昔はベンジャミン・フランクリン、自序伝をものして、その子孫の戒めとなせり。操行に高潔にして、業務に勤勉なるこの人の如きは、真に尊き亀鑑を後世に遺せしものとこそ言うべけれ。妾の如き、如何に心の驕れることありとも、いかで得て企つべしと言わんや。
世に罪深き人を問わば、妾は実にその随一ならん、世に愚鈍なる人を求めば、また妾ほどのものはあらざるべし。齢人生の六分に達し、今にして過ぎ来し方を顧みれば、行いし事として罪悪ならぬはなく、謀慮りし事として誤謬ならぬはなきぞかし。羞悪懺悔、次ぐに苦悶懊悩を以てす、妾が、回顧を充たすものはただただこれのみ、ああ実にただこれのみ也。
懺悔の苦悶、これを愈すの道はただ己れを改むるより他にはあらじ。されど如何にしてかその己れを改むべきか、これ将た一の苦悶なり。苦悶の上の苦悶なり、苦悶を愈すの苦悶なり。苦悶の上また苦悶あり、一の苦悶を愈さんとすれば、生憎に他の苦悶来り、妾や今実に苦悶の合囲の内にあるなり。されば、この書を著すは、素よりこの苦悶を忘れんとての業には非ず、否筆を執るその事もなかなか苦悶の種たるなり、一字は一字より、一行は一行より、苦悶は弥勝るのみ。
苦悶はいよいよ勝るのみ、されど、妾強ちにこれを忘れんことを願わず、否昔懐かしの想いは、その一字に一行に苦悩と共に弥増すなり。懐かしや、わが苦悶の回顧。
顧えば女性の身の自ら揣らず、年少くして民権自由の声に狂し、行途の蹉跌再三再四、漸く後の半生を家庭に托するを得たりしかど、一家の計いまだ成らざるに、身は早く寡となりぬ。人の世のあじきなさ、しみじみと骨にも透るばかりなり。もし妾のために同情の一掬を注がるるものあらば、そはまた世の不幸なる人ならずばあらじ。
妾が過ぎ来し方は蹉跌の上の蹉跌なりき。されど妾は常に戦えり、蹉跌のためにかつて一度も怯みし事なし。過去のみといわず、現在のみといわず、妾が血管に血の流るる限りは、未来においても妾はなお戦わん。妾が天職は戦いにあり、人道の罪悪と戦うにあり。この天職を自覚すればこそ、回顧の苦悶、苦悶の昔も懐かしくは思うなれ。
妾の懺悔、懺悔の苦悶これを愈すの道は、ただただ苦悶にあり。妾が天職によりて、世と己れとの罪悪と戦うにあり。
先に政権の独占を憤れる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心資本の独占に抗して、不幸なる貧者の救済に傾けるなり。妾が烏滸の譏りを忘れて、敢えて半生の経歴を極めて率直に少しく隠す所なく叙せんとするは、強ちに罪滅ぼしの懺悔に代えんとには非ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。
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第一 家庭
一 贋いもの
妾は八、九歳の時、屋敷内にて怜悧なる娘と誉めそやされ、学校の先生たちには、活発なる無邪気なる子と可愛がられ、十一、二歳の時には、県令学務委員等の臨める試験場にて、特に撰抜せられて『十八史略』や、『日本外史』の講義をなし、これを無上の光栄と喜びつつ、世に妾ほど怜悧なる者はあるまじなど、心私かに郷党に誇りたりき。
十五歳にして学校の助教諭を托せられ、三円の給料を受けて子弟を訓導するの任に当り、日々勤務の傍ら、復習を名として、数十人の生徒を自宅に集め、学校の余科を教授して、生徒をして一年の内二階級の試験を受くることを得せしめしかば、大いに父兄の信頼を得て、一時はおさおさ公立学校を凌がんばかりの隆盛を致せり。
学校に通う途中、妾は常に蛮貊小僧らのために「マガイ」が通る「マガイ」が通ると罵られき。この評言の適切なる、今こそ思い当りたれ、当時妾は実に「マガイ」なりしなり。「マガイ」とは馬爪を鼈甲に似たらしめたるにて、現今の護謨を象牙に擬せると同じく似て非なるものなれば、これを以て妾を呼びしことの如何ばかり名言なりしかを知るべし。今更恥かしき事ながら妾はその頃、先生たちに活発の子といわれし如く、起居振舞のお転婆なりしは言うまでもなく、修業中は髪を結う暇だに惜しき心地せられて、一向に書を読む事を好みければ、十六歳までは髪を剪りて前部を左右に分け、衣服まで悉く男生の如くに装い、加も学校へは女生と伴うて通いにき。近所の小供らのこれを観て異様の感を抱き、さてこそ男子とも女子ともつかぬ、いわゆる「マガイ」が通るよとは罵りしなるべし。これを懐うごとに、今も背に汗のにじむ心地す。ようよう世心の付き初めて、男装せし事の恥かしく髪を延ばすに意を用いたるは翌年十七の春なりけり。この時よりぞ始めて束髪の仲間入りはしたりける。
二 自由民権
十七歳の時は妾に取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯れに物せし大津絵ぶしあり。
すめらみの、おためとて、備前岡山を始めとし、数多の国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣、親や妻子を振り捨てて。(詩入)「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂せる時なりければ、妾の月琴に和してこれを唄うを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動いし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和らぐるに若かずとて、八雲琴、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜に入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。三 縁談
十六歳の暮に、ある家より結婚の申し込みありしかど、理想に適わずとて、謝絶しければ、父母も困じ果てて、ある日妾に向かい、家の生計意の如くならずして、倒産の憂き目さえやがて落ちかからん有様なるに、御身とて何時までか父母の家に留まり得べき、幸いの縁談まことに良縁と覚ゆるに、早く思い定めよかしと、いと切めたる御言葉なり。その時妾は母に向かいこれまでの養育の恩を謝して、さてその御恵みによりてもはや自活の道を得たれば、仮令今よりこの家を逐わるるとも、糊口に事を欠くべしとは覚えず。されど願うは、ただこのままに永く膝下に侍せしめ給え、学校より得る収入は悉く食費として捧げ参らせ聊か困厄の万一を補わんと、心より申し出でけるに、父母も動かしがたしと見てか、この縁談は沙汰止みとなりにき。
ああ世にはかくの如く、父兄に威圧せられて、ただ儀式的に機械的に、愛もなき男と結婚するものの多からんに、如何でこれら不幸の婦人をして、独立自営の道を得せしめてんとは、この時よりぞ妾が胸に深くも刻み付けられたる願いなりける。
結婚沙汰の止みてより、妾は一層学芸に心を籠め、学校の助教を辞して私塾を設立し、親切懇到に教授しければ、さらぬだに祖先より代々教導を以て任とし来れるわが家の名は、忽ち近郷にまで伝えられ、入学の者日に増して、間もなく一家は尊敬の焼点となりぬ。依りてある寺を借り受けて教場を開き、夜は更に昼間就学の暇なき婦女、貧家の子弟に教え、母上は習字を兄上は算術を受け持ちて妾を助け、土曜日には討論会、演説会を開きて知識の交換を謀り、旧式の教授法に反対してひたすらに進歩主義を採りぬ。
四 岸田女史来る
その歳有名なる岸田俊子女史(故中島信行氏夫人)漫遊し来りて、三日間わが郷に演説会を開きしに、聴衆雲の如く会場立錐の地だも余さざりき。実にや女史がその流暢の弁舌もて、滔々女権拡張の大義を唱道せられし時の如き妾も奮慨おく能わず、女史の滞在中有志家を以て任ずる人の夫人令嬢等に議りて、女子懇親会を組織し、諸国に率先して、婦人の団結を謀り、しばしば志士論客を請じては天賦人権自由平等の説を聴き、おさおさ女子古来の陋習を破らん事を務めしに、風潮の向かう所入会者引きも切らず、会はいよいよ盛大に赴きぬ。
五 納涼会
同じ年の夏、自由党員の納涼会を朝日川に催すこととなり、女子懇親会にも同遊を交渉し来りければ、元老女史竹内、津下の両女史と謀りてこれに応じ、同日夕刻より船を朝日川に泛ぶ。会員楽器に和して、自由の歌を合奏す、悲壮の音水を渡りて、無限の感に打たれしことの今もなおこの記憶に残れるよ。折しも向かいの船に声こそあれ、白由党員の一人、甲板の上に立ち上りて演説をなせるなり。殺気凜烈人をして慄然たらしむ。市中ならんには警察官の中止解散を受くる際ならんに、水上これ無政府の心易さは何人の妨害もなくて、興に乗ずる演説の続々として試みられ、悲壮激越の感、今や朝日川を領せるこの時、突然として水中に人あり、海坊主の如く現われて、会に中止解散を命じぬ。図らざりきこの船遊びを胡乱に思い、恐るべき警官が、水に潜みてその挙動を伺い居たらんとは。船中の人々は今を興闌の時なりければ、河童を殺せ、なぐり殺せと犇めき合い、荒立ちしが、長者の言に従いて、皆々穏やかに解散し、大事に至らざりしこそ幸いなれ。されど妾の学校はその翌日、時の県令高崎某より、「詮議の次第有之停止候事」、との命を蒙りたり。詮議の次第とは何事ぞ、その筋に向かいて詰問する所ありしかど何故か答えなければ、妾の姉婿某が県会議員常置委員たりしに頼りてその故を尋ねしめけるに、理由は妾が自由党員と船遊びを共にしたりというにありて、姉婿さえ譴責を加えられ、暫く謹慎を表する身の上とはなりぬ。
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第二 上京
一 故郷を捨つ
政府が人権を蹂躙し、抑圧を逞しうして憚らざるはこれにても明らけし。さては、平常先輩の説く処、洵にその所以ありけるよ。かかる私政に服従するの義務何処にかあらん、この身は女子なれども、如何でこの弊制悪法を除かずして止むべきやと、妾は怒りに怒り、りにりて、一念また生徒の訓導に意なく、早く東都に出でて有志の士に謀らばやとて、その機の熟するを待てる折しも、妾の家を距る三里ばかりなる親友山田小竹女の許より、明日村に祭礼あり、遊びに来まさずやと、切なる招待の状来れり。そのまま東都に奔らんにいと序でよしと思いければ、心には血を吐くばかり憂かりしを忍びつつ、姉上をも誘いて、祖先の墓を拝せんことを母上に勧め、親子三人引き連れて約一里ばかりの寺に詣で、暫く黙祷して妾が志を祖先に告げぬ。初秋のいと爽やかに晴れたる日なりき。生れて十七年の住みなれし家に背き、恩愛厚き父母の膝下を離れんとする苦しさは、偲ぶとすれど胸に余りて、外貌にや表われけん、帰るさの途上も、母上は妾の挙動を怪しみて、察する所今度の学校停止に不満を抱き、この機を幸いに遊学を試みんとには非ずや、父上の御許しこそなけれ母は御身を片田舎の埋木となすを惜しむ者、如何で折角の志を沮むべき、安んじて仔細を語れよと、さりとは慈愛深き御仰せかな。されど妾は答えざりき、そは母上より父上に語り給わば到底御許容なきを知ればなり。かくて先ず志士仁人に謀りて学資の輔助を乞い、しかる上にて遊学の途に上らばやと思い定め、当時自由党中慈善の聞え高かりし大和の豪農土倉庄三郎氏に懇願せんとて、先ずその地を志し窃かに出立の用意をなすほどに、自由党解党の議起り、板垣伯を始めとして、当時名を得たる人々ども、いずれも下阪し、土倉庄三郎氏もまた大阪に出でしとの事に、好機逸すべからずとて、遂に母上までも欺き参らせ、親友の招きに応ずと言い繕いて、一週間ばかりの暇を乞い、翌日家の軒端を立ち出でぬ。実に明治十七年の初秋なりき。
二 板垣伯に謁す
友人の家に著くより、翌日の大阪行きの船の時刻を問い合せ、午後七時頃とあるに、今更ながら胸騒がしぬ。されど兼ての決心なり、明くれば友人の懇ろに引き止むるをも聴かず、暇乞いして大阪に向かいぬ。しかるに妾と室を同じうせる四十ばかりの男子ありて、頻りに妾の生地を尋ねつつ此方の顔のみ注視する体なるに、妾は心安からず、あるいは両親よりの依托を受けて途中ここに妾を待てるには非ざる乎と、一旦は少なからず危ぶめるものから、もと妾の郷を出づるは不束ながら日頃の志望を遂げんとてなり、かの墻を越えて奔るなどの猥りがましき類ならねば、将た何をか包み秘さんとて、頓て東上の途中大阪の親戚に立ち寄らんとの意を洩らしけるに、さらばその親戚は誰れ町名番地は如何になど、執拗ねく問わるることの蒼蝿くて、口に出づるまま、あらぬことをも答えけるに、その人大いに驚きたる様子にて、さては藤井氏の親戚なりし乎、奇遇というも愚かなるべし、藤井氏は今しこの室にありしかど、事務員に用事ありとて、先刻出で行かれたり、いでや直ちに呼び来らんとて、倉皇起って事務室に至り藤井をば呼べるなるべし。藤井は妾の何人なるかを問い究むる暇もなく、その人に牽れて来り見れば、何ぞ図らん従妹の妾なりけるに、更に思い寄らぬ体にて、何故の東上にや、両親には許可を得たりやなど、畳みかけて問い出でぬ。固より承諾を得たりとは、その場合われと心を欺ける答えなりしが、果ては質問の箭の堪えがたなく、最とど苦しき胸を押さえ額を擦りて、眩暈に托言せ、委しくはいずれ上陸のうえと、そのまま横になりて、翌朝九時漸う大阪に着けば、藤井の宅の妻子および番頭小僧らまで、主人の帰宅を歓び迎え、しかも妾の新来を訝しうも思えるなるべし。その夕妾は遂に藤井夫婦に打ち明けて東上の理由を語りぬ。妻は深く同情を寄せくれたり、藤井も共に尽力せんと誓いぬ。
その翌日直ちに土倉氏を銀水楼に訪れけるに、氏はいまだ出阪しおらざりき、妾の失望いかばかりぞや。されど別に詮様もなく、ひたすらその到着を待ちたりしに、葉石久米堆氏より招待状来り板垣伯に紹介せんとぞいうなる、いと嬉しくて、直ちにその寓所に訪れしに、葉石氏は妾が出阪の理由を知らず、婦女の身として一時の感情に一身を誤り給うなと、懇ろなる教訓を垂れ給いき。されど妾の一念翻すべくもあらずと見てか、強いても言わず、とかくは板垣伯に会い東上の趣意を陳べよとあるに、妾は諾いて遂に伯に謁し、東上の趣意さては将来の目的など申し聞えたるに、大いに同情を寄せられつつ、土倉氏出阪せばわれよりも頼みて御身が東上の意思を貫徹せしめん、幸いに邦家のため、人道のために勉めよとの御言葉なり。世にも有難くて感涙に咽べるその日、図らざりき土倉氏より招状の来らんとは。そは友人板垣伯より貴嬢の志望を聞きて感服せり、不肖ながら学資を供せんとの意味を含みし書翰にてありしかば、天にも昇る心地して従弟にもこの喜びを分ち、かつは郷里の父母に遊学の許可を請わしめんとて急ぎその旨を申し送り、倉皇土倉氏の寓所に到りて、その恩恵に浴するの謝辞を陳べ、旅費として五十金を贈られぬ。かくて用意も全く成りつ、一向に東上の日を待つほどに郷里にては従弟よりの消息を得て、一度は大いに驚きしかど、かかる人々の厚意に依りて学資をさえ給せらるるの幸福を無視するは勿体なしとて、終に公然東上の希望を容れたるは、誠に板垣伯と土倉氏との恩恵なりかし。
三 書窓(しょそう)の警報
それより数日を経て、板伯よりの来状あり、東京に帰る有志家のあるを幸い、御身と同伴の事を頼み置きたり、直ぐに来よ紹介せんとの事に、取り敢えず行きて見れば、有志家とは当時自由党の幹事たりし佐藤貞幹氏にてありければ、妾はいよいよ安心して、翌日神戸出帆の船に同乗し、船の初旅も恙なく将た横浜よりの汽車の初旅も障りなく東京に着して、兼ねて板伯より依頼なし置くとの事なりし『自由燈新聞』記者坂崎斌氏の宅に至り、初対面の挨拶を述べて、将来の訓導を頼み聞え、やがて築地なる新栄女学校に入学して十二、三歳の少女と肩を並べつつ、ひたすらに英学を修め、傍ら坂崎氏に就きて心理学およびスペンサー氏社会哲学の講義を聴き、一念読書界の人とはなりぬ。かかりしほどに、一日朝鮮変乱に引き続きて、日清の談判開始せられたりとの報、端なくも妾の書窓を驚かしぬ。我が当局の軟弱無気力にして、内は民衆を抑圧するにもかかわらず、外に対しては卑屈これ事とし、国家の恥辱を賭して、偏に一時の栄華を衒い、百年の患いを遺して、ただ一身の苟安を冀うに汲々たる有様を見ては、いとど感情にのみ奔るの癖ある妾は、憤慨の念燃ゆるばかり、遂に巾幗の身をも打ち忘れて、いかでわれ奮い起ち、優柔なる当局および惰民の眠りを覚しくれでは已むまじの心となりしこそ端たなき限りなりしか。
四 当時の所感
ああかくの如くにして妾は断然書を擲つの不幸を来せるなりけり。当時妾の感情を洩らせる一片の文あり、素より狂者の言に近けれども、当時妾が国権主義に心酔し、忠君愛国ちょう事に熱中したりしその有様を知るに足るものあれば、叙事の順序として、左に抜萃することを許し給え。こは大阪未決監獄入監中に起草せるものなりき。妾はここに自白す、妾は今貴族豪商の驕傲を憂うると共に、また昔時死生を共にせし自由党有志者の堕落軽薄を厭えり。我ら女子の身なりとも、国のためちょう念は死に抵るまでも已まざるべく、この一念は、やがて妾を導きて、頻りに社会主義者の説を聴くを喜ばしめ、漸くかの私欲私利に汲々たる帝国主義者の云為を厭わしめぬ。
ああ学識なくして、徒に感情にのみ支配せられし当時の思想の誤れりしことよ。されどその頃の妾は憂世愛国の女志士として、人も容されき、妾も許しき。姑らく女志士として語らしめよ。
獄中述懐(明治十八年十二月十九日大阪未決監獄において、時に十九歳)
元来儂は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習に慣れ、卑々屈々男子の奴隷たるを甘んじ、天賦自由の権利あるを知らず己れがために如何なる弊制悪法あるも恬として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣玉食するを以て、人生最大の幸福名誉となす而已、豈事体の何物たるを知らんや、いわんや邦家の休戚をや。いまだかつて念頭に懸けざるは、滔々たる日本婦女皆これにして、あたかも度外物の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一も顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、偏に女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂は同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ固より儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競いて国政に参し、決して国の危急を余所に見るなく、己れのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘い、能く事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ切なるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告し、早く立憲の政体を立て、人民をして政に参せしめざる時は、憂国の余情溢れて、如何なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風たる而已ならず憂国の志士仁人が、誤って法網に触れしを、無情にも長く獄窓に坤吟せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙に遑あらず。就中儂の、最も感情を惹起せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦の三大自由権を剥奪し、剰え儂らの生来かつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉勅云々の語を付し、畏れ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊悩の余り、暫し数行の血涙滾々たるを覚え、寒からざるに、肌に粟粒を覚ゆる事数なり。須臾にして、惟らくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛の酷なるを怨み、如何の感を惹起せん、恐るべくも、積怨の余情溢れて終に惨酷比類なき仏国革命の際の如く、あるいは露国虚無党の謀図する如き、惨憺悲愴の挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未萌に削除せざるを得ずと、即ち曩日に政府に向かって忠告したる所以なり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、固より現当路者の旧蹟あるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に悖り、剰え日清談判の如く、国辱を受くる等の事ある上は、もはや当路者を顧みるの遑なし、我が国の危急を如何せんと、益政府の改良に熱心したる所以なり。儂熟考うるに、今や外交日に開け、表に相親睦するの状態なりといえども、腹中各針を蓄え、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強の欲を逞しうし、頻りに東洋を蚕食するの兆あり、しかして、内我が国外交の状態につき、近く儂の感ずる処を拳ぐれば、曩日に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加之、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明らけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も私かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血涙淋漓、鉄腸寸断、石心分裂の思い、愛国の情、転た切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき乎、ああこの国辱を雪がんと欲するの烈士、三千七百万中一人も非ざる乎、条約改正なき、また宜なる哉と、内を思い、外を想うて、悲哀転輾、懊悩に堪えず。ああ如何して可ならん、仮令女子たりといえども、固より日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、独り愁然、苦悶に沈みたりき。何となれば、他に謀るの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫く一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、儂は修業中なるを以て、小林の寓所を訪う事も甚だ稀なりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を擲ちたり。また小林は予ての持論に、仮令如何に親密なる間柄たるも、決して、人の意を枉げしめて、己れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満腔の思想を、陳述する者なりと、何事においても、総てかくの如くなりし。しかるに、忽ち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂は曩日に述べし如く、我が国の安危旦夕に迫れり、豈読書の時ならんやと、奮然書を擲ち、先ず小林の処に至り、この際如何の計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方言を尽して、数その心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、漸く、今回事件の計画中、その端緒を聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素志を果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而已との言に儂は大いに感奮する所あり、如何にもして、幾分の金を調え、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯会社を設立するを名とし、相模地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に充つる能わず、ただ有志士の奔走費位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕心粉骨すといえども、悲しい哉、処女の身、如何ぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底儂の如きは、金員を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を謀れり。しかる処、偶日清も平和に談判調いたりとの報あり。この報たる実に儂らのために頗る凶報なるを以て、やや失望すといえども、何ぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来すも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇貨なるなからん乎、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択び、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに如かずと、ここにおいて檄文を造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合力して、辮髪奴を国外に放逐し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日に政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために辱めを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而已ならず、一は以て内政府を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ速やかにこの挙あらん事を渇望し、かつ種々心胆を砕くといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する能わず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫くして、大井は中途にして帰京し、小林独り止まりしが、漸くその尽力により、金額成就せしを以て、いよいよ磯山らは渡行の事に決定し、その発足前に当り、磯山儂に告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼是間の通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを諾す。もっとも儂は、曩日に東京を出立するの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希図したりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、弥出立というその前日逃奔し、更にその潜所を知る能わず。故を以て已むなく新井代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、儂に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分袂し、新井と共に渡航の途に就き、崎陽に至り、仁川行の出帆を待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜を生じ、渡航を拒むの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの慮りなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際儂は新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を窺うに、堂々たる男子にして、私情を挟み、公事を抛たんとするの意あり、しかして君の代任を忌むの風あり、誠に邦家のために歎ずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止まる方好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる乎、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数を要せん。わが諸君に対するの義務は、畢竟一身を抛擲して、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。儂この言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内事は総て大井、小林の任ずる所なれば、敢えて関せず、我は啻その義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全うする者と、暫し讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この行決死せざれば、到底充分平常希望する処の目的を達する能わず。かつ儂今回の同行、偏に通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂今仮令異国の鬼となるも、事幸いに成就せば、儂平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに如かずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の身腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮令身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に譲らんや。かつ惟らく、儂は固より無智無識なり、しかるに今回の行は、実に大任にして、内は政府の改良を図るの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛擲するの栄を受く、ああ何ぞ万死を惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎陽において、小林に贈るの書中にも、仮令国土を異にするも、共に国のため、道のために尽し、輓近東洋に、自由の新境域を勃興せんと、暗に永別の書を贈りし所以なり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子を棄てて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども豈公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、他なし、啻愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能わず。空しく獄裏に呻吟するの不幸に遭遇し、国の安危を余所に見る悲しさを、儂固より愛国の丹心万死を軽んず、永く牢獄にあるも、敢えて怨むの意なしといえども、啻国恩に報酬する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転た潸然たるのみ。ああいずれの日か儂が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
元来儂は我が国民権の拡張せず、従って婦女が古来の陋習に慣れ、卑々屈々男子の奴隷たるを甘んじ、天賦自由の権利あるを知らず己れがために如何なる弊制悪法あるも恬として意に介せず、一身の小楽に安んじ錦衣玉食するを以て、人生最大の幸福名誉となす而已、豈事体の何物たるを知らんや、いわんや邦家の休戚をや。いまだかつて念頭に懸けざるは、滔々たる日本婦女皆これにして、あたかも度外物の如く自ら卑屈し、政事に関する事は女子の知らざる事となし一も顧慮するの意なし。かく婦女の無気無力なるも、偏に女子教育の不完全、かつ民権の拡張せざるより自然女子にも関係を及ぼす故なれば、儂は同情同感の民権拡張家と相結托し、いよいよ自由民権を拡張する事に従事せんと決意せり、これ固より儂が希望目的にして、女権拡張し男女同等の地位に至れば、三千七百万の同胞姉妹皆競いて国政に参し、決して国の危急を余所に見るなく、己れのために設けたる弊制悪法を除去し、男子と共に文化を誘い、能く事体に通ずる時は、愛国の情も、いよいよ切なるに至らんと欲すればなり。しかるに現今我が国の状態たるや、人民皆不同等なる、専制の政体を厭忌し、公平無私なる、立憲の政体を希望し、新紙上に掲載し、あるいは演説にあるいは政府に請願して、日々専制政治の不可にして、日本人民に適せざる事を注告し、早く立憲の政体を立て、人民をして政に参せしめざる時は、憂国の余情溢れて、如何なる挙動なきにしも非ずと、種々当路者に向かって忠告するも、馬耳東風たる而已ならず憂国の志士仁人が、誤って法網に触れしを、無情にも長く獄窓に坤吟せしむる等、現政府の人民に対し、抑圧なる挙動は、実に枚挙に遑あらず。就中儂の、最も感情を惹起せしは、新聞、集会、言論の条例を設け、天賦の三大自由権を剥奪し、剰え儂らの生来かつて聞かざる諸税を課せし事なり。しかしてまた布告書等に奉勅云々の語を付し、畏れ多くも 天皇陛下に罪状を附せんとするは、そもまた何事ぞや。儂はこれを思うごとに苦悶懊悩の余り、暫し数行の血涙滾々たるを覚え、寒からざるに、肌に粟粒を覚ゆる事数なり。須臾にして、惟らくああかくの如くなる時は、無智無識の人民諸税収歛の酷なるを怨み、如何の感を惹起せん、恐るべくも、積怨の余情溢れて終に惨酷比類なき仏国革命の際の如く、あるいは露国虚無党の謀図する如き、惨憺悲愴の挙なきにしも非ずと。因って儂ら同感の志士は、これを未萌に削除せざるを得ずと、即ち曩日に政府に向かって忠告したる所以なり。かく儂ら同感の志士より、現政府に向かって忠告するは、固より現当路者の旧蹟あるを思えばなり。しかるに今や採用するなく、かえって儂らの真意に悖り、剰え日清談判の如く、国辱を受くる等の事ある上は、もはや当路者を顧みるの遑なし、我が国の危急を如何せんと、益政府の改良に熱心したる所以なり。儂熟考うるに、今や外交日に開け、表に相親睦するの状態なりといえども、腹中各針を蓄え、優勝劣敗、弱肉強食、日々に鷙強の欲を逞しうし、頻りに東洋を蚕食するの兆あり、しかして、内我が国外交の状態につき、近く儂の感ずる処を拳ぐれば、曩日に朝鮮変乱よりして、日清の関係となり、その談判は果して、儂ら人民を満足せしむる結果を得しや。加之、この時に際し、外国の注目する所たるや、火を見るよりも明らけし。しかるにその結果たる不充分にして、外国人も私かに日本政府の微弱無気力なるを嘆ぜしとか聞く。儂思うてここに至れば、血涙淋漓、鉄腸寸断、石心分裂の思い、愛国の情、転た切なるを覚ゆ。ああ日本に義士なき乎、ああこの国辱を雪がんと欲するの烈士、三千七百万中一人も非ざる乎、条約改正なき、また宜なる哉と、内を思い、外を想うて、悲哀転輾、懊悩に堪えず。ああ如何して可ならん、仮令女子たりといえども、固より日本人民なり、この国辱を雪がずんばあるべからずと、独り愁然、苦悶に沈みたりき。何となれば、他に謀るの女子なく、かつ小林等は、この際何か計画する様子なるも、儂は出京中他に志望する所ありて、暫く一心に英学に従事し居たりしを以て、かつて小林とは互いに主義上、相敬愛せるにもかかわらず、儂は修業中なるを以て、小林の寓所を訪う事も甚だ稀なりしを以て、その計画する事件も、求めてその頃は聞かざりしが、儂は日清談判の時に至り、大いに感ずる所あり、奮然書を擲ちたり。また小林は予ての持論に、仮令如何に親密なる間柄たるも、決して、人の意を枉げしめて、己れの説に服従せしむるは、我の好まざる所、いわんやわれわれ計画する処の事は、皆身命に関する事なるにおいてをや、われは意気相投ずるを待って、初めて満腔の思想を、陳述する者なりと、何事においても、総てかくの如くなりし。しかるに、忽ち朝鮮一件より日清の関係となるや、儂は曩日に述べし如く、我が国の安危旦夕に迫れり、豈読書の時ならんやと、奮然書を擲ち、先ず小林の処に至り、この際如何の計画あるやを問う。しかれども答えず。因って儂は、あるいは書にし、あるいは百方言を尽して、数その心事を陳述せしゆえ、やや感ずる所ありけん、漸く、今回事件の計画中、その端緒を聞くを得たり。その端緒とは他に非ず、即ち今回日清争端を開かば、この挙に乗じ、平常の素志を果さん心意なり。しかして、その計画は既に成りたりといえども、一金額の乏しきを憂うる而已との言に儂は大いに感奮する所あり、如何にもして、幾分の金を調え、彼らの意志を貫徹せしめんと、即ち不恤緯会社を設立するを名とし、相模地方に遊説し、漸く少数の金を調えたり。しかりといえども、これを以て今回計画中の費用に充つる能わず、ただ有志士の奔走費位に充つるほどなりしゆえ、儂は種々砕心粉骨すといえども、悲しい哉、処女の身、如何ぞ大金を投ずる者あらんや。いわんやこの重要件は、少しも露発を恐れ告げざるをや、皆徒労に属せり。因って思うに、到底儂の如きは、金員を以て、男子の万分の一助たらんと欲するも難しと、金策の事は全く断念し、身を以て当らんものをと、種々その手段を謀れり。しかる処、偶日清も平和に談判調いたりとの報あり。この報たる実に儂らのために頗る凶報なるを以て、やや失望すといえども、何ぞ中途にして廃せん、なお一層の困難を来すも、精神一到何事か成らざらん。かつ当時の風潮、日々朝野を論ぜず、一般に開戦論を主張し、その勢力実に盛んなりしに、一朝平和にその局を結びしを以て、その脳裏に徹底する所の感情は大いに儂らのために奇貨なるなからん乎、この期失うべからずと、即ち新たに策を立て、決死の壮士を択び、先ず朝鮮に至り事を挙げしむるに如かずと、ここにおいて檄文を造り、これを飛ばして、国人中に同志を得、共に合力して、辮髪奴を国外に放逐し、朝鮮をして純然たる独立国とならしむる時は、諸外国の見る処も、曩日に政府は卑屈無気力にして、かの辮髪奴のために辱めを受けしも、民間には義士烈婦ありて、国辱をそそぎたりとて、大いに外交政略に関する而已ならず、一は以て内政府を改良するの好手段たり、一挙両得の策なり、いよいよ速やかにこの挙あらん事を渇望し、かつ種々心胆を砕くといえども、同じく金額の乏しきを以て、その計画成るといえども、いまだ発する能わず。大井、小林らは、ひたすら金策にのみ、従事し居たりしが、当地においてはもはや目的なしとて、両人は地方を遊説なすとて出で行けり。暫くして、大井は中途にして帰京し、小林独り止まりしが、漸くその尽力により、金額成就せしを以て、いよいよ磯山らは渡行の事に決定し、その発足前に当り、磯山儂に告ぐに、朝鮮に同行せん事を以てす。因って儂は、その必用のある処を問う。磯山告ぐるに、彼是間の通信者に、最も必用なるを答う。儂熟慮これを諾す。もっとも儂は、曩日に東京を出立するの時、やはり、磯山の依頼により、火薬を運搬するの約ありて、長崎まで至るの都合なりしが、その義務終りなば、帰京して、第二の策、即ち内地にて、相当の運動をなさんと希図したりしが、当地(大阪)にてまた朝鮮へ通信のため同行せんとの事に、小林もこれに同意したれば、即ち渡航に決心せり。しかるに、磯山は、弥出立というその前日逃奔し、更にその潜所を知る能わず。故を以て已むなく新井代りてその任に当り、行く事に決せしかば、彼もまた同じく、儂に同行せん事を以てす。儂既に決心せし時なれば、直ちにこれを諾し、大井、小林と分袂し、新井と共に渡航の途に就き、崎陽に至り、仁川行の出帆を待ち合わせ居たり。しかる所滞留中、磯山逃奔一件に就き、新井代るに及び、壮士間に紛紜を生じ、渡航を拒むの壮士もある様子ゆえ、儂は憂慮に堪えず、彼らに向かい、間接に公私の区別を説きしも、悲しいかな、公私を顧みるの慮りなく、許容せざるを以て、儂は大いに奮激する所あり、いまだ同志の人に語らざるも、断然決死の覚悟をなしたりけり。その際儂は新井に向かいいうよう、儂この地に到着するや否や壮士の心中を窺うに、堂々たる男子にして、私情を挟み、公事を抛たんとするの意あり、しかして君の代任を忌むの風あり、誠に邦家のために歎ずべき次第なり。しかれども、これらの壮士は、かえって内地に止まる方好手段ならんといいしに、新井これに答えて、なるほどしかる乎、かくの如き人あらば、即ち帰らしむべし、何ぞ多人数を要せん。わが諸君に対するの義務は、畢竟一身を抛擲して、内地に止まる人に好手段を与うるの犠牲たるのみなれば、決死の壮士少数にて足れり、何ぞ公私を顧みざる如きの人を要せんやと。儂この言に感じ、ああこの人国のために、一身の名誉を顧みず、内事は総て大井、小林の任ずる所なれば、敢えて関せず、我は啻その義務責任を尽すのみと、自ら奮って犠牲たらんと欲するは、真に志士の天職を、全うする者と、暫し讃嘆の念に打たれしが、儂もまた、この行決死せざれば、到底充分平常希望する処の目的を達する能わず。かつ儂今回の同行、偏に通信員に止まるといえども、内事は大井、小林の両志士ありて、充分の運動をなさん。儂今仮令異国の鬼となるも、事幸いに成就せば、儂平常の素志も、彼ら同志の拡張する処ならん。まずこれについての手段に尽力し、彼らに好都合を得せしむるに如かずと。即ち新井を助けて、この手段の好結果を得せしめん、かつそれにつきては、決死の覚悟なかるべからず、しかれども、儂、女子の身腕力あらざれば、頼む所は万人に敵する良器、即ち爆発物のあるあり。仮令身体は軟弱なりといえども、愛国の熱情を以て向かうときは、何ぞ壮士に譲らんや。かつ惟らく、儂は固より無智無識なり、しかるに今回の行は、実に大任にして、内は政府の改良を図るの手段に当り、外は以て外交政略に関し、身命を抛擲するの栄を受く、ああ何ぞ万死を惜しまんやと、決意する所あり。即ち崎陽において、小林に贈るの書中にも、仮令国土を異にするも、共に国のため、道のために尽し、輓近東洋に、自由の新境域を勃興せんと、暗に永別の書を贈りし所以なり。ああ儂や親愛なる慈父母あり、人間の深情親子を棄てて、また何かあらん。しかれどもこれ私事なり、儂一女子なりといえども豈公私を混同せんや。かく重んずべく貴ぶべき身命を抛擲して、敢えて犠牲たらんと欲せしや、他なし、啻愛国の一心あるのみ。しかれども、悲しいかな、中途にして発露し、儂が本意を達する能わず。空しく獄裏に呻吟するの不幸に遭遇し、国の安危を余所に見る悲しさを、儂固より愛国の丹心万死を軽んず、永く牢獄にあるも、敢えて怨むの意なしといえども、啻国恩に報酬する能わずして、過ぐるに忍びざるをや。ああこれを思い、彼を想うて、転た潸然たるのみ。ああいずれの日か儂が素志を達するを得ん、ただ儂これを怨むのみ、これを悲しむのみ、ああ。
明治十八年十二月十九日大阪警察本署において
大阪府警部補 広沢鉄郎 印
かく冗長なる述懐書を獄吏に呈して、廻らぬ筆に仕たり顔したりける当時の振舞のはしたなさよ。理性なくして一片の感情に奔る青春の人々は、くれぐれも妾に観て、警むる所あれかし、と願うもまた端たなしや。さあれ当時の境遇の単純にして幼かりしは、あくまで浮世の浪に弄ばれて、深く深く不遇の淵底に沈み、果ては運命の測るべからざる恨みに泣きて、煩悶遂に死の安慰を得べく覚悟したりしその後の妾に比して、人格の上の差異如何ばかりぞや、思うてここに至るごとに、そぞろに懐旧の涙の禁めがたきを奈何せん。かく妙齢の身を以て、一念自由のため、愛国のために、一命を擲たんとしたりしは、一は名誉の念に駆られたる結果とはいえ、また心の底よりして、自由の大義を国民に知らしめんと願うてなりき。当時拙作あり、
愛国丹心万死軽 剣華弾雨亦何驚
誰言巾幗不成事 曾記神功赫々名
誰言巾幗不成事 曾記神功赫々名
五 不恤緯会社
これより先妾は坂崎氏の家にありて、一心勉学の傍ら、何とかして同志の婦女を養成せんものと志し、不恤緯会社なるものを起して、婦人に独立自営の道を教え、男子の奴隷たらしめずして、自由に婦女の天職を尽さしめ、この感化によりて、男子の暴横卑劣を救済せんと欲したりしかば、富井於菟女史と謀りて、地方有志の賛助を得、資金も現に募集の途つきて、ゆくゆくは一大団結を組織するの望みありき。しかるに事は志と齟齬して、富井女史は故郷に帰るの不幸に遇えり。ついでに女史の履歴を述べて見ん。
六 於菟女史
富井於菟女史は播州竜野の人、醤油屋に生れ、一人の兄と一人の妹とあり。幼より学問を好みしかば、商家には要なしと思いながらも、母なる人の丹精して同所の中学校に入れ、やがて業を卒えて後、その地の碩儒に就きて漢学を修め、また岸田俊子女史の名を聞きて、一度その家の学婢たりしかど、同女史より漢学の益を受くる能わざるを知ると共に、女史が中島信行氏と結婚の約成りし際なりしかば、暫時にしてその家を辞し坂崎氏の門に入りて、絵入自由燈新聞社の校正を担当し、独立の歩調を取られき。我が国の女子にして新聞社員たりしは、実に於菟女史を以て嚆矢とすべし。かくて女史は給料の余りを以て同志の婦女を助け、共に坂崎氏の家に同居して学事に勉めしめ、自ら訓導の任に当りぬ。妾の坂崎氏を訪うや、女史と相見て旧知の感あり、遂に姉妹の約をなし生涯相助けんことを誓いつつ、万秘密を厭い善悪ともに互いに相語らうを常とせり。されば妾は朝鮮変乱よりして、東亜の風雲益急なるよしを告げ、この時この際、婦人の身また如何で空しく過すべきやといいけるに、女史も我が当局者の優柔不断を慨き、心私かに決する処あり、いざさらば地方に遊説して、国民の元気を興さんとて、坂崎氏には一片の謝状を遺して、妾と共に神奈川地方に奔りぬ。実に明治十八年の春なり。両人神奈川県荻野町に着し、その地の有志荻野氏および天野氏の尽力によりて、同志を集め、結局醵金して重井(変名)、葉石等志士の運動を助けんと企てしかど、その額余りに少なかりしかば、女史は落胆して、この上は郷里の兄上を説き若干を出金せしめんとて、ただ一人帰郷の途に就きぬ、旅費は両人の衣類を典して調えしなりけり。
七 髪結洗濯
女史と相別れし後、妾は土倉氏の学資を受くるの資格なきことを自覚し、職業に貴賤なし、均しく皆神聖なり、身には襤褸を纏うとも心に錦の美を飾りつつ、姑らく自活の道を立て、やがて霹靂一声、世を轟かす事業を遂げて見せばやと、ある時は髪結となり、ある時は洗濯屋、またある時は仕立物屋ともなりぬ。広き都に知る人なき心易さは、なかなかに自活の業の苦しくもまた楽しかりしぞや。かくて三旬ばかりも過ぎぬれど、女史よりの消息なし。さては人の心の頼めなきことよなど案じ煩いつつ、居て待たんよりは、むしろ行きて見るに若かずと、これを葉石氏に議りしに、心変りならば行くも詮なし、さなくばおるも消息のなからんやという。実にさなりと思いければ、余儀なくもその言葉に従い、また幾日をか過ぎぬるある日、鉛筆もてそこはかと認めたる一封の書は来りぬ。見れば怨めしくも恋しかりし女史よりの手紙なり。冒頭に「アアしくじったり誤りたり取餅桶に陥りたり今日はもはや曩日の富井にあらず妹は一死以て君に謝せずんばあらず今日の悲境は筆紙の能く尽す処にあらずただただ二階の一隅に推しこめられて日々なす事もなく恋しき東の空を眺め悲哀に胸を焦すのみ余は記する能わず幸いに諒せよ」とあり。言は簡なれども、事情の大方は推せられつ。さて何とか救済の道もがなと千々に心を砕きけれども、その術なし。さらば己れ女史の代りをも兼ねて、二倍の働きをなし、この本意を貫かんのみとて、あたかも郷里より慕い来りける門弟のありしを対手として日々髪結洗濯の業をいそしみ、僅かに糊口を凌ぎつつ、有志の間に運動して大いにそが信用を得たりき。
八 暁夢を破る
しかるにその年の九月初旬妾が一室を借り受けたる家の主人は、朝未明に二階下より妾を呼びて、景山さん景山さんといと慌ただし。暁の夢のいまだ覚めやらぬほどなりければ、何事ぞと半ばは現の中に問い反せしに、女のお客さんがありますという。何という方ぞと重ねて問えば富井さんと仰有いますと答う。なに富井さん! 妾は床を蹶りて飛び起きたるなり。階段を奔り下りるも夢心地なりしが、庭に立てるはオオその人なり。富井さんかと、われを忘れて抱きつき、暫しは無言の涙なりき。懐かしき女史は、幾日の間をか着のみ着のままに過しけん、秋の初めの熱苦しき空を、汗臭く無下に汚れたる浴衣を着して、妙齢の処女のさすがに人目羞かしげなる風情にて、茫然と庭に佇めるなりけり。さてあるべきに非ざれば、二階に扶け上げて先ず無事を祝し、別れし後の事ども何くれと尋ねしに、女史は涙ながらに語り出づるよう、御身に別れてより、無事郷里に着き、母上兄妹の恙なきを喜びて、さて時ならぬ帰省の理由かくかくと述べけるに、兄は最と感じ入りたる体にて始終耳を傾け居たり。その様子に胸先ず安く、遂に調金の事を申し出でしに、図らざりき感嘆の体と見えしは妾の胆太さを呆れたる顔ならんとは。妾の再び三たび頼み聞えしには答えずして、徐かに沈みたる底気味わるき調子もて、かかる大それたる事に加担する上は、当地の警察署に告訴して大難を未萌に防がずばなるまじという。妾は驚きつつまた腹立たしさの遣る瀬なく、骨肉の兄と思えばこそかく大事を打ち明けしなるに、卑怯にも警察[#「警察」は底本では「驚察」]に告訴して有志の士を傷つけんとは、何たる怖ろしき人非人ぞ、もはや人道の大義を説くの必要なし、ただ一死以て諸氏に謝する而已と覚悟しつつ、兄に向かいてかばかりの大事に与せしは全く妾の心得違いなりき、今こそ御諭によりて悔悟したれ、以後は仰せのままに従うべければ、何とぞ誓いし諸氏の面目を立てしめ給え、と種々に哀願して僅かにその承諾は得てしかど、妾はそれより二階の一室に閉じ籠めの身となり、妹は看守の役を仰せ付かりつ。筆も紙も与えられねば書を読むさえも許されず、その悲しさは死にも優りて、御身のさぞや待ちつらんと思う心は、なかなか待つ身に幾倍の苦しさなりけん。漸う妹を賺して、鉛筆と半紙を借り受け急ぎ消息はなしけるも、委しき有様を書き記すべき暇もなかりき。定めて心変りよと爪弾きせらるるならんと口惜しさ悲しさに胸は張り裂くる思いにて、夜もおちおち眠られず。何とぞして今一度東上し、この胸の苦痛を語りて徐ろに身の振り方を定めんものと今度漸く出奔の期を得たるなり。そは両三日前妹が中元の祝いにと、他より四、五円の金をもらいしを無理に借り受け、そを路費として、夜半寝巻のままに家を脱け出で、これより耶蘇教に身を委ね神に事えて妾が志を貫かんとの手紙を残して、かくは上京したるなれば、妾はもはや同志の者にあらず、約に背くの不義を咎むることなく長く交誼を許してよという。その情義の篤き志を知りては、妾も如何で感泣の涙を禁じ得べき。アア堂々たる男子にして黄金のためにその心身を売り恬として顧みざるの時に当り、女史の高徳義心一身を犠牲として兄に秘密を守らしめ、自らは道を変えつつもなお人のため国のために尽さんとは、何たる清き心地ぞや。妾が敬慕の念はいとど深くなりゆきたるなり。その日は終日女梁山泊を以て任ずる妾の寓所にて種々と話し話され、日の暮るるも覚ええざりしが、別れに臨みてお互いに尽す道は異なれども、必ず初志を貫きて早晩自由の新天地に握手せんと言い交わし、またの会合を約してさらばとばかり袂を分ちぬ。アアこれぞ永久の別れとならんとは神ならぬ身の知る由なかりき。
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第三 渡韓の計画
一 妾の任務
ある日同志なる石塚重平氏来り、渡韓の準備整いたれば、御身をも具するはずなりとて、その理由およびそれについての方法等を説き明かされぬ。固より信ずる所に捧げたる身の如何でかは躊躇うべき、直ちにその用意に取りかかりけるに、かの友愛の心厚き中田光子は、妾の常ならぬ挙動を察してその仔細を知りたげなる模様なりき。されど彼女に禍を及ぼさんは本意なしと思いければ、石塚重平氏に托して彼に勉学を勧めさせ、また於菟女史に書を送りて今回の渡航を告げ、後事を托し、これにて思い残す事なしと、心静かに渡韓の途に上りけるは、明治十八年の十月なり。
二 鞄の爆発物
同伴者は新井章吾、稲垣示の両氏なりしが、壮士連の中には、三々五々赤毛布にくるまりつつ船中に寝転ぶ者あるを見たりき。同伴者は皆互いに見知らぬ風を装えるなり、その退屈さと心配さとはなかなか筆紙に尽しがたし。妾がこの行に加わりしは、爆発物の運搬に際し、婦人の携帯品として、他の注目を避くることに決したるより、乃ち妾をして携帯の任に当らしめたるなり。かくて妾は爆発物の原料たる薬品悉皆を磯山の手より受け取り、支那鞄に入れて普通の手荷物の如くに装い、始終傍らに置きて、ある時はこれを枕に、仮寝の夢を貪りたりしが、やがて大阪に着しければ、安藤久次郎氏の宅にて同志の人を呼び窃かに包み替えんとするほどに、金硫黄という薬の少し湿りたるを発見せしかば、鑵より取り出して、暫し乾さんとせしに、空気に触るるや否や、一面に青き火となり、今や大事に至らんとせしを、安藤氏来りて、直ちに消し止めたり、遉がは多年薬剤を研究し薬剤師の免状を得て、その当時薬舗を営み居たる甲斐ありと人々皆氏を称讃したりき。さりながら今より思い合わすれば、如何に盲目蛇物に怖じずとはいいながら、かかる危険極まれる薬品を枕にして能くも安々と睡り得しことよと、身の毛を逆竪つばかりなり。殊に神戸停車場にて、この鞄を秤にかけし時の如き、中にてがらがらと音のしたるを駅員らの怪しみて、これは如何なる品物なりやと問われしに傷持つ足の、ハッと驚きしかど、さあらぬ体にて、田舎への土産にとて、小供の玩具を入れ置きたるに、車の揺れの余りに烈しかりしため、かく壊されしことの口惜しさよと、わざわざ振り試みるに、駅夫も首肯きて、強いては開き見んともせざりき。今にして当時を顧みれば、なお冷汗の背を湿おすを覚ゆるぞかし、安藤氏は代々薬屋にて、当時熱心なる自由党員なりしが、今は内務省検疫官として頗る精励の聞えあるよし。先年板垣伯の内務大臣たりし時、多年国事に奔走せし功を愛でられてか内務省の高等官となり、爾来内閣の幾変遷を経つつも、専門技術の素養ある甲斐には、他の無能の豪傑連とその撰を異にし、当局者のために頗る調法がられおるとなん。
三 八軒屋
大阪なる安藤氏の宅に寓居すること数日にして、妾は八軒屋という船付きの宿屋に居を移し、ひたすらに渡韓の日を待ちたりしに、一日磯山より葉石の来阪を報じ来り急ぎその旅寓に来れよとの事に、何事かと訝りつつも行きて見れば、同志ら今や酒宴の半ばにて、酌に侍せる妓のいと艶めかしうそうどき立ちたり。かかる会合に加わりし事なき身の如何にしてよからんかとただ恐縮の外はなかりき。さるにても、同志は如何様の余裕ありて、かくは豪奢を尽すにかあらん、ここぞ詰問の試みどころと、葉石氏に向かい今日の宴会は妾ほとほとその心を得ず、磯山氏よりの急使を受けて、定めて重要事件の打ち合せなるべしと思い測れるには似もやらず、痴呆の振舞、目にするだに汚らわし、アア日頃頼みをかけし人々さえかくの如し、他の血気の壮士らが、遊廓通いの外に余念なきこそ道理なれ、さりとては歎かわしさの極みなるかな。かかる席に列なりては、口利くだに慚ずかしきものを、いざさらば帰るべしとて、思うままに言い罵り、やおら畳を蹶立てて帰り去りぬ。こはかかる有様を見せしめなば妾の所感如何あらんとて、磯山が好奇にも特に妾を呼びしなりしに、妾の怒り思いの外なりしかば、同志はいうも更なり、絃妓らまでも、衷心大いに愧ずる所あり、一座白け渡りて、そこそこ宴を終りしとぞ。
四 磯山の失踪
それより数日にして爆発物も出来上りたり、いよいよ出立という前の日、磯山の所在分らずなりぬ。しかるにその甥なる田崎某妾に向かいて、ある遊廓に潜めるよし告げければ、妾先ず行きて磯山の在否を問いしに、待合の女将出で来りて、あらずと弁ず。好し他の人にはさも答えよ、妾は磯山が股肱の者なり、この家に磯山のあるを知り、急用ありて来れるものを、磯山にして妾と知らば、必ず匿れざるべしと重ねて述べしに、女将首肯きて、「それは誠にすみまへんが、何誰がおいでやしても、おらんさかいにと、いやはれと、おいやしたさかい、おかくしもうし、たんだすさかい、ごめんやす、あんたはんは女はんじゃ、さかい、おこりはりゃ、しまへんじゃろ」とて、妾を奥の奥のずーッと奥の愛妓八重と差し向かえる魔室に導きぬ。彼は素より女将に厳命せし事のかくも容易すく破れんとは知るよしもなく、人のけはいをばただ女将とのみ思いなせりしに、図らずも妾の顔の顕われしを見ては、如何で慌てふためかざらん。されど妾は先日の如き殺風景を繰り返すを好まず、かえって彼に同情を寄せ、ともかくもなだめ賺して新井、葉石に面会せしむるには如かずとて、種々と言辞を設け、ようよう魔室より誘い出して腕車に載せ、共に葉石の寓居に向かいしに、途中にて同志の家を尋ね、その人をも伴わんという。詐りとは思いも寄らねば、その心に任せけるに、さても世には卑怯の男もあるものかな、彼はそのまま奔竄して、遂に行衛を晦ましたり。彼が持ち逃げせる金の内には大功は細瑾を顧みずちょう豪語を楯となせる神奈川県の志士が、郡役所の徴税を掠めんとして失敗し、更に財産家に押し入りて大義のためにその良心を欺きつつ、強いて工面せる金も混じりしぞや。しかるに彼はこの志士が血の涙の金を私費して淫楽に耽り、公道正義を無視して、一遊妓の甘心を買う、何たる烏滸の白徒ぞ。宜なる哉、縲絏の辱めを受けて獄中にあるや、同志よりは背徳者として擯斥せられ、牢獄の役員にも嗤笑せられて、やがて公判開廷の時ある壮士のために傷つけられぬ。因果応報の恐るべきをば、彼もその時思い知りたりしなるべし。
五 隠れ家
かくて磯山は奔竄しぬ、同志の軍用金は攫われたり。差し当りて其処此処に宿泊せしめ置きたる壮士の手当てを如何にせんとの先決問題起り、直ちに東都に打電したる上、石塚氏を使いとしてその状を具陳せしめ、ひたすらに重井の来阪を促しけるに、頓て来りて善後策を整え、また帰京して金策に従事したり。その間壮士らの宿料をば、無理算段して埋め合せ、辛うじて無銭宿泊の難を免れたれども、さて今後幾日を経ば調金の見込み立つべきや否や、将た如何にしてその間を切り抜くべきや。むしろ一家を借り受けて二、三十人の壮士を一団となし置くこそ上策なれとの説も出でしが、かくては警察の目を免れ得じとて、妾の発意にて山本憲氏に議り、同氏の塾生として一家を借り受け、これをば梅清処塾の分室と称しぬ。それより妾は俄に世話女房気取りとなり、一人の同志を伴いて、台所道具や種々の家具を求め来り、自炊に慣れし壮士をして、代る代る炊事を執らしめ、表面は読書に余念なきが如くに装わせつつ、同志窃かに此処に集いては第二の計画を建て、磯山逃奔すとも争で志士の志の屈すべきや、一日も早く渡韓費を調えて出立の準備をなすに如かずと、日夜肝胆を砕くこと十数日、血気の壮士らのやや倦厭の状あるを察しければ、ある時は珍しき肴を携えて、彼らを訪い、ある時は妾炊事を自らして婦女の天職を味わい、あるいは味噌漉を提げて豆腐屋に通い、またある時は米屋の借金のいい訳は婦人に限るなど、唆かされて詫びに行き、存外口籠りて赤面したる事もあり。凡そ大阪にて無一文の時二、三十人の壮士をして無賃宿泊の訴えを免れしめ、梅清処塾の書生として事なく三週間ばかりを消過せしめしは男子よりはむしろ妾の力与りて功ありしならんと信ず。今日に至るも妾はこの計画の能くその当を得たるを自覚し、折々語り出でては友人間に誇る事ぞかし。もし妾にして富豪の家に生れ窮苦の何物たるを知らざらしめば、十九や二十歳の身の、如何でかかる細事に心留むべきぞ、幸いにして貧窶の中に成長り、なお遊学中独立の覚悟を定め居たればこそ、かかる苦策も咄嗟の間には出でたるなれ。己れ炊事を親らするの覚悟なくば彼の豪壮なる壮士の輩のいかで賤業を諾わん、私利私欲を棄ててこそ、鬼神をも服従せしむべきなりけれ。妾をして常にこの心を失わざらしめば、不束ながらも大きなる過失は、なかりしならんに、志薄く行い弱くして、竜頭蛇尾に終りたること、わが身ながら腑甲斐なくて、口惜しさの限り知られず。
六 遣る瀬なき思い
右の如き、窮厄におりながら、いわゆる喉元過ぎて、熱さを忘るるの慣い、憂たてや血気の壮士は言うも更なり、重井、葉石、新井、稲垣の諸氏までも、この艱難を余所にして金が調えりといいては青楼に登り絃妓を擁しぬ。かかる時には、妾はいつも一人ぽっちにて、宿屋の一室に端座し、過去を思い、現在を慮りて、深き憂いに沈み、婦女の身の最とど果敢なきを感じて、つまらぬ愚痴に同志を恨むの念も起りたりしが、復た思いかえして、妾は彼らのために身を尽さんとには非ず、国のため、同胞のためなれば、などか中途にして挫折すべき、アア富井女史だにあらばなどと、またしても遣る瀬なき思いに悶えて、ある時詠み出でし腰折一首
かくまでに濁るもうしや飛鳥川
そも源をただせ汲む人
そも源をただせ汲む人
七 女乞食
愁いの糸のいとど払いがたかりしある日の事なり、八軒屋の旅宿にありて、ただ一人二階なる居間の障子を打ち開き、階下に集える塵取船を眺めたりしに、女乞食の二、三歳なる小供を負いたるが、頻りに塵の中より紙屑を拾い出し、これをば籠に入れ居たり。背なる小供は母の背に屈まりたるに、胸を押されて、その苦しさに堪えずやありけん、今にも窒息せんばかりなる声を出して、泣き叫びけれども、母は聞えぬ体にて、なお余念なく漁り尽し、果ては魚の腹腸、鳥の臓腑様の物など拾い取りてこれを洗い、また料理する様のいじらしさに、妾は思わず歎息して、アアさても人の世はかばかり悲惨のものなりけるか、妾貧しけれども、なおこの乞食には優るべし、思えば気の毒の母よ子よと惻隠の心禁めがたくて、覚えず階上より声をかけつつ、妾には当時大金なりける五十銭紙幣に重錘をつけて投げ与えけるに、彼女は何物が天より降り来りしとように驚きつつ、拾いとりてまた暫し躊躇いたり。妾は重ねて、それを小供に与えよと言いけるに、始めて安堵したるらしく、幾度か押し戴くさまの見るに堪えず、障子をしめて中に入り、暫くして外出せんとしたるに、宿の主婦は訝りつつ、「あんたはんじゃおまへんか先刻女の乞食にお金をやりはったのは」という。さなりと妾は首肯きたるに、「いんまさき小供を負ぶって、涙を流しながら、ここの女のお客はんが裏の二階からおぜぜを投げてくだはったさかい、ちょっとお礼に出ました、お名前を聞かしてくれといいましたが、乞食にお名まえを聞かす事かいと思いましたさかいに、ただ伝えてやろと申してかえしました、まあとんだ御散財でおました」という。慈善は人のためならず、妾は近頃になく心の清々しさを感ぜしものから、譬えば眼を過ぐる雲煙の、再び思いも浮べざりしに、図らずも他日この女乞食と、思い儲けぬ処に邂逅いて、小説らしき一場の物語とは成りたるよ。ついでなれば記し付くべし。
八 一場の悲劇
その年の十二月大事発覚して、長崎の旅舎に捕われ、転じて大阪(中の島)の監獄に幽せらるるや、国事犯者として、普通の罪人よりも優待せられ、未決中は、伝告者即ち女監の頭領となりて、初犯者および未成年者を収容する監倉を司ることとなりぬ。依りて初犯者をば改化遷善の道に赴かしむるよう誘導の労を執り、また未成年者には読書習字を教えなどして、獄中ながらこれらの者より先生先生と敬われつつ、未決中無事に三年を打ち過ぎしほどなれば、その間随分種々の罪人に遇いしが、その罪人の中にはまたかかる好人物もあるなり、かかる処にてかかる看板を附けおらざりせば、誰かはこれをさるものと思うべき。世にはこれよりも更に大なる悪、大なる罪を犯しながら白昼大手を振りて、大道を濶歩する者も多かるに、大を遺れて小を拾う、何たる片手落ちの処置ぞやなど感ぜし事も数なりき。穴賢、この感情は、一度入獄の苦を嘗めし人ならでは語るに足らず、語るも耳を掩わんのみ。かくて妾は世の人より大罪人大悪人と呼ばるる無頼の婦女子と室を同じうし、起臥飲食を共にして、ある時はその親ともなり、ある時はその友ともなりて互いに睦み合うほどに、彼らの妾を敬慕すること、かのいわゆる娑婆における学校教師と子弟との情は物かは、倶にこの小天地に落ちぬるちょう同情同感の力もて、能く相一致せる真情は、これを肉身に求めてなお得がたき思いなりき。かかるほどに、獄中常に自ずからの春ありて、靄然たる和気の立ち籠めし翌年四、五月の頃と覚ゆ、ある日看守は例の如く監倉の鍵を鳴らして来り、それ新入があるぞといいつつ、一人の垢染みたる二十五、六の婦人を引きて、今や監倉の戸を開かんとせし時、婦人は監外より妾の顔を一目見て、物をもいわず、わっとばかりに泣き出しけり。何故とは知るよしもなけれど、ただこの監獄の様の厳めしう、怖ろしきに心怯えて、かつはこれよりの苦を偲び出でしにやあらんなど、大方に推し測りて、心私かに同情の涙を湛えしに、婦人はやがて妾に向かいて、あなた様には御覚えなきか知らねど、私はかつて一日とてもあなた様を思い忘れしことなし。御顔も能く覚えたり。あなた様は、先年八軒屋の宿屋にて、女乞食に金員を恵まれし事あるべし、その時の女乞食こそは私なれ、何の因縁にてか、再びかかる処にて御目にはかかりたるぞ、これも良人や小供の引き合せにて私の罪を悔いさせ、あなた様に先年の御礼を申し上げよとの事ならん。あなた様が憐れみて五十銭を恵み給いし小供は、悪性の疱瘡にかかり、一週間前に世を去りぬ、今日はその一七日なれば線香なりと手向けやらんと、その病の伝染して顔もまだこの通りの様ながら紙屑拾いに出でたるに、病後の身の遠くへは得も行かれず、籠の物も殖えざれば、これでは線香どころか、一度の食事さえ覚束なしと、悶え苦しみつつふと見れば、人気なき処に着物乾したる家あり。背に腹は換えられず、つい道ならぬ欲に迷いしために、忽ち覿面の天罰受けて、かくも見苦しき有様となり、御目にかかりしことの恥かしさよと、生体なきまで泣き沈み、御恵みに与りし時は、病床にありし良人へも委細を語りて、これも天の御加護ならんと、薬も買いぬ、小供に菓子も買うて遣りぬ、親子三人久し振りにて笑い顔をも見せ合いしに、良人の病はなお重り行きて、敢えなき最期、弱る心を励まして、私は小供対手にやはり紙屑拾いをばその日の業となしたりしに、天道さまも聞えませぬ、貧乏こそすれ、露いささか悪しき道には踏み込まざりし私母子に病を降して、遂に最愛の者を奪い、かかる始末に至らしむるとは、何たる無情のなされ方ぞなど、果しもなき涙に掻き暮れぬ。妾は既にその奇遇に驚き、またこの憐れなる人の身の上に泣きてありしが、かくてあるべきならねば、他の囚徒と共にいろいろと慰めつつ、この上は一日も早く出獄して良人や子供の菩提を弔い給えなど力を添えつ。一週間ばかりにして彼は既決に編入せられぬ。されどひたすらに妾との別れを悲しみ、娑婆に出でて再び餓に泣かんよりは、今少し重き罪を犯し、いつまでもあなた様のお側にてお世話になりたしなど、心も狂おしう打ち歎つなりき。
実にや人の世の苦しさは、この心弱き者をして、なかなかに監倉の苦を甘んぜしめんとするなり、これをしも誰か悲惨ならずとはいうや。当局者は能く罪を罰するを知れり、乞い問う、罪を贖い得たる者を救助するの法ありや、再び饑餓の前に晒して、むしろ監獄の楽しみを想わしむることなきを保し得るや。
九 爆発物の検査
これより先、重井らは、東京にての金策成就し、渡韓の費用を得たるをもて、直ちに稲垣と共に下阪してそが準備を調え、梅清処塾にありし壮士は早や三々五々渡韓の途に上りぬ。妾は古井、稲垣両氏と長崎に至る約にてその用意を取り急ぎおりしに、出立の一両日前、重井、葉石、古井の三氏および今回出資せる越中富山の米相場師某ら稲垣と共に新町遊廓に豪遊を試み、妾も図らずその席に招かれぬ。志士仁人もまたかかる醜態を演じて、しかも交誼を厚うする方便なりというか、大事の前に小欲を捨つる能わず、前途近からざるの事業を控えて、嚢底多からざるの資金を濫費す、妾の不満と心痛とは、妾を引いて早くも失望の淵に立たしめんとはしたり。出立の日重井の発言によりて大鯰の料理を命じ、私かに大官吏を暗殺して内外の福利を進めんことを祝しぬ。かくて午後七時頃神戸行きの船に搭ぜしは古井、稲垣および妾の三人なりき。瀬戸内の波いと穏やかに馬関に着きしに、当時大阪に流行病あり、漸く蔓延の兆ありしかば、ここにも検疫の事行われ、一行の着物は愚か荷物も所持の品々も悉く消毒所に送られぬ。消毒の方法は硫黄にて燻べるなりとぞ、さてはと三人顔を見合すべき処なれど、初めより他の注目を恐れてただ乗合の如くに装いたれば、他の雑沓に紛れて咄嗟の間にそれとなく言葉を交え、爆発物は妾の所持品にせんといいたるに、否拙者の所持品となさん、もし発覚せばそれまでなり、潔く縛に就かんのみ、構えて同伴者たることを看破せらるる勿れと古井氏はいう。決心動かしがたしと見えたれば妾も否み兼ねて終に同氏の手荷物となし、それより港に上りて、消毒の間唯ある料理店に登り、三人それぞれに晩餐を命じけれども、心ここにあらざれば如何なる美味も喉を下らず、今や捕吏の来らんか、今や爆発の響聞えん乎と、三十分がほどを千日とも待ち詫びつ、やがて一時間ばかりを経て宿屋の若僕三人の荷物を肩に帰り来りぬ。再生の思いとはこの時の事なるべし。消毒終りて、衣類も己れの物と着換え、それより長崎行の船に乗りて名に高き玄海灘の波を破り、無事長崎に着きたるは十一月の下旬なり。
十 絶縁の書
ここにて朝鮮行の出船を待つほどに、ある日無名氏より「荷物濡れた東に帰れ」との電報あり。もし渡韓の際政府の注目甚だしく、大事発露の恐れありと認むる時は、誰よりなりとも「荷物濡れた」の暗号電報を発して、互いに警告すべしとは、かつて磯山らと約しおきたる所なりき。さては磯山の潜伏中大事発覚してかくは警戒し来れるにや、あるいは磯山自ら卑怯にも逃奔せし恥辱を糊塗せんために、かくは姑息の籌を運らして我らの行を妨げ、あわよくば縛に就かしめんと謀りしには非ざる乎と種々評議を凝せしかど、終に要領を得ず、東京に打電して重井に質さんか、出船の期の迫りし今日そもまた真意を知りがたからん、とかくは打ち棄てて顧みず、向かうべき方に進まんのみと、古井より他の壮士にこの旨を伝えしに、彼らの中には古井が磯山に代りしを忌むの風ありて議諧わず、やや不調和の気味ありければ、かかる人々は潔く帰東せしむべし、何ぞ多人数を要せん、われは万人に敵する利器を有せり、敢えて男子に譲らんやと、古井に同意を表して稲垣をば東京に帰らしめ、決死の壮士十数名を率いて渡韓する事に決しぬ。これにて妾も心安く、一日長崎の公園に遊びて有名なる丸山など見物し、帰途勧工場に入りて筆紙墨を買い調え、薄暮旅宿に帰りけるに、稲垣はあらずして、古井独り何か憂悶の体なりしが、妾の帰れるを見て、共に晩餐を喫しつつ、午刻のほどより丸山に赴ける稲垣の今に至りてなお帰らず、彼は一行の渡航費を持ちて行きたるなれば、その帰るまではわれら一歩も他に移す能わず、特に差し当りて佐賀に至り、江藤新作氏に面したき要件の出来たるに、早く帰宿してくれずやという。その夜十時頃までも稲垣は帰り来らず、もはや詮方なしとて、それぞれ臥床に入りしが、妾は渡韓の期も、既に今明日に迫りたり、いざさらば今回の拳につきて、決心の事情を葉石に申し送り、遺憾の念なき旨を表し置かんと、独り燈下に細書を認め、ようよう十二時頃書き終りて、今や寝に就かんとするほど、稲垣は帰り来りぬ。
十一 発覚拘引
古井は直ちに起きて佐賀へ出立の用意を急ぎ、真夜中宿を立ち出でたり。残るは稲垣と妾とのみ、稲垣は遊び疲れの出でたればにや、横になるより快く睡りけるが、妾は一度渡韓せば、生きて再び故国の土を踏むべきに非ず、彼ら同志にして、果して遊廓に遊ばんほどの余資あらば、これをば借りて、途すがら郷里に立ち寄り、切めては父母兄弟に余所ながらの暇乞いもなすべかりしになど、様々の思いに耽りて、睡るとにはあらぬ現心に、何か騒がしき物音を感じぬ。何気なく閉じたる目を見開けば、こはそも如何に警部巡査ら十数名手に手に警察の提燈振り照らしつつ、われらが城壁と恃める室内に闖入したるなりけり。アナヤと驚き起たんとすれば、宿屋の主人来りて、旅客検なりという。さてこそ大事去りたれと、覚悟はしたれど、これ妾一人の身の上ならねば、出来得る限りは言いぬけんと、巡査の問いに答えて、更に何事をも解せざる様を装い、ただ稲垣と同伴せる旨をいいしに、警部は首肯きて、稲垣には縄をかけ、妾をば別に咎めざるべき模様なりしに、宵のほど認め置きし葉石への手書の、寝床の内より現われしこそ口惜しかりしか。警部の温顔俄に厳めしうなりて、この者をも拘引せよと犇くに、巡査は承りてともかくも警察に来るべし、寒くなきよう支度せよなどなお情けらしう注意するなりき。抗うべき術もなくて、言わるるままに持ち合せの衣類取り出し、あるほどの者を巻きつくれば、身はごろごろと芋虫の如くになりて、頓て巡査に伴われ行く途上の歩みの息苦しかりしよ。警察署に着くや否や、先ず国事探偵より種々の質問を受けしが、その口振りによりて昼のほど公園に遊び帰途勧工場に立ち寄りて筆紙墨を買いたりし事まで既に残りのう探り尽されたるを知り、従ってわれらがなお安全と夢みたりしその前々日より大事は早くも破れ居たりしことを覚りぬ。
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第四 未決監
一 ほとんど窒息
訊問卒えて後、拘留所に留置せられしが、その監倉こそは、実に演劇にて見たりし牢屋の体にて、妾の入牢せしはあたかも午前三時頃なりけり。世の物音の沈み果てたる真夜中に、牢の入口なる閂の取り外さるる響いとど怪しう凄まじさは、さすがに覚悟せる妾をして身の毛の逆竪つまでに怖れしめ、生来心臓の力弱き妾は忽ち心悸の昂進を支え得ず、鼓動乱れて、今にも窒息せんず思いなるを、警官は容赦なく窃盗同様に待遇らいつつ、この内に這入れとばかり妾を真暗闇の室内に突き入れて、また閂を鎖し固めたり。何たる無情ぞ、好しこのままに死なば死ね、争でかかる無法の制裁に甘んじ得んや。となかなかに涙も出でず、素より女ながら一死を賭して、暴虐なる政府に抗せんと志したる妾、勝てば官軍敗くれば賊と昔より相場の極れるを、虐待の、無情のと、今更の如く愚痴をこぼせしことの恥かしさよと、それよりは心を静め思いを転じて、生ながら死せる気になり、万感を排除する事に勉めしかば宿屋よりも獄中の夢安く、翌朝目覚めしは他の監房にて既に食事の済みし頃なりき。
二 同志の顔
先にここに入りし際は、穴のように思いしに、夜明けて見れば天井高く、なかなか首をつるべきかかりもなし。窓はほんの光線取りにして、鉄の棒を廻らし如何なる剛力の者来ればとて、破牢など思いも寄らぬ体、いと堅牢なり。水を乞うて、手水をつかえば、やがて小さき窓より朝の物を差し入れられぬ。到底喉を下るまじと思いしに、案外にも味わい旨くて瞬間に喫べ尽しつ、われながら胆太きに呆れたり。食事終りて牢内を歩むに、ふと厚き板の間の隙より、床下の見ゆるに心付き、試みに眸を凝らせば、アア其処に我が同志の赤毛布を纏いつつ、同じく散歩するが見えたり。妾と相隣りて入牢せるは、内藤六四郎氏の声なり。稲垣、古井はいずれの獄に拘留せられしにやあらん。地獄の裡に堕ちながら、慣るるにつれて、身の苦艱の薄らぐままに、ひたすら想い出でらるるは、故郷の父母さては東京、大阪の有志が上なり、一念ここに及ぶごとに熱涙の迸るを覚ゆるなりき。
翌朝食事終りて後、訊問所に引き出されて、住所、職業、身分、年齢、出生の地の事ども訊問せられ、遂にこの度当地に来りし理由を質されて、ただ漫遊なりと答えけるに、かく汝らを拘引するは、確乎たる見込ありての事なり、未練らしう包み隠さずして、有休に申し立ててこそ汝らが平生の振舞にも似合わしけれとありければ、尤もの事と思い、終に述懐書にあるが如き意見にて大事に与せる事を申し立てぬ。
三 大阪護送
警察署にての訊問果てし後、大阪に護送せらるることとなり、夜の八、九時頃にやありけん、珠数繋ぎにて警察の門を出でたり。迅きようにても女の足の後れがちにて、途中は左右の腰縄に引き摺られつつ、辛うじて波止場に到り、それより船に移し入れらる。巡査の護衛せるを見て、乗客は胆をつぶしたらんが如く、眼を円らにして、殊に女の身の妾を視る。良心に恥ずる所なしとはいいながら、何とやら、面伏せにて同志とすら言葉を交すべき勇気も失せ、穴へも入りたかりし一昼夜を過ぎて、漸く神戸に着く。例の如く諸所の旅舎より番頭小僧ども乗り込み来りて、「ヘイ蓬莱屋で御座い、ヘイ西村で御座い」と呼びつつ、手に手に屋号の提燈をひらめかし、われらに向かいて頻りに宿泊を勧めたるが、ふと巡査の護衛するを見、また腰縄のつけるに一驚を喫して、あきれ顔に口を噤めるも可笑しく、かつは世の人の心の様も見え透きて、言うばかりなく浅まし。
その夜は大阪府警察署の拘留場に入りたるに、船中の疲労やら、心痛やらにて心地悪しく、最とど苦悶を感じおりしに、妾を護衛せる巡査は両人にて、一人は五十未満、他は二十五、六歳ばかりなるが、いと気の毒がり、女なればとて特に拘留所を設け、其処に入れて懇ろに介抱しくれたり。当所に来りてよりは、長崎なる拘留所の、いと凄まじかりしに引き換え、総てわが家の座敷牢などに入れられしほどの待遇にて、この両人の内、代る代る護衛しながら常に妾と雑話をなし、また食事の折々は暖かき料理をこしらえては妾に侑める抔、万に親切なりけるが、約二週間を経て中の島監獄へ送られし後も国事犯者を以て遇せられ、その待遇長崎の厳酷なりし比に非ず。長崎警察署の不仁なる、人を視る事宛然犬猫なりしかば、一時は非常に憤慨せしも昔徳川幕府が維新の鴻業に与りて力ある志士を虐待せし例を思い浮べ、深く思い諦めたりしが、今大阪にては、有繋に通常罪人を以て遇せず言葉も丁寧に監守長の如きも時々見廻りて、特に談話をなすを喜び、中には用もなきに話しかけては、ひたすら妾の意を迎えんとせし看守もありけり。
四 眉目よき一婦人
ここにおかしきは妾と室を共にせる眉目麗しき一婦人あり、天性賤しからずして、頻りに読書習字の教えを求むるままに、妾もその志に愛でて何角教え導きけるに、彼はいよいよ妾を敬い、妾はまた彼を愛して、果は互いに思い思われ、妾の入浴するごとに彼は来りて垢を流しくれ、また夜に入れば床を同じうして寒天に凍るばかりの蒲団をば体温にて暖め、なお妾と互い違いに臥して妾の両足をば自分の両腋下に夾み、如何なる寒気もこの隙に入ることなからしめたる、その真心の有りがたさ。この婦人は大阪の生れにて先祖は相当に暮したる人なりしが、親の代に至りて家道俄に衰え、婦人は当地の慣習とて、ある紳士の外妾となりしに、その紳士は太く短こう世を渡らんと心掛くる強盗の兇漢なりしかば、その外妾となれるこの婦人も定めてこの情を知りつらんとの嫌疑を受けつ、既に一年有余の永き日をば徒に未決監に送り来れる者なりとよ。この事情を聞きて、妾は同情の念とどめがたく、典獄の巡回あるごとに、その状を具陳して、婦人のために寃枉を訴えけるに、その効なりしや否やは知らねど、妾が三重県に移りける後、婦人は果して無罪の宣告を受けたりとの吉報を耳にしき。しかるにかくこの婦人と相親しめりし事の、意外にも奇怪千万なる寃罪の因となりて、一時妾と彼女と引き離されし滑稽談あり、当時の監獄の真相を審らかにするの一例ともなるべければ、今その大概を記して、大方の参考に供せん。
五 不思議の濡衣
妾が彼女を愛し、彼女が妾を敬慕せるは上に述べたるが如き事情なり。世には淫猥無頼の婦人多かるに、独り彼女の境遇のいと悲惨なるを憐れむの余り、妾の同情も自然彼女に集中して、宛然親の子に対するが如き有様なりしかど、あたかも同じ年頃の、親子といいがたきは勿論、また兄弟姉妹の間柄とも異なりて、他所目には如何に見えけん、当時妾はひたすらに虚栄心功名心にあくがれつつ、「ジャンダーク」を理想の人とし露西亜の虚無党をば無二の味方と心得たる頃なれば、両人の交情の如何に他所目には見ゆるとも、妾の与り知らざる所、将た、知らんとも思わざりし所なりき。妾はただ彼女の親切に感じ自分も出来得る限り彼に教えて彼の親切に報いんことを勉めけるに、ある日看守来りて、突然彼女に向かい所持品を持ち監外に出でよという。さては無罪の宣告ありて、今日こそ放免せらるるならめ、何にもせよ嬉しきことよと、喜ぶにつけて別れの悲しく、互いに暗涙に咽びけるに、さはなくて彼女は妾らの室を隔つる、二間ばかりの室に移されしなりき。彼女の驚きは妾と同じく余りの事に涙も出でず、当局者の無法もほどこそあれと、腹立たしきよりは先ず呆れられて、更に何故とも解きかねたる折から、他の看守来りて妾に向かい、「景山さん今夜からさぞ淋しかろう」と冷笑う。妾は何の意味とも知らず、今夜どころか、只今より淋しくて悲しくて心細さの遣る瀬なき旨を答え、何故なればかく無情の処置をなし改化遷善の道を遮り給うぞ、監獄署の処置余りといえば奇怪なるに、署長の巡回あらん時、徐ろに質問すべき事こそあれと、予めその願意を通じ置きしに、看守は莞然笑いながら、細君を離したら、困るであろう悲しいだろうと、またしても揶揄うなりき。その語気の人もなげなるが口惜しくて、われにもあらず怫然として憤りしが、なお彼らが想像せる寃罪には心付くべくもあらずして、実に監獄は罪人を改心せしむるとよりは、罪人を一層悪に導く処なりと罵りしに、彼は僅かに苦笑して、とかくは自分の胸に問うべしと答えぬ。妾は益気昂りて自分の胸に問えとは、妾に何か失策のありしにや、罪あらば聞かまほし、親しみ深き彼女を遠ざけられし理由聞かまほし、と迫りけれども、平生悪人をのみ取り扱うに慣れたる看守どもの、一図に何か誤解せる有様にて、妾の言葉には耳だも仮さず、いよいよ嘲り気味に打ち笑いつつ立ち去りたれば、妾は署長の巡廻を待って、具にこの状を語り妾の罪を確かめんと思いおりしに、彼女も他の監房に転じたる悲しさに、慎み深き日頃のたしなみをも忘れて、看守の影の遠ざかれるごとに、先生先生何故にかく離隔せられしにや、何とぞ早くその故を質して始めの如く同室に入らしめよと、打ち喞つに、素より署長の巡廻だにあらば、直ちに愁訴して、互いの志を達すべし、暫く忍びがたきを忍べかしなど慰めたることの幾度なりしか。
六 直訴
囚人より署長に直訴するは、ほとんど破格の事として許しがたき無礼の振舞に算えらるる由なるも、妾は少しもその事を知らず、ある日巡廻し来れる署長を呼び止めしに、署長も意外の感ありしものの如くなりしが、他の罪人と同一ならぬ理由を以て妾の直訴を聞き取り、更に意外の感ありし様子にて、彼女をも訊問の上、黙して帰署したりと思うやがての事、彼女は願いの如く、妾の室に帰り来りぬ。あとにて聞けばこの事の真相こそ実に筆にするだに汚らわしき限りなれ。今日は知らずその当時は長き年月の無聊の余りにやあらん、男囚の間には男色盛んに行われ、女囚もまた互いに同気を求めて夫婦の如き関係を生じ、両女の中の割合に心雄々しきは夫の如き気風となり、優しき方は妻らしく、かくて不倫の愛に楽しみ耽りて、永年の束縛を忘れ、一朝変心する者あれば、男女間における嫉妬の心を生じて、人を傷い自ら殺すなどの椿事を惹き起すを常としたりき。現に厠に入りて、職業用の鋏刀もて自殺を企てし女囚をば妾も目の当りに見て親しく知れりき。されば無智蒙昧の監守どもが、妾の品性を認め得ず、純潔なる慈しみの振舞を以て、直ちに破倫非道の罪悪と速断しけるもまた強ちに無理ならねど、さりとては余りに可笑しく、腹立たしくて、今もなお忘れがたき記念の一つぞこれなる。
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第五 既決監
一 監房清潔
中の島未決監獄にある事一年有余にして、堀川監獄の既決監に移されぬ。なお未決ながら公判開廷の期の近づきしままに、護送の便宜上客分としてかくは取り斗らわれしなりけり。退っ引きならぬ彼女との別離は来りぬ、事件の進行して罪否いずれにか決する時の近づきしをば、切めてもの心やりにして。堀川にてはある一室の全部を開放して、妾を待てり。中の島未決監よりは、監房また更に清潔にして、部屋というも恥かしからぬほどなり、ここに移れる妾は、ようよう娑婆に近づきたらん心地もしつ。此処にても親しき友は間もなく妾の前に現われぬ、彼らは若き永年囚なりけり。いずれも妾の歓心を得べく、夜ごとに妾の足を撫でさすり、また肩など揉みて及ぶ限りの親切を尽しぬ。妾は親の膝下にありて厳重なる教育を受けし事とて、かかる親しみと愛とを以て遇せらるるごとに、親よりもなお懐かしとの念を禁ぜざるなりき。
二 お政
ここにお政とて大阪監獄きって評判の終身囚ありけり。容姿優れて美しく才気あり万事に敏き性なりければ、誘工の事総てお政ならでは目が開かぬとまでに称えられ、永年の誘工者、伝告者として衆囚より敬い冊かれけるが、彼女もまた妾のここに移りてより、何くれと親しみ寄りつ、読書に疲れたる頃を見斗いては、己が買い入れたる菓子その他の食物を持ち来り、算術を教え給え、算用数字は如何に書くにやなど、暇さえあればその事の外に余念もなく、ある時は運動がてら、水撒なども気散じなるべしとて、自ら水を荷い来りて、切に運動を勧めしこともありき。彼女は西京の生れにて、相当の家に成長せしかど、如何なる因縁にや、女性にして数芸者狂いをなし、その望みを達せんとて、数万の金を盗みし酬いは忽ちここに憂き年月を送る身となりつ。当時は今日の刑法と異なり、盗みし金の高によりて刑期に長短を付けし時なりければ、彼は単の窃盗にしてしかも終身刑を受けけるなり。その才物なるは一目瞭然たることにて、実に目より鼻へ抜ける人とはかかる人をやいうならん、惜しい哉、人道以外に堕落して、同じく人倫破壊者の一人なりしよし聞きし時は、妾も覚えず慄然たりしが、さりながら、素と鋭敏の性なりければ、能く獄則を遵守して勤勉怠らざりし功により、数等を減刑せられ、無事出獄して、大いに悔悟する処あり、遂に円頂黒衣に赤心を表わし、一、二度は妾が東京の寓所にも来りし事あり、また演劇にも「島津政懺悔録」と題して仕組まれ、自ら舞台に現われしこともありしが、その後は如何になりけん、消息を聞かず。
三 空想に耽る
かく妾は入獄中毎日読書に耽りしとはいえ、自由の身ならば新著の書籍を差し入れもらいて、大いに学術の研究も出来たるならんに、漢籍は『論語』『大学』位その他は『原人論』とか、『聖書』とかの宗教の書を許可せられしのみなりければ、ある時は英学を独習せんことを思い立ち、少しく西洋人に学びしことあるを基として、日々勉励したりしかど、やはり堂に昇らずして止みたるは恥かしき次第なり。在獄中に出獄せば如何にせん志を達せばかくなさんと、種々の空想に耽りしも、出獄間もなくその空想は全く仇となり、失望の極われとはなしに堕落して、半生を夢と過ごしたることの口惜しさよ。せめては今後を人間らしう送らんとの念はかく懺悔の隙もいと切なり。
四 獄吏の真相
妾が在獄中別に悲しと思いし事もなく浮かと日を明かし暮らせしも無理ならず。功名心に熱したる当時の事なれば、毎日署長看守長、さては看守らの来りては種々の事どもを話しかけられ慰められ、また信書を認むる時などには、若き看守の好奇にも監督を名として監房に来りては、楽書などして、妾の赤面するを面白がり、なお本気の沙汰とも覚えぬ振舞に渡りて、妾を弄ばんとするものもあり、中には真実籠めし艶書を贈りて好き返事をと促すもあり、また「君徐世賓たらばわれ奈翁たらん」などと遠廻しに諷するもありて、諸役人皆妾の一顰一笑を窺えるの観ありしも可笑しからずや。されば女監取締りの如きすら、妾の眷顧を得んとて、私かに食物菓子などを贈るという有様なれば、獄中の生活はなかなか不自由がちの娑婆に優る事数等にて、裁判の事など少しも心に懸らず、覚えずまたも一年ばかりを暮せしが、十九年の十一月頃、ふと風邪に冒され、漸次熱発甚だしく、さては腸窒扶斯病との診断にて、病監に移され、治療怠りなかりしかど、熱気いよいよ強く頗る危篤に陥りしかば、典獄署長らの心配一方ならず、弁護士よりは、保釈を願い出で、なお岡山の両親に病気危篤の旨を打電したりければ、岡山にてはもはや妾を亡きものと覚悟し、電報到着の夜より、親戚故旧打ち寄りて、妾の不運を悲しみ、遺屍引き取りの相談までなせしとの事なりしも、幸いにして幾ほどもなく快方に向かい、数十日を経て漸く本監に帰りたる嬉しさは、今に得も忘られぬ所ぞかし。他の囚人らも妾のために、日夜全快を祈りおりたりしとの事にて、妾の帰監するを見るより、宛然父母の再生を迎うるが如くに喜びくれぬ。これも妾が今も感謝に堪えぬ所なり。不自由なる牢獄にて大患に罹りし事とて、一時全快はなしたるものから、衰弱の度甚だしく、病気よりは疲労にて斃るることもやと心配せしに、これすら漸く回復して、遂には病前よりも一層の肥満を来し、その当時の写真を見ては、一驚を喫するほどなり。
五 女史の訃音
それより数日を経て翌二十年五月二十五日公判開廷の際には、あたかも健康回復の期にありて、頭髪悉く抜け落ち、薬罐頭の醜さは人に見らるるも恥かしき思いなりしが、後にて聞けば妾の親愛なる富井於菟女史は、この時娑婆にありて妾と同病に罹り、薬石効なく遂に冥府の人となりけるなり。さても頼みがたきは人の生命かな、女史は妾らの入獄せしより、ひたすら謹慎の意を表し、耶蘇教に入りて、伝道師たるべく、大いに聖書を研究し居たりしなるに、迷心執着の妾は活きて、信念堅固の女史は逝きぬ。逝ける女史を不幸とすべきか、生ける妾を幸というべきか、この報を聞きたる時、妾は実に無限の感に打たれにき。
六 生理上の一変象
ここにまた一つ記し付くべき事あり。かかる事は仮令真実なりとも、忌むべく憚るべきこととして、大方の人の黙して止むべき所なるべけれど、一つは生理学および生理と心理との関係を究むる人々のために、一つは当時の妾が、女とよりはむしろ男らしかりしことの証しにもならんかとて、敢えて身の羞恥をば打ち明くるなり。読む者強ちに、はしたなき業とのみ落しめ給うことなくば幸いなり。さて記すべき事とは何にぞ、そは妾の身体の普通ならずして、牢獄にありし二十二歳の当時まで、女にはあるべき月のものを知らざりし事なり。普通の女子は、大抵十五歳前後より、その物のあるものぞと聞くに、妾は常に母上の心配し給える如く、生れ付き男子の如く、殺風景にて、婦人のしおらしき風情とては露ほどもなく、男子と漢籍の講莚に列してなお少しも羞しと思いし事なし。さるからに、母上は妾の将来を気遣う余り、時々「恋せずば人の心はなからまし、物の哀れはこれよりぞ知る」という古歌を読み聞かせては、妾の所為を誡め給いしほどなれば、幼友達の皆人に嫁して、子を挙ぐる頃となりても、妾のみは、いまだあるべきものをだに見ざるを知りて、母上はいよいよ安からず、もしくば世にいう石女の類にやなど思い悩み給いにき。しかるに今獄中にありて或る日突然その事あり、その時の驚きは今更に言うの要なかるべし。妾の容子の常になく包ましげなるに、顔色さえ悪しかりしを、親しめる女囚に怪しまれて、しばしば問われて、秘めおくによしなく、遂に事云々と告げけるに、彼女の驚きはなかなか妾にも勝りたりき。
七 理想の夫
かくの如く男らしき妾の発達は早かりしかど、女としての妾は、極めて晩き方なりき。但し女としては早晩夫を持つべきはずの者なれば、もし妾にして、夫を撰ぶの時機来らば、威名赫々の英傑に配すべしとは、これより先、既に妾の胸に抱かれし理想なりしかど、素より世間見ずの小天地に棲息しては、鳥なき里の蝙蝠とは知らんようなく、これこそ天下の豪傑なれと信じ込みて、最初は師としてその人より自由民権の説を聴き、敬慕の念漸く長じて、卒然夫婦の契約をなしたりしは葉石なり。されどいまだ「ホーム」を形造るべき境遇ならねば、父母兄弟にその意志を語りて、他日の参考に供し、自分らはひたすら国家のために尽瘁せん事を誓いおりしに、図らずも妾が自活の途たる学舎は停止せられて、東上するの不幸に陥り、なお右の如き種々の計画に与りて、ほとんど一身を犠牲となし、果は身の置き所なき有様とさえなりてよりは、朝夕の糊口の途に苦しみつつ、他の壮士らが重井、葉石らの助力を仰ぎしにも似ず、妾は髪結洗濯を業として、とにもかくにも露の生命を繋ぐほどに、朝鮮の事件始まりて、長崎に至る途すがら、妾と夫婦の契約をなしたる葉石は、いうまでもなく、妻子眷属を国許に遺し置きたる人々さえ、様々の口実を設けては賤妓を弄ぶを恥とせず、終には磯山の如き、破廉恥の所為を敢えてするに至りしを思い、かかる私欲の充ちたる人にして、如何で大事を成し得んと大いに反省する所あり、さてこそ長崎において永別の書をば葉石に贈りしなれ。しかるに今公判開廷の報に接しては、さきに一旦の感情に駆られて、葉石に宛てたりし永別の書が、端なくも世に発表せられしことを思いてわれながら面目なく、また葉石に対し何となく気の毒なる情も起り、葉石にしてもしこの書を見ば、定めて良心に恥じ入りたらん、妾の軽率を憤りもしたらん、妾は余りに一徹なりき、彼が皎潔の愛を汚し、神聖なる恋を蹂躙せしをば、如何にしても黙止しがたく、もはや一週間内にて、死する身なれば、この胸中に思うだけをば、遺憾なく言い遺し置かんとの覚悟にて、かの書翰は認めしなれば、義気ある人、涙ある人もしこれを読まば、必ず一掬同情の涙に咽ぶべきなれど、葉石はそもこれを何とか見るらん、思えば法廷にて彼に面会することの気の毒さよ。彼はこの書翰のために、有志の面目をも損ずるなるべし、威厳をも傷うなるべし、さても気の毒の至りなるかな。妾とても再び彼ら同志に逢わざるべきを、予想したればこそ、かく夫婦の契約あることを発表せしなれ、今日の境遇あるを予知せば、もはや愛の冷却せる者に向かいて、強いて旧事を発表し、相互の不利益を醸すが如き、愚をばなさざりしならんに。さりながら妾は実に、同志の無情を嘆ぜしなり、特に葉石の無情を怨みしなり、生きて再び恋愛の奴となり、人の手にて無理に作れる運命に甘んじ順うよりは、むしろ潔く、自由民権の犠牲たれと決心して、かくも彼の反省を求めしなるに、同志の手には落ちずして、かえって警察官の手に入らんとは、かえすがえすも面伏せなる業なりけり。いでや公判開廷の日には、病と称して、出廷を避くべきかなど、種々に心を苦しめしかど、その甲斐遂にあらざりき。
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第六 公判
一 護送の途上
いよいよその日ともなれば、また三年振りにて、娑婆の空気に触るる事の嬉しく、かつは郷里より、親戚知己の来り会して懐かしき両親の消息を齎すこともやと、これを楽しみに看守に護られ、腕車に乗りて、監獄の門を出づれば、署の門前より、江戸堀公判廷に至るの間はあたかも人をもて塀を築きたらんが如く、その雑沓名状すべくもあらず。聞く大阪市民は由来政治の何物たるを解せざりしに、この事件ありてより、漸く政治思想を開発するに至れりとか、また以て妾らの公判が如何に市民の耳目を動かしたるかを知るに足るべし。
二 公廷の椿事
明治十八年十二月頃には、嫌疑者それよりそれと増し加わりて、総数二百名との事なりしが、多くは予審の笊の目に漉し去られて、公判開廷の当時残る被告は六十三名となりたり。されどなお近来未曾有の大獄にて、一度に総数を入るる法廷なければ、仮に六十三名を九組に分ちて各組に三名ずつの弁護士を附し、さていよいよ廷は開かれぬ。先ず公訴状朗読の事ありしに、「これより先、磯山清兵衛は(中略)重井、葉石らの冷淡なる、共に事をなすに足る者に非ず」云々の所に至るや第三列に控えたる被告人氏家直国氏は、憤然として怒気満面に潮し、肩を聳やかして、挙動穏やかならずと見えしが、果して十五ページ上段七行目の「右議決の旨を長崎滞在の先発者田代季吉云々」の処に至り、突然第一列にある、磯山清兵衛氏に飛びかかり、一喝して首筋を掴みたる様子にて、場の内外一方ならず騒擾し、表門警護の看守巡査は、いずれも抜剣にて非常を戒めしほどなりき。とかくする内看守、押丁ら打ち寄りて、漸く氏家を磯山より引き離したり。この時氏家は何か申し立てんとせしも、裁判長は看守押丁らに命じて、氏家を退廷せしめ、裁判長もまたこの事柄につき、相談すべき事ありとて一先ず廷を閉じ、午後に至りて更に開廷せり。爾来公判は引き続きて開かれしかど、最初の日の如く六十三名打ち揃いたる事はなく、大抵一組とこれに添いたる看守とのみ出廷したり。しかもなお傍聴者は毎日午前三時頃より正門に詰めかけ、三、四日も通い来りて漸く傍聴席に入る事を得たる有様にて、われわれの通路は常に人の山を築けるなりき。
三 重井の情書
かかる中にも葉石は、時々看守の目を偸みて、紙盤にその意思を書き付け、これを妾に送り来りて妾に冷淡の挙動あるを詰るを例とせり。(紙製石盤は公判所より許されて被告人一同に差し入れられこれに意志を認めて公判廷に持参しかくて弁論の材料となせるなり)さりながら妾は長崎にて決心せし以来再び同志の言を信ぜず、御身は愛を二、三にも四、五にもする偽君子なり、ここに如何ぞ純潔の愛を玩ばしめんやと、いつも冷淡に回答しやりたりき。意外なりしは重井より心情を籠めし書状を送り来りし事なり。東京在住中、妾は数その邸に行きて、富井女史救い出しの件につき、旅費補助の事まで頼みし事ありしが、当時氏は女のさし出がましきを厭い将た妾らが国事に奔走するを忌むの風ありしに、思いきや今その真心に妾を思うこと切なるよしを言い越されんとは。妾は更に合点行かず、ただ女珍しの好奇心に出でたるものと大方に見過して、いつも返事をなさざりしに、終には挙動にまで、その思いの表われて、如何にも怪しう思わるるに、かくまでの心入れを、如何でこのままにやはあるべきと、聊か慰藉の文を草して答えけるに、爾来両人の間の応答いよいよ繁く、果ては妾をして葉石に懲りし男心をさえ打ち忘れしめたるも浅まし。これぞ実に妾が半生を不幸不運の淵に沈めたる導火線なりけると、今より思えばただ恐ろしく口惜しかれど、その当時は素よりかかる成行きを予知すべくもあらず、一向に名声赫々の豪傑を良人に持ちし思いにて、その以後は毎日公判廷に出づるを楽しみ、かの人を待ち焦れしぞかつは怪しき。かくて妾は宛然甘酒に酔いたる如くに興奮し、結ばれがちの精神も引き立ちて、互いに尊敬の念も起り、時には氤たる口気に接して自ずから野鄙の情も失せ、心ざま俄に高く品性も勝れたるよう覚えつつ、公判も楽しき夢の間に閉じられ、妾は一年有余の軽禁錮を申し渡されたり。重井、葉石らの重だちたる人々は、有期流刑とか無期とかの重罪なりければ、いずれも上告の申し立てをなしたれども、妾のみは既決に編入せられつ。なお同志の人々と同じ大阪にあるを頼みにて、時にはかの人の消息を聞く事もあらんなど、それをのみ楽しみに思いしに、やがて三重県津市に転監せらるると聞きし時の失望は、木より落ちたる猿のそれにも似たらんかし。
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第七 就役
一 典獄の訓誨
伊勢へは我々一年半の刑を受けし人のみにて、十数人の同行者あり。常ならば東海道の五十三駅詩にもなるべき景色ならんに、柿色の筒袖に腰縄さえ付きて、巡査に護送せらるる身は、われながら興さめて、駄句だに出でず、剰え大阪より附き添い来りし巡査は皆草津にて交代となりければ、切めてもの顔馴染もなくなりて、憂きが中に三重県津市の監獄に着く。到着せしは黄昏の頃なりしが、典獄は兼ねて報知に接し居たりと見え、特に出勤して、一同を控所に呼び集め、今も忘れやらざる大声にて、「拙者は当典獄平松宜棟である、おまえさん方は、今回大阪監獄署より当所に伝逓に相成りたる被告人らである、当典獄の配下の許に来りし上は申すまでもなく能く獄則を遵守し、一日も早く恩典に浴して、自由の身となるよう致せ、ついてはその方らの身分職業姓名を申し立てよ」と、一同をして名乗らしめ、さて妾の番になりし時、「お前はいわんでも分る、景山英であろう、妙齢の身にしてかかる大事を企て、今拙者の前にこうしていようとは、お前の両親も知らぬであろう、アア今頃は何処にどうしているだろうと、暑いにつけ、寒いにつけお前の事を心配しているに相違ない、お前も親を思わぬではなかろう、一朝国のためと思い誤ったが身の不幸、さぞや両親を思うであろう、国に忠なる者は親にも孝でなくてはならんはずじゃ」と同情の涙を籠めての訓誨に、悲哀の念急に迫りて、同志の手前これまで堪えに堪え来りたる望郷の涙は、宛然に堰を破りたらんが如く、われながら暫しは顔も得上げざりき。典獄は沈思してそうあろうそうあろう、察し申す、ただこの上は獄則を謹守し、なお無頼の女囚を改化遷善の道に赴かしむるよう導き教え、同胞の暗愚を訓誨し、御身が素志たる忠君愛国の実を挙げ給え、仮令刑期は一年半たりとも減刑の恩典なきにしもあらねば一日も早く出獄すべき方法を講じ、父母の膝下にありて孝を尽せかしなど、その後も巡回の折々種々に劬りくれられたれば、遂には身の軽禁銅たることをも忘れて、ひたすら他の女囚の善導に力を致しぬ。
二 女監の工役
朝も五時に起きて仕度をなし、女監取締りの監房を開きに来るごとに、他の者と共に静坐して礼義を施し、次いで井戸端に至りて順次顔を洗い、終りて役場にて食事をなし、それよりいよいよその日の役につきて、あるいは赤き着物を縫い、あるいは機を織り糸を紡ぐ。先ず着物の定役を記さんに赤き筒袖の着物は単衣ならば三枚、袷ならば二枚、綿入れならば一枚半、また股引は四足縫い上ぐるを定めとし、古き直し物も修繕の大小によりて予め定数あり、女監取締り一々これを割り渡すなり。妾は固より定役なき身の仮令終日書を伴とすればとて、敢えて拒む者はあらざるも、せめては、婦女の職分をも尽して、世間の誤謬を解かん者と、進んで定役ある女囚と伍し、毎日定役とせる物を仕上げてさて二時間位は罷役より前にわが監房に帰り、読書をなすを例とせり。されば妾出獄の時は相応の工賃を払い渡され、小遣い余りの分のみにてもなお十円以上に上りぬ。これは重禁銅の者は、官に七分を収めて三分を自分の所有とするが例なるに、妾はこれに反して三分を官に収め七分を自分の有となしければ、在監もし長からんには相応の貯蓄も出来て、出獄の上はひとかどの用に立ちしならん。
三 藤堂家の老女
妾の幸福は、何処の獄にありても必ず両三人の同情者を得て陰に陽に庇護せられしことなり。中にも青木女監取締りの如きは妾の倦労を気遣いて毎度菓子を紙に包みて持ち来り、妾の独り読書に耽るをいと羨ましげに見惚れ居たりき。されば妾もこの人をば母とも思いて万事隔てなく交わりければ、出獄の後も忘るる能わず、同女が藤堂伯爵邸の老女となりて、東京に来りし時、妾は直ちに訪れて旧時を語り合い、何とか報恩の道もがなと、千々に心を砕きし後、同女の次女を養い取りて聊か学芸を授けやりぬ。
四 少女
妾の在監中、十六歳と十八歳の二少女ありけり、年下なるはお花、年上なるはお菊と呼べり。この二人を特に典獄より預けられて、読み書き算盤の技は更なり、人の道ということをも、説き聞かせて、及ぶ限りの世話をなすほどに、頓て両女がここに来れる仔細を知りぬ。お花は心の様さして悪しからず、ただ貧しき家に生れて、一年村の祭礼の折とかや、兄弟多くして晴衣の用意なく、遊び友達の良き着物着るを見るにつけても、わが纏える襤褸の恨めしく、少女心の浅墓にも、近所の家に掛けありし着物を盗みたるなりとぞ。またお菊は幼少の時孤児となり叔父の家に養われたりしが、生れ付きか、あるいは虐遇せられし結果にや、しばしば邪の径に走りて、既に七回も監獄に来り、出獄の日ただ一日を青天の下に暮せし事もありしよし。打ち見たる処、両女とも、十人並の容貌を具えたるにいとど可憫[#「可憫」はママ]の加わりて、如何で無事出獄の日には、わが郷里の家に養い取りて、一身の方向を授けやらばやと、両女を左右に置きて、同じく読書習字を教え、露些かも偏頗なく扱いやりしに、両女もいつか妾に懐きて、互いに競うて妾を劬わり、あるいは肩を揉み脚を按り、あるいは妾の嗜む物をば、己れの欲を節して妾に侑むるなど、いじらしきほどの親切に、かかる美徳を備えながら、何故盗みの罪は犯したりしぞと、いとど深き哀れを催し、彼らにしてもし妾より先に自由の身とならば、妾の出獄を当署にて聞き合せ、必ず迎えに来るようにと言い含め置きたりしも、両女は終に来らざりき。妾出獄の後監獄より聞きし所によれば、両女ともその後再び来らず、お花は当市近在の者にて、出獄後間もなく名古屋へ娼妓に売られたり、またお菊は叔父の家にも来らず、その所在を知るに由なしとの事なりき。ともかくも妾の到る処何処の監獄にてもかかる事の起りしは、知らず如何なる因縁にや。あるいはこの不自由なる小天地に長く跼蹐せる反響として、かく人心の一致集注を見るならんも、その集中点の必ず妾に存せるは、妾に一種の魔力あるがためならずや。もし果してさるものありとせば、好しこの身自由となりし時、所有不幸不遇の人をも吸収して、彼らに一縷の光明を授けんこと、強ちに難からざるべしとは、当時の妾が感想なりき。
五 看守の無学無識
当市の監獄には、大阪のそれと異なりて、女囚中無学無識の者多く、女監取締りの如きも大概は看守の寡婦などが糊口の勤めとなせるなりき。されば何事も自己の愛憎に走りて囚徒を取り扱うの道を知らず。偏に定役の多寡を以て賞罰の目安となせし風なれば、囚徒は何日まで入獄せしとて改化遷善の道に赴かんこと思いもよらず、悪しき者は益悪に陥りて、専心取締りの甘心を迎え、漸く狡獪陰険の風を助長するのみ。故に監獄の改良を計らんとせば、相当の給料を仕払いて、品性高き人物をば、女監取締りとなすに勉むべし。もしなおかかる者をして囚徒を取り締らしめんには、囚徒は常に軽蔑を以て取締りを迎え、表に謹慎を表して陰に舌を吐かんとす、これをしも、改化遷善を勧諭する良法となすべきやは。独り青木氏の如きは、天性慈善の心に富たるにや、別に学識ありとも見えざりしにかかわらず、かかる悲惨の境涯を見るに忍びずして、常に早くこの職を退きたしと語りたりしが妾の出獄後、果して間もなく辞職して、藤堂氏の老女となりぬ。今なお健在なりや否や。
六 憲法発布と大赦
それはさて置き妾は苦役一年にして賞標四個を与えられ、今一個を得て仮出獄の恩典あらんとせる、ある日の事、小塚義太郎氏大阪より来りて面会を求めらる。大阪よりと聞きて、かつは喜びかつは動悸めきながら、看守に伴われて面接所に行き見れば、小塚氏は微笑を以て妾を迎え、久々の疎音を謝して、さていうよう、自分は今回有志者の依頼を受けて、入獄者一同を見廻りおり、今度の紀元節を以て、憲法を発布あらせらるべき詔勅下り、かつ辱くも入獄者一同に恩典……といいかけしに、看守は遮りてその筋よりいまだ何らの達なし、めったな事を言うべからずと注意したり。小塚氏はなお語を継ぎて、貴女は何にも御存知なき様子、しかし早晩御通知あらん、いずれ明日にも面会に出頭せん、衣類等は如何になりおるや、早速にも間に合うよう相成りおるや否やなど、種々厚き注意をなして、その日はそのまま引き取りたり。妾は寝耳に水の感にて、何か今明日に喜ばしき御沙汰あるに相違なし、とにかくその用意をなし置かんと、髪を梳り置きしに、果して夕刻書物など持ちて典獄の処に出で来るようにと看守の命あり。さてこそと天にも昇る心地にて、控所に伴われ行きしに、典獄署長ら居並びて、謹んで大赦文を読み聞かされたり。なお典獄は威儀厳かに、御身の罪は大赦令によりて全く消除せられたれば、今日より自由の身たるべし。今後は益国家のために励まれよとの訓言あり。聞くや否や奇怪の感はふと妾の胸に浮び出でぬ。昨日までも今日までも、国賊として使役せられたる身の、一時間内に忠君愛国の人となりて、大赦令の恩典に浴せんとは、さても不思議の有様かな、人生幻の如しとは、そもや誰がいいそめけんと一時はただ茫然たりしが、小塚氏の厚き注意にて、衣類も新調せられたるを着換え、同志六名と共に三重県監獄の表門より、ふり返りがちに旅館に着きぬ。
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第八 出獄
一 令嬢の手前
旅館には既にそれぞれの用意ありし事とて、実に涙がこぼれるほどの待遇なり。夜はまた当地有志者の慰労会ありとて、その地の有名なる料理亭に招待せられ、翌日は釜をかけるとてある人より特に招かれたれば、午後より其処に至りしに、令嬢の手前にて、薄茶のもてなしあり。更に自分にも一服との所望ありしかば、妾は覚束なき平手まえを立ておわりぬ。貧家にこそ生い立ちたれ、母上の慈悲にて、聊かながらかかる業をも習い覚えしなりき。さなくば面目を失わんになど、今更の如く親の恩を思えるもおかし。爾来かかる事に思わぬ日を経て、遂に同地の有志者長井氏克氏らに送られつつ、鈴鹿峠に至り、それより徒歩あるいは汽車にて大阪に出づるの途中、植木枝盛氏の出迎えあり、妾に美しき薔薇花の花束を贈らる、一同へもそれぞれの贈り物あり。
二 大阪の大歓迎
大阪梅田停車場に着きけるに、出迎えの人々実に狂するばかり、我々同志の無事出獄を祝して万歳の声天地も震うばかりなり。停車場に着くや否や、諸有志のわれも花束を贈らんとて互いに先を争う中に、なつかしや、七年前別れ参らせし父上が、病後衰弱の身をも厭わせられず、親類の者に扶けられつつ、ここに来り居まさんとは。オオ父上かと、人前をも恥じず涙に濡める声を振り絞りしに、皆々さこそあらめとて、これも同情の涙に咽ばれぬ。かくてあるべきならねば、同志の士に伴われ、父上と手を別ちて用意の整えるある場所に至り、更に志士の出獄を祝すとか、志士の出獄を歓迎すとか、種々の文字を記せる紅白の大旗に護られ、大阪市中を腕車に乗りて引き廻されけるに、当地まで迎えに来りし父上は、妾の無事出獄の喜びと、当地市民の狂するばかりなる歓迎の有様を目撃したる無限の感とに打たれ、今日までの心配もこれにて全く忘れたり、このまま死すも残り惜しき事なし、かくまで諸氏の厚遇に預かり、市民に款待せられんことは、思い設けぬ所なりしといいつつも、故中江兆民先生、栗原亮一氏らの厚遇を受け給いぬ。夜に入りて旅館に帰り、ようよう一息入れんとせしに、来訪者引きも切らず、拠なく一々面会して来訪の厚意を謝するなど、その忙しさ目も廻らんばかりなり。翌日は、重井、葉石、古井らの諸氏が名古屋より到着のはずなりければ、さきに着阪せる同志と共に停車場まで出迎えしに、間もなく到着して妾らより贈れる花束を受け、それより徒歩して東雲新聞社に至らんとせるに、数万の見物人および出迎人にて、さしもに広き梅田停車場もほとんど立錐の地を余さず、妾らも重井、葉石らと共に一団となりて人々に擁せられ、足も地に着かずして中天にぶらさがりながら、辛うじて東雲新聞社に入る。新聞社の前にも見物人山の如くなれば、戸を閉じて所要ある人のみを通す事としたるに、門外には重井万歳出獄者万歳の声引きも切らず、花火は上る剣舞は始まる、中江先生は今日は女尊男卑なり、君をば満緑叢中紅一点ともいいつべく、男子に交りての抜群の働きは、この事件中特筆大書すべき価値ありとて、妾をして卓子の上に座せしめ、其処にて種々の饗応あり。終りて各旅宿に帰りしは早や黄昏の頃なりけり。
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第九 重井との関係
一 結婚を諾す
それより重井、葉石、古井の諸氏は松卯、妾は原平に宿泊し、その他の諸氏も各旅宿を定め、数日間は此処の招待、彼処の宴会と日夜を分たざりしが、郷里の歓迎上都合もある事とて、それぞれ好きほどにて引き別るることとなり、妾も弥明日岡山へ向け出立というその夜なりき、重井より、是非相談あれば松卯に来りくれよと申し来りぬ。何事かと行きて見れば、重井も葉石もあらず、詮方なく帰宿せんとする折しも、重井独り帰りて、妾の訪れしを喜び、さて入獄以来の厚情は得も忘られず、今回互いに無事出獄せるこそ幸いなれ、ここに決心して結婚の約を履まんという。こは予てよりの覚悟なりけれど、大阪に到着の夜、父上の寝物語りに、両三日来中江先生、栗原亮一氏ら頻りにわれに説きて、汝と葉石と結婚せしむべきことを勧められぬ、依っていずれ帰国の上、義兄らにも相談して、いよいよ挙行すべしと答えおきたりとあり。妾がこれを聞きたる時の驚きは、青天の霹靂にも喩うべくや、所詮は中江先生も栗原氏も深き事情を知り給わずして、一図に妾と葉石との交情を旧の如しと誤られ、この機を幸いに結婚せしめんとの厚意なるべし。さあれ覆水争でか盆に復えるべき、父上にはいずれ帰国の上、申し上ぐることあるべしと答え置き、それより中江、栗原両氏に会いて事情を具し、妾にその意なきことを謝りしかば、両氏も始めて己れらの誤解なることを覚り、その後さることは再び口にせざるに至りき。かくて妾の決心は堅かりしかど、さすがに幼馴染の葉石の、今は昔互いに睦み親しみつつ旦暮訪いつ訪われつ教えを受けし事さえ多かりしを懐い、また今の葉石とて妾に対して露悪意のあるに非ざるを察しやりては、この際重井と結婚を約するは情において忍びざる所なきに非ず、情緒乱れて糸の如しといいけん、妾もそれの、思い定めがたくて、いずれ帰国の上父母とも相談してと答えけるに、素より葉石との関係を知れる彼は、容易に諾わず、もし葉石と共に帰国せば、他の斡旋に余儀なくせられて、強いて握手することともならんずらん、今の時を失いてはとて、なお妾を催して止まず、遂に軽率とは思いながらに、ともかくも承知の旨を答えたりしぞ妾が終生の誤りなりける。
二 一家の出迎い
それより葉石および親戚の者五、六名と共に船にて帰郷の途につきしが、頓て三番港に到着するや、某地の有志家わが学校の生徒およびその父兄ら約数百名の出迎いありて、雑沓言わん方もなく、上陸して船宿に抵れば、其処にはなつかしき母上の飛び出で給いて、やれ無事に帰りしか、大病を悩らいしというに、かく健やかなる顔を見ることの嬉しさよと涙片手に取り縋られ、アア今日は芽出たき日ゆえ泣くまじと思いしに、覚えず嬉し涙がこぼれしとて、兄弟甥姪を呼びて、それぞれに喜びを分ち給う。挨拶終りて、ふと傍らに一青年のあるに心付き、この人よ、船中にても種々親切に世話しくれたり、彼はそも何人なりやと尋ねしに、そは何にをいう、弟淳造を忘れしかといわれて一驚を喫し、さても変れば変る者かな、妾の郷を出でしは七年の昔、彼が十三、四の蛮貊盛りなりし頃なり、しかるに今は妻をさえ迎えて、遠からず父と呼ばるる身の上なりとか。実に人の最も変化するは十三歳頃より十七、八歳の頃にぞある、見違えしも宜ならずやなど笑い興じて、共に腕車に打ち乗り、岡山有志家の催しにかかる慰労の宴に臨まんため、岡山公園なる観楓閣指して出立つ。
この公園は旧三十五万石を領せる池田侯爵の後園にして、四時の眺め尽せぬ日本三公園の一なり。宴の発企者は岡山屈指の富豪野崎氏その他知名の諸氏にしてわれわれおよび父母親戚を招待せられ、席上諸氏の演説あり、また有名の楽師を招きて、「自由の歌」と題せる慷慨悲壮の新体詩をば、二面の洋琴に和して歌わしむ。これを聴ける時、妾は思わず手を扼して、アアこの自由のためならば、死するもなどか惜しまんなど、無量の感に撃たれたり。唱歌終りて葉石の答礼あり、それより酒宴は開かれ、各歓を尽して帰路につきたるは、頓て点燈頃なりき。
三 久し振りの帰郷
かくて妾は母、兄弟らに護られつつ、絶えて久しき故郷の家に帰る。想えばここを去りし時の淋しく悲しかりしに引き換えて、今は多くの人々に附き纏われ、賑々しくも帰れることよ。今昔の感坐ろに湧きて、幼児の時や、友達の事など夢の如く幻の如く、はては走馬燈の如くにぞ胸に往き来う。我が家に近き町はずれよりは、軒ごとに紅燈の影美しく飾られて宛然敷地祭礼の如くなり。これはた誰がための催しぞと思うに、穴にも入りたき心地ぞする、死したらんにはなかなか心易かるべしとも思いぬ。アアかかる款待を受けながら、妾が将来は如何に、重井と私かに結婚を約せるならずや、そも妾は如何にしてこの厚意に報いんとはすらんなど、人知れず悶え苦しみしぞかし。
四 大評判
我が家にては親戚故旧を招きて一大盛宴を張りぬ。絃妓も来り、舞子も来りて、一家狂するばかりなり。宴終りて後、種々しめやかなる話しも出で、暁に至りて興はなお尽きざりき。七年の来し方を、一夜に語り一夜に聴かんとれるなるべし。
明くれば郷里の有志者および新聞記者諸氏の発起にかかる慰労会あり、魚久という料理店に招かれて、朝鮮鶴の料理あり、妾らの関係せしかの事件に因めるなりとかや。かくて数日の間は此処の宴会彼処の招待に日も足らず、平生疎遠なりし親族さえ、妾を見んとてわれがちに集い寄るほどに、妾の評判は遠近に伝わりて、三歳の童子すらも、なお景山英の名を口にせざるはなかりしぞ憂き。
五 内縁
それより一、二カ月を経て、東京より重井ら大同団結遊説のため阪地を経て中国を遊説するとの報あり。しかして妾には大阪なる重井の親戚某方に来りくるるようとの特信ありければ、今は躊躇の場合に非ずと、始めて重井との関係を両親に打ち明け、かつ今仮に内縁を結ぶとも、公然の批露は、ある時機を待たざるべからず、そは重井には現に妻女のあるあり、明治十七年以来発狂して人事を弁えず、余儀なく生家に帰さんとの内意あれども、仮初めならぬ人のために終身の謀だになしやらずして今急に離縁せん事思いも寄らず。されば重井もその職業とする弁護事務の好成績を積み、その内大事件の勝訴となりて数万の金を得ん時、彼に贈りて一生を安からしめ、さて後に縁を絶たんといえり。さもあるべき事と思いければ、姑らく内縁を結ぶの約をなしたるなり、御意見如何があるべきやと尋ねけるに、両親ともにあたかも妾の虚名に酔える時なりしかば、ともかくも御身の意見に任すべしと諾われなお重井にして当地に来りなば、宅に招待して親戚にも面会させ、その他の兄弟とも余所ながらの杯させん抔、なかなかに勇み立たれければ、妾も安心して、大阪なる友人を訪うを名とし重井に面して両親の意向を告げしに、その喜び一方ならず、この上は直ちに御両親に見えんとて、相挈えて岡山に来り、我が家の招待に応じて両親らとも妾の身の上を語り定めたる後、貴重なる指環をば親しく妾の指に嵌めて立ち帰りしこそ、残る方なき扱いなれとて、妾は素より両親も頗る満足の体に見受けられき。爾来東京に大阪に将た神戸に、妾は表面同志として重井と相伴い、演説会に懇親会に姿を並べつ、その交情日と共にいよいよ重なり行きぬ。
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第十 閑話三則
一 一女生
その頃妾の召し連れし一女生あり。越後の生れにて、あたかも妙齢十七の処女なるにも似ず、何故か髪を断りて男の姿を学び、白金巾の兵児帯太く巻きつけて、一見田舎の百姓息子の如く扮装ちたるが、重井を頼りて上京し、是非とも景山の弟子にならんとの願いなれば、書生として使いくれよとの重井の頼み辞みがたく、先ずその旨を承諾して、さて何故にかかる変性男子の真似をなすにやと詰りたるに、貴女は男の如き気性なりと聞く、さらばかくの如き姿にて行かざらんには、必ずお気に入るまじと確信し、ことさらに長き黒髪を切り捨て、男の着る着物に換えたりという。さては世間の妾を視ること、かくまでに誤れるにや、それとも心付かずしてあくまでも男子を凌がんとする驕慢疎野の女よと指弾きせらるることの面目なさよ。有体にいえば、妾は幼時の男装を恥じて以来、天の女性に賜わりし特色をもて些かなりとも世に尽さん考えなりしに、図らずも殺風景の事件に与したればこそ、かかる誤認をも招きたるならめ。さきに男のすなる事にも関いしは事国家の休戚に関し、女子たりとも袖手傍観すべきに非ず、もし幸いにして、妾にも女の通性とする優しき情と愛とあらば、これを以て有為の士を奨め励まし、及ばずながら常に男子に後援たらんとせしに外ならず、かの男子と共に力を争い、将た功を闘わさんなどは妾の思いも寄らぬ所なり。女は何処までも女たれ男は何処までも男たれ、かくて両性互いに相輔け相補うてこそ始めて男女の要はあれと確信せるものなるに、図らずもかかる錯誤を招きたるは、妾の甚だ悲しむ所、はた甚だ快しとせざる所なるをもて、妾は女生に向かいて諄々その非を諭し、やがて髪を延ばさせ、着物をも女の物に換えしめけるに、あわれ眉目艶麗の一美人と生れ変りて、ほどなく郷里に帰り、他に嫁して美しき細君とはなりき。当時送り来りし新夫婦の写真今なおあり、これに対するごとにわれながら坐ろに微笑の浮ぶを覚えつ。
二 大奇談
その頃なお一層の奇談あり。妾が東京に家を卜せしある日の事、福岡県人菊池某とて当時耶蘇教伝道師となり、普教に勉めつつありたるが、時の衆議院議員、嘉悦氏房氏の紹介状を携え来りて、妾に面会せん事を求めぬ。固より如何なる人にても、かつて面会を拒みし事のなき妾は、直ちに書生をして客室に請ぜしめ、頓て出でて面せしに、何思いけん氏は妾の顔を凝視しつつ、口の内にてこれは意外これは意外といい、頗る狼狽の体にて妾の挨拶に答礼だも施さず、茫然としていよいよ妾を凝視するのみ。妾は初め怪しみ、遂には恐れて、こは狂人なるべし、狂人を紹介せる嘉悦氏もまた無礼ならずやと、心に七分の憤りを含みながら、なお忍びに忍びて狂人のせんようを見てありしに、客は忽ち慚愧の体にて容を改め、貴嬢願わくはこの書を一覧あれとの事に、何心なく披き見れば、思いもよらぬ結婚申し込みの書なりけり。その文に曰く(中略)貴嬢の朝鮮事件に与して一死を擲たんとせるの心意を察するに、葉石との交情旧の如くならず、他に婚を求むるも容貌醜矮突額短鼻一目鬼女怪物と異ならねば、この際身を棄つる方優るらんと覚悟し、かくも決死の壮挙を企てたるなり。可憐の嬢が成行きかな。我不幸にして先妻は姦夫と奔り、孤独の身なり、かかる醜婦と結婚せば、かかる悲哀に沈む事なく、家庭も睦まじく神に仕えらるるならんと云々。かく読み終れる妾の顔に包むとすれど不快の色や見えたりけん、客はいとど面目なき体にて、アア誤てり疎忽千万なりき。ただ貴嬢の振舞を聞きて、直ちに醜婦と思い取れる事の恥かしさよ。わが想像の仇となれるを思うに、凡そ貴嬢を知るほどの者は必ず貴嬢を娶らんと希う者なるべし。さあれ貴嬢にしてもしわが志を酌み給わずば、われは遂に悲哀の淵に沈み果てなん。アア口惜しの有様やとて、ほとんど自失せし様子なりしが、忽ち小刀をポッケットに探りて、妾に投げつけ、また卓子に突き立てて妾を脅迫し、強いて結婚を承諾せしめんとは試みつ。さてこそ遂に狂したれと、妾は急ぎ書生を呼び、好きほどに待遇わしめつつ、座を退きてその後の成行きを窺う中、書生は客を賺し宥めて屋外に誘い、自ら築地なる某教会に送り届けたりき。
三 川上音二郎
これより先、大阪滞在中和歌山市有志の招待を得て、重井と同行する事に決し、畝下熊野(現代議士山口熊野)、小池平一郎、前川虎造の諸氏と共に同地に至り同所有志の発起に係る懇親会に臨みて、重井その他の演説あり。妾にも一場の演説をとの勧め否みがたく、ともかくもして責めを塞ぎ、更に婦人の設立にかかる婦人矯風会に臨みて再び拙き談話を試み、一同と共に撮影しおわりて、前川虎造氏の誘引により和歌の浦を見物し、翌日は田辺という所にて、またも演説会の催しあり、有志者の歓迎と厚き待遇とを受けて大いに面目を施したりき。かく重井と共に諸所に遊説しおる内に、わが郷里附近よりも数招待を受けたり。この時世間にては、妾と葉石との間に結婚の約の継続しおることを信じ居たれば、葉石との同行誠に心苦しかりけれど、既に重井と諸所を遊説せし身の特に葉石との同行を辞まんようなく、かつは旧誼上何となく不人情のように思われければ、重井の東京に帰るを機として妾も一旦帰郷し、暫し当所の慰労会懇親会に臨みたり。とかくして滞在中川上音二郎の一行、岡山市柳川座に乗り込み、大阪事件を芝居に仕組みて開場のはずなれば、是非見物し給われとの事に、厚意黙止がたく、一日両親を伴いて行き見るに、その技芸素より今日の如く発達しおらぬ時の事とて、科といい、白といい、ほとんど滑稽に近く、全然一見の価なきものなりき。しかも当時大阪事件が如何に世の耳目を惹きたりしかは、市の子女をしてこの芝居を見ざれば、人に非ずとまでに思わしめ、場内毎日立錐の余地なき盛況を現ぜしにても知らるべし、不思議というも愚かならずや。その興業中川上は数わが学校に来りて、その一座の重なる者と共に、生徒に講談を聴かせ、あるいは菓子を贈るなど頗る親切叮嚀なりしが、ある日特に小介をして大きなる新調の引幕を持ち来らしめ、こは自分が自由民権の大義を講演する時に限りて用うべき幕なれば、何とぞわが敬慕する尊姉の名を記入されたく、即ち表面上尊姉より贈られたるものとして、聊か自分の面目を施したしという。妾は当時の川上が性行を諒知し居たるを以て、まさかに新駒や家橘の輩に引幕を贈ると同一には視らるることもあるまじとて、その事を諾いしに、この事を聞きたる同地の有志家連は、身自由平等を主張なしながら、いまだ階級思想を打破し得ざりしと見え、忽ち妾に反対して頗る穏やかならぬ形勢ありければ、余儀なくその意を川上に洩らして署名を謝絶しけるに、彼は激昂して穏やかならぬ書翰を残し、即日岡山を立ち去りぬ。しかるにその翌二十三年かあるいは四年の頃と覚ゆ、妾も東上して本郷切り通しを通行の際、ふと川上一座と襟に染めぬきたる印半天を着せる者に逢い、思わずその人を熟視せしに、これぞ外ならぬ川上にして、彼も大いに驚きたるものの如く、一別以来の挨拶振りも、前年の悪感情を抱きたる様子なく、今度浅草鳥越において興業することに決し、御覧の如く一座の者と共に広告に奔走せるなり、前年と違いよほど苦辛を重ねたれば少しは技術も進歩せりと思う、江藤新平を演ずるはずなれば、是非御家族を伴い御来観ありたしという。数日を経て果して案内状を送り来りければ、両親および学生友人を誘いて見物せしに、なるほど一座の進歩驚くばかりなり、前年半ばは有志半ばは俳優なりし彼は終に爾く純然たる新俳優となりすませるなりき。彼はいえり、昔は拝顔さえ叶わざりし宮様方の、勿体なくも御観劇ありし際特に優旨を以て御膝下近くまで御招きに預かり、御言葉を賜わるさえ勿体なきに、なお親しく握手せさせ給えりと、語り来りて彼は随喜の涙に咽び、これも俳優となりたるお蔭なりと誇り顔なり。アア彼もしわれらに親善ならんには彼の成功はなかりしならん、彼の成功は、全く自分の主義を棄て、意気を失いしより得たる賜ものなりけり。さるにても人の心の頼めがたきは実に翻覆手にも似たるかな、昨日の壮士は今日の俳優、妾また何をか言わん。聞く彼は近年細君のお蔭にて大勲位侯爵の幇間となり、上流紳士と称するある一部の歓心を求むる外にまた余念あらずとか。彼もなかなか世渡りの上手なる漢と見えたり。この流の軟腸者豈独り川上のみならんや。
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第十一 母となる
一 妊娠
これより先、妾のなお郷地に滞在せし時、葉石との関係につき他より正式の申し込みあり、葉石よりも直接に旧情を温めたき旨申し来るなど、心も心ならざるより、東京なる重井に柬してその承諾を受け、父母にも告げて再び上京の途に就きしは二十二年七月下旬なり。この頃より妾の容体尋常ならず、日を経るに従い胸悪く頻りに嘔吐を催しければ、さてはと心に悟る所あり、出京後重井に打ち明けて、郷里なる両親に謀らんとせしに彼は許さず、暫く秘して人に知らしむる勿れとの事に、妾は不快の念に堪えざりしかど、かかる不自由の身となりては、今更に詮方もなく、彼の言うがままに従うに如かずと閑静なる処に寓居を構え、下婢と書生の三人暮しにていよいよ世間婦人の常道を歩み始めんとの心構えなりしに、事実はこれに反して、重井は最初妾に誓い、将た両親に誓いしことをも忘れし如く、妾を遇することかの口にするだも忌わしき外妾同様の姿なるは何事ぞや。如何なる事情あるかは知らざれども、妾をかかる悲境に沈ましめ、殊に胎児にまで世の謗りを受けしむるを慮らずとは、これをしも親の情というべきかと、会合の都度切に言い聞えけるに、彼もさすがに憂慮の体にて、今暫く発表を見合しくれよ、今郷里の両親に御身懐胎の事を報ぜんには、両親とても直ちに結婚発表を迫らるべし、発表は容易なれども、自分の位地として、また御身の位地として相当の準備なくては叶わず、第一病婦の始末だに、なお付きがたき今日の場合、如何ともせんようなきを察し給え。目下弁護事務にて頗る有望の事件を担当しおり、この事件にして成就せば、数万の報酬を得んこと容易なれば、その上にて総て花々しく処断すべし、何とぞ暫しの苦悶を忍びて、胎児を大切に注意しくれよと他事もなき頼みなり。素より彼を信ずればこそこの百年の生命をも任したるなれ、かくまで事を分けられて、なおしもそは偽りならん、一時遁れの間に合せならんなど、疑うべき妾にはあらず、他日両親の憤りを受くるとも、言い解く術のなからんやと、事に托して叔母なる人の上京を乞い、事情を打ち明けて一身の始末を托し、ひたすら胎児の健全を祈り、自ら堅く外出を戒めしほどに、景山は今何処にいるぞ、一時を驚動せし彼女の所在こそ聞かまほしけれなど、新聞紙上にさえ謳わるるに至りぬ。
二 分娩、奇夢
その間の苦悶そもいくばくなりしぞや。面白からぬ月日を重ねて翌二十三年三月上旬一男子を挙ぐ。名はいわざるべし、悔ある堕落の化身を母として、明らさまに世の耳目を惹かせんは、子の行末のため、決して好き事にはあらざるべきを思うてなり。ただその命名につきて一場の奇談あり、迷信の謗り免かれずとも、事実なれば記しおくべし。その子の身に宿りしより常に殺気を帯べる夢のみ多く、ある時は深山に迷い込みて数千の狼に囲まれ、一生懸命の勇を鼓して、その首領なる老狼を引き倒し、上顎と下顎に手をかけて、口より身体までを両断せしに、他の狼児は狼狽して悉く遁失せ、またある時は幼時かつて講読したりし、『十八史略』中の事実、即ち「禹江を渡る時、蛟竜船を追う、舟中の人皆慴る、禹天を仰いで、嘆じて曰く、我命を天に享く、力を尽して、万民を労す、生は寄なり、死は帰なりと、竜を見る事、蜿の如く、眼色変ぜず、竜首を俯し尾を垂れて、遁る。」といえる有様の歴々と目前に現われ、しかも妾は禹の位置に立ちて、禹の言葉を口に誦し、竜をして遂に辟易せしめぬ。しかるに分娩の際は非常なる難産にして苦悶二昼夜にわたり、医師の手術によらずば、分娩覚束なしなど人々立ち騒げる折しも、あたかも陣痛起りて、それと同時に大雨篠を乱しかけ、鳴神おどろおどろしく、はためき渡りたるその刹那に、児の初声は挙りて、さしも盆を覆さんばかりの大雨も忽ちにして霽れ上りぬ。後にて書生の語る所によれば、その日雨の降りしきれる時、世にいう竜まきなるものありて、その蛇の如き細き長き物の天上するを見たりきという。妾は児の重ね重ね竜に縁あるを奇として、それに因める名をば命けつ、生い先の幸多かれと祷れるなりき。
三 児の入籍
児を分娩すると同時に、またも一の苦悶は出で来りぬ。そは重井と公然の夫婦ならねば、児の籍をば如何にせんとの事なりき。幸いなるかな、妾の妊娠中しばしば診察を頼みし医師は重井と同郷の人にして、日頃重井の名声を敬慕し、彼と交誼を結ばん事を望み居たれば、この人によりて双方の秘密を保たんとて、親戚の者より同医に謀る所ありしに、義侠に富める人なりければ直ちに承諾し、己れいまだ一子だになきを幸い、嫡男として役所に届け出でられぬ。かくて両人とも辛うじて世の耳目を免かれ、死よりもつらしと思える難関を打ち越えて、ヤレ嬉しやと思う間もなく、郷里より母上危篤の電報は来りぬ。
四 愛着
分娩後いまだ三十日とは過ぎざりしほどなりければ、遠路の旅行危険なりと医師は切に忠告したり。されど今回の分娩は両親に報じやらざりし事なれば今更にそれぞとも言い分けがたく、殊には母上の病気とあるに、争で余所にやは見過ごすべき、仮し途中にて死なば死ね、思い止まるべくもあらずとて、人々の諌むるを聞かず、叔母と乳母とに小児を托して引かるる後ろ髪を切り払い、書生と下女とに送られて新橋に至り、発車を待つ間にも児は如何になしおるやらんと、心は千々に砕けて、血を吐く思いとはこれなるべし。実に人生の悲しみは頑是なき愛児を手離すより悲しきはなきものを、それをすら強いて堪えねばならぬとは、これも偏に秘密を契りし罪悪の罰ならんと、われと心を取り直して、ただ一人心細き旅路に上りけるに、車中片岡直温氏が嫂某女と同行せられしに逢い、同女が嬰児を懐に抱きて愛撫一方ならざる有様を目撃するにつけても、他人の手に愛児を残す母親の浅ましさ、愛児の不憫さ、探りなれたる母の乳房に離れて、俄に牛乳を与えらるるさえあるに、哺乳器の哺みがたくて、今頃は如何に泣き悲しみてやあらん、汝が恋うる乳房はここにあるものを、そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄々しき心は失せて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層女々しうなりしぞかし。さしも気遣いたりし身体には障りもなくて、神戸直行と聞きたる汽車の、俄に静岡に停車する事となりしかば、その夜は片岡氏の家族と共に、停車場近き旅宿に投じぬ。宿泊帳には故意と偽名を書したれば、片岡氏も妾をば景山英とは気付かざりしならん。
五 一大事
翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞いしに、危篤なりし病気の、ようよう怠りたりと聞くぞ嬉しき。久し振りの妾が帰郷を聞きて、親戚ども打ち寄りしが、母上よりはかえって妾の顔色の常ならぬに驚きて、何様尋常にてはあらぬらし、医師を迎えよと口々に勧めくれぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩の事発覚せば、妾はともかく、折角怠りたる母上の病気の、またはそれがために募り行きて、悔ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障りなき旨を答え、胸の苦痛を忍び忍びて、ひたすら母上の全快を祈るほどに、追々薄紙を剥ぐが如くに癒え行きて、はては、床の上に起き上られ、妾の月琴と兄上の八雲琴に和して、健やかに今様を歌い出で給う。
春のなかばに病み臥して、花の盛りもしら雲の、消ゆるに近き老の身を、うからやからのあつまりて、日々にみとりし甲斐ありて、病はいつか怠りぬ、実に子宝の尊きは、医薬の効にも優るらん、
滞在一週間ばかりにて、母上の病気全く癒えければ、児を見たき心の矢竹にはやり来て、今は思い止まるべくもあらねば、われにもあらず、能きほどの口実を設けて帰京の旨を告げ、かつ妾も思う仔細あれば、遠からず父上母上を迎え取り、膝下に奉仕することとなすべきなど語り聞えて東京に帰り、先ず愛児の健やかなる顔を見て、始めて十数日来の憂さを霽しぬ。[#改ページ]
第十二 重井の変心
一 再び約束履行を迫る
妾の留守中、重井は数来りて小児を見舞いしよし、いまだ実子とてはなき境涯なれば、今かく健全の男子を得たるを見ては、如何で楽しくも思わざらん、ただ世間を憚ればこそ、その愛情を押し包みつつ、朝夕に見たき心を忍ぶなるべし。いざや今一応約束の決行を促さばやと、ある日面会せしを幸いかく何日までも世間を欺き小供にまで恥辱を与うるは親として余り冷酷に過ぎたり、早く発表して妾の面目を立て給え。もしこのままにて自然この秘密の発覚することもあらば、妾は生きて再び両親にも見えがたかるべしなど、涙と共に掻口説き、その後また文して訴えけるに、彼も内心穏やかならず頗る苦慮の体なりしが、ある時は何思いけん児を抱き上げて、その容貌を熟視しつつハラハラと熱き涙を濺ぎたりき。されど少しもその意中を語らず、かつその日よりして、児を見に来る事もやや疎くなり行きて、何事か不満の事情あるように見受けられければ、妾も事の破れんことを恐れ、一日説くに女学校設立の意を以てし、彼をして五百金を支出せしめたる後、郷里の父母兄弟に柬して挙家上京の事に決せしめぬ。
二 挙家上京
アア妾はただ自分の都合によりて、先祖代々師と仰がれし旧家をば一朝その郷関より立ち退かしめ住も慣れざる東の空にさまよわしめたるなり。その罪の恐ろしさは、なかなか贖うべき術のあるべきに非ず、今もなお亡き父上や兄上に向かいて、心に謝びぬ日とてはなし。されどその当時にありては、両親の喜び一方ならず、東京にて日を暮し得るとは何たる果報の身の上ぞや、これも全く英子が朝鮮事件に与りたる余光なりとて、進まぬ兄上を因循なりと叱りつつ、一家打ち連れて東京に永住することとなりしは明治二十四年の十月なりき。上京の途中は大阪の知人を尋ね、西京見物に日を費し、神戸よりは船に打ち乗りて、両親および兄弟両夫婦および東京より迎えに行きたる妾と弟の子の乳母と都合八人いずれも打ち興じつつ、長き海路も恙なく無事横浜に着、直ちに汽車にて上京し、神田錦町の寓居に入りけるに、一年余りも先に来り居たる叔母は大いに喜び、一同を労わり慰めて、絶えて久しき物語に余念とてはなかりけり。
三 変心の理由
家族の東京に集まりてより、重井の挙動全く一変し、非常に不満の体にて訪い来る事も稀々なりしが、妾はなおそれとは気付かず、ただただ両親兄弟に対し前約を履行せざるを恥ずるが故とのみ思い取りしかば、しばしば彼に告ぐるに両親の悪意なきことを以てしけれども、なお言を左右に托して来らず、ようよう疎遠の姿となりて、果はその消息さえ絶えなんとはしたり。こは大いに理由ある事にて、彼は全く変心せしなり、彼は妾の帰国中妾の親友たりし泉富子と情を通じ、妾を疎隔せんと謀りしなり。
四 泉富子(変名)
ここに泉富子(目下農学博士某の妻なり)の来歴を述べんに、彼女は素備前の産れなり。父なる人ある府庁に勤務中看守盗の罪を犯して入獄せしかば、弁護士岡崎某の妻となり、その縁によりて父の弁護を頼みぬ。されば岡崎氏は彼女に取りて忘るべからざる恩人にて、妾が出獄せし際の如きも岡崎氏と相挈え、特に妾を迎えて郷里に同行するなど、妾との間柄もほとんど姉妹の如くなりしに、岡崎氏の家計不如意となるに及びて、彼女はこれを厭い、当時全盛に全盛を極めたる重井の虚名に恋々して、遂に良人たり恩人たる岡崎氏を棄て、心強くも東京に奔りて重井と交際し、果はその愛を偸み得たりしなり。かかる野心のありとも知らず、妾はなお昔の如く相親しみ相睦み合いしに、ある日重井よりの書翰あり、読みもて行くに更に何事とも解し得ざりしこそ道理なれ、富子は何日か懐胎してある病院に入院し子を分娩したるなり。さればその書翰は、入院中の彼女に送るべきものなりしに、重井の軽率にも、妾への書面と取り違えたるなりとは、天罰とこそいうべけれ。かくと知りたる妾の胸中は、今ここに記すまでもなきことなり、直ちに重井と泉に向かってその不徳を詰責せしに、重井は益その不徳の本性を現わしたりけれど、泉は女だけにさすがに後悔せしにやあらん、その後久しく消息を聞かざりしが、またも例の幻術をもて首尾よく農学博士の令室となりすまし、いと安らかに、楽しく清き家庭を整えおらるるとか。聞くが如きは、重井と彼女との間に生れたる男子は、彼女の実兄泉某の手に育てられしが、その兄発狂して頼みがたくなれるをもて、重井を尋ねて、身を托せんと思い立ちしに、その妾お柳のために一言にして跳付けられ、已むなく博士某の邸に生みの母なる富子夫人を尋ぬれば、これまた面会すらも断わられて、爾来行く処を知らずとぞ。年齢はなお十三、四歳なるべし。しかも辛苦の内に成長したればか、非常にませし容貌なりとの事を耳にしたれば、アア何たる無情ぞ何たる罪悪ぞ、父母共に人に優れし教育を受けながら、己れの虚名心に駆られて、将来有為の男児をば無残々々浮世の風に晒し、なお一片可憐なりとの情も浮ばず、ようよう尋ね寄りたる子を追い返すとは、何たる邪慳非道の鬼ぞやと、妾は同情の念已みがたく、如何にもしてその所在を知り、及ばずながら、世話して見んと心掛くるものから、いまだその生死をだに知るの道なきこそ遺憾なれ。
五 驚くべき相談対手
ここにおいて妾は全く重井のために弄ばれ、果は全く欺かれしを知りて、わが憤怨の情は何ともあれ、差し当りて両親兄弟への申し訳を如何にすべきと、ほとほと狂すべき思いなりしをわれを励まし、かつて生死をさえ共にせんと誓いたりし同志中、特に徳義深しと聞えたるある人に面会し、一部始終を語りて、その斡旋を求めけるに、さても人の心の頼めがたさよ、彼曰く既に心変りのしたる者を、如何に説けばとて、責むればとて、詮もなからん。むしろ早く思い棄てて更に良縁を求むるこそ良けれ、世間自ずから有為の男子に乏しからざるを、彼一人のために齷齪する事の愚かしさよと、思いも寄らぬ勧告の腹立たしく、さては君も今代議士の栄職を荷いたれば、最初の志望は棄てて、かつて政敵たりし政府の権門家に屈従するにこそ、世間自ずから栄達の道に乏しからざるを、大義のために齷齪することの愚かしさよとや悟り給うらん。アア堂々たる男子も一旦志を得れば、その難有味の忘れがたくて如何なる屈辱をも甘んぜんとす、さりとては褻らわしの人の心やと、当面りに言い罵り、その醜悪を極めけれども、彼重井の変心を機として妾を誑惑さんの下心あるが如くなお落ち着き払いて、この熱罵をば微笑もて受け流しつつ、その後も数訪い寄りては、かにかくと甘き辞を弄し、また家人にも取り入りてそが歓心を得んと勉めたる心の内、よく見え透きて、憫れにもまた可笑しかりし。否彼がためにその細君より疑い受けて、そのまま今日に及べるこそ思えば口惜しく腹立たしき限りなれ。かくわが朝鮮事件に関せし有志者は、出獄後郷里の有志者より数年の辛苦を徳とせられ、大抵代議士に撰抜せられて、一時に得意の世となりたるなり。復た当年の苦艱を顧みる者なく、そが細君すらも悉く虚名虚位に恋々して、昔年唱えたりし主義も本領も失い果し、一念その身の栄耀に汲々として借金賄賂これ本職たるの有様となりたれば、かの時代の志士ほど、世に堕落したる者はなしなど世の人にも謡わるるなり。さる薄志弱行の人なればこそ、妾が重井のために無上の恥辱を蒙りたるをば、なかなかに乗ずべき機なりとなし、厭になったら、また善いのを求むべし、これが当世なりとは、さても横に裂けたる口かな。何たる教訓ぞや。
六 重井と絶つ
見よ彼らが家庭の紊乱せる有様を、数年間苦節を守りし最愛の妻をして、良人の出獄、やれ嬉しやと思う間もなく、かえって入獄中の心配よりも一層の苦悶を覚えしめ、淫酒に耽り公徳を害して、わがままの振舞いやが上に増長すると共に、細君もまた失望の余り、自暴自棄の心となりて、良人と同じく色に溺れ、果はその子にまで無限の苦痛を嘗めしむるもの比々として皆しかりとかや、アアかかるものを頼めるこそ過ちなりけれ。この上は自ら重井との関係を断ち翻然悔悟してこの一身をば愛児のために捧ぐべし。妾不肖なりといえどもわが子はわが手にて養育せん、誓って一文たりとも彼が保護をば仰がじと発心し、その旨言い送りてここに全く彼と絶ち、家計の保護をも謝して全く独立の歩調を執り、さて両親にもこの事情を語りて、その承諾を求めしに、非常に激昂せられて、人を以て厳しく談判せんなど言い罵られけるを、かかる不徳不義の者と知らざりしは全く妾の過ちなり、今更如何に責めたりともその効あらんようなく、かえって恥をひけらかすに止まるべしと、かつ諌めかつ宥めけるに、ようように得心し給う。
七 災厄頻りに至る
それより妾は女子実業学校なる者を設立して、幸いに諸方の賛助を得たれば、家族一同これに従事し、母上は習字科を兄上は読書算術科を父上は会計を嫂は刺繍科裁縫科を弟は図画科を弟の妻は英学科をそれぞれに分担し親切に教授しけるに、東京市内は勿論近郷よりも続々入学者ありて、一時は満員の姿となり、ありし昔の家風を復して、再び純潔なる生活を送りたりしにさても人の世の憂たてさよ、明治二十五年の冬父上風邪の心地にて仮りの床に臥し給えるに、心臓の病さえ併発して医薬の効なく遂に遠逝せられ、涙ながらに野辺送りを済ましてよりいまだ四十日を出でざるに、叔母上またもその跡を追われぬ。この叔母上は妾が妊娠の当時より非常の心配をかけたるにその恩義に報ゆるの間もなくて早くも世を去り給えるは、今に遺憾遣る方もなし。その翌年四月には大切なる兄上さえ世を捨てられ、僅かの月日の内に三度まで葬儀を営める事とて、本来貧窮の家計は、ほとほと詮術もなき悲惨の淵に沈みたりしを、有志者諸氏の好意によりて、辛くも持ち支え再び開校の準備は成りけれども、杖柱とも頼みたる父上兄上には別れ、嫂は子供を残して実家に帰れるなどの事情によりて、容易に授業を始むべくもあらず、一家再び倒産の憐れを告げければ、妾は身の不幸不運を悔むより外の涙もなく、この上は海外にも赴きてこの志を貫かんと思い立ち、徐ろに不在中の家族に対する方法を講じつつありし時よ、天いまだ妾を捨て給わざりけん端なくも後日妾の敬愛せる福田友作と邂逅の機を与え給えり。
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第十三 良人
一 同情相憐れむ
これより先、明治二十三年の春、新井章吾氏の宅にて、一度福田と面会せし事はありしが、当時妾は重井との関係ありし頃にて、福田の事は別に記憶にも存せざりしが、彼は妾の身の上を知り、一度交誼を結ばんとの念はありしなるべし。ある日関東倶楽部に一友人を尋ねし時、一紳士の微笑しつつ、好処にてお目にかかれり、是非お宅へ御尋ね申したき事ありというを冒頭に、妾の方に近づき来りて、慇懃に挨拶せるは福田なり。そは如何なる御用にやと問い反せしに、彼は妾の学校の当時なお存しおる者と思い居たるが如く、今回郷里なる親戚の小供の出京するにつきては、是非とも御依頼せんと思うなりという。依って妾は目下都合ありて閉校せることを告げ、尤も表面学校生活はなしおらざるも、両三人自宅に同居して読書習字の手ほどきをなしおれり、それにて差し支えなくば御越しなさるるも宜しけれど、実の処、一方ならぬ困窮に陥りて学校らしき体面をすら装う能わずと話しけるに、彼は何事にか大いに感じたる体なりしも道理、その際彼も米国より帰朝以来、小石川竹早町なる同人社の講師として頗る尽瘁する所ありしに、不幸にして校主敬宇先生の遠逝に遭い閉校の止むなき有様となりたるなり。その境遇あたかも妾と同じかりければ、彼は同情の念に堪えざるが如く、頻りに妾の不運を慰めしが、その後両親との意見相和せずして、益不幸の境に沈むと同時に、同情相憐れむの念いよいよ深く、果は妾に向かい再び海外に渡航して、かの国にて世を終らんかなどの事をさえ打ち明くるに至りければ、妾もまたその情に撃たれつつ、御身は妾と異なりて、財産家の嫡男に生れ給い、一度洋行してミシガン大学の業を卒え、今は法学士の免状を得て、芽出たく帰朝せられし身ならずや、何故なればかかる悲痛の言をなし給うぞ。妾の如く貧家に生れ今日重ねてこの不運に遇いて、あわや活路を失わんずるものとは、同日の談にあらざるべしと詰りしに、実に彼は貧よりもなおなおつらき境遇に彷徨えるにてありき。彼は忽ち眼中に涙を浮べて、財産家に生るるが幸福なりとか、御身の言葉違えり、仮令ばその日暮しのいと便なきものなりとも、一家団欒の楽しみあらば、人の世に取りて如何ばかりか幸福ならん。素と自分の洋行せしは、親より強いて従妹なる者と結婚せしめられ、初めより一毫の愛とてもなきものを、さりとは押し付けの至りなるが腹立たしく、自暴より思い付ける遊学なりき。されば両親も自ら覚る所ありてか遊学中も学資を送り来りて、七年の修業を積むことを得、先に帰朝の後は自分の理想を家庭に施す事を得んと楽しみたりしに、志はまた事と違いて、昔に優る両親の処置の情けなさ、かかる家庭にあるも心苦しくて他出することの数なりしにつれて、覚えずも魔の道に踏み迷い、借財山の如くになりて遂に父上の怒りに触れ、かかる放蕩者の行末ぞ覚束なき、勘当せんと敦圉き給えるよし聞きたれば、心ならずも再びかの国に渡航して身を終らんと覚悟せるなりと物語る。アア妾もまた不幸落魄の身なり、不徳不義なる日本紳士の中に立ち交らんよりは、知らぬ他郷こそ恋しけれといいけるに、彼は忽ち活々しく、さらば自分と同行するの意はなきや、幸い十年足らずかの地に遊学せし身なれば、かの地の事情に精通せりなど、真心より打ち出されて、遠き沙漠の旅路に清き泉を得たらんが如く、嬉しさ慕わしさの余りより、その後数相会しては、身にしみじみと世の果敢なさを語り語らるる交情となりぬ。ある日彼は改めて御身にさえ異存なくば、この際結婚してさて渡航の準備に着手せんといい出でぬ。妾も心中この人ならばと思い定めたる折柄とて、直ちに承諾の旨を答え、いよいよ結婚の約を結びて、母上にも事情を告げ、彼も公然その友人らに披露して、それより同棲することとなり、一時睦まじき家庭を造りぬ。
二 貧書生
その頃の新聞紙上には、豪農の息子景山英と結婚すなどの記事も見えけるが、その実福田友作は着のみ着のままの貧書生たりしなり。彼は帰朝以来、今のいわゆるハイカラーなりしかば、有志といえる偽豪傑連よりは、酒色を以て誘われ、その高利の借金に対する証人または連借人たる事を承諾せしめられ、果は数万の借財を負いて両親に譴責せられ、今は家に帰るを厭いおる時なりき。彼は亜米利加より法学士の免状を持ち帰りし名誉を顧みるの遑だになく、貴重の免状も反古同様となりて、戸棚の隅に鼠の巣とはなれるなりき。可哀さの余りにか将た憎さにか、困らせなば帰国するならん、東京にて役人などになって貰わんとて、学問はさせしに非ずと、実に親の身としては、忍びざるほどの恥辱苦悶を子に嘗めさせ、なお帰らねば廃嫡せんなど、種々の難題を持ち出せしかど、財産のために我が抱負理想を枉ぐべきに非ずとて、彼は諾う気色だになければ、さしもの両親も倦み果てて、そがなすままに打ち任せつつ居たるなりき。かくて彼は差し当り独立の計をなさん者と友人にも謀りて英語教師となり、自宅にて教鞭を執りしに、肩書きのある甲斐には、生徒の数ようように殖えまさり、生計の営みに事を欠かぬに至りけるに、さては彼、東京に永住せんとするにやあらん、棄て置きなば、いよいよ帰国の念を減ぜしむべしとて、国許より父の病気に托して帰国を促し来ることいと頻りなり。已むなく帰省して見れば、両親は交々身の老衰を打ち喞ち、家事を監督する気力も失せたれば何とぞ家居して万事を処理しくれよという。素より情には脆き彼なれば、非道なる圧制にこそ反抗もすれ、事を分けたる親の言葉の前には我慢の角も折れ尽し、そのまま家におらんかとも考えしかど、多額の借財を負える身の、今家に帰らんか、父さては家に累いを及ぼさんは眼の前なりと思い返し、財産は弟に譲るも遺憾なし、自分は思う仔細あれば、多年の苦学を空しうせず、東京にて相当の活路を求めんといい出でけるに、両親の機嫌見る見る変りて、不孝者よ、恩知らずよと叱責したり。已むなく前言を取り消して、永く膝下にあるべき旨を答えしものから、七年の苦学を無にして田夫野人と共に耒鋤を執り、貴重の光陰を徒費せんこと、如何にしても口惜しく、また妾の将来とても、到底農家に来りて馴れぬ養蚕機織りの業を執り得べき身ならねば、一日も早く資金を造りて、各長ずる道により、世に立つこそよけれと悟りければ、再び両親に向かいて、財産は弟に譲り自分は独立の生計を求めんと決心せるよしを述べ、さて少許の資本の分与を乞いしに、思いも寄らぬ有様にて、家を思わぬ人でなしと罵られ、忽ち出で行けがしに遇せられければ、大いに覚悟する所あり、遂に再び流浪の客となりて東京に来り、友人の斡旋によりて万朝報社の社員となりぬ。彼が月給を受けたるは、これが始めての終りなりき。
三 夫婦相愛
これより漸く米塩の資を得たれども、彼が出京せし当時はほとんど着のみ着のままにて、諸道具は一切屑屋に売り払い、遂には火鉢の五徳までに手を附けて、僅かに餓死を免がるるなど、その境遇の悲惨なるなかなか筆紙の尽し得る所にあらざりしかど、富豪の家に人となりし彼の、別に苦情を訴うることもなく、むしろ清貧に安んじたりし有様は、妾をして、坐ろ気の毒の感に堪えざらしめき。妾はこれに引き換えて、素より貧窶に馴れたる身なり、そのかつて得んと望める相愛の情を得てよりは、むしろ心の富を覚えつつ、あわれ世に時めける権門の令夫人よ、御身が偽善的儀式の愛に欺かれて、終生浮ぶ瀬のなき凌辱を蒙りながら、なお儒教的教訓の圧制に余儀なくせられて、窃かに愛の欠乏に泣きつつあるは、妾の境遇に比して、その幸不幸如何なりやなど、少なからぬ快感を楽しむなりき。妾は愛に貴賤の別なきを知る、智愚の分別なきを知る。さればその夫にして他に愛を分ち我を恥かしむる行為あらば、我は男子が姦婦に対するの処置を以てまた姦夫に臨まんことを望むものなり。東洋の女子特に独立自営の力なき婦人に取りて、この主義は余り極端なるが如くなれども、そもそも女子はその愛を一方にのみ直進せしむべき者、男子は時と場合とによりて、いわゆる都合によりてその愛を四方八方に立ち寄らしむるを得る者といわば、誰かその片手落ちなるに驚かざらんや。人道を重んずる人にして、なおこの不公平なる所置を怪しまず、衆口同音婦人を責むるの惨酷なる事、古来習慣のしからしむる所といわばいえ、二十世紀の今日、この悪風習の存在を許すべき余地なきなり。さりながら、こは独り男子の罪のみに非ず、婦人の卑屈なる依頼心、また最も与りて悪風習の因となれるなるべし。彼らは常にその良人に見捨てられては、忽ち路頭に迷わんとの鬼胎を懐き、何でも噛り付きて離れまじとは勉むるなり。故にその愛は良人に非ずして、我が身にあり、我が身の饑渇を恐るるにあり、浅ましいかな彼らの愛や、男子の狼藉に遭いて、黙従の外なきはかえすがえすも口惜しからずや。思うに夫婦は両者相愛の情一致して、ここに始めて成立すべき関係なるが故に、人と人との手にて結び合わせたる形式の結婚は妾の首肯する能わざる所、されば妾の福田と結婚の約を結ぶや、翌日より衣食の途なきを知らざるに非ざりしかど、結婚の要求は相愛にありて、衣服に非ざることもまた知れり、衣服の顧みるに足らざることもまた知れり、常識なき痴情に溺れたりという莫れ、妾が良人の深厚なる愛は、かつて少しも衰えざりし、彼は妾と同棲せるがために数万の財を棄つること、あたかも敝履の如くなりき。結婚の一条件たりし洋行の事は、夫婦の一日も忘れざる所なりしも、調金の道いまだ成らざるに、妾は尋常ならぬ身となり、事皆志と差いて、貧しき内に男子を挙げ、名を哲郎とは命じぬ。
四 神頼み
しかるに生れて二月とはたたざる内に、小児は毛細気管支炎という難病にかかり、とかくする中、危篤の有様に陥りければ、苦しき時の神頼みとやら、夫婦は愚にかえりて、風の日も雨の日も厭うことなく、住居を離る十町ばかりの築土八幡宮に参詣して、愛児の病気を救わせ給えと祷り、平生嗜める食物娯楽をさえに断ちたるに、それがためとにはあらざるべけれど、それよりは漸次快方に赴きければ、単に神の賜物なりとて、夫婦とも感謝の意を表し、その後久しく参詣を怠らざりき。
五 有形無形
妾幼より芝居寄席に至るを好み、また最も浄瑠璃を嗜めり。されどこの病児を産みてよりは、全くその楽しみを捨てたるに、福田は気の毒がりて、機に触れては勧め誘いたれど、既に無形の娯楽を得たり、復た形骸を要せずと辞みて応ぜず。ただわが家庭を如何にして安穏に経過せしめんかと心はそれのみに奔りて、苦悶の中に日を送りつつも、福田の苦心を思いやりて共に力を協せ、僅かに職を得たりと喜べば、忽ち郷里に帰るの事情起る等にて、彼が身心の過労一方ならず、彼やこれやの間に、可借壮健の身を屈托せしめて、なすこともなく日を送ることの心許なさ。
六 渡韓の計画
かくては前途のため善からじと思案して、ある日将来の事ども相談し、かついろいろと運動する所ありしに、機よくも朝鮮政府の法律顧問なる資格にて、かの地へ渡航するの便を得たるを以て、これ幸いと郷里にも告げず、旅費等は半ば友人より、その他は非常の手だてにて調え、渡韓の準備全く整いぬ。当時朝鮮政府に大改革ありて、一時日本に亡命の客たりし朴泳孝氏らも大政に参与し、威権赫々たる時なりければ、日本よりも星亨、岡本柳之助氏ら、その聘に応じて朝廷の顧問となり、既にして更に西園寺侯爵もまた勅を帯びて渡韓したりき。故に福田はこれらの人によりてかの国有志の重立ちたる人々に交わりを求むるも難からず、またかの国法務大臣徐洪範は、かつて米国遊学中の同窓の友なれば重ね重ね便宜ありと勇みすすみて、いよいよ出立の日妾に向かい、内地にては常に郷里のために目的を妨げられ、万事に失敗して御身にまで非常の心痛をかけたりしが、今回の行によりて、聊かそを償い得べし。御身に病児を托す、願わくは珍重にせよかしとて、決然袂を分ちしに、その後二週間ばかりにして、またもや彼が頭上に一大災厄の起らんとは、実にも悲しき運命なるかな。
七 妨害運動
これより先、郷里の両親らは福田が渡韓の事を聞きて彼を郷里に呼び返すことのいよいよ難きを憂い、その極高利貸をして、福田が家資分産の訴えを起さしめ、かくして彼の一身を縛り、また公権をさえ褫奪して彼をして官途に就く能わざらしめ、結局落魄して郷里に帰るの外に途なからしめんと企てたり。されば彼の仁川港に着するや、右の宣告書は忽ち領事館より彼が頭上に投げ出されぬ。彼はその両親の慈愛が、かくまで極端なるべしとは、夢にも知らず、ただ一筋に将来の幸福を思えばこそ、血の出るほどの苦しき金をも調達して最愛の妻や病児をも跡に残して、あかぬ別れを敢えてしたるなるに、慈愛はなかなか仇となりて、他に語るも恥かしと、帰京後男泣きに泣かれし時の悲哀そもいくばくなりしぞ。実に彼は死よりもつらき不面目を担いつつ、折角新調したりし寒防具その他の手荷物を売り払いて旅費を調え、漸く帰京の途にはつき得たるなりき。
八 血を吐く思い
横浜に着すると同時に、妾にちょっと当地まで来れよとの通信ありければ、病児をば人に托して直ちに旅館に至りしに、彼が顔色常ならず、身に附くものとては、ただ一着の洋服のみとなりて、いとど帰国の本意なき事を語り出でられぬ。妻の手前ながら定めて断腸の思いなりしならんに、日頃耐忍強き人なりければ、この上はもはや詮方なし、自分は死せる心算にて郷里に帰り、田夫野人と伍して一生を終うるの覚悟をなさん。かく志を貫く能わずして、再び帰郷するの止むなきに至れるは、卿に対しまた朋友に対して面目なき次第なるも、如何せん両親の慈愛その度に過ぎ、われをして遂に膝下に仕えしめずんば止まざるべし。病児を抱えて座食する事は、到底至難の事なれば、自分は甘んじて児のために犠牲とならん、何とぞこの切なる心を察して、姑らく時機を待ちくれよという。今は妾も否みがたくて、終に別居の策を講ぜしに、かの子煩悩なる性は愛児と分れ住む事のつらければ、折しも妾の再び懐胎せるを幸い、病身の長男哲郎を連れ帰りて、母に代りて介抱せん、一時の悲痛苦悶はさることながら、自分にも一子を分ちて、家庭の冷やかさを忘れしめよとあるに、これ将た辞みがたくして、われと血を吐く思いを忍び、彼が在郷中の苦痛を和げんよすがにもと、遂に哲郎をば彼の手に委ねつ。その当時の悲痛を思うに、今も坐ろに熱涙の湧くを覚ゆるぞかし。
九 新生活
かくて彼は再び鉄面を被り愛児までを伴いて帰宅せしに、両親はその心情をも察せずして結局彼が窮困の極帰家せしを喜び、何とかして家に閉じ込め置かん者と思いおりしに、彼の愛児に対する、毫も慈母の撫育に異なることなく、終日その傍に絆されて、更に他意とてはなき模様なりしにぞ、両親はかえって安心の体にて親ら愛孫の世話をなしくるるようになり、またその愛孫の母なればとて、妾に対してさえ、毎月若干の手当てを送るに至りけるが、夫婦相思の情は日一日に弥増して、彼がしばしば出京することのあればにや、次男侠太の誕生間もなく、親族の者より、妾に来郷の事を促し来りぬ、されば彼はこれに反して、私かに来らぬこそ好けれと言い送れり。そは妾にして仮し彼の家の如き冷酷の家庭に入るとも到底長く留まる能わざるを予知すればなりき。妾とてもまた衣裳や金の持参なくして、遥かに身体一つを投ずるは、他の家ならば知らず、この場合においては、徒に彼を悩ますの具となるに過ぎざることを知りければ、始めは固く辞みて行かざりしに、親族は躍気になりて来郷を促し、子供のために、枉げて来り給えなどいと切めて勧めけるに、良人と児との愛に引かれて、覚束なくも、舅姑の機嫌を取り、裁縫やら子供の世話やらに齷齪することとなりたるぞ、思えば変る人の身の上なりける。
十 ああ死別
されど妾の如き異分子の、争でか長くかかる家庭に留まり得べき。特に舅姑の福田に対する挙動の、如何に冷やかにかつ無残なるかを見聞くにつけて、自ら浅ましくも牛馬同様の取り扱いを受くるを覚りては、針の筵のそれよりも心苦しく、仮い一旦の憤りを招かば招け、かえって互いのためなるべしとて、ある日幼児を背負いて、窃かに帰京せんと謀りけるに、中途にして親族の人に支えられ、その目的を達する能わざりしが、彼も妾の意を察して、一家の和合望みなきを覚りしと見え、今回は断然廃嫡の事を親族間に請求し、自分は別居して前途の方針を定めんとの事に、妾もこれに賛して、十万の資産何かあらんと、相談の上、妾先ず帰京して彼の決行果して成就するや否やを気遣いしに、一カ月を経て親族会議の結果嫡男哲郎を祖父母の膝下に留め、彼は出京して夫婦始めて、愁眉を開き、暖かき家庭を造り得たるを喜びつつ、いでや結婚当時の約束を履行せん下心なりしに、悲しい哉、彼は百事の失敗に撃たれて脳の病を惹き起し、最後に出京せし頃には病既に膏肓に入りて、ほとんど治すべからざるに至り、時々狂気じみたる挙動さえ著しかりければ、知友にも勧誘を乞いて、鎌倉、平塚辺に静養せしむべしと、その用意おさおさ怠りなかりしに、積年の病終に医する能わず、末子千秋の出生と同時に、人事不省に陥りて終に起たず、三十六歳を一期として、そのまま永の別れとなりぬ。
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第十四 大覚悟
アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより甚だしきはなかるべし。妾も一旦は悲痛の余り墨染の衣をも着けんかと思いしかど、福田実家の冷酷なる、亡夫の存生中より、既にその意の得ざる処置多く、病中の費用を調うるを名として、別家の際、分与したる田畑をば親族の名に書き換え、即ちこれに売り渡したる体に持て做して、その実は再び本家の有となしたるなど、少しも油断なりがたく、彼の死後は殊更遺族の饑餓をも顧みず、一列投げやりの有様なれば、今は子らに対して独り重任を負える身の、自ら世を捨て、呑気の生涯を送るべきに非ずと思い返し、亡夫の家を守りて、その日の糊口に苦しみ居たるを、友人知己は見るに忍びず、わざわざ実家に舅姑を訪いて遺族の手当てを請求しけるに、彼らは少しの同情もなく、漸く若干の小遣い銭を送らんと約しぬ。かかる有様なれば、妾は嬰児を哺育するの外、なお二児の教育の忽せになしがたきさえありて、苦悶懊悩の裡に日を送る中、神経衰弱にかかりて、臥褥の日多く、医師より心を転ぜよ、しからざれば、健全に復しがたからんなどの注意さえ受くるに至りぬ。死はむしろ幸いならん、ただ子らのなお幼くして、妾もしあらずば、如何になり行くらん。さらば今一度元気を鼓舞して、三児を健全に養育してこそ、妾の責任も全く、良人の愛に酬ゆるの道も立てと、自ら大いに悔悟して、女々しかりし心恥かしく、ひたすらに身の健康を祈りて、療養怠りなかりしに、やがて元気も旧に復し、浮世の荒浪に泳ぎ出づるとも、決して溺れざるべしとの覚悟さえ生じければ、亡夫が一週年の忌明けを以て、自他相輔くるの策を講じ、ここに再び活動を開始せり。そは婦女子に実業的の修養をなすの要用ありと確信し、その所思を有志に謀りしに、大いに賛同せられければ、即ち亡夫の命日を以て、角筈女子工芸学校なるものを起し、またこの校の維持を助くべく、日本女子恒産会を起して、特志家の賛助を乞い、貸費生の製作品を買い上げもらうことに定めたるなり。恒産会の趣旨は左の如し。
日本女子恒産会設立趣旨書
恒の産なければ恒の心なく、貧すれば乱すちょう事は人の常情にして、勢い已むを得ざるものなり。この故に人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、先ずこれに恒の産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その本生を全うせしめんとするは譬えば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達する能わざるなり。
今や我が国都鄙到る処として庠序の設けあらざるはなく、寒村僻地といえどもなお唔の声を聴くことを得、特に女子教育の如きも近来長足の進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、妾らの大いに欣ぶ所なり。されど現時一般女学校の有様を見るに、その学科は徒に高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美を旨とし以て奢侈贅沢の用に供せらるるも、実際生計の助けとなる者あらず、以て権門勢家の令閨となる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人を出すに足らず。これ実に昭代の一欠事にして、しかして妾らの窃かに憂慮措く能わざる所以なり。
それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、能くその所天を援けて後顧の憂いなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その所天に訣るることあるも、独立の生計を営みて、毅然その操節を清うするもの、その平生涵養停蓄する所の智識と精神とに因るべきは勿論なれども、妾らを以てこれを考うれば、むしろ飢寒困窮のその身を襲うなく、艱難辛苦のその心を痛むるなく、泰然としてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。
しかりといえども女子に適切なる職業に至りてはその数極めて少なし、やや望みを嘱すべきものは絹手巾の刺繍これなり。絹手巾はその輸出かつて隆盛を極め、その年額百万打その原価ほとんど三百余万円に上り我が国産中実に重要の地位を占めたる者なりき。しかるにその後の趨勢は頓に一変して貿易市場における信用全く地に落ち、輸出高益減退するの悲況を呈するに至れり。これ固と種々なる原因の存するものなるべしといえども、製作品の不斉一なると、品質の粗悪なるとは、けだしその主なるものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なるは、その製出者と営業者とに徳義心を欠くが故なりというも可なり、鑑みざるべけんや。
そもそも文明の進み分業の行わるるに従い、機械的大仕掛の製造盛んに行われ、低廉なる価格を以て、能く人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、千篇一律風致なく神韻を欠くを以て、単に実用に供するに止まり、美術品として愛翫措く能わざらしむる事なし。しかるに経済社会の進捗し富財の饒多となるに従って、昨日の贅沢品も今日は実用品と化し去り、贅沢品として愛翫せらるるものは、勢い手工の妙技を逞しうせる天真爛漫たるものに外ならざるに至るなり、故を以て衣食住の程度低き我が国において、我が国産たる絹布を用い、これに加うるに手工細技に天稟の妙を有する我が国女工を以てす、あたかも竜に翼を添うが如し、以て精巧にこれを製出し、世界の市場に雄飛す、天下如何ぞこれに抗争するの敵あるを得んや。しかるに事実のこれと反したるは、妾らの悲しみに堪えざる処なり、故にもし今大資本家に依りて製品の斉一を計り、かつ姑息の利を貪らずして品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきなり。
妾らここに見るあり曩日に女子工芸学校を創立して妙齢の女子を貧窶の中に救い、これに授くるに生計の方法を以てし、恒の産を得て恒の心あらしめ、小にしては一身の謀をなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽さしめんとす、しかして事ややその緒に就けり。
乃ちここに本会を組織し、その製作品の輸出に付いて特別なる便利を与えんと欲す。顧みるに妾ら学浅く、才拙なり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企つるは、誠に一片の衷情禁ぜんとして禁ずる能わざるものあればなり。希わくは世の兄弟姉妹よ、血あり涙あらば、来りてこれを賛助せられん事を。
明治三十四年十一月三日
恒の産なければ恒の心なく、貧すれば乱すちょう事は人の常情にして、勢い已むを得ざるものなり。この故に人をしてその任務のある所を尽さしめんとせば、先ずこれに恒の産を与うるの道を講ぜざるべからず。しからずして、ただその品位を保ち、その本生を全うせしめんとするは譬えば車なくして陸を行き、舟なくして水を渡らんとするが如く、永くその目的を達する能わざるなり。
今や我が国都鄙到る処として庠序の設けあらざるはなく、寒村僻地といえどもなお唔の声を聴くことを得、特に女子教育の如きも近来長足の進歩をなし、女子の品位を高め、婦人の本性を発揮するに至れるは、妾らの大いに欣ぶ所なり。されど現時一般女学校の有様を見るに、その学科は徒に高尚に走り、そのいわゆる工芸科なる者もまた優美を旨とし以て奢侈贅沢の用に供せらるるも、実際生計の助けとなる者あらず、以て権門勢家の令閨となる者を養うべきも、中流以下の家政を取るの賢婦人を出すに足らず。これ実に昭代の一欠事にして、しかして妾らの窃かに憂慮措く能わざる所以なり。
それ世の婦女たるもの、人の妻となりて家庭を組織し、能くその所天を援けて後顧の憂いなからしめ、あるいは一朝不幸にして、その所天に訣るることあるも、独立の生計を営みて、毅然その操節を清うするもの、その平生涵養停蓄する所の智識と精神とに因るべきは勿論なれども、妾らを以てこれを考うれば、むしろ飢寒困窮のその身を襲うなく、艱難辛苦のその心を痛むるなく、泰然としてその境に安んずることを得るがためならずんばあらざるなり。
しかりといえども女子に適切なる職業に至りてはその数極めて少なし、やや望みを嘱すべきものは絹手巾の刺繍これなり。絹手巾はその輸出かつて隆盛を極め、その年額百万打その原価ほとんど三百余万円に上り我が国産中実に重要の地位を占めたる者なりき。しかるにその後の趨勢は頓に一変して貿易市場における信用全く地に落ち、輸出高益減退するの悲況を呈するに至れり。これ固と種々なる原因の存するものなるべしといえども、製作品の不斉一なると、品質の粗悪なるとは、けだしその主なるものなるべきなり。しかしてその不斉一その粗悪なるは、その製出者と営業者とに徳義心を欠くが故なりというも可なり、鑑みざるべけんや。
そもそも文明の進み分業の行わるるに従い、機械的大仕掛の製造盛んに行われ、低廉なる価格を以て、能く人々の要に応じ得べきに至るといえども、元来機械製造のものたる、千篇一律風致なく神韻を欠くを以て、単に実用に供するに止まり、美術品として愛翫措く能わざらしむる事なし。しかるに経済社会の進捗し富財の饒多となるに従って、昨日の贅沢品も今日は実用品と化し去り、贅沢品として愛翫せらるるものは、勢い手工の妙技を逞しうせる天真爛漫たるものに外ならざるに至るなり、故を以て衣食住の程度低き我が国において、我が国産たる絹布を用い、これに加うるに手工細技に天稟の妙を有する我が国女工を以てす、あたかも竜に翼を添うが如し、以て精巧にこれを製出し、世界の市場に雄飛す、天下如何ぞこれに抗争するの敵あるを得んや。しかるに事実のこれと反したるは、妾らの悲しみに堪えざる処なり、故にもし今大資本家に依りて製品の斉一を計り、かつ姑息の利を貪らずして品質の精良を致さば、その成功は期して待つべきなり。
妾らここに見るあり曩日に女子工芸学校を創立して妙齢の女子を貧窶の中に救い、これに授くるに生計の方法を以てし、恒の産を得て恒の心あらしめ、小にしては一身の謀をなし、大にしては日本婦人たるの任務を尽さしめんとす、しかして事ややその緒に就けり。
乃ちここに本会を組織し、その製作品の輸出に付いて特別なる便利を与えんと欲す。顧みるに妾ら学浅く、才拙なり、加うるに微力なすあるに足らず、しかしてなおこの大事を企つるは、誠に一片の衷情禁ぜんとして禁ずる能わざるものあればなり。希わくは世の兄弟姉妹よ、血あり涙あらば、来りてこれを賛助せられん事を。
明治三十四年十一月三日
設立者謹述
この事業はいまだ半途にして如何になり行くべきや、常なき人の世のことは予めいいがたし、ただこの趣意を貫かんこそ、妾が将来の務めなれ。* * *
三十余年の半生涯、顧みればただ夢の如きかな。アア妾は今覚めたるか、覚めてまた新しき夢に入るか、妾はこの世を棄てん乎、この世妾を棄つる乎。進まん乎、妾に資と才とあらず。退かん乎、襲うて寒と饑とは来らん。生死の岸頭に立って人の執るべき道はただ一、誠を尽して天命を待つのみ。