長谷川時雨しぐれは、生粋きっすいの江戸ッ子ということが出来なければ、はえ抜きの東京女だとは言えるであろう。彼女の明治初期の首都の中心日本橋油町あぶらちょうに法律家を父として生れて、最も東京風な家庭教育の下に育って来た女だ。彼女は寺小屋風が多分にのこった小学校に学んだり、三味線、二絃琴にげんきんの師匠にも其処そこで就いた。時雨は現在では、さまざまの思想と生活との推移から複雑な人になっているが、内心にはいつも過去の日本橋ッ子としての気魄きはくが残映して、微妙にその感情を操作しているように見える。
 とにかく、この『旧聞日本橋』は、きわめて素直に、少女期以来彼女が見聞した、過ぎし日の現象に関する記録である。人文史的に見るも意義なしとせぬと思う。
昭和十年一月
三上於菟吉みかみおときち
[#改丁]

 ここにまとめた『日本橋』は、『女人芸術』に載せた分だけで、その書きはじめには、こんなことが記してあります。
――事実談がはやるからの思いつきでもない。といって半自叙伝というものだとも思っていない。あまりに日本橋といえばいなせに、有福ゆうふくに、立派な伝統を語られている。が、ものには裏がある。私の知る日本橋区内住居者は――いわゆる江戸ッ児は、美化されて伝わったそんな小意気こいきなものでもなければ、洗練された模範的都会人でもない。かなりみじめなプロレタリヤが多い。というよりも、ほろびゆく江戸のかすでそれがあったのかも知れない。私はただ忠実に、私の幼少な眼にうつった町の人を記して見るにすぎない。もとより、その生活の内部を知っているものではないし、面白くもなんともないかもしれないが、信実にいきていた一面で、決して作ったものではないというだけはいえる――
 打明けていえば、『女人芸術』の頁数の都合で、いつも締切りすぎに短時間で書き、二枚五枚と工場へはこび、しかも編輯へんしゅうの都合で伸縮自在のうきめにあったもので、そのために一層ありのままで文飾などありません。私の生れたうまや新道、または、小伝馬町こでんまちょう大伝馬おおでんま町、馬喰ばくろ町、鞍掛橋くらかけばし旅籠はたご町などは、旧江戸宿しゅく伝馬てんま駅送に関係がある名です。文中にもある馬込まごめ氏は、江戸宿の里長馬込勘解由かげゆの家柄で、徳川氏が江戸に来たとき、駄馬人夫を率いて迎えた名望家で、下平河の宝田村――現在の丸の内――から土地替に伝馬町へ移され名主となった由緒があるのです。大伝馬町の大丸の下男が、旅籠町となったのをかなしんで、町札をはがしたことも書きましたが、旅籠町とはずっと昔にも一度つけてあった町名で、旅籠とは、馬の食を盛るかご馬飼うまかいの籠から、旅人の食物を入れるうつわとなり、やがて旅人の食事まかないとなり、客舎となり、駅つぎの伝馬旅舎として縁のふかい名であり、うまや新道の名も、うまやも、小伝馬町大牢たいろうの御用のようにばかり書きましたが、それも幼時の感じを申述もうしのべただけです。
 伝馬町大牢は明治八年まで在存し、牢屋の原の各寺院は、明治十五年ごろから出来たことを、文中には書洩かきもらしましたからここに記入いたしおきます。
 我見がけん『日本橋』は、まだもっと書きつづけるつもりでおりますが、この集には、近親のものが重に書かれたため、したがって挿入した写真など、しんに厚ききらいがありますが、これは当時の風俗を知るため、手許てもとにあって、年月に間違いのないものゆえに、私事を捨てて入れました。挿絵さしえ天保てんぽう十四年に生れた故父渓石深造けいせきしんぞうが六歳のころから明治四年までの見聞を「実見画録」として百五十図書残しおいてくれましたなかから、すこしばかり選び入れました。装幀そうてい烏丸光康卿からすまみつやすきょう後撰集ごせんしゅう』表紙裏のうつし、見返しは朱が赤すぎましたが、古画中直垂紋ひたたれもんであります。
 この書は書肆しょしの熱意にて、極めてすみやかに出来、ふりがなを一度失いしためにあるいは校正の麁洩そせつもあらんかとそれのみをおそれます。
昭和十年一月十四日
時雨

底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年2月
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年5月17日作成
2012年5月19日修正
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