人
法勝寺執行俊寛
丹波少将成経
平判官康頼
有王(俊寛の昔の家僮)
漁夫(男、女、童子ら数人)
丹左衛門尉基康(清盛の使者)
その従者 数人
船頭 数人
時
平氏全盛時代
所
鬼界が島
[#改ページ]法勝寺執行俊寛
丹波少将成経
平判官康頼
有王(俊寛の昔の家僮)
漁夫(男、女、童子ら数人)
丹左衛門尉基康(清盛の使者)
その従者 数人
船頭 数人
時
平氏全盛時代
所
鬼界が島
第一幕
鬼界が島の海岸。荒涼とした砂浜。ところどころに芦荻など乏しく生ゆ。向こうは渺茫たる薩摩潟。左手はるかに峡湾をへだてて空際に硫黄が嶽そびゆ。頂より煙をふく。ところどころの巌角に波砕け散る。秋。成経浜辺に立って海のかなたを見ている。康頼岩の上に腰をおろして木片にて卒都婆をつくっている。
成経 あゝとうとう見えなくなってしまった。九州のほうへ行く船なのだろう。それとも都へのぼる船かもしれない。わしの故郷のほうへ。
康頼 どうせこのような離れ島に寄って行く船はありませんよ。そんなに毎日浜辺に立って、遠くを通る船を見ていたってしかたがないではありませんか。
成経 でも船の姿だけでもどんなになつかしいか。灰色にとりとめもなく広がる大きな海を見ているとわしは気が遠くなってしまう。わしとは何の関係もないように、まるで無意味で、とりつくしまもないような気がする。せめて向こうに髪の毛ほどでもいいから、陸地の影が見えてくれたら。
康頼 それは及びもつかない願いでございます。ここからいちばん近い薩摩の山が、糸すじほどに見えるところまで行くのでも、どんな速い船でも二、三日はかかると言いますから。
成経 でも船の姿がほんのちょっとでも見えるとわしには希望の手がかりがつくような気がします。
康頼 それで毎日毎日海ばかり見ているのですか。
成経 十日に一度くらいは白帆のかげが見られます。でもはれた日でないと雲がかかって見えません。だからしけの日はわしにとって実に不幸な日です。朝起きて見て雲が晴れていると、あゝ、きょうもまた浜辺に立って船の見えるのを待とうと思って希望がわきます。
康頼 希望という言葉はほんとうにわしたちにとってありがたい、けれど身をきるような響きを持って聞こえますね。
成経 希望、そうだ希望だ。船の姿はわしの一縷の希望だ。だってそれででもなくて何をたのしみに生きるのだろう。もしも何かの不思議であの遠くを通う船がこっちにやってくるかもしれない。
康頼 それは神仏の力でなくてはとてもできることではありません。
成経 それであなたは毎日卒都婆をつくって流すのですか。
康頼 きょうでもう九百九十五本流しました。もう五本流せば、熊野権現様にたてた誓いのとおり、千本という数になります。
成経 あ。また白帆が見える。ほんとにかすかで、よく見なくては鴎とまちがうくらい小さいけれど。来てごらんなさい。
康頼 わしは見ますまいよ。
成経 早く見ないとかくれてしまう。あなたは初めはわしといっしょに毎日船を見にいらしたではありませんか。
康頼 けれどとてもこの島へは来ないとあきらめたのです。あの船の姿が雲にかくれて見えなくなるときの気持ちが恐ろしくなったのです。わしは何だかあの帆を見ると、葬らいの行列の幡のような気がしてなりません。
成経 何をほうむるのですか。
康頼 わたしたちの希望を!
成経 (悲しげに)あゝ、よしてください。わしのただ一つの希望に、そんな不吉な想像を描くことは。
康頼 わしはそれよりも、日頃念ずる神様の不思議の力によって、都へ帰ることの許さるるよう祈ったほうがいいと思うようになりました。
成経 けれど考えてごらんなさい。その小さな卒都婆が何百里という遠い海を漂うて都のほうの海べに着くということがありましょうか。
康頼 でも千本のうち一本くらいは。
成経 とても九州までも行きはしますまい。潮風に吹き流されて。この島の磯にでも打ちあげれば、蜑の子が拾うて薪にでもしてしまうだろう。
康頼 しかしあれには二首の歌が彫りつけてあります。故郷をしたう歌が。心あるものはまさか焚いてしまいはしますまい。
成経 文字など読めるような人がこの島にいるものですか。言葉でもろくに通じないくらいだのに、男は烏帽子もかぶらず女は髪もさげず、はだしで山川を歩くさまはまるで獣のようではありませんか。
康頼 あゝ。わしはあの優雅な都の言葉がも一度聞きたい。あの殿上人の礼容ただしい衣冠と、そして美しい上の品のよい装いがも一度見たい。
成経 この島の女は猿のように醜い。
康頼 わしはけさ卒都婆を流しにいって、岸辺に立ってさびしいことを考えました。わしはわし自身が丹精してほりつけた歌を今さらのように読み返しました。何たるさびしい歌だろう。卒都婆は波にもまれて芦のしげみにかくれてしまいました。わしはそれをじっと見送っていたら涙がこぼれた。しかし神様には何でもできないことはないはずだ。千本の内一本でも中国あたりの浜にでも着いて心ある人に拾われたら、きっと清盛の所へ送ってくれるだろう。清盛だって鬼神でもあるまい。あのさびしい歌を読んで心をうごかさぬことはあるまい。あゝ。われわれがこの孤島でどんな暮らし方をしているかを知ったら。どんなにふるさとをしとうているかを知ったら。むかえの使いを送ってくれまいものでもない。
成経 しかしそれはあまりにおぼつかない希望だ。
康頼 神を疑ってはいけません。熊野権現は霊験あらたかな神でございます。これまでかけた願の一つとして成就しなかったのはありません。
成経 しかしここは紀州ではなし、那智の滝もないではありませんか。
康頼 神はどこにでもいられます。わしがあの奥深い森を選んだのは、あたりの様子がどことなしに那智の御山に似ているからです。あれは本宮、これは新宮、一の童子、二の童子とかりに所を定め、谷川の流れを那智の滝と思い、そこに飛滝権現を形ばかりにまつりたてまつったのでございます。どんなにさびしい孤島に流されても、拝する神のないのは堪えられません。あの鬼のような清盛だって厳島明神に帰依しているではありませんか。
成経 (あざけるように)ではわしは天魔でもまつりましょうよ。そしてあの清盛を呪ってやりましょう。
康頼 わしはこの間も権現様に通夜をして祈りました。そして祈り疲れてうとうとしました。するとわしは不思議な夢を見たのです。沖のほうから潮風に吹かれて木の葉が二枚ひらひらと飛んできて、わしの袖にかかりました。それを手に取ってみると御熊野の山にたくさんある栴の葉なのです。よく見るとその葉に歌が一首書いてあるのです。「ちはやふる神に祈りのしげければ、などかみやこへかえらざるべき」とありあり読みました。あゝありがたいと思ってその栴の葉をいただいて目がさめたのです。
成経 それはあなたがいつも都へ帰りたい帰りたいと思っているから、そんな夢を見たのでしょう。
康頼 しかしありありと歌まで覚えているのです。霊夢に相違ありません。たとえそうでなくっても、わしはそうと信じたいのです。
成経 それであの卒都婆流しを思いついたのですね。
康頼 (さびしそうに)はい。
間。成経 俊寛殿はどこへ行きましたか。
康頼 きょうも熊野権現にお参りなされました。
成経 あの人は神など拝むような人ではなかったが。
康頼 人間は苦しい目にあうと神を拝むようになるものですよ。今でも時々こんなことをしたって何になるなどと自暴になってわしにあたったり、それかと思うと絶望したように、ため息をついたりなさいます。そのくせやはり毎日お参りしていらっしゃるようです。
この時雷のとどろくごとく、大いなる音響きわたる。
成経 あゝ、また山が荒れるな。
康頼 ではあしたは雨ですぞ。あの山が荒れるときっとふもとには雨が降るのだから。
成経 あしたは船の姿も見られますまい。雨降りの日ぐらいわしは不幸な気のすることはない。わしはあなたのように信心はなし、雨の漏るあばら家で衣の袖をぬらしながら、物思いにふけると、さびしいことばかり考えられます。希望の影も見失うて、いちばんさびしいことをさえ考えますよ。……死のことをさえ。
康頼 (身ぶるいする)それを言うのはよしてください。わしはそれを考えるのを恐れているのですから。きっといい日が来ますよ。成経殿。わしたちは希望を失いますまい。権現様のご利生でもきっと迎えの船が来て、都へかえることができるでしょう。
成経 それはあの山から煙の出ない日を待つよりも、はかないことかもしれない。
康頼 でもあの山で硫黄を取って、集めてそれを漁師の魚や野菜と交換しなかったら、わしたちはどうして生きてゆくのでしょう。
成経 あの年に一度九州から硫黄を取りに来る船に頼んで、せめて九州の地まで行くことはできますまいか。九州の地にさえ着けばそこからは都へ通う船は多いのだから。
康頼 わしらが飛ぶ鳥も落とす清盛に謀叛して、島流しになってる身であることを、知らない者はありません。とても船にのせてはくれません。島の漁師たちさえわしらを恐れて近づかぬではありませんか。
成経 何とかして商人をだまして九州まで行けば、どこかに隠れて時期をうかがうこともできるだろう。
康頼 草の陰、洞のすみを捜しても、あの清盛が見つけ出さずにはおきますまい。そうなったら今度はとても生かしてはおきますまい。
成経 (絶望したように)あゝ。わしは人間というものがこのようなさびしい、乏しい状態に陥り得るものとは思わなかった。いや、それよりもかような寂寞と欠乏とに耐えてもなお生を欲するものとは思わなかった。わしがもし死を願うことができたなら! わしはたびたびそう思うのです。もしわしがわしのただ一つの希望を失ってしまったら、も一度都へ帰れるかもしれないという、かすかな、何のよりどころもないこの空想を。(悲しげに)あゝこの空想を[#「空想を」は底本では「空想を」]描く勇気をもはや失ってしまったなら、わしは泥のようにくずれて死んでしまうであろうと。そしてそのほうがかえって幸福かもしれないと。けれど浜辺に立ってたまさかに遠くの沖をかすめて通る船の影を見ると、わしには再び希望が媚びるように浮かんでくるのです。わしをからかうように、じらすように、幸福をのせてゆく船、やがて恋しいふるさとの岸辺に着く船、疲れた旅人はあたたかい団欒に加わるうれしさに船を急がせているのだろう。
康頼 (顔をおおう)妻や子のことを考えるのは恐ろしい。
成経 わしの子はもう髪を結うほどになっているはずです。別れる時に三つだったから。乳母の六条の膝にのって、いつも院の御所に出仕する時と同じように、何もしらないで片言を言ってわしに話しかけていました。門の外にはいかめしく武装した清盛の兵士らがわしの車を擁して待っていた。彼らのある者は剣や槍で扉をこわれるほどたたいて早く早くと促していた。妻はまっさおな顔をしてふるえていた。わしの袖をつかんで、おゝ妻は妊娠だったのだ。わしは無礼な野武士らの前にひざまずいて、乞食のごとくに哀願した。ただ出発をほんの五分間延ばすことを。ただ一口妻をはげます言葉をかけてやるために、そして伜の頭髪を別れのまえにも一度なでてやるために!
康頼 あゝ、わしがあの時に受けた屈辱を思えば胸が悪くなる!
成経 野武士らはわしの懇願を下等な怒罵をもって拒絶した。そして扉を破って闖入し、武者草鞋のままでわしの館を蹂躪した。わしはすぐに飛び出て馬車に乗った。彼らが妻を侮辱することを恐れたから。
康頼 北の方はどうされました。
成経 母は父の安否ばかり心配して泣いていました。そしてなぜわしがかかる恐ろしいことを企てたかをかきくどきました。父はその朝院に出仕する途中を捕えられたのです。
康頼 あゝ。成親殿はどうされたやら。
成経 父のことを思うのはわしの地獄です。清盛は謀叛の巨魁として父をもっとも憎んでいました。清盛が父を捕えていかに復讐的に侮辱したか。わしはそれを聞いた時むしろ死を欲しました。わしは馬車の中で警固の武士らに父の安否をききました。彼らは詳しく詳しく語りました。不必要な微細なことまで。わしをはずかしめるために。清盛は西八条の邸で父を地べたにけり落としたそうです。その時父が冠をたたき落とされて、あわてて拾おうとしたことまで彼らは語りました。その時清盛がまたけったので父は鼻柱が砕けて黒血がたれた。その時清盛は二人の武士に命じて左右から父の手を捕えて地べたにねじ伏せさせ、「彼にわめかせろ」と言ったそうです。二人の侍はさすがに気の毒になって、小さい声で耳もとにささやいて「何とでもいいから声をたてなさい」と言った。するとおゝ何たることでしょう。父はつくり声で悲鳴をあげたそうです。清盛は大笑いして勝ち誇ったようにふすまをあけて出ていった。その時の父には無念の表情よりもむしろ責苦をのがれた安堵の色が見えた。こういうことをはたで見ていたと言って、明らかにわしをからかう意図を見せて詳しく詳しく語りました。そして彼らは父がかかる怯懦なる器量をもって、清盛を倒そうともくろんだのは、全く烏滸の沙汰であると放言しました。むろん、わしは彼らの話の細部は信じなかった。しかし黙って聞いていなくてはならなかったのです。
康頼 いつもは私の車の先払いの声にもふるえあがった青侍が、急に征服者のように傲慢な態度をもってのぞみだした。彼らと車を同じくすることだけでも堪えられない恥辱と思っていたのに!
成経 わしは同志の安否を気づかいました。しかしだめだった。彼らは何ごとをも隠して語らなくなったから、わしは牢獄の中で幾たびも壁に頭を打ちつけて死のうとしました。彼らはわしの武器を取り上げてしまったから、しかし死にきれなかった。わしは死にきれない自分を恥じた。しかし骨肉の愛と清盛に対する復讐心とがわしを死にきれさせなかった。
康頼 侮辱されながら、しかも自殺できないほどの苛責がありましょうか。それは実に一種言いようのないわるい状態です。
成経 清盛めは父とわしとを同じ備前の国に流しました。
康頼 さすがに気の毒に思ったのでしょう。
成経 重盛が懇願したからです。しかし結果は残酷ないたずらと同じになりました。ちょうど中を隔てた一つの檻に親子の獣をつなぐように。わしの配所の児島と父の配所の有木の別所とは間近いのです。しかも決してあうことは許されないのです。その欠乏と恥辱との報知だけはしきりに聞こえるけれども。(間。顔色が悪くなる)ついにわしは父が殺されたといううわさを聞きました。しかしその真否を確かめることができないうちに、この鬼界が島に移されてしまった。
康頼 それはきっと虚報でしょう。重盛が生きている限りはよもや成親殿を殺させはしますまい。自分の愛する妻の兄を! たとえ清盛が何と言いはっても。
成経 (頭を振る)いや虚報ではありますまい。虚報にしては、あまりに細部にわたった報知だったから。清盛は父をひどく憎んでいました。彼は自分の憎悪を復讐せずに制することのできるようなやつではありません。西光殿をあらゆる残酷な拷問によって白状させたあとで、その口を引きさいて首をかけたほどの清盛です。あゝ彼らは父を殺すのにどんな恥ずべき手段を用いたことか!
康頼 重盛に秘して、暗夜に刺客を忍び込ませましたか。
成経 彼らは鼠をたおすに用いる毒薬を食に盛って、父を毒害しようとしました。父が病死したと言って重盛をあざむくために。しかしそれが成功しなかったので、(よろめく)あゝ、ほとんど信ずることのできないような残酷な方法です、芦の密生している高い崖の上に連れ出して、後ろから突き落としたのです。父は芦に串刺しにされて悶死したそうです。そして父が踏みすべって落ちたと言いふらさせたのです。
康頼 (耳をおおう)あゝ。わしは聞くに耐えない。
成経 その残酷な父の最後を聞きながら、一指をも仇敵に触れることのできない境遇にあることは恐ろしい。その境遇にありながら、死にきれない身はなお恐ろしい。(顔をおおい、くず折れる)
間。康頼 (森のほうより通ずる道を見る。いたく心を動かされたるさまにて)俊寛殿が帰って来られます。
成経 (顔を上げ、向こうを見る)何か考え込んでいられますね。
康頼 まるで蜻蛉のようにやせている。
成経 ひょろひょろして今にも倒れそうな足どりをしている。
康頼 あゝ、影のような力ない人間の姿だ。
成経 わしはまるで人間のような感じがしません。木の株が歩いているような。それとも石のきれか。
康頼 あゝ、立ち止まりました。岩にもたれてため息をついている。疲れたのでしょう。
成経 沖のほうを見ています。
康頼 いや、何も見ているのではありません。空虚な目つきをしています。
成経 あゝ墓石だ。ああしてじっとして動かないところはまるで墓石だ。
康頼[#「康頼」は底本では「頼康」] (身ぶるいする)あゝ。
俊寛 (登場。ため息をつきつつ、海を見入る)
成経 呼んでやりましょう。わしらにも気がつかないのだ。
康頼 (二、三歩あゆむ)俊寛殿。
俊寛 (じっとしている)
成経 (声高く)俊寛殿。
俊寛 (二人のそばに近づく)わしに力を与えてください。わしをはげましてください。わしは絶えいりそうです。
成経 (俊寛を抱く)今希望を失う時ではありません。
康頼 あゝ神々よ。
俊寛 わしはその名を呼ぶのがいやになりました。われわれにこの悲運を与えた神に祈るのが。正しきものの名によって兵をくわだてた勇士をかかる悲惨な境遇に陥らしめ、そして王法の敵にかかる栄えをあたうるごとき不合理な神々の前に、乞食のごとくに伏してあわれみを求めることが!
康頼 神々は正しく照覧していられます。耐えしのんで祈ってあきなかったらいつかはわれわれの日がきっと来るでしょう。
俊寛 あなたはほんとうにそう信じるのですか。
康頼 信じています。
俊寛 ほんとうですか。
康頼 ほんとうに信じています。
俊寛 (康頼の顔を見る)うそではありますまいね。
康頼 (顔をそむける)うそではありません。
俊寛 どうぞきょうばかりはほんとうにいってください。わしは一生懸命なのですから。わしを慰めようと思って偽りの証をたてないでください。わしはきょうも熊野権現に日参して祈りました。しかしだめです。わしはほんとうに信じていないのですから。祈りの心はすぐにかれます。わしは宮の周囲にはえた不格好な樹立と、そしてちょろちょろと落ちる谷水を見ていると、何とも言えない欠乏の感じにうたれました。その感じは祈りとか望みとかいうような、すべての潤うた感じを殺してしまうようないやなものでした。いったいこの島にはえている草や木はどうしてこんなに醜いのでしょう。わしはすべての陰気なものを生み出すような祠の陰の湿地にぐじゃぐじゃになって、むらがりはえた一種異様な不気味な色と形をした無数の茸を見つけました。その時わしはたまらなくなって立ち上がりました。わしは餓鬼の祠を拝んでいるのではないかという気がしたのです。
康頼 (力なく地面を見つつ)地獄の底にも神はいられます。
俊寛 あゝ、あなたがそのとおりの言葉をもっと自信をもって言ってくだすったら!
康頼 法華経の中にも入於大海仮使黒風吹其船舫飄堕羅刹鬼国其中一人称観世音菩薩名者是諸人等皆得解脱羅刹之難とかいてあります。
俊寛 権威をもって言ってください。それはうそではありませんか、あなたは信じますか。
康頼 (うつむく)わしはそれを信じます。
俊寛 (ため息をつく)あゝ、あなたは囚徒のごとく不安な態度で仏の名を呼ばれます。このたいせつな証をたてるのにわしの顔をも見ないで――あゝ。
成経 (堪えかねたるごとく)康頼殿の唯一の希望をこわすのはよしてください。
俊寛 いや。わしはわしの唯一の希望をこわしました。
成経 (俊寛の肩をたたく)われわれは今絶望する時ではありません。われわれは最後の瞬間まで勇士としての覚悟を失いますまい。勇士の子孫としての誇りを。あなたはあまりに衰えました、わしたちがいかにあなたに信頼しているかを思ってください。
俊寛 わしはもうその誇りを失いそうです。
成経 蘇武は胡国との戦争に負けて、異域の無人の山に飢えた獣のようになって、十五年間もさまよい暮らしました。しかしその困苦に耐えきってついに漢王の都に帰ることができたではありませんか。
俊寛 あゝ、都よ、都よ、私はその都という言葉を聞いただけでも恋しさにふるえるようだ。
成経 帰れますよ、きっとも一度その都の地を踏む時が来ます。
俊寛 もし清盛がも一度都へかえしてくれたら、わしは清盛がわしに加えた罪悪をも許してやり、清盛の武運を祈ってでもやろうものを。
成経 おゝ、わしはわしの耳を信ずることができない、あなたの口からそんな言葉の出るのを聞くとは思わなかった。
康頼 俊寛殿はもはや何も反省することはできないのです。夢中で言っているのです。故郷を慕うほかには何も考えられないのです。
俊寛 (耳を傾けず)妻はどうしているだろう。あの気の弱い妻は。娘はどうしたろう。もう今年は十一になるはずだ。おゝあのよく泣いて母を困らせた伜はどうしたろう。あの小さな、かわゆいやつは無事に育っているだろうか。(間)もしや清盛が。(ふるえる)いや、そんなことは決してない。彼だって人間の心は持っているだろう。重盛もついている。あゝそれよりももしやあの純潔な、誇りをもった妻が、侮辱されるのを恐れて、子供を刺し殺して、自害しはしなかったろうか。いや決してそんなことはあるまい。わしの安否も定まらぬうちに、自害する勇気はとてもあるまい。それに有王がついている。あの忠実な勇敢な下僕が。他のすべての家来が皆そむき去っても、有王だけはきっと最後まで守護していてくれるだろう。(間)しかし、もしも、もしも。(間)わしの苦しみは決定することのできない苦しみだ。決定する材料の得られない苦しみだ。しかも死んでいるか、生きながらえて恥を忍んでいるか、二つの凶事の中から、決定しなくてはならないのに! わしは人間に想像力があるのが恐ろしい。不吉な想像よ。わしを放ってくれ。わしに息をつかせてくれ。
康頼 神様にすがりましょう。霊験あらたかな熊野権現の利益によって――
俊寛 もうよしてください。神の名をきくのもいやな気がする。私は信じません。われわれの神はすでにわれらを見捨てたのではないか。正しきわれらを。そして清盛の悪を祝しているのでないか。
康頼 神のことをそんな言い方なさっては――
俊寛 ちょうど暴虐な主人に仕える犬が、幾たび鞭で打たれても、今度は、今度はと思って、媚びるように尾を振っては、あわれみを乞うような眼つきをして、泣き声をたてるのを聞くようないまいましい気がする。
康頼 (力なく)あなたはわしを犬にたとえるのですか。
俊寛 主人はほかに気にいる犬を手に入れたので、もうその犬を殺そうと無慈悲に決心している。主人の興味はもはやいかにおもしろく殺そうかということにのみかかっている――
康頼 神の名のために、俊寛殿。
俊寛 (ののしるように)われわれはもはや神を捨てて外道を祭ったほうがいいかもしれない。
成経 (耳をおおう)わしはたたりを恐れます。
俊寛 (この前後より山鳴動することはげしくなる)みなたたりかもしれない。(何ごとかを思いだす。おののく)われら一味はもうとくからたたられているのだ。わしは今ほんとうにそう思う。わしはきょうまで隠していたことを話してしまおう。わしはひとりでこの重荷を心に負うているのにもはや堪えきれなくなった。
成経 もはやこの上けがす言葉を吐くのはよしてください。
俊寛 (成経の顔を見る)あなたは何も知りませんな。成親殿はわが子に語ることをも恐れていたとみえる。
成経 父が何といたしました。
俊寛 成親殿は神をけがしました。
成経 少しお慎みなされい。いかに自棄になっているとは言いながら。
俊寛 このことを知っているのはわしとあなたの父上よりほかにはない。成親殿は恐ろしいことをたくらみました。わしは一生懸命とめてみたのだ。しかし成親殿はまるで何ものかにつかれているように頑固だった。わしは力の限り抵抗したけれども、彼の欲望に征服されてしまった。彼の欲望は奈落の底に根を持っているように強かった。
成経 この上聞くのは恐ろしい。しかしわしの耳は聞かずにはいられない。
俊寛 わしは短く話します。思いだすのも恐ろしいから。あなたは成親殿が宗盛と左大将の位を争ったのを知っていますね。
成経 父は宗盛をひどく憎んでいました。法皇は父にその位を与えたいと思っていられるのに、あの清盛がそれを妨げましたから。
俊寛 あの時成親殿は八幡の甲良大明神に百人の僧をこもらせて、大般若を七夜の間行じさせました。その時宮の前の櫺の木に、男山のほうから山鳩が三羽飛んできて怪しい声で鳴きつつ食らい合いをはじめました。それがいかにもしつこく、憎み合っているように、長い長い間。ついに三羽ともたおれて死んでしまうまで。わしはその時恐ろしくなって、これはきっと凶兆だからと言って彼をとめました。しかし彼はききいれなかった。しかしあの青二才の宗盛が多くの位を飛び越えて、ついに左大将になった時に彼の怨恨は絶頂に達しました。彼は上賀茂の神社の後ろの森の中に呪詛の壇を築いて、百夜の間幾爾の密法を行じました。宗盛を呪い殺すために。夜陰の森中に、鬼火の燃える鼎の中に熱湯をたぎらせて、宗盛に似せてつくった藁人形を煮ました。悪僧らはあらゆる悪鬼の名を呼んで、咒文を唱えつつ鼎のまわりをまわりました。まるで夢中で、つかれたもののように、しつこくしつこく繰り返して。
成経 父はむろんその場にいなかったのでしょうね。ただ命じてやらせたのでしょうね。
俊寛 いや。成親殿は夜陰にまぎれて毎夜賀茂の森まで通いました。大杉の洞の下の壇の前にぴたりとすわっていました。顔はまっさおでしかも燃えるような目で僧らの所業を見ていました。
成経 わしの知らぬ間にそんな恐ろしいことが人知れずなされたとは!
俊寛 それを秘密にするために彼は恐ろしいことをしました。わしはそれを一生懸命とめたのだが。幾爾の密法は容易ならざる呪詛であって、もし神々がそれを受けない時には還着於本人と言って詛ったものに呪詛がかえるのだからといって。
康頼 あゝ、よしてください。この上もはや成経殿を――
成経 言ってください。早く言ってください。
俊寛 満願の夜成親殿は秘密の露顕することを恐れて七人の僧侶を殺して、その死骸を地の中に埋めました。
成経 おゝ。(石のごとくかたくなる)
俊寛 それからは彼の企てることは恐ろしいことばかりになった。宗盛は死ななかった。そして平家の一門がますます栄えるにつれて、彼の怨恨はいよいよつのるばかりだった。彼はいかにして平家を転覆して恨みを復讐すべきかをばかり考えるらしかった。彼はまるで怨恨の権化のようにわしには見えた。
成経 あゝ悪魔が父を魅入ったのか。
俊寛 (ふるえる)あゝ今恐ろしい考えがわしの心に起こった。まるで陰府からわき上がりでもしたように。
康頼 (堪えかねたるごとく制するごとき手つきをしつつ)俊寛殿。俊寛殿。
俊寛 (つかれたもののごとく)怨霊だ。怨霊だ。
康頼 成経殿の心臓の止まらないために!
俊寛 わしはこの思いつきにふるえる。信頼の怨霊が成親殿にのりうつったのだ。あの平治の乱に清盛に惨殺された信頼の怨霊が。
成経 あゝ呪われたる父よ。(よろめく)
俊寛 保元の乱に頼長の墓をあばいた信西は、頼長の霊に呪われて平治の乱には信頼に墓をあばかれた。信西の霊は清盛について、信頼を殺させた。今信頼の霊は成親殿にのりうつった。
成経 おゝ神々よ。
俊寛 しかし成親殿は世にもみじめな最後をとげた。父の恨みを相続するものは子でなくてはなるまい。成親殿の怨霊はあなたにつくに相違ない。
成経 あなたは悪とたたかって難にあったわれわれをいたずらに醜い復讐心を満たそうとして失敗したあわれむべき破産者におとしてしまおうとするのか。正義に殉じた父をただの犬死にさせ、あの堪えられないほどな恥な最後にも相当していたような、醜い人間にしてしまおうとするのか。(俊寛につめ寄せる)
康頼 (なだめるように)成親殿は今は平和に眠っていられるとわしは思います。
俊寛 (苦しそうに)その正義の観念の上にはっきり立っていられなくなりだしたのがわしの苦しみなのだ。いかなる困苦と欠乏とに悩もうとも自分は正しきものである! かく考えることによってわしは自分の不幸を支えていた。しかしわしはそれがあやしくなりだした。わしは勢いに巻き込まれたのだという気がする。他人の欲望――というよりも、むしろ無始以来結ぼれて解けない人間の怨讐の大渦のなかに巻き込まれたのだという気がする。わしたちがもしことを起こさなかったらだれかがきっと起こしたろう。われわれはただ選ばれたのにすぎない。三界をさまようている怨霊につかれたのにすぎない。
康頼 あなたは自分でつくりだした恐ろしいまぼろしで自分を苦しめていられるのだ。
俊寛 わしはわしのしぶとい性質を呪う。しかしわしはだめだ。わしは人間の悪が根深い根深いものに見える。二人や三人の力で抵抗しても何の苦もなく押しくずされるような気がする。わしの父、父の父、またわしのあずかり知らない他人、その祖先、無数の人々の結んだ恨みが一団になって渦巻いている。わしはその中に遊泳しているにすぎない。わし自身の欲望はその大いなる霊の欲望に征服される。そしてその欲望を自分の欲望だと思ってしまう。あゝわしはこの間恐ろしい[#「恐ろしい」は底本では「恐しい」]夢を見た。いや、夢ではない。まぼろしだ。わしは白昼に見たのだから。それは無数の霊の空中に格闘する恐ろしい光景であった。わしは武器の鏗鏘として鳴る音を空中に聞いた。そのあるものは為義のようであった。そのあるものは信西のようであった。彼らは叫び、呪い、刃をもって互いに傷つけた。その争闘ははてしないように見えた。ついに幻影の群勢は格闘しながら海の中へ没した。そしてわしは地に倒れた。
康頼 あなたは頭が変になりかけているのだ。夜も眠らずにあまり思いつめるから。心を静めるようにしなくてはあなたが狂気することをわしは恐れる。
俊寛 わしはむしろ気ちがいになりたい。そしてこの昼夜間断のない苛責から免れたい。
成経 あなたはわしの誇りをも、康頼殿の信仰をもこわしてしまおうとするのだ。そして自分の心をもかき乱してしまおうとするのだ。
俊寛 あゝ、わしはだめだ。わしは自分を支えることができない。支えるものが一つもない。わしの魂が亡んでゆくのをはっきりした意識で見ているのは堪えられない。
成経 わしはあなたを見ているのは堪えられない苦痛になりだした。あなたはだんだん荒くなられる、あなたと毎日いっしょに暮らさなければならないことはわしの重荷になりだした。あなたはわしたちに不幸と絶望との息を吐きかける。そしてわしたちに慰めを与えてくれないばかりでなく、わしたちから何の慰めをも受け取ろうとしない。
俊寛 おゝ、あなたは何を言いますか。これほど慰めに飢えているわしに! ([#「! (」は底本では「!(」]いらだつ)ただわしは知ってきた。あなたがたはもはやわしに送る何の力も持っていられない。餓鬼は餓鬼に求めても何ものをも与えられない。
成経 (くちびるをふるわす)あなたは餓鬼かもしれない。だがわしは名誉ある武士のすえだ。正義の殉教者の子だ。
俊寛 七人の僧を暗殺し、神をけがしたものの子だ。
成経 あなたは父の墓をあばいて、死骸に唾を吐きかける気か。(俊寛にせまる)
俊寛 (自暴的に)わしは、わしの顔に唾を吐きかけたい。
康頼 (涙ぐむ)よしてください。よしてください。何というあさましいことだろう。わしたちが争い合わなくてはならないとは。わしは思い出さずにはいられない。わしたちのこの島に着いた当初のあの美しい一致を! わしたちはあたたかくかたまって一団となっていた。不幸とさびしさは三人の心をかたく結合していた。わしはその愛のために死にたいとさえ思っていた。わしたちはこの欠乏と艱苦との中にあって、友情をさえ失わなければならないのか。わしはあなたがたがだんだん不和になってゆくのを見ているのは実に苦しい。いつも仲裁者の位置に立たねばならぬのはたまらない。わしがいなかったらあなたがたは互いに飛びかかるようになりはしないかと思うと恐ろしい。檻の中の獣のように。
成経 (涙ぐむ)わしはあまりの侮辱には耐えられない。わしはいつも忍耐を用意しているにはあまりに余裕のない心でくらしている。わしはそれどころではないのだ。わしは不平でくずれそうなのだ。
俊寛 わしはなぜこうなのだろう。わしは呪われた人間だ。わしの魂の中には荒らす要素がある。わしの行くところはきっと平和がなくなる。わしは小さい時からそのために皆にきらわれてきたのだ。その気質を自分でどんなにきらったろう。しかし変えることができなかったのだ。わしの祖父の血がそうなのだ。わが氏の遺伝なのだ、わしの運命は不幸になるにきまっていたのだ。いやわしの魂をつくっている要素、わしそのものが不幸なのだ。わしの魂は鎌首をもたげていつもうろうろしている。心の座が[#「座が」は底本では「座が」]定まらない。わしは失われる人間なのか。地獄におちる人間なのか。(ほとんど慟哭に近いため息)あゝ。
康頼 (傍白)あゝ何という不幸な目つきだろう。暗い影が一ぱいさしている。
三人沈黙。山鳴りいよいよ激しくなる。
成経 あゝまた山が荒れるな。
康頼 明日はいよいよ雨だな。(空を仰ぎ嘆息す)あのしつこい。退屈な。
成経 (力なく)明日はしけだ。船の姿も見られぬわい。
俊寛 (山のほうを見る)あゝ。あの山くらいいやな山はない。まるでわしたちを呪ってでもいるようだ。(ふるえる)わしの魂の来世の行く先を暗示してでもいるようだ!
康頼 おゝ。神々よ。(ひざまずく)やわらぎたまえ。
三人沈黙。も一度激しき山の鳴動。その後を単調な弾力のない波の音ひびく。
――幕――
[#改ページ]第二幕
第一場
第一幕と同じさびしき浜辺。熊野権現の前。横手に貧しき森。その一端に荒き丸太にてつくれる形ばかりの鳥居見ゆ。
第一幕より二年後の春の暮れ。
第一幕より二年後の春の暮れ。
康頼 (浜辺に立って海を見入る)あゝ、この離れ島にも春が来たのか。海の色も濃くなってきた。このふくれるように盛りあがって満ちてくる潮の香の悩ましさ! わしはこの島の春がいちばん苦しい。わしの郷愁を堪えがたいほど誘うから。乏しい草木も春の装いをしている。わしは昨日森の中を終日花を捜して歩いた。都にあるような花は一つもなく、皆わしの名を知らぬ花ではあったけれど、それでもわしに春のこころを告げてくれた。交野や嵐山の春を思えばたまらない。桜の花のなかに車をきしらせた春を思えば。つんだ花を一ぱい車の中にまいて、歌合わせをして遊んだ昔の女たちを思えば。わしはむしろ死を願う。彼の女らは皆わしに好意を持っていた。わしはやさしくて趣味がすぐれていたから、わしがたわむれに袖を握って言い寄った時に、あの機知のある歌をつくってわしをたしなめた美しい藤姫はどうしたろう。(間)あゝ、わしの幸福は過ぎてしまったのだ。(浜辺を歩む)何というさびしい春だろう! きょうもまた砂浜を走って波とたわむれて遊ぼうか。(汀をつたう)あゝ浜千鳥よ。わしの思いをお前が故郷にはこんでくれたら!
成経 (叫びながら登場)餓鬼だ。これほどあさましくなれば申し分はない。
俊寛 (手を振りつつ成経を追うて登場)待て。あなたはまちがえている。もしあなたの獲物なら、わしはあえて取ろうとは思わない。(小鳥の死骸を投げつける)
成経 (康頼に)わしは驚いた。わしはあきれた。
俊寛 (康頼に)わしは無理にわしの獲物だというのではないのだ。
康頼 (悲しげに)あなたがたは獲物の争いまでしだしたのか。
成経 わしがたしかに射落とした鳥を横取りしようとするのだ。わしの矢が立っているのに!
俊寛 わしはわしが射落としたと思ったのだ。たとえわしが射落としたにせよ、わしがこんなに飢えていなかったら、成経殿に譲っただろう。たかが小鳥一羽ぐらい!
成経 わしは他人の惜しみのかかった獲物をほしいとは思わない。(俊寛の前に小鳥をたたきつける)持ってゆけ!
俊寛 持ってゆけ! (弓ではね飛ばす)
成経 わしはいらない。呪われでもしたらたいへんだ。
俊寛 (あざけるごとく)あなたの父ではあるまいし。
成経 (火のごとく怒る)もう一度言ってみよ。墓場に眠っている父を侮辱されるのが子にとってどんなものだか! (弓を取って詰め寄せる)
俊寛 わしを射る気か。(身構えする)
成経 武器を取れ。わしはお前の言葉の価をお前に知らせてやる!
康頼 (成経を抱きとめる)成経殿。軽はずみをしてあとで悔いないために! あなたは敵をほうるようにして友をころす気か!
成経 彼がわしの友だろうか。この荒い言葉と呪いの言葉を吐き出す餓鬼のようなやつが。
俊寛 わしを殺せ。わしは死を願う。わしの境涯は餓鬼道より少しもまさってはいない。
康頼 (成経と俊寛との間に身を投げる)あゝ、あさましい何たることだ! あなたがたは正気を失ったのか。わしは信じられない。愛する友が互いに呪い合い、汚す言葉を吐き合い、互いに殺し合おうとする! 名誉ある武士のすえが、食物を争い合う。あゝ、そんなあさましいことをするよりわしは餓死を選ぶ。わしらの間にはもう平和は失われた。いっしょに暮らすことは互いの重荷になった。もはや何の慰めも励ましも互いに期待することはできないのか。あゝ、凱歌をあげているものはただ清盛だけだ! あなたがたは知っていよう。檻につないだ二頭の獣の間に食物を投じればどうなるかということを! それとあなたがたとどこが違うのか。あゝ、わしが今見たことは恐ろしいことだ。(泣く)
成経 (涙ぐむ)康頼殿。あまりに心を痛めないでください。わしは優しいあなたの心を傷つけたのを悔いる。あなたはどんなにいい友だったろう。わしの寂寞はいつもあなたの平和な、あたたかい友情でなぐさめられているのだ。わしの今したことをあなたに恥じる。(康頼の肩に手をおく)わしはもはや決してあなたの目に荒々しいふるまいは見せまい。このやさしいあなたの心の平和を保つだけにでも! 許してください。
俊寛 わしをきらってくれ、きらってくれ。わしはそれに相当している。わしは荒々しい人間だ。わしは平和を恵まれない人間だ。どうぞわしを捨ててくれ。憎んでくれ。あなたがたは仲よく慰め合って暮らしてくれ。わしはそれを望む。わしはそれをねたんではならない。(慟哭す)
康頼 (俊寛を抱く)俊寛殿。わしはあなたを悪い人とは思いません。あなたは憎むべき人ではない。むしろあなたは感じやすい心を持っていられる。もしあなたが荒々しくなったとしたら、それはあなたがあまりに不幸だからだ。
成経 (和解を求めるように)そうだ。われわれはこの上もなく不幸なのだ! その不幸を三人で分け持たなくてはならない。われわれの心が少しでもかろくなるために、われわれが苦しみに負けてくずれてしまわないために、力をあわせなくてはならないのだ。
俊寛 (嘆息する)わしはあなたがたがだんだんわしをきらうようになるような気がする。そしてそうなるのは無理はないと思う。わしは実際いっしょに暮らしよい人間ではない。自分でそれを認める。わしはきらわれてもしかたがない。あゝ、しかしわしはさびしいのだ。きらわれたくはないのだ。愛されたいのだ。それだのにわしは荒いことを言う、ひねくれたことを考える。気まぐれな小鬼めがわしの生命中に巣を食っているようだ。わしの気質は自分の自由にならないのだ。わしは孤立無縁の霊魂だ。人とやわらぐことのできない粗野な性格だ。わしはわしを呪う。わしを憎む。おゝわしをあわれむ。
康頼 俊寛殿。心を平らかにしてください。わしはあなたを責める気は少しもない。あなたはあまりに痛ましい。困苦寂寥の歳月があなたの忍耐力を奪ってしまったのだ。あなたは心の平衡を支える勇気を砕かれてしまったのだ。だれがわれわれのような境遇にあって自暴にならないでいられよう。わしはわしの心が砂のように崩壊するのを防ぐために必死の力をつくしている。しかも踏みしめても、踏みしめても、足下の大地のずり落ちるような心を制することができないのだ。
成経 わしは昨日巌の上に立って、一そうの船も見えない、荒れ狂う海を見ていたとき、強い強い誘惑を感じた。わしは足がすべって前にのめりそうな気がした。しかもわしはそれにほとんど抵抗する気力を欠いていた。もしあの時康頼殿が、とぼとぼと波打ちぎわを歩いて、首をたれて考えに沈みながら、わしのほうへ、おそらくわしのいることも知らずに、近づいてこられるのを見なかったら、わしはどうなっていたかわからない。その姿はわしに何とも言えない、愛と憐憫の情を起こさせた。同悲の情をわきたたせた。わしは涙がこぼれた。わしはこのさびしき友をなぐさめるためだけにでも、生きていたいと思って、走りだした。
康頼 (涙ぐむ)わしはあなたの姿に気がついた時ふるえた。わしはあなたの心をすぐ知った。今あなたがいかなる危険な状態にいるかを直覚した。そしてあなたを抱きとめに走ろうとする刹那、わしはあなたが両手を広げて涙をいっぱい目にためて、わしのほうに走ってくるのを見た。
成経 わしらは抱き合って泣いたのだ。
間。俊寛 わしはさびしい気がしてならない。昨夜から変に心細い気がしてならない。こんな気のすることはこの島に来てからはじめてだ。不幸が近づいてくるような……
成経 白帆だ! (急に元気づく)あの姿がどんなに希望をわしに与えてくれることか。
康頼 (沖を眺める)この島に来るのなら! (考える)来るかもしれないぞ。わしは昨夜から不思議に胸騒ぎがしていたのだ。何か大きな幸福が来るような……
俊寛 (顔色が悪くなる)どうしたのだ。あの白帆を見ると寒い影がサッとわしの心にさしてくるのは!
成経 幸福の船よ! いやいや。わが心よ、軽はずみにおどるな。あとであまりにさびしいから。わしは幾百度裏切られたろう。しかも今度は、今度はと思って希望をかけないではいられない。きょうもまた無慈悲に方角を変えてしまうのかもしれない。そして結果は船の姿を見なかった前よりも、悪くなるのかもしれない。あの気ぬけのした、いまいましい、なぶられたような、不幸な心に!
康頼 (船より目を放たず)わしの愚かな妄想だろうか。いや、どうもいつもとは違うようだ。わしに与える気もちがちがっている。いつもは気まぐれな鴎のどちらに飛ぶか見当のつかないような、あてにならない気がするのに、きょうは信ずべきものの渡来を待つような気がする。あの船は決心したようにまっすぐにこの島に向かって来るように見える。
成経 わしもどうもそんな気がする。初めてあの船の姿を見た時から、待っていたものが、ついに来たような気がしてならない。
康頼 わしはまだ童子であったとき、兄の花嫁の輿を迎えに行ったことがあった。国境でわしたちは長く待った。輿は数百の燈火に守られて列をつくってやって来た。あれでもない、これでもない。けれどほんとうに花嫁の輿が来たときに、わしらは皆申し合わせたようにそれを直覚した。わしの今の心持ちはそれに似ている。
俊寛 (傍白)ほんとうにわしはどうしたのだ。棺を迎えるような気がするのは!
成経 もう半時すればはっきり見込みがつく。この島にまっすぐに来るとしても、到着するまでには二、三時はかかるだろうけれど。
康頼 恐ろしい半時だ。わしはじっとして船を見ているのに堪えられない。わしは熊野権現の前にひざまずいて一心不乱に祈ろう。祈りの力で船をこの島に引き寄せよう。神々よ。あの船をこの島に送りたまえ。神風を起こしてあの帆をふくらせ、水夫の腕の力を二倍にし、鳥のごとくにすみやかにこの岸に着かしめたまえ。(鳥居のほうに走り出そうとする)
俊寛 (康頼の袖を握る)待ってください。ごしょうだからわしのそばを離れずにいてください。わしはさびしくてたまらない。さびしいさびしい考えがさっきからわしの心に起こってきた。
康頼 あなたはどうしたのです。あなたの顔の色は! この希望に痙攣するような瞬間に、あなたはなぜそのようなさびしい顔をしているのです。
成経 (傍白)まるで喪のような顔つきをしている。
俊寛 わしを捨ててくれな。きらってくれな。
康頼 あなたは何を言うのです。今、幸福が、信じられないほどな幸福がわたしたちに向かって近づきつつある。見なさい。あの穏やかな[#「穏やかな」は底本では「隠やかな」]春の海を、いっぱい日光を浴びて、金色に輝いて帆走って来る船を! あの姿があなたをおどりあがらせないのは不思議というほかはない。
俊寛 わしは不安で不安でたまらない。
康頼 大きな幸福が来る時には、そしてその幸福がまだ確定しない時には人間は不安を感ずるものだ。その不安ならわしも同じことだ。あまり幸福が大きいから。わしといっしょに行きましょう。いっしょに祈りましょう。
俊寛 (哀願にみちたる調子にて)誓ってくれ。愛を誓ってくれ。
成経 (和睦と愛憐の表情をもって)あゝ、あなたはそれを気にしているのか。人間は幸福が来る時には人とやわらぎたくなるものだ。俊寛殿。安心なされ。さっきのことなら、わしはすっかり忘れている。わしに来かかっている幸福はわしのすべての憎悪をもみ消してしまった。わしは心からあなたに和睦の手を差しのべよう。
俊寛 わしはまだまださびしいことが考えられる。あなたがたがわしを捨ててしまいはせぬかというような気がしてならない。わしを振り捨てて、二人だけ都へ帰ってしまいはしまいかというような気がしきりにする。
康頼 あなたはどうしたのです。あなたは凶事を自分で描いてはまねき寄せようとするように見える。凶事についてのあなたの異常な想像力にわしはまったく驚いてしまう。それがあなたの不幸の原因だ。わしが一度でもあなたを捨てると言いましたか。
成経 わしはあなたを一人この島に捨てて帰るほどなら、むしろ三人でこの島で餓死するほうがいい。
俊寛 (涙ぐむ)あなたはほんとうにそう思ってくれますか。
成経 何しにうそを言いましょう。われわれは同じ日にこの孤島に流された。同じ船で。それゆえに同じ日に、同じ船でこの島を去らねばならない。われわれはいかほどの困苦をともにしてきたことか。われわれの間に不和が生じたとすれば、それは、われわれの受けている運命の苛責があまりに厳しかったからだ。
俊寛 (成経を抱く)わしはあなたのひろい心がありがたい。わしはあなたにとって確かに平和な、親切な友ではなかった。わしの気質は荒くて、ゆがんでいるから。もっとも平和な時でさえも、わしはあまり陰気だったから。あなたがたには、長い歳月の間さぞわしが堪え難い重荷だったろう。でもわしをきらってくださるな。わしはあまりにさびしい。(沖を見る)あゝ、あの船を見るとわしは変にさびしくなる。初めてあの帆影を見た時暗い陰がわしの心をおおうてきた。あの船には何かわしを不幸にするものが乗っているような気がする。「死」が乗っているような気さえする。わしは今本能的に助け手を求める。忠実な友がそばにいてくれることが、今のわしには絶対的に必要だ。
康頼 わしはあなたの最後までの助け手だ。死に到るまでかわらぬ忠実なる友だ。
俊寛 あゝ、あなたは心強いことを言ってくださる。(康頼の顔を見る)どうしてあなたがたのかほどの強い励ましが、わしの不安を払いのけてくれぬのだろう。
康頼 わしはあなたをあわれむ。あなたはきょうはどうかしていられる。あまり異常な幸福が近づいたために、心がその喜びをにないきれなくなって、平衡を失ってしまったのではないか。
俊寛 ほんとうに、ほんとうにわしを見捨てませんか。
康頼 わしの目をごらんなさい。あゝ、あなたは泣いていますね。どうしたと言うのだろう。
俊寛 (康頼の足もとに崩れて泣く)
成経 あなたはあまりに衰えました。風雨が樹木を打つように、長い間の不幸があなたを打ったのだ。あなたはあわれな老人のごとく、幸福なときにも泣くことしかできないのだ。あなたの姿はあまりにも痛ましい。わしは思いださずにはいられない。われわれが昔あの鹿が谷のあなたの山荘に密会したころのことを。あのころのあなたのあの鉄のような意志と、鷲のような覇気とを。われわれは皆あなたにいちばん信頼していた。
康頼 われわれの意気はすでに平氏をものんでいた。われわれは恐ろしい陰謀をたくらみながらも、軽い諧謔をたのしみ得るほどに余裕があった。わしは忘れることができない。あの法皇をひそかに山荘に迎えた夜、清盛をたおす細密な計略を定めたあとで、さながらわれわれの勝利の前祝いのように、期せずして生じたあの諧謔を!
成経 あの機知にみちた、天来の猿楽を!
康頼 成経殿がふと狩衣の袖に引っかけて、法皇の前にあった瓶子を倒したのが初めだった。
成経 平氏が倒れた! とあなたが叫んだ時には、私はその思いつきに笑わずにはいられなかった。
康頼 西光殿が横合いから口を入れて言った。あまりに瓶子(平氏)が多いので酔ってしまった。この目ざわりな瓶子(平氏)をどうしたものだろう、と。
俊寛 (黙然として目を閉じている)
成経 俊寛殿。あなたは覚えているでしょう。その時あなたがひじょうに機知のある、不思議なほどに甘いつづめをつけたのが、この一場の猿楽に驚くほどいきいきした効果を与えたのを。(俊寛苦しそうに首をたれる)あなたは瓶子の首を取って立ちあがりざま、心地よげに一座を見回して叫びましたね。平氏の首を取るがいいと。
俊寛 (顔をおおう)わしは恥じる。わしは失敗者だ。すべて愚かな愚かなことだった。あなたがたは今いちばん悪いことを思いだしてくれた。わしはこうして立っていられないほど恥ずかしい。あなたがたはわしをこの思い出で元気づけようとしたのか。この皮肉な思い出で……あゝ呪われたるわしよ。(痙攣する両手で頭をかかえて砂上に伏す)
康頼 (気の毒に堪えざるごとく)わしが愚かなことをしたのならわしは悔いる。許してください。わしは今あなたを慰めることならどんなことでもしたい。俊寛殿、今、われわれの時が来つつあるのだ。この幸福の予感の中にあって、わしが少し軽い心になっても許してください。わしは足が地につかないような気さえしている。あなたといえば、どうしてこんなに不幸そのもののような顔をなさるのだろう。あなたの内に不幸を吐き出す魔でもすんでいるのか。あなたはわしとともによろこんでくださるはずだ。われわれが長い長い間待った日が来かけているのではないか。あなたはその日をあれほど待っていられたではないか。
成経 (沖を見る)あの船はいよいよこの島に来るらしいぞ。
俊寛 (苦しそうに)なぜこんなさびしい考えがわしにだけ起こるのだ。去ってくれ。去ってくれ。(船を見る。身ぶるいする)だめだ。わしは凶兆を感じる。わしの運命は、わしの星は凶だ。(地に倒れる)
康頼 俊寛殿。気が狂ったか!
成経 何かついたのか! (刀を抜く)外道よ、去れ!
俊寛 (起き上がる)わしに必要だ。一つのことがわしに保証されねばならない。わしを見捨てて帰らぬということが!
成経 安心なさい。俊寛殿。わしはあなたに何のわだかまりも持ってはいない。持っていたものは皆消えた。わしはあなたを慰めたい心で一ぱいになっている。鬼神も今のあなたの姿を見てはあわれみを起こすだろう。
康頼 あなたはあり得ぬことを想像してひとりで苦しんでいられる。二人だけ都へかえして、あなただけをこの島に残すというはずがないではないか。わしらは同じ罪に座して配流されたのだから。
俊寛 もしあったとしたら。
成経 わしはも一度くり返してあえて言おう。あなたを一人見捨てて都へ帰るほどなら、わしはこの島で餓死することを選ぶ。
康頼 生きるも死ぬるも三人いっしょだ。
俊寛 それを誓ってくれ。誓ってくれ。
成経 (弓を天にささげる)わしは名誉ある武士のすえだ。わしは弓矢にかけて誓う。あなたと生死をともにすることを!
康頼 わしは神々の名によって誓う。天神よ。(天に息を吹く)地祇よ。(地に息を吹く)わしは永久に友を見捨てませぬ。
俊寛 (静かに泣く)
長き沈黙。
成経 (突然沖を見て叫ぶ)いよいよきまった。あの船はもうこの島に必ず来る。あすこまで来たからにはもうだいじょうぶだ。いつも方角をかえるのはもっとずっと遠くの沖だから。わしの考えでは、あの船はなかなか大きいらしい。
康頼 (沖を凝視す)あれは都から来た船だ。(渚に走る)あの帆柱や帆の張り方や櫓の格好はたしかにそうだ。いなかの船にはあんなのはない。(波の中に夢中でつかり、息をこらして船を見る)
成経 (康頼のそばに走る)旗だ! たしかに赤い旗が見える。平氏の官船だ。
康頼 迎えの船だ!
成経 (夢中に叫ぶ)追い風よ。吹け。吹け。吹け。
康頼 まっすぐに、こぎつけよ。一刻も早く、この岸に! わしらはここにいる。ここの岸に立っている。餓鬼のようにやせて! (急にむせび泣く)わしはどんなに待ったろう。
成経 あゝ。長い長い間だった。
康頼 神々よ。きょうの恵みはわが子孫に書きのこして伝えられましょう。
成経 わしの心がこのよろこびに持ちこたえられるように!
沖の船より銅鑼の音ひびく。
康頼 合い図だ! 船着き場へ! (はせ去る)
成経 (無言にて康頼のあとを追うてはせ去る)
俊寛 (前のところに不安そうに立ったまま)あの船は陰府から来たように見える。(心の内にさす不吉の陰を払いのけるように首を振る) わしはばかげた妄想に悩まされているかもしれないぞ。そうであってくれ。そうであってくれ。わしのこの恐ろしい考えには少なくとも根拠はないのだ。たしかに根拠はないのだ。ただわしにそういう不安な気が何となくするというのにすぎない。そんなことが何のあてになろう。(沖を見る。ふるえる)どうしたのだ。(打ち負かされたるごとく)あの船の帆は死骸の顔にかける白い布のようにわしに見える。(墓標のごとくにじっと立ちたるまま動かぬ)
ながき沈黙。やがてやや近き沖にて銅鑼の声つづけざまにひびく。
第二場
船着き場。まばらなる松林。右手寄りに小高き丘の一端見ゆ。そのふもとにやや大なる船泊まりいる。正面に丹左衛門尉基康その左右に数名の家来槍をたてて侍立す。その前に俊寛、康頼、成経ひざまずく。
基康 (家来に目くばせす)
家来 (雑色の首にかけたる布袋より赦文を取り出し、うやうやしく基康に捧げる)
基康 つつしんできけ。(赦文を読む)重科遠流を免ず。早く帰洛の思いをなすべし。このたび中宮ご産の祈祷によって非常のゆるし行なわる。しかる間、鬼界が島の流人、丹波成経、平康頼を赦免す。
成経 (康頼と顔を見合わす)
基康 つつしんでおうけなされい。
俊寛 (声をふるわす)その赦文をも一度お読みください。
基康 (も一度読む)命によって迎えにまいった。両人ともしたくをなされい。
俊寛 あなたは俊寛という名を読み落としなされたようだ。
基康 この赦文には俊寛という名は記してない。
俊寛 (青ざめる)そんなはずはありません。
基康 自分で見るがよかろう。(赦文を康頼に渡す)
俊寛 康頼殿。早く見てください。
康頼 (黙読し、成経に渡す)
俊寛 成経殿。わしの名は?
成経 (黙読し、俊寛に渡す)
俊寛 (ふるえる手にて受け取り読む。まっさおになる)礼紙を見てくれ。礼紙を!
基康 (無言にて家来に礼紙を渡す)
俊寛 (家来より礼紙を受け取り、裏を返し、表を返して見る)執筆の誤りだ。基康殿。あなたは都を出発する時三人を連れ帰るようにとの命令を受けられたに相違ない。
基康 わしの役目はこの赦文に記されたとおりを行使するのにある。
俊寛 もし執筆の誤りだったら。
基康 (冷ややかに)あなたを残して帰っても、責めはわしにはかかるまい。
俊寛 (せき込む)しかし清盛殿の意志が三人を都へ呼び戻すにあるとしたら。主人の意志を果たすがほんとうの忠実なる使者でしょう。あなたは主人の意志を熟知していられましょう。
基康 (皮肉に)わしがそんな高い身分のある者だったら、こんな役目はおおせつからなかっただろう。主人の意志を知ることなどわしなどには思いもよらぬことだ。わしはただこの紙に記されてあることを忠実に遂行することを上役から命じられたにすぎない。
俊寛 われわれ三人は同じ罪によって、同じ日にこの島に流されたものだ。二人だけを都へ帰して、一人だけを残すというのは法にかなわない処置ではありませんか。
基康 あなたの訴えは正しいかもしれない。しかしそれはこの命令を発した人に向かって言われるべきだろう。
俊寛 清盛はなぜ特別にわしを憎むのだ。わしから二人の伴侶を無慈悲に奪い去ろうとするのだ。
基康 それはわしからききたいくらいだ。
俊寛 刑には理由がなければならない。その理由を示さずに、ただわしだけに重い刑罰を課するのは非法ではないか。
基康 あなたの申し立ては道理でもあろう。しかしわしはそれを裁く権利を持っていないのだ。
俊寛 あなたは悪い人ではないようだ。わしはあなたに乞う。わしを都へ連れて帰ってください。
基康 わしはあなたに何の憎みもない。わしはお気の毒に思う。もしわしにとがめがかからないものなら、わしは連れて帰ってあげてもいいのだが。
俊寛 もしあなたがそうしてくれたら、わしは十倍にしてきっとあなたに報います。
基康 (考える)どうもわしの身に難儀がかかりそうだ。
俊寛 もしあなたにとがめがかかったら、わしが立派に申し開きをしよう。その責任はわしがきっとになう。だがそんなことはきっとない。主人の意志は三人を都へ帰すにあるのはわかりきったことなのだから。
基康 その点もあなたが言うほどわしにははっきりしていないのだ。少なくとも赦文の意味を文字どおりに行使するのが最も賢いことがわしにはっきりしているほどには。
俊寛 しかし一度都へ帰ってから、またはるばるこの島まで迎えに来なくてはならないとしたら。
基康 (ある感動をもって)あなたがそういうのはもっともだ。わしは長い船旅には実際弱ってしまった。都を出てから想像もつかないほどの長い日数がかかっている。それに都を去るにつれてだんだん航路が荒くなった。その上九州の本土を離れてからは何という退屈だったろう。都にかえってから、も一度この島に来るというようなことはとても耐えられないことだ。(考える)だがわしは長い間の役目の経験で知っている。一番安全に役目を果たす方法は、いかなる場合にも文書の文字どおりに行使することだということを。わしはもう長い間そういうことに決めているが、やはりいちばん無難なようだ。それにも一度この島に来なければならないことになれば、わしは上役に懇願して、このありがたくない役目をだれかに代わってもらうこともできるだろう。
俊寛 しかしそれは区々たる小役人のすることだ。大いなる役人は文書の意のあるところをくみとるべきだ。
基康 (皮肉に)あなたは初めからわしをあまりに高い身分のものと買いかぶりすぎたようだ。わしは平凡な、一人の役人にすぎない。またそうでなくてだれがこんな役目をおおせつかるものか。わしは実際今度の役目にはこりごりした。わしは疲れている。わしは一日も早くこの役目を果たして、都へ帰りたいと願うほかには何も考える気はなくなっている。
俊寛 しかしわしにとっては大きな大きな問題だ。わしの一生の運命が決まるのだ。
基康 わしはその大きな問題を引き受けるにはあまりに地位も低く、力が乏しい。
俊寛 わしをあわれんでくれ。
基康 わしはあなたに同情する。しかしわしの一身の安全も計らずにはいられない。
俊寛 (嘆息する)あゝ、あなたは悪い人間ではない。しかしただそれだけにすぎない。
基康 成経殿、康頼殿、出発のしたくをなされい。
成経 わしからあなたに改めてお願いする。なにとぞ、俊寛殿をもわれわれといっしょに都へ連れ帰っていただきたい。
康頼 われわれは長い間この島で困苦をともにしました。今俊寛殿だけをこの島にひとり残して帰るに忍びません。
基康 あなたがたの気持ちはあなたがたとしてしごくもっともに思われる。しかしわしの立場としては前いったことをくり返すほかはない。
成経 あなたの立場はわからないではありません。だがこのわれわれにとって千載一遇の非常の時機に際して、あなたの一身の安全をはかるよりほかに、われわれのためにあえてしていただくことは願えないものであろうか。
基康 (不愉快そうに)わしには妻子があるのだ。わしの思いだす限りでは一家の安全をかけてまで、あなたがたのためにつくさねばならぬほどの恩を受けてもいないようだ。
成経 しかし、あなたにとっては一家の運命を賭するほどの大事とは思われない。ただあなたの役目の解釈に少しばかりの自由を保つのにすぎないことではあるまいか。
基康 その少しばかりの自由から、どれほどの大事がまたわしの身に起こってくるかしれたものではない。あなたがたはこの命令の発布者がどんな性格の人であるかを忘れはすまい。獅子の意志は鼠にはわからない。
成経 わしは同じ弓矢をとる武人としてあなたの義気に訴えたい。
基康 (気色を損じる)この場合わしに対してあまり押しつけがましく出ることは、あなたがたの利益でないことはないか。
成経 (怒りをおさえて沈黙す)
康頼 わしはただあなたに乞うほかはありません。われわれのみじめな姿があなたにあわれみを起こさせぬであろうか。あなたがもし俊寛殿の地位に立ったとしたら!
基康 わしはあなたがたに同情しないのではない。だが、ながい間の職務上の経験から同情と役目とを別々に考えることにしているのだ。
康頼 窮鳥がふところに入る時は猟師もこれを殺さないと申しますが。
基康 わしはこういう立場に立ったのは初めてではないのだ。わしには結果の見越しがあまりにつきすぎる。わしがいかほどの同情を起こしたにしても、結局わしがどうしなければならないかということはあまりにはっきりとしているのだ。わしは片時も早くこの不愉快な役目を終わりたい。
康頼 わしたちをあわれんでくれ。わしはひたすらあなたに助けを乞う。あゝ仏様があなたの心に慈悲を催さしてくださるように!
基康 (もどかしそうに)幾度言っても同じことだ。わしはほかに選ぶみちがないのだ。わしを無慈悲な人間として考えねばならぬ地位にいつまでも立っているのはたまらない。わしにも人間の心はある。わしは一人の平凡な役人にすぎないのだ。
俊寛 ではわしはあえていうが、あなたの役目は果たされますまいぞ。成経殿も康頼殿もわしを残してこの島から帰られないのだ。けさわしに対して誓言をしたのだから。
基康 (両人に)それに相違ありませぬか。
成経 わしは弓矢にかけて誓いました。俊寛殿と生死をともにすることを。
康頼 わしは神々の名によって誓いました。永久に友を見捨てませぬと。
基康 (沈黙)
俊寛 この上は三人を連れ帰ったほうがあなたの役目にもかないはしますまいか。はるばるこの島まで来たことがむだにならないためにも。
基康 (黙ってしばらく考える。やがて信ずるところあるがごとく)では念のため、も一度だけお尋ねする。ご両人俊寛殿を残しては都へ帰る気はありませぬな。
成経 俊寛殿を一人残してわしだけ帰る気はありません。
康頼 わしは友を見捨てるに忍びません。
基康 では三人の意志はたしかに聞き届けました。都にたち帰ってその旨を清盛殿に伝えましょう。
俊寛 (恐怖を隠そうとつとめつつ)それではあなたの役目がたちますまいが。
成経と康頼、基康を凝視す。
基康 わしはこの命令の執達吏にすぎないのだ。わしは清盛殿の意志をあなたがたにお伝えすればそれでいいのだ。あなたがたがそれを受けようと受けられまいと、それはわしの立ち入る限りではない。
三人沈黙す。
基康 (家来に目配せす)出発のしたくをしなさい。
成経 (狼狽す)しばらくお待ちください。
康頼 そのように急がれるにはおよびますまい。
基康 (冷ややかに)あなたがたの意志を聞いた以上は、もはやわしの役目はすんだというものだ。わしは片時も早くこの荒れた島から離れたい。何か都にことづてはありませんか。わしがあなたがたへのただ一つの親切にそれを取りついであげましょう。あゝわしは忘れるところだった。都をたつ時あなたがたにことづかった物があった。故郷からの迎えの使いを拒絶するほどのあなたがたに、たいした用はないかもしれんが。(家来に)かの品を。
家来 (文ばこを基康に渡す)
基康 (文ばこを成経と康頼に渡す)
成経 (ふるえる手にて文ばこを開き、手紙を手に取り裏を返し、表を返しして見る。おのれを制することあたわざるごとく)母上の手蹟だ。(感動に堪えざるごとく)あゝ。
康頼 (手紙を握りしめ)わしはどんなに飢えていたか!
俊寛 (われを忘れたるごとく)わしへの手紙は? 故郷の便りは?
基康 わしのことづかったのはこれだけだ。(俊寛、顔をおおう。家来に)出発の用意をしろ。
成経 (あわてる)待ってくれ。わしがもっとよく考えるために。
康頼 今しばらくの猶予が願いたい。
基康 あなたがたの意志はもはや確かに承ったはずだが。
成経 いや、わしはもっとよく考えて見なければならない。あなたに聞きたいこともある。
康頼 われわれがもっとよく考えて決心するために、今しばらく待っていただきたい。あなたはあまりにあわただしい。
俊寛 (不安に堪えざるごとく。成経に)成経殿、わしはあなたを信じている。あなたが誓いを守ってくださることを。
成経 (俊寛にむけてではなく)わしは考えねばならない。考えねばならない。
俊寛 康頼殿、わしはあなたの誓いを最後の頼みとしていますぞ。
康頼 わしたちはよく考えて見ましょう。今はあまりに大事な時だ。
俊寛 (天に向かって両手をのばす)神々よ、汝の名によってたてられた誓いは守られねばならぬ!
基康 わしの前で内輪の争いは、見るに堪えぬわい。申の刻までに考えを決められい。猶予はなりませぬぞ。(退場。家来つづく)
成経 (基康の去るやいなや、飢えたるもののごとく手紙の封を切りて読み入る)
康頼 (手紙を読みかけて、俊寛を見てやめる)
成経 (かたわらに人なきがごとく)なつかしい母上よ、あなたの恩愛が身にしみまする。(今ひとつの手紙を読む)妻よ、お前の苦しみは察するにあまりある。どんなに会いたかったろう。(他の手紙を見る)乳母の六条の手紙に添えて、わしの小さな娘の手紙も入れてある。何という可憐な筆つきだろう。六条よ、あゝおまえの忠義は倍にして報いられますぞ。(手紙を読みつづける)
俊寛 (堪えかねたるごとく)わしの前でその手紙を読むのはよしてください。わしは不安で不安でたまらない。成経殿、あなたは考えを変えてはなりませぬぞ。きょうあなたが弓矢にかけてたてた誓いを忘れてくださるな。
成経 (われに帰りたるごとく)わしはあまりに苦しい、今はわしの一生の運命の定まる時だ。わしに考えさせてください。
俊寛 あなたは名誉ある武士のすえだ。あなたはいつもそれを誇っていられた。わしはあなたの誇りに望みをかける。
成経 故郷の便りはわしの臓をかきむしるような気がする。不幸なわしの家族はどんなにわしを待っているだろう。彼らに一度会う日の夢は、わしのこの荒いみじめな生活のただ一つの命であった。今や時が来た。そしてわしは帰ってはならぬのであろうか。
俊寛 あなたの心持ちはもっともだ。だがわしのことを考えてください。あなたがたがそばにいて不幸を分けてくださったればこそ、この言いようのない苦しみにも堪えることができたのだ。が、もしわし一人この島に残らねばならなかったら、わしはどうしてこの先を暮らしてゆくことができよう。それはあまりに堪えがたい。考えただけでも恐ろしい。
成経 わしはあなたのことを思わないのでは決してない。だがわしとして、わしの境遇になって、はたして故郷への迎えの船をむなしく帰すことができるだろうか。
俊寛 わしはこういう時の来ることを予感したのだ。それを思えばこそけさあれほどあなたに念を押したのだ。そしてあなたのあの心強い誓言を得たのだ。あなたはそれを忘れはなさるまい。
成経 (心の内に戦いながら)時機は二度と来ぬのだから。
俊寛 わしはあなたに要求する気はない。ただあなたの友情にすがって折り入って頼む。なにとぞわし一人をこの島に残さないでください。
成経 わしは一度だけ母に会いたい。妻に会ってその苦しみをねぎろうてやりたい。一生に、も一度だけわしの子供が抱きたい。
俊寛 それはみなわしの願うところだ。わしの朝夕の夢だ。今その夢を実にすることのできるあなたの幸福と、この荒れた島にただ一人残る自分の運命とを較べるのは堪えがたい。わしの恐ろしい運命を考えてください。
成経 わしはただ一度だけ故郷の土が踏みたい。ただ一度だけ家族と会えばまたこの島に帰ってもよい。だがただ一度だけは。
俊寛 わしを助けてくれ。
成経 わしは苦しい。何も考えられない。わしの心は顛倒するようだ。
俊寛 あなたはどうしても帰る気か、誓いを破り、わしを捨てて。
成経 (苦しそうに沈黙す)
俊寛 きょうからわしはあなたを名誉ある武士とは思いませぬぞ。困苦をともにした友に危難の迫った場合、無慈悲に見捨て去るとは、実に見下げた人だ。八幡のたたりを恐れられい。わしはいうがわれわれがこんなみじめな境遇に落ちたのも、もとはあなたの父上のためだ。
成経 (顔をおおう)
俊寛 あなたの父を鼠のごとく殺した清盛のところへ、あわれみを乞うて帰る気か。
成経 (あたりをはばかりつつ)わしは復讐することができる。都へ帰れば機会をうかがうことができる。
俊寛 (不安に堪えざるごとく、康頼に)康頼殿、今はわしの頼みはあなた一人となりました。わしはあなたの愛と誠実とに依頼する。あなたはながい間どんなにわしを愛してくださったろう。あなただけはわしを見捨ててくださらぬだろう。
康頼 私はあなたの運命を思えばたまらない気がする。あなたはじつに苦しかろう。
俊寛 わしは恐ろしい。わしのそばにいつまでも離れずにいてください。
康頼 わしはあなたをあわれむ心でいっぱいだ。あなたの今の地位の恐ろしさは言い表わす言葉もないほどだ。
俊寛 (哀願に満ちたる調子にて)あなたはわしを見捨ててはくださらぬだろう。
康頼 わしはあなたを見捨てて去るには忍びない。
俊寛 ではわしとともにこの島に残ってくださるのですね。
康頼 (力なく)わしはそうしたい。そうしなければならぬと思う。けれども――
俊寛 (不安の極度に達す)わしはあなたの信心に依頼する。
康頼 迎えの船の来たのは熊野権現の霊験と思われる。
俊寛 あなたは神々にたてた誓いを忘れはすまい。あれほど信心深いあなたが、天地の神々の名によってたてた誓いを破ろうとは信じられない。
康頼 (沈黙)
俊寛 (あわれみを乞うごとく)康頼殿、あなただけはわしを見捨ててくださるな。あなたは成経殿の例にならってくださるな。この長い困苦の年月あなたがわしのためにどんなに忠実な友であったか、わしは感謝の心でいっぱいだ。今一人の友が無慈悲にわしを捨てて去ろうとする時、あなただけはわしを助けてください。わしはあなたに救いを求める。
康頼 (沈黙)
俊寛 (康頼の袖を握り地にひざまずく)あわれな友の最後の願いをしりぞけてくださるな。
康頼 わしはあなたを見るに忍びない。わしの心はちぎれるようだ。
俊寛 わしを地獄から救ってくれ。(地に伏して慟哭す)
康頼 (苦しげに)わしはあなたのそばにいたい。あなたを見捨てる気にはなれない。
俊寛 わしはあなたを最後の頼みといたしますぞ。
基康 (家来をしたがえて登場)もはや時は来た。決心を承ろう。(家来に)出発の用意をしろ。
家来数名船のほうにゆく。三人沈黙。
基康 (成経に)あなたの決心は?
成経 わしは迎えをお受けする。
基康 (うなずく。康頼に)あなたは?
康頼 (力なく)わしは友を見捨てるに忍びません。
基康 よろしい。ではあなたはこの島に残るがよかろう。成経殿だけ伴って帰ろう。成経殿、出発の用意をなされい。
成経 (康頼に)わしは苦しい立場ではあるが思いきって一足先に都へ帰ります。あなたはとどまって俊寛殿を慰めて時機を待ってください。わしは都へたち帰ったらきっと再び迎えの使いを送ります。(俊寛に)あなたはわしが憎かろう。だがわしの立場を思ってゆるしてください。わしが都へ帰ったらきっと清盛殿にとりなして、あなたも帰洛のかなうよう取りはからいます。それを頼みに苦しみに堪えて待っていてください。
俊寛 (答えず)
成経 何か形見に残したいがわしに何もあろうはずがない。この衾をあなたにのこします。わしはこれで雨露をしのぎました。
俊寛 (衾を地になげうつ)わしはあなたを友とは思わぬ。早く都に帰るがいい。そして自分の敵に追従するがいい。
家来 船の用意はできました。
基康 ではお別れする。(船に乗る。成経つづく)
成経 (船の上より康頼に)おことづてはありませぬか。
康頼 (何か言いかけて感動のあまりやめる)
基康 すぐに出発しろ。
家来 (ともづなを解く)
俊寛 (顔をそむける)
成経 (康頼に)ではお別れいたしまする。
康頼 (堪えかねたるごとくに)基康殿、お待ちください。
基康 何かごようか。
船少し動く。
康頼 待ってくれ。わしは考えて見たいから。
基康 船を止めろ。(家来船を止める)
俊寛 (不安の極に達し)康頼殿、わしはあなたを信じますぞ。
康頼 (苦しみに堪えざるごとく)神々よ。わしに力を与えてください。
基康 船を出せ。(船動く)
康頼 待ってくれ。わしは迎えをお受けする。
俊寛 (まっさおになる)康頼殿、あなたもか
康頼 俊寛殿、ゆるしてください。わしはあなたのそばにいたい。最後まであなたの慰めの友でありたい。けれど、わしは今自分を支えることができなくなった。あなたはわしがどれほど故郷を慕っていたか知っていられよう、そのために頼むべからざるものをも頼みとしていたことを。熊野神社に日参したことも、千本の卒都婆を流したことも。今やその日が来た。ほとんど信じられない夢のような日が。けれどわしはあなたをあわれむあまり、今の今まで堪えてきた。けれど今はわしの力もつきたような気がする。この船を逸したら二度と機会は来ないかもしれない。あの荒れた乏しい、退屈な、長い長い日が無限につづくことを思えばたまらない。わしはこの船が地獄に苦しむ罪人を迎えに来た弘誓の船のような気さえしているのだ。
俊寛 (康頼の袖をつかむ)永久に地獄に残るわしの運命を思ってくれ。それもただ一人で! あゝ考えてもぞっとする。残ってください。残ってください。
康頼 わしが帰ったらきっと清盛殿に取りはかろうて迎えの船を送ります。それを信じて待ってください。
俊寛 それがあてになるものか。このたびの処置で清盛がわしをどれほど憎んでいるかがわかる。わしはこの島にただ一人残って船の姿が見えなくなる瞬間が恐ろしい。わしの命がその瞬間を支え得るとは思われない。
康頼 きっと迎えにまいります。その日を待ってください。わしを帰らせてくれ。
俊寛 (康頼を抱く)残ってくれ、残ってくれ。
康頼 (苦悶の極に達す)あゝ。神々よ。
基康 船を出せ!
康頼 待ってくれ。(決心す)わしは帰らねばならない。(俊寛を放す)
俊寛 わしを無間地獄に落とすのか。
康頼 ゆるしてくれ、ゆるしてくれ。
俊寛 (康頼にしがみつく)助けてくれ。
康頼 (躊躇す)
基康 (いらだたしく)船を出せ!
康頼 待ってくれ。(俊寛を押し放ち船に乗る)
俊寛 (よろめく)あゝわしは。待ってくれ!
家来船を止めんとす。
基康 (声を励ます)出発しろ。
船動く。
俊寛 基康殿。わしは犬のごとくひれ伏してあなたに乞う。わしをただ九州の地までつれて帰ってくれ。
基康 (顔をそむける)
成経 俊寛殿、きっと迎えにまいります。
康頼 心を確かに俊寛殿。わしは誓ってもいい。きっと迎えをよこすことを。(無意識にふところより法華経を取り出す)誓いのしるしにこの法華経をあなたにのこします。わしのただ一つの慰めであったこの経を。わしのかたみに!
俊寛 (法華経を引き裂く)
基康 (声を励まし)すぐ出せ!
船、岸を離る。
俊寛 (船にすがりつく)わしもつれて帰ってくれ。(船、動く。俊寛水の中に浸る)待ってくれ。(船、動く。俊寛水に浸りたるまま、一間ばかり船に引きずられてゆく)
基康 手を放させろ。
家来 (俊寛の手をつかんで放す)
俊寛 (またしがみつく)
基康 (刀を抜き背にて俊寛の手を打つ。俊寛、手を放す)急いで漕げ。
船、岸を離れる。
俊寛 (ずぶぬれになったまま)船を戻せ! 船を戻せ!
基康 (家来に)急げ。(俊寛に)わしのせいではないぞ。
成経 きっと迎えにまいりますぞ。
康頼 ゆるしてくれ。ゆるしてくれ。(手を合わす)
俊寛 助けてくれ! わしを一人残すほどなら、むしろわしを殺してくれ。
答えなし、船退場。
俊寛 ただ九州の地まで。一生の願いだ。そしたら海の中に投げ込んで殺してくれてもいい。
答えなし。
俊寛 (水ぎわを伝って走る)船を戻せ! わしを助けてくれ。
答えなし。
俊寛 (丘の上にはい登り沖をさしまねく)おーい、康頼殿。
沖より呼ばわる声聞こゆ。
俊寛 船を戻せ! 船を戻せ!
沖より銅鑼の音響く。
俊寛 船を戻せ! 船を戻せ!
答えなし。
俊寛 (衣を引き裂く。狂うごとく打ちふる)おーい。康頼殿。
答えなし。この時雷のとどろくごとく山の鳴動聞こゆ。
俊寛 (ふるえる)助けてくれ!
答えなし。
俊寛 (絶望的に)だめだ! (地に倒れる。立ち上がる)鬼だ。畜生だ。お前らは帰れ。帰って清盛にこびへつらえ、仇敵の前にひざまずいてあわれみを受けい。わしは最後まで勇士としてただ一人この島に残るぞ。この島で飢えて死ぬるぞ。
も一度激しき山の鳴動。
俊寛 (思わず叫ぶ)助けてくれ! (地に伏す。間。必死の力を出して立ち上がりよろめきつつ)わしはこの島の鬼となるぞ!
波の音、松風の音、その間を時々山の鳴動。
[#改ページ]第三幕
第一場
舞台、第一幕に同じ。岩多き荒涼たる浜辺、第二幕より七年後の晩秋。
俊寛 (やせ衰え、髪をぼうぼうとのばし、ぼろぼろに破れ、風雨のために縞目もわからずなりたる着物をきている。岩かどに立ちて、嘆息しつつ海を眺める)あゝだめだ。まただまされた。何百度だまされればいいのだ。康頼めがなまじいに迎えによこすと言ったばかりに! 苦しまぎれにいいかげんなことをいったのだ。その場限りの慰めだ。それが何のあてになるものか。それをお前は知ってるくせに。愚か者! 未練なわしよ。あゝわしはもう自分に頼る気もなくなった。どうしてわしは死んでしまわないのだ。この岩かどに頭を打ちつければ、この悪夢のようなわしの生涯は閉じるのではないか。あゝ想像もつかない恐ろしい七年が経った。わしはどうして生きてくることができたのだろう。四季の移り変わりと月の盈虧がなかったら、どうして月日さえ数えることができたろう。何よりも苦しいのは食物がないことだ。わしはいつも餓鬼のように飢えていなければならない。もう弓を引く力もなくなった。水くぐる海士のすべも知らない。(ふと岩陰を見る)見つけたぞ! (岩陰に飛びゆき)待て。かにめ。(あわて捕えんとす)えゝ逃げおったわい。(がっかりする。考える)あゝわしは餓鬼だ。少しの食物を得るためにどんなにあさましいことをしなければならないか。
この時岩かどにとまりいたる兀鷹空を舞い、矢のごとく海面に降り魚を捕えたちさる。
俊寛 あゝわしはあの兀鷹がうらやましいわい。
漁夫一登場、※[#「土へん+累」、311-6]を岩の上に置き網を打つ。
俊寛 (おずおずと漁夫のそばに近寄る)
漁夫一 (気味悪そうに俊寛を見る。網をあげ、捕えたる魚を※[#「土へん+累」、311-8]の中に入れ、再び網を打つ)
俊寛 (※[#「土へん+累」、311-9]の中をのぞきこむ。何かいいかけて躊躇す。やがて思いきりたるごとく)この魚をわしの硫黄と換えてくれまいか。
ふところより硫黄の塊を出す。
漁夫一 (俊寛を軽蔑したように見る)わしはそんなものはいらない。(網を引き上げる)
俊寛 そうであろうが二、三尾でいいから換えてくれまいか。
漁夫一 九州から硫黄を買いに来る商人に持ってゆくがいい。
俊寛 いつくるかわからない。わしは飢えているのだから。
漁夫一 それっぱかしの硫黄をもらったってしかたがないや。
俊寛をさけるごとく、少し離れた所に行き網を打つ。
俊寛 (※[#「土へん+累」、311-18]の中を物欲しそうにのぞきこむ。やがて隙をうかがい手を突込み魚をつかみ、ふところに入れる)
漁夫一 (それを見つける)盗みやがったな。太いやつだ。
俊寛 わしは知らぬわい。
漁夫一 うそをつけ。魚を出せ。(俊寛に詰め寄せる)
漁夫二とその妻登場。
漁夫二 どうしたのだ。
漁夫一 こいつ、わしの魚を盗みやがったのだ。
漁夫二 この流人めが。とっちめてやれ。
漁夫二の妻 (背中の子供をゆすぶりながら)こいつはいつもうろうろして物盗みをするということだよ。
漁夫二 ぶちなぐってやれ。(俊寛逃げんとす)
漁夫一 待て! (俊寛を地にねじ伏せる)
漁夫二 盗人め! (俊寛の顔を打つ)
俊寛 (顔をおおうて地に伏す。漁夫の子供火のつくように泣く)
漁夫二の妻 (けんどんに子供をゆすぶりながら)ほえまいぞ、ほえまいぞ。ほえるとこの流人のようにぶたれるぞ。
漁夫二 (俊寛を突きやり)失せろ、流人め。二度とこんなまねをしやがったら、生かしてはおかないぞ。
漁夫一 二度とこの界隈にうろつくな。
漁夫二の妻 いやなやつだね。あんなのを餓鬼というのだろうよ。
三人退場。
俊寛 (立ち上がり、あたりを見回す)あゝ、何というみじめさだ。(走り行き岩かどに頭を打ちつけんとして躊躇す)あゝ死ね! 死ね! (地に伏す)あゝだめだ。これでもわしは死ねないのか。(慟哭す。やがて岩かどに腰をかける。ふとそこに落ちいたる魚を見つける。無意識に拾い上げて食わんとす。この時犬の群れのほゆる声起こる。ぎょっとしてあたりを見回す)しっ。しっ。(犬ますますほえる。俊寛、石を拾う)畜生! (石を投げる。犬の声静まる。魚にかじりつく)
有王登場。俊寛人の気配に岩陰に隠れる。
有王 (あたりを見回しつつ)なんと言う荒れた島だろう。都にいる時鬼界が島のさびしいことは聞いていたが、これほどだろうとは思わなかった。ほんとうに鬼でも住むような島だ。この島で一日と暮らせようとは思えない。あゝご主人さまはこの島で、七年もただ一人で暮らさなければならなかったのだ。もしやもはやお果てなされたのではあるまいか。この島中を山をよじ浜辺を伝って捜したけれどもそれらしい人も見あたらない。もしか絶望のあまり岩かどに頭を打ちつけて自殺でもなさりはすまいか。いやいやそんなことはあるまい。奥方や若君の安否もわからぬ先にそのようなことはなさるまい。(岩のほうに行く)
俊寛 (岩陰よりいで去らんとす)
有王 (俊寛の姿を見て驚き、二、三歩後ろにさがる。小声にて傍白)あれはなんだろう。あの恐ろしい姿は! わしは餓鬼道へでも迷って来たのではあるまいか。いや、やはり人間のようだ。尋ねてみよう。(俊寛の後ろより声をかける)ちょっと、物をお尋ねいたしたい。
俊寛 (後ろを振り向く)
有王 わしは都から来た者だが、(俊寛、都と聞いて驚いて有王を見る)この島に法勝寺の執行俊寛僧都と申す方が十年前よりお渡りになっているはずだが、もしやご存じあるまいか。
俊寛 (驚きのためまっさおになる。何か言いかけてくちびるをひきつける。やがてつくづく有王を見る)有王だ! (有王に抱きつく。やがて反射的に有王を放し顔をおおう)あゝ、わしは恥ずかしい。
有王 (驚きて俊寛を見る)お前はだれだ。わしの名を知っているお前は。
俊寛 有王よ。わしだ。俊寛だ! (有王に抱きつく)
有王 (驚き、つくづくと俊寛を見る)あゝ、ご主人様だ! (俊寛を抱く)
俊寛 あゝ、わしはわしは。(慟哭す)
有王 おなつかしゅうございました。(愛憐の情に堪えざるごとく)あなた様のこのお変わりようは!
俊寛 わしの姿を見てくれい。
有王 あゝいたわしや、ご主人様。よく生きていてくださいました。どうしてこの十年をお過ごしなされました。この荒い島で、ただ一人で。(泣く)
俊寛 わしは餓鬼のように暮らしてきた。どうして生きてきたか自分にもわからない。すべては困苦と欠乏と孤独と、そして堪えられない侮辱だった。
有王 ここでお目にかかろうとは!
俊寛 夢だ! 悪い、長い夢だ。
有王 今生でふたたびお目にかかれるとは。あゝありがたい。
俊寛 この変わりはてたあさましい姿をあわれんでくれ。
有王 ご主人様、もはやご安心なさいませ、私がまいりました。あなたの手足のように忠実な有王めでございます。
俊寛 (有王を抱きすすりなく)
有王 私の心は昔と寸分変わりませぬ。あなたが都をおたちなされてから、苦しい長い日がつづきました。あゝ長い長い日が、わたしはどんなにあなたのことをお案じ申したか、先年鬼界が島の流人たちがきょうは都へ上ると聞いた時、私は夢かとよろこんで取るものもとりあえず鳥羽までまいりましたけれども、康頼殿と成経殿の輿は帰ったけれども、あなた様は一人鬼界が島に取り残りなされたと聞いた時、私は絶えいるばかりに悲しみました。それから七年の間あなたの赦免のことがある日をあけくれ待ちわびていました。けれど七年がむなしく過ぎました。待ちあぐんだ末、私は堪えきれなくなって人目を忍びこの島に尋ねてまいりました。せめて今生に一度だけでもお目にかかりたいと思って。
俊寛 あゝ、お前にふたたび会えようとは! はるばると来てくれたか。わしのすべての友、すべての家来がわしを見捨てたのに。この島の漁師さえわしをあなどり、餓鬼を恐れるようにわしを避けようとするのに。
有王 私の尊いご主人様、私はあなたのために命を惜しみませぬ。幼い時からあなたに受けたご恩を思えば、私はよろこんであなたのために死にまする。
俊寛 わしは絶望のあまり幾度も幾度も死にかけた。深い海やけわしい岩かどは、絶え間なくわしを死に誘うた。だがわしの妻子の愛着がわしを死なせなかった。この地上のどこかで妻や子が生きているのだと思えばわしは死ねなかった。しかもきっと不幸と恥辱との中に。有王よ、わしは妻子の安否を気づかった時、いつもお前のことを頼みにしていた。すべての家来はそむき去っても、お前だけはきっと最後まで命をかけても彼らを守ってくれると信じていた。わしに聞かせてくれ。聞かせてくれ。わしの妻はどうしていますか。
有王 (何かいいかけてやめる。あわれむごとく、俊寛の顔を見、顔をそむける)
俊寛 言ってくれ! 有王よ。わしはたいてい想像している。どんな恥な暮らしをしていてもわしはもはや驚きはしない。
有王 (苦しそうに)あゝ、私の申し上げることはもっと悪いことでございます。
俊寛 (青ざめる。心を確かに保とうとつとめつつ)わしは覚悟している。
有王 (堪えかねたるごとく)西方におわします奥方様。ご主人様のお心をお支えくださるように!
俊寛 あゝ亡くなったか。自害したか。
有王 (思いきりたるごとく)幾たびかそれをくわだてられました。そのたびごとに私が必死になっておとどめ申さなかったら、あなたが西八条に捕われていらっしたあと、平氏の役人どもが館に押し寄せて近親のかたがたをことごとくからめとり、連れかえって拷問し、謀叛の次第を白状させてことごとく首をはねました。もし重盛が命乞いをしなかったら、女や幼い者さえも免れることができなかったでしょう。奥方は若君と姫君とを伴うて鞍馬の奥に身をお隠しなされました。深いご恩をこうむっている数多くの郎党は自分の身にとがめのかかるのを恐れて皆逃げ去ってしまいました。私一人おともをいたしご奉公申し上げましたけれども、そのご不自由さは申すもおいとしいほどでございました。絶えず敵の追手を恐れ、ことに恥と侮りとを防ぐためにあの気高い奥方がどんなに心を苦しめられたか、あなたがこの島にご流罪になられたと聞いてから奥方のお嘆きははたの見る目も苦しいほどでございました。康頼殿、成経殿のご赦免があってあなたのみお残りなされたと聞かれてから、奥方の悲しみはもはや私の慰め申すにはあまりに深くなりました。そしてついに病の床におつきなされ種々手をつくしてご看病申し上げましたけれどもそのかいなくついにお果てなされました。
俊寛 あゝあわれな妻よ。(目を閉じる。力なく)二人の子供は!
有王 そのあとを申し上げるのはあまりに苦しゅうございます。
俊寛 言ってくれ。言ってくれ。わしの心はもはや悲しみにしびれている。
有王 若君は夜も昼も父母をお慕いなされ、「母上はいずくにゆかれた! 鬼界が島とやらへ連れてゆけ。」とおむずかり遊ばしましたが、六年前の二月ごろその時はやった痘という病気におかかりなされついにお失せなされました。
俊寛 (石のごとく硬く冷たき表情にて)ただ一人残った娘は?
有王 姫君さまはこの世をはかなみ奈良の法華寺にて尼になって、母上や若君の菩提をとむろうていられましたが、去年の秋の暮れふとおゆくえがわからなくなり、手をわけて捜しましたところ。(俊寛を見る。堪えかねたるごとく顔をそむけ口をつぐむ)
俊寛 言ってくれ。ひと思いに。この場におよんでもはや私に悲しみをおしんでくれな。
有王 さる谷間に姫君のおなきがらが見つかりました。
俊寛 (ほとんど無感覚になりたるごとくうつろなる目つきにて)無だ! すべてが、すべてが亡びていたのか、わしの氏を根こそぎ奪ってゆくのか。
有王 気をおたしかに!
俊寛 (われにかえりたるごとく)清盛はどうしている? 平氏の運命は? わしに信じられないほど残酷な運命が平氏をどう扱うか、わしはそれが知りたい。
有王 世は澆季になったと思われまする。平氏はますます栄えはびこり、その荘園は天下に半ばし、一族ことごとく殿上に時めき「平氏にあらざるものは人にあらず」といわれております。清盛が厳島に参詣する道を直くするために切り開かした音戸の瀬戸で、傾く日をも呼び返したと人は申しまする。法皇は清盛の女の胎から生まれた皇子に位を譲られる、と聞いております。あらゆる暴虐に飽いた身を宮殿をしのぐような六波羅の邸宅の黄金の床に横たえて、美姫を集めて宴楽にふけっております。天下は清盛の前に恐れ伏し、平氏にこびへつらい何人もあえて対抗しようとするものはありませぬ。
俊寛 成経はどうした。都に帰れば隙をうかがって復讐することができるといった成経は?
有王 成経殿はこのたび宰相の少将に昇られるといううわさでございます。平氏に刃向かうことなどは思いもよらぬように見受けられます。
俊寛 父を清盛に殺された成経が! 康頼はどうしている。
有王 康頼殿は東山双林寺の山荘にこもって風流に身をやつしていられます。鬼界が島での生活を材料にして宝物集という物語を世に出されるといううわさでございます。
俊寛 犬だ! 鼠だ! わしは最後まで勇士として立つぞ。自分を売らぬぞ。有王船を用意しろ、船を!
有王 お心を静かに!
俊寛 ただ一矢を! わしの腕にまだ力があるうちに!
有王 船は急にはありませぬ、私がこの島に来ることができたのも不思議なほどでございます。赤間の関で役人に捕えられすでに危きところをのがれ、船頭をだましてようやくこの島に着くことができました。
俊寛 九州まで! いかなる手段をつくしても! 九州まで着けば身を忍ばして都に入り、時機をうかがうことができる。
有王 たとえ九州まで帰り着いても、清盛が草をかきわけても捜し出さずにはおきませぬ。
俊寛 ただ一太刀! わしの憎みを清盛の肉にただ一太刀刻みつけるために!
有王 (つくづくと俊寛を見る)あゝご主人様何ごとも時でございます。われわれの運は去りました。
俊寛 (倒れんとす)
有王 (俊寛を支えあわれみに堪えざるごとく)お気をたしかに! 栄枯盛衰は人間の力に測りがたき天のさだめでございます。今時を得て全盛の極みにある平家の運命もいつかはきっとつきる時が来るでしょう。
俊寛 (夢中にて)残っている! まだわしの腕に力が残っている。
有王 一人や二人の力で刃向こうても、今時を得ている平氏をくつがえすことはできませぬ。天が平氏を滅ぼすのを待ちましょう。
俊寛 清盛よ、お前がわしに課した苛責の価をお前に知らさずにはおかぬぞ!
有王 あの清盛の前代未聞の暴逆が天罰を受けずにはおきますまい。
俊寛 今わしが流すこのあぶらのような涙をお前の歓楽の杯に注ぎ込んで飲まさずにはおかぬぞよ。
有王 無間地獄の苛責とても今のあなたの苦しみにまさりはいたしますまい。
俊寛 この苦しみを倍にして、七倍にしてきっとお前に報いるぞ! わしの足がまだわしの体を支える限りは。えゝ。船を出せ。船を!
有王 (力つきたるごとく、ぐったりとして)船はとても得られませぬが。
俊寛 たとえ生きながら龍となって大海を越ゆるとも! (衣を裂く)わしは憎む。わしは憎む。(狂うごとく)えゝ、この頭が張り裂けるわい! (ほとんど無意識に頭を岩かどに打ち当てんとす)
有王 (まっさおになり、俊寛を抱き止める)ご主人様。ご主人様。
俊寛 (有王の腕の中にて)清盛よ。わしの死骸をお前の死骸に重ねるぞ! (失神して倒れる)
有王 (俊寛を抱きかかえたるまま)ご主人様、お気をおたしかに! あゝ、いたわしや。あまりに苦しみがすぎました。鬼神もおあわれみくだされい。かかる苦しみが歴史の記録にもありましょうか。
俊寛 (われに返り、抱かれたるまま、無限の感情をこめて)あゝ、有王よ。
有王 ご主人様。気をおたしかに! 有王は最後まで宮仕えいたしますぞ。海をくぐり、山によじても食物をあさり求めあなたを養い守りますぞ。(俊寛を抱きしめる)
第二場
俊寛の小屋。いそに漂着したる丸太や竹を梁や桁とし、芦を結んで屋根を葺き、苫の破片、藻草、松葉等を掛けてわずかに雨露を避けたるのみ。すべて乏しく荒れ果てている。俊寛、藻草を敷き破れたる苫をかけてねている。第一場より一か月後の夜、隙間より月光差し入る。小屋の外はあらし吹く。
俊寛 (突然苫をおしのけ、起き上がり、あたりを見回す)魔道に落ちているのか。妻よ。今に、今に恨みを晴らしてやるぞ! ([#「! (」は底本では「!(」]われにかえりたるごとく)あゝ夢か。(急に自分の地位をはっきりと意識したるごとく)あゝわしはどうして死にきれないのだ。すでに三七日も飲食を断っているのに! わしは干死にすることもできないのか。わしの生命の根は執念深く断ちきれない。このあさましいわしの業をいつまでもさらさせようとするのか。食を断っても断っても死にきれぬ蛇のように。わしの力はわしの四肢からもう失せたのにわしの根はいつまでも死にきらないのか。運命はあくまでもわしを責めさいなもうとするのか。わしは死にたい。死にたい。ただ恨みだけがわしの生命を燃やしているのだ。わしは死んでただわしの恨みだけが生きているのだ。わしは恨みそのものだ。わしは生きながらの怨霊だ。(耳をそばだてる)あゝ風の音か。わしの子どもが泣いているような気がしたのだが。
有王 (登場、魚と荒布とを持っている)ただいま帰りました。
俊寛 (なお何者かのあとを追うごとく)あゝ帰ったか。
有王 ご気分はいかがでございます。(俊寛のそばによる)
俊寛 わしの根はますますはっきりするばかりだ、わしの身体は日に日に衰えてゆくのだが。
有王 (つくづくと俊寛を見る)ご主人様、なにとぞ私の申すことをお聞きください。今夜は心を静めて何か召し上がりませ。ここに魚と荒布とがございます。
俊寛 わしはもはや飲食はたったのだ。わしははやく死にたい。
有王 なぜそのようなことをおっしゃいますか、私が生きている限りはたとえご不自由とは申せ、海山をあさってもあなたを飢えさせはいたしませぬ。
俊寛 あゝわしは生きていてどうするのだ。わしの手足にまだ力が残っていた間は、いかにもして一度都に帰って敵に一太刀報いる望みがあった。お前からあの恐ろしい凶報を聞いた時、わしがすぐに死ななかったのはただその希望のためのみであった。があまりに激しい悲しみはわしを打った。衰えきったわしの体を病気がむしばんだ。わしはもはやふたたび都の土を踏む望みはない。一指を加えることができないで敵とともに一つの天をいただくことは限りない苦しみだ。
有王 病気はなおすことができるではありませんか。命さえあればふたたび都に帰れないとは限りません。
俊寛 (苦しそうに)有王。この期に臨んでもはやまやかしごとを言ってくれな。
有王 でも寿命のある限りは。
俊寛 (さえぎる)わしはもはや再び立つことはできない。
有王 どうしてそのようなことがありましょう。なにとぞ飲食をおとりください。私が苦心してあり求めてきたのでございますから。
俊寛 わしは干死にするのだ。わしの呪いが悪魔の心にかなうために。わしの肉体の力はつきた。わしに残っているのはただ魂魄の力だ。わしのこの力で復讐して見せる。清盛はわしからすべての力を奪った。しかしこの力を奪うことはできないのだ。人間の魂魄の力がどれだけ強いか。わしはそれを知らせてやる。清盛を呪うてやる。ともに魔道に伴うてゆくぞ!
有王 あゝ恐ろしい。ご主人様、あなたは静かにこの世を終わってください。私は争いに飽きました。あゝこの年月私の見てきたことはあまりに恐ろしいことばかりでありました。思えば思うほどあさましい。私はこの恐ろしい世を惜しいとは思いませぬ。その渦の中からのがれたい。たとえこの荒れた島はいかにさびしくとも、ここで静かに余生を送りましょう。私が朝夕心をつくしてご奉公申し上げますから。つくづくあなたのご生涯を思えばただごとではない気がいたします。目に見えぬ悪業があなたの氏につきまとっている気がいたします。静かに業のつきるのを待ち平和な来世をお迎え遊ばすよう、私はひたすら祈ります。今あなたの心に起こっていることは世にも恐ろしいことでございます。あなたの来世を魔道に落とさぬよう。
俊寛 わしのこの、この骨髄に徹する恨みをどうするのだ。あゝわしの受けた苛責がどれほどのものだったか! わしはよい人間ではないかもしれない、だが、かほどの苛責がわしに相当しているだろうか。少なくともわしは清盛ほど悪虐ではないつもりだ、彼ほど人を傷つけてはいないつもりだ。天はその清盛をどのように遇しているか!
有王 あゝ私もそれはわかりませぬ、が、清盛の積んだ悪業はきっと罰を受ける時が来ると思います。
俊寛 あゝわしはその罰を呼び起こすのだ。その罰を七倍にしてやるのだ。彼を地獄に引きずり落としてやるのだ。
有王 ご主人様、なにとぞお心を静めてください。清盛の懲罰は魔王に任せてください。この世では記録にないほどの恐ろしい苛責を受け、死後もまた地獄におちて永劫につきない火に焼かれなくてはならなかったら!
俊寛 たとえ地獄の火に焼かるるとも清盛を呪い殺さずにはおかないぞ。彼を火の中に呪い落として永劫に責めさいなまずにはおかないぞ。
有王 (耳をおおう)あゝ恐ろしい。仏様が主人の心をお静めくださるよう!
沈黙。あらしの音が過ぎる。
俊寛 有王よ。お前は都へ帰ってくれ。
有王 (驚く)ご主人様。何をおっしゃいます。
俊寛 お前はまだ若い。わしとともにこの島で朽ち果てさすに忍びない。都へ帰ってよき主に仕え、世に出る道を計ってくれ。
有王 私は世をいといます。この島で一生あなたに仕えるほか何の望みも持ちません。
俊寛 都へ帰れ。都へ帰れ。
有王 私は死ぬまであなたを養い守ります。
俊寛 わしはお前にとっていい主人ではなかった。お前になんの栄えをも与えることもできないで。恥と煩いとのみ負わせた。お前がわしの妻子に最後までつくしてくれたことは、わしの肝に銘じている。お前の一生をこの島にうずめさせてはならない。立ち帰ってお前の栄えを求めてくれ。
有王 お言葉が身に余りまする、私はあなたのためによろこんで死にます。この島に朽ち果てることは物の数ではありませぬ。ただいかに心をつくしてもあなたのあまりに深い心の手傷を慰めることができないのを悲しむばかりでございます。
俊寛 わしを捨ててくれ。この島で一人死なせてくれ。
有王 私は最後まであなたのそばを離れませぬ。あなたとともに死にます。
俊寛 わしの死はもう手の届くほど近づいている。
有王 あゝ私は無常を感じます。静かにこの世を終わりましょう。来世の平安を祈りましょう。主従は三世と申します。
間。俊寛 (何ごとかを思いつきたるごとく急に立ち上がり、やがてまっさおになりて、くずれるごとく寝床にすわる)
有王 どうかなさいましたか。急にお顔の色が悪くなりましたが。
俊寛 (平気を装う)わしは寒い。有王、火をたいてくれ。
有王 あゝあまり夜風がきついのがさわったのでございましょう。すぐに火をたきましょう。すぐ薪を拾ってまいりますから。(退場)
俊寛 (寝床の上に倒れる。やがて決心したるごとく立ち上がる)有王よ。お前の忠義はいつまでも忘れぬぞ。(よろめきつつ藻草をかきわけて小屋をいであたりをうかがい浜辺のほうに向かって退場)
舞台しばらく空虚。
有王 (登場)すぐに火をたきますぞ。ひどいあらしだ。(俊寛の姿の見えざるに気づいて、驚き薪を投げる)ご主人様。(小屋の中を捜す。藻草のかきわけてあるのを見る。急にまっさおになる)あゝ。(驚きあわて小屋を走りいで、月明りに浜辺のほうを透かし見つつ急ぎ退場)
第三場
舞台第一場に同じ。時。第二場の直後。烈風吹き、波の音高し。荒れ狂う海の上に利鎌のごとき月かかる。雲足はやく月前をかすめ飛び舞台うす暗くなり、またほのあかるくなる。俊寛よろめきながら登場。幾たびか岩かどにつまずきては倒れ、また起きあがる。息を吐きつつ後ろを透かしながめ、よろめきつつ岩をよじ上り、けわしき巌かどに突き立つ。手足、顔のところどころ傷つき血痕付着す。月雲を離れ、俊寛の顔を照らす。
俊寛 (月をにらみつつ)いかに月天子、汝の照らすこの世界をわしは呪うぞよ。汝の偶たる日輪をも呪うぞよ。かつては汝らの名によってこの世界に正しき律法あることを証したこともあったが、今は悪魔の名によってそれを取り消すぞ。あゝこの世界をわしは憎む。わしが生きている間、わしをいかに遇したか。それをわしは永劫に忘れぬぞ。この世界はゆがめる世界だ。善が滅び悪が勝つ世界だ。あゝ、なきに劣る世界だ。かかる世界は悪魔の手に渡すがいい。悪魔よ来たれ。わしは汝に今こそ親しく呼びかけるぞ。わしは三界に怨霊というもののできる理由を今こそ知った。わしのごとく遇せられて死んだものの霊が、怨霊にならずして何になるのだ。(月雲にかくる)あゝ信頼の怨霊よ。成親の怨霊よ。わしにつけ。わしにつけ。地獄に住む悪鬼よ。陰府に住む羅刹よ。湿地に住むありとあらゆる妖魔よ。みなその陰気なる洞窟をいでてわしのまわりにつどえ。わしはわしの霊を汝らの手に渡すぞ。わしはわしに生を与えたるものにそむき、永劫に汝らに属することを誓うぞ。わしの誓いのしるしを受けい。(俊寛石を拾いおのれの胸、顔等をうつ、皮膚破れて血ほとばしる。地に倒れ、また立ち上がりて狂えるごとく衣を裂く)あゝ悪魔よ。わしの呪いをいれよ! (岩かどに突立つ。烈風蓬髪を吹く。俊寛両手を天に伸ばす)わしはあらゆる悪鬼の名によって呪うたぞ! 清盛は火に焼けて死ね。宗盛の首は梟せられよ。維盛は刃にたおれよ。わしは清盛の女の胎を呪うたぞ。その胎よりいずるものは水におぼれよ。平家に禍あれ。禍あれ。平家の運命に火を積むぞ。平家の氏に呪いをおくぞ。たねのたね、すえのすえまで呪うたぞ。清盛よ、汝を地獄に伴いゆくぞ。(月雲を離れ俊寛の顔を照らす。月をにらんで)汝、僭冒者よ。天の座よりおちおれい。(天に向かって唾を吐く。風のため唾ことごとく俊寛の顔にかかる。俊寛狂うがごとく)悪鬼よ。羅刹よ。妖魔よ。来たってわがまわりにつどえ。すべて汝らの族に属するものことごとく来たってわが呪いに名を署せよ。わしは今わしの魂魄を永劫に汝らの手に渡すぞ。おゝ清盛よ。奈落の底で待っているぞ。(岩かどに頭を打ちつける。倒れる)
間。有王 (登場)ご主人様。(うろうろ捜す)あゝどこにゆかれたか。あゝわかっている。わかっている。何をあなたが思いつかれたか! あゝ恐ろしい。ご主人様。(砂の上に血の痕を見つける)おゝ。(血の痕をたどり、岩の上によじ、俊寛の死骸を見つける)おゝご主人様。(俊寛を抱き起こす。すでに絶息しおるを知る。地に倒れる。やがて起き上がり俊寛を抱きしめる。慟哭す。沈黙。やがて俊寛の死骸を抱きつつ)あゝ、いたわしいご主人様。苦しい苦しいご生涯でございました。なにゆえにあなたはこれほどの苛責をお受けにならなければならなかったのか。それは私にもわかりません。あゝしかしあなたの悪夢のような、ご生涯は終わりました。静かな平和な来世があなたを待っているように! (つくづくと俊寛の顔を見る)何という恐ろしい死に顔だろう。あゝご主人様、あなたは呪うて死なれましたか。天を恨み、世を憎み、敵を呪うて、恐ろしい、恐ろしい考えを死ぬる際まで持ちつづけて! あゝあなたの未来が恐ろしい。あゝ私がこの十年の間見てきたことは実に恐ろしい人生の相であった。(沈黙。やがて決心したるごとく立ち上がる。死骸に向けて)有王はどこまでもどこまでもお伴いたしますぞ。(俊寛の死骸を負う)あゝ仏様。私はこの世をいといまする。この恐ろしい世界から一時も早くのがれとうございます。私は主人とともに死にまする。私は何もわかりません。私の今することがたとえ間違っていようとも、なにとぞゆるしてくださいませ。あゝ主人の来世をお救いくださいませ。主人の霊を地獄より救い出してとこしえの平和を恵みたまえ。(死に場所を選びつつ)今私の霊をあなたの御手に託しまする。(俊寛の死骸を負いたるまま岩の上より海に身を投げる)
あらしの音。波の音。月光ほしいままに浜辺を照らす。
――幕――