目次
 私は商業に何の経験もなくて一商店主となったものであります。従って既往幾百年の間に、商人がその経験から受け継いで来た商売の掛引その他については、何の知識をも持っていないのであります。さらに在来の商人が伝来の風習によってかえって商人道の真髄に遠ざかる憾みあることを感じ、むしろ素人を以て誇りとするものであります。
 また欧米諸国の商売振りについても、これを会得する機会を持ちませんでした。
 されば私のやり方は外国の模倣でないことはもちろん、全くの自己流でまた純然たる日本風を以て任ずるものであります。そういう意味で本書を公にすることも、商売の道を辿るものにとって、多少の参考になろうかと思うのでありますが、何分毎日の仕事に追われがちで、一貫した系統を立てる余裕がありません。折に触れ事に臨んで断片的に記述したものを集めて、一冊にまとめ上げたのでありますから、前後の順序等もととのっておらず、また時には重複したところもあり、甚だ不完全なものでありますけれど、その意を諒として愛読をたまわりますれば著者の本懐であります。
 本書は以前、トウシン社より出版され、その後久しく絶版となっていました。その間に社会の情勢は激変し、今回高風館のもとめによって再版を計るに当り、現在の事情にあわない箇所もあります。しかし根本の考えにおいては何も変っておりません。併せて読者の諒察せられんことを願います。

   昭和二十七年十月
著者識
[#改丁]

 私は明治三年の生れで、生れたところは日本アルプスの山麓の穂高という村です。早稲田大学の前身の東京専門学校に入って、政治学をやったが、二十三年学校を出ると、友人たちはたいてい官途についたものであった。しかし、私はどうしても俸給生活をするのが嫌で、というのは、俸給を貰って生活していたのでは、結局、俸給をくれるものに対して頭が上がらない。上長に対しては、正しいと思ったことも言えないことがあると思ったので、一時郷里に帰って養蚕業をやったりしたが、また上京して、明治三十四年、東京帝国大学前のパン店「中村屋」を譲り受けて、商売をはじめました。
 こんな考えではじめた商売ですから、私の商人としての態度方針には、普通の商人とはすこしく異なったところがあったかも知れません。明治のはじめ、福沢諭吉翁が唱えていた「独立自尊」という言葉ですが、私はだいたいあの気持で商売をやって行きたいと思ったのです。政治家が政治をするのも国家社会のためであるだろうが、商人が商売をするのも国家社会のためでなければならぬ、同じく国家社会のために、政治家となり、商人となっているのだとすれば、政治家が身分がたかく、商人は卑しい者だなどということはないはずである。ところが我が国では、昔から、うまく胡麻化して儲けることが商売であるくらいに思っていて、商売には人格とか道徳だとか全く無用のものと考えている者が少なくなかった。その結果は、他人も商人を卑しい者だと思うし、商人もまた自ら卑しい者だと思うようになってしまった。だがそれではいけない、立派な商品をつくり、正しい商売をやって行けば、商人は決して卑しい者ではない。人に卑しめられ、自ら卑しめる必要は全くないのである。私はそういう信念を持っております。
 だから私は、お客様に対しても対等の態度で接しております。お客様が理のないことを言えば買って頂かなくてもよい。いやこちらで売ってあげない。私はこれまでには何度かこちらからお得意様をお断りしたことがあります。
 で私は、店員たちを芝居や相撲につれて行く時には、必ず一等席につれて行って見せます。それは、店員たちにも卑下した気持を養わせたくないからです。立派な商品をつくり、正しい商売に努力して行きさえすれば、我々は誰にも卑下する必要はない。政治家が政治につとめるのも、教員が教育に努力するのも、商人が商業に身をくだくのも、すべて国家社会のためという点においては、その間にいささかも地位の尊卑はないはずである。という自信を、私は店員にも養わせたいのです。その自信がなければ本当に立派な商売は出来るものではありません。

 商人として理想と現実とが一致し得るものなりやの問題に対し、私は自分の体験上「商人といえども理想を高く掲げて、相当の利益を挙げて立ち行き得るものである」と、確信を以て答えることが出来る。むしろ、現在の商人は利益を望んで理想を持たざるが故に滅び行くのであると考えている。
 その一例として言って見ると、私は昨年十二月十四日から一週間、日本橋白木屋において開催された電通主催、地方各新聞社推薦の「地方物産展覧会」を見に行って驚いた。ほとんど珍しいのがないばかりか、地方地方の特色は全然失われ、みな東京の支配下にある、という感を深めた。
 食料品に至ってはことに甚だしい。参考材料になるようなものは一つもない。かくも地方の不振を招いたのはいったい何であるか。地方経済の不振ということもあろうが、その主な原因はやはり時勢に応じて進む研究心と努力の不足であると言わねばならない。例えば上州前橋の片原饅頭である。三十年前までは片原町全町を挙げて饅頭屋であった、片原町に行って見ると朝早くから軒並に湯気を立てていて実に見ものであった。前橋はいうに及ばず高崎でも、旅館はみなこの片原饅頭を土産に出すので、全国的にその名を知られていたものであるが、現在ではたった一軒その名残りをとどめているにすぎない。
 ある時群馬県知事の某氏が私を訪ねて来られたので、私はこの片原饅頭のことをいうと話だけは聞いているが、「どうして駄目になったのでしょう」とかえって理由を聞かれたようなことであった。いったい利根川べりの砂地に出来た小麦というものは日本一の優種で他に及ぶものがなく、江戸でも京都でも最上級の麦粉としてもてはやされたものである。ところが十数年前、日清製粉工場が館林に出来て、一般の小麦を買い集めて二等粉に製した。すると片原饅頭もこの二等粉を用いるようになった。
 一方東京の一流店では日清製粉などには飽き足らず、値段は二倍とするが、それを厭わずにアメリカのセントラルベストあたりを用いるようになったから、片原饅頭の名声がすたれたのに不思議はない。
 もしこの場合製造家が片原饅頭の名代を護り、海内唯一の理想を掲げて、良い材料を選ぶことに苦心したならば、長年の信用をこんなに早く失うはずもなかったろうにと、まことに惜しいことに思われる。
 西新井薬師の門前は、軒並に名物「草だんご」を売っている。昔あの辺は一帯が原であったので「もちぐさ」が豊富に得られ、だんごやもこれで起ったものであろう。ところが現在ではだんごに青粉を入れている。従ってこれは「名物」だからと買って賞翫する気にはなれない。今日ではただ僅かに名物という名残りをとどめるにすぎないのも故あるかなである。
 私の店でも「草だんご」を売るが、まだ春浅く東京近辺では草が萠え出ていない時分にどうするかというと、房州辺から一貫目二円ぐらいの草を買って拵えているのだ。何品によらずこれだけの注意は払わねばならない。西新井薬師の「草だんご」もこれだけの誠実があれば名物の地位を失うことはなかったのである。
 奥州八戸に「胡麻せんべい」というのがある、昔は東京までその名が聞こえて賞味されたものであるが、最近これを買って見ると一向うまくない。種々研究の結果はこうだ、八戸は昔胡麻の名産地であって、粉も非常に良いものを用いていたが、近頃は粉も劣り、胡麻は安い支那産のものを用いている。
 世は日進月歩であるのに、造るのは次第に劣って来る。人間も誠意と努力が欠けて来る。昔はその土地が自然に優れていてそれが名物となっていたものであるが、世が進めばこれに対抗する苦心があるはずだ、老舗などが倒れて、新しいものにお株を奪われるのもみなこの苦心を欠くからである。
 すべて日本人の弱点として、アメリカやイギリスを真似て得意がると同様に、地方ではやたらに、「東京を真似る」ので地方の特色を失って行く。封建時代は地方地方の名産がまことに特色があり、如何にもその土地らしいにおいがして、ちょっと旅をしてもどんなに趣き深いことであったろう。それが現在では日本が一律に単調化し、平面化し、ますますその味わいを失って行く、文明、人物、みなこの名物の例に異らずである。
 また日本の「イチゴ」は世界一である。日本の土地柄として水蒸気の多いことが原因するのである、また日本の果物もオレンジ(米国第一)を除いて他は世界で最も優れている。「イチゴ」がそんなに上等であるのに、日本出来のイチゴのジャムは相手にされない、アメリカ産の一斤入り瓶詰が二円、イギリス産BCが一缶八十銭であるのに、日本産は三十銭というみじめさである。それだけ値が違ってもいまだに舶来品が輸入される。世界一の原料を持つ日本が何故に悪い製品より出来ないかというに、問屋が製造家をあまりに攻めすぎるからではなかろうか。
 私は昨年から、一粒選りのイチゴを最上のザラメを用いて、一缶につきおよそ三四銭余計にかけて三十五銭で売れるものを造って見たところ、アメリカの二円のものに比していささかも劣らず、イギリスのBCをはるかに凌駕することを発見した。
 すなわち従来の日本製品にわずかの経費を増して優良品を製造して売り出したら、売れ行きは従来の約十倍以上に及んでいる。
 私ははなはだ僣越ながら自家の製品を日本一というモットーを掲げているが、日本一たらんとするには、すべからく世界一の優良品と競走せねばならぬ。商人といえども理想を高く掲げて、奮闘努力してこそ自ずからその途も開拓されるのであって、政治家、教育家、宗教家と何等異るところがないはずである。
 商人が社会のために良品を供給し、繁栄して行き得るならば、これすなわち本懐というべきではなかろうか、しかもそれは決して行い難いことではないのである。もって新商人道を提唱する所以である。

 小売商は男子よりもむしろ婦人向きのものと思われます。繁昌する店の多くは聡明なる婦人が中心となっているのを多く見受けるのであります。我々の同業者中でも銀座の木村屋さん、本郷の岡野さん、本所の寿徳庵さんいずれも東都随一の盛況を致せしは皆女主人の努力でありました。今日の大三井家も現代において基礎を作りしは女主人であり、現代でも味の素の大をなせしも当主人の祖母の力に原因し、明電舎の今日あるも全く母君の力であります。
 かく婦人の力は偉大なものでありますが、概して婦人は小心にして注意深きところよりその長所が時にはかえって障害となるのもありますから、この点では注意しなくてはなりません。
 その一例を挙ぐれば、呉服屋にて男主人や番頭は布切五尺の注文に対して、三四寸の尺伸びをサービスとして勉強する場合にも、女主人は五尺キッチリで少しもおまけをせぬ傾があるので、妻女が店頭に居ると客は素通りすると云われて居ります。
 私の知人で信州の山奥に温泉宿の株を買った者があります。その宿屋が非常に繁昌して隣家羨望の的となっているのですが、最近主人に代って妻君が乗り出して万端経営するようになって、ある日主人が私を尋ねて、
「相馬さん、いくら男が威張っても女にはかないません。私が監督していた時には全然わからなかったのですが、妻が来てずいぶん無駄をしていたのを発見しましたよ、冬一期に八十俵も他家に比して無駄にしているのです」
 との話です。
 私はこれを聞いてちょっとなるほどと思いましたが、よく考えて見ると、その無駄と思いし事がこの宿が特に繁昌する基だったんです。信州の温泉は自炊しながら逗留している客が多いので、寒い朝火の起った炭の豊富なるサービスは特に有難く感じるわけで、金額としては僅かの炭八十俵が資本となって、他の店の及ばぬ大繁昌を招来したのに間違いないから、それを無駄などと考えては大変ですよ、と注意しますと、
 主人はこれを聞いて、しばし黙していましたが膝を打って、
「なるほど早速帰って妻を監督せねば一大事だ」
 と言うて立ち上りました。
 総じて婦人がこの細か過ぎる点さえ注意するなれば、男子の及ばぬ成功を収むるのであります。

 早稲田の商科のある先生が「理論ばかりでは駄目だ、実地においても人に教えなければ」
 というわけで、もうかなり前の私の本郷時代であるが、浅草のあるところに小間物屋を開いた。その店の特長として、その先生が力説された点は次のようなものである。
一、繁華な浅草に近いこと
二、近所にあいまい屋がたくさんあること
三、吉原への近所で人通りもかなりあること
 しかしこの先生の前記の主張にもかかわらず、その店は繁昌せず、僅か三、四カ月にして閉店の悲運に到達してしまった。
 私は当時、こういうことは非常に興味を持ったので、開店と聞くやただちに、家内をつれて視察に出かけた。そしてこれはせっかくの先生の勇敢なる試みではあるけれど遠からずして駄目になるだろうと思った。その理由とするところは、
一、人出の中心から離れている
二、夕日がさす
三、直ぐ近所に有力な競争者がある
 西陽がさすと、店頭に陳列してある品物が二三日にして変色し、ローズになることが多いのである。
 私の予言は不幸にして的中した。新開店に当って最も注意すべき点は、長い間の経験によると、場所がその辺の同業者より勝れているのか、でなければその他の条件で、非常に客を惹きつける力があるのでなければならぬ。

 世界中での広告の旗頭は米国だ。これは誰でも知っていることだ。その次は日本である。これは考えなくてはならぬことである。
 なぜ米国はあんな大げさな宣伝をするのか、米国は新開国であるため、長年の歴史によって世人を信用せしむる老舗がない。よって人を信用せしめ、自店の存在を知らしめるには勢い宣伝によるほかない。ところが欧州になると国が古いだけに、老舗というものが至るところにある。これらの店は別にそれほど広告をしなくても、長い間の暖簾のれんで人が買ってくれる。したがってそれほど広告が重要ではない、それゆえまたそれだけ物が安く売れるわけである。その代わりかけ出しの店がこれと肩をならべて行くことは容易ではない。宣伝すればするほど広告倒れとなって競争しずらくなる。
 米国においても宣伝費は結局価格に転嫁されて、それだけ高くなりはしないかとの疑問が出るのであろう。しかし米国は大国である。市場が大きい、広告費は大量生産による生産費の引下げによって相殺される。
 鵜の真似をする烏、日本の広告万能主義の人々が当然うくべき名前である。

 欧州では牛乳が安い。すべての物価が日本に較べてはなはだ高いのに、ひとり牛乳が特に安い。私はこの原因をつきとむるべく皆の寝ている中にホテルを飛出した。なるほど安いわけだ、大量生産のため安いことはもちろんであるが、配給法がうまくいっている。互いに協定配達区域により、人の領分を犯さない代わり、他人からも侵されない。従って配給費が非常に安くつくからだ。私の伜がハイデルベルヒの小高いところに下宿していて、牛乳を毎日一本ずつ届けるように頼んだところ「貴方のところは高き所ゆえ届けるには不便だから配達は致しません。取りに来て下さい」ということで、やむなく毎日下の牛乳屋まで取りに行った。
 日本では牛乳屋同志の競争が激しくて、本郷の牛乳屋が糀町へ侵入したり、また逆に糀町のものが本郷の方へ出かけて行く。それでも数がまとまればよいが、一本でも二本でもとどける。
 私の店ではこの点を考えて、午前午後の二回しか配達はやらない。このため浮いた金額は勉強の方へまわす。薄利多売主義のためにまわす。この二回以外にたって配達してくれという場合や遠方の配達に対しては、実費として電車賃往復十四銭をいただくことにしている。よく宮家からも御注文をいただくが、やはり電車賃はいただいている。私は電車賃を請求しても、これに要する手間だけは御客様へのサービスだと考える。私のところで奉仕パンと称して品質を非常に吟味したもの――これは私が我が国にパン食を普及せしめたいという抱負もあるので――一本三十銭の原料代で売出している。これは絶対に配達しない。近頃ではお客様の方も私の精神をよく理解して快く自分で持ち帰って下さる。長年の得意で心安い奥さんなどは「欲と二人連れとはこれをいうんでしょう」と快く二、三本抱えて行かれる。
 我が国では遠くの方から注文があると名誉と心得て、炭一俵、牛乳一本の注文でも喜んで持って行く店があるが、その間にかえって大切な近所のお得意さんを他の店に取られるといったようなことになり、結局においてかえって損をすることとなるのであります。

 いまは商売をやめたが、本郷切通しに山加屋という東京でも一流の呉服屋店があった。ここの主人はなかなかしっかりしていて、店の主義として外交販売を一切しなかった。切通しといえばすぐ近所に岩崎があり、前田侯爵がある。山加屋は当時にあっては有名呉服屋だから、この両家で品物を持って来て見せろという。主人は応じない。こうして主人が言うには「何百円何千円買ってくれる人も、五十銭、一円の方も私に取っては同じくお客さんです。一方にしないことを他方にするというのは私には出来ません」とのことであった。昔の商人にもこの見識家がありました。今の商人はあんまり客に対して権威がない、この主人の言に学ぶべきことが大いにあると思う。

 何もむずかしいことではない。自分の商売を通じて充分客を教育することが出来るものだ。
 我が国は英国等に比して洋服が非常に高い、たかい訳である。注文があるとまず寸法を取りにお客の所へ出かける。二三日すると仮り縫いというやつでまた出かける。出来上がるとお届けにまかり出る。届けたはよいが金がとれない。再び出かけて行く、今日は駄目だ、また出直してこいといった調子、しかもこの寸法取りに出かけて行くには小僧では間に合わない。腕のある人が行く必要がある。勢い高くならざるを得ないではないか。
 英国では洋服屋は決して客の所へ出かけて行かない。大家の旦那であろうと、大会社の重役の注文でも、客の方から出かけて行かなければならぬ(ただプリンスの御注文だけは洋服屋が参向することになっている。但しこの場合出張費と自動車代とを請求するのである)。これだから安いわけである、我が国において洋服を高くするものは、洋服屋の無自覚と、自尊心がないためである。換言すれば客の教育が出来ていないためである。
 震災直後、昌平橋際に昌平橋食堂というのが出来た。一日私はここへ昼飯を食べに行ったことがある。朝食十三銭、夕食十五銭であったように記憶している。が、気付いたことは代金の割に非常に品質が吟味してあり、来ている客が礼儀正しく、静粛であったことである。私はこれはどうした訳だろうといろいろ詮索した。よく聞いて見ると、ここでは月々三百円位の欠損をしているが、この金額だけは市の補助を仰いでいたとのことである。この事情、普通の営利主義の食堂とこと変り、ただ客の便宜を計る外に他意がないものであるという事情を客がよく知ってかくも静粛であり礼儀正しいのであるという話であった。これは特別の場合であるが、普通の商店でも客のための真の利益を常に念頭におくことによって顧客教育は完成される。

 私の店が本郷にあった時分こんなことがあった。店第一の得意である某病院長の邸へ、月末掛けを取りに行った店員が、たったその家一軒に夕方近くまでかかって帰って来た。私は一途に、彼が怠けていたものと思って、帰って来るなり叱りつけたものである。私の見幕が激しかったものだから恐れ入るものと思っていたところ、その店員は不興顔に「旦那それは無理です」という。段々とわけを聞いて見るとこうだ。掛取りには昼頃行ったのだが、いま奥さんはお客さんとお話中だからしばらく待ってくれという事であったので、やむを得ず待つことにした。その時己のほかにも掛け取りが十人くらいたまっていた。一時間経ち、二時間経ちお客様も帰ったような気配にもかかわらず、当の奥さんなかなか出て来ない、そのうち奥の方で「どう皆揃ったかい……それでは払って上げようか」と話声が聞こえて、やがて奥さんが現れた。「では皆さんお払いしますよ、おつりのない人はおつりを持ってもう一度来て下さい」と、手の切れるような十円紙幣を勘定の高いかんにかかわらず、手渡した。店員がいうには「私はちょうどよく釣り銭を持ち合わせておりましたからそれでも今頃帰られましたが、持っていなかった連中は今頃また出かけて[#「出かけて」は底本では「出掛かけて」]行っているに違いありません」とのことであった。
 私はこの話を聞いて非常におどろき、そういうことでは明日から御注文に応ずることは出来ぬから、注文があってもお受けしてはならないと、店の者皆に言い渡した。店では「一番のお得意様で惜しいではありませんか」と私のやり方に反対するものもあったが、私は断然初めの所信をまげなかった。
 その翌日、翌々日と、持って来いとの注文があったが、「ただ今そちらの方へ都合がありませんからまことにお気の毒ですが」という調子で、いつも断ってしまった。こういうことがたび重なるにしたがって、電話の注文も来なくなった。ところが、今まで来たことがない肉屋の小僧が来て、大きな買物をする様になった。はておかしいなと思って、小僧にわけを尋ねて見た。「いや貴方のお店で○○さんの注文をお断りになったので私の方へとばっちりが来て困りましたよ、今も○○さんの所から電話で、中村屋さんのパンを買ってとどけてくれというので、今うかがったわけです、お蔭で私の所の用事が倍になりました」とのことであった。
 いくらお客様でも、そのやり方が不合理な時にそのわがままを許さないというのが私の主義である。

 仕入は全部主人がせねばならぬ、それは主人が商品に対して絶対の責任を負わねばならぬからである。他人任せでは往々にして二流品が一流品として仕入れられ、それが一流品として客に渡されすなわちお客を欺瞞する結果となる。そうなると店の信用にかかわり、売れ行きが悪くなる。お店は素人故に何もわからないなどと思うと天罰覿面てきめん、必ずその影響があらわれるものである。
 私は毎月一回市内外の同業者並びに百貨店の調査をしている。そして最も勉強する店の商品の品質と目方と自店のものとを比較対照して、どこのどんな小さい店でも、自分のところのものよりいいものを安く売っているとすれば、飽くまで研究して行く。
 また春秋二季には、京都、大阪、神戸方面から北海道方面に調査に出かける。朝鮮方面まで出かけたこともある。そして他より優れていると自信が出来るまで努力する。
 かくして私の努力と研究は、みなこれをお客様に万遍なく奉仕しているつもりである。全生命を打込んだ奉仕の結晶が私をして今日あらしめたものであり、それはまた同時に私の商業道である。

 営業能率をあげるに最も重要なことは、人一人の能率をあげることである。能率をあげるには毎日の能率を平均して発揮せしむることが一番よい。ある日は目が回るように忙しく、ある日には遊び半分という様では能率は上がりません。
 こういう風にすると、製造部、整理部、配達部が調子よく、しかも楽々と仕事がはこぶ。愉快に順序よく仕事が出来るようでなければ、経営がうまいとは言われない。
 特価販売などすると、その日だけはよく売れるが、他の日はずっと減る。あまり過重な労働の次には必ず疲労と倦怠が来る。結局差引商売だけの経費が無駄になるわけである。
 しかしこれがなかなか難しいことで、ちょっと目先にうまい儲けがあると、つい欲につられて無理なことをする、またせっかく決心したことでも少し思うようにならぬとぐらつく。この邪念をじっと押さえつけて行くだけの腹を持たねばならぬ。私の店へ、よく学校の運動会に売店を出さないかとの話がある。他所の人は喜んで応ずるようだが、私は出来るだけ辞退する。なるほどその日だけは学校の売店では儲けがあるかも知れぬ。しかしそのために無理をし、他の日の能率があがらないために、結局損になってしまう。ましてそのために大切な自分の店の方をおろそかにして、お得意に迷惑をかける様ではなおさらのことである。

 良品を廉価に売りさえすれば繁昌するは当然の成り行きでありますが、なおそのほかに繁昌に大切なる一つのコツがあります。
 そのコツたるやきわめて簡単なるものなれども、それを知ってもこれを行う者が少ないのでせっかく良品を廉く売りつつも繁昌の妙域に達する者が案外少ないのであります。
 それは何であるかと申しますと、商品はすべて内輪に製造するということであります。たとえば百円の売れ行きはあると思っても、雨天その他第一の故障に備えてその八掛け、即ち八十円の製造に止めることであります。そうして如何なる場合においても売れ残り品を作らないことであります。
 商売を内輪にし毎日早く売り切れとなれば、客はこの店の品は常に新しいとしてますます愛好されるものであります。
 然るに遅く見える客を空しく帰すは如何にも惜しいと考えて少しでも余分に作るのが人情の常であります。もしこの余分が幸いに売り切れれば結構でありますが、三日に一度ぐらいは売れ残りとなります。
 これを売れ残り品は捨てるに忍びず、明朝蒸し返しては造り直して客に勧める。これを求めし客の信用は当然に失落するのであります。
 私の店ではその日に売る生菓子は常に午後三時のお八ツまでを限りに売り切るように製造致します。たまたま臨時の注文等に接すると、正午頃売り切る事もあります。かかる際は御客様に申し訳ないと思いますが、これくらいに内輪にしても烈しい夕立の日等は往々にして数十円の残り品の出来る事があります。しかしこれは一年中に二、三回に過ぎませんので、この機会に日頃お世話になる銀行や、郵便局、育児園等に贈呈して決して明朝に持越さないのであります。
 これが私の店の繁昌の最大原因と信じております。
 この際に喫茶部を経営される方に一言呈したいことは、やはりこれと同種の理由にて計画は平日を標準として、少しく内輪にすることであります。近くに野球場があるとか、祝祭日とかにて平日に倍する客のある事を目当てに手広く設計する事は絶対にしてはいけません。午餐時か夕食頃のごとく来客の混み合う時には少しく手狭を感じて一部の客を御断りするくらいが最も適当の設備というものであります。
 古来より大料理店等が近来の小さいレストランに押され勝ちな事はこの理由であります。大料理店は婚礼や大宴会には好都合でありますが、平常は大屋台を冠って多数の雇人を遊ばしておくのが多いので、毎日経済の平均のとれるレストランに対抗出来兼ねるのであります。
 総じて何事によらず八分目なるがよろしく、この心掛けさえあれば繁昌疑いありません。

 私が餅菓子を始めた当時、某有力菓子店の主人から、職人の給料は薄給なこと、そして問屋から歩合やコンミッションを取る悪弊があること、店の商品や原料を持ち帰ることは公然の秘であることを聞かされ、私は断然この弊風を根絶しようと決心した。
 そこで私は月給を従来の二倍かにして、その生活安定を計る一方、店の規律をきわめて厳重にした。しかし長い間の習慣というものは恐しいもので、なかなか改まらなかった。ようやくこれは根絶し得た。
 そこで、店員待遇法はどうしているかというと、妻帯者には三割、子供一人増すごとに一割、両親あるものには二割を増している。またこれは給料ではないが、店員の食事にずいぶん注意している。食事というものは些細なことのように考えられやすいが、非常に大切なことだ、並以上のものを食べているという自覚は、大変その人格に影響を与えるものである。
 無論私は店員と心の接触をするように心がけている。例えば四季折々の年中行事を必ず行なって家庭的な暖か味を添え、店員の誕生日には親代りとなって祝ってやる。
 給料はなるべく多くするが、小遣いは少なく、そして貯金を強制的にさせ、また一方食事をよくし、住居も清潔にして、身心を浄めて真面目な生活をさせるように導くことが、私の店員教育の骨子である。

 世の中の商売を見ると実に千種万様、数限りなく沢山あるが、さてその中から何商売を選んで将来自分は世に立って行こうかということになると、私に言わせれば、まずその商売自体が現在の時世に適合していて、儲かるというよりも、その商売を社会が要求していて永続性があるかどうかと言うことが商売選択標準にならねばならぬと思う。永続性があるかどうか、ということは言葉を換えて言えば、その商売に独立性があるかどうかと言う問題に帰着する。独立性とは説明するまでもなく他に依りかからず自分の独立でやって行けることである。そういうとあるいは反駁はんばくする人があるかも知れぬ「今日の商売で他に依存せずにやって行ける商売があるか、皆他人様の力によって行けるではないか」と、なるほどいちおうはもっともな理屈である。しかし、私に言わせれば、等しく他に依存するといっても自から区別があると思う。それはある特定の少数のものに依存するものと、広い世間一般に依存するものとである。そうして前者の場合であると、少数の支柱によって支えられているのであるから、そのうちの一本が欠けてもすなわちその商売の存亡に関係して来る。こういう傾向の商売を私は独立性が少ない商売だと言うのである。
 これを植物に例えて言えば藤や蔦の如く、藤は如何にも立派な花を誇り天高くのびても、松とか欅とかに依りかからなくては花を咲かせることが出来ない。結局、藤は藤である。これに反し例え小さな松の木でも、それは立派に独立した樹木である。自分の力で地から栄養分を吸収し、天から恵みを享けて年一年とわずかずつにせよ大きくなって行く、そうして、子や孫の代にはいつのまにやら天をも摩する巨木に成長するのである。そこで我々は現在携わっている職業が、この松の行き方をしているか、あるいは藤の真似をしているかということについて、深く省察して見る必要があると思う。

 古い話ではあるが、各地に新聞の専売店のなかった頃は一軒の新聞屋で各種の新聞を扱っていたものだ。そこで新聞社は自社のお得意を一軒でも余計に拡張して貰いたいために、競ってその販売店に礼を厚うしたのだ。おかげでボロい収入を得ていた新聞店は実に羽ぶりをきかせていたものである。ところがその販売店の尽力によってその地に各社それぞれ相当の地盤が出来た時分にA社もB社も専売店を作ってしまった。そこで今までの販売店は商売があがったりになった。すなわち永い間新聞社の踏台に使われていた訳である。こういうときにそうした将来のことに気もつかないで現状に安閑としていたら、まことに迂濶なことだと言わねばならぬ。また当時私どもと同じに菓子の小売店をやっていた人の中で、デパートに品物を納めていた連中は、割合にらくをし金まわりもよかったので、自分の店の小売の方など一向に身を入れず、得々として肩で風をきっていたものである。その頃私など粉だらけになって※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)コをこねたりしてみじめなものであった。ところが、その連中の間に猛烈な競争が始まってメチャメチャに値段を崩しはじめた。おかげで利益を得たものはデパートばかりで、品物を納める側はサッパリ儲らない。そこで頭のよい人は従来と同じ材料を使って、全然見た目の新しい菓子を製造し、そして儲けたものだ。ところがまたそれにも競争者が現れるといった具合で年中セリ合って闘っている。その内に百貨店の方では製造方法などスッカリのみこんで、いつの間にか自営工場を作ってしまった。そうなると今まで品物を入れていた甲も乙も立ち行かなくなってしまった。これなども菓子の小売店としての将来性にめざめないで一時の利益に眩惑していたからだと思う。
 かつて私の店でもあるデパートへ菓子を入れていたことがあったが、ある事情で断然やめてしまった。それというのはデパートではお菓子の売れ残りは返品としてよこす習慣があるが、ちょうど私のところへもロシヤのチョコレートを入れて欲しいという交渉を受けた。私は商品の性質上返品は一切しないという条件ならば応じましょうと返事してやった。先方はそれは困るということであったが、それなら止めるばかりだとこちらが強硬に出たので、特別ということで返品なしの契約で取引を開始した。そうして毎月千数百円を売って貰った。ところがそれから半月ほど経って、二ヶ月ほども売れずにいた七円五十銭だかの折を返品してよこした(中村屋の菓子の容器には製造日付がある)。そこで私どもの番頭は返品は一切受取らぬ契約であるが、何しろ相手は月に莫大の得意であるので、一つぐらいという訳で受け取ってしまったものである。たまたま私はこれを発見したので、どういう訳かと番頭を詰問すると番頭は前のような弁解で案外平気でいる。そこで私は取引の約束を無視したやり方に憤慨し今日限り品物を入れることをお断りすると通告し、かつ重大な取引上のことについて店主の指揮をうけずに無断で規則を破った私の店員に対し、かわいそうではあったが泣いて馬謖ばしょくを切ってしまいました。これはいかにも人情味のない頑固なやり方のようだが、私は店是というものを国の掟の如く峻厳なものにしておきたいという私の主義と、一つは前にも述べた如く人に縋らずに独立不羈で商売をやって行きたいという信念からであった。

 器用貧乏……私の店が相当繁昌し出した頃、遠縁に当たる男が店を手伝ってくれていたことがある。この男は何をやらせても一人前、これが出来ぬということのない器用人であった。それで私のやることがまだるっこくて見ていられない。ときおり「大将くらい信用があれば私なら店の売上を倍にして見せる」といっていわゆる髀肉の嘆をもらしてみせたものである。そうして、相変らず遅々としている私にシビレをきらしたというのか店を飛び出して独立旗上をした。ところがそれが幾年もなく失敗してしまったのである。この男の失敗の原因といえば己を過信したからだと思う。いくら実力があってもまた資本があっても信用というものは時期が来なければつかないものである。にもかかわらず、この男はスグに信用が獲得出来ると考えていたところに失敗の原因がある。
 当時私がそうした自惚れの心を起こし、森永や明治の向こうを張って一つ資本金一千万円の大会社にしてやろうなどという野心を起こしていたならば、あるいは今日の中村屋はなかったかも知れない、結局私は不器用でいわゆる、馬鹿の一つ覚えで、与えられた日々の仕事につとめて来たことが今日あるを得たものと思っている。世の中にあんな才物がどうして成功しないかと不思議に思われるような人物をしばしば見受けるが、どうもこういう人はおおむね己の才に恃んでかえって人に利用され、結局器用貧乏で一生を終わることの多いのは、本人のためにもまた、人物経済上からもはなはだ遺憾なことだと思う。
昭和十一年十一月
 私が早稲田大学(当時の東京専門学校)の、現在で言えば政治科を卒業して、初めて本郷帝大正門前に開業したのが、今から三十余年前のことである。その時分営業税なるものが出来たが、それは滅法に高い。ある日、私の留守中に税務官吏が来て、家内に売上高と店員数を訊ねた。当時の習慣として何処の店でも売上高と店員数との申し立てはだいたい半分であった。ところが家内は、売上高も店員数も正直に申し立ててしまったものだ。
 果たして営業税は以前の二倍を課せられることになった。私は当時、手一杯な生活をしていたので、営業税を増しただけ欠損を生じ、そのままで行けば閉店せねばならぬ破目に陥ったのである。この間の消息は愚妻の自伝的随筆集『黙移』――本年六月出版――中に彼女が詳しく語っている。
 さてこんな風にお話してまいりますと、何だかお菓子屋の立志伝みたいになって変なのですが、決してこれは立志伝ではなく、今日中村屋の店頭がいささか賑しく見えますのも、またパン屋というには少し複雑な内容を持ち、扱う品々に個性というようなものが見えると言われるようになりましたのも、すべてどこをどう目指してとお話できるようなものではなく、ただ自ずと来り結ぶ機縁により、ただその縁に従うて力一杯の努力をいたしますうちに、不知不識ここに至ったものであります。
 その機会というようなものは、いつも初めは一つの危機として来るか、あるいは一つの負担として現われました。開業明治三十四年、それから日露戦争の三十七八年までに、中村屋はまず順調に進んでおりました。どうせパン屋のことですから、華々しい発展は望まれませんが、静止の状態でいたことは一月もなく、売れ行きはいつも上向いておりました。それが小口商いのことですから、店頭の出入は目に立ち「あの店は売れるぞ」というふうに印象されたと見えまして、税務署の追求が止まずある時署員が主人の留守に調べに来ました。私はそれに対してありのままに答えました。箱車二台、従業員は主人を加えて五人、そして売上げです。この売上高が問題で、それによると税務署の査定通り税金を払ったのでは、小店は立ちいかないのでした。
 それでどこの店でもたいてい売上高を実際より下げて届け、税務署はその届出の額に何ほどかの推定を加えて、税額を定めるのでありました。私にはどうしてもその下げていうことが出来ず、ありのままを言ってしまったのでしたから、当時の中村屋の店としては、分不相応な税金を納めねばならないことになりました。これは何と申しましても私の一生の大失敗であると、いまでも主人の前に頭が上がらないのであります。
 よく売れるといっても知れたもので、一日の売上げ小売が十円に達した日には、西洋料理と称して店員に一皿八銭のフライを祝ってやる定めにしていたことによっても、およそその様子は解って頂けると思います。たださえ戦後は税金が上がりますのに、こんなことでは中村屋は立ち行くはずもなく、私のあやまちと申しますか、ともかく自分故こんなことになったと思い、一倍苦しゅう[#「苦しゅう」は底本では「苦しう」]ございました。
「仕方がない、言ってしまったことは取返せません、この上はもっと売上げを増すより道はない。一つ何とか工夫しましょう」
 これは[#「 これは」は底本では「これは」]その時、期せずして私ども両人の考えでした。しかしこちらでそう思いましたからと言って、急にそれだけ多く買いに来て下さるものではありませんし、売るには売るだけの道をつけなければなりません。それにはどうしてもどこか有望な場所に支店を持つよりほかはないのでした。大学正門前のパン屋としては、私どもはもう出来るだけの発展をしていました。場所柄お客様はほとんど学生ですし、大学、一高の先生方といっても、パンでは日に何ほども買って下されるものではないと言って高級な品を造ってみたところで、銀座や日本橋――当時京橋、日本橋付近が商業の中心地でした――の客が本郷森川町に見えるものではなし、ここでは、たとえ税金の問題が起らなくしても、私共の力がこの店以上に伸びてくれば、早晩よりよき場所の移転の説が起らずにはいないところでありました。

   救世軍の番頭さん

 支店を設けるにしても、移転するにしても、これはなかなか冒険です。見込み違いをした日には現在以上の苦境に立たされることになりますと、その頃ある地方の呉服屋の次男で、救世軍に入ったがために家を勘当された人がありまして、日曜だけは救世軍として行軍することを条件として、店員の一人に加わっておりましたが、まずこの人を郊外の将来有望と思われる方面へ行商に出して見ることに致しました。
 その頃大久保の新開地に水野葉舟、吉江孤雁、国木田独歩――間もなく茅ヶ崎南湖院に入院――戸川秋骨先生、それに島崎先生は三人のお子を失われてから新片町へ移転されましたが、ともかく、そういう方々のよりあいで一時文士村と称されたものでありまして、また淀橋の櫟林の聖者としてお名のひびいた内村鑑三先生、その隣りのレバノン教会牧師福田錠治氏などが、その行商最初の得意となって御後援下されて、この文士村の知名の方々へも御用聞きに伺いまして、それぞれ御引立てに預かるようになりました。初めは一週に一度ずつ回ることにしておりました。するとこの救世軍の人が実によく出来た人で、頭のてっぺんから足の先まで忠実に満ち溢れている、というような、また時間を最も正確に守り、お約束の時間には必ず配達してお間に合わせるので、本郷中村屋のパンの評判が上がり従ってお得意も日に日に増え、一週に二度になり、おやつ頃にはよそからお買いにならずに待っていて下さるようになりました。
 それがだんだんと広がり、千駄ヶ谷方面、代々木、柏木、と、もうとうていまわり切れないほど広範囲にお得意を持つようになった、すると今度はお得意様の方から「どうだ一つこちらへ支店を出しては」というお心入れで、私はそれをききました時は、有難さに泣き、ああもったいないと思いました。その番頭はお得意のお引立てにいっそう力を得まして、支店候補を予め見て来たといって「千駄ヶ谷付近が最も有望です」という報告でした。
 しかしその時私は四度目のお産の後、肥立が思わしくなく、床につき勝ちでしたところへ、僅か半年でそのみどり児を失い、その悲しみや内外の心労と疲れから全く絶望の状態に陥っておりまして、気力もなく昏々と眠りついて居りました。その中で、はっと気がつき「これではいけない」と起き上がりました。「店の人達があんなに働いて開拓していてくれるのに、これは早く見に行かなくては」と思うと、もう一時もじっとしていられなくなり、起きると早速支度して、主人とその人と三人で支店を出す場所を探しに出かけました。
 まず最初に千駄ヶ谷方面から伴れ立ってまわりましたが、千駄ヶ谷は当時すでに開けていまして将来発展はしそうですが、私の方の店としては不適当でした。方々歩き、新宿の只今店の在る辺りにまいりますと、それは場末の如何にも佗びしい町でしたが、いますぐそこにどれだけの商いがあるか、それは疑問であるとしても、四谷の方からつづいて来ている地形といい、更に郊外へ伸びて出る関門に当っていますので、やがてはと直覚されるものがありました(以下略)
 その頃の新宿、角筈方面は辺僻な田舎であったが、私は断然決意してそこに店を開くことにした。そして本郷の方はその後店の功労者に譲ってしまった。爾来三十年間、今日に及んでいる。かくして当時の田舎だった新宿は、今や山の手の銀座といわれる程の発展を遂げている。禍い転じて福となる。というか、いささか今昔の感が深い。

 店舗の適、不適が営業の盛衰に重大な関係を持つことは、何もいまさら私の発見ではありませんが、何がその規準であるかという点について、明答を与えた人は少ないようです。
 照明がどう、ショー・ウィンドーは如何、売り場の作り方、ケースの高さ等々の点については研究している人々が多いが、店舗全体の品格とか、顧客の数とその店の広さなどについては、寡聞にして私はまだその数を聞かない。世間にはよくある例ですが、客が混み合ってきわめて手狭を感じ、当然拡張されてよいと思われる繁昌店が、一挙に三四倍に拡張してたちまち顧客を失い、まことに入り易く、親しみ深く感じられた日本家屋の菓子店が、入口の狭い洋風の店に改造して売上げを半減したなど、あるいは道路面から少しく爪下りぐらいの店が、客が入り易く、かつ商店が賑やかに見えて宜しいにかかわらず、改造に際して地下室をつくる必要上、道路より、一二尺も高くしたために売上げを激減したなどのことがあります。
 この点につき、私は中村屋の経験に徴し、いささか意見を述べて見ましょう。
 新宿に開店当時の中村屋は、間口五間、奥行二間半計十二坪の広さであり、売上げ一日平均七十円内外、一坪当り約六円でした。
 当時この店は、売上げに比して、少々広過ぎるくらいでしたが、その後売上げ漸次増加して、一日三百円に達した時は、甚だ手狭を感じました。そこで奥行を三間半に拡張し、その後いよいよ繁昌が加わり、これでは無理だと思われるにつれて半間、あるいは一間と取り拡げ、間口も五間を七間として、都合六、七回にわたって十二坪から五十坪にまで漸次大きくして来ました。ある時は改造後、僅か六ヶ月で、更に改造の必要に迫られたことなどもあって、友人等は私の改造のあまりにも姑息であってかえって失費の多いことを指摘し、一挙に大拡張をしてはと忠告してくれたというような状態であったのです。
 しかし私は、来店される客の増加に応じて徐々に拡張し、店内は常に相応の賑いを失わぬようにすべきであるという見地から、建築費の節減を計らんがために一挙に大拡張をして、店内が急に淋しみを感ずるようでは、決して策を得たものではないという考えを捨てなかったのです。そうしてそれは決して間違いではありませんでした。
 商売上手といわれ、また店舗として自他ともに許したものが、あまりに調子に乗り過ぎて、先の先まで見通したつもりの拡張や改築がかえって失敗の原因となった例は、いずれの周囲にもあまりに多数に見られるのです。大阪の灘萬などもその最適例です。また繩のれんの一杯茶屋であるとか、八百屋などの雑然たる繁昌店が堂々たる店舗に改造して、急に客足を減ずるなど、みな店相応の格を忘れての失敗といわねばならない。総じて人に人格ある如く、店には店の格というものがあって、その店の格相応の構造を必要とし、必要以上のものは破壊の因をなす。考えねばならないことだと思います。宮内省御用の虎屋なればこそ、あの堂々たる城廓のような建築でも商売繁昌するのであって、もしあれを一般の菓子店が真似たならば恐らくお客は寄りつけまいと思います。

 私は菓子屋でありますから、菓子の製造販売等につきましては、少しは経験致して居りますが、今日このお集りはそれとは全く違いまして、工場経営をなされる皆様方に対し、何をお話致せば宜しいか、到底その資格はございませんので、実は固く辞退したのでありますが、何でもよいから話せとのたってのお望みでありましたので、伺いましたような次第であります。まず私自身に痛感して居りますところの主人学の修業ということについてお聞きをねがうことに致そうと存じます。
 私の所の菓子職人に致しましても、一人前の腕前になるのには少なくとも十年の修業を要します。足袋職なども七年位は苦労せねばならぬと聞いて居ります。また少しく高級なところで見ましても、彼の外国航路の船の船長となるには、商船学校を卒業して更に十年くらい実地の練習を必要と致します。何でも一つの事をなすには、皆かようにそれ相当の修業を要しますのに、ひとり商店の主人となる修業というものだけは聞かないのであります。工場主においても店主の場合と似て居りまして、専門の知識を必要とすることは別でありましょうが、単に一工場の主人としての修業は問題とされていないように見受けられますが、これは如何なるものでありましょうか。
 支那では、帝王学というものがありまして、帝王の位に上られる御方は、特別の修養を必要とされ、必ずこの帝王学を学ばれることになって居りました。
 我が日本におきましても、畏くも天皇の御位に登らせられる皇太子様は、同じく帝王学を修めさせられ、常に御徳を磨かせられると承ります。
 ところが世上一般においては、人の下に働くものの心得はよく教えられ、またその修養を怠らぬ人も少なくないのでありますが、人の上に立つものの心得を教えるということはきわめて稀で、多くはその必要を気づかずに、ただ資本さえあれば、誰でもすぐに主人になれる様に考えていると見られるものであります。しかもこの主人たるの修業はなかなか容易なことではありません。これをなおざりにしていては、人の上に立ち、人を率いて行くことは出来ないのでありまして、何を致すにも主人自らまず大いに学ばねばならぬのであります。
 総じて成功した工場や商店を見まするに、それらはほとんど例外なく、自然にこの主人学を体得した人々によって指導せられた結果であることを発見致します。ところがその子孫の代になりまして家運が衰え、ついに破産に陥る例が世には珍しくないのでありまして、これらはその子孫の多くが不肖にして、主人学を知らず、主人らしく行わずしてかえってその反対の事をした結果なのであります。早く言えば苦労知らずの我儘者が主人になったからであります。
 主人学の真髄は「部下の心を得ること」であります。昔北条早雲が、兵学者に書を講ぜしめて居りましたが「主将の要は部下の心を得るにあり」というところになりますと「それなれば我はもはや学ぶに及ばず」と言って、その講義を中止せしめたということであります。早雲は、伊豆の一角より身を起して、よく関八州を領有し、北条氏の基礎を築いた名将であります。
 工場主、商店主はもちろん、技師長、職長その他何によらず人の上に立つものは、皆々この早雲と同様に、部下の心を得るのでなくては、真の成功におぼつかないのであります。ではどうすれば部下の心を得られるかと申しますと、第一に、
「部下の働きに感謝すること」
 であります。工場でも商店でも多勢の人がよく働いてくれてこそ成立っているのであるという心持さえあれば自ずとその働きに対して感謝の念をおぼえ、従って部下を愛することになるのであります。するとまた部下の方でも喜んで働き、決して骨惜しみなどいうことはないものであります。
 これに反し、主人の方で、月給を払うから働くのだという頭でいるとすると、働くのは当然だ、いやまだまだ働きが足りない、もっともっと隙なく働くべきだとなって、部下の働きを相当に認めることが出来なくなるのであります。そうすれば部下も反抗心を起して、何だ雀の涙ほどの小遣いしか出さないでおいて、そんなに働いて堪るものかという気になって、自然横着をきめざるを得ないのであります。
 お互いにそんなふうになってしまったら大変で、どちらも自然に発露する感謝の念によって扶け合い、主人はどこまでも誠実に部下を率いて、はじめて仕事が順調に運ぶのであります。第二は、
「部下に対してあくまで公平であること」であります。
 多勢の者を使うのに分け隔てがあってはならない、誰に対しても公平でありたいとは、誰でも思うことでありますが、実際に当って見ると、これくらいむずかしいことはありません。早い話が自分の生んだ子供でさえ多勢あればこれを平等に愛するのは容易ではありません。長男はグヅでいかん、次男は反抗的で困り者だ、三男だけがよく言うことを聞き、才能もあるようだとなると、ついこの三男を偏愛する、というような実例はどこの家にもありがちであります。
 同じ血を分けた子供に対してさえそうなのですからまして多くの使用人の中には無愛嬌で触りのわるい者もあれば、働きの割に結果の上がらないような損な生れの者もあり、また如才なくてかゆいところへ手の届くような者もあります。虫のすく好かんということもあり、つい一方を重く用い、一方を疎かにする弊に陥りかねないのであります。ところが事実はどうかというと、無愛想でごつごつしているような人間の方が仕事に忠実であって、要領のよろしい才物は往々にして横着者であります。
 それゆえ、主人は根本的に人を見る明が必要であると共に、真に一視同仁でなくてはならないのであります。が、これがなかなか困難なことで、決して口で言うようにはまいりません。平常人事を行うに充分公平を期しているつもりでも、その結果は、どうかこうか公平に近いという程度に止まるのであります。
 それでまだ主人直き直きに行えば、まずまず大きな間違いはないとしましても、もしこれを番頭にまかせ、支配人まかせに致したら、人事の公平はたちまち破れ、大いに得意な者が出来るとともに、ひそかに面白からず思う者が出来てまいりまして、その結果、集団生活に最も大切な協力一致が失われるのであります。主人ですら完全を期し難いものが、番頭や支配人に行い易かろうはずはないのでありまして、そこには幾多の感情が混り、自ずと自分に都合のよろしい者を重用して然らざる者を疎外する結果となるのは致し方のないことであります。大きくは国家の上に見ましても、一国の君主にありて国民をことごとく一視同仁、平等に愛されるのが、降って大臣となりますと相当人格者であっても、自分を推挙し自分を支持してくれるところの一党一派を重用して、反対党を疎外せざるを得ないのであります。まずそういうわけでありまして、部下の進退任命の如き大切なる事は、主人たる者の役目として如何なる時にも自らこれに当らなくてはなりません。また支配人や番頭任せにしてならないばかりでなく世情に疎い妻女や伜等の感情や私見に左右されることのないよう、大いに警戒すべきであります。第三は、
「主人と部下との利害の一致」を必要とします。昨今のように、軍需品工業が大いに好況で、これ等の工場では相当大きな利益の上る時でも、一方にはまだまだ多くの失業者があって、働く人を安く雇うことが出来るために、部下の待遇を少しも改善せず、ますます主人のみ利益をあげて行く、というようなところがあるようですが、そういうやり方は決して部下を得るものではないのであります。我々菓子屋の方にもそれがありまして、日本菓子の職人というと、とうてい生活して行けそうもない薄給しか与えられない習慣になっております。もとより主人側の好都合でありますから、相当利益のある店でもこの昔からの習慣を改めないのでありまして、職人はそれではくらして行かれませんから、やむを得ず砂糖や玉子、また製品をひそかに持出したり、あるいは原料問屋から心付を強請したりするのであります。主人ももちろんこれは感づいていまして、それゆえなおさら高給ということを致しません。品物をぬかれるものとむしろはじめから見込んでおくのであります。これでは職人も悪いと思いながらも、ますます盗み出しの必要を感ずるということになります。無論かような対立的の態度でありますから、仕事の成績はよろしくなるはずはありません。
 この事情に関して少々手前味噌のようにも聞えますが、私が実地経験致しましたことを御参考に申上げます。私の所は最初パン屋でありましたので、今日でも中村パン店と呼ぶ方が少なくないのでありますが、パン一種の製造のみでは、夏は非常に忙しくなりますが、冬になるとひま過ぎて困りましたところより、何か冬売れるものをと物色しまして、日本菓子を併せて製造販売致そうと思い立ち、これを始めましたのが今より三十年前であります。さて菓子職人を雇入れて見ますと、以上申せし如き悪習慣がきわめて多いので何とか改良すべきだと考えまして、当時東京で第一流店主人に話して、職人の給金を増して、盗みぐせを止めさせるようにしてはと相談しましたところ、その主人の答には、彼等の盗みぐせは、菓子職人社会の何百年来の習慣であって、いまさらそういうことをしてみたところで改まるものではない。やはりその盗み分をおよそ見積って、それだけ給金を少なくするよりほかはありません、ということでありました。
 しかし私にはそんな無情なことは出来ませんので、給金を倍にしまして、なおまた子供のある者には子供手当、老人があれば養老手当を添える等心を配りました、なおまた特に忙しく利益の多かった時は、これを分配するように致しましたところ、彼等も生活の安定を得るとともに長年の習慣の悪しきを悟りまして、その物品の持出しのこと、またコンミッションを取るなどのことは全く根絶いたしまして、その上製造能率が非常に増加致しました。従来職人一日の製造高は十円ないし二十円で、平均して十四円見当でありましたのが、私の所では現在平均四十四五円になって居ります。すなわち三倍の成績をあげているのでありまして、待遇改善から自然にこの好成績がもたらされたのだと私は確信するのであります。
 今日大会社や官庁において、仕事の能率がすこぶる低く、だいたい一般民間のそれに比して、三分の一ぐらいの働きより出来ていないと申しますが、もしも上に立つ人々に部下を思うの真実があって、この辺の注意がよく行われましたならば、左様な状態に止まることはなかろうと思われるのであります。大会社等でいわゆる上に立つ人とは、単に大株主とか大財閥の関係者というだけで、幾つかの会社の重役を兼ね、自動車で乗り回しているだけで、毎月数千円もの収入がありましょうが、それに反し、真に力量ある活動力ある秀才が、僅々六七十円の俸給に甘んじていなくてはならぬのであります。妻子をも養い兼ねる有様では、不平不満、真剣な働きの出来ないのは、当然のことと言わねばなりません。先頃米国の視察を終えて帰朝されました藤原銀次郎氏の談にも、日本の会社は米国のそれ等の会社に比し三倍の人を使っていると語られて居りましたが、それなら米国人は日本人の三倍の能力があるかというと、決してそうではありません。カリフォルニヤに働く日本人の能率ははるかに米国人を凌ぐと申しますし、その他を見ても日本人は米国人より決して能率の劣る国民ではないのであります。要するに仕方さえよろしければ少なくとも今より三倍の能力を発揮し得る人々を、現在は指導よろしきを得ず、また根本の不満を除くことをせぬために、かく面白からぬ状態においているのでありまして、上に立つ人々の修業の不足は、実にかくの如く大きな不幸を、一般の社会に及ぼすものと考えらるるのであります。大きさにおいてこそ違え、一工場、一商店の主人も、その責任は同じことでありまして、私は事にふれて自己の修業の不足を思い、主人学の修業の必要をいよいよ痛感するのであります。主人自ら主人学の修業が出来て、はじめてそこで部下を善導し、有用の材に仕立てることが出来るのでありまして、主人は主人であると共に彼等の教育者、また親代りであることを忘れてはならないと思うのであります。
 以上でだいたい主人学の一般を尽したかと思いますが、最後になお一つ重要なる問題が残って居ります。それは妻君と協力の問題であります。我々個人の工場や商店にあっては、その妻君の地位は、多くは主人に匹敵し、稀には主人以上の主要な場合さえあります。今日の大三井の基を築いた人は初代の夫人であって、これはもう知らぬ人もありませんが、かの盛大な明電舎も、当主の母君の力でかの盛運を開かれたものであると聞きます。また味の素の鈴木氏の今日の隆盛の源にも、当主のお祖母様の力が大いに加わっていると申します。我々菓子屋の同業中に見ましても、銀座の木村屋の主婦、本郷三丁目岡野の主婦、本所寿徳庵のおばあさんなど、みな主人以上の店の繁栄に力あったものであります。婦人は勤勉で、細心で、注意深く、政治とか相場とかいう道楽もまずありませんから、賢明なる主婦は、往々にして主人以上の働きをする場合があるのであります。
 しかしながら、そういう賢明な婦人は別として、一般の婦人は天性つづまやかであるため、それが一つの欠点になっている場合が少なくないのであります。私の知って居ります某大学教授の夫人は、某会社の重役の娘に生れて、最高の教育を受けた人でありますのに、どういうものか女中等の食物のことを考えてやらないのであります。女中等は仕方がないので、主人夫婦の食い残したもので食事をしているという有様で、これなどもどうせ残るのだろうそれを食っておけばよいのだという考えなのか、何んとしても恥しい話ではありませんか、また相当の店や工場の店員や職人が「おかみさんがケチで食物がわるい」とこぼしているのも、よく聞くところでありまして、粗食の結果、成長期にある少年をして発育不良に陥らしめたり、病気をする者が多いなどという例も少なくないのであります。
 これでは如何に主人学を修業して完全たらんとしたところが何もならない、妻君が傍から破壊して行くのであります。また商売見習に来た小僧に子守のみさせたり、また我儘な子供の相手をさせるのもこれ等の妻君でありまして、子供もこれではいよいよ増長し、店員達を自分の家来のように思うて無理な事などいいつけるようになり、どちらに対してもよろしからぬ結果を来たすのであります。
 ゆえに、主人は部下を指導すると同時にその妻女を教育することが大切でありまして、夫婦同一線上に立って協力一致して当るのでなくては、多くの店員や職工等を完全に率いることは出来ないのであります。なんの妻君教育ぐらいと考えますが、実際においてこれはなかなか難しいことであります。かの英傑秀吉すら淀君の我儘を押えることが出来なかった結果、豊臣の天下を早く失ったとも言われて居ります。して見れば徳川十五代の基を築いた家康は妻女教育を完全に成し得たものと言えるかも知れません。ゆえに私は主人学の最高峰はむしろ妻女教育であると申してよろしかろうと考えるのであります。

「売家と唐様で書く三代目」と川柳にもありますが、どうも二代目三代目は難しい。稀には初代の成功のあとを受けて、二代目で大いに発展する家もあるが、多くは二三代で没落する。何故成功者の子孫がそうなるか、二代目は駄目だといっても、その人を見ると決して馬鹿ではありません。むしろ時代が進んでいるだけ初代よりも聡明で、才もあり、一個の社会人としてはなかなか条件が揃っているのを見るのです。それにもかかわらず事業がうまく行かぬのは何故か、ここに大いに我々の考えねばならぬものがあります。
 まず初代は、幾多の困難に打ち勝って漸く一家を成したのですから、金銭に対してもその価値を知っていて、同じ使うにも使いどころをわきまえている。たとえ零細な金でも無駄な支出はしません。そうして日常つつしみ深くあるとともに、業務の方では使用人と一緒に働いて、苦楽を彼らとともにする。それゆえ使用人も主人に親しみ、敬愛し、よろこんで職務に精進するのであって、この両者の持合が崩れぬ限り、家運はますます盛んであります。
 ところが二代目三代目となるとそうは行かぬ。三代目はさておき、二代目にしても、これは初代の子で創業の時代に生れているとはいうものの、青少年期にはすでに家業も盛んになって、それにつれて生活も拡張されているから、家には女中あり下男ありで、不知不識に我儘を助長される。無論高等の教育を受け、またこの時代色であるところの旅行に、運動に、音楽に、芸術の理解も出来れば相当に享楽の道を心得て、知識も見聞もとうてい初代の及ぶところではありません。昔語りに親達の苦労のあとは聞くが、それかといって現在は現在で、衣食住は向上する。二代目としてはもう初代のような質素な生活は出来ないのであります。
 その結果として、初代の時は店の経費も生活費も多くを要せず、従って営業の方針も薄利勉強で進むことが出来て、ますます世の信用を博し営業も発展したのであるが、二代目三代目は諸経費の増大のため、従来の薄利主義を守ることが出来ない。漸次利鞘を大にして勉強の度を減ずるほかありませんから、店の信用は低下し、売上は漸減する。また初代主人と使用人との間には、多年苦楽をともにして、互いに離れられぬ親しみがあり、また階級的の差別を感じるほど生活程度も違っていぬから、使用人として不平も起らない。双方におもいやりがあって、感謝の気持で働くから能率も上がるが、二代目三代目となると主人はもう使用人とともに働くわけには行かぬ。ただただ指図をするか、あるいは顔出しをするくらいに止まることになって、しかも生活程度は甚しく懸隔を生じ、使用側は羨望と不満から自然と職務は怠り勝ちとなり、能率が低下する。
 大会社や大工場の重役等が労せずして高給を食むに反し、実際に中堅になって働く役員や職工はその十分の一程度の給与しか受けないために、不平を起して充分に働かぬと同様の結果となるのであります。二代目が初代に及ばないのは、ちょうど質素な生活に慣れた地方人は都会に出て成功するが、贅沢の味をおぼえた都会人は、知識においてははるかに勝りながらこの地方人に敵わない、これと同じ道理であります。
 それゆえ昔から数代続いて繁栄の少しも衰えぬ家というのは、よほど代々の遺訓に力強いものがあり、そういう家の家憲を見ると、必ずそこには質素を第一とし、固く奢侈を戒めてある。子孫がこの家憲を守る家は長く栄え、守らぬ家は破滅する。それゆえ主人は相当に成功した後も自ら質素倹約の範を示して、家風を奢侈に委ねぬよう努力を尽し、順境において成人する子孫に充分の活力を保たせてやらねばならぬのであって、これが出来ねば自分一代は成功しても、主人学を完成したものとは言えぬのであります。
 この点米国人はなかなか徹底していると見えて、父は世に聞えた富豪であっても、その子弟は自ら働いて得た収入で、力相応に生活する習慣があり、大統領が幾千万ドルの生活をしても、いったんその職を退けば、同時に質素な一平民の生活にかえる、その生活の伸縮自在なところ、また自力尊重の一面は大いに敬服に値すると思います。どうも我々日本人は気前がよいというか、一度大臣になった人は、野に下っても、生活だけはやっぱり大臣の生活をする。いったん大きくなったら容易にもとの簡易さに戻れない。そこに人知れぬ悲劇もあると言わねばなりません。
 三百余年繁栄して衰えぬ三井家の家憲というものを見ると、やはりなるほどとうなずかれるものがあります。誰方もよく御存知でありましょうが、私の心を惹いた条々を、おぼえのままに引いて見ますと(但しこれは現代語に直されてあり、原文そのままに味わうことは出来ないがだいたいの意味において)
一、同族一門は情諠を収て和衷協調し、心を一つにして行かねばならぬ。同族が相争う時には家運は亡びる。一本の矢は折れ易いが、十本の矢を束ねる時は折れない、というこの教訓は、自分の家の掟に適っている。
一、節倹は家を富まし、奢侈は人を亡ぼす、節倹は子孫繁栄の基礎である。
一、家業に専心しなければならぬが、必要なる経費は積極的に出さねばならぬ。あまり勘定ばかりしていては大きな商売は出来ない。
一、他人を率いる者は、よく業務に通暁しなければならぬ。だから同族の子弟はまず丁稚小僧の仕事から見習わせて、漸次に店の業務を習熟するように教育せねばならぬ。
一、分限を越えてはならぬ。仏神を敬うのはよいが、これに凝って家業を怠り、寺などに多額の寄進をすることは慎しまねばならぬ。信仰は精神の問題であって、いたずらに物質的寄進をすることは別問題である(等々)
 見るところこれは如何にも三井家始祖の遺訓らしくその慎みと誠実さ、またしっかりと大地に根を据えたような信念に頭の下るのをおぼえるが、よくこれを奉じて間違わなかった三井家代々の偉さも同時に思われるのであります。今は時代も難しくなり、当然二代目の悩みも深いわけで、親子ともになおさら戒心を要する次第であります。

 私はせんだってある所で「主人学」という話をしました。その続きというわけでもないが、今は諸君に、主人学のお隣りの「職長学の修業」について話したいと思う。いま中村屋には職長級の人が十四五人いるが、いま年少な君達も、やがて職長となり、技師長となり、販売主任となるべきであって、職長学の修業は、常に心がけて、だんだん自分をその器につくり上げて行かなくてはならない。
 まず職長として第一に心得ねばならぬのは、部下の信頼を得ることです。その点は主人も同じだが、職長は主人よりいっそう骨が折れると思う。主人なればその関係は初めから決定的だが、職長は同じ雇われ人の中で上に立つから、とかく問題になり易い。しかし仕事の上から見れば職長は先生で、部下の若い者は誰もみな職長に教えられて、将来一人前として立てるだけの腕を磨かなくてはならないのだから、その意味では職長の方が主人よりも大切であるし、また朝夕を一緒に暮し、二六時中相語り相助け、よくてもわるくても責任をともにするのであるから、職長に向うてはしんみの父に対するような感じを持つのが自然だろうと思います。それゆえ部下の敬愛を受ける度においては、主人より主婦よりも職長の方が上かも知れない。
 ただしそれは職長が真に部下を愛して親切に指導する場合であって、職長にそれだけの自覚がなく、部下に技術を教えるのを惜しむようだとすると、誰も彼に従うことを喜ばない。たとえばパンの職長が醗酵素の種の作り方を秘密にする。菓子の職長が、材料の割り方や薬品の分量を教えない。それらはいわゆる秘伝にして自分が握っていて、部下にはいつも下働き的な仕事のみをさせておく、とすれば部下は不平を起すにきまっています。その結果は職場の能率が低下し、製品の出来栄えも落ちて、ついには職長が地位を失うことになる。まことに困ったことだが、世間にはそういう例が少なくない。しかし何故職長が秘伝を惜しむか、これには主人も大いに責任を負わねばなりません。
 それは何故かというと、職長が技術を残らず伝授して、部下がだいたいそれをのみこみ、ほぼ代理が出来るようになると、主人は高給を惜しんで職長を解雇し、給料の安い若い者に代らせるという例が世間に実に多いのです。職長もそんな目に遭っては大変だから、自分の地位を守るために部下に対しては内々気の毒に思いながらも、仕事の一部を秘密にして、後進の道を塞がざるを得ないのであって、考えて見るとこれも気の毒な話であります。諸君が将来そういう勝手な主人になってはならぬこと、これはもう言うまでもないが、職長となって部下を率いる場合にも、技術を教えしぶるようではならない。主人は職長の地位を保証して、懸念なく指導者としての働きをさせるようにし、職長は安心して親切に後進を導き、部下はその教え子として職長を敬愛し信頼して修業を積む、そうあってこそ互いにその職分に満足出来るのであります。
 しかし世間の職長の気風はよくないものがあって、部下から何かを教えるに際し、いちいち報酬を要求するものがある。また月末給料の入ったのにつけこみ、花札、将棋、麻雀などに誘うてこれを巻上げる。あるいは飲食店につれこんで、一緒に飲食して、その勘定を負担させる。部下はそれに対し泣寝入りでついて行かねばならないなどというのが珍しくないが、かような輩はどれほど技術が優秀でも職長たるの資格はありません。主人は即時にこれを解雇すべきであります。
 次に、職長は自分の担任する部内で、何か失態を生じて、主人あるいはお得意に詫びなければならない場合となった時は、たとえそれが部下の過失であっても、自分はその部の長であるから、責任を負うて、部下に代って陳謝すべきであります。職長の中にはこれの出来ない人があって、往々部下に全責任を負わせ、自分は知らぬ顔で済まそうとする。これが単にその男の小心から出ることもあるが、とにかく少しでも責任を回避するところがあっては、人の上に立って信頼を得ることは出来ない。まず職長の資格はないものと言わねばなりません。
 しかしまた、部下に人気があるから必ずよい職長だとはきめられない。職長の中には事なかれ主義で、部下の過失を見逃し、遅刻、欠勤などの場合にも、厳重に注意を与えることをしないものがある。無論そうしてあれば、部下には寛大な職長としてよろこばれるのであろうが、実は甚だたよりにならぬ職長である。こういう職長の下についた青年は、まるで温室の中で伸びる草花も同然で、将来世間の競争に堪えて行くことが出来ない。無論部下に対し厳に過ぎるのはよろしくないが、寛に過ぎて人を鍛えることをしないのは親切とは云えぬ。それでは後輩を指導するとは云えぬのであります。
 また非常に勤勉で、常に率先して、脇見もせずに働く職長がある。これは部下に勤勉の活きた手本を示すもので、たいへん結構なようであるが、実際には、これがいっこう他の手本にならないことが多いのです。こういう職長は仕事の中のむずかしい所は、人に任せないで自分がやってしまっていて他に眼がとどかぬのをよいことにして、横着な者は自分の受持を怠り、職長自身は一生懸命働きながら、全体として見るとかえって能率が低下するという妙な現象が起ります。こういう働き人は一職人として模範的なのであって、職長としては決して上々とはいえません。やはり職長という地位に立つからには、部下をよく使うことが第一であって、各自の長所短所を知って、これを人によって然るべく教え導き、適宜に按配して能率の増進を計るべきであります。
 職長はまた、自分の知識を絶えず養い、時代に後れぬようにしなくてはならない。職長となるまでには相当苦労を積まねばならないから、たいてい四十代から五十代という年齢で、部下の青年の方が新しい教育を受けているから、学問の程度では職長の方が落ちる場合が少なくない。ちょうど家庭で高等の教育を受けた息子や娘が、両親の時代遅れを笑うのと同様に、職長も何時部下から突込まれるかも知れません。それでは互いに面白くないから、職長ともなれば少なくとも自分の従事する仕事に関する範囲では日夜注意して知識を養い、一歩も人に譲らぬだけの自信を持つことが大切であります。
 以上、私は職長として六つの場合を注意したが、まずこれで職長学の卒業はやや近づいたものでしょう。しかしまだ一つある。職長は部下に対してあくまで公平でなくてはならない。自分の好き嫌いで部下を分け隔てしたり、自分がつれて入った者を引立てて前からいる者を継子扱いするなどのことがあっては、部下を統一することが出来ないので、仕事の成績も上がらない。絶えず反省して感情にとらわれることを避け、公平に考え導くとともに、主人にも部下を公平に待遇してもらうよう、正しい報告をするように努めなくてはならない。まずこれで職長学七ヶ条となりましょうか。どうか諸君も心がけて、他日人の上に立つ時のために修養し、いよいよ人格的に向上することを希望します。

昭和十一年十二月中村屋歳末例会において
 歳末に[#「歳末に」は底本では「歳未に」]際し、例によって諸君に一言挨拶を述べようと思う。本年のわが中村屋の成績は前年に比し、一割五分の増進を示しました。全く諸君の勉強によることと深く感謝いたします。
 私はこの間労資協調会に招かれて行ったが、そこでたいへん面白い話をきいた。これは諸君の良い参考になるからぜひ話そうと思って、実は今日を待っていました。この話をしたのは当日来会せられていた三井報恩会の遊佐敏彦という人で、神戸の夜学校にて、三十年間におよそ五万人の生徒が教えを受けた。その五万人のうち名をなしたものが二百人ある。この二百人について、その成功の基となったものは何か、きっとそこに共通するものがあるに違いないと調べて見て、三つの要素を発見しました。その一は「一業に専心すること」第二は「同輩より一歩を先んずること」第三は「報恩感謝の念篤きこと」であった。二百人がちゃんとこの三つを持っていたのであって、このうち一つ欠けても成功しないことが判ったという話。私はこれを聞いてなるほどと思った。夜学校の生徒といえば経済的には恵まれぬ境遇で、その点諸君と似ています。真剣に誠実に働いて、それが自然にこの三つの要素となったのであって、何も箇条書にして実行したわけではなかろうが、私はこの一つ一つについて少し話して見ましょう。
  一業に専心すること
 何でもないことのようだが、これがなかなか容易でない。他人の仕事は面白そうに見えて、自分の仕事はつまらなく見えるのが一般人の常です。そこで仕事を変える。この移り気が禍いして一生をだいなしにする者がどのくらいあるか判らない、ちょうど女の子が嫁入りすればその初縁を守ることが大切で、もし我儘を言って出戻りすると、つぎつぎと劣ったところへ嫁ぐようになって、悲惨な最期に達する。それと同じで、男子も最初に目的を立て、修業に就いたら、中途で他業に変ってはならない。せっかく少し手に入りかけた仕事を捨てて他に移れば、そこでまた一年生から始めねばならず、最初からその仕事をしている者には幾分か遅れて、その差は一生取返しがつかない。稀には天分他に勝れて、何をしても人の上に出るものもあるが、そういう人はまた世間みな馬鹿に見えて、自分ならば往く所可ならざるはなしと自惚れ、あれもこれもやって見て、ついに一生何事にも徹底せず、中途半端で終ることが多い。俗に器用貧乏というて貧乏がつきものなのも、この才人は才に任せて、あれこれ移り、一つに集中することが出来ぬからであります。たとえ天性鈍で、はかばかしい出世は望まれなくても、一事に従うて逆わず、その仕事に一生涯を打込むならば、独自の境地に自然と達するものである。とにかく途中であせって商売がえをするほど愚にしてかつこれくらい大なる不経済はありません。
  朋輩より一歩先んずること
 一歩を先んずるというところに諸君の疑問がありはしないか。何も一歩と限らず五歩も十歩も、先んずればよさそうに思われるであろうが、実にこの一歩という点がきわめて大切なのである。人の能力は人の身長の如きもので、奇形的な力士等は別として、彼は驚くほど背が高いと言ったところで僅かに五六寸の違いに過ぎない。まず一割くらいが関の山で、如何に奮発しても朋輩から一歩も二十歩も[#「一歩も二十歩も」はママ]先んじられるものではありません。もし強いて先んじようとすれば、後日に至ってかえって遅れる。私が青年時代のこと、富士山に登るのに健脚の自信があって、白衣の従者を追い抜き頂の方に素晴しい勢いで登って行った。ところが八合目になると急に疲れて休まねばいられなくなった。休んでいると先ほどの白衣の道者が急がず焦らず悠々とした足取りで通って行く。これではならぬと私も勇を鼓して登って行ったが、頂上に達した時は従者はもう早く着いて休んでいた。世の中のことはすべてこれだなと思って私もその時は考えたが、家康の教えにも、「人生は重き荷を負うて遠き道を往くが如し、急ぐべからず」とあります。実に名言だと思います。
 では一歩先んじようとは何であるか、遅れていても結果において早ければよいではないかと言ってしまったのでは話にならない。一歩を先んじよというのは、常に緊張して努力せよというのであって、その結果は必ず他に一歩を進める事となる。すなわちこの一歩一歩は富士の山麓から山頂までつづけられる努力であって、それは決して私がやったように一時人を出し抜く早足ではない。誰を負かすのでもない。ただ正当なたゆまざる努力である。たとえば我が中村屋の店員の中に定めの時間より一時間も早く出勤する者があるとする。私は決してそれを褒めません。多勢が一緒に働く場合は、一二の人だけ特別に早く出ることは朋輩を無視したやり方で、朋輩の感ずるところもよろしくない。人間は持ちつ持たれつの協同生活で、好んで他を心苦しくするようなことはしてはならない。まして一人だけ早く出勤して精励ぶりを認められようとする心事だとすれば稚気憐れむべしだ。とうていこんなことで成功は得られぬのである。
 しかし朋輩よりおそくなることは断じてよろしくない。諸君の中にもたびたび遅刻して罰俸を受けるものがあるが、定めの時刻に遅れては定刻に出勤する人に対して相済まぬばかりでなく、左様に緊張を欠くことでは、生涯人後に落ちてうだつが上らん。以前店によく泣き言をいう職人があって、朝晩に「忙しくて困る。この家のように仕事の多いところはない」と愚痴をいうので、私も我慢が出来なくなって、それでは仕事の少ない閑な店へ行くがよろしいと退職を命じたが、こんなふうに仕事泣きをする人に成功したためしはありません。諸君も新年からは一人も、遅刻せぬよう、めいめい五分十分早く店に着くようにして、定刻には店員全部が揃うて仕事にかかり、将来ゆくゆくは皆が皆揃うて成功者となることを希望するのであります。
  報恩感謝の念篤きこと
 これは徳富先生もお話下さった通り、有難い、かたじけない、もったいないという心持のあるものは、物を扱うても粗末にせず、人に対しては丁寧であり、自分自身も満足であるゆえ、神にも人にも愛されることとなる。しかるに世には不平家なる者があって、主人に対しても、朋輩に対しても、世間に対しても常に不足不平のほかなく、しまいには自分自身にまで不満を感じて自暴自棄に陥る。従ってその行動は破壊的で世にも人にも容れられない。こういう人は報恩感謝の念なきに原因するのであって、まことに気の毒なものであります。
 諸君はどうかこの三点に注意し、希望を持って着々進まれるよう、私はこの中から一人の落後者も出ないことを祈るものであります。

「勘定合って銭足らず」ということがあるが、諸君が独立して新たに店を持つか製造を始めるかすれば、一度はきまってこの経験をするであろう。勘定合って銭足らず、計算が判然せぬようでは何をしても失敗するにきまっている。元来勘定の結果と金銭の高とは必ず一致すべきはずであるのにそれが合わないとすれば、計算が粗雑である種の経費の損耗を見落しているとせねばならぬ。また知らぬ間に盗まれたか失ったか、その辺のところも注意せねばなるまい。ここに参考として自分の見た二三の実例をあげて見よう。
 これまで職長として百円位の月給を取っていた者が独立して店を持つ時、当人はもとより、周囲の者も口を揃えていうことだが、店を持って自分が働けば職長を雇わなくても済む、職長の月給の百円だけは経費の中から助かるから製品を一段と安価に提供することが出来てそれだけでも、もう前途有望のわけだと。
 これは自分が月給を取っていた者として一度思いこむことであるが、実はこのくらい甚だしい認識不足はないのである。自分が単に職長として主家から俸給を受けていた時は生活もその範囲内で済み、またぜひともそれで賄わねばならなかったのであるが、自身主人となって一つの店を構えて見れば生活がかえって上るのは当然で、また日々売上げがあって、誰のゆるしがなくても自由に出し入れ出来るとなれば、職人時代より支出が増加するのはたいていの場合あたりまえとせねばならない。従って最初の楽観は間違いで、この違算から新店は必ず失敗となる。
 私の知人に外国貿易をしている者がある。収支ようやく償うくらいの商売であったが、昨年その子息が商科大学を卒業すると、番頭を解雇して子息をそれに代らせた。その時私にこれで一年約二千円の余裕が得られるという話であったから、私は彼に警戒して、大学出のお坊ちゃんは仕事は番頭の半分も出来ないでいて、小遣い、旅行費、自動車代など番頭よりはるかに多く使うものだ、気をつけないと二千円の余裕どころか、反対に二千円不足するかも知れんと言っておいた。この頃逢って見ると果して私の言った通りであった。

 かつて私が玉子パンの製造実費計算を、その職長に命じたところ、やがて調べて出したのを見ると製造出来上がりの分量が、小麦粉、砂糖、バター、玉子などの原料と全く同量に出来上がっており、この売価は原料代のちょうど二倍になるという利益報告であった。ところが事実そんなはずはなく、製造の間に原料の一部は飛散し、油分、水分はその大部分を失うものであって、これらの損耗が正確に現われるのでなければ、製品の原価は甚だ曖昧なものとなる。
 私はこの事を指摘し、あらためて正確な試験をやらせたところ、果して今度は二割の減量となった。小麦粉には一割五六分の水分があり、砂糖にも八九分の水分があり、それがことごとく飛散する上にバターもおおかたは無くなり、玉子はおよそ五分の一以下に減ずるのだから、この減損は当り前なのであった。しかし職人ばかりでない、人情の弱点として、自分の働きの効果を大きく見てもらいたいという微妙な心理から、有利なる報告をする傾があるものである。私がもしその報告を基準として売価を定めたならば、すなわち勘定合って銭足らずになるところであった。

 商品販売の上にもこれと同様の場合が多い。たとえばバターを五十ポンド樽より半ポンド詰に分けたり、水飴を百斤樽から缶に移す場合などには、大略百分の五の減損となり、またビスケット類のような崩れやすい菓子を計り売りする時には、一般に百分の六、七は砕けと計り込みとなり、実にこれを包装紙に包み遠方に配達する等の諸費をも加え、またお客への風味、店員の試食などを加えれば、最少限度一割くらいの減損を見込まなくてはならぬ。それゆえ商売の利幅を二割と見てもすでにその半ばを失っており、残余の一割で店員のすべてを賄うこととなるのであるから、商売も全く容易でない。しかし商売の経験のないものは、この減損の大きいことを知らない、普通二割の利益ときいて儲かるものだなあと思い、自分がやればそんなに儲けないでずっと勉強することが出来ると考える。これまた勘定合って銭足らずの原因をなすのである。
 もっともこういう誤りは素人だけにあるのでなく、商工省あたりの官吏なども、二割の利益をもって暴利とし、これを取締るべしなどと論ずるのを見受ける。さらに驚くべきは、商人の実際を相当理解しているはずの税務吏が、一般個人商店の経費や諸欠損をきわめて少額に見積り、これと利鞘との差額を一割五分ありとなし、これを全部純益と認定して課税するなど、相当教養ある人々にしてなおこの有様である。諸君が新たに仕事をする時は慎重の上にも慎重を加え、計算の精密を期さなくてはならん。事業の成否は懸ってこの一事に在るものである。

 私は決して諸君の経済生活に立入るのではないが、思いつくままに少し金の使い道ということについて言ってみたい。ただし諸君は使い道を考えねばならぬほどの金を持っているわけではない。私の言うのは金の有る無しによってでなく、要するに金というものに対する我々の態度を考えるのだと思ってもらえば間違いありません。
 有名な二宮尊徳先生は諸君も知る通り質素と勤勉を教えた人だが、この先生が、人々の生活費はどの程度にすべきかということにつき教えたのを見ると、分度を立ってこれを標準にせよと言い、その分度なるものは、人により身分により、収入の多少によって異り、大名には大名らしい生活を必要とし、その大名の中でも十万石と二十万石とでは自ら違わねばならない、皆分相応にするをよろしとし、およそ収入の大略八割をもって生活すべしと教えています。なるほどさすがは二宮先生の言である。何でも節約せよというのではない。
 さて私が見るところ諸君の中には、収入全部を消費してなお不足する者もあり、一方にはまた収入の七割八割も貯えて、貯金の殖えるのを唯一の楽しみとし誇りとしている者もあるようだが、これは双方ともあまり賞めるわけには行きません。いったいこの俸給なるものは、昔大名が石高に応じて兵士を養うたと同様、本人の生活の必要に応じて与えられまた受けるものであるゆえ、高給を受ける職長、幹部の人々はみなそれ相応の生活をするのがよろしく、それでも済むからといって薄給の部下と同等ではいけません。また薄給の若い人が、よい生活をしたがり、先輩と交際を競うようなことがあれば、これは僣上の沙汰です。
 それからまた妻君がだらしなくて、主人の収入を全部消費し、まだそれで不足を感じるなどというのがあるとすれば、病気その他万一の場合にはどうするか、たちまち困難に陥り、朋輩に借金でもして一時をしのがねばなるまい。しかしふだんの時でも不足勝ちであったものが、その借金を返すことは容易でなく、ついには不処理の結果、店を退去しなくてはならぬようなことにもなる。
 またこれに反し、妻君があまりがっちりしていて、主人に小遣いを持たせず、子供におやつを与えず、専ら貯金のみに腐心するというようだと、節約のために家族は栄養不足に陥り、子供の発育を害し、あるいは病気にしてしまう。また世間なみの生活をせぬところより、子供が不知不識しらずしらず卑屈になるなどのこともあるであろうし、主人も朋輩に疎んぜられ、出世の障りとなるやも知れない、外交官でいて交際費をためる人は名外交家となれぬというが、人間金銭にきたないようでは世間に立って思うように活動出来ないのも当然であります。
 そうして金をためてどうなるかというと、資産家が自己本位の世渡りのために、人の怨みを買うて非業に死し、あるいは子孫の教育にわるい結果を残す。金というものは世間に廻り歩いてこそ効用をなすが、一つ所に積んでおいたのでは、決してよいことがありません。人は子孫のためにと言って金を残すが、残された金は子孫の仇となる場合が多いのであります。
 それゆえ各々の分度を守り、収入相応の生活をして、自分も楽しみ、世を楽しく暮すことが第一である。そうすれば子孫も自ら伸び伸びとして素直に成長し、人を愛し人にも愛される者となる。いにしえ極度に節約した結果であっても、家に余分の富が積まれていれば、自然子孫は遊惰になるが、身分相応のびのびと生活してその中で成長した子供なら、金はなくても立派に独立して働けるであろう。
 もう世を去ったある有名な断食奨励家は、月末の支払いは来月に延ばして、その間の金利を貯うべし、書留郵便料十銭を節約するには一銭不足の郵便を出せば不足税とも二銭で八銭の利あり、また一週間を七つに割って、その中の一日あるいは二日を銭なしデーとなし、この日には必要あるとも絶対に一銭の支出もしてはならない。すべてこの調子で貯金だの宣伝をしたものであったが、なるほどこれなら貯金は出来るであろうが、人間味はどこにあるか、全く守銭奴となって、世にも人にもつまはじきされ、生き甲斐なく淋しい一生を送らねばなるまい。
 分相応を第一とするとともに、栄枯盛衰はあざなえる繩の如し、時に貧しくとも驚かず、貧乏負けせぬが必要だとともに、富貴に処して得意がらず、余裕をもって善事に奉仕すべきであります。ここにおいてさらに云わねばならぬのは、およそ人として順境に生きることの難しさである。金が出来たので衆望もないものが、議員候補に乗出したり、あるいは妾等を蓄えて家庭に風波を起すもあり、また善事に奉仕するというても、故郷を離れて神社仏閣に寄付の高を誇りにしたり、与うべからざる者に金を与えたりして、かえって虚栄に陥りまた人を毒する結果となるものが、世にまことに多いのである。明治の中頃、小石川目白台に、アウンバラバなる一僧侶があった。その行いは厳正にして寡慾、天晴の名僧善智識として多数人の尊敬を受けていた。するとこのバラバに金を捧げる者が続々と出て、私の知人で十数万円も献金した者もありました。その結果、最初は質素高徳であった坊さんが、何時か金襴の[#「金襴の」は底本では「金欄の」]衣をまとい、玉堂に住み、美人を侍らせるに[#「侍らせるに」は底本では「待らせるに」]至って、たちまち世の信用を失い、悲惨な末路を遂げたことがあった。実に金銭有用なものはなく、また金銭無用なものはないのであって、いったん無用の使い途に入ると、かくの如く人を堕落せしめる。
 それゆえ、子孫のために美田を買わずという西郷隆盛の教えを考えて見ることが必要である、もしまた巨万の富を得た場合には、真に有意義なる道を見きわめてはじめてそこに活用し、禍いの種を家におかぬのが最上策というべきである。しかし人情の常としてかかる英断は容易に行われにくいのであります。そこに大資産家の子孫教育のなやみもあるのであって、如何にせば子孫をしてその富を社会に活用せしめることができるか、順境に育った子孫にあやまりなく金を使わせることはまたいっそう難しいのであります。
 およそこんなものでありますから、「貯金するばかりが能でない」と諸君に言うのであって、濫費をすすめるのではないことはもとより、金を軽んじよというのではなおさらありません。諸君の上に生生溌剌として、滞りなき生活があるように、いささか立入りすぎた話ではあるが、諸君もまたこれを諒とせられんことを願うのであります。

 世の中が挙げて、いよいよますます競争激甚になってくると、それに伴っていろいろとごまかしが行われるようになってくる。お菓子でいえば、卵を入れねばホントの味や色が出来ないのに、黄色い粉で色着けをするといったふうなことが、この頃よく行われている。これはそういうことをする店なり人なりに誠実がないから出来ることで、結局そういうやり方をすれば、お客はしまいにはその店で買わなくなるだろうと思う。あらゆる点に誠実を尽せばそれがちょっと見ては判らなくても、ついには形に現れて来ると思う。
 だが、誠実に物を造り、誠実にそれを売っていさえすればよいかというと、それだけでは、今の時代は立ち行かない。私の店で研究ということをモットーに加えて重要視しているのは、そういう意味からである。
 例えば、乳離れの子供に胃腸を損じない栄養分の豊富なお菓子を作るといった試みとか、現代のような空の時代に航空士や乗客の疲労回復を目的とするお菓子を作って見るとか、カルシウムやヴィタミンBをお菓子に含有させて、骨格を丈夫にしたり脚気の予防に役立てる等々の試みは時代に適した行き方で、こういうところへ目をつけることは常に研究して行く気持がなければ、出来ることではない。常に研究していれば、他より一歩先んじることが出来ると思う。
 明治や森永なども皆試験部とか研究室を持っているが、中村屋としても、そうゆう意味で、研究室を設けて、材料の吟味、出来上がったお菓子の検査、新しい製品の企画、研究をやっている。そして、これがどれだけ中村屋の今日を築いているか分らないと、私は熟々考えることがある。
 犬に食わせる犬ビスケットにしても、従来は英国やドイツから輸入していた。一斤六十五銭もしていたものを、ヒョットした機会から自分のところで作って見ようという気になり、いろいろ分析研究して結局今では二十五銭で売れるところまで漕ぎついた。しかも犬は六十五銭の外国品より喜んで食うのだから愉快だ。これなどは畢竟ひっきょうするに研究の賜である。
 研究を熱心に怠りなくしていると、こういう風に西洋の真似や、他の模倣ばかりせずに、独創的なものを作る興味が出てくる。
 鮎川義介とか森矗昶とかいった人達が新興の事業家として財界に大きな迫力を持っているのも、化学工業という新しい方面へ手をつけているからだと、私は思っている。
 そうゆう意味で、他の店で私のところの製品の真似などをして作って売り出しても、ちっとも怖しくない。真似したものが、苦心して始めたものより先を越すことはとうてい出来るものではないし、またよしんば彼らがやっとそこまで追い付いて来ても、その時は此方はもっと進んでいるし、また新しい方面を開拓してあるのだから、何時まで経っても後塵を拝しているよりほかはあるまいと思う。
 これは道を旅して歩くのと同じで、こちらがドンドン先へ行って、景色のいいところなんかで一休みして遊んでいる。彼らが来る、またドンドン先へ行く。というようにやっていれば、どうしたってかないっこはない。
 こういう行き方は先に述べた通り研究を怠らなければ出来ると私は信じている。

 私の方では、材料以外は問屋からとらないことにしている。これは問屋からとって売る製品は安心してお客にお勧め出来ないからである。いくら「見てくれ」はよくても、美事でも、材料を一々吟味しているかどうかは、そう一朝一夕に分るものではない。自信のあるものを売らなければ店の信用を維持出来ないのだから、自家製品のみを売るのはけだし当を得た策と思っている。
 これについて、一つ話がある。
 四五年前だったが、東京で最も信用のある一流の店に、私の方で弁当を注文したことがあった。その時三十人ばかりが中毒し、その店は警視庁管下でも、模範的な衛生設備をしていると自他ともに許していた店なので、いろいろ研究して見ても何が中毒を起したか皆目分らなかった。材料も吟味しているし、調理も一分の隙もないし、どこにもそんなことが起りそうな原因がありそうになかった。ところがだんだん調べて見ると、自分のところで作ったものは何一つ間違いない立派なものだったが、中の蒲鉾だけは他からとったものだったことが分った。その店は三百円ばかりの注文に、四百円もの見舞金を持って来たが、私の方でもそのために入院費その他で千円もの金を費ってしまった。だがこれはひとり、この料理屋のみでなく、すべてによい教訓になると思う。いいものは材料から吟味せねばならぬのだから、自家製品のみを売ることが一番安心なわけだ。

 以上は、お客に対して、店全体はどうせねばならぬかということを説いたが、それには主人と店員はどうせねばならぬかを述べなければ、画龍点睛の[#「画龍点睛の」は底本では「画龍点晴の」]そしりを免れないと思う。
 お客のために研究に、研究を重ねて、いいものを真面目に売る、すなわち「誠実と研究」を売るためには、まず店員の素質がよくなければならない。よい素質の店員を快く働かせることが商売の秘訣である。その点、戦争でも商売でも同じだと思う。家康が関ヶ原で敵の過半数の兵で戦いに勝ったのも、素質のいい兵の一致団結にあったと思う。
 広告宣伝、店舗等、その上手下手もなかなか大切なことかもしれないが、これらは末の末のことだと私は考えている。優良な店員に気持よく懸命に働いて貰うことが一番肝要なことである。店員の中に横着な幹部や怠ける店員がいれば、現在は何かの事情で盛大に繁昌していても将来は必ず破綻することは必然だろうと思われる。店主と店員との間というものはなかなか難しいもので、このコンビネーションは微妙なものがある。勇将の下に弱卒なしというが、天下に稀に見る戦争上手の武田信玄の下には、強い家来が多勢いた。ところが、信玄が死んだら、それらの家来が皆揃っていながら、戦に負けてしまった。これは勝頼が大将になったからである。信玄の生きている頃は信玄と家来との間が間然するところがなく、気が揃っていたから強かったが、勝頼の代になると、家来が勝頼の小父さんみたいな恰好になってしまって、そのコンビがうまく行かなかったから、負けることになってしまったのだろうと思う。
 主人は店員をガッチリ抑えて行くためには、思い遣り[#「思い遣り」は底本では「思い遺り」]深く、心から感謝させて働いて貰う行き方と畏怖せしめて働かせる行き方とある。その是非は別として、二代目をして勝頼たらしめないためには主人学を学ばしめる必要がある。

 昔は小僧さんといえば、ほとんど無給で、冷飯を食わしたものである。その代り、勤め上げれば暖簾分のれんわけをしてくれた。しかし時勢が移って来ると、この暖簾分けということが出来なくなって来た。交通の便がよくなって来た今日では、暖簾分けなどする隙もないし、またしたところで、本店も分店もお互いに荒し合うだけで、いいことはなし、また資本の大きい本店に原則として勝てるわけがない。これが土地が変って、東京、大阪、福岡というふうに離れていれば別だが、それでも周囲の事情が違えば、同じ経営方針でやって行けないことになるから、本店の名に背くわけである。そういう意味で、私は一人一店主義を主張している。
 以上のように、暖簾分けが出来ない事情にある当今では、商店員も会社員も同じようなことになって来ている。待遇さえ相当にして行けば、それでいいわけだし、店員もその方を結局喜んでいる。私の店でも、店員でいて、地所や宅地を相当買い込んで、老後を安楽に過せるようにしている者もある。独立して、店員時代より二倍も働いてようやくやっているよりは、店員でいる方がいいともいえる。しかしそれには、店員でいても、相当の生活がやって行けるように待遇してやらねばならないし、老後の安心の出来るようにして置いてやらねばならぬと思う。
 それについて、私の方では今年の二月から、十年以上勤続者には千円、二十年勤続者には二千円というふうに、生命保険をつけてやることにした。それは早大総長の田中穂積先生が、早大の勤続教授に実施していられるお話を聞いて、はじめたものであるが、非常にいい案だと思っている。ぜひ一般商店にも推薦したい。
 官吏には恩給制度があるが、一般にはこういう制度がないため、一家の主人が急死したりすると、遺族は立ちどころに困るという状態である。私の店では、そういう場合、相当の弔慰金は出す事にしているが、それだけでは心もとないというので、はじめたものである。店員に喜ばせ、ことに七八年勤続者などには、非常に励みを与えている。今年は八人であったが、十年後には五十人になる予定で、経費は一人当り年四十四円平均、一月一人三円五十銭くらいの僅かの掛金で済むし、だんだん掛金の支払額が軽減して来るから、昨年もそう負担を蒙らずに、老後の安心を与えることが出来る。

 支那の有名なる兵書に、
「彼を知り己を知るは百戦して危からず」
 という句があります。我々小売商が大百貨店を向こうにまわして、これと商戦を交えるに当り、彼の長所を見てこれに劣らざる工夫を為し、自ら短所を知って改むる事を怠らざるにおいては百戦して危からざるの対抗必ずしもむずかしくないと信じます。
 しかし一般の商店中には百貨店に多くの長所あるを知らず、ただこれに客を奪わるるを怨み、己れの短所を反省せずして政府当局の保護なきを難ずる者が少なくありません。これでは兵書に、
「彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず敗る」
 と断定せられし通り先祖伝来の堂々たる老舗も一敗地にまみれて、再起の望みなき者多きは当然と云わねばなりません。
 百貨店は仕入において、特製品において、販売において、初店員の養成において、指導において、配達網において、宣伝広告において、断然小売店を圧して容易に追随を許さざるものがあります。しかれば個人店の小をもって大なる彼と対抗する場合真剣なる研究が必要とさるるのであります。

 百貨店の組織というものは、もちろん世界の中で最も改良された、先端を走っている最新式の経営法によっているのである。
 私の如きはこの最新式経営による、百貨店組織に教えらるるところが多かった。
 従来の日本の専門店は、夏いそがしければ、冬はひま、冬いそがしければ、夏はひま、とかく営業が一方に傾いていた。
 私のところの店は、パンを売る店であったから、夏は随分いそがしく手不足くらいでも、冬はとかくひまで困ったものであった。そこへいくと、百貨店は、一年中そのいそがしい時、ひまな時にさほどの差異がないのである。
 私は考えたのである。暇が出来たからといって、雇人の首を切るわけにもいかない。いそがしいといって、臨時に雇入れたのでは役に立たぬ。百貨店のように一年中仕事に繁暇のない仕事を持っていかなくてはならないと。
 そこで、もち菓子を始めた。喫茶を始めた、支那菓子を始めた。かくして一年中だいたい仕事の上ではむらがないようになった。一年中一番いそがしい時期、一年中一番ひまな時期、その比率は十対七とまでは行かなくなった。
 仕事の上にも百貨店に導かれて、非常に能率的になった。
 たとえば菓子の折詰は前もって造っておいたのでは、お客さまは喜ばなかったものであるが、百貨店の影響で歓迎してくれるようになった。その他にも種々利益するところがあった。

 我々小売商人は、あの堂々たるビルディングに納まって、最新科学の先端に立っているデパートとは、その量において相匹敵することは出来ない。
 しかしながら考えてみると、エレベーターを動かし、大演芸館を持ち、遊園を設備して、多大の資金と経費を投じているこのデパートの費用は、みな売上の利潤から支払わなければならない。
 我々小売商は、こうした資金経営を要さない。こうした多大の金を費わないところに、小売商がデパートと闘う強味がある。
 小売商人はこのデパートの要すべき多大の失費を、そのまま物価の上より引き去って、それだけデパートの売価以下に、廉価にしなければならない。
 小売商の中には「この品はデパートでは五十銭だのにあなたの所のは五十五銭で高い」と、お客にいわれ「デパートなみに安くはいきません」などという店もあるが、それはもってのほかというべきだ。
 常にデパートより安く、同価なれば優等品をと心がけて、その建築の外形においては及ばないがその実質において競争すべく、身構えるべきである。

 次に客に対するサービスであるが、デパートは何百何千のショップ・ガールを抱えて、御客に応対せしむるに、その各々が満足な商品の知識を持たせることが出来ない。ただ定価通りにお客に売るに過ぎないのである。
 ところが小売商においては、その道で相当苦労したものが多く、商品の知識にかけてはデパートの売子なんぞと、雲泥の相異である。
 この点を一段と力を入れて、お客にサービスしなくてはならない。
 例えば呉服商においては、呉服物を売る場合レーヨンが交っているか否か、レーヨンが入っているとしても、このような場合にはなんでもない、むしろこうした向きの使用にはレーヨンの特色を発揮するものであるとか、一々細々と親切に、お客の身になって説明するというふうであれば、お客も自然とついて来る。商品には間違いがない、主人は親切である。などと口から口への宣伝によって、商売が繁昌して来るのは当然である。
 日本の商船は、その構造及び速力において、外国商船に遠く及ばない。しかしながら、日本の商船が諸外国の汽船と相対比して行けるのは、要するに日本商船の乗組員が親切で謙遜であるからである。サービスが充分に行き渡る。そこにお客がつく原因があるのである。小売商人もそこを学ばねばならない。

 百貨店の経営は、そのため、都下一流の商店が着手したものであって、また販売品も相当なる品物を取扱ったために、権威もあり信用もあったのである。そして商品に対して正札制を確立したので、客は安心して買うことが出来るようになった。
 一般小売店でも、正札をつけて置く店は、以前から少なくはなかったが、客が値切れば幾らかは値引する店の方が多かった。だから客の方では「言い値で買うのは馬鹿らしい」という考えを持ち値切るという事が買物常識の一つとなったのである。値切る客が多いから掛け値をする、掛け値があると見るから値切る。商人の方ではこれが商売の掛け引きであると考えている。しかるに百貨店では、商品の値に二色はないとして正直正銘と称する正札制を確立して、客をして買い易からしめる便宜を計った。この点は百貨店の功労であって敬意を表するに足りる。
 ところがこの頃の状態は如何であるか、正札制を確立した百貨店自身が、日と時とを限って正札の割引をしたり、定価を変更したり、景品を出したり、福引をしている有様だ。
 五十銭の品を三十銭に売って、原価販売と称しているが、三十銭が原価なら五十銭の定価は甚しい暴利であり、また五十銭が正直正銘の正札なら三十銭に売れる道理はない。「いやそこが社会奉仕です」というかも知れぬが、損したり原価販売をして経営の成立つわけがない。必ず何かの点で、この埋合せをしているのである。つまり損して売るということは、結局その欠損を他の客へ肩代りさせているものである。
 かくの如き営業振りは、大道商人と何ら選ぶところがないのである。
 百貨店がこの有様であるから、多くの小売店も、対抗上やはりこの不堅実な営業振りを真似することになる。これでは正札の真価は失われてしまう。せっかく確立した商道を紊だすことは、日本の商人道の破壊である。実に慨嘆に堪えない次第である。

 今までは一流百貨店では、特価品なるものはあまり取扱わなかった。特価品はすなわち「安かろう悪かろう」の品であるから、信用上取扱えなかったのである。
 しかるに今日では中等店で売るを潔しとせぬような品まで取扱っている。そして大衆的営業振りだと称している。
 特価品を取扱わなかったがために、在来は百貨店に対して、さほど小商店は痛痒を感じなかったのである。ところが右の如き大衆的営業振りを始めたので、小商店は初めて目をみはりながら狼狽し出した。どんどん得意先を百貨店に奪われて行くため、対抗策として品質を低下せしめて、一層安値で売ろうとする。品も同様、値も同様というのでは、種々の設備の行届いた百貨店へ足の向くのが普通である。競争したくも競争にならぬ。百貨店に一歩先んじられた事を真似して、それで対抗したつもりでいる。笑止千万な話である。これは小商店が研究心に乏しいことの明らかな証明となる。
 百貨店では、調査研究を常に怠らずやっている。小商店ではこれをせぬ向きが多い。負け戦となるのは自明の理であろう。小商店には小商店独特の戦術がなくてはならぬ。それは何か。
 一つは無駄な経費を絶対に省くこと。二つには働く人の能率を挙げることである。能率を挙げるということは、毎日の能率を平均せしめることである。昨日は忙しかったが、今は閑だというのでは不可ぬ。能率が平均していると、すべての部分が順序よく運び店内の空気にちょっとの隙も生じない。
 も少し事実において言って見ると、特売デーは目のまわるように忙しいが、平日は閑で困るというのでは、気が引立たぬ上に嫌気がさして来よう。このやり方では差引特売デーだけの経費が無駄になる訳である。これがなかなか至難のことであるから能率を平均せしめることが出来ればその店は必ず栄えるのだが、店頭にボンヤリ客を待ちながら、欠伸あくびを噛殺しているようなことではとうていそれは望まれぬ。

 米国では第一次欧州大戦後、連鎖店チェーンストアが非常に発展した。そして当時では連鎖店がむしろ百貨店を圧迫しているくらいである。ゆえに百貨店も連合してこれに対抗している状態だ。連鎖店といっても日本に現在見る如きものとは異り、すこぶる大仕掛のもので、さればこそ客の吸引力において、百貨店を恐れしめたのである。
 先に述べた無駄な経費を絶対に省くこと、人の能率を挙げること、こうして毎日の能率を平均せしめること、これを事実において示しているのが彼の地の連鎖店である。百貨店では、人件費、広告費等が売上げの三割を超えているが、連鎖店では二割二分で済む。このひらきだけ連鎖店の方が百貨店よりも同じ品を安く売ることが出来る。安く売ることが出来て、しかも利益率が多いのであるから、客も喜び、店も栄える、すなわち一挙両得とはこの事だ。
 連鎖店は至るところに開店出来る上に、配達員を要せぬ。建物も二階以上は使用せぬゆえ、エレベーターやエスカレーターの費用が省ける。また特売や出張販売をせぬからこの点の費用も要らぬ、大百貨店と立派に対抗して、しかも彼をキュウキュウ云わせることの出来る所以である。この点は我が国の小商店の学ぶべき事である。この点を学ばずして、百貨店の戦略を真似て新人顔をするなど愚の至りである。
 米国の連鎖店が今日の隆盛をもたらした原因は、要するに百貨店その物を十分に調査研究した上で、しかも彼を真似ず、独特の経営法を案出した点に存するのである。ゆえに我が国の小商店でも彼を真似ず、独特の経営法を案出すべきである。米国の連鎖店が良いからといって、いたずらにその形式を真似せず、その方針、経営法の根本を学ぶべきである。かくすることによって、没落の恐怖に怯えている我が小商店の更生の道を見出すことが出来るであろう。

 百貨店が安い品を売るから、此方も品質を落して安い品を売るという式では、結局お得意を失うのみである。お得意は失いたくないと言って東京のまん中なら神田の炭屋が、三里も距った郊外の笹塚から注文があったからとて配達費自前で届けるのをもって勉強と心得るのは、間違ったやり方である。遠い所は他の店に譲り、近い所に全力を集中するのが悧巧な方法で、人件費配達費を考えたら、遠方配達は到底出来ぬことである。
 小売店が百貨店と対抗して商売するには、米国の連鎖店がしたように、百貨店の品を隅々までも精細に調査研究した上で、各店が連合協力して、一店毎に瀬戸物なら例えば火鉢、洋品店ならメリヤス襯衣という風に、二三種を各々奉仕販売するのも一方法である。品の種類は時季に応じて取りかえて行く。
 これを実行するには目先を利かせて機敏に、絶えず百貨店の先手を打って行くようにせねばならぬ。客の方では何日何商店に、何日どこそこの店に行けば百貨店と同じ品で、しかも値が安いというので、わざわざ電車に乗ってまで百貨店に行かずに済むから便利である。大資本、大量仕入の百貨店と対抗するには、品質を落さないこと、各商店が気を揃えて協力することが大切で一人や二人では相撲は取れぬ。
 次に、広告宣伝の方法は、「何日特売デー」「何日粗景呈上」「勉強の親玉」等と、抽象的な平凡な文句を書いても効能は少ない。
 何処の店のチラシも皆な同様な文句をならべたのでは、いっこうに魅力を感ぜぬ。こんな消極的なきまり文句では少し心あるものには、その店主の脳味噌の程が思いやられて、足を向ける気がしない。
 百貨店では広告の文句、宣伝の方法を真剣に研究している。小商店では出たとこ勝負のやっていけで、甚しいのになると、他店の文句をそのまま真似たのさえある。滑稽きわまる話で、何のための広告か真意の程を理解するのに苦しむ。その店には必ず独自の特色、個性があるべきで、他店にない特色、個性があってこそ初めてその店は生きてくる。
 客が足を向けることを誇りとする店、かかる店であれば、不景気など素通りしてしまう。「あの店でチンドン屋を雇ったから俺の店も雇おう」ではいけない。
 そこで各店が連合して、一店一種ないし二種の犠牲奉仕品を出すには、広告チラシも共同の物を作る。そうすれば費用も少額で足りる。文句も「お安く致します」だけでなく、何印の何品は何程と書き、百貨店の売価と対照した表を作って、一目で百貨店より二銭なり三銭なり安いことを知らしめるようにする。
 要するに大多数の小売店が、百貨店の進出によって、不利なる立場に追い詰められつつあるのは、産業界経済界の不況にも因る事だが、研究心の不足が大なる原因である。百貨店は万事が積極的であるに対し、小商店は消極的である。これを例えるならば、百貨店は大英帝国であり、小売店はあたかも印度の如しとも言えるのである。
 しかし印度にもガンジーの如き英雄があって、なお特別の戦術により、不撓不屈の運動をなして居る。ガンジーの例はやや当を失する嫌いなきにあらざるも、その不撓不屈の精神のみは、我が小商店に良き教訓を垂れると考えてもあえて不当ではあるまい。

 家賃(一ヶ月)は一日の売上げ程度に止むべきだと思います。すなわち一ヶ月売上げの三十分の一つまり売価の三分三厘ということになりますが、百貨店では、だいたいこの標準でやってるようで、成績のいい店ほど、この割合を低減して行くものと見るべきであります。
 よく市内で見かけることですが、あそこの店の売上げはおよそこれこれと見当がつくのに、あれだけの場所であの店構えで、よくやっているなと思うような所は赤字である場合が多い。そうでなければ、その蔭には有力な出資者がいるとか、他に本収入があって、家賃稼ぎだけに店を出しているとか相当の仕掛があるので、もし地方から出て来たばかりのような人でこの辺の事情に暗い者が、それらの店を有望として譲り受けでもするならば、意外の結果を見て驚くほかはないでしょう。他に何ら収入のないもので、専らその商業によって生活を立てるという場合には、前記のように一ヶ月の家賃ぐらいを一日に売上げる方針が必要であります。だいたいこの計算によれば間違いはありません。

 私はお得意に対しては、親疎遠近の別なく、いっさい平等に売るべしと主張いたします。つまり正札厳守ということであって、期間を限ってやる特売とか旬末サービス、さては早朝三割奉仕とかいう商略等を絶対に排斥するものであります。
 何故いけないか。それは客の身になって考えて見れば判ることである。昨日自分が五円で買った帽子が、今日は同じ店で四円である、これはけしからぬときっと不満に思うに違いない。そしてこれだけはその時だけに止まると思われないで、なあにこの店は正札正札と威張っていても、時季を見てまた特売する時があるのだ、あるいは二流品を一流品のように見せかけて、高い値札をつけてあるから特売が出来るんだと、だんだんその店の信用を落して行くものであります。
 ゆえに、店の信用を高むるためには、正札主義をあくまで守り通すことが大切であります。

 広告は、自分の店の存在を明らかにし、店の特長を知って貰う上から非常に大切なものですが、しかしこれをあまり重要視しすぎて、その釣合を失い肝心の商品をして値上げまでしなくては立ち行かぬようでは考えものだと思います。薬九層倍といいますが、これは宣伝費が売価の大部分を占めているからであります。
 他の商品にあっては、よろしく限度をきめて、売価に影響せぬ程度が必要でありますから、総売上げの百分の一以下が適当ではないかと思います。米国のチェーンストアは百五十分の一となっておりますのに、米国の百貨店は三十分の一で、約八倍の広告費を支出するため、前者の方がそれだけ安く売れますから、百貨店はチェーンストアに得意を奪われているのであります。

 仕入は総て品質、値段、時季、産地等その間の事情をくわしく調査してかかることはもちろんでありますが、問屋を相手とする場合とても得意に対すると同様にこの方針で、誠の心をもって終始する心掛が必要だと思います。
 よく相手の足元につけこんで、徹底的に値切り倒し、あるいは些少の金利を目あてに支払いを延期するなど、これを称して商売のかけ引の上手のように教える人がありますが、これはとんでもない誤りであります。
 問屋荷主に不安や不快を与えるほど仕入の上に不得策はありません。またこの小策を要する商人は、決して大成するものではありません。

 一個の商品に二様の価なく、いっさいの顧客に平等の待遇を[#「待遇を」は底本では「体遇を」]致すのが商道の極意であります。これが正札の原則で、目前の小利に眩惑して価を上下し、貴賤によって礼遇を差別するが如きは商売の堕落であって真の商人たる価値なき者であります。商品に良品廉価の確信があって初めて真実の価があり、真実の定価があってここに正札がある。品質に疑あるか価値において他の優越を恐るる如きことあれば、正札は真の正札ではない。終いにはその価を二三にせざるを得なくなる。
 ゆえに商人として其の誠実に忠ならんとするならば必ず商品は正札をしてすこしも上下してはならない。正札を守らんがためには最も合理化せる経営をしなくてはならない。
 而してこれらのすべてを完成せしむるには、まず自分として表裏反覆なき正札付きの人物とならなくてはならない。
 この正札付きの人物にして初めて完全に正札の商売をして模範的商人となることが出来るのであります。

 私は新宿中村屋の相馬愛蔵であります。話が至って下手でありますが、井上先生から、ただ自分のやって居ることを話してくれと云う事でありましたので伺った訳であります。
 私は今日の小売商の問題は、帰する所、百貨店対抗問題と考えて居ります。近年急激なる大発展を遂げました東京の百貨店も、その数と申せば僅かに十二、三でこれが市内十四万戸を算する小売商の総売上高の四割を占め、そのためこの小売商の中から、破産者もしくは閉店者を続出せしめて居るのでありますから、これが対抗策を考究することは、我々小売商の刻下の急務かと存じます。
 木村先生(増太郎博士)の御話では、百貨店は東京における総売上高の二割四分を占有して居るということでありますが、細密にこれを検討して、建築材料、石材、肥料等百貨店の取扱い得ざるものを除き、現在百貨店が販売している商品のみを採って比較対照しますと、実に総売上高の四割三分を占め、五割七分だけが十余万の小売商に残されているという誠に悲惨な有様であります。なかんずく、呉服類に至ってはその七割以上を百貨店が占めほとんど独占となってしまいました。
 かくの如く、百貨店は一般小商人にとっては実に恐るべき競争者でありますから、私は「どうかこれに負けない様に経営してみたい。如何にせば百貨店に匹敵するであろうか」と、このような気持で常に研究を致して居ります。
 昭和三年には、その調査のため欧州へもちょっと行ってまいりました。この旅行で少しく得るところもございまして、どうやら今日のところでは、私の店はどの百貨店にも負けないつもりであります。それで、「如何にして今日の結果を得たか」という点を手短かにお話してみたいと思います。

 小売商の第一に努むべき事は、御得意の信用を得るということであります。「そんなことは申さずとも当り前のことだ」と云われましょうが、今日までの商人の中には、「世間は広いから一生だましても、騙し切れるものではない」と云って、商売をなさる方も少なくありません。しかし不良品を売ったり、暴利を貪ったりしたならば、ただの一度であっても、たちまち御得意の信用は失われるものであります。

 しからば、御得意の信用を得るためには、如何なることが最も大切かと申しますれば、私は、「正札主義の販売法以外に道なし」と断言致します。
 今日百貨店が大なる信用を博してあの盛況をみますのも、その根本的最大原因は何かというと、正札販売において一日の長があったからであります。これは単に我が国のみではありません。米国の商店においても、以前はお客によって価の上下をしたものでありますが、今日は百貨店にリードされて、一般に正札販売になったと云うことであります。
 百貨店としては日本では三越が一番早く正札販売法を採用致しまして、その成績がすこぶる挙ったのをみて、次々に出来た百貨店が皆これに倣い、ついに今日の大をなす原因を築いたのであります。
 私の店も開業以来三十五ヶ年、この間を通じて全くの正札主義を実行して参りました。中村屋が今日御得意の信用を得ましたゆえんのものは、実にこの点に在りと確信して居る次第であります。
 しかるに、この正札販売によって大発展を遂げました百貨店が、最近同業者間の無茶な競争の結果から正札主義を破る者が出て参りまして、ある商店では、景品として切手を添えるとか、朝九時までの客に菓子を三割引で売るとか、旬末サービスに五割、誓文払には二割を引く等各店競ってやり出しまして、しかもその傾向がますます激しくなって来る様であります。かようなヤリ口は購買者を見くびるも甚しいことで、大百貨店たるものが、かかるトリックを平気でやっている様では、百貨店の長所も半ば失われたのも同様で、客によって価格を二、三にするインチキ商売人と、全く五十歩百歩でありまして、今日繁栄を誇りつつある百貨店の前途も危いかなと云わねばなりません。
 私の正札はこれらと全く異り、正真正銘の正札でありまして、福引も、特売もいっさい致しません。歳暮、中元に景品を添えることもありません。また、一度に多量の御買上げがあっても少しの値引も致しません。親疎遠近にかかわらず一切の顧客に対して、全く平等なるサービスを致すのが真の正札主義の原則であり、また、私が開店以来、終始一貫して来た信念でもあります。
 従来、商店の中には最も有難い言い値で買って下さるお客には高値で売り付け、値切るお客には廉く売るというような誠に不合理なことを平気でやり、しかもこれをもって商売のコツなりと心得ている向きも少なくなかったのでありますが、これが旧思想の商人の大なる欠点でありまして、今日一般の信用を失うた原因もここにあると思うのであります。
 しかるに正札主義の真髄を解せず、「正札主義などは誰にでも出来る。我輩は今日からでもやって見せる」という人があるかも知れませんが、これはさように手軽に出来るものではありません。
 正札主義とは、いったん定めた値段をただ頑固に値引しないというだけではありません。その経営においてあるいはまた商品の選択において、最善の努力と研究を致しまして、良品をあくまでも廉価に提供し、御得意に対し満腔の誠意をもって販売する事であります。例えば、私が一つの時計に三十円の正札を付けて売出した場合に、もしお客様が「お前のものと同じ品を、他店では二十五円で売っている」と云われて、その三十円が不当の値段でないにしても、他店で同じ品を二十五円に売っている場合は、正札主義の実行は出来難い事となります。ですから、正札主義をあくまで守り通すためには、品質、価格、双方ともに他店の追随を許さざるほどの研究と熱と意気とがなければならないのであります。
 もしこの正札主義を完全に遂行する事が出来ましたならば、如何なる大百貨店といえども敢えて恐るるに足らずと断言してはばからないのであります。
 ところが百貨店を攻撃したり、その欠点を指摘したりする人々の販売する商品が、百貨店に較べて品質が劣っていたり、または価格が高かったりしたのでは、お客の百貨店に集まるのは当然でありまして、その結果、自分の店が衰微したからといっても、百貨店を怨むべきではなく、自分自身をこそ憾むべきではなかろうかと思うのであります。
 それでは正札主義の最大条件である、良品を安価に提供するには如何にすべきか、これを自分が今日まで実行してまいりました経験について申し上げてみましょう。
 ひとり商売に限らず、事業の経営でも、一国の政治でも、結局は人間がするのでありますから、勝れた人物を多く集めて快よく働かせるのでなければうまく行くものではありません。商売上良品を廉価に提供するためにも、この点がきわめて重要でありますから、適切なる人事を行うということが第一に必要な事であります。

 もし主人が適切なる人事を行うことが出来なければ、使用人にたちまち不平が起り、盗みをするとか、なまけるとか、いろいろの不正の事が続出して、とうてい所期の目的を達することは出来ません。店の創業時代、夫婦だけ働いて居る頃には模範的の商店として、評判の良かったものが、大勢の人を使うようになってから、急に人気を失った店が少なくありませんが、皆この点において欠くる所があったからであります。
 店の不統制、乱脈の責任は実に主人にあるのでありますから、主人なる者は常に虚心坦懐、人にはあくまで公平にして私なく、かつ懇切なるを絶対条件と致します。

 第二は俸給の問題であります。沢山の俸給を与え、僅かしか働かないならば誰でも喜ぶものでありますが、そういうことをしては、良品を廉く売る事は出来ません。勢い他店との競争に負けることになります。俸給はだいたい世間並みに標準の下にあって、しかも一般以上の成績を挙げることを考究せねばなりません。
 私は今より四十余年前、早稲田の学校で少しばかり経済学を学びました。その時の講師で後に東京高等商業学校の校長になられた松崎蔵之介先生のお話に「当時独逸は英国に較べて非常に貧乏で、官吏の俸給の如きも、英国の三分の一位より与える事が出来なかった。しかし妻帯するとか、子供が生れた時にはそれに対して相当の手当を与えるという親切なる注意があったために、独逸の官吏は英国の官吏に較べて、かえって成績が勝って居た」という事でありました。
 なるほどこれは面白い事だと思いまして、これを自分の店にも応用して見ましたところ、大いに効果が挙りました。これは母校の賜と感謝して居る次第であります。
 私の所の店員の俸給は、充分とは申せないのでありまして、三井、三菱では二三百円も与えて居るくらいの者に対して、ようやく五、六十円よりやって居りません。独身の間はこれでも充分で貯金まで致しますが、妻帯して一家を持ちますとこれでは足りませんから、別に家持手当として俸給の三割を与え、また子供が生れるとか、老人のある者には別の手当を与えます。これはかの独逸派を参酌したのであります。

 私の所は食べ物を製造販売する店でありますから、店員はすべて朝も、昼も、夕方も皆店で食事をしてよい事になって居ります。これが習慣となって妻帯しても家庭で食事せず、やはり三食とも店でするのを見受けましたので、家持店員は夕食だけは必ず家に帰って家族と共に食事する義務ありと定め、その代り夕食手当を特に与えました。この取計いは僅かの事ではありますが、店員の家庭の上には、多大の喜びをもたらしたのであります。

 我々菓子業界においては、商売柄四月は非常に忙しく、八月は反対に閑散であります。しかるに店員の俸給は一定されて居りますから、菓子屋の主人は夏時、半日程の仕事もない日には、知らず識らず、顔に暗い影の容すこともあり勝ちであります。すると店員や職人等はその主人の顔色を読んで、午前中に片付く仕事でも三時頃まで引延ばすという悪い癖がつけられるのであります。
 私はこの悪習慣をぜひ改むるの必要ありと考えまして、閑な時は如何に早仕舞しても結構という事にしまして別に配当の新法を始めました。その方法は、従来の日俸の三割くらいを減じ、その代りに店の売上金の百分の三を一同に配当する事に致しました。その結果は予想以上によろしく、閑な時は早仕舞が出来るので喜び、忙しい時は配当が俸給額を超加することもあるので、むしろ忙しさを歓迎するようになりました。

 私の店では日曜や大祭日には、平日より約三割くらいの売上増加を見るのが通例であります。そこでこの日には店員一同に、それだけ余計に働いて貰わねばならないのでありますから、私はこの労に酬いるため福袋を頒つ事に致しました。その方法は平日の売上高の二割増を境として、この福袋線を超加した日を福袋デーと定め、当日の売上高の二分を分配する事に致しました。毎年四月とか年末の如き忙しい季節には、福袋が隔日ぐらいに配られまして俸給の半額くらいに達します。従って店員は売上が福袋線を超えるや否や、非常な興味を持ちまして、たやすく突破して仕舞うのであります。かくの如く能率というものは、真剣にやるのと御義理にやるのとでは、たいへんな差の出来るものでありまして、こうした心遣いが店員の能率に予想以上の大影響ある事を経験させられました。

 家持手当、夕食手当、配当、福袋等の注意を致しましたものの、これらは末節に属する事でありまして、さらに一歩を進めた根本問題は人格尊重と、智徳教養の二点であると思うのであります。これはなかなか困難な事でありまして、いまだ私の理想だけで実行とまでは参って居りませんが、その第一歩として、食事などは中流以上を標準とし、店主も店員も、職長も弟子も、ことごとく平等にし、また全店員の誕生日をもいっさい平等に祝い、観劇、角力、海水浴等人の喜ぶことはことごとく一等席を与えてこれを観覧せしめ、他を羨むことの無いように致して居ります。また毎月一回講話会を催しまして、苦節よく一家をなしたる知名の大先輩に御願いして、その経験を伺い併せて目の当りその人格に接し、無形の感化を受けるように致して居ります。
 さてここに人事が遺憾なく行われ、能率も上り、品格ある人物が集りましても、もしもその経営よろしきを得なかったならば、まだまだ安心と云う事は出来ないのであります。随分繁昌する商店にして往々にして破産閉店するもののあるのは、多くこの経営の不合理に原因するのであります。

 経営の第一要点は仕入であります。品質、値段、季節、産地等、その間の事情をくわしく調査した上で仕入れるのはもちろんでありますが、問屋を相手とする場合とても、御得意に対すると同様に、親切をもって終始する心掛が最も必要であります。
 ある人は、「仕入の代金は月末に支払わないで翌月の五日払いとすべし。しからば五日分の金利を利する事になり、これを十年、二十年と続ける時は、莫大の金高に上がる」と云われましたが、私はこれと全く反対の事を皆様に御奨め致します。
 仕入は現金買を主義として、月末払いの場合にも決して翌月に持越してはなりません。些少の金利を目当に支払を延期するとか、問屋の足下につけ込んで値切り倒しなどをして、これを称して商売かけ引の上手のように考える人がありますが、これはとんでもない誤りであります。支払いを延して問屋や荷主に不便と不安を与えるほど不得策なことはありません。必ずその仕入は割高となりまして大量購入の百貨店に対抗する事が出来なくなります。百貨店は多く先付の約手で仕入を致して居りますので、現金仕入なれば百貨店より格安の仕入が出来るのであります。

 すべて何品によらず、その原料がよろしくなければ、その製品の佳良を望む事は出来ません。ここに一例を申しますと、鶏卵でありますが、在来の鶏は一年間に七八十個の玉子より産みませんが、今日行わるる改良種は平均百八十個産みます。ところが一利一害は免れぬものでありまして産卵の少ない在来種の玉子は滋養分も多く、味もはるかに勝り、黄味は実に濃厚であります。それゆえ、彼の有名な長崎カステラでは改良種の玉子を避けて、上海の在来の種卵のみを用いて居ります。私の店でもこれに倣いまして、わずかに現在残って居る在来種の玉子のみ集めてカステラその他に用いますが、この玉子ならば少しも着色の必要がありません。
 また、カレー・ライスに用いる米であります。これには古来食通の推称する白目種が実に適当して居るのでありますが、此種類は収穫が甚だ少ないため、まさに滅種せんとして[#「滅種せんとして」は底本では「減種せんとして」]居りましたので、これを二割高で引取る約束でようやく栽培して貰って居るのであります。
 かかる細かい注意も個人商店にして初めてなし得る所でありまして、大衆向の百貨店には行い難いことであると思います。

 商売はその種類により、季節により、また晴雨その他のいろいろの事情によって繁閑がありますので、販売高を毎日平均せしむる事は不可能でありますが、経営上の理想と致しましては、毎日平均の売行きを望むものであります。この点においては百貨店は実に都合よく経営されて居りまして、日常生活の必需品がことごとく取揃えてありますから、一年中を通じてほとんど平均の売上げを致して居ります。
 しかるに一般の小売店は、その販売する品種が二三に限られて居りますので、春に忙しい店は、秋は淋しく、夏向きの店は、冬は休業同様であります。これでは百貨店対抗は難しい事でありますから、私も何とかして販売の均一を計りたいと思いまして、以前はパンのみを売って居りましたがパンは夏期は盛んに売れますが、冬期にはおよそ半額に減じますので、この不足を補うために、夏に少なくして冬に大いに売行きのある餅菓子を併せて売る事と致しました。それからつぎつぎと洋菓子、支那饅頭、チョコレート、牛乳、水飴等と多数のものを売る事と致しました結果、今日では四季を通じてほとんど平均の売上げを見るようになりました。就業時間は百貨店と同様でありますが、販売員一人当りの能率は、著名な百貨店のそれよりも立ち勝ることとなりました。

 それから広告でありますが、私は広告はあまりしない方針であります。先頃広告研究会から、私に話に来いと云われましたが、その返答に迷惑したような次第であります。
 広告はその店の存在を示し、また新発売品等の宣伝等には欠くべからざるものでありますが、広告費のかさむために、商品の販売価格を引上げなければならないようなことは絶対に避けねばなりません。
 元来米国の如く、境域広大であって建国の歴史なお若く、いわゆるシニセ(老舗)のなき所に在っては、店の存在を示す手段として、広告に頼るほか途がありませんから、米国人は広告に力を入れること、実に世界第一であります。しかし、英国や独逸、仏蘭西の如き、古き歴史を持つ国に在っては、信用ある店は広告を致しませんでもよく売れますので、それだけ品質に値段に勉強致しまして、広告費としては経営費の極めて小部分を割くのみであります。
 我が日本では、とかく米国を真似る傾向がありまして、広告の如きも、米国に次いで世界第二であると聞いて居りますが、私はむしろ欧州に学ぶべきだと思います。
 広告好きの米国に在っても、チェン・ストアは、広告費を非常に節約して、売上高の千分の四に止め、米国百貨店の千分の三十二に対して僅かに八分の一にすぎないのであります。今日チェン・ストアが百貨店を圧倒するかの如き勢いあるのも、決して偶然ではないのであります。
 私の店の広告費も売上高の千分の四で、我が国百貨店の約五分の一であります。

 先ほどどなたかのお話に、京都では百貨店対抗策として、共同配達の方法を講じたとの事でありましたが、私の所では店売のお客様との釣合を考慮し、また配達費の意外に莫大なる点に鑑みまして、遠方の御注文には配達料を戴くことにしてあります。これには御得意様の中にも「中村屋だけが配達料を取るとは怪しからぬ」と申される方もありますが、私の店のような安い商品を東京市中無料配達を致しましては、売上げの三割も配達費に失われ、とうてい商売は成立ちません。彼の百貨店の如く八方へ配達網をもってしましても、その配達費は意外にかさみ、三越で一戸当り三十二銭、松屋で四十銭と承りました。私の店ではおよそ五十銭となります。
 そこで、私はこれが対抗策を考究致しまして、配達料として電車賃の十四銭(但し五円以上は無料)を戴くことに致しました。配達実費の三分の一にも足りませんが、その結果は意外によろしく一円以下の小口の御注文も二、三円に改まり、過半は五円以上となりまして、一戸当りの御注文平均七円を超え、売上金高に対しての配達失費は百分の六に減じました。これを三越の百分の八(売上一戸当り四円)松屋の百分の十(売上同上)に較べかえって格安となっております。
 以上、申し述べました事は百貨店対抗策の一端に過ぎませんが、要するに小売商人が、従来の如く自己本意の商策を弄せず、社会の進歩、生活の向上発展に寄与するの精神をもって、合理的研究を怠らないならば、すべての難問題も容易に解決し得らるる事を確信致します。

 学術的研究を云々するのは、釈迦に説法の観がありますが、商売を致して居りますと一般に学術的研究が疎略にされ勝ちであります。
 私が帝大前に店を持って、まず第一に悩まされたのは、店員の脚気でありました。脚気は商店病と申してよいくらい商家に多い病気であります。しかしこれはヴィタミンBの欠乏に原因するものであることは学術上立証されましたので、食事その他について注意を払いました結果、現二百名余りの店員中に一名の脚気患者なしという状態で、学術の恩恵は誠に偉大なものであることをありがたく感謝して居ります。
 また数年前アメリカから輸入される乾杏が、多量の亜硫酸を含むという理由で、発売を禁止されたことがありますが、これが動機となって私も研究を致しました結果、食料品に亜硫酸を含むものの少なくないことを発見して驚いた次第であります。亜硫酸は物を晒す力のある薬品でありまして、赤砂糖でもこれで晒しますと雪を欺くような白砂糖になりますので、世間ではこの能力を悪用して、粗悪品を優良品に見せかけようとすることが盛んに行われ、亜硫酸の需要は実に莫大な額に上がって居ります。
 そこで私は製菓原料を仕入れるに当って、これ等の有無を見分けることはきわめて重要であると考え、最初は衛生試験所を煩わして居りましたが、毎日使う材料でありますからとうてい間に合いません。そのために独立した試験所を設けました所、私はまず第一に従来原料として用いていた水飴について甚だ無知であったことを発見したのであります。
 水飴は餅米から製造され、いわゆる飴色という一種独特の色を持って居るものですが、二、三十年前から晒飴という透明で美しい飴が出来まして、一般社会では、これが従来の飴の改良されたものと信ぜられ、製菓材料としてのみならず、壜詰として広く販売されて居るのであります。これ等の晒飴は亜硫酸を含有して居るものがあり、原料そのものが昔のものとは全く違った安い材料から作られているのであります。すなわち晒飴の原料は、馬鈴薯とか、サツマ芋、南洋産のタピオカ等でありましてこれらの製品を亜硫酸で晒して作られたものが多いのであります。この安い原料で作られた晒飴は、古来の餅米製の飴に比較して、約五割の安値で、かつ見た目にはかえって美しいところから、餅米製の水飴はほとんど市場から駆逐されてしまいました。
 元来水飴が子供、産婦、病人等に愛好されたのは、餅米から製造されて滋養があったからであります。しかるに今日の晒飴は、害になる亜硫酸を含んで居るものも少なくないのであります。私の店では二十年ほど前から水飴の販売は中止して居りました。それは昔からの伝統で一流の菓子店では、水飴を売らないことをもって一種の誇りとしていたからであります。しかるに今日の如く、真に滋養豊富な餅米からの水飴が、東京市内においても容易に手に入れ難い状態をみましては、伝統などにこだわるべきでないと考えまして、この水飴を販売する事に致しました。その結果は売れ行きも意外によろしく、今日では一かどの商品となって居る訳であります。
 これは私の経験の一つを申し上げたにすぎないのでありますが、学術の応用は御客に対しては親切となり、また店の繁栄の原因ともなるのでありますから、将来ともにこの方面の研究はますます必要になるものと信じて居ります。

 菓子店では昔は品物を竹の皮か経木に包んでお客に渡したものであります。当時のお客さんはだいたいにおいて近所近辺でありましたので、これでも充分間に合ったものでありますが、今日の如く汽車や飛行機で交通する世の中となっては、もはや竹の皮のお客ではなく、内地はもちろん、外国までがお客筋となった訳でありますから、そこにまた一つの工夫が必要となる訳であります。文明国だ、未開国だと申されますが、一面商品に対するこの工夫の有無によって区別されると申して差支えなかろうと思います。
 先頃、私の所へ南米ペルー国から来客がありまして、同国産の桃の缶詰を土産にくれました。早速口を開けてみますと実に美事なもので、味もまた申し分なく、今日世界一の称ある北米産の桃に較べて、かえって立ち勝るくらいでありました。これを北米産に代えて利用したならば、甚だ面白かろうと内心楽しみにして、その次の桃を引き出してみて驚きました。色は悪く、形もまた貧弱で、最初の姿はどこにもありません。一缶中十箇十色という有様で、商品価値は全くゼロでありました。これに反して北米産は実によく均一されて居りまして、幾缶開けてみましてもほとんど優劣の差を認めることは出来ないのであります。
 また郷里信州の林檎でも同様の経験を致しました。およそ十一、二年前、郷里の知人から良い林檎が出来るから、東京の市場に出して貰いたいという希望を添えて、林檎を一箱送られました。これがまたペルー式で、上部の二十四箇程は実に美事でありましたが、下は上中下様々で到底都会に出し得る商品価値がありませんので、私が提言して青森から技師を招き、林檎の栽培法を改良すると同時に、その販売法をも改めさせることに致しました。その結果、ここ数年来は信州林檎の声価が大いに上り、本年の如き信州林檎四十斤入りが、青森産の四十八斤入りよりも高価に取引されるという情況であります。すなわちこれは商品の普及性についての改良の結果でありますが、これと同時に商品の整理方法、意匠、容器等のことについてもまた考慮を払わねばなりません。私の店の例を申し上げますと、中村屋のカリントーは商品そのものは評判がよろしいが、何分にも色が黒く体裁が悪く、しかも袋入りでありますから、美味しいにもかかわらず進物用にならなかったのであります。そこで工夫の結果、美術的の意匠を施した缶入を作りました。これに中味三斤を入れて八十銭、缶代の二十銭と加えて定価一円也で売出してみますと、たちまち進物用としての価値を発揮して、今日ではすこぶる好評で、京都、大阪辺の旅館等から五十缶、百缶という大量注文があるばかりでなく、満州、支那までも進出するに至りました。僅かに紙袋を缶詰に改めただけのことで、かくも売行きに相違が出来るものであります。
 森永さんがキャラメルで年額一千万円の売上げをみて居りますのも、五銭十銭、というあの軽便なケースを考え出したところに、今日の大をなす原因があったのであります。
 また佐賀の小城のようかんは古くから赤道線を越えて、遠く海外に輸出されることで有名であります。しかし遺憾ながら砂糖量が多過ぎるため、味も風味も失われて居ります。私はここにヒントを得まして、味も変らず風味も失わずに赤道線を突破し得るような工夫をしてみたいと思いまして、缶詰ようかんを作り、また昨年から、さらに水ようかんの缶詰を作りましたところ、在外同胞の間に意外な好評を博し、今日では既に世界の隅々まで進出するに至りました。せんだって南洋から来たお客さんに、あちらで内地気分を味わわれたと感謝され、大いに面目を施した次第であります。

 スピード時代だからとて、能率万能の如くに申さるる向きもありますが、私は今日の如く機械力が進めば、だいたいこの方面の問題は解決する。従って能率についてはさほど心配の必要はないが、スピード時代の弊害として、とかく物を粗末にする傾向が甚だしくなってまいりましたから、我々はこの点に対する注意を怠ってはならないと思います。否むしろかかる時代において、さらに一段と注意を払って、物を大切にして、微細な物といえども決して粗末な扱いをしないようにすることが、より必要なことであります。
 菓子職人においてこれを観ますと、材料の扱い方が実に粗末で、パン職人の如きはちょっとした焼き損いや不出来なものは、自らの失敗をおおわんがために燃してしまうのであります。料理人は主人のものという頭が働いているからでありましょうが、これは誠に悪い傾向であります。私はこのような悪傾向は何とかして一掃したいと考え、絶えず注意を怠らずに居たのであります。昔は我が国でも物を大切にするよい習慣がありまして、米一粒でも粗末にすると仏罰が当るといってやかましく戒めて居たのでありますが、近頃ではかような立派な考えは全く地を払った様であります。
 また西洋人は経済思想が発達して居りまして、よくものを大切にしこれを利用することを研究します。日本料理などでは、良い部分だけを用いて他は棄ててしまいますが、西洋では骨も筋も少しも捨てず脳味噌までも利用致します。日本古来の戒めは物に対する感謝からであり、西洋のは経済思想の発達からでありますが、現代の日本人にとっては、ともに採って以て範とすべき美点と考えます。私の店で数年前雇入れたロシヤ人のチョコレート技師は、この点実に見上げたものでありまして、ほとんど紙一枚、釘一本といえども粗末にしない。例えば、チョコレートやクリームを紙に巻きしぼり出して菓子に飾りを描いたその紙を日本の職人はそのままポンと投げ捨ててしまいますが、このロシヤ人は、その紙を粉の上にチャンと伸ばして、さらにその上に粉をふりかけ紙に付着した材料をば綺麗に拭い取って、初めてその紙を捨てるのであります。一事が万事で、彼の工場には塵一つ落ちて居らないのであります。彼の俸給は四千円でありますので、最初は少し高過ぎたかと考えましたが、彼の働くチョコレート工場はもちろんのこと、他の六つの工場までが皆彼の感化をうけて、物を大切にするように改まってまいりました。

 私が前申し述べましたことは、無駄の中のむしろ小なるものであります。私が三十年前、日本菓子の製造を始めた当時は菓子職人に悪い習慣があって、卵や砂糖を持ち運んだり賄賂をとったり致したものであります。私はこれを発見しましたのでそれをただちに解雇して他の者を雇ってみましたが、やはりこれも同様でありました。私はこの浅ましい習慣が、小店員に感染してはその父兄に対して相済まぬと考えましたから、当時第一流の菓子店主達に相談してみますと、菓子職人は皆同様であるから、その不当収入を毎日一円と見積れば、実収入月に五十円、彼らとしては相当なものだという話で、まるで店主側でも彼らの悪習慣を公認している様子であります。これでは可哀想にも正直な職人は何年経っても妻子を持つことすら出来ないのであります。私としては、こんな矛盾は一日も黙認することは出来ませんから、ただちに職人の俸給を一躍二、三倍に増額しその代りにこの悪習慣を改めざる者は即時解雇する旨厳命致しました。幸いにその後においては、二、三の不心得者以外はこの禁を犯すものなく、この問題は解決したのであります。
 これと同様の話が三井家にもあったと聞いて居ります。江戸時代越後屋(三越の前身)の大番頭の俸給は、僅か三両でありましたが、問屋からのツケ届けによってその生活は大名暮しだったそうであります。この風習は明治時代になっても依然として残って居りましたが、三井家中興の大功労者、中上川彦次郎氏は、まず第一にここに着眼し、三井家全体の使用人の俸給を一躍数倍に増額し、同時に彼らの賄賂を厳禁して今日の大三井の基礎を築いたということであります。今日でも一般社会にはなおこの悪習慣が行われて居りますが、その責はむしろ雇主側に多いと云わねばなりますまい、すなわち主人は、雇人の生活の必需俸給を惜しんで、かえってこれに幾倍する損害を受けて居るのであります。これは無駄の大なるものであります。
 またこのほかに商売や事業に極めて熱心な主人の往々にして陥り易い大きな無駄があります。職業に熱心な主人にとっては、その仕事はむしろ楽しみで、従って倦むことを知らない。夜は十時、十一時と時の経つのも忘れて居りますが、翻ってその下に働く人の身の上を思い合せて御覧なさい。実に惨めなものであります。店則には帰宅時間の定めがありましても、主人の執務中、自分だけ帰宅することは出来ず、満々たる不平を懐きつつ主人の退くのを今か今かと待って居るのであります。されば、これらの人々の執務時間は、十四五時間に及ぶとも、その能率に至っては早仕舞を楽しみつつ喜び勇んで働く人々の八時間にも劣るものであります。こうして仕事好きの主人は、毎日毎日使用人の数時間を無駄にし、彼らの家庭の団欒をも失わしめるのであります。また使用人中には何らの不平もなく、十五、六時間を真剣に働く殊勝なものもありますが彼らは過労の結果、業半ばにして倒れるものが多いのであります。これは大切な人間の生命を無駄に終らせるのでありますから、これこそ最大の無駄といわねばならないのであります。
 かつて欧州大戦当時、神戸の独逸人商館に勤めていた友人の話に、その主人は毎夜十一時迄も仕事をして居りましたが、使用人にはことごとく五時半限りとして帰宅させました。ある時友人が主人に少しく手伝わせて貰いたいと申し出ますと、彼はこれに答えて、祖国独逸の人々が、今戦場に生命を曝しているのを思って私は働いているのであるが、諸君はすでに定められた今日の職務を果したのであるから、私に対する懸念はいっさい無用であると断られたということであります。
 また前内務大臣山本達雄氏が、内相後藤文夫氏に対する事務引継ぎの際に、貴君は農林大臣当時夜中までも会議を開いていたと聞いて居るが、内務省では退庁時間を尊重するよう取計って貰いたい、これが私の事務引継ぎである、と述べたと当時新聞紙上に報ぜられて居りましたが、これこそ人に長たるもののまさに心得べき金言であると思います。

 薯蔓いもづる式経営といって、一つの事業から生ずる廃物を他に有効に利用して、それからそれと利益を挙げます。例えば昔はコールタールは、ブリキ屋根を塗る以外に用途の無かったものでありますが、今日では九州の三池炭山やその他等においてはコールタールから染料を製出して、従来独逸から輸入されていた数千万円の染料を防ぎ止めるだろうと云われて居ります、私の店でもこの点に留意しまして従来捨てて置いたパン屑を利用して犬ビスケットを製造する事に致しました。これが幸いに英国や独逸から輸入している犬ビスケットを圧倒して居るのであります。舶来品は一斤六十五銭、これに対して中村屋製品は二十五銭でも、栄養分はかえって舶来品に優って居りますので、犬は正直にも舶来品よりもよろこんで食べます。
 またわが北海において蟹缶詰を作りますが、蟹の甲羅は初め海中に捨て去られて居たのを、オランダ人が発見して買い取り、本国に運んで鶏の餌に致しておりました。その結果かオランダ卵は黄味も濃く味もよろしく、世界第一位の品位を得て居ります。日本の如く物資の乏しい国において、かかる有料な材料を他国人に利用されて居る事は甚だ不名誉の至りと言わねばなりません。
 その他例を挙げれば、枚挙にいとまないほどでありますが、これは将来我々が各方面にわたって研究すべき重大な問題でありまして、一概に廃物などと軽視する傾向を一掃して、廃物のない社会を理想として、我が日本を発展せしめなければならぬと思うのであります。

 一人一業主義という言葉は聞いて居りますが、私は一人一店主義であります、私は創業以来支店は持ちません。銀座の如き目抜きの場所に、支店向きの適当な譲店が出たなどと誘惑をたびたび受けましたが、私は主義として、一人には一つの店で充分なりとの信念をもって終始一貫してまいりました。特別に偉い人であれば格別でありましょうが、我々普通の人間にとっては、数多い店を管理することは、決して策を得たものではないと思います。二兎を追うものは一兎をも得ずの諺の如く沢山の支店を持つ人の例をみましても、多くは不結果に終るようであります。それは多くの支店の中には、必ず赤字のものが出来る、そして好成績の支店の利益を蚕食するか、あるいは本店を傷める結果となって、全体としては結局大したこともないという結論になるのが普通であります。もしまれに相当な成績を挙げ得たものがあったと致しましても、その人がもし一店に全精力を集中したならば、さらにより優秀な結果を収むることが出来ると考えます。ゆえに私は間口を広くして奥行の浅い行き方よりも、間口を狭くして奥行を深くといった方がはるかに安全にしてかつ合理的であると信ずるのであります。また研究して見ますと、たとえ一店だけでも、これで充分だということはなく、奥はますます深く限りないものでありますから、一店だけでは不充分だなどということは、とうてい考え得られないのであります。そしてこの行き方こそ、真に職業に忠実なるものであると堅く信じております。
 あるいは御差障りがあるかも知れませんが、世間には一人で幾十という会社の重役を兼ねて居るのを見受けますが、特別な偉人でない限りこれは無責任のそしりを免れないものであります。
 いたずらに形だけの大小に捉われて、その質を忘れることのないよう、自ら戒めて戴きたいのであります。

 昔は、商人というものは甚だ軽蔑されて、まことにつまらない待遇を受けて居った。また商人自身も、自分は、学者、政治家、軍人等と、対等のものでないというような考えで、自然卑屈に流れ、商売は正々堂々でなく、まあ儲けさせて貰うのだから、小さくなるのはやむを得ない、無理を言われても我慢してなくちゃならぬものというふうに考え、またそういうふうに教えられて来た。
 しかし私は、はじめて商業に従事した時、このくらい自由なものはないと感じた。これが勤め人だというと、いくら真面目に働いても、上役の御機嫌にそむくようなことがあれば、直ぐやめさせられてしまう。ところが商売は、自分が真面目に勉強すればするだけのことは現われて来る。これが官に就いているとか他人に使われている身分だとすると、仕事を少し怠けても御機嫌をとることがうまくて上役とか御主人の気に入っていると出世する。いくら真面目に勉強していても、触りがやわらかでなく、ゴツゴツした持ち前だなどとなると、とても頭が上がらない。とにかく商売くらい正直で正確で自由なものはない。と考えて自分はこの商売にとび込んだのである。

 また商売というものは、決して得意に対し、恩恵を受けるものでないと考えている。人様の必要な品を揃えておいて、何時でも必要な時に間に合わせる。もしそういう商売人がなかったら、人は食べることも寝ることも出来ない。まるで人跡絶えた山の中に入ったようなものである。至るところ商売人があって、宿屋もあれば料理屋もあり物を売る店があればこそ、旅もたのしく、生きていることに幸福があるのである。
 そういうわけで、商売をしている人は、得意があるから生活も出来るが、得意の方から見れば、やはり商売人がいていろいろなものを供給してくれるから愉快な生活も出来るのである。魚が食べたくても、魚屋がなく、自分が釣りに行くか、河岸まで買いに行かなければならぬとなったら、非常な不便である。私は商売というものは対等なものであって、何も小さくなる必要はないと思う。物を買ってもらうということは恩恵ではない。これは人様の必要に応じて売るわけであって、決してこちらから卑屈になったり、恩恵的に恐縮したりすべきものではないと思う。

 それでは商売の基本はどこにあるかということになると、手数というものをなるべく少なくして、お客様に良い品物を格安に売るということであり、またそれが人に対する好意であり、同時に人に喜ばれる原因で社会奉仕である。それをお世辞や嘘で固めて、無理に買って貰うということになると、旧式の金儲け主義で、同時に恩恵的になる。ちょうど孤児院あたりで十銭の筆を三十銭でどうか買って下さい、大勢の子供がお粥も食べられませんからと訴える。これは恩恵的である。十銭の物を三十銭貰う、つまり二十銭だけその人の義侠心に訴えるのである。商売はそうでない、十銭の原価のものに一銭五厘なり二銭なりの手数料を見てそれで売るので、得意が自分で他に買いに行けばそれ以上高くなるゆえに、これは少しも恩恵的ではないのである。
 恩恵的でもないものを、日本の昔は恩恵の如く考えた。従って買う人は非常に傲慢なものであって、どんな無理を言ってもよいというようなことが往々にしてあった。私はこれはだんだん改革せねばならぬと考えている。これから商売に従事する方も、共にこういう心持で行かぬことには文明の商人としての価値はないと思う。私は二三年前に欧羅巴に行ったが、彼方では商売人というものはむしろ尊敬されている。その代りまたやり方も非常に堂々としている。日本の維新前の武士は無理は言っても良い、商人などはどんなに侮辱しても構わない、と言ったような習慣でこれが現在にもまだ何分の一か残っているが、新時代においてはどうしても今まで述べたような方針でなければ、本当の商人になる資格はないということを私は断言する。それで自分がそういう見地から、三十年来やって来ました実地の話を手短かに致そうと思う。

 商売をする上において、正札で物を売るということがきわめて大切だと私は思う。何商売に限らずこうすべきで、正札でないと負けろという人には負けてやり、黙って買うお客様には結局高いものを売りつけることになる。こんな不合理なことはない。値切らない良いお客様に高く売って、値切るお客に安く売るというような不合理なことをする店は、決して大成するものではないと思う。私の店は三十年の間に、ちょうど売上げが二百倍になったが、私は正札主義で、どのようなことがあっても割引はしない。それでずいぶんお客様の感情を損ねた場合もあるが、その代り、もうこれより勉強の出来ないぎりぎりの決着の値をつける。いくら頑固に、俺の所は負けないと言っていても、他の店より高い値をつけておけば、誰も買いに来なくなってしまう。正札という事と最大の勉強ということとは、ぜひ一緒に行わねばならぬ。そういうふうにすればさらにやましい所はないのだからやたらに小さくへり下る必要はない。お客様に対して良い物を安く売ってあげるのだという腹があるからお客様の無理に対して、ヘイ御無理御もっともという必要はない。あまり無理をいうお客ならこちらからお断りする。そういう底力があったならば、自然そこに強味と自信が出来る。お客様の方でもやはり頼もしい、ああいうふうに確信を持っている店なら必ず高くはなかろう。我々を引っかける事はなかろうという信用が出来ますから、店はますます繁昌する。

 そこで正札制をやって、断じて割引の出来ない値段を発表しますと、無料配達というようなことも出来なくなって来る。もちろんこれは皆様の中には、色々な商売をやっておられて、一様に申せない向きもあろう。この間もこの話が出たら、ある炭屋さんが、あなたのように菓子屋さんはそれはなるほど正札で、配達しないというわがままも言えるだろうが、私のような炭屋は「配達致しません、奥様どうぞお持ち帰り願います」というわけには行かないとこう言う、これはもちろんそうでしょう。無料配達をやらぬと言うのも程度があって、炭だの薪だの近所のお客様に対して、うちでは配達しませんから奥さんお持ち下さいというわけには行かぬ。それはやはり常識で、そういう場合を言うのではない。この頃は百貨店で無料配達を盛んにやっている、初めは郊外ぐらいだからよいと思っていたが、前橋、高崎、軽井沢、小田原、箱根、または千葉方面まで無料配達をしている。石鹸や金盥を買っても配達をする。聞いて見るとこの一個当りの配達費に六十銭も七十銭もかかっている。こういう無謀なことを一方にしているから、自然何かでうんと儲けるという、そこに一つのからくりを要する。それでなくては営業が成立って行かない。
 私は総じて利益というものは、店の経営費と生活費さえとれればよいという方針で、正札を付けて居るから、お前の所のパンを大宮まで届けてくれとか、築地まで届けてくれとかいう御注文に対しては別に配達料を申し受けて居る。今の百貨店は、高崎や前橋にまで配達する。無論損である。損をしていながら高崎や前橋の同じ品物を売っている店に迷惑をかけている。実に不合理なことである。それで本当に合理的に商売をするには、無料配達ということは結局出来ない事になる。

 次に私の所では、中元歳暮の配り物を廃して居る。これはどうも商人がそういう事をするのは間違っていやしないかと思われるかも知れない。現にうちの店員などが他所へ行くと、お前の所では年の暮に何も持って来ないじゃないか、他の店じゃたいがい何か持って来るぞと言われることがあるが、私の所では得意からえらい恩恵を受けたとは考えない。お得意様にはどこよりも安く勉強しているという自信がある。また実際そうですから、従って利益も少ないから、あまり必要でない御歳暮や中元は贈らないことにする。それにはまた配る費用というものが相当かかる。もしこういうことをやろうとすると、自然それだけ利益を戴かなければならぬから、日頃の勉強が出来ないことになる。もっとも問屋の小僧さんなどにはやっている。これは何故かというと、東京の商売は御承知の通り、自分の店でいろいろ整えておいても、場合によるとにわかに品物が切れることがある。そういう時に問屋に電話をかけて、どうか頼むというと、問屋の小僧さんが自転車か自動車で直ぐ持って来てくれる。それが一年の内には何十遍何百遍かになってどんなに苦労をかけているか知れない。それで私の所では、出入りの問屋、材料を納める家の小僧番頭には、まあ一円ないし五円くらいの歳暮中元を贈って居るが、お得意様の方にはついぞ葉書一枚も持って行ったことがない。甚だ不愛想のようだけれども、それだけ実際商品の方に勉強しているので年々お客様がふえて行く。いくらそういう物を持って行っても、品物が不勉強だとどんどんお客様をほかに取られてしまう。百貨店などでも、停車場へ降りるお客様を自動車に迎えて、どうぞうちの店に来て下さいと、サービス専ら努めている。そこで白木屋とか三越とかの近所へ行く人までがさっさ[#「さっさと」は底本では「さつさと」]乗る。まことにそういう人には便利に出来ている。けれども費用がなかなかかかる。自動車一台でまず一万円以上するだろうし、修繕費は要る。運転手の費用とか、その他いろいろの費用を見るとなかなか要る。これもサービスで結構だというけれども、東京中の人を乗せるのなら、これが本当のサービスだけれども、自分の店の近辺を通る人を乗せるだけでは、真のサービスとも思われない。だからこういうことも私の店ではやらない。一方に経費をうんと省かなければ勉強は出来ない。無駄な経費を飽くまで省くということがつまり勝利を得る所以だと、私は常に考えて居る。

 次に御用聞きということも私はしない。これは酒屋さん、あるいは八百屋さんなどは、まだ日本ではちょっと止められぬかも知れないと思うが、これも原理として御用聞きというものはすべきものではない。これをして居ったのでは結局負けると思う。今日小さい商店が一番悩んでいるのは百貨店と公設市場の問題である。公設市場はものが安い。御用聞きに来る肴屋、八百屋などに較べると安いといって、みな公設市場に買いに行く。これは安く売れるわけである。何故かというと御用ききに来る方の商売人にして見れば、あの重い荷を担いで狭い裏通りに入って来て、「今日は」と廻る。奥さんの手がふさがって居って、何んだかんだとしばらく待たされ、いや今日は魚は止めだと言われる。またお願い申しますと言って帰る。そんな具合で三日に一度ぐらいしか用がないのに、重い荷をエッサエッサと担いで毎日廻らなければならぬ。そうして勘定になると月末の勘定である。しかもややもするとその月末の勘定が貰えないで、二月も三月ものびる御得意もあれば、何百軒の中には、一軒や二軒は月末になるとどこかへ行方不明になってしまうものもある。こういう不利益、いろいろな手数をかけているから、どうしても公設市場の物より高くなるのは当然である。公設市場が安いというのは配達料を見ず、貸倒れを見ず、集金の費用も見ずですから市場ではものが安く売れるわけである。今の日本の家庭のように、奥さんやお嬢さん達が面倒くさがって奥に引っ込んで居って、御用ききが来ても、女中伝えで物を注文するというような不合理なことをしている家庭が多いうちは、まだ御用きき制度というものは役に立つけれども、とにかくこういうことをしていると、自然高く売らなければならぬ。公設市場が安いのは無駄な費用が省けるからである。それだから各家庭が経済的に目覚めて来ると、この御用きき制度が漸次廃るものと見なければならぬ。諸君もこれは自然に廃るものと覚悟して、それぞれ適応した改革法を考えて見る必要があると思う。
(産業講習会における講演)
 開店後かなり年月を経過したが、特別のある期間を限り、特別のある試みを行い、それで、世俗の所謂「大売出し」をやったことは一度もない。私の店では一ヶ年を通じて、毎日毎日が大売出しである。少なくともそうした意気込みをもって営業をつづけている。従って経営主任者として私の常に考究すべき問題は如何にして製造全能率の発揮を図り、如何にして商売の繁閑を調整しようかという一事である。
 大売出しの計画はもとより結構であろう。だが、それは販売品の種類によりけりで、私の店のように、日々の消費を予想し、日々の愛用を目的とし、しかもその製品の総てが新しきを尊び、美味なるを貴しとする製菓、製パン商にあっては、一定期間内における一時的売上げ増進策を図り、他店のそれに見様見真似した大売出しを行うことは出来ない。よし出来たとしても、多少宣伝的効果を収め得るのみで、実質的には、商店自らもまた顧客一般も、決して左程の利便、利益を受くるものではない。平素が売出しでなければならぬ。製造能率の全力発揮、商売繁閑の平均を求め、能う限りの経費節約を期して、最良品を最廉価で売捌くことが、私共の店にとって一番大切なのである。そこで私は大売出しに就いて、従来一度も計画したり、また実行した例はないけれど、日常絶えず売上げ高の平均増大に就いて考慮をめぐらして来た。

 大売出しは一種の注射的商売繁栄策である。時たまにはいいかも知れぬが、あまり継続するようになると、却ってその効果を減殺するものである。平素に製造全能率、販売全能率を挙げつつあるならば、決してそこに大売出しを企てるべき余力が生じて来ぬ。またそれを強いて企てるべき必要もない。一ヶ年を通じて、平均的に売上げを増すように努めるのが、商店経営の根本問題であって、一時的に、変態的に、パッとした不景気に乗じた売上げ増進策は私共では採らぬところである。大売出しを行わないで、また大売出しを必要としないで、それで一日一日の全能力を発揮し、商売の繁閑平均を求め、製造原価と営業経費の低減を期してこそ、商店としての信用を博し、商店としての強みを有し、商店としての繁栄を招来することを得るのである。こうした確信の下に、私は私の経営法改善に長い間心がけて来たのである。

 最初に私の店で製造販売をはじめたのは、各種の味付パンであった。ところがいうまでもなく味付パンなるものは、春から夏へかけて沢山に売れるけれども、秋から冬にかけては著しくその売行きを減ずるのである。従って春夏の候はややもすれば不足し勝ちであったその製造能力は、毎年きまり切って秋冬の候に至ってありあまることとなり、同期間の損失空費はすこぶる少なくないのを例とした。そこで私は、これではならぬ、何とか商売の繁閑を平均して、一ヶ年常に全能力を発揮する工夫はないかと考え、ちょうど開業六年目に当る秋の初めから、新しい設備を整えて、餅菓子を売出すことにした。餅菓子は同じ菓子類であっても、パンとちがって、秋から冬にかけて沢山売れ、春から夏にかけて著しくその売行きを減ずるのであるから、パンとは全く反対で、これを兼営するに至ってここに初めて一年を通ずる商売の繁閑平均を求め得、また製造販売の全能力を充分に挙げ得るを得たのであった。
 かくの如くにして、一時的な大売出しの計画に成功せんとするよりも、むしろ一日一日の確実な売上げ増進に努力し来り、それがためには、味付パンに加うるに餅菓子兼営をもって、商売の繁閑盛衰を平均し常に製造販売の全能力を発揮するように考慮をめぐらして来た私は、その後新しく西洋菓子に手を染めたのに対し、またまた食パンの大量製産を始めてこれが調和を図り、今日では味付パン、餅菓子、食パン、西洋菓子の四工場を各々交互に伸縮自在ならしめ、一ヶ年間を通じて少なくも繁閑の変動なしにその全能力を挙げ得らるる仕組みにしている。そうして徐々に、堅実に、全体的の売上げ増進策をはかり、一年三百六十五日、毎日毎日が大売出しの意気込みで、顧客に臨みつつあるのである。

 ところで、私が売上げ高の平均、すなわち如何にして製造販売の全能力を発揮するかに苦心した一例を挙げると、それには、賃餅引受開始の苦心談がある。
 賃餅とは、説明するまでもない東京の一風習であって、年末に各家庭がその必要な正月の餅を仕事師なり、米屋なり、また菓子屋なりに頼み、いつ幾日に何斗何升の餅を拵え上げてくれというのを指すのであって、どこの賃餅屋でも一時に注文が殺到して、なかなかその間に繁閑の平均や製造能率の全力を最し得ないものである。そうして、五年前に菓子屋として最も早く賃餅予約引受けを開始したのは私の店で、しかもそれには非常なる労力平均が伴ったものであった。すなわち賃餅注文者の大部分は、その出来上がりを暮の二十八日に指定し、それでなければ二十七日、二十九日の前後両日を指定する向きが甚だ多く、この三ヶ日は如何に徹夜仕事としても追っ着かぬほどの忙しさであって、余日はたいてい閑散に過ぎるものである。そこで、糯米仕入れも高い真最中にやらねばならず、臨時雇いの搗子にも高給を払わねばならず、如何に勉強するつもりでも、如何に多くの注文を引受けるつもりでも、さような事情に制せられて、その目的を達し得ない破目に陥るのである。私はこれを改善するために大いに苦心した。そうして賃餅引受けの予約法を考案したのである。それは、毎年十二月一日から十五日までを予約期間とし、申込順に搗上げ日を定め、一日の全能力に満つるや、次へ次へとその搗上げ日を繰延べ、二十五日から三十日まで、毎日ほとんど平均した注文を引受けてこれを締切りにしたのであって、その結果は、二十五日から三十日までの六日間、いささかの繁閑なく従って少しの無理をもせずして、他店よりも多額の注文を楽々引受けることが出来るようになり、しかも予約搗きであるから、原料米を前もって安価に仕入れられると同時に、また徹夜手当その他の労銀を著しく低減し得るので、顧客に対しても一割または一割半の廉価にて勉強する事が出来、双方とも大なる便益に浴するに至った。

 私はこんな話を聞いた。
 この話手は、私の店に程近いある高等小学校の校長先生で、もう二十幾年も在職せられている方であった。
「今から十年以前と今日とを比べると、卒業生の心組みに大変な差異が認められるのです。当時は学校を卒業して上級学校へ行かぬものは、多くは家にあって商売手助けをするか、または、よその店に奉公して、やがては父親の業を継ごうという志があったから、卒業の際に生徒に訓えるにもまことに仕易かった。家業に精を出せ、主人に忠実なれ、とか言えばよかった。ところが今日校門を去り行く卒業生のほとんどすべてが今後何をなすべきか、その目的を持たず迷っている。というのは、父兄の営む商売も、百貨店や、公設市場、購売組合等の圧迫を受けて、さっぱり振わない。父兄そのものが自己の営業に不安を懐いているし、この不振の商売に手助け等の必要もない。子供もそれを見ているから、家に居れぬし、外に出て何とか給料をとる仕事にありつこうとする。卒業間際になると、訓えるどころか『先生何か仕事はないでしょうか』と頼みに来る。ところが、百貨店で小店員を募集すると、二十倍三十倍の少年少女が蝟集する今日の就職難ではどうすることも出来ぬ。指導も何もあったものではない」
 校長として、一カ所に二十幾年もいたならば、その年々に校門を去り行く少年少女達の心に、その社会の様が反映して、恐しい時世の変化に今昔の感に堪えぬものがあると思われる。これはここだけのことではない。恐らく全国的のことであろう。また商人の子だけではなく、農村の子弟皆しかりであろう。朝、露を踏んで出て、夜、月光を浴びて帰る。勤勉そのもののような農家の生活、それだのに借金はかさむばかり、農家の子弟は子供心にどう思うか、そしてまた農村の小学校長は、都会以上に卒業生に与うべき言葉に迷うであろう。
 時世はかく窮迫しているが、私は弱きものは弱きものとして、小さき者は小さきものとして、生きる道があると思う。そこで日常多年の経験から、主として都会の小商人の如何にして生くべきかを二三述べて見たい。このことは同じく農村の人にもあてはまることになる。

 強者と弱者の対立、都会におけるその一つの例は百貨店と小商人との対立である。百貨店は潤沢な資本と、合理的な経営方法とによって、顧客をどしどし吸いつけている。このアメリカ式の近代的百貨店によって、一般商人がどれだけ打撃を受けたか、例えば呉服商をその例にとって見ても、東京市内の呉服販売額の約七割は、百貨店に奪われている。その他家具、洋物の六割を初め、僅か六七戸の百貨店が東京市内における小売総金額の四割を占め、残る六割を、十万を数える一般小売業者が頒けているのである。一小売商人の一年の平均販売高は五千円に満たず、その利益千円に足らざる収入で、どうして、高い家賃を支払い、高率の営業税を払って生活して行けるだろうか。しかるに百貨店の一年の販売高は五千万円にも上るものがある。この一軒で小売商約一万軒の商売をしているのだから、容易に太刀打ち出来るものではない。潤沢な資本と近代的営業法を誇る百貨店が、最新式の機関銃を持つとすれば、一般小売商人はこれに旧式の火繩銃で戦っているのである。対等の競争は到底覚束ないものと言わねばならぬ。百貨店対小売商人の如き例は至るところに見出される。
 然るに今日では遺憾ながら、足の弱い駄馬が重荷に喘ぎつつ足の強い空荷の駿馬と競争しつつある現象が数多く見られる。世の不景気を知らぬ顔に収益を挙げつつある百貨店に比して、四苦八苦の個人店が約四倍の税金を負担しているのである。かかる社会的不公平はぜひ改めねばならぬ。為政者はもちろん、一般国民もかかる大多数を占むる中小階級に自由なる活動の余地を与えるために力を用いねばならぬ。

 以上述べたことは、主として社会上、政治上のことである。しかし一般小売商人がただ税金を減じてさえ貰えば息を吹き返せるというのではもちろんない。強力な百貨店に対抗するためには、個人的の努力がどうしても必要である。時代の進展に応じて、それぞれの立場から経営法を研究して改良すべき点は改良せねばならぬ。今日小売商の没落は単に社会的不公正があるがためばかりではない。むしろ何らの研究もせず、何ら改善の途も講ぜず、ただ父祖伝来の旧い方法で経営していたことが、おいてきぼりを食った大きな原因である。
 小さい力弱いものが、大きい力強いものに伍して生きんがために如何にせばよいか。我々はこのことをよく考えて見ねばならぬが、私はこの解答を最もよく自然が与えていると思う。自然には獰猛な獅子、虎の如き猛獣がいるのに、弱い兎鼠の類も生存している。鷹鳶、などの猛禽類がいるのに、小さな鳩雀の類が生存している。そしてかえって弱い兎鼠鳩雀の類がどんどん繁殖して強い獅子、鷹の類がそう殖えぬのはどういうわけであろう。
 その理由は簡単である。猛獣猛禽の類は強いには強いが、生きるためには莫大な生活資料が要る。いわば生活費がかさむのである。これに反して小禽小獣の類は生活が簡単で、ごく僅かの生活資料で生活し、繁殖して行く、私はこの理を一般小売商人が応用せねばならぬと思う。年五千万円の売上げの大百貨店に対して、年五千円の売上の小売商人も、充分立って行く道はあるのである。百貨店の売上げは莫大であるが、経営費に多額の費用がかかる。およそ売上げの二割四五分は要るだろう。もし小売商人がそれを一割五分で済ますことが出来るならば、一割は安く商品が売れ、従って顧客を吸収出来るようになる。
 然るに今まで一般小売商人の多くは、この理を忘れて、何ら経営上の研究をせず、改良も施さず、安く売ることを怠って来た。さらでだに種々この点でハンディキャップを持つ個人店が三割四割の利を見込んで売ったならば、窮境に陥るのも当然と言わねばならぬ。

 都会地での魚屋が盤台を担いでお得意廻りをすることは、昔から一つの商売方法である。暢気な昔ならばこれもよかろうが、今日公設市場や百貨店の様な近代的経営方法が行われている時に、こんなやり方では時代錯誤も甚だしいことと思う。お得意を廻って、三軒に一つ、五軒に一つの御用を頂戴するだけでは、一日せいぜい三十軒、五六円の商売にしかならない。これに一日の労賃は二円くらいにつくことになるから、どうしても二三割高く売らねばならぬ。労力を節して居ながら安く売って、それに品物も豊富な百貨店や公設市場に顧客を奪われるのも当然ではあるまいか。
 料理屋についても同じことが言える。料理屋はいつも忙しい商売ではない。年末か年始のお祝い事か忘年会、結婚の披露などを当てこんでいるので、そのために立派な家を建てて庭にも調度にも金をかけねばならず、雇人も常から余計に雇うことになる。忙しい年末年始に一時に儲けようとするから甚だ高い。単に料理だけ安く提供して四季共に忙しい現代的のレストランやクラブに、とうてい対抗出来るものではない。
 都会地の牛乳屋なども、不合理な経営法の典型だろう。糀町の牛乳屋が車をガラガラ引ぱって浅草あたりまで行って牛乳を配達する。配達に使う労賃を考えると、牛乳一合七、八銭はやむを得ないかも知れぬが、如何にも不合理なやり方である。イギリス[#「イギリス」は底本では「イぎリス」]、ドイツあたりでは、牛乳一合は三銭である。どうして安いかと言うに顧客に、店で売るか、配達をしても店の付近の区内しか配達せぬからである。この点も従来の小売商人の充分考えねばならぬことであろう。
 商いの繁閑を充分研究して、労力の配分を誤まらぬことも極めて大切なことである。私の経営する新宿の中村屋で初めパンのみを売っていた。ところがパンは夏はよく売れるが、冬になるとその半分しか売れぬ。商売が閑になる。そこで冬忙しい餅菓子を始めた。次に西洋菓子を始め、喫茶部を開いた。百貨店などには四季絶え間なく人が出入りしている。というのは、四季それぞれ買わるる品があるからである。
 一週間の短い間を見ても、商いには繁閑のあるものである。私の店は土曜、日曜、祭日は贈答品や遠足のため特に忙しい。ところがその日曜、祭日に、学校、会社、官庁から、催しがあるから出張して店を出せと言って来る。私の店の品を信用しての注文であるから有難いことには違いないが、私は辞退することにしている。日曜や祭日はそうでなくてさえ忙しく、店だけで手一杯である。もし注文を引受ければ、臨時に人を雇わねばならず、手落ちもありがちになり、結局一時の利益のために、店の信用を損い、双方とも不利益を受けることになる。
 先頃私の関係深い早稲田大学の五十年記念式の際に、品物を割引して入れよという話があった。この時先方は三割くらい引いてもよかろう、他の店でもそのくらいは引くのだからとの話だったが、結局特別の関係から一割だけ引いて、それも店の者は手伝いにやらず品物だけ納めることにした。その時三割引いたという餅屋の品を調べて見たところ、いつもの品より三割方だけ軽い。先方も安いからこそ繁昌している店、そう普段利益をあげている筈はない。安くしたのは小さくしたからである。こんなことをしては信用を落すばかりである。
 私の体験から一つ二つお話したが商売の細かいところを突込んで話せばいろいろの材料はあるが、要は研究である。不景気といい、不況というが、弱き小さきものも充分生きる途がある。今日の如く優勢なる百貨店がかえって研究に熱心で、ほとんど三日おきに私の店の商品の値段を調べにやって来るというふうなのに、一般小売人が手を束ねて居ってはとうてい更生の道はないであろう。

 私の店には現在二百十九名の従業員がおります。その中には、半島人はいうまでもなく、極く少数ではありますが支那人、ロシヤ人、ギリシヤ人などといった国籍の異なった人々がいます。だがこれ等の人々に対する待遇は、食事はもちろん、寄宿舎の居室、寝具もことごとく同一で、さらにこの無差別待遇は職長と弟子の場合においてももちろん変りはありません。そうして私自身も日に一回だけは必ずこれらの店員諸君と共に食事をとることにしています。
 店員の誕生日には店員一同と共に祝います。当日は「何々君の誕生日」であることを特に掲示し中食または晩食に、いつもよりはさらに何かしらの御馳走を必ず出すのです。この際だれ彼はみな本人に対して「やあおめでとう」くらいの挨拶で肩でも叩くのですが、このことが如何に店員相互の親しみをわかせ、忙しい仕事の間に一種のなごみを醸しているか、もとよりこれは店員諸君に対する人格尊重の微志より出たものであって、その結果のみを覗ったものではないのですが、自ずとそこに和気靄々あいあいとした[#「和気靄々とした」はママ]ものが生れるのです。

「何々すべからず」「何々を禁ず」といったような規則は何一つない店ですが、古参者と新参の者とが一緒に働くところでは、とかく行われ勝ちな鉄拳制裁、それだけは如何なる場合においても決して許しません。暴力を以て自分より弱い者にいうことをきかせるなどは野蛮の極みです。もし私のこの意を解せず鉄拳を振うものがあったら、残念ながら退店して貰います。
 また古い職場の情弊で自然、職長の前に職場員が卑屈になってはいけないと考えますので、人事関係はいっさい私直属にしています。もとより私は一視同仁なのですから、職長に対しても職場員に対しても、絶対に公平であり得ると信じています。

 今日の小売商店で何商売にかかわらず、いわゆる御用聞きを出していないところはほとんどない。そうしてこの御用聞き戦がはげしくなればなるほど、小売商店自身が売上げに対する営業費の負担増加に苦しみつつあるのですが、私の店ではこれを全廃しています。その動機としてもちろん経営の合理化による営業費節減の目的もあるにはありますが、それよりもなお多分に、店員諸君の人格を尊重する所から発しております。今日の御用聞きの実状を見ますと、本当の意味での注文取りはほとんどなく、まるでお得意の台所への御機嫌奉仕です。主婦や女中に対してどうも卑屈な態度をとらざるを得ない有様です。台所口へ顔を出したついでに水を一杯汲まされる。ちょっとその辺の掃除を頼まれる。子供とか女中とかへはつまらないお土産が要る。これでは御用ききそれ自身の能率もさることながら、せっかく店内で尊重し合っているものが、一歩お得意まわりに出ると踏みくだかれてしまうのです。だがまあ商売とはそうしたものだとたいがいあきらめて、御用聞きも馴れっこになって要領よくやって行くのが世間並みでしょうが、それだと一個のパン、一折の菓子にすらずいぶん割高な値段をつけねば引き合わぬし、また引合わぬのを承知でそれをつづけていたのでは、遂に自ら没落の陥穽を掘るようなものです。そこで私の店では、前にも述べたように、一つの営業政策であるとともに、店員待遇の一消極法として、御用聞きを廃したわけです。

 私の店の従業員中、その約三割が通勤者ですが、他はいずれも第一、第二、第三の三寄宿舎に収容しています。そうして通勤、寄宿の如何を問わず、その給与は、固定給と利益配当給の二つですが、なおそれ以外に出来るだけ生活の保障法を講じています。
 まずその保障の諸手当をいって見ますと、寄宿を出て一家を構えたものには固定給の三割を住宅手当として支給し、つづいてその家族の中に老人のあるものには老人手当(一人四円)、さらに子供のあるものには子供手当(四円)というのを出しています。それで、一家を構えてしかも老人子供の多い家では、固定本給の十割にも近い特別手当があるわけです。それからそのほかに、家持の者は必ず一日一回は家族と食事を共にする義務を負わすとともに、一月四円ずつ夕食手当というのを支給します。
 ところで私が何故この家族手当を支給することにしたかというに、これはずいぶん古くから考えていたことなのです。かつて独逸のビスマルクが、独逸官吏の待遇法を制定する際、本給のほかにその生活安定の手段として、特に家族手当の規定を設けるのに力を入れたということを、学生時代早稲田の講壇で故松崎蔵之助博士から聞き、私もそのビスマルク式に共鳴してぜひ自分も人を使う立場になったら、これをやろうと考えたもので、時至って実行したものです。生活安定は人の互いに力をあわせて実現せねばならない大切なことです。

 経営並びに待遇の合理化、そうして幸い商売繁昌した暁に考えなくてはならないのは、利益分配の合理化です。如何によく働くものばかり集ったのでも、そこはやはり利害一致の制度で、余計儲かれば余計分配するようにしなければ、最大の能率はあがりません。それが人情の自然というものです。
 そこで私の店では、その月その月の営業の繁閑並びに収益の多少に準じ、固定本給のほかに配当手当を給与しています。
 さらに私の店は株式組織ですから、年一回一月下旬の決算期には、純益の一部を従業員へ配分していますが、このほか歳暮、中元にはまたそれぞれ相当の手当を出します。

 私は店員全体に一週一回の休暇を理想としているのですが、商売の性質上並びに従業員数の関係からいまだその実現の期に達しません。それで今のところ月三回の外、新年休と暑中休を与えています。
 以上はまず私の店員待遇概要というところで、口に出していう時はこうして事実を羅列するにすぎませんが、いずれ人格の尊重ということを精神的基調としていることですから、もともと眼に見えぬ形而上の問題です。お前の店は何をどうしているか、と一々訊ねられて、完全な答をすることは容易なようで実はなかなかむずかしいのです。

 私の店は以前平日は七時しまい、日曜、大祭日は五時しまいでありましたが、店の発展に伴い今日では営業時間を毎夜十時まで延長することになりました。と同時に三部制とし、朝七時出は午後五時まで九時出は七時まで、正午出は十時まで、と各十時間勤務に改め、ほかに月三回の休みを与えることにしました。
 これでやや改善されたと考えていますが、毎年四月や十二月のような特に忙しい時にはまだまだ過労のように見受けますので、一週一日の休みと勤務時間を更に短縮する必要があると考えています。
 こうして私が今日まで実行し得ないでいる日曜休を、秀英舎(今日の大日本印刷会社)の前社長、佐久間貞一氏が二十年前すでに実行して居られました。その理想に忠実なる、私は実に頭が下がります。また商店連盟会長の高橋亀吉氏も早くからこれを励行されているとの事であります。
 しかし事業的に大成功せられた人々の内には、この佐久間氏、高橋氏等と反対に、いっさい自分の体験に基いて、少年時代にはちょっとの隙もなく、十六七時間も打ち通して働きつづけるくらいの熱と気力を必要とすると説かれている人もあります。が、それは万人にすぐれた精力の持主のことであって、一般の使用人に対して求むべきことではないと考えられます。
 私の友人に、今は故人となりましたが、蚕業新報社の社長で竹沢章という人がありました。精力絶倫非常な熱心家で、朝は未明に起き、夜は十二時より早く休んだことがありませんでしたので、社長は一体眠ることがあるだろうかと社員等が疑問にしたくらいでした。
 その頃私はこの雑誌の主筆として、一人の記者を紹介しましたところ、僅か二年でその記者は神経衰弱に罹りました。私は社長に向かい、あまり過度に働かせた故だと責めますと、竹沢氏は意外な面持ちで、「彼は僕の三分の一くらいより働かないのに、過労などとは解せられませんね」と、それでも医師は過労より来た神経衰弱と診断しました。こんなふうに非凡の自身と普通人との相違を忘れては人を使用することは出来ません。多勢の中にはその非凡な者もいるとしても、やはり多人数を使う場合は、その標準を普通人におくべきであると思います。

 多勢の店員を使うのはさぞ骨が折れることだろう。一つその使い方を話して見ろとは、いつも人からいわれることだが、私には別に人の使い方というものはない。無論「こうしろ」とか「ああしろ」とかいう規則は拵えない。形式的にいくら箇条を並べたところで、守らなければそれまでだし、またその規則に触れた者があったとして、私の眼が必ずそれにとどくとは言えない。すると、その規則は無意味になるばかりでなく、かえって「破っていいのなら」とわるい影響を及ぼす。
 賞罰ということになるとさらにむずかしい。これも若い頃の失敗を話すことになるが、私がまだ本郷にいた時分、眼に見えてよく働く店員がいたので、銀時計をやって表彰した。すると同期の店員から思いがけなく、自分達も一生懸命働いていたのにあの人ばかり表彰された、という不平の声が洩れて来た。私は「しまった」と思った。なるほどもっともだ。庭の桜の桜としての美しさのみに見惚れて、同じ庭の松の存在を忘れていた。目立つ人間と目立たない人間とそれぞれの持ち前に従って本分を尽しているのだ。これは自分の眼が足りなかったと考えて、今に私はこの失敗を深く肝に銘じている。
 また、私の店の金銭登録器レジスターは一日に六千回も記録する。ところが会計係の報告によると、日によって、記録された金額と、実際抽出しの中の金額では、二三十銭から一円五十銭くらい違っていることがある。たいがい現金の方が多いものだ。「器械の方ですといくらいくらですが、現金ではこれだけです」と報告して来る。私は報告されるままに、多い場合も少ない場合も受取っていた。ところがある日知人を訪ね、お互いに仕事の上の話で、私が仕事というものは、万全を期してやっても、それが万点の成績を持つというわけにはなかなか行かないものだといって、金銭登録器の記録の現金とがなかなか合いにくいことを話すと、その家の金銭登録器も毎日ちょうど私の方のと同じくらい記録するのであったが、知人は「そんなことはない、うちでは日に何千万の出入りがあっても、器械の記録と実際と違うなんてそんなことは断じてない」という。しかし私は店の会計係を信じているので「違うこともある」と主張した。すると奥さんが妙な顔をして「そう言われればおかしいことがあった」といって次のことを話し出した。奥さんがある日外出するので、店の会計係に懐中の五円紙弊を一枚出して両替させた。あとで気がついて見ると銀貨は六円になっていた。これはわるいことをしたさぞ勘定が合わなくて困ることだろう。と奥さんは心配したが、その日のうちには通じる機会もなくて翌日になった。奥さんが会計係のところへ行って「昨日は勘定が合わないで困ったろう」というと、会計係は「いいえ、大丈夫違えるものですか」と言ったという。無論前の晩主人のところへ持って来たその日の勘定は、記録された金額と現金とちゃんと合っていた。その会計係は、間違って多い時は着服し、少ない時はその中から足して、器械の記録金額に合わせていたのである。
 私は私の会計係の毎日ありのままな報告をどんなに喜んでいるか知れない。
 私は店員を信じる。しかし信ずるということが私の不精の結果でない事を言いたい。私の店では毎年高等小学卒業生を二十三名採用する。そうしてこれを育てて行くのだ。まず百人くらいの志望者が集って来るが、これを厳密に選考する。学科、体格の試験はもちろんだけれども正直試験といって、家庭の事情、本人の趣味とか愛読書、入店志望の理由等詳細に正直に書かせる。
 こうして入店した少年諸君は全部寄宿舎に収容する。少年組の寄宿舎には、三松俊平氏が父として、あるいは先生として監督している。三松氏は基督教牧師として有名なりし植村正久先生の高弟で、(しかし宗教的には店員には全然干渉しない)その人格に信頼して、私は百人からの少年諸君の修養をお願いしている。ある時地方から来た少年に、寝小便の癖のあるものがあった。三松夫妻の努力でいつの間にか癒った。私はこの話を最近まで知らなかった。それは、早いうちに私の耳に入って「そんな子供は困る。帰したらどうだ」とでも言うようなことがあってはと、恐れたものであろう。一事が万事この調子で少年諸君の親となってくれていた。少年組は三カ年後は青年組の寄宿舎に入ることになっている。青年組はほとんど自治制に近いもので、生活ものんきなのに、どうしても、三松氏を離れて青年組に移ろうとしない。三松氏を慕う少年諸君のためにやむなく少年組寄宿舎増築問題が起った。
 店員一同を相撲見物にやったところが、寄宿舎で早速、相撲流行となった。「相撲をとるので、だいぶ襖が破れてしまいましたが、別段小言は申しませんでした」と、三松氏が言ったから、「相撲で襖を破るくらいならいいが、喧嘩はあるまいね」と訊くと、「喧嘩は一度もありません」と答えてくれた。
 店員の使い方じゃない、私はこうして店員に対し、主人としての責任を感じ、皆がよく働いてくれるのを喜んでいる。規則は無用だ。

 昔の店員は、年期が明けてから礼奉公を三四年して、ちょうど二十七、八歳にもなるとのれんを分けて貰って店を持ち、独立するのが慣例であった。つまり昔は、日本橋辺の大店に奉公した者が新宿とか品川、あるいは千住のような場末に支店を出したりして、それが本店の商売に別段影響せず、かえって本店の宣伝となって双方ともよろしかった。
 ところが今日のようになると、電話の注文はもちろんのこと、電車自動車で直ちに配達出来るのだから、本店の勢力範囲が郊外にまで拡張されて、支店というものの必要もなければ、出る余地もない。強いて出して見てもとうてい本店の信用に圧されてまず発展の見込みはあるまい。
 そればかりでなく、昔のように僅かの資本で店を持つことが難かしく、ことに最近では百貨店や公設市場の進出のために、多年売込んだ老舗でさえもついに閉店の憂目を見るという有様で、新たに店を持つのには余程の困難を覚悟せねばならない。
 こういう時代に、多数の店員を養っている店主として、店員達の将来についてどういう用意をしてやり、どんなふうに指導して行ったらよいものであろうか。ところが店主の中にはそういう時勢の変化を知らず、待遇の如きも何らあらためるところなく、旧態そのままで店員が相当の年齢に達してのれん分けを請求され、はじめて狼狽するというのが少なくはない。
 また店員側でもぼんやりと主人に頼っていて、いまだに古い習慣通り、十二、三年も奉公すれば、一つの店の主にして貰えるものと信じて辛抱しているようなのがある。特に当人よりもその父兄にはことにこの希望が多いようである。
 これは店主が早く目覚めて、店員やその父兄に対しては、のれん分けの望みの少ないことを知らせ、時勢に適応する良法を考え、店員の将来をあやまらぬようにせねばならない。これが解決策として私は次の三点をあげる。
一、のれん分けの望み少なき今日、店員の俸給は出来るだけ多くして、他の社会の標準に劣らぬようにすること。
二、長くその店に働くことを希望する者に対しては、出来るだけの便宜を与えること。
三、店を商売道研究の道場と心がけ、店員の心身を鍛錬するとともに、時勢の進歩に遅れぬよう指導し、退店後立派な商人として独立し得るだけの資格を習得させること。
 すなわち、いまは昔のようにのれん分けの希望こそ少なくなったが、人口増加の度を見ても、徳川三百年間に僅かに三割程度であったものが、維新後の七十年間には実に二倍半の増加を見ている。
 そうして時勢とともに万時万端複雑になって、新人活躍の舞台は驚くべき多方面に開けて来ている。従って今日は昔のように型通りの習い覚えでは役に立たず、種々の境遇に応じてこれに順応し得られるよう、心身を錬り、叡智を磨いておかねばならぬのである。
 そしてこの準備と訓練さえあれば今日はかえって昔よりも、新人の活躍に便利であると考えられる。そこで相当の年齢に達したならば独立し得られるよう、商売道の原則と社会に対する一般知識並びに経験を得るように指導して行きたいと考えている。

 店員に小遣いを一切渡さず、給金の全部を主人が預って、必要に応じて支出するのが、昔からの商店の慣わしである。今日でもいわゆる近江商人の老舗や古い呉服店などにはこの昔ながらのやり方を守っているものがある。で、これをかりに旧式とすると、俸給を毎月全部当人に支払う、すなわち百貨店その他新しい所で行われている方法、これが新式ということになる、次にこの二つの中を取って、一部を主人が預って保管し、他の一部を本人に渡す、この方法は折衷式ともいうべきであろうか。しかしどれにも一長一短はあって、いずれを可とし、いずれを不可とすることは出来ない。
 そこで私の店はどうしているかというと、この折衷式を採っている、高等小学校卒業の少年が毎年二十二三人ずつ入居するが、三月末に入ってそれから徴兵までの約六年間を少年級とし、衣類医療等いっさいを主人持として、小遣いは初め月に五六円で、漸次増して、三十円くらいになる。そしてこの六年間は、約三分の一を本人に渡し、他の三分の二を主人が代って貯蓄銀行に預けておく。
 二十二歳から二十七歳までを青年級として、俸給は三十五六円から七十円に達する。この時代は衣類などは自弁するので、約半額を本人に渡し、残り半分は主人が預って貯金しておく。この二級とも全部寄宿舎に収容し、賄はいうまでもなく店持ちである。
 二十八歳以後は、妻帯を許して、これには家持手当、夕食料、子持手当、本人手当などを給し、俸給は月々全部支払って、主人はもう一銭も預からない。家持店員の俸給は七十円ないし百五六十円、しかしこの収入では観劇、角力見物、また一流の料理店へ行って味覚を向上させるなどということは難しいのであるから、主人のゆくところは彼らも行かせ、せいぜい多方面の見学、また食学をもさせるように努めている。
 なお遠く旅行して見聞をひろめ、また大いに旅の興味を感得せしめる必要もあって、西は京大阪、東は仙台松島くらいまでは、多数がすでに見物済みとなっているが、これより遠くの旅行はちょっとむずかしいので、毎年春秋二回、古参者から始めて順々に、同行二人を一組とし、十日の休暇と旅費を給して、九州あるいは北海道と、出来るだけ遠くまで足をのばさせるようにしている。大会社などで時に見学を兼ねて欧米遊覧を許しているが、私のところではまだそこまでに至らない。
 そこで私の店の給与はこれらすべてを合わせて、およそ売上げのどのくらいに当っているかというと、およそ百分の六、これでは米国百貨店の百分の一六・○独逸百貨店の一三・五に比べて二分の一にも足らず、本人に対してはもちろん欧米人に対し、恥しいことであると思っている。しかし世間を見ると一般商店はさらに低いようで、東京市の調査によると、一般個人店百分の四・三、一般百貨店百分の四・四という。もっともこの数字は雑費の一部を見落しているかと思われ、このまま比較しては当らぬようであるが、ようやく米国の三分の一くらいのように見受けられる。私は多くの店主諸君と共になお一段の奮発を致さなくてはなるまいと思うている。

 私は店員の採用には充分慎重な態度をもって臨み、第一条件として家庭の質実純良なものから採るようにしている。そして高等小学卒業という全く清新な時に、その父母の手から直接に彼らを受取り、社会の悪感化より免れしめるように心掛けているのであるが、無論ごく稀にではあるが、少年店員の中に盗癖という悪癖を持っているものあるを見出すことがある。何という嘆かわしいことであるか、私はその都度その少年が盗みをするに到った原因を、出来るだけ彼の過去に遡り、また周囲の事情に照らして、即断を避けて慎重に調査して見るのであるが、たいていやはりその生れた家庭の欠陥に基くものであることが発見される。
 しかも驚いたことには、その家庭というものが、人に真理を説き、善義を教える宗教家や教育者であったりして、どうしてこういう家からそんな不心得な者が出るのかと、実に意外に感じるのであるが、これはどうもそれらの父兄の表向き説くところと日常の行いが相反するのを幼児から見せつけられるのと、一つにはそういう家庭が社会から酬われるところあまりに薄く、経済的に窮乏しているためではないであろうか。
 とにかく店員の悪癖は、主人にとりまた店にとって甚だ迷惑なことである。しかしその者自身としてはそれ以上はるかに重大な問題であり、何をもっても救うことの出来ぬ大きな悩みである。そしていったん発見されたとなっては一生の浮沈にもかかわるのであるから、その場合主人として実に責任の重大さを痛感させられる。
 店としてはその店員を退店させれば、一時的の損害ですむことではあるが、前途有望な男一人を活かすか殺すかの鍵を握らされている主人は、これを簡単に処置することなどとうてい出来ない。やはりこれは自分の子供が同じ罪を犯したのと同様に考えて、あくまでも懇切に訓戒し、更生を誓わせるように努力せねばならない。しかしそうして見てもまた彼が同じことをする場合、あるいは病い膏盲こうもう[#「膏盲に」はママ]入っていて反省の見込なしと見られた場合は、もはや致し方なく、断固として退店を命ずべきである。そしてこの強硬手段が、あるいは彼を更生せしむるやも知れないのである。
 しかし店主も大いに反省する必要があるし商売というものが、彼等正直にして純情な少年の眼にひどく易々と金の儲かるものに見えはしなかったか、ごまかしに見えはしなかったか。もしも店主が整理を急ぐ等のために不良な品を客にすすめるとか、価の知られていない物に対して高い値段をつけて儲けるとか、そういうことをしているとでもすれば、その場合店員を不幸罪に陥れたものはその店主自身であるとしなければなるまい。まして世間に往々あるように無理な経費節減として、あまり粗食で少年を我慢させ、乏しい思いをさせるなどということがあったとすれば、店員の罪はむしろ店主が負わねばならぬものであろう。
 店主が公明正大な商売をして居れば、そういう不心得な店員を出すことも少ないのであって、もしも店員に罪を犯すものがあれば、如何なる事情にもせよ、店主は己れの不徳の致すところとして深く反省し、店員のみを責めるような処置は決してとってはならないのである。

 私の店には二百十九人の店員が居るが、これらの貴重な青春を捧げて快く主家のために尽してくれる店員にどうして酬いたらよいか、将来の保証をどうしたらよいかということは、我々店主として大いに考えなければならない問題である。
 御承知の通り時勢も昔とはだいぶ違って来た。例えば交通機関の発達という一つを取上げてみるにしても、ここ新宿に店を持っていて、電話一本でもって市中は言うに及ばず、郊外までも自転車あるいは自動車で迅速に御注文を果すことが出来る。これはどういうことかというと、同一な特長を持った店の対立は許されないということが考えられ、すなわち支店や分店は必要でない――のれんを分ける余地は現在ではもはやないということなのである。この点は店主たる人のよく心得ておかねばならぬことであると思う。
 昔は相当の年期さえ奉公すればのれんが分けてもらえた。そして店員達はそれを目当にせいぜい小遣銭ぐらいの待遇で、冷めしを食べても満足して働いたものである。
 ところが現在ではそののれん分けが出来ない。私は始終店員にこう語って聞かせている。「前に述べたような状態であるから、店として独立を約束することは出来ない。ただ待遇だけは出来るだけよくする。相当な月給で、相当な紳士として待遇するから、居たいなら何時までも永く続けていてもかまわない。また、月々の給料の中から出来るだけ貯えておき、将来いい機会さえあれば独立する。これは大いに望ましい。その時は店主としても好意的援助は惜しまぬつもりだ」と、これが私の常に抱いている気持なので、私達の若い時代のことを思い浮べ、青年時代の野心はできる限り満足させてやりたいと思い、せいぜい独立する考えを持つようにと勇気づけて居るので、結局その方が励みもつき、貯金もするし、成績もいいようである。

 またこれもやはり時代のせいであろうか、昔風のいわゆるカケヒキ「損と元値で蔵を建て」式なインチキな販売法は今は流行らない。相当の知識を持った紳士的商売術で、別に奇術を弄さずとも相当のところまで行けるであろう。人間が正直で、手職に常識に販売に経営に私の店の販売台で相当年期をいれれば、その内には商売の原則も判るし、時代に順応してゆくコツも判るし、人格を重んじ、自己の使命を忠実に尽し、ことに人扱いなどということもよい体験が出来るから、長い間にはモノになると教え、実力において相当な時代的商人として世が渡れるように、努めて教育を与えているのである。
 長く勤める店員に対して、恩給を与えてはどうかということも問題ではあるが、これは考えものであると思う。例えばある官庁などのように十年、十五年とだんだん恩給を増す式を、我が店員の場合に当てはめて見ると、明らかに彼らの気持を退嬰的にすることは事実である。店員はこの恩給を棒にふるのもなんだからと、恩給を逃さぬようにとばかり考えて、独立の機会を逸する事となりがちでありまた店主の方にすれば、あたら一個の男子を飼殺しにする結果になる。これは、前にも述べたように常に機会ある毎に独立するような心持で居て、貯金もせよ、遠慮なく店を退けという、恬淡たる態度でいるに如かずである。若い者にはそれ相当の夢もあり希望もあるのであるから、それを助長し、努力させて行った方が幸福ではなかろうか。
 その代り、どんな優秀な、店にとっては貴重な店員にあっても、退店を申し出た場合にあってはあえて引止策は講じないことにしている。これは本人のためであると同時に店にとっても必要である。これを引止めたり延期を求めたりすれば、それは店員に慢心を起こさせて彼等を増長させるおそれがあるからである。

 昔は店の小僧と云えば一人前の人間でないとされて居た。主人がいなければ怠け出し、つまみ食いする。油断すれば銭箱をごまかす、とかく横着な代物のように考えられていたのは事実である。現代ともあればこの考えはすっかり改めなければならない。私の店では、店員はすべて紳士として扱っている。そうでなければ決して伸びるものではない。監視つきでいては番頭としてまかせられるものではないし、独立しても店主になる資格はつかないのである。
 入店と同時におよそ人格的に人物養成の方針でやっている。そうすると、ただ忠実というだけでなしに愛店心も非常なものであり、少しでも店のために能率をあげようとしてかかるから、現在ではほとんど店員にまかせ切りの状態で、店主の私は毎日ちょっと報告を聞きにゆくくらいのもので――どんどん成績があがっているのである。結局人間の心掛け如何ということになるが、例えば日本菓子部の職人にしても、他所ならばせいぜい一日一人二十円平均位の製造高と聞いているが、店のは一日平均四十円以上である。さりとて、就業時間が長いというのではない。およそ十時間である。労働時間が十三四時間であろうが、店主の眼を盗んで、いたずらにむだ話をして本気で働く気でないのでは、決して能率は上るものではない。
 大勢の店員達の内であるから、入店の時ずいぶん慎重な考査をしたつもりであっても、時に心掛けの悪い店員が居ないでもない。まあ毎年一人すなわち二十四五人に一人くらいの割でこれが居るであろうか、従来はこの一人を防ぐために、他の二十余人までいわゆる監視つきの注意人物として見ていたその気苦労もまた一通りではない。で、現在はこの考えをすっぱりと改めた。すべてを皆立派な人間として扱う。もしその内に間違いがあっても、これはとんだ怪我をしたものだとあきらめる。この考えを持つようになってから、店員の不正はかえって少なくなったと思っている。

 私は常に店員のために繁昌しているのだという感謝の念を忘れたことはない。ゆえに待遇も雇人扱いをせず、すべて家族並みである。例えば食事にしても、主人達と同じものを食べさす。否、それ以上のものを食べているとも言える。というのは、家族の者が時々店へ行って店員達と食事を共にすることがあるが、どうも内のより美味しいと言っている。それもそのはず店では専門の料理人がつき切りで世話をやくのに、自宅の方はなれぬ女中がつくるのであるから……夏になると家族は行かなくても、店員達は全部を二度ずつ鎌倉の別荘へ海水浴にやることにしている。この往復電車賃もすべて店主持ちである。
 今年の夏も、私が下準備のために見に行った。そうすると、浜辺に無料休憩所というのがあるが、これは非常に混んでいる。ふとその隣を見ると、これはまた非常に気持のよさそうな茶屋がある。これは有料休憩所であった。十銭出せば大威張りで利用が出来るのである。そこで、店員達の気持にすればせっかく鎌倉まで来て、脱衣所が不便なばかりに充分に楽しめなかったとしたら残念であろうと思えたから、この場合の十銭の価値あらしめようと、さらに脱衣料としてそれだけ増して与えることにした。果して店員達は大喜びであった。
 芝居も年に二度ずつ見せていたが、すべてこれは一等席で見せることにしてある。昨年から相撲をも見せる事にしたが、これも上等桟敷を買うことにした。何か御祝いの機会には、一緒に御飯を食べる。これも最高とまでは言わぬまでも粗末にならぬ程度、西洋料理なら二円五十銭、支那料理なら一卓三十円くらいのところにしたいと思っている。各自めいめいの金で食べるならともかく、いやしくも店主の費用で御馳走するのに人の後の方ですまされたとあっては、彼らの自尊心を傷つける事となる。また三度のところが二度であっても、第一流のところに招待する機会をつくってやると、自然に品性をつくり、行儀もよくなり、誰にもひけをとらぬという自信を持ち紳士としての修養にもなるようである。
 物故した店員のために、この間も芝の増上寺で大島法主をはじめ、導師の方二十三人に出て頂いて法要を盛大に行い、店員一同店を休んでこれに出席したが、非常に行儀がよかったと褒められ嬉しく思った。店員は一人二人、特に抜擢はせぬ方針である。これは入店の際に厳選が利いているから、その必要を認めないばかりでなく、家族的の朗さのためでもある。

 スタンレー・オホッキーは、ロシヤの製菓技師である。菓子製造に従事することすでに三十余年、ほとんど世界を隈なく渡り歩いて技術を研究して来た男であった。技術の優秀なる点では、残念ながら日本人でならぶものがなかった。
 私の店では、以前、ロシヤ菓子は直接ハルピンから輸入して販売していた。それでは新しい品物を得ることが出来ない。いつも技師を雇ってこちらで造ったらと考えて居るところへ、その頃偶然にもモスコウから来たのが、我がスタンレー・オホッキーであった。
 私の肚では、給料はその当時でまず二千円くらいの予算であった。ところがオホッキーは四千円くれという。
「自分は世界のどの技師にも劣らない自信がある。だから四千円でなければいやだ。びた一文でも欠けるならたとい自分は餓死するとも雇われない」
 というから、私は大奮発して要求通りの契約をした。
 ところがいよいよ仕事をさして見ると、予期以上だったので驚いた。彼はすべてのことに通じて居るのみならず、絶対に物を粗末にしない。紙一枚、小布一片といえども貴重品の如く大切にする。例えばチョコレート製造の際に使用するハトロン紙などでも、擦り切れてほとんど使用に堪えなくなるまで、何回でも繰返し繰返し使用する。またチョコレートや砂糖を紙でしぼって、飾り菓子を造る時に、従来の職人だと、しぼった後のチョコレートや砂糖のいっぱいついた紙は、そのまま芥溜に捨ててかえりみなかったものであるが、オホッキーは粉をかけて奇麗に拭い取り、全くの白紙にしてからでないと捨てない。
 また、彼は工場の清潔と神聖とを保つために、他人の工場に入ることを絶対に許さなかった。就業中は主人といえどもみだりに許さない。そして彼の仕事振りはというと、また如何にも厳格であった。朝七時から午後五時までの勤務時間中は、煙草一服も吸わず、冗談一つ言わない真剣さであった。彼はその頃もはや五十三歳であったが、謹厳なる態度とその緊張した行動には感嘆せずにはおられなかった。もし職工が機械を乱暴に扱ったり、仕事に忠実熱心でなかった場合には、たちまち百雷のような声で怒鳴りつけるので、職工達はふるえ上ったものだった。しかしその怒りは仕事の上での怒りであって、少しも私心がなかったから、職人達は喜んで彼の命に従っていた。
 工場長である彼の心掛けがこういう風であったから、彼の下に働いた職人は彼の感化を受け、彼が来てからは物事がすべて整頓され、工場は見違えるばかりに綺麗な清浄なものとなった。そればかりではなかった。彼が技術以外に持っていたある崇高な精神が他の店員達によい影響を与えたことであった。
 また彼は非常に器用な男で、従来の職人は自分の専門の技術については相当の知識もあり経験もあるが、技術以外のことになると、たとえ自分の仕事に密接な関係のあることであっても出来ないから、他の専門家に依頼しなくてはならない。たとえばスイッチを直すために半日も休業しなければならないという醜態を演じたものだが、彼はそうでない。大工、鍛冶仕事から、工場の設計、経営上の計算まで、行くとして可ならざるはなし、でその蘊蓄うんちくも専門家に譲らぬほどだった。たいがいのことは彼一人で用が足せた、全く稀しい万能職人であった。
 こういう有様であったから、高いと思った四千円の俸給も考えて見ると安かったのである。

 自分は欧州へ行ったとき、倫敦ロンドンでライオンと云う有名なカフェーへ幾回も行った。そしてそのつどに必ず同店自製のクリームのついたケーキを試食したが、何故かいつも腐敗の気味があって甚だまずい。しかるにこのライオンはロンドン市だけでも数百軒の支店があり、中には一時に三千人の客を収容出来るという大きな店もあるほどで、相当の信用のある店であるにもかかわらず、コンナいかがわしい菓子を販売し、またロンドン人も平気でこれを食べているのは甚だ奇怪なことだと考えた。
 そのおり英国に二十二年間も在留して居る小林という方が来られたので、この話をしたところ、「ライオンの売っているのは安物菓子で、評する価値はありません。ランプルメーヤーと云う菓子店なら、貴族や富豪を顧客にしているから品物も上等です」との話だったので、早速ランプルメーヤーに出かけて試食したところ、この店の菓子はクリームも新鮮で、味も非常にすぐれていた。しかし菓子の値段はおよそライオンの二倍の高値であった。
 それでも店の繁昌している所を見ると、ロンドン人の舌も全く馬鹿にしたものではないと思ったが、それにしてもあの盛大なライオンが半腐敗のクリーム菓子を平気で売っており、またロンドン人の多数が平気で食べている理由がちょっと分らなかった。
 ところがその後欧州諸国を巡遊してデンマーク国に行き、同国の農業と乳製品の事を調べて、はじめてロンドンの菓子のまずい原因が分った。
 すなわちロンドン人の食べるクリームとかバターは、デンマーク国から供給されて居るもので、デンマーク国の乳製品はロンドンに到着するのに一昼夜半かかるのであった。
 生クリームは七十七度の温度で一昼夜しか保証できないほど腐敗し易いものであるから、ロンドンに到着して菓子に製造される時は、半腐敗の状態になっているのは当然のことである。半腐敗のクリームをロンドン人が食べているということは不思議のようであるが、例えて言えば、自分の生国は信州で以前汽車の通じていなかった頃は新しい海の魚を食べることが出来ず、半ば腐敗した臭い魚を食べて、これが海の魚の風味だと信じていたくらいであった。つまりロンドン人も臭いクリーム菓子を食べてこれがクリーム菓子の真の味だと心得て居たのかと思う。ただし自国産のクリームもあるが、これはデンマーク産よりも五割も高いので第一流の菓子店でなければ用いなかった。従って一流菓子店の菓子は高い訳である。
 バターも七十七度の温度では四日もすぎると腐敗を始めるが、清涼の所にさえ置けば多少永く保存がきくので、クリームほどのことはなかった。
 しかし東京の人達も、あたかもロンドン人が腐敗しかけたクリームを食べて、これが真のクリームの味だと心得て居るように、四五ヶ月もすぎた舶来の古びたバターを国産品よりも高価に購求していて「舶来品は香気が高い」などと感心している。
 欧米崇拝もこうまでなると滑稽で、臭気を香気と解してオーストリヤやカナダの不良になりかけたバターを高い代価を払って買っているのである。考えなくてはならないことである。日本郵船の欧州航路の船なども、デンマーク製のバターをロンドンで高価に買入れ、それを日本に帰航する時にだけ使用するならまだよいとしても、さらに日本から[#「日本から」は底本では「日本か」]欧州へ向う時の分までロンドンで用意したのは、あまりに馬鹿馬鹿しいのに驚いた。私は自分の乗った船の事務長に話したら、私の説明が分り、この次から国産品を使うと語った。

 デンマークの農業が世界一であり、農業の経営についても優良であるということについて意見を言えば、日本の農村は行き詰まっていることは同感である。我が国の農家の経済がうまく行かず、従って地方の青年達が都会を指して来るということは憂うべき事と思う。
 しかしデンマークは牧畜を主とする国であって、国産のクリームや、バターをロンドンに輪出して国の経済を立てている国である。
 クリームやバターは欧米人の日常生活には欠くことの出来ないものであり、その唯一の顧客がロンドンであり、ロンドンは富力第一、人口世界一という理想的な消費場であり、しかも一昼夜半で到着する位置にあるので、デンマークの産する莫大な乳製品を完全に消化した。
 これは他国の真似の出来ないことである。日本は米作と養蚕を主とする国であり、バターやクリームを生活の必需品としない国であるから、デンマークを真似て牧畜をのみ奨励するということは出来ない。もしデンマークを真似て牧畜を盛んにしたならば、たちまち製品の販路に窮し、かえって農家の経済を乱すことになると思う。それよりもむしろ東京という都会に接する近在の農村では、東京で消化し得る果物、蔬菜そさい、その他生魚等の生産をはかる方が有利であろうと思う。

 世界で美味なものは日本の米とフランスのパンということであるが、自分の店でつくっているフランスパンはフランスのパンの焼き方を真似たもので、本場のパリへ行ってフランスのパンを試食することは欧州へ行ったときのたのしみであり、場合によったら店の優秀な職人を実地見学のために留学させる下準備までしていた。
 しかるに巴里パリ一流ホテルのパンも、料理屋のパンも第一色が黒く、味も悪く、粗悪だったので、「有名な巴里のパンも中村屋のパンに劣ること数等だ」とうっかり同行の人々の前で口を辷らしたので、大勢の人々から「それ手前味噌が始まった」と笑われた。私は非常に残念に思ったが、中村屋のパンを取り寄せることは出来ないので、強く主張もせずに居たところ、一行中の須川氏という九大の教授一人だけ、東京で常に所々のパンを試食して居て「たしかに中村屋のパンや小石川関口のパンの方がうまい」と賛成された。
 そういうことのあった翌日、一同連れ立って有名なエスカルゴー料理という蝸牛の料理を食べに行ったとき、その店で出したパンは実に色も白く美味なものであったので、今まで食べていたパンが有名なフランスパンなるものでないことが分った。
 その後パンの粗悪なことについてフランス人に話したところ、
「パンの悪いことはもっともです。欧州大戦前までは巴里のパンは世界的に有名なものであったが、戦後政府は一般国民の生活を安易にするために、パンの価格を一定して、一キログラム(当時の日本価二十銭)二・二フランに限定したので、パン製造家は優良品を製造することが出来ず、従って粗悪なパンを造っているので、戦前のパンに比較するととても粗悪であるが、戦時中のパンよりは上等である」という説明であった。そこで中村屋のパンはフランスのパンより上等であり、上等なフランスパンにも決して劣らないとの確信を得た。

 私はいつもいい店員を育てて、それに気持よく働いてもらうということを考えている。もうそれで、商売は八分通り出来たものと思ってもよい。人間の悪いものを側から鞭打つ遣り方もありましょうが、それは、三人や五人のうちは出来るが、何百人となると駄目である。そういう遣り方の時は、主人が病気をしたり、留守をしたりする時は、まるで敵を飼っているようなもので、隙を見ては悪いことが起る。で、私は心持よく働いてもらうように絶えず心掛けている。
 この間も、群馬県の製糸所の所長さんが見えて、いろいろ話をしたが、その人の前任者までは、朝の七時から晩の五時まで十二時間作業であって、しかも時計の針を二十分、三十分おくらして、それだけ余計の仕事をさせた。今どき、第一、時計ぐらいは誰だって持って居る、朝はキッチリ合ったのに、夕方になると、自分の時計ばかり二十分進んだというような馬鹿なことをした。結局、一種の詐欺である。
 ところが、その人が社長になってからは断然そんなことはやめさして時間通りにした、その代り、あと僅かで仕事が片付くというような時には、十分でも二十分でも了解を得て奮発してもらったら、かえって成績があがるようになったと喜んでいた。畢竟ひっきょうするに、働く者の立場を考えてやらねばならんと思う。
 もうよほど昔の話であるが、ある大臣の隣家のおやじから聞いた話に、大臣の家は女中が六人いるが、始終いれ替り立替りして、いっこう長続きしない。なぜだろうと調べてみたところ、結局こういう訳だという。
 大臣の家だから、来客が毎晩のように、夜の十二時、あるいは十二時すぎまでもある。ところが、その女中は六人が六人ながら、お客の最後まで付いていなければならんので、勤まらんと言う。朝は相当早く起きねばならんし、お給金が少々ぐらいよくったって、身体が続きません、と、まあこうゆう訳である。
 で、私は、そんな馬鹿なことはないじゃないかと言った。私らあたりでも女中は三人いるが、一人当番をきめて、二人は早く寝せて、お客があった時は当番にさせる。それも十時以後には早く寝さして、家の主婦が面倒を見ることにした。すると、女中は替らなくてもすむ。六人あれば、二人ずつ当番を換えたらいいじゃないか。二人で結構まに合うのに、お竹、お茶を持って来いだの、お梅、お菓子持って来いだの、お松、肴を持って来いだの、というからみな寝るわけにはゆかない、当番を呼べば、二人で結構まに合うものである。
 これは、結局、女中は十二時まで起きているべきものだと、女中を奴隷視しているからである。
 私の話が主婦の友の六月号に八頁ばかり出ていましたが、それを見た、柏木の茣蓙ござなど売っている店の主婦が私に会いたいというので会ってみた。
 すると、婦人の言うのには、私の所では私と小僧と二人で商売をしていまして、主人は学校の校長をして、商売のことはいっさい関係していません。小僧は高等小学卒業したのを直ぐ連れて来て、いま二十二になるのですが、時々私が油断をすると、売上げをごまかすこともあるし、また使いにやると、三十分の所を二時間も二時間半もかかるし、私が店にいてお客さんが来ると、おかみさんが出たらいいだろうというような顔をしてぐずぐずしている。まことに困ったものです。あれを良くするには、どういうふうにしたらよろしいでしょう。ひとつ意見を聴かして頂きたいといって来た。
 そこで私は、その小僧は何時から何時まで働くかと訊いてみた。すると、朝早く起きて、晩は十一時ぐらいまでは働かせると言う。休みはありますかと訊くと、主人一人、小僧一人で休みはやれないと言う。月給はどのくらいやりますかと訊くと、昨今、だいぶ役に立つようになったから、月に十円やっていると、こういう話である。

 それは、私から見ると、小僧はちっとも悪くない。あなたが悪い。こういったところそんな筈はない。私は悪いことはいっさいしないし、小僧をいじめたこともないし、出来るだけ親切にもしているつもりであるとの答えである。
 しかし、実際においては、一つも親切にしてないじゃないか。第一、休みを一つも与えないで、毎日十五六時間も働かせれば、どんないい子でも機嫌よく「はいはい」といえるものではない。それで、用足しに行った時が僅かに息をする時だから、三十分のところに二時間かかるのは当り前である。
 これは一人あなたの所だけでなく、他の店の小僧だってそうだ。野球でもある所に行くと、自転車が五十台も百台も並んでいる。試合を二勝負ぐらい見て帰って、なぜおそくなったと問われると、自転車が衝突しましたとか、あるいは集金に行ったところが、人が留守で待っていましたとか、いい加減な口実をもうけて結局みている。これは休みをしないから、そうするよりほか仕様がない。
 また月給もそうだ、二十二になって、あなたの店ではあなたより役に立つだろうと言えば、ええ外なんかいっさいそれにやらせていますと言う、それならあなたの店の半分も背負っているのも同じじゃないか、それに休みは一つもやらず、月給十円はあまり安すぎる。あなたの店は損をしていますまい、と言えば、
「ええ、十年間、五千円の貯金が出来ました」「それでは相当の店じゃないか。もっと待遇をよくしなければいかん。あなたの親切が足りないからということになる。ことにあなたはインテリだから、その小学校きりしか出ていない小僧さんに対して、本当の同情を持っていない。教育のないおかみさんなら、あなたよりもっと温かいと思う。おっかさんに仕えているという気持は、その小僧にはないと思う。それは、あなたが主人として一つもその小僧さんに対して真の同情を持ってないからだ」。
 と、まずいろいろと説いて聴かせたが、その人は少し不足に思って帰っていった。
 すると、それから三日ほどたって来て言うには、
「私は三晩ねむれませんでした。よく考えてみると、自分の都合だけで使って、なるほど、親切も足りなかったと思います。自分の悪いということが分りました。分りましたが、しかし、どうすればいいかということは解りません。どうかそれを聴かして下さい」
 と言うから、
「私もそういうふうにあなたが解れば話も出来る。この間話そうかと思ったが、あなた自身に悪いことが解らんうちには話しても無駄だと思ったから、話さなかった。どうです。あなたのようにインテリな方と、何も教育もないおかみさんとは、小僧にとってどちらがいいと思う」
 と言った。すると、
「教育のない隣のおかみさんを見ると、一人の小僧を、まるで自分の子か弟のように可愛がっているのに、私は主人でずっと上にいて、小僧をいつも下に見ていました。隣の小僧より家の小僧が不幸でした」
 と言う。
「また、あなたは、雨の降る日お客が来ないからというので、私の所へ話しに来られたが、その雨の降るひまな時に、なぜ小僧に休暇を与えないか、それがいけない。雨が降るからひとつ今日は活動でも見てこいよ、と小遣いの一円もやれば、どんなによかったかしれないじゃないか」
「その活動も芝居も見てはいけない、と私は言いました。」
「それじゃ、うちでは誰も親切にはしてくれないし、外では活動も見られないということになると、小僧は小遣いをごまかして、へたな女でも引張るということになるのは当り前ですよ。」
 十五時間も十六時間も小僧に仕事をさせるのは無理で、朝の仕事が一通り片付いたら、余り早く朝廻ると、お得意で迷惑するから、一時間、手紙を書くなり、本を読むなり、勝手にしろと言えば、どんなに小僧は喜ぶかしれない。午後も御用を訊いて来たら、一時間休ませれば、小僧の働きぶりが違ってくる。また雨が降れば休ませる。今日は雨が降ったお蔭で一日暇が貰えたということになれば本当に満足する。給金も二十二になれば相当役に立つから、十円では少ないと思う。」
 すると、
「あなたの所はいくらやる」
 と聞くから、二十二には四十四五円くれていると言ったら、へえーと驚いていた。
 食べ物はどうかと言うと、悪いと言う。
「食べ物が悪くて月給が四分の一じゃひどい。私の所は、働く時間は十時間で、月三回休みがあり、お客様が黒山のようになっていても、自分の時間になればドンドン帰ってしまう。帰って野球する者もあれば、ハイキングする者もある、将棋をする者もあるし、それは自分の勝手である。だから、あなたの方で言うことを聴かんというのは、あなたの方が悪いのだ」
 と話してやった。
 そしてどのくらいの売上げがあるかと聞いてみると、月によって違うが、二百五十円から千円はあると言う。
「すると、私の所で四十円やっても、あなたの所で四十円はやれないだろうから、月給十円の外に歩合をやれ、初めだから百分の一くれたらいいだろう。
 すると、閑な月には二円五十銭、忙しい月には十円の歩合がはいることになる。そうすれば、働く小僧も張合いがあるということになる。そして、毎日少しでも休みの時間を与え、雨天の日は公休日とし、小遣いも三四円にして、あとは貯金させるとか、芝居や活動も、なるたけ性質のいいのを教えて見せてやるということにしたらいいじゃないか」
 こう、私は言ってやった。
「じゃ、これからそうします」
 と言って、帰って行きましたが、ひと月ほどすると手紙が来て、教えられた通りにやったら、とても朗かになって、返事ぶりはいいし、お使いから早く帰るようになったといって来た。簡単な事でもいまだ行届かないところ、気付かないことはあるものである。

 私の店でしている事は――今ではまだなっていないが、私は自分の店の商売経営が、出来ることなら、模範的に、むしろ芸術的に、世界のどこにも負けないものにしてみたいと思っている。
 私は、ヨーロッパの商店を視察して来たけれども、ヨーロッパではそんなにひけはとらないと思って居る。アメリカの方が月給がいいし、待遇がいいので、アメリカも視察したいと思っているが、米国は月給はよほど余計にやっているようだから、その点大いに及ばないと思っている。
 日本でもかなり理想的にやっている所が、大きな会社などにはありますが、小売店というものは案外、今までそういう点を注意していなかったらしい。小売店に働く青年でも、三井三菱に働く青年でも、青年には変りはないので私は小売店に働く店員は、三井、三菱に働いている青年と同じ待遇を受けても不思議はないと思う。
 休みは、週末にしたいと考えている。休みをあまり多くすると、遊ぶことを覚える。従って、小遣いも余計いるということになるが、たしかにそういう誘惑もあると思う。
 だから、まず休みの時間を最も有意義に使う習慣をつけないことにはいけないので、一躍週休にすることはさけて、学校も建てていろいろやっている。
 例えば、習字の先生を招いて習字を習わせている。そして、各寄宿舎に大きな三尺角の机を渡す。すると、全部の者が習字するようになった。従って、技を競う関係上、外へも遊びに出ず、一生懸命になってやる。
 また、算盤を教えると、だいぶ上手になった。私は、どちらかというと算盤は得意の方で、みんなが算盤をやるとき、自分も一つやってやろうというので、私の算盤がいつも標準になるくらいである。ところが、半年、先生に算盤を教えさせたら、今では少年の方が私よりも上手になってしまった。
 この間も先生が来て、私は商業学校のほかに五ヶ所ばかり数学を教えているが、算盤はお店の子供が一番出来がいいと言うから、あなたはお世辞を言っては駄目だ、と私が言うと、お世辞ではない本当だと言う。
 あるいはそうかも分らない。向うは学科がいくつもあり、算盤はどっちかというと軽蔑されている。私の方は学科はいくつもなく、算盤に興味をもってやるので、上手になるのは当り前である。向うは一週間に四五時間だが、私の方では一週間に僅か一時間で、しかも半年で、向うの二年ぐらいに追いついたというのだから面白いではないか。

 今は家族的に団欒は出来ない。というのは、二百七十人ほども店員があるので、三十人以上だと顔が分らなくなるし、三十人ずつでも、八回から九回あつめねばならないからである。それも昼間は出来ないので、どうしてもうまく行かない。
 それで、何とか工夫しなければならないというので、店の喫茶室をあけて三つに分け、ちょうど十五六人ずつ三回にした。宅では弁松の弁当を取って食わしたが、今日は中村屋のカレーライスをやろうというので食べさせた。訊くと、店員の半分ぐらいは食べてないという。うちの者がうちの食べものを知らないでは困るからというので食べさせたら、非常に喜んだけれども、もう九十人になると、宅へ来た時のように、いろいろ名乗るわけにもゆかないので、一利一害がある。
 自分の所は、前に述べたおかみさんの話ではないけれども、よほど気をつけないと、主人と下に働くものが上下になり勝ちである。主人はお父さんというようにならなければならぬ。私の方からは、雇人ではない家の子である。子供が二百幾人あるという気持でなければ、うまく行かない。その気持を徹底させるために、いろいろと研究している。
 食べ物などは、私の家より店員の方がよくなっている。うちの伜は洋行してから食べ物が贅沢な方だが、店に行けば必ず店員と一緒の物を食べる。我慢するのでなく、うちの女中が拵えた物より店の物の方がおいしいのである。私は店では滅多に食べないが、それでも時々は食べる。
 それから誕生祝いなどあって、昨日入店した者でも、誕生日なら今日は誰さんの誕生日というので、幾らか違った御馳走をする。
 初め百人ぐらいのうちはよかったが、人数がふえると今度は毎日になる、毎日では珍しくないので、そこで、今日と明日と並んだら、今日ふたり分やる。そうすると、三日に一度ぐらいになる。
 また一人の時と、二人あるいは三人、四人一緒の誕生日の時は御馳走をかえる。例えば、一人の時にエビフライなら、二人の時は、それより上等の刺身にし、三人の時は果物を一つつけるとかいうことにし、三日に一度ぐらいずつ、今日は誰さんと誰さんの誕生日ということにした。
 そんなことは何でもないことであるが、みんながうちでは誕生日なんかしてもらったことがないのに、ここへやって来てやってもらえると喜んでいます。誕生祝いは何でもないが、自分というものが認識され、尊重されるという気持、私はそれでゆかなければならないと思う。
 私が本郷にいた時借家にいましたが、家主のおやじが来ると、いつもお茶を一緒に飲む。そのおやじが言うには、
「中村屋さん、あなたやおかみさんが一緒にお茶を飲んでいていいんですか。店に小僧だけおくと、誤魔化されますよ。私の家でこんなことがあったんです。私と家内が奥に居て、店から奥までに五円札がなくなった。大騒ぎをして探したら、庭の隅から出て来たんです。ほんとに小僧は油断がなりません。どうぞ構わず、お一人は店にいらっしゃい」
 ということでした。
 それが今までの商店の方法ですが、私はそれではいかん。そういうふうにすれば、幾らかは悪い奴を防げるかしれんが、こんなことではとうてい防げるものではないと思う。悪いことをしない癖をつけなければならぬ。
 私はすべて店員を紳士だと思っている。たまに悪いことをした者には、お前はどうして自分の信用を裏切った。お前は何か私が不親切なことでもしたか、小遣いに不自由なことをさせたか、貯金は千円も出来ているじゃないか、なぜそんなさもしいことをしてくれたと言う。すると泣き出す。
 とにかく、責任を本人に負わせなくてはいかんと思う。今までどうも店員を尊重しなかったのがいけないと私は思う。よほどこれは考えなければならない。
 学校などでも、先生は生徒を呼びすてにしたり、どなりつけたりするが、学校の先生はああすべきものでないと思っている。私はどんな小さい店員でも呼びすてにしたことはない。
 私は、店員にお辞儀をせよということは言わない。それはちっとも苦にもしなければ、いちいち他人行儀に「お早うございます」でもない。と思ったので、ある時新しいコックが、
「お宅のように、お辞儀を御主人にしないのは驚きますね」
 と言うから
「どうして」
 と言うと、
他所よそではとても厳しいですよ」
 と言う。
「私はお辞儀をしてもらってもためにならんから、別に言わないのだ」
「でも、お辞儀をする方がいいですな」
 と言うから、
「お前、来てどうだい、中村屋うちと外でちがったところはお辞儀をしないだけか。」
「そうですね」
中村屋うちでは喧嘩をしないことになっているんだが」
「そうですね。中村屋うちへ来て一年になりますが、喧嘩を、そういえば見たことがありませんね。」
「これだけいて喧嘩をしないということは、お辞儀をしないことの帳消しにならんかね。」
「なるほど、そうですね。」
 と言ったことがある。仕事を一生懸命やっていてくれるので、お辞儀をしてくれなくても、少しも苦にはならない。

 ある人が来て中村屋の経営苦心談を聴かせてくれというので、一問一答をした。
「中村屋が今日になるまでは数十年という永い歳月をすごしたが、この間よくまたお店の主義をかえられずに来ましたね」
「どこよりも一番よいものをということが開業した時からの信条で、これを頑張り通されぬようだったら商売はしないという堅い決心でやって来ました。これが私の道楽でもあり、儲ける、儲けぬということよりも、なんでも日本一よいものを作って売るということで一生懸命だった。それが誇りでもあった。」
「然し品がよければ高く売らなければ引合わないし、高ければ売行きは悪い。そうすると、経営上の点で最初の理想通りに頑張り通すことは出来なくなって来る。ついに迷い出す。方針をかえたくないという、危い瀬戸際を何度も往復されましたでしょう」
「それは少し苦痛もあった。いくらよい品を作っても、そう急に認められるものではないし、相当永い間の辛抱を要する。だからたいがいの人が辛抱しきれなくなって最初の方針を破ってしまうのだが、そこで方針をかえるということは、結局今までの犠牲が虻蜂とらずに終るばかりでなく、かえって信用をおとす結果となる。だからよいと信じて着手したことはトコトンまでやって見なければいけない。いったい多くの人は成功をあせりすぎるようだが、一足飛びに成功しようとしたってそううまく行くものではない。」
「経営上の苦心談をきかして頂きたい」
「他よりも良い品を作るには、他よりも腕のすぐれた職人を入れなくてはならない。和菓子では風月堂に九年も職長をした菓子界でも相当知られていた男を職長に迎えて思う存分に腕を振わせた。材料の仕入などは私の所がどこよりもやかましいと仕入先からいわれたくらいだ。だから私の店でこしらえたものは他のどこのよりよいと信じている。ところが、ある時、ニューヨークで偶然にもうちの羊羹と虎屋の羊羹とが一所で味を比較されたことがあって、その批評によると、うちの方がよくないという情報が私の耳に入った。そこで私は早速職長を呼んで訳を話した。ところが職長はどうしてもそんな筈はないといって頑張るので、試食比較してみると、なるほどかわっていない。そこでいろいろ原因を調べて見たが分らない。ところがうちの羊羹の方が虎屋のものより形が甚だ小さいために、外観が貧弱に見えて如何にも味までが劣っているように見られたのであるということがわかった。そこで今までより形を三倍大きくしたところが非常に評判がよくなった。これは一例であるが、私は頑固のようだが、いろいろの人の意見を努めて聴くことにしている。悪いと思えばすぐ改める。昔からのしきたりなどにこだわってはいない。以前の話だが、店の者が近くへ引越した某邸へ御用聞きに行った。ところがそのお邸ではとりつけの店があるからというので、てんで中村屋など眼中にないという風で、剣もホロロの挨拶だった。店員はくやしがって帰って来たが、それから四五日するとそのお邸から電話で菓子の注文があった。不思議に思いながら行ってみると、そこの奥様が出てこられ、先日の非礼を詫びられて、これからひいきにしてくれるとの話であった。よくわけを聞いてみると、そのお邸では、最近よそから貰うおつきあい物の菓子がほとんど中村屋のものだったので、あらためてとりつけの店の品と試食してみたところ、何ら遜色がない、しかし価は廉いというので、店へ注文されるようになった。しかしこうして認めて貰うまでにはなかなかの努力と苦労があるものである。」
「主人が店頭に出て金を受取ったり、品物を渡したりしているようなことでは駄目だというのはあなたの所論だそうで、お店にも滅多に顔を出されぬと聞いていますが、それはあなたのように立派な御子息がお店を切回わしていられるから、そういうことをいっていられるのではないだろうか」
「私だって毎日店へは出て居ます。それはただ三人や四人の店員を使っている店では、主人も一緒になって働かなくてはならないが、二三十人からの店員を使うような店では、主人が使用人と同一になって、一局部の仕事に没頭しているようではいけないというのです(中村屋には二百幾十人の従業員がいる)。単に主人ばかりではない。職長とても同じことで、高給を取る職長になればなるほど自分で仕事などしない。職工達をよく指導監督して、材料の無駄、時間の無駄のないようにと仕事の手順を按配してやって、総体的に能率をあげるようにする。自分で仕事に没頭していて大局が分らぬようではなんにもならない。結局、大将は第一線に立つより帷幕にあって謀をめぐらすべきだというのです。だから彼の武田信玄が『大将の刀は妄りに抜くべきものではない、大将には軍配があれば沢山である』と言ったあの言葉のうちに学ぶべきものがあると思う。
 これについて数十年前の話であるが、森永が資本金二百万円の日本唯一の大製菓会社となった時、そこの社長の森永太一郎さんが、自ら白いエプロンをかけて職工達と一緒になり工場に入って菓子をこさえているというので、いろいろと新聞や雑誌に賞讃されたことがある。私はこれには賛成することが出来なかった。なぜといわれると、言うまでもなく資本金二百万円もの大会社の社長ともなれば、社長には社長としての仕事がある。それを森永さんは大事な社長の仕事は番頭格の松崎半三郎氏に任せきりで、自分はいわば技師長の仕事しかしていなかったのだ。その方針で来た結果森永さんはどうなったか? とにかく大将には大将としての仕事があるということの的を逸してはならないと思う。」
「ところで、店員達の使い方について何か秘策でも……」
「いや、別にコツも何もない。ただ店員たちが働いてくれるから、自分はこうしていられるのだという店員に対する感謝の気持ちをもって接している。それも雇人を他人だと考えないで、自分の子供だと考えている。自分の子供だとすると悪いのがあってもすぐやめさせるという訳にも行くまい。何とかしてよくしてやらねばならぬ、それも非常に出来のよいものと悪いものとがあるが、これも本人の天性だから仕方がないが、各々適材適所に振り向けて仕事のやりよいようにせねばならぬ。それに仕事の非常に出来る何でもやれる人間だと得てして悪い方面に陥り易いものだが、主人はこれを一段と高い所から見ていて、少しやりすぎると思う者には注意し、伸び足らぬ者とほどよく按配して全体の調和をよくしてやる。これでなければ小にしては店、大にして国でも円満に発達して行けないと思う。私はお庭の植木屋のする仕事を見て非常に感心しているのだが、植木屋は勢いのよい伸びすぎる木だとドンドン鋏を入れて、伸びの悪い木に太陽の光が当るようにするとか、あるいは植えかえるとかしている。店でも国家でもこの呼吸でやるべきものと思う。ところが今の有様では自由放任で勢いのよい奴は伸びるだけ伸び放題というやり方だから、一二の巨木が天をおおってしまって下になった樹木は枯死するという状態だ。
 一例だが、海外へ出ていろいろな話を聴いて見ると、日本人が海外で何十年もかかって営々辛苦して基礎を築いた商売が、三井物産などの手が伸びると根こそぎ奪われてしまうというような話もある。ともかく海外において三井物産に睨まれたら商売が出来ぬというほどで、大使館、領事館よりも三井物産がコワがられているという話だ。こうして少数の財閥が何もかも独占してしまうので、小さいものは手も足も出ないようにされてしまう。これが、二・二六事件などの原因をなしたのではないかと思う。それかといって、この一、二の巨木をきり倒してしまう必要は全然ない。これも我が庭園の景趣を添える上に欠くべからざる樹木なのだから、庭全体の眺めのよいように適当に鋏を入れて、大木は大木として存在させて置くことには差支えない。またこうした巨木のあることは隣家への大きなほこりでもあるわけだ。」
「中村屋だけはデパートみたいに近代化されているので店員は恵まれている訳ですね」
うちの店は御覧の通りおかげさまで非常に忙しい。店員たちはほとんどスキがない。そこで、パン、和洋菓子、喫茶、食事等にわたって各部門ごとに一人当りの製造高や販売高を調べると、製造高から見ると従来の日本菓子の職人は一日一人二十円くらいのものだがうちではその二倍四十三円くらいこさえている。といった具合で私の標準としているレベルよりも、製造販売ともに平均一割一分ほど余分に働いてくれている状態である。だから店員達も相当つかれる。そこで、働く時間は短くして早くしまわせる。その代わり時間中は一生懸命やって貰う。その方が能率的である。よく店員など使うのに少しでも遊ばせて置くのはもったいないとか、時間を長く使うほど得だとかいうふうに考えてずいぶん長時間働かして喜んでいる主人がある。また職長になると、あながち自分が手を下して仕事をするばかりが能でないのだが、何とか忙しそうに手をつけていないと主人が気に入らぬ。人間だからそう長時間ハリツメて働ける訳のものではない。正直に真剣にいうてもそんなに永く働いていたら身体がまいってしまう。適度に休養して身心にユトリを与えてよく働くというふうの人でなければ決して大成しない。あせってハリキっているばかりが能じゃない。ある有名な雑誌社では少年社員に休み時間を十分に与えずに永く使うそうだし、ある婦人雑誌でも社長が時間を超越して頑張っているので、社員達はオソレをなしているそうだが、使う方ではそれで能率が一段とあがっているつもりで喜んでいるだろうが、真剣に働く真面目な者にはとても勤まるものではない、だから真面目な者はやめてしまって要領のいい人間だけが残ることになる。そして三時間で出来る仕事を一日中引きのばしてみたり要領よくサボったりする。これはむしろ当然のことである。使う方になってみれば永く店に頑張っているのも面白かろうが、使われる方ではやりきれぬ。そこは使われている者の気持を汲んでやらねばならない。むやみに長時間コキ使うことは発展性のある真面目な社員を逃がして要領のいい人間しか集め得ないで、大局的に非常な不利に相違ない。もう一つ、雇人の四十人も使っている大きな店の主人公の話であるが、この人がまた粘り屋で毎日十一時すぎまで店に頑張っている、そこで雇人の閉口していることはいうまでもなかろうが、御家庭の奥様までコボしているありさまだ。この人は店の仕事に自分が手を下さぬと気が済まぬ、人に任せておけない性分なのである。まことに責任感の強い商売熱心には敬服するが、それで能率があがっているかというに事実は反対だ。主人がちょっといないと、あれも出来ぬ、これも分らぬという訳で、その間雇人は手をあけて無駄をしている。とにかく非常に不利である。だから主人は雇人を信頼して大胆に任せることは任せてしまわねばいけない。大将がいないと兵卒は一歩も動けぬようでは軍は負けである。」
「店員を叱ることがありますか」
「私は店員など叱ったことはほとんどない。それでもどうしても主人である私が叱言を言わねば納まらない場合には、まずこれまで本人が行なった良いことを周囲の者に調べさせて置いて、その材料を基礎として本人の善行などを先にほめておいてから最後にその失策をあげて反省を促すというような方法をとっている。これは徳川家康が用いた方法を学んだのである。家康は流石さすがに徳川三百年の社稷を築いた傑物だけに、人心収攬の妙を体得した人物であった。家康が部下の失策を責める場合にはまず最初にその者の勲功をほめておいて「かほどのてがらをたてながら今回の失策は汝のために惜しむ」といった筆法で訓戒を与えたものだそうだ。部下は己の小功でも認識してくれる明君に心から感激し己れの非を悔いるとともに、この君ならでは……馬前に死すという忠節を致したのである。ところが信長のように怒髪天を衝いて真正面からその非を荒立てて責めるというやり方では、結局本人の反感を激成するばかりだ。ついには家来のために殺されるというような破目にもなるので、この叱言ということは些細のようだが大切なことである」
「支店を絶対に出さないという主義はどういう理由です」
「中村屋が支店を出さぬということはべつに深い理由はないが、小売商過多の業界へ支店など出来るだけ出さぬ方がお互いのためだと考えている。例えば百貨店などにしても、地方へ支店を出して尨大な建築や近代的設備に莫大な金を投じているが、多くは算盤がとれていまいと思う。多少算盤がとれている支店があったにしても当然本店へ行くべき客を分けて貰っているので、ようやく赤字を免がれているという支店もある。デパート全体にとって支店はあながち有利なものでないと思う、しかもそれがために地方の小売商人などはどれだけ苦しんでいるか分らない。とすれば結局己れを利せず人を苦しめている外何物もない支店政策は、無駄な投資だと思う。我々にしても、いまでも田舎廻りの役者でもあるまいから檜舞台へ出て見たい気もするが、さて銀座あたりへ出るとなれば二三十万の金は用意してかからねばならず、それを投じたからといって果して収支償うかどうかが疑問である。しかも既存の同業者に与える打撃も相当多かろうと思う。かように考えると、いい加減で仏心をおこして、余り勢に乗じない方がよかろうと思う。」
「いまの小売商は救われて行くと思われますか、またデパートについてどう考えられますか」
「古いありきたりの行き方をしていたのでは小売商は衰滅するよりほかあるまいと思う。何しろ小売商人は多すぎる。小売商の平均売上高は一ヶ年五千円弱ということだそうだが、一日十五円程度の売上ではなかなかやっていけない。そこで娘を働きに出すとか、内職的にやるとかしてどうにかやっている。それがまた商売に積極的に身を入れない理由にもなるわけで、日本の小売商の進歩しないゆえんでもある。米国の小売商売は日本の約五倍くらい売っている。日本の小売商、ひいて中小企業であるが――これらの前途にはまた多くの困難が横たわっている。その一つに百貨店とか産業組合とかいう大資本のものが、それぞれ自給主義をとって行くということをあげることが出来る。だからといって小売商人の前途をむやみに悲観する訳ではない。小売商人は経費の節約によって百貨店と対抗して行くことが出来ると思う。百貨店のあの設備その他では売り上げの二割五分の経費はどうしてもかかるのであるから、そこを小売商は徹底的に切り詰めて対抗して行けば行けると思う」
「百貨店などは純益課税で、小売商人は売上高標準で税金を課しているといったやり方では担税能力から見て非常に不公平のように考えられる。つまり力のないものが、余計に重荷を負わされているという傾向があるように思うが、この点については」
「その傾向はたしかにある。だから売上高の何分というふうにして累進課税を課す方が案外公平かも知れない。私の目の子勘定だけでも百貨店を入れて一億二千万円程度の税収入はある見込みである。ともかく一番苦境にある小売商人の税負担を軽くして販売経費を幾分でも低下させてやることは、衰亡途上にある小売商に活を入れるゆえんだと思う。」
「小売商の経営上について、例えばショウ・ウインドなどにしても日本の商店がいたずらに外国模倣式でギコチない感がするが、外国ではショウ・ウインドなど廃してかえって売上げを増している店があるということですが、それらについてのお話を聞かして頂きたい」
「元来ショウ・ウインドというのは、外国が初めでもなんでもない。日本では天ぷら屋など昔から店さきで揚げていて、匂いと実物で客を吸収している。これは立派なショウ・ウインドである。建具屋が店頭で仕事をしているのもその一例である。ところが近来どこの商店でも飾り窓などに馬鹿な金をかけることが流行で、狭い間口の店まで貴重な売場面積をショウ・ウインドに占領されているようだが、あれなどは考え物だと思う。かえって実物をただちにお客様の手にとって見られるという風にした方が、効果的だと思う。それから経費の節減ということで思いついたが、私の店で包紙に非常に金がかかるので調べてみた。ところが二十銭の折も一円の折も同じ包装紙を使っているというようなわけで、包装紙だけでも二十銭の場合だと一割もかかっていたが、これをそれぞれ相当の包紙を使用することに改めて経費の節減を計った。さすがはこういう点ではデパートは進歩したもので、コスト販売経費などはなかなかよく研究している。売場のカウンターの高さとか通路、照明の具合などは我々はデパートに教えられるところが非常に多い。接客のサービスとか、仕入れだとか、デパートに教えられる。こうした不断の研究を怠たらぬことが肝要だと思う。現在の小売商はデパートに較べると著しく進歩がおくれている。これは研究して経営を合理化して行かねばならぬ事と思う。」
「中村屋の繁昌ぶりでは一ヶ年の売上高も相当巨額なものでしょうし、従って純益も莫大なものでしょう」
「昨年度の成績だと百二十二万円ばかり売っている。そうして利益は六万九千円ばかりになっているから、割合にすると売上高の五分七厘くらいである。この四月は製造高が一二万円で店売りが十三万円ばかり、まあ菓子の売上高としては日本でも指折りの方であろう。これは何もかくす必要もないのでサラケ出しているが、税務署から調べに来て売上高の多いのには驚いていたが、それにしては利益が少なすぎるというので、どこかにかくしてあるだろうということであった。そこで私はスグ店員を四方へ走らせて東京で第一流の菓子店と百貨店などから私の店で売っている品と同様のものを買い求めさせて、お役人の目の前で秤にかけるやら食べてみるやらして試験してお目にかけた。ところがその結果私の店のものが平均して一割四分方他所のものより安いことが証明された。
『これではむやみな利益は生れる筈がない』という訳で納得されてお役人は帰られたことがあった。商売というものはやりようであるから、儲かるようにすればいくらでも儲けられる。しかしそれでは永続して繁昌はしない。結局薄利多売で行く方が身体は忙しいが気持がよい。またそれが商売の常道である。よくて安い品を気持よくお客様に買って頂き、お客様に喜んで貰うことが吾々の勤めなのである。」

 国際状態も甚だしく変化しているので昭和三年三月神戸を出帆。約四ヶ月間欧州諸国を歴遊した。その目的とするところは西洋における実業界、主として個人商店の経営法の研究であった。今日においては欧州の事情も変化し、当時とは経済状態も曩日の観察をもって今日を卜することの迂愚なることはもちろんであるが、経済的歴史事実は中断されるべきものでなく、また昔日の考察も今日の日本の状況に照して多少肯綮こうけいを得る点なきにしもあらざると思って掲載するのである。
 今回の旅行は、欧州に留学中であった長男及び娘を連れ戻しに行ったのが主で、そのついでに、欧州諸国に寄り道した程度のものであるから、まとまった研究などではありません。

 ただ、私の今回の旅行は、今までの沢山の旅行者と幾分違った点があると思います。
 従来彼方に行かれた人々は、留学生とか、大学教授とか、その他政治家、あるいは大工場主というような立派な方々ばかりで、私のような小さな一商店主が西洋における商業の実際を調べに往ったのは、私が嚆矢こうしではないかと思います。こうして今一つ私が少しく調べて来ましたのは、百貨店の大発展についてであります。この事は近頃、新聞雑誌等でも問題とされて居りますことで、すなわち近年の大不景気に際会して、一般商店は大概一割二割の売上げが減少して居るにかかわらず、ひとり百貨店のみは年々売上高が増加し、前年よりは必ず多くなっていると云う有様で、もしも景気がなおったならば、どのくらい発展するかわからない。彼方に一万坪、此方に五千坪と、隣り近所に大きな百貨店が続出するという有様では、一般小売商店にとっては少なからぬ脅威であります。
 これについて、先進国である欧州においての百貨店の営業振りと、これに対する個人商店の対抗振りとを、ついでに見て来たいと思ったのでありました。
 彼の地における大使や商務官方のお話によりますと、東京の百貨店ではたいがい視察に来て、白木屋からは四人連れの一行が来られた。また三越なんかは前後何回も来て居られたが、小売商店の方で研究に来られた者はいまだかつてないという事でありました。よってそれらの研究をお話したらば、多少は御参考になるかと思います。西洋の立派な建物を見たり、ローマの都で、一度に千八百人もはいる浴場の跡を見たり、あるいは巴里のグランド・オペラで三千人の美人が一堂に集まる、というようなありさまとか、風俗とかは誰でも見たことであって、いまさら私が申し上げるのでもなく沢山紹介されて居りますゆえ、これらの方面のことはいっさい省略しますが、順序として旅行最初の印象をちょっと申し上げたいと存じます。

 上海を経まして、それより英領の香港、また英領のシンガポール、また英領のセイロン島等に寄港し、続いて立寄ったエジプトもこれまた独立国と云うのも表面だけで、やはり英国の保護国であるようなわけで日本を出でてより海上四十日間、ことごとく英領をすぎる。その英領はみな東洋で、日本と同じく東洋民族の国であります。しかしながら、その国を領して居るのは英国であります。ちょっと驚かされたのは香港で、一周二十五哩の香港島を自動車で廻った時、その道路が外務省横の東京一の道路のように立派であった事であります。なおセイロン島においても、コロンボ港から七十何哩奥地のカンディーの仏牙寺に至る道路の如きも砥の如く、このような道路を英領至る所において見受けられます。またこれらの地は御承知の如く熱帯で、ずいぶん凌ぎにくい所でありますが、英国人の住宅は東京あたりでは見受けられないほどの堂々たるもので、庭園にかこまれ実に涼しく造られてあります。そして彼らは自動車を駆ってこの大道路を自由に馳せて居りますが、土地の人達は灼けつくように熱い道をたいがいは裸足で、身には僅かに薄い着物一枚着けただけで歩いている。
 さて、このように英国人等は贅沢をしているが、何故にこれほどの贅沢が出来得るやと考えざるを得ませんでした。
 印度の往昔は世界第一の富んだ国であったというのに、今では世界で最も貧乏の国となった。しかしその生産力は、昔も今も少しも変りなく、やはり昔の通り気候も良く、天産物が豊富であるにかかわらず、その昔の主人公たりし印度人が貧乏になって、裸足で椰子の実をかじり、あるいは少しばかりの米を食ったりして居ります。しからば、今までの富はどこへ行ったかと云うと、それは英国に行った。英国人の贅沢も、立派な道路も、奪われた富の一部であると私は考えました。

 何故に富を奪われたかと申しますと、一面において印度が政治上、英国の支配を受けなければならない様になったがためでありますが、私の見る所では、経済上英国人に負けたことが重大なる原因になって居ると思います。例えば、印度人が一生懸命になって椰子をつくる、その椰子の実は昔なら十銭したものを五銭くらいで英国人に買取られる。その相場が不当であっても、商権を持っていない印度人は如何ともする事が出来ず、仕方なく売ってしまう。
 これが英国人の手にはいると、椰子の実は精製されて、菓子の原料のココナッツとなり、あるいは上等の石鹸に製造されて、一個分が五十銭か六十銭になる。その他紅茶も作られて居りますが、これも一ポンド分の原料を僅か五十銭か六十銭かに英国人に買取られたものが、紅茶に製されて世界の市場に出ると、一ポンドが二円五十銭とか三円とかいうような値段で市場に売られて居る。私の店でもリプトンティーを販売して居りますが、仕入の際に、印度の原価は五十銭じゃないか、二円五十銭はあまり高すぎると云ったところで相手にされない。
 茶を作って居る印度人は裸足で歩いたり、粥をすするよりほかないのに、原料を五十銭で買って造った茶を三円で売る英国人は、自動車をとばして居る。
 こういう事情を見ても商権を奪われるということくらい、浅ましい無惨なことはないと感じました。

 然らば自分の国は如何と顧ると、なるほど日本は印度ほどのことはありません。が、甚だ似たところがあります。日本の生命とも云うべき生糸が千円以下でなければ売れない。農家は繭を一貫三円か四円で売らなければならない現状でありますが、その繭を造るに五円五十銭もかかるのであります。それを三四円で売って居ては、養蚕する農家は年々借金が増すばかりであります。
 然らば生産費にも当らない生糸の値を誰がつけたかというと、結局日本の生糸を需要する米国人等に売権を握られて、相場を左右されて居るがためであります。
 かく生糸は安いのにかかわらず、私がロンドンの商店で試みに婦人用の長い純絹の靴下を買ってみましたところ、それは一足十四円でありましたが、目方をかけてみますと日本生糸の値としておよそ一円四十銭くらいのものでありました。すなわち一円四十銭の糸で造ったものが、十四円で売れる。つまりその原料は売価の僅か十分の一にすぎずして、九十パーセントの利益は、欧米の商工業者の手にはいる。然るに一円四十銭の糸を供給する日本人は、かえって五六十銭の損をして居るのです。
 これがもし日本の手に商権があって、外国からぜひ日本に「生糸を売ってくれ」と云って来れば、日本では「桑の原価が二円かかっているから、少しは利益を見て二円五十銭くらいで売ろう」というようになる。こうなると日本の生糸も、今日より二三億円高く売れることになって、外国貿易の平均がとれるようになります。
 しかるに現今のような状態では、印度の有様も、日本の有様も、単に大なり小なりだけの相違であるような気がします。
 これではたまらない。自分は今まで東京に居て商売を繁昌させればいいとのみ思って居ましたが、一度海外に出て見ると、内地で商売を繁昌させても駄目だ。何とかして、外国人と商業取引をして、彼らにシテやられないという研究をしなければ、日本の将来も、印度のようになりはしないかと、旅行中しみじみ考えさせられました。
 ちょうど、私が乗りました船に海軍の大佐中佐級の方々が十人ほど乗って居られましたが、この方々とも非常に懇意になっていろいろ話をした際に、「日本の陸海軍は世界のいずれの国にもひけをとるところはないが、何分日本は貧乏であるゆえ、飛行機を沢山作りたくも、また軍艦の優秀なのを造りたくも出来ない。相馬さん、あなたは商人だから軍艦の二三艘も寄付しなさい」と冗談に云われましたが、私は単に冗談とのみ考えることが出来ず、そういう軍人の方々に対して商人として顔向けが出来ないような気がしたのでありました。自分も旅行より帰ったら自らも奮発し、また他の方々にもおすすめして、今までに奪われて居る商権は取り止めて、印度の轍を踏まないように心掛けねばならないと考え、今度の旅行にその方面の研究も加える事にして、幾分気を付けてまいったのであります。

 英国、ドイツ、フランス等においてほとんどありとあらゆる百貨店を見て廻りましたが、東京の三越ほど賑かに繁昌している百貨店は一つも見受けませんでした。これは三越の重役の方が常々「世界中我が三越ほど繁昌して居る百貨店はない、決して他国の追従を許さん」と云って居られた事が、決して嘘言でないことを知りました。
 彼方の百貨店は一階二階は賑わっているが、三階以上はガランとして居る。それに比較すると、三越にしろ、松屋にしろ、上の方までずいぶん賑わっているので、なるほど三越の重役の云う通りであると思い、それから仔細に研究してみて、ようやく日本で百貨店が繁昌する原因と、彼方で一流商店が堂々と百貨店に対抗して繁昌して居る原因とを、知る事が出来たのであります。
 パリ、ロンドン、ベルリン等における一流商店はかなり有力でありますので、最も優秀な品を求むるには、ぜひとも一流商店に赴かねばならない。すなわち百貨店では間に合わないのであります。然らば百貨店にはどういう人々が来るかというと、主に婦人の方が流行品を買いに来る。また百貨店はお客の多数を目的として居りますので、従って中流あるいは中流以下を相手の経営方針を採り、商品は概して安物が多いのであります。
 それゆえ、個人商店にこれと対抗し得る強いところがあって、百貨店を向うに廻わして角力がとれると云うことになります。しかるに日本においては残念ながら百貨店のみ強く、個人商店はだいぶ見劣りがします。角力に喩えて見ると東方に横綱、大関が幾人も居て、西方は幕下ばかり居るかたむきがありてんで角力にならない。
 西洋では百貨店に梅ヶ谷もあれば、一流商店に常陸山あって堂々と角力を取って居るような趣きがあります。

 日本では百貨店が急に勢力を得たもので、一般商店は少々立後れの気味があるのに引換え、西洋では多年百貨店を見ながらやって来て居るので、百貨店に対抗する戦術を心得て居ます。日本では一流の大商店、すなわち※(「にんべん」、第4水準2-1-21)にんべんも鰹節を百貨店に納めて居る。また菓子店として有名な藤村や栄太楼も自店の品を納めている。そこで一般のお客は特に藤村や栄太楼に行かなくても、百貨店で用が足りる事になる。従って自店の御得意をわざわざ百貨店に進上した形になって居ります。
 それに引きかえて、英、仏等の一二流店では、決して自店の品を百貨店に納めるような愚をしない。これは自衛まことに当然なことであります。また世間一般もこれ等の事情を知って居りますので、もし百貨店に商品を納める店を見ると「あの店も売れなくなったと見えて、百貨店で売ってもらうようになった」と、解釈するので、たちまち信用を失ってしまいます。

 なお、彼の地の百貨店が横暴ぶりを発揮し得ない一原因として、家屋税の一項を加えることが出来ます。英国では家屋税が非常に高い。すべて家賃の三割という高い家屋税を徴収して、市の財源に当てて居りますゆえ、百貨店の如き大建築物になると家賃の評価が非常に高く、その高い評価の三割の税を課せられるので、百貨店の如きは何千万円もの商いをするにかかわらず、あまり安売りをすることが出来ない。ここが日本と異るところで、日本の家屋税は百貨店に甚だ有利であります。沢山売れる百貨店においては、一個の商品の負担する家賃は甚だやすいのであります。

 次に所得税においても彼方では大商店に重くして、小商店には非常に軽い合理的な社会政策が実行されて居るので、小商店等は対抗上非常に有利の立場にありますが、我が国では反対で百貨店は実際上軽い所得税を払い、かえって小さな個人商店等が帳簿の不備のために、実際に欠損があった場合でも、総売上金の一割何分を所得として課税され、意外の重税を負担することになり、ますます百貨店の圧迫を蒙るようになります。
 彼方の百貨店の食堂では十銭十五銭等の安い食べものなどは売っていない。十銭くらいの食物を立派な百貨店で売っては、原料がただでも引合わない、そこで彼方では弁当なども最低一円くらいで、それ以下の安い食物は裏店見たような小さな家賃の安い店で売っているといった次第で、百貨店といえども値段を安くして個人商店を圧迫するような横暴は出来ないのであります。
 ゆえにただ一つところで何でも買えるという便利以外に他の店と競争する特点は百貨店として持っていない訳で、百貨店ひとり栄えることも出来ず、個人商店も圧迫されずに共に繁昌して行くことが出来るのであります。

 なお、日本百貨店の有する強力な武器として特に偉大な勢力を持って居るのは商品切手であります。西洋ではクリスマスとか近親の誕生日とかだけにのみ贈り物をする習慣であって、日本の如く他人の家を訪問するごとに御進物を持っていくようなことはないのであります。
 私がロンドンの某百貨店支配人に会った時、ついうっかりして「商品切手の御発売高は」ときいたので、この人は不思議そうな顔をして、「商品券とは何ですか」とあべこべに質問されました[#「質問されました」は底本では「質問されした」]。まよって日本では商品切手なるものが非常に流行していると説明したところ「商品切手? 紙幣じゃありませんか。そんなものを贈り物にしたら貰った人が怒るでしょう」と云われたのには赤面しました。
 西洋では紙幣と同様に見られて居る商品切手などを贈り物にすると、一種の賄賂と認められます。それで百貨店も発行せず、また法律も、紙幣類似としてその発行を許可していないのであります。
 私はかつて百貨店の発行する商品切手に対抗する一手段として、東京一流商店連合商品切手を発行する事を計画したところ、このことが早くも都下の新聞に書かれた結果、所轄警察署や警視庁あたりから急に刑事が来られ「そんな商品切手は内務省で許可しない故計画を中止しろ」と、まだ願書も出さず、一流商店の顔合せもしないうちに圧迫を受けて、ついに計画を中止するの止むなきに至ったのであります。
 しかし今日の如く百貨店の商品切手が現金同様に取り扱われ、また、その他の商店へ持って行っても通用することは完全なる紙幣類似ではないでしょうか。
 個人商店としても、一流百貨店の商品券を五分ぐらいで買ってくれる切手交換所などあるのですから、五分くらいの損をしてもなお幾分儲かることなら御得意を百貨店に奪われるよりはと考えて、現金同様に取扱う事になるのも当然の結果です。
 連合商品券は紙幣類似で、各商店あるいは各百貨店が発行している商品券は紙幣類似でないと云う理屈はいちおうもっともの様でありますが、決して当を得たものでないと私は考えます。
 サッパリと商品券全部を紙幣類似として禁止した方が片手落ちがなくていいものと私は思うのであります。

 ロンドンにおける日本の商務官松山氏を訪ねて、百貨店対個人店のことを訊きましたところ、「ロンドンの百貨店は個人商店を圧迫するほど力を持っていないが、米国からの支店である百貨店は非常に勢力を持って居ます。しかうして[#「しかうして」はママ]米国の百貨店は英国の百貨店全部を買収する勢いを、着々実行して居るのでさすがの英国商人も狼狽の気味であり、政治家の間にも何とかして米国資本の大百貨店を抑えなければならないと云う意見さえ起って居ます」とのことで、その他委しい話を聞きましたが、とにかく米国人の活発さを目のあたりに見て、少々羨ましくもありました。
 日本から欧州に来るまでの四十日間、常に英国人の勢力に圧せられし地を見た私には、その英国人を圧迫する、米人の雄飛に対して痛快を感じた次第であります。
 大資本を有する三越の如きも、いたずらに小さな内地において「我が三越は世界いずれかの百貨店に劣らない」などと空威張りせずに、眼を海外に転じて、ロンドンであるとか、パリであるとかいう、世界の市場に乗り出して貰いたいと思います。そうなれば特に海外視察に人を派遣する必要もなく、輸入品なども[#「輸入品なども」は底本では「輸人品なども」]必ず安く仕入れることが出来て、東京の本居もますます繁昌するようになる。これがすなわち米国商人のやり方であります。三越なら必ず相当の事績をあげ得ると私は信じます。

 今日の百貨店は文明の利器を極度に利用し、最も進んだ方法を採り、商品の仕入の如きも世界的に広く求めて居りますゆえ、これに対抗する個人商店も、かれにおくれないだけの研究、否、更に一歩進んだ研究をしなければなりません。
 飛行機とかけっこしてもかなわない。機関銃に対して昔からの火繩銃で戦争をしても勝目はない。向うが機関銃で来たら此方もそれ相応のもので向わなければ駄目です。これらの研究さえ出来て居れば負けることはない。大きい鷲が強いといっても、雀はいくらでも繁殖して居ます。大百貨店が何百あっても、小さいものは小さいものなりの発展を得ることが出来るのであります。
 我々個人商店はその専門の立場において自身の長所を発揮し、仕入の事においても、各は、各自の連絡共同の方法をとり、世界のありとあらゆる最も進んだものを取り入れる事を怠らず、また改良すべきことは改良して、お得意を満足させる様にすれば、個人商店が百貨店に対抗して、また必ずしもおくれをとるものではないと思います。
 今日まで百貨店からは年々歳々欧米に人を派遣して、それぞれの研究をしているにかかわらず、個人商店からは少しも研究に行かない。もっとも外国に行ったからとて必ずしも名案を得るという訳ではないが、広く知識を世界に求めることが必要であります。特に高等品や外国品を扱って居る店にあっては、自分が取引している以上のよい品が、他にあるや否やを調査する事の必要であることは申すまでもないと思います。

 新しい方法で進んで行く百貨店は今後においても、なお幾分発達して行く事と私は考えております。しかし米国あたりではこれに対抗する方法として、信用ある個人商店が百軒くらい共同して百貨店同様な店をこしらえて居るということですが、これならばあるいは百貨店を向うにまわしても大丈夫かと思います。だが欧州においてはまだそういう店はないようでありました。
 私は米国を廻わって来なかったので、最も活気あるこれらの商業振りを実際に見なかったことを残念に思います。
 とにかく私は個人商店としての長所を発揮して、百貨店と対抗して行く事を理想として進んで行くつもりで居ります。
 しかし私は百貨店を目の敵にする次第ではなく、東京だけでも十万戸もある個人商店が、各々その長所によって繁栄を続け、百貨店と共に共存共栄の道を進んで往きたい希望であります。なお、この事に関して種々研究もありますが、あまり専門にわたりますゆえ、話題を転じ二三の所感を話しましょう。

 欧州から帰った人々の口から次のような言葉をお聞きになったことと思います。
 実に巴里の街は美しく、建築は立派だ。
 ベルリンの街は家並が揃って雅趣がある。
 日本の家は高いのがあったり低いのがあったりして見苦しい。
 そんなことを前々から聞いて居りました私は、自然とそれらの事にも注意して街々を見て廻わりました。なるほどベルリンの街は五階より低い家は造ることを許されない。またそれより高い家を造ることも許されないので全部が五階建でした。ロンドンはあまり面倒な制限がないので四階もあれば七八階もあり相当立派でした。パリは高さに制限はないが外観に重きをおいた規則があるので、外観は羨ましいような気がしました。が、さて、内部にはいって見るといずれの都会も大して羨ましい事もなく、むしろ私はこんなところに住む気にはなれなかった。
 もちろん外観は立派ですが、この堂々たる建築物も、下では商人が店を開いて居り、二階はホテル、三階は事務室、四五階には腰弁階級の人々が住って居るといった具合で、五十人百人の人々が住居し、一軒の家を一人で使っている人はほとんどない。巴里で日本の宮様が借りていらしたという家にも行って見ましたが、ただ一階だけを借りて居られたので、二階三階にはどんな人が住んで居るかわからない。
 宮様でさえかくの如き有様ですゆえ、たいがいのところは一軒の家に何十人何百人という人が住んで居ります。

 このように外から見ると立派な外国の建物も、種々な不快さがありまして、日本のように一軒の家は一人の所有で、他人の干渉を許さずと、云うような気持の善い所がありません。
 日本家屋は見てくれこそ悪いが、住み心地からいうと必ずしも西洋の方がいいとは言えません。外観だけ見て西洋を買いかぶることは、甚だ早計です。これは単に家屋のことばかりじゃないということは申し上げるまでもありません。

 次に喫茶店、すなわちカフェーのこと。本場だけに彼方には立派な喫茶店が沢山ありました。ロンドンでは間口二十七間、奥行二十五間、五階建という大喫茶店がある。一度に二千人、三千人のお客がはいる、そして立派な音楽家が各階に三人、五人、多いところでは二十人も居て音楽をやって聞かして居る。椅子なども非常にゆったりした肘かけ椅子など実に立派なものを置いてあります。この椅子によりかかり、音楽を聞きながらコーヒーを飲んだり、菓子を食べたりして居る心地は素敵なものです。
 パリの大通りに行くと商家の半分はカフェーであるかと思われるほど、夕方から夜おそくまで、何千人あるいは何万人の人々がこれらのカフェーにはいって遊んで居る。
 ロンドンの有名な喫茶店にはいって見た時のことですが、なんでも高価なのには驚きました。
コーヒー               五十銭    (昭和三年の物価比準)
アイスクリーム           七十五銭
チョコレート・アイスクリーム    一円
サンドウィッチ           一円 (二円の物もあり)
 これはうっかり食べられないと思いましたが、隣りの人やその他の人々を見まわしたところ、たいがいはコーヒー一杯くらいで三時間も四時間も平気で音楽を聞いて居る。
 そこで私は職業上の立場から計算を立てて見ましたところ、なるほどこの立派な椅子にかけさせ、音楽をきかせて、しかもコーヒー一杯で三時間も居られたのでは、一杯のコーヒーを五十銭に売ってもまだ足りない。自分の胸算用では決して儲っていないと考え、その後土地の人にきいて見たところ、果せるかな私の見込み通りで「この向う角のコーヒー店の如きも昨年から店をしめて居ますが、まだ借り手がありません」との事であった。
 日本より三倍四倍も高い金をとっても、一杯のコーヒーで三四時間も居られたのでは、さすがの喫茶店も廃業するに至るのはあたりまえで、他の立派な喫茶店も内幕は中々苦しいようでありました。

 しかしどこの喫茶店も大入満員で繁昌して居ることは事実です。よって私は繁昌する原因と、繁昌しても儲からない原因を研究して見たのであります。
 前にも話しました通り、彼方の家はたいがいアパートメントになって居ります。日本に出来ているアパートメントの多くは各部屋が事務所に使用されて居りますが、彼方ではその蜂の巣の様な各部屋を住宅として、沢山の人が住んでいるので、各階の各室とも窓が二つくらいしかない。錠前付の出入口が廊下に並んでいて、何百何十号という部屋番号が付いていて、はなはだ殺風景な有様でありますので、さすが物質文明に慣れて居る人々も一日中こんな家の中にはいられない。そこで外に出て伸び伸びとした気持を味わうことになる。従って喫茶店にはいるといった具合で、喫茶店は大入り満員となる。しかも早く家に帰っても仕様がないので、寝る時間になるまでここに居ようという心理状態になるのだと思いました。
 だから喫茶店の繁昌することはおびただしいが、喫茶店の方ではさほどに儲らない訳であります。
 西洋では公園が至るところに沢山ある。その公園へ行ってみると、大勢の男女で賑って居ますが、これを今言ったように牢屋のような所にばかり居られないので、公園にでも行く、一人で行くよりもお隣りの娘さん、但しお隣りといってもお隣りの部屋、また上もお隣り、下もお隣りですが、その娘さんなど誘ったりして公園の散歩としゃれる。そして一緒に散歩してくれた駄賃にコーヒー一杯ぐらいおごるというふうになります。
 それを日本の人が見て、日本には公園がない、大いに西洋におくれて居ると騒ぎ出したので、東京にも多くの公園が出来た。しかしその公園は子守っ子が遊んで居るのみでいっこう利用されない。先年の大震火災に際して初めて公園もお役に立ったが、公園設置の根本の意義はそんなものじゃなかったのであります。
 すなわち、日本においては中流以上の人はたいがい自分の家に庭があり、縁側があり、心地よく休息が出来るので[#「出来るので」は底本では「出来るで」]、無理にお隣りの娘さんをコーヒーで誘って公園に出かけなくってもすむのであります。

 また、ロンドンだのパリだのの郊外に行くと、五十坪か六十坪ぐらいの畑の真ん中に三畳敷ぐらいのバラックが何百何十と並んで居る。私は初め汽車の窓から眺めてずいぶん沢山な鶏小屋があるものだと驚いたが、皆な人間の小屋であることをあとで知りました。これも蜂の巣式の家に住って居る都人士のくつろぐ場所で、土曜から日曜にかけて遊びに行く小さな別荘なのでありました。
 日本には外国のような大建築もないが、またこんなチッポケな別荘もない。彼らはその郊外の小さな別荘に行って花を作るとか、作ってある苺を摘んで食べるとかして一日をたのしく遊ぶのであります。そういう家が幾千となくある。これらも窮屈で殺風景な部屋に住んでいる結果として、必然的にこんな流行が生じたのでありましょう。
 とにかく、蜂の巣建築の結果が、公園の必要を生じ、喫茶店の繁昌となり、それから長く椅子を占領されたり、音楽を聞かせたりするので、喫茶店はその代をコーヒーその他飲食物に加算するので、前に話したように高価になるのであります。
 こういう事情でありますので、単に街が立派であるのを見て驚いたり、コーヒー店の立派なのを見て感心したり、また公園をむやみに讃美したりして、ただ日本は非常に劣って居る、後れて居ると言って悲観するにはあたらないと思います。

 彼方へ行くに日本服では外聞が悪いとか、馬鹿にされるとか、種々の説がありましたが、私は考えました。私が郷里の信州に居た子供の頃でありました。ある時二人の若き米国婦人が村へ来ましたが、その人等は日本語も知らず日本服も着ずにはるばる信州までやって来て、山登りなどをして帰って行ったのを見て、大いに感心したのでありました。さて今度私が外国へ行く場合となって考えたのは、外国人は自分の国の着物を着て日本に来たのにかかわらず、日本人は向うの真似をして洋服を着て行く、しかも日本人のように小さな体のものが洋服を着た時の姿は甚だ貧弱で具合が悪い、それが常に身につけている日本服なら、羽織袴でもつけると多少がっしりとして大きくも見える。そこで私は「やはり日本人は日本服にかぎる」と決心して、日本服で出かけたのでありました。
 最初は船でした。日本人は五十三人も居られましたが、皆洋服で日本服は私一人、それで私はいっさい日本語のみを使い、朝などは西洋人であろうが、支那人であろうが、かまわずに「おはようおはよう」と挨拶したところ、初め不思議がって居たその人々だんだん慣れて来て向うから「オハヨー」とやるようになったので、同船の日本人は非常に嬉しがり、また永年船に乗って居るボーイ等の喜び方は特別でした。
 そのうち、熱帯のシンガポール辺に来た時には、日本人の船客中にも「やはり暑い時には日本服にかぎりますなあ」など云って、トランクの中から和服を出して着るようになった。
 そうすると外国婦人なども羽織のようなものや、中には職人の着るハッピのようなものを着出して、しまいに船の上は日本服万歳となりました。
 それで船の上が日本服と日本語が盛んになって、日本人が元気になり、船中の空気が陽気になりました。初めは外国人のみが我物顔に振舞って、日本人が片隅に小さくなって居たのがだんだん活発になり、運動に、水泳に、内外人間に少しの隔りもなくなり、和気靄々として[#「和気靄々として」はママ]国際的の空気を出して来たことは全く日本服の賜でありました。
 船がイタリアのナポリ(ネープルス)に着いた時、独逸のハイデルベルヒに留学中であった長男と娘が出迎えてくれましたので、早速娘にも裾模様の着物をきせて歩かせました。
 その後パリのオペラにも日本服で行きましたが、彼の地の貴婦人等はダイヤモンドの飾りのついた高価な服などを着て居りましたが、その美人連も裾模様の日本服の前に顔色なしでかわるがわる来て、奇麗だ、美しいと云って褒めました。
 外国の家庭を訪問する時など特に日本服が喜ばれました。ハンガリーに行った時の如きは、同国人が東洋人種である関係から、非常に日本服を愛好して居りますが、私等が日本服を着て行ったお陰で、彼方此方からお夕食の招待を受けて、ことわるのに閉口したくらいで、やむを得ず二三個所に招かれて行きましたが、日本服がとても歓迎されました。
 デンマークの[#「デンマークの」は底本では「デーマークの」]農家を訪問した時などは、案内役の外人が「不便でも日本服で行って下さい」と娘にたのんだほどで、至るところ好感をもって迎えられたのは愉快でした。

 日本服のいいことは、羽織袴や裾模様の着物が第一礼装として、立派に公式の席に用いられることであります。洋服であっては、夕食に招かれる時、ダンスをする時、オペラを見に行く時といった具合に、四種ほどの礼服を用意する必要がありますが、日本服ならどこにでも通用します。
 現にこんな話があります。先年スエーデンで、ノーベル賞の授与式があった時のことです。日本の公使館の人々も招ばれたのでしたが、燕尾服を着て行かなかったがため、ついに参列することが出来なかったが、同行した桂井氏と云う学生は日本服で出かけたので、その人だけが日本を代表して授与式に参列することが出来たとのことでした。
 私は幸い日本服で行ったので、不恰好な燕尾服やシルクハットの難をのがれ、しかも日本の大使館や外国の大学総長等の招待にも大威張りで出席し、先方の人達から歓迎されました。

 働く人とか学生等には洋服は便利であるからおすすめしますが、外国に行く日本人が恥かしいと云って、自国の服装を卑下するのは大変な心得違いだと思います。
 これはちょっと人様の悪口を云うようですが、以前井上という代議士の主催で、南洋貿易視察のために、オランダ領の南洋に行く団体を募集したことがありました。その時、私も妻も共に参加申込みましたのですが、「オランダ領地へ行くのだから洋服にしてくれ」との事だったので「外国から日本に商業視察に来る人は、皆日本服を着て来ますか」ときいてみたところ「そんな理屈は云わないで洋服にして下さい」とのことでありましたので、私どもはついに参加を断りました。家内などは西洋人にくらべると体は小さいし恰好は悪い、日本の絹の着物でも着ていったらどうやら西洋人にひけもとらないと思いますが、不恰好な洋服を着て、慣れない靴をはいて、ヨチヨチ歩いたらそれこそ国辱になるじゃないか、と考えたからでありました。代議士ほどの方でもこんな間違った考えを持って居られる方のあるのを残念に思いました。
 とにかく、ただ見物に行くとか、招待された時などは日本服が好都合で、履物はコルク裏の草履を用いましたが、半靴を用いてもよいかと思います。

 最後に申し述べたいのは彼の国における商人の地位についてであります。
 日本では昔から士農工商といって商人を最も低き階級として社会的に軽視する傾きがあるので、温泉場などへ遊びに行った際など、何々商と記さずにかえって無職などと記すのを見るくらいで、また立派な商人も資産が出来るとたちまち今までの商業を捨てて無職の資産家となって隠れることなどは実に国家のためにも憂うべきことであります。
 西洋では商人は非常に尊敬され、イギリスに[#「イギリスに」は底本では「イぎリスに」]おいてはマーチャント・プリンス(商売王)という言葉があるほどで、社会的に重んぜられていることは驚くのほかありません。英国は商をもって立つ国で、その大海軍も商権保護のために造られ、またかの世界大戦も商権をおびやかさんとする独逸を圧するがためでありました。
 商人は一国の主人同様にて大臣の如きはその番頭の如く見られるほどで、これはひとりイギリスのみに[#「イギリスのみに」は底本では「イぎリスのみに」]限ったことでなく、ドイツ等においても同様で、私の如き者も商人であるがために至るところにおいて意外の厚遇に接し恐縮したことがたびたびありました。
 日本の貿易商である中村祥太郎氏の如きは、我が国の貿易に貢献少なからざる方で、欧州においては非常に尊敬され、かつてロシア皇帝、フランス大統領、ベルギー皇帝より各々勲章を受領したほどであるのに、本国の日本からは何らの賞をも授けられていないのであります。
 西洋と日本とは商人を遇するのにかくの如き相違があります。西洋では尊敬されるがゆえに人材は多く商業に集り、今日の如き富強を致したものと思われます。
 しかるに日本では「この子は学問が不出来で、末の見込がありませんから商業でもさせたいと思います」という言葉を、私なども小店員の採用に際してたびたび聞きましたが、何とも残念に思っております。こんな具合ですから一般に、商人に人材が少なく、人材識見のすべてが他に劣って居る有様で、ますますその地位を低めて居ることを、認めざるを得ない事を遺憾に思います。
 今後我々商人は大いに自重し、商人は一国の主人であると云われるように、その地位の向上をはかると同時に、眼を世界の商業に向けて、外国におくれをとらぬようにすることが、自他のため、また国家のためであると思います。

 明治三十四年、書生上がりの我ら夫婦、本郷帝国大学正門前にパン屋開業、書生パン屋の名四方に広まるにつけ、地方より出て東京にて商売を営まんとする人の相談や問い合せが殺到し、一々返答を認めるの煩に堪えず。すなわち夫婦共著にて「田舎人の見たる東京の商業」を出版し、回答代りに贈呈したものであって、今や手元に一冊を止むるのみ、もとより数十年前の旧著なれども、我らの観る処今日においても甚しき径庭なく、小売店経営の参考には最も適切なりと信ずるとともに、鶏肋自ら棄てがたきものあるをもって採録することにした。

 本書は決して金持になる秘決を説いたものではない。また我々は田舎出のしかも書生なりであって、いまだ研究の浅きものであるから、東京の実業界の真相を穿ったものだということも出来ない。ただ自ら実験してこの目に触れた所の範囲内においていささか心付いたことを書いただけのことである、ゆえにきわめて眼界の狭いものであることをあらかじめ御断りしなければならない。要するに良心に恥じず、独立独行誰の干渉をも受けずして、ただ自らの手足を働かせ、額に汗してもって得た所のいわゆる労働に対する相当の報酬に由って自ら生活して行くだけの順序方法を書いたものに過ぎない。吾人は損することを誇りとするものではないが、金を貯えることをもって唯一の理想とすべきものとは信じない。たとい多大の財産を有する者でも、一つの為す事なく、うかうかとこの世を渡るべきものでないことを主張するに過ぎないのである。

 第一に田舎出の人々は、東京普通の内幕が十分に判らないのである。東京の普通の商家では、単に商業上の収入のみで一家の家計を立つることの出来ているものは、十中一二に過ぎない。他の八九は各々副収入によってその不足を補っている。すなわちあるいはその妻が商売の方を担任し、亭主は他に出勤してその月給によってこれを補っているとか、あるいは土地家屋を有してその収入で家計の一部を助くるとか、あるいは金貸しをするとか、ある者は周旋屋で、その手間手数料で家計を補うとか、ことに最も多いのは手内職である。例えば靴屋、指物屋、仕立屋等の多くは、その仕事を職工兼工店という方法で家計を立てている。というのは自分で仕上げたものを、内で売り、問屋にも出すという方法である。概して東京の商家はかような方法で、辛うじて経済を立てることが出来るのであるが、この事情に気がつかず、商売のみで楽に家計が立つように早合点して、数百千円の資本を抱いて来るのである。その結果は、月々に生計費のために追い倒されて、終には商を閉じなくてはならぬ始末に立ち至るのである。ゆえに信用を博して顧客を拡むるまで、すなわち一二年の維持の出来るだけの資本を準備しているものか、または職業の手腕を持っている者ならば、まずとやかくと立ち行く方法を講じられようが、少ない資本をもって妻子を伴れて東京に出て来る、やっと店を開いて右より左に商売の売上げ高で一家を支えて行こうとする者はきわめて危険である。多くの失敗を招く人々は、この事情に対する準備がなくて、地方の生活と同様の考えをもって胸算用を立てている人々である。

 すでに多少の資本を抱いて地方より出て来た人が、いよいよ商店を開こうとするに当って、まず場所の選択について見当を誤まることが多い。これがそもそも失敗に陥るべき根源である。いったい如何なる場所に開店すべきかということは、当人の資本の多寡と商売の性質とを考え合わさなくてはならぬ。普通の人がこの関係については充分の注意を払わないで、単に通行の多い賑った町で、しかもなるべく家賃の安い家というような考えをもって貸家を探している。またたとえ多少は場所の選定について研究する者はあっても、地方の考えが頭脳を去らないがために、その見当を誤まることが多い。商売が繁昌するか、失敗に終るかということは、全く場所次第である。ゆえにもし不適当なる場所に資本をおろしたならば、もはや取り返しはつかないのである。
 場所の選定について注意すべきだいたいの所をいえば、近来電車が開通して交通の便のよくなった結果、東京の商業の中心が一部に固まって来た。今まで十五区に各中心があって、いずれも繁昌していたのが、今や本当の中心は日本橋京橋へ集中して、各区の中心地は小中心の有様となって来た。この中心というものは、豪商富家が多数集合して、多年の信用を保っている所であるから、最も顧客を絶えず惹きつけている。ゆえに大いに為さんとするならばこの中心地に踏み込んで開店するのが最も得策であるが、しかし新出の者が十分の声価をあげて相当顧客を引きつけるまでには、少なくとも隣家に見劣りせぬだけの装飾仕入が出来て、二三年間は維持し得る資本がなくてはならぬ。だから中心地で始むるか、小中心で始むるか、また場末で開店するかということは、いっさい資本の問題である。もし少ない資本のものならば、将来有望と思われる場末の地で、その隣家に立ち勝った店を開くが上策である。しかればその地での第一流の繁昌店たることが出来る。資本に不相当なる場所に高い家賃を払って、みすぼらしい店を開いているようでは、とうてい繁昌の見込みが立たぬ。

 商売の性質と場所とを知ることが大切である。すなわちその地には如何なる種類の人が多く集っているか、また如何なる商品が最も適当であるかについて、十分に踏査し、鑑定をつけることを誤まってはならぬ。概して地方相手の卸業ならば日本橋がよろしいし、新奇な舶来品ハイカラ好みの商品ならば、京橋就中銀座辺また本郷神田の賑った通りに開店すべし、本所深川ならば職工向きの商売が適しているし、牛込本郷の一般では学生を相手の中心とすべきである。概して言えば同業者の多い所を見定めて開店するのがよろしい。それは田舎では同業者のない飛び抜けた場所に開店する方が多くの客を引くことが出来るのに、東京では概して飛び離れた場所では、多く客を引きつけることは出来ない。だいたいにおいてこれだけの事情が頭脳になくて、ぼんやり店を開いた結果は当然失敗する。

 第四にはいよいよ場所の選定が出来た後に、その場所の如何なる家を借り受け、または買い入れるべきかということが問題である。田舎出の人の通弊として、適当の場所に適当の家が容易にみつからないのに、あせって軽率に資本をおろす、その結果は取り返しのつかぬ失敗を来すのである。
 商店を見定むるについては、何業に限らず総じて朝日夕日を受くる家は避けなくてはならぬ。その商店がはげしい日射によって損傷を被むることは著しいが、特に八百屋、卵子屋、果物屋、菓子屋などは朝日夕日を受ける店ではその損害もまた甚しい。
 また、田舎の人の常として、家賃や雑作の安い家を求むるに骨折るのであるが、場所の好い所は家は悪くても、雑作の価は一種の場所権となっているので、雑作家賃の安い所では、商売は成り立たぬ筈のものである。普通に家が立派で雑作の安いのを選ばんとするものは大なる見当違いである。また道幅と間口との関係がある。例えば銀座通りの如き道幅の広い所では、間口の狭い店ではとうてい人の目を引くことは出来ない。下谷仲町、本郷森川町、牛込通寺町の如き道幅の狭い所では間口二間くらいでも十分に客を引くことが出来る。畢竟するに間口は資本に応じなくてはならん。資本が少ないのにいたずらに間口の大きい家では、店が寂しくて、とうてい客を引くことは出来ないわけである。ゆえに家を選定するには、まずこの辺の事情を十分参酌しなくてはならん。これらはその店が繁昌するか衰亡するかに少なからぬ関係を有している。

 東京と地方との事情の相違点について注意すべきは、地方では物価の安値ということが信用を博する唯一の手段であるけれども、東京ではむしろ商品の精良ということを主としなくてはならん。地方ならばあの店は安いとの評判が立てば、一厘二厘の相違で三丁五丁の道を厭わずに買いに行くくらいであるけれども、東京では便利ということが主となっており、かつ周囲がきわめて複雑であるために、多少の安値くらいで客の足を引き寄するは決して容易ではない。その中には資本倒れとなってしまう。むしろ品質の精良に努めなくてはならん。東京人は概して安値よりも品質の精良を好む習慣がある。しかも一般の趨勢が追々に贅沢に傾きつつあるから、今後の競争の要点は品質の精良と確実とに帰する。この事情をのみこまずにいる商人は、終には失敗に帰するのである。

 店頭の装飾の如何は、客を引きつける上に大関係がある。中流以下の多数の客を相手とする店はあまり綺麗にすることはかえって不得策である。例えば居酒屋、飯屋、駄菓子屋などでは、店を綺麗にしたために、全く顧客を失った例は沢山ある。これに反し、中以上の客を相手の店では装飾はなるべく綺麗にする傾きが近年ことに著しい。パン店などでも、五年前には装飾費用が二三百円くらいで足りていたのが、今日ではこのために千円以上を費さなくてはならぬ有様である。だいたいの装飾の一般程度といえば、これはその場所に適応せしめなくてはならん。近隣よりもあまりに飛び抜けて綺麗にしては、客は入って来ることを躊躇するのである。もしまた近隣よりもはるか見劣りする店ではもちろんよろしくない。要するに近隣の平均に少し立ち優るくらいがその場所には最も多く客を引く程度である。
 さらに、仕入の事について一言すれば、仕入の種類及び程度を鑑別することは最もむずかしい。仕入が寂しくては客を引き顧客を広むることは出来ず、またやたらに品が多くては廃物が出来る。呉服物ではその季に売り損えば、翌年はもはや流行後れとなって、廃物となる品が多い。菓子や果物類は一週間売れなければ廃物となる。廃物がどしどし出来ては商売は成り立たぬわけである。店を大きくする以上は、多少の廃物は免れまいが、それをなるべく少なくするには、常に流行の趨勢を察し、嗜好の移り変りを吟味して、絶えず客の嗜好性を導くように心得て仕入なくてはならぬ。この加減が飲み込まれるには多年の経験を積んで、よくその土地の事情に明るくなくては出来にくい。これが田舎出の人には最も難物である。

 最後に小僧の使用法について一言すれば、商家のほとんどすべてが小僧店員の欠乏を感じて居るが、これは畢竟[#「畢竟」は底本では「畢境」]主人が小僧店員の虐待にほかならぬ。世間はすでに立憲政治の行われているに、家の中はなお封建制度を墨守しているものが多い。主人家族は美食しているが、小僧雇人は特別の粗食である。休息日に家族の者を遊びに出して、雇人小僧に留守番をさせている。これが小僧の不平の根元である。また一定の休息時間を与えない。ある仕事を仕上ぐればその先に休みが出来るとの望みを与えない。従ってその仕事に隙が入る。主人の目先きを偸んでは怠ける。良店員良小僧とその家の商売とは関係が最も密接である。しかるに田舎では雇人は朝から晩まで息もつかせずに働かしむる習慣があるから、新たに東京に出て来た商人も、その雇人を使ったように使おうとする傾きが著しい。これがその店の繁昌せぬ一原因となるのである。

 地方人の失敗する理由は、概略前章において述べた通りであるが、いよいよ新たに店を選択せんとするには、さて如何なる場所を如何にして得べきかを詳細に説く必要が起る。それゆえ多少重複の恐れはあるが、左に別項を設けることにした。

 我ら素人はとかく事業に関して臆病にすぎるもので、商店の選択なども、思い切って好場所を探さんとはせず、いつも見込のない場末を選ぶくせがある。これは資本の裕かでない、しかも無経験の田舎人にとりては至極もっとものようなれど、商店の盛衰は過半場所の如何にかかるものである。
 天下の商業界に第一流を占めんと欲せば、思い切って第一流の地を選まなくてはならぬ。第一流の地とは歴史的にすでに東京の目抜きの場所といわれている所で、実際上にも海陸とも交通の便利最もよく、銀行、問屋、運送店等にも至極便利のよい地を選まなくてはならぬ。しかしながらかかる地はすでに有名なる豪商等の占むる所となっていて、地方出身の人の容易に割込むことの出来るものでないから、初めは第二流、第三流の中心地を見立て、ここに城を築くがよろしい。例を取るまでもないが、織田信長や秀吉は、尾張の如き大平原に起ったけれども、武田信玄のように山間に城を築いたのではとうてい成功するものではない。四谷の片隅や小石川の谷では、日本全国相手の大商店は起る筈のものではない。ゆえに資本の少ないものは第二流第三流の地に開店しておいて、次第に資力を貯え、信用を増した上で、初めて第一流の地に出て奮闘を試みる覚悟がなくてはならぬ。
 ある歯科医はその技術においては東京でも随一と評判される人であるが、資本が充分にないために、誤って浅草の一隅に開業した。開業以来すでに十年になるが、割合世間に名が広まらないで依然として微々たる有様である。これに反してその人の朋輩であった所の一歯科医は、人物も技術も前者に比してはるかに劣っていたが、機敏にも大奮発して中央の目抜きの場所へ開業したため今は堂々たる歯科院長として、非常な盛大を致しているようになった。その他医師はもちろん弁護士、産婆などのすべて人を相手の職業は、その得意とすべき人物が有力で、そして多数である所を選ぶことが最も必要である。ことに商業はこの点については最も苦心を要する所である。一度この選択を誤まれば、万事は休するのである。
 なお一つ注意すべき事が残っている。それは東京市中に電車が開通するようになったため、各商店は非常な影響を蒙った。すなわち電車停留所付近はまだ開通していなかった以前よりも売上げ高が増加して、ただ通行する道に当っている商店は大概売上げが減少して来た。つまり停留所付近で増加したそれだけ減ったわけであるから、この事もよく考え合さねば失敗を招く原因となるのである。

○昔の人は山に住む人を仙人といい、谷に住む人を俗人といったそうだが、商人はその俗人中の俗人であるから、なるべく低き所に店を持つことが必要である。土地の高い所には決して大商店は発達せぬものである。これは一種の心理作用から来るものと見え、誰しも買物になど出かける時には、我が居宅から低い方へ行き易く、高い方へは容易に足が進まぬものであるから、とかく低い所が商店としては繁昌するようである。東京、横浜、大阪神戸なども、ことごとく下町に商店が集っていて、山の手は学者官吏などの住所であるゆえに、高低のある地であるならば、なるべく低き所を選まねばならぬ。
○あまり広き路幅の所は店が淋しく見え、夏は日光が強く照らすように思われ、冬は寒そうに感ぜられて、道行も幅の狭い街へ避けようとする傾きがある。これはひとり人間ばかりでなく、魚の泳ぐ所を見てもやはり物の陰に集まろうとしている。それゆえ市区改正のために商業上大打撃を受けた実例は到る所にある。路幅の広い街さえすでにかくの如くであるから、片側町の繁昌しないのは申すまでもない。
○坂町も禁物である。人は坂を上らんとする時は必ずやっとの思いで頂上に達せんとあせるものゆえ、途中の商店に眼を配る暇がない。下る時も同様である。馬なども坂路は非常に気ぜわしく登るものである。
○道路より地盤の高い店ははいりにくい感じがある。これに反して少しく道路より低き所の地盤が最もよろしい。これは低地が繁昌すると同じ心理的の関係である。従って床もなるべく低きがよろしい。床が低ければ店にならべた品物が沢山で賑かに見える。床の低い繁昌した店で、堂々たる床高い家に改築したために急に衰微した例は沢山ある。

 次に注意すべきは、開店せんとするに先立ち、まず如何なる客筋にむかって商売すべきか、予め方針を定めねばならぬ。日本全国もしくは東京全部を相手に卸問屋でも始めるとならば、日本橋を随一として京橋これにつぎ、職工その他日雇人等の労働者を当ての商店ならば、すなわち深川本所区等の労働者の住む所か、あるいはこの種の人々の出入する工場の付近を選まねばならぬ。学生官吏を目的ならば、本郷台を初めとし、神田牛込の一部、兵営内の需用に応ぜんとならば赤坂麻布の一部、外国公使館領事館その他の最上流社会ならば、赤坂芝の一部を選ぶという如く、その客筋と営業の種類とは大いに関係あるものである。
 さらに今一つ注意すべきことは、その開店せんとする場所の近傍を得意とするつもりならば、新来住者の多い地を選ぶが得策である。日本橋区の如く、区内の多数人士がことごとく多年その土地の住者で、すなわち生粋の江戸人の住んでいる所は、いわゆる老舗のみが信用あって、新店は信用が少ない。しかし本郷牛込等の如く新移住者多き地方か、神田の如く学生等の多い所では勉強さえすればたちまち繁昌するものである。その実例は神田で最も繁昌する某薬店は[#「某薬店は」は底本では「其薬店は」]、十年前日本橋区内に開店して三年間大勉強して売出したが、少しも得意はつかない。そのためやむを得ず神田に移転して前にも劣らぬ勉強をしたところがたちまちにして大評判となり、繁栄を来したとのことである。

 日光は生物を生長せしむるには必要欠くべからざるものなれども、これが商店の上にテラテラ夕日朝日の直射を浴びる時は、品物は少なからず損害を蒙るものである。しかし全く朝日夕日の当らぬ店といえばずいぶん難しい注文ではあるが、新たに店を開かんとする人はよほどこの辺の注意を要する。日光の直射を受ける店ならば、場所は如何に理想的であっても、店が如何に立派であっても、その商売の種類によっては断然思い止まらねばならぬ。例えば玉子屋、果物屋、八百屋、菓子屋、小間物店等の店は、烈しい夕日を受けるために損害ことに甚しく、とうてい夕日を受けない店と競争すること能わざるゆえ、早晩移転する外はない。ひとり蒲団屋だけは夕日を受ける方が得策である。されど概して如何なる商店にも夕日を受けぬ方が利益多きゆえ、同じ町内でも夕日を受けぬ側の方が地代家賃も高いことである。

 銀座等の如き路幅広き町に、二間や三間間口の小規模の店は、もはや商店として仲間入りは至難のこととなった。ゆえに近来しきりに市区改正せられて、道路の大いに広まるとともに、建築を壮大に改め、人々の注意を引かんとする傾きが著しい。かくの如く互いに壮麗高大を競う今日となっては、勢い西洋風の大建築に改めなければならぬ。普通の日本風の二階建は低くして見すぼらしいから、遠からず三層四層の壮観を仰ぐに至るは明らかである。欧米の大建築もたぶんこれと同じ理由から来たものではないか、とすれば今日より十年後には日本橋の大通りなども、欧米の市街に劣らない美観を呈するに至るは想像するに難からざることである。それゆえ今において新たに開店せんとする人は、路幅と比隣の有様を見、将来の発達を期して路幅の広い街に狭い間口の家を求めたり、あるいは低き新建築などを営んではならないのである。

 資本はその商売の種類と奥行の深浅によって一様に定め難いものであるが、おおむね間口の広狭に従って、資本の多寡を定むるも差支えはないであろう。例えば二間の店ならば二二、四百円、三間ならば三三、九百円、四間ならば四四、千六百円以上くらいと見積れば甚しい誤りはない。もっとも商品の種類によって宝玉の如くかさすくなくして価値のあるもの、あるいは嵩ばりて金目の少なきものもあるが、間口の広い割に資本をかけなければ商品がまばらで、ただ一通りバラリと配列されるのみでは店が薄っぺらで、貧相で、品物も古くさく思われ、せっかく店に立寄っても品物を買う気になれぬものである。これに反して、間口狭く奥行深き店にたっぷり資本をおろして、商品を裕かに所せまきまでこれを陳列し、一見ごたごた然としておけば、店は何となく活き活きとして、品物も新しそうに見え、甚だ心地よいものである。

 世人はとかく他人の古店を譲り受けるよりは、新しく店を開いて、屋号も自分の郷里(世人には何の興味もない)の名に因んでつけ、商品も自分の独断で売れそうに思うものを大いに販売して他店の鼻をあかしてやらんとする傾きがあるが、ここがすなわち素人のぶなところで、特に田舎出の人々の陥り易いところである。一商店を他人に譲り渡すには幾分の欠点は必ずあるだろうが、何町の何屋として何々の販売をしていることを、その近傍数百千戸の人に知られていることは非常な価値のある事にて、これがために毎日相応の売上げ高を得るものである。新たに開店してこれほどの地位に達するまでには莫大の広告料と長年月を要するものである。特にその近傍における得意の嗜好とその購買力の程度という、実に尊き知識をも同時に譲り受けることであるから、その利はちょっと予算し難きほど大なるものである。東京の客は地方の客と異なり、店主の顔を記憶せずして専らその店と家号を記憶するゆえに、主人は幾度交迭しても、その家の改まらざる限り、得意はあまり離れぬものである。自分の如きも今のパン店中村屋を譲り受けてから五ヶ年なれども、なお得意の大多数は自分が代がわりの中村屋たることを知らない。ここに一奇談あり、我が店の近隣に、本郷区にても屈指の下宿屋がある。かつて先代中村屋店主と口論したことがあったので、爾来中村屋からは何物も買うまいと決心したものの如く、自分が代がわりとなりし後たびたび辞を低うして用向きに伺ったが、ついに一回の用命もなくはるばる十町も隔っているパン屋からパンを求めているとの事である。しかるにこの遠方のパン店こそ彼がかつて口論せし先代中村屋が再び開業せしものであった。かような奇談もあるくらい、屋号ばかりは記憶されているのであるゆえ、東京市中十万の商店中毎年代がわりするもの少なくとも一万戸を下らずといえども、世人の多くはその代がわりの多きを知らず、年々歳々、各商店の繁栄を加うるものと信じて、同一の商店より買物をなしつつあるのである。かく屋号は大切なものであるから、なるべく旧屋号を踏襲して得意を散逸せしめず、充分商業の呼吸を呑み込んだ上で、徐々改正を施すのが最上の策である。しかしながらこの誤りに陥るのはひとり地方人士のみではない。東京の真ん中に住んでいる官吏諸君もこの価値を認めないものと見え、市区改正に際し、人民に立ち退きを命ずる時、家屋所有者には充分の賠償をなせども、家屋所有者以上の損害を蒙るべき営業人すなわち造作の持主に対しては、ほとんど償う所なく、ただ僅かに二三十円の立ち退き料を給するのみである。実に当局者の無知なために、如何に良民が苦しめられているか、少しく調査を願いたいものである。

 ここに田舎の富豪があって、最愛の娘のために最上の嫁入り支度を調達せんとして、数千円の金をなげうって、田舎ではとうてい東京の中等呉服店にあるほどの品物もなかなか得られないのである。洋物、小間物、飲食物器具等またしかり、これに反して田舎に売れ行く粗末な品物を、東京において求めても容易に見当らぬであろう。これは東京人と田舎人との趣味嗜好の相違するゆえんである。ゆえにもし地方人の歓迎を受けんとするものは、品質粗悪でも価さえ廉であるならば、のんきな田舎人はわらじがけで買いに来る。しかし東京においては全くこれと正反対であって、価安きもの必ずしも売行きのよいものではない。むしろあまり廉に過ぎれば、却って得意に不安の心を抱かしめ、その品物につき多少の疑いをはさませる場合がある。それゆえ東京人の喝采を博するには、ぜひ品質の精良なるを選び、原料をも精選せねばならぬ。しかも彼らの嗜好に適しさえすれば、価高きには驚かない。借金を質に置いても買わずにはいない。見よ有名なる商店はいずれもこの方針によらないものはないのに心づくであろう。我ら開店せんとした時に、郷里の一名物を持って来て、大いにこれを広告的に廉価に売り捌こうと思った。それで自ら産地に赴き、またその製造所なども実見して製造家と特約を結び、意気揚々満腔の希望を抱き、天晴れ実業家に成りすましたつもりで東京に出て来た。しかし噫呼これも書生上りの空想に過ぎなかったのである。我得意たらんとする人は東京人であったことを忘れて居ったのである。我が郷里の人こそ名物として珍重するが、都人士の口はすでに一と昔も否もっと以前から舶来品の最上等を味わっていた。原価を切って馬鹿に安売りしても、都人士は一瞥も与えない。営業を経験せし後、初めて東京人の嗜好如何に考えの及ばなかったことに気づいたのである。これひとり我々ばかりではない。一地方の特産を持つ人は誰しも初めはこの考えを持つらしい。また今日現に各国の産物が、その地方よりわざわざ支店を出して盛んに広告をしては販売に骨を折っている。東京人も一時珍しい内は買って見る。しかしながら一通り人の口に行き渡ってしまえば、味わいが美(都会人の口に)でないので、たちまち東京人に飽かれて、終にはその産物の製造せらるる国の人が僅かに国産のゆえをもって使い物に用いるに止まるのである。その地方の人々が如何に賞翫しても、贅沢な都人士の口には合わないのである。もし幸い幾分都人士の嗜好に適ったものとしても、その国産物だけ売ったばかりでは、とうてい一軒の店を維持することは難しい。店の維持に莫大の費用を要するゆえに、販路のせまい一地方の産物ぐらいを売ったばかりでは、つまりかかり負けするのである。ゆえにある産物を今日なおつづいて売っている店はたいがい東京人の間に売行きの好いほかの品も共に販売して、ようやく命をつなぐという有様である。もしこの産物だけを売るならば、十中八九までは必ず失敗するであろう。当店でも各地の産物を売って見たが、ことごとく永続きはしなかった。初め少しく売行きのよいのに調子づいてどしどし多量に仕入れる時は、必ず後で荷の背負込みとなり、始末がつかない。長月日を経るうちに品が古くなって、売物にはならぬ廃物となり、非常に損をしたことがしばしばあった。その響には問屋の方でもいつか閉店して影を止めず消え失せている。今や実業熱その極度に達し、地方人の都下に来って商業を試みんとする人日増しに多くあるが、軽率に一地方の産物などを販売せんと、果敢ない望みを抱く時は、意外の危険に遭遇することがあるから、充分慎重な態度を取り、しかる後実行せられんことを希望するのである。


 昔は素人下宿屋とて数人の学生を下宿せしめても、僅かの家族の食費ぐらいは儲かった時代もあったが、地代家賃その他すべての物価は年々騰貴して十数年前に比して約二倍するに至った。こうして一般に生活の程度も高くなり、質朴を旨とすべき学生も、電話もあり、電燈、瓦斯設備の完全せるいわゆる高等下宿屋なるものを好むようになって、古びた小規模な下宿屋などは、自然立ち行かなくなった。しかるに地方人は単に下宿料を如何ほどとして幾人おき、それで家賃を払っても差引何ほどの利益があると、きわめて大ザッパな計算を立て、軽々しくこの下宿屋を始める。しかしながら彼ら地方人の人は、田舎にいて自分で作った米、味噌、野菜物を充分使っていた癖がついて、どしどし仕入れる。そして月末の勘定を払う時初めて費用の案外多くかかったのに驚くという有様である。また下宿屋となって人を置く上は、二三人でも数十人でも手のかかることは同じである。少人数だからとて点火すべき所に燈火をおかないわけにはいかない。鉄瓶の湯を切らしてはおけない。仕入をするにも多人数おけば自然出入りの商人に卸値で勉強させるけれども、小下宿屋は割合にこの仕入が高くなる。その上客に倒されることもあり、また部屋もいつもあき間の一つや二つはあることを覚悟しなければならない。これを一々計算して見れば、なかなか儲かるものではない。しからば数十人を容るべき設備の大下宿屋は必ず儲かるかといえばこれまた仕掛の仰山なだけ費用がかかって、さほどうまく儲かるものではない。建築物その他が財産であるから、自分の家屋でしかも資本も裕かなれば、大仕掛の下宿屋は小規模の下宿屋に比して利益が多い。一二の空間があっても幾十の間に数十人の客を満たしておけば、僅か三四間の備えしかない小下宿屋よりもその影響を蒙ることが少ない。その他火、油、手間等大仕掛な割合にはかからない。またこの如き設備の調った下宿屋には既して好い客筋すなわち多額の金銭を使用する贅沢屋が泊るから、よほどその辺は利益が多いのである。しかしこれとともに費用も多くかかり、また借家ならば莫大な家賃地代を払わねばならぬことを忘れてはならぬ。もっとも場所もその建築にもよるが本郷台で三階造りの建築にて客数十人を入るに足る家ならば、百円以上の家賃を要し、二階建ての三四十人くらいおける家ならば五六十円払わねばならない。それに多くの女中と番頭も必要である。また家の広大なだけに修繕費用も器物の破損、畳の表がえ等なかなか費用は沢山かかるから、都合好く営業が出来たところで、幾何の財産を残すということはほとんど至難のことである。ただ前に述べた小規模の下宿屋に比して利益が多いというに止まるのである。かく悲観的暗黒面ばかり見た時は、下宿屋は一軒も成立つものではないかとその疑問も起るかも知れないが、実際維持の出来る下宿屋はその一割に当らない。現に我々が取引している下宿屋数十軒を持っているが、我が開業以来五ヶ年ばかり、変らずに同じ人が営業をつづけている店は僅か四軒しかない。その他同じ名で営業はしても、主人が幾度か変っているのである。一年半年はなはだしいのは一二ヶ月くらいで他へ譲り渡してしまうのである。これらの人々は大概田舎から田畑を売って幾何かの金を持ち来り、ことごとくかかる不馴れの仕事のために消費し尽くして、どこへか影をかくしてしまう。実にこの下宿屋営業の急激なる変化は悲惨なものである。
 しかしながら、もし田舎出の素人がこの業を成さんと思うならば、これは妻君の内職として、家賃を働き出すくらいの望みをもってしなければならぬ。主人は給金取りか何か別に確実なる生活の道を立て、そして女中もおかず、妻君自ら客の膳の上げ下ろしをするつもりで、数人の下宿人をおくほどの家を借り、またやり方が巧みならば、それは必ず成功するであろう。如何なる[#「如何なる」は底本では「加何なる」]事業も、腕次第のもので、失敗するも成功するもその人の技術の如何にあるのであるが、まず誰にも出来そうな仕業は従って利益もまず薄いものであることを思わねばならない。

 これまた素人の仕事としてよく歓迎せらるる商売である。資本も二三百円くらいから、どうやら店を開かれる。また小綺麗な商売であるから、書生上りの人などがよく取りつく商売である。場所は誰も知る如く学校の側と定まっている。不便な場所の店ならば、文房具ばかりでなく、学生の必要品いっさいを売るのがよろしい。これ自分の利益ばかりでなく、学生に対しても非常に便宜となるからである。すなわち行李、靴、教科書、その他書籍、雑誌類、絵葉書、パン類いっさいを売るのである。
 しかしこれまたきわめて薄利のもので、筆一本から三四厘の儲けがあるばかりで、半紙の如きは上から順々に丁寧に取って売らなければ汚れや皺をこしらえて、売物にならなくなる。雇人の小僧や下女に任せておくことの出来ないのもそのためである。やはり妻君の内職として、自らその店の整理に骨を折らなければ、とうてい人任せにして成り立つものではない。

 これは商人や職工を相手の商売でないから、ぜひ学生官吏等の淵叢地に店を開かねばならぬ。すなわち神田区本郷区などの最も多くの学生の集る場所で、その内でも大学、高等学校の付近が最上の場所としてあるけれども、店に来る得意ばかりで経済の立つ店は甚だ稀れであって、多くは主人自ら朝夕配達をなし、妻君は内に在って店番するのが常である。店では普通の牛乳ばかりでなく、コーヒー、ココア、洋菓子、食パンも添えて客に出すのであるが、いったいミルクホールというのは至極手間のかからない、簡便な弁当代りのものを認めるところであるから、昼食と夕食時刻の前後には、あいている椅子のないほど客が充満して、数人の人手を要してなかなか忙しいが、その時刻以外には、店番の必要はないくらい、客足が遠くなって手持無沙汰のことがある。この忙しい時の助力がことごとく雇人でもあれば非常に不経済になる。前後の閑な[#「閑な」は底本では「閉な」]時にもこれらの雇人の手を遊ばしておき、そして給金を払わなければならないのであるから、その時間を利用して、牛乳の配達を兼ねざれば経済が立たぬ。一合のミルク普通四銭を定価とし、平均店と配達とにて一日二斗内外の牛乳を売れば家族の数人の生活費は得られるであろう。但しこの商売ほど同業者多くして、競争の激烈なものは他に比較を見ないところであって、彼らは一度得た得意を逃さないためには、巣鴨の如き僻陬の地から、浅草深川の如きとび離れた場所へも喜んで配達するのである。そのくらい勉強をしなければ得意は取られてしまうからである。ある牛乳屋は自分で牧場を持ちながら自ら搾乳と配達をしているが、毎日東京市中を十里ずつかけ歩くという実話をした。創業の際などはこれほど勉強しなければ競争場裡に立って行けないのである。牛乳配達の回数はおおむね午前午後と二回であって、午前は朝三時頃から始め、午後の配達は二時頃から配らなければならぬ。得意は滋養物として規則正しく飲用する人が多いから、ぜひ食事前に間に合うよう配達せねば、直ぐ他の勉強家に得意を奪われてしまう。
 次に牛乳屋は甚だ手数のかかるものであることも、予め覚悟しなければならぬ。牛乳は甚だ腐敗の早いもので、少しも油断は出来ぬゆえに、牛乳が牧場から運搬されるたびごとに、親切に入念に消毒法を行わねばならない。ことに夏期は一度消毒した牛乳を絶えず冷水につけておくこと、用器や空瓶も丁寧に消毒することなどなかなか苦心を要するものである。洗いようが粗末であれば、牛乳がいくら新鮮でも腐敗するのが早くなる。一度腐敗した牛乳を知らずに配達したら最後、たちまち信用を欠いて即日お断りを受ける。しかし普通のミルクホールを開店するには、椅子[#「椅子」は底本では「綺子」]テーブルから菓子皿コップ、室内の装飾等のために、三百円内外かければ一通りは揃うのである。他の商売と異り、仕入のコツというようなものがあるのではないから、地方出身者の仕事としては、まず着手しやすいであろう。

 田舎人は大概自分の郷里から多少の薪炭が産出せられ、またその代価が東京の小売相場に比較して廉価な所から、これを東京に運搬して販売したならばはなはだ利益が多いだろうと考え、着手した人も随分多い。しかし現在東京人の間に使用される薪炭の種類及び産出地はすこぶる複雑なもので、我々素人のとうてい想像も及ばない事もあるのである。すなわち薪はおもに常陸、野州から来るもので、普通各区において使用されるものである。炭は会津より来るものが多く、伊豆紀州から来るものは品質が最上で、かつ水利のある所から、日本橋、京橋、新橋等の地に専ら使用されるものと、昔からほとんど定まっているので、これらの品を使い馴れた人々は、決して他から来る下等品を用いない。また野州炭や常陸産を用いている人は伊豆や紀州辺の上等品は決して使わない。こうして東京の得意は少しくらい値の安いのに動かされるものではないから、田舎のポッと出の人がむやみに郷里の薪炭を売りつけんとしても、つまり買手はないのである。但しこの薪炭業も、仕事が比較的簡単で店飾りというものもないのであるから、素人としては着手し易い商売である。その代り利益もきわめて薄い。その売上げ利益は平均一割にも当らぬものである。ただ相場の騰貴する前、敏捷に立ち廻って、いわゆる見込買をしておく時は、一割五分ないし二割を儲けることもあるが、これは資本の裕かな人で融通のきく人でなければならない。普通問屋から日々注文のものだけを仕入れて来て小売する人は、一把の薪一俵の炭をも労を惜しまないで、遠く隔っている得意へまで配達することによって、初めて幾分の利益を得られるのである。それも創業時代には決して雇人などをおかず、遠回りは主人自ら配達し、近所は主婦も受持って届けるくらいの決心と実行がなければ、とうてい成り立つものではない。自分の知っているある勤勉な薪屋さんは、年中五時から仕事にかかって、夜は十一時まで夜業をし、そして主人初め、家族、雇人総勢京橋のある河岸端から新宿、下谷、本郷のかけ離れた場所まで配達し、精限り根限り働いて、それでただ生活して行くだけであると云う。競争の激甚な東京で、無事に生活するというその事が、実に容易のことではない。必死になって人一倍働かねば、実際生きて行かれないのである。

 これも素人好きのする商売であって、ことに女の内職としてはこの上もない適当な仕事である。ある悪口屋は痛罵して曰く、パン屋の内儀さんは大概妾であると。たしかに一部を穿った真理である。実に女子供にも容易に出来るのと、資本も三四百円もあれば開店できるので、同業者夥しく、同町内にも数軒より十軒くらいの多きに及ぶ所も、店にはガラス瓶や缶詰等の商品を見事に飾り立て、白熱ガス燈でも点ずる時は、ピカピカテカテカ輝り返して外観すこぶる美わしいけれども、物には裏表のあることを記憶せねばならぬ。妾的婦人が小綺麗に扮装して美しく磨き立てた店に鎮座ましませど、儲かり過ぎて綺麗にしているのでは決してない。たとえ僥倖にして成功したところが、自分一人の食料か家賃の幾分を補うくらいが関の山であって、店の売上げをもって家族を養うことはとうてい出来ない。多くは半年一年の内に食い込みとなって、店を人手に譲り渡すのである。自分は開店以来僅か数年を経過しただけであるが、この間に取引せし小パン屋約三十軒余であったが、今なお現存している店は、塩煎餅を製造してパンを副業とする店と、食パンを製造して菓子パンをかたわら売るという店と、ただこの二軒が残って続いて営業しているのみ、その他は屋号こそ旧のままなれど、店主は何代か変っているのである。まことに心細いことではないか。
 いったいパン屋なるものはきわめて金高の少ない薄利な商売であって、卸しの割合は二割から二割五分増しを通例とするが、これがすなわち純正の利益とはならぬ。この内から袋代を払い、ガラスの器物の破損をも償い、また菓子パンのローズとして売物にならないものが出来てきて、かれこれ損害の分を差引き、平均一割の儲けとなればごく上出来である。こうして普通受売屋の一日の売上げ二円より三円五六十銭を普通とし、四五円を得る店は甚だ稀れである。かりに五円の売上げと見積って一ヶ月の利益僅か十五円に過ぎぬ。以上は受売パン屋の内情を少しく述べたものであるが、これより製造の内幕を開いてみよう。但し食パンの製造は素人にはちょっと手の出せる事業ではないから省略することにした。
 いったい何でも製造ということは、素人目には非常な利益が多いように見えるものであるがその実全くこれとは反対である。何故なれば、第一製造に要するすべての設備に莫大の資本と人手とをかけねばならない。次いで廃物の沢山出来ることは非常なものである。加うるに主人の監督が少しく弛む時は、職人共に(脳が緻密でなく、また不親切な人間が多いのであるから)経済の立たぬような品物を製造したり、あるいは出来損いを出し、あるいは性の悪い者に出遇えば原料をかすめられる恐れもあるというように、目の見えぬ損害額が多いからである。それで製造家でも、自家製造の品からは儲けが出ないで、他の製造元から取り寄せて売るところの品で、幾分の利益を得ることになっている。しかしまたこの製造家たるの実あってこそ、店の信用も高まり、他の仕入の品まで多く売れて行くものである。
 またこの製造家には二様ある。一つは卸向きのもの、他は小売向きの品も製造するにあり、卸売向きのは原料低廉ならでは引き合わぬため、洋粉、砂糖等の主なる原料は粗悪なものを用いるを常となるのである。この種の製造家は店の小売というものはほとんどあてにしないで、卸専門に受売屋をせり歩くのである。次は小売向きの製造家は、我店専門が主眼であるから、最も原料を精選し、ことに入念に品を製するのである。砂糖でもその他の原料でも、卸屋よりも二等三等以上の品を用い、実質の最善最良なるものを製造する方針を採っているゆえに、小売を目的とする製造家はとうてい卸売りすることは出来ないのである。こうして社会の趨勢は日増しに贅沢に傾き、美味きが上にもうまきを希望するようになったから、数年前売行のよかった品で、今は全く売れなくなりただ僅かに名ばかりを存しているものがある。またその需用がほとんど皆無であった上等品で、今日製造の間に合わないほど売行きのよくなったものがある。あるいは親睦会、運動会、その他凶事吉事に用いられる菓子も初めは嵩があるものという御注文であったのが、今日は数がすくなくても味の佳きものをと望まれるに至ったゆえに、幾度も繰返していうが、東京で商売を試みんとする人は、如何なる種の商売でも価は高くとも、品質最良なるものを製して売るという方針でなければ成功は覚束ないのである。

 前項においては、各種の商業のきわめて薄利なことばかりを述べたが、天下の事業がことごとく利益の少ないものではない。中には四割五割の利益のある事業もまた必ずしもないではない。しからば如何なる種類の商売が最も利益の多いものであるか。すなわち、
第一、莫大な資本を要する事業であって、普通人のこれに対抗することの出来ない商売。
第二、専売特許的のもので他に同業者のないもの。
第三、遠隔せる交通不便の土地から輸入するもの。
第四、特に多年の練習と熟達とを要するもの。
第五、危険の伴うもの、すなわち、株式、相場、投機のもの。
 等、すべて多大の資力と非凡奇抜な大力量とを要する事業は、その利益も従って多大のものであるゆえにもしある事業を企画する人は、予め自分の力量と資本とを量り、これに準じて薄利でも比較的安全なものを選ぶか、あるいは非常な危険を冒し、困難に遇っても利多く男らしき事業をとるかを決すべきである。

 すべて名物とは、都といわず鄙といわず、ある時代にある奇抜な人が意匠をこらし、新考案を加えて、その時代の人の嗜好によく適合したものを製造して売出したものなれば、その当時にあっては確かにうまい物に違いはなかったのである。しかしそれが四方の人に知れて一の名物として賞讃されるには、三年五年ないし十年二十年の歳月を要する。しかるに人々の嗜好は年一年変化して止まないのみならず、贅沢に傾きていっそううまきものを要求するがゆえに、すでに名物として世に謳われる頃には時勢に後ること、これは免れ難き事実である。人間にあっても、名士か元老とか大将とかいわれて、万人に尊敬される頃には、多くは時勢後れの飾り物となって、実際の仕事は無名の少壮者が担任しているのが一般である。一駄菓子や掛物をもって足れりとした時代は、すでに遠き過去となり、次に餅菓子時代が来たが、これもようよう洋菓子に圧倒されかかって来た現状である。かくの如く、人間の飲食物に対する嗜好は年々歳々高尚に趣くから、昔からの名物というその名に恋々として改良を加えなければ、終に名物にうまい物なしとの一言の下に冷笑されてしまう。
 それでもし昔からの名物なるものを継続させんとするならば、社会の進歩発達に伴って品質を精選すべきはもちろん、なおこれに斬新なる趣向を加え、もってその時代の嗜好に適するように工夫せねばならぬ。
 また店の飾り方や家の構造は料理屋などであるならば、客室の間取りなどにも注意をしなければならない。雁鍋、松田、平清、岡野その他の何所の「だんご」という如く、昔東京の名物であって今はあとかたもなく消えてしまった所が枚挙にいとまがない程である。青柳有義氏は、本郷の江知勝は旧の大広間を廃して、二三人づれの客のために小室を多く設けたるを以てすなわち今風のハイカラ連に持てはやされ衰微の厄を免れて繁昌をつづけたものだといわれたが、これは実に商人として最もよき参考とすべき価値ある例である。

 市街の繁栄は、いつも地代家賃の騰貴を[#「騰貴を」は底本では「謄貴を」]伴うもので、いわゆる土一升金一升の相場を示すに至るのであるが、ことに近来の如く、二間間口くらいの小商店でさえ、光り眩ゆきガス電燈を点し、あるいは電話を架設し、自転車を用い、中央部の大商店となれば、番頭でさえ従来の前掛を廃して、ホワイトシャツにハイカラ、という洋装に改め、床屋の職人、西洋料理店のコック、ボーイなども、コスメチックや香水の臭いをプンプンさせている。田舎者などには立派な御役人様と見えるくらいである。また店の雑作なども、最新式に建て直し、装飾も入念にしつらえる等、すべての設備に贅を尽し美を華めるという有様でなければ、すなわち東京の真ん中に割込んで立派な商店として仲間入りは出来ない。かくの如く、店が繁昌すればするほど、地代家賃を引上げられ、また種々の設備に多くの資本を入れなければならぬゆえ、勢い都会における小売相場を上げざれば、とうてい維持することが出来ないのである。ゆえに東京市中でも最も繁昌を極めている銀座は、最も小売の高き場所として世人に知られる通りである。彼のニューヨーク、桑港の如きは、普通の小売相場はことに高く、ほとんど原価の倍である由なるが、彼の地としては当然の事と思われる。
 また東京市ほど小売相場の不同な所は他に類がない。同区内否同町内においてすら、甲店と乙店とは同じ品物の価に非常な差違のあることを発見する。それで高価の店も安価の店も同時多少の得意を有して、相当の収入を得つつあるは、我ら素人にはちょっと了解に苦しむところであるが、これすなわち東京は全国から各種各階級の人々の輻湊するところであって、ある区のある町はほとんど全市民が相往来するから、得意の種類は、いわゆる一遍のもの多数を占め、その範囲又極めて広きと、今一つは東京人は地方人よりも非常に多忙で気ぜわしいので、少しくらい安価の店があっても、ただ単に価が安いだけでわざわざまわり道して貴重な時間を費すことはしないからである。かつ東京人は精良品を好むがゆえに、安価品は不良品ならんと疑い、かえって高価の店に行く傾きがある。たとえば当店にては鷲印のコンデンスミルクを二十八銭で売っている。しかるに有名なるある薬店では三十四銭で売っているが、やはり相応に売れている。この辺の事情は実に地方と趣きを異にする所である。

 まだ汽車電車の開通しなかった昔は、いわゆる二里に一宿とて、その要所要所に宿場を設け、その周囲近郊の人々の用務の大部分はすなわちこの小中心において便ぜられたものであるが、汽車の開通とともに、二十里以内の宿場々々は都会にのみ了せられた如く、東京市中まま宿場に等しき小中心を、一区内に少なくも一カ所以上は現存しつつある。すなわち牛込区神楽坂、糀町の糀町通り、神田の小川町、浅草の雷門、蔵前、本郷の四丁目における如く、小中心点があって、その付近は各種の商店櫛比して、あらゆる設備をなし、互いに繁栄を競いつつある。しかるに電車という交通機関開けてより、四通八達、わずか数銭を投ずれば都の片隅から片隅まで、短時間のうちに往復が出来て、遺憾なく用務を便ずることが出来る。それ最寄り最寄りの小中心に徒歩にて買物に往くよりは、電車の便を利用しても、品物が潤沢で、また最も斬新な流行物の集れる大中心へ行き、思い思いの嗜好に適合した買物をすることが出来る。ゆえに時々刻々、年一年大中心と目指さるる日本橋、京橋付近は、小中心に属する全市中の得意を吸収して、いやが上にも繁栄を来たすべき勢をなしている。すでに場末の呉服屋が三越、白木屋、松屋等に得意を割かれしは著しきものである。かくして強はますます弱を凌ぎ、大は小を併呑し、結局資本と資本の競争となるだろうと思われる。ゆえに資本の少なき者が、この間に立つにはよほど工夫を要する。

 およそ実業に関係する諸学校出身者の多くは、自分である事業の経営者たらんとする者なく、卒業早々何ほどかの給金にありつこうともがくものの如し。これ他なし、なまじ卒業という肩書を得たばかりに、これに依頼してしまい、から意気地なくなるからである。彼らの資格なるものは実に彼らをして実世界に活動せしめず、かえって枯死せしむるものである。これがために彼らの出世の道はふさがれたるなり、試みに左の統計を見よ。
高等実業学校卒業者の職業別
官吏[#「官吏」は底本では「官史」]             七
学校職員         三一七
官庁技術員      一、〇八三
民間技術員      一、七一三
銀行会社員         一七
外国政府及会社       一八
海外留学         一六五
大学院          一二八
自家営業          二八
兵役           一二八
死亡           二一七
未詳           四二一
合計         四、一八三
 すなわち自ら独立事業の経営に当る者、総出身者の百分の一にも当らないではないか。しかれども、もし彼らにして初めからこの資格などに重きをおかず、他の小僧や番頭連とともに店の掃除より使い歩き、または車をひいて配達するという下働きにも心から甘んじて従事する決心を持ち、根底から修養を仕直しするの覚悟があるならば、その人は必ず他日成功するに相違ないのである。この覚悟に実行が伴ってこそ、初めて、多年修めたところの学問に光りと価値を添えて来たり、また学問の有難味も充分に現われるというものである。そして蓄積せられた知識は経験を重ねるに従って、種々の方面に活用せられ、いわゆる一を聴いて十を知る的人物たることが出来るのである。その発達や進歩は実に迅速を極め、たちまちにして同輩を凌ぎ、群鶏の一鶴となるのは敢えて至難のことではない。しかるに惜しむらくはとかく思いを此所に至すもの甚だ少なく、卒業とともに直ぐ老成ぶったり、小成に安んじたり、慢心を増長せしめたりして、終にただ生涯給金取りとして人に雇使せらるるに至るのである。
 いまこの章を草するに当って、左の話を想起する。アメリカのある大学卒業生、何々学士という名刺を持ち、雇われ口を探すべく諸所を彷徨ったが、誰一人彼を相手にするものがない。彼は一時途方に暮れたが、ついに苦しまぎれに労働者の着物に着かえて、有名な製革会社に一個の労働者として雇われんことを嘆願した。もとより会社は労働者なら歓迎するところであるから、直ちにこれに承諾を与えた。そこで彼は労働者の仲間に入って忠実に働いていたが、ある時係長の一人が、会社内に山の如く堆積してあった皮革の積を調査すべく来た。しかるにこの新米の学生上りの労働者も進みより、方程式により計算せしを、その係長が見とがめて、汝もこの方程式を知って居ったか、それほど学問のあるものが、何故かかる労働に従事しているのであるかと怪しみ尋ねた。彼の労働者はすなわちありのままの事実をもってこれに答えた。ところがその係長は驚き且つ感心して、終に社長に謀りて、彼を労働者中より抜擢して而して破格の位置を与えて彼の敏腕を思う存分振わしめた。而してこの大会社の現社長某氏の前身がこの学生労働者であったという。

 前項に反して小僧上りの者は、鼻垂時代から厳格な主人の監督の下に、ちょっとの油断なく仕込まれ、父母の膝下では到底味い得られない辛酸を嘗め尽した者である。又いかなる場合にも主人に向って反抗的態度に出ることを許されず、客の難題に対してもつとめて御機嫌を損ぜぬよう、さりとて損はせぬようにうまく切り抜けることを学んでいる。ことにあの呉服屋、小間物屋など小面倒な女子供を相手の番頭や小僧の妙手腕に至っては、実に感嘆措く能わざるものがある。専門の外交官も三舎を避けねばならぬ。かくの如く内憂外患の難局に処して種々の修養を積み、又幼少の時代よりその事業に就き、しかも様々の経験と訓練を経ているので、たとえ中途で事業に蹉跌することがあっても、日頃の鍛錬はたちまち勇気を喚起して[#「喚起して」は底本では「換起して」]、元の位置に復することあたかも不倒翁の如くである。七転び八起きということは、実に彼等小僧上りの商人の常態である。無論小僧上り必ずしも成功するものと限っているのではないが、少なくとも苦労を知らぬ学校出や、気まぐれに面白半分に実業熱にうかされる素人とのとうてい我慢の出来ないところを平気で切り抜け、また客に対してきわめて腰の低いのは、確かに成功に欠くべからざる要素を持っているといわねばならぬ。
 日本橋のある町に、仏蘭西の香水香油等化粧品いっさいを売って、大繁昌をきわめている一商人がある。初めこの店の主人は、少しく思う所があって、学校出身者中よりいわゆる秀才の聞こえのある者ばかり数名を選び、これに月給二十五円ないし四十円を与えて番頭となし、行商をなさしめたところが、幾月たっても成績があがらないので、主人はやむを得ずこの学校出身者採用を全廃して、全く小僧仕立の番頭をもってこれに代用せしめたところ、着々功を奏して、前にはほとんど売上げがなかったものが、今一日平均数百円の多きに達し、しかも彼らの給料は僅か五円ないし十五円であると。学校出身者よろしく三省すべきである。

 今や全国の新聞雑誌にいわゆる世の成功者なるものの経歴談や逸話を掲載しないものなく、またこれが大いに今日の時勢に投じたものと見え、すこぶる世人の拍手喝采を受けているようである。久しく腐れ文学に頭脳を萎えさせていた日本人は、日に月に追窮し来る生活のために酔夢愕然として醒め来り、ようやく真面目に立ち帰らねばならぬ今日となり、一も実業、二も実業と、実業熱の大流行を来たし、ほとんどその極度に達した。しかるに新聞雑誌に大いに紹介さるところの人々は、みな一代の富豪で、いわゆる俄大尽のみであるから、さなきだに空想に駆られ易い青年などは、一足飛びに大金持になれるものと心得、実着細心を要する業務に従事することを軽んずる傾きを生ぜしめる。骨が折れずに体裁もよくてそれで金の儲かる仕事を望むようになる。けれども世人が羨望措く能わざるところの富豪は、もとより非凡の人たるはもちろんなれども、おおむね戦争を利用し、あるいは投機的事業を企図し、あるいは高位高官に取り入りて、莫大の利を得たるものが多く、その敏腕を称せらるる内には、必ずある一種の不正を加味せられざるものほとんどなしと聞けり、世にかかる浮雲に等しき富を望む者の多きは歎かわしき限りである。
 ここに当店へ出入りの油屋、彼はもと越後の小百姓であったが、地主へ奉公するも一生開運の見込みなきところから、夫婦相携えて他に糊口の道を探すべく東京に出て来た。着するや直ちにある裏店に居を占め、さて如何なる仕事に就いたものであろうかと思い迷ううち、国もとから持って来た金のうち二十円を食い尽して、残るところ僅かに二十円、これが彼の唯一の資本金であった。彼はせん方なく当座の仕事として石油の行商を始めた。すなわち戸ごとに「油屋でござい」と呼び歩くのであるが、初めの数日間は終日かけ廻って僅か数軒の得意を得たばかり、かくてはとうてい夫婦の口を糊するに足らないので、彼は夜は辻俥つじぐるまを挽き、これで得た金を食料に当て、先に資本として残した二十円には決して手を着けぬことに決心した。また彼の叔母に当る人で、金持の呉服屋があった。けれども彼は立派に店でも持たないうちは出入りをしないことに心をきめて、いささかも依頼することなく、朝は未明に起きて油を売り、夜はわらじのままで板の間に腰かけて夕食をしたため、惰気やねむけの催さぬうちに、また暗の中にかけ出して俥を挽き、粒々辛苦実にいうに忍びざる苦境を経て、半年の後には得意は二百軒に増加した。これでいささかの希望の曙光を認め得たので俥挽きを廃業して油売り専門となり、満一ヶ年目には三百戸となり、数年目の今日五百軒に達したので、今は小僧を雇いて共に得意廻わりをなし、妻は店を担当して、夫婦共稼ぎに精々働いた結果、資本裕かになり、生活も楽になったとのことである。そして彼は得意先一軒ものこさず毎日御用伺いに行くのであった。自分はこれを見て御用伺いを隔日にすればよほど手数が省けて好都合であろうと思ったことであったが、彼の得意筋は石油五合一升と買いおきの出来る余裕のある家ではなく、その日暮しの日雇稼ぎ人か工場通いの労働者などを相手の商売であったのだから、ぜひ毎日毎日時間を決めて廻わり、夜の間に合わすのでなければ不便を与える。そうして便宜をはかるのでなければ得意を失う。それゆえ毎日かけ廻って御用をきくということであった。はじめ彼が資本として残しておいた二十円の金には死すとも手はつけまいと決心してこれを実行した。その覚悟と精励刻苦、ついには彼は志を貫いたのである。自分はこの油屋に敬服し、その経験談はいつも我が弱き心を刺激し発奮せしめるのである。かくの如く我が好模範は大厦たいか[#ルビの「たいか」は底本では「たろか」]高楼に枕を高くしている大事業家ではなく、心なき人の足下に蹂躙せらるる野末の花に等しい名もなき小売人の中にこそ我が学ぶべき師はあるものと信ずる。

 我邦屈指の大商店の番頭は、その店へ通勤するのに人力車をもって送迎されたと聞いているが、この人独立で同業を開店し、大いに日頃の敏腕を自分の商店において縦横に振わんとしたが、開業後間もなく閉店することになった。有名な大商店の番頭ともいわれる大技量ある人が、何故一小店の店主として成功しなかったかと、自分も一度は不思議に思ったのであるが、忽下の如き解釈がついた(もっとも失敗には種々の原因はあるが)。大商店として巨万の資本を面白く運転し、また商略上何らの故障なく、意の如く翼を伸ばし、あるいは豪奢をきわめる外国の来賓や本邦の紳士淑女を客としてこれに接するにより、不知不識の間に心気自ら大きくなり、一商店の主人としては万事あまり仰山過ぎて、小規模の店には適当しない。何事につけ仕掛が大袈裟で簡易に行わないで、御大家風であるから、この人にしてこの失敗あらんとはの嘆あらしめたのではあるまいか、これ大いに攻究すべき問題である。
 また製造業を兼ねた大商店になると、すべてのこと分業的組織となっている。例えば菓子屋についてこれを見るに、大店の菓子屋は※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)粉練りは、年中※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)粉ばかり練って、他の仕事に注意を払う暇がない。蒸菓子は蒸菓子の専門の職人これを製造し、洋菓子の職人は日本菓子には何の関係なく、煎餅焼また他を省ることなく、店番配達皆ことごとく分業的仕事に従事するから、もし被雇者にしてただ日給を得るだけの希望を持つか、あるいは他日自分で開店する時、初めからかく大袈裟に営業せらるる非凡の技量と資本とを有する人は論外として、普通の人間では僅々数年の間にすべてのことを洩らさず修業を積むということ、実に至難のわざである。これに反して二流三流の小店に入る時は、主人と共に販売のために経営苦心をなし、ある時は店番と配達を兼ね、ある時は工場へ入りて製造方の手伝いをなし、あるいは使いにもかけ出して行くという如く、万遍なく己が手足と知識とを働かすゆえに、自然経済的思想が緻密になり、いつしか商売の道のようなものを会得して、これがまた他の商売にも利用が出来て、非常によき修業となるものである。ゆえに商業を見習わんとする世の子弟またはこれが父兄たる者よろしくこの辺に注意して、将来の方針を誤らしめざるようにすべきである。

 総じて書生上がりの細脛を使いこなすことは、実に容易なことではない。彼らはただ文字の上から労働神聖を謳歌するに過ぎずして、とうてい実行の人たることは出来ない。せっかく空想を捨て、着実な職業を学ばんとした決心は殊勝であるが、彼らの心底には(恐らく自分にも心づかざるべし)なお職業というものを一種の軽侮心をもって視るゆえに、労働に従事しつつ馬鹿馬鹿しいとの念が失せることなく、その職に趣味を感ずるに至らずして中途で廃するものが多い。
 また彼らは女学生上がりが奥様風を好んで町人風を装うのを厭がる如く書生上がりの職人も昔の書生風を脱却するに逡巡躊躇するものの如く見える。同じ朋輩の職人や小僧と共に外出するにも、自分だけは羽織袴にステッキという扮装で、一見子弟を率いる先生の如くである。これ甚だ些細のことであるが、必竟書生風を脱し得ない輩は、その覚悟もまだまだ本気でなく、乳臭さが取れていないことを証明するのと見て差支えはない。また体力においても、小僧から鍛錬されたものよりははるかに弱くして、忍耐力少なく、僅かの労働にもたちまち疲労を来し、また自ら苦痛を感ずること甚だしいので、主人側でもこの書生上がりの職人を雇うことは非常に不得策で、使いにくいこと予想の外である。

 前項において、書生上がりの者の職人として成功甚だ覚束なきことを説いたが、苦学生に至ってはなお然りとす。いったい苦学生の目的は学問を主眼にしてかたわら僅かの労働をなし、それによって学資と衣食の料に当てんとするのである。生活難が今日の如く甚しくなかった十数年前には、学僕と称して、庭掃きや使い歩きくらいで生活したほか、勉学の費用まで与えられ、それで成功したものもまれにはあったが、今日の世の中はその時代よりも幾層倍せちがらくなって、堂々たる学士や紳士たちさえ、ただ糊口のために汲々たる有様となった。自分と家族が生活していくだけでも、なかなか容易のことではないのである。
 しかるに苦学生諸君はこの辺の消息は少しも御存じなく、東京は広い所で仕事の沢山ある所だから半日仕事して半日勉学の出来る方法は容易に見出し得るものと思って、田舎から押しかけて来る。それで己れの希望を容れて世話してくれる人をば、やれ無頼漢の、しみったれの、と途方もない悪口雑言を叩く不了見者もある。我々は貧民と同様に味噌汁と香の物を食いつつ生活しているものであるのに、ある苦学生諸君は我等の朝食料の幾分を節約して、学資を与えよ、然らざれば汝等は同情の念の欠乏せるものとし、共に道徳を談するに足らぬものとして諦めよう、などと、脅迫めいた手紙を送られることも珍しくないのである。
 そこで自分らも一度は境涯を経て来たものであって、また少年時代の学問に志を立てながら、学資の不足なために学問が出来ないと云うことは、その本人に取っては如何程の苦痛であるかは、恐らく今の苦学生諸君よりもなおより多くその苦しみを知っている。ゆえに創業の初めはかなり有望な苦学生を採用する方針を取り、経済の許す限り彼らの便宜を計ったつもりであったが、これは全く失敗であった。これあながち彼らの罪にのみ帰することは出来ない。また我々が彼らを率いるに無能であったのでもない。つまり彼らは学問が目的であるからなるべく労働の時間の少ないことを希望する。これに反して我々の希望は営業の繁栄にあるのだから、配達小僧が今夜学に行くという理由をもって得意の注文を断ることが出来ない。ここにおいてか勢い被雇人と雇主との間が甚だ無責任で、無礼で乱暴であり、万事に不都合不体裁なことがしばしばあることしきりに非難するが、これもつまり雇主と被雇人とが方針を誤まった結果であって、ひとり苦学生のみを責めるのは少しく酷である。
 英国等では高等の学問を修める人々は、いずれも学資の裕かなる富豪や貴族の子弟であって、学資の乏しい貧家の子弟は学問などするものとは思っていないということである。今や我邦の趨勢もまさにこれに等しからんとする傾きがある。世の苦学生たるもの今にして顧慮する所なく、依然学問を万能と心得、職業を軽んじ、遊び半分に朝食前ぐらいの少しの労働で生活したり、学問することの出来る工夫あらんと、空頼みをしているならば、たちまち窮境に陥り、ついには不義理するようになる。悪友が出来る。そして身に一つの職業も学んでいないから、一個の労働者としてまことに価値のないものである。また学問も充分にしていないから、学校出身者と同資格を持って雇口を見出すことも出来ない。つまり虻蜂取らずの無頼漢になり終ってしまわねばならぬ。救世軍のブース大将の話に、印度で学問した青年は従来の職を嫌って始末におえぬとのことである。

 いずれの町内を見渡しても、小僧入用の木礼の掲げられていない町はほとんど[#「ほとんど」は底本では「ほとんで」]稀である。これ都下において、如何に小僧の欠乏しているかを示すところの一つの証拠である。何故かくの如く小僧の払底を来たしたかというに、ちょうど女中払底とその理由は同じである。貧家の子弟は尋常科も中途で廃業せしめられ、僅かの日雇銭を取るために、工場通いかあるいは役所会社の給仕としてやられるのである。彼らの必竟不了見なる両親の食いものとして犠牲に供せられるのである。またある父兄は極貧饑に迫る境遇でありながら、我が子を小僧見習に出すのをこの上なき恥辱と心得ている輩もある。これらが小僧払底の最大原因であろう。愛児を他家へ奉公に出すということは、情において忍び難いところであるけれども、かりに家において職工の下働きとして通わせたり、給仕として通勤させて三四円の金を得たところが、これは本人の食料にならぬではないか。また幸いにして昇進したところが、大発達を逐げられるものではない。しかるに小僧丁稚としてある業を見習わせておけば、その時ただちに月々送金するということは出来ないが、自分だけの食料は主人から与えられ、少しくらいの小遣銭も貰える。また数年あるいは七八年の後にはともかく一つの職業を覚えるから、主人から暇を取ってどこへ行っても一人前の職人として、あるいは番頭として、立派に生活して行くことが出来るのである。しかるに愚昧なる父兄はただ目前の小利のために愛児の前途を全く誤らしめていながら、少しも悟るところがないのである。
 小僧の不足に反して、二十歳より二十四五歳前後のいわゆる中年者の口を求める者の数多いことは実に夥しい。一日新聞紙上に店員募集の広告をしてみるに、早朝から様々の風態したる中年者の来襲を受け、応接するにいとまなき程である。彼らは如何なる種類の人であるかといえば、たいがいは学生上りの、のらくら者の果てか百姓に生れて百姓仕事を嫌いな田舎者もしくは中途で今までの仕事に厭気がさし、骨が折れずに金の沢山取れる職業に乗り換えんとする横着者であって、いずれも怠け性の者で、仕事に真面目でないこというまでもなく、小僧の欠乏よりせん方なく彼らの一人を採用して見るに、初めその店の事情に疎く、品目さえもまだ呑込むこと能わざるうちは、以前から雇われている一三四歳の小僧の配下にいて、すべての指図を受けねばならぬ。給金も未熟な新参の時代には多く与えられるものでないが、本人はなかなか腹の中で承知しない。また比較的小僧より広く世間を渡って来ているから、うまい物の数も多く知り、巻煙草ものめば、酒ものみ女も知っているゆえ、なかなかはした小遣銭では満足できない。そこで悪い方にはいち早く手が出るようになり、主人の物をかすめるか、あるいは得意先に不都合を働くかして、ついに主家を自らとび出し、あるいは追放されるに至るのである。この大切な、そして至難な新参時代の辛抱をなし遂げず、十中八九までは不成功に終るのである。これを雇主の側よりいう時は、中年者は普通の小僧よりも遠慮があって非常に使いにくく、年の割合に無能で用に立たず、それで人の命令に服従することが出来ず、実に厄介物である。ゆえに商家はいずれもこの中年者を排斥して雇入れるもの甚だすくない。それゆえもし将来全く商業に志を立てんとする者は、いわゆる頭の固まらざる十四五歳(貧富にかかわらず)を適齢として、初めから小僧として実習せしむるがよい。遅くも高等小学校卒業後ただちに着手しなければならない。なまじ中学校などの味を知ると、労働を卑しむ心が生じて、少年の進路を妨害する。皮相な学問くらい害毒をなすものはない。

 動物園の動物に月曜病という一或の病いがある。これは日曜日は例日より観客多くして、動物に食物をあまり多く与えすぎるより、胃腸を害して、翌日は病気を引起すのである。小僧や学生にもこの病気は普通である。
 上州のある製糸家の話に、工女に日曜の休暇を与えてからは、他の工場に比して病人は減少し、工女の手にただれの出来るのが甚だ少なくなった。また日曜は宗教上の簡易な談話をきかせ、肉霊ともに静養を与えたところが、下品な話や挙動は改まり、気品は高くなって大いに風紀の改良が出来たが休暇の翌日すなわち月曜日は、動物の月曜病と同じく、一種の遊びぐせがついて仕事に身が入らず甚だ不成績である。また休暇なき工場に養われた工女は、もし怠って役員から発見されれば、減食あるいは打擲の罰を加えられるので、自然気が強くすなわち気が張っており、よほど沢山の仕事を命じてもなかなか閉口しないが、我が工女は気が優しく意気地がなく、忍耐力の減少しつつあることは著しい事実である、と言われている。ゆえに日曜日半日は宗教の談話を聞かせ、半日は自分の洗濯や針仕事に精を出させるように仕向け、これによって幾分その怠り癖を防禦しつつあると。また今日まで日曜休業して居った有名な店で、近来休暇を廃して営業することになったものもある。されば日曜休暇をするの可否は、大いに研究すべきものと思う。
 ある識者は雇人に休暇を与うることを全く認めずして曰く、小人閑居して不善を為すという譬の如く、休みを与えらるるのは彼ら飢えた狼に肉を見せびらかすと同じことである。すべての悪所に突進して、日頃の鬱を散ずることであろう。その結果彼らに悪習慣を作らしめるのみである。ゆえに欧米各国の如く、普く文明の行き渡らない我邦においては断じて雇人に日曜の休暇を与えないがよいという説である。
 自分は開業以来この問題のため幾回苦慮したであろう。幾人の意見をきき、そうして自分はますます迷った。けれどもついに店員に向って半日休暇を与えることに決った。この結果はやはり誰もいう如く、月曜日はたしかに不成績であった。日曜の休暇は、営業上収入の[#「収入の」は底本では「収人の」]減少を来たすが、それは意とするに足りない。ただこれがために惰気を生ずるのを恐れるのである。朝も例日よりはおそく起き、配達にも手間が取れる。下女もふらふらとヘマばかり働く、菓子の製造が遅れる。店が乱雑を極めるというように、万事不都合たらたらである。しかしこの休暇を楽しませつつ労働せしむれば、休みなき七日よりは六日間の仕事は好結果を示している。たとえ休みを与えることによって、多少の不都合を生ずるとしても、あれも人の子樽拾い[#「樽拾い」は底本では「樽捨い」]、小僧も女中もやはり人の大切な子である。一週に一日あるいは半日の休みを与えて心身を休養せしむるは至当の事といわねばならぬ。我が店員等が明日の楽しさを想像して喜色満面という土曜日の夜は如何に我が店の賑やかなることよ。床屋に走るあり、襦袢の襟をかけ直すあり、あたかもお祭りの前日の如くである。我等はこの有様を見て、昔の我が寄宿時代を思い出し、微笑を禁ずることが出来ない。

 従来小僧を雇うには、その職業を本人の年齢によりて、多少の相違はあるが、たいがいは数年もしくは七八年の年期を約束して雇うのである。この間に主人は弟子として万事の世話をすべきはもちろん、一人前の職人あるいは商人を仕立上げねばならぬ責任のあるもので、小僧はまたたとえ如何なる事情があるも、年期内に暇を取り、あるいは中途で奉公がえする等のことは断じてなすまじきことを誓いしほかに、保証人を立て、初めて主人と小僧の関係を結ぶものである。この方法はいたずらに出入りして我がまま勝手を行わしめぬ予防に過ぎないが、時に本人に甚だ不適当にして、将来見込のない仕事を無理無体に強いる場合がある。これは普通の我がままと違って、主人と本人の父兄も大いに酌量して、他に善後策を講じてやらなければならぬ筈だけれど、多くは急に解雇すると自分の不都合を来すゆえ、無理無体本人の気の進まぬところに止めておき、こき使うのであるが、結局小僧は主人に無断で逃げ出すか、気がひねくれて仕事を本気にしないようになる。ある主人は逃げ出した小僧の後を追って歩いて、新主人のもとまで小僧を取戻し談判に来たことがある。が、本人は決して伴れ帰られることを好まないとて固く拒絶した。すると旧主人は新主人に向って、この上は仕方がないから貴方が本人を雇ったという証書を書いてくれと請求した。新主人は烈火の如く怒って答えるには、貴方は人間の子と物品と間違えて居られるようであるが、物品ならば拙者は預り書も差上げようが、奴隷売買は廃され人間は自由の権を与えられたる今日、かくの如き人権を無視するということは許すまじき乱暴の行為である。それでも本人をつれ戻さねばならぬものならば、首に繩でも結びつけて引張って行かれようと叱ったので、彼の旧主人は渋々帰って行った。そしてその本人たる小僧は、新主人のもとに在って、満足してある仕事に従事しつつあるということを聞いた。かかる場合は世間にずいぶん多いことであるが、反古にも等しい証書を楯にしたり、旧慣を墨守して本人の意思を束縛する時は、あたら有為の若者をして将来を誤らしめる事となる。これ従来の小僧制度を改めざるべからず理由の一つである。
 また今は、如何なる商売も日に日に同業者の多きを加え来り、これが激甚なる競争となって、ますます生活難の度を高めることになった。ここにおいてか、主人たる者は、年期のあけたところの店員のすべてに小資産を与えて、同種同業の店を出さしむることは、とうてい不可能のことである。仮りに十人あるいは二十人の店員を有する大商店があって、他日すべての店員にことごとく資本を与え、あるいは種々の便宜を与えて同業を開店せしめることが出来たとするも、都下にはまた他にも同業者が多数あって、各々全力を尽して奮闘しつつあるその間に割込み、しかも同種同業を営むのであるから、勢い友を食い、主人の領分を侵してまでも自分の活路を開かねばならぬゆえ、その極激甚なる競争となり、安価となりついには共潰れの惨劇を演ずるようになる。さなきだに資本と信用の乏しき新店は、容易に一家をなし得るものにあらず、かつ卑劣なる主人にありては、長年忠勤をはげみたる番頭の始末に窮して、些細の過失を口実となし追出す工夫をする。これ一種の惨酷な殺生である。しかし今日の戦争の世の中、多くはかかる結果に立至るものである。ゆえにこの旧式の年期小僧の制度を改めて、すべて雇人制度となし、初めよりその年齢と手腕に応じて給金を与え、その幾分を主人の手許に預けることにして、他日のために備えしめ、一方には商法に関する一般の知識を涵養せしむるように監督をなし、そうして相当の理由ある時には何時にても自由行動を許すことにしたならば、主人たる義務も尽したこととなり、また主人の負担も軽くなることである。この方法を採用するに特に注意すべきは、店員はたとえ主人と異なった業を営なむこととなっても差支ないように、日頃商売の呼吸というものを充分呑み込ましておくことを決して忘れてはならぬ。
 ある牛肉屋に雇われたる一配達夫は、無意味な配達をしている間に、大いに悟るところあって僅かの貯金を資本にして開業した。しかし主人と同業ではなく、玉子屋であった。またある商店に雇われた若者は、ただ僅か数円の金をもって菓子の行商を始めたが、いまなお盛んに同商売を持続している。この二人はすなわち年期小僧でなく、雇人制度を実行する主人の下で働いたものであるが、主人の得意をすぐって自分の得意とすることが出来た。これも平素誠実に働き充分信用を得ておいたからであって、ほとんど無資本でしかも主人と異なった商売をして、立派に成功したのである。これに反してある粉問屋に七八年の年期を終えて、ようやく一人前の若者となった人があった。主人は若干の慰労金を与えていうに、お前は開店しても決して我と同業を営んではならぬ。よろしく他に商売を求めよ。それで若者はやむを得ず白米屋を開業したが、米を識別する鍛錬がなかったのと資本の薄いために、たちまちにして失敗し、今はどこに潜んでいるか影さえ見たものがないという。

 従来の職人は実に忌むべき癖を持っていた。いわゆる職人根性とて、一種の痼疾となっているものである。すなわち労働時間と休み時間の区別なくて、甚だ自堕落で横着なのである。仕事にとりかかっているのに、煙草吸うては手を休め、またそのうちに仕事にかかり、またしばらくして煙草を吸う。かくの如くにして半日で終らすべき仕事もわざわざ一日を費すのである。つまり職人自らこのくらいの仕事をなせばよいのだときめ込んで、ただ時間を消すことのみ考えているらしい。しかしこれというのも必竟するに、主人たる者が彼らを待遇する法を誤っていたからで、これひとり職人の罪に帰することは出来ない。むしろその責めは主人が負うべき筈である。いったい今までの主人たる者は、朝から夜まで工場で手足を動かしていさえすれば、仕事は進まずとも満足するし、勉強して早く仕事を仕上げて休息すると職人が怠っているものとして甚だ機嫌がわるい。かようにせずして毎日の日課を定め、これを終えざれば徹夜してなりと仕上げよと厳重に申し渡して実行せしめる代りに、もし仕事を早く片づければ、半日で済んでも公々然と休めるというふうに仕向けるべきである。そうすれば職人達も従来の職人根性は出さないで、精々働くものである。当店の職人なども初めはこの職人根性であったため、甚だ不愉快を感じ、また不都合であったけれども、待遇法を改めて以来全くこの弊風は止んだことを喜んでいる。
 また店員を使うに、その人の長所短所をよくわきまえて適当の仕事を与えなければ、彼も我も甚だ不愉快なばかりでなく、不得意である。甲は外交的役割に最も適し、乙はまた店番として商品整理や客扱いに成功し、丙はまた集金に妙を得ているという如く、必ず他人の及ばざる長所を誰しも持っているものである。そこで主人として大いに注意すべきことは、店員の長所短所を心得て事務を執らしめざるべからざることはもちろんであるが、主人の手加減一つで本人を片輪的の、融通のきかない人物としてしまうことが往々ある。これを我が店員について見るに、店の部を受持っているものは製造のことはいっこう趣味を持たず、時々御得意から菓子の製造など問われて答に窮する者もある。また製造部にいる者は店の営業に興味を持たなくなる傾きがある。すなわち客に接するのを面倒がり、あるいは仕入れのことを念頭におかなくなる。ただ終日麺棒を握って粉と砂糖にまみれ、そして月々の給金を貰って満足するようになるが、従来の職人はみなこれと同じ模型のものであって、ただ職をおぼえるだけで商法というものを呑み込んでいないから、いつまで経っても職人でパン屋へと渡り歩き、四十五十の下り坂になってもいまだ家を成さず、妻子を持たず、依然職人として使役される者が沢山ある。ゆえに我々は店員をしてかような弊に陥らしめざるよう種々苦心しているが、その方法の一つとして製造部いわゆる職人見習いの小僧どもを、一週間に幾回ずつか必ず行商に出してやることにきめている。彼らは初めは思い悩んで、この行商を苦にする風があったが、よく職人と商人の区別を説ききかせ、強いて行商に出してやる習慣をつけたが、いまではよほど興味をもって勇んで出て行くようになった。

 近来主人の食物と雇人の食物の区別について相当考えている人もあるようであるが、ここに心づかれたのは至極結構のことである。しかし我々から言えばこの問題を改めて考え、しかも何らかそこに矛盾を感ずるなどは、了解に苦しむところである。
 人はいう。主人は一家の最上の地位にあるもの、また義務責任も重大であるから、従って心遣いも多く、ゆえに三度の食物も他の家人よりは滋養に富むものを採らなければならないと。それで妻君はことさらに夫のために毎夜酒肴を備え、歓待至らざるなしの有様であるが、これは一つの口実に過ぎず、主人とともに妻子も美味をとるのである。
 自分は新来の女中に奥のおかずは何に致しましょうと、奇怪な問をたびたび受けた。また出入りの八百屋、魚屋は初めはことさらに、これは奥のもの、これはお勝手向き、と区別をつけて、その日の用の有無を尋ねるのであったが、これをもって見れば、多くの家では家人と雇人の食物に等差があるものだということが想像される。甚しきは肉なり魚なりを家人の分だけ用意し、小僧女中等の分を買わず、子供の食い残しかまたは昨日の煮物のおあまりを台所の隅で頂かせる家もあるように聞いている。これは小商人及び給金取りのいわゆる屋敷風の家庭に最も多いとのことである。これに反して昔風の堅気の商家では、旦那を初めとし、番頭小僧女中ことごとく三度の食事はみな同一の粗食を取っている。されど時々主人家族は用事に托して外出し、料理屋に入り、日頃の渇望を充たすのであるが、小店の主人やお屋敷の如く、雇人の前に御馳走を見せびらかすような罪つくりはしない。粗食の結果は雇人どもは毎夜店を閉じて眠りに就く前、そっとまぎれ出て軒下のおでん屋あるいは横町の屋台ずし一品料理など、暖簾の内にもぐり込みてせわしく頬張り、あるいは主人の用を帯びて外出した時に、また朔日十五日の休みにめいめい好み好みの飲食店に入って、これも日頃不平を鳴らしている腹の虫を抑えつけるのである。かく双方でかくし食いするは甚だ面白からぬもの、総じて雇人はとかく心ひがみ易きもので、一家ことごとく同じ食物を与えられるのを目前で見ながらも、主人の箸が象牙で、茶碗[#「茶碗」は底本では「茶腕」]汁椀も蓋つきのものを用いていれば、同じ味噌汁香の物であっても何となくうまそうに見えるものである。まして目の前に主人のみ酒肴を供えて、小僧等にはおあまりのみでは実に堪ったものではない。ある富豪へ嫁入した婦人から、一つの述懐談を聞いたことがある。この婦人が輿入れした[#「輿入れした」は底本では「興入れした」]当時は万事につけて何となく遠慮勝ちで、三度の食事も充分に食べ得ない。さりとて雇人どもの手前もあるから、菓子の買い食いも出来ないで、始終空腹を我慢して居った。それゆえ下女が毎朝お釜を洗う時、釜底にへばりついているおこげやお櫃についている僅かの飯粒を、手で掬い上げては口に入れるところを見て、実にうまそうで下女の境遇を羨んだことがあったと。家族の一人である嫁の資格でありながらなおこの如くである。いわんや下女小僧の境遇、さもしい心の起るは当然のことである。彼らの最大苦痛は仕事の多いのでなく食物の不充分なことである。ゆえに主人たるものはよろしく小僧の意中を察して、家族の一員として相応に働きいることなれば、食物だけは特別御馳走はしなくとも、家族一統平等に腹一杯与えてもらいたきものである。否当然そうあるべきもので、これをせぬ主人は非道不法の者と称すべきである。

 世には男子の顧客をひきつけるために、美人を店先に据えておき飾り物とする人がある。一時は何屋の何子とか何店の内儀さんだとか、娘だとかいって、大騒ぎされるが、美人必ずしも店の繁栄を来すものとは限らない。かえって漁色家連の間に引張りだことなって、その結果嫉妬のため店の妨害をされることが沢山ある。ある店の娘さんは絶世の美人だという評判で学生間にもて噺され、自分なども女ながら好奇心に駆られて、わざわざ糀町の寄宿舎から本郷台まで見物に出かけたことがあるが、この店は娘のきりょうを鼻にかけるのでもあるまいが、主人を初め小僧番頭揃いも揃って無愛嬌でつんけんして、客に向って甚だ不親切であったが、果して今日はあとかたもなく潰れてしまった。男女にかかわらず、美女美男だから客をひきつけるのではなくて、つまり福々しい愛嬌のある人が客に応対して成功するものである。要するに人に快感を与えるのであって、世の中には醜の部に属すべき容貌でも何となく人になつかれ好かれる人があるものである。どこを取り立てていうことは出来ないが、一種のチャームを持っているのである。富豪大倉喜八郎氏の成功は実に彼の福相によると人はいうが、さもあるべきことと思う。当店の店員中にも容貌秀麗というほどではないが、小綺麗でちょっとの目に立つ男があった。商家に養育され商法は一通り心得ているので、一部の行商を受持たせたが、いっこうに成績があがらない。何故か今までの得意は離れてしまい、売上げが半分以上減少した。我々は驚いてその原因を研究したが、これ全く彼の容貌が、人に一種の不快を与えるによることが判明した。彼は如何なる容貌を備えていたかというに、前にもいう通り、小綺麗な男振りであったがふくよかさを欠き何となく冷たく、そしてちょっと形容の出来ない厭味があった。また言葉が明快でなく、気がついてみれば我々にしても決して彼から愉快な感じは受けていなかったのである。従ってお得意ではいっそう不愉快に感じられたに違いなく、それで彼の行商を取り止め、別の者がその持ち場を廻ることにした。これはまだ十五六歳の少年で、商売にも馴れず、まだ店の品目代価さえも覚えないくらいの新参であったが、現に前の店員よりも好成績を得ている。この小僧は特にお世辞はいわない。また安売りして客をひきつけるというような策があるのでもないが、顔がまるまる肥っていて、一種の愛嬌があり、誰しもこの小僧にはちょっと言葉をかけて見たくなるような気がするのである。しかしながら福相につくろうとしても人工で出来るものでなくまた幸い出来たところが人工であるから不自然である。つまり客に対して商売以外に親切正直であるよう、この心掛けあってこそ自然口から愛嬌も出て顔容も福々しくなるのである。

 店頭からオーイ姐さんパンを二貫だけおくんなと怒鳴り込む車屋さんの意気もとくと呑み、やたらにお前よばわりをし給う八字髯様の横柄さ加減も見馴れ、お客様というものはすべてこうしたものと覚え、かえってものやさしくいたわるる時は有難すぎて勿体なく、きまり悪しきこともあるが、時には勘忍袋の緒も切れるかと思うこともある。
 我が店員の一人、ある家に御注文伺いした時、毎度有難うという。商人が客に対して捧呈すべき御挨拶を言上せしところが、当家の御主人わざわざ台所へお顔を出され、貴様から一度もものを買った覚えがない、毎度有難うとは何事ぞと戸も荒らかにピシャリし切って奥へおはいりになったとか、これ店員の憤慨談であった。いずれ常識を欠いている当世の学者でもあったろう。
 またある令夫人は御自分の御機嫌のわるい時、あるいは家内に混雑なことでもある時、電話で注文があるとその時電話係に当った店員こそ迷惑である。如何に顔の見えない電話であるといえ理由なく叱りとばされて挨拶に困ることがたびたびある。自分も一度このお叱りに出遇ったが、あまり愉快なものではない。またある人は配達小僧をつかまえて、下女の代りに水を汲ませたり、使いにやったり勝手なことをする。
 中にはまた、壜詰缶詰などの口を切って売物にならないものを引取れという人がある。ことにコンデンスミルクなどのように、一缶について三厘もしくは五厘の手数しかない薄利のものを、不用になったから引取れの、価を引けという難題を持ちかけられて、商人が立ち行かれるものであろうか。これより甚だしいのは半日か一日ぐらいしか保たない生菓子を注文しておきながら急に不用になったという場合。あるいは食パンなど急に追加注文になって我が店だけでは間に合わないので諸所の同業者間を歩いてようやく間に合わし、お得意の便宜を計って差上げたのに、もう不用になったとて一言の謝辞もいわぬのみか、その品に難くせつけて突っ返されることがある。こちらはこういう場合も日頃の愛顧に対して引取らないわけにも行かず、さりとてみすみす全部の損失を招くことは商人として非常な苦痛である。しかしその得意に向って、一応詳しくその事情を陳じ、それでも先方が商人の損耗を省みない時は、泣く泣くその品を引取らねばならないのである。自分はこのような得意を捨てるに弊履の如くあれと店員に命じておくのである。
 ある有名な富豪を得意とし、いわゆるお出入り商人の仲間となったことあり、月々数円以上の御用命は、パン店としては上等の客筋といわねばならぬのであった。しかるに何故か店員はこのお屋敷に御用伺いに出ることを好まない。先方よりは電話で御催促があるので、やむを得ず渋々と出て行くというふうである。自分はこれが不思議でならないので、小僧頭を呼んでそのわけを詰問して見たが、答は左の如くであった。我等小僧としてたびたび主人の厳命にそむき、またお得意に対してしばしば間を欠き、不便をかけて申し訳がございませんが、実はあのお屋敷によって毎朝その日その日の御用を伺いますのに、非常に手間がかかって困るのでございます。まず係の勝手女中より中働きに達し、奥女中を経てお上(近来俄分限や勿体ぶる官吏の家庭にては女中や下男をして御前あるいはお上と呼ばせる)に御用を伺って来るために、早くも三四十分、おそい時は一時間ないし一時間半待たされる、しかし多少とも御用のある時はよろしゅう[#「よろしゅう」は底本では「よろしう」]ございますが、待った上でないといわれた時は実に泣きたくなります。雪風の寒い日にも火一つない土間にぶるぶる慄えながら印袢天一枚で一時間も待たされては実にやりきれません。これは私どもの忍耐の足りないところと致しましても、そのために他のお得意廻りが遅れて、よそ様へ不都合になり、その上店に帰ると御主人からはちと手間が取れ過ぎるとお叱りを蒙ることとなります。実にこんな時は頭の中がムシャクシャして、狂人のようになることがございます。また支払日など弁当持参で半日以上もお屋敷一軒のために費さなければ御勘定が頂けないのです。そういう時も他の掛取りが時間が後れて取れないため、私どもが途中で油を売っていたかのように御主人から誤解されたこともたびたびありましたが、たいがい事情は右の通りでございますので、自然あのお屋敷に上ることを好まないようになったのでございます、と、自分はこの事実を聞き取った翌日より、断然この屋敷への出入を中止した。
 これはその家に出入りする商人のすべてが異口同音にこぼしていることであるが、得意を一軒失う悲しさにいやいやながら皆出入しているのであった。
 お得意がかく身勝手にして傲慢の風あるは畢竟東京の商人の卑屈さに原因するのであって、商人それ自身の罪である。東京は昔から高位高官の人、大名華族が住んでいて大威張りをしていた歴史つきの所であるから、これらの人々を相手の商人は、勢いその圧迫を受けて阿諛するようになり、御無理ごもっともで相手の我がままを通させるようになったのである。文明を誇り自由平等をよろこぶ今日、なおこの蛮風は少しも改まらずして、商人は依然卑屈なる幇間的行為を持続しているのである。これに反して、関西地方ことに大阪商人の見識の高いことは素晴しいものである。第一流の旅人宿や料理店では紹介がなければ客を通さないということである。これは大阪は商人が経済界及び社会上の主位を占めて居り、官吏や貴族の跋扈ばっこを許さざるゆえである。東京商人たる者、今にして大いに省るところなくば、将来の大発展は覚束ないのみならず、常に大阪商人の下風に立たざるを得ないであろう。

 東京では商人が日頃の得意に対して感謝の意を表わすために、年々盆暮の二回に必ず物品を贈る習慣がある。得意の方でもこれを当然として催促する家さえある。しかし日頃充分精を出して勉強する店は実際年二回たとえ僅かたりとて得意全体に物品を贈る余裕はないのである。しかるにこの旧慣を改め得ざるは何となく体裁がわるいのと、急にこの習慣を廃することによって得意を失いはしないかとの姑息な思い煩いからであって、何も確かな根底があるわけではない。
 当店が取引をしている問屋で、日常勉強する店は必ずこの使い物がけちであるが、不勉強である店に限り日頃取引している金額に対して過ぎるほど立派な金目の品物を持って来る。あるボール箱屋はまだ取引をしていないにもかかわらず、何とかして得意にしようと年末使い物を持参した。もとより取引もないのに受取る筈もなく拒絶したが、無理に店先において帰ってしまった。その再び注文を嘆願されるので、せん方なしに少しの折を注文した所が、その仕事は不親切で品物は弱く、自分の店としては使い道がないくらいであった。無論一回ぎりでその後再び注文はしなかった。
 また出入りの※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)屋の主人は有名な頑固屋であるが、他の製※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)所では普通白※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)の原料は芋を混合して製し、純粋の白豌豆えんどうを用いないものであるが、この人は正直で白豌豆を使用している。それゆえ代価も他よりは幾分高い。そして我が開業以来の取引であって、他より如何ほど[#「如何ほど」は底本では「加何ほど」]安価でせって来てもかつて一度も取ったことがないほど彼を信用しているが、彼は年末年始等の使いものを持って来たことがただの一回もないのである。そして稀れに今少し価を安くしないかなどと相談を持ちかけると腹を立ててブリブリして、とんと話がまとまらないけれども我々は彼の製品を信用して使っているのである。
 すべてかように概して品質を精選して勉強する店は、全く使い物などをする余裕がないのであって、得意もまた日頃親切に正当な品物を勉強していれば、それが盆暮の贈り物の有無くらいで機嫌を損じるなどということはあるまいと信ずる。彼の輸出商で有名な森村左市衛門氏は出入りの商人から決して贈り物を受けないという規定を作って実行していると聞く。もし贈り物など受けて情実にからまれ、粗悪な品物をも大目に看過するという弊が起る。得意は不親切になり、店の信用を欠く原因となるから、受けぬことにきめてあるということであるが、真によき心がけと思われる。一般の商人得意ともに森村氏の心がけを持ってもらいたきものである。

 田舎の人が都に来て、我等が堂々として小売商売をしているのを見て、つくづく嘆声を残してかような狭苦しい所で、あまり儲かりもしない商売をして、年中あくせくとして何が面白いのであるか、このくらい田舎で働いたならば、年々財産が殖えるばかりである、というのである。しかり彼らがいう如く、何が面白いのであろうか。自分等にも分らぬのであるが、商業は一種の道楽であって利害得失のほかに面白味がある。時々二食で店番をすることもある。また徹夜しても約束の時間までに菓子を製造して届けねばならぬこともある。あるいは原料が高くなって、収支償わないことがある。同業者と競争をして打撃を受けることあり、あるいは店員に不都合なものが出たり、内憂外患これではもう往生するよりほかはないと思うことがある。ことに好きな読書時間がないのが何より不平であって、精神上しきりに一種の渇望を感ずる。しかしその多忙で一寸の暇もない内に時を見出して、半ページ一ページの読書をなす時は、実に愉快この上なく、ことに月末の一週間は勘定しらべのために費さねばならないが、これが済めば全身綿の如く疲れる。肩も張る。そこで半日の休みを頂いて心身に休養を与えるもよいが、さらに我が慰めは読書である。ゆえに他より見れば非常な苦痛のように見えるが、自分はさらに苦痛を感じない。これはつまり仕事に変化があって、その変化が肉体と精神に慰藉を与えるからである。休むということは室の中に寝ころぶばかりをいうのではない。変化をつけることである。ゆえにこの東京で変化の多い生活をしたものは、田舎に引込んで単調の生活は出来にくいのである。空気が新鮮で閑静な田舎に行き、一日や二日ぐらい気保養することは面白いが、久しからずしてあまり変化がなくて無事に苦しむのである。これひとり我々の経験ばかりではない。一応都の生活を送った人は必ず同感であるだろう。世に無事安逸なほど苦痛なことはない。戦いの大きく必死の努力を要するほど快味いよいよ加わるものである。



(「私の小売商道」高風館・昭和二十七年初版刊)

底本:「相馬愛蔵・黒光著作集4」郷土出版社
   1981(昭和56)年6月5日初版発行
底本の親本:「私の小売商道」高風館
   1952(昭和27)年11月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※誤りを疑った箇所は、原則として正しいと思われる形に書き替えた上で、底本の形を注記しましたが、以下は「ママ」とするにとどめました。
○「朋輩から一歩も二十歩も」は、底本の親本でもこの形で通っており、正しい形を特定することにはためらいを感じたので、「ママ」としました。
○「和気靄々」は、底本でも、底本の親本でも「和気靄々」で通っていたので、これが著者の意図した表記と考え、「ママ」としました。
○底本は親本にみる「膏盲」をなぞった上で「こうもう」とルビをふっていました。正しい形として、「膏肓(こうこう)」を選ぶか、「膏肓(こうもう)」とするべきか、判断が付かなかったので、「ママ」としました。
○「しかうして」は底本の親本では、「然して」です。正しい形を選ぶ際、親本にそって「しかして」とするべきか、底本のみを考慮して、「しこうして」とするべきか、判断が付かなかったので、「ママ」としました。
※「高等実業学校卒業者の職業別」で、合計の数字が合わないのは底本通りです。
※見出しの字下げのばらつきは、底本通りとしました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:富田倫生
2004年12月11日作成
2011年4月4日修正
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