本年はちょうど二十世紀半ばの、世界歴史にとって深い意味をもつ年である。思うにこの二千年の歴史はこの年を称して危機の年、あるいは世界史にとって重大な年といっているが、なるほど多くの対立、矛盾が山のようにつまれている。しかしわれわれは目を大きく歴史の背後に転じてみよう。
 われわれの歴史がたどりうる五千年の歴史の背後に、人類のことばを発見したという、より広い歴史をたどるならば、われわれは十万年の、より深い歴史を顧みなければならなくなるであろう。
 つまり、われわれのいうところの歴史の二十倍もの歴史が、本当は人間をつくりあげたのである。ことばを発見したがゆえに、人々は考えることを発見し、数字をあやつるようになったのである。かかることから、最も恐るべきことは、この宇宙の中に法則があるらしいということに人間は気がついたのである。それは物の世界だけではなしに、人間と人間との間にすら、それがあることを発見したのである。この発見は、人間だけがつくりあげたおどろくべき事件である。
 幾億の星が動いていようとも、それは自分の法則を知らない。幾千億の動物がそのいとなみをしているけれども、その法則を知らない。人間だけが、これらの物の法則ならびに人間がたどるべき法則を知っているのである。かく考えるとき、なるほど五千年の歴史は、人間の悲しみをもたらしているかもしれないが、その背後に、その涙をつぐなうに足るだけのおどろくべき力をつくりあげているのである。
 われわれが文字をもつにいたったということ、それから本ができあがるということ、それを読むということ、さらにまた考えるということは、五千年の歴史をはるかにこえた容易ならざる人類の力を集めた努力の結果なのである。
 一つ一つの本をわれわれが見るとき、その本の背後にひろがる人類の絶えまのない努力と、その鋼鉄のような意欲をわれわれは思い返さなくてはならない。
 五千年の歴史が、もしなんらかの誤りをおかしているとするならば、また二十世紀の歴史がなんらかの誤りをおかしているとするならば、まさに十万年の人間の意欲をまざまざとわれわれの前に示している図書文化こそは、この誤りのきずをいやすただ一つの手がかりである。
 本を前にして、私たちはゆるがせにできない現実に対決しているのである。この世界が戦争の危機に直面しているとすれば、あらゆる書籍は、「人類が言語を発見していることを思い返すべきである」と叫びつづけている。
 百年の戦争の継続があっても、その結末は、結局数頁の講和条約の文章にほかならない。賢明なるものが、その文章を、戦いの前に書くことができたならば、人類は百年の血潮の中をのたうちまわらなくてすむのである。
「話せばわかる」といった犬養氏に、「問答無用!」と拳銃の引き金を引いた考え方が、真直に真珠湾攻撃に通じている。「話す」ということを発見した人類のこころの中には、苦痛をのり越えてきたものの切実な祈りがひそんでいる。直接に血を流さないために、人類はここまで歩みきたったのである。
 本の何の文字のできた一つ一つの歴史の中にも、かかる人類の囁きがかくれているのである。
 図書館とは、これらの文化遺産の集結である。そして、巨大なる人造人間のごとく、この本を、その要求に応じて、人類の前に引き出せる組織をつくりあげている精密機構である。そしてそれが、国際的構造をもって組み上げてゆくとき、人々は、「平和」を自分たちのものとして、しっかり、自分たちのものとすることができるのである。

底本:「中井正一評論集」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年6月16日第1刷発行
底本の親本:「中井正一全集」美術出版社
   1964(昭和39)〜1981(昭和56)年
初出:「読書」
   1950(昭和25)年2月
入力:鈴木厚司
校正:宮元淳一
2005年3月25日作成
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