同じ展覧会を見て歩くのでも、単に絵を見て味わい楽しもうという心持で見るのと、何かしら一つ批評でもしてみようという気で見るのとでは、見る時の頭の働き方が違うだけに、その頭に残る印象にもかなりの差があり得る訳である。尤もほんとうに絵を味わい楽しむためには、ある意味での批評をしなければならない事は勿論であるが、しかし、意識的に批評のための批評をしようという心持があっては、芸術品を楽しみ味わう邪魔になるばかりでなく、却って本当の正しい批評をすることの障碍しょうがいになりはしまいか。この点はプロフェッショナルな批評家の、苦心の要るところだろうと想像される。
 自分等のようなものが絵の展覧会を見るのは、何時でも絵を見て楽しむためである。だから、如何いかに評判の絵でも、自分に興味のないものは一度きりで見ないで済むし、気に入った絵なら誰に気兼ねもなく何遍でも見て楽しむことが出来る。このような純粋な享楽は吾々素人しろうとに許された特典のようなものである。そうして、自分等がたとえ玄人くろうとの絵に対して思ったままの感じを言明しても、それは作者の名誉にも不名誉にもならないという気安さがある。これは実に有難い事である。無責任だというのではないが、何人なんぴとをも傷つけること無しに感情の自由な発表が許されるからである。
 そういう前提を置いて、今年の二科会展覧会の絵を見たままの雑感を書いてみる事にする。

 安井氏の絵がやはり目立って光っている。なんだかぎょく※(「虫+獵のつくり」、第3水準1-91-71)ろうせきを溶かしたもので描いてあるような気持がする。例えば、白ばらのつぼみの頭の少し開きかかった底の方に、ほのかな紅色の浮動している工合などでも、そういう感じを与える。デリベレイトに狙いすましては一筆ずつけて行ったものだろうと想像される。そういう点で、これらの絵は、有り来りの油絵よりは、むしろ東洋画に接近しているかもしれない。
 この人の絵には詩が無いという人もあるが、あながちそうでもないと思う。少なくも今年の花や風景には、たしかに或る詩と夢がにじんでいる。忠実に自然を掘り返していれば、そこから詩の出て来ないという法はない。
 裸体も美しいが、ずっと遠く離れて見ると、どこかしら、少し物足りない寂しいところがあるように感ずる。何故だか分らない。人体の周囲の空間が大きいせいかもしれない。
 山下氏の絵は、いつでも気持のいい絵である。この人の絵で気持の悪いという絵を自分はかつて見た事がない。この人の絵は、どこかしらルノアルとモネエと両方を想い出させるようなところのある絵だと思う。しかしあまり強い興奮を感じさせられる事のないのはどういう訳だろう。あまり何時でも楽々と画かれているように見えるせいかとも思う。

 楽にかいてあるようで、実は恐ろしく骨の折れたと思われる絵がある。安井氏のがそれである。これと反対に恐ろしく綿密で面倒臭そうで、描いている人は存外気楽で、面白くてたまらぬような絵があるとすれば、それは横井弘三氏のである。ルノアルなどは、ちょっと見ると気楽に描いているようだが、また恐ろしく神経を使っているようにも思われるのだが、横井氏のはそれともちがう。

 椎塚しいづか氏の綿密な静物が私に与える感じは、丁度グロテスクの感じと実質的に同じ感じである。それは必ずしもグロテスクな題材を取扱ったものでなくても、そうである。
 これと反対に、例えばザッキンの妙な人形の絵など、随分形式的にはグロテスクに出来ているが、感じの内容には、どこかある明るさと愉快さがある。

 ロオトの絵がある。どこがいいのかよくは分らない。この人のに似通った日本人の絵も沢山あるようだが、でも、この人のにはどこかに、こせこせしない、のびやかなところがあるような気がする。少し思い切って遠く離れて見ると一層そんな気がする。
 アスランでもビッシェルでも、出来不出来は別として、やはりその人の絵になっていると思う。そして妙にあせったようなところの見えないだけは気持がいい。

 正宗まさむね氏の絵が沢山ある。自分はどうした訳か、この人の使用する青や緑と朱や紅との強い対照の刺戟が性に合わないせいでもあるか、どうも親しみを感じる訳に行かない。これは好きな人に取っては好きな特徴となるに相違ない。しかしこの人のような絵はじきに行き詰ってしまうような事が無いからその点が頼母たのもしいと思う。

 石井氏の絵は、いつも、常識的という評を受けるようである。頭のいい、要領のいい点は、そういうところもあるだろうが、そうばかりとも思われない。一種の淡白な味を味わってみる事は虚心な鑑賞家に取って困難ではないだろう。この人の絵をだんだんに突きつめて行くと、結局マルケエなどのような方面へ行きはしないかという気がする。

 津田氏の日本画は一流のものであるが、今年の洋画はただの一点で、それがあまりに投げやりである。

 鍋井なべい氏の絵は少し変ったようである。こういう絵も自分はわりに好きな方ではあるが、ただ変るところまで変る途中にあるような気がした。来年を楽しみにしている。

 横山氏の絵はかなりうまいと思うが、好きにはなれない。これは趣味の相違で仕方がない。この人の絵は、とにかく一通り行くところまで行って、行き止まっているような気がする。こういうたちの絵は、じきにそういう風になりやすい。一体に表現的な芸術はそうだろうと思う。絵を描くよりも、表現すべき自己を開拓する方の努力がもっと重大である。それがためには、しばらく絵筆をすてて物に親しむ事に多くの時を費やす必要がある。

 海老原えびはら氏の変った絵がある。こういう種類の絵が、作者にどれほど必然であるか、が何時でも自分には分らない。例えばルソオなどという人はおそらく、ああいう絵より外の絵は描けなかった人だろうと思うが。――とにかく形式はルソオのようなところはあっても味はまるでちがうと思う。

 田中豊三郎氏の人物二枚も随分変っている。しかしこの人のには、どこかしらこの人のオリジナルティがある。誇張したようなところにもどこか素直な、のびやかなところがあると思う。だんだんに善いところと悪いところをふるい分けて進むといいかと思う。

 上山かみやま氏の「金魚と花」というのがある。こういう絵は虚心で見ると面白いところもあるが、しかし、自分は、何となくだまされるのではないかという気がして困るのである。それはとにかく、こういう絵は、もう少し清潔に仕上げた方がよくはないかと思う。絵具をのせる地質の研究が要る。

 恒川つねかわ氏の風景画には、ちょっと南画のような味がある。しかしこういう絵もこのままではすぐ行き詰りになりやすい。
 円筒形の上の断面を楕円形に表わして、底面の方は直線でかいてしまう事が流行するようである。こういう流行は永くはつづくまい。

「天然」と絵具だけからは絵は生れないし、「自己」と絵具ばかりからも絵は生れない。自己と天然と真剣に取組み合わなければ駄目だと思う。昔は天然と絵具だけで出来た無意義な絵が多かったが、近頃は反対に自己と絵具だけの空虚な絵が多くなった。こういう絵にとっては自己がどんな自己であるかが生命である。それを充実させるためには、やはり天然の資料を豊富に摂取する事が須要しゅようである。資料の供給の無い自己はやがて空虚になる。そして空虚な自己の表現は芸術にならない。

 林たけし氏の絵は今年はあまりふるわない。しかし、こういう風に、いい加減なところで収まってしまわないで、何かしら煩悶しているような未成の絵は、やはり頼母しいという感じを起させる。不出来でも何でも、とにかく自分の絵を描こうとしているように見える。フランス人の画を見てすぐに要領を修得したような軽薄な絵を見るよりは数倍気持がいいと思う。

 未来派の絵というと、ギタアが出て来るのは、あれはどういう理由によるのだろうか。他にも同等もしくは以上に適当な題材はいくらでもあるだろうが。

 中川紀元きげん氏の裸体画を見ていると、何だかある甲虫を聯想するが、何だという事が、はっきり思い出せない。この聯想はあるいは主としてあの女の右の足から来るのかもしれない。この絵などが、自分にはあまり楽しめない方の部類に属する。

 展覧会によっては、殊に日本画の展覧会などでは、とても二目ふためと見る気のしない絵が随分あるが、二科会などでは、そんなのはあまり多くは出会わないようである。これは世辞ではない。

 展覧会の評というと、徹底的に賞めちぎるか、き下ろすかどっちかにしないと、体をなさないかもしれないが、これは批評でも何でもないのだから、こんな甘い、だらしのないものになっても致し方がない。
(大正十三年十月『明星』)

底本:「寺田寅彦全集 第八巻」岩波書店
   1997(平成9)年7月7日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「明星」
   1924(大正13)年10月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
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