女軽業の大一座が、高島の城下へ小屋掛けをした。
 慶応末年の夏の初であった。
 別荘の門をフラリと出ると、伊太郎いたろう其方そっちへ足を向けた。
「いらはいいらはい! 始まり始まり!」と、木戸番のおやじが招いていた。
「面白そうだな。入って見よう」
 それで伊太郎は木戸を潜った。
 今、舞台では一人の娘が、派手やかな友禅の振袖姿で、一本の綱を渡っていた。手に日傘をかざしていた。
浮雲あぶない浮雲い」と冷々しながら、伊太郎は娘を見守った。
「綺麗な太夫たゆうじゃありませんか」
「それに莫迦に上品ですね」
「あれはね、座頭の娘なんですよ。ええと紫錦しきんとか云いましたっけ」
 これは見物の噂であった。
 小屋を出ると伊太郎は、自分の家へ帰って来た。いつも物憂そうな彼ではあったがこの日はけても物憂そうであった。
 翌日またも家を出ると、女軽業の小屋を潜った。そうして紫錦の綱渡りとなると彼は夢中で見守った。
 こういうことが五日続くと、楽屋の方でも目を付けた。
「オイ、紫錦さん、お芽出度めでとう」源太夫は皮肉に冷かした。「エヘ、お前みいられたぜ」
「ヘン、有難い仕合せさ」紫錦の方でも負けてはいない。「だがチョイと好男子いいおとこだね」
求型もとめがたという所さ」
「一体どこの人だろう?」
「お前そいつを知らねえのか。――伊丹屋いたみやの若旦那だよ」
「え、伊丹屋? じゃ日本橋の?」
「ああそうだよ、酒問屋さかどんやの」
「だって源ちゃん変じゃないか、ここはお前江戸じゃないよ」
「信州諏訪でございます」
「それだのにお前伊丹屋の……」
「ハイ、別荘がございます」
「おやおやお前さん、よく知ってるね」
「ちょっと心配になったから、実はそれとなく探ったやつさ」
「おや相変らずの甚助じんすけかえ」紫錦ははすっぱに笑ったが「苦労性だね、お前さんは」
「何を云いやがるんでえ、箆棒べらぼうめ、誰のための苦労だと思う」
「アラアラお前さん怒ったの」
 面白そうに笑い出した。
「おい紫錦、気を付けろよ、いつも道化じゃいねえからな」
「紋切型さね、珍らしくもない」
 紫錦はすっかり嘗めていた。
 ところでその晩のことであるが、桔梗屋ききょうやという土地の茶屋から、紫錦へお座敷がかかって来た。
「きっとあの人に相違ちがいないよ」こう思いながら行って見ると、果して座敷に伊太郎がいた。
 さすがに大家の若旦那だけに、万事鷹様おうように出来ていた。
 酒を飲んで、世間話をして――いやらしいことなどは一言も云わず、初夜前に別れたのである。
 ホロ酔い機嫌で茶屋を出ると、ぱったり源太夫と邂逅でっくわした。待ち伏せをしていたらしい。
「源ちゃんじゃないか、どうしたのさ」
「うん」と彼イライラしそうに「彼奴あいつだったろう? え、客は?」
「言葉が悪いね、気をお付けよ。彼奴だろうはひどかろう」紫錦は爪楊枝つまようじを噛みしめた。
「いつお前お姫様になったえ」源太夫も皮肉に出た。
「たった今さ。悪いかえ」
「小屋者からお姫様か」
「そういきたいね、心掛けだけは」
 小屋の方へ二人は歩いて行った。
 源太夫というのは通名とおりなで、彼の実名は熊五郎であった。親方には実の甥で、紫錦とは従兄弟にあたっていた。
 その翌晩のことであるが、また同じ桔梗屋から紫錦にお座敷がかかって来た。
「行っちゃ不可いけねえ、断っちめえ」
 熊五郎は止めにかかった。
「いい加減におしよ、芸人じゃないか」
 紫錦は衣裳を着換えると、念入りにお化粧をし、熊五郎にかまわず出かけて行った。
 気を悪くしたのは熊五郎であった。
「へん、どうするか見やアがれ」
 恐ろしい見幕けんまく怒鳴どなり声をあげた。



 同じ一座の道化役、巾着きんちゃく頭のトンこうは、夜中にフイと眼を覚ました。
 ヒューヒュー、ヒューヒュー、ヒューヒューと、口笛の音が聞こえてきた。
「はアてね、こいつアおかしいぞ」
 首をもたげて聞き澄ましたが、にわかにムックリ起き上った。周囲まわりを見ると女太夫共が、昼のはげしい労働に疲労つかれ姿態なりふり構わぬ有様で、大いびきで睡っていた。
 それをまたぐとトン公は、楽屋梯子ばしごを下へ下りた。
 暗い舞台の隅の方から、黄色いの光がボウと射し、そこから口笛が聞こえてきた。
 誰か片手に蝋燭を持ち、檻の前に立っていた。と、檻の戸が開いて、細長い黄色い生物が、さっと外へ飛び出して来た。
「おおし可し、おお可し可し、ネロちゃんかや、ネロちゃんかや、おおい子だ、おお可い子だ……」
 口笛が止むとあやなす声が、こう密々ひそひそと聞こえてきた。フッと蝋燭の火が消えた。しばらく森然しんと静かであった。と、暗い舞台の上へ蒼白い月光が流れ込んで来た。誰か表戸をあけたらしい。果して、一人の若者が、月光の中へ現われた。肩に何かまっている。長い太い尾をピンと立てた、非常に気味の悪いけものであった。
 月光が消え人影が消え、誰か戸外そとへ出て行った。

思召おぼしめしは有難う存じますが……わたしのような小屋者が……貴郎あなたのような御大家様の……」
「構いませんよ。構うもんですか……貴女あなたさえ厭でなかったら……」
「なんの貴郎、勿体ない……」
 紫錦しきん伊太郎いたろうは歩いて行った。
 帰るというのを、送りましょうと云うので、連れ立って茶屋を出たのであった。左は湖水、右は榠櫨かりん畑、その上に月が懸かっていた。諏訪因幡守三万石の城は、石垣高く湖水へ突き出し、その南手に聳えていた。城下まち燈火ともしびは見えていたが、そのどよめきは聞えなかった。
 穂麦ほむぎかんばしい匂がした。蒼白い光を明滅させて、螢が行手を横切って飛んだが、月があんまり明るいので、その螢火はえなかった。
「美しい晩、私は幸福しあわせだ」
「妾も楽しうござんすわ」
 畦道あぜみちは随分狭かった。肩と肩とをっ付けなければ並んで歩くことが出来なかった。
 いつともなしに寄り添っていた。
 やがて湖水の入江へ出た。
「あら、舟がありますのね」
「私の所の舟なんですよ」
「ね、乗りましょうよ。妾漕げてよ」紫錦はせがむように云うのであった。「貴郎のお宅までお送りするわ」
 それで二人は舟へ乗った。
 湖上には微風が渡っていた。かいくだかれた波の穂が、鉛色にひらめいた。水禽みずどりが眼ざめて騒ぎ出した。
 二人は嬉しく幸福であった。
「さあ来てよ、貴郎のおうちへ」
 そこで、二人は舟を出て、石の階段を登って行った。
 木戸を開けると裏庭で、柘榴ざくろの花が咲いていた。
「寄っておいで、構やしないよ」
「いいえ不可いけませんわ、そんなこと」
 二人は優しく争った。
 やっぱり女は帰ることにした。一人で櫓櫂ろかいあやつって紫錦は湖水を引き返した。

 どこか、裏庭の辺りから、口笛の音の聞こえてきたのは、それから間もないことであった。
「今時分誰だろう?」
 楽しい空想に耽りながら、いつもの寝間の離座敷で、伊太郎は一人ふせっていた。
 ヒューヒュー、ヒューヒューとなお聞こえる。
 と、コトンと音がした。庭に向いた窓らしい。「はてな?」と思って眼を遣ると、障子へ一筋縞が出来た。細目に開けられた戸の隙から月光が蒼く射したのであろう。
「あ、不可いけない、泥棒かな」
 すると光の縞の中へ、変な形があらわれた。
 長い胴体、押し立てた尻尾、短い脚が動いている。と思ったひまもなくポックリと障子へ穴があいた。
 さっと部屋の中へ飛び込んで来た。
いたちだ」
 と伊太郎は刎起はねおきた。「誰か来てくれ、鼬だ鼬だ!」
 ぼんやりともっている行燈あんどんの光で、背を波のようにうねらせながら伊太郎目掛けて飛び掛かって行く巨大な鼬の姿が見えた。
 母屋の方から人声がして、母を真先に女中や下男が、このはなれへやって来た時も、なお鼬は駆け廻っていた。
 母のおことはそれと見ると、棒のように立ち縮んだ。
「鼬!」と顫え声で先ず云った。「口笛の音? ああ幽霊!」
 それからバッタリたおれてしまった。
 お琴は気絶したのである。
 鼬の姿はいつか消え、遠くで吹くらしい口笛の音が、なおかすかに聞こえていた。



わっちは現在見たんでさあ。嘘も偽わりもあるものですかい。ええええ尾行つけて行きましたとも。するとどうでしょうあの騒動でさ」
 楽屋へは朝陽が射し込んでいた。人々はみんな出払っていて、四辺あたりはひっそりと静かであった。女太夫の楽屋のことで、開荷あけに衣桁いこう、刺繍した衣裳など、紅紫繚乱こうしりょうらん美しく、色々の物が取り散らされてあった。
「でも本当とは思われないよ。そんな事をする人かしら?」
「恋は人間を狂人きちがいにしまさあ」
「だってわたしあの人に対して何もこれまで一度だって……それに妾達は従兄妹同志じゃないか」
「従兄妹であろうとハトコであろうと、これには差別はござんせんからね。……わっちはこの眼で見たんでさあ」
「だってそれが本当なら、あの人それこそ人殺しじゃないか」
「だからご注意するんでさあね」
「ただのいたちじゃないんだからね」
「喰い付かれたらそれっきりでさあ」
「恐ろしい毒を持っているんだからね」
わっちは現在見たんでさあ。裸蝋燭を片手に持って、ヒューッ、ヒューッと口笛を吹いて、檻からえて物を呼び出すのをね。そいつを肩へひょいと載っけて、月夜の往来へ出て行ったものです。こいつおかしいと思ったので、直ぐに後をつけやした。それ私は四尺足らず、三尺八寸という小柄でげしょう。もっとも頭は巾着きんちゃくで、ひらったく云やア福助ふくすけでさあ。だから日中ひのうち歩こうものなら、町の餓鬼がきどもがたかって来て、ワイワイ囃して五月蠅うるそうござんすがね。折柄夜中で人気はなし、家の陰から陰を縫って、尾行て行くには持って来いでさあ。小さいだけに見付かりっこはねえ。で行ったものでございますよ。別荘作りの立派な家、そこまで行くと立ち止まり、ジロリ四辺を見まわしたね、それから木戸をそっと開けて、入り込んだものでございますよ。で、しばらく待っていると、そこへお前さんとあの人とが、湖水うみから上って来たものです。そこで鼬を放したというものだ」
「でもマア大騒ぎをしただけで、怪我はなかったということだから、妾は安心をしているのさ」
「ところが、あの人の母者人なるものが、気を失ったということですぜ」
「まあ、よっぽど驚いたんだね」
「おどろき、梨の木、山椒の木だ。が、ままともかくもこの事件は、これで納まったというものだ。そこでこれからどうしなさる?」
「どうするってどうなのだよ?」
「一度こっきりじゃ済みませんぜ」
「じゃまたあるとでも云うのかい? 源ちゃん、そんなに執念深いかしら?」
「お前さんの遣り方一つでさあ」
「だって妾、これまでだって、随分お座敷へは呼ばれたじゃないか」
「それとこれとはちがいまさあ。それはそれで金取り主義、ご祝儀頂戴の呼吸いきだったが、今度はどうやらお前さんの方でも、あの青二才に惚れているようだ」
「何を云うんだよ、トン公め!」

 今から数えて十六年前、酒商さけしょう[#ルビの「さけしょう」は底本では「さけしやう」]伊丹屋伊右衛門いたみやいえもんは、この城下に住んでいた。
 旧家ではあり資産家かねもちではあり、立派な生活を営んでいた。おそめという一人娘があった。その時数え年ようや二歳ふたつで、まだ誕生にもならなかったが、ひどく可愛い児柄こがらであった。夫婦の寵愛というものは眼へ入っても痛くない程で、あまり二人が子煩悩なので、近所の人が笑うほどであった。
 ところがここにもう一人、藤九郎とうくろうという中年者が、ひどくお染を可愛がった。甲州生れの遊人で――本職は大工ではあったけれど、賭博は打つ酒は飲む、いわゆる金箔つきの悪であったが、妙にお染を可愛がった。
 もっともそれには理由わけがあるので、お染の産れたその同じ日に――詳細くわしく云えば弘化こうか元年八月十日のことであるが、藤九郎の女房のおはんというのが、やはり女の児を産んだ。ところがそれが運悪く産れた次の日にコロリと死んだ。それを悲しんで女房のお半も、すぐ引き続いて死んでしまった。さすが悪の藤九郎も、これにはひどく落胆して、一時素行も修まった程であった。
 ところでこのころ藤九郎は、伊丹屋の借家に棲んでいたので、よく伊丹屋へは出入りした。自然お染と顔を合わせる。子を失った親の愛が、同じ日に産れた家主の子へ、注がれるというのは当然であろう。



 しかるにここに困ったことが出来た。
 月日が経つに従って、お染の顔が父親へは似ずに、藤九郎の顔に似るのであった。
「藤九郎め、好男子いいおとこだからな」
「そういえば、伊丹屋のおかみさんは、莫迦に藤九郎めを贔屓にしたっけ」
「誰の種だかわかりゃしねえ」
 世間の人達はこう云い合った。
 しかし真面目な伊丹屋の内儀が、博奕風情の藤九郎などを問題にするはずがない。それは伊右衛門いえもんも信じていた。で幸いこの事については何の事件も起こらなかった。
 しかし事件はその翌年、すわなちお染の二歳の時に、別の方面から起こってきた。
 それは実に嘉永かえい元年夏の初めのことであったが、母のおことはお染を抱きながら、裏庭の縁で涼んでいた。すると最初口笛が聞こえ、次にいたちが現われた。アッと驚くひまもなく鼬はお染へ噛みついた。幸い手当が速かったので、腕へ歯形がいただけで、生命いのちには何の別状もなかった。ところが何と奇怪なことには、その翌晩にも口笛が聞こえ、同じ鼬が現われたではないか。そうして鼬はお染を追って、庭の植込の方へ行ったかと思うと、お染の姿が消えてしまった。
 ちょうどこの頃城下はずれに女軽業の大一座が小屋掛けをして景気けいきを呼んでいた。女太夫の美しいのも勿論評判ではあったけれど、四尺に余る大鼬が、口笛に連れて躍るというのがとりわけ人気を博していた。
 それで、自然疑いがその一座へかかって行った。かんからも役人が出張し、厳重に小屋を吟味した。しかしお染はいなかった。誘拐したという証拠もない。どうすることも出来なかった。
 伊丹屋夫婦の悲嘆にも増して、藤九郎の悲嘆は大きかった。
彼奴あいつは有名な悪党なんですよ。ええ、あの一座の親方って奴はね。ちょっと私とも知己しりあいなんで。釜無かまなしぶんというんでさ。……ああ本当に飛んだことをした。みんな私が悪かったんで、つい迂闊うっかり口をすべらしたんでね」
 彼はこう云って口惜くやしがった。
 その後伊丹屋では親類から、伊太郎という養子を迎え、間もなく江戸へ移り住んだが、お染のことは今日が日まで忘れたことはないのであった。
「……こういう事情があるのだもの、わたしが鼬を恐がったり、女軽業を憎むのは、ちっとも無理ではないじゃないかえ」
 母のお琴は辛そうに云った。
「だからさ、お前もそのつもりで、そんな小屋者の紫錦しきんなんて女を、近付けないようにしておくれよ。どうぞどうぞお願いですからね」
「だってお母さん不可いけませんよ」伊太郎はやっぱり反対した。「私は紫錦が好きなんですもの。それにその女は見た所、悪い女じゃありませんよ」
「きっと悪い女ですよ」
「第一その時の女軽業と、今度の軽業の一座とは、別物に相違ありませんよ」
「鼬を使うとお云いじゃないか」
「それだって別の鼬ですよ」
「いいえ同じ鼬です。わたし見たから知っています」
 お琴は飽く迄も云うのであった。

 紫錦はこれ迄は源太夫げんだゆうを別に嫌ってはいなかった。しかし今度の遣り口で、すっかり愛想を尽かしてしまった。
甚助じんすけめ! 飛んでもねえ奴だ!」
 そこで、自然の反動として、伊太郎へ好意を持つようになった。
 その伊太郎は、本来は、小心で憂鬱のたちであった。朋輩交際つきあいで芸者などは買ったが、深入りなどはしたことがない。それだのに今度の紫錦ばかりは、そういう事にいかなかった。つまりぞっこん惚れ込んだのであった。
 こういう男女の落ち行く先は、古来往来ここんおうらい同一ひとつである。夫婦になれなければ心中である。
 驚いたのはお琴であった。
 彼女はこっそり訴え出た。「娘を誘拐かどわかした同じ一座が、今度は息子をたぶらかそうとします。どうぞお取締まり下さいますように」と。
 勿論官では取り上げなかった。しかし全然別の理由から、立退きを命ずることにした。
 この一座が掛かって以来、にわかに盗難が多くなって、風紀上面白くない。だから追い払おうと云うのであった。
 鼬の芸当が人気を呼んでこの一座は評判がかった。で生温い干渉では、引き払って行きそうには思われなかった。それに時代が幕末で、諸方には戦争が行なわれていた、官の威光も薄らいでいた。下手をすると逆捻さかねじを喰らう。
 で疾風迅雷的に、やっつけようと云うことになった。

 その夜二人はいつものように、肩を並べて茶屋を出た。
 湖上は凄いほど静かであった。空を仰げばどんよりと曇り、今にも降ってきそうであった。
 伊太郎をうちへ送り込むと、紫錦は舟を漕ぎ返した。と、その時雨と一緒に嵐がさっと吹いてきた。周囲四里の小湖ではあったが、浪が立てば随分危険で、時々漁舟いさりぶねを覆えした。
「これは困った」と驚きながら、紫錦は懸命に櫓を漕いだ。
 次第に嵐は吹き募り、それに連れて浪が高まり、間もなく櫓櫂ろかいが役に立たなくなった。
「どうしよう」
 と紫錦は周章あわてながらなおしばらくは櫓を漕いだ。
 しかし益々風雨は募り、全くシケの光景となり、漕いでも無駄と知った時、紫錦は舟底へ身を横仆よこたえた。
「どうともなれ。勝手にしやアがれ」
 そこは小屋者の猛烈性で、こんな事を思いながら、案外暢気のんきに寝そべっていた。
「ご大家様のお坊ちゃん、今こそわたしに夢中になって、夫婦になろうの駆落しようのと、血道をあげているけれど、そのうちきっと厭になるよ。そうしたら捨てるに違いない。捨てられたら元々通り小屋者の身分へ帰らなけりゃならない。いつ迄も小屋者でいるくらいなら、死んだ方が増じゃないか」
 雨と泡沫しぶきで彼女の体は、漬けたように濡れてしまった。
「おや」
 と彼女は顔を上げた。空が俄かに赤くなったからで、見れば遙か町の一点が、焔を上げて燃えていた。
「おやおやこんな晩に火事を出したんだよ。何て間抜けな人足だろう。アラ、驚いた、小屋じゃないか!」

 まさしく火事を出したのは、女軽業の掛小屋であった。
 役人達が遣って来て、立退きを命ずると、急に彼等は周章あわて出した。そうして役人に反抗し、突然小屋へ火を掛けた。これには役人達も驚いたが、しかし事情はすぐわかった。この時代の小屋者の常で、彼等は反面、賊でもあった。で盗み蓄めた品物が、小屋に隠されてあったのである。
 つまり贓物ぞうぶつ[#「贓物」は底本では「臓物」]を焼き払い、証拠を湮滅させようため、わざと小屋へ火を掛けたのであった。
 それと感付くと役人達は、がぜん態度を一変させ、彼等を捕縛とらえようとひしめいた。
 彼等は男女取りぜて三十人余りの人数であった。それに馬が二頭いた。それから白という猛犬がいた。それから例の鼬がいた。これらのものが一斉に、役人達に敵対した。彼等は武器を持っていた。商売用の刀や匕首あいくちや、竹槍などを持っていた。
 どんなに彼等が凶暴でも、三十人こっきりであったなら、捕縛えるに苦労はしなかったろう。しかるにここに困ったことには味方する者が現われた。
 当時諏訪藩は佐幕党として、勤王派に睨まれていた。で安政あんせい年間には有名な水戸の天狗党が、諏訪の地を蹂躪した。又文久年間には、高倉たかくら三位となのる公卿が、贋勅使として入り込んで来た。勝海舟の門人たる相良惣蔵さがらそうぞうが浪士をひきい、下諏訪の地に陣取って乱暴したのもこの頃であった。
 それで、この事件の起こった時でも、勤王派の浪士達が、様々の者に姿をやつし、城下の諸方に入り込んでいたが、これが小屋者の味方となって、役人方に斬り込んだ。
 それに城下の町人達の中にも、味方する者が出来てきて、石礫を投げ出した。
 事態重大と見て取って、城下からは兵が出た。
 内乱と云えばそうも云え、市街戦と云えばそうも云える。思いもらない大事件が、計らず勃発したのであった。
 城兵かそれとも浪士達か、鉄砲を打ち出したものがあった。
 と、火事が飛火した。女の悲鳴、子供の泣声、避難する人々のわめき声が、山に湖面に反響した。

 この時一人の若者が、逃げ惑う人々を押し退けて、小屋の方へ走って行った。
 他でもない伊太郎で、恋人の安否を気遣って、家を抜け出して来たのであった。
 小屋は大半焼け落ちていて、焔の柱、煙の渦巻……その中で戦いが行なわれていた。
 役人の一人を殺し、血だらけの竹槍を振りかざしながら、荒れ廻っていた小屋掛があったが、伊太郎の姿に眼を付けると、
「野郎!」
 と叫んで飛び掛かって行った。余人ならぬ源太夫であった。
「紫錦さんは※(感嘆符二つ、1-8-75) 紫錦さんは※(感嘆符二つ、1-8-75)
「何をほざく! くたばってしまえ!」
 源太夫は伊太郎の襟上を掴むと、ズルズルと火の中へ引き込もうとした。
 と、焔に狂気しながら、馬が一頭走り出して来た。
「嬲殺しだ! 思い知れ!」
 伊太郎は馬の背へ括り付けられた。
「ヤッ」と叫ぶと源太夫は竹槍で馬の尻を突いた。
 馬は驀地まっしぐらに狂奔し、湖水の中へ飛び込んだ。
 ワッワッと云う鬨声ときのこえ。火事は四方へ飛火した。



 湖水は猛烈に荒れていた。火事は益々燃え拡がった。物凄くもあれば美しくもあった。
 紫錦は小舟に取り付いたまま浪の荒れるに委せていた。火事の光が水に映り四辺あたりぼっと明るかった。
 その時何物か浪を分けて彼女の方へ来るものがあった。
「おや、馬だよ。馬が泳いで来る」
 いかにもそれは馬であった。
「おや。あおだよ、黒来い来い!」
 紫錦しきんは喜んで声を上げた。
 馬は馴染の黒であった。つまり彼女が芸当をする時、時々乗った馬であった。近付くままによく見ると誰やら馬の背にくくり付けられていた。それが恋人の伊太郎であると火事の光りで見て取った時の彼女の驚きと云うものはちょっと形容に苦しむ程であった。その伊太郎は気絶していた。そうして手足から血を流していた。
 彼女は軽業の太夫たゆうであって馬扱いには慣れていた。で小舟を乗り捨てて馬と一緒に泳ぐことにした。荒れ狂う浪を掻き分け掻き分け馬と人とは泳ぎに泳いだ。精も根も尽き果て、もう溺れるより仕方がないと、こう彼女が思った時、眼前に石垣が現われた。伊太郎の家の石垣であった。
 伊太郎の家ではもう先刻さっきから、伊太郎の姿が見えないと云うので、母をはじめ家内の者は狂人のようになっていた。とそこへ現われたのが伊太郎を抱き抱えた紫錦の姿であった。
「伊太郎さんが!」
「若旦那が!」
 と、にわかに人々は活気付いた。張り詰めていた精神がこの時一時に弛んだと見えて、紫錦は気絶してグダグダと倒れた。それと云うので人々は二人を家の中へ舁ぎ入れた。間もなく医者が駈け付けて来て応急手当を施した。
 この頃町では火事と戦いとがなお烈しく行なわれていた。それが全然すっかり静まったのは夜も明け方に近い頃で、その結果はどうかと云うに、むしろ諏訪藩の負けであった。小屋者にも浪士達にも、大半逃げられてしまったのであった。
 伊太郎と紫錦が蘇生したのはそれから間もなくのことであった。二人は顔を見合わせてかつ驚きかつ喜んだ。紫錦は伊太郎の命の親であった。伊丹屋としても粗末に出来ない。それに彼女が属していた例の軽業の一行は、今は行衛ゆくえ不明であった。いわば彼女は宿なしであった。で伊丹屋では娘分として彼女を養うことにした。
 信濃の春は遅かったが秋の立つのは早かった。湖水の水が澄みかえり八ヶ嶽の裾野に女郎花おみなえしが咲いた。虫の鳴音が降るように聞こえた。この頃伊丹屋では諏訪を引き上げ江戸の本宅へ帰ることになった。
 さて、ところで、紫錦にとっては、江戸の本宅の生活は、かなり窮屈なものであった。ジプシイ型の彼女から見れば、まるで不自由そのものであった。ちょっと外出でるにも女中が付き、箸の上げ下げにも作法があった。
「簡単」ということが卑しまれ「面倒臭い」ということが尊ばれた。膝を崩すことも出来なければ寝そべることも出来なかった。あらゆるものに敬語を付け、呼び捨てにするのを失礼とした。「おはし」「お香の物」「おぐし」「お召物」――
 彼女は繁雑に耐えられなくなった。
 それに一緒に住んで見れば、柔弱の伊太郎も鼻に付いた。
「万事万端こしらえ物のようで、活気というものがありゃアしない」彼女はこんなように思うのであった。
「お金持とか上流とか、そういった人達の生活くらし方が、みんながみんなこうだとすれば、ちっともうらやましいものではない」
 とはいえ以前の生活へ帰って行きたいとは思わなかった。それは「泥棒の生活」であり又「動物の生活」だからであった。
「何か妾にぴったりと合った有意味の暮らし方はないものかしら」
 彼女はそれを目付けるようになった。
 伊丹屋の主人伊右衛門が或日女房にこう云った「おきん近来ちかごろ変わってきたね。なんだかおちつかなくなったじゃないか」
「そう云えば本当にそうですね」女房のおことも眉をしかめ「いったいどうしたって云うんでしょう」
「それにお錦は左の腕を、いつも繃帯しているが、どうも私は気になってならない」
「ほんとにあれは変ですね」
「お前からそれとなく訊いて見るがいい」
 ――それで、或日それとなくお琴はお錦へたずねて見た。
「お前傷でもしたんじゃないの?」
「いいえ、そうじゃございません」お錦はそっと着物の上から左の二の腕を抑えたが、
「痣があるのでございますの」
「まあ、そうかえ、痣がねえ」
 お琴は意外な顔をした。



 紫錦しきんは伊丹屋へ来て以来、その名をおきんと呼び変えられていた。そのお錦の最近の希望のぞみは、女中も連れず、ただ一人で浅草辺りを歩いて見たいことで、もしそれが旨く行こうものならどんなにのうのうするだろう――こう彼女は思うのであった。
 で或日外出した時、うまうま途中で女中をまいた。喜んだお錦はその足で浅草の方へ歩いて行った。浅草奥山のにぎわいは今も昔も変りがなく、見世物小屋からは景気のよい囃子の音が聞こえてきた。恐ろしいような人出であった。
 観音様へお賽銭を上げ、それからお堂の裏手の方へ宛もなく彼女は歩いて行った。
「オイ紫錦しきんさん、紫錦さんじゃないか!」
 誰やら背後うしろから呼ぶ者があるので彼女は驚いて振り返った。
「おや、お前、トンこうじゃないか?」
「ナーンだ、やっぱり紫錦さんか」
 昔のお仲間、道化のトン公、三尺足らずの福助頭――それが笑いながら立っていた。
「たしかにそうだとは思ったが、何しろ様子が変っているだろう。おとなし作りのお嬢さん、迂闊うっかり呼び掛けて人ちがいだったら、こいつ面目めんぼくがねえからな。それでここまでつけて来たのさ」
「まあそうかえ、どこで目付けたの?」
「うん、玉乗の楽屋でね。おいらあそこにやとわれているんだ」
 二人は歩きながら話すことにした。
「……で、そういった塩梅あんばいでね、諏訪以来一座は解散さ。チリチリバラバラになったのさ。……随分お前を探したよ。親方にとっては金箱だし源公げんこうから見れば恋女だ。そのお前がどこへ行ったものか、かいくれ行衛ゆくえが知れねえんだからな。そりゃア随分探したものさ。ああ今だって探しているよ。執念深い奴らだからな」
「そりゃあもう探すのが当然さ」
 お錦は何となく憂鬱に云った。「それで、随分怒っているだろうね」
「ああ随分怒っているよ。恩知らずの不幸者だってね。……そう親方が云うんだよ」
「実の親でもない癖に」お錦はにわかに反抗的に「不幸者が聞いて呆れるよ」
「そうともそうとも本当にそうだ」トン公はすぐに同情した。「怨こそあれ恩はねえ道理だ。いずれお前を誘拐かどわかしたものさ」
「そうよ、妾の小さい時にね」
「その上ふんだんに稼がせてよ。あぶく銭を儲けたんだからな」
「恩もなけりゃ義理もない訳さ」
「ところでどうだな、今の生活くらしは?」
「さあね」とお錦は気がなさそうに「大してうらやましい生活でもないよ」
「そうかなア、不思議だなア」トン公は仔細らしく考え込んで「でもおめえ伊丹屋といえば江戸で指折の酒屋じゃねえか。そこの養女ときたひにゃア云う目が出るというものだ」
「そりゃあそうだよ。云う目は出るさ。でもね、本当の幸福ってものは、そんなものじゃないと思うよ」
「それにおめえ伊太郎さんは、お前の好きな人じゃアねえか」
「嫌いでなかったという迄の人さ。それにどうも妾とはね、気心がピッタリと合わないのだよ」
「ふうん、そうかなア、変なものだなア。……だが、オイ、そりゃア我儘ってもんだぜ」
 しかしお錦は黙っていた。
「だがマアおめえと逢うことが出来て、おいらほんとに嬉しいよ」ややあってこうトン公が云った。
「お前はそうでもあるめえがな」
「いいえ妾だって嬉しいよ」本心からお錦は云うのであった。「何といったって昔馴染だからね」
「そう云われると嘘にしても俺らは素敵にいい気持だよ」
 なるたけ人のいない方へと二人は歩いて行くのであった。
「それじゃお前さんはここ当分玉乗の一座にいるんだね」
「他に行き場もないからな」
「それじゃいつでも逢えるのね」
「だがあんまり逢わねえがいい、今じゃ身分がちがうんだからな」
「莫迦をお云いな。逢いに行くわよ」
「それに親方も源公もいずれ江戸の地にはいるんだからな、あんまり暢気のんきに出歩いていて目付けられると五月蠅うるさいぜ。何しろ源公ときたひにゃア、未だにお前に夢中なんだからな」
「源公なんかにゃ驚かないよ」お錦はむしろ冷笑した。「それこそ一睨みで縮ませて見せるよ」
「そりゃあマアそうにちげえねえが……」
 トン公はやはり心配そうであった。



 二三日経った或日のこと、浅草観音の堂のわきに、目新しい芸人が現われた。莚を敷いたその上で大きな鼬を躍らせるのであったが、それがいかにも上手なので、参詣の人の注意をひいた。
 芸人の年輩は不明であったが、四十歳から六十歳迄の間で、左の耳の根元の辺りに瘤のあるのが特色であった、陽にやけた皮膚筋張った手足、一癖あり気の鋭い眼つき、気味の悪い男であった。
「さあさあ太夫たゆうさん踊ったり踊ったり」
 手に持っていた竹の鞭で、そっと鼬に障わりながら、錆のある美音で唄い出した。
※(歌記号、1-3-28)甲州出るときア涙が出たが
今じゃ甲州の風も厭
 春陽が明々と地を照らしその地上では鳩の群が餌をあさりながら啼いていた。吉野桜が散ってきた。堂の横手芸人の背後うしろに巨大な公孫樹いちょうのきが立っていたが、まだ新芽は出ていなかった。鼬の大きさは四尺もあろうか、それが後足で立ち上り、前足をブラブラ宙に泳がせ、その茶色の体の毛を春陽はるひにキラキラ輝かせながら、唄声に連れて踊る態は、可愛くもあれば物凄くもあった。
 投銭放銭がひとしきり降り、やがて芸当が一段落となった。その時目立って美しい娘が供の女中を一人連れ仲見世の方からやって来たが、大道芸人の顔を見るとにわかに足を急がせた。その様子が変だったので、大道芸人は眼をそばめた。
「おや? 可笑おかしいぞ、彼奴あいつそっくりだぞ?」
 こう口の中で呟いたかと思うと、彼のそば蹲居しゃがんでいた二十四五の若者へ、顎でしゃくって合図をした。
「オイ源公げんこう、今のを見たか?」
「うん」と云うと若者は、その殺気立った燃えるような眼で、人混の中へ消え去ろうとする娘の姿を見送ったが、「ちげいねえよ、あの阿魔あまだよ」
「だが様子が変わり過ぎるな」
「ナーニ彼奴だ、彼奴に相違ねえ」
「そうさ、俺もそう思う」
「畜生、顔を反けやがった」
「オイ源公、後をつけて見な」
「云うにゃ及ぶだ。見遁せるものか」
 で、源公は人波を分け、娘の後を追って行った。
「さあさあ太夫たゆうさん一踊り、ご苦労ながら一踊り……※(歌記号、1-3-28)男達おとこだてならこの釜無かまなしの流れ来る水止めて見ろ……ヨイサッサ、ヨイサッサ」
 大道芸人が唄い出し、鼬が立っておどりだした。

「おおトンこうか、よく来てくれた」
とっつあん」は嬉しそうにこう云うと、夜具の襟から顔を出した。「爺つあん」は酷くやつれていた。ほとんど死にかかっているのであった。
 ここは金龍山瓦町きんりうざんかわらまち[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]の「爺つあん」の住居すまいの寝間であった。
「どうだね「爺つあん」? 少しはいいかね?」
 トン公は坐って覗き込んだ。
「有難えことには、くねえよ」――「爺つあん」はこんな変なことを云った。
「おかしいじゃないか、え「爺つあん」? 可くもねえのに有難えなんて?」
 すると「爺つあん」は寂しく笑い、
「うんにゃ、そうでねえ、そうでねえよ。俺らのような悪党が、磔刑にもならず、獄門にもならず、畳の上で死ねるかと思うと、こんな有難えことはねえ」
「へえ、なるほど、そんなものかねえ」トン公はどうやら感心したらしい。「だがね、「爺つあん」俺らにはね、お前が悪党とは思われないんだよ」
「ナーニ俺は大悪党だよ」
「でも「爺つあん」は貧乏人だと見ると、よく恵んでやるじゃないか」
「ああ恵むとも、時々はな。つまりナンダ罪ほろぼしのためさ」
「でも一座の連中で、お前のことを悪く云う者は、それこそ一人だってありゃアしねえよ」
「それは俺らが座主だからだろう」
「ああそれもあるけれどね……」
「うっかり俺の悪口でも云って、そいつを俺に聞かれたが最後、首を切られると思うからさ」
「ああそいつもあるけれどね……」
「それより他に何があるものか」
「金を貸すからいい親方だと、こうみんな云っているよ」
「アッハハハ、そうだろう。その辺りがオチというものだ。ところでそういう人間のことだ、俺が金を貸さなくなったら、今度は悪口を云うだろうよ」
「ああそりゃあ云うだろうよ」トン公は直ぐに妥協した。それが「爺つあん」には可笑しかったか面白そうに笑ったが、
「トン公、お前は正直者だな。だから俺はお前が好きだ」
「ううん、何だかわかるものか」それでもトン公は嬉しそうに笑った。
「うんにゃ、俺はお前が好きだ。その剽軽な巾着頭きんちゃくあたま、そいつを見ていると好い気持になる」
「何だ俺らを嬲るのけえ」トン公は厭な顔をした。
「怒っちゃいけねえいけねえ。本当のことだ、なんの嬲るものか。それはそうと、なあトン公、お前は随分苦労したらしいな」



「ああ随分苦労したよ」トン公はちょっと寂しそうにした。
「俺らの一座へ来る前には、おめえどこの座にいたな?」
「俺ら軽業の一座にいたよ」
「軽業の一座? ふうん、誰のな?」
「「釜無かまなしぶん」の一座にだよ」
 これを聞くと「爺つあん」は急にその眼を輝かせたが、すぐ気が付いてさり気なく、
「ああそうか「釜無の文」か……ところで諏訪ではご難だったそうだな」
「お話にも何にもなりゃあしない」
「それはそうと文の一座に綺麗な娘がいたはずだが?」
「幾人もいたよ、綺麗な娘なら」
「それ、文の養女だとか云う?」
「ああそれじゃ紫錦しきんさんだ」
「うん、そうそうその紫錦よ、行衛ゆくえが知れないって云うじゃないか」
 するとトン公は得意そうにニヤリとばかり一人笑いをしたが「ああ行衛が知れないよ。……だが俺らだけは知っている」
「え?」と、「爺つあん」は眼を丸くした。「お前知っているって? 紫錦の行衛を?」
 こう云う「爺つあん」の声の中には恐ろしい情熱が籠っていた。それがトン公を吃驚びっくりさせた。
「おいトン公」と「爺つあん」は、夜具から体を抜け出させたが「ほんとにお前が知っているなら、どうぞ俺に話してくれ。お願いだ、話してくれ。え、紫錦はどこにいるんだ?」
「だが紫錦さんの在所ありかを聞いて「爺つあん」お前はどうするつもりだな」
「どうしてもいい、教えてくれ! え、紫錦はどこにいるな?」
「お気の毒だが教えられねえ」にべもなくトン公は突っ刎ねた。
「教えられねえ? 何故教えられねえ?」
「お前の本心がわからねえからよ」
「俺の本心だって? え、本心だって?」
「今紫錦さんは幸福なんだよ。ああそうだよ大変にね。もっとも自分じゃ不幸だなんて我儘なことを云ってるけれど、ナーニやっぱり幸福しあわせなのさ。だがね、紫錦さんの幸福はね、どうもひど破壊こわれやすいんだよ。で、ちょっとでも邪魔をしたら、直ぐヘナに破壊っちまうのさ。ところでどうも運の悪いことには、その紫錦さんの幸福をぶち破壊そうと掛かっている、良くねえ奴がいるのだよ。だがここにしあわせのことには、まだそいつらは紫錦さんの居場所を、ちょっと知っていねえのさ。……ね、これで解ったろう、俺らがどうして紫錦さんの居場所を、お前に明かさねえのかって云うことがな」
「だが」と「爺つあん」は遮った。「だが俺はお前の云う、よくねえ奴じゃねえんだからな。だから明かしたっていいじゃねえか」
「どうしてそれが解るものか」
「じゃお前はこの俺を悪党だと思っているのだな?」
「俺らはそうは思わねえけれど、お前が自分で云ったじゃねえか」
「だが、そいつは昔のことだ」
「ああそうか、昔のことか」
「今では俺はいい人間だ。いつも俺は懺悔しているのだ」
「そうだと思った。そうなくちゃならねえ。だが「爺つあん」それにしてもだ、紫錦さんの居場所を俺らから聞いて一体どうするつもりだな?」
 すると「爺つあん」は声をひそめ、四辺あたりをしばらく見廻してから「人に云っちゃいけねえぜ。え、トン公承知だろうな。……実は俺はその紫錦に大事な物を譲りてえのだ」
「だがお前と紫錦さんとはどんな関係があるんだろう?」
「それは云えねえ。云う必要もねえ」いくらか「爺つあん」はムッとしたらしい。
「とにかく」と「爺つあん」は云いつづけた。「それを譲られると譲られた時から、紫錦は幸福になれるんだよ」
「……」トン公は黙って考え込んだ。どうやら疑っているらしい。しかしとうとうこう云った。
「俺ら、お前を信じることにしよう。紫錦さんの居場所を明かすことにしよう」
「おおそれでは明かしてくれるか。有難え有難えお礼を云う。で、紫錦はどこにいるな?」
「江戸にいるよ。この江戸にな」
「江戸はどこだ? え、江戸は?」
「日本橋だよ。酒屋にいるんだ」
「日本橋の酒屋だって?」
「伊丹屋という大金持の養女になっているんだよ」
「ふうん、伊丹屋の? ふうん、伊丹屋のな?……ああ、夢にも知らなかった」
 葉村はむら一座と呼ばれる所の浅草奥山の玉乗の元締、それをしている「爺つあん」は、どうしたものかこう云うと涙をポロポロ零したが、そのまま夜具へ顔を埋めた。
 驚いたのはトン公であった。ポカンと「爺つあん」を眺めやった。



 チョンチョンチョンと拍子木の音がどこからともなく聞こえてきた。
「おや、どうしたんだろう? あの拍子木の音は?」
 お錦は呟いて耳を澄ました。
「トン公の拍子木に相違ないよ」
 そこで彼女は部屋を抜け出し裏庭の方へ行って見た。木戸の向うに人影が見えた。下駄を突っかけると飛石伝いにそっ其方そっちへ小走って行った。燈火ともしびの射さない暗い露路に小供が一人立っていたが、しかしそれは小供ではなく思った通りトン公であった。
「トン公じゃないか、どうしたのさ?」
 するとトン公は近寄って来、
「よく拍子木がわかったな」
「お前の打手を忘れるものかよ」
「実は急に逢いたくってな、それで呼び出しをしたやつさ」
「用でもあるの? お話しおしよ」
「ねえ紫錦しきんさん、俺らと一緒に、ちょっとそこ迄行ってくれないか」四辺あたりを憚ってトン公は云った。
「行ってもいいがね、どこへ行くの?」
金龍山瓦町きんりうざんかわらまち[#ルビの「きんりうざんかわらまち」はママ]へよ」
「浅草じゃないか、随分遠いね、それにこんなに晩になって」お錦は怪訝そうに云うのであった。
「それがね、至急を要するんだ」
「へえ不思議だね、何の用さ」
「逢いてえって人があるんだよ。是非おめえに逢い度えって人がな。それが気の毒な病人なんだ」
「誰だろう? 知ってる人?」
「お前の方じゃ知らねえだろうよ。だが確かな人間だ。実は俺らの親方なのさ」
「お前の親方? 玉乗りのかい?」
「ああそうだよ。葉村はむら一座のな。俺らその人に頼まれて、お前を迎いに来たってやつよ」
 トン公はそこで気が付いたように、
「だがお前は出られめえな、なにせ大家のお嬢さんだし、もう夜も遅いんだからな」
「行くならこのまま行っちまうのさ」
「だが後でやかましいだろう?」
「そりゃあ何か云われるだろうさ」
「困ったな、では止めるか。止めにした方がよさそうだな」
「くずくず云ったら飛び出してやるから、そっちの方は平気だよ。それよりわたしにゃその人の方が気味悪く思われるがね」
「うん、こっちは大丈夫だ。俺らが付いているんだからな」
「では行こうよ。思い切って行こう」
 そこで二人は露地を出て、浅草の方へ足を運んだ。
「トン公」とお錦は不意に云った。「今日彼奴あいつらと邂逅でっくわしたよ。源公げんこうの奴と親方にね」
「え!」とトン公は怯えたように声を上げたが「ふうんそいつあ悪かったなあ。一体どこで邂逅したんだい?」
「観音様の横手でね」
「それじゃ今日の帰路かえりにだな」
「お前と別れてブラブラ来るとね、むしろの上で親方がさ、えて物を踊らせていたじゃないか」
「ふうんそいつアしまったなあ」
「早速源公が後をつけて来たよ」
「え、そいつアなおいけねえや」
「ナーニ途中で巻いっちゃった[#「巻いっちゃった」はママ]よ」
「そいつアよかった。大出来だった」
 話しながら歩いて行った。
 こうして上野の山下へ来た。と五六人の人影が家の陰から現われ出た。
「おや」とトン公が云った時、堅い棒で脳天の辺りを厭という程ブン撲られた。「あっ、遣られた、こん畜生め!」こう叫んだがその声は咽喉から外へ出なかった。たちまちにグラグラと眼が廻り、何も彼も意識の外へ逃げた。
 お錦は人影に取り巻かれた。
「何をするんだよお前達は!」
 気丈な彼女は怒鳴どなり付けたが、何の役にも立たなかった。彼女は直ぐに捉えられた。
「構う事アねえ、担いで行け!」
 彼等の一人がこう云った。彼女にはその声に聞き覚えがあった。
「あ、畜生、源公だな!」
「やい、紫錦、ざまあ見ろ! よくも仲間を裏切ったな、りょうってやるから観念しろ!」
 源太夫は嘲笑った。
「さあ遣ってくれ、邪魔のねえうちに」
 しかし少々遅かった。邪魔が早くも入ったのである。
「これ、待て待て、悪い奴等やつらだ!」
 こう云って走って来る人影があった。
「あっ、いけねえ、侍だ」
「またにしろ! 逃げたり逃げたり!」
 ――源太夫の群はお錦を投げ出しどことも知れず逃げてしまった。

10[#「10」は縦中横]

「娘御、お怪我はなかったかな」
「あぶないところをお助け下され、まことに有難う存じます。ハイ幸い、どこも怪我は……」
「おおさようか、それはよかった。……や、ここにたおれているのは?」
 こう云いながら若侍はトン公の方へ寄って行った。
わたし知己しりあいでございます。もしや死んだのではございますまいか?」
 お錦は不安に耐えないように、トン公の上へ身をかがめた。
 若侍は脈を見たが、「大丈夫でござる。活きております。どうやら気絶をしたらしい」
 間もなくトン公は正気になった。
「済まねえ済まねえ、眠っちゃった。ナーニもう大丈夫だ。だが畜生頭が痛え」
 負け惜しみの強いトン公は、気絶したとは云わなかった。
 二人を救った若侍は小堀義哉こぼりよしやというもので、五百石の旗本の次男、小さい時から芸事が好き、それで延寿えんじゅの門に入り、五年経たぬ間に名取となり、今では立派な師匠株、従って父親とはソリが合わず、最近家を出て一家を構え、遊芸三昧に日を暮らしている結構な身分の者であったが今日も清元のおさらいに行き、遅くなっての帰路であった。
「またさっきの悪者どもが盛り返して来ないものでもない、瓦町かわらまちまで送りましょう」
 義哉は親切にこう云った。
 で三人は歩くことにした。
「爺つあん」の住居へ着いたのはそれから間もなくのことであったが、別れようとする若侍をお願いしてお錦は引き止めて置いて、家の内へ入って行った。
 ガランとした古びた家であった。
 そうして「爺つあん」の寝ている部屋は、その家の一番奥にあった。
「「爺つあん」、紫錦しきんさんを連れて来たよ」
 トン公はこう云って入って行った。
「トン公、どうも有難う」
 こう云いながら「爺つあん」は布団の上へ起き上った。そうしてつつましく膝をついたお錦の顔をじっと見た。
 と、みるみる「爺つあん」の眼から大粒の涙が零れ出た。非常に感動したらしい。
「おかしな爺さんだよ、どうしたんだろう?」
 お錦はひどく吃驚びっくりした。
 勿論彼女には見覚えはない。初めて会った老人である。
「どうして涙なんか零すんだろう? わたしをどう思っているのだろう? 気味の悪い爺さんだよ」
 こう思わざるを得なかった。
「トン公」やがて「爺つあん」は云って「ちょっとこの場を外してくれ。ナーニ大丈夫だ、心配しなくてもいい。ただちょっと話すだけだ」
「「爺つあん」のことだ、ああいいとも」
 トン公は云いすてて出て行った。
 後を見送った「爺つあん」は、その眼を返すとお錦の顔を、またもじっと見守ったが、
「おお紫錦、大きくなったなあ」
 不意に優しくこう云った。いかにも親し気な調子であり、慈愛に充ちた調子であった。
 お錦にとっては意外であった。何の理由で、何の権利で、紫錦などと呼び捨てにするのだろう? で彼女は不快そうに顔をそむけて黙っていた。
「それに、ほんとに、立派になったなあ」
 また「爺つあん」はこう云った。感情に充ちた声である。
「いらざるお世話で、莫迦にしているよ」いよいよ慣れ慣れしい相手の様子に、彼女は一層腹を立て、心の中でこう怒鳴どなったが、でもやっぱり黙っていた。
 しかし「爺つあん」は態度を変えず、同じ調子で云いつづけた。「聞けばお前は日本橋の伊丹屋さんにいるそうだが、この上もない結構なことだ。辛抱して可愛がられ、嫁になるように心掛けなければならねえ」ここでちょっと言葉を切ったが、「ところでお前は二の腕に、大きな痣があるだろうな?」
「ええ」と初めてお錦は云った。「大きな痣がありますわ。どうしてそんなこと知っているんでしょう?」
「私はな」と「爺つあん」は微笑しながら「そうだ、私はな、お前のことなら、どんなことでも知ってるよ」
 確信のあるらしい調子であった。
 で、お錦は怪しみながらも改めてつくづくと「爺つあん」を見た。しかしやはりその老人は、彼女にとっては見覚えがなかった。

11[#「11」は縦中横]

紫錦しきん」と「とっつあん」は云いつづけた。「俺の命は永かあねえ、胃の腑に腫物できものが出来たんだからな。で俺はじきに死ぬ。また死んでも惜しかあねえ。俺のような悪党は、なるだけ早く死んだ方が、かえって人助けというものだ。それで死ぬのは惜しかあねえが、ここに一つ惜しいものがある。他でもねえこの箱だ」
 布団の下から取り出したのは、神代杉じんだいすぎの手箱であった。
「これをお前に遣ることにする。大事にしまっておくがいい。そうして俺が死んだ後で、こっそりひらいて見るがいい。お前を幸福しあわせにしようからな」
 ここでちょっと憂鬱になったが、
「そうだ、そうしてこの箱をひらくと、お前の本当の素性もわかる。もっともそいつはかえってお前を不幸ふしあわせにするかもしれねえがな。……だがそれも仕方がねえ」
「爺つあん」はしばらく黙り込んだ。
 それからソロソロと手を延ばすと、指先を畳目へ差し込んだ。それからじっと聞き耳を澄まし四辺あたりの様子をうかがってから、ヒョイと畳目から指を抜いた。
「これを」と「爺つあん」は囁くように云った。「早くお取りこの鍵を!」
 見ると「爺つあん」は指先に小さい鍵を摘まんでいた。
「箱も大事だが鍵も大事だ。鍵の方がいっそ大事だ。だから別々にしまって置くがいい。この鍵でなければこの箱は、どんなことをしても開かないんだからな、……ところで紫錦よ気をおつけ。敵があるからな、敵があるからな。……で、もうこれで用はおえた。気をつけてお帰り、気を付けてな」
 そこでお錦は二品を貰い、急いで部屋を抜け出した。
 送るというのをことわって義哉よしやと一緒に帰ることにした。
 森然しんとふけた夜の町を、二人は並んで歩いて行った。
 義哉から見たお錦という女は、どうにも不思議な女であった。華美な身装、濃艶のうえんな縹緻、それからすと良家の娘で、令嬢と云ってもよい程であったが、その大胆な行動や、物にじない振舞から見れば素人娘とは受け取れない。
「不思議だな、見当がつかない。……だが実に美しいものだ。しかしこの美には毒がある。触れた男を傷つける美だ」
 肩をならべて歩きながらも、警戒せざるを得なかった。
「ところで住居すまいはどの辺りかな?」
 こらえられずに訊いてみた。
「ハイ、日本橋でございます」
「日本橋はどの辺りかな?」
「あの伊丹屋という酒問屋で」
「はあ、伊丹屋、さようでござるか」
 義哉はちょっとびっくりした。伊丹屋といえば大家である。その名は彼にも聞えていた。
「失礼ながら、ご令嬢かな?」
「ハイ、娘でございます」
「さようでござるか、それはそれは」
 こうは云ったが愈々益々いよいよますます、疑わざるを得なかった。
「それほどの大家の令嬢が、こんな深夜に江戸の町を、あんな片輪者を一人だけ連れて、浅草あたりのあんな家を、どうして訪ねたものだろう? いやいやこれは食わせ物だ。色を売る女であろうもしれぬ」
 しかし間もなくその疑いが杞憂であったことが証拠立てられた。
「あの、ここがわたくしの家で」
 こう云いながら指差した家が、紛れもなく伊丹屋であったからである。
「あの……」とお錦は云い難そうにしばらくもじもじしていたが「いずれ明日改めて、お礼にお伺い致しますがどうぞその時までこの手箱をお預かり下さることなりますまいか」
 こう云いながら差し出したのは「爺つあん」から貰った手箱であった。
「ははあ」と義哉は胸の中で云った。「さては恋文でも入れてあるのだな。あの浅草の古びた家は媾曳あいびきの宿であったのかもしれない。大胆な娘の様子から云っても、これは確かにありそうなことだ。とんだ所へ飛び込んだものだ」
 苦笑せざるを得なかった。
 彼は身分は武士ではあったがその心持は芸人であった。でこういう頼み事を、断るような野暮はしない。
「よろしゅうござる、承知しました」
 こう云って手箱を受け取った。
「拙者の姓名は小堀義哉、住居は芝の三田でござる。いつでも受け取りにおいでなさるよう」
 こう云い捨てて歩き出し、少し行って振り返って見ると、伊丹屋の表の潜戸くぐりどがあき、そこから内へ入って行く美しいお錦の姿が見えた。

12[#「12」は縦中横]

「爺つあん」はすっかり疲労つかれてしまった。
 ひどく感動をした後の、何とも云われない疲労であった。
 で、布団を胸へかけ、静かにねむりへ入ろうとした。すると襖がひっそりとあいて、雇婆やといばあさんが顔を出した。
「もし、親方、お客様ですよ」
「誰だか知らねえが断っておくれ」
「どうしても逢いたいって仰有おっしゃるので」
「ところが俺は逢いたくねえのだ」
「困りましたね、どうしましょう」
 婆さんはいかにも困ったらしかった。
「どんな人だね、逢いたいって人は?」
 それでもいくらか気になるか、こう「爺つあん」は訊いて見た。と婆さんが返事をしないうちに、
「「爺つあん」俺だよ」という声がした。
 開けられた襖のむこう側に、一人の男が立っていた。耳の付け根に瘤があった。
「おっ、お前は文じゃねえか!」
「爺つあん」は仰天してこう叫んだ。
「うん、そうだよ、「釜無かまなしのぶん」だよ」こう云いながらその男は、ヌッと部屋の中へ入って来たが「婆さん」と、ひどく威嚇的に「お前あっちへ行っていな、おいら「爺つあん」に用があるんだからな」
 雇婆さんが行ってしまった後、二人はしばらく黙っていた。
「オイ」と文はやがて云った。「久しぶりだな、え「爺つあん」……いや全く久しぶりだ」
「うん」と「爺つあん」は物憂そうに「久しぶりだよ、全くな」
おいら夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村はむら一座の仕打しうちとして、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ」
「目付けてくれずともよかったに」
「お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ」
「ところで、どうして目付けたな?」
「うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた」
「ああ成程、トン公をな」
彼奴きゃつは元々俺の座で、道化役をしていた人間だ」
「そういうことだな、トン公から聞いた」
「ところが今じゃお前の座にいる」
「ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな」
「うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……おいら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ」
「で、お前の本心はえ?」こう「爺つあん」は切り出した。
「よく訊いた、さて本心だが、どうだい「爺つあん」交換かえっこしようじゃねえか」釜無しの文はヅッケリと云った。
「交換だって? え、何の?」
「永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱をくんな」
「成程」と云ったが、「爺つあん」は、変に皮肉に微笑した。「その交換なら止めようよ」
「え、厭だって? どうしてだい?」文は明かにびっくりした。
「もうあの娘には用がねえからさ」
「おかしいな、どうしてだい?」
「俺の心が変ったからさ」
「だって、お前の子じゃあねえか」
「それに」と「爺つあん」は嘲笑うように「噂によるとあの紫錦は、高島以来お前の所から、行衛ゆくえを眩ましたって云うじゃねえか」
「え?」と云ったが釜無しの文は、顔に狼狽を現わした。しかしすぐに声高く笑い「トン公の野郎め、喋舌ったな!」
「手許にもいねえその紫錦を、どうして俺らへ返してくれるな?」
「うん」と云ったが、行き詰ってしまった。
「だがな」と文は盛り返し「いかにも紫錦は手許にはいねえ。だが居場所は解っている。源公が後をつけて行ったはずだ」
「ふうむ」
 と今度は「爺つあん」の方が、苦悶の色を現わした。
「だから紫錦は俺達のものさ」
「ほんとに居場所を知っているのか?」
「知っていなくてさ。大知りだ」
「どこに居るな? 云ってみるがいい」
「じゃ、よこせ、杉の手箱を!」
 隙さず文は手を出した。

13[#「13」は縦中横]

「その手箱なら手許にないよ」素気なく「爺つあん」は云い放った。
「嘘を云いねえ、ほんとにするものか」文は憎さげに笑ったが、「ではどうでも厭なのだな。ふん、厭なら止すがいい。その代り紫錦を連れて来て、もう今度は遠慮はいらねえ、何も彼もモミクチャにしてやるから」
 これを聞くと「爺つあん」の顔は、不安のために歪んだが、
「文! 紫錦にゃ罪はねえ! そんな事はよしてくれ!」
「じゃ、手箱を渡すがいい」
「ないのだないのだ! 手許には!」
「じゃ一体どこにあるのだ?」
「そいつあ云えねえ。勘弁してくれ」
「云えなけりゃそれまでよ。……そろそろ料理に取りかかるかな」
 文は部屋から出ようとした。
「オイ待ってくれ、釜無しの!」と「爺つあん」は周章あわてて呼びとめた。
「何か用かな? え、「爺つあん」?」相手の苦痛を味わうかのように文はゆっくりとこう云った。
「ほんとに紫錦をいじめる気か?」
「二枚の舌は使わねえよ」
「ほんとに居場所を知ってるのか? え、紫錦の居り場所を?」
「二枚の舌は使わねえよ」
「それじゃどうも仕方がねえ」じっと「爺つあん」は考え込んだが、
「云うとしよう、在り場所をな」
「おお云うか、それはそれは」文はニタリと北叟笑ほくそえみをしたが、「どこにあるんだ、え、手箱は」
「その代り手箱を手に入れたら、きっと紫錦からは手を引くだろうな」
「云うにゃ及ぶだ、手を引くとも。元々あの娘を抑えたのは、その手箱が欲しかったからさ。いわば人質に取ったんだからな。……で、手箱はどこにあるな?」
「よく聞きねえよ、その手箱はな……」
「おっと、云っちゃいけねえ!」突然こう云う声がした。
 驚く二人の眼の前へ、襖をあけて現われたのは、他でもないトン公であったが、頭を白布で巻いているのは、傷をいわえたからであろう。
「おお親方、久し振りだね」まず文へ挨拶をした。
「や、手前、トン公じゃねえか!」文は憎さげに怒鳴どなり声をあげ「福助の出る幕じゃあねえ、引っ込んでろ!」
「そいつはいけねえ、いけねえとも、お生憎さまだが引っ込めねえ」負けずにトン公はやり返した。
「と云うなあお前さんが、あんまり嘘を云うからさ」
「ナニ嘘を云う? 嘘とはなんだ!」
「嘘じゃねえかよ、ねえ親方、なんのお前さんや源公が、紫錦さんの居場所を知ってるものか。大嘘吐きのコンコンチキさね。こっちはちゃあんと見透しだあ」トン公は小気味よく喝破してから、「ねえ親方、嘘だと思うなら、荒筋を摘まんで話してもいい。聞きなさるか、え、親方おやかた?」
 文は返辞をしなかった。
「まずこうだ、しかも今日、お前さんとそうして源公とが、観音堂の横っちょで、エテ物を踊らせていたってものだ。するとそこへ遣って来たのが、令嬢姿の紫錦さんよ。で、早速源公が後をつけたというものだ。そうさ、ここまでは成功だ。だが、後が面白くねえ、そうさ、途中でまかれたんだからな。アッハハハ、いい面の皮さ。……だから親方にしろ源公にしろ、紫錦さんの居り場所なんか、知ってるはずはねえじゃあねえか。へん、この通り、見透しだあね」
 文は返辞をしなかった。事実は返辞が出来なかった。それというのもトン公の言葉が一々胸にあたるからであった。
「トン公!」ととうとう喚くように云った。「昔の親方の恩を忘れ、襟元へ付こうって云うんだな。覚えていろよ、いい事アねえぞ」
「覚えているとも」とトン公は笑い、「悪いことは云わねえ帰った方がいい。そうだ足下の明るいうちにね」
 云い捲くられた釜無しの文は、縹緻きりょうを下げて帰ることになった。
 足音が門口から消えた時、「爺つあん」は深い溜息をした。
「……すんでに瞞される所だった。トン公、ほんとに有難うよ」
「ナーニ」と云ったがトン公は、頭の繃帯を手でさぐり、「どうもいけねえ、まだ痛えや。……だがね「爺つあん」実の所はね、紫錦さんは浮雲あぶねえんだよ」
「え、どうしてだい? どうして浮雲えな?」
「源公の野郎ヤケになって、江戸中探しているらしいんだ。それで今夜もぶつかったって訳さ。この頭の傷だって、つまり何だ、その時の土産みやげさ。……あれいけねえ、まだ痛えや!」怨めしそうな顔をした。

14[#「14」は縦中横]

※(歌記号、1-3-28)よし足引の山めぐり、四季のながめも面白や、梅が笑えば柳が招く、風のまにまに早蕨さわらびの、手を引きそうて弥生やよい山……
 その翌日の午後であったが、小堀義哉こぼりよしやは裏座敷で、清元きよもとの『山姥やまうば』をさらっていた。
 と、襖がつつましく開いて、小間使いのお花が顔を出した。
「あの、お客様でございます」
「お客様? どなただな?」
伊丹屋いたみやの娘だと仰有おっしゃいまして、眼のさめるようなお美しい方が、駕籠でお見えでございます」
「ああそうか、通すがよい」
 間もなく部屋へ現われたのは、盛装をしたお錦であった。
「お錦殿か、よく見えられたな」義哉は愛想よく声を掛けた。
「昨夜はお助け下されまして、お蔭をもちまして危難を遁がれ、何とお礼を申してよいやら」
 お錦は手をついて辞儀をしたが、「お礼にあがりましてござります」
 其処へ小間使いが現われて、頂戴物の披露をした。
「それはそれはご丁寧に。そんな心配には及ばなかったものを」義哉はかえって気の毒そうにした。
 一人は美男の若侍、一人は妖艶な町娘、それに男は武士とは云っても、清元の名手で寧ろ芸人そうして女は其昔は女軽業の太夫である。それが春の日の閑静な部屋に、二人だけで向かい合っているのであった。
 二人はしばらく黙っていた。蒸されるような沈黙であった。
「おおそうそう、杉の手箱をお預かりしてあったはず、お持ち帰りになられるかな」やがて義哉はこう云って、ものしずかに立ち上りかけた。
「ハイ」と云ったが、周章あわてて止め、「ご迷惑でないようでございましたら、その手箱はもう少々お預かりなされて下さいますよう」
「ははあ左様か、よろしゅうござる」
 この手箱がありさえしたら、これから度々この娘が、訪ねて来ないものではない。何と云っても美しい娘で、美人を見るということは、悪い気持のものではない。……これが義哉の心持だった。それで、承知したのであった。話の口が切れたので、すぐに義哉は追っかけて訊いた。
よしありそうな杉の手箱、何が入れてありますかな?」
「さあ何でございましょうか」お錦は一向平気で云った。「戴いたものでございますの」
「ほほう左様で、誰人どなたからな?」
「ハイ、見知らぬ老人から」
「見知らぬ老人から? これは不思議」
「ほんとに不思議でございますの。……昨夜あれから参りました、瓦町かわらまちの古家で、気味の悪い老人から、戴いたものでございます」
「ふうむ」と云ったが小堀義哉は、にわかに興味に捉えられた。
 で、立ち上って隣室へ行き、袋戸棚の戸をあけて、杉の手箱を取り出して来た。それから仔細に調べたが、
「この箱は杉ではない」先づこう云って首を傾げた。
「杉でないと仰有おっしゃいますと?」
「杉材としては持ち重りがする。鐡で作った箱の表皮へ、杉の板を張り付けたもので、しかも日本の細工ではない。支那製か南蛮製だ」
「マアさようでございますか」お錦も興味を感じてきた。
「ひとつ、開けて見ましょうかな。おおここに鍵穴がある。さて鍵だがお持ちかな?」
「ハイ、うちにならございます」
「では明日にでも持って来て、ともかくも開けて見ましょうかな」
「そういうことに致しましょう」
 ここで話がちょっと切れた。
 もう夕暮ゆうやみに近かった。庭の築山では吉野桜が、微風にもつれて散っていた。パチッ、パチッと音のするのは、泉水で鯉が躍ねるのであった。
 何気なくお錦は庭を見た。往来と境の黒板塀にかなり大きな節穴があったが、そこから誰か覗いていると見えてギラギラ光る眼が見えた。
「あれ!」とお錦の叫んだ時には、もうその眼は消えていた。

15[#「15」は縦中横]

 やがて夕暮がやって来た。お暇をしなければならなかった。充分の未練を後へ残し、お錦は駕籠で帰って行った。
「よこしまの美であろうとも、美人はやっぱり好ましいものだ」
 義哉よしやはこんなことを想いながら、部屋に残っている脂粉の香に、うっとりと心をときめかした。
 思い出して三味線を取り上げると、さっきの続きを弾き出した。
※(歌記号、1-3-28)雁がとどけし玉章たまづさは、小萩のたもとかるやかに、へんじ紫苑しおんも朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
 ちょうどここまで引いて来た時、どうしたものか一の絃が、鈍い音を立ててブッツリと切れた。
「これはおかしい」と云いながら三味線の棹を膝へのせ、義哉は小首をかたむけた。
「一の絃の切れるのは、芽出度いことになっているが、どうもそうとは思われない」彼は何となく不安になった。「変ったことでもなければよいが」
 帰って行ったお錦のことが、妙に気になってならなかった。で、三味線を掻いて遺ると彼は急いで立ち上った。
「お花お花」と小間使を呼び「ちょっと私は出てくるからね。この手箱をしまっておくれ」
 云いすてとつかわ家を出ると、愛宕あたご下の方へ足を向けた。
 暮れそうで暮れない春の日も、愛宕下へ来た頃には、もうすっかり暮れてしまって、人の顔さえさだかでなかった。その時こんもりと繁り合った、林の中から云い争うような男女の声が聞こえてきた。
 さてこそ! というような気持がして、義哉はそっちへ走って行った。
 そこは林のずっと奥で、丘になろうとする傾斜地であったが、香具師やし風をした八九人の男が、一人の娘を真中に取り込め、口汚く罵っていた。その娘はお錦であった。それと見て取った小堀義哉は、足音荒く走り寄ったが、
「この破落戸ならずもの!」と一喝した。
 しかしこれは悪かった。破落戸のうち四五人の者が、急に彼の方へ向かって来た。そうして後の四五人は、お錦を宙へ吊るすようにして、一散に丘の方へ走り出した。ならずものなどと声をかけずに、忍び寄って一刀に、彼らの一人を斬ったなら、彼らは恐れて逃げたかもしれない。
 義哉へ向かった破落戸達は、いずれも獲物を持っていた。そうして人数も多かった。無手であしらうのは困難であった。そこで義哉も刀を抜いた。
 義哉は芸人ではあったけれど、武術もひととおりは心得ていた。しかし勿論名人ではなかった。とはいえ四五人の破落戸ぐらいに、退けを取るような未熟者でもなかった。
 しかし彼の心持は、この時ひどく混乱していた。娘を助けなければならないからであった。
 彼は平和好きの性質からいえば、人を斬るのは厭であり、峯打ちぐらいで済ましたかったが、しかしそうはいかなかった。破落戸どもの抵抗は、思ったよりも強かった。
「チェッ」と一つ舌うちをすると、真先に進んで来た破落戸の右の手首へ斬り付けた。
 侍でない悲しさに、斬り付けられた破落戸は、ワーッと叫ぶと尻もちを突いた。踏み込んで行って斬り付けるのは、容易なことではあったけれど、義哉はそうはしなかった。ビューッと刀を振り廻し、
「まだ来る気か!」と威嚇した。
 これは非常に有効であった。ワーッと叫ぶと破落戸どもは、手負い[#「手負い」は底本では「手負ひ」]の仲間を捨てたまま、パラパラと四方へ逃げ散った。
 その隙に義哉は走り出した。
 朧ろの春の月影に、丘の方を透かして見ると、お錦をかどわかした一団は、今や丘を上りきり、向う側へ下りようとしていた。
 で、血刀をさげたまま彼はその後を追っかけた。しかし頂上まで来た時には、彼等の一団は丘を下り、巴町ともえちょうの方へ走っていた。
 そこで彼も丘を下り、彼らの後を追っかけて行った。
 夜の静寂を驚かせ、彼らの走る足音は、家々の戸に反響したが、さてその戸を引き開けて、事件の真相を知ろうというような、冒険好きの者はいなかった。この頃は幕府も末の末で、有司の威令は行なわれず、将軍の威厳さえほとんど傾き、市中は文字通り無警察で、白昼切取強盗さえあった。
 そこで、市民は日中さえ、店を開こうとはしないほどであった。
 その時、破落戸の一団は、にわかに大通りから横へそれた。で、義哉もその後を追い、狭い露路を左へ曲がった。
 曲がって見て彼はアッと云った。露路は浅い袋路なのに、彼らの姿がどこにも見えない。
 彼は棒立ちに突立った。それから仔細に辺りを見た。

16[#「16」は縦中横]

 左と右は板壁で、出入口らしいものは一つもなく。[#「。」はママ]ただ正面に古びた家が、戸口を向けて立っていた。
「ああ、あの家へ入り込んだな」
 こう思った彼は走り寄ると、躊躇なく表戸へ手を掛けた。すると意外にもスルリと開いた。内へ入って見廻すと、空家と見えて人影もなく、家具類さえ[#「さえ」は底本では「さへ」]見あたらない。
 裏にも一つの出入口があって、その戸がなかば開いていた。
「うん、あそこから抜け出したのだな」
 で、彼はその口から、急いで外へ出ようとした。すると、その戸がにわかに閉じ、かんぬきを下す音がした。
「しまった!」と叫ぶと身を翻えし、入って来た口から出ようとした。するとその戸も外から閉ざされ、閂のかかる音がした。
 もう出ることは出来なかった。彼は監禁されてしまった。
 こんな場合の彼の心に、よくあてはまる形容詞といえば「茫然」という文字だろう。実際彼は茫然として、暗黒の家内に突立っていた。
 しかしいつまでも茫然として、突立っていることは出来なかった。抜け出さなければならなかったし、追っかけなければならなかった。いやいやそれよりこうなってみれば、先ず何より自分自身の、安全を計らなければならなかった。
「戸を破るより仕方がない」そこで彼は全力を集め、裏戸へ体をぶっつけた[#「ぶっつけた」は底本では「ぶつっけた」]
 途端に人声が聞こえてきた。
「こっちでござる。お入りなされ」
 ギョッとして四辺あたりを見廻すと、一筋の火光が天井から、斜に足許へ射していた。二階から来た燈火あかりである。ぼんやりと梯子段も見えている。その梯子段の行き詰まりに、がんじょうな戸が立ててあり、それが細目にあけられた隙から火光がかすかに洩れていた。
「それでは空家ではなかったのか」こう思うと彼は心強くなった。それと同時に案内も乞わず、他人の家へ入り込んだことが、申し訳なくも思われた。
「こちらへ」
 という声が聞こえた。
 そこで彼は階段を上った。
 思わず彼はあっと云った。二階の部屋の光景が不思議を極めていたからであった。そこには十人の男がいた。一人は按摩、一人は瞽女ごぜ、もう一人は琵琶師、もう一人は飴屋、更に、居合抜に扮したもの、更に独楽師こましに扮したもの、又は大工又は屑屋、後の二人は商人風に、縞の衣裳を着ていたが、いずれも鋭い眼光や、刀を左右に引き付けている様子で、武士であることが見て取られた。
 そうして彼らの真中に一葉の図面が置かれてあったが、他ならぬ千代田城の図面であった。
「これは浪士だ! 浪士の密会だ!」早くも察した小堀義哉は戦慄せざるを得なかった。
 浪士達の方でも驚いたらしく、互に顔を見合わせたが、
「これは人違いだ。本庄ほんじょう氏ではない」琵琶師に扮した一人が云った。
「貴殿は一体何者かな?」
「拙者は旗本、小堀と申すもの、人を迫っ駆けて参ったものでござる」義哉は正直に打ち明けた。
「実は空家と存じましてな」
「左様、ここは空家でござる。……幽霊屋敷で通っている。外桜田の毛脛けずね屋敷でござる」
 これを聞くと小堀義哉[#「義哉」は底本では「直哉」]は、「ああそうか」と思わず云った。天井から毛脛が下がって来て悪戯をするという所から、外桜田[#「外桜田」は底本では「下桜田」]の毛脛[#「毛脛」は底本では「下脛」]屋敷と呼ばれ、いつまで経っても住手のない家が、一軒あるという噂は、既に以前に聞いていた。「はああそれでは浪士どもが、集会の用に立てようため、そんな気味の悪い噂を立て、人を付近に近寄せないのだな」こう考えて来ていよいよ義哉は身の危険に戦慄おののいた。
 その時浪士たちは顔を寄せ合い、しばらくヒソヒソ相談したが、
「さて小堀義哉氏とやら、我々を何と覚しめすな?」琵琶師風の一人がやがて云った。
「姿はさまざまに※(「にんべん+肖」、第4水準2-1-52)やつしては居れど、浪士方と存ぜられます」
「いかにも左様、浪士でござる。……何の為の会合とおぼしめすな?」
「それはトント存じませんな」
「この図面、ご存知かな?」
 琵琶師は図面を指差した。
「千代田の城の図面でござろう」
 すると浪士は頷いたが、
「実は我ら千代田城へ、火を掛けようと存じましてな。それで会合をして居るのでござる」
 家常茶飯事でも話すように、こう浪士はスラスラと云った。そうしてじっと眼を据えて、義哉の顔を見守った。

17[#「17」は縦中横]

 主君も主君将軍家の城を、焼打ちにしようというのであるから、これが普通の幕臣なら、カッと逆上のぼせるに違いない。
 勿論義哉もカッとなった。しかし義哉は芸人であって、忍耐性に富んでいた。それで、別に顔色をかえず、冷やかに相手を見返した。
「小堀氏、何と思われるな?」
 琵琶師風の浪士は嘲笑うように「さぞ憤慨に堪えられますまいな」
「破壊、放火、殺人というような殺伐なことは大嫌いでござる。こういう意味から云う時は、勿論貴所きしょ方の計画を、快く思うことは出来ませんな」義哉は憚らず思う所を云った。
「将軍に対する反逆については?」
「それとてよくはござらぬな。しかし、大勢というものは、多数の意嚮いこうに帰するものでござる。天下は一人の天下ではなく、即ち天下の天下でござる、いや、帝の天下でござる」
「しかし、貴殿は旗本とのこと、すれば将軍は直接の主君、それに反抗するこの我々をさぞ憎く覚し召さりょうな?」
「さようでござる、普通にはな」義哉は敢て興奮もせず「しかしそれより実の所は、勤王、左幕の衝突の結果、世間がいつ迄もおちつかず、その為芸道の廃れを見るのが、拙者にとっては残念でござるよ」
「ナニ、芸道とな? 何の芸道?」
「清元、常磐津ときわづ、長唄、新内、その他一般の三味線学でござる。日本古来よりの芸道でござる」
 これを聞くと浪士達は、一度にドッと笑い出した。それから口々に罵った。
「アッハハハ、沙汰の限りだ。こういう武士があればこそ、徳川の天下は亡びるのだ」
「両刀をたばさむ武士たるものが、遊芸音曲に味方するとは、さてさて武士道もすたれたものでござるな」
「諸君、そういったものでもない」こう静かに止めたのは、例の琵琶師風の浪士であった。どうやら一座の頭目らしい。グイと義哉の方へ膝を進めたが、
「いや仰せごもっともでござる。武道であれ遊芸であれ、人の世に必要があればこそ、産れもし繁栄も致すので、この世に用のないものなら、産れもせねば繁昌もしまい。せっかく栄えた遊芸道が、衰退に向うということは、それを愛する人々にとり、遺憾であるに相違ござらぬ。……がそれはともかくとして、たとえ偶然であろうとも、我らが集会へ突然参られ、一切の秘密を知ったからは、お気の毒ながら安穏に、お帰しすることは出来ませんでな」
 さも笑止だというように、こう云うとその浪士は微笑した。
 どうせ無事ではあるまいと、ひそかに覚悟はしていたものの、いよいよこのように明かされてみれば、義哉としても恐ろしかった。彼は下俯向き、黙って唇を噛みしめた。
「しかし貴殿はたった一人、それに反して我らは十人、一度にかかっては後の人に、卑怯の譏りを受けるでござろう。そこで一人ずつの真剣勝負、最初に拙者がお相手致す、お立合い下さることなりますまいかな」
 言葉は丁寧ではあったけれど、語韻に云われぬ殺気があって、義哉の心をおびやかした。
「その立合いなら無駄でござる」やがて義哉は冷やかに云った。
「ほほう、それは何故でござるな?」
「なぜと申して、立ち合ったが最後、負けるに相違ござらぬからな」
「ふうむ、それで、厭とおっしゃるか」さも案外だと云うように、
「しかし、それでは卑怯でござるぞ」
「負けると知って剣を合わせ、万一の僥倖を期する者こそ、即ち卑怯と申すもの。拙者はそれとは反対でござる」
「なるほど」と浪士はそれを聞くと、どうやら感心したらしかった。「と申してこのままお帰ししては、秘密の洩れるおそれがある。いよいよお立合い下さらぬとあっては、お気の毒ながら一刀の下に……」
「よろしゅうござる、お斬りなされ」
 いよいよ不可いけないと知ってからは、却って捨身の度胸がまり、義哉の心は澄み返った。そこで、膝へ両手を重ね、頸をグイと前へ延ばした。
 それと見てとると例の浪士は、やおら立ち上って太刀を抜いたが、「神妙のお覚悟感じ入ってござる、何か遺言はござらぬかな」
「左様」と云って首をかしげたが「ちょっと三味線をお貸し下され」
 ここに至って浪士どもは、唖然たらざるを得なかった。
「何になさるな?」と例の浪士が訊いた。
「中途で弾き止めた清元の『山姥やまうば』、今生こんじょうの思い出にえとうござる」
「ははあ」と云うと例の浪士は、仲間の者と眼を見合わせたが、やがて頤で合図をした。瞽女ごぜに扮した浪士の一人が、そこで三味線を押しやった。
 えんゆかしい三味線の音色が、毛脛屋敷から洩れたのは、それから間もなくのことであった。

18[#「18」は縦中横]

 ちょうど同じ夜のことであったが、芝三田の義哉よしやの家では、奇怪な事件が行なわれた。主人義哉が出かけて行った後、小間使のお花は雇女ばあやと一緒に、台所で炊事を手伝っていた。
 と、口笛の音がした。
 物みな懐かしい春の宵で、後庭では桜が散っていた。
 ヒューヒューと鳴る口笛の音も春の夜にはふさわしかった。
 しかしその時、居間の方で、変にカキカキいう音がした。
「おや」とお花は聞耳を立てたが、手にねぶかを持ったまま、急いでそっちへ行ってみた。
 一匹の奇形な動物が、背をうねらして走り廻っていた。犬のように大きな鼬であったが、口に手箱を銜えていた。
「あっ」とお花は悲鳴をあげ、無宙で葱を投げつけた。
 鼬の何よりも嫌いなのは、刺戟性の葱の匂であった。それで、鼬は一跳ね跳ねると、食わえていた手箱を振り落し、庭の茂へ走り込んだ。
「ああ恐かった」と溜息をしながら、お花はしばらく立ち縮んだものの、気が付いて手箱を取り上げた。
 彼女は利口な女であった。鼬が手箱を狙ったのは偶然ではあるまいと推量した。そこで、手箱を持ったまま女中部屋の方へ入って行った。ふたたび彼女が現われた時には、風呂敷に包んだ小さな箱を、大事そうに両手で捧げていた。そうして主人の居間へ行くと、袋戸棚をそっと開け大切そうにしまい込んだ。
 お花の聡明な心遣いが、無駄でなかったということは、その夜が更けてから証明された。
 庭の茂がかすかに揺れると、香具師やし風の若者が手拭でスッポリ顔を隠し、刻み足をして現われたが、ぴったりと雨戸へ身を寄せた。
 こういうことには慣れていると見え、二三度小手を動かしたかと思うと音もなく雨戸がスルスルとあき、横縁が眼前に現われた。その向こうに障子が見え、それを開けると義哉の居間で、主人がいないにも拘らず燈火あかりがポッと射していた。
 香具師風の若者は、膝で歩いて障子へ寄り、内の様子をうかがったが、誰もいないと確かめると躊躇せず障子を引きあけた。それからスックリ立ち上ると袋戸棚の前へ行き、手早く箱を取り出した。
 その時人の気勢けはいがした。
 あわてた彼は盗んだ箱を手早く懐中へ捻じ込んだが、もう足音を忍ぼうともせず、縁から庭へ飛び下りた。
 ざわざわと茂みの揺れる音、つづいて口笛の音がしたが、後は寂然としずかになった。引き違いに居間へ現われたのは、例の小間使いのお花であって、先ず静かに雨戸をとじ、それからしとやかに障子をしめた。
 見れば手箱を持っている。
 乙女に有り勝ちの好奇心が、彼女の心に湧いたのであろう、燈火ともしびの前へ坐りこむと、先ず髪から簪を抜き、その足を鍵穴へ差し込んだ。しかし錠前は外れなかった。
 で、手箱を膝の上へのせ、しばらくじっと考え込んだ。
 見る見る彼女の眼の中へ燃えるような光が射して来た。
 彼女は突然叫び出した。「泥棒どろぼうでございます泥棒でございます!」
 そうして手早く杉の手箱を自分のふところへ捻じ込んだ。
 けたたましい声に仰天して、家の人達が集まって来たのは、その次の瞬間のことであったが、いかさま縁にも座敷にも泥足の跡が付いているので、賊の入ったことは証拠立てられた。
 そこで八方へ人が飛んだ。しかし賊は見付からなかった。
 そうして何を盗まれたものか、かいくれ見当がつかなかった。
 と云うのは金にも器類にも、紛失したものがないからであった。

19[#「19」は縦中横]

 ちょうど同じ夜の出来事である。
 岡山頭巾で顔を包んだ、小兵の武士が供もつれず、江戸の街を歩いていた。
 すると、その後をけるようにして、十人ばかりの屈強の武士が、足音を盗んで近寄って来た。
 覆面の武士は幕府の重鎮勝安房守安芳かつあわのかみやすよしで、十人の武士は刺客なのであった。
 今日の東京の地図から云えば、日本橋区本石町ほんごくちょうを西の方へ向かって歩いていた。室町を経て日本橋へ出、京橋を通って銀座へ出、尾張町の辻を真直ぐに進み、芝口の辻までやって来た。
 この間二三度刺客達は、討ち果そうとして走りかかったが、安房守の威厳にたれたものか、いつも途中で引き返してしまった。
 だが一体何のために勝安房守を殺そうとするのだろう? そうして一体刺客達は、どういう身分の者なのだろう。
 それを知りたいと思うなら、当時の歴史を調べなければならない。
 慶応けいおう三年九月であったが、土佐とさ山内容堂やまのうちようどう侯は、薩長二藩が連合し討幕の計略をしたと聞き、これは一大事と胸を痛めた。そこで一通の建白書を作り、後藤象二郎ごとうしょうじろう福岡孝悌ふくおかこうてい、この二人の家臣をして将軍慶喜にたてまつらしめ、平和に大政を奉還せしめ、令政をして一途に出でしめ、世界の大勢に順応せしめ、日本の国威を揚げしめようとした。そこで慶喜は十月十三日、京都二条城に群臣を集め、大政奉還の議を諮詢しじゅんした。その結果翌十四日、いよいよ大政奉還の旨を朝廷へ対して奏聞そうもんした。一日置いた十六日朝廷これを嘉納した。つづいて同月二十四日、慶喜は更に将軍職をも、辞退したき旨奏聞したが、これは保留ということになった。
 さて一方朝廷に於ては、施政方針を議定するため、小御所こごしょで会議を行なわせられた。中山忠能なかやまただよし正親町實愛おおぎまちさねなる徳大寺實則とくだいじさねのり岩倉具視いわくらともみ徳川慶勝とくがわよしかつ松平慶永まつだいらよしかげ島津義久しまづよしひさ山内容堂やまのうちようどう西郷隆盛さいごうたかもり大久保利通おおくぼとしみち後藤象二郎ごとうしょうじろう福岡孝悌ふくおかこうてい、これらの人々が参会した。十二月八日のことであった。その結果諸般の改革を見、翌九日、天皇親臨しんりん、王政復古の大号令を下され、徳川幕府は十五代、二百六十五年を以て、政権朝廷に帰したのであった。
 慶喜に対する処置としては、内大臣を辞すること、封土一切を返すべきこと、この二カ条が決定された。
 旧幕臣は切歯した。慶喜としても快くなかった。会桑かいそう二藩は特に怒った。突然十二月十二日の夜慶喜は京都から大坂へ下った。松平容保かたもち、松平定敬さだよし、他幕臣が従った。
 こうして起ったのが維新史に名高い伏見鳥羽の戦いであった。明治元年正月三日から、六日に渡って行なわれたのであった。そうして幕軍大いについえ、六日夜慶喜は回陽丸に乗じ、海路江戸へ遁竄とんざんした。
 ここでいよいよ朝廷に於ては、慶喜討伐の大軍を起され、江戸に向けて発することにした。有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王を征東大総督せいとうだいそうとくに仰ぎまつり、西郷隆盛さいごうたかもり参謀、薩長以下二十一藩、雲霞うんかの如き大軍は東海東山とうかいとうざん、北陸から、堂々として進出した。そうして三月十五日を以て、江戸総攻撃と決定された。
 江戸はほとんど湧き返った。旗本八万騎は奮起した。薩摩と雌雄を決しようとした。しかし聡明な徳川慶喜は、惰弱に慣れた旗本を以て、慓悍な薩長二藩[#「薩長二藩」は底本では「薩摩二藩」]の兵と、干戈かんかを交えるということの、不得策であることを察していた。それに外国が内乱に乗じ、侵略の野心を逞しゅうし、大日本国の社稷しゃしょくをして危からしめるということを、特に最も心痛した。そこで幕臣第一の新知識、勝安房守に一切を任せ、自身は上野の寛永寺に蟄居し、恭順の意を示すことにした。
 初名義邦よしくに、通称は麟太郎りんたろう、後安芳やすよし、号は海舟かいしゅう、幕末じゅう位下いげ安房守あわのかみとなり、軍艦奉行、陸軍総裁を経、さらに軍事取扱として、幕府陸海軍の実権を、文字通り一手に握っていたのが、当時の勝安房守安芳であった。武術は島田虎之助に学び、蘭学は永井青涯に師事し、一世をむなしうする英雄であったが、慶喜に一切を任せられるに及び、大久保一翁、山岡鐡舟などと、東奔西走心胆を砕き、一方旗本の暴挙を訓め、他方官軍の江戸攻撃をい止めようと努力した。
 幕臣の中過激な者は、その安房守の遣り口を、手ぬるいと攻撃するばかりでなく、徳川を売って官軍にく獅子身中の虫だと云って、暗殺しようとさえ企てた。
 それを避けなければならなかった。
 日々幕兵は脱走した。それを引き止めなければならなかった。
 で、この夜もただ一人府内ふないの動静を探ろうとして、こうして歩いているのであった。

20[#「20」は縦中横]

 芝口の辻を北へ曲がり安房守あわのかみは悠々と歩いて行った。
 下桜田しもさくらだ[#「下桜田」はママ]まで来た時であった。ふと彼は足を止めた。その機会を狙ったのであろう、刺客の一人が群を離れ、さっと安房守の背後に迫った。
 と、突然安房守が云った。
「うむ、日本は大丈夫だ! この騒乱の巷の中で、三味線を弾いている者がある。うむ、曲は『山姥やまうば』だな。……唄声にも乱れがない。ばちさばきもあざやかなものだ。……いい度胸だな。感心な度胸だ。人はすべからくこうなくてはならない。蠢動するばかりが能ではない。亢奮するばかりが能ではない。宇内うだいの大勢も心得ず、人斬包丁ばかり振り廻すのは人間の屑と云わなければならない。……いい音締だな小気味のよい音色だ」
 それは呟いているのではなく、大声で喋舌しゃべっているのであった。背後に迫って来た刺客の一人へ、聞かせようとして喋舌っているらしい。
 宵ながら町はひっそりと寂れ、時々遙かの方角から脱走兵の打つらしい小銃の音が響いてきたが、その他には犬の声さえしない。
 その静寂を貫いて、咽ぶがような、清元の音色が、一脈綿々と流れてきた。
 刺客の一人は立ち止まり、じっと安房守を見守った。その安房守は背を向けたまま、平然として立っていた。まことに斬りよい姿勢であった。一刀に斬ることが出来そうであった。
 それだのに刺客は斬らなかった。一間ばかりの手前に立ち、ただじっと見詰めていた。彼は機先を制されたのであった。叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)するような安房守の言葉に、強く胸を打たれたのであった。しかし今にも抜き放そうとして、しっかり握っている右の手を柄から放そうとはしなかった。
「斬らなければならない! たたっ斬らなければならない! 二股武士、勝安房守かつあわのかみ[#「勝安房守かつあわのかみ」は底本では「勝安房安かつあはのかみ」]! だが不思議だな、斬ることが出来ない」
 刺客の心は乱れていた。
 と、唄声がはっきり聞こえた。
※(歌記号、1-3-28)雁がとどけし玉章たまづさは、小萩のたもとかるやかに、返辞へんじしおんも朝顔の、おくれさきなるうらみわび……
 安房守は立っていた。同じ姿勢で立っていた。それからまたも喋舌り出した。
「女ではない、男だな。しかも一流の太夫らしい。一流となれば大したものだ。政治であれ剣道であれ、遊芸であれ官教であれ、一流となれば大したものだ。もっとも中には馬鹿な奴もある。剣技精妙第一流と、多くの人に立てられながら、物の道理に一向昏く無闇と人ばかり殺したがる。この安芳やすよしをさえ殺そうとする。馬鹿な奴だ。大馬鹿者だ。今この安芳を暗殺したら、慶喜公の御身はどうなると思う。徳川の家はどうなると思う。俺は官軍の者どもに、お命乞いをしているのだ。慶喜公のお命乞いを。……俺の命などはどうなってもよい。俺はいつもこう思っている。北条義時ほうじょうよしときに笑われまいとな。実に義時は偉い奴だ。天下泰平のそのためには、甘んじて賊臣の汚名を受け、しかも俯仰天地ふぎょうてんち[#「俯仰天地」は底本では「俯抑天地」]に恥じず、どうどうと所信を貫いた。……俺は義時にのっとろうと思う。日本安全のそのためには、小の虫を殺し大の虫を助け、敢て賊子ぞくしに堕ちようと思う。……どだい薩長と戦って、勝てると思うのが間違いだ。いかんともしがたいは大勢だ。社会の新興勢力は、どんなことをしても抑制出来ぬ。王政維新は大勢だ。幕府から人心は離れている。それはもう旧勢力だ。利益のなくなった偶像だ。徳川の天下も二百六十年、そろそろ交替していい時だ。偶像をおがむのは惰性に過ぎない。こびり付くのは愚の話だ。新時代を逃がしてはいけない。日本を基礎にした世界主義! 国家を土台にした国際主義! これが当来の新思想だ。仏蘭西フランスを見ろ仏蘭西を! ナポレオン三世の奸雄かんゆう振のいかに恐ろしいかを見るがいい! 日本の国土を狙っているのだ。内乱に乗じて侵略し、利権を得ようと焦心あせっているではないか。それだけでも内乱を止めなければならない。……第一江戸をどうするのだ。罪のない江戸の市民達を。兵戦にかけて悔いないのか。いやいやそれは絶対にいけない。江戸と市民は助けなければならない。そうして徳川の大屋台と慶喜公とは助けなければならない。……どいつもこいつも血迷っている。醒めているのは俺だけだ。俺がそいつらを助けなかったら、一体誰が助けるのだ。俺を絶対に殺すことは出来ぬ。殺したが最後日本は闇だ。……官軍の中にもわかる奴がいる。他でもない西郷だ。西郷吉之助ただ一人だ。で俺はきゃつに邂逅ゆきあい、赤心を披瀝して談じるつもりだ。解ってくれるに相違ない。そこで江戸と江戸の市民と、徳川家と慶喜公とは、助けることが出来るのだ。その結果内乱は終息し、日本の国家は平和となり、上下合一、官民一致、天皇帰一、八こう、新時代が生れるのだ」

21[#「21」は縦中横]

 安房守あわのかみ[#ルビの「あわのかみ」は底本では「あはのかみ」]はじっと耳を澄ました。
 空では星がまばたいていた。ふと小銃の音がしたが、しかしたった一発だけであった。
 清元きよもとの唄はなお聞えた。
「ああいいなあ。名人の至芸しげいだ」安房守は嘆息した。それから大声でやり出した。「俺はもとからの江戸っ子だ。俺の好きなのは平民だ。勝麟太郎かつりんたろう、これでいいのだ。つめて云うと勝麟だ。従五位も無用なら安房守も無用だ。勝麟々々これでいいのだ。だがそう云ってはいられない。勝麟では済まされない。世間の奴らが酔っていて、俺一人醒めているからよ。そこで救世と出かけたのだ。厭な役廻りだがしかたがない。扶桑ふそう第一の智者と称し、安房の国の旋陀羅せんだらの子、聖日蓮セントにちれん[#「日蓮」は底本では「日連」]は迫害を覚悟で、世の荒波へ飛び出して、済民さいみんの法を説いたではないか。現代第一の智者と云えば、この俺の他にはない。つまり俺は日蓮なのだ。つまり俺は祖師そしなのだ。その祖師様を殺そうとは、とんでもない不届者だ。すぐに仏罰を蒙ろうぞ。……ああ、だが、本当に、いい音色だなあ。……」
 春の夜風がそよぎ出した。
 手近の木立で小鳥が啼いたが、きっと夢でも見たのだろう。
 なまめかしい春の夜の、甘い空気を顫わせて、艶な肉声と三味線の音とは、なおあざやかに聞こえていた。
 刺客は頭をうな垂れた。柄を握っていた右の手は、いつかダラリと下っている。と、一足しりぞいた。それからグルリとむきを変えると、もと来た方へ引っ返した。
 その時、安房守は振り返った。
「これちょっと待て、伊庭いば八郎!」
「はっ」と云うとその刺客は、足を止めて振り返った。うら若い美貌の武士であり、それは伊庭八郎であった。八郎は父軍兵衛ぐんべいと共に、この時代の大剣豪、斉藤弥九郎さいとうやくろう、千葉周作、桃井春蔵ももいしゅんぞう、近藤勇、山岡鐡舟、榊原健吉さかきはらけんきち、これらの人々と並称されている。身、幕臣でありながら、道場をかまえて門下を養い、心形刀流を伝えたが、直門二千名に及んだという。
 幕臣も幕臣、奥詰めだったので、親衛隊のさきがけであり、伏見鳥羽の戦いにも出て、幾百人となく敵を斬った。
 その彼は直情の性格から、同じ幕臣の勝安房守が、いわゆる恭順派の総師として、薩長の士と交渉することを、徳川家のために歯掻く思い、獅子身中の虫と感じ、いっそ暗殺して害をのぞこうと、日頃から画策していたのであったが、この夜いよいよ断行すべく、門下の壮士九人を率い勝安房守の後をつけ、剣を揮おうとしたのであった。
「どうだ、少しはわかったかな?」安房守は微笑した。
 しかし八郎は黙っていた。
「ないない」と安房守は穏やかに云った。「勿論全部は解らないだろう。だがこの俺を殺すことの、理不尽だという事は解ったらしいな」
「はい、さようにございます」伊庭八郎は一礼した。「見損ないましてございます」
「世の中は近々平和になるよ。だが今後とも小ぜりあいはあろう。幕臣たる者は油断してはならない。八郎、お前、久能山くのうざんへ行け! 函嶺かんれいけんやくしてくれ!」
「それは、何故でございますな?」
「二三日中に西郷と逢う。そうして俺は談判する。俺の言葉を入れればよし、もし不幸にして入れなかったら、幕府の軍艦を一手に集め、東海道の薩長軍を、海上から俺は殲滅して見せる。函根はこね、久能山は大事な要害だ。敵に取られては面白くない。……まあ八郎聞くがいい、どうだ冴え切った三味線ではないか」
「よい音色でございますな」
 思わず八郎も耳を澄した。
 遠くで二つバンが鳴っていた。
 どこかに火事でもあると見える。
 しめやかに三味線はなお聞えた。
 にわかに八郎は呻くように云って、
「これは不思議! 剣気がござる!」
「ナニ剣気? ほんとかな?」安房守は眼を見張った。
「これは只事ではございません」
「お前は剣道では奥義の把持者はじしゃだ。俺などよりずっと上だ。お前がそう云うならそうかもしれない」
「これは危険がせまって居ります」
「ふうむ、そうかな。そうかもしれない」
「これは助けなければなりません」
 八郎は背後を振り返り、手を上げて門下を呼んだ。
 曲は終りに近づいてきた。

 毛脛けずね屋敷の床の下に、大きな地下室が出来ていた。
 この屋敷が建てられたのは、正保しょうほ年間のことであって、慶安謀反の一方の将軍、金井半兵衛正国かないはんべえまさくにずっと住んでいたということであった。で、恐らく地下室は、その時分に造られたものであろう。素行山鹿甚五右衛門やまがじんごえもんの高弟、望月作兵衛もちづきさくべえもそこに住み著述をしたということであるが、爾来幾度か住人が変わり、建物も幾度か手を入れられたが、天保てんぽうになって一世の剣豪、千葉周作政成の高弟、宇崎三郎が住んだことがあったが、この時代から怪異があったと、翁双紙おきなぞうしなどに記されてある。本所七不思議のその中にも、毛脛屋敷というのがあるが、それとこれとは別物なのである。
 百目蝋燭が地下の部屋の、一所に点っていた。
 黄色い光がチラチラとだだっ広い部屋を照らしている。
 かすかではあったが三味線の音が、天井の方から聞えてきた。
 十四五人の人間がいる。
 そうして気絶した美しい紫錦が、床の上にたおれていた。

22[#「22」は縦中横]

「ふん、こうなりゃアこっちの物さ。……三ピンめ、驚いたろう」
 こう云ったのは源太夫であった。「だが案外手強かったな、唄うたいにゃ似合わねえ」
「坊主の六めどうしたかな」こう云ったのは小鬢の禿た四十年輩の小男であった。「三ピンめに一太刀浴びせられたが」
「ナーニ大丈夫だ、くたばりゃアしねえ。死った所で惜しかアねえ」もう一人の仲間がこう云った。
「三ピンめ、さぞかし驚いたろう」源太夫は繰り返した。「よもや地下室があろうとは、仏さまでも知るめえからな。消えてなくなったと思ったろうよ。……紫錦しきんめ、そろそろ目を覚さねえかな」
 紫錦は気絶からまだ醒めない。グッタリとしてたおれていた。髪が崩れて額へかかり、蝋燭の灯に照らされていた。
 源太夫はじっと見詰めていたが、溜息をし舌なめづりをした。
「だが親方はどうしただろう?」
 もう一人の仲間が不安そうに云った。
「大丈夫だよ、親方のことだ、ヘマのことなんかやるはずはねえ」
「それにえて物を連れて行ったんだからな」
あいつときたら素ばしっこいからな」
 二三人の仲間が同時に云った。
 地下室は寒かった。蝋燭の灯がまたたいた。
「酒を呑みたいなあ」と誰かが云った。
「まあ待ちな、もう直ぐだ。なんだか知らねえが親方が宝箱を持って来るんだとよ」
「何が入っているんだろう?」
「小さな物だということだ」
「で、うんと金目なんだな」
「一度にお大尽だいじんになるんだとよ」
「源公!」
 と一人が呼びかけた。「ひどくお前は幸福そうだな。思う女を取り返したんだからな。……幸福って物ア直ぐに逃げる。今度逃がしたら取り返しは付かねえ」
 源太夫はそっちへ眼をやった。
「ふん、女に惚れているんだな」
「あたりめえだ、惚れてるとも、だから苦心して取り返したんだ」
「だがくねえぜ、そういうれ方は、古い惚れ方っていうやつだ
 源太夫はその眼を光らせたが
「じゃ何が新らしいんだ」
「お前は承知させて、それからにしようって云うんだろう? だめだよだめだよそんなことは……」
「俺には出来ねえ、殺生な真似はな」
「じゃあお前は縮尻しくじるぜ」
 源太夫は返辞いらえをしなかった。
「叩かれると犬はいて来る。すると犬は喰らいつく。……」
 源太夫は考え込んだが、突然飛び上り喚声をあげた。
「お前の云うことは嘘じゃねえ!」

23[#「23」は縦中横]

 この時二階の一室では、最後の節が唄われていた。
 小堀義哉こぼりよしやの心の中は泉のように澄んでいた。
 なんの雑念も混じっていなかった。死に面接した瞬間に、人間の真価は現われる。驚くもの恐れるもの、もがくもの泣き叫ぶもの、そうして冷やかに傍観するもの、又突然悟入ごにゅうするもの、しかし義哉の心持は、いずれにもはまっていなかった。彼は三味線の芸術境に、没頭三昧することによって、すべてを忘れているのであった。
山姥やまうば』の曲が終ると同時に、彼は死ななければならなかった。そうして殺し手が白刄をげ、彼の背後に立っていた。
 時はズンズン経って行った。
 もう直ぐ曲は終わるのである。
※(歌記号、1-3-28)つゆにもぬれてしっぽりと、伏猪ふすいの床の菊がさね……
 彼は悠々と唄いつづけた。
 異風変相の浪士達にも、名人の至芸はわかると見えて、首を垂れて聞き惚れていた。
 独楽師に扮した一人の浪士は「旨い!」と思わず呟いた、居合抜に※(「にんべん+肖」、第4水準2-1-52)やつしたもう一人の浪士は、「ウーン」と深い呻声を洩らし、商人に扮した二人の浪士は顔と顔とを見合わせた。
 一座の頭領と思われる、琵琶師風の一浪士は、刀の柄を握ったまま堅くその眼を閉じていた。
 時はズンズン経って行った。
 伊庭八郎とその同志は、勝安房守の指図の下に、毛脛屋敷の表戸を、踏み破ろうと待ち構えていた。
「まずつがよい」
 と安房守は云った。「めったに聞けない名人の曲だ。唄い終えるまで待つとしよう」
 それで、一同は鳴りを静め、三味線の絶えるのを待っていた。
 さてそれから行なわれたのが、その当時の人が噂した所の「毛脛屋敷の大捕物」であり、そうして後になってその捕物が「仙人壺」というものに関係あり、と知り、改めて「大捕物仙人壺」と呼んだ、その風変りの捕物であった。
 何故この捕物が風変わりであり、何故有名になったかというに、先づ第一にそれを指揮した者が、勝海舟という大人物であり、捕物のしょうにあたった人物が、伊庭八郎とその門下という、これも高名の人々だったからで。……
 そうして捕えられた者共が、千代田城へ放火しようとした精悍な浪士の一群と、当時江戸を騒がせていた、いたち使いの香具師やし一派という、風変わりの連中であったからである。
 しかし捕物そのものは、まことに簡単に行なわれた。
 即ち伊庭八郎一派の者が、三味線の音の絶えると同時に、毛脛屋敷へ乱入するや、浪士の群は狼狽し、逃げようとしてひしめくところを、あるいは斬り、あるいは捕縛し、その物音に驚いて、地下室にいた源太夫一味が、周章あわてて遁がれようとするところを、これも斬ったり捕えたりして、一人のこさず狩取った迄であった。
 その結果お錦と小堀義哉とは、命を助かることが出来た。
 香具師の親方「釜無しの文」だけは、ちょうどそこに居なかったので、これも命を助かった。

24[#「24」は縦中横]

 その夜の明け方小堀義哉こぼりよしやは、自分の屋敷へ帰って来た。そこで盗難の話を聞いた。これという物も盗まれなかったが、おきんから預かった不思議な手箱を、一つだけ盗まれたということを、小間使のお花から耳にした。
「ふうむそうか、ちょっと不思議だな」
 義哉は小首を傾けた。「金も取らず衣類も盗まず、手箱を奪ったというのには、何か理由がなければならない」
 しかし彼にはわからなかった。
「お錦殿には気の毒だが、打ち明けるより仕方あるまい」
 で、お錦の来るのを待った。しかし翌日も翌々日も、お錦の姿は見えなかった。
「ああいう事件があった後だ、多少体を痛めたのかもしれない」
 無理もないことだと思うのであった。
 その翌日のことであったが、一日暇を戴きたいと、小間使いのお花が云い出した。
「ああいいとも、暇を上げよう。親元へでも帰るのかな」
「はい、あの神田の兄の許へ」
「おおその神田の兄さんとやらは、お上のご用を聞いているそうだな」
「はい、さようでございます」
「ゆっくり遊んで来るがよい」
「はい、それでは夕景ゆうけいまで」
 小さい風呂敷の包を抱き、小間使のお花は屋敷を出た。
 神田小川町の奥まった露路に、岡引の友蔵の住居があった。荒い格子には春昼しゅんちゅうの陽が、あざやかに黄色くあたっていた。
ねえさんこんにちわ」と云いながら、お花は門の格子をあけた。
「おやお花さん、よく来たね」声と一緒にあらわれたのは、友蔵の家内のおまきであった。三十前後の仇っぽい女で、茶屋上りとは一眼で知れた。
「これはお土産、つまらない物よ」
「よせばよいのに、お気の毒ねえ」
「それはそうと兄さんはいて。妾ちょっと用があるのよ」
「おお、お花か、何だ何だ」
 これは友蔵の声であった。
 友蔵は茶の間の長火鉢の前で、湯呑で昼酒を飲んでいた。四十がらみの大男で、凶悪の人相の持主であった。下っ引の手合も今日はいず、一人いい気持に酔っていた。
 朝風呂丹前長火鉢、これがこの手合の理想である。しかし岡っ引の手あてといえば、一月一分か一分二朱であった。それでは小使にも足りなかった。その上岡っ引は部下として、下っ引を使わなければならなかった。その手あてはどこからも出ない。自分が出さなければならなかった。そこで勢い岡っ引は他に副業を求めるか、ないしは地道の町人をいたぶり賄賂わいろを取らなければ食って行けなかった。
 ところで友蔵には副業がなかった。そこで町人をおどしては、収賄しゅうわいをして生活くらしていた。
「兄さん」とお花は茶の間へ入ると、風呂敷包をサラリと解いた。「見て貰いたいものがありますのよ。この手箱なの、どう思って?」
 伊丹屋いたみやのお錦が「爺つあん」から貰い、小堀義哉に預けた所の、例の手箱を取り上げた。
変哲へんてつもねえ杉の箱じゃあねえか、これが一体どうしたんだい?」友蔵は手箱を取り上げた。
「何でもないのよ、見掛けはね。でもちょっと変なのよ」
お花はそこで説明した。
 先夜小堀義哉の家へ、変な泥棒が入ったこと、金も衣類も持って行かずに、この箱ばかり狙ったこと、そこで策略を巡らして、泥棒に贋物を握らせた事、そうして本物はこっそりと、自分が隠して置いた事、義哉へ箱を預けたのが、日本橋の大老舗おおしにせ、伊丹屋の娘だということなどを、細々こまごまと説明したのであった。
「ふうむ、そうかい、なるほどなあ。そう聞くとちょっと不思議だなあ。とんだ手蔓てづるにぶつかるかもしれねえ。だが何にしてもふたをあけて、中味を拝見しなけりゃあ」
 そこで錠前をコヂ開けようとした。しかし錠は開かなかった。
「こいつアいけねえ、千枚錠だ。どんなことをしても開くものじゃあねえ。千枚錠ときたひにゃあ、合鍵だって役に立たねえ。箱を潰すのはワケはねえが、中味が何だかわからねえからな、そいつもちょっと手控えだ。……ところで鍵はなかったのかい?」

25[#「25」は縦中横]

「ええ、それがなかったんですよ」
「探したらどこかにあるだろう。帰ってこっそり探して見な」
「そうねえ、それじゃ探してみよう」
 永い春の日の暮れかかった頃、お花は屋敷へ帰って行った。

 数日経ったある日のこと、駕籠に乗った伊丹屋のおきんが、義哉よしやの屋敷へ訪れて来た。
 その後やはり気分が悪く、今迄寝ていたということであった。
「これでございますの、手箱の鍵は」
 お錦はこう云って鍵を出した。
 義哉はそこで事情を話した。
「おや、マアさようでございましたか」お錦は意には介しなかった。元々気味の悪い老人から、偶然貰った手箱なのである。たいして惜しくも思わないのであった。それより彼女には義哉その人が、このもしくいとしくも思われるのであった。
 二人は尽きず話をした。
 伊丹屋の養女だということや、許嫁いいなづけが生地なしだということや、生活くらしが退屈だということや、
 ――お錦はそんなことを問わず語りに話した。
わたくし、近々伊丹屋の家を、出てしまうかもしれませんの」
「あなたが伊丹屋のお家を出て、一人住みでもなされたら、江戸中の若い男達は、相場を狂わせるでございましょうよ。……そうして貴女あなたは江戸中の女から、そねまれることでございましょうよ」
「お口の悪い何を仰有おっしゃるやら。……でもきっと貴郎様は、おさげすみなさるでございましょうね。そうしてもうもうお屋敷へなど、お寄せ付けなされはしますまいね」
「どう致しまして私など、こっちから日参いたします」
「まあ嬉しゅうございますこと、嘘にもそう云っていただけると、どんなに心強いことでしょう」
 塀外を金魚売が通って行った。そのふれ声が聞えてきた。それは初夏の訪れであった。
 後庭こうていには藤が咲きかけてい、池のみぎわ燕子花えんしかも、紫の蕾を破ろうとしていた。
 すると、その時縁側の方から、かすかな衣擦れの音がした。
「お花か※(感嘆符二つ、1-8-75)」と義哉は気不味きまずそうに云った。
「はい、お呼びかと存じまして」
「呼びはしない。向うへ行っておいで」
 お花の立去る気勢けはいがした。
 鍵を義哉へ預けたまま、お錦も間もなく帰って行った。
 その翌日の夕方であった。
 神田小川町の友蔵の家へ、お花はとつかわと入って行った。
「兄さんこれなのよ[#「兄さんこれなのよ」は底本では「兄さんれこれなのよ」]、手箱の鍵は」こう云ってお花は鍵を出した。
 お錦が義哉へ預けて行った、例の手箱の鍵であった。ちょっとの隙を窺って、それをお花が盗み出したのである。
「どれ」と云うと友蔵はお花の手から鍵を取った。それから立ち上って隣部屋へ行き、地袋じぶくろから手箱を取り出して来た。
 固唾を呑まざるを得なかった。何が箱から出るだろう? 高価な品物であろうかも知れぬ。それとも恐ろしい秘密だろうか?
 友蔵は鍵を錠へかった。と、カチリと音がして、箱の蓋がポンと開いた。
 一葉の地図が入れてあって、そうしてその他には何にも無かった。
「地図じゃないの、つまらない」
 お花はガッカリして声を上げた。

26[#「26」は縦中横]

「そうでねえ」と友蔵は云った。彼は岡っ引という商売柄、こういうものには興味があった。そうして恐らくこの地図には、秘密があろうと考えた。
「うむ、こいつあ甲州の地図だ。……ははあ、こいつが釜無川だな。……おおここに記号しるしがある」
 釜無川の川岸に朱で二重丸が入れてあった。
 で、友蔵は腕を組み、じっと何かを考え込んだ。

 さてその翌日の早朝であったが、甲州街道を足早に、甲府の方へ下る者があった。他ならぬ岡っ引の友蔵で、厳重に旅の装いをしていた。
 すると、その後から見え隠れに、一人の旅人が尾行けて行った。それを友蔵は知らないらしい。
 道中三日を費やして、友蔵は甲府の城下へ着いた。
 旅籠へ泊った友蔵は、両掛りょうがけからこっそり地図を出し、あらためて仔細に調べ出した。
 すると、隣室の間の襖が、あるかなしかに細目に開き、そこから鋭い眼が見覗みのぞいた。様子を窺っているのであった。
 翌日早朝友蔵は、釜無の方へ出かけて行った。忍野郷しのぶのごうを出外れるともう釜無の岸であった。土手に腰かけて一吹いっぷくした。それから四辺あたりを見廻したが、人の居るらしい気勢けはいもなかった。用意して来た鍬をひっさげ地図を見い見い歩いて行ったのは、川の岸寄りの中洲であった。
 彼は熱心に掘り出した。やがて何か鍬の先に、カチリとあたる音がした。どうやら小石ではないらしい。手を差入れて引き出して見た。土にまみれた小さい壺が、その指先につつまれていた
「なんだえこれは壺じゃアねえか。呆れもしねえ莫迦にしていやがる。小判の箱かと思ったに。天道様も聞こえませぬ。一体どおしてくれるんだい。旅費を使って江戸くんだりから、わざわざ甲府へ来たんじゃアねえか。巫山戯ふざけているなあ、え、本当に。……だが待てよ、そうも云えねえ。これに秘密があるのかもしれねえ。形は小さい壺ながら、忽然化けて千両箱となる。なあんて奇蹟が行なわれるかもしれねえ。よしよしともかく宿へ帰り、仔細に調べることにしよう」
 で、鍬を川へ投げ捨て、壺に着いている土を払うと、懐中へ納めて歩き出した。
 夕飯を食べ風呂へ入り、床を取らせると女中を退けた。
 それから壺を取り出した。ためつすがめつ調べたが、何の変った所もなかった。丈三寸、周囲三寸、掌に載る小壺であった。焼にも変った所がない。ただし厳重に蓋が冠せてあって、取ろうとしてもなかなか取れない。
「つまらねえなあ。虻蜂あぶはちとらずだ」
 小言を云いながら振って見たが、中には何にも入っていないと見え、コトリとも音はしなかった。
「一世一代の失敗かな。友蔵親分丸損かな。ほんとにほんとに莫迦にしていやがら」
 しかしどんなに悪口を云っても、それに答えるものさえない。自分自身が悪口を云い、自分自身が聞くばかりであった。
 夜は次第に更けまさり、家の内外ひっそりとした。
「考えていたって仕様がねえ。こんな晩は寝た方がいい。明日は早速ご出立だ。お花の畜生め覚えていやがれ。彼奴あいつさえあんな物を持って来なけれりゃあ、こんなへマは見ねえんだ。江戸へ帰ったらあいつを呼び付け、みっしり叱ってやらなけりゃならねえ」
 夜具を冠って寝てしまった。
 いわゆる丑満の時刻になった。
 と、あいふすまが開き、何かチロチロと入って来た。それは一匹の大いたちであって、さっ床間とこのまへ駈け上ると、壺と地図とを両手で抱え、それから後足で立ち上り、静かに隣部屋へ引返した。
 友蔵は勿論知らなかった。しかし翌日発見した。発見はしたが驚かなかった。「へん、間抜けな泥棒め、盗むものに事をかき、あんなつまらねえ物を盗みやがった」
 それで、却ってサバサバして、江戸をさして引返して行った。

27[#「27」は縦中横]

 ここは深川の木賃宿である。香具師やしの親方の「釜無の文」は、手下の銅助を向うに廻し、いい気持に喋舌しゃべっていた。傍に檻が置いてあり、中に大鼬が眠っていた。
 二人の前には壺と地図とが、大切そうに置いてあった。
 窓から夏の陽が射していて、喚気法の悪い部屋の中は、汗ばむ程に熱かった。
「……と、つまり、云うわけさ。ナーニ、ちょろりと横取りしたのさ。へん、えて物さえ使ったらどんな宝物だって盗まれるんだからな」
 得意そうに文は話し出した。
「ところで親方、その壺には、何が入っているんですえ?」こう不思議そうに銅助は訊いた。姦悪の相の持主で、文に負けない悪党らしかった。
「そいつア俺にも解らねえ」文は渋面を作ったが、「福の神だということだ。とにかくこいつを持っていると、いい目が出るということだ……これはな、伝説による時は、支那から渡ったものだそうな。甲府のお城にあったものさ。元禄げんろく時代の将軍家、館林たてばやし綱吉つなよし様が、ある時お手に入れられた所、間もなく江戸城お乗込み、将軍職に就かれたそうだ。そのお気に入りの柳沢侯[#「侯」は底本では「候」]、最初は微祿であられた所が、この壺を借りたその日から、トントン拍子に出世されたそうだ。……で、この壺はそれ以来、甲府勤番御支配頭の、保管にしょくしていたものだそうな。そうして甲府城の土蔵の奥に大切に仕舞しまって置かれたんだそうな。……そいつを「とっつあん」が盗み出したのよ」
「へえ「爺つあん」? 葉村はむらのかえ?」
「うん、そうさ、あの葉村のな。……今こそ玉乗たまのりの親方か何かで、真面目に暮らしているけれど、昔はどうして大悪党よ、俺ら以上の悪党だったのさ」
「だがおかしいね、その「爺つあん」が、どうして手に入れた宝壺を、釜無の岸へなんか埋めたんだろう?」
「そいつア俺にも解らねえ」
「それに本当にその壺が、そんなに大した福の神なら、あの葉村の「爺つあん」も、もっと出世していいはずだが、たいして出世もしねえようだね」
「うん、そう云やアその通りだが、そこにはいわくがあるんだろう。豚に真珠という格言もあらあ、せっかくの宝も持手が悪いと、ねっから役に立たねえものさ」
「今度は親方が手に入れたんだ、どうかマア旨く役立つといいが」
「役立つとも役立つとも。俺らきっと役立たせてみせる。伝説によるとこの壺は夜な夜な不思議をするそうだ」
「へえ、不思議をね? どんな不思議だろうな」銅助は怪訝な顔をした。
「そいつも今の所わからねえ。この福の神を手に入れてから、まだ一晩も寝て見ねえんだからな」
「そうすると今夜が楽しみですね。小判の雨でも降るかもしれねえ」
 宝壺! 宝壺! ほんとに怪異など起きだすだろうか?
 果然怪異は起こったのであった。
 深夜、壺は音楽を奏した。
 非常に微妙な音楽であった。
 同時に人々は亢奮こうふんした。いたちが檻を食い破り、主人の喉笛へ喰らい付いた。
 それは決して福の神ではなく、むしろ災難わざわいの神であった。
「釜無の文」は喰い殺された。
 次にこの壺を手に入れたのは、文の手下の銅助であった。
「うん、俺は大丈夫だ。きっと福の神にして見せる」
 で、それを枕元へ置き、安らかに眠ったことである。
 すると、音楽が聞こえてきた。彼はにわかに胸苦しくなり、無宙むちゅうで飛び起きて駈け廻った。
 そうして柱へ頭を打ちつけ、血を吐いて死んでしまった。
 損をしたのは木賃宿の亭主で、その月の宿賃をフイにした。そこで銅助の持物を一切バッタに売ることにした。
 そこで、その壺と付属地図とはある古道具屋の手に渡った。

 この間に世間は一変し、世は王政維新となり、そうして奠都てんとが行なわれた。
 江戸が東京と改名され、大名はいずれも華族となり、一世の豪傑勝安房守かつあわのかみも、伯爵の栄爵を授けられた。
 ところで義哉よしやはどうしたろう?
 義哉は清元の太夫たゆうとなった。
 ところでおきんはどうしたろう?
 お錦の身の上にも変化があった。まず許嫁いいなづけ伊太郎いたろうが、肺を病んで病没した。そうして大家伊丹屋は、維新の変動で没落した。
 そこで、お錦は自然の勢いで、小堀義哉の女房となった。二人にとってはこのことは、願ってもない幸いであった。勿論琴瑟きんしつ相和した。
 義哉の芸名は延太夫えんだゆうと云った。
 即ち清元延太夫きよもとえんだゆうである。もとが立派な旗本で、芸風に非常な気品があった。それが上流に愛されて、豊かな生活をすることが出来た。
 貴顕富豪きけんふごうに持てはやされ、引っ張り凧の有様であった。
 勝海舟は風流人で、茶屋の女将や相撲取や諸芸人を贔屓ひいきにした。
 そこで、延太夫の小堀義哉も、よく屋敷へ招かれた。

28[#「28」は縦中横]

 ある日延太夫えんだゆう常時いつものように、海舟の屋敷に招かれた。
「時に先生、不思議なことがあります」こう云うと延太夫は懐中から小さい壺を取り出した。「実は小石川の古道具屋で、手に入れたものでございますが、奇怪なことには深夜になると、音を発するのでございます。それが、しかも音楽なので。……」
「ほほう、そいつは不思議だな」こう云いながら海舟は、小さい壺を手にった。
「別に変った壺でもないが」
 すると座に居た尚古堂しょうこどうが「拝見」と云って受け取った。
 尚古堂は本姓を本居信久もとおりのぶひさ、当時一流の好事家で、海舟の屋敷へ出入りをしていた。
 じっと壺に見入ったが、
「や、これは仙人壺だ!」驚いたように声を上げた。
「仙人壺だって? 妙な名だな。古事来歴を話してくれ」海舟はこう云って微笑した。
「宋朝古渡りの素焼壺で、吉凶共にいちじるしいもの、容易ならぬ器でございます」尚古堂は気味悪そうに云った。夜な夜な音を発するのは、焼の加減でございまして、質の密度が夜気の変化で動揺するからでございます。これは不思議でございません。ちょうど茶釜が火に掛けられると、松風の音を立てるのと、全く同じでございます。……が、この壺には世にもあやしい、一つの伝説がまつわって居ります。よろしければお話し致しましょう」
「聞きたいものだ、話してくれ」海舟も延太夫も膝を進めた。
「では、お話し致しましょう」
 尚古堂は話し出した。

 戦国時代の物語である。
 甲州には武田家が威をふるっていた。その頃金兵衛という商人があった。いわゆる今日のブローカーであった。永禄えいろく四年の夏のことであったが、小諸こもろの町へ出ようとして、四阿あずま山の峠へ差しかかった。そうして計らずも道に迷った。と、木の陰に四五人の樵夫きこりが、何か大声でわめいていた。近寄って見ると彼らのうちに、一人の老人が雑っていた。襤褸ぼろを纏った乞食風ではあったが、風貌は高朗こうろうと気高かった。その老人がこんなことを云った。
「ここに小さな壺がある。が、普通の壺ではない。摩訶不思議まかふしぎの仙人壺だ。そうして俺は仙人だ、嘘だと思うなら見ているがいい。この壺の中へ飛び込んで見せる」
 それから老人は立ち上り、一じょうあまりも飛び上った。と、体が細まりくびれ、煙のように朦朧となり、やがてあたかも尾を引くように、壺の中に入って行った。
「見事々々!」と樵夫どもは、手を叩いて喝采したが、物慾の少ない彼らだったので、そのままそこを立ち去った。
 よろこんだのは金兵衛で「こいつを香具師やしに売ってやろう。うん、一釜ひとかま起こせるかもしれねえ」壺を抱えて山を下った。
 さてその晩旅籠はたごへ泊まると、早速怪奇が行なわれた。壺が音楽を奏したのである。金兵衛はとうとう発狂した。旅籠の主人は仰天し、この壺を役人へ手渡した。それを聞いたのが勝頼かつよりで「面白い壺だ、持って来るがいい」
 で、その壺は勝頼の手で大事に保管されることになった。大豪たいごうの武田勝頼には、仙人壺もたたらなかったらしい。いやいや決してそうではなかった。壺は大いに祟ったのである。ある夜壺は音楽を奏した。これが勝頼にはこんなように聞こえた。
天目山てんもくざんへ埋めろ! 天目山へ埋めろ!」
 さすがの勝頼も気味悪くなり、侍臣じしんをして天目山へ埋めさせた。
 しかし祟りはそればかりではなかった。
 天正てんしょう十年三月における、武田と織田との合戦で、勝頼は散々に敗北した。で止むを得ずわずかの部下と共に天目山へ立籠った。すると、にわかに鳴動が起こり、壺が地中から舞い上り、同時に天地は晦冥かいめいとなった。
 勝頼はその間に切腹し、全く武田家は亡びてしまった。
「と、こういう伝説でございますので。……その後手に入れた綱吉つなよし公が、将軍職になりましたし、柳沢侯が出世しましたので、幸福の象徴となりましたが、しかし将軍綱吉侯は――大きな声では云えませんが、奥方の寝室ねやの中で暗殺され、つづいて柳沢侯は失脚しました。やはりこの壺はそういう意味から云うと、悪運の壺なのでございます」[#「でございます」」は底本では「でございます」]

29[#「29」は縦中横]

 家へ帰って来た延太夫は、早速女房のお錦を呼んだ。
 そうして勝家かつけでの話しをした。
「恐ろしい壺でございますことね。で、その壺はどうなさいました」
「伯爵様がおこわしなされた。別に変事も起らなかった。ところで地図はどうしたえ?」
「壺に附いていた地図ですね。……ええここにございますわ」お錦は手文庫から取り出した。
「こんな物は焼いた方がいい」
 延太夫は火をつけた。すると、火熱に暖められた地図のおもて文字もんじが浮かんだ。
 そこで急いで火を吹き消した。
 こう紙面には記されてあった。
紫錦しきんよ、わしは「とっつあん」だ。これはお前への遺言だ。そうしてお前はわしの子だ。わしの本名は藤九郎だ。その頃わしは悪党だった。わしは宝壺を盗み出した。だが、ちっとも幸福ではなかった。その後釜無かまなしの中洲へ埋めた。そこで改めてお前へ云う、お前はわしの実の子だと。女房お半の産んだ子だと。その頃わしは諏訪にいた。伊丹屋の借家に住んでいた。その時伊丹屋でも女の子を産んだ。そこで俺は考えた。ひとつ子供を取り代えてやろうと。これは親の愛からだ。お前がわしの子である以上は、一生出世はしないだろう。しかし伊丹屋の子となったら、どんな栄華にでも耽ることが出来る。そこで、わしは取り代えた。勿論伊丹屋では気が付かず、お染と名を付けて寵愛した。そうして本当の伊丹屋の子は、わしらの手で育てようとした。ところが二日目に死んでしまった。さて万事旨く行った。ところが神様の罰があたり、わし迂闊うっかりその秘密を「釜無かまなしぶん」めに話してしまった。文は宝壺をよこせと云った。だがわしは承知しなかった。そこで文めは仇をした。お前――即ち伊丹屋のお染を、いたちを使って盗み出し、そうしてお前を女太夫に仕込み、そうしてわしから身を隠した。わしはどんなに探したろう。だが容易に目付めつからなかった。長い年月が過ぎ去った。と、偶然お前に会った。するとどうだろうわしの子は、また伊丹屋の養女となって立派に暮らしているではないか。わしはすっかり満足した。もうわしは死んでもいい。どうぞ立派に暮らしておくれ。……さて例の宝壺だが、これは吉凶きっきょう両面の壺だ。悪人が持てばたたりがあるが、だが善人が持つ時は、福徳円満を得るそうだ。可愛い可愛いわしの娘よ、どうぞ心を綺麗に持って、よい暮らしをしておくれ。そうして地図を手頼たよりにして、釜無川の中洲へ行き、宝壺を掘り出すがいい」
 読んでしまうと二人の者は、互に顔を見合わせた。意外な事実に驚いたのである。
「それでは気味の悪かったお爺さんは、わたしの実の親だったのかねえ?」
 お錦の感慨は深かった。
「そのお父さんはどうしたろう?」
 そのお父さんはとうの昔に、病気でこの世を去っていた。
 そうして現在の二人にとっては、宝壺などは不必要であった。
 なぜというに今の二人は、充分幸福だからである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻一」未知谷
   1992(平成4)年11月20日初版発行
初出:「太陽」博文館
   1925(大正14)年7月〜12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
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