(一)

 僕は透谷全集を読んで殆んど隔世の感あり。透谷の精力の或部分は実に僕を攻撃する為めに費されたるものなりしことは僕の今にして慙愧ざんきへざる所なり。勿論私交の上に於ては僕は透谷の友人と称すべき一人たりしことを要請する権利ありと信ず。然れども透谷は友人たるが為めに異論者を用捨するが如き漢子をとこにはあらざりき。否、友人たるが為めにことさらに弁難攻撃を試みたるものならん。加之しかのみならず透谷の感性は非常に強かりしかば僕等が書き放し、言ひ放しにしたるものも、透谷に取つてはそれが大問題を提起したるが如く思はれしを以てたゞちに其心裏に反撃の波浪をき起したるならん。僕は当時世に樽柿をくらひてもなほ酔ふものなきに非ず、透谷の感性ははなはだ之に似たり。余り「デリケート」にして、浮々うか/\之に触るれば直ちに大振動を起すべき恐ろしき性質のものなりと思ひしこともありき。透谷が僕と論戦を開きし第一の動機は僕が『山陽論』を書きて文章は事業なり、英雄が剣をふるふも、文士が筆を揮ふも共にくうを撃つが為めにあらず、為す所あらんが為めなりと云ひしより起れり。是れ実に僕が東都の文壇に於て他人に是非せらるゝに至りたる始めなりき。而して此文の出づるや透谷は直ちに之れを弁駁して事業と云ひ、功績と云ふが如き具躰的の功を挙ぐるは文人の業に非ず、文人の業は無形の事、即ち人の内心インナーハートに関す、愛山の所謂いはゆる空を撃つが為めなりと言へり。二人の間に議論に花が咲きたるは実に此に始まれり。去りながら僕は当時少しも透谷の説に感服せざりき。何となれば僕の事業と云ひしは決して具躰的に表はるべき事功のみを指したるに非ず。僕は心霊が心霊に及ぼす影響は何にても之を事業と云ふべきものなりと始めより信じたるが故に文章を以て事業としたるのみ。されば透谷の駁論は敵なきに矢を放つもの乎、否なれば僕の説を読み違へたるものに過ぎず。僕はく信じたるを以て更に此趣意に依りて応戦したるのみならず、荻生徂徠論を著すに至つても猶ことさらに『文章は事業なり。文士筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し』の一句を挿入して其説を改むるの要なきことを暗示せり。しかる後、透谷は又『純文学』及び『非純文学』なる名目を立て、史論の如きは『純文学』に非ず、小説詩歌の如きものゝみが純文学なりと云へる趣意の論文を書きたり。然るに此説には僕に異論ありしが故に、此度は此方こなたより攻撃的態度を取つて戦端を開きたり。当時の僕の論旨は歴史にても小説にても共に人事の或る真実ツルースを見たる上にて書くべきものなり。歴史は勿論帰納的に事実を研究せざるべからずといへども小説もまた決して事実を離れたる空想なりとは言ひ難きのみならず、時としては小説のかへつて歴史よりも事実に近きことなきに非ず。此故に小説は決して事実の研究、科学的の穿索せんさくなくして書き得べきものに非ず。然るに之に命ずるに純文学てふ空名を以てし、不研究なる想像の城中に立籠らんとするは卑怯ひけふなりと云ふに在りき。其頃より透谷の友人と僕の友人との間には自然に思想の鴻溝こうこうを生じ、僕の友人は透谷等と思想の傾向を同くするものを目するに高蹈派を以てし、透谷と思想の傾向を同ふするもの僕等を形而下けいじか派とのゝしるに至れり。
 透谷等の所謂『形而下派』にては無論蘇峰先生が総大将にして僕等は蘇峰門下の末輩に過ぎざりき。たとへば高蹈派と云ふ名目を作りたるも蘇峰君なりしが如し。然れども透谷はしか信ぜざりき。透谷の見る所に依れば蘇峰は幽玄を解し、美を解し、形而上を解する力あり。そは『静思余録』を見るも分明なり。たゞ頑冥ぐわんめい不霊なるは愛山のみ。彼れは形而上を解することあたはざる『唯物論者』なり。彼れの頭脳は英人的にして事業と功利の外はすべてを軽侮せんとするものなりと。是れ彼れの独断的批評なりき。而して彼れは自ら之を僕に語りたるのみならず、僕の透谷の家にて其遺墨を見たる時も同じ論旨を書きたるものを存したりき。此故に透谷は一意に僕に向て鉄椎てつつゐを下さんと試みぬ。

       (二)

 かくの如き論戦も今は昔の夢となりぬ。然れども余は終生透谷に感謝せざるを得ざるものあり。余は未だかつて透谷の如く親切に余の議論を批判したるものあるを見ず。透谷の如く短兵直ちに余の陣営に迫りしものを見ず。彼れは真に余の益友なりき。余は今も猶彼れの所謂唯物論者たることを免れざるやも知れず。余自ら之を知らず。而も余が人間は物質以上、形骸以上、功名以上に或る要求を有せざるべからざることを信じ、而して常に現実に満足せざるべしてふ願慾を有しつゝあることを得たるは是れ実に久しく地下に眠つて再びともに現世を歩むこと能はざる此一友人の恩恵に帰すべきこと多きは余の好んで告白せんと欲する所なり。
 透谷と余の論戦はすこぶる激烈なりき。然れども余は個人たる透谷に対しては常にがうも愛敬の念を失はざりき。透谷も亦勿論もちろん、論敵たる人の性格までを疑はんとする卑劣なる人物にあらざりき。現に余と透谷とが日々論戦を為しつゝありし頃は透谷も余も共に麻布の霞町に住し日夕相往来したりしなり。草緑にして露繁き青山の練兵場、林を出でゝ野に入り、野を去つて更に田に出づるかうがい町より下渋谷の田舎道は余と透谷とが其頃しばしば散歩したる処にして当時の幻影おもかげは猶余の脳中に往来す。けだし透谷の感情は頗る激烈にして、彼れは之れが為につひに不幸なる運命に陥りし程の漢子をとこなりしと雖も、平時はむしろ温和なる方なりき。而して其人と事を論ずるにあたつても彼れには決して気を以て人を圧するが如きこと無く、静かにして而もちひさき声にて微笑しながら語るなりき。余は之に反せり。
 直情径行は今も昔もいやし難き余の病なりしかば、数ば大声を発し、論戦若し危きに及べば所謂横紙破りの我慢をも言出だしき。然れども透谷は敢て同一の調子にてそれに抵抗したることなかりき。彼れは唯ニヤリ/\と無邪気に笑ひつゝありしのみなりき。余は今猶記す。或る日例の如く二人にて散歩しつゝ討論しつゝありし時、余が余りに熱心になりて覚へず杖を振廻し/\したりしかば、透谷はそれを危ぶながりてクス/\笑ひながら路傍ろばうへ避け去りしことありき。此一事を以てするも透谷の温和なる性質は読者の心に明かならん。しかのみならず透谷は余が彼れに遊歩や外出を促したる時に於て未だ嘗て一度も否と言ひしことは無かりき。彼れはたとひ其日印刷に付せざるべからざる原稿を書きつゝありし時も猶直ちにそれをなげうつて書斎を出づるを常としたりき。思ふに彼は大抵の事ならば『否』の一語を以て他人の感情を害するに忍びざりしなるべし。透谷の如きは胸中一点の邪気なき醇粋なる可憐児なりきと曰つて可なり。
 余は透谷が友人に対して深厚なる同情を傾くるを常としたる人物なりしことの一証として左の事を語らんと欲す。余と透谷に一個の友人ありき。余は彼れの紹介にて始めて透谷と交はりしなり。或時彼れは其職業を失ひたるが為に大に窮せり。然れども武士の子にして而も気性の勝ちたる彼れは誰にも其窮を訴へず、独り自ら苦しみしのみなりき。時に透谷は一夕彼れを訪ひ長話をなして帰れり。其夜透谷は勿論彼れの生計につきて一言も発せざりき。透谷は辞し去れり。彼れは透谷の坐りたるかたはらに若干じやくかんの紙幣が紙に包まれて在りしことを発見せり。而して其紙片には失敬ながらいささか友人の窮を救はんとすと云ふ趣意を書きありき。彼れは之を見て感泣したりと云ふ。如何いかなる親友にても当面に君は窮せり僕は金を君に貸さんと云ふが如き露骨なる恩恵を売るは透谷の為すに忍びざる所なりき。然れども彼れは又自己は如何ほど窮するとも友人の苦痛は決して坐視すること能はざる深くして切なる同情を有したりしなり。余は親しく之を其友人に聴きていよいよ透谷を尊敬するの念を長じたりき。
 透谷の脳膸は有躰ありていに言へば科学的明白を欠きたりき。恐らくは科学と論理学は透谷の好む所にあらざりしなるべし。余は透谷の文を読んで数ば其要領を得ること能はざるに苦みしことを告白せざるを得ず。然れども是れ透谷の累と為すに足らず。透谷は論理学以上の或物を有せり。透谷は生れながらの詩人なりき。彼れは論理学の繩墨や、修辞法の小学に服従することの能はざる詩人的天才を有せり。此天才こそ透谷集に一種の興味を与へて長く読書社会の賞讃を博すべき所以ゆゑんならん。蘇峰君は此点を看取したるが故に透谷は明治の詩人たるべかりきと言へり。余も亦感を同ふす。
 たま/\透谷集に対して今昔の感に堪へず思ふ所を記す。聡明にして感情を有したる地下の故人、さに余の依然として呉下蒙ごかもうたるを笑ふなるべし。地下の故人よ、嗚呼あゝ余は依然として呉下蒙たるなり。
(明治三十五年十月十一、十三日)

底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「信濃毎日新聞」
   1902(明治35)年10月11日、13日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2006年4月28日作成
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