申の刻になっても一向に衰えを見せぬ雪は、まんべんなく緩やかな渦を描いてあとからあとから舞い下りるが、中ぞらには西風が吹いているらしい。塔という塔の綿帽子が、言い合わせたように西へかしいでいるのでそれが分る。西向きの飛簷垂木は、まるで伎楽の面のようなおどけた丸い鼻さきを、ぶらりと宙に垂れている。
うっかり転害門を見過ごしそうになって、連歌師貞阿ははたと足をとめた。別にほかのことを考えていたのでもない。ただ、たそがれかけた空までも一面の雪に罩められているので、ちょっとこの門の見わけがつかなかったのである。入込んだ妻飾りのあたりが黒々と残っているだけである。少しでも早い道をと歌姫越えをして、思わぬ深い雪に却って手間どった貞阿は、単調な長い佐保路をいそぎながら、この門をくぐろうか、くぐらずに右へ折れようかと、道々決し兼ねていたのである。
ここまで来れば興福寺の宿坊はつい鼻の先だが、応仁の乱れに近ごろの山内は、まるで京を縮めて移して来たような有様で、連歌師風情にはゆるゆる腰をのばす片隅もない。いや矢張り、このまま真すぐ東大寺へはいって、連歌友達の玄浴主のところで一夜の宿を頼もうと、この門の形を雪のなかに見わけた途端に貞阿は心をきめた。
玄浴主は深井坊という塔頭に住んでいる。いわゆる堂衆の一人である。堂衆といえば南都では学匠のことだが、それを浴主などというのは可笑しい。浴主は特に禅刹で入浴のことを掌る役目だからである。しかし由玄はこの通り名で、大華厳寺八宗兼学の学侶のあいだに親しまれている。それほどにこの人は風呂好きである。したがって寝酒も嫌いな方ではない。貞阿のひそかに期するところも、実はこの二つにあったのである。
その夜、客あしらいのよい由玄の介抱で、久方ぶりの風呂にも漬り、固粥の振舞いにまで預ったところで、実は貞阿として目算に入れてなかった事が持上った。雪はまだ止む様子もない。風さえ加わって、庫裡の杉戸の隙間から時折り雪を舞い入らせる。そのたびに灯の穂が低くなびく。板敷の間の囲炉裏をかこんで、問わず語りの雑談が暫く続いた。
貞阿は主人の使で、このあいだ兵庫の福原へ行って来た。主人というのは関白一条兼良で、去年の十一月に本領安堵がてら落してやった孫房家の安否を尋ねに、貞阿を使に出したのである。兵庫のあたりはまだ安穏な時分なので、須磨の浦もその足で一見して来た。貞阿はそこの話をした。それから話は自然、いま家族を挙げて興福寺の成就院に難を避けて来ている関白のことに移って、太閤もめっきり老けられましたな、などと玄浴主が言う。とって六十八にもなる兼良のことを、今さら老けたとは妙な言艸だが、事実この矍鑠たる老人は、近年めだって年をとった。それは五年ほど前に腹ちがいの兄、東福寺の雲章一慶が入寂し、引続いて同じ年に、やはり腹ちがいの弟の東岳徴[#ルビの「ちょうきん」は底本では「ちょうき」]が遷化して以来のことである。肉親の兄弟でもあり、学問の上の知己でもあったこの二人の禅僧を喪って、兼良生来の勝気な性分もめっきり折れて来た。あの勧修念仏記を著したのはその年の秋のことである。そこへ今度の大乱である。貞阿はそんな話をして、序でに一慶和尚の自若たる大往生ぶりを披露した。示寂の前夜、侍僧に紙を求めて、筆を持ち添えさせながら、「即心即仏、非心非仏、不渉一途、阿弥陀仏」と大書したと云うのである。玄浴主は、いかさま禅浄一如の至極境、と合槌を打つ。
客は湯冷めのせぬうちに、せめてもう一献の振舞いに預って、ゆるゆる寝床に手足を伸ばしたいのだが、主人の意は案外の遠いところにあるらしい。それがこの辺から段々に分って来た。尤も最初からそれに気が附かなかったのは、貞阿の方にも見落しがある。第一殆ど二年近くも彼は玄浴主に顔を見せずにいた。応仁の乱れが始まって以来の東奔西走で、古い馴染を訪ねる暇もなかったのである。自分としては戦乱にはもう厭々している。しかし主人の身になってみれば、紛々たる巷説の入りみだれる中で、つい最近まで戦火の渦中に身を曝していたこの連歌師の口から、その眼で見て来た確かな京の有様を聞きたいのは、無理もない次第に違いない。しかも戦乱の時代に連歌師の役目は繁忙を極めている。差当っては明日にも、恐らく斎藤妙椿のところへであろう、主命で美濃へ立たなければならぬと云うではないか。今宵をのがして又いつ再会が期し得られよう。……そんな気構えがありありと玄浴主の眼の色に読みとられる。
それにもう一つ、貞阿にとって全くの闇中の飛礫であったのは、去年の夏この土地の法華寺に尼公として入られた鶴姫のことが、いたく主人の好奇心を惹いているらしいことであった。世の取沙汰ほどに早いものはない。貞阿もこの冬はじめて奈良に暫く腰を落着けて、鶴姫の噂が色々とあらぬ尾鰭をつけて人の口の端に上っているのに一驚を喫したが、工合の悪いことには今夜の話相手は、自分が一条家に仕えるようになったのは、そもそも母親が鶴姫誕生の折り乳母に上って以来のことであるぐらいの経歴なら、とうの昔に知り抜いている。……
主人の口占から、あらまし以上のような推察がついた今となっては、客も無下に情を強くしている訳にも行かない。実際このような慌しい乱世に、しかも諸国を渉り歩かねばならぬ連歌師の身であってみれば、今宵の話が明日は遺言とならぬものでもあるまい。それに自分としても、語り伝えて置きたい人の上のないこともない。……そう肚を据えると、銅提が新たに榾火から取下ろされて、赤膚焼の大湯呑にとろりとした液体が満たされたのを片手に扣えて、折からどうと杉戸をゆるがせた吹雪の音を虚空に聴き澄ましながら、客はおもむろに次のような物語の口を切った。
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御承知のとおり、わたくしは幼少の頃より、十六の歳でお屋敷に上りますまで、東福寺の喝食を致しておりました。ちょうどその時分、やはり俗体のままのお稚児で、奥向きのお給仕を勤めておられた衆のなかに、松王丸という方がございました。わたくしより六つほどもお年下でございましたろうか、御利発なお人なつこい稚児様で、ついお懐きくださるままに、わたくしも及ばずながら色々とお世話を申上げたことでございました。これが思えば不思議な御縁のはじまりで、松王様とはつい昨年の八月に猛火のなかで遽しいお別れを致すまで、ものの十八年ほどの長い年月を、陰になり日向になり断えずお看とり申上げるような廻り合せになったのでございます。あの方のお声やお姿が、今なおこの眼の底に焼きついております。わたくしが今宵の物語をいたす気になりましたのも、余事はともあれ実を申せば、この松王様のおん身の上を、あなた様に聞いて頂きたいからなのでございます。
その頃は、先刻もお話の出ました雲章一慶さまも、お歳こそ七十ぢかいとは申せまだまだお壮んな頃で、かねがね五山の学衆の、或いは風流韻事にながれ或いは俗事政柄にはしって、学道をおろそかにする風のあるのを痛くお嘆き遊ばされて、日ごろ百丈清規を衆徒に御講釈になっておられました。その厳しいお躾けを学衆の中には迷惑がる者もおりまして、今義堂などと嘲弄まじりに端たない陰口を利く衆もありましたが、御自身を律せられますことも洵にお厳しく、十七年のあいだ嘗てお脇を席におつけ遊ばした事がなかったと申します。この御警策の賜物でございましょう、わたくし風情の眼にも、東福寺の学風は京の中でも一段と立勝って見えたのでございます。されば他の諸山からも、心ある学僧の一慶様の講莚に列なるものが多々ございました。その中には相国寺のあの桃源瑞仙さまの、まだお若い姿も見えましたが、この方は程朱の学問とやらの方では、一慶さま一のお弟子であったと伺っております。
このお二方はよく御同道で、一条室町の桃花坊(兼良邸)へ参られました。そのお伴にはかならず松王様をお連れ遊ばすのが例で、御利発な上に学問御熱心なこのお稚児を、お二方ともよくよくの御鍾愛のようにお見受け致しました。わたくしが桃花坊へ上りました後々も、一慶さまや瑞仙さまが奥書院に通られて、太閤殿と何やら高声で論判をされるのが、表の方までもよく響いて参ったものでございます。そういうお席で、お伴について来られた松王様が、傍らにきちんと膝を正されて、易だの朱子だのと申すむずかしいお話に耳を澄ましておられるお姿を、わたくしどももよく垣間見にお見かけしたものでございました。
この松王様のことは、くだくだしく申上げるまでもなく、かねてお聞及びもございましょう。右兵衛佐殿(斯波義敏)の御曹子で、そののち長禄の三年に、義政公の御輔導役伊勢殿(貞親)の、奥方の縁故に惹かされての邪曲なお計らいが因で父君が廃黜[#ルビの「はいちゅつ」は底本では「はいちゅう」]の憂き目にお遇いなされた折り、一時は武衛家の家督を嗣がれた方でございます。それも長くは続きませず、二年あまりにて同じ伊勢殿のお指金でむざんにも家督を追われ、つむりを円められて、人もあろうにあの蔭凉軒の真蘂西堂のもとに、お弟子に入られたのでございました。このお痛わしいお弟子入りについては、色々とこみ入った事情もございますが、掻撮んで申せばこれは、父君右兵衛佐殿の調略の牲になられたのでございました。松王様が家督をおすべり遊ばした後は、やはり伊勢殿のお差図で、いま西の陣一方の旗がしら、左兵衛佐殿(斯波義廉)が渋川家より入って嗣がれましたが、右兵衛さまとしてみれば御家督に未練もあり意地もおありのことは理の当然、幸いお妾の妹君が、そのころ新造さまと申して伊勢殿の寵愛無双のお妾であられたのを頼って、御家督におん直りのこと様々に伊勢殿へ懇望せられました事の序で、これまた黒衣の宰相などと囃されて悪名天下にかくれない真蘂西堂にも取入って、そのお口添えを以て公方様をも動かさんものとの御たくらみから、松王様を蔭凉軒に附けられたものでございます。いやはや何と申してよいやら、浅ましいのは人の世の名利争いではございますまいか。これが畠山殿の御相続争いと一つになって、この応仁の乱れの口火となりましたのを思えば、その陰にしいたげられて、うしろ暗い企らみ事の只のお道具に使われておいでの松王様のお身の上は、なかなかお痛わしいの何のと申す段のことではございません。
このたびの大乱の起るに先だちましては、まだそのほかに瑞祥と申しますか妖兆と申しますか、色々と厭らしい不思議がございました。まず寛正の六年秋には、忘れも致しません九月十三日の夜亥の刻ごろ、その大いさ七八尺もあろうかと見える赤い光り物が、坤方より艮方へ、風雷のように飛び渡って、虚空は鳴動、地軸も揺るがんばかりの凄まじさでございました。忽ちにして消え去った後は白雲に化したと申します。そのとき安部殿(在貞)などの奉られた勘文では、これは飢荒、疾疫群死、兵火起、あるいは人民流散、流血積骨の凶兆であった趣でございます。当時、何ぴとの構えた戯[#ルビの「ざ」は底本では「ぎ」]れ事でございましょうか、天狗の落文などいう札を持歩く者もありまして、その中には「徹書記、宗砌、音阿弥、禅竺、近日此方ヘ来ル可シ」など記してあったと申します。前のお二人はわたくしの思い違えでなくば、これより先に亡くなっておられますが、観世殿が一昨年、金春殿が昨年と続いて身罷られましたのも不思議でございます。それにしましても世の乱れにとって、歌よみ、連歌師、猿楽師など申すものに何の罪科がございましょう。思えばひょんな風狂人もあったものでございます。
わたくし風情が今更めいて天下の御政道をかれこれ申す筋ではございません。それは心得ておりますが、何としてもこの近年の御公儀のなされ方は、わたくし共の目に余ることのみでございました。天狗星の流れます年の春には花頂若王子のお花御覧、この時の御前相伴衆の箸は黄金をもって展べ、御供衆のは沈香を削って同じく黄金の鍔口をかけたものと申します。その前の年は観世の河原猿楽御覧、更には、これは貴方さまよく御存じの公方さま春日社御参詣、また文正の初めには花の御幸。……いやいやそんな段ではございません、その公方さま花の御所の御造営には甍に珠玉を飾り金銀をちりばめ、その費え六十万緡と申し伝えておりますし、また義政公御母君御台所の住まいなされる高倉の御所の腰障子は、一間の値い二万銭とやら申します。上このようななされ方ゆえ、したがっては公家武家の末々までひたすらに驕侈にふけり、天下は破れば破れよ、世間は滅びば滅びよ、人はともあれ我身さえ富貴ならば、他より一段栄耀に振舞わんと、このような気風になりましたのも物の勢いと申しましょうか。
その一方に民の艱難は申すまでもございません。例の流れ星騒動の年には、大甞会のありました十一月に九ヶ度、十二月には八ヶ度の土倉役がかかります。徳政とやら申すいまわしい沙汰も義政公御治世に十三度まで行われて、倉方も地下方も悉く絶え果てるばかりでございます。かてて加えて寛正はじめの年は未聞の大凶作、翌る年には疫病さえもはやり、京の人死は日に幾百と数しれず、四条五条の橋の下に穴をうがって屍を埋める始末となりました。一穴ごとに千人二千人と投げ入れますので、橋の上に立って見わたしますと流れ出す屍も数しれず、石ころのようにごろごろと転んで参ります。そのため賀茂の流れも塞がらんばかり、いやその異様な臭気と申したら、お話にも何にもなるものではございません。いま思いだしても、ついこの頬のあたりに漂って参ります。人の噂ではこの冬の京の人死は締めて八万二千とやら申します。
願阿弥陀仏と申されるお聖は、この浅ましさを見るに見兼ねられて、義政公にお許しを願って六角堂の前に仮屋を立て、施行をおこなわれましたが、このとき公方様より下された御喜捨はなんと只の百貫文と申すではございませんか。また、五山の衆徒に申し下されて、四条五条の橋の上にて大施餓鬼を執行せしめられましたところ、公儀よりは一紙半銭の御喜捨もなく、費えは悉く僧徒衆の肩にかかり、相国寺のみにても二百貫文を背負い込んだとやら。花の御所の御栄耀に引きくらべて、わたくし風情の胸の中までも煮えたつ思いが致したことでございます。
このような天災地妖がたび重なっては、御政道は暗し、何ごとか起らずにいるものではございません。応仁元年正月の初めより、京の人ごころは何かしら異様な物を待つ心地で、あやしい胸さわぎを覚えておりましたところ、果せるかなその月の十八日の夜、洛北の御霊林に火の手は上ったのでございます。
尤もわたくしは二三日前より御用で近江へ参っておりまして、その夜のことは何も存じません。御用もそこそこに飛ぶように帰って参りますと、騒ぎは既に収まって、案外に京の町は落着いております。とは申せその底には容易ならぬ気配も動いておりますし、桃花坊はその夜の合戦の場より隔たっておりませんので、すぐさま御家財御衣裳の御引移しが始まります。太平記と申す御本を拝見いたしますと、去んぬる正平の昔、武蔵守殿(高師直)が雲霞の兵を引具して将軍(尊氏)御所を打囲まれた折節、兵火の余烟を遁れんものとその近辺の卿相雲客、或いは六条の長講堂、或いは土御門の三宝院へ資財を持運ばれた由が、載せてございますが、いざそれが吾身のことになって見ますれば、そぞろに昔のことも思い出でられて洵に感無量でございます。この度の戦乱の模様では、京の町なかは危いとのことで、どこのお公卿様も主に愛宕の南禅寺へお運びになります。一条家でも、御縁由の殊更に深い東山の光明峰寺をはじめとし、東福、南禅などにそれぞれ分けてお納めになりました。京じゅうの土倉、酒屋など物持ちは言わずもがな、四条坊門、五条油小路あたりの町屋の末々に至るまで、それぞれに目ざす縁故をたどって運び出すのでございましょう、その三四ヶ月と申すものは、京の大路小路は東へ西への手車小車に埋めつくされ、足の踏んどころもない有様。中にはいたいけな童児が手押車を押し悩んでいるのもございます。わたくしも、その絡繹たる車の流れをかいくぐるように、御家財を積んだ牛車を宰領して、幾たび賀茂の流れを渡りましたやら。その都度、六年前の丁度この時節に、この河原に充ち満ちておりました数万の屍のことも自ずと思い出でられ、ああこれが乱世のすがたなのだ、これが戦乱の実相なのだと、覚えず暗い涙に咽んだことでございました。
室町のお屋敷には、桃華文庫と申す大切なお文倉がございます。これも文和の昔、後芬陀利花院さま(一条経通)御在世の砌、折からの西風に煽られてお屋敷の寝殿二棟が炎上の折にも、幸いこの御秘蔵の文庫のみは恙なく残りました。瓦を葺き土を塗り固めたお倉でございますので、まあ此度も大事はあるまいと、太閤さまもこれには一さい手をお触れにならず、わざわざこのわたくしを召出されて、文庫のことは呉々も頼むと仰せがございました。お屋敷に仕える青侍の数も少いことではございませんが、殊更わたくしにお申含めになったについては、少々訳がらもございます。それは太閤さまが心血をそそがれました新玉集と申す連歌の撰集二十巻が、このお文倉に納めてありまして、わたくしもその御纂輯の折ふしには、お紙折りの手伝いなどさせて頂いたものでございます。ゆくゆくは奏覧にも供え、また二条摂政さま(良基)の莵玖波集の後を承けて勅撰の御沙汰も拝したいものと私かに思定めておいでの模様で、いたくこの集のことをお心に掛けてございました。尤もこれは、なまじえせ連歌など弄ぶわたくしの思い過しもございましょう。お文倉には和漢の稀籍群書およそ七百余合、巻かずにして三万五千余巻が納めてありましたとのことで、中には月輪殿(九条兼実)の玉葉八合、光明峯寺殿(同道家)の玉蘂七合などをはじめ、お家累代の御記録の類も数少いことではございませんでした。
そうこう致すうち一月の末には、太閤は宇治の随心院へ奥方様とお二人で御座を移されました。御老体のほどを気づかわれたお子様がたのお勧めに従われたものでございましょう。さあそうなりますと、身に余る大役をお請けした上に、大樹とも頼む太閤はおいでにならず、東の御方様はじめお若い方々のみ残られました桃花坊で、わたくしは茫然と致してしまいました。見渡すところ青侍の中には腕の立ちそうな者はおりませず、夜ふけて風の吹き募ります折りなどは、今にも兵どもの矢たけびが聞えて来はしまいか、どこぞの空が兵火に焼けていはしまいかと落々瞼を合わす暇さえなく、蔀をもたげては闇夜の空をふり仰ぎふり仰ぎ夜を明かしたものでございました。
さいわい五月の末ごろまでは何事もなく過ぎました。とは申せ安からぬ物の気配は日一日と濃くなるばかり。東西両陣の合戦の用意が日ごとに進んで参る有様が手にとるように窺われます。その中を、わたくしにとって只一つの心頼みは、あの松王丸様なのでございました。いやそうではございません。すでに御家督をおすべりになって、蔭凉軒にて御祝髪ののちの、見違えるような素円さまなのでございます。お歳ははや二十四、ああ世が世ならばと、御立派に御成人のお姿を見るたびに、わたくしは覚えず愚痴の涙も出るのでございました。……実は先刻から申しそびれておりましたが、この松王さまが(やはり呼び慣れたお名で呼ばせて頂きましょう――)、いつの間にやら鶴姫さまと、深いおん言交しの御仲であったのでございます。母親にたずねてみますれば色々その間のいきさつも分明いたしましょうが、そのような物好き心が何の役にたちましょう。ただ、武衛家の御家督に立たれました頃おい、太閤様にじきじきの御申入れがあったとやら無かったとやら、素より陪臣のお家柄であってみれば、そのような望みの叶えられよう道理もございません。それ以来松王さまのお足も自然表むきには遠のいたのでございます。
わたくしとしましては只そのお心根がいじらしく、おん痛わしく、お頼みにまかせて文使いの役目を勤めておったのでございます。お目にかかる折々には、打融けられた磊落なお口つきで、「室町が火になったら、俺が真すぐ駈けつけてやるぞ。屈強な学僧づれを頼んで、文庫も燃させることではないぞ」などと、仰せになったものでございます。この御言葉だけでも、わたくしにはどれほど心づよく思われましたことか。のみならず夕暮どきなど、裏庭の築山のあたりからこっそり忍んで参られることもございました。そのような折節には、母親のひそかな計らいで、片時の御対面もあったようでございました。また時によっては、「文庫を燃させなんだらその褒美に、姫をさらって行くからそう思え」などと御冗談もございました。実を申せばわたくしは内心に、どれほどそうなれかしと望んだことで御座いましょう。渦を巻く猛火のなかを、白い被衣をかずかれた姫君が、鼠色の僧衣の逞しいお肩に乗せられて、御泉水のめぐりをめぐって彼方の闇にみるみるうちに消えてゆく、そのような夢ともつかぬ絵姿を心に描いては、風の吹き荒れる晩など樹立のざわめくお庭先の暗がりに、よく眺め入ったものでございました。悲しいことに、それもこれも現とはなりませんでした。尤もわたくしの眼の中にえがいた火の色と白と鼠の取り合わせは、後日まったく思いもかけぬ相で現われるには現われましたが、それはまだ先の話でございます。
忘れも致しません、五月二十六日の朝まだき、おっつけ寅の刻でもありましたろうか、北の方角に当って時ならぬ太鼓の磨り打ちの音が起りました。つづいてそれがどっと雪崩を打つ鬨の声に変ります。わたくしは殆どもう寝間着姿で、寝殿のお屋敷に攀じ登ったのでございます。暫くは何の見分けもつきませんでしたが、やがて乾方に当って火の手が上ります。その火が次第に西へ西へと移ると見るまに、夜もほのぼのと明けて参りました。見れば前の関白様(兼良男教房)をはじめ、御一統には悉皆お身仕度を調えて、お廂の間にお出ましになっておられます。東の御方(兼良側室)はじめ姫君、侍女がたは、いずれも甲斐々々しいお壺装束。わたくしも、こう成りましては腹巻の一つも巻かなくてはと考えましたが、万が一にも雑兵乱入の砌などには却って僧形の方が御一統がたの介抱を申上げるにも好都合かと思い返し、慣れぬ手に薙刀をとるだけのことに致しました。何せこの歳まで、本物の戦さと申すものは人の話に聞くばかり、今になって顧みますと可笑しくなりますが、小半時ほどは胴の顫えがとまりません。いやはやとんだ初陣ぶりでございました。
そのうちに物見に出ました青侍もぼつぼつ戻って参ります。その注進によりますと、今日の戦さの中心は洛北とのことで、それも次第に西へ向って、南一条大宮のあたりに集まってゆくらしいと申すのでございましたが、時刻が移りますにつれどうしてそんな事ではなく、やがて東のかた百万遍、革堂(行願寺)のあたりにも火の手が上ります。これは稍々艮方へ寄っておりますので、折からの東風に黒々とした火煙は西へ西へと流れるばかり、幸い桃花坊のあたりは火の粉もかぶらずにおりますが、もし風の向きでも変ったなら、炎の中をどうして御一統をお落し申そうかと、只もう胸を衝かれるばかりでございます。頼みの綱は兼々お約束の松王さまばかり、それも室町のあたりは火にはかからぬと思召してか、或いはまた相国寺の西にも東にも火の手の上っております有様では、無下にその中を抜け出しておいで遊ばすわけにも参らぬものか、一向に姿をお見せになりません。やがてその日も暮れました。夜に入って風は南に変ったとみえ、百万遍、雲文寺のかたの火焔も廬山寺あたりの猛火も、次第に南へ延びて参ります。渦巻きあがる炎の末は悉く白い煙と化して棚びき、その白雲の照返しでお庭先は、夜どおしさながら明方のような妙に蒼ざめた明るさでございます。殊に凄まじいのは真夜中ごろの西のかたの火勢で、北は船岡山から南は二条のあたりまで、一面の火の海となっておりました。
ようようにその夜も無事にすぎて、翌る二十七日には、朝の間のどうやら鬨の声も小止みになったらしい隙を見計らい、東の御方は鶴姫さまと御一緒に中御門へ、若君姫君は九条へと、青侍の御警固で早々にお落し申上げました。やれ一安心と思ったが最後、気疲れが一ときに出まして、合戦の勢がまた盛返したとの注進も洞ろ心に聞きながし、わたくしは薙刀を杖に北の御階にどうと腰を据えたなり、夕刻まではそのまま動けずにおりました。この日の戦も酉の終までには片づきまして、その夜は打って変ってさながら狐につままれたような静けさ。物見の者の持寄りました注進を編み合わせてみますと、この両日に炎上の仏刹邸宅は、革堂、百万遍、雲文寺をはじめ、浄菩提寺、仏心寺、窪の寺、水落の寺、安居院の花の坊、あるいは洞院殿、冷泉中納言、猪熊殿など、夥しいことでございましたが、民の迷惑も一方ならず、一条大宮裏向いの酒屋、土倉、小家、民屋はあまさず焼亡いたし、また村雲の橋の北と西とが悉皆焼け滅んだとのことでございます。
さりながらこれはほんの序の口でございました。住むに家なく、口に糊する糧もない難民は大路小路に溢れております。物とり強盗は日ましに繁くなって参ります。かてて加えて諸国より続々と上ってまいる東西両陣の足軽と申せば、昼は合戦、夜は押込みを習いとする輩ばかり、その荒々しい人相といい下賤な言葉つきと云い、目にし耳にするだに身の毛がよだつ思いでございました。そうなりますと最早や戦さなどと申すきれい事ではございません。昼日なかの大路を、大刀を振りかざし掛声も猛に、どこやらの邸から持ち出したものでございましょう、重たげな長櫃を四五人連れで舁いて渡る足軽の姿などは、一々目にとめている暇もなくなります。築地の崩れの陰などでは、抜身を片手に女どもをなぐさんでおります浅ましい有様が、ちょっと使に出ましても二つや三つは目につきます。夜は夜で近辺のお屋敷の戸蔀を蹴破る物音の、けたたましい叫びと入りまじって聞えて参ることも、室町あたりでさえ珍らしくはございません。まことにこの世ながらの畜生道、阿鼻大城とはこの事でございましょう。
そのような怖ろしいことが来る日も来る夜も打続いておりますうち、六月八日には、遂に一大事となってしまいました。その午の刻ばかりに、中御門猪熊の一色殿のお館に、乱妨人が火をかけたのでございます。それのみではございません、近衛の町の吉田神主の宅にも物取りどもが火を放ったとやら、忽ちに九ヶ所より火の手をあげ、折からの南の大風に煽られて、上京の半ばが程はみるみる紅蓮地獄となり果てました。火焔の近いことは五月の折りの段ではなく、吹きまくる風に一時は桃花坊のあたりも煙をかぶる仕儀となりまして、わたくしは最早やお庭を去らず、お文庫の瓦屋根にじっと見入りながら、最後の覚悟をきめたほどでございました。屋根をみつめておりますと、その上を這う薄い黒煙のなかに太閤様のお顔が自然かさなって見えて参ります。あの名高い江家文庫が、仁平の昔に焼亡して、闔を開く暇もなく万巻の群書片時に灰となったと申すのも、やはり午の刻の火であったことまでが思い合わされ、不吉な予感に生きた心地もございませんでした。幸いこの火も室町小路にて止まりました。そうそう、松王様はその夕刻、おっつけ戌の刻ほどにひょっくりお見えになり、わたくしがお怨みを申すと、
「なに、ついそこの武者の小路で見張っておったよ」と、事もなげに仰せられました。
その日の焼亡はまことに前代未聞の沙汰で、下は二条より上は御霊の辻まで、西は大舎人より東は室町小路を界におおよそ百町あまり、公家武家の邸をはじめ合せて三万余宇が、小半日の間に灰となり果てたのでございます。そうなりますと町なかで焼け残っている場所とては数えるほどしかございません。お次はそこが火の海と決まっておりますので、桃花坊も中御門のお宿も最早これまでと思い切りその翌る日には前の関白様は随心院へ、また東の御方様は鶴姫様ともども光明峰寺へ、それぞれお移し申し上げました。
越えて八月の半ばには等持、誓願の両寺も炎上、いずれも夜火でございます。その十八日には洛中の盗賊どもこぞって終に南禅寺に火をかけて、かねてより月卿雲客の移し納めて置かれました七珍財宝を悉く掠め取ってしまいます。これも夜火でございましたが、粟田口の花頂青蓮院、北は岡崎の元応寺までも延焼いたし、丈余の火柱が赤々と東山の空を焦がす有様は凄まじくも美麗な眺めでございました。
……ああ、由玄どの、今あなたは眉をお顰めなされましたな。いえ、よく分っております、美麗だなどと大それた物の言いよう、さぞやお耳に障りましょう。神罰もくだりましょう、仏罰も当りましょう、それもよく心得ております。けれどこの貞阿は実に感じたままをお話しするまででございます。まことに人間の心ほど不思議なものはありませぬ。火をくぐり、血しぶきを見、腐れた屍に胆を冷やし、人間のする鬼畜の業を眼にするうち、度胸もついて参ります、捨鉢な荒びごころも出て参ります、それとともに、今日は人の身、明日はわが上と、日ごと夜ごとに一身の行末を思いわび、或いは儚い夢を空だのみにし、或いは善きにつけ悪しきにつけ瑞祥に胸とどろかせるような、片時の落居のいとまとてない怪しい心のみだれが、いつしかに太い筋綱に縒り合わさって、いやいや吾が身ひとの身なんどは夢幻の池の面にうかぶ束のまの泡沫にしか過ぎぬ、この怖ろしい乱壊転変の相こそ何かしら新しいものの息吹き、すがすがしい朝を前触れる浄めの嵐なのではあるまいかと、わたくしごとの境涯を離れて広々と世を見はるかす健気な覚悟も湧いて参ります。旧き代の富貴、栄耀の日ごとに毀たれ焼かれて参るのを見るにつけ、一掬哀惜の涙を禁めえぬそのひまには、おのずからこの無慚な乱れを統べる底の力が見きわめたい、せめて命のある間にその見知らぬ力の実相をこの眼で見たい、その力のはたらきから新しい美のいのちを汲みとりたい……このような大それた身の程しらずの野心も、むくむくと頭をもたげて参ります。一身の浮き沈みを放下して、そのような眼であらためて世の様を眺めわたしますと、何かこう暗い塗籠から表へ出た時のように眼が冴え冴えとして、あの建武の昔二条河原の落書とやらに申す下尅上する成出者の姿も、その心根の賤しさをもって一概に見どころなき者と貶しめなみする心持にもなれなくなります。今までは只おぞましい怖しいとのみ思っておりました足軽衆の乱波も、土一揆衆の乱妨も檀林巨刹の炎上も、おのずと別の眼で眺めるようになって参ります。まことに吾ながら呆れるような心の移り変りでございました。……
その間にも戦さの成行きは日に細川方が振わず、勢を得た山名方は九月朔日ついに土御門万里の小路の三宝院に火をかけて、ここの陣所を奪いとり、愈々戦火は内裏にも室町殿にも及ぼう勢となりました。その十三日には浄華院の戦さ、守る京極勢は一たまりもなく責め落され、この日の兵火に三宝院の西は近衛殿より鷹司殿、浄華院、日野殿、東は花山院殿、広橋殿、西園寺殿、転法輪、三条殿をはじめ、公家のお屋敷三十七、武家には奉行衆のお舎八十ヶ所が一片の烟と焼けのぼりました。最早やこうなりましては、次の火に桃花坊の炎上は逃れぬところでございます。お屋敷の方はともあれかし、この世の乱れの収まったのち、たとえ天下はどのように変ろうとも、かならず学問の飢えが来る、古えの鏡をたずねる時がかならず来る。あのお文倉だけは、この身は八つ裂きになろうとも守り通さずには措かぬと、わたくしは愈々覚悟をさだめ、水を打ったようなしいんとした諦めのなかで、深く思いきったことでございました。さりながら、思えば人間の心当てほど儚いものもございません。わたくしがそのように念じ抜きました桃華文庫も、まったく思いもかけぬ事故から烏有に帰したのでございます。……
貞阿はほっと口をつぐんだ。流石に疲れが出たのであろう、傍らの冷えた大湯呑をとり上げると、その七八分目まで一思いに煽って、そのまま座を立った。風はいつの間にかやんでいる。厠の縁に立って眺めると、雪もやがて霽れるとみえ、中空には仄かな光さえ射している。ああ静かだと貞阿は思う。今しがたまで自分の語り耽っていた修羅黒縄の世界と、この薄ら氷のようにすき透った光の世界との間には、どういう関わりがあるのかと思ってみる。これは修羅の世を抜けいでて寂光の土にいたるという何ものかの秘やかな啓しなのでもあろうか。それでは自分も一応は浄火の界を過ぎて、いま凉道蓮台の門さきまで辿りついたとでも云うのか。いや何のそのような生易しいことが、と貞阿はわれとわが心を叱る。京の滅びなど此の眼で見て来たことは、恐らくはこの度の大転変の現われの九牛の一毛にしか過ぎまい。兵乱はようやく京を離れて、分国諸領に波及しようとする兆しが見える。この先十年あるいは二十年百年、旧いものの崩れきるまで新しいものの生れきるまでは、この動乱は瞬時もやまずに続くであろう。人間のたかが一世や二世で見きわめのつくような事ではあるまい。してみればいま眼前のこの静寂は、仮の宿りにほかならぬ。今宵の雪の宿りもまた、所詮はわが一生の間にたまさかに恵まれる仮の宿りに過ぎないのだ。……貞阿はそう思い定めると、暫くじっと瞑目した。雪が早くも解けるのであろう、どこかで樋をつたう水の音がする。……
やがて座に戻った連歌師は、玄浴主の新たに温めてすすめる心づくしの酒に唇をうるおしながら、物語の先をつづけた。
それは九月の十九日でございました。明け方から凄まじい南の風が吹き荒れておりましたが、その朝の巳の刻なかばに、お屋敷のすぐ南、武者の小路の上の方に火の手があがったのでございます。つづいてその下にも上にも二つ三つと炎があがります。火の手は忽ちに土御門の大路を越えて、あっと申す間もなく正親町を甞めつくし、桃花坊は寝殿といわずお庭先といわず、黒煙りに包まれてしまいました。折からの強風にかてて加えて、火勢の呼び起すつむじ風もすさまじいことで、御泉水あたりの巨樹大木も一様にさながら箒を振るように鳴りざわめき、その中を燃えさかったままの棟木の端や生木の大枝が、雨あられと落ちかかって参ります。やがて寝殿の檜皮葺きのお屋根が、赤黒い火焔をあげはじめます。お軒先をめぐって火の蛇がのたうち廻ると見るひまに、囂と音をたてて蔀が五六間ばかりも一ときに吹き上げられ、御殿の中からは猛火の大柱が横ざまに吐き出されます。それでもう最後でございます。わたくしは、居残っております十人ほどの青侍や仕丁の者らと、兼ねてより打合せてありました御泉水の北ほとりに集まり、その北に離れておりますお文倉をそびらに庇うように身構えながら、程なく寝殿やお対屋の崩れ落ちる有様を、あれよあれよとただ打ち守るばかり。さあ、寝殿の焼け落ちましたのは、やがて午の一つ頃でもございましたろうか、もうその時分には火の手は一条大路を北へ越して、今出川の方もまた西の方小川のあたりも、一面の火の海になっておりました。
その中を、どこをどう廻って来られたものか、松王さまは学僧衆三四人と連れ立たれて走せつけて下さいました。わたくしは忝けなさと心づよさに、お手をじっと握りしめた儘、しばしは物も申せなかったことでございました。お文倉にも火の粉や余燼が落下いたしましたが、それは難なく消しとめ、やがて薄らぎそめた余煙の中で、松王さまもわたくしどもも御文庫の無事を喜び合ったことでございます。松王さまは小半時ほど、焼跡の検分などをお手伝い下さいましたが、もはや大事もあるまいとの事で、間もなく引揚げておいでになりました。
その未の刻もおっつけ終る頃でございましたろうか。わたくしどもは、兼ねて用意の糒などで腹をこしらえ、お文庫の残った上はその壁にせめて小屋なりと差掛け、警固いたさねばなりませんので、寄り寄りその手筈を調えておりました所、表の御門から雑兵およそ三四十人ばかり、どっとばかり押し入って参ったのでございます。その暫く前に二三人の足軽らしい者が、お庭先へ入っては参りましたが、青侍の制止におとなしく引き退りましたので、そのまま気にも留めずにいたのでございます。その同勢三四十人の形の凄まじさと申したら、悪鬼羅刹とはこのことでございましょうか、裸身の上に申訳ばかりの胴丸、臑当を着けた者は半数もありますことか、その余の者は思い思いの半裸のすがた、抜身の大刀を肩にした数人の者を先登に、あとは一抱えもあろうかと思われるばかりの檜の丸太を四五人して舁いで参る者もあり、空手で踊りつつ来る者もあり、あっと申す暇もなくわたくしどもは、お文倉との間を隔てられてしまったのでございます。刀の鞘を払って走せ向った血気の青侍二三名は、忽ちその大丸太の一薙ぎに遇い、脳漿散乱して仆れ伏します。その間にもはや別の丸太を引っ背負って、南面の大扉にえいおうの掛声も猛に打ち当っておる者もございます。これは到底ちからで歯向っても甲斐はあるまい、この倉の中味を説き聴かせ、宥めて帰すほかはあるまいとわたくしは心づきまして、一手の者の背後に離れてお築山のほとりにおりました大将株とも見える髯男の傍へ歩み寄りますと、口を開く間もあらばこそ忽ちばらばらと駈け寄った数人の者に軽々と担ぎ上げられ、そのまま築山の谷へ投げ込まれたなり、気を失ってしまったのでございます。足が地を離れます瞬間に、何者かが顔をすり寄せたのでございましょう、むかつくような酒気が鼻をついたのを覚えているだけでございます。……
やがて夕暮の涼気にふと気がつきますと、はやあたりは薄暗くなっております。風は先刻よりは余程ないで来た様子ながら、まだひょうひょうと中空に鳴っております。倒れるときお庭石にでも打ちつけたものか、脳天がずきりずきりと痛んでおります。わたくしはその谷間をようよう這い上りますと、ああ今おもい出しても総身が粟だつことでございます。あの宏大もないお庭先一めんに、書籍冊巻の或いは引きちぎれ、或いは綴りをはなれた大小の白い紙片が、折りからの薄闇のなかに数しれず怪しげに立ち迷っているではございませんか。そこここに散乱したお文櫃の中から、白蛇のようにうねり出ている経巻の類いも見えます。それもやがて吹き巻く風にちぎられて、行方も知らず鼠色の中空へ立ち昇って参ります。寝殿のお焼跡のそこここにまだめらめらと炎の舌を上げているのは、そのあたりへ飛び散った書冊が新たな薪となったものでもございましょう。燃えながらに宙へ吹き上げられて、お築地の彼方へ舞ってゆく紙帖もございます。わたくしはもうそのまま身動きもできず、この世の人の心地もいたさず、その炎と白と鼠いろの妖しい地獄絵巻から、いつまでもじいっと瞳を放てずにいたのでございます。口おしいことながら今こうしてお話し申しても、口不調法のわたくしには、あの怖ろしさ、あの不気味さの万分の一もお伝えすることが出来ませぬ。あの有様は未だにこの眼の底に焼きついております。いいえ、一生涯この眼から消え失せる期のあろうことではございますまい。
ようやくに気をとり直してお文倉に入ってみますと、さしもうず高く積まれてありましたお文櫃は、いずくへ持ち去ったものやら、そこの隅かしこの隅に少しずつ小さな山を黒ずませているだけでございます。青侍どもはみな逃亡いたして姿を見せません。顫えながらも居残っておりました仕丁両三名を励ましつつ、お倉の中を検分にかかりますと、そこの山の隈かしこの山の陰から、ちょろちょろと小鼠のように逃げ走る人影がちらつきます。難民の小倅どもがまだ諦めきれずに金帛の類を求めているのでございましょう。……こうしてさしもの桃華文庫もあわれ儚く滅尽いたしたのでございます。残りましたお文櫃はそれでも百余合ほどございましたが、これは光明峰寺へ移し納め、わたくしもそれに附いてそちらへ引き移りました。わたくしは取るものも取敢えずその夜のうちに随心院へ参り、雑兵劫掠の顛末を深夜のことゆえお取次を以て言上いたしましたところ、太閤にはお声をあげて御痛哭あそばしました由、それを伺ってわたくしはしんから身を切られる思いを致したことでございました。光明峰寺へ移されましたお櫃の中には新玉集の御稿本は終に一帖も見当らなかったのでございます。
いやもう一つ、わたくしが気を失って倒れておりました間に、つい近所の町筋では無慚な出来事が起ったのでございました。翌日になって人から聞かされました事ゆえ、くわしいお話は致し兼ねますが、兼ねて下京を追出されておりました細川方の郎党衆、一条小川より東は今出川まで一条の大路に小屋を掛けて住居しておりましたのが、この桃花坊の火、また小笠原殿の余炎に懸って片端より焼け上り、妻子の手を引き財物を背に負うて、行方も知らず右往左往いたした有様、哀れと言うも愚かであったと人の語ったことでございました。かようにして内裏の東西とも一望の焼野原となりました上は、細川方は最早や相国寺を最後の陣所と頼んで、立籠るばかりでございます。
けれども程なく十月の三日には、その相国寺の大伽藍も夥しい塔頭諸院ともども、一日にして悉皆炎上いたしたのでございます。山名方の悪僧が敵に語らわれて懸けた火だと申します。この日の戦さの凄まじさは後日人の口より色々と聞き及びましたが、ともあれ黄昏に至って両軍相引きに引く中を、山名方は打首を車八輛に積んで西陣へ引上げたとも申し、白雲の門より東今出川までの堀を埋むる屍幾千と数知れなかったとも申しております。
さあこの報せが光明峰寺にとどきますと、鶴姫様の御心配は筆舌の及ぶところではございません。早々にお見舞いの御消息がわたくしに托せられます。それを懐にわたくしが相国寺の焼跡に立ったのは、翌る日のかれこれ巽の刻でもございましたろうか。さしも京洛第一の輪奐の美を謳われました万年山相国の巨刹も悉く焼け落ち、残るは七重の塔が一基さびしく焼野原に聳え立っているのみでございます。そこここに死骸を収める西方らしい雑兵どもが急しげに往来するばかり、功徳池と申す蓮池には敵味方の屍がまだ累々と浮いておりますし、鹿苑院、蔭凉軒の跡と思しきあたりも激しい戦の跡を偲ばせて、焼け焦げた兵どもの屍が十歩に三つ四つは転んでいる始末でございます。物を問おうにも学僧衆はおろか、承仕法師の姿さえ一人として見当りません。もしや何か目じるしの札でもと存じ灰塵瓦礫の中を掘るようにして探ねましたが、思えば剣戟猛火のあいだ、そのようなものの残っていよう道理もございません。わたくしは途方に暮れて佇んでしまいました。
その日は空しく立戻り、次の日もまた次の日も、わたくしは御文を懐にしつつ或は功徳池のほとりに立ち暮らし、或は心当てもなく焼け残った巷々を探ね廻りましたが、松王様に似たお姿だに見掛けることではございません。そのうちに日数はたって参ります。相国寺合戦の日の色々と哀れな物語も自然と耳にはいって参ります。中でも一入の涙を誘われましたのは、細川殿の御曹子、六郎殿のおん痛わしい御最後でございました。当年十六歳の六郎殿は、この日東の総大将として馬廻りの者わずか五百騎ばかりを以て、天界橋より攻め入る大敵を引受け、さんざんに戦われましたのち、大将はじめ一騎のこらず討死せられたのでございますが、戦さ果てても御遺骸を収める人もなく、犬狗のように草叢に打棄ててありましたのを、ようやく御生前に懇意になされた禅僧のゆくりなくも通りすがった者がありまして、泣く泣くおん亡骸を取収め、陣屋の傍に卓を立て、形ばかりの中陰の儀式をしつらえたのでございます。ところが或る日のこと、ふとその禅僧が心づきますと硯箱の蓋に上絵の短冊が入れてありまして、それには、
さめやらぬ夢とぞ思ふ憂きひとの烟となりしその夕べより
と、哀れな歌がしたためてあったと申すことでございます。人の噂では、これはさる公卿の御息女とこの六郎殿と御契りがありまして、常々文を通わせられておられましたが、その方の御歌とか申しました。この物語を耳にしましたとき、あまりの事の似通いにわたくしは胸をつかれ、こればかりは姫のお耳に入れることではない、この心一つに収めて置こうと思い定めましたが、なおも日数を経て何ひとつお土産話もない申訳なさに、ある夕まぐれついこのお話を申上げましたところ、もはや夕闇にまぎれて御几帳のあたりは朧ろに沈んでおりますなかで、忍び音に泣き折れられました御様子に、わたくしも母親も共々に覚えず衣の袖を絞ったことでございました。そのような不吉な兆しに心を暗くしながらも、なおもお跡を尋ねてその日その日を過ごしておりますうち、やがて十一月の声を聞いて二三日がほどを経ました頃でございます。わたくしは今出川の大路を東へ、橋を越して尚もさ迷って参りますうち、地獄谷への坂道にやがて掛ろうというあたりで、のそりのそりと前を歩んで参る僧形の肩つきが、なんと松王様に生き写しではございませんか。もしやとお声をかけてみますと、振向かれたお顔にやはり間違いはございませんでした。やれ嬉しやとわたくしは走せ寄りまして、お怨みも御祝著も涙のうちでございます。「いや許せ許せ。俺が悪かったよ」と相変らずの御豁達なお口振りで、「俺はあれからこっち、この谷奥の庵に住んでいる。真蘂和尚と一緒だよ。地獄谷に真蘂とは、これは差向き落首の種になりそうな。あの狸和尚、一思いに火の中へとは考えたが、やっぱり肩に背負って逃げだして、あとから瑞仙殿に散々に笑われたわい。まあこの辺が俺のよい所かも知れん」などと早速の御冗談が出ます。まあ少し歩きながら話そうとの仰せで、わたくしの差上げました御消息ぶみ七八通を、片はしより披かれてお眼を走らせながら、坂を足早に登って行かれます。池田のあたりから右へ切れて、小高い丘に出たところで、さっさとその辺の石に腰をおかけになります。「まあそなたも坐れ。ここからは京の焼跡がよう見えるぞ」とのお言葉に、わたくしも有合う石に腰をおろしました。
わたくしは更めて一望の焼野原をつくづくと眺めました。本式の戦さが始まってより、まだ半年にもならぬ間に、まったくよくも焼けたものでございます。ちょうど真向いに見えております辺りには、内裏、室町殿、それに相国寺の塔が一基のこっておりますだけ、その余は上京下京おしなべて、そこここに黒々と民家の塊りがちらほらしておりますばかり、甍を上げる大屋高楼は一つとして見当りません。眺めておりますうちに、くさぐさの思いが胸に迫り、覚えずほろほろと涙があふれそうになって参ります。松王様も押黙られたまま、姫の御消息を打ち返し打ち返し読んでおられます。沈黙のうちに小半時もたちましたでしょうか。……
と、松王様はゆきなりお文を一くるみに荒々しく押し揉まれて、そのまま懐ふかく押し込まれると、つとこちらを振り向かれて、「どうだ、よう焼けおったなあ。相国も焼けた、桃花文庫も滅んだ、姫もさらいそこねた、はははは」と激しい息使いで吐きだすようにお話しかけになりました。例になく上ずったお声音に、わたくしは初めのうちわが耳を疑ったほどでございます。わたくしが何と申上げる言葉もないままでおりますと、松王様は尚もつづけて、お口疾にあとからあとから溢れるように、さながら憑物のついた人のようにお話しかけになります。それが後では、もうわたくしなどのいることなどてんでお忘れの模様で、まるで吾とわが心に高声で言い聴かすといった御様子でございました。わたくしは何か不気味な胸さわぎを覚えながら、じっと耳を澄まして伺っておりました。いろいろと難しい言葉も出て参りますので一々はっきりとは覚えませんけれど、大よそはまず次のようなお話なのでございました。
「この焼野原を眺めて、そなたはさぞや感無量であろうな。俺も感無量と言いたいところだが、実を云えば頭の中は空っぽうになりおった。今日は珍しく京のどこにも兵火の見えぬのが却って物足らぬぐらいだ。俺は事に餓えておる。事がなくては一日半時も生きてはゆけぬと思うほどだ。それを紛らわそうと、そなたはよもや知るまいが、俺は夜闇にまぎれて毘沙門谷のあたりを両三度も徘徊してみたぞ。姫があの寺へ移られたことは直きに耳に入ったからな。そしてあの小径この谷陰と、姫をさらう手立をさまざまに考えた。どういう積りかは知らぬが、仰山に薙刀までも抱えておった。いや飛んだ僧兵だわい。その三晩目に、姫を寝所から引っさらうことは、案外に赤子の首をひねるよりた易いことが分った。手順は立派に調った。そなたなんどは高鼾のうちに手際よくやってのけられる。そこで俺は馬鹿々々しくなってやめてしまった。よくよく考えてみたところ、俺の欲しいのは姫ではなくして事であった。それが生憎『事』ほどの事で無いのが分ったまでだ。姫のうえは気の毒に思う。だが所詮、俺が引っさらって見たところであの姫の救いにはならぬ、この俺の救にもならぬ。……
「それ以来、俺は毎日この丘へ登って、焼跡を見て暮した。何か事を見附けだそうとしてだ。どこぞで火煙の立つ日は心が紛れた。それのない日は屈托した。さて、恋が事でなかったとすればお次は何だ。俺はまず政治というものを考えてみた。今度の大乱の禍因をなしたのは誰だ、それを考えてみようとした。それで少しは心が慰さもうかと思ったのだ。世間では伊勢殿が悪いという。成程あの男は奸物だ、淫乱だ、私心もある、猿智慧もある。それに俺としても家督を追われた怨みがある、親の仇などと旧弊な言掛りも附けようと思えば附けられよう。だがこの男も結局は俺の心を掻き立てては呉れぬ。小さいのだ、下らぬのだ。あれほどの野心家なら、どこの城どこの寺の隅にも一人や二人は巣喰っておる。それでは蔭凉軒はどうだ。世間ではあの老人が義政公を風流讌楽に唆かし、その隙にまぎれて甘い毒汁を公の耳へ注ぎ込んだ張本人のように言う。赤入道(山名宗全)なんぞは、とり分けて蔭凉の生涯失わるべしなどと、わざわざ公方に念を押しおる。それほどに憎らしいか、それほどに怖ろしいか。俺はあの老人とこれで丸六年のあいだ一緒に暮して来たが、唯の詩の好きな小心翼々たる坊主だ。もそっと詩の上手なあの手合は五山の間にごろごろしておる。あれを奸悪だなど言うのは、奸悪の牙を磨く機縁に恵まれぬ輩の所詮は繰り言にしか過ぎん。ではそんな詰らん老人をなぜ背負って火の中を逃げた。孟子は何とやらの情と言ったではないか。俺の知った事ではない。……
「とするとこの両名の言うなりになった公方が悪いということになる。成程あまり感服のできる将軍ではない。畏くも主上は満城紅緑為誰肥と諷諫せられた。それも三日坊主で聞き流した。横川景三[#ルビの「おうせんけいさん」は底本では「おうせいけいさん」]殿の弟子分の細川殿も早く享徳の頃から『君慎』とかいう書を公方に上って、『君行跡悪しければ民順はず』などと口を酸くした。それもどこ吹く風と聞き流した。俺は相国寺の焼ける時ちょっと驚いたのだが、あの乱戦と猛火が塀一つ向うで熾っている中を、折角はじめた酒宴を邪魔するなと云って遂に杯を離さず坐り通したそうだ。あれは生易しいことで救える男ではない。政治なんぞで成仏できる男ではない。まだまだ命のある限り馬鹿の限りを尽すだろうが、ひょっとするとこの世で一番長もちのするものが、あの男の乱行沙汰の中から生れ出るかも知れん。……
「そこで近頃はやりの下尅上はどうだ。これこそ腐れた政治を清める大妙薬だ。俺もしんからそう思う。自由だ、元気だ、溌剌としておる。障子を明け放して風を入れるような爽かさだ。俺は近ごろ足軽というものの髯づらを眺めていて恍惚とすることがある。あの無智な力の美しさはどうだ。宗湛もよい蛇足もよい。だが足軽の顔を御所の襖絵に描く絵師の一人や二人は出てもよかろう。まあこれはよい方の面だ。けれど悪い面もある。人心の荒廃がある。世道の乱壊がある。第一、力は果して無智を必須の条件とするか、それが大いに疑問だ。一時は俺も髪の毛をのばして、箒を槍に持ち替えようかと本気で考えてみたが、それを思ってやめてしまった。……
「ではその荒廃乱壊を救うものは何か。差当っては坊主だ。俺は東福で育って管領に成り損ねて相国に逆戻りした男だ。五山の仏法はよい加減厭きの来るほど眺めて来た。そこで俺の見たものは何か。驚くべき頽廃堕落だ。でなければ見事きわまる賢哲保身だ。それを粉飾せんが為の高踏廻避と、それを糊塗せんが為の詩禅一致だ。済世の気魄など薬にしたくもない。俺は夢厳和尚の痛罵を思いだす。『五山ノ称ハ古ニ無クシテ今ニアリ。今ニアルハ何ゾ、寺ヲ貴ンデ人ヲ貴バザルナリ。古ニ無キハ何ゾ、人ヲ貴ンデ寺ヲ貴バザルナリ。』またこうも言われた。『法隆将ニ季ナラントシ、妄庸ノ徒声利ニ垂涎シ、粉焉沓然、風ヲ成シ俗ヲ成ス。』人は惜しむらくは罵詈にすぎぬという。しかし克く罵言をなす者すら五山八千の衆徒の中に一人もないではないか。いや一人はいる。宗純和尚(一休)がそれだ。あの人の風狂には、何か胸にわだかまっているものが迸出を求めて身悶えしているといった趣がある。気の毒な老人だ。だがその一面、狂詩にしろ奇行にしろ、どうもその陰に韜晦する傾きのあるのは見逃せない。俺にはとてもついて行けない。……
「そこで山外の仏法はどうか。これは俺の知らぬ世界だから余り当てにはならぬが、どうやら人物がいるらしい。『祖師の言句をなみし経教をなみする破木杓、脱底桶のともがら』を言葉するどく破せられた道元和尚の法燈は、今なお永平寺に消えずにいるという。それも俺は見たい。応永のころ一条戻橋に立って迅烈な折伏を事とせられたあの日親という御僧――、義教公の怒にふれて、舌を切られ火鍋を冠らされながら遂に称名念仏を口にせなんだあの無双の悪比丘は、今どこにどうしておられる。それも知りたい。叡山の徒に虐げられて田舎廻りをしている一向の蓮如、あの人の消息も知りたい。新しい世の救いは案外その辺から来るのかも知れん。だがこれも今のところ俺には少しばかり遠い世界だ。……
「方々見廻しては見たが、まあ現在の俺には、諦めて元の古巣へ帰るほかに途はなさそうだ。それそれそなたの主人、一条のおやじ様の書かれた本にもあるではないか。『理ハ寂然不動、即チ心ノ体、気ハ感ジテ遂ニ通ズ、即チ心ノ用』……あの世界だ。あのおやじ様は道理にも明るく経綸もあるよい人だ。只惜しいかな名利が棄てられぬ。信頼や信西ほどの実行の力も気概もない。そして関白争いなどと云うおかしな真似をしでかしては風流学問に身をかわす。惜しい人物だ。それにつけても兄様の一慶和尚は立派なお人であったぞ。いまだに覚えている、『儒教デモ善ト云フモ悪ニ対スルホドニ善ト悪トナイゾ、中庸ノ性ト云フタゾ』などと、幼な心に何の事とも分らず聞いておったあの咄々とした御音声が、いまだに耳の中で聞えている。そもそも俺のような下品下生の男が、実理を覚る手数を厭うて空理を会そうなどともがき廻るから間違いが起る。そうだ、帰るのだ、やっと分ったよ。虎関、夢窓、中巌、義堂、そして一慶さま……あの懐しい師匠たちの棲まう伝統へ、宋の学問へ、俺は帰るのだ。」
そこでようやく言葉を切られますと、そのまま石からお腰を上げて、こちらは見向きもなさらず丘を下りて行かれます。わたくしは呆れて追いすがり、「ではこの先どこへおいで遊ばす」と伺いますと、「明日にも近江へ往く、あの瑞仙和尚がおられるのだ。何か言伝てでもあるかな」とのお答え。「姫君へお返りごとは」と重ねて伺いますと、「いま喋ったことが返事だ。覚えているだけお伝えするがいい。」そうお言い棄てになるなり、風のように丘を下りて行かれたのでございます。
近江へ往くとは仰しゃいましたが、わたくしには実とは思われませんでした。なぜかしらそんな気が致したのでございます。ひょっとしたらあのまま東の陣にでもお入りになって、斬り死になさるお積りではあるまいかとも疑ってみました。これもそのような気がふと致しただけでございます。いずれに致せ、その日以来と申すもの、松王様の御消息は皆目わからずなってしまいました。地獄谷の庵室と仰しゃったのを心当てに尋ねてみましたが、これはどうやら例のお人の悪い御嘲弄であったらしく、真蘂西堂は前の年の九月に伊勢殿と御一緒にあさましい姿で都落ちをされたなりであったのでございます。ちょっと潜かに上洛されたような噂もありましたので、それを種に人をお担ぎになったのでございましょう。鶴姫様の御悲歎は申すまでもございません。南禅相国両大寺の炎上ののちは、数千人の五山の僧衆、長老以下東堂西堂あるいは老若の沙弥喝食の末々まで、多くは坂下、山上の有縁を辿って難を避けておられる模様でございましたので、その御在所御在所も随分と探ねてまわりました。瑞仙様が景三、周鱗の両和尚と御一緒に往っておられます近江の永源寺、あるいは集九様のおられる近江の草野、または近いところでは北岩倉の周鳳様のお宿、それに念のため薪の酬恩庵にお籠りの一休様のところまでも探ねてみましたが、お行方は遂に分らず、その年も暮れ、やがて応仁二年の春も過ぎてしまいました。
そのうち毘沙門の谷には、お移りになりまして二度目の青葉が濃くなって参ります。明けても暮れても谷の中は喧しい蝉時雨ばかり。その頃になりますと、この半年ほど櫓を築いたり塹を掘ったりして睨み合いの態でおりました東西両陣は、京のぐるりでそろそろ動き出す気配を見せはじめます。七月の初には山名方が吉田に攻め寄せ、月ずえには細川方は山科に陣をとります。八月になりますと漸く藤ノ森や深草のあたりに戦の気配が熟してまいり、さてこそ愈々東山にも嵯峨にも火のかかる時がめぐって来たと、わたくしどもも私かに心の用意を致しておりますうち、その十三日のまだ宵の口でございました。遽かに裏山のあたりで只ならず喚き罵る声が起ったかと思ううち、忽ち庫裡のあたりから火があがりました。かねて覚悟の前でもあり、幸い御方様も姫君も山門のほとりの寿光院にお宿をとっておいででしたから、東福寺の方角にはまだ何事もないらしい様子を見澄まし、折からの闇にまぎれて、すばやく偃月橋よりお二方ともお落し申上げました。
残りました手の者たちとわたくしは、百余合のお文櫃の納めてあります北の山ぎわの経蔵のほとりに佇んで、成行きをじっと窺っております。当夜は風もなく、更にはまた谷間のことでもあり、火の廻りはもどかしい程に遅く感ぜられます。そのうちに食堂、つづいて講堂も焼け落ちたらしく、火の手が次第に仏殿に迫って参ります頃には、そこらにちらほら雑兵どもの姿も赤黒く照らし出されて参ります。どうやら西方の大内勢らしく、聞き馴れぬ言葉訛りが耳につきます。そのような細かしい事にまで気がつくようになりましたのも、度重なる兵火をくぐって参りました功徳でもございましょうか。やがて仏殿にも廻廊づたいにとうとう燃え移ります。それとともに、大して広からぬ境内のことゆえ、鐘楼も浴室も、南麓の寿光院も、一ときに明るく照らし出されます。こちら側の経蔵もやはり同じことであったのでございましょう、松明を振りかざした四五人の雑兵が一散に馳せ寄って参りました。その出会いがしらに、思いもかけぬ経蔵の裏の闇から、僧形の人の姿が現われて、妙に鷹揚な太刀づかいで先登の者を斬って棄てました。その横顔を、ああ松王様だとわたくしが見てとりましたとき、こちらを向いてにっこりお笑いになりました。残兵どもは一たん引きました。その隙に「姫は」とお尋ねになります。「お落し申しました。」「やあ、また仕損じたか」と、まるで人ごとのような平気な仰しゃりようをなさいます。つづけて、「細川の手の者が隣の羅刹谷に忍んでいる。ここは間もなく戦場になるぞ。そなたも早く落ちたがよい。俺も今度こそは安心して近江へ往く。これを取って置け」と小柄をわたくしの掌に押しつけられたなり、そこへ迫って参りました新手の雑兵数人には眼もくれず、のそりと経蔵のかげへ消えてゆかれました。それなりわたくしはあの方にはお目にかからないのでございます。いいえ、今度こそは近江へ行かれたに違いございません。これもわたくしのほんの虫の知らせではありますけれど、これがまた奇妙に当るのでございますよ。
そののちのことは最早や申上げるほどの事もございますまい。その月の十九日には、関白さまは東の御方、鶴姫さまともども、奈良にお下りになりました。そして月の変りますと早々、これもあなた様よく御存じのとおり、姫君はおん齢十七を以て御落飾、法華寺の尼公にお直り遊ばしたのでございます。……ああ、あの文庫のことをお尋ねでございますか。あの夜ほどなく経蔵にも火はかかったのでございますが、幸い兵どもが早く引上げて行って呉れましたため、百余合のうち六十二合は無事に助け出すことが叶いました。それは只今当地の大乗院にお移ししてございます。先日もそのお目録のお手伝いを致したところでございますが、もとの七百余合のうち残りましたのは十の一にも満ちませぬとは申せ、前に申上げました玉葉、玉蘂をはじめ、お家累代の御記録としましては、後光明峰寺殿(一条家経)の愚暦五合、後芬陀利花院の玉英一合、成恩寺殿(同経嗣)の荒暦六合、そのほか江次第二合、延喜式、日本紀、文徳実録、寛平御記各一合、小右記六合などの恙なかったことは、不幸中の幸いとも申せるでございましょう。それに致しましても此度の兵乱にて、洛中洛外の諸家諸院の御文書御群書の類いの焼亡いたしましたことは、夥しいことでございましたろう。それを思いますと、あらためてまた桃花坊のあの口惜しい日のことも思いいでられ、この胸はただもう張りさけるばかりでございます。人伝てに聞及びました所では、昨年の暮ちかく上皇様には、太政官の図籍の類を諸寺に移させられました由でございますが、これも今では少々後の祭のような気もいたすことでございます。
ああ、どうぞして一日も早く、このような戦乱はやんで貰いたいものでございます。さりながら京の様子を窺いますと、わたくしのまだ居残っておりました九月の初には嵯峨の仁和、天竜の両巨刹も兵火に滅びましたし、船岡山では大合戦があったと申します。十月には伊勢殿の御勘気も解けて、上洛御免のお沙汰がありましたとやら、またそのうち嘸かし色々と怪しげな物ごとが出来いたすことでございましょう。そう申せば早速にも今出川殿(足利義視)は、霜月の夜さむざむと降りしきる雨のなかを、比叡へお上りになされたとの事、いやそれのみか、遂には西の陣へお奔りになったとやら。この師走の初め頃、今出川殿討滅御祈祷の勅命が興福寺に下りました折ふしは、いや賑やかなことでございましたな。さてもこの世の嵐はいつ収まることやら目当てもつきませぬ。お互いにあまりくよくよするのは身の毒でございましょう。はや夜もだいぶん更けました様子。どれお名残りにこれだけ頂戴いたして、あす知らぬわが身の旅の仮の宿、お障子にうつる月かげなど賞しながら、お隣でゆるりと腰をのさせていただきましょう。……