海浜都市、K――。
そこは、この邦に於ける最も華やかな、最も多彩な「夏」をもって知れている。
まこと、K――町に、あの爽やかな「夏」の象徴であるむくむくと盛り上った雲の峰が立つと、一度にワーンと蜂の巣をつついたような活気が街に溢れ、長い長い冬眠から覚めて、老も若きも、町民の面には、一様に、何となく「期待」が輝くのである。実際、この町の人々は、一ヶ年の商を、たった二ヶ月の「夏」に済ませてしまうのであった。
七月!
既に藤の花も散り、あのじめじめとした悒鬱な梅雨が明けはなたれ、藤豆のぶら下った棚の下を、逞ましげな熊ン蜂がねむたげな羽音に乗って飛び交う……。
爽かにも、甘い七月の風――。
とどろに響く、遠い潮鳴り、磯の香――。
「さあ、夏だ――」
老舗の日除は、埃を払い、ペンキの禿げた喫茶店はせっせとお化粧をする――若い青年たちは、又、近く来るであろう別荘のお嬢さんに、その厚い胸板を膨らますのである。
海岸には、思い立ったように、葭簀張りのサンマアハウスだの、遊戯場だの、脱衣場だのが、どんどん建てられ、横文字の看板がかけられ、そして、シャワーの音が奔る――。
ドガァーン。ドガァーン。
海岸開きの花火は、原色に澄切った蒼空の中に、ぽかり、ぽかりと、夢のような一塊りずつの煙りを残して海面に流れる。
――なんと華やかな海岸であろう。
まるで、別の世界に来たような、多彩な幕が切って落されるのだ。
紺碧の海に対し、渚にはまるで毒茸の園生のように、強烈な色彩をもったシーショアパラソル、そして、テントが処せまきまでにぶちまかれる。そこには、その園生の精のような溌剌とした美少女の群れが、まる一年、陽の目も見なかった貴重な肢体を、今、惜気もなく露出し、思い思いの大胆な色とデザインの海水着をまとうて、熱砂の上に、踊り狂うのである。
――なんと自由な肢体であろう。
それは、若き日にとって、魅力多き賑わいである。
二
胸を病んだ白藤鷺太郎は、そのK――町の片隅にあるSサナトリウムの四十八号室に居た。
あの強烈な雰囲気に溢れたY海岸からは、ものの十五丁と離れぬ位、このサナトリウムだのに、恰度其処が、崖の窪みになっていて、商店街からも離れていたせいか、一年中まるでこの世から忘れられたように静かだった。
然し、このサナトリウムにも、夏の風は颯爽と訪れて来る。白藤鷺太郎は、先刻からの花火の音に誘われて、二階の娯楽室から、松の枝越しに望まれる海の背に見入っていた。
ポーン、と乾いた音がすると、ここからもその花火の煙りが眺められるのである。
(今日は、海岸開きだな……)
鷺太郎は早期から充分な療養をした為、もういつ退院してもいい位に恢復していた。だが、折角のこのK――の夏を見棄て周章て、東京に帰るにも及ぶまい、という気持と、それにこのサナトリウムが学友の父の経営になっている、という心安さから、結局、医者つきのアパートにでもいる気になってこの一夏はここの入院生活で過すつもりでいた。
(行ってみようかな)
もう体も大丈夫、と友人の父である院長にいわれた彼は、好きな時間に散歩に出ることが出来た。
彼は、うんと幅の広い経木の帽子をかぶると、浴衣に下駄をつっかけて、サナトリウムの門を抜け、ゆっくり、日蔭の多い生垣の道を海岸の方に歩いて行った。
軈て、生垣がとだえると、ものものしく名の刻まれた一間ばかりの石橋を渡る――そこから右に折れればY海岸が、目の下にさっと展けるのだ。
鷺太郎は、その小高い丘の上に立って、びっくりするほど変貌した海岸の様子に眼を見張っていた。
蒼空の下、繰りひろげられた海岸の風景は、なんと華やかな極彩色な眺めであったろう。まるで百花撩乱のお花畑のような、ペンキ塗りの玩具箱をひっくり返したような、青春の夢のように美しくも目を奪うものであった。それは恰度ここ数日の間に、東北の僻村から銀座通りへ移されたような、驚ろくべき変化だった。
あの悄々と鳴り靡いていた、人っ子一人いない海岸の雑草も、今日はあたりの空気に酔うてか、愉しげに顫えている。無理もない、この海浜都市が、溌剌たる生気の坩堝の中に、放り込まれようという、今日がその心もうきたつ海岸開きの日なのだから――。
沖には、早打ちを仕掛けた打上げ船が、ゆたりゆたりと、光り輝く海面に漾い、早くも夏に貪婪な河童共の頭が、見えつ隠れつ、その船のあたりに泳ぎ寄っていた。それが、恰度青畳の上に撒かれた胡麻粒のように見えた。
鷺太郎は、雑草を分けると、近道をして海岸に下り立った。
砂は灼熱の太陽に炒られて、とても素足で踏むことも出来ぬ位。そして空気もその輻射でむーっと暑かった。そして又ワーンと罩った若い男女の張切った躍動する肢体が、視界一杯に飛込んで来て、ここしばらく忘れられたようなサナトリウムの生活を送っていた彼は、一瞬、その強烈な雰囲気に酔うたのか、くらくらっと目の眩暈むのを覚えたほどであった。
長い間の、うるさい着物から開放された少女たちの肢体がこんなにまで逞しくも、のびのびとしているのか、ということは、こと新らしく鷺太郎の眼を奪った。
なんという見事な四肢であろう。まだ陽に焼けぬ、白絹のようなクリーム色、或は早くも小麦色に焼けたもの、それらの皮膚は、弾々とした健康を含んで、しなやかに伸び、羚羊のように躍動していた。そして又、ぴったりと身についた水着からは、滾れるような魅惑の線が、すべり落ちている……。
或は笑いさざめき乍ら、或は高く小手をかざしながら、ぽかんと佇立った鷺太郎の前を馳抜ける時の、美少女の群の中からは、確かに磯の香ではない、甘い、仄かな、乙女のかおりが、彼の鼻腔につきささる――。
彼はもう、ただそのぴちぴちと跳ねる空気に酔ったように立っていたが、漸くこの裸体国の中で、たった一人、浴衣に経木帽という自分の姿が、ひどく見窄しく感じられて、肩をすぼめてその一群のパラソルの村を抜けると、後方に設けられた海の店の一軒「サフラン」に這入った。
彼はデッキチェアーに靠れて、沸々とたぎるソーダ水のストローを啣えた儘、眼は華やかな海岸に奪われていた。
――こういう時に、青年の眼というものは、えてして一つの焦点に注がれるものなのである。
御多聞にもれず、鷺太郎の眼も、いつしか一人の美少女に吸つけられていた。
勿論、見も知らぬ少女ではあったが、この華やかな周囲の中にあっても、彼女は、すぐ気づく程きわだって美しかった。
そのグループは深紅と、冴えた黄とのだんだら縞のテントをもった少女ばかりの三人であった。
鷺太郎の眼を奪った、その三人組の少女は、二人姉妹とそれに姉のお友達で、瑠美子――というのが、その姉娘の名であった。
彼は、その瑠美子にすっかり注目してしまったのである。まことに、なんと彼女を形容したらいいであろうか。その深紅の海水着が、白く柔かい肢体に、心にくいまでにしっかりと喰込み、高らかな両の胸の膨らみから、腰をまわって、すんなりと伸びた足の先にまで、滑らかに描かれた線は、巨匠の描く、それのように、鮮やかな均斉のとれた見事さであった。
そして、その白く抜けた額に、軽がると降りかかるウエーヴされた断髪は、まるで海草のように生々しく、うつくしく見えた。
彼女は何んの屈託気もなく、朗らかに笑っていた。そしてその笑うたびに、色鮮やかに濡れた脣の間から、並びのよい皓歯が、夏の陽に、明るく光るのであった。
『じゃ――、泳いでこない?』
『ええ、行きましょう――』
砂を払って立った三人の近代娘は、朗らかに肩を組んで、渚を馳けて行った。その断髪のあたまが、ぷかぷかと跳ねると、やがて、さっとしぶきを上げて、満々とした海に、若鮎のように、飛込んで行った。
※[#「口+息」、311-4]っと、鷺太郎は無意味な吐息をもらして、見るともなくあたりへ眼をやると、
『あ――』
彼は、思わず、啣えた儘のストローから口をはなした。
その三人組の少女のテントからは、二十間ほど離れた反対側に、海水パンツ一つではあったが、その上、光線除けの眼鏡をかけてはいたが、あの、山鹿十介の皮肉に歪んだ顔を、発見したのだ。
山鹿十介、この男については、鷺太郎は苦い経験を持っていた、というのは山鹿はまだ三十代の、一寸苦味走った男ではあったが、なかなかの凄腕をもっていて、ひどく豪奢な生活をし、それに騙されて学校をでたばかりだった鷺太郎が、言葉巧みにすすめられる儘、買った別荘地がとんだインチキもので、相当あった父の遺産を半分ほども摺ってしまい、そのためにひどく叔父に怒られて、自分の金でありながら、自由に出来ぬよう叔父の管理下におかれてしまったのだ。
くやしいけれど、一枚も二枚も上手の山鹿には、法律的にもどうすることも出来なかった。結局、鷺太郎は高価い社会学の月謝を払ったようなものだった。
ところで、今、幸い山鹿の方では気づかぬようなので、この間に帰ろうか、それとも、一言厭味でもいってやろうか――と考えてみたが、とてもあの悪辣な男にはかなうまい、というより、
(もう、一さいつき合うな――)
といわれた叔父の言葉を思い出して、腰を上げた時だった。
あの瑠美子を中心とした三人は、行った時のように、朗らかに笑い興じながら、馳足で上って来た。水に濡れて、尚ぴったりと身についた海水着からは、ハッキリと体中の線が浮び出て、一寸彼の眼を欹たせた。
『さむいわねエ――』
『そうね、まだ水がつめたいわ』
『あら、瑠美さん、脣の色が悪いわよ……』
『そう、なんだか、寒気がするの――』
『まあ、いけないわ、よく陽にあたってよ……』
『ええ――』
彼女は、寒むそうに肩をすぼめると、テントの裏側の、暑い砂の上に、身を投げるように、俯伏になったまま、のびのびと寝た。
ぽとりぽとりとウエーヴされた断髪の先から、海水がしたたって、熱く焼けた白砂に、黒いしみを残して消えた。すんなりと伸びた白蝋のような水着一つの美少女が、砂地に貼つけられたように寝ていると、そのむき出しにされた、日の眼も見ぬ福よかな腿のふくらみが、まだ濡れも乾かずに、ひどく艶やかに照りかがやいた。
鷺太郎は、偸見るようにして、経木の帽子をまぶかに被りゆっくりと歩いて行った。
その少女は、熱砂の上に、俯伏になっていたが、時折、両の手をぶるぶると顫わせながら、砂をかき乱していた。その手つきは砂いたずらにしては、甚だ不器用なものであった。なぜなら、彼女は自分の顔に砂のとびかかるのも知らぬ気に美しい爪を逆立てて掻寄せていたのだ――。
――鷺太郎が、いや、その周りにいた沢山の人たちが、その意味を知ったならば、どんなに仰天したことだろう――。
鷺太郎の眼を奪った美少女は、矢張り誰もの注目の的になると見えて、そのあたりに学生らしい四五人の一団と、家族らしい子供二人を連れた一組と、そして見張りの青年団員が三人ばかり、渚に上げられた釣舟に腰をかけていたが、時々見ないような視線を投げ合うのを、鷺太郎はさっきから知っていた。
彼女の、いま寝ているところは、先程までその学生達の三段跳競技場であったが、いまは彼女一人、のけもののように、ぺたんとその空地へ寝ているのである。
彼女は、猶もその無意味な砂いたずらを二三度くり返したようであったが、それにも倦たのか、顔にかかった砂を払おうともせず、ぐったりと「干物」のようにのびていた。尤も、干物にしては、余りに艶やかに美しかったけれど――。
恰度鷺太郎が、その横まで通りかかって行った時だ。テントの中から、妹らしい少女が、熱い砂の上を、螽のように跳ねながらやって来て、
『お姉さま――どお、まだ寒いの?』
『…………』
『ねえ、あんまり急に照らされちゃ毒よ――』
『…………』
それでも、彼女は返事をしなかった。
『ええ、お姉さまったら……』
そういって、抱き起そうとした時だ。
『アッ!』
と一声、のけぞるような、驚ろきの声を上げると、
『芳っちゃん芳っちゃん、来てよ、へんだわ、へんだわお姉さまが――』
と、テントに残っていたお友達に叫んだ。
鷺太郎は、その突調子もない呼声に、思わず来過ぎたその少女の方を振かえって見ると、
『おやっ……』
彼も低く呟いた。
つい、先っきまで、あんなに血色のいい、明るかった美少女の顔が、いつの間にか、その顔を埋めた砂のように、鈍く蒼ざめているのだ、その上、眼は半眼にされて、白眼が不気味に光り、頬の色はすき透ったように、血の気がなかった。
(どうしたんだろう――)
一寸、立止っていると、呼ばれた芳っちゃんという少女と一緒に、もうあたりの学生が、
『どうかしたんですか――』
と寄って来た。
『あっ、脈がない、死んでる――』
手を握った一人の学生が、頓狂な声を上げた。
『えッ』
妹と芳っちゃんの顔が、さっと変った。
『どした、どした』
物見高い浜の群衆が、もう蟻のように蝟まって来た。
鷺太郎も、引つけられるように、その人の群にまざって覗きみると、早くも馳つけたらしいあの山鹿十介が、その脈を見ていた学生と一緒に、手馴れた様子で、抱き起していた。
『やっ、これは――』
遉の山鹿十介も、ビックリしたような声を上げた。
『お――』
すでに、輪になった海水着の群衆も、ハッと一歩あとに引いたようだ。
その、美少女の左の胸のふくらみの下には、何時刺されたのか、白いのついた匕首が一本、無気味な刃を衂して突刺っているのだ。
そして、抱き起された為か、その傷口から滾れ出る血潮が、恰度、その深紅の水着が、海水に溶けたかのように、ぽとり、ぽとりと、垂れしたたっていた。
あたりは、ギラギラと、目も眩暈むような、明るい真夏の光線に充たされていた。そのためか、真白な四肢と、深紅の水着――、それを彩る血潮との対照が、ひどく強烈に網膜につきささるのであった。
――鷺太郎は、蹌踉くように、人の輪を抜けて、ほっと沖に目をやっていた。
あまりに生々しいそれに、眼頭が痛くなったのだ。
『白藤――さん、じゃありませんか』
『え』
ふりかえると、光線除けの眼鏡の中で、山鹿がにやにやと笑っていた。
『やあ――』
彼も仕方なげに、帽子の縁に手をかけながら、挨拶した。
『すっかり御無沙汰で――お体が悪かったそうですけど……』
『いや、もういいんですよ』
『そうですか、それは何よりですね』
山鹿は白々しく口をきると、
『どうも驚ろきましたね、この人の出さかる海岸開きの真ッ昼だっていうのに、人殺しとはねえ――』
馴れ馴れしく話しだした。
『ほう、殺られたんですかね』
『そりゃそうでしょう。自殺するんなら、――それに若い娘ですもん、こんな人ごみの中で短刀自殺なんかするもんですか、もっと、どうせ死ぬんならロマンチックにやりますよ、全く――』
『へえ、でも、僕はさっきから見てたんですけど、誰もそばに行かなかったですよ……』
『さっきから見てられて、ね――』
山鹿は、一寸皮肉気に、口を歪めて笑った。これが、この男のくせであった。
『いいや、それは……』
鷺太郎は、
(畜生――)
と思いながらも、ぽーっと耳朶の赤らむのを感じて、
『いや、それにしても……成るほど、あそこに寝るまで手に何も持っていなかったですね……匕首が落ちていたんじゃないかな』
『冗談でしょう。この人の盛上った海岸に、抜身の匕首が、それもたてに植っていた、というんですか、はははは、――そして、あんなに見事に、心臓をつき抜くほど、体を砂の上に投出すなんて、トテモ考えられませんね』
『そう――ですね、そういえばあそこでは学生がさっきから三段跳をやったり、転がったりしていたんだから――となると、わかんないな……』
『まったく、わからん、という点は同感です、あなたのお話しでは、あの少女は短刀を持っていなかった、そして寝てからも、誰もそばへは行かなかった――それでいて、匕首がささって殺された……』
『一寸。何も僕ばかりが注目していたわけじゃないでしょう。あんな綺麗な人だから僕よか以前からずーっと眼を離さなかった人がいるかも知れませんよ』
『なるほど、実はこの私も、注目の礼をしていたような訳でしてね、ははは……』
山鹿は、人をくったように、黄色い歯齦を出して笑うと、
『この先に、私の小さい別荘があるんですが、こんど是非一度ご来臨の栄を得たいもんですね』
『そうですか、じゃ、そのうち一ど……』
(どうせ、ろくな金で建てたんじゃなかろう)
と思いながら、不図、
『ああ、山鹿さん、あの少女は匕首を投げつけられたんじゃないでしょうか、何処からか、素早く……』
『ふーん』
山鹿は頸をかしげたが、すぐ、
『駄目駄目。投げつけた匕首が、砂を潜って、俯伏になった体の下から、心臓を突上げられる道理がないですよ……、ところで、あの前後に、あの一番近くを通ったのはあなたじゃないですか――、どうもその浴衣すがたというのは、裸※[#小書き片仮名ン、319-2]坊の中では眼だちますからね――』
『冗、冗談いっちゃいけませんよ、僕が、あの見も知らぬ少女を殺ったというんですか』
鷺太郎は、この無礼な山鹿に、ひどく憤ろしくなった。
『僕、失敬する――』
帰ろう、とした時だった。色の褪めたビーチコートを引っかけた青年団員が飛んで来て、
『すみませんが、この辺にいられた方は暫くお立ちにならないで下さい』
と、引止められた。
(ちぇっ!)
と舌打ちしながら、山鹿の横顔を偸見ると、彼は相変らずにやにやと薄く笑いながらわざと外っぽを向いていた。
(まあいい、「サフラン」でアリバイをたててくれるだろう――)
彼は仕様事なしに、又沖に眼をやると、恰度今、早打がはじまったところで、
ポン、ポン、ポン、ドガァーン。
とはずんだ音が響き、煙の中からぽっかりと浮出した風船人形が、ゆたりゆたりと呆けたように空を流れ、浜の子供たちがワーッと歓声をあげ乍ら、一かたまりになって、それを追かけて行くところであった。
浜は、この奇怪な殺人事件の起ったのも知らぬ気に、最も張切った年中行事の一つである海岸開きに、溌剌とわき、万華鏡のように色鮮やかに雑沓していた。
×
あの華やかにも賑わしい「海岸開き」の最中に、突然浜で起った奇怪極まる殺人事件は、その被害者がきわだった美少女であった、ということ以外に、その殺人方法が、また極めて不思議なものであった――ということで、すっかり鷺太郎の心を捕えてしまったのだ。
彼は、サナトリウムに帰っても、その実見者であった、ということから、好奇にかられた患者や看護婦に、幾度となく、その一部始終を話させられた。
然し、いくら繰返し話させられても、ただそれが稀に見る不可思議な犯罪だ、ということを裏書し、強調するのみで、とても解決の臆測すらも浮ばなかった。
――彼女(翌日の新聞で東京の実業家大井氏の長女瑠美子であることを知った)は、あの浜に寝そべりながら、二三度両手で邪慳に砂を掻廻していた、――とすると、それは砂いたずらではなくて、既に胸に匕首を受けた苦しみから、夢中でいていたのかも知れない……。
彼は、そう思いあたると、あの断末魔であろう両手の不気味な運動が、生々しく瞼に甦えり、ゾッとしたものを感じた。
(一体、なぜあんな朗らかな美少女が、殺されなければならないのだ――)
それは「他人」の彼に、とても想像も出来なかったことだけれど、それにしても、あの群衆の目前で、いとも易々と、一つの美しき魂を奪去った「犯人」の手ぎわには、嫉妬に似た憤ろしさを覚えるのであった。
三
海岸開きの日が済んで、十日ほどもたったであろうか。恰度その頃は、学校も休みとなるし、時間的にも東京に近いこのK――町の賑わいは、正に絶頂に達するのである。
夏の夕暮が、ゆっくりと忍び寄って来ると、海面から立騰る水蒸気が、乳色の靄となって、色とりどりに燈のつけられた海浜のサンマー・ハウスをうるませ、南国のような情熱――、若々しい情熱が、爽快な海風に乗って、鷺太郎の胸をさえ、ゆすぶるのであった。
最早、茜さえ褪せた空に、いつしかI岬も溶け込み、サンマー・ハウスの灯を写すように、澄んだ夜空には、淡く銀河の瀬がかかる――。
鷺太郎は、日中の強烈な色彩を、敬遠するという訳でもないが、でも、まだ水泳をゆるされていないので、あの裸体の国である日盛りの浜に、浴衣がけで出かけることが面繋くも感じられ、いつか夕暮の散歩の方を、好もしく思っていた。
Sサナトリウムを囲み、森を奏でるような蜩の音を抜けて、彼は闇に白く浮いた路を歩いていた。その路は、隣りのG――町に続いていた。
鷺太郎は、歩きながらも、あの美少女の死を思い出した。それは、あまりに生々しい現実であったせいか、ここ数日、不図そのことばかりが、頭にうかぶのであった――けれど、それは、あの美しくも酷たらしい一齣の場面だけであって、その原因とか、解決とかいった方には、その後報ぜられた新聞記事と同様、まるでブランクといってもよかった。
然し、いつもそれと一緒に、あの場所で逢った山鹿十介のことを、聯想するのである。
(そうだ、あいつの別荘というのを見てやろうかな――)
そう思いつくと、恰度眼の先に近づいた十字路を左に採った。
彼は、あの山鹿には相当ひどい目にあっていたし、そして又、叔父の田母沢源助からは交際を厳禁されていたのであったけれど、それが却って好奇心ともなって、
(家を見るだけ位ならいいだろう――)
と自分自身に弁解しながら、それに、あの場所にい合せた唯一の知人ともいう気持から、いつか足を早めて、夜道を歩き続けていた。
むくむくと生えた生垣のつづいた路は、まるで天井のないトンネルのように暗かったけれど、空には、恰かも孔だらけの古ブリキ板を、太陽に翳し見たように、妙にチカチカと瞬く星が、一杯にあった。
その星明りの中に、ところどころの別荘の、干物台が聳えたち、そこにはまだ取入れられていない色華やかなモダーンな海水着が、ぺたんこになって、逆立ちをしたり、横になったり、股をひろげたりして、ぶら下っているのが見え、それが、あたりがシーンと静もりかえっているせいか、昼間の華やかさと対照的に、ひどく遣る瀬なく思われるのであった。
……やがて、その生垣の路が、一軒の釣具屋の灯に切られ、橋を渡ると、夜目にも黝く小高い丘が、山鹿の別荘のあるという松林である。
山鹿の別荘は、すぐ解った。
疎に植えられた生垣越しに覗き見ると、それは二階建の洋風造りで、あか抜けのした瀟洒な様子が、一寸、鷺太郎に舌打ちさせるほどであった。二階にたった一つ、灯が這入っているほか、シーンとしていた。おそらく山鹿は、海の銀座、Y海岸の方へ、出かけてしまったのであろう――。
そう思って、踵をかえそうとした時だ。
そのドアーが、灯もつけずに、ぽっかりと内側へ引開けられた。はっと無意識に生垣へ身を密めた鷺太郎の目に、白の半ズボンに白のシャツの男と、も一人、矢張り白地に大胆な赤線を配したズボンを穿いた断髪の女とが、ひょっこり現れた。あたりは暗かったけれど、その二人の服装が白っぽかったので、鷺太郎にはその輪廓を読みとることが出来、一人はたしか山鹿だ、と断定はしたが、も一人の女性の方は、山鹿と交際していないので誰だったか解ろう筈もなかった。
二人は、この身を密めて窺っている鷺太郎には気づかなかったらしく、肩を並べて歩きだした。そして、Y海岸への散歩であろうと思っていた彼の予想を裏切って、こんな時間に、もう人通りもないであろうと思われるZ海岸の方へ向って、ぶらぶらと歩いて行った。
鷺太郎は、一寸躊躇ったが、すぐ思いなおして、そのあとを気づかれないように追いて行った。別にこれという意味はなかったのだけれど、恰度その方向が、帰り路になっていたせいもあり、又、彼の「閑」がそうさせたのだ。
山鹿と、そのモダーンな女とは、一度も振りかえりもせず、時々ぶつかり合うほど肩を寄せ(彼との間は相当あったのだが、なにしろ、その二人が、夜目に浮出す白服だったので)何か熱心に話し合いながら、真暗な夜道を、淋しい方へと撰るように、進んで行った。その路は、そう思わせるほど、暗く淋しかったのだ。この夏の歓楽境K――に、こんな寂とした死んだようなところがあるのか、と思われるほど……、いや、Y海岸が桁はずれに賑やかな反動として、余計こちらが淋しく感じられるのかも知れないが――。
そんなことを鷺太郎は考え乍ら、それでも生垣を舐めるように身を密ませながら追いて行くうち、いつか住宅地も杜絶えて、崖の上に出た。そこは、背に西行寺の裏山が、切立ったような崖になって迫り、わずか一間たらずの路をつくると、すぐ又前は二間ばかりのだらだらした草叢をもった崖になって、眼の下の渚に続いていた。つまり、その路は、崖の中腹を削ってつくられた小径であった。
其処へ立つと、海面から吹渡る潮風が、まともにあたって、真夏の夜だというのに、ウソ寒くさえ感じられた。
遥か左方、入りくんだ海をへだてて、水晶の数珠玉をつらねたように、灯の輝いているのが、今、銀座のように雑沓しているであろうY海岸であった。然し、この人っ子一人見えぬ、灯一つないこの場所では、すでに、闇の中に海もひっそりと寝て、黒繻子のような鈍い光沢を放ち、かすかに渚をあらう波が、地球の寝息のように、規則正しく、寄せてはかえしていた。
山鹿とも一人は、そこまで来ると、つと立止った。
そして前跼みになって、何か捜しているようだったが、それは、崖を下る小径だったと見えて、軈て、その二人の白服は、するすると真黒い草叢の中へ消えてしまった。
(おや、どうするんだろう――)
と頸をかしげた鷺太郎は、
(む、海岸へ下りて、渚づたいに帰ろうというんだな)
と思いなおした。
ダガ、不思議なことには、そう長い時間がかかろうとも見えぬ、崖の草叢に下りて行った二人の姿は、それっきり、鷺太郎の視界から、拭いさられてしまったのだ。
月はなかったけれど、星は降るように乱れ、その仄な光りで、崖の上からは、眼の下の海岸を歩く白服が、見えぬ筈はなかった。
恋人同志らしい二人連の姿が、人気のない海岸の草叢の中に消えてしまった、ということに、他人の色々な臆測は、却っておせっかいかも知れない、鷺太郎は一寸、こんな時、誰もが感ずるであろうような、皮肉じみた笑いが片頬に顫えたが――、鷺太郎は、何とはなく、不安に似た苛立たしさを覚えたのだ。それは不吉な予感とでもいうのであろうか。
到頭、たまり兼ねたように、大きく伸びをすると、それでも跫音をしのばせ乍ら、注意深く歩いて行って、さっき二人が下りたらしい崖の小径を捜して見た。
淡い光の中で、やっと捜し当てみると、それは、小さい崖くずれで、自然に草叢が潰されて出来たような、ざらざらとした小径で、その周囲には腰から胸辺りにまで来る、名も知らぬ雑草が生いしげり、黒い潮風に、ざわざわと囁き鳴っていた。
鷺太郎は、その小径のくずれかかった中程で足をとめ、尚一層注意深く、耳を澄まして見たが、あたりはまるでこの世の終りのように、シーンと静もりかえって、葉ずれの音以外、なんの物音も聴えなかった。
(二人とも、何処へ行ったんだろう……)
考えてみれば、あの二人が何処へ行こうと、お節介な話のようであったけれど、彼はなぜか胸のどきどきする不安を感じていたのである。そして、それは果して彼の危惧ではなかった。
鷺太郎が、その小径を下の草叢にまで下りたち、もう一度、前跼みになって、あたりを見透かした時だった。右手の方、一間半ばかり離れて、雑草の中に、何か、時々ぼーっと浮き出る白いものが眼についた。
(おや――)
と、我知らず早鐘を打ちだした胸を押えて、露っぽい草を掻きわけながら、近寄ってみると、
『あっ……』
ギクン、と立止った。
さっきから感じていた何か知らぬ不安は、矢ッ張り事実だったのだ。
そこには、あの山鹿の家から追けて来た、若い女が、棄てられたように、ぐったりと寝ている、いやそればかりでない、その左の胸の、こんもりとした隆起の下には、匕首が一本、ぐさりと突刺っているのだ。……その匕首のつけ根から流れ出た血潮が、あの白地に大胆な赤線を配した洋服の上へ、さっと牡丹の花を散らしたように、拡がっていた。
そして、それが、生い繁った雑草の中に寝かされてあり、その夏草の葉蔭にとまった蛍が、無心に息づく度に、ぼーっと蒼白い仄な光りと共に、それが隠し絵のように、浮び出るのであった。
蛍火が、絶入るばかりに蒼白かったせいか、その美しい貌だちをもった、まだ十七八の少女の顔が、殊更、抜けるように白く見え、その滑かな額には、汗のような脂が浮き、降りかかった断髪が、べっとりと附ついていた。そして、それと対照的に、ついさっき塗られたばかりらしいルージュの深紅と血潮とが、ぼーっと明るむたびに、火のように眼に沁るのだ。
太陽のもとでは、さぞ酷らしいであろうその屍体が、このぼーっ、ぼーっと照しだされる蛍火の下では、どうしたことか却って、夢に描かれたように、ひどく現実離れのした倒錯した美しさを見せるのであった。
――鷺太郎は、恐ろしさというよりも、その蛍火の咲く夏草の下に、魂の抜け去った少女の、この世のものでない美しさに、心を搏たれてしまったのだ。
四
軈て、はっと我れにかえった鷺太郎は、思い出したように、
(警察へ――)
と気づくと、大急ぎで、又崖を馳上り、夜道を巡査派出所の方へ馳けはじめた。
『白藤さん……じゃないですか』
と、行く手の方から、ふらりふらりやって来た男が、擦れちがいざま、名を呼んだ。
彼は、名を呼ばれて、ギクンと立止った。
『あ、やっぱり――。どうしたんです。馬鹿にあわててるじゃないですか』
『え?』
そういった男の顔を覗き込んだ鷺太郎は、
(あっ――)
と、も少しで叫ぶところであった。
その男が、あの山鹿十介なのだ。
山鹿十介は、浴衣がけに下駄ばき、おまけに、釣竿までかついでいた。
『どうしたんです、一体……』
相手は至極落着いていたが、鷺太郎は、しばらく返事の言葉が思いつかぬほどだった。
タッタ今まで、山鹿だと思っていたその本人が、いまここに、怪訝な顔をして突立っているではないか。
(それでは、あの白服の山鹿十介は何処へ行ったのだ――)
山鹿の別荘から出て来たのは慥だけれど、尤も考えてみれば、後姿を、それも輪廓だけで、或は別人だったのかも知れない――と思いついた。
(それにしても、あの男は何処へ消えたのだろう――)
その男が、殺人の下手人であることは、十中八九間違いはないことだけれど、どうやら山鹿と思ったのは、暗がりの見違いだったらしい。
『どちらへ……』
『夜釣りに行こうか、と思ってね――、どうしたんです。お化けでも出たんですか』
山鹿は、例の皮肉な笑いを、浮べていた。
『お化け?――いや、それどころじゃない、人殺しですよ』
『え、人殺し――、又ですかい』
山鹿も、あの海岸開きの日の殺人を思い出したらしい。
『そうなんで、また、綺麗な女の子ですよ』
『そいつあ大変だ、何処です、それは――』
『つい、この先の草叢なんで……』
鷺太郎は、話ながら、あの夏草の蔭で、蛍火に浮出されている、凄い美しさを思い出した。
『兎に角、警察だ――』
山鹿は、クルッと振向くと、今来た方へ、鷺太郎と並んで釣竿をかついだ儘、すたすたと歩き出した。
二人は、もう口を利かなかった。
山鹿には、以前気まずい思いをして、もう二度と口をきくまいと別れた鷺太郎ではあったけれど、この殺人事件という重大な衝動の前では、思わず口かずを重ねてしまってから、この前といい、今度といい、フト思い出したように、口を噤んでしまって、わざとらしく白い眼で見合う二人であった。
×
その夜、結局わかったことは、その兇器である匕首が、あの海岸開きの賑いの中で起った殺人に、使用されたものと、同種類のもので、全国どこの刃物屋にも、ざらに見られるものだ――ということだけであった。
それに、自殺か他殺かも判然とせぬほど、物静かな死様だったけれど、それは、鷺太郎の慥に二人連れであったという証言――、それに、その匕首には一つも指紋がないということで(自殺ならば手袋を持っていない彼女の指紋が残っているわけであろうから)漸く「他殺」と決定された程であった。
が――、あの「白服の男」は、何処へ消えてしまったのか。
月はなくとも、満天の星で、白服を見失うほど暗くはなかった。それに鷺太郎は、それにのみ注意していたのだから――、でも、見えなかったのは事実だ。
その男は、殺した女の死体の中に、溶けこんでしまったかのように、消え去ったのである。
これには、警官も弱ったようだったが、結局、
『それは君、君だけがこの死体を発見して、僕のところへ知らせに来る間に、それまで草叢の暗がりに隠れていて、逃げてしまったんだろうよ――』
鷺太郎は何か釈然とした気持になれなかったけれど、この場合、それ以外に一寸適当な解決は望めなかった。その釈然と出来なかった原因は、あの男がひどく山鹿十介に似た後姿をもっていた、ということと、その二人連れが、山鹿の別荘から出て来たということであったのは勿論だ。
警官には、
『その二人は、どこかその辺の角から出て来たらしく、散歩の途中、ふと前の方を見ると、あの二人が、何か話しながら、歩いていたのです――』
といって置いたけれど、何故そんなことをいってしまったのか、後になって、どうも思い出せなかった。けれど、それは山鹿を庇う、というのではなく、寧ろ何かの場合に、山鹿を打ち前倒す為のキャスチングボートとして、ここでむざむざ喋ってしまうことを惜しんだ気持が、無意識に働いたものらしかった。
さて、漸く御用済みとなった二人は、用意よく山鹿の持って来たカンテラを頼りに、帰路についた。
山鹿は、あの「気がついてみると、前方を慥に白服の男とあの少女との二人が歩いていた――」といった鷺太郎の言葉が、なぜかひどく気にかかると見えて、
『ね白藤さん、いったいその二人は、どの辺から来ましたかね……』
とか、
『どんな様子でした、その男は――』
とか、執拗いまでに、訊くのであった。鷺太郎は、
『いや――、さあ、どの辺だったかな……、でも二人いたのは慥ですよ』
と軽く、面倒臭げに答え乍ら、心の中では、
(やっぱり、山鹿の奴は怪しい……)
と、一緒に、
(見ろ、その中、その高慢な鼻を、叩き折ってやる――)
と歓声を挙げたい優越を感じていた。
――鷺太郎が相手にならないので、いつか山鹿も黙ってしまうと、二人は黙々として、細い絶入りそうなカンテラのゆれる灯影を頼りに、夜路を歩きつづけていた。
と、突然、
『あっ!』
山鹿が、彼に似合ぬ魂消るような叫びをあげると、ガタンとカンテラを取り落した。
はっ、とした瞬間、真暗になった路の上を、カンテラが、がらんがらんと転がる音がした。
鷺太郎は、反射的に、生垣にぴったり身をすりつけて、構えながら息をこらした。……が、あたりには、なんの音もしなかった。
『どした――』
呶鳴るようにいうと、
『が、蛾だ、蛾だ』
その声は、この夏だというのに、想像も出来ぬほど、寒む寒むとした嗄れた声だった。
『蛾――?』
鷺太郎は、唖気にとられてききかえした。
『なんだ、蛾がそんなに怕いのか――』
袂をまさぐって、マッチを擦ると、転がったカンテラを拾って火を移した。
その、ボーッと明るんだ光の中に、山鹿が、日頃の高慢と、皮肉とを、まるで忘れ果たように、赤ン坊の泣顔のような歪んだ顔をして、一生懸命、カンテラの火を慕って飛んで来たらしい蛾が、右手にとまったと見えて、まるで皮がむけてしまいはせぬか、と思われるほど、ごしごし、ごしごしと着物にこすりつけて拭いていた。
暫らく鷺太郎は、その狂気染た山鹿十介の様子をぽかんと見詰めていたが、軈て、山鹿はほと溜息をつくと、尚もいまいましげに、右手の甲をカンテラに翳しみてから、いくらか気まり悪そうに、干からびた声でぼそぼそと、弁解じみた独りごとをいい出した。
『……どうもねえ、白藤さん、どうも僕はこの蛾とか蝶とかいうのが、世の中の何よりも恐ろしくてねえ……だれだって、そら、人にもよるけれど蛇がこわいとか、蜘蛛が怕いとか、芋虫をみると気が遠くなるとかいうけれど、僕にとって、蛾や蝶ほど怕い、恐ろしいものはないんですよ……そうでしょう。誰にだって、怕いものはあるでしょう……』
『そうですね、僕――僕にとっちゃ、まあ、悪いことを悪いと思わぬ奴が一番こわいがなァ』
山鹿は、その白藤の皮肉じみた言葉にも気づかぬように、可笑しなことには、まだ胸をどきどきと昂まらせながら、
『そうなんです。誰だって、心底から怕いものを一つは持っているんですけど、僕の場合、それが、あの蝶や蛾の類なんです。蛇や蜘蛛は、寧ろ、愛すべき小動物としか思いませんけど、これはどうも、そうはいきません、蛾――蛾――と思うと、もう不可ないんです。斯う頭の芯がシーンと冷めたくなって、まるで瘧のように、ぶるぶる顫えてしまうんですからね、まったく、子供だましみたいな話なんですけど、僕はこの恐怖のために、どんなに苦しんだか知れません――一度はあのブルキ細工の蝶の玩具を買って来て、自分を馴らそうとしたんですけど、それでも駄目なんです。あのブルキの蝶が、極彩色のなんともいえぬ、いやな縞をもった大袈裟な羽根を、ばたばた、ばたばたと煽ると、もうどうにも我慢がならんのです。あの毒々しい色をもった鱗粉というやつが、そこら一面にまき散らされるような気がしましてね。僕にとっちゃあの鱗粉という奴が、劇薬よりも恐ろしいんです。子供の時分、あの鱗粉が手についた為に、そこら一面、火ぶくれのようになって、痛みくるしんだ、苦い経験をもっていますよ。体質的にも、蝶や蛾は禁忌症なんで、それがこの強い恐怖の原因らしいんです……つまりは』
『へえ、そんなことがあるもんですかね、蛾は兎も角としても、蝶々なんか実に綺麗な、可愛いいもんじゃないですか、尤も掴めばそりゃ恰度あの写し絵のように黄だの、黒だの縞が、手につきますけどね――』
『ああ、それが僕にはたまらんのです。
――あの猛獣のような毛に覆われた胴は、なんていったらいいでしょう。それにあのくるくると巻かれた口、あの口は慥にこの世のものではありません。あれは悪魔の口です、恐ろしい因果を捲込んだ口なんですよ』
そういうと、この歩き廻って、ねとねとと汗の浮く真夏の夜だというのに、寒むそうに肩を窄めて、ぶるっと身顫いをすると、恰度眼の前に来た分れみちのところで、鷺太郎から渡されたカンテラを、怖る怖る、つまむようにして受取り、「さよなら」ともいわずに、すたすたと暗の中に消えてしまった。別れてから気がついたのだが、さっきの騒ぎで落してしまったものか、その山鹿のうしろ姿は、釣竿をかついでいなかった。
五
鷺太郎は、サナトリウムの通用口から這入って、医局の廊下を通ろうとすると、こんな夜更けだというのに、まだ電燈があかあかと点けられ、何か話しごえがしていた。
(何かあったのかな――)
と思いながら、通りすぎようとすると、後から、
『白藤君――』
と呼止められた。振返ると、そこには院長沢村氏の息、学友の沢村春生が、にこにこ笑いながら立っていた。
『や、しばらく、どうしたい』
『どうした、じゃないよ。病人がこの夜更けにどこを迂路ついてんだ、困るね――』
『はっははは、ここは居心地がいいから居てやるんだ、僕はもう病人じゃないぞ――』
『それがいかんのさ。治ったと思って遊びすぎると、直ぐぶりかえす――、殊に夜遊びなんか穏かでないぞ』
『冗、冗談いうなよ、変に気を廻すなんて、君こそ穏かでないよ』
『ははは、まあ、入りたまえ、僕も休暇をとったんで、見舞いがてら来たんだ、東京は熱気で沸騰してるよ』
医局へ這入ると、副院長の畔柳博士が廊下の会話を聞いていたと見えて、にやにやと笑っていた。
『今晩は――、どうかしたんですか』
『いや、三十三号の患者が喀血たんでね、呼ばれて来たら、春生さんがあんたを待ってた訳さ』
『ほう、もういいんですか――』
『うん、落着いたようだ、――君もあんまり無理しない方がいいよ』
『そうじゃないんですよ、弱ったなあ、――僕のは重大事件でしてね、実は、又あのZ海岸で人殺しがあったんです』
『ほう、又――』
畔柳博士も、あの海岸開きの日の殺人を思い出したらしい。
『そうなんで、あれと同じ兇器で、同じように美しい少女なんです、殺られたのは――。そこへまた私が通り合せて発見者という訳で、今まで色々訊かれましてね。
――でも、その死顔は実に綺麗だったですねえ、美少女が海岸の雑草の中に折れ朽ちたように寝、胸には匕首がささっているんですが、光線の不足で適当にぼかされて、少しも酷らしくないんです。そして、そのつんと鼻の高い横顔を、蛍がぼーっ、ぼーっと蒼白い光りで照すんですが、それがまるで美しい絵を見ているような気がしましたよ』
『ほう、ばかに感心してるね、君のリーベのように綺麗だったかい』
『まさか、ははは』
『ふーん、で君は、それが誰にやられたのか知っているのかい――』
『いいや、知らんよ、警察でさえ、解らんのだもん――でもこの前のと関係があることは、素人にもわかる、というのは、いまいったように兇器が同一種類であり、手口も酷似しているからね、いつも、乳房の下を、心臓までまっすぐに一と突きだ』
『ふーん、君。僕にはじめから詳しく話してくれないか』
春生は椅子を鳴らして、乗出して来た。
鷺太郎は、
(そうそう、春生は探偵小説を愛読していたな――)
と憶い出しながら、
『じゃ、こういう訳だ、最初の事件は、君ももうアウトライン位は新聞で知っているだろうけど、あの七月十日の海岸開きの日だ。
Y海岸が河童共のごった返している最中に、ええと、瑠美子、とかいったな、大井という実業家の長女だ、それが海岸で冷えた体を砂の上で暖めていて、気がついてみると、誰も知らぬ間に、胸に匕首を突刺されていた、という訳なんだ。――不思議なことには、当時、誰もその傍へはいなかったし、彼女は非常な美人だったから、注目の的になっていたから、これはハッキリいえることだ、又彼女には自殺するような動機も、原因もない。つまり殺されたということになるのだが、それでは一体どうして殺されたのか。
最初に妹がいって見て、どうも様子が変なので、頓狂な声を出したんだから、そばにいた学生が馳つけて、脈をみると、既に止っている。そしてワーッと集まった野次馬の前で、その俯伏になっていたのを起してみると、その今いった匕首が、ささっているんだ』
『その学生は――』
『それは、その妹と一緒に、厳重に調べられたんだが、いくら叩いても埃一つでない、それに、そのグループが、そんな兇器は見たこともない、というんで、とうとうものにならなかったんだ』
『ふーん、……最初の学生が行った時は、既に死んでいて、而もその学生は嫌疑者にならぬ、というんだね』
『そうだ――』
『ふーん、……で、君はどう思うんだい』
『僕――にもわからないけど、ただその場所で妙な男を見たんだよ、あの山鹿十介だ』
『山鹿? ああそうか、いつか、君がひどい眼に会ったという――』
『そうだ、彼奴だよ』
『傍にいたんか』
『いや、二十間ばかり離れていた……』
『じゃ、駄目じゃないか』
『うん、でも、なんだか彼奴なら遣りそうな気がするんだ――僕があんまりいい感じを持っていないせいかも知れないがね――その山鹿が飛んで来て、お節介にも「どうしました」なんて彼女を抱き起したりしてね。どうも怪しい様な気が、「感じ」が、するんだよ』
『でも君、その山鹿が抱き起す前に、学生が脈がないといったんだろう』
『うん』
『心細いね、「感じ」だけでは証拠にならんじゃないか』
『そりゃそうさ、――そういう君だって解らんのだろう』
『いや、僕は現場を見ていないからね』
『ずるいぞ、現場を見てたって、それ以上わかるもんか』
『ふん、それは鷺太郎君のいうように山鹿というのが怪しいな……』
婦長に患者の処置を指図しながら、黙って聞ていた畔柳博士が、ごくんとお茶をのみ乍ら、いった。
『でも、その山鹿という男が、近づく前に、既に死んでいたんじゃないですか』
春生は、不服気に畔柳博士の方を振向いた。
『そうさ、山鹿がそばに行った時は、死んでいたんだよ。その娘は毒殺されたんだ、とは考えられないかい。――その事件が起る前に、山鹿がその娘にある方法で、例えば口紅に毒を塗っておくとか、泳いでいるそばに行って、あやまって水吹をかけたようにして毒を含ませてもいい、兎に角、毒を与えたんだ。そうすれば、その娘は気持が悪くなって、砂に寝て、それっきりになるのは当然だ』
『じゃ、なぜまんまと殺したのに、尚も匕首なんかを使ったんですか――、どういう風に使ったんですか』
春生は尚も、訊きかけた。
『それは、一見不可能のような犯罪にして、人の眼を欺くつもりか、それともその人間が極悪非道な奴で、直接突きさしたい慾望を持っていたかも知れない、おそらくはその両方の原因からだろう――。
二十間もはなれて、その間に、大勢の人が居ながら、すぐ傍にいた学生を除いては、第一に馳つけて来た、ということは、その娘にずーっと注意していた、ということの証拠になると思うね。二十間も先にいて、その傍の人さえ、まだ何が起ったのか知らんうちに、飛んで来て「どうしました」なんて抱き起す――というのは、前からそれがなんだか知っている人間でなければ出来んよ……。刺した方法? それは簡単さ、「どうしました」といって抱き起し乍ら、素早く胸に匕首を打込むこと位、計画的にやればわけはない。そして自分で、「あっ――」と驚いてみせれば効果は満点だ。
生身に匕首を突刺されて、叫び声一つたてぬ筈がない、これはその時すでに完全に死んでいた証拠さ、それには一寸毒殺以外にない』
鷺太郎と春生は、この明快な解答に、
『ああ、そうか――』
と驚いたきり、一言もなかった。春生は負おしみのように、
『毒殺とは医者らしく思いついたもんだ』
と、聴えぬように呟いたが、それ以外、このハッキリした解答に、異論を挟む余地がなかった。
『どんな方法で、何を与えたか、それは犯人に訊くのが一番近道だろうね』
博士はそういうと、にこにこと事もなげに笑っていた。
鷺太郎は、その厚い金縁眼鏡の輝きを、いつになく光々しく感じながら、自分の「直感」を証明してくれた畔柳博士を仰ぎ見た。
『じゃ警察へ電話しましょうか――』
鷺太郎が腰を浮かすと、
『まち給え――』
春生が止めた。
『まち給え、も一つ、こんどの事件を話してくれたまえ、同一人の犯行と思われる今夜の事件に、その山鹿が無関係となったら、或は前の事件も彼ではなかったかも知れないじゃないか。周章て訴える必要はないよ』
『いや、今夜の事件も、山鹿に違いない。僕は慥に彼奴を見たんだ』
『ふーん、じゃそれを警察に隠したのかい」
『隠した、という訳ではないけど、一寸、不審な点があるんでね』
『そら見給え、どんなことだ』
『いや、僕があの山鹿の家まで行くと、その門の中から二人連れが出て来たんだ。暗かったんでハッキリは解らなかったけれど、うしろ姿で山鹿と女とだ、と思った。それがZ海岸で二人とも草叢に隠れて、次に僕が行った時は、山鹿らしい男の姿はなく、女だけが殺されていた、という訳さ』
『じゃ、山鹿は隠れていたんだろう』
『うん、警官もそういったよ。だが、草叢に殺されていた女すら、白服だったから見つけ出したんだから、矢ッ張り白服を着ていたもう一人の男が隠れていても、すぐ解る筈なんだがね。それに、見えなくなるばかりか、僕が知らせに行こうとする、向うの方から、のこのこやって来た男が、山鹿なんだ』
『変な話だな、白服を着ていたかい』
『いや、浴衣がけに、釣竿をかついでいたよ、夜釣りに行くんだ、といってね』
『前の白服、というのは慥に山鹿だったのかい』
『さあ、……山鹿の家から出て来たのは慥なんだがね、なにしろ暗がりとうしろ姿なんでね』
『そろそろあやしくなって来たナ。然し、これはその山鹿らしい白服の男が消えてなくなったところに謎があるね。
白服の男を山鹿として、それが女を殺し、なんらかの方法で姿を消して、家にとって帰し、着かえてから又やって来た、という時間があるかい』
『ないね。その時間はたった二三分だった。山鹿の家まではそこから急いで片道十分はかかる――』
『ふーん』
春生も黙ってしまったが、遉の畔柳博士も、万能探偵ではないと見えて、こんどは黙々として鷺太郎の話ばかりを聞いていた。
夏の夜だというのに、ひどく冷っとする風が吹いて来た。もう、暁方が近いらしい。
三人は顔を見合わすと、腫ぼったい瞼を上げて、
『なんだかぼんやりして来た、一と寝入りして、ゆっくり考えよう……』
と呟くようにいった春生の言葉に、黙って頷いた。
六
翌日――。
真夏の太陽は光々と輝いて、サナトリウムの全景は、まばゆいばかりの光線に満たされ、鷺太郎がベッドに寝ころんだ儘、ゆうべのことをあれこれと考えていると、ジーッ、ジーッと圧迫されるような油蝉の声が、あたり一面、降るように聴えていた。
先程、春生が一泳ぎして来る、と行ったきり、なかなか帰って来なかった。春生も矢張りあの疑問が解けずにいるらしいのだ。
畔柳副院長の姿も見えなかった。おそらく医局で診察に追われているのであろう。
この暑い日盛りを、当てもなく歩いても仕様がないと思っていた鷺太郎は、結局一日をぽかんと暮してしまった。
ただ、その間、あの殺人の事件は、早くも看護婦の間にも拡まったらしく、盛に噂は聞くのだけれど、可怪しなことには、その殺された美少女の身元は勿論、名前さえも、杳として不明であったのだ。
それは朝刊にも、又、早くも届けられた、インクの匂いのぷうんとする夕刊にも、不明とばかり報ぜられていた。
それは実に不思議なことだった。
あれほどの美少女が殺されながら、そして、新聞に写真まで出され、警察でも必死の活動をしているのであろうに、更にわからなかった。
被害者の身許もわからない、ということは、今の捜査法では手のつけられぬ難物なのである。
この豪華なK――海浜都市で行われた殺人の、その類まれなほどの断髪洋装の(その身なりから見て、中流以上の者であることは、想像されたが)美少女の身許が、まるで木の股から生れたものであるかのように、全く解らない、というのは実もっておかしな話であった。而も、それはこの事件に終止符が打たれてしまってからも、遂にわからなかったのである――。
×
――軈て、日が暮れ、このSサナトリウムにも灯がともった。
鷺太郎は、この日一日位、焦燥を感じた日はなかった。このあいついで起った美少女殺人事件の下手人が、かつて自分をもペテンにかけた山鹿十介であることを、もう動かすことの出来ぬものであると、確く信じながらも、最後の一寸した躓きのために、ハッキリと断言することが出来ないでいるのだ。
そんなことを考えていると、
『やあ――』
畔柳博士が這入って来た。
『一寸、面白いものを見せますから一緒に来ませんか』
『何んですか……行くことは行きますが』
『実験ですよ、見て下さい私を――』
そういわれてみると、博士はいつもとは違って白ワイシャツに白の半ズボンを穿いていた。恰度、あのゆうべみた白服の男と同じ支度であったのだ。
門を出ると、春生も白ズボンを穿いてまっていた。三人は黙々としてZ海岸の方に急いだ。
間もなく、ゆうべの事件のあったそばまで来ると、
『鷺太郎君。ここでまっていてくれたまえ、私と春生君とが、ゆうべの二人のように草叢の中にはいって、私が消えてしまうから――』
『え――』
鷺太郎が、呆ッ気にとられている間に、もう畔柳博士は春生を連れて、漸く濃くなって来た夕闇の中を、進んで行った。それは恰度、ゆうべの悪夢の復習のように、そっくりであった。
二人は一寸立止ると、あの男女のように、小径を草叢の方にとった、と見る間に、もう姿は闇に溶け込んでしまった。
そして、ぽかんとした鷺太郎が、一二分ばかりも待った時であろうか、跫音がしたと思うと、いきなり後から、ぽんと肩を叩かれた。
『あ、畔柳さん……』
ギクンと振向くと、そこには、つい今まで白シャツを着ていた畔柳博士が、黒っぽいたて縞の浴衣を着て、ニコニコしながら立っていた。
『どうだね鷺太郎君。僕が君の後方に廻ったのを知ってるかい――』
『いいえ、ちっとも気づかなかったですよ』
鷺太郎はまだ目をぱちくりしていた。
『どうです……』
春生も、崖を上って来た。
『やあ、大成功さ、やっぱり僕の睨んだ通りだよ。ゆうべの白服の男は山鹿だったんだ。――こういう訳さ、山鹿はあの草叢の中に浴衣や釣竿を隠して置いたんだ、そして計画通り兇行を演じると、直ぐさま――そら、斯ういう風に、白シャツと白パンツの上に浴衣を着て、あの草叢を磯べりづたいに君の後方に廻ったんだ。ね、こういう黒っぽいたて縞の浴衣なら、宛でカムフラージされたと同様だから少々の光線で識別がつかんよ、まして「白服だ」と思いこんでるんだからね。それに夜というもんは、上から下は見にくいもんだ、それに比較すれば下から上は、幾分明るい空をバックにしているんで割合に見えるし――夜道で道に迷ったら跼んで見ろ、というのはこの辺を指した言葉だよ……、で山鹿が変装して帰ろうと上を仰ぐといつの間にか君がいるのに気がついた、で心配になったんで夜釣を装って君の様子を捜りに来たんだろうよ。ところが君は何も知らぬ様子なので安心したんだろうけど、でも君の出ように依っちゃ或はあの女と同じことになったかも知れないぜ……』
『冗談いっちゃいけませんよ――』
鷺太郎は、冗談だと思っても、あまりいい気持はしなかった。
『一体、どうしてこんなことが解ったんですか』
『それはね、ゆうべ君が山鹿が釣竿を落して行った、というのを聞いたから、あれからサナトリウムの帰りがけに注意して行くと、あったよ、も少し遅かったら山鹿に拾われたかも知れないがね――で拾ってみると、君、可怪しいじゃないか、その釣竿には「針」がないんだ、それどころか針をつけた様子もない――太公望じゃあるまいし毎晩夜釣りに行く人間が針をつけたことがないなんて想像も出来ないじゃないか。それで考えた末、あの結論になった訳だけれど、わかってみれば子供だましみたいなもんだね――。ただ草叢と黒っぽい縞のカムフラージと、夜は低地の見きわめがつかぬ、という、それだけのことさ、――これに比べれば海岸開きの日の殺人の方がよっぽど巧妙だったよ』
『畔柳さん、トリックの巧拙ということは、必ずしもその犯罪の難易に正比例するもんじゃない、ということがはじめてわかったですよ――、殊に実際の事件では』
春生も、感慨深そうに、副院長を見上げた。そして、
『いよいよ山鹿十介が犯人と決まった訳ですね、こっちが三人なら大丈夫でしょう。これから行ってみましょう――』
畔柳博士は、しばらく頸をかしげていたが、
『よかろう――』
そういうと、三人は意気軒昂と夜道をいそいだ。
――あの最初の、そもそも最初から怪しいと思っていた山鹿十介が、いよいよ犯人だ、と決定されたのだ。鷺太郎は、素人の感も馬鹿にはならぬ、と聊さか得意で、先頭に立って歩いていた。
だが、山鹿の別荘は人の気配一つしなかった。電燈は全部消し去られ、いくら呼鈴を押しても、とうとう返事を得ることが出来なかった。
『畔柳さん、山鹿は逃げたんじゃないでしょうか』
鷺太郎は、折角犯人がわかりながら、それをとり遁がしたのではないか、と思うと、歯を喰縛った。
『いや、そんな筈はない』
畔柳博士は、何か自信あり気に呟いた。
『明日、来よう――』
七
その翌日も、ゆうべの星空が予言したように、雲一つない快晴であった。
鷺太郎は朝早く飛起きると、看護婦たちを手伝わして、蝶だの蛾だのを、洋菓子の箱一杯につかまえ込んだ。
胴の太さが親指ほどもあろうか、と思われるような蛾や、大小各種様々な蝶が、合計二十匹ほども集められた。
『どうするんだい』
と訝かし気に訊く春生に、
『山鹿への御土産さ……』
と鷺太郎はにやにやしながら答えた。山鹿のふるえ上る様を想像して、心中快哉を叫んでいたのである。
やがて、畔柳博士は仕事を済ますと、三人連れだって、道をいそいだ。
心配していた山鹿は、幸い在宅しているらしく、呼鈴を押すと婆やが出て来た。兼ねて打合せたように、鷺太郎を残すと二人は物かげにかくれた。
『白藤ですが――。山鹿さんいましたら遊びに来たといって下さい』
わざと、洋菓子の箱を見せつけるように、持ちかえていった。
『はあ、少々おまち下さいませ』
鷺太郎は振りむいて合図をした。と同時に又婆やが出て来た。
『どうぞ……』
それと一緒に、驚ろく婆やを尻目に、どやどやと三人続いて這入ってしまった。
『やあ――』
と出て来た山鹿も、一瞬、不快な顔をしたが、遉がに、去り気なく
『どうぞ――』
応接間は八畳ほどだった。椅子につくと間もなく、畔柳博士は、
『山鹿さん、地下室をみせてくれませんか』
『えッ』
山鹿は何故かさっと顔色を変えた。
鷺太郎も吃驚した。このはじめて来る他人の家に、地下室があろうなんて、畔柳博士はどうして知っているのであろう。それにしても、山鹿の驚愕は何を意味するのか――。
山鹿は顔色を変えたまま、よろめくように立上った。
『どうぞ、こちらです』
そう呟くようにいって、壁に手を支えながら歩き出した。
その、うしろ姿の波打つような肩の呼吸から、何事か、この一言がひどく彼の胸を抉ったことを物語っていた。
――その地下室への入口は、想像も出来ぬほど巧みに、彼の書斎の壁に設けられてあった。地下室のことについては、博士は『出入の商人から人数に合わぬ食糧を買い込んでいるからさ――』こともなげに答えた。
山鹿を先頭に、三人は黙々と並んで這入った[#「這入った」は底本では「這った」]。そこは、いかにも地下室らしい真暗なつめたい階段が十四、五段あって、又、も一つのドアーに突当った。
そのドアーが開けられると、
『あっ――』
思わず、三人とも異口同音に、低く呻いた。そのなかは、まるで春のように明るく、暖かく、気のせいか、何か媚薬のように甘い、馥郁たる香気すら漾っているのが感じられた。
然も、この別荘としては、その地下室は不相応に広いらしく、充分の間取りをもって、尚も奥へ続いているようであった。
その上、壁は四方とも美しい枠をもって鏡で貼られ、天井は全面が摺硝子になっていて、白昼電燈が適当な柔かさをもって輝いてい、床には、ふかふかと足を吸込む豪奢な絨毯が敷きつめられてあった。
それらの様子を、三人が呆然と見詰め、見廻わしている中に、山鹿はそのドアーを閉め、それを背にして向き直った。
ああ、その顔は、いつもの皮肉な皺が深々と刻込まれ、悪鬼のように歪んでいた。
『ふ、ふ、ふ、とうとう捕まったね……この地下室を見つけられたのは大出来だったが、のこのこ這入って来るとは、飛んで火に入る――のたとえだね、まあ、ここを知られては三人とも二度と世の中におかえしする訳にはゆかんよ……ここで君達がどうなろうと、全然世間には漏れないんだからね……ふ、ふ、ふ』
そう低い声でいうと、いつの間にか右手には、鈍く光る短銃が握られていた。
(あ、しまった!)
三人とも、一瞬、歯を鳴らした。
『あ、蛾だ!』
鷺太郎が、山鹿の肩を指して叫んだ。
『え』
一寸、山鹿の体が崩れた、と鷺太郎の体が、砲弾のように飛びついたのと同時だった。
『畜生!』
ごろん、と音がすると短銃が落ちた。畔柳博士はすくい取るように拾った。
『山鹿! 変な真似をするな』
一挙に、又立場ががらりと逆になってしまった。まるで、それは西部活劇のような瞬間の出来事だった。
『馬鹿野郎――』
春生の右手が、山鹿の頬に、ビーンと鳴った。そして、洋服を剥取ると、ドアーの鍵を出して改めた。
鷺太郎は、この騒ぎに投出された「おみやげ」の箱を拾い上げると、
『山鹿、この上もないおみやげだぞ……そら、蝶や蛾がうじゃうじゃいる――』
『あ、そ、それは……』
山鹿の全身は紙のように白くなって、わなわなと顫えはじめた。その眼は真赤に充血してぴょこんと飛出し、脣は葡萄色になって、ぴくぴくぴくとひきつっていた。
世の中に、こんなにまで凄まじい恐怖の色があろうか。相手が、あの可愛いい蝶々だというのに――。
狭い箱の中から開放された二十匹に余る様々な蝶や蛾は、あたりの明るさに酔って、さっと飛立ち、忽ちのうちに部屋一杯ひらひら、ひらひらと飛びかいはじめた。そしてあたりが鏡だったせいか、まるで、この部屋一杯に蛾が無類に充満し、恰も散りしきる桜花のように、春の夢の国のように、美しき眺めであった。
そして、余りのことに、ぐったりと倒れてしまった山鹿の周囲にも、まるでレビューのフィナーレを見るように散り、飛びしきっていた。
×
三人は、その様子をしばらく見ていたが、もう山鹿が身動きもしないし、鍵はとってしまったのだから出られまいと、尚もその奥のドアーを開けて進んだ。
その次の部屋も、前と同じつくりの二十坪ほどもあろうかと思われる部屋で、豪華な家具や寝台が置かれてあり、その上、度胆を抜かれるほど驚ろいたのは、その部屋に、かろうじて、紗をつけた、或は、それこそ一糸も纏わぬ全裸な若い少女が二十人ほども、突然の闖入者に、恐怖の眼を上げながら彳んでいるのであった。
と軈て、その二十人にも見えたのは、矢張り四方の鏡のせいで、実は四五人であることがのみこめたけれど、この地下に設けられた美少女群の裸体国は、一体何を物語るのであろう。
彼女等は皆磨かれたように美しい肌をし、顔を粧っていた。だが、まるでこの世界には着物というものは知られていないかのように、何処を捜しても、それらしいものは見当らなかった。
そして又、異様な寝息に気がついて、じーと眼を据えて見ると、驚ろくべきことには、あの白藤鷺太郎に山鹿との交際を厳禁し、財産管理までしてしまった叔父の田母沢源助のいぎたない豚のような寝姿が、つい先きの寝台の上に、ころがっていたのだ。
一瞬、鷺太郎には、すべてを飲みこむことが出来た。叔父源助は、なんと山鹿の経営する秘密団のパトロンであったのだ、とすれば山鹿に欺られた、そして又それを口実に管理されてしまった鷺太郎の財産は、この裸体国の為に、消費されてしまったのであろう。
――そんなことを考えているうちに、その裸体の彼女等は、この三人が別に危害を加えるのでないと知ったと見えて、大胆に近寄って来た。そして眼のやり場に困っている、どこへやっても四囲の鏡が彼女等の肢体を大写しに瞼の中に叩きこむのだから――彼に訴えた物語りは、なんと奇怪なものであった。
端的にいえば、彼女等は両親も知らぬ孤子、又は金に売られた貧民の子供だったのだ。
それを犬ころのように買って来た山鹿は、まるで人形のように粧わせて、この奇怪な美少女国の主となっていたのだ。
罪深き、山鹿十介――、なんと非道の悪魔であろう。その悪魔も、この人形たちに刺戟を求めきれなくなり、あの大井瑠美子を恋して一言のもとに退けられ、遂に殺してしまったのだ。
そして「殺人」の魅惑は、この刺戟に倦きた人形国の主に、新らたなる、強烈な刺戟を与えたのに違いない。そして、あの迷宮入りの成功は彼の気持に拍車をかけ、その刺戟慾は、この薄倖な少女達を次々にその犠牲にしようとしたのであろう。
Z海岸で匕首を刺された少女の身許が解らなかったのも無理はなかった。彼女自身ですら、あわれにもその本名すら知らなかったらしいのだ――。
この全身をパフの香気に叩きこめられた少女等――、蠱惑する媚と技術を知りながら、小学生にも劣る無智――。山鹿とはなんという恐ろしい教育をする男であろう。
鷺太郎は、山鹿に対する怒りが火のように全身を駛って、思わず隣室の山鹿のところにかけ寄った。
『おや――』
さっき、鍵をとるために洋服を剥いだままにしておいたせいか、全身、蝶や蛾の鱗粉があたったところは、まるで火の粉をあびたように、赤く腫れ上り、火ぶくれのようになって、既に息絶えていた。
『山鹿は蝶に殺された――』
鷺太郎は、呟くようにいった。
少女たちも、自分等を猫のようにあつかった、山鹿の死体を、心地よげに見下ろしていた。
『嫌悪感――というもんは非道いもんだな、鱗粉が触っただけで、皮膚が潰瘍する許か、心臓麻痺まで起すんですね』
春生がいうと、畔柳博士は、こっくり頷いて、
『おや、臭いぞ……』
とドアーの方を見詰めた。すぐドアーは開けられた。
『あ、火事だ!』
どうしたことか、山鹿の別荘は火を出したと見えて、もうその地下室のドアーのところにまで、むせっぽい、きな臭い煙が巻込んで来ていた。
『あっ、あの婆だな――』
春生が飛出した。
『あわてるな――』
畔柳博士が呶鳴ったけれど、もう皆は先をあらそって、出口へ飛出して行った。
山鹿の死骸も、田母沢源助の戯れ呆けて寝た体も、運び出す暇はなかった。
皆が飛出すと、一足違いに、ドッと梁が落ちて、金色の火の子が、パッと花火のように散った。火勢はいよいよ猛烈だった。
その仕掛花火よりも見事な、すさまじい火焔の中に、あの数人の全裸体の美少女が、右往左往するさまは、まるでそれが火の精であるかのように、美しく彩られて、海浜都市のKの丘の上に、妖しい狂舞が続けられていた。
……燃々と燃えさかる炎は、三人の心に夫々のかげをうつして、ゆらめいた。
『これでいいのだ……』
畔柳博士は、鷺太郎をかえり見て、そういった。その声は、火煙のために嗄がれてはいたが……。
底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「探偵春秋」春秋社
1937(昭和12)年3月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
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