六人の人間が小さい卓子テーブルを囲んで座っていた。彼等は少しも釣合いがとれずちょうど同じ、小さい無人島に離れ離れに破船したかのように見えた。とにかく海は彼等をとりかこんでいた。なぜならある意味において彼等の島はラピュタのような大きいそしてひるがえる他の島にとりかこまれていたから。なぜならその小さい卓子テーブルは大西洋の無限な空虚を走ってる、巨船モラヴィアの食堂に散らばってる多くの小さい卓子テーブルの一つであった。その小さい仲間は皆アメリカから英国への旅行者に他ならなかった。彼等の二人はとにかく名士と呼ばれるかもしれない、が他の人々は名の知れないものであった。そして一二の点において信頼し難くさえあった。
 その最初は前ビザンテン帝国に関しての考古学上の研究の権威である、スマイル教授であった。アメリカの大学において講ぜられた、彼の講演は欧洲において最も権威ある学府においてさえ最上の権威として受け入れられた。彼の文学上の仕事は欧洲の過去について円熟した想像力に富む共鳴に非常にひたされていた。それでそれはアメリカ人の抑揚で彼が話すのを聞く未知の人にしばしば驚喜を与えたほどであった。しかし彼は彼の態度においては、むしろアメリカ人であった。彼は長い美しい髪を大きな四角な額からかきなでていた。そして長い真すぐな恰好と次の飛躍にうっとりと沈思してるライオンの様な、潜勢せんせいの迅速さの平均を持つ先入見の奇妙なる混合を持っていた。
 その仲間にはただ一人の婦人がいた。彼女は(新聞記者が彼女についてしばしば言ったように)彼女自身における主人であった。それにおいても、ある時はいかなる他の卓子テーブルにおいても、女王とは言わない。女将じょしょうの役を演ずるべくすっかり用意をしていた。彼女は熱帯や他の諸国における著名な婦人旅行家の、ダイアナ・ウェルズ夫人であった。彼女自身は暑苦るしく重々しい赤い髪を持ち、熱帯風に美しかった。彼女は新聞記者連が大胆な流行と呼ぶ様に装っていた。が彼女の顔は聡明そうで彼女の眼は議会において質問をする婦人達の眼によく見られる輝きとかなり目立った様子をしていた。
 他の四人の姿は最初この目に立つ存在の中では影のように見えた。しかし近よって見ると彼等は相違を示した。彼等の一人は船の名簿にはポール・テ・ターラントと載ってる青年であった。彼は真にアメリカ人の模範と呼ばれても差支えのないようなアメリカ人型であった。彼はおしゃれでまた気取り屋である。富める浪費者はよくアメリカの小説にあるように柔弱な悪人を造る。ポール・ターラントは着物を着かえる他には何にもなす事がないように見えた。薄明うすあかりのデリケートな銀色の月のように、美くしい明るい灰色の彼の衣裳を淡色うすいろやまたは豊かな影に替えて、彼は日に六度しかも着物を替えた。最もアメリカ人らしくなく彼は非常に細心に短かい巻いた髯を生やしていた。そしてまた最もおしゃれらしくなく、彼自身の型から言っても、彼は華美というよりはむしろ気むずかしいように見えた。彼の沈黙の蔭には幾分バイロン風なものがあった。
 次の二人の旅行者は自然一緒に分類された。何故なにゆえなら彼等は二人共アメリカ漫遊から帰るイギリスの講師であった。一人は、あまり著名ではない詩人ではあるが、少しは名の知れた新聞記者で、レオナルド・スミスと呼ばれていた。彼は長い顔をして、明るい髪を持って、キチンと装っていた。もう一人は黒い海象かいぞうのような髭を生やして、せいが低く幅が広いので、滑稽な対照であった。そして他の者がおしゃべりであるのに彼は無口であった。六番目の最もつまらない人物はブラウンという名で通っている小柄な英国の坊さんであった。彼は非常に注意深くその会話に聞き入っていた。そしてその瞬間にそれについて一つのかなり奇妙な事実があったという印象をかたち造っていた。
「君のそのビザンティン研究は」とレオナルド・スミスは話していた。「ブライトンの近くの、南海岸なんかいがんのどこかで発見した墓穴はかあなの話しに、ある光を投ずるにちがいないと私は考えますが、そうじゃありませんか? もちろん、ブライトンはビザンティンからはたいぶはなれております。がしかし僕はビザンティンであるように想像されている埋葬やミイラにする型等について読んだ事がありますよ」
「ビザンティン研究は確かになかなか難かしいに違いないですな」と教授は率気そっけなく答えた。「世間の人は専問家について話します。しかし私は一体この世で一番難かしい事は専問にする事であると考えますな。例えば、この場合においてですな、一体人間はそれ以前にローマについてまたはその後のマホメット教国についてあらゆる事を知るまでにどうしてビザンティンについての色々の事を知る事が出来ますか? 大概のアラビア芸術は昔のビザンティン芸術でした。まあ、代数学でもおやんなさい――」
「しかし私は代数学等はいやで御座いますわ」と夫人は叫んだ。「私は今まで決して致しませんでしたし、また決していたしません。でも私は死体をミイラにするという事には非常に興味を持っておりますの。私はガットンがバビロンの塋穴えいけつを発掘した時に、あの人と御一緒に居りました。それ以来私はミイラを発見してそれを保存しましたが全くゾッとしますわ」
「ガットンはおもしろい男でした」と教授は言った。「彼の家の者はおもしろい家族でしたよ。議院に這入はいった彼の兄弟は普通の政治家ではありませんでした。私は彼がイタリーについて演説をするまではファシストを少しも了解しませんでしたね」
「でも、私達はこの旅行ではイタリーにはまいりませんのですもの」とダイアナ夫人はしつこく言った。「そしてあなたはあの塋穴が発見された、あのつまらない場所へいらっしゃるおつもりで御座いましょう。そうじゃありませんの?」
「サセックスはかなり大きい所ですよ。小さいイギリスの地方の中では」と教授は答えた。「[#「「」は底本では「」」]そしてブラブラ歩くにはいい場所ですよ。あなたがそれにあがるとそれ等の低い丘がどんなに大きく見えるかという事は驚異ですなあ」
 嶮悪けんあくな意外な沈黙が起った。それから夫人は言った、「ああ、私は甲板にまいりますわ」そして他の人々も彼の女と共に立ち上った。しかし教授はぐずぐずしていた。小さい坊さんも、叮嚀ていねいにナフキンをたたんで、テーブルをはなれる最後の人であった。それからこうして彼等二人が居残った時に教授はだしぬけに彼の相手に話しかけた。
「あのさっきちょっとお話した事についてあなたはどう思われますか?」
「さあ」とブラウンは微笑しながら言った。「あんたがわしに訊ねられてから、わしを少しばかりおもしろがらせる事がありますようじゃ。わしは間違とるかもしれん。があの話し仲間はサセックスにおいて発見されたというミイラにされた死骸についてあんたに三度話しさせたようにわしには思われるんじゃ、そいであんたは、――非常に深切に話された。最初代数学について、それからファシストについて、それからドンの景色についてな」
「つまり」教授は答えた。「あなたは私がそれ以外のある事について話そうとしていたとお考えになったのですね、御察しの通りです」
 教授はテーブル掛けを眺めて、しばしの間無言であった。それから顔を上げライオンの飛躍を思わせる迅速な衝動を以って話し出した。
師父しふさん、まあおきき下さい」と彼は言った。「あなたは今まで私が出逢った最も聡明なそしてまた最も潔白な方であると考えます」
 師父ブラウンは生粋のイギリス人であった。彼は、アメリカ人風に、面と向って不意にあびせかけられた真面目な真実ほんとうの御世辞をいかにするかという事については普通な国民性の頼りなさのすべてを持っていた。彼の答えは意味のないつぶやきであった。そして、強い語勢の熱心さで、話しを進めたのは教授であった。
「要点は全く簡単であるという事はおわかりでしょう。明かにそれはある牧師のである。暗黒時代のキリスト教信者の塋穴はサセックス海岸のダルハムにある小さい教会の下に発見されました。牧師はたまたま彼自身考古学者となります。[#「。」は底本では欠落]そして私が知ってるより以上に多く見出す事が出来たのです。その死骸については、西方の国においては知られないギリシャ人とエジプト人に特有な方法でミイラにされていたという風説がありました。そこでウォルタース氏は(それは牧師)はビザンティンの影響について自然考慮してます。しかし彼はまた他にある事実を話してます。それは私にとって私的の興味以上でさえあります。」
 彼がテーブル掛けにうつ向いた時彼の長い幽欝ゆううつな顔はいよいよ長くより幽欝になった様に思われた。彼の長い指は死の都そして彼等の寺院や塋穴の国の様にそれの上に模様をつけてるように見えた。
「そこで私はあなたに御話ししようと思いますが、誰も居らないので。それは私は今の中であの事件を話す事については注意深くあらねばなりませんからです。そしてまた彼等がその事について話す事に熱心であればあるほど、私は用心深くあらねばなりませんからです。棺桶の中に、見た所では普通の十字架ではありますが、その裏に、ある秘密な標徴を持っている、十字架のついている鎖があるという事が記されています。それは最も初期な教会の神秘から来ています。そしてセント・ペーターがローマに来る前アンテオクにおいて彼の大僧正の職についた事を表徴するように考えられます。とにかく、私はこのようなのが他にもう一つあると信じます。そしてそれは私のものです。私はそれののろいについてのある話しを聞いています[#「います」は底本では「まゐす」]、が私はそれは気にかけていません。がしかし呪いがあってもなくても、真にある意味においてある陰謀があります。けれどもその陰謀はただ一人の男から成立ってるのです」
「一人の男から?」と師父ブラウンはほとんど機械的にくりかえした。
「私の知ってる限りでは、一人の狂人きちがいからです」スメエル教授は言った。「それは長い物語です。そしてある意味において馬鹿気ばかげた事なのです」
 彼は卓子テーブル掛の上に指でなおも建築学の図の様な模様をつけながら、再び吐息をして、それから話しを続けた。
「たぶん私はそれについての事の始めからあなたにお話しする方がいいと思います、事実においてあなたは私に取っては意味のないその物語においてある些細な点がおわかりになるでしょう。それはもう幾年も前に始まった事でして、私がクレートやギリシャの島々の古跡にある調査をしておった時なのです。私はそれを人手を借りずにやりました。ある時はそこの住民の粗野なそして仮の補助で、してまたある時は文字通りたった一人で。私が地下道の迷路を発見したのはかような事情のもとにでした。その道は最後に立派な廃物や、こわれた飾物かざりものそしてバラバラになった宝石の積み重ねに通じたのです。それはあるうずもれた祭壇の廃墟であろうと思いますが、そしてその中に私は奇妙な金の十字架を見つけたのです。私はそれをひっくり返してみました。そしてその裏にいにしえのキリスト信者の標徴であった所の、魚の形を見つけました。が形や模様が普通に見出されるものとはかなり異っていました。そしてそれは私には、もっと現実的に――あたかも図案家が単にありきたりのかこいあるいは後光でないように、しかしよく見ると真の魚であるように故意にしたものであるように見えました。それはむしろ粗野な野獣の一種のようにも見えました。
「なぜ私がこの発見を重大視するかを手短かに説明するために、私は陥没の要点をあなたにお話しせねばなりません。一方から言いますと、それは陥没から陥没の性質の何物かを持ってました。吾々われわれは古跡の跡の上にばかりではなく古代の古跡の上に居りました。吾々は信ずべき理由を持っていました。そしてまた吾々のある者は人身半牛の迷路と同一視される所の有名な物の如くに、これ等の地下道は、人身牛首時代と現代の探検者との間ずっと失われずに残されたものであるという事を信ずる理由を持っていました。私がこれ等の地下の町や村と言いたい、これ等の地下の場所は、ある動機のもとに、ある人々に依ってもう既に看破されていたという事を信じました。その動機については考えの異った学派がありました。あるものは皇帝が単なる科学的好奇心から探検を命じた物だという事を論じ、また他の者は物凄いアジア的な迷信のあらゆる種類に対する後期ローマ帝国におけるすばらしい流行がある名もないマニス宗の宗徒を出発させたと主張し、またある者は太陽の正面からかくさねばならなかった乱痴気騒ぎは洞穴ほらあなにおいて騒ぎ廻ったという事を主張しています。私はこれ等の洞穴は墓穴と同じ様な事に使用されていたと信じた所の仲間に属してます。全帝国に火の様にひろがっていたある迫害時代の間、キリスト信者は石のこれ等大昔の異教徒の迷路にかくれていたという事を吾々は信じました。そこでその埋もれていた金の十字架を拾い上げその上の意匠を見た時は全くゾッとしました。それにもう一度外側にひきかえして陽の光りの中に低い道に沿うて限りなくひろがってる露骨チサダンな岩壁を見上げ、そして荒々しい下画したえうちに描き書かれた、まぎれもない、魚の形を見た時は異状な衝動を受けました。
「それについては幾分あたかも化石した魚かまたは氷にとざされた海の中に永久に附着したある敗残の生物であるかもしれないようにも見られました。私は石の上に描き書いた単なる絵と結びつけずには、この類似を分解する事が出来ませんでした。そして遂に私は心の奥底ではこう考えていたという事を理解しました。すなわち最初のキリスト信者は人間の足のはるか下に落ちて、薄明りと沈黙の陥没した世界に口をきかずに住み、そして暗くそして薄明な音響のない世界に動いて、ちょうど魚の様に見えたに違いないという事ですな。
「石の道路を歩く誰れでもは幻影の歩みがついて来るような気がするのを知ってます。前にあるいは後ろにバタバタという反響がついて来ます、それで、人はその孤独においてほんとに一人ポッチであるという事を信ずる事は不可能です。私はこの反響の影響にはなれておりました。[#「。」は底本では欠落]それでちょっと前まではそれもあまり気にはしませんでしたが、私は岩壁の上をはっていた表徴的なある形を見つけました。私は立ち止まりました。と同時に私の心臓もハタと止まったように思われたのです。私自身の歩みは止みました。が反響は進んで行きました。
「私は前の方へかけ出しました。そしてまた幽霊のような足取もかけ出したように思われました。私は再び立ち止った、そして歩みもまた止みました。が私はそれはやや時が経って止んだという事を誓います。私は質問を発しました。そして私の叫びは答えこられました、けれどもむろん声は私のではありませんでした。
「私はちょうど私の前方の岩の角をまわって来ました。そしてその薄気味の悪い追跡の間中に私は休止したりまたは話したりするのはいつも屈曲した道のその様な角においてである事に気づきました。私の小さな電灯で現される事の出来る私の前方のわずかな空間は空虚なへやのようにいつも空虚でした。こんな状態で私は誰であるかわからぬ者と話しを交えました。そこで話しは太陽の最初の白い光りに行きあたるまでずっと続きました。そこでさえ私は彼がどんな風に太陽の光線の中へ消えおったかを見る事が出来ませんでした。しかし迷路の口は多くの出入口や割目や裂目で一っぱいでした。それで彼にとっては洞穴の地下の世界に再び立ちかえって消え去る事は困難ではなかったでしょう。私は岩の清浄というよりはもっと幾分熱帯的に見える緑の植物が生えてる、大理石の台地のような大きな山のさびしい踏段ふみだんに出て来た事だけがわかりました。私は汚れない青い海を眺めました。そして太陽は底知れぬさびしさと沈黙の上に輝いていました。そこには驚きのささやきを交わす草の葉もなくまた人の影もありませんでした。
「それはおそろしい対話でした、非常に親密なそしてまた非常に別個なまたある意味において大変に取りとめのないものでした。体のない、顔のない、名もないしかし私の名で私をよぶ、この物は、吾々がクラブにおいて二つの安楽椅子にかけていたよりももっと熱情も芝居気しばいげも持たず吾々が生き埋めされていたそれ等の割目の中で私に話をしました。しかし彼はまた魚の標のある十字架を所有したなら、高い地上の者でも必ず殺すであろうという事を話しました。彼は私が弾丸たまをこめた銃を持ってる事を知っているので、その迷路の中で私をあやめるほど愚者おろかものではなかったと彼はあっさりと私に話しました。しかし彼は確実な成功を持って私の殺害を計画するであろうという事をおだやかに話しました、その方法はいかなる危険も防ぎ得る、支那の老練な職工や印度の刺しゅう家が生涯の美術的な仕事にする所の技巧的な完全さを持つ方法でやるというのです。けれども彼は東洋人ではありませんでした。彼はたしかに白人でした。私は彼は私の国の人間ではなかったかという事を疑います。
「それ以来私は時折暗示や符合やそして奇妙な非人間的なたよりを受取りました。そのたよりはその男は狂人であるか彼は一事遍狂者であるかという事を少なくとも私にたしかめさせました。この幻想的なはなれた方法で、彼はいつも私に、私の死と埋葬に対する準備は満足に進行しているという事、そしてまた私が手柄な成功を持って彼等の迫害をさける事の出来る唯一の方法は、私が洞穴で見つけた十字架を――私が手ばなす事であるという事を話していました。彼は物好きの蒐集家の持つ熱情以外には何んの熱情も持たぬようでした。その事が彼は西方の人間であって東洋人ではないとたしかに私に感じさせた事の一つでした。しかしこの特別な好奇心は全く彼を狂気きちがいにさせるようでした。
「それからまだ不たしかではあったのですが、サセックスの塋穴におけるミイラにされた死骸の上に見つけられたふたつの霊宝について、報知が来ました。もし彼が前に狂人であったのなら、この知らせは彼を悪魔につかれた人間に代えました。彼等の一つが地の人間のものであるという事は非常にいやな事でありました。彼の狂気きちがいのたよりは厚くそして毒矢の雨のように迅速に来始めました。そしてそのたびに私のけがれた塋穴の十字架に向ってさしのべた瞬間に私の死が私を襲うであろうという事を、前よりも更に断然と叫んで来ました。
「『汝は決してわれを知らないであろう』と彼は書いて来ました。『汝は決して吾が名をよばないであろう。汝は決して余の顔を見ないであろう、汝は死すであろうが決して誰が汝を殺せしかを知らないであろう。余は何等かの形にて汝のまわりにたぶん居るであろう。しかし余は汝が見るのを忘れている処のものにおいてただおるのである』と
「それ等の強迫状から私はこの旅行でも彼は私にかげのようについておるらしく思われます。そして霊宝を盗もうとしまたはそれを持ってるために私に何か災いをしようとしてます。しかし私は一度もその人間を見た事がありませんから、彼は私が出会う何人かであるかもしれませんよ。理論的に話して、彼は卓子テーブルにおいて私に世話をする給仕人の誰かであるかもしれません。彼は卓子テーブルに私と一緒にかける船客の中の何誰どなたかであるかもしれません」
「彼はわしかもしれんな」と機嫌のいいさげすみを持って、師父は言った。
「彼は他の何人かであるかもしれません」とスメールはまじめに答えた。「あなたは私が敵でないとたしかに感ずる唯一の方です」
 師父ブラウンは再び当惑して彼を見た。それから微笑して言った、「さてさて、全く奇妙じゃ、わしではないかな。わしが考えねばならん事は彼がほんとにここに居るかどうかを見出す何等かの機会じゃな――彼が彼自身を不愉快にする前にな」
「それを見出す一つの機会があると、私は思います」と教授は陰欝に答えた。「吾々がサザンプトンに到着した時に私はすぐに海岸に沿うて車を走らせます。もしあなたが一緒に来て下さるなら大変に喜ばしい事ですな。もちろん、吾々の仲間は解散になるでしょう。もし彼等の誰かがサセックス海岸にあるあの小さい墓地に再び現われるなら、吾々は彼がほんとに何人であるかを知るでしょう」
 教授の筋書きは師父ブラウンを加えて、まさに始められた。彼等は一方には海を控え他の一方にはハンプシェアとサセックスの丘々をのぞみ見る道に沿うて走った。何等追跡者の影も見えなかった。彼等がダルハムの村に近づいた時その事件に何等かの関係を持っていたただ一人の男が彼等の道を横ぎった。すなわちそれはちょうど今教会を訪問しそして新しく開掘した礼拝堂を過ぎて牧師に依って叮嚀にもてなされて来たばかりの新聞記者であった。しかし彼の観察は普通の新聞式のものであるように見えた。しかし教授は少し空想好きであった。それでせいの高いかぎっ鼻の眼のくぼんだ、憂欝気にたれ下った髪を生やした、その男の態度や様子に見えるある奇妙なそして気抜けのしてるという考えを取り去る事が出来なかった。彼は観光人として彼の経験に依って幾分元気をつけたように見えた。実際、彼等が質問を以て彼を止めた時に、彼は出来得る限り早くその視野からのがれようとするように見えた。
「それは到る所呪いがあります」と彼が言った。「呪いあるいは呪いでなくも、私はそこから脱れた事を喜びますよ」
「君は呪いを信じますか?」スメールは物好きげに訊ねた。
「私はいかなるものも信じません、僕は新聞記者ですから」とその憂欝な人は答えた。しかしあの土窖つちぐらにはゾットする何物かがありますね、そして僕は寒気を感じた事を否定はしませんよ」それから彼は大股でステーションの方へドンドン行ってしまった。その芝生の中には墓石が青い海に投げ上げられた石の筏のように角々が傾いていた。その道は山の背の所まで来ていて、そこからはるか、向うには偉大な灰色の海が鋼鉄のような青白い光りを持っている鉄の棒の様に走っていた。彼等の足下には硬い並んでいる草が柊の芝生の中に折れ曲って灰色や黄色に砂の中に絡っていた。柊から一歩か二歩の所で、青白い海に向って真黒く、動かない人間が立っていた。しかしそれの暗い灰色の着物から考えて「あの男は、わたりがらすか鳥のように見えますね」と彼等が墓地の方へ向って行った時に、スメールが言った。「悪い前兆の鳥について人々は何んと言いますかね?」
 彼等はそろそろと墓地に這入った。アメリカの古物好きの眼は隈なく照っている日の光をさえぎって夜のように見える水松いちいの樹の大きな、そして底知れない暗い繁茂や屋根附墓地の荒れた屋根の上にためらっていた。その通路は芝生の盛りあがった中にはい上っていた。それはある塚の記念碑の像であるかもしれなかった。しかし師父ブラウンは直ちに肩の上品な猫背と重々しく上の方へつき出た短い髯に何事かをみとめた。
「や、や!」教授は叫んだ。「もしあなたがあれを人間だとおっしゃるなら、あの男はタアラントです。私がボートの上でお話した時に、私の疑問に対して案外早く回答を得られるであろうと、あなたはお考えになりませんでしたか?」
「あんたはそれに対して色々な回答を得らるるかもしれんとわしは考えましたのじゃ」と師父ブラウンは答えた。
「なぜですか、どういうわけですか?」と教授は、彼の肩越に彼を見ながら、訊ねた。
「わしはな、水松の樹のかげに人の声を聞いたように思いましたのじゃ。わしはタアラント君は見かけのようにあの人は一人ポッチだとは考えませんじゃったよ」
 タアラントが不機嫌な様子でのろのろと来た時に、その確信を得た。女の声ではあるが、高いかなりやかましい、他の声が戯談じょうだんまじりで話していた。
「どうして私はあの人がここに居るだろうという事を知ったか?」
 この愉快な観察が彼は話しかけられたのではないという事がスメール教授に影響した。そこで彼は幾分当惑して、まだ第三の人物が居ったという結論に達した。ダイアナ夫人が水松の木のかげからいつもの様にニコニコして出て来た時に、彼は彼女は彼女自身の生きてる影である事を注目した。レオナルド・スミスのやせたさっぱりした姿が、すぐに彼女の華美な後から現われた。
譎漢共ごろつきかんども!」スメールがつぶやいた、「どうして、彼等が皆ここに居るんだろう! 海象くらげのような頬鬚の生えてるあの小さな見世物師を除いて皆だ」
 彼は彼の傍に師父がおだやかに笑ってるのを聞いた。そして真にその状態は笑い事ではなくなって来た。無言劇のトリックの様に彼等の耳が転倒したりまわってるように思われた。教授が話してる間さえ、彼の言葉は最もおかしい矛盾を受けた。奇怪な髯をもった円い頭が地の中の穴から急に現われたりした。しばしの後彼等はその穴は事実において非常に大きい穴で、地中の中心に達してる段梯子はしごに通じていて、彼等が訪ねようとした地下への入口であった事を了解した。あの小さい男がその入口を発見した最初であった。そして同伴者に話しかけようとして再び彼の頭を差出す前にもう既に梯子を一二段上っていた。彼はハムレットの中の道化に出るある馬鹿気た墓掘りのように見えた。彼はただ彼の深い髯のかげでこう言った。「ここが下りる所ですよ」しかしその声は彼等が一週間の間食事の時に彼と相対していたけれども、彼等は彼が今までに話すのをほとんど聞いた事はなかったし、また彼はイギリスの講師であるように想像されてたが、彼はむしろ外国のアクセントで話すという趣きをその一行の人々に伝えた。
「ねえ、教授」とダイアナ夫人は快活気に叫んだ。「あなたのビザンティンのミイラは見のがすにはあまり惜しゅう御座いましたの、私は皆さんとただ御一緒に見にまいりました。そして皆さんも私と同じようにお感じになったに違いありませんわ。さああなたはそれについて凡てを話してくださらねばなりません」
「私はそれについちゃ、凡てを知りませんよ」とまじめに言った。「ある点において私は何が凡てかさえ知らないのですからな。吾々がこんなにすぐに皆さんと逢うというのはたしかにおかしいと思われます。しかしもし吾々が皆そこを訪問するのなら、責任のある方法で、責任のある指導のもとに、なされねばなりません。吾々は発掘にかかりあってる誰れでも通告せねばなりません。吾々は少なくとも本に吾々の姓名を書かねばなりません」
 夫人の焦慮と古老学者の疑いとの間のこの軋轢には口論のような何物かがあった。しかし後者の牧師の職務上の権利における主張とその地方の調査ははるかにまさっていた。髯を生やした小さい男がまた彼の穴からいやいやに出て来た。そしてだまっていやいやに納得した。幸いにも、牧師が彼自身この場に現われた、彼は灰色の頭髪の人の善さそうに見える紳士であった。好古家同志として教授に親しみのある話しをしてる間、興味よりは、むしろ敵意を以てその同伴の彼の一行を見なすようには思われなかった。
「私はあなた方のうちどなたも迷信深くない事をのぞみます」彼は愉快気に言った。「まず最初に、私はこの仕事において吾々の熱心な頭にかかってる悪い前非やまたはいかなる呪いもないという事を、皆さんにお話しせねばなりません。礼拝堂の入口の上で見つけたラテン語の銘を私は今ちょうど訳している所です、そしてそれは三つの呪いがふくまれてるように思われます。すなわち、閉ざされた室に這入る事に対しての呪、第二は棺桶を開く事に対する二重の呪い。そしてそれの内部に発見された金の霊宝に触れる事に対しての三重のそして最もおそろしい呪いです。その最初の二つはもう既に私が受けたのです」と彼は微笑をもってつけ加えた。「しかし私はもし皆さんが幾分でも何かを見ようとなさるなり彼等の最初のと二番目をお受けになるだろうという事を気遣います。物語りに依りますると、呪詛は、長い間においてそしてまたなおもっと後の機会に、かなりぐずぐずした形式で現われます。私は皆さん方にとってどちらが幾分かの慰めであるかどうかは知りません」それからウォルター氏は元気のない慈悲深い態度でもう一度微笑した。
「さあ、それはどんな物語りですか?」スメール教授はくりかえした。
「それはかなり長いお話しです、よくある地方の伝説の様にですな」牧師は答えた。
「それは疑いなく墳墓の時代と同時代です。そしてそれの内容は銘の中に記されていますが。ざっとではありますがな。十三世紀の初期ここの領主の、ギイ・ド・ギソルがゼノアから来た使臣の所有である美しい黒馬に心をうばわれました。が商売気のある彼は巨額の値でなければ売る事を欲しなかったのです。ギイは貪慾のために寺院強奪の罪を犯しました。そして、ある物語りに依ると、そこに使っていた所の、僧正を殺ろしたとさえ云うのです。とにかく、僧正はある呪いを口走りました、それは、彼の墓の安息所から金の十字架を奪い取って自分のものにしたりまたはそれがそこに戻った時にそれをさまたげる誰れでもに振りかかるというのです。領主は町の鍜治屋かじやに聖宝を売って馬の代金を工面しました、がしかし彼が馬に乗った最初の日にそれが飛び上って教会の玄関の前に彼を投げ出したのです、そして領主は首を折ってしまいました。かれこれするうちに、今まで金持でその上繁昌していた鍜治屋が、不思議な事が連続的に起って破産してしまいました。そしてなおこの領地に住んでいたユダヤ人の金貸かねかしの権力に落ちこんでしまいました。饉死がしするより外にしようのなくなった、鍜治屋は林檎の樹に首をくくってしまいました。彼の他の品物、馬、店、そして道具等と一緒に、金の十字架は長い間金貸の所有になってました。そのうちに彼の不敬な父に起った天罰に恐怖された、領主の子息が、その時代の暗いそして厳格な精神における信神者しんじんものになって来たのです。そして彼の家来中の凡ての異教徒または不信者を迫害するのが彼の義務であると考えました。父親には黙許されていた、ユダヤ人がその息子の命令に依って残酷に焼かれました、それで彼が聖宝を所有していたためにひどい目にあったのです。これらの三つの天罰の後で、それは僧正の墓にかえされました。それ以来それを見た者も手をそれに触れた者もないのです。」
 ダイアナ夫人は予期していたよりもいっそう動かされたように思われた。
「これはほんとに身震みぶるいを催させますね」と彼女が言った。「牧師さんを除いては、私達がその最初であろうと考えますとね」
 大きな髯を生やしたそしてでたらめの英語を使う先鋒者は結局彼の気に入りの階段からは下りなかった。その階段は発掘を指図する労働者にだけ使用されていたものであった。牧師は百ヤードばかりはなれた大きなそしてもっと便利な入口に彼等を案内した。そこから彼はたった今地下を調査して出て来たばかりであった。ここでは少し下り道ななだらかな傾斜なのでだんだんに暗さをます以外にはさして困難ではなかった。彼等は松脂まつやにのように黒い磨り減らしたトンネルの中に動いてるのがわかった。そして彼等が上の方に一条の光線を見たのはそれからまもなくであった。その沈黙の進行の間に一度誰れかの呼吸のような音があった。それは誰れのであるか言う事は不可能であった。そして一度そこにはにぶい爆音のような嘲罵ちょうばがあった、そしてそれはわからない言葉であった。
 彼等は円いアーチの会堂のような円い小室こべやに出て来た。なぜならその会堂はゴシック式の尖端さきのとがったアーチが矢尻のように吾々の文明をつきさす前に建てられたものであるから、柱と柱の間の青白い一条の光りが頭上の世界への他の出入口を示した。そしてまた海の下に居るという漠然たる感じを与えた。
 ノルマン風の犬歯状の模様が、巨大なはぜの口に似たある感じを与えて、底知れぬ暗さのうちに、アーチ中にかすかに残っていた。そして石の蓋が明いていて、墳墓それ自身の暗い巨体の中にかかる大海獣のあごがあるかもしれなかった。
 ふさわしいという考えからかあるいはもっと近代的な設備の欠乏からかして、その僧職の好古家は床の上に立ってる大きな木製のローソク台にただ四本の丈高いローソクをとぼして会堂の照明を計った。これ等の一本が、彼等が這入って来た時に、偉大な古物に弱々しい光りを投げながらとぼされた。彼等が皆集った時に、牧師は他の三本に火をつけるために進んだ、そして巨大な石棺の形ちがもっとはっきりと見えて来た。
 凡ての眼は、ある神秘な西方の方法に依って幾年ともなく保存された、その死人の顔に注がれた。教授は驚異の叫びをおさえる事がほとんど出来なかった。なぜなら、その顔は蝋燭の面のように青白くはあったけれども、今眼を閉じたばかりの眠ってる人のように見えたから。その顔は骨っぽい骨格を持ち、狂神者型でさえある、苦業者の顔であった。体は金の法衣とそして華美な祭服をつけていた。そこから胸の所が高くなっていて、喉の下の所に種々短い金の鎖の上に有名な黄金の十字架が輝いていた。石の棺は頭部の蓋を上げると開かれるようになっていた。二本の丈夫な棒でそれを高く支えて、上部の石の平板ひらいたの端にひき上げて、それから死骸の頭の後の棺の角々に差入られた。それで足と体の下の方はよく見られなかった。けれども蝋燭の光りは顔一っぱいに照らした、そして海牙色の死人の色合に対照して黄金の十字架は動きそしてまた火のようにきらきらするように見えた。
 牧師が呪いの物語りをして以来、スメール教授の大きな額は反省の深い皺がきざまれた。しかし敏感な女性の直感は彼の周囲の人々より以上彼の苦悩してる不動の意味を了解した。その蝋燭の光に照された洞穴の沈黙の中にダイアナ夫人は不意に叫び声をあげた。
「それにさわってはいけないと、いうのに!」
 しかしその男は死体の上にかがんで、獅子の如き迅速な勢いで、もうすでにさわっていた。つぎの瞬間彼等は凡て、ちょうど空が落ちて来たかのようなおそろしい身振をもって、ある者は前に、ある者は後に、突進した。
 教授が黄金の十字架に一指をふれた時に、石の蓋を支えるためにごくかすかに曲っていた、棒が飛び上ったので彼等は身振いをしてかたくなったように思われた。石の平板へいばんの縁が木の台からすべった、それから彼等の身も魂も、絶壁から振りおとされるような、奈落に落ちこむようないやな気持ちになった。スメールはす早く彼の手をひいた、がもう間にあわなかった。それから彼は頭からタラタラと血を流して、棺桶のそばに人事不省にたおれた。そして古るい石の棺は何世紀もの間閉じていたように再び閉じられた。食人鬼にさかれた骨を暗示するような、割目につきささった一二の棒片ぼうぎれを除いて、その大海獣は石の口をパックと噛んだ。
 ダイアナ夫人は狂気の如き電光を持った眼でその破滅を眺めていた。彼の母の髪は青い薄明りの中の蒼白な顔に相対して真紅に見えた。スミスは彼の頭の辺りに犬らしい何物かを以て、彼女を眺めていた。しかしそれは彼がただわずかに了解する事が出来る彼の主人の災難を眺めるだけの表情であった。タアラントと外国人は彼等のいつもの冷淡な態度で面をこわばらしていた。牧師は弱ってるように思われた。師父ブラウンはたおれた人の傍にひざまずいて、その様子を吟味しようとしていた。
 皆んなの驚きをよそに、ポール・ターラントは彼を助けようと前に進んで来た。
「外へ運んだ方がよろしいですね」と彼が言った。「私はまだちょっと見込みがあると思いますよ」
「この人は死んではおられん」ブラウンが低い声で言った、「がしかしわしはかなり悪いように思いますじゃ、あんたはお医者さんじゃないかな、時に依っては?」
「そうじゃありません、しかし僕は僕の年頃では色々な事をせねばなりませんからね」と相手が言った。「しかしちょっと僕に関しちゃ御心配無用です。僕のほんとの職業はたぶんあなたをおどろかすにちがいありませんよ」
「わしはそうは思わんよ」とかすかな微笑をもって、師父が答えた、「わしは航海中の半ばはそれについて考えとったんじゃ。あんたは誰れかをつけとる探偵じゃ。まあまあ、十字架は盗人の手から安全ですわい、とにかくな」
 彼等が話してる間にターラントはやすやすと器用にたおれた人を抱き上げて入口の方へ彼を注意深く運んでいた。彼は肩越しに答えた、「左様です、十字架はもう安全ですよ」
「あんたは他に誰もいないと言われるんかな」ブラウンは答えた。「あんたも、その呪いの事を考えておられるのかな?」
 師父ブラウンはその悲劇的な出来事の衝動以上に何物かがあった渦まいてる混乱の仕事のために一二時間ばかりの間行ったり来たりした。彼は教会の向うにある小さい旅館にそのぎせい者を運ぶのを手伝った。そして医者を呼んだ。医者は生命には別条がないが、まさしくおどおどしながらその怪俄について話した。そしてまた旅館の客間にあつまっていた旅行者の一団にそれを報告したりした。しかし彼が行ったどこにでも神秘の雲が彼に横たわっていた。そして彼が考えるほどますます暗くより深くなるように思われた。なぜなら中心の不可思議はますます神秘になって来た。現に彼の心の中で明白となり始めた、その領地の神秘までも、その一行の個々の人物を考えてみてもその突発した事件を説明するのはますます困難になった。レオナルド・スミスはダイアナ夫人が来たために単に来たのである。そしてダイアナ夫人は彼女が希望した故に来たのであった。夫人のロマン主義は迷信的な方面を持っていた。そして彼女は彼女の冒険のおそろしい結果に充分弱っていた。ポール・ターラントは、たぶんある妻かまたは夫の、悪巫山戯わるふざけを監視するような好ましからぬ外国人の態度を多く持っていた。そして実際は、髯のある外国の講師のあとをつけている、私立探偵であったのだ。しかしもし彼かあるいは他の何人かが聖宝を盗もうと計画したのであったならその計画は完全に打ちこわされるのであった。
 彼が宿屋と教会との間の、村の通りの真中に一方ならぬ混乱の中に立っていた時に、その通りに近づいて来る親しみはあるがむしろ予期しない人物を見て驚きの軽い衝動を感じた。太陽[#「陽」は底本では「洋」]の光りに非常にやつれて見える、新聞記者の、ボーン氏であった。日の光りは案山子かかしのそれのような薄ぎたない彼の着物をあらわにした。そして彼の暗いそして深く落ちこんだ眼が牧師にジート注がれた。後者のその厚い髯はニタリ笑いのような少なくとも凄い微笑に似た何物かをかくしたという事を見極めるために二度見つめた。
「わしはあんたはもう行ってしまわれた事じゃと考えてましたわい」師父ブラウンは少し鋭く言った。「あんたは二時間も前の汽車で出発されたんじゃと思っとりましたよ」
「ところで、あなたは私が出発しなかった事がおわかりでしょう」ボーンが言った。
「なぜあんたは戻って来られたんじゃな?」まじめに坊さんが訊ねた。
「急いで立ち去るのは新聞記者にとってあまり結構な事ではありませんからね」と相手が答えた。「ロンドンのような陰気な所に帰って行く間にここで色々の出来事があまりに早く起ります。その上、彼等はこの事件から私をのぞく事は出来ますまい――私はこの二番目の事件の事を言うのですが。あの死体を見つけたのは私でした。あるいはとにかく着物をね。私は全くうたがわしい行為は、ないじゃありませんか? たぶんあなたは私が彼の着物をつけたがったとお考えになりましょう」
 それからやせた長い鼻をした山師は不意に、彼の両腕を差しのべそれから道化の祈祷の様な具合に彼の黒い手袋をはめた両手を拡げながら、市場の真中に変な身振りをした。つぎの様な事を言いながら、「オオ親愛なわが兄弟よ、吾は御ん身等凡てを甘受するであろう……」と、
「一体あんたは何を言うとられるんじゃ?」師父ブラウンは叫んだ、そして彼のずんぐりした蝙蝠傘で軽く敷石をたたいた。なぜなら彼はいつもより少し気短かであったから。
「ああ、もしあなたが宿屋に居るあなたの遊山の一行に尋ねられたならそれについての凡ての事がおわかりになるでしょう」とボーンは不平気に答えた。「[#「「」は底本では欠落]あのターラントという男は私がただ着物を発見したという理由で私を疑ってるようです、けれども彼は自分でそれを見つけるのにほんの一分おそく来たのです。しかしこの事件にはあらゆる種類の神秘があります。あの事件に対して、なぜあなたがご自分であの哀れな人を殺さなかったか私にはわかりませんよ」
 師父ブラウンはその諷示には少しも悩まされてるようには見えなかった、がその観察に依って非常に当惑させられそしてまた煩わされた。
「あんたは」と彼は卒直に訊ねた。「スメール教授を殺そうとしたのはわしだったと言われるんですかい?」
「いやそうじゃないです」とさっぱりと譲歩する人の態度で手を振りながら、相手が言った。「死人の多くはあなたに取っては決定する事が出来る。スメール教授に限った事じゃありません。まあ、あなたは誰れか他の者が、スメール教授よりもたくさんな死人を出したのを知りませんか? そして私はなぜあなたが、こっそりと彼をやらなかったかわかりませんな、宗教的な相違、ねえ……キリスト教徒の残忍な軋轢……私はあなたがいつもイギリスの牧師管区を取り戻すのを望んでいられたと思いますよ」
「わしは宿屋へ戻りますじゃ」と坊さんはもの静かに言った。「あんたはあそこに居る人達はあんたが意味する事を知っとると言われる。それでたぶんあの人達はそれを言う事が出来るかもしれん」
 事実、彼の秘かな当惑は新しい災難の報告に一瞬間の散乱を告げた。一行の残りの者があつまっていた小さい客間に這入った瞬間に、彼等の蒼白い顔の何物かに墳墓についての事件よりもっと新しい何事かに依って感動された事を彼に話した。彼が這入った時でさえレオナルド・スミスはこう言っていた。「一体これはどこで終るんですか?」
「それは決して終らないでしょう、って言うのに」ガラスのような眼で空間を見つめながら、ダイアナ夫人が繰りかえした。「それはね私達が皆終るまで決して終らないでしょうよ。かわがわる呪いが私達にふりかかるでしょう、あの牧師さんが言ったように、たぶんそろそろとね、しかしそれはあの方にふりかかったように私達皆んなにかかる事でしょう」
「一体全体また何事が起りましたかな?」師父ブラウンが訊ねた。
 沈黙が起った。それからタアラントが少し洞声どらごえのように轟く声で言った。
「牧師の、ウォルター氏が自殺されました。激動があの人を攪乱させたのだと僕は思いますよ。それについちゃ疑いがないらしく思われます。吾々は今ちょうど海岸から突き出てる岩の上に彼の黒い帽子と衣類を発見した所です。彼は海中に飛びこんだように思われるのですがねえ。僕はそれが智慧の足りない彼を打ったかのように彼が見えたと思いました。してたぶん吾々は彼の面倒を見ねばならないのです、しかしそうたいして面倒見る事はありませんでしたが」
「あんたは何んにもなさる事が出来なかったのです」と夫人が言った。「[#「「」は底本では欠落]物事はおそろしい命令に運命を取引きされてるのがわかりませんか? 教授は十字架にさわりました、そして彼が第一に行きました。牧師さんは墳墓を開きました、そして彼は二番目に行きました。私達はただ会堂に這入ったばかりでした。それに私達は――」
「おだまんなされ」と、めったに使わない鋭い声で、師父ブラウンは言った。「これは止めねばならんですぞ」
 彼はなお重々しいしかめ顔をしていた、けれども彼の眼にはもう混乱の雲りがなかった。ただほとんどとけかけたおそろしい了解の光りがあった。
「なんてわしは馬鹿じゃろう!」彼はつぶやいた。「わしはもうとうにそれがわからんければならんのだった。呪いの話しはわしに話されるべきじゃった」
「あなたは十三世紀に起ったある事に依って吾々がほんとに殺されるとこう言われるのですか?」
 師父ブラウンは彼の頭を振ってしずかな語勢で答えた。
「わしは吾々が十三世紀に起ったある事に依って殺されることが出来るかどうかを論じたことはありませんじゃ、しかしわしはな吾々は十三世紀に決して起らなかったなにか、すなわち全然起らなかった所のなにかに依って殺されないという事はたしかじゃ」
「左様」とターラントが言った、「そのような不可思議な事に対して懐疑的である坊さんを見出すのは愉快な事ですな」
「いやいや」と坊さんはおだやかに答えた、「わしが疑うのは超自然な点ではないのじゃ、それは自然的な点じゃよ。『私は不可能を信ずる事は出来る、がしかし有りそうもない事を信ずる事は出来ぬ』と言うた人の心持ちと同じ所に居りますのじゃ」
「それはあなたが逆説と呼ぶ所の事ではないのですか?」と相手が訊ねた。
「それはわしが常識と呼ぶ所のものじゃよ」師父は答えた。「吾々が了解する事に相反する自然な物語よりは、吾々が了解しない事を話す、超自然的な物語りを信ずるのがもっと自然でありますじゃ、あの偉大なグラドストンが、彼の最後の時パーネルの幽霊につかれたということをわしに話して見なされ、わしはそれについては不可知論者じゃ。しかしグラドストンが最初に、ビクトリア女王にお目通りをした時に、彼女の居間で深い帽子をかぶりそして彼女の後ろをパタンとたたいて彼女に煙草を差上げたという話しをわしに聞けば、わしはちっとも不可知論者じゃありませんわい。それは不可能じゃありませんぞ、それは同じ信ぜられぬ事じゃ、それでわしはパーネルの幽霊が現われなかったというよりはそれは起らなかったという方がもっとたしかでありますじゃ、なぜならそれは私が理解する世界の法律を犯すからじゃ。それで呪いの話しについてもそうですじゃよ。わしが信じないのは伝説じゃありませんのじゃ――それは歴史ですわい」
 ダイアナ夫人は凶事予言者についての彼女の恍惚から少し恢復した。そして新しい事についての彼女の好奇心が彼女の輝いた好奇の眼から再び現われ始めた。
「なんてあなたは奇妙な方でしょう!」彼女が言った。「なぜあなたは歴史を信じないのでしょうか?」
「なぜならそれが歴史じゃないからわしは歴史を信じないのじゃ」師父ブラウンは答えた。「中世紀に関して少しでも知っとる人に取ってはな、その話しは全部グラドストン[#「グラドストン」は底本では「グラドスン」]がビクトリア女王に煙草を差出したのと同じように信じられぬ事なのじゃよ、しかし中世紀について誰がいかなる事を知ってますかな?」
「いいえ、もちろん私は存じませんわ」と夫人は意地悪く言った。
「世界の他の一端において、乾いたアフリカ人の一組を保存したのが、もしタアタアカ人であったら、その理由は神様が御存じじゃ、もしそれがバビロン人かあるいは支那人であったなら、もしそれが月の世界に居る人間のように神秘なある人種じゃったら、新聞紙から歯ブラッシに至るまで、それについて凡てあんた方に報告するじゃろう。がしかし人間は吾々の教会を建てそして吾々の町やまた今現に歩いて道路に名をつけたのじゃ――しかしそれ等について何事も知るような事が起らなんだ。わしもわし自身多くを知っとるのではない、がしかしその物語りは始めから終りまでつまらないそして馬鹿気た事じゃという事を見抜くに充分なだけは知ってますわい。人の店や道具を差押えるのは金貸としてはそれは不正であったのじゃ。ギイドがそのような破産から人を救わなかったという事は、全くありそうな事ではないのじゃ、殊に彼がユダア人に依って破滅させられたのだとするとな。人々は彼等自身の罪悪や悲劇を持ってますのじゃ、彼等は時としては人々を責め苦しめあるいは焼きましたじゃ、世の中に神も希望もなしに、彼が生きていようといまいと誰もかまわない故に死へとだんだんに寄って来るという人間の考え――それは中世紀の思想ではありませんのじゃ。それは吾々の経済的な科学と進歩の生産なのですぞ。そのユダヤ人はきっと領主の家来じゃなかったのじゃろう。ユダア人は神の下僕として特別な位置を持っておったのじゃ、殊に、ユダア人は彼の宗教のために焼き殺されるはずはなかったのじゃ」
「逆説が増してきますな」ターラントが口を入れた、「しかしたしかにあなたは中世紀においてユダヤ人が迫害されていたという事を首肯なさらんでしょうな」
「それは真理に近いようじゃな」師父ブラウンが言った、「彼等は中世紀において迫害されなかった唯一の人々であったという方がな。もし君が中世紀主義を諷刺しようとすればじゃ、あるキリスト教徒がホームアシヤン(三位一体を信ずる人)に関してある過失をしたために生きながらに焼かれ、しかるに富めるユダア人はキリストやその聖母を大っぴらに罵りながら町を横行するかもしれないという事を云えば立派な例を造る事が出来るじゃろう。それは決して中世紀の物語りではなかったのですわい。それは決して中世紀についての伝統でさえなかったのじゃ。それは誰れかが小説かまたは新聞から取った意見でつくり上げられたものじゃな、そしてたぶん一時の興に乗って造ったものじゃ」
 他の人々は歴史的の枝話しに依って少し眩惑したように思われた。そしてなぜ坊さんがそれを力説しそしてまた難問題の一部分をそんなに重大にしたかを不審がるように見えた。枝話しの色々な縺れから実際的な詳細を拾い上げるのが商売であった、ターラントは不意に油断なくなって来た。彼の髯のある顎、いつより前の方へつき出された、しかし彼の凄い眼は大きく見開いていた。
「ああ」彼が言った。「一時の興に乗って作ったか!」
「たぶんそれは針小棒大ですじゃ」師父ブラウンがおだやかに言った。「それは非常に注意深い筋の他のものよりもっとうかつに造られたという方がいいじゃろう。しかし企画者は中世の歴史を詳細に考えなかったのじゃ。普通な方法において彼の推定はかなり正しくあったよ。彼の他の推定のようにな」
「誰れの推察ですか? 誰れが正しかったのですか?」と焦慮の不意な熱心を以て夫人が叫んだ。「あなたが話しておられるのは誰れの事なのですか? あなたの『彼』やそして『彼を』にむずむずさせられずに、私達はやり通せませんか?」
「わしは殺人者について話してますのじゃ」と師父ブラウンが言った。
「何んな殺人者ですか?」彼女は鋭く訊ねた。「あなたはあのお気の毒な教授は殺されたとおっしゃるのですか?」
「左様」ターラントは彼の髯の中でがさつに言った、「吾々は『殺害された』という事は出来んですよ、なぜなら吾々は彼の人が殺されたのを知りませんからな」
「人殺しは他の誰かを殺したのですぞ、それはスメール教授ではないのじゃ」と坊さんはまじめ気に言った。
「まあなぜ、他に誰れを殺しましたか?」と他の者が言った。
「彼はダルハムの牧師である、尊敬すべきジョン・ウォルター氏を殺ろしたのじゃ」とブラウンは気むずかし気に言った。「彼はそれ等の二人を殺ろしたかったのじゃ、なぜなら彼等二人ともある珍らしい型の聖宝を持っておったからじゃ。殺人者はその点において狂人の一種じゃったな」
「それは凡て大変奇妙に思われるな」ターラントがつぶやいた。「もちろん僕等は牧師はほんとに死んだかどうかを誓う事は出来んですよ。吾等は彼の死骸を見ないんですからな」
「大きに言われる通りじゃ」ブラウンが言った。
 そこには銅羅の打撃の様に急な沈黙があった。その沈黙において夫人の内に非常に正確に活動した心の奥底の当推量がほとんど叫び声を上げんばかりに彼女を動かした。
「それはたしかにあんたが見られたものじゃ」と坊さんは話し続けた。「あんたは彼の死骸を見られたはずじゃ。あんたはほんとに生きてる、彼を見なかったのじゃ。しかしあんたは彼の死骸は見られたはずじゃ。君は四本の大きな蝋燭の光りでそれをよく見たのですぞ、そしてそれは海中に自殺的に投げられていなかったじゃ。が十字軍の前に建った寺院にある教会の王子のような風に横たわっておったのじゃ」
「簡単に言いますと」ターラントが言った、「あなたはあのミイラにした死骸はほんとに殺された人の死骸であったと吾々に信ぜよと言われるのですね」
 師父ブラウンは一瞬間黙っていた。それから彼は無頓着な態度で言った。
「それについてわしが気づいた最初の事は十字架、むしろ十字架を支えてる紐でありましたのじゃ、当然、あんた方にとっても、それはただ小珠こだまの紐であった。[#「。」は底本では欠落]特別にどういうものではなかったのじゃ、が、しかしまた当然、それはあんた方のよりはわしの職掌にあったのじゃからな。あんた方はそれが毛皮製の頸巻が全く短くあったかの如くに、ほんの二三の小珠が見えたばかりで、顎にズット近くおかれた事を御記憶じゃろう。その外に見えてた小珠は変った風にならべられておった。最初の一つそれから三つ、そして続いてな、事実において、わしは一目見てそれは珠数じゅず、すなわちそれの一端に十字架のついてる普通の珠数であった事がわかってしまったじゃ。しかし球数は少くとも五十珠とそれに附加する小珠を持ってますのじゃ、それでわしは当然それの残りのものはどこにあるかを不思議に思いよったのじゃ。それは老人の頸を一まわり以上まわるに違いありませんわい。わしはそのときにはそれを判断する事が出来なんだ。がその残りの長さがどこに這入ってるかを想像したのはすぐその後じゃったよ、それは蓋を支えてた、棺桶の角にくっつけられておった木の棒の足にぐるぐるとまかれてあったのじゃ、いいかな、それは気の毒なスメールがほんのちょっと十字架に触った時、それがそこからその支え棒をはずしたのだ、そして蓋が石の棍棒のように彼の頭に落ちたのじゃ」
「ヤレヤレ!」ターラントが言った、「僕はあなたのいわれる事に何物かがあると考え出してますよ。もしそれが事実としたらこりあ奇妙な話しですね」
「わしはそれが解った時に」と師父ブラウンが続けた。「わしは多少他の事も推察する事が出来ましたのじゃ。まず最初に、調査以上に何事に対しても信用すべき考古学上の権威がなかったという事と、記憶なされ、気の毒な老ウォルター氏は正直な好古家であったのじゃ、彼はミイラにされた死骸についての伝説に何か真実があったかどうかを見出そうと墳墓を開ける事に従事しておられたのじゃ、その他の事は皆、かかる発見をしばしば予想しまたは誇張して言う、風説でありますのじゃ。事実、彼はミイラにされていたのでなく、長い間埃の中に埋まっていたのだという事を発見されたのじゃ。彼が埋まった会堂の中でさびしい蝋燭の光りをたよりにそこで仕事をしていた時に、蝋燭の光りは彼自身のではない他の影を投げた」
「ああ!」とダイアナ夫人は息がつまるように叫んだ、「まあ私は今あなたのおっしゃる事がわかりますわ、あなたは私達が殺人者に逢った事を私達に話すおつもりなんです、殺人者と話した戯談じょうだんを言って、彼にロマンテックな話をさせ、そしてそのままに彼を離そうとなさるおつもりなんです」
「岩の上に彼の僧侶の仮装を残してな」とブラウンはぎなった。「それは皆至極簡単じゃ。この男は教会と会堂へ行く競争で教授より先きであった。たぶん教授があの新聞記者と話していた間にな。彼は空の棺桶の側に老牧師と共に進んで来た、[#「、」は底本では欠落]そして彼を殺ろしたのじゃ。それから彼は死骸から取った黒い着物を着け、調査間に発見した所の古るい法衣でそれを包んだのじゃ、それからわしが述べたように珠数やそして木の支え棒を手配して、それを棺の中に入れたわけじゃな。それからじゃ、彼の第二の敵に係蹄わなをかけて、彼は太陽の光りの所に出て来て田舎の牧師の最も叮嚀さを以て吾々一同に挨拶をしたのじゃ」
「彼はおそろしい冒険をしたですな」とターラントは異議を申し立てた。「誰れかが見てウォルタース氏である事がわかるかもしれないのにな」
「わしは彼は半気違いになったと思いますわい」と師父ブラウンは同意した。「してわしはあんたもその冒険はやる価値があったという事を認めなさるじゃろう、なぜなら彼は逃げてしまったのじゃからな、結局」
「私は彼は非常に好運だった事は認めますな」とターラントはうなり声で言った。「してそやつは一体誰れですか?」
「あんたが言われる通り、彼は非常に幸運じゃったよ」ブラウンは答えた、「してその点に関しては少なからずな、なぜならそれは吾々が決してわからないかもしれん一事であるからな」
 彼は一瞬間恐ろしい顔をして卓子テーブルをにらんだ。それから言葉を続けた。「この人間は長年の間徘徊したりおどしたりしておったのじゃ、しかし彼が用心深かった一事は彼は誰れであったかを秘密にしてる事であったのじゃ。そして彼は今なおそれを保っているのですぞ。わしが考えた様に、気の毒なスメール教授が正気にかえられれば、あんたはそれについてもう聞かないじゃろうというのはかなり確かですわい」
「まあどうして、スメール教授はどうなさるのでしょうか、どうお考えになりますか?」とダイアナ夫人が訊ねた。
「彼がするであろう最初の事は」とターアラントは言った。「この殺人鬼に探偵をつけるに違いないと考えますな、私は自分で彼について行きたいですよ」
「さて」と師父ブラウンは、長い当惑の発作の後で不意に微笑して言った。「わしは彼がなすべきその最初の事を知ってますじゃ」
「そしてそれは一体何んで御座いますか?」と熱心にダイアナ夫人が訊ねた。
「彼は吾々皆んなに弁解すべきじゃな」と師父ブラウンが言った。
 けれども師父ブラウンがその著名な考古学者の遅々たる恢復の間そのそばにあってスメール教授に話したというのは、この趣意のためではなかった。重に話しをしかけたのも師父ブラウンではなかった。なぜなら教授は興奮するような会話は非常に制限されておったけれども、彼は彼の友人とのそれ等の面会に全力を注いていた。師父ブラウンは沈黙の間に相手に力をつける事に才能を持っていた。そしてスメールはそれに依って勇気づけられて常には容易に話せないような色々な奇妙な事について話した。また恢復の病的な状態なそして時折うわ言を伴う怪異な夢等について話した。ひどく頭を打たれたのから除々に回復するのはしばしばかなり平均を失う仕事である。彼の夢は、彼が研究した所の強いがしかしかた苦しい古代の美術にありそうな、絵画にある大胆なそして大きな図案のようであった。それ等は菱形や三角の後先のついた奇妙な聖者、ずっと前につき出てる黄色の冠そして丸い暗い平たい顔をして鷲の模様や、女のように髪を結んだ顎髯のある男の高い頭飾り等で一っぱいであった。幾度となくそれ等のビザンテン模様は火の上に置かれて色のあせる金のようにあわくなって行った。そして暗いあらわな岩壁の外には何にも残らなかった。その上にはピカピカ光る形ちが指で魚の燐光の中にすくい上げたように描かれてあった。なぜならそれは彼が最初に彼の敵の声を暗い道の角で聞いた瞬間に、彼が一度見上げそして見た標徴であったから。
「そしてとうとう」と彼が言った。「私はその絵と声の中にある意味を見たと思います。それは前にどうしてもわからなかったものでしたが、なぜ私は多くの正気な人々の中のただ一人の狂人が私を死まで迫害したりまたはつけねらったりするのを自慢にするために苦しむのでしょうか? 暗い塋穴[#「塋穴」は底本では「埜穴」]の中にキリストの神秘な表徴をえがいた人は非常にちがった状態において迫害されました。彼はさびしい狂人でした。共に同盟されていた正気な全社会は彼を救いもしなければまた殺しもしませんでした。私は時々私の迫害者はこの人かあの人間であったかどうかを騒ぎ立てたり不安になったり不審がったりしました。それはターラントであったかどうか、それはレオナルド・スミスであったかどうか、それは彼等のうちの一人であったかどうか、彼等が全部それであったと考えてごらんなさい! それはボートの上の凡ての人または汽車あるいは村における凡ての人であったと考えてご覧なさい。私が関係した範囲では、彼等は皆殺人者であったと、見なします。私は暗黒の内部をはいまわってきました。そしてそこには私を破滅さすに相違ない人間が居りましたからおどろかされるのは当然であると思いました。もしその破壊者がこの世に出て全世界を所有し、そしてあらゆる軍隊を指揮したら、それはどんなものでしたろうか? もし彼が全世界を塞ぎあるいは私の穴から私を煙り出しまた明るみに私の鼻が出た瞬間に私を殺すことが出来たらどんなものでしょうかね? 全世界に殺害が行われたらどんな風でしたかな? 世界はこれ等のことを忘れています、ちょっと前まで戦争を忘れていたようにですな」
「そうじゃ」師父ブラウンが言った、「しかし戦争が起りましたじゃ、魚は再び地下におしこめられるかもしれん、だがもう一度この明るい太陽の光りのもとに出て来るじゃろう。セント・アントニーが諧謔的に注意したように、ノアの大洪水に生き残るのははただ魚だけじゃ」

底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
   1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或→あ・ある・あるい 恰も→あたかも 貴方→あなた 如何→いか・どう 何時→いつ 一層→いっそう 於→お・おい かも知れ→かもしれ 斯様→かよう 此・斯→こ 極く→ごく 然し→しかし 然も→しかも 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 其→そ・その 其処→そこ 其の中→そのうち 其奴→そやつ 度い→たい 大部→だいぶ 沢山→たくさん 丈→だけ 只・唯→ただ 度→たび 多分→たぶん 偶々→たまたま 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居→てい・てお 逐々→とうとう 何処→どこ 兎に角→とにかく 尚→なお 中々→なかなか 何故→なぜ 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 正に→まさに 先ず→まず 亦・又→また 迄→まで 儘→まま 間もなく→まもなく 勿論→もちろん 俺→わし」
※底本中、混在している「ビザンテン」「ビザンティン」、「スマイル」「スメエル」「スメール」、「ユダヤ」「ユダア」、「タアラント」「ターラント」「ターアラント」、「ウォルター」「ウォルタース」は、そのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年8月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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