清朝の近代即ち道光頃からして、書に南北兩派と云ふことが唱へられて、殊に北派の書が漸々流行し掛けて來た。此の北派の書を唱へ出した人は、多く學問の方から言ふと所謂漢學派(宋學に對する)に屬する人であつて、其の學問も既に當時の流行に乘じて、全盛を極めて居つた所に、又極めて人氣に投じて居る方法に依つて、書の方の議論にまで及ぼして來たから、唱へ始められてから日が淺いにも拘はらず、頗る流行の度が早い。其の中盛に書論を唱へた人は阮元であつて、之には南北書派論、北碑南帖論と云ふ論文があつて、北派の書論の根據になつて居る。それから又包世臣は、藝舟雙楫と云ふ本を書き、最近では康有爲が更に廣藝舟雙楫を書いて、益北派の説を張つて居る。是で見ると、其の書法の一變と云ふものは、僅に百年以來のことであるやうに見えるけれども、其の兆候は明の中頃からして既に見えるのである。
 明の初までは書法は相傳を重んじて、それが漢の蔡※(「巛/邑」、第3水準1-92-59)、魏の鍾※(「鷂」の「鳥」に代えて「系」、第3水準1-90-20)以來、晉の衞夫人、王羲之を經て、其の流を受けた筆法は、明の初めまで絶えず相續して居るのであると云ふ議論があり、明初の解縉と云ふ人が此の傳授系統を論じて居る。此の筆法の傳授と云ふものは、日本でも入木道の傳授があるやうな者で、必ずしも確實なことではない、併しながら又全く根據のないことでもない。姑く其の系統論に依らずして、單に局外から見ても、古來書法には幾多の變化はあるけれども、元の趙子昂、明の文徴明などに至るまでは自から一定相承の法があつて、明の祝允明など以來の文字とは自から異る點がある。此の相異の點を言表はすのは中々困難であるけれども、假りに董其昌の語を借りて言ふと、一を作意と云ふべく、一を率意と云ふべきものである。即ち舊來の書法は作意の書法にして、さうして明中葉以後の書法は率意の書法であると云ふことが出來る。作意の書法は熟を貴ぶ、率意の書法は生を貴ぶ。董其昌も自ら其の書を評して、自分の書と趙子昂のと比べると云ふと、各長短がある、趙の書は熟するによつて秀色を得て居る、趙の書は作意せざることなく、我書は往々率意ありと云つて居る。是が餘程能く時代の傾向を言表はして居る。即ち六朝以來唐宋元明までの書と云ふものは古來相傳の法があつて、其の法に合ふやうにと、努めて古法を學ぶことを主としたのであつて、それが即ち作意で、其の作意に依つて熟境に入ることを主として居る。然るに祝允明以後は如何に人が古法を學んでも、各其の人其の人の天然の癖即ち傾きがある。勿論作意の書法が盛に行はれて居る唐宋の時代でも、即ち此の天然の癖即ち傾きによつて最後に各一家を成す次第であるが、併し古代には努めて其の傾を沒却して、古來の法に近かんとしたのに、今度はそれに反して、其の自然に現れて來る所の傾を利用し、即ち又筆に依つて自然に生じて來る所の惰力を利用して、さうして各自の特色を發揮することを主として居る、是が即ち率意の書法である。是は祝允明に始まつて居つて、明末には最も盛に行はれて居る。即ち日本などで酷く評判される張瑞圖などは、矢張り率意書風の最も甚だしいものであつて、殆ど一己の癖ばかりで書いて居るが、董其昌などはさうでなくして、頗る作意の書法にも長じて居る。自ら言ふには、自分が作意の書を書く時には、趙子昂の書は自分に一籌輸けるやうだと自負して居る位である。併し時々率意の筆法を用ひる、それで其の率意の處が即ち一種の妙處になるのであつて、それは董其昌の晩年の書に於て殊に著しく現れて居る。此の傾は清朝になつて益盛になつて來て、清初の人は矢張り董其昌と同じやうに全く作意の書法を捨てゝ居らぬけれども、其中には餘程率意の勝つて居る人がある。即ち王鐸などのやうなものは率意の勝つた人であつて、又作意の書を主として其の間に微かに率意の影を認めるのは傅山などの如きものである。是が康煕、雍正、乾隆頃になつて、此の二つの傾が又益明かになつて來て居る。康煕帝が董其昌の書を好んだのは、必ずしも其の率意の點を好んだのではなくして、寧ろ作意の點に重きを置いたかも知れない。それで其の方から出た一派は、董其昌が專ら力を得た所の根原にまで遡つて、米※(「くさかんむり/(沛−さんずい)(四画)」、第3水準1-90-69)の書を學ぶ風が出て居る。即ち王夢樓、梁山舟などのやうな人は其の最も著しいものであつて、有名な張得天などもどちらかと云へば其の派に屬する。率意の書風を大成したのは即ち劉石菴であつて、此の人は專ら董其昌の率意の點に注意して、さうして而も生境に於て其の妙處を發揮せずして、却て熟境に於て大成せんと試みて成功したのである。是が一種の着眼點であつて、率意派からして熟境に入つたのである。兎に角さう云ふ二つの派が既に明かに分れて居つて、さうして率意派が年と共に増長して居つた。所が近頃康有爲なども評するやうに、張得天、劉石菴と云ふものは帖學の大成であると言つて居るが、詰り古來法帖に依つて字を稽古する、即ち近代の語で言へば南派の書法と云ふものは、劉石菴に至つては殆んど大成したのであつて、それより外に一頭地を出すべき餘地が無くなつたと言つて宜しい。是が即ち近來の北派の書法を産出した重な原因である。
 それで北派の書法と云ふものは最近に現れたやうであるけれども、其の系統を論ずると云ふと即ち率意派の書法に原因をして居つて、劉石菴と別の道を辿つて、其の生境に於て妙處を求める方に傾いて來たのである。北派の推尊するのは南北朝時代の北朝の書で、殊に北齊の頃南方からして王羲之父子の書が傳つて來ない以前の極めて素朴な書法を學ぶのであるが、是等の書は支那に於て古代には一向注意されなかつた譯ではない。宋の時などは北派の書のあると云ふことを勿論明かに知つて居つた。北宋の時には都が※(「さんずい+卞」、第3水準1-86-52)京即ち今の河南の開封府にあつたから、目と鼻の間である所の洛陽邊にある澤山の造象石刻を誰も知らない筈はない。併し其の時分の書家が學ぶ所の書は皆王羲之以來の正統の文字であり、さうして又其の時は唐以來の※(「莫/手」、第3水準1-84-88)本と云ふものも頗る傳つて居つたので、晉唐人の名蹟を見ることが比較的たやすく出來るので、北派の書風に必ずしも餘り重きを置かなかつた。北朝の字には氈裘の氣ありと言つて、之を卑しんで居つたのである。元來が北朝其の當時に於ても、名人と云ふものは矢張り南方の書風を慕つた形跡が多くて、即ち有名な鄭道昭、朱義章などのやうな人は確に南方の文字を學んだと思はれるのは、阮元も言ふ如く、北朝の人は極めて拘謹で、字を書いたからと言つて、自分の署名などはせぬと云ふにも拘らず、此の二人の如きは自分の書いたものに署名をして居る。是等が即ち南朝風であつて、詰り北朝でも名人と云はれる人は南朝の字を眞似した證據と言つても宜しい。殊に北朝の字の好くなつたのは北齊、北周以後であるが、これは梁の孝元帝の沒落の爲、南方の王羲之の字帖が北方に流れて入り、又王襃などが北周に南方の書を傳へたので、それが隋の頃に至つて大成して、南北を綜合したとも言ふべき立派な文字が出來たのであるが、實は南方の風を以て北派の猥陋なる書風を變化したのである。唐一代は南北合併した法を傳へて居るが、其の最も尊敬する所は即ち王羲之父子にあるので、誰も北方の書を取り立てゝ言ふものが無かつた。それが最近代の清朝になつて初めて俄かに流行し出したと言ふのは、即ち帖學に全く旨味がなくなつた結果として、どの道か外の進路を取らなければならぬのであるから、詰り此處に出たのであつて、是が即ち又明以來の一種の率意派の筆法の行はれる流行と丁度相合したのである。作意派の筆法を稽古すると、古來から相傳の筆を用ひ、相傳の法に檢束される必要があるけれども、率意派によると云ふことになると、總てのものを廢して、さうして勝手に自分で適當なる方法と考へた所で、其の筆の用ひ方、筆の作り方も總て自由にやることが出來るから、それで一時大に行はれるに至つた。
 阮元の議論は極めて單純なるものであつて、さうして專ら此派の爲に都合の好い例證だけを擧げてあるから、書學に關する見聞の狹い人が其の議論を讀むと、最も感服し易いけれども、其の實七八分通りまでは事實に合はないことが多いのであつて、殊に阮元の考へとして、王羲之の當時には、後世の法帖などに傳へて居るやうな二王の正書行書と云ふものは、一般に通行して居なかつたかの如く疑つて居るなどは、甚だしき間違である。近年に至つては、西洋人並に西本願寺探檢隊などの中央亞細亞發掘に依つて、西晉頃の書が現れて來る。それによつて見ると、隷書と同時に正書行書も行はれて居つた形跡が明かで、隷書と正書を一紙の中に書いて居るのもあり、又王羲之と大抵同時代の文書の中には、既に行書すらも行はれて居ることが證明される。西本願寺發掘の晉の泰始五年の木簡、漢魏の間と思はれる道行般若經、東晉の初の李柏文書などが其の的證である。是等は單に北碑に依つて議論を立てた阮元(阮元は南方の碑にも注意しなかつた)の主張の確に敗るべき點であつて、南北書派論などと云ふものが殆ど何の意味もなさぬことになる。北派と云ふ者は、單に南方の工妙な書がまだ入らない以前、田舍者が書いて居つた下手な書と云ふべきものに過ぎない。
 包世臣は書のことには精苦に思ひを費した人であつて、其論書を讀むと、極めて綿密に研究をした事が分る。此人は北朝の書を喜んでは居るけれども、必ずしも北派を主張して南派を退けると云ふのでない、寧ろ唐人の書に對して南北を合した六朝人の書を主張すると云ふに過ぎない。併しこれにも實は根柢の誤りがあらうと思はれる。全體から言へば支那の書と云ふものは隋から初唐に至つて工妙の極に達したものであつて、其以前は王羲之父子などのやうな、其一派並に其傳統を受けた人などは勿論立派な字を書いて居つたに相違ないけれども、一般の書風はまだ極めて幼稚であつて、迚も唐代に及ぶものではなかつたと云ふことは、矢張り近年の發掘に依つて證明される。近年の發掘に依ると、六朝時代の書、勿論發掘は重に北方に行はれるからでもあるが、兎に角六朝時代の書と云ふものは、粗朴の點は勿論あるけれども、其の拙劣なことも亦蔽ふべからざるものであつて、之を同時に土から出る所の唐人の書に比べて見ると、其の工妙其の品位に於て遙に下るものである。是が包世臣の考へ及ばなかつた所である。
 康有爲の廣藝舟雙楫も、阮元に比べては大に南碑を寶重することに注意して居る。北派といふよりはやはり包世臣と同樣、六朝派と云ふべきもので、南帖の眞蹟が見られないから、南碑、南碑が少いから北碑を尊ぶのである。尤も此人の書學は決して深いものではない。唯一種の天才で變つた見樣をしたのであつて、其の議論は覇氣があつて極めて面白いけれども、併し其の實際の心得に於ては甚だ淺いやうである。其の碑に對する品評などに於ても、多く奇僻なものを採つて、莊重な端嚴なものは採らない傾がある。此の人は廣東の生れであつて、長く田舍に居つて餘り精良な碑帖などを見る機會がなかつたのが、北京へ出て僅かの日月の間に、琉璃廠あたりの店で、拓の精粗を問はず、手當り次第に多くの碑を見て、極めて大綱に渉る判斷を下したのである。書の神味を知つて、的實な論斷をするだけの素養も出來て居らなかつたらしい。但其文辭が極めて工妙に出來てあるので、動もすれば人が其文辭に迷はされて、其論旨まで買被るけれども、其の造詣は疑ふべき者である。康有爲が自ら書く所の字も、此の書論と同樣の趣があつて、一種の奇氣があるけれども、粗漫を免れない。この書の中で人を誤る説は、書を學ぶの法として、何でも多く碑刻を購ひ、手當り次第に澤山見て居ると云ふと、何時か知らぬ其の澤山のものゝ味が自分の手に傳はつて來て、さうして一種の自分の字が出來ると云ふことを主張して居る。併し是は即ち率意に書を作る方の最も極端なるものであつて、斯う云ふ率意の法と云ふものは、率意の説を出した所の董其昌に聞かせても恐らくは驚く所のものであらうと思ふ。それで康有爲の書を見ると、矢張り其の法の結果が現れて居つて、何處かに其の天才の面白味があるけれども、六朝とも何とも附かない字である。沈子培に古代にそんな隅の圓い字がないと言つて冷かされたと自ら白状して居るが、沈子培の眼からは田舍もの扱ひにされたものと見える。康有爲が近代で最も感服して居るのは※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)完白、是れは勿論包世臣からして既に酷く感服して、此の人を世の中に紹介したのは最も包世臣の力であると言つて宜しいが、康有爲も之を貴んで居る。又今一人は張廉卿である。※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)完白の書は篆隷に於て一種の得る所があるけれども、楷行其外の書に於ては、篆隷の法を以て妄りに應用するに過ぎぬ。張廉卿の楷書に至つては、最も石刻の惡癖を學んだもので、殆ど筆で書いたといふ神味は更にない。それを康有爲が最も推尊して居る。康有爲の書論は阮元などよりは偏頗でないけれども、作意派の書の趣味をば全く度外視したものといふことを知らねばならぬ。
 此の間に一人の違つた派と云つて宜い人がある。夫は楊守敬であつて、是は北派の書を日本に傳へた點に於ては非常に關係があつたもので、巖谷、日下部以下日本の北派と云ふものは、殆ど此の人によつて開かれたと言つて宜しい。併し此の人に就て日本人は考へ誤りがある。此の人を日本人は北派の書家だと思つて居るけれども、それは誤りである。元來此の人が日本の書家に傳へた執筆法は即ち張得天の法である。張得天は康有爲が所謂帖學家の親玉で、北派の書に何等の關係もないものである。一體張得天の執筆法は、日本では北派に全く附屬したものと考へられるが、北派の書を支那で廣めた所の包世臣は、張得天の執筆とは全く異つた執筆法を主張して居る。さうして楊守敬は執筆法に於て包世臣を祖述しないで、張得天を祖述して居る。それから楊守敬は碑のことをも研究して居ることは勿論であるけれども、帖の研究も決して粗略にしない。それで自ら書く所の字は決して北朝の書ではない。殊に日本に來てからして、日本に殘つて居る所の唐代の眞蹟と云ふものを見た。是が此の人の書に大變に影響を來して、日本へ來てから以後の書と云ふものは殆ど一變して、努めて眞蹟の筆意を取つて居る。併し其處には一種の見識を自分で持つて居つて、執筆の法は張得天の法を堅く守り、眞蹟の筆意を取るけれども、それを作意に依つて出さずして、率意に依つて之を出すことを務めて居る。それが即ち此の人の特色であつて、今支那に於ても此の人の書は殆ど第一流であるが、其の淵源する所は寧ろ日本傳來の眞蹟にあるのである。恐らくはかういふ書は支那に於て亦一の紀元を作るかも知れない。元來が北派の起る時に當つて、支那に若し日本の如く多數の唐代若くは六朝の眞跡があつたならば、支那人は何を苦しんで北派の粗拙なる字を學ぶべき。唯支那には其の時に古い眞跡がなかつたから、眞跡を下ること一等だからと言ふので碑を學ぶことになり、唐碑は昔流行り過ぎて皆磨滅し、覆刻ばかりだからといふので、六朝碑を稽古すると云ふやうになつたのである。それで日本に來て唐の眞蹟を見ることが出來、又近頃のやうに支那の敦煌其の他西域地方からして多くの眞跡が發掘されると云ふことになつて、之を見ることが容易になつて來ると、元來は書に就ては天稟の技倆のある支那人は、必ず石刻を差措いて眞跡に赴くと云ふことが當然である。將來は必ず眞跡によつて書の一變を來すであらうと思はれる。それも澤山の眞跡が表はれて來た結果として、六朝と云ふものも必ずしも尚ぶに足らぬこと、唐代の書と云ふものゝ矢張り最も上品な工妙な域に達したと云ふことを悟り得たならば、必ず其の方面に向つて進むことは明かである。自分は斷言しても宜しい、將來は必ず支那人の書と云ふものは眞跡に向つて研究を始める。さうして兎に角其の端緒を開いたものは即ち楊守敬であると言つても宜しい。日本などで現今遲れ走せに支那の北派の書をかつぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて居るものなどは甚だ氣が知れぬ。日本には石刻以上の眞跡と云ふものが非常に澤山あつて、それ等は皆假令上手、下手に拘らず、當時の筆意をあり/\と傳へてあるものである。なに寫經生の書だなどゝいふ高論もあるけれども、唐代には書が盛んで、寫生までが能書で、後世の及ぶ所でないとは支那人の定論である。さうして又日本にはそれに對して既に注意した大家例へば貫名などの如き人もある。勿論今日以後は貫名流で以て古來の筆意を盡すと云ふことは考へもので、此の研究には又更に一變を要することは明かであるけれども、兎に角さう云ふ風に正しい方向に向つて來て居つたのを、一時己れ等の見識のない所からして誤つた方向に迷入つたと云ふのは、甚だ恥づべきことである。況や近頃のやうに、俳句などをヒネくるものが、文盲の癖に、北派にも何にもならないエタイの知れない字を書いたり、看板やコマを書く一種の俗筆を北派だとして居るに至つては、殆んど採るに足らないものである。幸ひに大阪の觀鵞會などゝ云ふ書法を奬勵する會が年々開かるゝに就ては、どうかその進歩の傾を正しい方に向けて、さうして何時までも支那人の尻馬にばかり乘るやうな不見識をせぬやうにしたいものである。
(明治四十四年三月二十六日「大阪朝日新聞」)

底本:「内藤湖南全集 第八卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月初版発行
初出:「大阪朝日新聞」
   1911(明治44)年3月26日
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2004年11月4日作成
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