スポーツアルピニズムは登山界を風靡ふうびしている。登山といえばまずスポーツ登山のことであり、国内の登山はもとより、未踏のヒマラヤへのエクスペディションすらこの範疇はんちゅうで行なわれようとする勢いである。事実、登山行動にはスポーツ的感興が常に伴うものであるが、それがわれわれの時代感情にマッチしたところに、スポーツ登山今日の隆盛は根ざしているといえよう。
 スポーツ登山の眼目はスポーツ的感興の意識的追求である。それを登山の枠内で行なうというのである。すなわち、内容的スポーツであり、形式的には登山である。この構成が本来のスポーツ登山を規定する。ところが、その内容としてのスポーツ性のみに捉われて、近来ややもすれば登山という形式を逸脱いつだつしがちな傾向が認められる。たまたま見受けられる「頂きを度外視した」ルートハンティングがその好例である。「頂きはもはや何ものでもなくなった」一部のスポーツアルピニストたちはそう言って頂きの没落を唱える。「われわれの求めるものは山の手強さであり、頂きよりはむしろ側面である」彼らの考える山はとかく五色の千代紙を三角に扱ったようなものであることが多い。下辺も頂点も等しく紙であることには変りはない。そして彼らは――たとえば――赤いところを登りたがる。合理主義者である彼らは無駄をはぶく。赤いところから赤いところへ、なろうことならば赤いところだけ通って歩こうとする。頂きなどはたいてい赤くないから一顧いっこも与えられない。その手前から戻ってくるか、さもなければ捲いてしまう。これに反して赤いところならば、どんなところでも見逃さない。河原に転がっている大岩や、藪に埋もれた巨たる岩場や、まかり間違えば大都会のビルや石垣さえ登りかねない。
 こういう態度がスポーツ的でない、ということはできないであろう。だが少なくとも登山的でないことだけは確かである。今日のわれわれの観念からすれば、羚羊かもしか撃ちや地質探査は登山と呼ばれない。しかしそれは猟師や鉱山師が谷から谷を探り歩いたり、山の腹を捲いて歩いたりする場合のことであって、もし彼らが――本意ならずも――エベレストの頂上に立ったとすればやはりわれわれはそれをエベレストの登山と認めるであろう。スポーツの場合も同様であって、沢を遡行そこうして登りつめたところから漫然と尾根を下ったり、山の裾の岩壁を上り下りすることが、何故に登山と言えるであろうか。
 それでもスポーツであればよいではないか、という主張もあろう。いかにもそういう行為がスポーツでないわけはない。だが、スポーツであるにしても、なんと末梢感覚的、病的なスポーツであろう。芯からの逞しさや、均衡のとれた豊円さはとても感じられない。そしてこれで満足させられるようなスポーツ感情はなんと病的なものであろう。多少穿うがち過ぎた推測かも知れないが、「他人がどう登ったから、自分はどう登る」といった競争意識、登山技術のみをもって人間の格付けをしようとする技術偏重へんちょう主義、あるいはさらに進んで、取るに足らない小さな谷や尾根をあさり歩いて、それが前人に取り残されていたがゆえに、自分がひとかどのことを成しとげたように思い込む功名主義など、皆こうした病的趣味に根を発しているのではなかろうか。
 嶮しいところを登るのが悪いと私は言っているのではない。より困難なルートを登れるものなら、どんな困難なルートでも登ってくれ。だがそのルートの終りには必ず頂きがあり、ルートとして独自に評価されるものでなく、その頂きのより魅力的な道程であることを忘れないでくれ。
 一つの頂きに目標を設定する、その頂きを所望のルートから登るに好都合な根拠地を求める。そしてその根拠地を出発して、途中の困難を一つ一つ克服しながら、なんとかして目標に達しようと努力する。健全なスポーツとしてならば、われわれは登山の形式を備えたその一連の努力全体を愛すべきではなかろうか。一つの登頂を成し遂げる、たとえ貧しい登頂でも、それを完全に果たす――一つのものを完成するか、失敗として中途で放棄するかに精魂を傾ける悦びは、悪場そのものに陶酔する種類の悦びとは自ら異なる。描くことの悦びではなく、描き上げることの悦びである。感覚的な悦びでなく理念的な悦びである。
 踏みならされた登山道を、十年一日のごとく頂きへ通うピークハンティングはわれわれの採るところではない。自己のオリジナリティによって登るべし。しかしそれを排斥するあまりに、われわれ自身が妙な方向にはしってしまうことは厳に戒めねばならない。古い盃に新しい酒を盛って、われわれは昔ながらのピークハンティングの中に健全なスポーツ的感興を求めていこう。

〔付記〕――頂きの概念については、じつは精密な考案を要するものであるが、それは後日に譲ることとし、ここではごく常識的な意味で用いておくことにする。
(昭和二十二年十月)

底本:「風雪のビバーク」二見書房
   1971(昭和46)年1月12日初版発行
入力:ゼファー生
校正:門田裕志
2005年2月20日作成
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