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(これや、法界坊はふかいばう、)
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 わし匆々さう/\遁出にげだした。
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 思切おもひきつて坂道さかみちつてかゝつた、侠気をとこぎがあつたのではござらぬ、血気けつきはやつたではもとよりない、いままをしたやうではずつとさとつたやうぢやが、いやなか/\の憶病者おくびやうものかはみづむのさへけたほど生命いのち大事だいじで、何故なぜまたはつしやるか。
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宗朝しうてう矢張やツぱり俯向うつむけにとこはいつたまゝ合掌がツしやうしていつた。
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「さて、かつしやい、わしはそれからひのきうらけた、いはしたからいはうへた、なかくゞつて草深くさふかこみち何処どこまでも、何処どこまでも。
 すると何時いつにかいまあがつたやまぎてまた一ツやまちかづいてた、此辺このあたりしばらくのあひだ広々ひろ/″\として、前刻さツきとほつた本街道ほんかいだうよりつとはゞひろい、なだらかな一筋道すぢみち
 心持こゝろもち西にしと、ひがしと、真中まんなかやまを一ツいて二すぢならんだみちのやうな、いかさまこれならばやりてゝも行列ぎやうれつとほつたであらう。
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 御覧ごらんとほつえてました。)と我折がを染々しみ/″\たのんでひたひげるとざつといふすさまじおとで。
 心持こゝろもち余程よほど大蛇だいじやおもつた、三じやく、四しやく、五しやく、四はう、一ぢやう段々だん/″\くさうごくのがひろがつて、かたへたにへ一文字もんじさツなびいた、はてみねやまも一せいゆるいだ、悚毛おぞけふるつて立窘たちすくむとすゞしさがみてくと山颪やまおろしよ。
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 といふのはまへ大森林だいしんりんがあらはれたので。
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何方どなたぞ、御免ごめんなさい、)といつた。
 背戸せどおもふあたりでふたゝうまいなゝこゑ
何方どなた、)と納戸なんどはうでいつたのはをんなぢやから、南無三宝なむさんばうしろくびにはうろこへて、からだゆかつてをずる/″\といてやうと、また退すさつた。
(おゝ、御坊様おばうさま、)と立顕たちあらはれたのは小造こづくりうつくしい、こゑすゞしい、ものやさしい。
 わし大息おほいきいて、なんにもいはず、
(はい。)とつむりげましたよ。
 婦人をんなひざをついてすわつたが、まへ伸上のびあがるやうにして黄昏たそがれにしよんぼりつたわし姿すがたかして、(なにようでござんすかい。)
 やすめともいはずはじめから宿やど常世つねよ留主るすらしい、ひとめないとめたものゝやうにえる。
 いひおくれてはかへつてそびれてたのむにもたのまれぬ仕誼しぎにもなることゝ、つか/\とまへた。丁寧ていねいこしかゞめて、
わしは、山越やまごえ信州しんしうまゐりますものですが旅籠はたごのございますところまではくらゐございませう。)」

「(貴方あなたまだ八あまりでございますよ。)
其他そのほかべつめてくれますうちもないのでせうか。)
それはございません。)といひながらたゝきもしないですゞしいわしかほをつく/″\た。
(いえもうなんでございます、じつ此先このさきちやうけ、うすれば上段じやうだんへやかして一ばんあふいでそれ功徳くどくのためにするうちがあるとうけたまはりましても、まツたくのところあし歩行あるけますのではございません、何処どこ物置ものおきでも馬小屋うまごやすみでもいのでございますから後生ごしやうでございます。)と前刻さツきうまいなゝいたのは此家こゝよりほかにはないとおもつたからつた。
 婦人をんなしばらかんがへてたが、わきいてぬのふくろつて、ひざのあたりにいたをけなかへざら/\と一はゞみづこぼすやうにあけてふちをおさへて、すくつて俯向うつむいてたが、
(あゝ、おまをしましやう、丁度ちやうどいてあげますほどおこめもございますから、それなつのことで、山家やまがえましてもよるのものに御不自由ごふじいうもござんすまい。さあ、かくもあなたおあがあそばして。)
といふと言葉ことばれぬさきにどつかりこしおとした。婦人をんなおこしてつてて、
御坊様おばうさま、それでござんすが一寸ちよつとことはまをしてかねばなりません。)
 判然はツきりいはれたのでわしはびく/\もので、
はい、はい。)
いえべつのことぢやござんせぬが、わたしくせとしてみやこはなしくのがやまひでございます、くちふたをしておいでなさいましても無理むりやりにかうといたしますが、あなたわすれても其時そのときかしてくださいますな、うござんすかい、わたし無理むりにおたづまをします、あなたはうしてもおはなしなさいませぬ、それ是非ぜひにとまをしましてもつて有仰おツしやらないやうにきツねんれてきますよ。)
仔細しさいありげなことをいつた。
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はいよろしうございます、何事なにごと仰有おツしやりつけはそむきますまい。)
 婦人をんな言下ごんか打解うちとけて、
(さあ/\きたなうございますがはや此方こちらへ、おくつろぎなさいまし、うしてお洗足せんそくげませうかえ。)
(いえ、それにはおよびませぬ、雑巾ざうきんをおくださいまし。あゝ、それからもしのお雑巾ざうきん次手ついでにづツぷりおしぼんなすつてくださるとたすかります、途中とちう大変たいへんひましたのでからだ打棄うつちやりたいほど気味きみわるうございますので、一ツ背中せなかかうとぞんじますが恐入おそれいりますな。)
う、あせにおなりなさいました、ぞまあ、おあつうござんしたでせう、おちなさいまし、旅籠はたごへおあそばしてにおはいりなさいますのが、たびするおかたにはなにより御馳走ごちそうだとまをしますね、どころか、おちやさへろくにおもてなしもいたされませんが、の、うらがけりますと、綺麗きれいながれがございますから一そうそれらつしやツておながしがうございませう、)
 いただけでもとんでもきたい。
(えゝ、それなにより結構けつこうでございますな。)
(さあ、それでは御案内ごあんないまをしませう、どれ、丁度ちやうどわたしこめぎにまゐります。)とくだんをけ小脇こわきかゝへて、椽側えんがはから、藁草履わらぞうり穿いてたが、かゞんで板椽いたえんしたのぞいて、引出ひきだしたのは一そく古下駄ふるげたで、かちりとはしてほこりはたいてそろへてれた。
(お穿きなさいまし、草鞋わらじ此処こゝにおきなすつて、)
 わしをあげて一れいして、
恐入おそれいります、これはうも、)
(おまをすとなりましたら、あの、他生たしやうえんとやらでござんす、あなた御遠慮ごゑんりよあそばしますなよ。)おそろしく調子てうしいぢやて。」

「(さあ、わたしいて此方こちらへ、)とくだん米磨桶こめとぎをけ引抱ひツかゝへて手拭てぬぐひほそおびはさんでつた。
 かみふツさりとするのをたばねてな、くしをはさんでかんざしめてる、姿すがたさといふてはなかつた。
 わし手早てばや草鞋わらじいたから、早速さツそく古下駄ふるげた頂戴ちやうだいして、えんからとき一寸ちよいとると、それれい白痴殿ばかどのぢや。
 おなじくわしかたをぢろりとたつけよ、舌不足したたらず饒舌しやべるやうな、にもつかぬこゑして、
ねえや、こえ、こえ。)といひながら、だるさうに持上もちあげて蓬々ばう/\へた天窓あたまでた。
ばうさま、ばうさま?)
 すると婦人をんなが、しもぶくれなかほにえくぼをきざんで、三ツばかりはき/\とつゞけてうなづいた。
 少年せうねんはうむといつたが、ぐたりとしてまたへそをくり/\/\。
 わしあまどくさにかほげられないでつとぬすむやうにしてると、婦人をんな何事なにごとべつけてはらぬ様子やうすそのまゝあといてやうとするとき紫陽花あぢさいはなかげからぬいとた一めい親仁おやぢがある。
 背戸せどからまはつてたらしい、草鞋わらじ穿いたなりで、胴乱どうらん根付ねつけ紐長ひもながにぶらりとげ、啣煙管くはへぎせるをしながらならんで立停たちとまつた。
和尚様おしやうさまおいでなさい。)
 婦人をんな其方そなた振向ふりむいて、
(おぢさんうでござんした。)
ればさの、頓馬とんまけたといふのはのことかい。ツからきつねでなければさうにもないやつぢやが、其処そこはおらがくちぢや、うまく仲人なかうどして、二つきや三つきはお嬢様ぢやうさま御不自由ごふんじよのねえやうに、翌日あすはものにして沢山うん此処こゝかつんます。)
(おたのまをしますよ。)
承知しようち承知しようち、おゝ、嬢様ぢやうさま何処どこかつしやる。)
がけみづまで一寸ちよいと。)
わか坊様ばうさまれてかはつこちさつさるな。おら此処こゝ眼張がんばつてるに、)と横様よこさまえんにのさり。
貴僧あなた、あんなことをまをしますよ。)とかほ微笑ほゝゑんだ。
一人ひとりまゐりませう、)とわき退くと親仁おやぢ吃々くつ/\わらつて、
(はゝゝゝ、さあはやくいつてござらつせえ。)
(をぢさん今日けふはおまへめづらしいおきやくがお二人ふたかたござんした、ときはあとからまたえやうもれません、次郎じらうさんばかりではものよわんなさらう、わたしかへるまで其処そこやすんでてをくれでないか。)
いともの。)といひかけて親仁おやぢ少年せうねんそばへにぢりつて、鉄挺かなてこたやうなこぶしで、脊中せなかをどんとくらはした、白痴ばかはらはだぶりとして、べそをかくやうなくちつきで、にやりとわらふ。
 わし悚気ぞツとしておもてそむけたが婦人をんな何気なにげないていであつた。
 親仁おやぢ大口おほぐちいて、
留主るすにおらが亭主ていしゆぬすむぞよ。)
(はい、ならば手柄てがらでござんす、さあ、貴僧あなたまゐりませうか。)
 背後うしろから親仁おやぢるやうにおもつたが、みちびかるゝまゝにかべについて、紫陽花あぢさいのあるはうではない。
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貴僧あなた、こゝからりるのでございます、すべりはいたしませぬがみちひどうございますからおしづかに、)といふ。」

其処そこからりるのだとおもはれる、まつほそくツて度外どはづれにせいたかいひよろ/\したおよそ五六けんうへまでは小枝こえだ一ツもないのがある。其中そのなかくゞつたがあふぐとこずえしろい、つきかたち此処ここでもべつにかはりはかつた、浮世うきよ何処どこにあるか十三夜じふさんやで。
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 仰向あふむいて、
きふひくくなりますからをつけて。こりや貴僧あなたには足駄あしだでは無理むりでございましたか不知しらよろしくば草履ざうりとお取交とりかまをしませう。)
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(あれ、嬢様ぢやうさまですつて、)とやゝ調子てうしたかめて、艶麗あでやかわらつた。
はい唯今たゞいまあの爺様ぢいさんが、やうまをしましたやうにぞんじますが、夫人おくさまでございますか。)
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 ずん/\ずん/\とみちりる、かたはらくさむらから、のさ/\とたのはひきで。
(あれ、気味きみわるいよ。)といふと婦人をんな背後うしろ高々たか/″\かがとげてむかふへんだ。
(お客様きやくさま被在ゐらつしやるではないかね、ひとあしになんかからまつて贅沢ぜいたくぢやあないか、お前達まへだちむしつてれば沢山たくさんだよ。
 貴僧あなたずん/\らつしやいましな、うもしはしません。恁云かういところですからあんなものまで人懐ひとなつかうございます、いやぢやないかね、お前達まへだち友達ともだちたやうで可愧はづかしい、あれけませんよ。)
 ひきはのさ/\とまたくさけてはいつた、婦人をんなはむかふへずいと。
(さあうへるんです、つちやはらかでへますから地面ぢめん歩行あるかれません。)
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貴僧あなた此方こちらへ。)
といつた、婦人をんなはもう一いきしたつてつてた。
 其処そこや一めんいはで、いはうへ谷川たにがはみづがかゝつて此処ここによどみをつくつてる、川巾かははばは一けんばかり、みづのぞめばおとまでにもないが、うつくしさはたまいてながしたやう、かへつてとほくのはうすさまじくいはくだけるひゞきがする。
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「(いゝ塩梅あんばい今日けふみづがふへてりますから、なかはいりませんでも此上このうへうございます。)とかうひたして爪先つまさきかゞめながら、ゆきのやうな素足すあしいしばんうへつてた。
 自分達じぶんだちつたがはは、かへつて此方こなたやますそみづせまつて、丁度ちやうど切穴きりあなかたちになつて、其処そこいしめたやうなあつらへ川上かはかみ下流かりうえぬが、むかふの岩山いはやま九十九折つゞらをれのやうなかたちながれは五しやく、三しやく、一けんばかりづゝ上流じやうりうはう段々だん/″\とほく、飛々とび/″\いはをかゞつたやうに隠見いんけんして、いづれも月光げつくわうびた、ぎんよろひ姿すがたのあたりちかいのはゆるぎいとさばくがごと真白まツしろひるがへつて。
結構けつこうながれでございますな。)
(はい、みづみなもとたきでございます、此山このやまたびするおかたみな大風おほかぜのやうなおと何処どこかできます。貴僧あなた此方こちら被入いらつしやるみちでお心着こゝろづきはなさいませんかい。)
 ればこそ山蛭やまびる大藪おほやぶはいらうといふすこまへからおとを。
あれはやしかぜあたるのではございませんので?)
いえたれでもまをしますもりから三ばかり傍道わきみちはいりましたところ大瀧おほたきがあるのでございます、れは/\日本一にツぽんいちださうですがみちけはしうござんすので、十にん一人ひとりまゐつたものはございません。たきれましたとまをしまして丁度ちやうどいまから十三ねんまへ可恐おそろしい洪水おほみづがございました、恁麼こんなたかいところまでかはそこになりましてね、ふもとむらやまいへのこらずながれてしまひました。かみほらもはじめは二十けんばかりあつたのでござんす、ながれも其時そのときから出来できました、御覧ごらんなさいましな、とほみないしながれたのでございますよ。)
 婦人をんな何時いつかもうこめしらてゝ、衣紋えもんみだれた、はしもほのゆる、ふくらかなむねらしてつた、はなたかくちむすんで恍惚うつとりうへいていたゞきあふいだが、つきはなほ半腹はんぷく累々るゐ/\たるいはほらすばかり。
いまでもうやつてますとこはいやうでございます。)とかゞんで二のうでところあらつてると。
(あれ、貴僧あなた那様そんな行儀ぎやうぎいことをして被在ゐらしつてはおめしれます、気味きみわるうございますよ、すつぱり裸体はだかになつておあらひなさいまし、わたしながしてげませう。)
いえ、)
いえぢやあござんせぬ、それ、それ、お法衣ころもそでひたるではありませんか、)といふと突然いきなり背後うしろからおびをかけて、身悶みもだえをしてちゞむのを、邪慳じやけんらしくすつぱりいでつた。
 わし師匠ししやうきびしかつたし、きやう身体からだぢや、はださへいだことはついぞおぼえぬ。しか婦人をんなまへ蝸牛まひ/\つぶろしろわたしたやうで、くちくさへ、して手足てあしのあがきも出来でき背中せなかまるくして、ひざはせて、ちゞかまると、婦人をんながした法衣ころもかたはらえだへふわりとかけた。
(おめしうやつてきませう、さあおせなを、あれさ、じつとして。お嬢様ぢやうさま有仰おつしやつてくださいましたおれいに、叔母をばさんが世話せわくのでござんす、おひとわるい、)といつて片袖かたそで前歯まへば引上ひきあげ、
 たまのやうな二のうでをあからさまに背中せなかせたが、じつて、
(まあ、)
うかいたしてをりますか。)
あざのやうになつて一めんに。)
(えゝ、それでございます、ひどひました。)
 おもしても悚然ぞツとするて。」

婦人をんなおどろいたかほをして、
(それではもりなかで、大変たいへんでございますこと。たびをするひとが、飛騨ひだやまではひるるといふのは彼処あすこでござんす。貴僧あなた抜道ぬけみち御存ごぞんじないから正面まともひるをおとほりなさいましたのでございますよ。お生命いのち冥加みやうがくらゐうまでもうしでも吸殺すひころすのでございますもの。しかうづくやうにおかゆいのでござんせうね。)
唯今たゞいまではいたみますばかりになりました。)
(それでは恁麼こんなものでこすりましてはやはらかいおはだ擦剥すりむけませう、)といふと綿わたのやうにさはつた。
 それから両方りようはうかたから、せな横腹よこばらいしき、さら/\みづをかけてはさすつてくれる。
 それがさ、ほねとほつてつめたいかといふとうではなかつた。あつ時分じぶんぢやが、理屈りくつをいふとうではあるまい、わしいたせいか、婦人をんな温気ぬくみか、あらつてくれるみづいゝ工合ぐあひみる、もツとたちみづやはらかぢやさうな。
 心地こゝちもいはれなさで、眠気ねむけがさしたでもあるまいが、うと/\する様子やうすで、きずいたみがなくなつてとほくなつてひたとくツついて婦人をんな身体からだで、わしはなびらのなかつゝまれたやうな工合ぐあひ
 山家やまがものには肖合にあはぬ、みやこにもまれ器量きりやうはいふにおよばぬが弱々よわ/\しさうな風采ふうぢや、せなかながうちにもはツ/\と内証ないしよう呼吸いきがはづむから、ことはらう/\とおもひながら、れい恍惚うつとりで、はつきながらあらはした。
 其上そのうへやまか、をんなにほひか、ほんのりとかほりがする、わし背後うしろでつくいきぢやらうとおもつた。」
 上人しやうにん一寸ちよいと句切くぎつて、
「いや、お前様まんさま手近てちかぢや、あかり掻立かきたつてもらひたい、くらいとしからぬはなしぢや、此処等ここらから一ばん野面のづらやツつけやう。」
 まくらならべた上人しやうにん姿すがたおぼろげにあかりくらくなつてた、早速さつそく燈心とうしんあかるくすると、上人しやうにん微笑ほゝゑみながらつゞけたのである。
「さあ、うやつて何時いつにやらうつゝともしに、う、不思議ふしぎな、結構けつこうかほりのするあツたかはななかへ、やはらかにつゝまれて、あしこしかたえりから次第しだいに、天窓あたままで一めんかぶつたから吃驚びツくりいし尻持しりもちいて、あしみづなか投出なげだしたからちたとおも途端とたんに、をんな脊後うしろから肩越かたこしむねをおさへたのでしつかりつかまつた。
貴僧あなた、おそば汗臭あせくさうはござんせぬかいとんあつがりなんでございますから、うやつてりましても恁麼こんなでございますよ。)といふむねにあるつたのを、あはてゝはなしてぼうのやうにつた。
失礼しつれい、)
(いゝえたれりはしませんよ。)とましてふ、婦人をんな何時いつにか衣服きものいで全身ぜんしん練絹ねりぎぬのやうにあらはしてたのぢや。
 なんおどろくまいことか。
恁麼こんなふとつてりますから、うお可愧はづかしいほどあついのでございます、今時いまどき毎日まいにちも三てはうやつてあせながします、みづがございませんかつたらういたしませう、貴僧あなた、お手拭てぬぐひ。)といつてしぼつたのを寄越よこした。
それでおみあしをおきなさいまし。)
 何時いつにか、からだはちやんといてあつた、おはなまをすも恐多おそれおほいか、はゝはゝはゝ。」

「なるほどところ衣服きものとき姿すがたとはちがふてしゝつきのゆたかな、ふつくりとしたはだへ
先刻さツき小屋こやはいつて世話せわをしましたので、ぬら/\したうま鼻息はないき体中からだぢゆうへかゝつて気味きみわるうござんす。丁度ちやうどうございますからわたしからだきませう、)
姉弟あねおとうと内端話うちはばなしをするやうな調子てうしをあげて黒髪くろかみをおさへながらわきした手拭てぬぐひでぐいとき、あとを両手りやうてしぼりながらつた姿すがたたゞこれゆきのやうなのをかゝ霊水れいすいきよめた、恁云かういをんなあせ薄紅うすくれなゐになつてながれやう。
 一寸ちよい/\とくしれて、
(まあ、をんながこんなお転婆てんばをいたしまして、かはおつこちたらうしませう、川下かはしもながれてましたら、村里むらさとものなんといつてませうね。)
白桃しろもゝはなだとおもひます。)と心着こゝろついてなんもなしにいふと、かほふた。
 するとうれしさうに莞爾にツこりして其時そのときだけは初々うゐ/\しう年紀としも七ツ八ツわかやぐばかり、処女きむすめはぢふくんでしたいた。
 わしそのまゝらしたが、の一だん婦人をんな姿すがたつきびて、うすけぶりつゝまれながらむかぎししぶき[#「さんずい+散」、U+6F75、36-13]れてくろい、なめらかな、おほきいし蒼味あをみびて透通すきとほつてうつるやうにえた。
 するとね、夜目よめ判然はつきりとはらなんだが地体ぢたいなんでも洞穴ほらあながあるとえる。ひら/\と、此方こちらからもひら/\と、ものゝとりほどはあらうといふ大蝙蝠おほかはほりさへぎつた。
(あれ、不可いけないよ、お客様きやくさまがあるぢやないかね。)
 不意ふいたれたやうにさけんで身悶みもだえをしたのは婦人をんな
うかなさいましたか、)うちやんと法衣ころもたから気丈夫きぢやうぶたづねる。
いゝえ、)
といつたばかりできまりわるさうに、くるりと後向うしろむきになつた。
 其時そのとき小犬こいぬほどな鼠色ねづみいろ小坊主こばうずが、ちよこ/\とやつてて、※(「口+阿」、第4水準2-4-5)あなやおもふと、がけからよこちゆうをひよいと、背後うしろから婦人をんな背中せなかへぴつたり。
 裸体はだか立姿たちすがたこしからえたやうになつて、だきついたものがある。
畜生ちくしやう客様きやくさまえないかい。)
こゑいかりびたが、
(お前達まへだち生意気なまいきだよ、)とはげしくいひさま、わきしたからのぞかうとしたくだん動物どうぶつ天窓あたま振返ふりかへりさまにくらはしたで。
 キツヽヽといふて奇声きせいはなつた、くだん小坊主こばうずそのまゝ後飛うしろとびにまたちゆうんで、いままで法衣ころもをかけていたえださきながつるさがつたとおもふと、くるりと釣瓶覆つるべがへしうへつて、それなりさら/\と木登きのぼりをしたのは、なんさるぢやあるまいか。
 えだからえだつたふとえて、見上みあげるやうにたかの、やがこずえまで、かさ/\がさり。
 まばらになかかしてつきやまはなれた、こずえのあたり。
 婦人をんなはものにねたやう、いま悪戯いたづら、いや、毎々まい/\ひき蝙蝠かはほりとおさるで三ぢや。
 悪戯いたづらいた機嫌きげんそこねたかたち、あまり子供こどもがはしやぎぎると、わか母様おふくろにはてあるぢや、
本当ほんたうおこす。
 といつた風情ふぜい面倒臭めんだうくささうに衣服きものたから、わしなんにはずにちいさくなつてだまつてひかへた。」

やさしいなかにつよみのある、気軽きがるえても何処どこにか落着おちつきのある、馴々なれ/\しくてをかやすからぬひんい、如何いかなることにもいざとなればおどろくにらぬといふこたへのあるといつたやうなふう婦人をんな嬌瞋きやうしんはつしては屹度きつといことはあるまい、いま婦人をんな邪慳じやけんにされてはからちたさる同然どうぜんぢやと、おつかなびつくりで、おづ/\ひかへてたが、いやあんずるよりうむやすい。
貴僧あなたさぞをかしかつたでござんせうね、)と自分じぶんでもおもしたやうにこゝろよ微笑ほゝゑみながら、
やうがないのでございますよ。)
 以前いぜんかはらず心安こゝろやすくなつた、おびめたので、
それではうちかへりませう。)と米磨桶こめとぎをけ小脇こわきにして、草履ざうりひつかけてがけのぼつた。
(おあぶのうござんすから、)
いえ、もう大分だいぶ勝手かつてわかつてります。)
 づツと心得こゝろえつもりぢやつたが、さてあがときるとおもひのほかうへまでは大層たいそうたかい。
 やがまたれい丸太まるたわたるのぢやが、前刻さつきもいつたとほりくさのなかに横倒よこだふれになつてる、木地きぢ丁度ちやうどうろこのやうでたとへにもくいふがまつうわばみるで。
 ことがけを、うへはうへ、いゝ塩梅あんばいうねつた様子やうすが、とんだものにつていなり、およくらゐ胴中どうなか長虫ながむしがとおもふと、かしらくさかくしてつきあかりに歴然あり/\とそれ。
 山路やまみちときおもすとわれながらあしすくむ。
 婦人をんな親切しんせつうしろ気遣きづかふてはけてくれる。
それをおわたりなさいますときしたてはなりません丁度ちやうど中途ちゆうと余程よつぽどたにふかいのでございますから、まふわるうござんす。)
(はい。)
 愚図々々ぐづ/\してはられぬから、我身わがみわらひつけて、つた。ひつかゝるやう、きざいれてあるのぢやから、さいたしかなら足駄あしだでも歩行あるかれる。
 それがさ、一けんぢやからたまらぬて、るとうぐら/\してやはらかにずる/\とひさうぢやから、わつといふと引跨ひんまたいでこしをどさり。
(あゝ、意気地いくぢはございませんねえ。足駄あしだでは無理むりでございませう、これとお穿へなさいまし、あれさ、ちやんといふことをくんですよ。)
 わしはその前刻さつきからなんとなくこの婦人をんな畏敬ゐけいねんしやうじてぜんあくか、みち命令めいれいされるやうに心得こゝろえたから、いはるゝままに草履ざうり穿いた。
 するとおきなさい、婦女をんな足駄あしだ穿きながらつてくれます。
 たちまかるくなつたやうにおぼえて、わけなくうしろしたがふて、ひよいと孤家ひとつや背戸せどはたた。
 出会頭であひがしらこゑけたものがある。
(やあ、大分だいぶ手間てまれるとおもつたに、御坊様おばうさまもとからだかへらつしやつたの、)
なにをいふんだね、小父様をぢさまうちばんうおしだ。)
(もう時分じぶんぢや、またわしあんまおそうなつてはみちこまるで、そろ/\あを引出ひきだして支度したくしてかうとおもふてよ。)
それはお待遠まちどうでござんした。)
なにつてさつしやい御亭主ごていしゆ無事ぶじぢや、いやなかなかわしには口説落くどきおとされなんだ、はゝゝゝはゝ。)と意味いみもないことを大笑たいせうして、親仁おやぢうまやかたへてく/\とつた。
 白痴ばかはおなじところなほかたちそんしてる、海月くらげにあたらねばけぬとえる。」

「ヒイヽン! しつ、どうどうどうと背戸せどまわひづめおとえんひゞいて親仁おやぢは一とううま門前もんぜん引出ひきだした。
 轡頭くつはづらつてちはだかり、
嬢様ぢやうさまそんなら此儘このまゝわしまゐりやする、はい、御坊様おばうさま沢山たくさん御馳走ごちさうしてげなされ。)
 婦人をんな炉縁ろぶち行燈あんどう引附ひきつけ、俯向うつむいてなべしたいぶしてたが振仰ふりあふぎ、てつ火箸ひばしつたひざいて、
御苦労ごくらうでござんす。)
(いんえ御懇ごねむごろにはおよびましねえ。しつ!、)と荒縄あらなはつなく。あを蘆毛あしげ裸馬はだかうまたくましいが、たてがみうすおすぢやわい。
 そのうまがさ、わしべつうまめづらしうもないが、白痴殿ばかどの背後うしろかしこまつて手持不沙汰てもちぶさたぢやからいまいてかうとするとき椽側えんがはへひらりとて、
そのうま何処どこへ。)
(おゝ、諏訪すはみづうみあたりまで馬市うまいちしやすのぢや、これから明朝あした御坊様おばうさま歩行あるかつしやる山路やまみちえてきやす。)
(もしそれつていまからおあそばすおつもりではないかい。)
 婦人をんなあはただしくさへぎつてこゑけた。
(いえ、勿体もツたいない、修行しゆぎやううま足休あしやすめをしませうなぞとはぞんじませぬ。)
なんでも人間にんげんつけられさうなうまぢやあござらぬ。御坊様おばうさま命拾いのちびろひをなされたのぢやで、大人おとなしうして嬢様ぢやうさまそでなかで、今夜こんやたすけてもらはつしやい。然様さやうならちよつくらつてまゐりますよ。)
(あい。)
畜生ちくしやう、)といつたがうまないわ。びく/\とうごめいてえるおほき鼻面はなツつら此方こちらけてしきり私等わしらはう様子やうす
(どう/\どう、畜生ちくしやうこれあだけたけものぢや、やい!)
 右左みぎひだりにしてつな引張ひつぱつたが、あしからをつけたごとくにぬつくとつててびくともせぬ。
 親仁おやぢおほい苛立いらだつて、たゝいたり、つたり、うま胴体どうたいについて二三ぐる/\とはつたがすこしもあるかぬ。かたでぶツつかるやうにして横腹よこばらたいをあてたときやうや前足まへあしげたばかりまたあし突張つツぱく。
嬢様ぢやうさま々々/\。)
親仁おやぢわめくと、婦人をんな一寸ちよいとつてしろつまさきをちよろちよろと真黒まツくろすゝけたふとはしらたてつて、うまとゞかぬほどに小隠こがくれた。
 其内そのうちこしはさんだ、煮染にしめたやうな、なへ/\の手拭てぬぐひいて克明こくめいきざんだひたひしはあせいて、親仁おやぢこれしといふ気組きぐみふたゝまへまはつたが、きうつて貧乏動びんぼうゆるぎもしないので、つな両手りやうてをかけてあしそろへて反返そりかへるやうにして、うむと総身さうみちかられた。途端とたんうぢやい。
 すさまじくいなゝいて前足まへあし両方りやうはう中空なかぞらひるがへしたから、ちひさ親仁おやぢ仰向あふむけにひツくりかへつた、づどんどう、月夜つきよ砂煙すなけぶりぱツ[#「火+發」、U+243CB、42-10]つ。
 白痴ばかにもこれ可笑をかしかつたらう、此時このときばかりぢや、真直まツすぐくびゑてあつくちびるをばくりとけた、大粒おほつぶ露出むきだして、ちゆうげてかぜあふるやうに、はらり/\。
世話せわけることねえ、)
 婦人をんなげるやうにいつて草履ざうりつツかけて土間どまへついとる。
嬢様ぢやうさま勘違かんちがひさつしやるな、これはお前様まへさまではないぞ、なんでもはじめから其処そこ御坊様おばうさまをつけたつけよ、畜生ちくしやう俗縁ぞくえんがあるだツぺいわさ。)
 俗縁ぞくえんおどろいたい。
 すると婦人をんなが、
貴僧あなたこゝへらつしやるみちだれにかおひなさりはしませんか。)」

「(はい、つぢ手前てまへ富山とやま反魂丹売はんごんたんうりひましたが、一あしさき矢張やツぱりこのみちはいりました。)
(あゝ、う、)と会心くわいしんゑみらして婦人をんな蘆毛あしげはうた、およたまらなく可笑をかしいといつたはしたない風采とりなりで。
 きはめてくみやすえたので、
(もしや此家こちらまゐりませなんだでございませうか。)
いゝえぞんじません。)といふときたちまをかすべからざるものになつたから、わしくちをつぐむと、婦人をんなは、さぢげてきぬちりはらふてうま前足まへあししたちいさな親仁おやぢ見向みむいて、
為様しやうがないねえ、)といひながら、かなぐるやうにして、細帯ほそおびきかけた、片端かたはしつちかうとするのを、掻取かいとつて一寸ちよいと猶予ためらふ。
(あゝ、あゝ、)とにごつたこゑして白痴あはうくだんのひよろりとした差向さしむけたので、婦人をんないたのをわたしてると、風呂敷ふろしきひろげたやうな、他愛たあいのない、ちからのない、ひざうへへわがねて宝物はうもつ守護しゆごするやうぢや。
 婦人をんな衣紋えもん抱合かきあはせ、ちゝしたでおさへながらしづかに土間どまうまわきへつゝとつた。
 わしたゞ呆気あつけられてると、爪立つまだてをして伸上のびあがり、をしなやかにそらざまにして、二三たてがみでたが。
 おほき鼻頭はなづら正面しやうめんにすつくりとつた。せいもすら/\ときふたかくなつたやうにえた、婦人をんなゑ、くちむすび、まゆひらいて恍惚うつとりとなつた有様ありさま愛嬌あいけう嬌態しなも、世話せわらしい打解うちとけたふうとみせて、しんか、かとおもはれる。
 其時そのときうらやまむかふのみね左右さいう前後ぜんごにすく/\とあるのが、一ツ一ツくちばしけ、かしらもたげて、の一らく別天地べツてんち親仁おやぢ下手したでひかへ、うまめんしてたゝずんだ月下げツか美女びぢよ姿すがた差覗さしのぞくがごとく、陰々いん/\として深山しんざんこもつてた。
 なまぬるいかぜのやうな気勢けはひがするとおもふと、ひだりかたから片膚かたはだいたが、みぎはづして、まへまはし、ふくらんだむねのあたりで単衣ひとへまろげてち、かすみまとはぬ姿すがたになつた。
 うませなはらかはゆるめてあせもしとゞにながれんばかり、突張つツぱつたあしもなよ/\として身震みぶるひをしたが、鼻面はなづらにつけて、一つかみ白泡しろあは吹出ふきだしたとおもふと前足まへあしらうとする。
 其時そのときあぎとしたをかけて、片手かたてつて単衣ひとへをふわりとげてうまおほふがいなや、
 うさぎをどつて、仰向あふむけざまにひるがへし、妖気えうきめて朦朧まうろうとしたつきあかりに、前足まへあしあひだはだはさまつたとおもふと、きぬはづして掻取かいとりながら下腹したばらくゞつてよこけてた。
 親仁おやぢ差心得さしこゝろえたものとえる、きツかけに手綱たづないたから、うまはすた/\と健脚けんきやく山路やまぢげた、しやん、しやんしやん、しやんしやん、しやんしやん、――眼界がんかいとほざかる。
 婦人をんな衣服きものひツかけて椽側えんがははいつてて、突然いきなりおびらうとすると、白痴ばかしさうにおさへてはなさず、げて。婦人をんなむねおさへやうとした。
 邪慳じやけんはら退けて、きツにらむでせると、そのまゝがつくりとかうべれた、すべての光景くわうけい行燈あんどうかすかにまぼろしのやうにえたが、にくべたしばがひら/\と炎先ほさきてたので、婦人をんなはしつてはいる。そらつきのうらをくとおもふあたりはるか馬子唄まごうたきこえたて。)」[#「)」」はママ]

「さて、それから御飯ごはんときぢや、ぜんには山家やまがかうもの生姜はじかみけたのと、わかめをでたの、塩漬しほづけらぬきのこ味噌汁みそじる、いやなか/\人参にんじん干瓢かんぺうどころではござらぬ。
 品物しなものわびしいが、なか/\の御手料理おてれうりえてはるし冥加みやうが至極しごくなお給仕きふじぼんひざかまへて其上そのうへひぢをついて、ほゝさゝえながら、うれしさうにたわ。
 椽側えんがは白痴あはうたれ取合とりあはぬ徒然つれ/″\へられなくなつたものか、ぐた/\と膝行出いざりだして、婦人をんなそば便々べん/\たるはらつてたが、くづれたやうに胡座あぐらして、しきりわしぜんながめて、ゆびさしをした。
(うゝ/\、うゝ/\。)
なんでございますね、あとでおあがんなさい、お客様きやくさまぢやあゝりませんか。)
 白痴あはうなさけないかほをしてくちゆがめながらかぶりつた。
いや? 仕様しやうがありませんね、それぢや御一所ごいつしよしあがれ。貴僧あなた御免ごめんかうむりますよ。)
 わしおもはずはしいて、
(さあうぞおかまひなく、とん御雑作ござふさを、いたゞきます。)
いえなん貴僧あなた。おまいさん後程のちほどわたし一所いつしよにおべなさればいゝのに。こまつたひとでございますよ。)とそらさぬ愛想あいさう手早てばや同一おなじやうなぜんこしらえてならべてした。
 めしのつけやうも効々かひ/″\しい女房にようばうぶり、しかなんとなく奥床おくゆかしい、上品じやうひんな、高家かうけふうがある。
 白痴あはうはどんよりしたをあげてぜんうへめてたが、
あれを、あゝ、あれあれ。)といつてきよろ/\と四辺あたり※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはす。
 婦人をんなぢつみまもつて、
(まあ、いゝぢやないか。そんなものは何時いつでもたべられます、今夜こんやはお客様きやくさまがありますよ。)
(うむ、いや、いや。)と肩腹かたはらゆすつたが、べそをいて泣出なきだしさう。
 婦人をんなこうてたらしい、かたはらのものゝどくさ。
嬢様ぢやうさまなにぞんじませんが、おつしやるとほりになすつたがいではござりませんか。わたくしにお気扱きあつかひかへつて心苦こゝろぐるしうござります。)と慇懃いんぎんにいふた。
 婦人をんなまた一度いちど
いやかい、これではわるいのかい。)
 白痴あはう泣出なきだしさうにすると、うらめしげに流盻ながしめながら、こはれ/\になつた戸棚とだななかから、はちはいつたのを取出とりだして手早てばや白痴あはうぜんにつけた。
(はい、)とわざとらしく、すねたやうにいつて笑顔造えがほづくり
 はてさて迷惑めいわくな、こりやまい黄色蛇あおだいしやう旨煮うまにか、腹籠はらごもりさる蒸焼むしやきか、災難さいなんかるうても、赤蛙あかゞへる干物ひもの大口おほぐちにしやぶるであらうと、そツると、片手かたてわんちながら掴出つかみだしたのは老沢庵ひねたくあん
 それもさ、きざんだのではないで、一本いつぽんぎりにしたらうといふ握太にぎりぶとなのを横啣よこくはえにしてやらかすのぢや。
 婦人をんなはよく/\あしらひかねたか、ぬすむやうにわしさつかほあからめて初心しよしんらしい、然様そんたちではあるまいに、はづかしげにひざなる手拭てぬぐひはしくちにあてた。
 なるほど少年せうねんはこれであらう、身体からだ沢庵色たくあんいろにふとつてる。やがてわけもなく餌食えじきたひらげて、ともいはず、ふツ/\と太儀たいぎさうに呼吸いきむかふへくわさ。
なんでございますか、わたしむねつかへましたやうで、些少ちつとしくございませんから、また後程のちほどいたゞきましやう、)と婦人をんな自分じぶんはしらずにふたツのぜんかたつけてな。」

頃刻しばらく悄乎しよんぼりしてたつけ。
貴僧あなたさぞ疲労つかれぐにおやすませまをしませうか。)
難有ありがたぞんじます、ちツともねむくはござりません、前刻さツきからだあらひましたので草臥くたびれもすつかりなほりました。)
ながれは其麼どんなやまひにでもよくきます、わたし苦労くらうをいたしましてほねかはばかりにからだれましても半日はんにち彼処あすこにつかつてりますと、水々みづ/\しくなるのでございますよ。もツとのこれからふゆになりましてやま宛然まるでこほつてしまひ、かはがけ不残のこらずゆきになりましても、貴僧あなた行水ぎやうずゐあそばした彼処あすこばかりはみづかくれません、うしていきりがちます。
 鉄砲疵てツぱうきづのございますさるだの、貴僧あなたあしつた五位鷺ごゐさぎ種々いろ/\ものゆあみにまゐりますから足痕あしあとがけみち出来できますくらゐきツそれいたのでございませう。
 那様そんなにございませんければうやつておはなしをなすつてくださいまし、さびしくつてなりません、本当ほんとにお可愧はづかしうございますが恁麼こんなやまなか引籠ひツこもつてをりますと、ものをいふこともわすれましたやうで、心細こゝろぼそいのでございますよ。
 貴僧あなた、それでもおねむければ御遠慮ごゑんりよなさいますなえ。べつにお寝室ねままをしてもございませんが其換そのかはは一ツもませんよ、町方まちかたではね、かみほらものは、さととまりにとき蚊帳かやつてかさうとすると、うしてはいるのかわからないので、階子はしごせいとわめいたとまをしてなぶるのでございます。
 沢山たくさん朝寝あさねあそばしてもかねきこえず、とりきません、いぬだつてりませんからお心休こゝろやすうござんせう。
 此人このひとうまちると此山このやまそだつたので、なんにもぞんじませんかはりひとちツともお心置こゝろおきはないのでござんす。
 それでも風俗ふうのかはつたかた被入いらつしやいますと、大事だいじにしてお辞義じぎをすることだけはつてゞございますが、御挨拶ごあいさつをいたしませんね。此頃このごろからだがだるいとえておなまけさんになんなすつたよ、いゝえまるおろかなのではございません、なんでもちやんと心得こゝろえります。
 さあ、御坊様ごぼうさま御挨拶ごあいさつをなすつてください、まあ、お辞義じきをおわすれかい。)としたしげにせて、かほ差覗さしのぞいて、いそ/\していふと、白痴ばかはふら/\と両手りやうてをついて、ぜんまいがれたやうにがつくり一れい
(はい、)といつてわしなにむねせまつてつむりげた。
 そのまゝ俯向うつむいた拍子ひやうしすぢけたらしい、よこながれやうとするのを、婦人をんなやさしうたすおこして、
(おゝ、よくたのねえ、)
 天晴あツぱれといひたさうな顔色かほつきで、
貴僧あなたまをせばなんでも出来できませうとおもひますけれども、此人このひとやまひばかりはお医者いしやでもみづでもなほりませなんだ、両足りやうあしちませんのでございますから、なにおぼえさしましてもやくにはちません。それ御覧ごらんなさいまし、お辞義じぎひとツいたしますさい、あのとほり大儀たいぎらしい。
 ものをおしへますとおぼえますのにさぞほねれてせつなうござんせう、からだくるしませるだけだとぞんじてなんにせないできますから、段々だん/″\うごかすはたらきも、ものをいふこともわすれました。それでもの、うたうたへますわ。二ツ三ツいまでもつてりますよ。さあ御客様おきやくさまに一ツおかせなさいましなね。)
 白痴ばか婦人をんなて、またわしかほをぢろ/\て、人見知ひとみしりをするといつたかたちくびつた。」

左右とかくして、婦人をんなが、はげますやうに、すかすやうにしてすゝめると、白痴ばかくびげてへそもてあそびながらうたつた。
木曾きそ御嶽山おんたけさんなつでもさむい、
      あはせりたや足袋たびへて。
(よくつてりませう、)と婦人をんな聞澄きゝすまして莞爾にツこりする。
 不思議ふしぎや、うたつたとき白痴ばかこゑこのはなしをおきなさるお前様まへさまもとよりぢやが、わし推量すゐりやうしたとは月鼈雲泥げつべつうんでい天地てんち相違さうゐ節廻ふしまはし、あげさげ、呼吸こきふつゞところから、だいきよらかなすゞしいこゑといふものは、到底たうてい少年せうねん咽喉のどからたのではない。さきこの白痴ばかが、冥途めいどからくだのふくれたはらかよはして寄越よこすほどにきこえましたよ。
 わしかしこまつててるとひざをついたツきりうしてもかほげて其処そこ男女ふたりることが出来できぬ、なにむねがキヤキヤして、はら/\と落涙らくるゐした。
 婦人をんな目早めばやつけたさうで、
(おや、貴僧あなたうかなさいましたか。)
 きふにものもいはれなんだが漸々やう/\
はいなあにかはつたことでもござりませぬ、わし嬢様ぢやうさまのことはべつにおたづまをしませんから、貴女あなたなんにもふてはくださりますな。)
仔細しさいかたらずたゞ思入おもひいつてふたが、じつ以前いぜんから様子やうすでもれる、金釵玉簪きんさぎよくさんをかざし、蝶衣てふいまとふて、珠履しゆり穿うがたば、まさ驪山りさんつて陛下へいか相抱あひいだくべき豊肥妖艶ほうひえうえんひとそのをとこたいする取廻とりまはしのやさしさ、へだてなさ、親切しんせつさに、人事ひとごとながらうれしくて、おもはずなみだながれたのぢや。
 するとひとはらなかみかねるやうな婦人をんなではない、たちま様子やうすさとつたかして、
貴僧あなた真個ほんとうにおやさしい。)といつて、はれぬいろたゝへて、ぢつとた。わしかうべれた、むかふでも差俯向さしうつむく。
 いや、行燈あんどうまた薄暗うすくらくなつてまゐつたやうぢやが、おそらくこりや白痴ばか所為せゐぢやて。
 其時そのときよ。
 しらけて、しばらく言葉ことば途絶とだえたうちに所在しよざいがないので、うたうたひの太夫たいふ退屈たいくつをしたとえてかほまへ行燈あんどう吸込すひこむやうな大欠伸おほあくびをしたから。
 身動みうごきをしてな、
ようちやあ、ようちやあ。)とよた/\からだ取扱もちあつかふわい。
ねむうなつたのかい、もうおか、)といつたがすはなほつてがついたやうに四辺あたり※(「目+旬」、第3水準1-88-80)みまはした。戸外おもてあたか真昼まひるのやう、つきひかりひろげたうちへはら/\とさして、紫陽花あぢさいいろ鮮麗あざやかあをかつた。
貴僧あなたももうおやすみなさいますか。)
(はい、御厄介ごやくかいにあいなりまする。)
(まあ、いま宿やどかします、おゆつくりなさいましな。戸外おもてへはちかうござんすが、なつひろはう結句けツくうございませう、わたくしどもは納戸なんどせりますから、貴僧あなた此処こゝへおひろくおくつろぎがうござんす、一寸ちよいとつて。)といひかけてつツち、つか/\と足早あしばや土間どまりた、あまのこなしが活溌くわツぱつであつたので、拍手ひやうし黒髪くろかみさきいたまゝうなぢくづれた。
 びんをおさへて、につかまつて、戸外おもてかしたが、独言ひとりごとをした。
(おや/\さつきのさわぎでくしおとしたさうな。)
 いかさまうまはらくゞつたときぢや。」

 此折このをりからした廊下らうか跫音あしおとがして、しづか大跨おほまた歩行あるいたのがせきとしてるからく。
 やが小用こようした様子やうす雨戸あまどをばたりとけるのがきこえた、手水鉢てうづばち干杓ひしやくひゞき
「おゝ、つもつた、つもつた。」とつぶやいたのは、旅籠屋はたごや亭主ていしゆこゑである。
「ほゝう、若狭わかさ商人あきんど何処どこへかとまつたとえる、なに愉快おもしろゆめでもるかな。」
うぞ其後そのあとを、それから、」とには他事たじをいふうちがもどかしく、にべもなくつゞきうながした。
「さて、よるけました、」といつて旅僧たびそうまた語出かたりだした。
大抵たいてい推量すゐりやうもなさるであらうが、いかに草臥くたびれてつても申上まをしあげたやうな深山しんざん孤家ひとつやで、ねむられるものではないそれすこになつて、はじめのうちわしかさなかつたこともあるし、えて、まじ/\してたが、有繋さすがに、つかれひどいから、しんすこ茫乎ぼんやりしてた、なにしろしらむのが待遠まちどほでならぬ。
 其処そこではじめのうちわれともなくかねきこえるのを心頼こゝろたのみにして、いまるか、もうるか、はて時刻じこくはたつぷりつたものをと、あやしんだが、やがていて、恁云かういところぢや山寺やまでらどころではないとおもふと、にはか心細こゝろぼそくなつた。
 其時そのときや、よるがものにたとへるとたにそこぢや、白痴ばかがだらしのない寝息ねいききこえなくなると、たちまそとにものゝ気勢けはひがしてた。
 けもの足音あしおとのやうで、までとほくのはうから歩行あるいてたのではないやう、さるも、ひきところと、気休きやすめにかんがへたが、なかなかうして。
 しばらくするといま其奴そやつ正面しやうめんちかづいたなとおもつたのが、ひつじ啼声なきごゑになる。
 わしはうまくらにしてたのぢやから、つまり枕元まくらもと戸外おもてぢやな。しばらくすると、右手めて紫陽花あぢさいいてはなしたあたりで、とりばたきするおと
 むさゝびからぬがきツ/\といつてむねへ、やがおよ小山こやまほどあらうと気取けどられるのがむねすほどにちかづいてて、うしいた。とほ彼方かなたからひた/\と小刻こきざみけてるのは、二本足ほんあし草鞋わらぢ穿いたけものおもはれた、いやさまざまにむら/\といへのぐるりを取巻とりまいたやうで、二十三十のものゝ鼻息はないき羽音はおとなかにはさゝやいてるのがある。あたかなによ、それ畜生道ちくしやうだう地獄ぢごくを、月夜つきようつしたやうなあやし姿すがた板戸いたど魑魅魍魎ちみまうりやうといふのであらうか、ざわ/\とそよ気色けしきだつた。
 いきこらすと、納戸なんどで、
(うむ、)といつてなが呼吸いきいて一こゑうなされたのは婦人をんなぢや。
今夜こんやはお客様きやくさまがあるよ。)とさけんだ。
(お客様きやくさまがあるぢやないか。)
しばらつて二度目どめのは判然はつきりすゞしいこゑ
 きはめて低声こゞゑで、
(お客様きやくさまがあるよ。)といつて寝返ねがへおとがした、さら寝返ねがへおとがした。
 そとのものゝ気勢けはひ動揺どよめきつくるがごとく、ぐら/\といへゆらめいた。
 わし陀羅尼だらにじゆした。
若不順我咒  悩乱説法者  頭破作七分
如阿梨樹枝  如殺父母罪  亦如厭油殃
斗秤欺誰人  調達僧罪犯  犯此法師者
当獲如是殃
と一心不乱しんふらんさツいてかぜみんなみいたが、たちましづまかへつた、夫婦ふうふねやもひツそりした。」

翌日よくじつまた正午頃しやうごゞろさとちかく、たきのあるところで、昨日きのふうまうりつた親仁おやぢかへりふた。
 丁度ちやうどわし修行しゆぎやうるのをして孤家ひとつや引返ひきかへして、婦人をんなと一しよ生涯しやうがいおくらうとおもつてところで。
 じつまをすと此処こゝ途中とちうでもことばかりかんがへる、へびはしさいはひになし、ひるはやしもなかつたが、みち難渋なんじふなにつけてもあせながれて心持こゝろもちわるいにつけても、今更いまさら行脚あんぎやつまらない。むらさき袈裟けさをかけて、七堂伽藍だうがらんんだところ何程なにほどのこともあるまい、活仏様いきほとけさまぢやといふてわあ/\おがまれゝばひといきれでむねわるくなるばかりか。
 とおはなしもいかゞぢやから、前刻さツきはことをけていひませなんだが、昨夜ゆふべ白痴ばかかしつけると、婦人をんなまたのあるところへやつてて、なか苦労くらうをしてやうより、なつすゞしく、ふゆあたゝかい、ながれと一しよわたしそばにおいでなさいといふてくれるし、まだ/\そればかりでは自身じぶんしたやうぢやけれども、こゝに我身わがみ我身わがみ言訳いひわけ出来できるといふのは、しきり婦人をんな不便ふびんでならぬ、深山しんざん孤家ひとつや白痴ばかとぎをして言葉ことばつうぜず、るにしたがふてものをいふことさへわすれるやうながするといふはなんたること
 こと今朝けさ東雲しのゝめたもと振切ふりきつてわかれやうとすると、お名残なごりしや、かやうなところうやつて老朽おひくちるの、ふたゝびおにはかゝられまい、いさゝ小川をがはみづとなりとも、何処どこぞで白桃しろもゝはなながれるのを御覧ごらんになつたら、わたしからだ谷川たにがはしづんで、ちぎれ/\になつたことゝおもへ、といつて、しほれながら、なほ親切しんせつに、みちたゞ谷川たにがはながれ沿ふてきさへすれば、れほどとほくてもさとらるゝ、したちかみづおどつて、たきになつてつるのをたら、人家じんかちかづいたとこゝろやすんずるやうに、とをつけて孤家ひとつやえなくなつたあたりゆびさしをしてくれた。
 その取交とりかはすにはおよばずとも、そばにつきつて、朝夕あさゆふ話対手はなしあひてきのこしる御膳ごぜんべたり、わしほだいて、婦人をんななべをかけて、わしひろつて、婦人をんなかはいて、それから障子しやうじうちそとで、はなしをしたり、わらつたり、それから谷川たにがは二人ふたりして、其時そのとき婦人をんな裸体はだかになつて、わし背中せなか呼吸いきかよつて、微妙びめうかほりはなびらにあたゝかつゝまれたら、そのまゝいのちせてもい!
 たきみづるにつけてもがたいのは其事そのことであつた、いや、冷汗ひやあせながれますて。
 其上そのうへ、もうがたるみ、すぢゆるんで、歩行あるくのにあきよろこばねばならぬ人家じんかちかづいたのも、たかがよくされてくちくさばあさんに渋茶しぶちや振舞ふるまはれるのがせきやまと、さとるのもいやになつたから、いしうへひざけた、丁度ちやうどしたにあるたきぢやつた、これがさ、あとくと女夫瀧めうとたきふさうで。
 真中まんなか鰐鮫わにざめくちをあいたやうなさきのとがつたくろ大巌おほいは突出つきでると、うへからながれてさツはや谷川たにがはが、これあたつてふたつわかれて、およそ四ぢやうばかりのたきになつてどツちて、また暗碧あんぺき白布しろぬのつてるやうにさとるのぢやが、そのいはにせかれたはうは六しやくばかり、これかはの一はゞいていとみだれず、一ぱうはゞせまい、三じやくぐらゐ、このしたには雑多ざツたいはならぶとえて、ちら/\ちら/\とたますだれ百千ひやくせんくだいたやう、くだん鰐鮫わにざめいはに、すれつ、もつれつ。」

たゞすぢでもいはして男瀧をたきすがりつかうとするかたち、それでもなかへだてられてすゑまではしづくかよはぬので、まれ、られてつぶさに辛苦しんくめるといふ風情ふぜいはう姿すがたやつかたちほそつて、ながるゝおとさへ別様べつやうに、くか、うらむかともおもはれるが、あはれにもやさしい女瀧めだきぢや。
 男瀧をだきはうはうらはらで、いしくだき、つらぬいきほひ堂々だう/\たる有様ありさまぢや、これが二つくだんいはあたつて左右さいうわかれて二すぢとなつてちるのがみて、女瀧めだきこゝろくだ姿すがたは、をとこひざとりついて美女びぢよいてふるはすやうで、きしてさへからだがわなゝく、にくをどる。して水上みなかみは、昨日きのふ孤家ひとつや婦人をんなみづびたところおもふと、せい女瀧めだきなかのやうな婦人をんな姿すがた歴々あり/\、といてると巻込まきこまれて、しづんだとおもふとまたいて、千筋ちすぢみだるゝみづとゝもにはだへくだけて、花片はなびら散込ちりこむやうな。あなやとおもふとさらに、もとのかほも、むねも、ちゝも、手足てあしまツた姿すがたとなつて、いつしづみつ、ぱツときざまれ、あツとまたあらはれる。わしたまらず真逆まツさかさまたきなか飛込とびこんで、女瀧めたきしかいたとまでおもつた。がつくと男瀧をたきはうはどう/\と地響ぢひゞきたせて、山彦やまびこんでとゞろいてながれてる、あゝちからもつ何故なぜすくはぬ、まゝよ!
 たきげてなうより、もと孤家ひとつや引返ひツかへせ。けがらはしいよくのあればこそうなつたうへ※(「足へん+厨」、第3水準1-92-39)ちゆうちよをするわ、そのかほこゑけば、渠等かれら夫婦ふうふ同衾ひとつねするのにまくらならべて差支さしつかへぬ、それでもあせになつて修行しゆぎやうをして、坊主ばうずてるよりは余程よほどましぢやと、思切おもひきつてもどらうとして、いしはなれておこした、背後うしろから一ツ背中せなかたゝいて、
(やあ、御坊様ごばうさま、)といはれたから、ときときなり、こゝろこゝろ後暗うしろぐらいので喫驚びつくりしてると、閻王えんわう使つかひではない、これが親仁おやぢ
 うまつたか、身軽みがるになつて、ちひさなつゝみかたにかけて、に一こひの、うろこ金色こんじきなる、溌溂はつらつとしてうごきさうな、あたらしいそのたけじやくばかりなのを、あぎとわらとほして、ぶらりとげてた。なんにもはずきふにものもいはれないでみまもると、親仁おやぢはじつとかほたよ。うしてにや/\と、またとほり笑方わらひかたではないて、薄気味うすきみわる北叟笑ほくそゑみをして、
なにをしてござる、御修行ごしゆぎやうが、このくらゐあつさで、きしやすんでさつしやるぶんではあんめえ、一生懸命しやうけんめい歩行あるかつしやりや、昨夜ゆふべとまりから此処こゝまではたつた五、もうさとつて地蔵様ぢざうさまをがまつしやる時刻じこくぢや。
 なんぢやの、おら嬢様ぢやうさまおもひかゝつて煩悩ぼんなうきたのぢやの。うんにや、かくさつしやるな、おらがあかくツても、しろいかくろいかはちやんとえる。
 地体ぢたいなみのものならば、嬢様ぢやうさまさはつてみづ振舞ふるまはれて、いままで人間にんげんやうはずはない。
 うしうまか、ひきがへるか、さるか、蝙蝠かはほりか、なににせいんだかねたかせねばならぬ。谷川たにがはからあがつてさしつたとき手足てあしかほひとぢやから、おらあ魂消たまげくらゐ、お前様まへさまそれでも感心かんしんこゝろざし堅固けんごぢやからたすかつたやうなものよ。
 なんと、おらがいてつたうまさしつたらう、それで、孤家ひとつやさつしやる山路やまみち富山とやま反魂丹売はんごんたんうりはしつたといふではないか、それさつせい、助倍すけべい野郎やらうとううまになつて、それ馬市うまいちおあしになつて、おあしが、そうらこひけた。大好物だいかうぶつ晩飯ばんめしさいになさる、お嬢様ぢやうさまを一たいなんじやとおもはつしやるの。)」
 わたしおもはずさへぎつた。
「お上人しやうにん?」

 上人しやうにんうなづきながらつぶやいて、
「いや、かつしやい、孤家ひとつや婦人をんなといふは、もとな、これもわしにはなにかのえんがあつた、あのおそろし魔処ましよはいらうといふ岐道そばみちみづあふれた往来わうらいで、百姓ひやくしやうをしへて、彼処あすこ以前いぜん医者いしやいへであつたといふたが、いへ嬢様ぢやうさまぢや。
 なんでも飛騨ひだゑん当時たうじかはつたこともめづらしいこともなかつたが、たゞ取出とりいでゝいふ不思議ふしぎは、医者いしやむすめで、うまれるとたまのやう。
 母親殿おふくろどの頬板ほゝツぺたのふくれた、めじりさがつた、はなひくい、ぞくにさしぢゝといふあの毒々どく/″\しい左右さいうむねふさふくんで、うしてあれほどうつくしくそだつたものだらうといふ。
 むかしから物語ものがたりほんにもある、むね白羽しらは征矢そやつか、もなければ狩倉かりくらとき貴人あてびとのおまつて御殿ごてん召出めしだされるのは、那麼あんなのぢやとうはさたかかつた。
 父親てゝおや医者いしやといふのは、頬骨ほゝぼねのとがつたひげへた、見得坊みえばう傲慢がうまん其癖そのくせでもぢや、勿論もちろん田舎ゐなかには苅入かりいれときよくいねはいると、それからわづらう、脂目やにめ赤目あかめ流行目はやりめおほいから、先生せんせい眼病がんびやうはうすこつたが、内科ないくわてはからつぺた。外科げくわなんとにやあ、鬢付びんつけみづらしてひやりときずにつけるくらゐところ
 いわし天窓あたま信心しん/″\から、それでも命数めいすうきぬやから本復ほんぷくするから、ほか竹庵ちくあん養仙やうせん木斎もくさいない土地とち相応さうおう繁昌はんじやうした。
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 さあ、神様かみさまさはれば鉄砲玉てツぱうだまでもとほるまいと、蜘蛛くものやうに評判ひやうばんが八ぱうへ。
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 と親仁おやぢ其時そのとき物語ものがたつて、御坊ごばうは、孤家ひとつや周囲ぐるりで、さるたらう、ひきたらう、蝙蝠かうもりたであらう、うさぎへびみんな嬢様ぢやうさま谷川たにがはみづびせられて、畜生ちくしやうにされたるやから
 あはれ其時そのとき婦人をんなが、ひきまつはられたのも、さるかれたのも、蝙蝠かうもりはれたのも、夜中よなか※魅魍魎ちみまうりやう[#「魅」の「未」に代えて「知」、U+29CE6、61-5]おそはれたのも、思出おもひだして、わし犇々ひし/\むねあたつた、
 なほ親仁おやぢのいふやう。
 いま白痴ばかも、くだん評判ひやうばんたかかつたころ医者いしやうち病人びやうにん其頃そのころ子供こども朴訥ぼくとつ父親てゝおや附添つきそひ、かみながい、兄貴あにきがおぶつてやまからた。あし難渋なんじう腫物しゆもつがあつた、療治れうぢたのんだので。
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 それでもなか/\捗取はかどらず、七日なぬかつたので、あとのこつて附添つきそつて兄者人あにじやひと丁度ちやうど苅入かりいれで、此節このせつが八ほんしいほどいそがしい、お天気てんき模様もやうあめのやう、長雨ながあめにでもなりますと、山畠やまはたけにかけがへのないいねくさつては、餓死うゑじにでござりまする、総領さうりやうわしは一ばん働手はたらきて、かうしてはられませぬから、とことわりをいつて、やれくでねえぞ、としんめり子供こどもにいひかせて病人びやうにんいてつた。
 あとには子供こども一人ひとり其時そのとき戸長様こちやうさま帳面前ちやうめんまへ年紀とし六ツ、おや六十で二十はたちなら徴兵ちようへいはおこぼしとなに間違まちがへたかとゞけが五ねんおそうして本当ほんたうは十一、それでも奥山おくやまそだつたからむら言葉ことばろくにはらぬが、怜悧りこううまれ聞分きゝわけがあるから、三ツづつあひかはらず鶏卵たまごはせられるつゆも、いま療治れうぢとき不残のこらずになつてることゝ推量すゐりやうして、べそをいても、兄者あにじやくなといはしつたと、こらへてこゝろうち
 むすめなさけうちと一しよぜんならべて食事しよくじをさせると、沢庵たくわんきれをくわへてすみはう引込ひきこむいぢらしさ。
 いよい明日あす手術しゆじゆつといふは、みんな寝静ねしづまつてから、しく/\のやうにいてるのを、手水てうづきたむすめつけてあまりの不便ふびんさにいててやつた。
 さて療治れうぢとなるとれいごとむすめ背後うしろからいてたから、脂汗あぶらあせながしながられものがはいるのを、感心かんしんにじつとこらへたのに、何処どこ切違きりちがへたか、それからながしたまらず、る/\うちいろかはつて、あぶなくなつた。
 医者いしやあをくなつて、さわいだが、かみたすけかやうや生命いのち取留とりとまり、三ばかりでとまつたが、到頭たうとうこしけた、もとより不具かたわ
 これ引摺ひきずつて、あしながらなさけなさうなかほをする、蟋蟀きり/″\す※(「怨」の「心」に代えて「手」、第4水準2-13-4)がれたあしくちくはへてくのをるやう、もあてられたものではない。
 しまひには泣出なきだすと、外聞ぐわいぶんもあり、少焦すこぢれで、医者いしや可恐おそろしかほをしてにらみつけると、あはれがつてきあげるむすめむねかほをかくしてすがさまに、年来ねんらい随分ずゐぶんひとにかけた医者いしやつて腕組うでくみをして、はツといふ溜息ためいき
 やが父親てゝおやむかひにござつた、因果いんぐわあきらめて、べつ不足ふそくはいはなんだが、何分なにぶん小児こどもむすめはなれようといはぬので、医者いしやさひはひ言訳いひわけかた/″\親兄おやあにこゝろもなだめるため、其処そこむすめ小児こどもうちまでおくらせることにした。
 おくつてたのが孤家ひとつやで。
 其時分そのじぶんはまだ一ヶのさういへ二十けんあつたのが、むすめて一にち、つひほだされて逗留たうりうした五日目かめから大雨おほあめ降出ふりだした。たきくつがへすやうで小留をやみもなくうちながらみんな蓑笠みのかさしのいだくらゐ茅葺かやぶきつくろひをすることは扨置さておいて、おもてもあけられず、うちからうち隣同士となりどうし、おう/\とこゑをかけつてわづか人種ひとだねきぬのをるばかり、八を八百ねんあめなかこもると九日目こゝのかめ真夜中まよなかから大風たいふう吹出ふきだしてそのかぜいきほひこゝがたうげといふところたちま泥海どろうみ
 洪水こうずゐ生残いきのこつたのは、不思議ふしぎにもむすめ小児こどもそれ其時そのときむらからともをした親仁おやぢばかり。
 同一おなしみづ医者いしやうち死絶しにたえた、さればかやうな美女びぢよ片田舎かたゐなかうまれたのもくにがはり、だいがはりの前兆ぜんちやうであらうと、土地とちのものは言伝いひつたへた。
 嬢様ぢやうさまかへるにいへなくたゞ一人ひとりとなつて小児こどもと一しよやまとゞまつたのは御坊ごばうらるゝとほりまた白痴ばかにつきそつて行届ゆきとゞいた世話せわらるゝとほり洪水こうずゐときから十三ねん、いまになるまで一にちもかはりはない。
 といひてゝ親仁おやぢまた気味きみわる北叟笑ほくそゑみ
うへはなしたら、嬢様ぢやうさま不便ふびんがつて、まきつたりみづ手扶てだすけでもしてやりたいと、なさけかゝらう。本来ほんらい好心すきごゝろ可加減いゝかげん慈悲じひぢやとか、なさけぢやとかいふにつけて、一やまかへりたかんべい、はてかつしやい。白痴殿ばかどの女房にようぼうになつて、なかへはもやらぬかはりにやあ、嬢様ぢやうさま如意自在によゐじざいをとこはよりつて、けば、いきをかけてけものにするわ、こと洪水こうずゐ以来いらいやま穿うがつたこのながれ天道様てんたうさまがおさづけの、をとこいざなあやしのみづ生命いのちられぬものはないのぢや。
 天狗道てんぐだうにも三ねつ苦悩くなうかみみだれ、いろあをざめ、むねせて手足てあしほそれば、谷川たにかはびるともととほりそれこそみづるばかり、まねけばきたうをる、にらめばうつくしいつる、そでかざせばあめふるなり、まゆひらけばかぜくぞよ。
 しかもうまれつきの色好いろごのみ、ことまたわかいのがすきぢやで、なに御坊ごぼうにいうたであらうが、それまこととしたところで、やがかれると出来できる、みゝうごく、あしがのびる、たちまかたちへんずるばかりぢや。
 いや、やがこひ料理れうりして、大胡座おほあぐらとき魔神ましん姿すがたせたいな。
 妄念まうねんおこさずにはや此処こゝ退かつしやい、たすけられたが不思議ふしぎくらゐ嬢様ぢやうさまべツしてのおなさけぢやわ、生命冥加いのちみやうがな、おわかいの、きツ修行しゆぎやうをさつしやりませ。)とまた一ツ背中せなかたゝいた、親仁おやぢこひげたまゝ見向みむきもしないで、山路やまぢうへかた
 見送みおくるとちいさくなつて、一大山おほやま背後うしろへかくれたとおもふと、油旱あぶらでりけるやうなそらに、やまいたゞきから、すく/\とくもた、たきおとしづまるばかり殷々ゐん/\としてらいひゞき
 藻抜もぬけのやうにつてた、わしたましひもどつた、其方そなたをがむとひとしく、つえをかいみ、小笠をがさかたむけ、くびすかへすとあはたゞしく、一さんりたが、さといた時分じぶんやま驟雨ゆふだち親仁おやぢ婦人をんなもたらしたこひもこのためにきて孤家ひとつやいたらうとおも大雨おほあめであつた。」
 高野聖かうやひじりのことについて、あへべつちうしてをしへあたへはしなかつたが、翌朝よくてうたもとわかつて、雪中せつちう山越やまごしにかゝるのを、名残なごりしく見送みおくると、ちら/\とゆきるなかを次第しだいたか坂道さかみちのぼひじり姿すがたあたかくもしてくやうにえたのである。

底本:「新編 泉 鏡花集 第八巻」岩波書店
   2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「高野聖」左久良書房
   1908(明治41)年2月20日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
   1900(明治33)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年2月12日作成
2012年4月3日修正
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