数日来残暑甚、羸躯発熱臥床、
枕上成此稿。辛巳八月二十三日。

楓橋に宿りて
  宿楓橋
七年不到楓橋寺  客枕依然半夜鐘
風月未須輕感慨  巴山此去尚千重
七年ななとせぶりに来て見れば
まくらにかよふ楓橋の
むかしながらの寺の鐘
鐘のひびきのかなしくも
そそぐ泪はをしめかし
身は蜀に入る客にして
巴山はとほし千里の北
 この楓橋は、唐の張継の詩、月落烏啼霜満天、江楓漁火対愁眠、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船によつて、有名である。しかし此の詩に関しては、嘗て欧陽修が夜半は鐘鳴の時に非ずといふ説を出してから、異説百出、或は之を以て早暁の詩となし、夜半といふは極めて早きことの誇張と解する者あり、或は夜半鐘と云ふのは鐘の名であるとなす者あり、或は蘇州の寺に限り夜半に鐘を鳴らしたのだらうと説く者あり。今日になつても、例へば岩波文庫版の註を見ると、「夜半に鐘声あるか無きかに就いて古来論あり。胡応麟曰く、夜半の鐘声客船に到る、談者紛紛、皆な昔人の為に愚弄せらる。詩は流景を借りて言を立つ、ただ声律の調、興象の合ふに在り。区々の事実彼れ豈に計るに暇あらんや。夜半の是非を論ずるなかれ、即ち鐘声を聞くや否やも未だ知るべからざるなりと」としてある。これで見ると、事実はどうでもいいぢやないかと云ふことに、話は落ちてしまつたやうである。ところで放翁は、かくも問題のある楓橋にやつて来て、七年前と同じ半夜の鐘を聞いたと詠じてゐる。これは果して胡応麟が云ふやうに、事実の如何を顧みない単なる言葉の調子であらうか。否、放翁の作詩の態度は断じてさういふ解釈を許さない。果して彼の晩年の随筆集たる老学庵筆記を見ると、巻十の中で、彼は次の如く書いてゐる。「張継楓橋夜泊の詩に云ふ、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船と。欧陽公之を嘲りて云ふ、句は則ち佳なるも、夜半は是れ打鐘の時にあらざるを如何せんと。後人又た謂ふ、ただ蘇州にのみ半夜の鐘ありしなりと。皆な非なり。按ずるに于※(「業+おおざと」、第3水準1-92-83)褒中即事の詩に云ふ、遠鐘半夜に来り、明月千家に入ると。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿する詩に云ふ、秋深うして水に臨むの月、夜なかばにして山を隔つるの鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓、今尚ほ廃す。後生、唐の詩文を読み街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。いはんや僧寺夜半の鐘をや」。これが「飽くまで識る三千余歳の事」と自ら詠じたことのある放翁の見解である。さてこそ彼は楓橋に宿し、唐の昔に鳴り響いたであらう夜半の鐘の音を偲んで、客枕依然半夜鐘と詠じたのである。もちろん実際に鐘の声を聞いたのではない、しかしまた彼の詩魂は、唐詩に伝はる殷殷たる夜半の鐘声を、実際に聴いたのでもある。
 当時彼は、※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)州の通判に任ぜられたため、乾道六年(西暦一一七〇年)、四十六歳の時、郷里の鏡湖(今の浙江省の紹興に近きところ)を立ち、揚子江を遡つて、蜀の※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)州(今の四川省の東境、日本の飛行機が近頃爆撃を加へたと伝へられてゐる今の奉節)まで、長い旅をした。その旅は、乾道六年閏五月十八日から十月二十七日まで、殆ど半年かかつた。この詩は六月十日、かかる千里の旅を前にして、蘇州の楓橋寺前に宿した折の作である。彼の入蜀記を見ると、その日の条下に、「楓橋寺前に宿す、唐人たうひとの謂ふ所の夜半の鐘声客船に到るもの」としてある。当時彼がこの夜半の鐘声を偲んだことは、極めて明白である。その鐘声は、物理的にこそ今は亡びて居たけれども、詩の世界では、客枕依然半夜の鐘であつた。かく云へば、話は、先きの胡応麟の説に似て来るやうだが、しかしそこには実に千里の差がある。
 なほ張継の詩については、私は放翁詩話と題する別の草稿の中でも、若干のことを書き誌しておいた。

 (追記) 高青邱にもまた楓橋夜泊の詩がある。それはかう云ふのだ。
烏啼霜月夜寥寥
囘首離城尚未遙
正是思家起頭夜
遠鐘孤棹宿楓橋
 彼もまた鳴らぬ夜半の鐘を聴いたものと思はれる。彼はそれを思ひ起して、後日かういふ詩をも作つた。
日暮遠鐘鳴
山窗宿鳥驚
楓橋孤泊處
曾聽到船聲
(昭和十七、七、十日記)
月夜よし僧をたづねて遇はず
  觀音院讀壁間蘇在廷
  少卿兩小詩次韻
揚鞭暮出錦官城  小院無僧有月明
不信道人心似鐵  隔城猶送擣衣聲
ゆふまぐれ馬に跨り城をいで
この山寺に来て見れば
月のみありて人はなし
和尚の心も石にはあらね
城をへだてて砧うつ声
風に送られここにも聞こゆ
(作者時に五十一歳、蜀中にての作、原詩の錦官城は成都)
十五年前夜雨の声
乾道初、予自臨川歸鍾陵、李徳遠、范周士、送別于西津、是日宿戰平、風雨終夕、今自臨川之高安、復以雨中宿戰平、悵然感懷(二首中之一)
十五年前宿戰平  長亭風雨夜連明
無端老作天涯客  還聽當時夜雨聲
十五年前長き旅路の一夜をこの戦平にやどし、夜もすがら風に吹かるる雨を聞きしに、
はしなくも老いて天涯の客となり、こよひまた聴く当年夜雨の声
(作者時に五十六歳)
花を移して雨を喜ぶ
  移花遇小雨、喜甚、
  爲賦二十字
獨坐閑無事  燒香賦小詩
可憐清夜雨  及此種花時
ひとりゐのしづけさにひたり
香をたきて詩を賦す
あはれこの清き夜を
音もなく雨のふるらし
けふ移したる花の寝床に
(作者当時家居す、五十九歳)
梅花
  梅花絶句(十首中之一)
山月縞中庭  幽人酒初醒
不是怯清寒  愁※(「あしへん+(日/羽)」、第4水準2-89-44)梅花影
山のはに月いでて庭白く
酒さめて我は家に入りぬ
ややさむを厭ふ身にはあらねども
花咲く梅の影ふむはいかで忍びむ
(作者時に官を辞して家居す、六十七歳)
題庠闍黎二画(その一)
  秋景
秋山痩※(「山+燐のつくり」、第4水準2-8-66)※(「山+旬」、第3水準1-47-74)  秋水渺無津
如何草亭上  卻欠倚闌人
秋の山は痩せてそそり立ち
秋の水は果しなくはろばろ
いかなれば草亭のおばしま
秋をめづる人のなき

題庠闍黎二画(その二)
  雪景
溪上望前峯  巉巉千仭玉
渾舍喜翁歸  地爐※(「火+畏」、第3水準1-87-57)芋熟
渓ゆ望めば聳え立つ向ひの峰は
つもりつもりて雪ましろなり
帰りしおきな囲みて
よろこぶや家の人々
ゐろりには芋やけてほろほろ
 前の秋景の図には、人物描きあらざるも、この雪景の方には、蓑を着、雪を冒して、とぼとぼと帰りゆく一人の人物描きありしものと思はる。
(作者時に六十七歳)
春のおとづれ
  早春
西村一抹煙  柳弱小桃妍
要識春風處  先生※(「てへん+主」、第3水準1-84-73)杖前
たちそめし霞のもとにわれ来れば
西の村柳めぐみて小桃セウタウうるはし
春のありがを知らまくば
わが曳く杖のゆくへこそ
 小桃については、放翁の随筆集たる老学庵筆記に次の如く書いてある。「欧陽公、梅宛陵、王文恭の集、皆な小桃の詩あり。欧詩に云ふ、「雪裏花開いて人未だ知らず、摘み来り相顧みて共に驚起す。便すなはすべからく酒を索めて花前に酔ふべし、初めて見る今年の第一枝」と。初めただ桃花に一種早く開く者あるのみとおもひき。成都に遊ぶに及び、始めて識る、謂はゆる小桃なるものは、上元前後即ち花を著け、状は垂糸の海棠の如くなるを」。即ち小桃といふのは、もちろん小さな桃のことではなく、旧暦正月十五日前後、百花に先だちて花をつけ、枝垂れた海棠のやうな状をしてゐる特殊の木の名である。
(作者時に六十九歳)
四更起き出でて書を読む
  四月十三日四更起讀書
七十未捐書  正恐死乃息
起挑窗下燈  度此風雨夕
七十未だ書をすてず
死なばはじめてやみなんか
起きいでてともしかきたて
窓ちかき机にむかひ
この風雨ふきぶりをわたる
(作者時に七十一歳)
乞食の歌へる(その一)
  路傍曲(三首中之第一)
冷飯雜沙礫  短褐蒙霜露
黄葉滿山郵  行人跨驢去
めたきめしに砂さへまじり
ゆふべゆふべの草枕
かたしく袖も短くて
置く露霜つゆじもに得もへず
風に吹かるる黄葉もみぢば
山の宿場シユクバをうづめたり
道ゆく人は驢に乗りて過ぐ

乞食の歌へる(その二)
  路傍曲(三首中之第二)
大道南北出  車輪無停日
彼豈皆奇才  我獨飢至夕
都大路のやちまたに
ゆきかふや車馬のかずかず
人みな秀才スサイと思はねど
われ独り飢えてけふも暮れぬる
(作者時に七十一歳)
はるさめ
  春雨
擁被聽春雨  殘燈一點青
吾兒歸漸近  何處宿長亭
ころもかきよせ春の雨きく
よふけてほそるともしび青し
あこ帰りつく日も近づけり
長き旅路を
こよひいづこの宿にいぬらむ
(この年、放翁七十七、子布蜀中より帰る)
興のまにまに
  物外雜題(八首中之一)
飼驢留野店  買藥入山城
興盡飄然去  無人識姓名
のりたる驢馬に粟まさんと
しばしを村の茶店ちやみせにいこひ
薬求めてまた町に入る
興のまにまに
風のまにまに
行きかふ人は名も知らず
(作者時に七十七歳)
昭和十六年八月二十八日清書
 宿建徳江   孟浩然
移舟泊烟渚  日暮客愁新
野曠天低樹  江清月近人
こよひはここに夢みんと
けぶるなぎさに漕ぎはてて
日も暮れゆけば今更に
旅のあはれを思ふかな
見渡せば野ははろばろと
そらひくく樹にたれ
さざなみひかる江上カウジヤウ
まどかなる月は人に近し

 早行     劉子※(「羽/軍」、第3水準1-90-33)
村鷄已報晨  曉月漸無色
行人馬上去  殘燈照空驛
にはつとり鳴きてほのぼのと
有明月ありあけづきもうすれゆくいなのめ
たびびとは馬にのりて立ち
しづまる宿シユクにともしびあはし

 曉霽     司馬光
夢覺繁聲絶  林光透隙來
開門驚烏鳥  餘滴墮蒼苔
ふりしく音の絶えて夢のさむれば
林を縫うて戸のすきまより射し入る朝日
起き出でて窓を開けば烏おどろき
残りのしづく苔に落ちぬ

 西邨     郭祥正
遠近皆僧刹  西村八九家
得魚無賣處  沽酒入蘆花
をちこちはみな蘭若ランニヤ
住む村人も八九軒
釣りたる魚の売場なく
酒のみ買うてまた蘆花に入る
以上、十六年十一月東京にて
 姑蘇懷古     白石道人
夜暗歸雲繞柁牙  江涵星影鷺眠沙
行人悵望蘇臺柳  曾與呉王掃落花
星月夜ねぐら求めてわがふなべりを雲はただよひ、
カウ星影ほしかげをひたしてさぎはすなごに眠れり。
姑蘇城外に聳え立つうてなの柳望み見て旅人われは涙をながす、
そよ風に柳なびきて散りばふ花の散りのまがひに呉王も見えなく。
○白石道人は姜※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)の号、姜※(「くさかんむり/(止+頁+巳)/夂」、第3水準1-15-72)字は堯章、宋人なり。
○史記、呉世家、「呉王夫差、越を破る。越、西施を進め、軍を退けんことを請ふ。呉王之を許す。既に西施を得、甚だ之を寵す。為めに姑蘇台を築く、高さ三百丈、其の上に游宴す」。
十七、六、二十二日
 聞鐘     高青邱
日暮遠鐘鳴  山窗宿鳥驚
楓橋孤泊處  曾聽到船聲
日暮れて遠寺とほでらの鐘ぞ鳴る
窓近き山のねぐらの鳥すらも
こころを動かせり
むかし楓橋に船とめて
ひとり聴きにし鐘の声!

 江上漫成    高青邱
春色到江濱  江花樹樹新
行吟憔悴客  誰道亦逢春
河のほとりに春めぐりきて
河辺の樹々はみな花をつく
詩を吟じつつ行きなづむ
痩せほうけたる旅人も
亦た春に逢へりと誰かいふ

底本:「河上肇全集 20」岩波書店
   1982(昭和57)年2月24日発行
底本の親本:「放翁鑑賞 下巻」三一書房
   1949(昭和24)年11月発行
入力:はまなかひとし
校正:今井忠夫
2004年5月18日作成
2005年11月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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