。さて空間が客観的であると謂っていることはやがて――それはこのテーゼの云わば自己発展の時間であろう――逆に空間は客観的ではないというアンティテーゼに転成(werden)しないではいられない。このディアレクティークの裏に空間に関する客観説――そう呼ぶとして――がその実証的な強みにも関らず、それに反対する主観説を常に説得出来ない匿れた理由が潜んでいる。無論主観説はこの理由をば自分の積極的な根拠とはしない(それは実は不可能である、何となれば客観と共に主観と呼ぶことまでも吾々は否定したから)、恐らくそれは例えば空間表象が表象であるということをばその積極的な根拠とするであろう。処がその根拠が不当であることをば私はすでに、空間表象という概念内容とその表象内容との区別によって説明した。それによれば空間は客観的でなければならなかった。処が又その客観性は許されないこととなる。そしてそれが客観説をば主観説から安全にしているように見える。さて之は空間を主観と考えるのも客観と考えるのも根本的な立場に於て不当であることを物語っているのに外ならない。始めから主客対立の立場――認識論的な立場――に立つことによっては空間の問題は不能となるか或いは回避される外はないであろう。却ってまず始めに空間があり之によって今の場合の主観も成り立つ理由を得るのである。空間そのものは主客の対立を認めない立場に於て始めて正しい問題となることが出来る。之が空間を「存在論的」と考えねばならなかった私の理由の証明である。
* 空間の概念のこのディアレクティークは、私がすでに前半に於て指摘した客観の概念の持つアンティノミーと深く関係している。後者は空間が存在論的でなければならないことを直接に暗示する。
 すでに空間が何故に制約という意味に於て範疇でなければならないかという理由が説明されてある。之と今の証明との総合は空間が存在論的範疇として求められる必然性を説明する筈である。存在という常識的な出発を前に権利づけたのであるから「存在の存在論的範疇は空間である」という結論に導く目的論的な過程が、今に justify されたわけである。

 私は約束の問題に引き返そう。空間が「内容」(Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t)を持つということへ。それを持たねばならぬということはすでに存在論的範疇の性質から演繹されてある。問題は何がその内容であるかである。併しまず内容という概念に就いて断わっておかねばならぬのは、私が前からそう呼んでいるのは或る特殊の立場や格別な研究から来る結果として用いられる術語ではないという事である(術語としての内容は例えば対象とか客観とかから複雑に区別されるであろう)。そうではなくしてそれは最も広い意味に於ての形式に対する内容なのである。又それを Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t という言葉と相即したのは、今の問題――空間の問題――にあっては、或る他の一般的な事情からそう呼ばれているものの内に、恰も今の「内容」が適々たまたま含まれて来るであろうと思われるからである。普通に範疇――認識論的範疇――は今の意味で無内容と考えられる。例えば概念は形式的(無内容)であるが実在や観念には内容があると云う言葉が許される時――そして内容という概念を適当に撰べばこの区別は必ず許されるであろう――その意味に於て範疇は普通無内容と考えられる。範疇とは多くの場合、内容的な例えば実在や観念やが通用しなくなると思われる時それの代りに導き入れられた言葉であるであろう。所が存在論的範疇は之に反して正にこの意味に於ての内容を持っていなければならなかったのである。そこで空間も亦内容を有っている筈である。さて何がその内容であるか。私は空間概念の向のディアレクティークを再び思い起こす。空間を客観的であると謂うならばやがて空間は客観的ではないと謂われなければならなくなる、と。それは空間にもし客観という概念を許すとすれば主観という概念をも許さなければならないからであった。そしてそれは又空間が主観と客観とを共に同時に可能にするからであった。即ちこの矛盾を止揚するのは空間が主客の対立を可能にするというジュンテーゼである。処で一般に主客の対立を可能ならしめるものは或る意味に於て主観でもありそれと同時に必ず又客観でもあり得るのでなければならない。であるからそれを主観又は客観から出発して特徴づければ主客の合一でなくてはならない。無論始めに合一がありそれによって始めてそれが特に主客の合一と考えられるのであるから、このようにして特徴づけるのは不充分である、と云うならば、そうとすればまず或る直接なものがありそれが主観と客観とに分化すると云い改めてもよい。何れにしても主客の対立を可能ならしめるものはかくなくてはならない。人々は之を普通「直観」と呼ぶ。私は用語の争いを避けるために、以上の特徴を有つものを改めて一般に「直観」と定義してよいであろう。そう定義するとすれば向のディアレクティークのジュンテーゼとしての空間も亦「直観」であることとなる。空間が存在論的範疇であると云うだけの場合には、即ちそのように形式的に云い表わされただけの場合には、それが直観であるという事情はまだ顕われない。併しこの存在論的範疇としての空間の事情そのものを分析して行く時、それが実は又直観であるという新しい言葉を要求するだけの新しい事情が浮び出て来るのである。この新しい事情の浮び出て来ることの出来るということが、正に存在論的範疇が内容を有つと云われる理由に外ならない。「内容」は「直観」である(どう考えても認識論的範疇でなければならない処の例えば自同の範疇からは、たとえそれをどう分析しても今の意味での内容は浮び出ないであろう)。かくして形式的には単に存在論的範疇と名づけられていた空間は、内容的には直観でなければならない。次に何故に空間のこの内容を Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t と呼んだかは一つの他の事情から来ると云った。それは例えば Ehrenfels が一般に形態内容(Gestaltqualit※(ダイエレシス付きA小文字)ten)は“positive Vorstellungsinhalteであると云った言葉の上からも一応理解出来るであろう。或る人々は空間の形態を無内容な形式と考えるが、それが形態に固有な性質(Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t)を有つことによってもはや単に形式ではなくして――全く形式ではないと云うのとは違う――又今私の云う意味での「内容」でなければならぬ、と他の人々は考える。そして後者の人々はこのような形態はそれ自身で直接性――他のものから導来されないという意味に於て――を持ちそれが固有な感覚乃至知覚であると主張する(例えば K. B※(ダイエレシス付きU小文字)hler, Die Gestaltwahrnehmungen, Bd. ※(ローマ数字1、1-13-21), S. 17 u. a. O.)。処で私が存在論的範疇としての空間は内容として直観であると云う時、それは心理学によってこのような心理的現象と見做されるもの――それが終局に於て心理的であるのか無いのか私自身はまだ何処にも決めていない――に対する、一つの哲学的な解釈に相当すると云うことが出来る。それ故私は Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t という言葉を心理学から借りて「内容」という言葉に多少の方向に与えてよいと考えたのである。
* 空間が直観であるということ――それは空間が存在論的範疇であるということと同じ事情を云い表わす――によって、心理学の所謂空間表象と幾何学的空間と及び物理的空間とが割合統一的に関係づけられるということをば、すでに挙げた三つの文章に於て私は顕わそうと志した。併し直観という言葉に対して或る根本的な不明があったために――それは後で明らかにする――それは決して判明ではなかったと思う。
 この断章の今迄の結論――空間という存在論的範疇の内容は直観であるという結論――を或る慣らされた観点から云い直すとすれば、空間は範疇であると同時に直観である、ということである。人々はこの観点から見て、この結論が別なものを余りに「無雑作」に同じと考えたかのように云うかも知れない。範疇をどれ程つきつめても直観が出て来る理由は何処にも無いではないかと云うであろう。無論範疇という概念内容からは、たとえそれが存在論的範疇であったとしても、それが直観であるということは引き出せない。併し常に考えねばならぬように、私は何処にも範疇という概念を取り扱っているのではなくして必ず範疇そのもの――事情――を取り扱っている。それ故この意味に於て人々の反対それ自身は正当ではあるが今の問題は夫には触れていない。更に人々は云うであろう。たとえ範疇そのもの――事情――を、而も存在論的範疇そのものを、取り扱ったにしても範疇から直観を導き出すことが一般には出来るとは信じられない、と。その時私はこの言葉をたとえ承認しないまでも否定することは出来ないかも知れない。けれども問題は範疇と直観との一般的な関係に就いてではなくして、常に空間という特殊な場合に就いてであった。それ故もし空間そのものの事情にあってそうあるならば――私はこのような原始的な事情を最も正当な意味で「事実」と呼ぼう――この特殊の「事実」は一般的な関係によって裁かれるべき筈ではなく却ってそれがこれを左右するのでなければならない。もし空間は範疇であると同時に直観であるという向の結論が、空間に特有な「事実」であるならば、即ち例えば二つのものを結び付けようと欲し勝ちな吾々の動機からそう云うのでないならば――この動機によって行動する時始めて「無雑作」という向の言葉が許される――その結論は「無雑作」であるのではない。繰り返して云えば無雑作でないためには空間は範疇であると同時に直観であるという「事実」が指摘されてなければならない。処が今までにはこの「事実」は必ずしも指摘されていないであろう。というのは空間が一つの範疇であり而もそれが存在論的であることが明らかにされ、そして後者からしてそれが直観であることが明らかにされたのであるが、この場合の直観は単に「主観と客観との合一」と定義されていたに過ぎない。であるから直観はまだ「事実」に於て検証されてはいなかった――直観は定義されるよりも直観し又は直観されねば直観とはならない。その検証がなければ向の結論は不充分であるがそれがあれば又充分である。私は空間に就いて今までとは別の道を取ることによってこの検証を得よう。即ち事実に於ける――それは定義されたというのとは異る――直観をば概念から区別して検証しよう。というのは概念そのものは認識論的であり、従って存在論的であった処の今の場合の直観はまず何よりも先に概念から区別されてある筈であるから(前半を見よ)。処で恰も空間は概念ではなくしてこの意味に於て――検証されたという意味に於て――直観でなければならない。例えば右と左の区別は概念によっては与えられない。もし与えられ得るならば右と左を恐らく直観を借りずに定義しなければならないであろうが、そのような定義はどう与えられるのか。併しそれにも関らず右と左の区別は「事実」である。鏡に写る像と実物との幾何学的な相違――それは Spiegelung による左右の区別であるが――(Kant, Prolegomena, §13)、又蔓草の右巻きと左巻きとの区別(Kant, Metaphysische Anfangsgr※(ダイエレシス付きU小文字)nde der Naturwissenschaften. Phoronomie)はカントが指摘したように概念によっては与え得られない処の直観の事実である。そしてこの左右の関係が正に空間に於ける関係である外はない。空間はかくして事実上――直観という定義に当て嵌まるばかりではなく――直観として検証されるのでなければならぬ。故に空間が形式的には存在論的範疇と考えられると共に、内容的には直観として検証される、ということは空間そのものの根本的な事情――事実である。これこそ空間に特有な、従って空間以外の問題からの Konsequenz として空間を取り扱い得るかのように想像している人々にとっては無雑作な結び付きとも見えよう処の、真理である。之を疑うことは、であるから、始めから空間の問題そのものを疑うこととなるであろう。
 空間――それは存在の存在論的範疇である――は直観であることが明らかにされた。併し恐らく直観と呼ばれてよいものは空間には限らないであろう。空間はどのような直観か。そのことは、空間が(一)存在の(二)存在論的な(三)範疇であるということから、規定出来る筈である。何となれば前者と後者とは同じ事情を云い表わしていた筈であるから。第一に空間は存在に関わるものであった。存在とは普通常識的に外界、自然などと呼ばれることを指す。人々は云うであろう、吾々は学的に――常識的にではなく――思索する時内界に対する外界、精神に対する自然という区別は必ずしも立てられない、何となればどうして両者の区別に規定を与えることが出来るかは見出せないであろうから、と。処で私は云おう、それ自身に於て区別されてあるものへ他の何ものかに拠ってその区別の規定を与えようとすることは、始めから出来る筈はない、と。内外の区別は内外そのものが与えるのであって他の何ものかが与え得るのではない。そしてこの内外の区別を与え得る処の内外の区別そのものが空間にあるのである。空間のみが外界を外界から、自然を精神から区別し、外界を自然を成立たせることが出来る。処で今空間は直観であったからして空間は恰も特にそのような直観でなければならない。空間は「外的直観」である。カントが空間を ※(ダイエレシス付きA小文字)usserer Sinn に関係させて規定した時、恐らく人々が想像するように Sinn そのものの区別からして空間を ※(ダイエレシス付きA小文字)usser と決めることが出来たのではなくして、却って始めから外的直観である処の空間からして或る一定の Sinn を ※(ダイエレシス付きA小文字)usser と決めることが出来るのである――恰も内部知覚と外部知覚とをもし知覚そのものから区別しようとするならば恐らく成功しないであろうように。空間は外的直観、外観(Hinschauen)である。もし仮に時間も一種の直観であると仮定するならば、この点に於て始めてそれは空間と区別されなければならない。第二に空間は存在論的であった。従って少くともそれは凡ゆる意味に於て主観にぞくしてはならない。従って又ロゴスから生まれてはならない――前半を見よ。即ちこの意味に於て概念であってはならない。処が人々は概念そのものにも直観が基礎を与えていなければならないと云うであろう。それが正しいか否かは問題の外として、もしそうとすればその直観は少くとも、概念とは区別された事情そのものである処の直観――それが今まで吾々の取り扱って来た直観である――とは区別されてあらねばならぬ。概念そのものの基礎となっている直観――それを人々は或る名を以て呼ぶことが出来るであろう――から区別されたという意味に於て、空間の直観は感性的であると云うことが出来る筈である。カントが直観は凡て感性的でなければならないと云う時、その直観はとりも直さずこの感性的直観を指す。空間は「感性的直観」である。繰り返えせば空間が存在論的である以上それは常に感性的直観でなければならない
* 幾何学的空間とも呼ばれるべきものも一つの直観であり而もそれは感性的直観である処の空間とは異った直観である、ということを私は他の折に明らかにした(「幾何学と空間」――『思想』五六―五七)。今もしそれを正しいとすれば、幾何学的空間は少くとも直接には――たとえ間接にはそれから説明出来るものでなければならぬにしても――存在論的でないこととなる。処が人々は幾何学を対象論的なものと呼ぶ理由を有つかも知れない――この理由によって Farbengeometrie とか Tongeometrie とかいう言葉に意味があり得る。そうすれば少くともこの点に於て所謂対象論的なものは、私の云って来ている意味で存在論的であるものと、区別されることとなる。併し二つのものがどう違っているかを一般に明らかにするには至らない。
 第三に空間は或る範疇であった。故に空間の直観はこの点に於て他の直観と別でなければならない。即ち空間の直観は他の外的直観とは異ってそれの制約となるものでなければならない。この意味に於て私はカントの言葉を借りて之を純粋直観と呼ぶのが適切であると思う。このような純粋直観なくしては普通感覚と呼ばれている或る特殊の内容(Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t)が空間の内にあるという事情はなり立たない。故に空間がなければ特殊の Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t――それは例えば色というような感覚又は知覚を意味する――はないという言葉は許される。処がこの言葉は次のことを含んでいる。即ち、空間という直観と例えば色という感覚としての Qualit※(ダイエレシス付きA小文字)t とは別であると。この区別を承認したとして向の言葉は次の二つの異なった結論を導くかのように見える。空間とこの内容とは必ず常に結び付いている筈であり従って第三者に於て両者が成り立つのであるという結論か、それともそうではなくして空間に於てこの内容が成り立つのであって第三者はその場合必要がないという結論か、の二つ。前の場合であるならば、単に空間がなければこの内容がないばかりではなく、又この内容がなければ空間もないこととなる。之に反して後の場合であるならばこのことは少くとも同じ意味に於ては成り立たない。この内容はなくとも空間はあるであろう。処が空間は制約であった筈であるからそれ自らが他の第三者に於て成り立つのであってはならない、それ自らに於て成り立つのでなければならぬ。それ故もし仮に前の場合のように第三者があるとしてもその第三者は又空間自身でなければならない。であるから前の場合は後の場合に含まれて来る。そうすれば空間はかの内容はなくてもあるのでなければならない。空間という直観は例えば色という感覚としての内容に並立的に結び付くのではなくして上下の関係に於て結び付くのである。無論空間が一般に或る意味に於てこのような感覚と結び付いている以上、その意味に於てこの感覚なくしてはあり得ないのではあるが、この関係は空間がなくしてはこの感覚もあり得ないという関係と同じ意味に理解されてはならない。そこには上下の関係がある。そしてこの関係故に吾々は始めて制約として空間をとり出し、之を他の直観――それは向の感覚を含む――から区別して純粋直観と呼ぶことが出来たのである。であるから例えば純粋直観はない、あるものは常に純粋ではない処の――経験的な――直観だけではないか、という批難は純粋直観の否定となることは出来ない。何となれば純粋直観でない処の直観だけであると云うその時、その直観がとりも直さず純粋直観によって成り立っているというのが吾々の主張なのであるから。カントが、空間に於ける対象が無いと考えることは出来るが、空間が無いと思うことは出来ない、と云った言葉は、決して空間と感覚内容との不離の関係を以って反対されるべきではなく(例えば Marty, Raum und Zeit, S. 8 ff.)、空間が制約であること、即ち純粋直観であることを明らかにしているものとして理解されるべきである。空間は他の直観の制約であるという意味に於て「純粋直観」である。云い直せば空間は純粋直観であることによって一つの存在論的範疇であることが出来る。さて私は空間が一方に於て存在の存在論的範疇であり他方に於て又直観であることから、空間の直観を三重に決定することが出来た。それは外的直観であり更に感性的直観であり且つ純粋直観である
* 之はカントの第一批判感性論に於ける空間の規定と平行しているであろう。カントは直観から――「形而上学的吟味」に於ける――出発して直観形式――「先験的吟味」に於ける――へ到着する。今もしこの形式を(カントは之をその所謂範疇即ち吾々の言葉によれば認識論的範疇から区別した)存在論的範疇と解釈することが許されるならば、私はカントとは方向を逆にして、而もカントと平行してこの存在論的範疇から出発して直観へ到着することになる。
 最後に一つの質問に答えよう。空間は直観であるとして直観は意識にぞくすか。かく問われる時私は逆に意識とはどういう意味かと問わねばならぬ。もし意識が対象を内に写す――模写説のように――ものであるならば、又は対象を構成する――批判主義のように――ものであるならば、それは主観である。併しすでに決めたことによって直観は主観であってはならない。であるからこの場合ならば直観は意識にはぞくさない。もしこの場合でないならば人々は意識という言葉によって何を理解しているのかを説明する責任があるであろう。私はその説明を聴いた上で直観が意識にぞくすかぞくさないかを答えるであろう。併し少くとも次のことだけは明らかである。まず存在論的範疇として空間があり之を意識することによって――意識という意味が何であろうと――始めて空間の直観を得るのではないということ。即ち意識の外にあった空間がこの時始めて意識に這入って来る、吾々に触れてくる(zug※(ダイエレシス付きA小文字)nglich wird)のではないということ。もし意識という言葉が何かの意味で許されるならば、そうすれば空間は始めから意識の内にあるのであり、又もし意識という言葉が許されないならば、そうすれば空間は最後まで意識とは無関係である。であるから空間が直観であるという点に於て特に意識を云々する理由が出て来るのではなくして、すでに空間が存在論的範疇であるという点に於て、云々されるべきものならば云々される理由があるのである。空間の直観がではなくして空間そのものが意識にぞくすとかぞくさないとかが云われるべきである。処で私は空間が意識にぞくすかぞくさないかを決めることは、向に述べた理由によって、出来ない。併しあらゆるものがそうであるように、空間は少くとも直接という意味に於ける――前を見よ――現象にはぞくしていなければならない。空間は現象の一つの「在り方」である、云うならば「在る」ことの一つの「性格」(Dacharakter)である。空間が存在論的範疇であるとは、空間がこのような一つの性格であるということを云い表わし、空間が直観であるとは、その性格がどんな性格であるかということを云い表わす。吾々は今の場合の直観をまず何よりも先に――それが意識にぞくすかぞくさないかよりも先に――性格として理解しなければならない。之が直観は意識にぞくすかという質問への答えである。
 空間は性格にぞくす。それは主観客観関係にぞくすのでもなく又可能現実必然の Modalit※(ダイエレシス付きA小文字)t にぞくすのでもなくして、正に性格にぞくすのである。空間をば主客関係によって又 Modalit※(ダイエレシス付きA小文字)t によって理解しようとする時、問題そのものが不能となるか或いは回避されるかである。何となれば空間は主観でもなく客観でもなく、又可能性でも現実性(実在性)でも必然性でもないから。空間はそのようなものの系列とは全く別な一つの系列――性格という――の一項である。そしてこのことが空間をば存在論的範疇として求めた最後の理由に外ならない。終。
* 空間の直観はその色々な内容規定を持つ筈である。例えば三次元性、直観性、連続性、等質性、等方性など。併しこの問題は割合独立に取り扱うことが出来るからして、他の機会に譲ることとする。
(一九二六・一一・一四)

底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
初出:「哲学研究 第一一巻第一二七、一二九号」
   1926(大正15)年10月、12月
入力:矢野正人
校正:Juki
2011年5月5日作成
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