上

 素麺は潰しても潰しの利かぬ学者の奥様
 山の手のどこやらに、是波霜太コレハシモタ様とて、旦那は日々さるお役所の属官勤め、お髭もまだ薄墨の、多くはあらぬ御俸給ながら、奥様もさる学校の女教師様、お二方の収入を、寄合世帯の御仲睦しく、どちらが御主人とも分らぬ御会釈ぶり。お座敷にはちやんとお二方の机並べて、男女合宿の書生交際つきあひ、奥様役もかたみ代はり。毎朝の御出勤にも、旦那様の洋杖奥様持ちて送り出たまへば、奥様がお穿きものの注意、旦那様より老媼ばあやに与へらるるほどの御心入り。二三町は御一所に、向ふ横町でお別れの際には、両方から丁寧にお辞儀なさるるとて、男尊女卑の風習に慣れし人達の珍しがり、時刻を計りてわざわざ見物に行くほどの評判も、我にやましきところなければと、お二方は澄ましたもの。両方から様づけの御相談も奇麗に調ととのひ、日曜毎には上野浅草、手を携へて御散歩のつど、今日はあなたのお奢りになされませ、次の日曜には私がと、いつさい議論はぬきにしての同権交際。これで一生が済むものなれば、女の子を生んだとて、さう案じたものではない。孫にも何か職業をと、老媼も大きに発明したほどの仕儀。去年の暮には、旦那様から、奥様へは吾妻コート、奥様からは旦那様へ、銀側時計のお贈り物。この暮は何がよからむと、春早々から、暮れゆく年の、人の苦労も御存ぢなきかの嬉しき御思案。真理に合ひし御算段も、がらりと外れし奥様の御懐妊。初夏の頃より酸きもの好みしたまひて、十二月の末といふには、お二方へ平等のお贈りもの、天からも降らず、地よりも湧かねど、奥様のお腹より、おぎやあおぎやあと飛出せしお子宝。そのお喜びにお歳暮としくれとりやりも立消えとなりしその代はり、おしめの詮索、玩具の買ひ入れ、御余念もなきその内に、年も明けお枕直しも済みて、奥様は従前の通り御出勤。赤様は乳母の手に、虫気もなく育ちたまふ嬉しさに、今日はあなたが早かつたの、明日は私が勝ちまするのと、御帰宅の遅速に、赤様の可愛さ加減、正比例でもするかのやうに、お土産までも競争心、罪のないいさかひに日を暮したまふ程に、ゆく月も来る月も、会計は足らぬがち、これまでには覚えなき、三十日みそかの苦労にお気がつき、さても不思議小さき人一人殖えたればとて、この費物ものいりの相違はと、お二人ともども細かき算盤置きたまへば、なるほど奥様の御出勤故に、身分不相応なる乳母といふ金喰ひ代物、これで確かに五六円づつの相違はあり、その上出産当時の費用、旧産婆では心許なしと、内務省免許の産婆のちやきちやき産科医までも人選びした上、習慣ではあれど古襤褸ふるぼろ古綿などは、産褥熱を起こすものと、これも消毒したガーゼ。万事病院もどきのお手当の済口は、毎月の収入で償ふてゆく筈なりし、それやこれやでこの仕儀と。ここ一番改革の必要に迫られて、旦那様はその夜一夜、まんじりともしたまはず。考へ通したる挙句の果てが、あるべき事か勿躰なや、学者の奥様を潰しものに、これからはお台所働き。お守り役も御自身に、乳母と老媼はお払筥はらひばこ、人二人減らすとして見ると、よし十何円の奥様のお月給それは皆目這入らぬとしたところで、お身のまはりの張も要らず、御交際費も皆無となる、その上にもまた世帯の費用、主婦自分が立働くと、下婢にさすとは二割の相違。それやこれやを差引けば、さうした方が遙か利方と。苦肉の一策いひにくさうに、打明けての御談合。奥様とてもこの節の会計、持てあぐみたまふ折からとて、いやいやながらもさう致しまする外はとの御内意に、首尾よう御相談纒まりて、速かに学校を御辞職の、それよりは形勢一変、お頭だけは束髪の、奥様が何事ぞ、前垂掛の世話女房、赤様をおんぶして、釜の下焚き付けたまふ事もある。それは覚悟の上ながら、慣れぬ手業の煮たきの失策しくじり。お学問とは関係なきを、万々御承知の筈の旦那が、かうして見ればつゆいささか、伎倆なき奥様の、内兜見透したまひてや。お詞さへもいつしかに、どうせいかうせいの下女待遇あしらひ。いかに養はれてゐればとて、そんな筈ではなかりしと、奥様が今日この頃の不平の矢先。旦那様よりまた横柄なる御註文。たびたび異味の、御馳走には恐れるから、今日は肉も肴も要らない。あつさりとしただしで、冷素麺ならば造作もなからう。この間某の宅で振舞はれし、それは実にうまかりし。あれは実に幸福だ、細君が料理の上手故にと、あてこすりの誉め詞は、確かに我を批難の心か。さても憎し縁側で、髭をひねるその手間で、なぜこの台所の忙しさ、手伝ふては下されぬかと、奥様のお腹立はまた一倍。なんでもない事冷素麺、それはかうするものであろと、さつと一杓水かけて、すすぎし上のゆで加減、何とでござんす良人あなたと、この頃の信用恢復に、鼻もたかだかさし付くるつもりなりしに、青菜に塩のそれならぬ、生素麺に水の奇特。さても不思議やめちやめちやの惣潰れ、打つて一丸となすべきも、引延ばされぬ時間の切迫。まだかまだかとせつかるる、奥様ははや絶躰絶命。この失策を披露しては、またまた相場が下がるであろと、思ひ付きの急腹痛あいたあいたとうめかかるに旦那様も大吃驚びつくり。どこぢやさすつてやらうかと、ひだるきお腹に力一ぱい、お部屋へ扶け入りたまひての御介抱振。まんざら御愛情の失せしでもなき御様子に、奥様もほつと安心の、その次にはお気の毒、始めて素麺の仔細、かくかくと打明けての御懺悔、あまりの事に旦那様もお腹は立たず。我も貴様を、潰して遣ふつもりならず、やはりこれも素麺同様、潰しの利かぬ代物だつたか。これでは思案を代へねばならぬと、己が名の霜太霜太を、幾度も繰返したまひしとかや。(『女学雑誌』一八九七年七月二五日)

   下

 約定証書の持腐りは、犬も喰はぬ喧嘩の本色
 提燈に釣鐘、釣り合はぬは不縁の基と、いひしは昔の昔の話。今では愛情の、一致だにあらば、よし華族様の御夫人に、小屋ものの娘が上らうとも、長持のせぬには限らぬ箪笥釣台、取揃へての拵へ取り、大流行の世の中とて、そんな事気にするものはなき、太平の御代に、これもたしかそのお仲間とか聞きし。名も数寄屋橋近くに、金輪内雅と名のりたまふ紳士様。門柱太しく立てし黒板塀、官員様ならば高等官三四等がものはある御生活くらし向き。旦那様のお時計と指輪だけにても、確かに千円の価値ねうちはと、隣の財宝たから羨むものの秘かにお噂申しける。それしては高利貸めきたる男の、革提カバン下げたるが、出這入りするも異なものと、これはいふだけ野暮の沙汰か。お年は三十五六と見ゆれど、雀百までには、まだ六十年からの御余裕のある事とて、なかなかの御出精。女といへば醜美に拘らず、ざら撫での性悪を御存じの上でお乗込みありし、奥様もまた曰くつき。そんな顔は少しもなさらねど、三二年前までは、水谷町辺で母娘二人のしがない暮し。味噌漉下げてお使ひ歩行の途中とは、それは人の悪口なるべけれど、どこやらにて、当時幅利きの旦那様に見初められたまひしが、釣合はぬ御縁のいとぐち。人橋かけての御申込みにも、うかとは乗らぬ女親の細かい采配。萌え出る春に逢はせまするは嬉しけれど、かれかれにならせたまはむ、秋の末が気遣はれましてと。いやではなきお断りの奥の手は、一生見捨てぬといふ誓文沙汰。万一にも浮気らしい事した節には、何時離縁をいひ出らるるとも、一言も申すまじ。またその節には違約金として、幾千の金を差出すべし。もちろん母御の一生は、当方にて引受ける筈、そには月にいくばくの手当と。注文通りの一札を、まんまと首尾よく請取つたる上、やつとの事でお輿入ありしといふ、金箔付きの恋女房様。さすがは多くの女ども、見飽きたまひし旦那の御鑑識めがねほどありてと、御容貌きりやうには誰も点の打人うちてなきに、旦那様も御満足の、その当座こそ二世も三世も、浮気はせまいと心の錠。いささかもつて偽りを仰せられし訳ではなけれど、光明輝く黄金仏も、一年三百六十五日、打通しての開帳には、有難味も失する道理。そろそろ性悪の尻尾押さへられてはそのつどに、たびたびのいざこざもあつた末、うかうか年を過ごしてはと、奥様は口惜し紛れ、こんな時こそ証文が、ものいふ人を頼んで来うと、愛から慾へ廻り舞台。仕掛も大形な弁護士三昧、示談で行かずば表沙汰。愛はどうでも金だけは、取逃さぬ工夫をと、身分の軽い人だけに、お意気込も御大層なる掛合振りに。旦那様も大吃驚びつくり、忘れたではなき証文の、文言を持出されては大変と、これも然るべき弁護士頼み込みての御応対。犬も喰はぬ喧嘩ながら、書いたものがあるだけに、弁護士の歯牙にはかかりて、やつさもつさの談判も、旦那の方がどうやら負気味。離婚といふに未練はなけれど、金輪内雅の名詮自称、やりくり一つで持つ機関からくりに、幾千円の穴明けてはと。金に七分の未練ありて、弁護士同士が四角四面の交渉中。こちらは丸う出直せし旦那の智恵ぶくろ、かへつて直接談判で、曖昧の局を結んだ方が、どうやら身腹の痛まぬ訳と、そこは手練の好文句、山鳥の尾のながながしき手紙でのお呼び出しも、懲りずまに二度三度。懲りてはをつても連添ひし人の、かくまで仰せらるるものをと。奥様もお腹立の癒ゆるにつけて未練よりは、自惚の手伝ひて、我知らすお出向きの、談判はどこへやら。機先を制する旦那の上手。かねて欲ししとお話ありし、紋絽の丸帯、縮緬の浴衣、改めてお約束の、指環までも取添へて、いはねど悟れ、これ程の心尽くし、見捨てる我に出来やうかと。鰕で鯛釣るにこにこ顔、熔けるやうに笑はれては奥様ももともとまんざらではなき夫婦中。証書さへ握つてをればと早速の分別。あれはあの代言が、勧めたのでござんする。私は離縁の望みよりも、あなたのお浮気が止めさせましたさ。それなればいふまでもない事、なほ一二年、添ふて見た上の了簡にせよと、お仲直りの御相談。たちまちに大磯へ避暑のお思ひ立。明日ともいはずすぐさまに、新橋よりの御同乗。跡に母御が口あんくり、小言も急にはいひ出さね、その手持不沙汰加減よりも、気の毒は、弁護士二人の、身の上にぞ止めける。(『女学雑誌』一八九七年八月一〇日)

底本:「紫琴全集 全一巻」草土文化
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
初出:「女学雑誌」
   1897(明治30)年7月25日、8月10日
※底本では、文末の日付に添えて『女学雑誌』を示す記号として「*」を用いていますが、『女学雑誌』に直しました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2004年9月20日作成
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