夏目先生が未だ創作家としての先生自身を自覚しない前に、その先生の中の創作家は何処どこかの隙間を求めてその創作に対する情熱の発露を求めていたもののように思われる。その発露の恰好かっこうな一つの創作形式として選ばれたのが漢詩と俳句であった。云わば遠からず爆発しようとする火山の活動のエネルギーがわずかに小噴気口の噴煙や微弱な局部地震となって現われていたようなものであった。それにしてもそのために俳句や漢詩の形式が選ばれたという事は勿論偶然ではなかったに相違ない。先生の自然観人世観が始めから多分に俳句漢詩のそれと共通なものを含んでいた事は明らかであるが、しかしまた先生が俳句漢詩をやった事が先生の自然観人世観にかなりの反作用を及ぼしたであろうという事も当然な事であろう。ともかくも先生の晩年の作品を見る場合にこの初期の俳句や詩を背景に置いて見なければ本当の事は分らないではないかと思う事がいろいろある。少なくも晩年の作品の中に現われている色々のものの胚子はいしがこの短い詩形の中に多分に含まれている事だけは確実である。
 俳句とは如何なるものかという問に対して先生の云った言葉のうちに、俳句はレトリックのエッセンスであるという意味の事を云われた事がある。そういう意味での俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しくなったのも当然であろう。また逆にあのような文章を作った人の俳句や詩が立派であるのは当然だとも云われよう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない。後に『草枕』のモニューメントを築き上げた巨匠ののみのすさびにきざんだ小品をこの集に見る事が出来る。
 先生の俳句を年代順に見て行くと、先生の心持といったようなものの推移して行ったあとが最もよく追跡されるような気がする。人に読ませるための創作意識の最も稀薄な俳句において比較的自然な心持が反映しているのであろう。例えば修善寺における大患以前の句と以後の句との間に存する大きな距離が特別に目立つ、それだけでもうかがってみる事は先生の読者にとってかなり重要な事であろうかと思われる。
 色々の理由から私は先生の愛読者が必ず少なくもこの俳句集を十分に味わってみる事を望むものである。先生の俳句を味わう事なしに先生の作物の包有する世界の諸相を眺める事は不可能なように思われる。また先生の作品を分析的に研究しようと企てる人があらばその人はやはり充分綿密に先生の俳句を研究してかかる事が必要であろうと思う。
(昭和三年五月『漱石全集』第十三巻、月報第三号)

底本:「寺田寅彦全集 第十二巻」岩波書店
   1997(平成9)年11月21日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「漱石全集 第十三巻 月報第三号」
   1928(昭和3)年5月10日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
入力:Nana ohbe
校正:青野 弘美
2006年10月16日作成
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