生物が生きているというしるしは、それが自分の中の古いもの、疲れたものを間断なく棄てて、日に新たに日に日に新たに、その生きている汁液をめぐらしているというところにある。
 出版とは、民族の思想を、常に新たに、世界の進みゆく情況に応じて、清新の気を民族自身にあたえる機関である。
 文字がまだなかった時代から、文字が出来、書くことを知り、それが活字となることができたとき、いかに人間の社会が変ったか。そして、更に言葉が、電気或いは真空管で送られはじめて、いかに多くの未来が人間の前にまっているか。
 この進展の歴史の一環の中に、出版は巨大な世界が構造をもって、人類の文化発展の血管として、はかりしれない役割をもっているのである。それがどんな小さな街の店であれ、図書館であれ、読書団体であれ、それなくしては一日も民族が、思想を新しくすることができない毛細管、血管として、一つ一つ大切な一部署である。
 しかもこの毛細管の先端こそが、あらゆる内外の病原菌に対決する最重要部であることを自覚さるべきである。ちょうど血液のように、それは老廃したものをそこに止めてはならない。
 過去の文化遺産も常に新しい血清によって鍛えられて、より高い文化抵抗素として、書架の上に並ばなければならない。
 かくして出版の企画は、実に容易ならざる責任と、それにともなう苦心を要することとなるのである。
 勿論販売である限り利潤を追及せざるを得ないであろう。しかし、大きな眼で見るならば、読書力が減るような冒険な企画は、正に注意さるべきである。ちょうど金の卵がほしくて、それを生む鶏の腹の中の卵を取り出して、鶏を殺してしまう愚をくりかえしてはならない。余り感覚を刺撃するようなものばかり出版界が取扱うとき、もし万一大衆が、文字から離れて直接感覚の世界にのみ向えば、出版界は自ら自らを殺す矛盾に立至るであろう。
 大きな定石は、出版界の企画は「常に、真実によりそえ」ということである。どんなに一年や二年誤魔化してみても、「真実」、いいかえれば「論理と現実」を十年と誤魔化すことはできない。ヒットラーを見よ、ムッソリーニを見よ。
 もっと大きく見れば一六〇〇年代のイギリスの出版界と、ローマの出版界を見よ。前者においてベーコンに、ホッブスに、ヒュームに向って出版界が打立てた自由と、後者においてブルーノー、ガリレオにあたえた圧迫に出版界が屈したことによって、国運がいかに異なってきたかを思わなければならない。この差が、今眼前に、その子孫に、どんなに苦しみをあたえているかを見るべきである。
 あんなに盛んであったローマが、どうして一見物人を引きつける都と化しているかを思うとき、子を持つ日本人は、今、深く思いをここによせるべきである。
 あの世界の文化が立上ったフランスの『百科辞典』に向って出版界の資本が立向ったあの輝かしい記録を、今私達はまぶしい思いをもって思いかえす。
 勿論、資材、印刷の条件は、敗戦のいたでの中に、未だ傷痕をいやしてはいない。しかし、問題は、民族のこころの中にある古い黒い血潮が、新しいものをフツフツとして取入れて、鮮かなるものに新しく再成することである。昭和のルネッサンスは、この現実の事実からこそ生まれるのである。
 一つ一つの店頭に立つ若い人々、図書館人が、遠い波のうねりのように、中央に向ってその声を送ることで、また中央の血も新たになるのである。
 私は、この、日に新たなる気迫が、この『出版ニュース』の連なりの中に新たなる年と共にほとばしり出ることを希うものである。

底本:「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」てんびん社
   1972(昭和47)年11月20日第1刷発行
   1976(昭和51)年3月20日第2刷発行
初出:「出版ニュース」
   1950(昭和25)年1月
入力:鈴木厚司
校正:宮元淳一
2005年6月5日作成
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