北支の戦線から一年半ぶりで故郷の村へ帰つて来た黒岩万五は、砲兵上等兵の軍服を思ひきりよく脱いで、素ツ裸に浅黄の腹掛けといふ昔どほりの恰好になつた。今日だけは麦藁帽が見つからず、しかたがない、当節誰でもがかぶつてゐる戦闘帽の星をもぎつたのをきちんと頭にのせて出た。
 なにはともあれ、立花伯爵の山荘へ挨拶に行かねばならぬ。裏の木戸は押せば開く。勝手口には顔見知りの年寄りの女中が、朝の食事の支度をしてゐる。声をかけるのが面倒なので、そのまゝのこのこと庭の方へ廻つてみる。
 と、丁度その時、ド、ド、ド、ドツと、地ひびきがして、何処かの崖が崩れる音がした。硝子戸がしばらくふるへた。
「なんでせう? また浅間の爆発かしら?」
 と、奥から露台の方へ、手鏡をもつたまゝ飛び出して来た若い女性を、黒岩万五は、がつしりと、その鋭い視線で受けとめた。
「わしです。石屋の万五です。帰つて参りました」
 息を呑んだまゝ立ちすくんでゐる彼女の、朝の化粧の清々すが/″\しい瞼がまづこれに応へた。
「まあ、ちつとも変らないで……。でも、よかつたわ、ほんとに……」
「慰問袋を二度もいただいたに……一度しかお礼を出しませんで……」
「あら、四度よ、たしか……そいぢや、あとの二つはどつかへ紛れたんだわ」
「そいつはどうも……」
 と、彼は頭へ手をのせ、改まつて、
「旦那はお変りございませんか」
 旦那といふ言葉にいくぶんこだはるやうに、彼女は淋しく微笑んだ。
「伯爵は昨日急用がおできになつて、東京へお帰りになつたわ。えゝ、とてもお元気……。去年はあなたがゐないからつてお庭いぢりもなさらなかつたし……。つい、こないだよ、二人であなたのお噂したのは……」
 この伯爵の秘書、斎木もと子なる女性について、黒岩万五は元来詳しいことは知らなかつた。蔭ではいろいろなことを云ふものがある。伯爵夫人といふ人の姿がなぜこの別荘に現はれないかと詮議したり、伯爵夫人はちやんとゐることはゐるのだが、しかし、ある事情のため、実家に帰つてゐるのだと、まことしやかに伝へるものがある。黒岩万五は、だから、伯爵の女秘書はいくぶん伯爵夫人に代るものであつて差支ないと信じてゐるのである。
 ところで彼女は、実に、物好きなをんなである。それは、慰問袋に添へてあつた手紙が、たとへ純粋な銃後女性の感謝と激励の文章であるにもせよ、すこし長すぎはせぬかと思はれた。
 彼女は、今、また、その手紙を書いた時のやうな熱心さで、露台の手摺に寄りかゝつてゐる。いかにも、彼女は、黒岩万五の全身から生々しい戦さの臭ひを嗅がうとしてゐるのである。

「あなたは戦争するために生れて来たやうな人だもの、どんな凄い手柄を立てたか、聞きたいわ。第一、辛いなんて思つたことないでせう、あつちへ行つて……」
「さうでもありませんね」
 と、彼はわざと云ひ渋つて、
「腹がすいても食ふものがないんですからね、時にや……」
「あゝ、それや、いくらあんたでも辛いわ。そいぢや、怖いと思つたことある?」
 彼女は、質問の手をゆるめない。
 が、黒岩万五は、実を云ふと、あんまり戦争の話はしたくないのである。
 なぜかと云へば、彼には、戦争といふもののどういふ部分が人に話をして面白いのかわからない。人からよくいろんなことを訊かれるが、大体、それらの人は、既にほかから聞いたことを、もう一度たしかめようといふはらでかゝつてゐる。甚だしいのになると自分はこんなに情報を集めてゐるぞといふことを吹聴するのさへある。新聞も雑誌も見ない彼などはまつたく眼を円くするよりほかはないのである。
 斎木素子の好奇心はそれとはおよそ別なものであるけれども、この女が自分を豪傑扱ひにする癖をかねがねくすぐつたく思つてゐるので、彼はいゝ加減に話を外らした。
「支那兵も強いのになると強いからね」
「へえ、あんたがさう思ふの? ぢや、ほんとなんだわ。さういふことで、なんかあんたの眼で見た話を聞かしてよ。今日はゆつくりしてつてもいゝんでせう? いまお茶いれるわ。腰かけない、ちよつと……」
「いや、別に話つていふやうな話もないでね。まただいぶ土鼠もぐらが出るね」
 と、彼はそのへんの土鼠の塚を地下足袋の底で踏みつぶして歩いた。
 黒岩万五は、とにかく、本業の石屋では暇すぎるところから、夏場は、日傭稼ぎをしたり、山女魚やまめをとつて別荘の客に売つたりして暮してゐるのだが、もともと、生きものを捕へることにかけては、この土地で彼の右に出るものはなく、その上、嘘みたいな力持ちで、一昨年の冬など、三十五貫もある大熊を鉈一挺で仕止め、そいつを独りで担いで来たといふ伝説的な人物なのである。
 素子は朝の身じまひをまだすつかり終つてゐなかつたのだけれども、この珍客をすぐ帰してしまふのは惜しい気がした。かうしてぢつとその顔やからだつきを見てゐるだけでも、なにかこせ/\した感情が吹つ飛ばされる思ひで、何時までも見飽きることがないのである。
「伯爵がお帰りになつたら、きつとまた毎日あなたにご用があるわ。そこの谷へ降りる道を、もつと楽につけ換へたいつておつしやつてたから……」
「あゝ、さうかね、わけやありませんよ。さつきどつかで崖が崩れたやうだが、ちよつくら見て来べえ」
「さつきの音は、それだつたの? 危いこと。……人死にでもあつたら、いやねえ」
 素子はうつかりさう云つた。
「敵の弾丸たまぢや死なずに、生れた土地の下敷になりや、世話はねえですよ」
 彼はもう斜面の方に向つて歩きだしてゐた。
 その言葉の調子は、自嘲的といふにはあまりに朗かであつた。

 黒岩万五は、以前からさうであるが、何処にゐるよりも、「山」のなかを歩き廻るのが性に合つてゐた。彼が「山」といふのは、人里以外のことである。故郷にあつて故郷の人々と親しめない彼は、自然、新しく開けた「山」の方に足が向く。立花伯爵の山荘がまづ第一それであつた。
 彼は二十町歩と称せられる伯爵の所有地の隅から隅までを知つてゐる。
 高崎から北西へ北西へと烏川の渓谷を深くはひつて行くと、所謂「浅間高原」へぬける峠の一つが、白雲の下に明るい山肌を見せてゐる。そこいらで、県道がつきて、里道が谷々の部落をつなぐ、その方向におかまひなく、新しい自動車道が一筋、山腹を縫つて「たかだひら」と呼ばれる台地に通じたのが、今から五年前である。
 鷹ノ巣平は今日の「泰平郷たいへいがう」で、伯爵は表面に名前は出さないけれども、その所有地の大部をこの分譲地のなかに含めて文華土地会社といふのに経営を委せてあるのである。従つて、伯爵自身の山荘も極く最近に建てたもので、分譲地の区域外にありながら十分その宣伝には役立つてゐるわけである。
 赤松、楢、朴などの大木がこの部分だけにはまだ残つてゐる。建物も百坪近いどつしりした猟小屋風の構へで、ほかの簡易別荘とは全然その類を異にしてゐた。
 かういふ環境のなかで、黒岩万五は本能的とも云へる鋭さで、都会人の嗜好を嗅ぎ分けてゐたのである。
 彼は急な斜面を谷へ降り、崖崩れの場所をやつと発見した。
 伯爵お気に入りの「炭焼の小径」が、そのために塞がつて通れなくなつてゐた。彼は、ふと崖の大きくゑぐれてゐる部分を見あげた。と、その崖のちやうど突端とつぱなのところに、一人の女が羊歯の葉を掻き分けながら、下をのぞき込んでゐる姿がちらと眼についた。それは、片手に木鋏を持ち、片手にいく本かの山百合を提げた斎木素子であつた。
 上からはまつたくわからないかも知れないけれども、下から見ると、そのへんは大きな岩がひとつ飛び出た形になつてゐて、草の根がそれを宙に支へてゐるとしか思へぬので、黒岩万五は、大きな声で呶鳴つた。
「あツ、そこは危いツ」
 すると、素子の張りのある声が応へた。
「そこへは、どこから行けるの?」
「ここへ来ても駄目です。道が通れません」
「あんた、なにしてるの、そこで?」
「………」
 彼は返事をしない。今度は素子の方で、
「危いわよ。気をおつけなさい。ちよつと、今、電報が来たわ。伯爵は明日あす三時に高崎へお着きになるの。あたし、お迎ひに行くけれど、二人お客さまをお連れになるんですつて……」
 万五は斜面を上つて来る様子である。彼女はそこで喋りつゞける。
「どういふお客さまかわからないけど、また急に山女魚やまめをなんておつしやるかも知れないから……」
 黒岩万五はもうそこに来てゐる。そして、いきなり彼女を二三間引つ込ませておいて、さて、自分は彼女のゐた場所で、ドスンと足を踏み鳴らした。
 物凄い勢ひでそのへん一坪ばかりの地盤がその足もとから崩れ落ちた。

「下の道を早速なほさにやなりませんから……。どうもこのへんは水にたゝかれるでねえ……」
 と、黒岩万五は、U字形に曲つた谷川の岸の、年とともに浸蝕されて行く現象を説明したつもりである。
 彼はもう一軒挨拶に行かなければならない別荘があつた。そこで、素子には、明日山女魚が要るなら今夜一網打つことにしようと云ひ、暇を告げた。
 分譲地「泰平郷」の入口まで来ると、建設事務所にもちよつと顔を出しておかうと思つた。主任の粕谷が村の青年小峯たかしと話をしてゐる。
「やあ、黒岩君、ちやうどいゝところへ来てくれた。今、小峯君の話を聞いて、僕はこの村の識者が何を考へてゐるのか、不思議でたまらんのだ。いゝかね、今度、われわれの方で、水道の管理と道路修繕のために常傭の人夫を二十名ばかりおかうと思つて、この春から勧誘にかゝつてるんだ。ところが、個人的に話が纏りかけると、どつかからそいつをぶち毀しにかゝる。さういふ策動の張本が、この小峯君あたりぢやあるまいかとにらんだものだから、今日実はちよつと来てもらつたやうなわけさ。こんな話は駐在に知れても面白くないからね。県の方ぢやむろん、問題を大きくとりあげるだらうと思ふ。泰平郷の発展は、一営利会社の事業拡張とは全然意味が違ふんだからねえ」
 黒岩万五は、かねて、この小峯喬とは反りが合はなかつた。万五よりも二つ三つ年下ではあるが、青年学校へも熱心に通ひ、むづかしい講義録を続けて読み、愛郷精神といふ言葉を口にし、第一何処で稽古をしたのか、演説がうまかつた。青年団の集りなどで、彼が常に振ふところの雄弁は、年寄りにも若いものにも評判がよく、それが単に口先だけのことなら一般の信用もさほどつくまいと思はれるのに、彼は一方、篤農青年として、全村の模範たるべき実際の働きを示してゐるのである。
 この小峯喬はどういふものか黒岩万五を目の敵にした。
「万さん、お前はどつち側の人間かおれにやわからんけえ、この話にや口を出さんでくれ」
「さうか、おれもなんのことかわからんけえ、口は出すめえ。だが、おめえつらみたら、これだけは云つとくがよ、立花さんなら五十銭で売れる菜をよ、わざわざ中ノ条まで売りに出て、いゝか、十五銭にしかならんて言つとる娘つ子に、おれや昨日きのふ会つたぞ」
「セツ子のことなら、お前の世話にやならんよ。あいつは別荘の残飯を食はんでもえゝんだから……」
「小峯君は何か誤解しとると思ふがね。われわれは決して農村を脅かしはせん」
 粕谷は話を根本へ引き戻さうとするのだが、小峯喬は、もはや、この相手と議論をしてもはじまらぬといふ風に、
「別段組織的に妨害をしてるわけぢやありませんから、駐在へでも県の方へでも話したらえゝだ。わしはたゞ、友人たちに、村の将来と自分ら青年の義務について意見を述べただけだで。村には耕すべき土地がまだ沢山残つとるだ。目前の利益に惑はされ、都会人士の享楽設備のために、貴重な労働力を提供することは、われわれ農村青年の自殺的行為だでな」

 小峯喬が半分は黒岩万五に喰つてかゝるやうな調子で、都会排撃論をひとくさりやり終ると、事務所主任の粕谷は、二人の方へ代る代る正面を切つて、
「かういふ議論がどうして今頃通用するのか、僕には、さつぱりわからんのぢや。共存共栄といふのは近頃はやりの言葉ぢやないか。面白いのは、君、この泰平郷に山の家を建てられた方々だよ。知つての通り、決してブルジヨアぢやない。多少の恒産を持つてをられる方もあるが、まつたくさうでない月々の俸給だけで暮しを立てゝをられる方々の方がはるかに多いんだ。われわれが最初の目標をそこにおいた理由はだ、これこそわが国に於ける厚生運動の第一歩だといふ信念を得たからだ。いゝかね、都会に於ける児童と婦人の健康状態をしらべて見給へ。死亡率なんていふものはまだ真実の半分しか語つてゐない。恐ろしいのはたゞ死んでゐないといふだけで、ふらふら飯を食つてゐる人間が如何に多いかといふことだ」
 と、自棄やけくそみたいに喋りまくるのを、万五はにやりにやり聞いてゐるうちに、ふと、この粕谷といふ男が小峯喬を説得できないわけがどこにあるかを考へた。
 万五はこゝで引き留められてはかなはぬと思ひ、
「まあ、その話は、たかさ、ゆつくりしようよ。おれもいくらか世間を見て来たでなあ」
 さう云ひながら、起ち上つた。
「さうよ、万さん、お前もどえらい経験を積んで来ただから、以前と言ふことが違はにや、はや」
 と、あべこべに、年下のものに言ふ口調である。
 それはさうと、万五には腑に落ちぬことがひとつある。
 この小峯喬は、自分が応召する日、先頭に立つて旗を振り、軍歌を殆ど一人で最後の句まで歌ひ、額を燃やして万歳を唱へてくれた。平生あれほど仲が悪く、互に友情らしいものを示し合つたことは一度もない間柄なのに、ひと度国家のために剣を取つて立つた自分に対しては、ちやんとあゝいふことができるのである。ところが、今度帰還の日にはどうだつたかといふと、彼は型の如く出迎へに来てはゐたが、こつちと視線の合ふことを絶えず避けてゐた。この違ひはいつたいなんであるか?
 彼は事務所を出て、自転車に飛び乗つた。泰平郷の中央大通りを北へぐんぐん走つた。
 日用品その他の売店は、この大通りの、事務所からあまり離れてゐないところにかたまつてゐて、その他の売店敷地はまだ予約の札がところどころに立つてゐるきりである。
 なんと云つても、事務所の管理下にある購買組合が一番重要なマーケツトである。が、これもちよつとのぞいてみればわかるが、この特殊な「平民的」避暑地の需要を辛うじて満たしてゐる程度で、都会の贅沢面などは、少くともこゝに陳列された商品のうへには皆目現はれてゐないのである。
 黒岩万五は、やがて大通りを右に折れて、トタン屋根を青く塗つた、建坪二十坪に足りない一棟のバンガロウの門の中へ、するすると自転車を乗り入れた。

「よう、石屋さんぢやないか。出征してるつて話だつたが、何時帰つたの?」
 玄関の上り口で鎌を研いでゐたその家の主人が声をかけた。
「はあ、つい二、三日前帰還になりまして……」
 と、万五は姿勢を正した。
 この別荘は泰平郷第一期建設計画に属する十年月賦土地附家屋で、東京某製粉会社の社員、船山貞一氏の所有にかゝるものだが、爾来五年間毎夏この別荘へ来て暮してゐるのは、船山氏一家ではなくて、船山氏の妹夫婦、即ち、五弓須磨生ごきゆうすまを女史とその夫君童話作家五弓和久朗氏である。
 どういふわけで、さういふことになつてゐるのか、事情は知らぬけれども、黒岩万五は抑もこの別荘の出来はじめから、五弓夫妻には特別に贔屓にされ、なんでも石屋さん石屋さんで、しまひには、用がなくても顔を出さねばならぬやうな義理合ひになつてしまつた。
「おい、石屋さんが戦争から帰つて来たよ。名誉の凱旋だ。ビールだ。ビールだ」
 五弓氏が奥へ呶鳴ると、須磨生夫人は見事な体格を簡単な洋服に包んで、手を拭きふき現はれる。
「まあ、まあ、どうしてでせう? どうして、あたしたちは今日まで知らなかつたんでせう? うれしいわね、でも……。まあ、お庭をちよつと見てちやうだいよ。あんたに教はつたとほり、この人が毎朝、鎌で草を刈つてくれます。綺麗に揃つたでせう。そのうちに山女魚釣りをはじめるんですつて……。明日、一緒に連れてつてちやうだいな。明日ぢや急で都合がわるい?」
 万五は、明日伯爵が帰つて来ることを話した。五弓氏は、すると、
「立花さんへは、やつぱり出入してるの? あの大将は愉快だね。去年、上野からずつと一緒でね。相当の年らしいが、いふことはなかなか元気だよ。この土地には非常に愛着をもつてゐる。それにあゝいふ人つていふもんは、つい僕たちが家来のやうに見えるらしいね」
 細君は、それにかぶせて、
「そんなでもないでせう。あたしは会つたことないけど、腰が低いつていふ評判よ。女のひとにはなかなかお愛想がいゝんですつてね」
 万五は、かういふ種類の噂を、どこで聴いても、別段新しい興味が伯爵の上に加はるでもなく、寧ろ、噂するものと、されるものとの間にある、判然とした区別が彼には面白いくらゐのものであつた。
「あゝ石屋さんにさう云つて直接訊いてもらつたらどうだい」
 五弓氏が細君を振り返つた。
「さうね。郵便局でちらツと見た時は、たしかにさうぢやないかと思つたけど、ねえ、石屋さん、あの別荘にゐる斎木とかつていふ女のひとね、秘書だかなんだか知らないけど……。あのひとの姉さんで、新潟の田舎へかたづいてるひとないかどうか、序に訊いといてよ。さうだつたらとても不思議な因縁があるんだから……」
 五弓女史は、ひとりでもうその結果を楽しんでゐる風であつた。

「はあ、はあ」
 と、黒岩万五はうはの空で返事をしてゐる。たゞ自分に興味がないといふだけでなく、一般に問題の重要さをちやんと呑み込み、気まぐれを本気に取つて馬鹿を見るやうなことは決してしない。
「その新潟へ嫁づいた姉さんていふのが、つまり、君のクラスメートで、その相手とのロマンスをすつかり知つてるわけだな。ふむ、そんなに似てるつてね。やつぱり美人なんだね」
 五弓氏は註釈を加へるが、それも万五には全然不必要と見えて、
「すると、さしあたり、ご用はありませんね。鎌はまたそのうちに研ぎに来ます。山女魚釣りはほかでちつとばかり年期をいれるだねえ。この川はいきなりぢや、てんで食ひませんから……」
「ふむ、そんなもんか。自給自足は言ふべくして行ひ難いな」
 長大息をする夫君を慰めるやうに、
「このへんのお百姓さんたちは、みんなお米を買つて食べるんですつて……。それも真つ白なのをよ。はじめ、うちで七分搗をつて云つたら、変な顔をされたわ」
 と、夫人が云ふ。
「あゝ、さう云へば、今年はあの娘、野菜を持つて来んね。ほら、とても声の可愛い……十六七の……」
「あゝ、セツちやんとかつていふですよ」
「購買がやかましいでね。勝手に別荘へ売りに歩くことはできんやうになつたですよ。わしや、それや無理だつて云ふだ。購買は、あんた、勝手に値をきめて、それで引き取るだからね。村の方ぢや相手にせんですよ。今年なんぞ、野菜を作つたのは、みなこぼしとるでね」
 万五は小峯セツ子の名前が出たので、すこし照れた。小峯セツ子は小峯喬の従妹にあたる関係上、あまり親しく口を利くこともできないのだけれども、万五はかねてこの少女を憎からず思つてゐた。
 彼はこのへんをぶらぶら歩いてゐると、何処かで小峯セツ子に出くはすだらうといふ期待に胸がをどるのである。
 分譲地のはづれを谷に沿つて旧道の方へさがつて来ると、今は殆ど使つてゐない水車小屋がある。以前は、この附近が村の子供の溜り場で、ひたひたと岸にあふれる水も、昔ほど澄んでゐないけれども、万五は、なにか少年の日の夢のやうなものを、この原始的な風景のなかに感じて、いつかペダルを踏む足の運びがゆるやかになる。
 彼はまたふと、一年半の戦場の生活を、遠い昔のことのやうに思ひ出す。およそ人間が作りだす世の中のすべての事件といふものをあそこでは実際に作り出して来たといふ気がする。さう思ふと、この小さな故郷の村の出来事がいかにも他愛なく、まゝごとじみてみえる。
 ところで、これから自分の小屋に帰つて昼飯の用意にかゝる気がなんとしてもせぬのだが……。
「こらツ! 気合ひをいれろツ」
 と、分隊長の声色を真似て、彼は、自分の尻をどやしつけた。
 彼にとつて、たゞ、これからの朝夕の楽しみは、別荘の人々を相手に暮すことである。村の誰彼は黒岩万五にとつて、実は手応へがないのである。
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「いや、そんなことはございません。非常に結構なお話でございました。予備知識のないものにも、あれなら十分呑み込めましたでせう。来てゐる人たちは、実に熱心に聴いてをりましたねえ。わかるからでせう。しかし、どうも、あの集まり方は決して満足とは云へないぞ。宣伝がまるで利いてゐないやうだね」
 立花伯爵は、聴衆の去つた「公会堂」の控室で、講演者大沼博士と、会の主催者を代表する粕谷とを前において、同時に一方にはお礼を、一方には小言を云つた。
 泰平郷建設事務所の多彩なプログラムのなかに、毎夏、学界の権威を招聘して講演を聴くといふ項目があるので、今年も国際問題と生物学或は考古学といふ予定を立てた。さういふ方面の相談には、顧問の名に於て時には伯爵自身が進んで乗り出すこともある。それぞれ人選が終ると、さて事務所から交渉に行くのだが、××帝大名誉教授大沼博士には、偶然ある会合で顔を合せたので、伯爵は早速「かういふわけだが」と云つて、単刀直入に話を切り出し、「お宿は粗末ながら、わたくしどもの小屋に部屋がございますから……」とまで云つてしまつた。
 大沼博士はもちろん植物学界の重鎮であるが、旅行の好きなことでは、よく若いものから笑はれるくらゐで、誰が何処から呼ばうと、旅費さへ心配のないやうにしてあれば、きつとお神輿をあげるのである。
 ところで、立花伯爵のこの招請に対して、博士は珍しく、たつたひとつ条件をつけた。
「やはり実地の話がいゝと思ひますから。それには私も年を取つたし、一人助手を連れて行きたいと思ふ。若い理学士で分布学を専門にやつてる男です」
 今日の講演の大体のプランと、必要な標本の採集は、助手、幾島暁太郎の機敏なお膳立になつたものである。
 控室には、ほかに、伯爵の秘書斎木素子も来てゐた。それから、博士に質問があると云つて残つてゐる聴衆の婦人が一人、これはある蘭科の植物の和名を訊きたいといふので、即座に解答が与へられた。
「たしかに宣伝が行きわたつてをりません。それと申しますのが、たゞポスタアを見ましただけでは、なんか非常に専門的な、むづかしいお話のやうにとれますんで、これをひとつ、なんとか……」
 粕谷がしきりに弁解をする。
「日曜日にやつたといふことが失敗ぢやないでせうか。なるほど、各ご家庭で、ご主人はおいでになると思ひますが、それだけになほ……」
 事務員の一人が意見を述べる。
「だいたい、かういふ時勢に、植物の知識でもないといふんぢやないかね。しかし、まあ、どんな割合か知らんが、今日はあれで、子供もいれゝば五十人もゐましたらうか、わたしは、大したもんだと思ふ。さうこの土地に限つてアマチユアが集まつてゐる道理もなし……。なあ幾島君。……」
 と、博士は云つて、あとは、ワツハハハ、の例の豪傑笑ひである。
 幾島暁太郎は講演用の参考資料をしまひながら、つつましく博士の意見に同意の微笑を送つた。
 まだどことなく学生の殻を背負つてゐる若さではあるが、頭脳の鍛錬によつて挙止おのづから重みを加へたといふやうなところがある。油ツ気のない髪をわりに几帳面に分けて、眉の太い細面の顔がからだ全体を凜々しく引締めてゐるが、それにも拘らず、最初の一瞥で人の心を暗くするのは、その右手が殆ど自由にならないことである。中学時代に器械体操で怪我をしたのがもとであつた。

 素子は、この間から幾島の右手が不自由なのに気がついてゐたから、なにくれとなく進んで手伝ふやうにしてゐた。
「慣れてますから、はふつといて下さい」
 と、彼は云ひ云ひした。しかし、今日のやうな場合は、特に、彼女は黙つてみてゐるわけにはいかない。新しく採集した標本の草の葉は野の香りをそのまゝあたりへ撒きちらした。
「題の選び方で、もう少し人が集まつたかも知れませんね……」
 と、幾島暁太郎は多少自分にも責任があるやうな気がして、さう云つた。すると、突然、大沼博士は、
「どうだらうね、もう一回、続けてやつてみたら? あと二三日伯爵の別荘へ泊めていただいてさ、是非もう一度――或は二回連続の話でもいゝから、やつてみたいね? その方が聴く方にとつても身になるしね。どうでせう、伯爵、若し、大変ご迷惑でなかつたら、さうさせていただきませうか? 数はどうでもよろしい。聴衆の質が大変気に入りました。題の選び方はなるほど、もつと考へる余地がある。今日の『山地植物帯の景観』は総論としてさ、特に時局的な意味を含めて、今度は『泰平郷附近の自生食用植物について』なんていふ題はどうかね」
 と、もうその気でゐるらしい。
「先生、しかし、それは考へもんですね。さういふ話は、寧ろこつちの土地の人に訊きたいくらゐぢやありませんか」
 幾島がさう云ふと、大沼博士は一言もないといふ風に首をちゞめて、
「ぢや、すべて君に委せよう。今日はまだ早いね。少し採集をして歩くか? ドーランは持つて来てるね?」
「小さい方だけ、はあ」
 と、幾島は、すぐに支度にかゝる。
「道案内はいりませんか?」
 伯爵が訊ねた。
「いや、いや、さう深入りはしません。その谷がちよつと面白さうだから、ぶらぶら……」
「崖崩れのあとが、まだそのまゝになつてをりますでせう。お危うございますわ」
 と、素子がその時、注意した。
 二人の植物学者が、実に気軽に出掛けて行つたあと、伯爵は、素子を連れて別荘へ帰つて来た。
「大沼先生は、なるほどぢつとしてゐないね。こゝがひどく気に入つたらしいが、どうも珍しい植物のためぢやないよ。あの調子だと当分帰らうつて云はないぜ」
 素子にも、それはその通りだと思はれた。
「大沼先生は、いらしつた時からご自分のお宅かなんぞのやうに振舞つていらつしやいますわ。それはあたくしども気がおけなくつてよろしいんですけれど、ご一緒の幾島さんが、そばではらはらなすつてらつしやるの、ほんとにお可哀さうみたい……。だつて、大沼先生は俗に徹した大超人ぶりですし、幾島さんは敏感なお坊ちやんですもの。昨日なんか、あたくし困つてしまひましたわ。大沼先生が随分露骨な戯談をおつしやるのを、幾島さんは、眼であたくしに返事をするなつて合図をなさるんですの。あゝいふ風に不自由なおからだですし、なんですか、弟みたいな気がして……」
 伯爵は素子の報告を聴くまでもなく、そのへんの消息はとくの昔勘づいてゐたから、
「うむ、大沼先生、どんな戯談を云ふの。君をからかふのは怪しからん。うむ。しかし、見てゐてわるい気持はしないね、あの師弟関係は……。幾島君の態度も実に立派だ。あれで二十六とか云ふんだね。三十までに学位論文が通るかな。あの方面は遅いやうだな、一般に……」
 伯爵はその足で裏の谷をのぞきに行つた。そこでは黒岩万五が一人で新しい道を掘り直してゐた。

 伯爵は、今年五十六歳である。彼は外交官として立つつもりであつたが、外交官の試験にどうしてもパスせず、一旦外務省にはひりはしたものの、万年事務官でしびれを切らし、貴族院に席ができるのを待つて、官界を退いたのである。
 が、しかし、政治の方面でも、彼の活躍する舞台はなかつた。名誉慾は人並以上にあり、身辺を華やかなものにする野心は最近まで捨てきれずにゐたけれども、ふとした機会に、彼は先代の伝記を編む仕事の価値を、ある民間の学者から吹き込まれた。で、「常に歴史の陰を歩いた偉人」としての立花是房の業蹟を調査して、これを世に問ふ決心をした。それについては、先づ各種の文献を集めること、同時代生存者の談話を記録すること、現在のところ史家の間にこの人物に対する奇怪な偏見が存在するので、これらの出所、原因をなるべく具体的に検べあげることなどが差当つての仕事であつた。
 彼は一切の情実を断ち切つて、立花家を彼自身の好みの流儀に再組織した。財産は最も合理的に運転され、自家用の自動車をもたないことは、彼の生活の堅さを示すに役立つてゐた。しかし、彼には贅沢を愛する半面がないわけではなく、金使ひは商人のやうにうまかつた。一口で云へば、彼は聡明な殿様で通り、卑屈な交際がなく、自分で自分を支配してゐた。
 彼は秘書を探して斎木素子にぶつかつたのではなく、ある座談会で速記者として来てゐた彼女を、あとで是非秘書にと所望したのである。
 彼は美しい女秘書を得て、それを秘書らしく利用する能力を欠いてゐたが、しかし、彼女の方で、そのへんは実に要領よく毎日の仕事を作り、自分のゐどころをはつきり築いてゐた。
「君はいつまでもかうしてていゝのか、僕のそばで?」
 と、伯爵は、あらゆる寛大な気持を含めて、ふと彼女に問ひかけてみる。彼女はその言葉の意味をいろいろに考へてみる必要はない。今日にはじまつた伯爵の台詞ではないからである。が、その返事はその時々の調子で変へていかねばならぬ。
「いつまでもつて、まだ四年にしかなりませんわ。やつと、今ごろ自分の仕事がわかりかけて来たやうに思ひますの。東京のお邸ですと、時間がきまつてをりますし、それに、すべてが事務的にかたづきますけれど、こちらでは……」
「こつちでは、なるほど、主婦代理だな。まあ、それでいゝぢやないか。僕は、さう長生きもせんだらうが、急に君がゐなくなると、さあ、どうしていゝかわからんぞ」
 今日はしかし、いつもよりも短兵急である。伯爵がこれほど真正面から素子に向つて弱音を吐いたことはないのである。
 素子は別にうろたへるやうなことはない。必要な礼儀と警戒とを言葉の適度な綾に織りまぜながら、
「あたくしがゐなくなれば、きつと、どなたか、次のひとが現はれますわ。伯爵のおそばで、こんな楽な仕事をさせていただくなんて、どんな女でもありがたく思ひますもの。でも、ほんとに、資格を云ふつていふことになると、やつぱり二十三四から、六七、まあ、八どまりだとあたくし思ひますわ。なにか、さういふ年頃でなければ十分に発揮できない力が、是非、必要なやうな気がいたしますの」

 わざと表玄関から上らずに、伯爵は、裏庭の花壇を縫つて、谷を降りる斜面の縁をゆるゆると歩いた。
「君はそんなこと云つたつて、二十七の女がみんな君ぐらゐに若く、みづみづしいかどうか知らない筈はないだらう? なんだい君の、その青春を保つ秘訣は? お化粧かい? それとも、いはゆる心の持ちやうか?」
「あたくしが若し、年のわりにお婆さんでないとすれば、それは、伯爵のおかげでございますわ。なぜだか、それを申しあげませうか? 伯爵が、あたくしの子供臭いところをおとがめにならないからですわ」
「子供臭いかい、君が? おい、おい、そんなことを云つて僕をはぐらかしちやいかんよ。あゝ、子供臭いつて云へば、僕なんか、どういふもんだらうね。よく人から坊ちやん扱ひをうけるだらう。それや自分でも気がついてる。しかし、大人がなんだつていふんだ。知つてることと、知つてると思ふこととは、これやまつたく大違ひだからね。僕はこれで、世の中のことを知りつくしてゐる。それこそ大概の奴が知つてると思ふ以上のことを、実際に知つてる。僕は殊に、男女の問題については、深くその真理をつかんでゐるつもりだが、君にいつか話してきかせよう」
 斎木素子は、思はず吹き出しさうになつた。
「あら、いつでもさうおつしやつてながら、つい伺ふ機会がございませんのね。あたくしも、受売りならすこしは致しますけど……」
「あゝ、受売り結構……。それで双方意見の一致をみたら、また問題を先へ進められるしね。あゝ、しかし、植物学などやつてる先生は、相手がうるさくなくていゝな」
 と、伯爵はわざと話をそらして、大きく溜息を吐いた。
 素子は、そこで、もう伯爵を一人ではふつておくべき時機だといふことを見てとる。
「ちよつと、し残してあることがございますから……」
 さう云つて、彼女は自分の部屋へあがつた。
 考へてみると、よくこゝまで漕ぎつけて来たものである。最初は秘書といふ名前の魅力に惹かれて、月八十円の月給も多すぎるくらゐだと思つたが、そのうちに、だんだん、仕事も複雑になり、殊に、伯爵の身辺に気を配るといふことがひとつの重荷になつた。ところで、それがまた慣れて来る時分には、別な危険が身にせまつてゐた。伯爵の彼女に求めるところが、たうとう秘書としての限度を越えて来さうなことである。
 彼女は、相手のさういふ素振りを、まだそれとはつきりきめられないうちに勘づいてしまひ、すらすらと安全地帯へ乗りうつるのであるから、伯爵としては、自分を滑稽に見せる以外に、彼女の前に執拗に立ちふさがることはできないのである。
 伯爵はたしかに自制の美徳を示してゐた。しかし、彼女の一種たとへやうのない豊満な美しさに酔ひ、その柔軟な才気を朝夕玩具にし、殊に、これだけは保証づきと云つてもいゝ貞潔なコケツトリイを、自分だけのものとして愛しつゞける特権を失ひたくなかつたのである。

 日暮れ前に大沼博士と幾島暁太郎とは、ドーランをいつぱいにして帰つて来る。
 二人の寝室は二階になつてゐるので、ひとまづ二階にあがる。
「歩くとやつぱり暑いね。湿気の工合やなんか、大ぶん軽井沢とも違ふが、避暑といふ点では、どうかね、もうひとつ、なにか足らんな」
 大沼博士はさう云ひながら、自分の寝室のドアをあけた。
「風呂が沸いてるさうですが、先生、すぐおはひりになりますか?」
 幾島も、いま階下したで女中に云はれたとほりを云ひ、自分の寝室へはひる。
 二階には四つ部屋があるのである。
 一番東側の大きな部屋は殆ど独立してゐて、専用の化粧室と階段がついてゐる。これが伯爵の寝室である。反対側のとつつきに、広くはないけれども、そこだけに露台が張り出してゐる部屋があり、これを素子が使つてゐる。
 そして、客用の二つの寝室は、中央で同じ向きに並んでゐて、一旦廊下へ出なければ往来ができないやうになつてゐる。
 素子は二人が帰つて来たのを知ると、大急ぎで部屋の入口へ出てみた。が、もう、二人の姿は見えなかつた。で、幾島の部屋のドアをノツクした。
「お帰り遊ばせ。いゝ収穫がおありになりまして?」
「えゝ、まあ、手あたり次第に集めて来ましたが……。この下の谷は、あれで道がもうすこしちやんとついてゐれば、随分いゝ谷ですね。渓谷美といふやつを、日本では非常に狭く考へてゐるやうですが、僕は、いろんなタイプがあつていゝと思ふんです。奇岩怪石型に限る必要はないですよ」
「あたくし、まださういふいゝところ存じませんの。よつぽど歩かなければならないんでございませう?」
「さうですね、二キロも上ればいゝでせうね。なんでもありませんよ。道がわるいつて云ふのは、道を歩かうとするからで、草のなかや石ころの上を歩くつもりなら、決して困難なコースぢやありません。大沼先生は春さきにもう一度来たいつておつしやつてます。標本を作るのには、季節の制限があるもんですから……」
「あら、そのおシヤツお着替へになりません? お着替お持ちでいらつしやいませう?」
「いや、こんなの、平気ですよ。一日か二日のつもりでしたから……」
 そんな問答をしてゐると、隣の部屋から、
「おーい、幾島君……誰と話をしてるんだ? さ、風呂へ一緒にはひらう」
 と、声につゞいて、浴衣がけに手拭をぶらさげた大沼博士が、つかつかとはひつて来た。
「お帰りなさいまし……。先生、なんてお元気なんでせう……。毎日、そんなにお歩きになつて……」
 いきなり、機先を制せられたかたちで、博士は、子供のやうに両手をだらりと垂れ、腹をつき出し、太い頸をぢつと据ゑて、素子の全身を見あげ見おろしした。

 大沼博士がまたなにか云ひだしさうなので、幾島暁太郎は内心びくびくしてゐるに相違なかつた。
「先生、お先へどうぞ……。僕、これから採集したものを整理して、あとから参りますから……」
「整理か。まあ、そいつはゆつくりでいゝぢやないか。急ぐものはないよ。それよりねえ、斎木さん、あんたは伯爵のセクレタリイだな。よろしい。伯爵の秘書といふ資格で、わしの方も時々、手伝つて下さらんか。幾島君の方は、どこへ行つても、女の子にはもてるんだ。わしらは、さうはいかん。ところで、わしが一番淋しいのはだ、女性の無関心といふやつでね。つまり、妙齢の婦人たちは、わしを見て、なんの感じもおこらんのぢやね」
「先生……」
 と、幾島が呼びかける。
「なんだ。君の意見を訊いとるんぢやない」
「いや、意見は申しませんが、斎木さんは、いつも、先生の助手のまた助手をして下さつてるわけなんです」
「そんなことは問題ぢやないよ。僕が云ふのは、君にできないやうなことを、このお嬢さんに頼みたいんだ。つまり、伯爵の許可があればだよ、僕と二人きりでたまには散歩するとかね……」
「はゝゝゝ」
 と、幾島は精のない笑ひ方をした。
「先生、そんなこと、お安いご用ですわ。ひと言さうおつしやつて下されば、どこへでもお伴いたしますわ」
 素子は、なにやら悲しいやうな、笑ひたいやうな気持で、さう答へた。しかし、どうしても幾島と視線を交へることができず、そのまゝ軽く会釈をして、廊下に出た。
 素子は階段を駈け降りながら、腹をよぢつた。
 しばらくして、湯殿のなかで博士の呶鳴る声がした。
「水が出ない、水が……」
 勝手の方で、おタキさんが、外の誰かに話しかけてゐる。
「をかしいね、こつちも出ないよ。爺やさん、今日は別に水道を止めるなんて話なかつたね」
「熱い、熱い……これや、どうにもならん」
 博士は真つ裸で途方に暮れてゐる様子である。
 別荘番の豊次が事務所へ飛んで行つた。
 黒岩万五も谷からあがつて来て、水道の木管をあちこち検べた。どこにも異状はない。
 するとやがて、豊次が帰つて来て、ポーチに集まつてゐるみんなに報告した。
 それによると、断水はたつた今、泰平郷分譲地全体に亙つて起つたので、即座に事務所員総出で調べてみたところ、水源地に近い部分の木管が百米以上掘出され、そこで完全に漏水してゐることがわかつた。もちろん、自然に起つた現象ではない。なんびとかの悪意ある所業しわざであることは明かである。
 駐在所からすぐに警官が現場へ出向いたけれども、犯人は恐らく容易にあがるまいとのことであつた。
「犯人よりもなによりも、第一、水が出るやうにせい」
 伯爵は、誰にともなく命令した。

 水道は一時間後に修復されたけれども、この事件の性質は、更に大きな問題が次に控へてゐることを予想させた。
 伯爵は素子を顧みて云つた。
「水源地のことでまだ揉めてるんだらうが、事務所に委しておいて大丈夫かね。粕谷のやり口も相当なもんだからなあ」
「わしや、まだ何も聞いとりませんが、今年はえらい旱魃でして、別荘へ水を取られるのがこたへますから」
 と、その時、帰り支度をして再び谷から上つて来た黒岩万五が口を挟む。
「このへんは、井戸はどうなんです?」
 幾島暁太郎が素子に訊ねた。
「さあ、なんでも百尺以上掘らなけれやなりませんのですつて……。それも場所によつてだめらしうございますわ」
「なるほど、さうでせうね、谷があれだけ深いんだから……。水源地つていふのは、よつぽど遠いんですか?」
 素子は伯爵に助太刀を求めた。
「ちよつとありますよ。最初は一ヶ所で間に合つてたんですが、人家がだんだんふえるに従つて水量がちよつと怪しくなつて来たもんだから、別に一ヶ所見つけたんです。ところが、水源地といふやつは、許可制になつてゐて、誰の地所でもかまはん、使用権を取つたものが専用できるわけです。暢気な話で、その規則を、村の方でも知らず、われわれの方でも知らずにゐた。紛争の原因はそこにあるんです。が、まあ、わたしは、出る幕ぢやないから黙つて見てゐます」
 一本のビールに陶然として、大沼博士は、てんでこの話は聴いてゐない。
「すると、こんどは何時やるかな? わたしの方は何時でもよろしい。幾島君、君の都合はどうだ?」
 不意に名前を呼ばれて、幾島は、博士の方へ向き直つた。
「なんですか、先生?」
「なんですかぢやないよ。講演のことを云つてるんだよ。なるべく早く題をきめて前触れをしとかんとまた集まりがわるいつていふことになるぞ。こんどは、ひとつ、なんだな、ぐつと砕けたところでいくかな」
「はあ、いゝですな。しかし、さういふことになると、先生、僕は全然御用がなくなりますね。先生独得の植物学的漫談は、それだけで光彩陸離たるもんですから、助手なんか邪魔つけです。いゝなあ、僕はみんなと一緒に、たゞお話を拝聴できるわけですね」
「そんなずるいことを考へちやいかん。今日の講演会の不成功は、大半君の責任だ。名誉恢復をせにやいかん。それにはだ、ひとつ、今度は、二人でやらうぢやないか。君、前座をいけ! うん」
 幾島は、呆れて、それから悄げて、伯爵と素子の顔を見くらべた。が、この二人は、無慈悲にこの成行をたのしんでゐるらしい。
「いやです、僕は……断じていやです」
 さう云ひ放つて、幾島は、残つたビールをひと息に飲みほした。
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 それから三日目に、第二回の講演会が催された。聴衆は前よりもいくぶん多かつたが、男の数はぐつと減り、大人よりも子供の頭数がふえてゐるのが目立つた。
 しかし、大沼博士は大満悦で、予定よりも一時間ほど長く喋つた。「人生と植物」といふ題は実際どこまで行つてもきりのない題であつた。
 講演を終つて控へ室へ戻つて来た博士は、渋茶を啜りながら、またかう云つた。
「非常にいゝ気持で話ができました。慾を云ふと、もう少し時間がたつぷりあるとね」
 伯爵はわざと聞えぬふりをしてゐた。そして、素子の方に向つて、
「おい、粕谷はどうした? 呼んでらつしやい。序に車もさう云つとくといゝな」
「はい」
 素子が事務所の方へ出て行かうとするその瞬間である。事務所の前の広場に、警察署のサイドカアが一台、埃を捲きあげて来て、ぴたりと停つた。
 事務所主任の粕谷が、警官を迎へ入れて、なにやらひそひそ話をしてゐる。
 一つ時躊躇はしたが、素子は、黙つて事務所の中へはひつて行つた。
「あ、斎木さんですか。どうも弱つたですよ。さつき曾根部落の青年たちが大挙して押しかけて来るつていふ情報がはひつたもんですからね、すぐに署へ電話をしたんですが……。まあ、向うはどう出るにしたところで、こつちはまさか暴力は振ひませんからな。たゞ、事務所へ暴れ込んで来るだけなら、これや、なんでもありません。しかし、万一、伯爵のご別荘の方へでも……」
 と云ひかけたところを、警官が、
「大丈夫だ。そんなことはさせやせん。たゞ、君とはいくら話をしても埓が明くまいと云ふんだ。今、代表を三人だけ寄越すやうにしたがね。こつち側でも、責任のある方に出て貰ひたいんだ」
「責任はすべてわたしが負うとるですが……」
「そんなら責任のある返答をしてやつてくれ給へ。別に悪質の暴動とは見とらんがね、君の方で誠意を示さんと、これでどういふ結果になるかわからんよ。純真な青年たちが非常に激昂しとるでねえ」
 警官は公平であらうと努めてゐる。
 素子は、そこで、講演会がすんだことを粕谷に耳うちをした。粕谷は驚いて公会堂へ飛んで来た。
 さて、さういふいざこざは事務所の方へ委せて、伯爵は別荘へ帰らうと云ひだした。素子も賛成であつた。
 ところが、自動車を呼ばせて、それにみんなが乗らうとした時、つかつかとそこへ駈け寄つて来て、いきなりドアのハンドルを握つた一人の男があつた。青年団服を着て、小柄ではあるが全身これ闘志と云ひたいやうな村の若者であつた。

「立花さんぢやないかね?」
 と、その若者は、低く、わりに落ちついた声で訊ねた。
 粕谷がその若者の肩をつかんで、
「なにをする! どけ、どけ!」
 警官もそこへ来て、ドアをバタリと閉めた。
「順序を踏まんといかん、順序を……」
 しかし、その時はもう、ほかの二人の青年が自動車の前に立ち塞つて、
「引き摺り降ろせツ!」
 と、たゞならぬ気配をみせてゐた。
 車の一番奥の席に今腰をおろしたばかりの伯爵は、後ろへ反り返つたまゝ、ことさら笑ひを含んで、
「君たちは、いつたい、なんだ? 僕に用事があるなら、いつでも会ふよ。邸へ来たまへ、邸へ……」
 すると、最初にドアに手をかけた男が、また一歩進み出て、
「わしは曾根在の小峯といふもんだがね、せんだつてうちから、粕谷さんになんべんも話しとるこつたが……」
「おい、小峯君、そんなことを伯爵に申上げたつて駄目だよ。問題は法律上の手続に関することで……」
 粕谷が高飛車に出ると、相手は益々冷然と、
「あんたはちよつと黙つとんなさい。法律のなんのといふのは嘘だべ。少くとも最初はさうでなかつただ。これは純然たる徳義上の問題だべ。われわれ農民の立場に立つて考へたら、あの水源地を二つともとられるつていふことは、立派にわれわれが干乾しになるつていふことだべ。それや、姑息な方法で……」
「もうわかつた」
 と伯爵は遮つた。
「とにかく、さういふ話は、此処でちよつと聞いたつて、どうするわけにも行かんのだから、何れ事務所の方の云ひ分も聞いてだ、ゆつくり諸君と話し合はうぢやないか。今日はお客様もあることだし、これで失敬しよう」
「そんなら、新しい水源地の工事を、ちやんと話のつくまで中止させて貰へんですか?」
「粕谷君、どうだ、そいつは?」
 伯爵の妥協的態度に、粕谷は不満の面持で、
「しかし、この先生たちは、村全体の意見を代表してるわけではないのでして、村会議員などをやつてをる有力な個人に当つてみますと、今度の水源地は一応こちらの名義にしておいて差支ないと申しますんです。つまり、この騒ぎといふものは、決して水源地がどうかうといふ限られた問題ではなく、村の青年たちの一部に、なんと申しますか、われわれの事業に対する極端な反感があるのでして、その反感がいろいろな形で、これまでも表面化してをりますし、今後もそいつは続くだらうと思ひます。この小峯君などが、その一派の代表的人物でございます」
「ふむ、この人が……?」
 伯爵は更めて青年の顔を見た。それから徐ろにかう云つた。
「では、今夜にでも来て貰はうか。粕谷君、君も立会つてな。いゝか」
 車はやつと動きだした。
 助手台に乗つてゐる幾島が、後ろを振り返つて素子に囁いた。
「なかなか面白い人物がゐるぢやありませんか」

 が、それつきり、車の中では誰も口を利かなかつた。
 別荘へ着いて、めいめいが部屋へ引取らうとするとき、伯爵は、素子に、
「おい、君、ちよつと……」
 彼女は、伯爵の後について書斎へはひつた。
「今夜は、あの連中と何処で会ふかな。やつぱり此処かな? ポーチはお客さんに明けといた方がよからう。あ、さう云へば、大沼先生には早速お引上げ願ふとして、君から幾島君にうまく云つてくれんか。また延ばされないうちに先手を打たんといかん」
 素子は、これは大役だと思つた。なにしろ、早く引上げてくれといふ催促なのだから、いくらうまく云ふにしても、引留めるのとは大ぶんわけが違ふのである。
 素子が自分の部屋へあがらうとして階段へさしかゝると、二階の小邸下をバタバタと走る跫音に続いて、お鶴さんの息をきらした姿が眼にうつつた。素子は、知らんふりをしてさつさとその傍を通り過ぎようとすると、
「あの、ちよつと……斎木さん、大沼先生がなんかご用がおありになるんですつて……」
 お鶴さんの口もとに、ちらりと卑しい笑ひが浮んだので、素子は眉を寄せた。
「さう」
 たゞひと言返事をして、幾島の部屋を叩いた。
 幾島暁太郎は相変らず標本の整理をしてゐた。
「お手伝ひいたしませうか?」
「いや、これはもういゝんです。むやみに荷物がふえちまつて……。たいがい採集旅行つていふのはかうですがね。今度は別にそのつもりでもなかつたんだけれど……一週間になりますからね、たうとう……」
「ちやうど、さう、一週間ですわ。此処でお客さまつていふのは、まつたく珍しいんですのよ。あなたがたが最初で最後かも知れませんわ」
「最後つていふのはどういふんです? よつぽど懲りたと見えますね」
 素子は、打てば響くやうなこの青年の応答に痛快味を感じて、少しも云ひすぎたといふ気はしなかつた。
「一番誰が懲りたとお思ひになる?」
「さあ、あなたですか?」
「こんな山の中で、ほかに気を紛らすつていふことのできないところでせう。お客さまのために此処にゐるやうなもんですわ。例へば、あなたお一人なら、これは、さう云つちやなんですけれども、すぐお友達になれるわ。ところが、あちらの先生と来ては、なに、あれは……。天下の大学者は、女にどんなサーヴイスをさせてもいゝと思つてらつしやるんだから……。お腹の虫をおさへるつて、ずゐぶん、しんの疲れるものよ、あなた」
 さう云ひながら、彼女は、パチパチと音のするやうな瞬きをしてみせた。

 幾島暁太郎は、大沼博士の押しの強さにも呆れてゐたが、素子のこの無遠慮な抗議にもちよつとたぢたぢとした。しかも、これだけのことを云ふのになんといふさばさばした調子であらう。人を信用しきつてゐるか、さもなければ甘く見てゐる証拠である。が、いづれにしても、これほど独得な魅力をもつた女の言葉に、彼は未だ嘗て接したことはないのである。
 この女が自分よりも年上だといふことに、いつたいこれは関係があるのであらうか? 彼は実際、彼女の前ではすこし固くなりすぎるやうである。
「先生にご予定を伺つてみませう。明日あたり帰るつておつしやるかも知れませんよ。ほんとに、此処にかうしてゐれば、僕なんか東京へ帰ることを忘れちまひさうですからね」
「そんなにお気に召しまして? でも、随分、ご旅行はなさるんでせう?」
「旅行はしよつちうしてゐます。ですから、場所が変るつていふことは、そんなに刺戟にはなりません」
 と幾島暁太郎は、なにか、はつきりせぬ感情を持ちあつかひかねて、素子の大胆な視線を弱々しく肩さきに受けてゐた。
 その時、隣室から、
「幾島君……」
 大沼博士の声である。
「はあ?」
 彼は、機械的に起ち上つた。
「草津の五万分ノ一、持つて来てないか?」
「草津は持つて来てゐませんが……。何処をごらんになるんですか?」
「草津を見たいんだよ。まあいゝや。そこへ斎木君が来とるね。あとで、ちよつとこつちへ来て貰つてくれ」
「はあ、承知しました」
 幾島は素子に眼で合図をした。それから、急に改つて、
「今夜村の青年がやつて来る筈ですね。差支なかつたら、僕も立合ひたいんですが、伯爵のお許しを得て下さい」
「かしこまりました。さう申上げてみますわ。では、また後ほど……」
 と、素子が会釈をして部屋を出ようとすると、幾島は、いきなり追ひ縋るやうにして、
「先生のことは、どうか悪く思はないでください。あなたに怒られると、僕は困るんです」
 低く訴へるやうな声であつたが、素子は笑ひながら、それを聞き流した。
 大沼博士の部屋をノツクすると、中からドアが開いた。
「やあ、ようこそ……。今日の講演は実に気持がよかつた。なかなかインテリ婦人が多いぢやないか。どうだらうね、あんたの見るところ、わたしの話は、大体みんなにわかつたらうかね!」
 そんなことを云ひながら、博士は浴衣の帯を締め直した。

 素子は大沼博士が用もないのに自分を呼びつけたのだといふことがすぐにわかつた。
「さあ、いかがでございませう。先生は、でも、この聴衆ならこれくらゐにつていふ、加減をあそばすんぢやございません? 今日はまた、お子さんたちが、どういふものか、いつぱいで……」
「さう、さう、子供が多かつた。しかし、子供にはなんと云つても無理だ、わたしの話は……」
 と、博士はちよつと白けた顔をした。
「先生、階下したにお茶の用意をいたしてございますから、どうぞ……。ほかになにかご用がございましたか知ら?」
 さう云ふ素子の落ちつかぬ風を、博士はぢつと眺めながら、
「改まつてご用はと訊かれると、実は別に、これと云つてなんにもないのだが、どうも時々、あんたの顔が見たくなるんでねえ」
 それは戯談とも真面目ともつかぬ、いやにナマな調子で、素子はそれをわざと軽く、
「今日ぎりでございますから、どうぞたくさん……」
 と、腰をかゞめるといつしよに、ドアの外へからだを滑らせた。
 その晩、食事が終ると間もなく、村の青年たちがやつて来た。
 村の青年代表として、小峯喬ほか二人、事務所主任粕谷、警察署の特高が一人、これだけが外からの客で、主人の伯爵と秘書の素子とがこれに加はり、幾島暁太郎がオブザアヴアーとして会見に立会つた。
 伯爵が先づ口を切つた。
「では、これからお話を伺ふことにするが、予めお断りしておきたいのは、この泰平郷建設事務所といふのは、立花家とは全然表向きの関係はないといふことです。従つて、私一個としては泰平郷建設の事業に直接なんら責任を負うてゐないばかりでなく、寧ろ、この事業に対して、批判的な立場にあるものです。その点、今日お集まりの村民諸君と利害が一致するかも知れんと思ふし、少くとも、相方の主張を、公平な判断のもとに検討できる極めて自由な位置にあると云へるのです」
「ちよつとお尋ねしますだが、立花さんは、泰平郷の顧問ではなかつたかね?」
 青年の一人が言葉をはさんだ。
「あゝ、それは、云ひ忘れたが、単に名義だけで、経営とは全く関係のない、この事業の自治的な方面での相談役を仰せつかつてゐるに過ぎないのだ。これは、現に……」
 伯爵の返答が終らぬうちに、もう一人の青年が更に発言した。
「名目はどうでも、事実、あんたは、泰平郷の事業に、莫大な投資をしておいでるんぢやないかね? 立花伯爵名義の土地で、分譲区域にはひつてゐる部分が、わしの調査によると、十六町歩あまりある。だが……、さういふ関係は表向きどうなるだね?」

 伯爵はこの青年の言葉をいちいちうなづきながら聴いてゐた。
 ところが、突然、小峯喬が仲間を遮つて、
「さういふことは、今云はんでもえゝだ。われわれは水源地の問題で、話のちやんとわかるじんに、こつちの言ひ分を聴いて貰へばえゝだ。どういふもんでせうかね、はじめからのいきさつを、ひと通りわしから云ふかね」
 と、彼は一座を見廻した。すると、粕谷が、
「いや、はじめからのことは云ふ必要ないだらう。結局、われわれの方で今年から使用権を得た第二の水源をだな、君らの方で、どうしても使はせんと云ふんだらう」
「それや、つまり、もうわれわれの方で使つとる水なんで、それをあんた方にとられてしまふと、曾根部落の水田の半分は……」
「だからさ、それは君たちの方の手落ちで、そんなに大事な水源ならばだ、この前も云つたやうに、どうしてもつと早く使用権を獲得しておかなかつたか。第一、あの水源の所在地といふもんは、曾根部落と関係のない、これは個人の所有で、われわれとしては、既に買収の契約もしてあるのだし、君たちがなんと云はうとだ、こればかりは喧嘩にならんのだ」
 粕谷は飽くまで強腰である。
 小峯はこの時、粕谷の顔から眼を反らせると同時にニヤリと笑つた。
「粕谷さんは喧嘩にならんと云ふだが、しかし、現に、喧嘩になつとるぢやないかね? わしどもは、儲かるか損するかといふやうなことぢやない。死ぬか活きるかです。あんた方の商売がわしどもの土地をだんだんつまらんもんにしてしまふなら、わしどもは、真剣に考へにやならんといふわけだで。村の年寄り連中のなかには、いや、たまにや若いもんのなかにもさういふのがゐるだが、ここへ別荘地ができたおかげで、このへん一帯の百姓がどんだけ潤ふたかわからんといふもんがある。それは、眼先のことを云へば、さういふ半面もたしかにあるだ。しかし、農村には農村の使命といふもんがあつて、独自の発展形態があるだで、かういふ変則的な、都会への依存といふかたちで、いろいろな影響を受けることは、これは決して健全な利得とは云へんとわしらは思ふだ。粕谷さんは二た口目には共存共栄と云ふだが、わしは、農村の犠牲に於て、百姓が、都会人士との共存共栄を望む筈はねえと思ふだ」
 小峯が喋つてゐる間、一番興味深げに耳を傾けてゐたのは、幾島暁太郎であつた。彼は時々、伯爵の方を見たり、素子の方に視線を投げたり、この青年の弁舌がどういふ効果をもたらしたかを知らうと努めてゐた。
 幾島とはすこし違つた意味で、素子もまたこの長広舌を面白がつて聴いてゐるらしかつた。彼女は筆記の用意をしてゐる。ノートの上を、思ひだしたやうに鉛筆が走る。しかし、彼女の眼は複雑な陰翳に輝いて、絶えず、伯爵の表情を読み、幾島の合図に応へてゐた。

 しばらく沈黙がつゞいた。
 が、やがて、立花伯爵はなにか大いに悟るところがあるらしく、
「すると問題は二つに分れるわけだな。水源の問題と、さういふ問題を惹き起す可能性のある別荘地経営の問題と。そこで、僕から訊きたいことは、仮に水源の問題が円満に解決しただけでは、君たちは本来の目的を達したと云へないわけなのか、どうか? つまり、君たちが目指してゐるのは、泰平郷建設といふ事業の妨害なんだね?」
 この問ひに応じて、小峯は、これまた決然と、
「まあさういふわけです。わしどもの力でどんだけのことができるか、それはわからんけんどが、わしどもは日本の農村をどうせにやならんかといふことを真剣に考へて、夜昼働いとるだ。百姓は好きだとか嫌ひだとか、工場で働いた方が割に合ふとか合はんとか、さう云ふものが一人でもふえるのを、わしどもは心配しとるだ。ところが、こゝに別荘地ができて、村の気風がぐつと変つて来たのは、これや嘘でねえだ。わしどもにや、そいつが我慢ならんでなあ」
「村の気風がどう変つたつていふんだね?」
 粕谷がひやかし気味で訊ねた。
「それやいろいろあるだがね、例へば、娘つ子で東京へ奉公に出たがるもんがふえたし、青年の離村者もこの二三年、目立つやうになつたし、それからまた、別荘の客をあてこんで村のもの同士がつまらん競争をおつぱじめるしな。ともかく、別荘へ来る人たちの生活ちうもんは、第一、農村の若いもんにとつちや、眼の毒だでね」
 小峯は、さう云つて、また、ニヤリとした。
 伯爵は、さつきから、もう話を聴く興味を失つたやうに、時々、眼をつぶつてほかのことを考へてゐるらしかつたが、この時、突然眼をカツと開いて、
「もうこれくらゐで話はよからう。水源の問題だけなら、僕にも多少考へがあつて、こちらの云ひ分ばかり通させるつもりはないが、今いろいろ聞いたやうな、別荘地そのものゝ弊害といふやうなことになつて来ると、これやどうも、今更考へ直すわけにも行かんのでねえ。殊に、さういふ意見は一方的には成立つかも知れんが、公平にみて、やはりどうも困る点もあるし、真面目に相手になるわけにはいかんよ。まあ、君たちの青年の意気は壮とするがね、実際の世の中といふもんは、さういふ風には動かんのだから、これはひとつ、もつと研究してみたまへ。折角だつたが、今日の会見は、物別れといふ形だな。しかし、君たちの方で、もつと妥協的な条件を持つて来るなら、いつでも、この会談は復活させよう。つまり、僕もひと肌脱いでみよう」
 さう云ひ終つて、伯爵は起ち上つた。
 すると、粕谷が、
「それみ給へ。君たちの出方はいつもこれだから、話が進まんのだ。はじめから敵意を示すといふ法はないよ」
 と云つた。
「わしどもは妥協を求めてはをらんのだで……。飽くまでもあんたがたと闘ふ決心だで……」
 小峯は、これも起ち上ると一緒に、低く独言のやうに呟いた。

 一同を送り出して、素子は玄関にしばらく立つてゐた。
 いつたいこの会見はなんのための会見だつたのか? 人間同士の心がどうしてかうまで通じ合はないのか? 一方の言ふことは一方の感情をまつたく無益に傷つけてゐるやうにしかみえない瞬間がいくたびかあるのである。
 彼女は仮に双方の言ひ分を自分が代弁するとしたら、もう少しは面白い結果が得られたのでないかとさへ思つた。
「これでどういふことになるんです? 談判決裂ですか?」
 不意に後ろから幾島の声である。
「あなた、なにかおつしやつて下さればよろしいのに……。あんなに、いきなり正面衛突をしてしまふなんて……」
 と、彼女は幾島に背を向けたまゝ云つた。
「だつて、僕には発言権はないんですもの。しかし、あの小峯つていふ青年には、もう一度会つて、ゆつくり話をしてみたいな。僕はまつたく逆な立場で、つまり、都会人の立場で、あれとおんなじことを考へてゐるんです。農民のうちに、あれだけ自覚した反都会精神といふものが生れてゐることは、僕も今まで気がつきませんでした。これは、かなり面倒な問題ですよ」
 幾島はさう云ひながら、玄関の階段を降りて行つた。それは、ひとりでに素子を暗闇の小径へ誘ひだすことになつた。
「よく晴れてますね、空が……」
「夜、ひとりで外が歩けるくらゐになつてるといゝんですけれど……かう道が暗くつては……」
「分譲地の方もこんな風ですか?」
「まあ、こんなもんだと思ひますわ。ですから、夜のない都会だつて、みなさん云つてらつしやるさうですわ」
「夜のない都会か。……さう云へば、僕なんか東京にゐてさへ、夜街へ出るつてことは殆どありませんからね。縁日なんていふのは、子供の時の記憶以外にないくらゐです」
「まあ、そんなにお堅くつていらつしやるの? ぢや、ここでせいぜい夜遊びをなすつてらつしやるといゝわ」
 いつの間にか、二人は表門の潜りを潜つて、表通りへ出てゐた。
「そつちへ登つて行くと何処へ行くんです?」
「峠を越えると北軽井沢へ出るんですつて……」
「へえ、そんな方角ですかね。あなたは、失礼ですが、お生れはどこですか?」
 この突然の問ひに、素子は、笑ひを含んだ声で、
「お返事になるかどうか存じませんけれど、あたくしが生れたのは、船の中なんですつて……太平洋の波のうへつて申してもよろしいの」
 幾島は、そんなことぐらゐで驚くものかと、なにかうまい応酬の手を考へてゐた。
 ところで、この二人が、初秋の夜道をしづかに語りながら歩いてゐるうちに、別荘では、伯爵が幾島を、大沼博士が素子を探してゐた。そして二人は二階の寝室の前で鉢合せをした。
 伯爵――あ、先生ですか。幾島君をお探しですね?
 博士――いや、なに、だれといふことはない。それより斎木君の姿が一向見えんやうですな。
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 本郷弓町の電車通りから北へだらだらと坂を降りる、その降り口の右側に、斎木住江といふ標札のかゝつた、風変りな二階家がある。和洋折衷のだゝつ広い住宅かと思ふと、全体の間取りの工合はどうしても個人の住居ではない。が、ひとつひとつの窓を気をつけてみれば、それは、多少高級な下宿、或は貸間を業とする家だといふことはすぐにわかるのである。
 斎木素子の母、住江は、今から十五年前、即ち、四人の娘を抱へて夫に先立たれ、田舎の家をたゝんで上京すると、すぐに、今でいふアパートに似た、従つて、当時としては珍しい制度の貸間業を始めたのである。
 娘の上三人はそれぞれ、とつくに家を出てしまつた。末の素子ひとりが、これは女学校を出るまである牧師の家へ預けてあつたのだが、いつまでもかうしてゐるのである。養子に来手きてでもあれば、それに越したことはないが、母の住江は、別にこの娘に寄つかゝらうといふつもりはないのである。
 今日は夕食には帰らぬといふ素子からの電話だつた。また伯爵のお伴でどこかへ出掛けたらしいけれども、娘のさういふ生活について、母として不安を感じれば際限のない話である。特に娘を信用してといふわけではなく、たゞ、この母親にしてみれば、女の生涯はどうせ危い橋を渡ることなのである。
 十一時すぎに、やつと内玄関の格子が開いて、素子の申訳のやうな「たゞいま」といふ声が聞えた。
「まあ、そんな恰好で、今時分、寒うはなかつた?」
 初めて仕立が気に入つたといふアンサンブルであつた。
「ずつと外は車ですもの、平気よ。でも、いゝ毛皮は欲しいわ」
「またそんな贅沢……。文句を云はいで、あたしの狐をしてつたらえゝのに……」
「ママの狐はどこの狐でしたつけ? 南米、だつたか知ら?」
「パパさんがシドニイで買つて来ておくれたんや。内地へ引上げるつていふ年の冬……大した景気やつたよ」
「だうりで、移民色濃厚な狐だわ。折角ですけど、またのことにするわ。はい、お土産……」
 と、云つて、母の前へ、洋菓子の箱を包み紙のまゝおいた。
「ジヤーマン・ベーカリイ……。ベーカリイなんて云うたかて、二十年前には、誰も知らなんだよ、ほんまに……」
「東京で?」
「あゝ、さうとも」
「今日は、あたし、とつてもママによろこんでいたゞきたいことがあるの」
「ふむ、よろこぶことなら、なんぼでもえゝわ」
「だつて、ママに直接関係はないのよ。でも、あたしのために、よろこんでよ、ね、いゝでせう?」
 娘のこのはしやぎやうは、ちよつとたゞごとではないので、母の住江は却つて気味がわるさうであつた。

 素子は、今夜、伯爵といつしよに、田沢といふ男の家に招ばれて行つたのである。この田沢といふのは例の泰平郷の経営当事者で、文華土地株式会社の社長であるが、地方官上りの政党員といふ肩書に物を云はせ、あらゆる利権漁りを業としてゐる男なのである。
 伯爵は先代以来持てあましてゐる上州のあの山林を、この男と知り合つたお蔭で、どうやら「生産的」に処理できたのであるから、もちろん、大いにこれを徳としてゐるわけだが、今日午後前触れもなくやつて来て、今度東京にも家を持つたから、披露かたがた、なんでもかんでも夕食を食ひに来てくれといふ始末であつた。伯爵はあまり気が進まなかつたけれども、ほかに誰も来ないなら秘書を連れて行くがいゝかと、念を押した。田沢はもちろん素子のことは呑みこんでゐるので、――いやあ、こいつは、とたゞ頭へ手をのせただけであつた。
 さて、素子は伯爵の「いゝからまあ来てごらん」といふ言葉に、いくらか好奇心を動かされて、迎への車に乗り込んだのであるが、その車の中で、伯爵の、
「で、こつちの家は普段どうしておくの、君?」
 といふ問ひに、
「まあ、ごらんになればわかりますが、伯爵、どうか野暮なことはおつしやらんやうに、くれぐれも……」
 素子は、これだけの会話で、もう覚るべきことは覚つたが、急に心が重く、顔をあげる気にもならなかつた。
 が、いよいよ、広い座敷の、二つ並んだ席のひとつへ坐らねばならぬことになり、女あるじへ、秘書の斎木さんと紹介されて、「どうぞ、よろしく」と手をついた瞬間、素子は、男といふものが如何にも醜く感じられ、眼の前の一人の同性にふと憫みの情を覚えた。
 ――あゝ、よかつた……。
 と、彼女は自分でそれが声に出たかと思ふほど、高らかに、心の中で叫んだ。今、母にこのことを云はうと思ふのだけれども、それはひと口に云ひ現すことのできない感想であつた。
「とにかくね、ママ、あたしは、まだまだ……有望ね」
「なんのことさ、それ?」
「だつて、女には、もうこれでおしまひつていふやうな、すべてのことがきまつてしまふ時機があるでせう? つまり、自分が自分でなくなるのよ」
「結婚してしまへばつていふんでせう?」
「結婚ね、さうだわ、結婚だつておんなじこつたわ。あたし、今日、第二号つていふもの、はじめて見たの。綺麗なひと……利口さうで……。あれで、正式のお嫁さんだつたら、どうなんだらう? 馬鹿ね、あたし……結婚つてこと忘れてたわ……」

 素子は寝る前にはちやんと体操をして寝るのである。この習慣はもう五年以上続けてゐる。そのためにわざわざ、恰好はをかしいけれども、パジヤマを着ることにしてゐる。そのパジヤマが一度、洗濯屋の不注意から、止宿人の部屋へ紛れて行つてゐたのを、女中が一日がかりで訊ね廻つたことがある。
 アパートの住人たちは、所謂「小母さん」には馴れ馴れしい口を利くのだが、素子にだけはどうも遠慮があるらしい。たまにそつと話をしかけようとしても、素子はてんで相手にしない。彼女は、母の商売を手伝つてゐるつもりは毛頭ないのである。
 その晩も、そんなに遅くなつたのに、風呂だけはざつと浴びて、念入りに夜の化粧をし、さて、寝台の上へ仰向けにひつくり返つて、まづ脚の運動から始めた。
 彼女の父、斎木元楠は紀州田辺の産で、所謂南方への先駆移民の一人である。最初は濠洲へ真珠採りに出掛けたのだが、その後、南米パラグアイへ乗り込んで土地の開墾に従事し、営々十幾年、相当の金を溜めて郷里へ引上げて来たのはいゝが、郷里へ帰つてからの彼の思惑は悉く外れ、遂に再び起ち上ることができず、日本移民史に早くも一つの悪例を残してこの世を去つたのである。末の娘素子はやつと十四であつた。
 しかし、妻の住江は女丈夫である。涙なき債権者たちを向うにまはして、それでも、万といふ現金を掻き集め、西も東もわからぬ東京の真ん中へ、「娘たちのために」飛び出して来たのである。
 で、その娘たちはどうなつたかといふと、一番上の波子だけが、女優になるのだと云つて遂に芸者になつてしまつたが、次の庸子といふのは中華民国留学生、張某と正式に結婚して現に香港で豪奢な生活を送り、三番目の由良子は、新潟在の大地主の長男で、××大出身法学士の細君で悠々と納まつてゐる。
 素子は姉たちのさういふ巣立ちを、まつたく離れたところから眺めてゐた。そして、女学校の専攻科を終るまで母のそばを遠ざかつてゐたといふことが、彼女を姉たちと違つた道へ進ませたのである。
 彼女は、速記とタイプライタアを熱心に覚え、刺繍の稽古をし、美容術の講習へ通つた。しかし、いよいよ美容術の看板を出さうと決心した時、「あんたみたいな飛び切りの別嬪は美容術師にはあかん。いくら腕がようてもお客が尻ごみしてよう寄りつかんさかい」と、ある親切な先輩が真面目に反対した。これを言葉どほり受け取つたわけではないが、彼女は、それ以来、自分自身の化粧に憂き身をやつすやうになつた。それこそ、いゝといふことはなんでもやつた。
 そこで、寝る前に欠かさず三十分の体操をも試みるわけであるが、その効果は、であるから、裸体の彫刻にでもしなければ、ほんたうのところはわからぬと、美の司神は云ふに違ひないのである。
「イチ、ニツ、イチ、ニツ」
 と、彼女は、口の中で拍子をとりながら、両脚を揃へて高くあげ、爪先を伸ばして、それを頭の上に持つて来る。
 と、この時刻に何事であらう、内玄関の呼鈴がけたたましく鳴り響いた。
 ――速達だわ。
 彼女は、別に心当りもないけれど、たゞなんとなくそんな気がして、独言のやうに呟いた。

 果して、封書一通、速達であつた。
 差出人は、幾島暁太郎。素子は、眼だけで笑ひ、しきりに首をひねつた。

――この夏は御厄介になり、そして、なりつ放しで失礼してゐます。僕からあなたに、改まつて挨拶の手紙を出すのがへんだつたからです。
 ところが、今日は、ごく自然な気持でこの便りを差上げる機会を得てうれしく思ひます。
 小生この度、神奈川県公園課といふところに勤めることになり、やうやく親の脛かぢりを脱して、月給取りの自由と不自由とを交々味つてゐますが、専門の研究がどうなることやらと、それだけが少し気がかりです。いつかの晩、僕は調子に乗つていろんなことを喋りましたが、その節、ちよつと僕の家庭のことについて触れたのを憶えておいででせうか? つまり、僕は次男にして次男の特権を奪はれ、いくらか両親のために結婚を考へなければならぬ境遇ですが、今度いよいよその問題にぶつかつて心甚だ定まらず、ふと、これはひとつあなたにご相談してみたらと思ひついたのです。さういふことを思ひつく当然の理由は、もちろん僕にはあるのですが、それは今くだくだと申しあげません。どうか僕の信頼に応へて、あつさりこの役目を引受けて下さい。
 何時、何処でお目にかゝれるでせうか? 御宅に伺つてよければ伺ひます。僕、最近お宅の前を偶然通つたことがあります。「なんだ、この家か」と思ひました。学生時代によくあのへんは歩いて知つてゐるんです。お返事は早い方が結構ですが、僕の自由な時間は、日曜以外では、木、土が午後ずつと、その他は午後五時以後です。

 読み終ると、素子はそれを畳んで封筒にしまひ、卓子の上にぽいと投げだして、再び何事もなかつたやうに体操を続けた。
 が、翌朝、彼女は起きぬけに次のやうな返事を書いた。

――お手紙拝見いたしました。
 なんのご用かと思へば、とんだ役目を引受けよとの仰せ、なにかの序ならともかく、わざわざ、聴け、承りませうでは、いくら私が物好きでも、それはちよつとへんぢやございませんかしら?
 私に何ができると思召すのか、これでもまだ、自分のことだけで頭がいつぱいといふ、始末のわるい年なのですわ。
 さて、かういふ風に筆では書きますものゝ、お目にかゝればきつとあの夏の幾日かのやうに、きつと楽にお話ができるのではないかと思ひます。またさうありたいと念じてをります。
 私この土曜日の午後、上野へ絵を見に参る予定でございますが、若しそれに興味がおありになれば、一時半ごろ会場の前で、若しまた興味がおありにならなければ、同じ場所で三時頃お待ち申しあげます(またはお待ち願ひます)いかゞでございませう?

 大急ぎで、ある室は素通りみたいにして、評判の絵だけ見落さないやうに、素子はやつと三時ちよつと過ぎに会場の外へ出た。
 広い階段を下からひと目で見渡せるやうな位置に、幾島暁太郎はぽつねんと立つてゐた。
「たつた一時間半ぐらゐ、どつちみちつき合つて下さるかと思つたら……」
 素子は、ほんとにさう思つてゐた。
「だつて、さも、その道の素人は来るに及ばずつていふやうな風でしたから……」
「あら、そんな風におとりになつた? うそよ。第一、展覧会つてそんなものぢやありませんわ」
「しかし、僕にそれだけの自由を与へて下すつたのは非常にありがたかつたですよ。おかげで、久しく会はない先輩の顔を見て来ました」
 手紙にわざとあゝ書いた心持が、ちつとも相手にわからないのかと思ふと、素子は馬鹿々々しかつた。
 彼女はかなり疲れてゐた。が、幾島はそんなことには頓着なく、行く先も相談せずにぐんぐん歩きだした。
「お勤先が横浜だとずゐぶん往復に時間をおとられになるわね」
「えゝ、ですから、向うへ引越したいんだけれど、どうも、さういふ工合に簡単にいかないんですよ、僕のうちは……」
「簡単にいかないと思ひ込んでらつしやるところがありやしないの? あなたつてさういふ方のやうにみえますわ」
「つまり、融通が利かないつていふんですか?」
 素子は、さうはつきり云はれると、さうだとも云へないで、たゞ、声をたてゝ笑つた。
「さうかも知れませんね。自分ぢやさうでもないつもりなんですが、今までの境遇と云ひ、やつてる仕事と云ひ、どうもさうなりがちでせうね」
「そんなことより、早く肝腎なこと伺はなくつちや……。その候補者つていふのはどんな方?」
「まあ、さうせかないで下さいよ。お話をするのには順序がありますからね。あ、こんなに歩いてばかりゐていゝんですか?」
「あたくしは、ちよつと休みたいわ」
「こいつはいかん、うつかりしちやつた。さあ、こゝからだと、どつちが近いかな」
 帝室博物館のまへを過ぎて、別の新しい建物のそばへ来てゐた。
「あなたは上野にかういふものがあるのご存じですか」
 見ると、「東京科学博物館」といふ標札がかゝつてゐた。
「いゝえ、存じませんでしたわ」
「さうでせう。知つてるものは少いんですよ。覚えといて下さい」
 幾島は、さう云ひながら、そんなに得意さうではなかつた。
「さつき先輩を訪ねたのは、こゝなんです」

 ほんたうのところ、素子には、科学博物館などはどうでもよかつた。そのまゝそこへしやがんでしまひたいくらゐなのを、強ひて自分を励ますやうに、
「さうさう、いつか採集に連れてつていただく筈でしたわね。さういふ機会、最近におありにならない?」
 と云つて、幾島の方を顧みた。
「それがね、どうも……だんだんさういふ機会がなくなりさうなんです。僕の専門の範囲ぢや日帰りの採集なんてのにはあんまり縁がないですから……」
「また、夏、あそこへ講演にでも来ていただかなければね……」
「あゝ、講演で思ひ出しました。例の水源の問題はどうなつたでせう? 僕は、あれから、小峯といふ青年に一度手紙を出さうかと思つたんですが……」
 幾島はそこで急に熱を帯びた調子になり、素子は、おやと思つた。
「あん時も、会つて話してみたいつておつしやつてましたわね。あなたがさういふ方面に興味をもつてらつしやること、あたくし、なんだか不思議でしたけど……やつぱりさうなのね」
「そんなに感心しないでくださいよ。僕は何にでも興味をもち過ぎるんです。しかし、結局、科学者の領域を出ないところがまた特徴なんで、ある種の問題に対しては、自分ながら微温的で、歯痒いくらゐですよ」
「それがつまり冷静な態度つていふことにはならないんですの?」
「自分ではそのつもりでゐることもあるんですね。しかし、やつぱり違ふんです。敢然と起ち上らなけれやならんといふやうな時にですよ、自分は科学者だから、まあまあそれには及ぶまいつていふやうなところがないとは云へないんです。実際むづかしいところですがね」
 それは科学者に限らないことだと思つたけれども、素子はわざと話題をかへて、
「あなたはご自分が都会人だから、都会人の弱点をよく知つてゐるつておつしやつたわね。さういふ眼でごらんになつて、あの上州の田舎の人たちに、どんないゝところがあるとお思ひになる?」
「さういふ風に訊かれると、ちよつと返事に困るんですが、僕は農村の特色といふものを飽くまで尊重するんです。農村は農村として純粋な、そして理想的な発達のしかたがあることは、いつかの青年代表が云つたとほりだと思ひます。それはしかし、都会的なものの影響を受けないといふことだけが条件ではない。やはり、都会と農村との間には、経済的な面ばかりでなく、文化的な面でも、互に有無相通ずる意味での交流作用が必要です。これを、単純な頭で考へると、常に、都会が農村をリードするやうに見えるんです。これは都会人の優越感といふものを植ゑつけた、古来の文明観に罪があるんだと僕は信じるんですが、そこを僕は、あの曾根の青年たちに話してみたいんです」
「あなたにご紹介しませんでしたかしら、うちへしよつちう来てる石屋さんで、兵隊に行つてたひと……?」
「あゝ黒岩君でせう、知つてますとも……。あれはまた利口者ですね。一種の……」
 恰度茶店の前へ来たので、素子は、ちよつと立ち止つて幾島の顔をみた。

 幾島暁太郎は、その茶店の表構へを不思議さうに眺めまはした挙句、なんとも云へない弱つたやうな顔をして、縁台の並んでゐる土間の方へ歩いて行つた。
「なにか飲みますか?」
 素子はちよつと考へて、
「あたくし、サイダア」
 と、いやにはつきり答へた。
 二人は一つの縁台の反対側に腰をおろした。
「あの石屋も、たしかに面白いですね。しかし、あゝいふタイプはそんなに珍しくはないでせう。兵隊に行つて来て、ちよつとかうハキハキしてるところが、あなたにはいゝんだなあ」
「あら、別にそんな意味で云つてるんぢやありませんわ。今の都会人の優越感といふやうなものね、それを、農村のある種の人たちが不都合だつていふんでせう? つまり、都会人に対して反感をもつ理由が、自分たちに自信がないつていふところにあるんでせう? それが、あたくし、をかしいと思ふの」
「その自信がないつていふのが、彼等の罪ばかりぢやないとしてね」
「えゝ、でも、とにかく、あの石屋さんなんかをみてると、そこが実に気持よくはつきりしてると思ふのよ。そんな、都会とか田舎とかにこだはらないで、自分の能力に十分の矜りをもち、それを利用するものに好意を寄せるといふ、あの感情は一番自然ぢやないかと思ふの」
「なかなか派手なところもあつてね」
「さう……それは、あたしたちが見物になつてるから……。しかたがないのね」
「それにしても、先生は、戦争の話をあんまりしたがりませんね。これも、意識してかどうか知らないけれども、要領がいゝと思つたな」
「さう、さういふところがあるわね。どういふの、あれは? 本能でなんか嗅ぎ分けるみたいなところ。凄いわ」
「それも、野生美のなかへはひるんですか?」
「それだけがどうかうつていふんぢやないわ。野生美だなんて、あたくし、そんな言葉使つたかしら?」
「さて、そこで、僕の話ですがね、真面目に聴いて下さい」
 と、彼は、からだをぐいとねぢ向けた。素子も、釣り込まれるやうに、瞼を引きあけた。
 ちよつとした沈黙の後、幾島はこんな風に切り出した。
「僕がこの夏あなたを知つたといふことは、これは僕の生涯にとつて重大なことだと思ふんです。僕は、率直に云ひますが、今迄、恋愛をしたことはありません。恐らくあなたに対する僕の崇拝の気持を、このまゝ押し進めれば、これが恋愛になるんでせう。それはもうたしかですが、しかし、僕は、さういふ感情の前で、自分がやつぱり冷静でありすぎる矛盾をどうすることもできないんです。つまり、あなたと僕との間には、もうちやんとさういふ道を踏まない約束のやうなものがあると、自分できめてしまつてゐるんです。かういふ告白をすることは、男として卑怯でせうか?」

 素子はだんだん相手から視線をそらして、木立の奥へ分け入る道の彼方を見つめてゐた。
 が、たうとう自分がなにか返事をしなければならぬ番になつた。
 これまでに彼女が経験したいくたりかの男性の、いはゆる愛の告白とはだいぶん勝手の違つたものである。をかしくもあり、しほらしくもありといふやうな気持が、彼女をついどぎまぎさせた。
「しまひまで、お話伺ふわ。それでどうしようつておつしやるの?」
 表面はたしかによそよそしい返事であつた。
「えゝ、それで、つまり、僕としては、自分の女房になる女が、あなたにいくらかでも近いつていふことを望むあまり、その選択をあなたにお委せしようと思ふんです」
 そこで素子は、驚いたやうな、話を真に受けないやうな顔をした。幾島は慌てゝ付け足した。
「それは決してあなたに責任を負つていただかうなんていふんぢやありません。まあ、さういふやり方のなかには、僕流の結婚観も含まれてゐるわけなんです。例へば、こゝに半職業的の仲介者といふやうなものがあつて、一人の花嫁候補者を推薦して来ます。いろんな条件はまあ大体、合格としますね。最後に残る問題は、双方で会つてみて、気が進むか進まないかでせう? 一度で不安なら、しばらく交際をしてみる。そんなことがいつたい、なんになると僕は思ふんです。可笑しいですか、かういふこと云つちや?」
 なるほど素子は、唇のはしで笑つてゐる。
「をかしくないわ」
「いや、をかしけれや嗤つてもいゝですよ。僕は自分の信念としてこれは云ふんです。この相手と結婚して、果して自分は幸福だらうか、そんなことを考へながら、男と女とが一緒に道を歩いてゐるとしたら、こんな滑稽はありませんよ」
「そんなことをしろつて、あなたに誰が云ふの?」
「え? 誰がつて、つまり、仲介者にしろ、その花嫁候補者の親にしろ、或は当人自身、それを云ふんです。僕は、それはいやだから、会つた以上は必ず貰ふ。その代り、会はせるのはすこし待つてくれつて云つてるんです」
「そんな理窟つてあるか知ら? 会つて、向うがいやだつて云つたらどうなさるの?」
「………」
「オホヽヽヽヽ、それは考へてもみなかつた、でせう?」
 大業に、素子は腹をよぢつた。
「さういふ意地のわるい調子で、僕の失言を笑ひ飛ばさうつていふんなら、もうなにも頼みませんよ」
「あ、さう。意地わるだつたらごめんなさい。だつて、さういふお話をちやんと聴くのつて、それやむづかしいもんよ」
「聴く方より、云ふ方がずつとむづかしいですよ」
「それや、まあ、さうね。あたしはいけないの、すぐ揚げ足をとる癖があつて……」
 意外に素子がすツと折れて、幾島は拍子抜けがしたらしく、不機嫌に尖らした口をそのまゝお道化面どけづらにして、
「どうも、こゝぢや工合が悪いや。なんかすうすう風通しばかりよくつて……。小母さん、こゝいくら?」

 かうして二人は、その茶店を出てまた歩きだした。
 が、素子は、すぐ道ばたに立ち止つて、顔をなほしはじめた。
 幾島は、五六歩先へ行つて、それに気がつき、歩をゆるめる。
 素子は、鏡をのぞきながら、時々、上眼使ひに幾島の方を見た。不自由な右手がだらりと下つてゐるのが、なんだか急に目に立つ。全体に伸び伸びとした感じのところへ、そこへ来てがくりと調子が狂ひ、見すぼらしく、とげとげしい。彼女はハツと呼吸をとめたくらゐである。今日までの彼からは一度も受けたことのないこの印象について、彼女は自分の眼よりも心を疑つた。
 ――あなたと僕との間にはもうちやんとさういふ道を踏まない約束のやうなものがある……。
 さつきの彼の言葉がふと胸に浮ぶ。と、一種自責に似た気持が、顔をほてらせ、彼女は眼を細めて彼の方を見据ゑる。
 そこには、痛々しいが、どこにも暗い影のない青年の姿があつた。
 ――男がかういふ告白をするのは卑怯でせうか?
 彼のその言葉の意味もやつとわかつた。わかつたばかりではない。それは、この世の最も厳粛な言葉であるとさへ思はれた。
 しかし、若し、その言葉が彼の口から漏れず、沈黙がよくその意味を伝へるのであつたら、一層見事だつたらうと、彼女は、そつと胸につかへるものを呑みくだした。
 が、それからの話には、素子は茶々をいれることをやめた。彼も、ぐつと楽に話ができるやうであつた。で、結局、彼女は、その令嬢と単純に交際してみることを彼に勧め、彼も遂に、
「さうするかな。やつぱりさうだらうな」
 と云つた。
 その日は、それで別れて、素子は、本郷通りの映画館でニユースをのぞいて、家へ帰つた。
 夕食の時、彼女は母に今日の話をざつとした。どういふところに最も興味をもつかと思つて話したのであるが、母は、あるところでいきなり茶碗を下において、
「ちよつと、ちよつと、ちよつと、ちよつと……その方は幾島さんつておつしやるの? 幾島さんね、たしかにさうだ、で、そのお嬢さんの方は? 久保幸枝さんつておつしやりやしないかい?」
「さあ、それや聞かなかつた」
「理学士で、片手が不自由で……しかし、立派な方だつてね」
「ママ、それ、なんの話?」
「なんもかんもあれやせん。あたしが頼まれてどつかへお世話をしようと思つてるお嬢さんなのさ。それが……、つい一と月ほど前から、その口がかゝつたのはいゝんだけれども、あんまりおいそれとこつちが乗り気になつちまつたもんだから、先方でも少し首をひねりだしたらしいんだよ。なにしろ理学士つていふんで、すつかり有がたがつちやつてね、やれ、家を持たせる、研究費は出すで……」
「まだ見合もしないんですつて?」
「ところが、こつちぢや、ちやんと見ちまつてあるんだよ。これやまあ、あたしがお膳立をしたやうなもんだけど……」
 素子は唖然として、母の顔を見直した。
「ママは、そんなら、その娘さん識つてるの?」
「あゝ識つてるどころぢやない。可哀さうに、二十三で肋骨が二本ないんだつて。これや、ま、内証だけどさ」
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 それから一と月ばかりたつたある日の昼すぎ、素子は伯爵家の書庫で最近買入れた古文書類の目録を作つてゐた。
「斎木さん、お電話……」
 と、奥女中のお鶴さんが知らせに来た。出てみると、男の声で、
「いまお暇ですか?」
 咄嗟に、いろんな男の顔が眼に浮んだ。
「どなた?」
「僕、幾島です。ちよつとお目にかゝりたいんですが……」
 彼女は、ちよつと躊つた末、
「あたくしに? えゝ、それやいゝけど、今すぐ?」
「早い方がいゝんです。若しできたら、伯爵にもちよつと会へるやうにしてください、これや、しかし、今日でなくつても……」
「ぢや、こちらへいらしつてよ、お待ちしてますわ。伯爵のご都合はあとで伺つてみますから……」
 さう返事をして電話を切つたものの、いつたいどんな用事で、こんなに急に会ひたいといふのか、殊に伯爵に会はせろといふのはどういふ目的なのか、彼女は、彼のその後の消息をまるで聞いてゐないだけに、ちよつと気になつた。
 が、やがて、取次の給仕が彼の名刺を持つて来た。
「小さい応接、空いてるわね。あつちへお通して」
 幾島暁太郎は、その応接の瓦斯ストーヴの前で、珍しさうに部屋の様子を見廻してゐた。
「いらつしやい。随分ご無沙汰ね。今日はなに、お休み?」
 素子は、女主人ではないが、それでゐてちやんと自分の家にゐる気安さを、すべてに示してゐた。
「僕、先月限りで勤めをやめました。それから、いつかの話、きつぱり断りました。なにもかもやり直しです。見ててください。やつとこれで、僕にも、自分の力つていふものがわかつて来ました」
 幾島は努めて落ちつかうとしてゐる。それはよくわかつた。事実、言葉の調子は、おのづから強く弾みがあるやうなところはあつたけれども、それを一方で抑へ抑へしてゐる様子が、なにか懺悔でもしてゐるやうなかたちであつた。
「あら、だしぬけにそんなことおつしやつたつて、あたくしにはよく呑み込めないんですけれど……」
 と、素子は、知らず識らずある感動のなかに引ずり込まれて、もう声が上ずつてゐた。
「えゝ、それやさうかも知れません。ですから、それは追々わかつていただけばいゝんです。とにかく、今日は、僕の最初の仕事として、例の泰平郷の水源地の問題ですね、あれを曾根部落の青年たちと話し合つてみたんです。大体、解決の見透しがついたんですが、それについて、是非、僕から伯爵のご意見を伺つておきたいと思つて……」
 さう云ひながら、幾島は額の汗を拭いた。
 素子は、なにかまだ腑に落ちないところはあるけれども、相手の真剣な態度と、明瞭な言葉とを疑ふことはできなかつた。

「でも、そんなことに係り合つてらしつちや大へんぢやない?」
 素子は、たゞ幾島の一本気に不安を感じないわけにいかなかつた。
「いや、ところが、かういふ風にぶつかつて行くと、そんな係り合ひなんていふことぢやなくなつて来るんです。僕、今迄、こんなに全身的に生き甲斐を感じたことはないですよ」
「あらあら、そんなに……ぢや、あなたは政治か社会運動の方へ行く方だつたんだわ」
「いや、いや、さういふこととは違ひますね。僕はやつぱり学問が好きです。それも直接応用の利かないやうな学問、まあ、早い話が、植物学のなかでも分布学つていふやうなものをやつてませう。これは、僕の本質的な傾向なんです。しかし、一方で、人間としての、或は、日本人としての、現代に処する生き方といふ問題があります。これは、学問なら学問の領域で、自分が担当してゐる部分を如何に育て上げるかといふことと混合してはならないと思ひます。僕は第一に、植物学者の資格で役所の雑用などしてゐては駄目だと思ひました。その次に、僕は、自分を駆りたてる熱情の方向へ、躊躇せずに足を踏み出さうと決心しました」
「………」
 大きくうなづいて、素子は、相手の燃えあがる瞳の輝きを、自分の瞳のなかに感じてゐた。
「山へは何時いらしつたの?」
 と、彼女は静かに訊ねた。
「えゝと、二度行つたんですが、最初は、この月はじめでした。二度目の時は、あそこから峠を越えて、軽井沢の方を廻つて来ましたよ。もう木の葉がすつかり落ちて、満目蕭条といふ眺めでしたけれども、いゝお天気で……」
「あら、ずるいわ……」
「曾根の青年諸君が二人、峠まで道案内をしてくれました」
「意気投合ね、すつかり?」
「まあ、そこまではね。しかし、その後はどういふことになるかわかりません。僕は、わざと向うの事務所の人には何もいはずに来ました。これが結局、事を面倒にしてるんですから……」
 ドアをノツクするものがあるので、二人は一斉にそちらを見た。素子は、返事をする代りに起つて行つた。が、出会ひがしらに扉が開いて、伯爵の姿がにゆつとそこへ現れた。
「あら……」
 と、素子は、ちよつと困つた風であつた。
 幾島は、席を離れて、もぢもぢした。
「なんだ、君か……うん……幾島君だつたな。まあ、まあ、掛けたまへ……。さうか……。僕に用はないの?」

「いえ、只今、ちやうど、あたくし伺はうと思つてをりましたの」
 と、素子は弁解するやうに云つた。
「はあ、お差支なければ、ちよつと……」
 幾島もこゝで伯爵の方へ向き直つた。
「まだ詳しいことは伺つてをりませんのですけれど、なんでも山の水源地の問題で、わざわざあちらへおいでくだすつたんださうでございます」
 彼女がそれだけ云ふのを待つて、幾島は、あとを続けた――
「差出がましいとは思ひましたが、この夏、あの会見に立会はせていただいた関係もありますし、問題の性質上、僕がひとつ第三者として、最も合理的に解決の道を探し出してみようといふ気を起したんです。もちろん、僕はまだ自分の経験にも技術にも頼ることはできませんが、この問題に限つて、えらく、自分の常識と熱情とが物を言ふだらうといふ風に、ひそかに信じてゐました。一方で、お前の出る幕ぢやないつていふ声は、しきりに耳のそばで聞えてゐるんです。しかし、今度といふ今度は、なにか知ら大きな力にぐんぐん押されて、そんな声は問題ぢやなく、ごく自然に、起ち上ることは起ち上りました。そして、結果は、だいたい、僕としては満足なんです」
「ほゝう、それやご苦労でした。しかし、あの問題はね、僕は実は迷惑しとるんでね。この間も、あそこの経営を委せてある田沢といふ男に会つたから、うるさい問題をこつちへ持ち込まんやうにしてくれ、さもなけれや、僕はあの別荘へはもう行かん、と云つてやつたんだ。すると、――いや、もうあの問題はとうに片づいた。一部の青年がぐづぐづ云ひよるのは、あれやつまり、農村のインテリといふ新興階級の幼稚な示威運動だ。相手にせんでえゝ、と、まあかう云ふんだがね。こゝのところは、しかし、いろいろ立場によつて意見も違ふだらう。で、君の今度のお骨折りはどういふ形で表面に表はれて来るかな? 僕はもうどんなことがあつても口は出さんつもりだが、参考のために伺つといてもよからう、なあ、斎木君」
 と、伯爵は、妙なところで女秘書の同意を求めた。
「僕も、こゝへかういふ話を持ち込んで来たのは或は筋道を間違へてゐたかも知れませんが、しかし、問題は決して事務的に解決はできないんです。向うの要求は具体的になつて来ましたが、その精神に応へるものは、やはりこつちの精神です。いつたい、泰平郷の精神的中心といふのは何処にあるんですか?」
 幾島の、この唐突な、しかも、勢ひ込んだ問ひを真向に浴びて、伯爵は、ふと、我れに返つたやうに、
「さあ、どこにあるか? 斎木君」
 と、また女秘書の助太刀を求めるのであつた。
 素子は、さういふ時、うかつに口を開かうとしない。伯爵は、しかたがなしに、
「それやまあ、泰平郷建設事務を指導する委員会といふものがある。これは云はばあそこに家を持つてゐる連中の協議機関です」
「あなたが顧問をしてをられるのはそれですね?」
 と、幾島は鮮やかに切り込んだ。

「あゝ、顧問といふことにはなつてゐますが、その委員会はまだ一度も開かれたことはないんでね。委員長以下、名前は並んでゐるけれども、まだ土地の契約だけで家を建てゝゐない人もあるくらゐなんだ」
 伯爵はひとりでに答弁をさせられてゐる。
「なるほど、よくわかりました。村の青年たちは泰平郷建設の事業といふものを、宣伝通りに解してゐるんです。つまり、都会に於ける無産知識階級の夏季保健道場が、立花伯爵始め有力な名士の後援で出来上るのだと信じてゐるんです。従つて、最初は相当の期待を以て、この企てを歓迎するやうな気持でゐたんださうですが、いざ、現実にそれがだんだん形をとりだすと、自分たちの期待したものとは遥に違い、軽佻浮薄な都会色の誇示が全部だつたと云ふんです」
「彼等は恐らく避暑地らしい避暑地といふものを知るまいからね」
 と、伯爵は薄笑ひを浮べた。
「しかし、僕の感じたところでは、ちよつとそこに面白い矛盾があるやうなんですが、……」
「うん、矛盾だらけさ。第一、そんな抗議がなにになるといふんだ。われわれに向つてさうして肩を怒らしてるひまにだ、彼等は、もつと眼に見えん力で、予想もしない方向へ押し流されつゝあるんだ」
 伯爵は、さう云ひながら、消えた葉巻に火をつけようとしてあたりを探してゐる。素子はすかさずマツチを擦つた。
「いや、僕の云ふ意味はそれと違ふんですが……」
 幾島は、ふと眉を寄せて、素子の動作に見入つた。小さな炎をつまんで、白く浮く素子の華奢な手が、それに近づく伯爵の膏ぎつた顔の下で静かにふるへてゐるやうに見えた。
「するとまあ、結局、どういふことになりますかねえ?」
 煙のなかで伯爵の物憂げな声がした。
 ――どうなるものか!
 と、幾島は苦つぽく、心の中で云つた。そして、もう起ち上る身構へで、
「いや、この問題はもう少し考へてみます。僕はなにか勘違ひをしてゐたかも知れません。失礼しました」
 すると、伯爵は、急に語調をあらため、
「あ、さう。ではまた……。近頃、大沼先生もお変りはないかな? お会ひになつたらよろしくどうか……」
 さう云ひすてゝ、さつさと奥へ引つ込んでしまつた。
「どうもをかしい。僕はこんなことを云ひに来たんぢやないんだ。曾根部落の青年たちは、泰平郷の無産インテリ階級の若い女のひとたちに対して、想像以上の反感を抱いてゐるつていふことを、あの事業の中心になつてゐる人の耳に入れておきたかつたんです。彼等は、泰平郷の別荘人種を決してブルジヨアだとは思つてゐないんだ。却つてブルジヨアでもないくせにといふ軽蔑を交へた敵意が、僕には特に強く感じられて、はゝあ、そんなもんかなと思ひました。なかなかややつこしいでせう?」
 また素子と二人きりになつた気安さで、彼はそのまゝ喋りつゞけた。

 素子はかうして幾島の話を聴いてゐるうちに、彼が「田舎」といふものを「自然」と同じやうに考へてゐることがわかり、さういふ頭で、あの事件を処理しようとするところに、彼の善良な夢があるのだと思つたけれども、それはこの際云はないことにして、たゞ、
「伯爵はあゝおつしやつてますけれども、ほんたうは、さういふ問題を、あそこでは誰よりも気にしてらつしやるのですから、あなたのお蔭で来年からあんなどさくさがなくなれば、どんなにおよろこびになるかわかりませんわ。もちろん、あなたのお仕事は、もつと大きいところに目標がおありになるんだけれども……」
 と云つて、その「善良な夢」に心からの敬意を送つた。
「いや、そんな大きな目標なんぞありやしませんよ。たゞ、あなたにさういふ意味を汲んでもらへれば、僕の努力は報いられたも同然です」
 彼は思ひきりよく起ち上つた。そして晴れ晴れとした気持で玄関を出た。
 が、玄関のドアの外に立つて、いつまでも自分を見送つてゐる素子の姿が、急に植込の蔭にかくれて見えなくなると、幾島は、ほつと溜息をついた。
 ――畜生、なんていふわけのわからん女だ! おれには十分彼女の好意を感じることはできるが、その好意は、おれだけには十分だと云へても、そんなものは、彼女の与へ得るもののすべてにくらべれば、それこそ爪の垢ほどでもないんだ。彼女は一人きりだが、相手次第で、いくつものめんをごく自然に使ひ分ける妖しい力をもつてゐる。それは次ぎ次ぎに変貌を重ねる技術ではない。常に同時に、いくたりにでもなり得る性能だ。だから、どの一つの表情にも、仮の姿はない。どれもこれもほんとなんだ。どれもこれも素晴らしいんだ……。あゝ、おれには、そのうちたつたひとつが必要なんだ。……だから、それは不可能なんだ……。
 彼は殆ど何処を歩いたか覚えてゐない。
 三田の高台を降りて、二ノ橋に差しかゝつた時分、彼はこれからまた大沼博士を訪ねて、県庁の方をやめた事情を話し、またしばらく何処かの研究所に籍を置く相談をしに行かうと思つた。
 それには目黒の方へ出なければならぬので、しばらく電車を待つてゐると、すぐ眼の前の歩道を鞄を鞄へて、さも毎日歩き慣れた道を歩くやうにのつしのつしと、旧友安藤正樹が歩いて行く。
「おい、安藤、もう帰るのか?」
 といふ声に応じて、
「よう、珍しいな。たまにはこつちに用があるのか?」
 そこで、二人は、どつちからともなく肩をならべて、同じ方角へ歩き出した。
「あの話ね、どうしても駄目か? おれはもううるさいから相手にしないんだけれどね、再三、当人がやつて来て、家内に泣きつくんださうだよ。会ひもしないで断るんなら、もつとはつきりした理由を聞かして欲しいつていふんだ。家内は君、なんにも知りやしないからね。――幾島さんてどんな方? 随分果報者ねえつて、さう云つてたよ、ワツハツハツハ」
 安藤はいつもの調子である。

 この安藤といふのは、中学時代の仲間で、ある私立大学の文科を出て、この附近の女学校の教師をしてゐるのであるが、この夏前、ひよつこり幾島を訪ねて来て、
「僕の家内の友達で女高師を出た才媛がゐるんだがね、これがどういふわけか知らんけれども、君のことをよく識つてゐてね、家内になんとかして会はせてくれと云ふんださうだよ。会つてどうするのかと訊くと、はつきりしたもんだ、よかつたらお嫁に貰つてもらふと、かうなんださうだ。家内が笑ひながら、僕にどうしませうと云ふからね、それや、あのひとなら幾島はことによつたら気に入るかも知れんよといふわけで、早速やつて来たんだがね、君はむろんまだ独りだらう?」
 といふ藪から棒の話であつた。
 当時、いろんな方面から、例へば親戚の誰彼とか、父の勤先の上役筋とか、或は母の関係してゐる婦人団体の役員仲間とかから、引つきりなしに候補者を突きつけられてゐた矢先であつたから、これも大して驚きはしなかつたが、話の起りやうが如何にも常例を破つてゐるので、十分彼の注意を惹いたことは事実である。しかし、そんなら、その友達の勧めに従つて、一度、それとなく「落ち合つて」みるといふことは、どうしても、小ツ恥かしくて、彼にはできさうもない。
「まあ、考へておかう」
 で、その安藤は一旦帰つたのであるが、その後手紙でまた決心を促して来た。
 ――僕の話しやうが不味いからではないかと、直接には女房から、だから間接にはむろんH嬢から、僕は不信任状を突きつけられ、相当面目を失ひかけてゐる。なんか、はつきり、当人が納得するやうな返事をして貰へまいか……。
 彼は、そこで、かういふ意味の返事をした。
 ――君の好意は感謝するが、僕は一人の女を自分の妻として撰ぶのに、その撰択理由を何人にも公表する義務はないと思ふ。従つて、某候補者の不適性を明示するかしないかは僕の自由に委せて欲しい。
 それきり安藤との交渉は絶えてゐるのだが、今日、こんなところで偶然顔を突き合せたのである。
「すぐそこだ、寄つてけよ。かういふ時でなけれや、お互の家庭をのぞくなんてことはまづないからな」
「うん、しかし、今日はやめとかう」
「どうしてだ? あの話はもういゝよ。済んぢまつたことにしとくよ。とにかく、茶を一杯飲んで行くだけならいゝだらう?」
 幾島はたうとう譲歩した。
「君細君と二人きりか?」
「いや、子供が一人ゐる。早いもんだらう」
「早いな。しかし、君は昔からなんでも早かつたよ」
「馬鹿云へ。そんなこと云や、君が恋愛小説なるものをはじめて僕に読ましたんだぜ」
「うゝん、そんなことぢやなくさ。君は、おれたち仲間のうちで、誰よりも一番思慮分別があつた」
「だから子供を早くこさへるつていふのは、どういふ論理だい?」
 そんな戯談口をきいてゐるうちに、二人は魚籃坂下へもう来てゐた。電車通りを左へはひり、路地をいくつか曲り曲りした。
「こゝだ」
 安藤は格子作りの門の潜り戸を引きあけた。

 と、その瞬間、家のなかから、火のつくやうな子供の泣き声がした。
 安藤は玄関の外から、
「おい、お客さま……幾島だよ」
 と、奥に向つて叫んだ。
 しかし、誰も返事をするものがなく、子供の泣き声だけが文字どほり障子をふるはせてゐる。
「おい、ゐないのか?」
 上へあがると、いきなり、
「あ、どうしたの?」
 といふ、安藤のおびえたやうな声に続いて、細々と絶え入るやうな、女の何ごとかを訴へる気配がした。
「朝からつて、そんなら誰かに電話かけさせるぐらゐのことできなかつたの? 馬鹿だなあ、子供だつて、これぢや可哀さうぢやないか!」
 幾島は、上り口で、どうすることもできず、息を殺してゐた。
「やあ、失敬、々々……、とんだ醜態を見せちまつて……、家内が急に加減が悪くつてね……。なんだかわからんが、とにかく熱があつて、ひどく腹が痛むらしいんだ」
 まだろくに口も利けぬくらゐの女の子を抱いて安藤が出て来た。
「盲腸ぢやないか?」
 幾島は、去年、嫂の発病の状態を聞いてゐたので、ふとそれを云つてみた。
「うん、さうかも知れないね。さうすると、外科だね」
「しかし、わからないよ。先づ内科の医者に早く診せるんだな。誰か近所にかゝりつけはないの?」
「あゝ、内科小児科つていふのがあるんだ。子供が時々世話になるんでね」
「内科小児科か! ぢや、内科の方でしつかりやつて貰ふんだな。どこだ? おれが呼んで来てやらうか?」
 彼は、もう飛び出す身構へをした。
「いや、おれが行く」
 と、安藤は沈痛な面もちで、なにか思案のていであつた。やつと泣きやんだ子供は、さつきから幾島の顔を横目でぢろぢろ見てゐる。
「トオちやん、お医者さん呼びに行くから、その間ヲヂちやんと遊んでるかい?」
 安藤がさう云つて、彼女の顔をのぞき込むと、またウエーと泣き出した。
「あなた……あなた……」
 奥から細君が呼んだ。
「君をわざわざ引つ張つて来て、この有様ぢやどうも、進退谷まつた。失敬だけど、このまゝ帰つてくれ。何れまた招待しなほすよ」
 呼ばれる方へ心を惹かれながら、後ずさりをするやうにして、安藤はしきりに頭をさげる。
「うん、それやまあ帰るが、その前に手伝ふ用事がありさうだな。もうちよつとこゝで様子を見てゐよう。おれにはかまふな」
 玄関の上り口へどかり腰をおろした幾島暁太郎は、抑も今日はなんの廻り合せでかういふところへ飛び込んだらうと考へた。
 まだ見たこともない女が、その唐紙の蔭で呻いてゐる。旧友の細君だ。しかし、今日まで一度もその安否について考へたこともない女である。それが、今は、自分の肉親ででもあるかのやうな惻々とした不安にをのゝきながら、彼は彼女の苦痛を見守つてゐるのである。

 医者が来て、やはり盲腸炎の疑ひがあるといふので、すぐに入院ときまり、その医者の紹介で築地の聖路加病院へ病人を運ぶまでおよそ二時間、電話をかけたり、寝台車へ毛布を運んだり、担架の通る道をこしらへたり、幾島は無我夢中で手伝つた。
 担架の上から、若い女の蒼ざめた顔が彼に会釈をした。
「お大事に……」
 と、彼は道ばたで見送りながら云つた。
 安藤が病院へ附添つて行く代りに、留守居と子供の世話を兼ねて細君の母親といふひとがやつて来てゐた。
「ほんとにありがたうございました。お蔭さまで助かりましてございます。まあちよつとおあがりくだすつて……こんなに取り散らしてをりますけれども、只今、なにかおあつたかいものでもさう申して参りますですから……」
 なるほど、寒い。腹も空いてゐた。が、幾島は、
「もう大丈夫でせう。あとは無事に手術が終つたといふ知らせをお待ちになればいゝわけです。今夜ぢゆうに、ちよつと電話をかけてごらんになるといゝですね。では、僕は、これで失礼します」
 表通りへ出ると、彼は、目黒行きのバスに飛び乗つた。
 大沼博士を訪ねるとちやうど晩酌の最中であつた。食事前なら一緒に有りあはせをといふので、老夫人はどんどん支度にかゝつた。
「まあ、どうなすつたの、幾島さん、新しいお勤先をもうよしておしまひになつたつて……」
 夫人の耳にはその消息ははひつてゐた。
「えゝ、それについて先生にもご諒解を得たいと思ふんですが……」
「事後諒解はなんにもならん。君たちはどうも就職といふもんを甘く考へすぎとるぞ。まあ、一杯やれ」
 といふ工合で、予期したとほり、うれしさうなお説教がはじまつた。
「もちろん、君の将来といふもんは考へんわけぢやない。専門の研究と云つたところで、それに没頭できる地位といふものは、これや、ちよつと、なあ、君、さうだらう、そこはわかつとるね。それだけのことがわかつて、あそこへ行つたならだ、もうちつとは辛抱してさ、また何処かで君を必要とする時機を待たんけれやいかんよ。それを後先も考へずにだ、君がさういふ風なことをするとだね、あとが困る、あとが……。いゝかい? さ、もう一杯どうだ? おい、幾島君の箸がない」
 博士は奥へ呶鳴つた。
「先生にご迷惑をかけたとしたら、申しわけありません。実は今度のことは自分の今迄のけちな量見を叩きのめすつていふやうな意味で、少しは我武者羅に振舞つた傾向がないとは云へないんです。学校を出るとなるたけ早く月給にありついてつていふ当節の青年気質かたぎを、自分が一番代表してゐるやうな気がして、途端に僕は、あそこへ勤めてるのがいやになりました」
 と、彼は、そこまでひと息に喋つて、ぐいと顔をあげた。

「うん、それやまあ、君が勝手にあそこを辞めた理由にはならんが……」
 と、博士は一向に動ずる色もなく、自分で徳利を取りあげて自分の盃を満たした。
「それはそれとしてだ、今後の問題だがね、僕としては、少くとも当分は君の世話はできんからな。そのつもりでゐてくれ。ほかの連中への見せしめといふわけだ。これや、私情のほかだよ」
「はあ、やむを得ないと思ひます。しかし、以前のやうに先生のお手伝ひはさせていただけませんか?」
「うむ、それも今云つたやうに、すぐといふことでなくだ、いづれ機会を見て、また頼むことにしよう。僕は、怒つとるんぢやないぞ、そこを誤解しちやいかん。いゝか。君の人物、才能を愛することに於て、ちつとも変りはないんだ。たゞ、世の中といふものはさういふもんだ。まあいゝ。もうわかつた、なあ。さ、駄目ぢやないか。ぐつといけ」
 幾島は、それきり黙つてゐた。彼は、恩師の宣告を当然と考へた。それと同時に、この問題で父が最近彼に示した態度の実に悲壮とも云ふべきものであつたことを想ひだし、彼は、自分の心事がどの程度に純粋であり、ほんたうの意味での勇気を必要とするものであるかを、更に深く省みようとした。が、実はまだ、さういふ時期ではなかつた。
 その日、家へ帰ると、父は炬燵にはひつて講談本を読み耽り、炬燵ぎらひの母は、わざと少し離れたところで靴下の繕ひをしてゐた。
「大沼先生がよろしくつておつしやいましたよ、お母さん」
 幾島暁太郎は、風呂へはひりに二階から降りて来ると、茶の間をのぞきながら云つた。
「おやおや、先生からあたしに? でもよく覚えてゝくだすつたねえ」
「それや、お母さん、あの先生はなんでも一度見ると覚えちまふひとなんですもの。殊に研究室へ菓子折なんか提げて来る女は、忘れる気づかひはありませんよ。簡次郎は?」
「まだ帰らない。九時だもの」
万千まち子は? さつきゐましたね」
「お勝手よ。いまお茶をいれるやうに云つたから……」
 彼はこの穏やかな家庭の雰囲気のなかにあつて、自分の進退が、何故に平地に波瀾を起すていのものでなければならぬかを、はつきり知ることができないのである。
「まあ、そこへ坐れ」
 区役所の一吏員としてもう老朽の域にはひりながら、家族の生計を支へるために未だに職を退くことのできぬ父であつた。
「大沼先生はなんておつしやつた?」
「別になんとも……。たゞ、先生のお世話ではひつたのに、先生に無断でやめたつていふんで、多少お冠のやうでした」
「しかし、お前の気持はわかつてをられるんだらう?」
「むろんです」
「そんならまあいゝ。あ、そこへ端書が来てたよ」
 父は、壁にかけた状差の方を顎で指した。母がそれを息子の手に渡した。
 差出人は、小峯喬。文面は、次の通りであつた。

拝啓陳者先日御来村の節は失礼仕候扨其後新水源地の件に就き貴下の御意見に従ひ種々事務所側と折衝致候も我等の希望は悉く斥けられ既に地主との調印も終れるやに聞及び候へば此の上は止むを得ず最後手段に訴ふる決心に御座候我等は固より成敗は眼中になく、一人斃るれば一人起ち上る長期抗戦の覚悟にて、農村には農村の精神あることを知らしむるを以て最後の目的と致すものに有之候時下向寒の砌御自愛専一に祈上候敬具
 官製はがきに細いペン字でいつぱいに書いてあるこの文章を読みながら、幾島暁太郎はそれが自分に宛てられたものだといふ実感がぴんと来ないのをどういふわけかと思つた。
 なるほどこの前二晩に亙つて彼等と話し合つた結果は、水源の問題と一般泰平郷の建設といふ問題とを切りはなし、水源の方は夏分だけの必要な水量を別荘に供給するといふことで妥協する案をたて、一般的な都会風俗の影響といふ問題については、別荘側の識者と懇談してその実状を訴へ、双方の最も健全な要求を満しあふ一方、別荘人士の自粛を要求し、農村への理解と同情とを徹底させるやう尽力を求めるより外あるまいといふのであつた。
 幾島はそれがためには伯爵を通じて、泰平郷の中心機関を動かすつもりでゐたのであるが、それが今日の話の様子では、なかなかおいそれと連絡がつきにくいことがわかつた。
 ――最後の手段とは何か?
 それをこの前も彼は小峯らにたしかめようとしたが、彼等は笑つてゐて答へなかつた。
「なんだ、その端書は? ひどく凄文句を並べたるぢやないか!」
 と、父はその時、雑誌から眼をはなさずに呟いた。
「えゝ、これがお父さん、現代の日本ですよ。何処を突つついても血が吹きだすんです。が、その血の循環がおそろしく悪いと来てますからね。名医の手術が必要ですよ」
「それやわかつとるが、お前がまさかその名医ぢやあるまい」
「さあ、さうでないと保証ができますかねえ」
 これは戯談のやうに云つて、彼は笑つた。しかし、彼の心は暗かつた。誰もがさういふ自信をもつて生れて来ない時代、誰もがさういふ自信のうへに自分の仕事を築いて行けない時代が、また日本の現在なのではないかと思つたからである。
 妹が盆に茶をのせて運んで来た。今年十九になる万千子は、兄の顔を見て云つた。
「どうしてか知ら……。とても今夜は疲れてらつしやるみたいね、兄さま……」
「うむ……さうだ、忘れてた……電話をかけなくつちや……。おい五銭、五銭……」
 白銅を一枚母の手から引つたくつて、彼は表へ飛びだした。
 自働電話は遠かつたので、近所の薬屋へ飛び込んだ。
「もし、もし、聖路加病院ですか? 今日入院した患者ですが、多分手術を受けたと思ふんですけれど、経過はどうでせうか、ちよつと調べていただけませんか? えゝ、外科です……五階のC……安藤弥生……、さう、女です……」
[#改ページ]




 十二月にはひつてからもう山には何度雪が降つたらうか? しかし、こゝ一週間は、この秋以来ないやうな上天気で、今日などは、空に雲ひとつ浮いてゐず、落葉を捲き上げる風もない。
 そこから上は水がまつたく涸れてゐるぬる川の谷伝ひに、みちらしい径もない熊笹の生ひ茂つた斜面を、右へ左へ分け登つて行く一人の男がゐた。密林とは云へ、悉く落葉樹であるから、割合に視界がひろく、この男の動作は遠くからはつきり見える。
 厚いジヤケツにコールテンのズボン、頭には戦闘帽、肩には猟銃の代りに鶴嘴をかついでゐる。
 時々、大木の根つこや、岩の突き出てゐる下をのぞき込んで、さてどつちへ行かうかと一つ時、ねらひを定めてゐるやうに見える。
 これは誰でもない、黒岩万五が、狸の穴を探してゐるのである。
 狸といへば、去年から県で「狸生捕」のコンクールを催すことを発表した。つまり、近頃頓に需要の増加した毛皮のための狸の養殖を奨励する一方、品質向上の絶対条件たる野生狸の交配を目的として、その供給を県下の山村に求めようといふのである。
 今年も同様の催しがあると聞いて、黒岩万五はひそかに北叟笑んだ。
 彼は、もう、この秋から七つの巣を見つけ、大小牡牝二十二頭を県農会の事務所へ送りつけた。試みに去年のレコードを調べてみると、一等、長野原町応桑の斎藤某、十九頭で、黒岩万五は全期の三分の一を経過しないうちに、前年度のレコードを突破してゐるのである。
 彼はふと頭の上で鳥の羽搏きを聞いて、顔をあげる。丸々と肥えた山鳩が枝から枝へ飛びうつつてゐる。彼は、肚のなかで――こやつ明日のことにしよう、と思ふ。鉄砲を今日は持つて来てゐないからである。
 と、急に、熊笹の一部が波立ち、その波が一と筋の跡をつけて、彼の方へ近づいて来る。
 彼は、低く口笛を吹く。雑種らしい小犬が、黙つて彼の足もとに蹲つた。すると彼は、その頭を撫でながら、新しい方角を指す。
「それ、行け!」
 犬はまた熊笹の中に姿を消す。
 彼は、バツトを一本喫ふ。
 やがて、けたゝましく犬が啼く。
 彼は急がない。腰から鉈を外して、木の枝を切る。ステツキができる。その先へ、用意した杉の枯れつ葉を一束結びつける。
 犬は、しばらく啼き止んで、また、以前よりも鋭く啼きたてる。
 黒岩万五の視線は一点に注がれてゐる。
 二た抱へほどもある楢の古木が立膝をしたやうに根を張つた、すぐその下に、僅かに熊笹が横倒しになつて、所謂「みち」をつけてゐるそのどんづまりが、だらだらと向う下りの、これはまた珍しく大きな狸の穴である。入り口がわかれば出口を見つけるのに暇はかゝらない。
 彼は、静かに鶴嘴を肩からおろした。二つの出口が塞がれる。それから、吠え狂ふ犬の頸輪をつかんで後ろへ引き据ゑる。
 マツチをすつて、杉の枯つ葉に火をつける。そして、それを入り口の穴のなかへ、ぢりぢりと差し込んだ。

 液体で云へばどろどろしてゐると云ふやうな、この杉の枯つ葉の、パチパチと音を立てながら燃える時の、あの煙の濃さはまた格別である。
 穴の中は忽ち隙間のないやうに白い煙で埋められる。グツグツと獣の鼻を鳴らす音が奥からかすかに聞える。
 さあ、こゝで、暇をかけると狸が死んでしまふ。けむがつて飛び出して来るところを取押へるといふのが普通の順序なのである。が、出口は悉く塞がれ、入口に犬と人間とが待ち受けてゐることを知らぬ筈はなく、狸どもは、どうせ殺されるなら、ぢつとしてゐて、家族ともども殺されようと大方は覚悟をきめるらしい。
 であるから、どうしても生捕りにするためには、こつちも無精せずに、早いところ手を突つ込んで、或は、頭からはひつて行つて、ふんづかまへるのが一番たしかである。ところがさて、そいつがさう生やさしいものではなく、うつかりすると指を食ひちぎられ、こつちが命からがら穴から這ひ出して来なければならない。
 黒岩万五は、さういふ呼吸を実に見事に心得てゐて、難なく、片つぱしから引きずり出す。一匹、二匹、三匹、四匹……。最後に、「あツ痛え、こん畜生!」と巫山戯た調子で、泥まみれの顔をしかめながら、ずるずると一番大きな奴の片脚を引つ張つて来た。
 犬が勢ひ込んで吠えつき、狸も歯をむき出して必死の抵抗をする。
 が、やがて、それぞれ、四本の脚を丁寧にくゝられ、棒の両端に逆さに吊されて、山を降つて来る。
 今日はまだ日暮れまでに間がある。しかし、獲物はこれで十分である。谷を真つすぐ降れば里に出る近道なのであるが、彼は、わざと斜面の中腹を、ぶらぶらあたりに気を配りながら歩く。この次の仕事の目あてを作つておくのであらう。
 中ノ条まで出て、高崎へ電話をかけると、二頭以上なら向うから狸を受取りに来る手配がついてゐるのである。親狸なら一頭百五十円以上の値になる。黒岩万五は、こんなぼろい商売はないと思つた。
 彼は一旦自分の小屋へ帰り、獲物を手製の檻へ移し、それから自転車を飛ばさうと、タイヤを指でおさへてみてゐると、そこへ、村の若い連中が二三人通りかゝつた。
「やあ、また捕つたかい?」
「うむ」
 と、生返事である。
「これで何頭になるね、万さん?」
「さあ、はつきり覚えとらんが、でけえのが十頭ぢやきくめえ」
「わあ……三千両がとこ稼えだか、へえ」
 大仰に呶鳴つて檻の前にたかる。
「あんまりいびるでねえ、こら」
 さう云ひすてゝ、彼は檻を小屋の中へしまひ、小屋の戸に鍵をかけ、それから、ふと思ひ出したやうに、そこにゐる若者の一人に、
「おい、昨夜ゆんべの集りでお前たちや何を相談した?」

「なぜ、返事をしねえだ? おらにや知らせてなンねえことか?」
「そんなこたあねえだ。ゆんべは正式の布令ふれを廻したんぢやあんめえ。東京からたかさを訪ねて幾島つていふひとが来ただよ。この前に来た時や万さんにも知らせたづら。そんで、近所のもんが五六人集つただ」
「近所のもんていふが、お前たちや、勝手に仲間を作つて、ごそごそなにを企んどる? 幾島つていふ人は、どこにゐるだ、いま?」
「ゆんべは集会所へ泊つて、今朝早う、水源地を見に行くつて話ぢつやつた」
「水源地を? 喬の案内でか?」
「喬さは、今日はからだがあかんと云つとつた。多分、彦太が行つたづら」
「よしツ」
 と、彼は、そのまゝ自転車に飛び乗つて、中ノ条への道を走らせた。
 その晩のことである。曾根部落のはづれに建てられたバラツク風の青年団集会所には赤々と電燈が点つてゐた。この建物は今から五年前、部落青年の労力奉仕によつて、約三ヶ月の日子を費して出来あがつたものであるが、その当時六十何名かあつた団員の数が、今日では、二十何名に減つてゐて、事変のための応召出征を勘定に入れても、五年前の数とは比較にならないほどで、これはつまり、青年の離村者が急激に増加した証拠だといふのである。
 三間と四間の広間に茣蓙を敷いて、その茣蓙がもうところどころ擦り切れてゐる有様である。大きな瀬戸火鉢が一つ、その周りに、七八名の若者が胡坐をかいてゐる。
 その中に、幾島暁太郎の、外套を背中に引つかけて、肩をすぼめた姿が見える。
「とにかく、専門家に水量の測定をして貰つて、来年の夏までに工事が間に合へばいゝんだから、さういう風に是非とも話をつけようぢやないか。事務所でさうわからんことを云ふなら、僕が口を利いてみてもいゝですよ。その代り、君たちの方でも、この問題はこの問題として、穏やかに解決をつける態度でかゝつて貰はなくつちや……」
 幾島がさういふのに応へて、小峯喬が、
「あゝ、それも向うの出方ひとつだで。わしどもの云ふことを徹頭徹尾馬鹿にしてかゝつとるだでねえ。そんならそれでいゝつていふことになるだよ。なんべん木管を掘り出してみたところで、向うで人夫を入れりやそれまでのことで、致命的な報復手段といふのは、どうせ誰か一人ぐらゐ犠牲を出して、あの水を気持よくは使へんやうにしてしまふのが一番えゝと思つとるんです」
「といふと、どうするんだらう?」
 幾島の眼はきらりと光つた。
「まあ、そいつは……」
 と、小峯は、傍らの男を顧みて、言葉を濁した。
 丁度その時、表の引戸がガラガラと開いた。闇が流れ込むかと思ふ一瞬、
「おらも話を聞きに来ただ。東京の衆はこれぢや寒くてどうもなるめえ」
 声といつしよに、黒岩万五が、のつそりとはひつて来た。

 一つ時、重苦しい沈黙が続いた。
 が、幾島が先づ口を切つた。
「黒岩君でしたね。どうです、この冬はなんか大きな獲物はありませんか?」
「今年は熊も出ねえやうだね。こゝいらもだんだん開けて来ただからね」
 黒岩万五は、さう云つて、あたりを見廻した。
 青年たちはいづれもこの黒岩の登場には押され気味であつたが、小峯喬はこの時、
「なあ、万さん、今夜は幾島さんになんか御馳走しようと思ふとつたんだが、生憎、かしはをつぶす暇もなかつたで、おらの家の味噌汁で我慢して貰はんならん。お前に雉でも撃つて来てもらふとよかつたな」
「あ、さうか、そんなら今日の狸を一匹残しとくとよかつたなあ。そいで、何時までゐなさるね」
 黒岩は訊ねた。
「いや、いゝですよ。僕はもう明日引きあげるつもりです。少しこのへんを歩いてみたいと思つてるんだけれども、地図だけぢや無理ですね、山越えは」
「道案内なら、わしがいくらでもしますよ。立花の旦那が猟に見えるまぢやあ、わたしのからだはあいとるですから……」
「立花伯爵が来るの、近いうち?」
「はあ、さつき留守番の爺さんがさう云つとつたです。うんと薪を切つとけつていふ手紙ださうだで、こつちで年越しをされるぢやあるめえかね」
 幾島は、伯爵が来ることよりも素子が付いて来るのかどうかが知りたかつた。
「へえ、伯爵が来られるとなるとまた、大勢付いて来るわけだね」
 黒岩はそれには返事をせず、
「おい、喬さ、おれや別に誰からも頼まれたわけぢやねえが、おめえたちがこの夏から騒いどる水源地のことなあ、あれや、飽くまでこつちの云ひ分を通すつもりか?」
 小峯喬は、黒岩のこの質問の真意をはかりかねたらしく、
「こつちの云ひ分つて、わしどもはたゞわれわれの田に水を与へよつて云ふとるだけぢや」
「うん、それには夏分だけ掘抜をこさへれば間に合ふとは思はんのか? あれくらゐの田なら……」
「掘抜で水を上げるのには、二人分の手がいるだでね」
「それを村で持つことに話がきまつたづら」
「どうして村で持つ義務があるかだ。無駄な費用でねえか。おまけに、男にしろ女にしろ、その二人は、こいつは機械になるだ。人間が機械になり下るだ。ポンプを買ふつていふなら、これや別だ。しかし、村にそげな金はねえだ。とにかく、楽に、自然に引ける水があるのに、それをほかへ取られてしまふ理窟は、どんなことをしてもねえだ。これが、つまり、農村の敗北、自滅だと、わしは云ふだ。それも日本の全体的な発展のためなら、いくらでも我慢するだ。田んぼの上に飛行機工場を建てにやならんつていふ場合なら、わしどもは、満洲へでも何処へでも行く。だけんど、東京の安月給取が、避暑の真似事をするために、われわれに小さくなつとれと云ふなら、われわれは死ぬまで闘ふだ、これや」
 小峯喬は、それを、うつむき加減に、少しも興奮の色をみせず、ねちねちと云つた。

 それをぢつと聴いてゐる黒岩万五の表情はまた一風変つたものであつた。
 相手がねちねちすればするほど、こつちは擽つたいといふ顔つきで、小鼻をびくびくさせながら、時々、幾島の方をみたり、腹掛の底から綿屑をひねり出したりしてゐた。
「お前のその議論はもうわかつた。死ぬまで闘ふちうは、誰が死ぬだ、いつたい?」
「まづ第一におらが死んでみせる」
「ふむ、おめえが死ぬか? それでこの村がどうなる?」
「さあ、どうなるかは、あとから来る奴次第だ」
「さうか。おめえにそんだけの腹があるなら、もうちつとでけえことを考へてみちやどうだ?」
「おれや別に、でけえことをしようたあ思つとらんのぢや」
 小峯は吐き出すやうに云つた。
「黒岩君はどういふ意見か知らないけれども、僕はもう一度小峯君に訊きたいんだがなあ。君が地元のあるグループを代表してゐるとしてですね、君の意見がこの村全体の輿論になれば、問題は非常に楽になると思ふんだが、その見込はありませんか?」
 幾島はかう訊ねた。
「それが駄目だね。この村に正しい輿論つていふやうなものがあるくらゐなら、わしなんかが、こんなに騒ぐことはねえだから」
「黒岩君なんかは、さうすると、どういふ立場なの? 小峯君とは全然反対ですか?」
「それやわしの口からは云へんけんどが、つまり、自分はなんだ、といふ、そこが違ふだね」
 小峯が事もなげに云つた。
「おめえは、すぐさういふことを云ふが、自分は百姓だとか、自分は青年だとか、そんなこときめてかゝつてみたところでなにになるだ?」
 黒岩万五は、あまり議論は得意でない。従つて相手を説服しようといふ気構へは微塵もなく、寧ろ、幾島が小峯の意見だけに引ずられて、問題を紛糾させはせぬか、それを心配してゐるのである。
 が、彼等二人の間で緩やかに行はれる応酬を聴いてゐると、なるほど、彼等にはそれぞれ自分たちの気質や性格に裏づけられたひとつの思想――道徳があるのである。しかも、その思想――道徳は正面からぶつかり合はずに、たゞ二人の気質が、性格が執拗にからみあひ、相手を互に捻ぢ伏せようとしてゐるのである。
 それは幾島暁太郎にとつて、なによりも不気味な光景であつた。
 と、その時、また、裏の引戸が開いて、一人の少女が半身をのぞかせ、誰にともなく、
「ご飯の支度がでけたけんど、やつぱ、こつちの方がよかろか?」
 羞みの色を含んだ艶のある声であつた。
「おう、お客さんの分だけこつちへ持つて来るだ」
 小峯が応へた。
「おウイ、セツちや、序に茶……」
 と、誰かが頓狂に叫んだのを、
「この野郎、自分で取つて来い」
 さう、きめつけたのも小峯であつた。
 こはばつた空気が急にゆるんだやうに、誰も彼も膝を組みなほした。
 なかには起ち上るものもあつた。
 硝子窓には空の星が映つてゐた。

 食事が運ばれると、一同は幾島一人を残して立ち去つた。
「また、なんにもなくつて……」
 と、今朝も給仕をしてくれた少女が、茶碗に山盛り飯をよそつて彼の前に差し出した。
 小峯喬の従妹に当るのださうである。
「小峯君のお父さんとあなたのお父さんとが……?」
「いゝえ、あたしの母とが……」
「あゝ、さう……。あなたはお父さんもお母さんもお達者?」
「えゝ」
「ご兄弟はいくたり?」
「四人……わたくしが一番うへ……みんなまだ小さいですわ」
「あなたは、だつて、もう……ずゐぶん大きいぢやないの? いくつ? 十八?」
 彼女は、うつむいて、くゝと笑つた。美しい笑顔である。と、急に顔をあげて、真面目にならうとする、その努力がまた初々しく、可憐であつた。
「あなたは農家の仕事はどうなの? 別に嫌ひぢやないんですね?」
「好きでもないわ」
 彼はハツとして、まづい質問をしたと思つた。が、
「東京へ出たいとは思はない?」
「………」
 乗りかゝつた船で、さう訊くより仕方がなかつた。と、相手は、首をかしげ、どの程度の本音を吐かうかといふ風な、なかなかの茶目ツ気をみせた。
「東京つて、あなたがたはどういふところだと思つてるかなあ。いろんな想像をしてるんだらうなあ」
 幾島は、こゝで、この少女に、自分の平生の考へを話して聞かせたくなつた。つまり、都会と田舎とは、人間生活の二つの理想の型であつて、都会的な楽しい生活と、田園的な楽しい生活とが、常に同時に、文明人によつて求められてゐるのはその証拠であること。しかし、一人の人間がこの二つの型の生活を同時に営むことは、原則として不可能であるから、その人間の主要な生活目標に従つて、ある者は都会に止り、ある者は田園に残るのだが、都会も田舎も、自然の勢ひに委せておくと、だんだん不健康な住みにくいところになつて行く。都会の善い意味での都会らしいところは、ほんたうの田舎と実によく調和するものだといふこと。都会の暗黒面などといふけれども、少し性質が違ふだけで、田舎には田舎の暗黒面といふものがあるに相違ない。旅行者としての印象から云つても、田舎は都会よりも明朗だとは云へないやうに思ふ、云々。
「えゝ、ほんとにさうですわ」
 と、少女はひどく同感した。
「しかしねえ、さうは云ふけれども、僕は、田舎の、なんていふか、田舎らしいところが非常に好きなんです。ほんとですよ。例へば、あなたの、その服装だつて、それから髪の結ひかただつて、あなたは自分でそんなに気をつけてゐないかも知れないけれども、僕の眼には、実に、美しく、さうして新鮮です。おや、そんなに恥かしがるなら、よしませう」
 彼はたしかに喋りすぎた。自分でそれに気がつくと、急に押し黙つた。少女はもう顔をあげなかつた。

 食事が済み、少女が膳と櫃とを、持つて来た通りの恰好で持つて行くと、入れ違ひに、小峯喬がはひつて来て、今夜は夜業をするから相手ができぬが、明日事務所へ行くなら誰かまた案内をさせるから、まあゆつくり休めと云つて帰つて行つた。
 ところが、火鉢にいくら炭をついでも、からだはがたがた顫へてしやうがない。昨夜着て寝た夜具がそこに積み重ねてあるが、あれを敷いて洋服を着たまゝもぐり込んでやらうか。さうすればどうやら背中が温まるのである。幾島暁太郎はガランとした集会所のまん中に立つて、体操をやり出した。
 そこへ、また、さつきの少女が薬缶に湯を入れて来た。
「こゝには炉を切つてないから、部屋がほんとに温まらんですわ。喬さんとこも、わたしんとこも、えらく狭いで……」
 と云ひながら、床を伸べようとする。
「さうだらうな。あなたがたのうちはもう少しあつたかいわけだらうな。それで安心した。なに、かうしてれば大丈夫……」
 彼はしきりに、片手と両脚を動かし、まさに額に汗をかきさうであつた。
 と不意に、こんな声が聞えた。
「セツちやん、やめろ、床なんぞ敷くなあ。こんなところへ犬ころだつて寝られるか」
 引戸の外に、黒岩万五が立つてゐる。
「幾島さん、わしの小屋へ来ちやどうだね?」
 その頑丈な姿がランプの光のなかに照し出された時、
「あれ、ま、雪が」
 と、少女は、思はず叫んだ。黒岩の肩先にパラパラと白いものがついてゐた。
「なに、ぢき止むだ。それより、お前はな、けえつたら喬にさう云つとけ――お客さんはおれが今夜は預るつて……いゝか?」
 リユツクサツクを無理矢理に幾島の手から奪ひとつて自分の肩にかつぎ、ヒユウ、ヒユウと鳴る北風のなかを、黒岩万五は先に立つて歩きだした。
「小峯君にわるくはないかな」
 幾島は独言のやうに云つた。黒岩は何も云はなかつた。
 やがて、その小屋といふのへ案内された。住居とは名ばかりの、やつと三坪かそこいらの広さのところへ、土間に炉、隅々に棚、種々雑多な道具が吊してあり、立てかけてあり、板の間には辛うじて人一人坐るだけの場所を残して、一面に、仕かけた仕事、例へば網のつくろひ、肉とゴバウの佃煮、等々。お愛想に吠える小犬を足で押しのけ、
「二人で寝るにや、ちつと狭いが……一晩ぐらゐなら、まあ我慢できんこともねえだ。今、ちよつくらそのへんを片づけるで……」
 なるほど、炉をほじくると、まだ赤々と燃え盛つた火が残つてゐて、冷えた顔がぽつとほてる。
「さあ、こつちへ坐つてください」
 幾島暁太郎は、厚く敷いた藁の上へ、どつかりと胡坐をかいた。涙が出る程うれしかつた。

 いくら話しても話は尽きなかつた。黒岩万五といふ人物は幾島にとつてそれほど面白い人物だつた。
 しかも、もう、黒岩は生欠伸を噛み殺してゐる。
「なにしろあの小峯喬つていふ男は、昔から優等生だでね。本に書いたる通りのことをやるですよ。さあ、もうやすむかね、そろそろ」
 幾島暁太郎は小便をしに外へ出た。
 道ばたには白く雪が積つてゐるけれども、もうとつくに降り止んだらしく、山の端に近く半弦の月が昇つてゐた。
 彼はふとさつき黒岩から聞いた戦場の夜を想像した。これが内地の平和な夜か!
 ぶるぶるツと身顫ひをひとつして、彼は、小屋のなかへ逃げ込んだ。
 藁と毛布で工合のいゝ寝床ができてゐた。
 ――人に瞞されるのはいゝ。事実に瞞されてはいかんぞ!
 眼を閉ぢてから、彼は自分にさう云ひ聞かせた。
 翌朝、彼がまだ夢うつゝで部屋の隅の物音を聞いてゐると、外から戸を叩いて、
「万さんゐる?」
 と呼ぶものがある。若い女の声である。
「誰ぢや? やかましい」
 黒岩万五はさう云つて起つて行く。
 戸口でのひそひそ話が、だんだんはつきり幾島の耳に伝はつて来る。
「馬鹿野郎、そんなことをぶつくさ云ふならさう云つてやれ――てめえ自分でひと晩、あそこへ寝てみろつて……。なに吐かす、それで村の為めもヘチマもあるか! お前は、心配せんでえゝ。どうだ、しばらく温まつてつたら?」
「いやだよ、あとがまたうるさいから……。ほれ、奈良漬ちつとばかり切つて来たよ」
「貰ふばつかりぢやねえか」
 幾島はその時、薄目を開けて、明るく日の射し込んだ戸口の方を見た。
 手拭を姐さん被りにした昨日の少女が、黒岩万五の顔を見上げて、華やかな微笑を送つてゐた。
 彼は、なんとなく胸が躍つた。そつちへ背中を向けるやうにそつと寝返りを打つた。
 少女が、なにやら合図をして立去る気配がする。
「セツちやん、お早う」
 と彼は、飛び起きるといつしよに呶鳴つた。黒岩は、それに応へるやうに、
「さ、飯がもう煮えたづら」
 時計はやつと六時を過ぎたばかりである。かうして、幾島暁太郎は、まつたく珍しい朝の食卓に向つたのだが、彼はお世辞でなく、なん杯も飯と汁のお代りをした。
「さうすると、今日は薬師温泉へ行くかね? わしも鳥打ちかたがたあのへんまで出掛けてもええだが……」
 と云つてゐるところへ、立花伯爵のところの別荘番が頤を突き出しやつて来た。
「今日十二時半の汽車ぢや。今、電報が来ただ。えれエ急なこンだで、おめえけて貰はにや、へえ、庭の掃除が間に合はんで……」

「そいぢや僕はどうしようかな」
 と、幾島はちよつと迷つた。伯爵一人なら別に会ひたくもないが、素子がことによると来さうな気もするし、それならこのまゝ帰つてしまふのは残念だ。
 ――彼女は来るか、来ないか?
 この判断の基礎はいろいろなところにあるけれども、彼女が伯爵と一緒に、荒涼たる冬の幾夜かをこの山荘で過すといふことは、彼の想像に堪へぬところであり、また同時に、それがなんでもなくできるところに、彼女の普通でないところがあるのだとも考へられるのである。
「僕は猟の方はあんまりなんだから、これで帰ることにしよう。やつぱり薬師温泉の方へ出ようかな。なに、地図があるから大丈夫だ」
 自分で自分を励ますやうに、彼は、もう出発の支度にかゝつた。
 黒岩万五はそれをみて、
「今夜は、別荘でゆつくり寝られるだに……。山鳥の瓦焼ちうが奥さんのお得意だで、いつちやう……」
「え、奥さん?」
 と、幾島は聞きとがめた。
「奥さんぢやねえ、秘書ちうださうだが、まあ、さう云つとくだよ、ほかに呼びやうがねえだから……」
「うん、斎木さんだね。……一緒に来るの?」
「一昨年の冬、一度きりだがね、わしのゐる間は……」
「へえ、すると、女中も連れないで?」
「たつた二た晩だつたでね。豊次の婆さんが結構働くだで……」
 幾島はそこで考へ込んだ。
 が、一方、黒岩万五は、幾島のためにどしどし握り飯を作り、幾島はそれをリユツクサツクの中へしまつて、いよいよ小屋を出ることになつた。
「小峯君の家へちよつと寄つて行かう」
「山へへえつとつて、家にやをるめえ」
「なに、家のひとに挨拶だけして……」
 なるほど小峯喬は家にはゐなかつた。しかし、幾島は裏で山羊に草を食はせてゐるセツ子の姿をちらりと見た。
「その炭焼小屋つていふのはどのへんですか?」
「この上ぢやが、さあ、道がわかるめえ」
 小峯の父親だといふ老人が答へた。
「いゝです、いゝです。ぶらぶら探しますから……」
 彼は小峯にひと言、来年の夏まで、どんなことがあつても最後の手段とやらを取るなと云ふつもりであつた。彼には、まだ、泰平郷経営の全責任者、田沢某に直接掛け合つて、所謂事務所の横暴を制御させる余地があるやうに思へた。
 ――さうだ、どうしても小峯にもう一度会はなくつちや……。
 殆ど口に出さんばかりに、彼はその考へを胸に描いて、急な坂道を登りはじめた。
 ――小峯は田沢といふ人物の存在を知つてゐるか? 名前さへ知らないのではないか? そんなことで相手の急所が突けるか! たしかに情熱はある。良心もある。しかし、機略といふものが、彼らにはないのだ……。
 からだぢゆう汗びつしよりだ。道は登り一方で、北側の斜面には雪がところどころ積つてゐる。炭焼小屋などは、もうどうでもいゝ。小峯喬のことも、何時の間にか忘れてしまつた。
 幾島暁太郎は、かうして、なるたけゆつくり、この附近の山を歩き廻つてゐたいのである。
[#改ページ]




 その夜、立花伯爵は素子の手料理で獲物の山鳥の肉をしこたま食ひ、取つておきの白葡萄酒をちびりちびりやりながら、頗る上機嫌であつた。
 煖炉には太い薪が燃え、黒岩万五が時々薪の燃え工合を見に来た。
「明日は早くから出掛けるぞ。もうこつちはいゝから休め」
「それぢやね、万さん、今夜はあんた、下の女中部屋が空いてるから、あそこへやすんでちやうだい。婆やさんに夜具だけ敷いとくやうに云つといたから……。お風呂へも遠慮しないではひつてね」
 素子は、七輪の火をもつと注ぎたしたものかどうか、ちよつと考へて、伯爵の方をみた。伯爵はその視線を素早く捉へるといつしよに、
「僕はもうたくさん……。君はなんにも食べてないね。それやいかん。さ、やりたまへ」
「あたくし、もう十分いただきましたわ」
「うそばつかり……。皿もなんにも汚れてないぢやありませんか。尤も自分で料理をすると食ひたくなくなるつて云ふね。しかし、これはどつちかつていふと婦人向ぢやないな」
「お茶漬、召しあがります?」
「うむ、まあ、もつとあとでいゝ。どうも、君つていふひとは不思議なひとだな。かうして、こんな山奥へ僕と一緒に来て、あと二週間も此処で暮さうつて云ふんだ。これや、君、誰が考へても容易ならんことだよ。君の方のことは先づおいて、僕の身になつて考へてみたまへ。僕は当然、君との距離の接近を感じる。それは平生の僕の決意を裏切るものではない。露骨に云へばだよ、僕が如何に君といふ女性に心を惹かれても、君だけは――だけはといふ言葉はをかしいが、要するに、君だけはだ、決して手を触れてはならんと心に誓つた。もちろん、僕の生涯の最後の心の歴史としてさ。ねえ。それだけは公明正大な事実として、僕は世間に向つて約束をしたいのだ。さうだらう、君のやうな、失礼ながら美しすぎる秘書をだ、僕がなんのために連れ廻るかといふことを、ほんとに知つてゐるものはないのだからさ……。さあそこだ。僕はそんなことはまだ誰にも約束をしてをらん。君にだつて、僕は一と言も、保証はしてをらんぜ。いや、待ちたまへ、それにも拘らずだ、君には恰も、一切の危険から完全に予防されてゐるかのやうな、無警戒に近いところがある。いや、寧ろ、僕自身が、すべての行動を生れながら封じられてゐるとでも、君は勘違ひをしてゐやせんかと思ふ節々がある。どうです? 別にこんなことを酔つて云つてるわけぢやない。今夜は、僕は最大の悦びをもつて、最大の苦情を吐かうと思ふまでだ」

 素子は、最初、伯爵がなにを云ひだすかと思ひ、ギクリとしたけれども、すぐに、それに応じる身支度といふやうなものができ、もう七輪の方はかまはず、頃あひを見計らつて伯爵の言葉を遮れるものなら遮らうと、ぢつと耳を澄ましてゐた。
「これは、君にはつきりさう云つておくが、僕はなにも今日、積極的な意思表示をしようといふつもりはない。さういふことのためにもつと適当なチヤンスがこれまでにいくらもあつたが、むろん僕は、故らそれを避けた。君の方ではうまく逃げたと思つてるかも知れんが、それは僕がただ追ひかけなかつたといふまでの話で、その点、僕はたゞ僕の意志に従つてゐるに過ぎんのさ。どうだ、僕は負け惜みを云つてるみたいかい?」
「いゝえ、ちつとも……」
 と、素子は、そこではじめて伯爵の方へまともに視線を向けた。
「さうだらう? 負け惜みぢやない。事実その通りだ。君はちやんと僕のフエーブレツスを知つてる。わかるね、つまり弱味だ、フエーブレツスを知つてゐながら、知らんやうな顔をしてゐる。それもまあよからう。しかし、どう考へても不思議なのは、その知らん顔をするために生じる筈のギコチなさといふもんが、君にはまつたくないこつた。これや、どういふんです、いつたい?」
 そこで、どうだと開き直られても、彼女には返事のしやうもない。たゞ、「さあ、……」と小学生のやうに首をかしげて、内心、この質問の意味の重大さを考へるだけである。
「そらそら、その罪のないやうな表情が、僕には信じられないんだ。憚りながら、僕は君の二倍近く人生を生き、多少人間を看る眼もでき、女の心ぐらゐはひと通り読めるつもりでゐるんだが、僕に対する君の申分ない態度のなかに、実は、非常に僕にとつては不可解な、従つて、よく考へると、どうもそのまゝでは済まされない一点がある、これを、今夜、なんとか、君に説明して貰ひたいんだよ。面倒ないひ方はよさう。君は、僕をどこまで信用してゐるんだい?」
 葡萄酒のコツプを唇に近づけながら、伯爵は柄になく凄んでみせた。
「絶対にご信用申しあげてをりますわ」
 と、素子は、眼だけで笑ひ、やゝ切り口上になる。
「ふむ、といふと、僕には過失さへ犯すことはできんといふのかい?」
「そんな、はつきりしたこと考へてみもいたしませんけれど……まあ、さう申してよろしいかと思ひますわ」
「君はそれほど男つていふものを知つてるのかい?」
「でも自分の知つてゐていゝ範囲のことでございますもの……。それに、本来は、それほど知識と関係のないことでございませう、ですから……」
「僕は今、君にそれほど男つていふものを知つてゐるのかと訊いたんだ。返事にならんぢやないか」
「えゝ、ですから、男つてどういふものか、だアれも、ちつとも、ほんたうのことを、あたくしたちに教へてはくれないやうな気がいたしますの。昔から、何時の時代でもかうなんでせうかしら?」
 素子は、なにか問題の中心から外れるやうな気がしたけれども、どうしても、これだけのことが云ひたかつた。

 伯爵は起ち上つてストーヴに近づき、背中をあぶる恰好で、
「それや、君の年で男心の隅々を知つてゐたらたいへんなことさ。しかしだよ。例へば僕なら僕が、君なら君といふひとを好きになつて、それをまだ公然と云ひ出さずにゐるが、君の方ではちやんとそれを察してゐるとするね。何時なんどき僕のさういふ感情が爆発しないとも限らない。君は、さういふ僕をどう始末しようと云ふんだい?」
 素子は、それを云ふ伯爵のいかにも芝居がかつた調子がをかしく、おまけに、決して戯談ではないぞといふ顔付きでぢつと見据ゑられると、背筋がぞつとするのであつたが、まだ彼女には差迫つた不安といふほどのものは感じられなかつた。
「いやですわ……今日に限つてどうしてそんな……。あたくしにさういふことをおつしやつて、なにを試さうと遊ばすんですの?」
 彼女は、静かに顔をあげた。
「試す? いや、そんな卑怯なことはせんぞ、僕は……。だから、さつきもはつきり云つたぢやないか! ねえ、世の中にかういふ男も一人ぐらゐあつていゝと思ふがどうだ、え? 僕みたいにさ、好きな女性を自分の身近において、しかも、その純潔を保証してだ、一方的な愛情のひそかな表示によつて満足するといふこと、これは、君、そんなにおいそれと出来ることぢやないぞ」
「………」
 彼女は、もうなにもかもおしまひだといふ気がした。――自分がこれだけのことをしてゐるのに、どうして、黙つて呑み込んでゐてくれないのであらう? 過去四年間、たゞこの人物の頼母しさはそこにあつたと云つてよく、彼女はそれがために世間の風評などを嗤つてゐられたのである。
「どうも、しかし、これや僕の云ひ方がまづかつた。なるほど、君はがつかりだらう。が、こいつはもう取り返しがつかん。僕は、まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だと、つい、今日まで思つてゐたんだ。ところが、突如として、今、僕の感情は支へを失つた。これは不可抗力みたいなものだ、君、どうしやうもないぢやないか! しかし、僕はまだ自分を忘れてはをらん。僕は、如何なる口実を設けるにしろ、自分の慾望を正当化することはできんのだ。そこが苦しい。僕は、ゲーテでもヴオルテールでもない。君の、その尊い青春を、どうしてこの老骨のために捧げよと云へるか。それは罪悪だ。まぎれもない冒涜だ。君はその美しさと若さに値する幸福をもつとほかに求めなけれやいかん。それは、かねての僕の念願だ。この宿命にぢつと堪へて来た僕が、君の前で、なぜこんな告白をしなけれやならんのか? わからん、自分でもそれがわからん。たゞ、さうしなけれや、苦しい。苦しすぎるんだ。たゞそれだけだ……」
 しばらく向うを向いて、すなはち、燃えさかるストーヴの火に顔を照らしながら、伯爵は喋りつゞけた。
 彼の声は、次第にかすれて来た。彼は泣いてゐるのである。

 伯爵が泣いてゐるのに気がつくと、素子は、自分でもなにか悲しくなつてゐた。
 彼女には伯爵の「苦しみ」といふのがはつきりわかつたとはむろん云へなかつた。しかし、この前代未聞の光景には、それほど、滑稽な見せかけがなく、むしろ一人の男の激しい内心の闘ひが、たまたま自尊心の厚い壁を無慙にも崩れ落ちさせたものとして、彼女の胸をまともにゆすぶつたことは事実なのである。
 ストーヴにくべた栗の丸太がなかほどで燃えきつて、ドサリと折れた。火の粉が舞ひ上つた。
 と、それをはずみに、伯爵はストーヴを離れ、窓に近づいて、硝子戸の外へ眼をうつした。
「僕はついこんなことを云つてしまつたが、君はもう僕のそばにゐるのがいやになつたらうな。明日になつたら、もう東京へ帰るつて云ひ出すんだらう? よし、それはしかたがない! 諦めよう。だが、その代り、今夜が最後だと思つて、僕の我儘を許してくれたまへ。さうして、せめて僕が、ずつと君に対して持ち続けてゐた慎みに免じて、今夜だけ、たつたひとつのイリユージヨンを与へてくれたまへ。――僕が敢て望みさへすれば、君は僕のものになるのだといふイリユージヨン……。駄目かな、そんなことは? たゞ僕が勝手にそれを空想するだけなんだ……。君のほんのちよつとした好意……いや、同情……憐み……。乞食だよ、僕は……それでいゝんだ……。承知してくれ、頼む……」
 伯爵はぢりぢりと彼女の方へ歩み寄つた。彼女は、椅子から起ち上らうとしたけれども、それは不必要に相手を侮辱することになると思ひ、そのまゝ顔をあげただけの姿勢で、
「そんなやゝこしいこと、あたくしにはわかりませんわ。ですから、そんなことはもうおつしやらないで下さいませ。あたくしがどういふ風にすればこんな結果にならずにすんだか、今、そこまで自分で考へることはできませんけれども、ほんとに、残念で残念でしやうがございませんわ。さきほどのお話では、あたくしのどこかに、不可解なと思召すところがあるんでございましたわね。それだけは自分でも、はつきりさせなければと思ひますけれども、なんのことやら、さつぱり……、きつと、わるい癖みたいなもんぢやございませんかしら? あたくしは、申すまでもなく、育ちがあんまりよろしくはございませんから……」
 彼女は、さう云ひながら、ひとりでに、唇には微笑をうかべ、眼尻には涙をためてゐた。
 そこへ、また、黒岩万五がのつそりはひつて来たので、伯爵は葡萄酒のコツプを取りあげた。
「もうこゝの火はいゝ。斎木君、寝室ベツドあつたまたら、僕は寝るから……。湯タンポを入れさせてくれ」
「はい」
 と、返事をして、彼女は座を外した。
 廊下へ出ると、しみるやうな寒さである。二階へ駈けあがつて、自分の部屋の電気をつけた。鏡の前で顔をゆつくり直し、気持を強ひて落ちつけ、締め忘れた窓のカーテンを引き、それから、部屋を出て、伯爵の寝室の扉を開けた。
 火鉢の炭火はカンカンにおこり、大きな薬缶の湯はたぎつてゐる。湯タンポはもうさつき入れたばかりである。そのまゝ引つ返さうとしたのだが、念のために、電燈のスヰツチをひねつた。彼女は、「あツ」と叫んで、そこに立ちすくんだ。伯爵が、もう、そこに、寝台の上に、寝ころんでゐるのである。

「風がはひるからドアを閉めて……」
 伯爵は寝台の上に起きあがるといつしよに云つた。そして調子をあらためて、
「君は僕を絶対に信用すると云つたね、さつき……。僕があれだけのことを喋つたあとでもか?」
 素子は扉のハンドルをぐいと押しながら、
「はあ」
 と、うなづきながら、きつぱり答へた。
ドアの掛金をかけたまへ」
 低く押しつけるやうな声が、続いて彼女の耳にはひつた。
 彼女はちよつと躊つた。
「人が来るといけない。ドアの掛金をかけたまへ」
 伯爵のいつもの物の言ひ方である。彼女は、その通りにした。そして、次ぎの命令を待つやうに、両手を組み合せた。
「よし……。そんなところに立つてないで、こつちへ掛けたまへ」
 さう云ひながら、彼は、自分でも寝台から降りて、火鉢のそばのソフアの一つに倚りかゝつた。
 彼女は、殆ど平生と変らぬ動作でその正面のもう一つのソフアに腰をおろした。最初のいくぶん硬ばつた表情も、今はすつかりほぐれて、相手の気まぐれに進んで調子を合はせるといふ風さへ見えた。
「寒くないかい?」
 伯爵は、やつと安心したやうに、姿勢をくづした。
「いゝえ。でも、あたくしはたくさん下に着てをりますから……。温度はどれくらゐでございませう? 伯爵は、それではお風邪をめすといけませんわ」
「あゝ、風呂からあがりたてで、暑かつたから……。ぢや、すまないが、ガウンをちよつと出してもらはうか」
「さあ、このトランクあたくしに開きますかしら?」
 素子はさういふことをするのは得意でなかつたけれども、大きなトランクの錠をガチヤガチヤいはせて、やつと蓋をあけた。
 ガウンを後ろから着せかけてやると、今日は、いつもに似ず、丁寧に、
「ありがたう」
 と云つた。が、さう云つたあとで、くるりと彼女の方に向きなほり、いきなり、その手をとつた。
 彼女はとられた手を振りほどかうともせず、たゞぢつと伯爵の眼を見つめてゐた。すると、彼は、そのまゝソフアに埋まつて、軽く眼を閉ぢ、彼女の手の甲を自分の頬にあて、あてたと思ふと急にそれを突き放して、絶望的に叫んだ――
「あゝ、もう僕はなんて云はれてもいゝ。君は僕を軽蔑するならしろ!」
 が、そのあとで、ふとわれに帰つたやうに、
「いや、さういふ云ひ方はよくない。少くとも君に対してそんなことを云ふ必要はなかつた。君は僕を絶対に信用すると云つたね。それはつまり、僕がどんな野蛮なことを考へようと、それが君に対する行為として表はれなければ、君に関係はないといふことだ。僕は決して道徳家ぢやない。況んや木石ではない。それは君も重々知つてる通りだ。それなら、君のこの僕を信用するといふ根拠はいつたいどこにあるんだ! それをはつきり云つてみたまへ、はつきり……。若し、口でそれが云へないなら、それが僕にわかるやうなひとつの方法を教へよう。いゝかね、さ、どつちにする?」
 それをぢつと聴きながら、素子は、かすかな溜息をついた。
「口では申しあげられませんわ。なんでも、かうしろつておつしやつてみてくださいませ」

 伯爵はしばらく自分の考へを追つてゐるやうだつた。
 が、彼は起ち上るといつしよに、歩きだした。
「僕は今夜、かうして起きてゐるから、君、その寝台ベツドへやすみたまへ」
「………」
 さすがに素子は眼を伏せて唇を噛んだ。
「さあ、僕の云ふとほりにしてごらん」
 彼女の肚はきまつた。
 さつと椅子からはなれると、まづ羽織を脱ぎ、帯を解き、それを丁寧に畳んで椅子の上においた。
 もちろん、伯爵の方に背を向けてはゐるけれども、彼女の顔はもう晴れ晴れとしてゐて、誰も見てゐない自分の部屋で寝る支度をするときと変りはなかつた。
 彼女は、そつと懐へ手を差し込み、黒塗りの鞘に納つた小さな懐剣がそこにあることを確めた。いつか母にねだつて貰ひうけ、どうかすると昔の女を真似て、かうして肌にそれをつけて外に出てみることがあるのである。
「では、ごめん遊ばせ……」
 別に挨拶のつもりではない。であるから、腰もこゞめず、伯爵がそこにゐることはまつたく無視したかたちで、彼女は、寝台の掛蒲団をめくつた。
 なんといふ静かな夜であらう!
 彼女は、自分の心臓の鼓動だけが、いやに耳につくやうな気がした。
 羽根枕に埋めた頬が、だんだん、ほてつて来る。湯タンポのせゐだと思つた。
 伯爵がどんな顔をしてゐるか、ちよつとみたいけれどもそれはやめた。息を殺してゐると、なんだか、ほんとに眠くなつて来さうである。
 この他愛ない遊戯の、どこまでが遊戯であるかは、彼女の与り知らぬところであつた。しかし、それは、最初から問題ではない。女の恥羞とか矜持とかが、なによりも月並な、男本位の貞操観念に結びついてゐることを、彼女は今こそ教へられたのである。
 跫音が頭のうへを往つたり来たりする。
「どうだい、眠られさうかい?」
 そんな問ひに彼女は答へるのは面倒である。
「………」
「なにを考へてるの、さうして?」
 ――あゝ、しばらく、黙つてゐてほしい。
「あたくしが若し眠つてしまつたら、伯爵はお困りになりはしません?」
「いゝや、困らんよ。それより、君はほんとに勇敢だね。驚いたよ」
「あら、どうしてですの? あたくしにできないことを、させようとなすつたんですの? 伯爵ともあらう方が、そんなことをなさる道理がございませんわ」
 伯爵の面上には、ありありと悔悟の色が浮んだ。しかし、それは忽ち、虚勢を示す硬ばつた微笑に変じた。
「うつかりしたことを云つちやいかんよ。そいつは、君、僕にすべてを許すといふ意味にとれるよ」
 彼女は、薄く閉ぢた眼のうちに覆ひかぶさるやうな黒い影の突然動くのをみて、からだをすくめた。
 扉の掛金を外す音、つゞいて、冷たい空気がひと筋、部屋のなかを横ぎつた。

 そつと振り返ると、伯爵はもう部屋のなかにゐなかつた。
 素子は、半身をもたげて、聴き耳を立てた。
 なんの意味かわからないけれども、彼女は、急きたてられるやうに寝台から滑り降りた。
 その瞬間、バーン、と籠るやうな爆音がひとつ、階下のどの部屋かでした。
 ――なんだらう?
 と、首をひねる間もなく、「二階へ知らせろ!」といふ黒岩万五の声に、彼女は無我夢中で自分の部屋へ駆け込んだ。脱いだ衣裳をそのまゝひつ抱へて行つたことは勿論である。頭を不吉な想像でいつぱいにして、素早く身じまひをし、忍び足で階段を降りた。
 恰度それよりすこし前であつた。
 幾島暁太郎は、寒さを忘れ、歩きつかれ、饑を忍んで、やつとこの山荘の裏手に辿りついたのである。
 彼は二階の部屋の灯を見ただけで、素子が来てゐることを知つた。
 しばらくぢつと、素子の部屋の窓を見あげてゐた。この時刻に玄関から案内を乞ふことは、いかになんでも気がとがめた。道に迷つたことは事実だ。しかし、わざと迷つたと云へば云へないこともないのだから。
 彼は、しかし、勝手口から小声で人を呼ぶ卑屈さにも堪へられない。思ひ切つて正面へ廻つた。
 素子の部屋の灯がその時、ふつと消えた。
 ――もう寝たのかな!
 ところが、伯爵の部屋では、人影がしきりに動く。たしかに一人ではない。彼は眼を据ゑ、喉をつまらせた。
 玄関のドアが、押せばすぐに開くやうになつてゐる。戸締の必要がないからである。
 彼は、ステツキの先で扉をそつと押し、開かぬとみて、今度は、ハンドルを廻した。
 扉は自分の重みでひとりでに開いた。
 彼はハツとした。別荘番夫婦が食堂を片づけてゐる最中らしく、食器類をつぎつぎに提げて運ぶ姿が、はつきり見えた。
 屋内の明るさ、温かさ、それに鼻から胃の腑へ伝はるやうな香ひが、彼の頭をふらふらつとさせた。
 もうどうする気力もない。彼は、そこへ、そのまゝ、へたばつた。凍つた砂利石の冷たさも肌にこたへない。靴脱石に肩の荷の重みを支へて、がつくりとからだを二つに折つてしまつた。
 どれくらゐ時間がたつたか、彼は、耳の底に激しい衝撃を感じてわれに返つた。
「なに?……なに?……どこ?」
 素子の、不断とは違ふ勘高い声が上から下へ落ちて来る。
 彼は全身の力をふるひ、膝の上へ伸びあがつた。扉が大きく開いた。
 素子は、それと入れ違ひに、そつちへは眼もくれず、濛々と煙の匐ひ出てゐる食堂の方へ、小走りに走つた。
 別荘番の豊次が慌てふためいて、勝手口へ飛び出した。
 幾島暁太郎は、静かに靴の紐をといた。
 食堂の椅子のひとつに腰をかけたまゝ、伯爵は、猟銃の銃先をコメカミにあてゝ、立派に引鉄をひいてゐたのである。
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 この二昼夜といふものは、まつたく、素子にとつて滅茶々々な「時」であつた。
 違つた人物が入れかはり立ちかはり彼女の前に現はれ、あるものは心得顔に、あるものは胡散臭さうに、いろいろのことを訊問し、首をひねり、フンフンと軽く返事をし、ズバリと切り込んでみせ、手応へがないと不機嫌になり、結局、彼女は、表向き伯爵の自殺となんら関係のないものと認められはしたらしいけれども、その代り、事件の後始末についてはまつたく発言権を与へられないでしまつた。
 伯爵の妹婿にあたる伊賀男爵を中心とし、夫人の実家茂木氏の番頭とやらがつべこべと口を出し、事務所主任粕谷が右往左往し、一足遅れて泰平郷経営者田沢元代議士が駈けつけ、地元の警察の手続等、玄人として鮮かに采配を振つた。
 しかし、発喪は東京の本邸でといふ習はしに従ひ、伯爵の遺骸はこれら近親の人々に護られて、翌朝、この山荘を出る手筈になつてゐる。
 その前夜、素子は晩く食事をした。
 幾島暁太郎も、食堂の隅で文庫本を読み耽つてゐたが、時々顔をあげてそつちを見た。
「あなた、そこにゐたの?」
 素子は精がなささうに、やつとさう声をかけた。
「たいへんですね。疲れたでせう?」
 幾島は、彼女が自分に注意してくれた、これが最初だといふ気がした。
「疲れるもなにもないわ。自分のからだぢやないみたいですもの。何時、もう?」
「十一時ちよつと過ぎ……」
 幾島は腕時計を耳にあてゝから、答へた。
 食堂の鳩時計は九時四十二分で止つてゐる。
「あなた、どうなさる? あと、こゝにいらしつてもいゝけど……」
 と、素子は、鳩時計を見ながら云つた。昨夜、あの時刻に銃声が鳴つたのかしらと思つた。
「素子さんは? やつぱり明日一緒にたつんですか?」
「えゝ、さうするわ。向うでまたいろんなわからないことがあるといけないから……。それやさうと、あなた、どうして、いついらしつたの、こゝへ?」
 この問ひには、彼は面喰つた。
「僕? いやだなあ……あの晩、恰度、あの事件の起つた瞬間ぢやありませんか。あなたが二階から降りて来るのを、僕は玄関の入口で見てたんです」
 それを聴いて、素子は、眉ひとつ動かさず、
「だから、どうしてそんな時間に、わざわざいらしつたのよ? あなた、その朝、薬師へいらしつたんでせう? 万さんの小屋へ泊つたんですつて?」
「をかしいな、僕、さう云つたぢやありませんか、道に迷つたんだつて……」
 素子は微かに声をたてゝ笑つたやうだつた。幾島は本をパタリと閉ぢて、
「しかし、あれから、僕は、あなたと口をきくなんてことが殆どできなかつたから……。僕の方からも訊きたいことがいつぱいあるんだけれども……今はまだよしませうね」
「誰でも、あたしにいろんなことが訊きたいらしいわ。訊かれた、訊かれた、いやになるほど訊かれたわ。あたしつてそんなに秘密がありさうな女にみえて?」
 首をかしげて、彼の方を斜に見あげた。
「秘密があるかどうかは知りませんよ。僕はたゞ、僕の知らないことで、あなたが喋つてもいゝことを、ひとつふたつ、聴いておきたいだけです」

 幾島暁太郎は、あの時以来、有耶無耶にこの山荘へはひり込み、見舞とも手伝ともつかぬ風で階下の一室に寝起きし、混雑にまぎれて素子ともろくに口を利いてゐないのである。
「第一に、伯爵はどうしてあんな真似をしたんです? あなたからはまだ、そのことについてはつきり説明を聴いてゐませんよ、僕は……」
 かういふ問に対して、素子は平然と、
「さういふことを今詮議なさりたいの、あなたは? 警察でも、ちやんとした理由はつかめなかつたんだから、それでいゝぢやないの。ね、それでいゝと思ふのよ。だつて、事実をどう追つてみたつて、普通の心理ぢやないんですもの。あの方独得の心理について、あたくし流の解釈をしてみろつておつしやれば、それや、できないことはないけど……さあ、あなたがそれで納得なさるかどうか、……」
「いゝえ、僕はね、実をいふと、伯爵の自殺そのものには大して興味はないんです。それがあなたとどう関係があるかつていふことだけ、あなたの口から直接聴いておきたいんです。物好きすぎますか?」
「物好きなのはあなただけぢやないから……」
 と、彼女は低く独言のやうに云つて、微笑した。
「さうですとも……僕は新聞がどう書くか、こいつは見ものだと思ひますね。しかし、田沢さんが大分その方面へは運動されたんでせう?」
「さあ、どうですか。書きたいやうに書けばいゝんですわ。こんな問題で騒ぐ時節ぢやないんですもの」
「あなたはもつと伯爵の運命を悲しんでいゝんぢやないんですか?」
 こゝで、幾島暁太郎は起ち上つて、マントルピースの方へ近づいた。
「おや、変なことをおつしやるわね。ひとの悲しみの程度がどんな風にしておわかりになるんでせう?」
「それやまあ、僕にはいろんなところでわかりますがね、あなたは伯爵を随分苦しませたんでせう、ほんとのところ……?」
 幾島は、素子の視線がやゝ慌て気味に左右へ配られるのを見逃さなかつた。
「僕はあなたを責めてるわけぢやないんだ。伯爵には、しかし、さういふ感情の処理といふ点でたしかに、非凡なところもあつたんでせうね。なにか、この事件をめぐつて、さういふものも感じられるんです。あなたのすべては、しかしこれこそ謎ですよ、僕に云はせれば……」
 声がすこし高すぎたやうである。彼は自分でもそれに気がつき、そのあとのしばらくの沈黙によつてそれを補はうとした。
 と、その時、ドアが不意に開いて、黒岩万五が薪を一と抱へ抱へてはひつて来た。
 幾島暁太郎は、機械的にかたはらの椅子に腰をおろした。
 薪をくべ終ると、黒岩万五は、そこにゐる二人を見比べながら、
「明日は大雪になるらしいが、自動車がうまく通るかどうだかね。夜つぴて積つたとなると、ちよつくら、へえ、人夫の二人や三人でえたぐれえぢや追つつくめえ」
「自動車が通らないとなると、どうするんでせう?」
 素子は、雪に埋まつたあの長い山腹の道を頭に描いて、ぞつと身慄ひをした。

「これで風向が西へかはると、雪がみんな谷へ吹つこまれて、道にや積らんことになるだが……さあ、この分ぢやどうだかね」
 さう云ひながら出て行かうとした。
「万さん、今夜あんたすこし寝むといゝわ。さうあんたひとりで何もかも……」
 と、素子はいたはるやうに云つた。
「なあに、二晩や三晩起きてたつてどうもねえですよ。それより、幾島さん、あんたの部屋にや火がねえだね、まだ……」
「いゝんだよ、黒岩君、僕は、こゝでかうしてると、いゝ気持なんだ。別に手伝ふ用件はないし、邪魔にならないやうにしてゐるんだから……」
 幾島は、椅子の上で、肱をすぼめてみせた。
 素子は食事をしをはると、一旦自分の部屋へはひり、明日の荷ごしらへをしかけたけれども、夏の生活の為に、今迄ぼつぼつ運んだ品物を、みんなこの際持つて帰るわけに行かぬことに気がついた。
 ――もう一度来られるか知ら? 来られなかつたら、万さんにでも頼んで送つて貰はう。
 自問自答しながら、やつと、手廻りのものだけをトランクにつめた。
 その夜、彼女は、幾時間かの浅い眠りの後に、眼を覚ました。
 黒岩万五の言葉どほり、山も谷も一面の雪であつた。
 しかし、空はからりと晴れてゐた。
 東京の本邸から来た女中と、土地の手伝ひの女たちが、もう朝の食堂の支度を整へてゐた。
 伊賀男爵と田沢元代議士がストーヴの前でひそひそ話をしてゐる。
 そこへ、茂木の番頭が粕谷主任と一緒にはひつて来て、高崎から、今、霊柩車と乗用車二台がこつちへ向つたといふ事務所への電話を知らせて来た。
 田沢はポケツトから手帳を出すや否や、
「二台ね、待つてくれたまへ。座席が二五ノ十、助手台は駄目として、どうやら間に合ふな。少し窮屈ぢやが……。男爵はこゝの美人秘書とひとつご一緒に……」
 素子がそこにゐるので、首を縮め、そのまゝ鉛筆の先をなめ、車の振当てを決めた。
 幾島がそばから口を出した。
「道がこの雪でどうでせうか? 車は大丈夫ですかねえ?」
 すると、粕谷が胸を張つて答へた。
「それはご心配に及びません。只今、人夫を総動員して雪掻きをやらせてをりますから……」
 八時が鳴つた。
 来る筈の自動車はまだ来ない。
 食事を終つたものから順々にポーチへ集まつた。
 東の陽をいつぱいに受けて、こゝは日光室サンルームのやうに暖かであつた。
「田沢さん、僕ちよつと、お話があるんですが……」
 どつかりと籐の寝椅子に倚りかゝつた田沢元代議士をつかまへて、いきなりかう話しかけたのは幾島暁太郎であつた。

「あなたは、失礼だが、どなたでしたつけ?」
 と、田沢元代議士は、心細い挨拶である。
「幾島です。昨日粕谷さんに紹介していただいたばかりですが、まあ、それやいゝです。植物の方をやつてる関係で、今年の夏、大沼博士のお伴をしてこちらの別荘でご厄介になりました。泰平郷の建設にはいろんな意味で非常な興味をもつてゐます」
「いやあ、それやどうも……。まあ、そこへお掛けなさい。ふむ、さうですか……。立花伯といふ相棒をなくして、わしもがつかりしてゐます。なにしろ、かういふ事業は算盤を弾くだけぢや、まるで意味をなさんですからなあ」
「大へんいゝことを伺ひました。田沢さん、泰平郷の画期的な事業の性質についてですけれども、ひとつ是非、これは地元農村の将来といふことと関連して考へていただきたいのです。僕からなぜかういふことをあなたに申上げるかといふと、地元の青年たちの正当な要求が、あなたの配下の事務員の手心で、甚だ軽々しく扱はれてゐる事実を、僕は知つてゐるからです。例へば、この夏から問題になつてゐる水源地の権利のことでも……」
 幾島は場所柄を忘れて、熱心に説きはじめた。
「ちよつと……」
 と、田沢は片手で彼の言葉を抑へ、
「なるほどさういふ事実もあるでせう。わしもつい暇がなくて、その、自分で現場を見てをらんもんだから……。今日はまあしかし、その話はいゝでせう、かういふ際ですから……。あ、自動車が来たやうだな」
 彼は、ぷいと座を起つて玄関の方へ出て行つた。
 はるか門の方でエンヂンの爆音と、誰かが喉をからして叱咤する声が聞える。
 黒岩万五が、先頭の霊柩車の前につかまつて、陸上の水先案内を勤めてゐるのである。なるほど、斜面全体を覆つた雪が道の幅を曖昧にしてゐるうへに、十人あまりの雪掻きの人夫も、彼の指揮がなければ有効な作業は覚束ないことがわかつたのである。
「やつぱり砲兵だけあるんだな」
 と、幾島は露台に立つて、傍らの素子を顧みた。
 門の中では車を廻すことができぬとわかり、門までみんな歩くことになつた。それはいゝとして、柩をそこまで運ぶ段になると、これも黒岩万五の力を藉りなければならなかつた。
 事務所の前の広場には、土地の人々が礼装で見送りに来てゐた。
 素子は、玄関を出がけに、幾島に別れを告げた。
「では、いづれ東京でお目にかゝりますわ。あなたには、いろいろ聴いていただきたいこともあるの……。この別荘もこれで見納めだわ」
 幾島は、その時、はじめて素子の眼のなかに深い悲しみの色を読んだ。

「あなたは、さうすると、やつぱり、この別荘のひとだつたんだなあ」
 と、感慨をこめて、幾島暁太郎は云つた。
「……つていふと、どういふこと?」
 素子は雪を掻いたといふよりも、踏み固めた道の上へ草履をそつと置くやうにして歩いた。
「今かうして、あなたの出ていらつしやり方をみると、いかにもいろんな思ひ出をたくさんこゝへ残して行くつていふ工合ですもの」
 彼は素子のトランクを持つてやつてゐた。誰もかまふものがなかつたからである。
「さうかも知れないわ。東京にゐるときよりも、こつちへ来てるときの方が、あたくし、ずつと元気で子供のやうになんでもうれしかつたわ。欲しいものがいくらでもあつたり、人のなんでもないところが立派にみえたり……」
 顔はうしろからで見えないけれども、さういふ素子の声は、決して浮き浮きしたものではなかつた。
「いゝなあ。そいつは……」
 と、幾島は彼女の気持を引立てるやうに云つた。
 門のところまで来ると、誰かが急いで彼の手からトランクを奪ひ、それを自動車に積み込んだ。
「こつち、斎木さん……荷物はそれだけですか?」
 田沢がそこで指図をしてゐた。
 みんなの座席がきまると、田沢が出発の命令を下した。
 黒岩万五が、手をあげて、先頭の霊柩車に合図をした。
 霊柩車は重くゆれながら動きだした。
 黒岩万五はそれを一瞬、不動の姿勢で見送つて、すぐに、その次ぎの車の踏台へ飛び乗つた。
「汽車には間に合ふだらうな」
 田沢が車の中から訊ねた。
「右へ大きく廻つて、大きく……」
 黒岩万五は、それには答へず、先頭の運転手に向つて呶鳴つた。
「万さん、汽車には間に合つて?」
 素子が、また、同じ車の中から声をかけた。
 すると、黒岩万五は、はじめて気がついたやうに、腰をかゞめて車の中をのぞき込み、いかにも彼女にだけ返事をするといふ調子で、
「さあ、その方は、わし一人ぢや受け合ひかねるね。なにしろ、やつと車を谷へ墜さずに来ただから」
 幾島暁太郎は、ふとその会話を耳にはさんだ。そして、なんとなく、この二人の間に自然な感情のつながりがあるやうに思へた。その自然な感情のつながりといふのは、例へば、体裁も遠慮もいらぬ間柄で、特に相手の気持を呑み込んだ話のしかたをするやうな場合に、それがはつきり表面にあらはれるものだと彼は信じてゐる。
 彼は、雪の山道を征服しつゝ、素子の讃嘆と感謝を浴びようとする黒岩万五に、少年のやうな嫉妬を感じるのであつた。

 その日一日、幾島暁太郎は、なにをする気にもならず、例へやうのない空虚を感じた。
 ガランとして人つ気のない別荘の内外は、さういふ彼を、更に沈鬱にしたかといふと、必ずしもさうではなく、日当りのいゝ露台に長椅子を持ち出して、ぼんやり寝そべつてゐると、澄みきつた空気の肌触りが感覚のすべてを活き活きと蘇らせ、絶望の暗さからは遠い、その代り、果てしのないひろがりをもつ希望のやうな、模糊とした、真珠色の微光の世界が彼を取り巻くのである。
 やがて日が暮れた。
 彼は早く床にはひらうと思つてゐると、黒岩万五がひよつこりやつて来て、
「みなさん無事に汽車に乗られました。よろしくといふことでありました」
 と、珍しく軍隊風に報告した。
「あ、さうですか。君は、今日の輸送部隊の殊勲者らしいな。ご苦労さまでした」
 彼は、自然に膝を正して挨拶をした。
「一人ぢや淋しいこんだね」
「いや、却つて、たまには、これが薬なんだ。さもなきや、わざわざゐろつたつてゐやしない。君は明日からまた猟だね?」
「わしもなんだか気ぬけがしたね。たゞ、銃を錆びさしちやならんで取りに来ただが、……」
 黒岩が序に伯爵の銃を壁から外して弾丸を検めにかゝると、幾島はその手から眼をはなさず、
「危いよ、君……。どうも僕は苦手だ、さういふ玩具は……」
「まだ二発へえつとる」
 さう云ひながら、黒岩は弾丸を抜き、それを元の壁へかけた。
「黒岩君、僕はね……」
 と、幾島は言葉を更め、
「かうしてゐる間にやつぱりあの問題を徹底的に研究してみようと思ふんですがねえ。君の考へぢや、小峯君は、いつたい、どんな最後的手段を取るつもりなのか知ら?」
 すると、黒岩は、にやにやしながら、
「水源へ小便でもひらうつちふんだべ」
「非常に陰性なんだな、先生らの流儀は……」
 と、彼は顔をしかめた。
「わしらは、それぐらゐ平気になつとるだが、やつぱり利き目はあるか知れんね」
 黒岩は、戦場のクリークとやらの水のことを云ふのであらう。しかし、幾島は、この時まだ見ぬグロテスクな幻影を追ひ払ふやうに、
「ねえ、それはさうと、僕は先生たちと事務所側との間に立つことは断念しかけてるんですよ。僕は、この問題は、もつと簡単なところに解決の鍵があるんぢやないかと、ふと、さつき気がついたんだ。いづれ、この案を具体化する場合には、君の力を是非藉りなけれやならないと思つてゐます。まあ、見てゝくれたまへ、もうしばらく……」

 雪が解けるのを待つて、幾島暁太郎はぶらぶら附近の山道を歩き廻つた。朝出て昼近く帰ることもあり、昼の弁当を持つて、夕方までねばることもあつた。彼は、山裾の岩かげをのぞきのぞき、清水の湧き出てゐるところを丹念に調べてゐるのである。
 地形の関係はむろんあるけれども、思ひがけない斜面の中腹に、「だいもんじさう」や「岩千鳥」など、水際にでなければ生えないやうな植物の群落を発見し、胸ををどらせながら、枯つ葉をかき分けてみる。僅に水が滲み出てゐると、彼はステツキの先で土を掘り返す。シヤベルか鶴嘴があればと思ふ。耳を地べたに近づけて地の底を流れる水の音を聴かうとする。無駄である。泰平郷、或は曾根部落の水源として水を引く便利を考へると、地域もほゞ限定されるのであるから、谷へ深く降りて行くことはできない。彼は、水のないところに水を求めてゐるのである。
 それでも、時には、崖の下の草叢のなかを、ちよろちよろと走る一脈の水線に出会ふことがある。彼は急いで、その水質を検べる。片手でしやくつて、口に含んでみるだけだが、臭ひがなければまづ及第である。その水線を逆に遡つて行く。きつとどこかで消えてしまふ。そこへ目印の木の枝を建てゝおく。そのへんに「おほばたねつけばな」の群落でもあれば、春さきにはもつと水量が増す証拠である。
 その日は曇つてゐて、日中も可なり寒く、彼は平地へ出ると駈足をしながらからだを温め温めした。森へはひると、風がないだけ楽である。日が暮れるまでにはまだだいぶん間がある。地図でゆつくり方向をつけ、慎重に距離をはかつてゐるから、帰りの道を見失ふ心配はまづない。
 どこかで犬が吠えてゐる。猟師がそのへんにゐるのであらう。だが、それにしては銃声がちつとも聞えない。
 彼は、ふと、自分の外套の色で猪と間違へられはせぬかと思ひ、遠くから人間だといふことを一番よくわからせる方法はなんだらうと戯談に考へた。
 気のせゐか、犬の啼声がこつちへ向つて近づきつゝあるやうである。熊笹の葉がカサカサと鳴る音もする。
 犬がぴたりと啼きやんだ。と殆ど同時に、すぐ眼の前の稜線の向う側で、一発、銃声がした。
 彼は思はず樹蔭に身をひそめた。
 口笛で犬を呼んでゐる。
 やがて、稜線の上に一人の猟師の全身がニユツと現れた。肩に担いだ棒の両端に、小さな獲物を幾疋か結びつけ、戦闘帽を阿弥陀にかぶつて、こつちをぢつと見据ゑてゐる。それは、まさしく黒岩万五であつた。
「オーイ」
 と、幾島暁太郎は、樹蔭から躍り出て、叫んだ。
 晴れ晴れと顔いつぱいに笑ふ黒岩万五の方へ、彼はもう一度、
「今とつたのは、なにイ?」

 黒岩万五は、今とつた野兎の背中をひと撫でして、
「こん畜生、さんざん逃げまはりやがつて……」
 と、いまいましさうに云つた。
 二人は、鬼ゼンマイの枯葉を積んで、その上に腰をおろしてゐた。
 幾島は地図をひろげて、いきなり黒岩の眼の前に突きつけ、
「ねえ、ちよつとこれ見てくれない? この印のつけたるところね、みんな水が出てるところなんだ。むろん、出るつたつて、滲み出す程度のところが多いんだけれど、もう少し丁寧にしらべてみたら、地下水の相当の分量が、どつかにありやしないかと思ふんですよ。現在の水源だつて、岩の割れ目から湧き出してゐたんでせう。その岩の割れ目を、人工でこしらへさへすれやいゝんだもの、若し、下に大きな水脈があればね。いちいち掘つてみるのは大変だけれども、こゝと、こゝね、この二つは、今でも相当、飲めるのが流れ出してゐて、地形から云つても、面白いところなんだ。僕は道具がなくつて、それに片手ぢや駄目だけれども、君、一度、僕といつしよに来て、見てくれない。少し掘つてみると、たいがい見当はつくんだがなあ……」
「そんなことして、どうするだね?」
 と、黒岩は、腑に落ちぬ顔つきである。
 幾島は、ちよつと気勢を挫かれた形で、
「だつて、君、水源の問題で、あんなに騒いでるんぢやないか。要するに、もう一つ水源を見つけれやいゝんだらう? どつちで使ふにしても、このへんなら水を引くのに便利だらうと思ふんだ。とにかく、それだけの努力はしてみようぢやないか」
「それやいゝが、その程度の湧き水ぢや、ちつとばかり掘つてみたところで、へえ、いくらも出やしめえ」
 黒岩はどうも乗気でない。
「しかし、絶対に望みはないとは云へないだらう? 場合によつたら、多少大仕掛な工事をしても……」
「井戸を掘るやうなもんだね」
「いや、そんなことはないさ。井戸は君、何処へでも掘れるさ。僕の云ふのは、水脈が近くつて、自然の力でも噴き出さうとしてゐるやつをだぜ、人工でちよつと助けてやるだけの話さ。水源として利用するのには、どうせ、君、金と労力がいるんだからね。問題は水量が十分あるかどうかといふことだか、これは、相当湧きだしたら、専門家に鑑定させる。それより手はないよ」
「まあ、そんなところだね」
 と、黒岩万五は、バツトの吸殻を踏み消した。
 幾島暁太郎は、黒岩にこの話は向かぬと見てとつた。彼は、黒岩の助力を仰ぐまいと決心して、かう云つた。
「かういふ思ひつきは実際的ぢやないかも知れないなあ。殊に村の方で、そんなことをはじめたつていふことになると、事務所側で益々強腰になるだらうから、これはこゝだけの話にしよう。君は、さうして、ひとりで山を歩き廻つてゐれば、結構暮せるんだね。暢気だなあ。しかし君は戦争をして来た兵隊だ。それだけに、ひとつ、公のことに睨を利かしてほしいよ、僕に云はせると……。戦さをした経験のあるものが、一番、人間の和、仲良くするといふこと、その尊さを知つてゐる筈だから……」
 さう云ひながら、彼は、静かに起ち上つた。
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 聖路加病院で盲腸の手術を受けた安藤弥生は、暮がおしつまつてやつと退院を許され、あたふたと正月を迎へたのだけれども、彼女はかねて計画をしてゐた全快祝ひを夫正樹の休暇中にやつてしまひたいと思つた。
 で、ごく近しい関係のものだけを十人ばかり招ぶことにして、それぞれ招待状を出した。前日までに出席の返事が七通来た。
「ちよつと、幾島さんからはまだお返事ないわ。どうしてでせう?」
「あいつは来やしないよ。普段そんなに交際つきあつてもゐないで、こんな時更まつて、へんだよ。マチ子さんは来るんだつて?」
「えゝ、それやむろん……」
「幾島だつて、勘づいてるよ、きつと……。もう小細工はよした方がいゝよ」
 いよいよ当日になつて、また一通速達の断りが来た。正樹の学校の同僚で、職員を代表して病院へ見舞物を届けに来た家事の教師である。
 イの一番に乗り込んで来たのは問題の大里町子、これは半分接待係のつもりで、甲斐々々しくエプロンまで持参といふわけであつた。
「あら、あら、そんな大袈裟な恰好、よしてよ。なんにもこさへるもんなんかありやしないわ。それより、ちよつと手かして。本箱がこんなとこにあつちやをかしいから、……」
「あんた、なに、そんな、力いれちや駄目ぢやないの。もしもし、先生、新聞はあとにあそばして、お手を拝借……」
 座敷の隅の本箱が次の間に移され、中央に並んだ大小三つの食卓に白い布がかぶせられた。
 花瓶、灰皿、茶菓子の盛り合せ、ちぐはぐの座蒲団。これで会場の準備が終つた。
 町子は、隙をみて、弥生の耳もとに口を寄せ、
「彼氏、来る?」
 弥生は、わざとその顔をみないで、首をふつてみせる。町子、手の甲を眼にあてるやうにして泣き真似。
「バカね!」
 と、町子は、奥へ駈け込んだ。
 さうかうするうちに、もう、定刻の三時が過ぎる。しかし、四時までに、予定の七人が揃ふ。知らない同士がそれでもあるものである。
 弥生の兄夫婦、正樹の姉(陸軍将校未亡人)、近所づきあひをしてゐる会社員夫妻、弥生の親友として、町子と、もう一人、近頃売出した女流声楽家、ざつとこんな顔ぶれである。
 はじめは、これでどうなるかと思ふくらゐ座が窮屈であつた。誰かがひと言喋ると、あとがすぐしんとした。そのうちに、声楽家がソプラノで笑ひだした。これがきつかけになつて、やゝ活溌な会話が交されはじめた。
 盲腸を誰と誰とがとつたかといふ詮議、夫婦のどつちが病気をした方がいゝかといふ議論、いはゆる病気恢復期といふものの一種棄てがたい情調についての意見など、話はだんだんにはずんでいつた。
 と、その頃、玄関の格子が開いて「ごめん」といふ男の声がした。
 手伝ひに来てゐる弥生の母が取次に出た。そして、「まあ」と叫んだ。やがて、起ちあがらうとしてゐる弥生の後から、母は唐紙を開けるといつしよに、
「ほら、あの方……幾島さん」

「いや、実はお断りの返事を出すかはりに伺つたんです。今日、ついさつき旅行から帰つて来たもんですから……。とにかく、ご全快、おめでたうございます」
「はあ、ありがたうぞんじます。でも、そんなことおつしやらないで、用意もなんにもないんでございますから、ちよつとおあがりくださいませ。安藤もよろこびますですから……」
「おい、幾島君、なに云つてるんだい、君は! 此処まで来てあがらないの? そんなのつてないよ」
 安藤も出て来て、押問答の末、幾島はたうとう靴を脱がされた。
 彼にとつては、いづれも初対面であつた。
 順々に紹介がすんで、大里町子の番になると、安藤夫婦は互にちよつと気がとがめてゐる風をみせ合つた。しかし、幾島はむろん知らぬが仏で、
「あゝ、さうですか、幾島です、どうかよろしく……」
 顔をあげる拍子に、彼は相手の感じ易い少女らしさに心を惹かれ、一瞬、つゝましく眼を伏せた表情の、特別にどこと云つて華やかな魅力はないけれども、気だての好もしさを示す柔かな匂ひを感じとつた。
「その後会つてないんだなあ。あん時はお蔭でまつたく助かつたよ」
 と、安藤は新来の客に言葉をかけ、妻の発病当日のことを一同に話した。
「ですから、あたくしが最初に幾島さんにお目にかゝつたのは、あの担架の上からでございますわね。まあ、恥かしい」
 弥生がさう云つてみんなを笑はした。
「ご旅行はどの方面へ?」
 誰かのさういふ問ひに、
「上州の山の中です」
「温泉はどちらで?」
「いや、温泉ぢやありません。季節外れの避暑地なんですが、ちよつと用事がありまして……」
「上州つて申しますと、高崎からずつと奥へはひりましたところに、泰平郷とかなんとかいふ近頃開けた別荘地がございますさうですね」
「はあ、そこなんです、私の参つてをりましたのは……」
「へえ、それはそれは……。私の知合ひが毎夏そちらへ出掛けますもんで……。たいへん好いところださうでございますね。私どもにも是非来い来いと云つてすゝめてくれますんですけれども……」
「さあ、まあ、おひとつ……」
 幾島は、横合ひからビール瓶を突きつけられ、コツプを取りあげた。
 大里町子嬢はこの時どうしてゐるかと思ふと、傍らの声楽家になにやらメロデイーのひとくさりを口授してもらつてゐる。そして、彼女の視線はふと幾島のそれとかち合つた。声楽家のどぎつい化粧と並んで、殆ど白粉気さへないその肌の、黒ずんでみえるのが妙に情熱的であつた。
 安藤夫人とこれら二人の淑女とはみな女学校で同級だつたといふのだが、三人三様の成熟のしかたは面白い対照をなしてゐた。例へば、安藤夫人を世話女房型とすれば、声楽家は云ふまでもなく女王型であり、大里町子嬢はまづオフエリヤ型といふところであらうと彼は思つた。

 幾島暁太郎は食事の出る前に暇を告げようとしたけれども、安藤夫妻は躍起になつて引き留めた。
 そこで、そんならといふわけでまた尻をおちつけはしたが、その瞬間、彼はふと、弥生夫人の眼が大里町子嬢のそれへ微笑みかけたのを見逃さなかつた。
 ――いつぱい食つたかな、と、彼は心の中で呟いた。
 しかし、それはまつたく確たる証拠とてはない推測であつて、さういふ推測を逞しくすることは、当の令嬢に対してはもちろん、主人夫妻に対して、寧ろ不謹慎なことのやうにも考へられた。で、彼は努めて、さりげない風をし、機会があれば、大里町子嬢に何か話しかけてやらうと待ち構へてゐた。
 彼の右隣には声楽家、その隣が彼女であつた。ところが、左側の会社員からひつきりなしに話しかけられるので、彼は、右を向く暇がないくらゐである。
「さう云へば、先日亡くなられた立花伯爵の別荘がたしか、その泰平郷でしたな。新聞で見て、おやと思ひました」
「あゝ、さうです、泰平郷ではないんですが、すぐ近所です。新聞にはどういふ風に出てをりました?」
「たしか脳溢血でしたかな。猟から帰られて、食事中、発作が起つたとか、よく覚えてをりませんが、なんでもそんな記事でした」
「失礼ですが、お勤めは?」
「あ、わたくし……かういふところで、走り使ひをやらされてをります」
 急いで差出した名刺を見ると、
「株式会社サクラ商会通信機部勤務 中楯玄」
 サンドウイツチの大皿が順送りに廻つて来た。小皿に分けてとらなければならない。
 幾島暁太郎は、やつと、右隣の声楽家に向つて、
「どうぞ……」
 と、大皿を渡しながら云つた。声楽家は何を考へてゐるのか、仰向いてぼんやりしてゐたので、もう一人さきの大里町子嬢が手を出した。
「おそれ入ります」
 口を利かうにも、それつきりで、用は足りたのである。
 一座の人々は、みなそれぞれに、安藤夫妻を愛してゐるやうに思はれた。なにひとつ儀礼的なものはなく、好意が裸のまゝ示される適例がいくつもそこにあつた。
 安藤夫妻は、そのためにはなはだ幸福さうに見えたけれども、この二人の間の愛情が、それとどう関係があるかについて、彼の判断は宙に迷ふばかりである。身寄もなく、友もなく、周囲に背を向け、しかもなほ、愛し合ふがゆゑに幸福であるといふやうな一対の男女の生活を、強ひて想像する必要もないくらゐである。しかし、安藤夫妻の場合は、すべてが単純に理解されねばならぬ。彼等は、およそ現代の新家庭にふさはしい秩序と自由とを保ち、互に求めるものを過不足なく与へ合つてゐる模範的夫婦であるとは、彼の観察が次第に生んだ結論であつた。
 中楯夫婦が先づ子供を風呂に入れねばならぬと云つて引上げ、それから、家が辺鄙な郊外だからと云ふので、安藤の姉が腰をあげ、次いで誰は風邪気味、かれは無用心を理由に、いづれも早目に帰り、たうとう、幾島暁太郎は、ほかの女客二人とともに殿しんがりとなつた。

 そして、その三人は、恰も偶然であるかの如く、十時を過ぎて一緒に外へ出た。
 街は、もう半ば寝静つてゐた。
「みなさん、お住ひは?」
 幾島暁太郎は、口で左手の手袋をはめながら訊ねた。
「あたくし、小石川の方ですの。町子さんは四谷ね」
 と声楽家が答へた。
「すると僕は、その恰度真ん中ですね、麹町ですから……」
「あら、でも、麹町なら、四谷の途中ですわ。いゝわねえ、町子さん、お連れがあつて……」
「さうですか?」
 慌て気味で、幾島は二人の顔を見比べた。
 すると、声楽家は、もう、タクシイを呼びとめて、
「お先へ失礼……。パパによろしくね、町子さん」
 車のうしろを見送つて、幾島は憮然として云つた――
「もの凄いひとだ、あれや……」
「あたくしもタクシイを拾ひますわ」
 と、大里町子は低く、独言のやうに云つた。
「さうですか、お待ちなさい、僕がつかまへませう」
 いくら待つても、流しは来なかつた。幾島は左右に眼を働かせながら、町子に話しかけた。
「四谷はどの辺ですか?」
「右京町ですの」
「右京町?」
「えゝ信濃町、ごぞんじでございませう、あのすぐそば……」
「知つてます。僕の親爺が子供の頃住んでゐたつていふんですよ、あすこは。そんな町ですか?」
「まあ、そんな町つて、あなたのお父様、あたくしどういふ方かぞんじあげませんもの」
「区役所の書記です。五十九歳、勤続四十年……」
 町子は、声を忍んで笑ひだした。
 幾島は、疾走して来る車へ大きく手をあげてみせたけれども、無駄であつた。
「バスになさいませんか?」
「もうすこし待つてみますわ。でも、あなたはどうぞおかまひなく……」
「僕は、むろん、バスで帰ります。どうせその方が早さうだから……」
「ぢや、どうぞ、ほんとに……」
「安藤君の細君とご同級でしたね。あのひとは、その上の学校は?」
「あの方、女高師の中途退学でいらつしやいますの」
「結婚のためにね」
「えゝ、たぶん……」
「あなたは、卒業後、どつかへ……?」
「はあ、ちよつとだけ田舎の女学校へ……」
 彼は、もうそれに違ひないことを知つた。安藤は、名前だけを云はずに、ほかのことはすべて彼に話してあるからである。
 彼は、いまいましいといふ風に唇をゆがめた。が、自然に皮肉な微笑も浮んで来る。
 ――彼女は自分がすべてを知つてゐることを知つてゐるかどうか? それが問題であつた。
 もうあとなにかひと言、たゞそれだけで、その疑問も晴れるに違ひない。
「ストツプ!」
 彼は、飛び出すと一緒に叫んだ。
 急停車をしたボロ車のドアを開けて、彼は、彼女に云つた――
「さあ、お乗りなさい、早く、寒いから」

 幾島暁太郎は、車の窓越しに、大里町子の深々とした眼差しが会釈するやうに彼を見あげてゐるのを知つて、もう一度軽く帽子を脱いだ。
 ――かういふことが、ぜんたい、あり得ることだらうか? 策謀の中心がどこにあるかは問題でない。とにかく、彼女はそれを望み、そして、それを敢てしたのだ。なんといふ厚顔あつかましさ、なんといふ跳ねつ返り! しかも、かうして会つてみて、あの女のどこにそんなものが、隠されてゐるのか、まつたく不思議なくらゐである。
 一昨年の秋、女高師の学生たちが植物園を見学に来た時、恰度彼もそこに居合はせて、引率の教師と二言三言口を利いたことがある――多分その時の学生の一人だらうと、彼は見当をつけてゐるのだが、なにか、このやり口には、「感情」よりも「勘定」が先に立つてゐるやうに思はれてしかたがない。「植物学に非常に興味をもつてゐて」などと本人がそれを云つたのかどうか、安藤はいくども繰返したのを覚えてゐる。――植物学がそれを聞いたら苦笑するに違ひない。それにも拘らず、今日の彼女の印象は、最後まで、非の打ちどころのないものであつた……。
 彼は、バスの停留所までそんなことを考へ考へ歩いた。
 その翌日、彼は、予定どほり内幸町大阪ビルの文華土地株式会社を訪れ、社長田沢に面会を求めた。
 二十分ほど待たされてやつと社長室へ案内されたのはいゝが、田沢は、約束で出なければならぬから簡単に用件だけを伺はうと、あまり歓迎の意を表してをらぬことが明らかであつた。
 彼はよつぽど何も云はずに帰つて来ようかとも思つたが、それは戦はずして敗けたことだと自分を励まし、
「お忙しいところを恐縮ですが……僕、先日ちよつとお話ししましたやうに、泰平郷の水源の問題で、地元の青年の一部が訴へてゐることを、よく聴いてみたんです。現地の事務所では、その要求に対して、真剣に考慮するといふ誠意を示さうとしないことが、この問題を紛糾させる最大原因だと、僕は思つてゐます。しかし、泰平郷建設の絶対必要条件として、あの水源の一部使用権を地元に譲渡するといふことが不可能ならば、これに代るべき水利について、会社側がなんとか道義的な処置を講じてやるのがほんとぢやないかと思ふんです。曾根部落の非常に真面目な青年の一人で、この問題を単に経済的な立場からのみでなく、都会人の一般文化的な優越感がもたらした傍若無人の所業として極度に憤慨してゐるものもあります。ですから、これは、一水源地の問題から延いて、泰平郷村地元農村の感情的抗争に発展する惧れが十分にありますし、あなたの理想とされる、無産知識階級のための快適な夏季保健地の建設といふ、「泰平郷」の名にふさはしい平和事業の趣旨に、若干背馳することになりやしないかと、僕は心配するんです。そこで、いつかのお説のやうに、単に算盤を弾く事務所の係員の裁量にこの問題の解決をお委せにならないで、一応、大局に立つて、これをあなたご自身で研究してみていただきたいと思ふんです。それについて、ご参考までに、僕がこの二週間ばかりの間に得たひとつの調査の結果を報告しておきます」
 彼はひと息に喋つた。
 と、田沢は、それにはなんとも答へず、
「ちよと失礼……」
 さう云つて、次の部屋へ出て行つた。
 デスクの上に、いま封を切つたばかりらしい一通の封書が置いてある。彼は、その上書にふと眼をとめた。そして、おやツと思つた。たしかに見覚えのある手蹟である。

 見覚えのある字どころではない。その特徴のあるペン書きの女文字は、たしかに斎木素子に相違ないと、彼はにらんだ。
 裏がへしてそれがさうであることをたしかめてみる誘惑に彼は抗しかねた。
 そして、手をそつちへ伸ばした。
 そこへ田沢が戻つて来た。
「ふむ、それで?」
 幾島暁太郎はその手紙を横目でにらみながら言葉をついだ。
「調査の目的は曾根部落或は泰平郷のために、もう一つ新たな水源を発見することにあるんです。二三、地元の古老にも当つてみましたが、主として僕が実地踏査をしました。素人の勘で、特別な試験方法を採用したわけではありません。しかし、現在の湧出量、附近の地形、並に地質の観念を綜合して、たしかに有望ではないかと思はれる箇所が一ヶ所あります、僕の意見では、この水脈の価値を決定するには、専門家の鑑定を求めればむろん簡単ですが、その前に、いくたりか人夫を使つて……」
 その時卓上電話の呼鈴が鳴つたので、田沢は受話機を耳にあてた。
「はい、はい、わしだ……あゝ、さう……うむ、わからん……いや、いや、そんな暇はない……もう出かけるんだ……はい、さよなら」
 電話がすんだと見て、幾島は更に先を続けようとすると、田沢は、
「だいたいお話はわかりました。あなたのおつしやるその新しい水源といふのは、それや早速調べさせてみませう。わしの方でも分譲地域の拡張に伴つて、現在の水源だけでは不十分だといふことは予めわかつてゐるんです。しかし地元農村の水利といふことはですよ、これは、あなたのお耳にははひつてをらんかも知れんが、わしとしては、とつくに県当局と談合の上、善処してゐるつもりです。その証拠に、責任もない一知半解のやからが、それも一人二人売名的な反抗を試みるといふだけで、村民の大部、殊に、有力者は挙つて、わしどもの権利行使に承認を与へとるです。当節、この種の問題はさう単純に上から抑へるといふことはできんですからな。わしも永年、地方政治では苦労をして来とる人間です。お見受けするところ、あなたはまだお若いやうだが、農民の代弁者として一生を捧げようといふおつもりならだ、先づ彼等の素朴な要求を、なんらの先入見なしに見究められることが絶対必要です。これは学問だけぢやいかん。彼等の生活を通して……」
「いや、僕はそんなはつきりした立場をもつてゐるわけぢやないんです」
 と、幾島は遮つた。
「たゞ、僕自身の印象では、彼等の訴へにそれほど不純なものはないと思ふばかりでなく、寧ろ、あなたがお気づきになつてゐない、素朴は素朴でも、同時に、微妙な心理があることは確かです。時間がおありにならないやうですから、これは詳しく申上げません。しかし、それを無視することは、非常に危険です。危険といふ意味は、第一に泰平郷の健全な発展のために、最も憂ふべき不祥事が惹起されるだらうといふ意味です。では、僕の用事はこれだけです」
 彼は起ち上らうとした。
 田沢は、ちよつと考へて、急に面倒臭いといふやうに肩をふり、
「や、わざわざどうも……」
 幾島は、ビルデイングの一階へエレベーターで降りると、そこの売店で「光」を一箱買つた。
 外へ出て、さて、どつちへ行かうと左右を見廻した。
 田沢が、待たせてある車に悠々と乗るのをみた。
 幾島は、なんといふことなしに斎木素子を訪ねる気になつた。

 斎木素子はたつた今、外から帰つたといふところであつた。
 四畳半を応接間風にしつらへた玄関わきの部屋へ通された幾島暁太郎は、調度装飾の一種植民地的な香りから、この家の生活といふものに少からぬ好奇心を惹かれた。
「どうなすつたの、いつたい……ずつとあつちにいらしつたの?」
「昨日帰つて来ました。立花伯爵のお葬式にも行かなきやわるいと思つたんですが、向うでちよつとやりかけたことがあつたもんだから……」
「お葬式はどうでもいゝけど、向うでなんか面白いことおありになつて?」
「別に面白いことなんかありやしませんよ。水源を一人で探して歩いたんです。一日平均二十粁は歩きましたね、山の中をですよ」
「でも、その方は慣れてらつしやるんでせう、だから……」
「それやまあ、あなたに感謝してもらはなくつたつていゝですよ。しかし、田沢つていふ男は失敬な男ですね。僕がその調査の結果をもつて、ある意見を述べに行つたところが、てんで見向きもしないんだ」
「植物学者がさういふ問題に熱心なのをへんに思つてるんぢやないこと?」
「あなたと同様にですね? なるほど僕の専門は植物学です。しかし、僕の感情は人間一般の倫理を基礎として動くのに不思議はないでせう!」
「もちろんだわ。たゞ、さうね、なんていふのかしら……田沢さんは田沢さんとして、あたくしはよ、あなたのさういふところ、とても好きなくせに、やつぱり柄にないみたいで、危つかしい気がするの。ごめんなさい。これは間違つてるかも知れないわ。女のさういふ判断には、どうせ狭いところがあるんぢやないかと、自分でも確信はもてないのよ。でも、さういふ風にみえることが、好意からだとすれば許していただけるでせう」
 二人の会話はそれで途切れた。といふよりも幾島が、いつまでたつてもなんにも云はないのである。彼は、眼を彼女から反らしてプカプカ煙草を喫つてゐる。自尊心を傷けられて、しかも腹は立たぬといふ顔つきであつた。
 と、やゝあつて、突然、彼は口を開いた――
「伯爵の秘書つていふ肩書はなくなつたわけですね」
「肩書だつて……。いやだ」
 彼女は平然として抗議をした。
「すると、これからなにをします?」
「さあ、なにをしようかと思つて、考へてるの。結婚でもしようかしら」
「どうぞご随意に……。しかし、そんなことなら、別に訊く必要はなかつたんです」
「あら、今日はひどく気むづかしいのね、あなた……。よつぽど田沢が癪にさはつた?」
 幾島はうつかり吹きだして、
「あなたに当つたとすれば、理由わけがあるんですよ。云つてみませうか?」
「えゝ」
 と、彼女は、例の瞼で聴く用意をする。
「あいつのデスクの上に、封を切つた手紙がおいてあつたんです。上書の字だけしか見えないんだけど、その字が、とてもあなたの字に似てるんですよ。いや、僕の眼には、たしかにさうだと思はれたんです。違ひますか?」
 それを云ふ間、彼女の表情は、さも珍しいニユースを初めて聴くやうな、或は身にまつたく覚えのないことをだしぬけに問ひ訊されたやうな、まことに罪のない表情であつた。

「あたくしの字をよく覚えてらしつたわね」
 と、素子はだしぬけに云つた。
「ぢや、やつぱりさうなんですか?」
「その手紙はどうか知らないけれど、あたくしも出すには出したわ。――それには面白いことがあるの。お話ししませうか?」
 幾島はもちろん聞きたかつた。
 素子の話といふのはかうであつた。
 立花伯爵の葬式の日、祭場の一隅で、彼女は田沢から意外な勧誘を受けた。それは彼女が若し望むならば、田沢の会社で適当な地位を与へるか、或は、彼のプライヴエイトの秘書にしてもいゝがどうだといふのであつた。彼の云ふところに従へば、土地会社には有力な宣伝部が必要であつて、それには従来の外交型を破つた、教養ある淑女の真の社交的手腕に俟つところが大きい。但し自分で戸別訪問をするといふやうなことは強ひないばかりでなく、寧ろ、彼女が宣伝部に籍を置くとすれば、すぐに、次長の椅子を与へるから、原則として来訪者の応待をしてもらへばいゝ。具体的な条件については、彼女の希望をできるだけ容れるつもりでゐる。返事は今日でなくてもいゝが、是非相談にだけは乗つてもらひたい。若しまた、几帳面なオフイス勤めがいやだといふなら、それはそれで、からだを縛らないやうな社長専属のポストを作ることは容易である。
 さうなれば、まあ、秘書といふ名義以外にないが、それだと、彼は大体東京の本社には一週二度ぐらゐしか顔を出さないから、その時だけ出社してくれゝばよいことにする。何れにしてもよく考へたうへで、電話なり手紙なりでちよつと意向を知らせてほしい。――
「その日は、そんな話、うはの空でしか聞けやしないわ。だつて、あたくしは喪服を着てるのよ、とにかく……」
 と彼女は心もち眉を寄せた。
 幾島は、その「喪服」といふ言葉に籠る彼女の感情を読みとらうとした、そして、云つた。
「伯爵の死因について、新聞は穏やかに真相を伏せてゐるやうですね」
「えゝ……。でも、そのことはもうおつしやらないで……。あなたにはいつか詳しくそん時の事情を聴いていただかうと思つてるんだけど、今でなく、ね。今はまだ、あたくしの気持としては早すぎるの。お葬式はとても盛大で、あたくしなんか隅つこで小さくなつてゐるくせに、それでも、これだけの会葬者の誰よりも伯爵の悲劇的な性格を知つてゐるんだと思ふと、自分も一緒にこの世から葬られてしまつてもいゝやうな気がしたわ。どういふんでせう……」
 さう云つて、彼女は遠くの何ものかを追ふやうな眼つきをした。
「それで田沢氏には、なんて返事をしました?」
 と幾島は、わざと話を前へもどした。
「あゝ、その返事? それはね、まづかう書いたわ――わたくしもなにか自分の性に合つた仕事を見つけたいと思つてゐる矢先でございますから、先日のお話はほんとに耳寄りなお話だとぞんじますけれども、なにぶん、第一の宣伝部次長といふ方は、どうやら責任が重すぎますし、第二のプライヴエイトの秘書といふ方は、経験によりますと、仕事の範囲がとかく曖昧になり勝ちで気苦労が多すぎますし、どちらも進んでお受けすることはむづかしいやうにぞんじます……」
「へえ、断つたんですね」
「まあ、ちよつと、しまひまでお聴きになつて……。しかし、折角の御思召しゆゑ、こちらの希望だけを申述べさせていたゞきますと……」
 そこで、彼女は、自分の書いたとほりを、一字一句違へずに云はうと、しきりに記憶を呼びさましてゐる風であつた。

「あ、さうさう、その前にかう書いたわ――折角の思召しゆゑ……こちらの我儘は許していただけるものとして、ほんの希望だけを申上げれば、わたくしは寧ろ、宣伝部の一員でけつこうでございます。それも補助部員といふ資格で働かせていただければうれしいとぞんじます。さうすればきつと、自分でなにかお役に立つやうな仕事を作りだせるだらうといふ自信がございます。そして、条件は、他の社員の方々との振合ひはいかがかとぞんじますけれども、黙つて月三百二十五円……」
「え、三百二十五円……」
 と、幾島は、面白がつて、問ひ返した。
「まけろつて云つたら、はしただけまけるの」
 彼女はすまして云つた。
「まあいゝです。それから?」
「……それだけ出していただければ、これまでの勤めと比較して、差引そんなに違はない結果が得られやしないかと、自分で胸算用をいたしてみました。但し、それほどの値打はないと思召せば、こちらも、ご尤もと引さがるより外ございません。不躾けな手紙でおそれいります。どうかあしからず、わたくしの意のあるところをお汲みくださいますやう……」
「そいつはむづかしいや、あなたの意のあるところを汲むのは……」
「だつて、どうして? さう書くよりしやうがないんですもの。向うが向うなら、こつちもこつちだわ」
 そこで素子は、はじめて幾島に笑ひかけた。彼もまた、妙に胸のつかへがとれたやうな気がした。
 艶のいゝ老婦人が湯呑みを盆にのせて出て来た。
「こんなものこさへましたんですが、お口に合ひますかどうか……」
「母ですの」
 と、素子が紹介した。
「幾島です、突然伺ひまして……。甘酒ですね。やあ、こいつは久しぶりだ」
「素子からよくお噂を伺つてをりました。なるほどお若くつていらつしやる」
 母親はまじまじと彼の顔をみた。何ものをも怖れないやうな視線であつた。
「お母さんもお元気のやうですね。なにしろ事業家でいらつしやるんだから……」
 彼は、対抗上、そんなことを云つた。
「たいへんな事業家ですワ、ほんまに……。でも、お若い方相手ですから、思つたほど年をとりませんのや」
「あんなこと云つて、駄目よ、母さん、幾島さんはお世辞がお上手なんだから……」
 素子がそばから云ふ。
「あ、お世辞なんか云つた覚えないですよ、僕は。たゞ、かうして、お母さんにお目にかゝつて、はじめて、素子さんの一面がわかつたやうに思ひます」
「あらあら、たいへんだ、それや……。もう引つ込んでゐませう」
 さう云つて、母親は席を外した。
「あの母のどういふところに似てゝ、あたくし?」
 と、素子はすかさず詰め寄つた。
「似てる似てないよりも、あのお母さんからあなたが生れ、あのお母さんにあなたが育てられたといふところに意味があるんです。僕がもつてゐる「女」の観念からは、ちよつと想像のつかない強靭なものを感じますよ、あなたにしろ、お母さんにしろ……」
 それを聞いて、素子は、パチパチと得意の瞬きをし、瞳の輝きを見る見る曇らせるやうなやり方でしほらしく悄げてみせた。それは、多分に技巧的なものに違ひないけれども、女性的と云へばこの上もなく女性的な物柔らかさであつた。

 幾島暁太郎は殆ど後悔するやうに顔をゆがめた。
「あたくしのことはもうそれくらゐでいゝわ」
 と素子は調子をかへて、
「それで、山の方はどうなりましたの? 水源をお探しになつて、その結果は?」
「有望なところが一ヶ所見つかりました。しかし、僕ひとりぢや掘つてみることもできませんからね。それで、田沢氏に、人夫を使つてこれならといふところを確めるやうに勧めてみたんです。だいたい、僕のさういふ意思が相手に通じないんだからしかたがありません」
「つまり、商売人なんだわね」
「悪い意味の……」
 と、彼は付け足した。
「でも、何か新しい仕事をしようと思へば必然的に、いくらかの犠牲者がでるんぢやないかしら? その犠牲者に同情するものもむろんあつていゝわけだけど……」
「あなたは、その仕事をする側につきますか?」
「あなただつて、その犠牲者のことしきやお考へにならないわけぢやないでせう?」
「僕は、それでもいゝと思つてゐます」
 きつぱり、彼は答へた。彼女の物云ひたげな眼は一旦しづかに伏せられて、それがまた忍びやかに、上へ上へと匐ひあがつて来た。
「おやさしい方ね、あなたは……」
 さう云ひながら、彼女は、いきなり起ち上つた。そして、違ひ棚から一冊の部厚なアルバムを持つて来て、彼の前へ置いた。
「これ、ごらんになつて……。あたくしの一家……あたくしの歴史よ」
 なるほど、最初の頁に、賑やかな一家族の古ぼけた写真が貼つてあつた。まんなかに中年の夫婦が椅子を並べ、その左右に二人づゝ四人の少女が立つてゐた。いづれも野暮つたい洋服。
「おわかりになる、このチビ?」
「あなたでせう? わからないなあ。六つぐらゐの時……?」
「えゝ、小学校へあがる前の年だから……」
 次の頁には、結婚記念らしい若い一対の男女。
「ほう、母君の若かりし頃といふわけか」
 幾島は朗かに云つた。
「それはさうと、その後、ご縁談はない?」
「だれ? 僕? まあ、あると云へばあり、ないと云へばないです」
「へんなお返事……。あのね、今まで内証にしてたけど、今日いらしつたからお喋りしちまふわ。あたくしの母がね、あなたにお嫁さんをお世話しかけたことがあるのよ。去年、あなたからお手紙いただいて、上野でお会ひしたでせう。あん時、お話のあつた候補者つていふ方がさうかぢやないかと思ふの。面白いでせう?」
「へえ、わからないや、僕には……。まあ、そんなことはどうでもいゝですよ。僕には、もつと緊急な問題が眼の前にあるんです。これは、あなたかな?」
「いゝえ、二番目の姉……」
「あゝ、香港にいらつしやる……」
 と、幾島は、それをちやんと覚えてゐた。門の前で、その時、自動車の停る音がした。レースのカーテンを透して、いま車から降りた男の、もの珍しげに屋敷内を見まはしてゐる姿が、素子の方からはよくわかる。
「ちよつと……来たわ」
 と、彼女は腰を浮かし、幾島に目くばせをした。彼が後ろを振りむいた時には、もう、その男の影は玄関の廂の下にかくれてゐた。
「田沢氏……」
 と、素子は、幾島の耳元に口を寄せた。
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 幾島暁太郎は、茶の間の長火鉢のそばへ坐らされ、しばらくぼんやりしてゐた。
「こんな、狭くるしいところで……」
 と、素子の母は、火鉢に炭をつぎ足しながら云つた。
「かういふ純日本式なお部屋もあるんですね。やつぱりこんな道具がないとご不便ですか?」
 長火鉢のふちを撫でながら、彼は話しかけた。
「いゝえ、わたくしは一向さういふことは平気ですのや。ほやけど、死んだ素子の父親が、日本へ帰ると急に、あなた、かういふものを恋しがりましてな。ひと部屋は是非これ式にせんならんいうて、その名残りですのや」
 応接間の声が、時々、はつきりこつちへ漏れて来る。
「いや、いや、そんなことはない。率直に云つてもらつた方が、わしは気持がえゝです。すると、まあ、だいたい、なんですね、あの条件で承知といふことにしてくださるか?」
「はあ、でも、すこし虫がよすぎやいたしません?」
「ふゝゝゝ、それやまあ、あんたにどれだけの腕があるか、それをみてみんとわからんが、しかし、人間にはほんと云ふと、相場といふもんがないんぢやから、望み手があればいくらにでも買はれるわけです。ワツハツハハハ」
 幾島は、面白くないといふ顔で、「光」に火をつけようとした。
 素子の母は、火箸で火を掻きおこしながら云つた――
「お手がご不自由で、ほんに……。お小さい時に怪我をなすつたとかで……」
「いやあ、もう慣れました。こんな手が一方にぶらさがつてるもんだから却つて目障りなだけです。自分より人にわるいやうな気がしましてね」
「あほらし。さぞご難儀やろ思ふて、わたくし……」
 彼女は慌てゝ目を反らすのであつた。
「すると、わしの方は明日からでもえゝが、あんたの方はどうかな。明日一日出てもらつたら、今週はもうそれでよろしい。わしはちよつと関西へ行つて、来週早々帰つて来ます。正式には来週からといふことにして、幹部にだけご紹介しておかうと思ふがどうです?」
「社長は、ご本宅はどちらでいらつしやいましたつけ?」
「わしの本宅か? なるほど、こいつはまづかつたな。あんたはなにもかも知つとるわい」
 そして、また、ワツハツハがはじまつた。
 幾島は全神経を耳にあつめてゐた。素子の声がわりに低いのはどうしたわけか?
 その時、素子の母は、幾島がきちんと坐つてゐるのをみて、
「まあ、さあ、お崩しなさいませ。お洋服で畳はほんにいけませんワ。素子の部屋がちやんとなつてれば、あちらでお待ち願つてもえゝんやけど……」
「いや、こゝで結構です。お宅でお貸しになる部屋はみんな洋式ですか?」
「半分半分にしてございます。近頃はやつぱり洋風をお望みの方が多いかして、その方は満員ですワ」
「僕もひとつ、勤め口でもきまつたら、ご厄介になるかな。ちよつと明いてゐる部屋を見せて下さい」
 素子の母は、まさかといふ顔で案内にたつた。が、すぐとつつきの部屋のドアを軽く指先で叩いて、
「こゝ、素子の部屋ですのや」
「ちよつと覘かせてください」
 と、彼は我武者らに乗り出した。

「ま、ま、やめといてやつてくださいませ」
 母親は急いで後から止めようとしたが、
「ちよつと、ちよつと、ちよつと……」
 と、子供をだますやうに、そして自分も子供のやうに、幾島は扉のハンドルに手をかけた。そして、そのまゝ後をふりむいて、母親の顔をみた。
「なんにも珍しことあれしまへん。たゞのをなごの部屋や」
 さう云ふ彼女の眼は不機嫌に彼を監視してゐた。
 彼はそこで、戯談だといふ風に、くるりと向をかへた。廊下は母屋から二階建のアパートの方に続いてゐた。
 応接間では、こんな会話が交されてゐた――
「ふむ、すると、女学校二年までは紀州の田辺で……?」
「さうでございます」
「伯爵から伺つとつたところによると、あんたは、タイプ、速記、美容術、なんでもやるんだつてね。文章もうまい、なかなか……」
「あらそんな……。宣伝文の試験をなすつてごらんになりません?」
「うむ、その方は追つてやるとして、さしあたりあの泰平郷ですがね、あの事業の宣伝方法をひとつ研究してみてくれたまへ。立花伯爵の別荘ありといふことは、今後歌へんやうになるかもわからんのでね、これは痛手だよ、きみ」
 彼女は、伯爵が日頃、立花家は自分一代であとは絶やしてしまひたいといひ、遺産の大部分は孤児院へでも寄附するつもりだと、云つてゐたことを思ひだした。
「あの別荘はどなたのお手にうつるんでございませう?」
 と、素子は訊ねた。
「それがさ、まだ遺書の内容もわしの耳にははひつておらんしね、あの土地の委託分譲の形式も、完全とは云へんのでね。まあ、ことによつたら、あの別荘だけは、わしが個人で買取つてもいゝと思つとるんです。あんたは気に入つとるかね、あの別荘は……?」
「と申したところで、どうなるもんでもございませんわ」
「伯爵があれは君にといふ遺書でも作つてをられやせんかな」
 彼は、探るやうな眼つきで、彼女を見据ゑた。
 彼女は、
「ちよつと失礼……」
 と云つて座を起つた。
 茶の間には誰もゐない。へたへたと火鉢のそばへ膝を折つて、彼女は、一つ時、眼を閉ぢてゐた。田沢といふ人物に対する我慢のならない軽蔑と憎悪が湧いて来たのである。
 彼女は、しかし、こゝで癇癪を起してはなんにもならぬと思つた。三百なにがしの化粧代も決してほしくはないわけではないが、それよりも、自分のこれからの生活を考へると、寧ろ、かういふ男を向うにまはして、寸分も隙をみせないといふ女の役を演じてみたかつたのである。それは、社会とか国とかいふ大きな場所と関りはなくつても、この種の男の足が踏み躙るであらうたゞひとつの小さな魂に、蔭ながら力を添へることにでもなりはせぬだらうか?
「お待たせいたしました。では、明日……。どうぞよろしく」
 と、彼女は、田沢の前で丁寧に頭をさげた。

 田沢を送り出したところへ、母が顔を出した。
「もうお帰りになつたのかい? あたし、お送りもしないで、わるかつたね」
「いゝのよ」
 と、素子は気のない返事をして、奥へ引つ込んだ。幾島がそこにゐるので、
「どこへ行つてらしつたの?」
「ちよつと部屋を見せてもらつたんです、参考のために……」
「もの好きね。あつちへいらつしやらない?」
 二人はまた応接間へはひつた。
 が、幾島はすぐに腰をおろさうとせず、窓から外を見てゐる。そして、素子に背を向けたまゝ、
「どういふことになりました?」
「こつちの云ふとほりにするんですつて」
「それで、あなたは承知したんですか?」
「だつて、しやうがないわ」
 この返事で、幾島は急に後をふり向き、しばらく彼女の顔を見据ゑてゐた。が、やがて、なんとも云ひやうのない深い溜息をひとつすると、また窓の方へ視線をうつして、それから静かにかう云つた――
「あなたの云ふとほりにするといふことは、いつたいどういふことだかわかつてますか? あなたはむろん、不可能と思はれる条件を持ち出したつもりなんでせう? それはつまり、拒絶の一手段だつたんでせう? 男ならばしないことだけれども、あなたのやうな女がさういふ場合、ちよつと相手をからかつてみることは、まあ、許されるべきでせう。僕は、さうとばかり思つてゐました。あなたの肚さへきまつてゐれば、たとへ向うが、全部の条件を容れると云つたところで、まだいくらも逃げ路はある筈です。いや、逃げ路なんていふことを考へる必要はない。最後には堂々と断つたらいゝぢやありませんか! あゝいふ男が、月三百円の月給を出してあなたを雇はうといふのには、どんな魂胆があるか、それがわからないあなたぢやないでせう。寧ろはつきり云へば、あなたは、向うの不潔な野心を黙許して、それに対する代償を自分で書付にして出したやうな結果になるんだ。僕の云ふことは間違つてますか?」
「こつちをちやんとお向きになつたら?」
 と、彼女は、笑ひを含んだ声で云つた。
 幾島は、それでもまだ、彼女の視線をまともに受けることを怖れるやうに、床に眼をおとしながら、ひとつの椅子に近づいた。
「返事をして下さい、ちやんと……」
「えゝ。でも、その前に伺つとくけれど、あなたはどういふ標準で、あたくしの月給が高すぎるとお思ひになるの?」
「世間一般の標準です」
 と、幾島は、この時やつと顔をあげた。
「殿方のでせう?」
「いゝえ、娼婦を除いた職業婦人を含めてです」
「例外はお認めにならない?」
「………」
 幾島は、ぐつとつまつたやうに、唇だけを動かした。
「女にだつて、運のいゝ相場師もあれば、会社の重役もあり、流行る小児科医だつてありますわ――アメリカの映画女優を勘定にいれないでも……。月収たかが三百円、それつぱつち、驚くことないぢやないの」

 彼女の出かたがあんまり高飛車なので、幾島は、勝手が違つたといふ風に、姿勢をあらため、
「待つてください。例外は認めます。そんなら、あなたは、そのうちのどの種類に属するんです? 相場師ですか、重役ですか、女医ですか、それとも女優ですか?」
 すると、彼女は笑ひたいのを我慢しながら、
「どれでもないわ。しかし、例外はいくらあつてもいゝんぢやない?」
「だから、あなたは、どういふ例外だつて訊いてるんです」
「まあ、そんなこはい顔なさらなくつたつていゝわ。――さうかしら、あたくしにだつてすこしは例外なところがあつていゝと思ふんだけれど……駄目?」
 と、彼女は、甘えるやうに首をかしげた。
 幾島はこの瞬間におけるやうな蠱惑的な彼女を未だ嘗て見たことはなかつた。彼は息苦しくなり、顔を真つ赤にし、拳を握りしめた。
「もういゝです。僕はなんにも云ひません。今まであなたがどんなに説明のつかない役を立花伯のそばで演じてをられたにせよ、僕は絶対にあなたの純潔を信じてゐました。それは相手が誰だといふことよりも、あなたの態度のなかにさう信じさせるものがあつたからです。今度はさうはいきません。あなたは、ご自分を世間の例外のうちに数へようとなさるが、それは云ふまでもなく、あなたの美しさでせう。よろしい、それは認めます。しかし、それをあなたは、ある特定の男に、どういふ名目によつて利用させようとなさるんです? 鑑賞料でも取らうといふんですか? 言語道断だ。それが、なんのことはない、売笑の一形式ぢやありませんか」
 彼の声は殆ど怒りにふるへてゐた。
「あなたのその理窟は、女を女だからつてお責めになるやうなもんだわ」
 と、素子は、くうを見つめながらしんみり云つた――
「だつて、さうでせう、あたくしをどういふ風にみて、それだけの月給を出す気になつたか、それは向うの勝手ですもの。自分で自分をすこし例外扱ひにしてるのは、しかし、そんな意味ぢやないの。そこをほんとにわかつていただきたいわ。あたくしは別に何かしなれや食べていけないわけぢやないし、営利会社なんかへ勤めるのは、どつちかつて云へば気が進まないのよ。たゞ、うんといゝ条件なら、そこで何かしら埋め合せがつくみたいに考へたの。鑑賞料だとかなんだとか、あなたがそれを汚れたものゝやうにおとりになるのは、をかしいわ、商売人がそんな余計なお金払ふもんですか」
「だから、なほ、あなたは身動きができなくなるんだ」
 幾島は、さう云つてふと、自分の言葉の激しさに気がついたやうに、
「僕は、しかし、こんなことを公然云ふ資格ないかも知れないな。さうだとしたら、ごめんなさい。僕のこの気持は、少しばかり義憤つていふやうなものだと思つてください」
 それが聞えたのか聞えないのか、素子は、さらに言葉をついだ――
「あたくしがちつとばかり例外だつていふ、もうひとつの理由はね……云つもいゝ?――つまりかうしていつまでも結婚もしないでぶらぶらしてゐることにも関係があるらしいの。だから、異性との問題に限つてるんだけれど、あたくし、とつても慾張りなのね。このへんつていふ諦めがどうしてもつかないのよ。抵抗力つていふのか知ら……自分でもさういふ抵抗力みたいなものに、驚いてるくらゐなんですもの、実は……」
「さういふ自信、ありがたくないな」
 幾島は、吐きだすやうに云つて、ハンケチで額を拭いた。

「さうよ、ありがたくないわ。だから、威張つて云つてるんぢやないけど……」
 素子は、ほんとに淋しさうに云つた――
「たゞ、これはあなたに誓ふみたいなものよ、さうして心配してくださるから……」
「それやどうも……」
 と、幾島は照れたやうに椅子をずらした。
「それやどうもだが、いゝですか、素子さん、その説明を言葉どほりに受けとつたとしてもですよ、あなたの今度の進退について、僕が非難したいと思ふ気持に変りはありません。あなたは主観的にばかりさういふ問題を考へてゐられるやうだけれど、第三者の眼は現象として外部に表はれた事実から、あなたの何者であるかを判断するんです。文華土地株式会社の老獪な社長が、美貌の一女社員に月三百なにがしの給料を払つてゐるといふことは、たとへあなたがどんな腕をもつてゐられようと、あなたの女性としての純潔を保証することにはなりません。断じてならんのです」
「へえ、あの社長とね。第三者は、まさかと思つてくれないかしら?」
 素子はもう正面から相手になる気はしなかつた。
「伯爵でも子爵でもないからですか?」
 幾島も、これも、わざと皮肉を云つたつもりである。
 二人は気まづく黙り込んだ。
「あなたはもう、あたくしのところへなんぞいらつしやらない方がいゝわ」
 と、しばらくして、素子は云つた。
「うるさいからですか?」
 彼は問ひ返した。
「なんにもならないから」
「なんにもなりません、たしかに……」
 昂然と、彼は云ひ放つた。そして、ゆつくり椅子から離れた。
 やがて、彼は、帽子を左手で弄びながら、門を出て行つた。
 母と共にそれを見送りながら、素子は、かすかに溜息をついた。
「どうしたん、お前、急にへんやないの、両方ともむつつりして……」
「へんよ。あの人がへんなのよ。子供臭いつたらないわ……」
「喧嘩かい、みつとむない」
「喧嘩する理由がないぢやないの。だあれも来てくれつて頼みもしないのに、のこのこやつて来て……。ひとの顔そんなに見ないでよ、母さん……」
 彼女は、精がないといふやうに、さう云つたと思ふと、さつさと奥へ引つこんで、自分の部屋のドアを、中からがちやりと閉めた。
 翌日、昼近く、彼女は、大阪ビル新館のエレベーターの前に姿を現はした。
 仕立おろしの洋装に、念入りの化粧をしてゐた。
 エレベーターから吐きだされる人々は、いづれも彼女の方を振り返つた。
 田沢社長は上機嫌であつた。
 専務の高野と人事係とを呼んで、まづ、彼女を引合せた。次いで、宣伝部長の辻が掌の膏をズボンの尻で拭きながらはひつて来た。
「さつき話した斎木素子さんだ。社長が三顧の礼をもつて迎へた方だからね、万事特別にな。指導は指導、命令は命令だが、一方よくまた、このひとの希望もいれてね、大いに独創力を発揮してもらはんといかんな。宣伝部に籍があるのは勿論だが、同時に、社の高等政策だな、つまり、宣伝ならざる宣伝の部門で、自由に活躍できるやうにな、君ひとつ、そこは含んでおいてくれたまへ。他の部員にも、君からよく誤解のないやうに説明しておく必要があるぞ」
 宣伝部長は、社長に一礼し、
「それぢや、こちらへ……」
 と、彼女を促した。

 最初のうちこそ、このオフイスの空気は彼女にはおよそそぐはぬものであつたけれども、一週間二週間と通つてゐるうちに、自分でもだいぶん板について来たやうに思へた。
 同僚たち、特に同性の事務員との接触が一番苦手だつた。なぜかと云へば、向うでこつちをお客さん扱ひにするばかりでなく、中にははつきり不信の眼をもつてみてゐるものがあつたからである。
 彼女はしかし、周囲との調和をはかるために、みんなとおなじことをしようとは心掛けなかつた。例へば、服装の点、昼食には何を食ふといふこと、十銭二十銭の交通費を伝票で会計へ出す件など、自分は自分の都合で押し通した。
 訪問客の応接も、まだ勝手がわからぬといふ理由で控へてゐる。その代り、目下売出中の各分譲地について、書類と首つ引きの研究をはじめた。宣伝方法の千篇一律なこと、特に、強ひて時局と結びつけた露骨な広告文などをみると、彼女はその効果を疑はないわけにいかなかつた。
 たゞ、こゝに極めて興味のあることは、例の「泰平郷」別荘地に関する企画とその趣意書の、他とまつたく類を異にすることである。彼女はかねがね、このアイデイアが故立花伯のものだといふことを漏れ聞いてゐたので、この趣意書もことによると伯自身の手になつたものではないかと想像した。
――恒産ナキ俸給生活者ノ為ノ夏季保健静養地実費提供
といふ見出しで、
諸君ハ別荘ト云フ言葉ヲ聞イテドウ思ハレルカ。
遊惰ナ階級ノ贅沢ナル生活ヲ連想サレルナラバ、ソハ、別荘卜云フ言葉ガ悪イノデアル。
仏蘭西デハ、普通コレヲ「田舎の家」(MAISON DE CAMPAGNE)ト呼ビ、都会人ノ多クガ、夏季又ハ特別ノ休息期間ヲ利用シ、遠ク都塵ヲ避ケ、山間、海浜、或ハ森アリ畑アリ牧場アル原野ニ、自然ヲ友トシ、新鮮ナ空気卜豊カナ日光トヲ得ル目的ヲ以テ、実用的ニシテ且ツ居心地ヨキ「第二住宅」ヲ構ヘルコトヲ原則トシテヰルノデアル。
現ニ首都巴里ノ労働者ニシテ「ブルタアニユ」ヤ「ノルマンデイイ」ノ到ル処ニコノ「田舎ノ家」ヲ所有スルモノ其ノ数オビタヾシキニノボルト云ハレル。シカモ、コノ傾向ハヒトリ仏蘭西ニ限ラナイ。寧ロ世界的ノ流行、否、風習トナリツヽアルノデアル。人或ハ云フカモ知レヌ。「我等ハタトヘカヽル設備ヲ有スルモ、コレヲ利用スル暇ナカラン」ト。ソレハ間違ツテヰル。一家ノ主人ハ自分ノコトバカリヲ考ヘテハナラヌ。諸君ニハ、諸君ノ努力と愛情ニヨルホカ、コノ世ノ幸福ニ恵マレ得ヌ家族ガアルコトニ想ヒ到ラレヨ。老イタル父母アラバ、責任ハ更ニ重ク、病弱ナ妻、発育不良ノ子女ヲ有スルコトハ、男子一生ノ損失デアル。速カニ彼等ヲ炎熱ノ下ヨリ救ヒ、清涼初春ノ如キ「泰平郷」ニ送ラレタイ。家族別居ニヨリ生ズル諸君身辺ノ若干ノ不自由ナドハ論ズルニ足ラヌ。解放ハ常ニ新ナル工夫卜自己鞭撻ヲ必要トスル。
サテソコデ、カヽル便宜ヲ得ル方法如何デアルガ、コレ本社ガソノ奉仕的企画ヲ今公表スル所以デアツテ、最モ簡単ニ諸君ヲ納得セシメルノハ、恐ラク左ノ画期的ナ数字デアラウト信ズル。

 素子はそこで、思はず首をちゞめて笑つた、くすツと。

――即チ毎月十二円又ハ二十円ヲ払込メバ一年後ニハ「泰平郷」分譲地域内ノ欲スル場所ニ於テ、九坪乃至十五坪ノ平家木造建一棟ヲ仮ニ所有スルコトガ出来、爾後十年間払込ヲ継続シサヘスレバ、既ニ十分利用シツヽアル該家屋卜共ニ、敷地百坪乃至二百坪トヲ併セテ、ソノ完全ナ法的名義人トナリ得ル。換言スレバ、諸君ハ知ラズ識ラズコヽニ永代不滅ノ資産ヲ確立スルコトヽナルノデアル。
我等ハ敢テ云フ、諸君ハマサニ自己ノ能力ヲ過少評価スルノ愚ヲ覚ルベキ秋デアルト。
ナホ数字ニ関スル詳細ハ本社又ハ現地事務所ニツイテ問ヒ合サレタク、毎年三月下旬ヨリ十月下旬マデ、旅費二三等何レモ片道本社負担ニテ現地御案内ノ準備ガデキテヰル。
抑モコノ「泰平郷」ナル土地ハ……
 読んでゐる後ろから、
「斎木さん、専務がお呼びです」
 と、給仕の声である。
 彼女は直接専務に呼ばれるといふことが、なんか人違ひのやうな気がして、そつと重役室のドアを叩いた。
「あゝ、まあこつちへ……。どうです、ちつたあ調子が呑み込めましたか?」
 専務の高野は、自分で椅子をひとつ引寄せ、それへ彼女をかけさせた。
「いゝえ、さつぱり呑み込めないで困つてをりますわ」
「ふむ、そいつはこつちの方が困つたな。もう三週目でせう? どういふところが呑み込めんの、いつたい?」
「ほんとと嘘との境がどうもはつきり……」
 と、彼女は、神妙に首をうなだれた。
 若い専務は突然笑ひだし、
「戯談でせう、君、苟くも今日社会に生きてゐる以上、物の表裏といふものが一通りわからんでどうなります。社長のお眼鏡に適つた君の言葉としては、少々受け取り兼ねますね。だが、君、この土地の商売といふやつはですよ、それほどインチキは成立たんのだ。現に素人にでもひと目でその価値が判断できる。要するに、宣伝は解説だ。なにが故に優れた土地であり、なにがゆゑに有利な条件であるかを的確に知らせるにある。土地の所有慾はだ、これは君、大衆の本能ですよ。そこにはむろん、彼等の夢と現実のギヤツプがある。彼等の夢に翼を与へ、彼等の現実に可能の尺度を与へるのが、あなたがたの仕事だ。わかりましたか。むつかしく考へることはない。そこで、君にひとつ伺ひたいことがあるのだが……」
 年はまだやつと四十を越えたばかりであらう、真黒なごわごわした髪の毛を無理にチツクで寝かせつけた頭が、ビルデイングの窓に射し込む夕日に光つてゐた。額のせまい、頤の張つた自分の手腕と精力を信じきつてゐるといふ眼つきである。
 彼女はその視線を今はもう楽に受け流してゐた。
「これは社長から僕へのご相談なんだが、君がご存じだといふあの「泰平郷」ね、上州の……あそこにある立花さんの別荘のことですがね。社長があれをひとつ会社で買はんかと云はれるんだ。立花さんが亡くなられたら、まあ、立花家では不用といふことになるらしい。……そこで、安くこれを会社が手に入れてだ、あれをなにかに利用したらどうだと、かういふわけなんですがね。君はよく内部の様子をご存じだらう?」
「はあ、存じてはをりますけれども、……」
「こゝに図面はあるんだが……どうもこのまゝぢやホテルにもならんし、将来クラブかなんかにするにしても、大改造を要するんでね。君、なにか名案はありませんか?」

「さあ……」
 と、素子は考へるかたちをした。しかし、その実、なにも考へてはゐないのである。専務のいかつた肩のへんに冬の蠅が一匹とまつてゐる。それが、肩から襟を伝つて首筋に匐ひあがらうとしてゐる。あツ、いよ/\頸筋だ。専務の頤が無意識にそれを追ふやうにひん曲げられた。
「急に思ひつかんなら、考へといて下さい」
「はあ……いまひよつと考へついたんでございますけれども、あれを会社でお買ひになるとすると、夏中、社員が交代で参れやしませんかしら?」
 彼女のこの意見にはなんらの反応をも示さず、専務の高野は、蠅が揉手をしてゐる片頬を急にぴくぴく動かしながら、
「もうよろしい。帰りたまへ」
 このことがあつて以来、専務の高野は、彼女がお辞儀をしてもろくに会釈もしないやうになつた。彼女は別に後悔をするでもなく、この情勢はそのうちにきつと変るものと信じてゐた。
 田沢社長はなるほど毎週二度きまつて顔を出すけれども、彼女の期待に反して、特別に用事を云ひつけるといふことはなかつた。むろん彼女の存在は忘れてゐない証拠に、辻部長を通じて、「勤まりさうか」と間接に訊ねたさうである。それからかうも云つたさうである――「専務とはちよつと肌合が合ふまいと思ふから、彼女が若しそんなことで腐つてゐるやうだつたら、ちつとも気にすることはないと伝へてくれ」と。
 社長もなかなか苦労が多いと彼女は思つた。しかし、それにしても、もうぼつぼつ仕事をはじめなければならぬ。それだのに、辻部長は、遠慮をしてゐるのか、それともまだ役に立つまいと思つてか、一向、仕事らしい仕事を与へてくれぬ。
 彼女はある日たうとう部長をつかまへてかう云つた。
「あたくしにできますことなら、何かやらせていただきたうございますわ」
「いや、雑用はこれやもう、それ専用の人間がゐますからね。それより、今度区画割のできた杉並大宮前の土地をちよつと見て来て下さい。専務の御命名で「東光台」、東の光です、さうきまつたんですが、ひとつ、その宣伝文案をこさへてみてくれませんか。やはり、時局を反映させた文句を使はんと専務のお気に入らんですからな。これやまあご参考までに……」
「土地を見て参りましてからでよろしうございますね」
「さう、土地を見てですな、周囲まはりの風物、つまり環境を、最上級の言葉で讃美するといふのが、まあわれわれの常識です。前例をみられたらわかります」
「拝見いたしました」
 と、彼女は笑ひたいのを我慢して応へた。
「乗物の便利がちよつとわるいですからな。荻窪駅から、代田橋行のバスに乗つて、柳窪といふところで降ります。それから五日市街道を……」
 この時、女事務員の一人が、
「斎木さん、お電話ですわ。あちら、お名前をおつしやいません」
 彼女は受話機を通して聞きなれない男の声を聞いた。

「わしは去年の夏立花さんの別荘へ出向いた曾根在の小峯といふもんですが……」
 彼女はすぐには思ひ出せなかつたけれども、だんだん言葉の調子で、それがわかつた。
「実はこんど、わしどもの要求を聴いてもれえに、本社とかいふのを訪ねようと思つて上京しただが、なにせ勝手がわからんで、今朝幾島さんのところへ行つて、誰に会つたらえゝか相談してみただよ」
「幾島さん?」
 と、彼女は聞き返した。
「はあ、さうです。あん時一緒に立会つてくれた……」
「えゝ、それやわかつてるけど、幾島さんが、それで、あたしに会へつておつしやつたの?」
「うゝん、さういふわけぢやねえが、とにかくあんたに電話で頼んでみろつて云はれるだ。わしども代表二人が社長さんかなにかに会へるやうに……」
「あゝ、さう、お取次ぎだけはするわ。で、あなた方、今どこにいらつしやるの?」
「幾島さんとこの近所の薬屋にゐるだがね、幾島さんもこゝにゐなさ……」
 そこで声が途切れた。彼女は小峯の肱を突つついたでもあらう幾島の様子を想像し、ひとりでに微笑がこみあげて来る。
「もし、もし、ぢや、そのことは承知したわ。今日は社長はお見えにならないけれど、専務さんに面会できるやうに計ひますから、すぐ来なすつていゝわ。幾島さんそこにいらつしやるなら、よろしくおつしやつてね」
 彼女は、そのまゝ椅子にぐつたりと腰かけた。まだ唇のはしに残つてゐる微笑のかげが、そのまゝ人前へ出るには適せぬと思つたからである。
 部長に断つて、彼女はやがて、専務のところへでかけて行つた。
「その話はもうずゐぶん前のことぢやないか。まだぐづぐづ云つとるのかね。まあ、しかし会ふだけ会はう。序に、君に云つときますがね、かういふ問題は、君の領分ぢやありませんよ。女の感情が紛争事件のなかに挟まることは、百害あつて、一利なし。よろしいか」
「わかりました」
「立花さんは、別に彼等に言質を与へてはをられないだらうな」
「伯爵は、飽くまでも会社側の責任者としてでなく、第三者として話をお聞きになり、意見もお述べになつたやうでございます」
「うん、ところで、あの別荘の処置について、なにか考へつきませんか?」
 それはその時だけの話と思つてゐたので、別にあれから頭をひねりもしなかつたけれとも、彼女は即座にかう答へた。
「現在の儘利用するとすれば、やはり、土地を見にいらしつたお客様を、ある撰択を加へてお泊めすることにいたしましたらどうでございませう、つまり片道の旅費以外に会社のサーヴイスとして――ほんとは日帰りでは少し無理な旅行なんでございますから、それくらゐのことをしてもよろしいんぢやないかとぞんじます。あそこの夜と朝とを十分に味はなければ、百パーセント値打がわからないつていふことも、この案の基礎になつてをります。それほど費用をかけないで、田園風の饗応を工夫いたします。専務のお言葉どほり、夢の翼はどこまでもひろがりませう。土曜から日曜へかけて、それこそ、三四家族、十名内外の団体一泊旅行を計画しても、結果はたぶん出費を償ふやうになりはしないかと、わたくし、ぞんじますけれど……」
「ふむ、なるほど……。しかし、その別荘がいくらで手にはひるかだ。よろしい、ご苦労さん」
 これで、ひとまづ仲直りができた。
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 安藤弥生は学校から帰つて来た夫に向つていきなりかう云つた――
「町子さんからまた手紙が来たわ。もうそんなに悲観してる風でもないけれど、まつたく可哀さうになつちやふわ」
「そんなこと云つたつて、あれだけの工作をしてやつて、それで駄目なら、こつちを恨む手はないよ」
「あら、恨んでなんかゐやしないのよ。ほら、せんの手紙に、帰りの自動車へ一人で乗せられちまふとこ、おどけた調子で書いてあつたでせう。あのことをだんだん深刻に考へて来たらしいの。ちよつとまあ、読んでごらんなさいよ」
「あゝ、それより、今日はガマ口を忘れてつて、西村に煙草代十三銭借りたよ」
「いゝわよ、そんなこと……。まめね、だけど、こんな長い手紙、いくども書くなんて……。あたしなら、出掛けてつて喋るわ」
「それや人各々得意ありさ」
 安藤正樹は、さう云ひながら、机の前に胡坐をかいて、妻の差出す書簡箋の束を受けとつた。
「なんだ、陽気な書き出しぢやないか。――いざ万年筆を取り上げ、さてどう書いたものだらうと、ぼんやり胸の想ひをほぐしてみると、つい誰に宛てゝこの手紙を書かうとしてゐるのか、わからなくなつてしまふの。正直云ふと、初めてあの人に手紙書くみたいな錯覚に陥つてゐるのよ。はつとわれに返つて、自分をこつぴどく叱りつけてやるんだけけど、ほら、もうこんなに動悸が激しいぢやないの。いやになつちやふわ」
「そんなところはなんでもないのよ」
 と、細君は焦れつたがつた。
「これがなんでもないのか。怖るべき女性だ、あゝ見えて……」
 彼は先を読む――
「せんの手紙に、あたしなんて書いたか忘れちやつたけど、よくよく考へてみると、あの人、あたし一人を自動車に乗せて、送つてやらうとも云はなかつたことは、ちつとも男の嗜みなんていふことぢやなくつて、実は、あたしに全然興味がなかつたつていふことだと思ふの。それはそれでしかたがないけれども、ひとつ気になることは、お宅の先生が、あたしのことをどの程度まであの人に話しておありになるかといふことなの。名前はむろんおつしやらなかつたといふんだけれども、学校のことや、なにか、あの晩帰りにいろいろあたしに訊くもんだからついお喋りしちやつたのが、どうかと思ふわ。それで、やつぱり、先生からお話のあつたその女があたしだつていふことを勘づかれてしまつたんぢやないか知ら? さうだとすると、これはたしかにまづいわ。とりかへしのつかないまづさだわ。もうかうなればあの人に何処で会つても、あたし顔なんかあげられないわ。
 それでお願ひがあるの。あなたから先生によく伺つてみてよ。あの人にどういふ風にあたしのことを話して下すつたのか。
 あなた方のご親切、お骨折に対して、こんなことを云ふのは身の程知らずだけれど、今になつてみると、もつと自然な機会を待つべきだと思ふのよ。
 しかし、これはどうせあたしの邪推かも知れないわ。向うがなんにも知らなくつて、しかも、車とは云ひながら、遠い夜道をする女のあたしに、同情も興味(?)も湧かなかつたとすれば、現代の青年として、あの人の人格に敬意を表するだけがあたくしの義務でございませうか? ねえ、弥生さん、あなたどうお思ひになつて?」

「終ひまで読まなきやいけないかい?」
 と、安藤正樹は妻に声をかけた。
「えゝ、お読みになつて。あたし、もうどうしていゝかわからないから……」
 彼は黙読をつゞける――
 ――たつた一度、それもあんな植物園みたいなところで、よそ目にちよつとお目にかゝつたばかりのあの方のことが、それ以来、心に烙きつけられたやうになつてしまつたのは、神さまのお悪戯いたづらにしてはあまり残酷ぢやないの。あなたは、でも、それをあたしの気まぐれとお嗤ひにならなかつたわね。友達甲斐にとおつしやつたあなたのお言葉をあたしは決して忘れないわ。そして、それだけを頼りに、望み難い望みをいつまでも捨てずにゐました。万一、求め求められる二つの魂の邂逅が、まつたく運命の手に委ねられるものとすれば、人間の意志とはそもそもなんでせう?
「弱つたね。これや……」
 安藤は、あとまだ四五枚はあらうと思はれる書簡箋を、つぎつぎにめくりながら、ひとり言のやうに云つた。
「もうかうなつたら、しかたがないぢやありませんか。とにかくあの晩のことをさうおつしやつて、幾島さんに、実はあのお嬢さんなんだが、君どう思ふつて、あつさり印象を訊いてごらんになつてよ」
「やつ、怒るよ、きつと」
「だつて、別に瞞したわけぢやないでせう? 二人とも、招ぶべきだから招んだだけぢやありませんか」
「町子さんが来ると知つたら、先生、来なかつたかも知れないよ」
「そんなのつてあるもんですか、男のくせに……。あの方はそんな方ぢやありませんよ」
「いやに幾島党だね、君も……。やつぱり僕から訊く方がいゝかねえ……君ぢやどうだ、その役は?」
「あたし? さうね……あなたが許してくだされば、行つてみてもいゝわ。女の気持を伝へるのには女の方がうまいつてわけね。あゝあ、自分のことでなくつてよかつた」
 弥生は、夫の苦りきつた表情をみて、急いでかうつけ足した――
「あなただつて、どなたかお友達のために、女のひとのところへお使ひにいらつしやるんだつたら、そんな気がなさるわ、きつと、……さういふ経験おありにならない?」
「…………」
 安藤は、返事をするかはりに、手紙を妻の手に返した。
 それを受けとつた弥生は、ところどころ熱にうかされたやうな文句を読み直してみてゐる。
 平生の町子を識つてゐるものからみれば、この興奮のし方は、寧ろ不思議なくらゐで、なにかそれは今時の常識では判断のできないところがあつた。しかも、一方、それらの言葉の響きのなかに、よくよく耳を澄すと、いはゆるはしたなさとはまるで反対の天真爛漫な声のみがよく達し得る悲壮な感情の音階が聴きとれるのである。
 弥生の眼には、次第に涙がにじんで来る。彼女は、手紙の最後に書きとめられてあるこの歌を、わづかに夫の耳にはひるほどの声で口吟んだ――
君知るやこゝにをみなあり二年のおもひにやせて死にはてむとす

 安藤弥生が麹町下六番町の幾島の家を訪ねたのは、粉雪まじりの雨の降るある日の午後であつた。
 離れになつてゐる書斎の六畳は、書籍や、標本や、新たに書き入れをした分布図のやうなもので足の踏み場もないくらゐであつたが、儀礼的な訪問でないとわかると、幾島は妹に手伝はせて二人の坐る場所を急いでこしらへた。
「お妹さんですね、おいくつでいらつしやいましたつけ……」
「二十になつたんだね」
 と、彼は、茶を持つて来た妹に云つた。
「女の二十つていふ年は、ちよつと類のない年ですわ。男の方にはさういふ年がおありになりますか知ら?」
 話はさういふところからぼつぼつ始まつた。
「まあ、三十つていふところでせうか?」
 幾島は、好い加減に答へた。
「それはさうと、お妹さんは、マチ子さんつておつしやいますの? さつきお母さまが呼んでらつしやるお声が聞えたから……」
「えゝ、万千と書きます。どうして?」
「不思議ですわ。あたくしの友達にやつぱりマチ子つていふ名のひとがあるんですの。マチは二長町の町ですけれど……。実は、その方のことで伺ひましたのよ、今日は……」
 彼女はさう云つて、幾島の顔色をうかがつた。すると彼は、やつと呑み込めたといふやうな眼つきで彼女の次の言葉を待つてゐる。
「もうおわかりでせう? 弁解じみたことは申しあげませんわ。あの大里さんが、二年間もあなたのことを忘れずに、ぢつとあゝいふ機会を待つていらしつたんですの。二年前に、どうしてあなたつていふ方をぞんじあげたか、うちのひと、お話しましたか知ら?」
「いゝえ。しかし、僕はもうわかつてゐるつもりです。奥さん、とにかく、その話はもうやめてください。なんだか妙にこじれた気持ですし、それに、結婚のことは、もうしばらく考へないことにしようと思つてるんです。折角ですけれども……」
 一つ時、白けた沈黙がつゞいて弥生夫人は、冷めた茶をそつと口に含んだ。
「その大里町子さんには、奥さんから適当に僕の現在の事情をおつしやつといて下さい。別にこの間の印象が特に悪かつたといふやうなことはないんです。こんなことを云つてよければ、立派なお嬢さんだと思ひました。しかし……しかしです、僕は、このひとだなと思つた瞬間、実のところ、興味索然としてしまつたんです。それは必ずしもあなた方の責任だとは云ひません。さういふ結果はどんな場合にも避けられないことがありますから……。たゞ、僕がちよつとしたことをきつかけに、さういふ気持になつたもつと大きな原因はほかにあるんだといふことを、はつきり云つておきませう。僕は今おそらく、どんな娘さんをみても、ほんとに心を惹かれるなんていふことはあり得ない状態なんです」
 彼は精いつぱい率直であらうと努めてゐる。
「あら、もうどなたかに、そいぢや……?」
 と、弥生夫人は落胆がつかりしながら、好奇心を湧きたゝせた。
「それ以上訊かないでください。自分でもまだはつきり処理できない感情なんです。行きがゝり上、こんな告白をしたんですから、どうかそのおつもりで……」
「えゝ、それやもうなんですけれど……でももうひと言、伺はせていただきたいんですの、あたくし……。ぢや、今のところ、その話はご結婚の方へ進んでをりますの?」

 幾島は天井を仰いで、苦笑した。
「さあ、そこまでのことは、なんとも云へませんね。若しどうしても知りたいとおつしやるなら、僕が死ぬまでの行動をみてゐてくださらなければ……」
 なにかひたむきな調子を帯びたその言葉の意味が、偶然、町子の手紙にあつた歌の文句を彼女に想ひ出させた。
「町子さんの親友として、あたくし、今日は思ひきつて、いろんなことを云はせていただかうかと思つて参りましたのよ。女が自分ではどうしても云へないことを、同性の友達であればこそ察しられるつていふことがございますわ。でも、もうなにを申しあげても無駄だつていふことがわかりましたから、あたくし、このまゝ引きさがります。ですけれど、もしかしてこのさき、あなたのお気持が……なんて申したらいゝんでせう……まあ、自由におなりになつたら、その時こそ、町子さんの名前を想ひ出していただきたいとぞんじますわ。ね、お忘れにならないでね……ほんとに。……命にかけてといふ言葉が、こんなにぴつたりする女のひと、世の中にないと思ひますわ」
 彼女はせめて、あの歌だけでも、読んで聞かせたいと思ひ、懐にしまつてある手紙をそれとなく引き出した。
「いつまでも愚痴みたいになりますけど……主人から最初あの方のことお話し申しあげた時分はまだそんなことおありにならなかつたんでせう?」
「えゝ、まあそんなとこです。あの頃は女房を探してたと云つてもいゝんです」
「あら惜しかつたわ」
 と、弥生夫人は、われを忘れて叫んだ。
「だつて、そんなら、なんとかもうちつとお返事のなさりやうがありさうなもんですわ。まるで、怒つてらつしやるみたいな……」
 幾島は、やつと楽に話ができさうなので、こつちも笑つて、
「怒つてなんぞゐやしませんよ。照れ臭かつただけですよ。さうぢやありませんか、安藤の云ひ出し方つていふのが、まるで大袈裟なんだもの。やれひと目見てどうのかうの、二年間どうのかうの、おまけに、植物学まで引合ひに出して、僕は、なんのことはない、滑稽な甘郎にされちまつたんですもの。安藤君にしろ、あなたにしろ、さういふ親切がおありになるなら、黙つて会はすやうにしてくださればよかつたんですよ。下らん予備知識が却つて僕の足をすくませちまつたんです」
 眼を丸くして、弥生は聴いてゐた。
「主人がお人好しなんですわ。あなたのご気性ぐらゐわかつてゐさうなんですのに、……」
「いや、僕の方がわるいかも知れませんよ。素直に聞けばなんでもないことなんでせう。子供の時分から、僕にはさういふところがありましてね、お前は利口だつて云はれると、馬鹿な真似がしてみたくなるんです。近頃はすこしはなほりました」
 安藤夫人は、その時、町子の手紙の最後の頁をそつと幾島の方に差出した。そして、指さきで、歌のところをさし示した。
 彼は何気なく、その文句を読んだ。
 胸がギクリと痛み、脇の下を汗が流れ、顔が火のやうにほてつた。
 と、急に膝を正して、彼は、弥生を睨んだ――
「奥さん、余計なことをなすつちやいけません。人間の心の秘密を玩具にするのはよしませう」

 安藤弥生は、きりきりと胸に刺さるやうな幾島の言葉を、そのまゝ刎ね返す力もなく、恨めしげに唇を噛んだ。
 それでも、相手の顔色がたしかに精神の動揺を示してゐるのに気がつくと、
「あたくし、今日はどんなに叱られてもよろしいんですの。安藤にしろあたくしにしろ、それや、へまをしたかもぞんじませんわ。でも、美しい心をもつた友達のために、幸福を探さうといふ努力に、決して見栄や外聞はございませんもの。真実を真実としてあなたにお伝へする以外に、あたくしたち、何の力もございませんのですわ」
 さういつて、彼女は、もう帰る支度をした。
 幾島は黙つて彼女を玄関まで送つて出た。
 が、門を出るがいなや、安藤弥生はハンケチを顔に押しあてた。堰を切つたやうに嗚咽がこみあげて来る。さもそれは、「二年のおもひに瘠せた」のが彼女自身ででもあるやうな嘆きかたで、傾けた傘の下から吹き込む北風にも瞼は冷えぬ有様であつた。
 彼女はその足で新宿行のバスに乗つた。大里町子に会つて事の次第を語り、よく詫び、かつ懇ろに慰めてやらうと思つたからである。
 遂に名を成さずして老いたと自ら云ふ町子の父は、仙人のやうな白髯をたくはへた日本画家であつた。玄関と座敷の八畳とを打ちぬいて臨時の仕事部屋とし、そこで注文の安屏風に蕭条たる山水の墨絵を描きなぐつてゐたが、安藤弥生の傘をすぼめる姿を眼鏡越しに見つけると、
「どうしなすつた、弥生さん、この天気に……」
「あら、お仕事中ですの、をぢさま……」
「珍しいこつてせう? 町子は風邪を引いて寝てますよ、奥で……」
「いやねえ、弱虫で……。よつぽどわるいのかしら?」
「なに、本を読んでるくらゐぢや。まあ、おあがんなさい。今、おみよ婆さんをちよつと使ひに出したもんだから……」
 弥生は勝手を知つてゐるので、足袋のよごれを塵紙で拭くと、そのまゝ縁伝ひに、奥の部屋へ通つた。
「こゝ、町子さん?」
 障子の外で声をかける。
「うん、ちよつと待つて……。まあ、いゝか、散らかつてるけど……。ひどいとこ見られちやつて、いやだなあ……」
 と、半身を起しながら、夜具をすつぽり肩まで着るかたちで、町子は髪さへといてゐない。
 弥生はそこへべつたり坐ると、もう物が云へぬといふ風に、たゞ眼を据ゑてぢつと相手の顔を見た。
「しばらく……」
 町子は、戯談にわざと更まつて腰を折つた。
「…………」
「あんた、へんな顔してる。なにかあつたのね?」
「…………」
「なに? 黙りつくら? よしてよ、そんな事……早くなんかおつしやいよ、お見舞でもなんでも……」
「…………」
「あら、あら、このひと泣いてるわ……。ヒスみたい……なんだ、嘘か」
 この時、弥生は、大きく呼吸をするといつしよに、笑はうとした。そしてほんとに泣きだした。
 町子は途方にくれて、弥生の手をそつと握つた。

「あたしの手紙読んだ?」
 町子はぐつと首をかしげて弥生の顔をのぞきこんだ。
「えゝ、読んだわ。それであたしどうしたか知つてる?」
「知らない」
 と町子はやゝ不安さうに眼をみはつた。
「あなたのあの素晴らしい情熱にあたし、すつかり感激しちやつたの。むろんそれを友達のあたしに、なんの飾りもなくぶちまけてくだすつたことも、うれしかつたわ。自分がそれに値する女かどうか、そんなことも考へたわ。今の世の中は、ほんとに、あなたみたいな方の……」
 弥生が、かうしんみり話しだすのを、町子はいきなりそれを遮つて、
「まあいゝわよ、そんなこと……。あの手紙のことはもう話しつこなし。だつて、あんなもの、あなたの顔が見えないから書けたのよ。そんなに真面目にとつちやいや。だけどさ、それで、どうしたつていふの、あんた……?」
「そんなら嘘なの、あの手紙?」
 と、弥生は不服らしく頬をふくらませた。
「嘘ぢやないけど……。そんな、あんたみたいに、褒めたりおだてたり……」
 町子は夜具の襟に顔をうづめて、肩をゆすぶつた。
「わかつた、わかつた、ぢや、あたしがどうしたかつていふことだけ云ふわ。安藤はほら、あゝいふ人でせう。この役目はもう落第と自分できめてかゝつてるの。だから、しかたがないわ。あたしが自分で出掛けてつたの……」
「あの方のとこへ?」
 町子は急に顔をあげた。
 それは既にもう、期待と絶望との不思議に入りまじつた、鋭く、ものかなしい表情で、相手の弥生は、ぐつと息がつまつた。
「あの手紙見せたの? まさか……」
 眼を据ゑたまゝ、町子は空ろな声で云つた。
「うゝん、それどころぢやないの。早く云つちまふとね、ほかに好きな方ができたらしいの……。それも、つい最近のことなんですつて……。あなたのお話がでてから間もなくぢやないかと思ふの。それでわかるでせう、あの晩のこと……」
「をかしいわね、そんなこと今まで考へてもみないなんて……」
 と、町子は、静かに眼をつぶつて、云つた。
「だつて。それやしかたがないわ。最初、お嫁さんを探してらつしやるつてことだつたんですもの」
 すると、町子は、ぐらつと仰向けに倒れ、そこに頁を開いてあつた書物でいきなり顔をかくすと、わりにしつかりした調子でかう云つた。
「ありがたう。それだけはつきりすれば、もうどうなつてもいゝわ。なんだか、すうつと気持が楽になつたわ。どら、もう起きよう。ちよつとあつち向いてて」
 彼女はさう云つたかと思ふと、顔のうへの書物をそつと取りのけ、弥生が云はれたとほりわきを向いてゐるひまに、急いで涙をふき、襟をかき合せうと起ちあがつた。
「ねえ弥生さん、こゝお掃除するから、その間、おやぢの絵描いてるとこ、見ててやつてよ。よろこぶから……。あとで、すまないけど、髪とかしてね、ほら、寄宿にゐる時みたいに……。おみよさんが帰つてたら、おやぢのお茶の時間だから、催促して出させてよ。あんたはあたしと一緒でいゝでせう?」

 それから二十分もたつたであらうか。雨がやんで薄日が射しはじめた、街の物音が急に耳につく。
 さつぱりと片づいた部屋の、東向きの窓ぎはへ鏡台を据ゑて、大里町子は心もち膝をくづして坐つてゐた。安藤弥生が、それほど慣れた手つきでもなく、たゞ一心不乱に、この「病める友」の髪をすいてゐる。癖のない、よく伸びた毛である。
「もつとぎゆうつとやつて……」
 時どき町子がそんな風に注文をし、話しかける以外に、弥生の方からは言葉ひとつかけない。
 炭火が赤あかとおこり、鉄瓶の湯がたぎつてゐる。
「あたし、また学校勤めをするわ。岐阜の家政女学校だけれど、行かないかつていふ話があるの。どうかしら?」
「…………」
「岐阜つて、知つてる? ほら、名和昆虫研究所のあるところさ。甲斐先生がよくご自慢なすつたぢやないの――日本は世界一の昆虫国だつて……。さうおつしやる時の先生のお顔が、まるでバツタみたいだつてみんなが笑つたの覚えてない?」
「…………」
「ねえ、覚えてない?」
 町子は重ねて強く云ひ、片膝で地団駄を踏んだ。
「覚えててよ」
 と、弥生はやつと口の中で返事をした。
 が、返事をしたと思ふと、櫛を片手に持つたまゝ、崩れるやうに町子の肩へおひかぶさり、またも涙にくれながら、
「駄目よ、駄目よ、そんなこと云つたつて、……わかつてるわよ、あんた、瘠我慢いつてるのよ……」
 さう云ひ云ひ、相手の背中をぐんぐん小突いた。
「あぶないつたら、馬鹿ね……瘠我慢はるの、どうしてわるいの? さあ、もう少しだから、早くしてよ、あんた、それぢや、なにしに来たのさ、わざわざ……」
 鏡の中で町子の眼が蔑むやうに弥生を見つめてゐた。
 弥生は家へ帰ると、夫に町子のことを話した。
「おれも君も平凡な人間だから、空恐ろしいことを数へたらきりがないさ。君は、よく友達のさういふところを、非難しながら実は讃美してゐることはよくわかる。僕にもそれはある。凡人の眼が、やはり、力強いもの、純粋なものを見分けられる証拠だ。僕たちは、自分たちが到達できないところを、ほかの人間が攀ぢ登るすがたに一種の満足感を味はふ経験を知つてゐる。しかし、それは必ずしも卑屈な精神ぢやない。君の反撥も感動も、僕にはうれしいよ」
 安藤正樹は、子供を膝にのせた妻の背をやさしく撫でた。
 それから一週間たつた。
 その同じ日に、午前と午後にわかれて、幾島暁太郎の端書と、大里町子の手紙が、それぞれ、夫正樹と妻弥生の手に配られた。
 いづれも簡単な文面であるが――
 幾島からのは――
前略、先日は令夫人の御来訪を辱うし、種々ご配慮の点、恐縮に存候。御両所の好意に報ゆるに小生の迂闊と我儘を以てし、甚だ慚愧に堪へず、令夫人には貴兄より、旧友の誼みに免じ、よろしくお取成し願ひ候。小生、此度考ふる処ありて都落ちの決心致し、近く任地に赴く予定、特に御挨拶に参らず、たゞ遥かに敬意を表し、御一家の健康を祈り候。
 町子からのは――
いよいよ話がきまつて、岐阜へ行くことになつたわ。この前の盛岡とは違つて、校長も理想高き新人とのこと、女学校理科教授にひとつ生気を吹きこんでやらうなんて考へてるの。出発の日未定、もちろんそれまでに伺ふわ。お宅の先生、またどんな顔なさるか、ちよつと心配。では、急いでお知らせまで。
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 人を呼び出すにしては思ひきつたところを選んだものだと、幾島暁太郎は、途中電車の中でいくども考へた。
 ――会社の用事で横須賀方面へ出掛けるが、遅くも昼すぎまでには片づくつもりだから、鎌倉あたりでゆつくり話をしたい。今頃は海浜ホテルも暇だらうし、そこには自分の学校の後輩がオフイスで働いてゐる筈だし、お茶でも静かに飲むのには誂へ向きの場所だと思ふ、大儀でなかつたら、是非散歩のつもりで三時頃までに出て来てほしい。いつかのやうな帰し方をして、そのままにしておくのは自分として心にすまない。たゞそれだけの理由だが、もう一度友達として当り前の言葉を交し合つたうへでなら、会へなくなれば会へなくなつたでまたしかたがない。あなたはさう思はないか――といふ意味の素子の手紙であつた。
 実際、これが最後だと思へばこそ、彼は、歯を喰ひしばつて出て来たのである。敗けてなるものかといふ決意と、向うがどこまで本音を吐くかの興味とが、云はゞ半々といふところなのである。
 ホテルまで海岸への道をぶらぶら歩いた。子供の頃遠足で来たことがあるのに、さういふ記憶はどこにも残つてゐない。「畠山六郎之墓」と書いた棒杭が埃つぽい道ばたに建つてゐる。なにか胸迫る思ひが、ふとした。
 もう三月にはひつてゐた。
 広い芝生に面した三方総ガラス窓のホテルのパアラアは、がらんとして人ひとりゐない。――なるほど考へたもんだ。女もあの年になると、さういふところへ頭が働くんだな。しかし、それにしても……。
 と、彼は、明るい窓のそばで、一瞬、暗い影の過ぎるのをみた。
 珈琲を注文してそれを飲み、巻煙草を四五本喫ひ、新聞の綴込みを代る代るに持つて来て読み、土産物の陳列場で鎌倉彫りの細工をのぞき、それから、海岸へ出る道を訊いて、庭伝ひに松原を抜け、稲村ヶ崎の、あれがさうかと思ふやうな形の変りやうに驚いた。山を凹字形に大きく切り開いて土地の分譲をはじめてゐるらしい。――あゝ、こゝにもまた、と、彼は水平線の彼方に眼を転じた。
 紀州白浜の海辺に立つた自分をそこで彼は想像した。なぜなら、つい最近、大沼博士からちよつと来いといふ端書が来て、彼は飛んで行つた。すると、先生は、
「おい、幾島君、ひとつ都落ちをせんか?」
 と来たのである。
「なんですか、そのお話は?」
「うん、君の就職のことだがなあ。順番を待つとつてもなかなか好い籤は引けんから、思ひきつて変つたところはどうかと思ふんだ。実は京都からこつちへ廻つて来た口なんだが、どうも君以外にうんていふ奴はゐさうもないんだよ。まだ出来たてのホヤホヤつていふ博物館でね。ところは和歌山県の白浜つていふ海岸だ。ほら、神島かじまのそばだよ、『はかまかづら』で有名な……。むろん県内の寄附かなんかで建つた小規模のものさ。しかし、自然科学と限つてあるし、特に植物には力を入れるらしいよ。といふのが、館長が君、高杉君だよ、『紀州植物研究の栞』を書いた。その館長の名で、植物専攻の青年学徒を一人是非世話してくれつていふ申込なんだから。紀州は君、知つての通り、われわれには面白い土地だ。あそこを根城に、君の研究を完成してみたまへ。地方つて云つたつて、京都も近いしさ、われわれも大いに声援するからどうだ、頑張つてみんか」
 彼は、ちよつと考へさせてくれと返事をして、しばらく眼をつぶり、拳に力を入れてゐたが、急に眼をあけるといつしよに、
「先生、やつていただきます。ありがたうございました」
 さう云つて、がくりと頭をさげたのである。

「ずゐぶんお待たせしたんですつて?」
 素子は、いつの間にかホールの椅子に腰かけて、若い女事務員と話をしてゐた。
「えゝ、待ちましたとも……。今が……」
「三時十分よ」
「え? をかしいな」
 と、幾島は腕時計を見ながら、
「三時のお約束でしたね。ぢや、僕がわるいんだ。早く来すぎました」
 その云ひ方がをかしかつたとみえ、素子は声を出さずに、からだを二つに折つて笑つた。
「どこにしませう? あつちおいや?」
 さつきまで彼のゐたパアラアの方を眼で指した。
 彼は黙つてそつちへ歩いて行つた。
「ぢや、またあとでね」
 と、彼女は事務室の方へ声をかけておいて、すぐに起ち上つた。
「あたしが専攻科にゐる時分、女学校の一年へはひつて来た子なのよ。それに、あたしを覚えてるんですつて……」
「それやさうでせう。あなたはさういふひとですよ」
 席についてからの二人の会話は、さういふ工合にぽつりと切れてしまふ。
「ほんとに、よく出て来てくだすつたわ。あたくし、どういふのかしら、喧嘩つてきらひよ。それや、喧嘩してもいゝ相手なら別だけど……あなたはどう?」
「そんなことより、どうしてあんな喧嘩になつたか、研究してみようぢやありませんか?」
「いや、また喧嘩になるから。でもあたくしにだけ云はしてくださるなら、云つてもいゝわ。云つてみませうか? お互に好きでゐて、それで、どうにもならないからよ。さうぢやない?」
 幾島は、そこで、ぎゆつとなつた。けれども、幸ひ彼女の視線は弱々しく伏せられてゐたし、よしさう来るなら、こつちも、といふ気持の準備がすぐにできた。
「もつと云つてごらんなさい。それから?」
 誘ふやうな、愛情にみちた眼が彼女を追つた。
「云ふわ。もう云つても大丈夫だと思ふから……。あなたがはじめてあたくしのことをおつしやつたの覚えてらつしやる? それから、二人の間には、さういふ道を踏まない約束のやうなものがあるんだともおつしやつたわね。さうして、おしまひに、かういふこともたしかおつしやつたわ――あなたの未来の方が、あたくしに少しでも近い事をお望みになるつて……さうでしたかしら?」
「えゝ、たしかにさう云ひました」
「あたくし、とても意外だつたの、その時は……。だつて、あなたつていふ方は、たゞ弟みたいに思へてたんですもの。ごめんなさい、年が違ふつていふばかりぢやないのよ。あなたに対して、あたくしの女としての興味はまるでなかつたつて云つていゝの。それが、だんだんさうはいかなくなつたわけは、これは云ふ必要ないと思ふわ」
「ありません。しかし、あなたはさういふところを僕に一度も見せなかつた。なぜです?」
「あら、さうか知ら?」
 と、彼女はほんとにそれを疑ふやうに真顔になつた。
 幾島は、心に冷やりとしたものを感じた――自分が今云つたことは嘘ではなかつたかと。

「あなたは別に僕を避けてゐるやうには見えなかつたですよ。しかし、たゞ、それだけのことでなにがわかります?」
 と、幾島は、相手に詰め寄りながら、実は自分の心に問ひかけてゐた。
「でも、さういふことはお互さまだつて云へるんぢやなくつて?」
 素子は、これも、別の考へを追ひながら、云つた。
「しかし、僕としては話がこゝまで来たんだから、はつきり云ひますが、たゞさうせずにはゐられなくつて、あなたのことばかり考へてゐました。俗な云ひかたをすれば、僕は完全にあなたの虜になつてゐたんです。しかし、それなら、思ひ切つてあなたの愛を求める手段をとるべきなんだが、さて、そこまでどうしても踏み込んで行けない。その理由は簡単です……」
「ちよつと、そんなこと、もうおつしやらなくつていゝわ」
 二人は視線を交へたまゝ、ぢつと黙つてゐた。
 女給仕がサンドウイツチと紅茶とを運んで来た。
「いや、もう少し喋らしてください。僕にその勇気がないんだなんて思はれるのはいやですから……」
「だあれもそんなこと思やしないわ。あたくしにその資格がないからでせう? まあ、お待ちになつて……。そんなら、あたくしも白状するけど、もしあなたからさういふお話がでた時、なんてお返事しようかと思つて、ずゐぶん前からいろいろ考へてたのよ。むろん、お断りする理由をだわ。自分にもちやんと納得できる理由は、そんなに簡単に探せやしないんですもの」
 素子は、紅茶の皿を高くもちあげ、たち昇る湯気をすかしてみてゐた。
「面白いなあ、あなたがさうして、起り得ない事態に備へてゐる恰好は……」
 幾島は勝ち誇つたやうに云つた。しかし、微塵も皮肉な調子は含まれてゐない。
「起り得ないなんて、今だから、あなたおつしやれるのよ。そんなに得意になるもんぢやないわ」
 わざと彼女はぷりつとしてみせる。
「なるほど、それはたしかに云ひ過ぎでした。僕は結果からみて、それがよかつたかどうか、まだ判断はできない時機だと思ふんですが、少くとも、非常に矛盾する二つの感情の争闘に、いくどもへたばりかけて、やつとこゝまで持ちこたへて来たことは、いくぶん正しい意志の力だと信じてゐるんです」
 と、彼は逆はぬ程度に、昂然として云つた。
「いくぶんはあたくしのお蔭だともお思ひにならない?」
 彼女のこの落ちつき払つた抗議に、彼は、微笑しながら、
「なるほど、さう思つてもいゝですわ。しかし、そいつは、あなたとしては無意識でせう、思ひやりがあつたとは云へませんからね」
 彼はさう云つて、急に起ち上つた。この明るい部屋が、かういふ話をするのになにか場違ひといふ気がしたからである。
 少しはなれて、彼女の方を振り返ると、椅子にゆつたりと背をもたせかけ、片手で髪のうしろを押へながら、こつちを眩しさうに眺めてゐるその姿の、謎めいて艶めかしいのに、彼の胸はあやしくうづいた。

 さういふつもりはなかつたのだけれども、彼はふとそこに並んでゐる三台のコリントゲームをみつけ、覘きこむやうにしてその規則を読み、やがて五銭白銅をはめこんで、ガチヤリと玉を弾きだした。
 すると、素子も、誘はれるやうに彼のそばに来て、黙つてそれを見てゐた。
 が、二人ともにこの遊びに興がる風はなかつた。彼のゲームが終ると、彼女が代つてやり始めた。しかし、それはたゞ機械的に手を動かしてゐるにすぎなかつた。
「すこし歩きませんか?」
 幾島がさう提議すると素子はちよつと考へて、
「えゝ、それもいゝけど、もう食事をたのんであるから……。ぢや、お庭へ出てみませうよ」
 ホテルの庭つゞきになつてゐる海岸の松原まで来て、どつちからともなくベンチに腰をおろしてしまつた。
「あ、さうさうこないだ、あなたがおよこしになつた山の人たち、専務に会はせましたわ。なんか、その時のことお聞きになつた?」
「いや、別になんにも聞きませんが、僕も、あの問題にはこれ以上深入りはしないつもりです。やり出したらきりがないつていふことがわかつたからです。第一に、その方面の専門知識がないこと、運動そのものが片手間なんかぢや駄目だといふこと、それだけでもう、僕には自信がなくなつたんです。あなたに云はれたとほりの結果になりました。しかし、こんな誤算は失敗のなかにはひらないと思ふんですが、どうでせう?」
「それや、人によつていろんな見方ができると思ひますわ。あなたは、失敗つていふこと、おきらひね。あたくしと違ふわ」
 彼女のさういふ意味が幾島にはぴんと来たので、
「違ふでせうね。さういふところですか、あなたが僕を不満に思はれる点は?」
「不満に思ふつて?」
「いや、いや、さつき、さう云つたぢやありませんか、僕がもしあなたにプロポーズするやうなことがあるとして、それを断る理由をいろいろ考へたつて……」
「あゝ、そのこと? だつて、なんにもないうちから、そんなこと云ふ必要はないわ?」
「ぢや、仮にあつたとして、云つてみてください」
「まあ、ずゐぶん無理な注文だわ。そんなら、あなたから先におつしやいよ――あたくしのどこが気に入らないつて……」
 彼女はハンドバツグから小さなガラスのチユーブを出して、なにやら丸薬のやうなものを掌に受けそれを口に入れた。
「どうもかういふ話は真面目でないやうですね。それより、今日は僕の方からひとつニユースを提供しませう。僕、今度、田舎の小さな博物館に勤めることになりました。これで、しばらくお目にかゝれないかも知れませんが、僕にとつてはずゐぶんいゝことだと思つてゐます。あなたは遠くに置いて見るひとだつていふことが、きつと僕を落ちつかせるでせう。今日は、だから、偶然お別れになつたわけです」
 さう云つて彼は、ぐいと左手を差出した。彼女は躊はずにその手を握つて、
「ほんと? あゝそれやいゝわ。で、田舎つてどちら?」
「紀州の海岸に白浜つていふ温泉がありませう。そのすぐそばの江津良えづらつていふところに、最近行幸記念としてできた自然科学博物館があるんです」
「紀州……へえ」
 と、彼女は眼をみはつた。
「そこで植物の方の係りを担当するわけですが、ひとつ、浮世をはなれて……」
「さうさう、浮世をはなれて、論文を書いて、大いに天下に乗りだしてくださらなければ……」
 と、彼女は、まだそのまゝ握つてゐる彼の手を強く振つた。

 やがて食事のベルが鳴つたので、二人は食堂にはひつた。
 導かれたテーブルには桜草の鉢がおいてあつた。幾島は素子の場所馴れた様子に押され気味で、たゞ黙つて運ばれる料理を次ぎ次ぎに平げた。
 ほかに三組ほどの客があつたけれど、広い食堂はそのために却つて閑散な空気をたゞよはせ、テーブルの間を縫つて歩く給仕の姿も、どこかのんびりとしてみえた。
「泊り客はあんまりないやうですね」
 と、幾島は素子に云つた。
「昔は外国人がずゐぶん泊つてたのよ。昔つて、四五年前だけれど……」
 その時、入口の扉が開いて、和服を着た中年の紳士が一人、夕刊を片手にもつてはひつて来た。給仕頭の丁寧な挨拶に軽く応へて、二人のすぐそばのテーブルにをさまつた。
 袂から鼻目鏡を出してかけ、献立表を読んで、なにやら給仕に云ひつけた。それから、夕刊に眼を通すのだが、時々、ちらちらとこつちを横目でみてゐる。
 何者だらうといふ好奇心が、幾島をとらへた。年はまだ四十にはなるまいと思はれるのに、傲然とすべてを見下してゐるやうな態度が珍しく大きい。一口に云へば、身分ありげな堂々たる風采である。
 素子は、別にそれには気づかぬらしく、正面を向いたまゝ、南京豆をつまんでゐたが、突然その紳士の方へ声をかけた。――
「しばらく……お変りなくつて?」
 相手は、動ずる色もなく、わづかに目礼をして、ぢつと彼女を見据ゑた。
「お泊りですの?」
 と、彼女は更に訊ねた。
「えゝ、正月からずつとこゝにゐます」
「さう」
 で、今度は幾島を顧みて、
「ご紹介しませうか?」
 幾島は返事をしなかつた。そして、例の紳士をもう一度見直した。
「加納さんておつしやるの、立花伯爵のお友達よ。こちら、幾島理学士……」
 男たちは互に頭をさげ、それぞれ無関心を装ふ表情で、冷たく視線をそらした。
 食堂を出ると、幾島は素子についてホールに続いた奥の控室へはひつた。
「なにしてる人、あれは?」
「どういふ人にみえて?」
「やつぱり華族ですか?」
「ほら、加納大将つてあつたでせう、その息子さんよ。イギリスの大学で建築をやつて、今、ぶらぶら遊んでるんですつて。設計を頼まれても、自分の思ひ通りにでなくつちや図を引かないんだつていふの。だから、これまでに建てた家は、伯爵の山の別荘一軒きりつていふんだから変つてるでせう?」
「伯爵つて云へば、僕、あなたに一度ほんとのことを聞かしてもらはうと思つてたんだけれど……」
 と、幾島は更まつて、彼女に云つた。
「さうさう、あたくしもそんなこと考へたことあるわ。でも、なんだかもう済んぢまつたことみたいで……」
「だから、いゝぢやありませんか。伯爵はなぜあんな死に方をしたんです?」
 素子はしばらく幾島の顔をみつめてゐたが、片肱をテーブルにつき、なにか物思ひに沈むといふ調子で、低くかう云つた――
「自尊心よ。自分自身への約束を守れなくなつたつていふ絶望よ。男としてこんな悲劇的な性格はないと思ふわ」
 それだけで幾島にはすべてが呑み込めたかどうか、彼は起ち上つて素子のそばに近づいた。彼の眼は異様に輝いてゐた。
「僕は自分になんにも約束はしてゐません。だから、絶望もしません。素子さん、僕にもつともつと希望を与へてください……」
 さう云つて、彼はいきなり素子の肩をつかんだ。

「やんちやねえ、あなたは……」
 と、素子は、幾島の手をはらひのけるやうにして云つた。
「ご自分でおつしやつたことをご自分で取消すやうなことをなさるもんぢやないわ。あなたには、もつと大きな希望がおありになるぢやないの。ね、さうでせう、今日は折角いゝ気持でお別れできると思つてゐたのに……」
「しかし、僕たちがこゝにゐるのは、別れるつていふことを目的にしてるんぢやないでせう? 僕はこの瞬間の感情を絶対なものと信じます。それはもう善悪を超えた意志です。僕はいま、それに従ふことが幸福なんです……」
 迫るやうに顔を寄せて来る幾島の、熱い息が彼女の頬にふれた。
 と、素子はその時、静かに云つた――
「あたしたちは、きつと後悔するわ」
「あなたが? 僕が?」
 彼は、訊ねた。
「二人とも……。だつて、さうでなけれや、今までこんな風にしてやしないわ。ね、後生だから、もう一度落ちついてお話をしませうよ。あたしたちがなぜこれ以上接近してはいけないかつていふわけ、ごぞんじ?」
「そんなわけが、ある筈ないぢやありませんか」
「ところが、あるの。大いにあるのよ。いゝこと? ほんと云ふとね、今まで、あたし、あなたぐらゐ好きになつた男のひと、ないと思つてゐたのよ。ところが、違つた意味でやつぱり、おんなじぐらゐ好きだつたひと、ないことないつていふ気がして来たの」
「それは、過去のことでせう?」
 幾島は、苦いものを飲みくだすやうに云つた。
「えゝ、それやまあさうだけれど……。でも、さういふ場合、いつでも、どつかしら、いやなところとか、物足りないところとかがあつて、いよいよ向うから積極的に出て来られると、いつでも、こつちは逃げたの。逃げるはをかしいけど、つまり、それつきり、あたしの方で関心をもたなくなつてしまふのよ。それや、不思議なくらゐ、きれいさつぱり、忘れてしまへるんだから、ほんとに世話はないわ。どういふんでせう、かういふ性質は……?」
「それで、僕の場合もおんなじだつて云ふんですね?」
 素子のすこし反つた上唇の燃えるやうな紅の色が、ふと翳つた。彼女は固く口を結んだからである。
「さうかなあ……僕をこんなところへ呼びだして、知りたくもないあなたの心の秘密をのぞかせたのは、いつたい誰なんだらう……?」
 と、幾島は、ぶつきらぼうに云つて、部屋の中を歩きまはつた。
「それや、あなたは、ほかの誰とも違ふわ。あなたなら大丈夫だと思つたからよ。あなたは、いやなところつていふのがないわ。ほんと、それだけは。たゞ、どうにもならないことは、あなたは、あんまり……若すぎるの。張合ひがないの。かへつてあたしが草臥れるの」
「…………」
 幾島は、強ひて笑はうとして、口をゆがめた。
「それに、もつと困ることは、あなたは、しんしんまで都会のお坊ちやんなの。おわかりになる? あたしは、これで、なんだとお思ひになつて?」
「…………」
 彼女の戯談めいた首のかしげ方を、彼はキヨトンとして眺めてゐた。
「親代々の田舎者よ」
「なんです、それや……? 卑下ですか?」
「己惚れなの」
 と、彼女は、いかにも淋しさうに微笑んだ。

 すると、幾島は、決然とした面もちで、素子の正面に立ちふさがり、
「あなたは、それぢや、なんのために都会人のなかに混り、都会人の修行をし、都会人を真似るんです? そんな下らないことはよしたらいゝぢやありませんか?」
 その剣幕にちよつと驚いた彼女は、すぐに、例の瞬きをつゞけてすると、
「あら、また喧嘩?」
 と、やさしく彼の方を振りむいた。
「喧嘩ぢやありませんよ。あなたは自分の感情をはつきり云ひ現はせないんですか? 思ひつきの理由に勿体をつけて、僕をへこまさうつたつて、さうはいきませんよ。僕が都会人でわるけれや、お生憎さまだ。黒岩万五君とでも恋愛をしたらいゝでせう……」
 幾島の声がつい大きくなるので、素子はしかたがなしに起つて行つて、彼の手を引つ張つた。そして無理矢理に傍の椅子に腰かけさせると、ほつとしたやうに、後ろから彼の髪の毛を撫ではじめた。
「すぐ怒るからいや、あなたは……。話もなんにもできやしないぢやないの。黒岩万五君と恋愛することはあたしの勝手よ。をかしくなつちやふわ、あなたがふつとそんなことおつしやるから……。実はね、あの大将は、あたしの空想の恋人なの……」
 幾島暁太郎は、黙つてゐる。が、太い眉の根がぴくぴく動いて、始末におへぬ気持をひたすら抑へてゐる風である。
 と、その時、帰り支度をしたさつきの女事務員が、部屋の入口へ顔を出して、すぐに引つ返さうとした。
「なに?」
 素子はすばやく、それを見つけて、後を追つた。
 間もなく、彼女は、一通の封書を指の間にはさんで帰つて来た。
「面白いことがあるわ。これ、なんだか当てゝごらんなさい」
 幾島はちらとその封筒の真つ白な表に視線を向けたが、別に興味がなささうに、
「勘定でせう。勘定なら僕が払ひますよ」
 と云つて、それを受け取らうとした。
「いやだ。お勘定はもう済んだのよ。それより、かういふ手紙をあたしに読めつていふ男が、このホテルにゐるんだから、あなたどうお思ひになる? 許してくだされば、あたし、封を開けるわ。どうしませう?」
「なんのこつたか、僕にはわかりませんよ。勝手に読んだらいゝでせう」
 彼はさう云つて、ぐらつと椅子の背に頭をもたせかけた。
 彼女は、手紙の封を切つた。そして、それを読みながら、幾島の方に近づいて来る――
「さつき食堂にゐたでせう、あれよ。せんに一度、あたしに結婚を申込んだことがあるの。もちろん、断つたわ。さういふ因縁で、また会つて話がしたいんですつて。そんなのつてあるかしら?」
 彼女は、その言葉が終らないうちに、封筒ぐるみ、二枚の書簡箋をびりびりと引き裂いた。
「第一、あなたとかうしてるのに、失礼だわ、ねえ。なんて云つてやりませう?」
 幾島が眼をつぶつてゐて返事もしないので、彼女は、そつと彼のそばに寄り添ひ、その椅子の肱掛に腰をのせると、いきなり、倒れかゝるやうに首を抱いて、額にそつと唇をふれた。
 その途端、彼は、夢からさめたやうに、両眼を大きく見開いて、かう云つた――
「そんなことをされても、僕はもう、うれしくもどうもありません。あなたが、過去の求婚者にお愛想を云ひ、空想の恋人をこさへて田舎者だと自称する間は、僕は、しよせんあなたとは別世界の人間だ」

「それがあなたの最後のお言葉ね。ぢや、そんなに意地わるな調子でなくおつしやつてちやうだい」
 と、素子は、からだを起すやうにして云つた。
「えゝ」
 幾島は素直に応じた。
「だから、今云つたことを、そんな風にとらないでください。僕はつい言葉が荒つぽくなるんです。このまゝでは、あなたとかうしてゐることが苦しいばかりです。希望はあつてもその希望が、すぐに、暗い影のやうなもので、曇つてしまひます。なぜだかはつきりわからない。さうなるんです。多分、あなただから許せると思ふやうなことでも、僕とその事柄との間には、大きな距りがあるんですよ。互に相容れない風習とでも云ふんですかね。これは、理窟ぢやないと思ふ……」
「さうよ、理窟はよしませう。あたしもなんだか苦しいけれど、かういふ苦しみは無駄ぢやないつていふ気がするわ。自分のためにだけ考へてるんぢやないから……」
「さうです。今日は僕、これで帰りますから……。十日前後に東京を発つつもりです。またお目にかゝれるかどうか……これぎりになるものとして、ご機嫌よう」
 幾島は、上着の裾を引きさげ、彼女の悩ましげな視線の前に立つた。
「もう一度握手しませう」
 と、彼女は云つて、思はず右手を差出した。
 彼は、それを、「彼の左手で」軽く握つた。が、その時、彼女は、ふと気がついたやうに、
「だつて、これから東京へお帰りになるんでせう? ご一緒ぢやいけない?」
「一人で帰してください」
 さう云つたと思ふと、握られた手を振りきるやうにして、玄関の方へ遠ざかつた。
 素子は、型どほりそこまで彼を見送りはしたが、ホテルの門を出た途端に、幾島は、後悔した。そして、ひと足進むごとに、引返したい慾望が募るばかりであつた。
 生温かい潮風が星空の下を吹いてゐる。
 彼は「なにくそツ」と力み、はかなく過ぎ去つた甘やかな危機に、今こそ胸ををどらせる始末なのである。
 彼はさうして、その夜家へ帰ると、早速書籍類の荷造りをはじめた。学生時代から一冊一冊買ひ溜めた本を、次ぎつぎに蜜柑箱の底へつめて行くうちに、様々な記憶が蘇つた。
 専門の講義の進むにつれて、新しく開ける植物の世界の広さと神秘、参考書を貪るやうに読み耽つた時代の科学への初々しい情熱、次いで隠花植物殊に蘇苔類への異常な興味とやゝ大それた研究、二学年の終りに、エングレル氏の分類法に従ふ東亜植物分布区系を仔細に検討して、重要な疑義を発見し、卒業論文には乏しい材料を基礎にして、頗る独創的と思はれる新区分法を試み、これが大沼博士を驚かしたのである。今となつては、それらはみな、懐しい想ひ出とは云へるが、一方、冷汗に値するものがないわけではない。
 それよりも、大学にはひつて間もない頃、小石川の植物園で、はじめて、万葉などに歌はれてゐる「浜木綿はまゆふ」すなはち、「はまおもと」の実物を見た日の、あのなにかしら胸の血の湧くやうな気持を忘れることはできない。三浦半島、紀州海岸、土佐、九州南部などに自生すると説明を聴いただけで、彼の一瞬の幻影はたちまち、云はゞ詩的古代色に染めあげられてゐたのである。
 彼は、さう思ひながら、ふと考へた。……今度の紀州行きの決心も、多分、あの時の「浜木綿」の名が意識下に働いてゐたためではなからうかと。
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 山には遅い春が来た。
 立ち枯れの萱の間にウドが芽を出し、カラ松の黒い枝に薄緑の粉がふき、岩ツヽジの肉色の蕾がちらほら山裾に見えはじめた。
 水車に氷柱つららのさがることも稀になつた。やがて鶯も鳴くであらう。
 しかし、曾根部落は、例年のこの季節と違つて、殆ど一戸一戸が不安を抱き、一人一人が眼を血走らせてゐた。
 泰平郷の水源問題にからんで、部落全体は敵味方に分れようとしてゐるのである。小峯等を中心とする青年組と、村の助役、郵便局長、方面委員等、云はゞ部落在住の有力者を網羅する長老組との意見の対立であつた。
 前者は主として貧農階級の子弟であつたが、なかには地主の息子も混つてゐた。従つて、一戸のうちで、父と子、兄と弟が別々の派に属してゐるといふ例もあつた。
 小峯等の運動が徐々に勢力をもつて来ると、それは単に泰平郷事務所を脅かすばかりでなく、何等かの意味で別荘地の発展を地元の繁栄と解する長老組への、露骨な挑戦といふ形をとりだす。
 わざわざ東京の本社を訪れ、専務に会つて直接談判までして来た小峯等は、会社側にまつたく誠意がないことを知ると、いよいよ最後の行動に向つて進まうとした。
 すなはち、工事半ばで冬期にはひつたため、そのまゝ放つてある水源地一帯を、彼等青年の手で当分の間占領し、この春から夏にかけて必要な水を、命にかけても奪ひ取らうといふ計画である。
 この情報が現地事務所の耳にはひつたとき、主任の粕谷は青くなつた。それで先づ駐在所へ人を走らせるやら、水源地の見廻りを頻繁にするやら、村役場へ乗込んで村長の慰撫を求めるやらしたが、ともかく本社へ打電して、事前の処置について指令を仰ぐことを最後に思ひついた。
 彼は事態の精いつぱいの誇張によつて、自分の責任を果し得るものと考へた。そして、さういふ風に電文を練つた。
 現在の事務所は人員も手薄である。書きあげた電報は自分で曾根まで持つて行かねばなるまいと思ひながら、今にも挙がりさうな暴徒の喚声を耳の底に聴いてゐた。
 と、そこへ、いつもの郵便配達が、自転車を窓の外へ乗りつけた。
「なにか新しい情報はないかね? まさか今夜おつぱじめるなんてこたあ、なからうな」
「わしやなんにも知らん。局長は縁側で居眠りをしてござつたよ」
「うん、そんなら安心だ」
 さういふ粕谷の手に会社の庶務課から出た一通の書留が渡された。
 彼はすぐに封を切つて読む。それから、眼を飛び出させるやうな顔付で、
「おやおや、これは解せんぞ。専務の鼻といふやつは特別製ででもあるのかね。それとも小峯輩の威し文句に、実はへたへたとなつたかな。とにかく、こいつは機宜に適した処置だ。よろしい。おい、郵便屋さん、君、発電所のそばを通るなら、ちよつと声をかけて、うちの者にすぐ帰れと云つてくれや。それから、序に、黒岩万五の小屋をのぞいてみて、奴さんもしもゐたら、これにもすぐ事務所へ来いつて云つてくれや」
 さて、その翌朝から、事務所常用の人夫総出で、第三水源地の発見にとりかゝつた。
 黒岩万五はむろん、本業石屋といふ名目もあつて、岩石穿掘工事の指揮を仰せつかつた。

 附近の山ならどんなところでもそらで知つてゐる黒岩万五は、粕谷の命令に対してかう答へた――
「さういふ見込のあるとこは、わしやねえと思ふだよ。だがいつたい、どれくらゐ金をかけるだね? 掘つてみて、水が思ふやうに出んとなれやこれや、無駄なこんだね?」
「金はいくらでもかける。本社の方針できまつたんだから、あとで文句は云やせんよ」
「そんなら、わしのこゝならと思ふところを、ひとつ、ぶつこはしてみるかね?」
「ぶつこはすとは?」
「爆破よりほかねえだ」
「爆破か。ふむ、よからう」
 で、その手続と材料の仕入れに二日かゝつた。
 いよいよ明日はそいつを実行するといふ日の午後、ふらりと斎木素子が事務所へ顔を出した。
「いよう、これはこれは……」
 粕谷はかねて彼女が本社の宣伝部へはひつたこと、伯爵の別荘は会社が買収して、近くなにかにこれを利用するといふことを知つてゐたので、いくぶん同僚として彼女を迎へたつもりでゐる。
「社用で参りました。どうぞよろしく……」
 と、彼女は如才のない挨拶をした。
「その社用ですがね、斎木さん、あなたはごぞんじだらうが、至急新しい水源を探せといふ本社の命令は、これや、いつたいぜんたい、どういふ意味なんですか。事態をこゝまで運んでおいて、今更妥協でもないでせう。わたしや、これでも、事務所を枕に討死の覚悟をしてゐたんですからねえ」
 粕谷のこの言葉には耳を藉さうともせず、彼女は、そこあつた、三角定規でテーブルの縁を叩きながら、
「それより、あたしすこし草臥れたから、早く休ましていただきたいのよ。別荘には留守番はまだゐますの?」
「をります、をります」
 粕谷は、慌てゝ起ちあがらうとした。が、彼女はそれを制して、ひとりで別荘まで車を乗りつけた。
 留守番の豊次夫婦は、主人をもてなすやうに彼女をもてなした。亭主が部屋々々の扉を鍵で開けてまはるうちに、神さんは、渋茶を入れて来た。
 最初のひと言を云つてしまふと、あとは誰も、なんにも云ふことがないやうに黙つてゐる。
 素子は、もうぢつと椅子に腰かけてゐられなくなつた。
 ホールから食堂をのぞいてみた。
 なにもかも元の通りである。マントル・ピースの上に、まだ例の猟銃も飾つてあつた。気のせゐか、火薬の臭ひがぷんと鼻をつくやうに思つた。肱掛椅子に背をもたせたまゝぐつたりとなつてゐた伯爵の最期の姿がありありと眼に浮ぶ。
 次に、書斎の中にはひつてみる。
 書棚に並んだ書物は、数は少なかつたけれども、伯爵の枕頭の書とも云ふべきものが大部を占めてゐた。なぜなら、毎度、殆どきまつたものを伯爵の旨を受けて彼女は本邸の書庫から選びだし、それをトランクにつめた覚えがあるからである。
 デスクの上は彼女が去年片づけたとほり綺麗に片づいてゐた。
 やがて、彼女は、二階にあがつた。自分の部屋を先に見ようか、それとも……と、一つ時、彼女はためらつた。
 廊下の窓からは、明るい午後の陽が射し込んでゐた。床に敷いた新しい絨毯の色を底に沈め、白い壁と、四つの扉がこの狭い空間を鍵の手に囲んで、そこにはなにひとつ動くものはない。

 ――この四つの部屋を客室にあて、階下したの書斎を少し模様変へして、案内の社員が寝泊りできるやうにすればいゝ。すると、寝台をもう少し買ひ足して、一部屋に二つ乃至三つ入れることにすれば、十人のお客はできる。子供用の寝台も二三用意をしておく必要があるだらう。食堂はあのまゝで使へるが、コツクだけは素人でも気の利いた山家風の料理ができなくては困る。土地の材料を生かして使ふ頭は、土地の人間にはないので始末がわるい。しかし、これは、サーヴイス係りの女中と同様、一応こつちで教育をしなければなるまい。季節ぎめでこの付附の女を傭ひ入れるとして、さういふ手が今時あるかどうか。これも事務所を通じて当つてみることにしよう。部屋には番号を付けるか、それとも、ある種の旅館のやうに、洒落れて「何の間」とするか。いつそもつと独得な趣向はないだらうか……?
 素子はそんな風なことをぼんやりそこで考へてゐた。
 が、急に思ひ出したやうに、この暮まで彼女が使つてゐた部屋の扉をあけ、何時かとりに来るつもりで残しておいた品物の数々へ眼をうつした。
 寝台の上には、毛布と羽根蒲団が畳んでおいてある。多分豊次のお神さんが日にあてゝくれたのであらう。寝台の脚もとに、緋羅紗のスリツパが一足、揃へてあつた。
 机の抽斗を開けてみる。電報用紙、使ひかけの書簡箋、手すき紙の角封筒がすこし、鏡の割れたのと香水の空壜、それに、去年の夏裏の崖つぷちで拾つた土栗といふ星形の黒く乾いた茸、これは幾島に名前を訊ねようと思つて持つて帰つたのである。
 彼女はなにに手をつけるのも大儀であつた。それに壁にかけてあるヴアン・ドンゲンの複写のほかは、東京へ持つて帰りたいと思ふものはなかつた。
 そこで、彼女は、ふらりとその部屋を出て、こんどは、伯爵の寝室を覗いてみようとした。しかし、どこか気持のなかにそれに抵抗するものがあつて、ふと思ひ止まつた。――今でなくつてもいゝ、と、彼女は、逃げるやうに階段を駈け降りて、そのまゝ玄関から庭の方へ出た。
 屋外の爽やかな空気にふれると、彼女は蘇つたやうに、大きく呼吸をした。落葉を敷きつめた小径が彼女をひとりでに裏の林の中に誘ひ込んだ。そこは一段高く丘のやうになつてゐて、林の尽きるあたりから、急勾配で谷に降りる斜面がはじまつてゐるのである。
 そこに立つて下を見ると、谷川の流れが大きくうねつてこつち側の岸をえぐりとり、淵と瀬とを等分に見せながら、やがて左の山あひに没し去つてゐる。
 彼女は、たゞ光りの帯としか見えぬその水の色をあかず眺めてゐた。
 と、その時、岸の草叢の陰から、釣竿を手にした一人の男の姿が現はれ岩から岩へ飛びうつりながら、針を投げ込む場所を探してゐる。そして、それは黒岩万五だといふことに気がつくと、素子は、なにがなんでもそのそばへ行つて見たくなつた。
 幸ひ、去年つけさせた小径が崖を縫つて谷底へ続いてゐる。
 彼女は足もとから崩れる土を踏みしめ踏みしめ、平らになつた川原までやつと辿りついた。

 黒岩万五はちやうどいま一尾の山女魚やまめを釣りあげたところであつた。が、すこし川下の砂原に素子が立つてゐるのを見つけると、帽子の廂へ手をかけて会釈をした。声をだしても水の音で相手に聞えさうもないからである。
 素子は、できるだけ彼のゐるそばへ近寄らうとしたが、砂原は僅かに一二間のところで深い草叢になつてゐて、足を踏み込むわけにいかなかつた。すると、彼の方から、ざぶざぶ水を渡つてこつちへやつて来た。
「ちつとも知りませんで……。何時来なすつたね?」
「たつたいまよ……」
 と、彼女は答へた。そして、物珍しさうに、腰にさげたビクを覗き込んだ。
「今日はよく食ふだで、晩までにや三貫四貫は楽だね、これや」
 彼はさう云つて、また餌をつけはじめる。
「ぢや、あたし、見物してるわ。そうつとしてればかまはないでせう?」
「奴らにや眼があるだでね。違ふにや違ふが、まあ、えゝですよ」
 そこでまた彼は、岸伝ひに水底をにらんで歩いた。と、手に持つた竿が大きく空中に弧を描いた。糸が風にあふられて、鉤がどのへんに落ちたか素子にはわからない。急な流れが、すぐに、その糸をぴんと張つてしまふ。一分、二分、黒岩万五の腰がぐいと伸びる。糸の先の銀色の獲物が、跳ねながら、舞ひながら、彼の掌のうちに引寄せられる。
 彼女は思はず拍手を送る。黒岩万五は、ちらとそつちを振向くけれども、別にお愛想笑ひもしない。
「こゝはもうこれで終りだが、上へのぼるのにえゝ道がこつち側にやねえで、ついて来なさるわけにやいくめえ」
 それを聞いて素子は首をかしげ、
「そんなら、向う側には道はあるの?」
「まあ、あるにやあるが、そんでも、時々や水にへえらんことにや……」
「冷たいでせう、水は?」
 彼女は肩をすぼめてみせる。
「雪が解けた水だでねえ。ちよつくら、脚がしびれるだよ」
「ぢや、こつから見てるからいゝわ」
 諦めてさうは云つたけれども、黒岩万五が少しばかり川上の方へ行つて釣りをはじめると、彼女はつい草叢をかき分けて、そつちへ行つてみたくなつた。草叢をやつと出きると、今度は、石ころの川原である。それもなんとかして踏み越えた。すると、岸から飛び飛びの岩が流れの上へ頭を出してゐて、うまくそれを渡れば向う岸へ着けさうである。
 少し無理だとは思つたが、面白半分に、彼女は、先づ一番近くにある岩へ、ひよいと跨いで乗つた。その次の岩はとても足場が悪かつたけれども、這ふやうにして、そこまではからだを運ぶことができた。ところが、それつきり、もう前へも出られず、後へも退れないことに気がつくと、急に馬鹿な真似をしたと思ひ、ぢつとしやがんだまゝ、水の深さを目で計つてみた。流れが急なせゐもあつて、底はてんで見えない。たゞ、岩に阻まれた水が、急に速さを増し、盛り上り、雪崩れおちるその勢ひに、彼女の眼は眩むほどであつた。
 彼女は、それでも、思ひきつて裸足にならうとした。
「どうするだね? 渡るなら、そこぢや危ねえだよ」
 黒岩万五が向う岸から声をかけた。
「ちよつと来て、あんた、助けてよ」
 笑ひながら、彼女は叫んだ。

 黒岩万五は釣竿を岸の柳に立てかけ、彼でさへ足をすくはれさうな急流のなかを、殆ど膝の上まで漬かつて、彼女の蹲んでゐる岩の方へ近づいて来た。
「すまないわね、邪魔して……」
 と、彼女は片手をそつちへ差しだした。
 黒岩の巌丈な肩がそれを支へた時、素子はそれからどうしていゝかわからなかつた。
「どつちへ行くだね?」
 彼は素子の顔を見ないで訊ねた。
「あつちよ。あんたの今ゐた方よ」
 素子は向う岸を頤で指す。
「おぶさるかね、わしに?」
 黒岩はまた訊ねた。
「おぶさるの、いやよ。あんた力があるんだから、抱へてつて」
 さう云ひながら、もう彼の肩へ自然に手を廻す彼女を、黒岩万五は、そんならといふ身構へで、軽々と横抱きにした。
 足が宙に浮いた瞬間、素子は、小さく「あツ」と声をたてたが、それは、あまり不意だつたので、呼吸を引いたはずみに出た声と、半ば興がつてわざとはしやいだ笑ひとが一緒になつたものであつた。
「重いだねえ」
 と、黒岩万五もはじめて戯談を云つた。
 なるほど女としては重い方であらうと、彼女は十三貫のからだを縮められるだけ縮めてゐたが、太い腕が片方は脇から背中を、片方は腿のあたりをがつしりと受けとめて、ひと足ごとに川底の足場を探る気配が全身に伝はつて来る。それは云ひやうもなく心丈夫なものであり、また、これでいゝのかと思ふほどくすぐつたい感じのものであつた。
 彼女は自分の肉体の純潔をこの時ほど誇らしく思つたことはない。そして、そのことをこの黒岩万五が知つてゐたならばと、彼の陽に灼けた素肌の肩先から、澄み渡つた青空へ眼をうつした。
「あたしが若しお魚だつたら、かうしてぢつとしてゐるかしら?」
 ひとり言のやうに彼女は云つた。
 黒岩万五は、なんとも返事をしなかつた。その代り、彼女のからだは真つすぐに起され、両足が地べたについた。もう、岸へあがつてゐたのである。あつけないといふのはこのことであつた。
「どうもありがたう。人が見てたら笑ふわ、きつと……」
 彼女は、裾をなほしながら、そんなことを云つた。
「なに、このへんにや、誰も来ねえだよ。どうだね、竿がもう一本あるが、釣つてみないかね。どうせかゝりつこはねえが……」
 黒岩は、云つた。
「いやだ、釣れないときまつてるもんを釣つてみろなんて……。でも、折角だから竿だけ貸してちやうだい」
 いろいろと講釈をきゝ、魚のきまつてゐる場所まで教はつて、彼女は、生れてはじめて釣竿を握つた。
「もういゝわ。あたしにかまはないで、あんた、どんどん釣つてよ」
 日当りのいゝ、ほかほかと暖かい場所であつた。彼女はこの穏やかな、原始的とも云へる自然の懐のなかで、女の幸福について考へた。そして、ふと、いつか幾島の前で口にした、「空想の恋人」といふ言葉の意味が、自分にもあやふやなのに気がついた。

 素子はどうせかゝらないとわかつてゐる釣糸を慰みに垂れたまゝ、おほかたは黒岩万五の一挙一動に眼を注いでゐる。彼の鉤には面白いやうに魚がかゝる。その魚を鉤からはづす手つきも慣れたものである。糸が川底の石に引つかゝることがあると、彼は急がずに流れの方向へ竿のさきを向け、難なくそれをはづす。熟練といふものの見事さに、彼女はついうつとりとしてしまふ。
 が、彼女はかういふ男のそばで暮す一人の女の生涯とは、そもそもどんなものであらうと、自分をまづそこにおいてみる。――憩ひのなかにばかり幸福はないのである。さうだとすると、自分になにができるか? 仮になにもできなくてもいゝとする。しかし、たゞ、この男を愛するといふだけにさへ、なんと余計なものを身につけてしまつてゐることであらう! それは悉く棄て去つても惜しくはない、若し単なる装飾にすぎないなら。さうだ、この自然そのまゝの姿にならねばならぬ、彼がそれを望むとしたら……。
「おつと、引いた、引いた。竿をあげて、竿を……」
 と、この時、だしぬけに、向うから黒岩万五が呶鳴つた。
 彼女は慌てゝ竿をぴんと刎ねあげた。たしかに釣れてゐた魚が、水をはなれると同時に、鉤からはづれて、再び水の中に潜つてしまつた。
 黒岩万五は、アハハハと、大きな声で笑つた。
 彼女は、なにがなにやらわからず、ぼんやり立つたまゝでゐると、黒岩は、づかづかとそばへ寄つて来て、餌をあらためた。
「万さん……」
 と、彼女はその顔を見あげるやうにして云つた――
「ごめんなさい、釣りそこなつちやつて。怒らないでね。これで、あたし、女のすることならなんでもできるのよ。あんた、さういふところ、見たことないから……」
 黒岩万五は、ぢろりと彼女の方を見て云つた――
「わしにどうしてそんなこと云ふだね?」
「さあ、どうしてでせうね……。云ひたかつたのよ、それだけのことが……」
 と素子は、もう行くところまで行けと肚をきめて、彼の視線へ挑みかゝつた。
「まさか、わしをからかつとるぢやあるめえね?」
「なにが?」
 彼女は、ギクリとして訊き返した。
「なにがつて、わしは面倒なことは好かんで、思つたとほりのことを云ふだ。わしと一緒に来るかね、どこへでも?」
「一緒につて、どこへ?」
「どこつてこたあねえ。いやかね? いやなら、今のうちに、早く帰るだね」
 彼女は、さすがに、口が利けなかつた。が、手頸を不意につかまれて、からだが前へのめると思ふ瞬間、無我夢中でその額を男の胸に押しあてた。
「いやだ、あたし、そんなつもりぢやなかつたのよ。あんたをからかふなんて、そんな気はちつともないわ。あんたは、男のなかでも特別な男として、せんから尊敬してたわ。なんでも上手だし、力もあるし、戦争にも行つて来たし、あたしたちにも親切だし……。あんたは、どんなことをしてても、ほんとに立派にみえるの。世間でいふ、身分が高かつたり、学問があつたり、そんなことは……それだけぢや、あたしにはちつとも面白くないの。そんなものは、却つて、男を意気地なしにするわ。わかる? あたしの言ひたいこと?」
 彼女は、それを、綿々と、ひと息に喋つた。

「そんなお世辞みてえなこたあ、わかつてもわからんでもおんなじこんだ。男と女とは、へえ、惚れたか惚れんかで勝負はきまるだよ。さ、どうするだね?」
 黒岩万五が、彼女の肩を押して顔をのぞき込まうとした拍子に、彼女は、ふらふらとよろけて、そのまゝそこへうつ伏せにぶつ倒れた。長いあひだ、黒岩は黙つて立つてゐた。彼には素子の姿が冷たい人形のやうにみえた。
 日が暮れかゝると、夕靄が次第に谷一面を匐つて川風が襟を冷たく吹いた。
 素子は、崖の上まで黒岩万五に手を引かれて、登つた。
「さよなら……」
 口の中で、彼女は云つた。そして、後をも見ずに駈けだした。
 それを黙つて見送つた後、黒岩万五は、再び崖を降りて行つた。
 翌朝は、前日に引きかへて、空いつぱいに雲が低く垂れてゐた。
 素子は、床の中から枕もとの腕時計をとつて見たが、きつかり一時のところで止つてゐる。彼女の頭はまだぼんやりしてゐた。今、それからそれへと想ひ出す異常な記憶の連続は、彼女の胸をしめつけるばかりである。どこまでが事実でどこからが夢なのか、その境さへ、はつきりわからぬ、いや、はつきりとはきめたくない気持であつた。
 階下でガタンと扉を強く閉める音がした。
 それと一緒に、彼女は、元気をだして跳ね起きた。そして、窓を大きく開け放つて、深呼吸をした。瞼がまだすこし重いやうだけれども、しんの疲れはまつたく消えて、いつもの清々しい朝である。
 先づ洗面器でゆつくり眼を冷やし、口をそゝぎ、クリームで顔を撫でた。見る見るうちに、瞳が晴れ晴れと輝きだす。昨日となんの変りもない。
 食堂へ降りて行くと、豊次の神さんが、山羊の乳をコツプに一杯持つて来てくれる。
「今朝は中宿なかじゆくてえらで、岩をぶつこはすちうこんで、そんで、うちの爺さんもちよつくら見に行きましただ」
「岩をなんでこはすの?」
「ハツパとかいふ、えれえ音のするもんだちうが……」
「あゝ、ハツパね、火薬でバアンとやるんでせう。へえ、それ、どうするためなの?」
「それが、なんでも、事務所でまた新たに水を引きなさるちうこんです。わしや、ようは知らんけど……」
 素子は、いちいちうなづいて、それを聴いてゐた。彼女がちよつとした機会に、宣伝に結びつけて、社長と専務の耳に入れておいた泰平郷対地元部落の融和といふ問題、並にそれについての具体的方策が、早速かういふ形で表面に現はれたのだといふことをはじめて知つたのである。
 なぜ彼女がそんな問題にわざわざ喙を容れたかといふと、それは云ふまでもなく、幾島暁太郎の嘗ての熱意に蔭ながら力を藉す意味であつた。その彼がもはやその運動から身をひき、殊に、彼女とも今日ではふつつりと縁が切れてしまつたやうな間柄であつてみれば、もはや、その結果はどうであらうと、彼女は別に気にもとめてゐなかつたのである。
 しかし、それはそれとして、今朝、その爆破といふ痛快な工事を目撃できるチヤンスは、これはどうしても逃してはならぬ。彼女は、食事もそこそこにして、事務所へ駈けつけた。
 もう、主任の粕谷をはじめ、みんな出払つた後であつた。

 それでもやつと場所の見当だけはついたので、素子はその方角を目指して歩きだした。泰平郷分譲地を抜けるのが一番近道のやうな気がしたけれども、念のため、後ろから自転車で飛ばして来る二人の青年に道を訊ねた。彼等もこれからその爆破を見に行くところだと答へた。
「道のりはどれくらゐあるの?」
「まあ、一里そこそこだね」
「そいぢや、あたしも自転車のうしろへ乗せてつて。いゝでせう?」
 二人の青年は、顔を見合せて笑つてゐる。
「さ、どつち? 早くしてよ」
 丈のひよろ長い方が、しかたがなしに素子を乗せて行くことになつた。
 分譲地のはづれから、道は谷にそつて山腹を徐々にのぼるやうになつてゐる。自転車は思ふやうに進まぬ。殊に二人では無理といふことがわかつた。
「こいつを登りきると、あとはずつとてえらだで……」
 二人の青年が自転車を押して行くあとを、素子は、遅れまいと急いだ。
 道は古くから通じてゐた里道なのだが、その両側の、もう炭に焼いてもいゝ雑木の林と、ところどころ山火事にあつたらしい荒れた草地とが、深山といふ趣はないけれども、遠く人里をはなれた場所の淋しさで、女のひとり歩きはまづできさうもない。ところで、その道がどうやら平坦になり、左右の眺めも開けて、青年たちがまた自転車のペダルへ足をのせようとした時、つい百メートルほど先の道ばたで、がやがや人声がするのを聞いた。
 近づいてみると、十人あまりの若い、屈強な男たちが黒岩万五を取り巻いて、時々なにやら喚きたてゝゐる。
 そのなかに、例の小峯喬が、一歩近く黒岩と対ひ合ひ、これは、ほかのものと違つた低い声で、
「それや、お前は石屋だといふこたあわかつとる。しかしだ、石屋だから村のこたあ知らんとは云へめえ。事務所に傭はれにや飯が食へんと云ふなら、そんでもえゝ。だが、事務所の命令と云や、おめえは、村を干乾にするやうなこんでも、やる気か? 余計もねえわしらの田んぼの水を取上げといて、それでもまだ足らんのぢやらう。また、勝手に新たな水源を見つけようと云ふなあ、これや、お前、村に盗人ぬすつとがへえつとるやうなもんだ。その盗人の手伝ひをする人間がをるとなれや、こいつは黙つてをれんちうわけだ……」
 それまで、むつつりと押し黙つてゐた黒岩万五は、この時、かすかに微笑をうかべ、
「おめえの言ふ事はそれだけか?」
 すると、小峯も、釣り込まれたやうに、
「それだけでねえ、言ひてえことは山ほどあるだ。お前はおらたちが、なんのために事務所に楯ついとるか、誰のためにわれわれ青年が死を決して先輩の反省を求めようとしとるか、それをわからん筈はねえと思ふだが、どうしてさう、ひとりつきり呑気に構へてゐられるだ?」
「その返事は、おらにやできん。たゞ云つとくが、今日の仕事の邪魔を、これ以上するならしてみろ。おら、お前らの指図は受けん。事務所で取止めると云やあ、おら、いつでもやめる、粕谷さんに掛け合つて来い。さあ、そこどいてくれ。時間が来ただ」
 動きだした黒岩万五の周囲に、青年たちは殺到すると見えた。
 と、その時、素子が横あひから人々のなかへ割つてはひつた。

「ちよつと待つて……あたしから説明します。今日の作業は何のためか、あなたがたは知らないんです。あたしは会社のものです」
 女の、しかも凜然としたその声に、一同はさつと道をあけた。訝しげに眼をみはるものもあつた。見慣れぬパツとした服装に、苦々しく舌打をするものもある。
 それよりも、第一に、黒岩万五が、降つて湧いたやうな彼女の出現を信じかねてゐる様子であつた。
「万さん、あんたは早く仕事場へ行きなさい。このひとたちには、よくわかるやうに話をするから……」
 彼女は、さう云つて、黒岩万五を去らせようとした。しかし、青年の一人が彼女の耳元で怒鳴つた――
「会社の云ふことなんぞ信用できん。またわしらは欺されるだ」
 彼女は、そつちを振り向いて、云ひ返した――
「へんなことを云はないでちやうだい。会社はあなた方を欺したことなんぞないわ。たゞ、お金の力で無理を通したといふだけよ。でも、今度の計画は、会社があなたがたの主張を容れる第一歩なのよ。むろん、あなた方の要求が直接に通つたとは云へないけれど、去年からその問題でこゝへ度々来なすつた幾島さんね、あの方の提議で、会社は泰平郷と地元との水利の関係を、真面目に考へてみることになつたの。双方の立場から円満に問題を解決するのには、どうしても、別の水源を探さなけれやならないでせう。会社では、どの水をどうするといふことはまだきめてゐないけど、とにかく、みんなが要るだけの水を、なんとかして手に入れようつていふわけで、かうして、一生懸命になつてるのよ。事務所では、どうしてそのことをはつきり発表しないんでせう?」
「そこに魂胆があるだ」
「いゝえ、魂胆なんぞ決してありません。ことによると粕谷さんは、詳しいことを知らないのかもわからないわ。とにかく、あたしは本社から来たものです。責任をもつてそれだけのことをお伝へするわ」
「だけんどが、それを幾島さんが黙つとるのは、をかしいでねえか?」
 小峯がやつと口を開いた。
 素子は、溜息をついた。どうしてこの人たちはかう人を疑ふのだらうと情けなくなつた。
「幾島さんはね、そのことを会社の首脳部におつしやつただけで、その結果をお聞きにならないうちに、遠くへ行つておしまひになつたからよ。今、東京にはいらつしやらないの。あの方にはちやんとご自分のお仕事があるんですもの。この問題にばかりかゝつてゐられるもんですか」
 さう云つて、彼女は、黒岩がもうそこにゐないかどうかを確めた。
 黒岩万五はもうゐなかつた。
「するとなんだね、今度出た水は、会社が独占的に使ふといふわけぢやねえだね?」
 念を押したのはまた小峯である。
「だから、さう云てつてるぢやないの。泰平郷は今のところ、あれ以上水はいらないんだから……」
「だが、万一、今度の場所が駄目だつたらどうするだね?」
「あとを探すわ」
「探してもねえ時は?」
「あゝ、しつつこいのね。なけれやない時の話よ。さういふ風に云ふなら、あんたたちの方が誠意がないことになつてよ」
 彼女はやゝ突慳貪に云ひ放つた。すると、小峯は、一つ時彼女の顔を睨んでゐたが、少しも前と調子を変へずに、云つた――。
「さうでねえだ。それや、お前さんたちが、水のねえつてことはどういふこつたか、そいつがわかんねえだけのこんだ」

 素子はその言葉を聞くと、なんだか自分の態度が傲慢であつたやうに思ひ、すぐに笑顔をみせて、
「さうね、まつたくだわ。あたしも田舎で育つたんだから、それくらゐのことは知つてるわけだのに……。ぢや、あたしが約束するわ、かうしませうよ。若し今日の結果がうまくいかなかつたら、会社で手間を出すから、あんたたちも、ひとつ、事務所と気をそろへて、水源探しをしてみてよ。場合によつたら懸賞を出してもいゝわ。見込のある場所を教へてくれた人には百円、掘つてみて満足な水量があつたら、これやもう……さうだわ、五百円つていふことにしませう。いゝこと? さ、村中、さう云つてふれ廻つてちやうだい」
 彼女はもう、道の上をすたすたと歩きだしてゐた。
 黒岩万五が今日の作業の引受け手であつたのかと思ふと、興味が一段と増して来る。爆破といつてもどの程度のものかは知らぬ。たゞ、大きな岩が轟然たる響きとともに粉砕されるその光景のなかに、黒岩万五といふ人物をおいてみることは、彼女の好みにつた夢である。
 あたりの樹がまばらになり、やがて、前方に広い草原が見えだした。もとは牧場の跡である。草原はゆるやかなスロープで更に村境の峰に続き、峰の頂きには、楢の古木が一株、烈風を受けて枝を張つてゐる。
 もう、作業場では、鶴嘴で岩に孔を開ける準備作業が始められてゐる。その周りを幾重にも囲んだ人の群は、この村のどこにそんなに人がゐるのかと思はれるくらゐであつた。
 年寄りもゐた。若い娘もゐた。子供をおぶつた母親もゐる。小学校の団体もゐる。お巡りさんも、坊さんもゐる。巡礼姿の旅人さへもゐた。
 人夫の手を休ませて、今度は黒岩万五が自分で岩の前に蹲んだ。孔の深さを棒切れで計つてみる。それから、石割用の鑿と金鎚で、しばらくコツコツやつてゐた。粕谷がそばで切りに何か云ふけれども、黒岩の耳にははひらぬ模様である。
 さあ、準備ができた。黒岩は、腰をひねつて傍の木箱からダイナマイトを数本取り出す。
「みんな、後へさがれえ!」
 粕谷が大声で叫んだ。そして、自分が真つ先に走り出す。
「このへんで大丈夫か?」
 彼は、黒岩に訊ねる。黒岩は頤で、「もつと退れ」といふ合図をする。粕谷はまた走る。人々は、それに倣つた。
 作業場を中心に、見物は大きな半円陣を作る。
 黒岩は、見物との距離についてまだ考へてゐる。が、もう一度頤で「もつと退れ」をやる。群集はおとなしく後ずさりをした。
 素子もその一人である。黒岩の頤が、もうはつきりとは見えないくらゐ、円陣はひろがつた。
 風が強かつた。正面からその風を受けた粕谷の背広は今にも脱げさうであつた。素子は外套の襟を立てた。
 作業場には黒岩一人が残つてゐる。導火線の取りつけもすんだらしい。彼は、マツチをすつた。人々は息を殺した。一条の煙が、草の上を流れた。黒岩万五は、後ろを振り返りながら、大股にこつちへ走つて来る。
「万さん、早く……」
 と、この時、素子のすぐ後ろで、若い女のひそやかな声がした。
 素子は、そつちを見ようとしたけれども、もうその暇はないと思つた。導火線は燃えきつた。そらツと、みんなが殆ど一斉に拳を握つたとき、
「畜生ツ」
 と、黒岩が足を踏み鳴らした。

 無気味な沈黙の後、
「どうしたい? 消えたか?」
 と、粕谷がお道化た調子で云つた。
 と、その時はもう、人々は、黒岩万五の勢込んで走り出す後姿を眺めてゐた。
「あぶねえぞ!」
 誰かが嗄れた声で喚いた。
 たしかに不安な予感がいくたりかを支配してゐた。
 果して、黒岩万五が、その場所へ行きついたかどうかといふ瞬間、眼の前にぱつと火花が散つたと思ふと、物凄い爆音が地をふるはせ、一団の黒煙が高く舞ひあがると同時に、飛散する岩の破片が、綾をなして附近の土をまくし立てた。
 群衆の動揺は激しかつた。
「やられたな、奴さん」
「馬鹿、今いくやつがあるかツ」
「あツ、ゐる、ゐる」
 煙がさつと引いて、形の変つた岩がぱくりと口を開いた、そのすぐわきの窪みに、黒岩万五は、腹這ひになつてゐた。
 二三人の男が、まつ先に、駈けつけた。ほかのものは、ぞろぞろ、後について行つた。素子は、この時、自分のすぐ後に、伏せた顔を両手で覆ひ、何やらぶつぶつ口の中で云つてゐる少女の姿を発見した。
「あら、セツちやんぢやないの」
 と、彼女は声をかけたつもりだが、足はもうそれに頓着なく、黒岩の倒れてゐる場所へ急いでゐた。
 彼女は、なんにも考へてゐなかつた。黒岩が死んでゐるか生きてゐるかさへ、問題ではなかつた。たゞ、むやみに、動悸がうつ。
 いくども躓いて転びさうになつた。が、やつと、人の肩越しにではあるが、黒岩万五の血にまみれて倒れてゐるのをはつきり見た。
「頭に傷はねえか?」
「ある、あるどころぢやねえ」
 素子は、その男を突きのけるやうにして、そつと脈をとつてみた。わりにしつかりしてゐる。
「ぢつと見ててもしやうがないでせう? みんなで別荘へ連れてつてちやうだい。それから、誰かお医者を呼びに行かなくつちや……」
「助かるですか?」
 粕谷が腕組みをして立つてゐる。
「助かるから助けるんぢやないでせう? あんたの責任ぢやないの。早く処置をしなさいよ」
 さういふうちに、彼女は、胸がいつぱいになつた。
 幸ひ着物を脱がせる必要はない。傷は、見たところ肩さきにやゝ大きな裂傷と、後頭部に数ヶ所の小さな出血があるきりである。恐らく、人事不省の原因は、頭部の目に見えない打撲か、空気の圧迫によるものであらう。
 素子が、さう思ひながら、自分のマフラで血を拭いてやつてゐると、いきなり、ワツといふ女の泣き声がして、彼女の前へ、さつきの少女の上半身がのめり出た。そして、それは黒岩の背におほひかぶさるかたちで、誰れ憚らず、しくしく啜り泣くのである。
 ――あゝ、さうだつたのか!
 と、素子は、思はずからだを引いた。そして、そのセツ子なる少女の横顔を淋しく眺めながら、つと起ち上つた。
「万さん、万さん……」
 と、少女は、切れ切れに呼んでゐた。
 すると、どういふはづみか、黒岩万五のからだがむくむくと起きあがり、それに取りすがる少女の手を振りほどいて、すたすたと歩きだした。

 素子は、もちろん、あつけにとられた。群集は、遠巻きに、彼を見送つてゐた。
 少女セツ子は、跪いたまゝ、両手を胸の上に組んでゐた。
「水が出た、水が……」
 一人の声があたりに反響した。
 黒岩万五は、夢遊病者のやうに、しかし少し跛を引きながら、東の斜面を登つて行つた。なるほど、曾根部落への近道はそれである。
「てえした水だ、これや……。わあ、出る、出る……」
 素子の耳には、その声が異様に悲しく響いた。
 斜面をのぼりきらうとする、黒岩万五の姿は、折からの薄日の下で、小さく影のやうに見えた。
「誰かついていかんでえゝか?」
 さういふ声も素子には、聞えるか聞えないほどであつた。
 すると、ちやうど黒岩万五の足が稜線を踏んだと思ふ刹那、彼の全身は、棒杭のやうにころりと前へ倒れた。
「あツ」
 と、おほかたのものが叫んだ。
 しかし、素子は、ぢつと唇を噛みしめてゐた。
 セツ子を先頭に、五六人のものが走り出さうとした。
 ところが、セツ子を除いて、あとのものは、二三歩前へ出て、踏み止つた。黒岩万五は、また、ひよつこりと起きあがつたからである。
「アハヽヽ」と、精のない笑ひ方をするものがあつた。それは、世の常の如何なる笑ひでもなかつた。魂を奪はれた人間の、痙攣のやうな笑ひである。
 黒岩万五は、起きあがつて、またひよろひよろと歩きだした。稜線の上へ、くつきりとその影が浮び出た。そして、夕日のやうに沈んでいつた。セツ子が匐ふやうにあとを追ひかけた。
 群集は、やつとわれに返つて、ざわめき立つた。
 素子は、ふと気がつくと、足が冷い。それもその筈である。その附近一帯は、水浸しであつた。しかも、さらさらと音を立てゝ流れる清水であつた。どこへ行くあてもない新しい湧き水の、この広い草地を、たゞあちこちへ低みを求め溢れ散つてゐるのである。
「これや、成功だ。斎木さん、まづ大成功ですぞ」
 粕谷が素子のそばへ来て云つた。
 彼女は、無感動な様子で、ぢつと岩の割れ目に視線を注いだ。なるほど、さつきまではか細い岩清水の落ちてゐたあたりに、もくもくと噴きあげる泉ができてゐた。
「水量はどう? 十分ある?」
 彼女は訊ねた。
「えゝ、これだけあれば十分です。なあ、おい」
 傍らの人夫の一人に彼は賛成を求めた。人夫は「さあ」と首をひねつてゐた。
「二三軒の使ひ料にしかなるめえ」
 いつの間にか、小峯がそこへ来てゐて、横を向いたまゝ呟いた。
「二三軒の使ひ料でも結構ぢやないの。かういふのがいくつもありやいゝんでせう? 探しなさいよ、みんなで……。会社はお金を惜みはしないから……。どんどん、岩をぶつこはさうぢやないの。怪我人ぐらゐ、何時どこだつて出来るわ。いゝこと、みんな、これならといふ場所を見つけた人は百円のお礼……。掘つてみて、どつさり水が出たら、誰にでも五百円……。みんなわかつた?」
 彼女は、誰にともなく叫びながら、そして、眼にはいつぱい涙をため、ゆつくりと、もと来た道を帰つて行つた。
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 赴任早々、幾島暁太郎は、館長の高杉氏を助けて、いろいろ新しい計画を樹て、地方博物館としての独得の使命達成にあらゆる努力を傾けつゝ、同時に、彼自身の研究の完成に向つて邁進しようとしてゐた。
 高杉館長は、若々しい彼の情熱を愛した。そして、やゝもすれば夢想に近いその抱負を笑つて激励した。
「経費の許す限り、なんでもやつてみたまへ。県の補助はさう期待できないけれども、篤志家はきつとどこかにゐると思ふ。かういふ施設に金を出すといふことは、国家百年の計としてもつと奨励されてもいゝのだから……」
 幾島暁太郎は館長の言葉の裏を読んだつもりで云つた――
「時期が時期ですから、なかなか説得がむつかしいでせう。不急事業といふやつのなかへはひりますね、こいつは……」
「まあ、その口だらうな。しかし、そんなことを云へば学問の大部分がさうぢやないか。国威の宣揚といふことを考へても、国民のうちの誰かが、どんな場合にでも、科学の戦士として世界文化のレヴエルを抜く働きをつゞけてゐなければならんのぢやないか。早い話が、君、日本の植物学は、個人として偉い学者がゐるにはゐるが、全体としての研究からみれば、まだまだ幼稚なんだぜ」
「はあ、それやわかつてゐます」
と、幾島は、自分が叱られてゐるやうに苦笑した。
「いや、君はわかつてゐるだらうが、そのことを、一般国民、殊に、金持の頭に入れさせておかんといかんのだよ。例えばだ、日本全国の植物について、われわれの知識がどの程度かといふこと、これは是非、ほかの文明国との比較に於て一応国民に知つておいて貰はなけれやならんと思ふ。これこそ物心両面に於ける国民全体の協力が必要なんだから。日本人は茸を盛んに食ふ。よろしい。その茸について云つてもだ、英国本土を通じてほゞ三千種といふ数が挙げられてゐるね。ところが、日本全国ではどうだ? われわれの間では、単にその三倍、約一万種といふ推定が施されてゐるだけで、実際知られてゐる数はたかだか千二三百種に過ぎんぢやないか。さうだらう。これはどういふことだ? 日本は英国より茸の種類が多いといふだけで自慢になるかい?」
「なりません」
「ならんとも……。そこを云ふんだよ。僕らだつて、金がありさへすれば採集にでかける。一年に一つや二つ、新種の発見もする。これが君、学界の至宝と云はれる専門の大家が自腹を切らなければ採集旅行もできんといふ状態は、いつたい、日本の名誉か、これが?」
「いゝえ」
 幾島は、高杉館長の温顔には不似合とも思はれる激越な調子が出て来ると、おとなしく相槌を打つよりほかないのである。
「僕も大にやるが、君も大いにやつてくれ。どうだね、宿の飯は食へるかね? 僕のところへ昼飯だけでも食ひに来たらどうだい? あ、それから、君に頼んどくがね、二三日うちに、女学生の見物団が来る筈だから、ひとつ、よろしくやつてくれたまへ。今のところ、別に見せるほどのものはないがつて、断りを云つてね。多分、臨海研究所を見る序だらうと思ふ。まあ、それならそれでもいゝさ」

 女学生の案内はちよつと苦手だと思つたけれども、館長の命令だからしかたがない。幾島暁太郎は、館長助手の神子田みこだ初枝と相談して説明の手順を決めておいた。
「今迄、かういふ時は、誰が説明したんですか?」
「館長先生がいらつしやるときは、ご自分でなさいましたけれども、お留守の間は、あたくしが……」
「さうでせう。君、できるならやつてもらひたいなあ。僕は、動物の方は専門ぢやないんだから……」
「あら、でも、女ではやつぱり……」
「いけませんね、君がそんなこと云つちや、……ぢや、かうしませう、僕は植物の方だけやつて、君にあとを委かせます。女学生に科学的興味を吹き込むためには、女性科学者の存在といふことがひとつの大きな力ですからね」
「キユリー夫人ならさうかも知れませんけれど、まさかあたくしなんか……」
「いゝえ、君はさういふ自負をもつてゐていゝです」
「引率の先生があたくしの先輩なんかでしたら、きまりがわるいから……」
「へえ、さういふことまで考へるんですか? ところで、その女学校つていふのは、どこでしたつけ?」
「岐阜ですの。お手紙に××実科女学校つてございましたわ」
「岐阜か、ずゐぶん遠くから来るんだなあ。幾日のコースか知らないけれども、瀬戸船山村は今や天下の名所になつたわけですね」
 二人は、窓を開け放つた事務室のなかで愉快さうに笑つた。
 海は窓からいくらも離れてゐなかつた。渚に沿つて江津良の部落へ通ずる小径がついてゐるけれども、繁華な白浜の温泉街がすぐ丘のうしろにあるとは思へぬ閑静さで、「行幸記念自然科学博物館」の白い標柱が、蘆の生ひ茂つた道ばたに建つてゐるほかは、一望はるかな磯の風景がたゞ日の強い南海の特殊な趣を見せてゐるだけである。
 温泉の滞在客が、時どき、二人三人、気まぐれに建物のなかをそつとのぞいてみるぐらゐで、おほかたはこゝらから、後戻りをする。水族館とか、熱帯動植物園とかいふ名前のものがほかにあり、その方なら切符を買つてはひつてみる気になるらしい。
 幾島は、それらのものとも協同し、それらを含めた綜合博物館の建設を理想としてゐた。同じところに、同じやうなものがいくつもあつて、それぞれ不完全なまゝで重複してゐるといふことを避けねばならぬと思つた。その意味で、彼は、他の施設を熱心に見学し、当事者の方針について質し、それぞれの専門と特色を生かす連合協議会の結成を提唱した。そして、彼は、自分らの畑こそ、最も地味な、素人に興味の少い部門を引受けねばならぬと覚悟してゐた。
 毎週金曜は、高杉館長が和歌山市のある専門学校へ講義に出かける日である。館長は、二里近くの道を駅まで歩くこともあり、連絡船で田辺へ渡つて、そこから汽車に乗ることもある。
 幾島は、今朝、散歩かたがた、波止場へ寄つて館長が船に乗込むのを見送り、それから博物館へ廻らうと思つた。
 波止場にはちやうど田辺からの船がつき、甲板からどやどや乗客が降りて来る。そのなかにふと見ると、制服を着た女学生の一団がまじつてゐた。

 ――この連中かな、今日来るのは?
 と、幾島は、何気なくそれらの少女の列を見送つてゐたが、最後に引率の教師と覚しい二人のやゝ年の違つた女性の若い方が、どうやら見覚えのある顔なので、おやと眼をみはつた。そして、瞬間に彼はそれが例の大里町子に相違ないと思ひ、これはどうしたことかと首をひねつた。
 彼もまた偶然といふことに必要以上の意味をもたせようとしない男であつたけれども、この偶然には少なからず面喰つた。
 幸ひその時、高杉館長がやつて来たので、彼はすぐにそのそばへ行つて、挨拶をした。
「これはこれは、僕の見送りかい?」
 館長は大きな声で云つた。
「いや、さういふわけでもないんですが、たゞちよつと廻り道をして、船の出るところでも見ようと思つたんです。海は静からしいですね」
「うむ。君もそろそろホームシツクぢやないかい?」
 また大きな声である。あたりのものは、一斉にこつちをみた。殊に、そこで列を整へて点呼を受けてゐた女学生たちは、恐らく今の言葉を耳にはさんだからであらう、首をちゞめて笑つてゐるものがある。幾島は赭くなつて、
「先生、もうお乗りになつたらどうです」
 女学生の一隊は、二列縦隊で歩きだした。
 やがて連絡船も岸をはなれた。
 彼は海岸伝ひに陸軍療養所の裏を通つて博物館の方へ出た。
 さほど広くもない敷地ではあるが、白堊の建物を中心に、館長の設計になる紀州特産植物の植込花壇ができてゐる。彼の計画では、この規模を拡張して、完全なコレクシヨンとし、しかも自然の風致を備へた大庭園を造らうといふのである。――それには、いつか折をみて、館長に熊野への旅行をねだつてみよう。――さういふ空想に耽りながら、彼は花壇の間を歩きまはつた。
 事務所の窓へふと眼をやると、助手の神子田嬢が顕微鏡をのぞいてゐる姿が見える。彼はさつきからわざとそのことは考へまいとしてゐるけれども、やはり大里町子のことが気にかゝつた。彼がこゝにゐることをまつたく知らずにやつて来るといふ前提のもとに、彼女の驚きを想像することは、彼にとつてはもはや苦痛以上のものである。彼女が若し彼のゐどころを知つてゐるとしたなら、決してこの一行に加はる筈はないといふのが、彼の推断であつた。
 それはともかく、今日といふ日は、彼にとつて、すべてがぐらぐらと崩れるやうな日であつた。忘れよう忘れようとしてゐたことがまた頭をもたげて来て、どうしても心をおちつけることができない。大里町子のことだけならいゝが、ひいては、斎木素子の最後の印象が、まざまざと胸に浮ぶ。
 彼は自分の仕事に没頭することで、しばらく結婚といふ問題からはなれ、生活を変へることによつて、素子への妄執を断ち切らうとしてゐたのである。
 ところが、その素子にとつて代るために、何時でも何処かにひかへてゐるやうな一人の女性の「影」が、大里町子だつた。で、彼の不安といふのは、その「影」が、いま、不意に彼の身辺に迫りつゝあるといふことであつた。

 昼近くになつてやつと女学生の一団がやつて来た。
 先頭に立つた中年の男の教師は、道ばたに生徒たちを休ませて玄関の受付へ名刺を出した。受付と云つてもほかに誰もゐるわけでなく、神子田初枝が名刺を受けとり、奥へ引込んでそれを幾島に渡す。それで、教頭だといふことがわかつた。
 幾島暁太郎は上着を着て出て来る。
「やあ、お待ちしてゐました。今日は生憎、館長が不在でして……僕は、植物の方を担当してゐるもんです。今のところたいしてお目にかけるやうなものはありません。たゞご承知のやうに……」
 と云ひかけたところへ、こつちで合図をしたものだから、ぞろぞろ生徒たちが繰り込んで来た。
「では、概略の説明を伺はせていただいて……」
 と、教頭は更めて幾島に云つた。
 幾島はこの時、列の後ろに心もち顔を伏せてゐる大里町子を見た。が、それに頓着なく、たゞ少女たちの視線に射すくめられたやうに片手を頭へのせて、
「さうですね、僕もまだ来たばかりで大きなことは云へないんですが……この博物館の特色は、その名の示すやうに、第一に、行幸記念といふ国民的感情が基礎になつてゐること、第二に、自然科学といふ範囲を明瞭に限つてゐることです。そして、この二つのことは、たとへ規模が如何に小でありましても、十分、今日の時代に於て、一般世人の注意を惹くに足るものだと信じます。多分、みなさんはもう先生からお聞きになつてゐることと思ひますが、紀州といふ土地は、わが建国の歴史からみて相当重要な役割をつとめてゐると同時に、生物学の立場から云つても、興味のある資料が極めて豊富なのです。即ち、この博物館は、紀州そのもののシンボル、象徴のやうなものですが、なにしろ建物がまだできたばかりといふところですし、設備は、すべてのシンボルのやうに、簡単です。それではどうぞ……」
 この最後の洒落は誰にもわからなかつたか、別に反響はなかつた。彼はちよつとくさつて、くるりと向うをむいた。やがて、彼のあとに続いて、一同は建物のなかにはひつた。
 階下の陳列室をひと通り案内して、二階にあがらうとした時、大里町子がはじめて彼に会釈をして、
「あたくし、びつくりしましたわ、先生がこゝにいらつしやるなんて、ちつとも存じませんでしたから……」
 彼はそれに対して応へた――
「僕も意外でした。さつき船着場でちよつとお見かけしたんですが……」
 すると、彼女は、眼を伏せて、
「はあ、あたくしも……」
 と、低く云つた。
 彼はそのまゝ、また案内をつゞけた。平気を装へば装ふほど、ぎごちなくなるやうに思つた。大里町子の視線はそれ以来、ちらちらと彼の視線にからみつく。

 二階には「行幸記念室」といふ室があつて、最近天覧に供した標本類が陳列してある。
 生徒たちは、つぎつぎに頭をさげてこの部屋にはひり、専門の知識はないけれども幾島の説明に美しい瞳をかがやかし、満足げにまた頭をさげて出て行つた。
 と、一番後まで残つた大里町子は、標本の二つ三つについて幾島に質問をした。彼は知つてゐるだけのことを答へた。彼は、それが質問のための質問でなく、可なり突つ込んだ、しかも場所がらに応はしい質問だつたので、すつかり感心した。そして、そのために一切のこだはりも消えた風で、快活に余分なことまで喋つた。
「へえ、あなたは南方みなかたさんの書かれたものまで読んでらつしやるんですか。なかなか篤学の士だな」
 すると、大里町子は首をちゞめて笑つた。
「あら、士はをかしいですわ」
「士はをかしいか。ぢや、なんです? でも、女博士つていふぢやありませんか」
 二人がそんな戯談を云ひながら階段を降りて来ると、そこに待つてゐた教師や生徒たちは一斉にそつちを見上げた。
「拝見するのは、もうこれくらゐでせうか?」
 と、教頭が幾島に訊ねた。
「えゝ標本としてはまあこんなもんですが、あとは外へ出て、花壇をひとつ……」
「それも結構ですが、実は、生徒たちにまだ食事をさせてをりませんので、どこかお邪魔にならんところで弁当をつかはせていただきたいのですが……」
「あ、さうですか。それぢや……」
 と、幾島は、神子田初枝にその世話を頼み、生徒たちが思ひ思ひに坐る場所を作つてゐるのを珍しさうに眺めてゐた。
 三人の教師のためにベンチが運ばれたけれども、教頭だけがそれに腰かけ、他の女教師二人は生徒たちの仲間入りをした。みんなくたくたに疲れてゐる様子であつた。しかし、大里町子は、元気一ぱいな声で生徒たちに話しかけ、いろいろな注意を与へてゐた。
「いま、こちらでお茶をくださるさうですから、みなさん、ゆつくり召しあがれ。だれです、そんなところへ寝ころがるのは? 気分がわるいんなら、さうおつしやいよ」
 それに対する生徒たちの応酬は、華やかで親しみのあふれたものであつた。
 幾島は教頭からこの修学旅行の日程や、女生徒の扱ひにくさについてくどくど聞かされ、大里町子をどうして識つてゐるのかと、それとなく問ひかけられた。
 彼が友達の家で一度会つたことがあるのだと答へると、今度は教頭は彼女が学校きつての人望家であることを得意に述べたてながら、竹の皮包みの弁当を堂々と彼の眼の前にひろげた。
 すると、ちやうどその時、すぐそばの電話のある家から、幾島に呼出がかゝつてゐると云つて呼びに来た。
「館長からですか?」
 彼は使ひの者に訊ねた。
「いゝえ、白良しらら荘のお客さんからださうです」

「あたしよ、おわかりになる?」
 電話の声はたしかに斎木素子であつた。彼は夢中で答へた――
「なにしにいらしつたんです、こゝへ?」
 すると、相手は、ちよつと間をおいて、
「いま、お忙しい?」
「えゝ、昼間は勤務がありますから」
 と、彼は油断を見せまいとした。
「いえ、別に用はないんだけど、大阪まで来た序に故郷くにへ寄つてみる気になつたの。……昨日は田辺の親類へ泊つたわ。でも、こゝまで来て、あなたに声をかけないで帰る法はないと思つて……」
「それやどうも……。僕は元気でやつてゐます。あなたもずつと、あそこで活躍ですか?」
 彼女の笑ひ声がした。
「活躍でもないけど、まあ、あなたの精神を体してつていふわけ……。それ、ほんとよ。今年の夏でも、山へ来てごらんになるとわかるわ」
 幾島にはその言葉の意味がはつきりわからなかつたけれども、
「まあ、しつかりやつて下さい」
 と、曖昧に、しかし調子だけは快活に云つた。すると、彼女は、急に、あらたまつて、
「それぢや、やつぱり、お会ひしないでおきませうね。なんだかその方がよささうだから……」
 あとのひと言には思ひ切れぬといふ余情が籠つてゐた。
 彼は、胸苦しさに喘ぎながら、受話機から口をはなした。
「もし、もし……聞えて?」
 まつはるやうに、彼女の声が追つて来る。
「えゝ、聞えます。僕も実はいま、さう思つてゐたところなんです。折角ですけれどさうしてください。僕をもう少しうつちやつといてください。まだ駄目ですよ、これぢや……」
 強ひて突つぱなすやうに声を弾ませるのだけれども、自分ながら、憫みを乞ふやうな情ない調子になるのがわかる。
「それぢや……ご機嫌よう」
 と、彼女は静かに云ふ。
「あゝ、それぢや、さよなら……」
 と、彼も取つてつけたやうに云つた。
 咽にいつぱい物のつかへた気持で、眼がひとりでにすわつてゐた。彼は、やけに髪の毛を掻きむしりながら、すたすたと帰りの道を急いだ。
 女学生たちは弁当をあらかたもう済まして、なかには三々五々、磯の波打際を歩いてゐるものもあつた。
 彼の姿をみかけると、教頭は大声で、生徒に遠くへ行くなと注意した。彼は昼飯を宿へ食ひに帰ることにしてゐるけれども、今日はさういふわけにも行くまいと思ひ、空腹を我慢してゐた。しかし、かうしてゐる間、いつたい自分はどこにゐたらいゝのか? 事務室へはひつてみたり、玄関先へ出てみたり、しまひには眼のやり場にさへ困るやうな始末であつた。
 と、階下の陳列室で、コトコトといふ跫音が聞えた。神子田初枝が見廻りをしてゐるのかと思ひ、ふとそつちをのぞきに行くと、奥の陳列棚の前でぢつとウツボの標本に見入つてゐる大里町子の姿を発見した。
 彼女は後ろを振り向いた。が、軽く会釈をしたまゝ、再び彼に背を向けてしまつた。
 彼は、咄嗟に、思ひ切つて彼女の方へ進み寄つた。

 幾島の近づく気配に、大里町子は、はツとした風であつた。そして、彼が言葉をかける前に、彼女はもうこつちへ正面を切つて、なにか身構へるやうに、ぢつと彼の顔を見つめた。
「かういふところでどうかと思ひますが、いゝ機会ですから、ひと言、云はせてください……」
 彼も、相手の表情が見る見る硬ばるのを気がつかぬわけではなかつた。しかし、もう後へは退けぬ。
「安藤君を通じて、あなたのことは詳しく伺つてゐます。僕の気持がどういふ風にあなたに伝へられてゐるかは知りません。たゞ、あの時はあゝいふ風にしか云へなかつたんです……」
 そこまで云ふと、大里町子はさつとひと足後ろへさがつた。彼女はそれでも、決して眼を伏せようとはせず、却つて、その張りのある瞼が一層大きく見開かれて、驚きと警戒の色をはつきり示してゐた。
 彼は、それにつれて一歩前へ出た。すると、彼女もまた一歩、後すざりをする。
「突然で、失礼なことはわかつてゐます。しかし、僕は、今日、是非ともこれだけのことをあなたに聴いていただきたいんです。あなたこそ、僕がほんたうに求めてゐる方に違ひないことです。たゞ、現在の僕には、まだそれを公然と云ふ資格がないんです。いつかきつとさういふ時が来ます。もう少しです。待つてゐてください。今日、僕にそれだけを誓はしてください……」
 さう云ひながら、彼は、思はず彼女の方へ詰め寄つてゐた。が、彼女は、まつたく、それらの言葉が耳にはひらぬやうに、たゞ、空ろな視線を彼の上に投げかけながら、ぢりぢり彼から遠ざかつて行つた。
「もう、かういふことを云つても遅いでせうか……」
 彼は、やつとわれに返つたやうに、大きな息をついた。すると、彼女は、これもほつとしたやうに、瞬きをひとつして、かう云つた――
「なにもかも済んだことですわ。さうおつしやつてくだすつても、あたくし……急にお返事なんかできませんわ」
 彼は、かぶせるやうに、また、云つた――
「いや、いや、返事をどうかうといふんぢやありません。僕はたゞ自分の……」
 と、その言葉が終らないうちに、外で、教頭の「集れ」といふ号令が聞えた。
「このお話はどうかこれつきりにあそばして……。では……」
 腰をかゞめると同時に、大里町子は、弾機バネ仕掛のやうに、そこから飛んで、姿を消した。
 生徒たちにそれほど興味がなささうだとわかると、ひとつびとつの花壇の説明も、勢ひ形式的になつた。幾島は、最後に手についた土をはたきながら、大きな声で云つた――
「これで、ひと通りすみました。十年もたつたらもう一度来て見てください。もつと面白いものがあるかも知れません。或はこのまゝでも、もつと面白いとお思ひになるかも知れません」
 みんながドツと笑つた。彼は、不意を喰つたやうに、ちよつと照れて、
「しかし、とにかく、こんな遠いところへ、わざわざよく来てくださいました。館長に代つてお礼を申します」
「や、どうも……いろいろありがたうございました。たいへん有益な見学をさせていただきまして、一同この上もなく満足いたしてをります」
 教頭が顔をさげると、みんながそれに倣つた。が、その時、生徒の一人が、少しはなれたところでカメラをこつちへ向け、
「先生がた、ご一緒にどうぞ真ん中へ……」

 幾島のそばに二人の教師は並んで立つたけれども大里町子の姿が見えない。すると生徒の一人が、
「あら、大里先生、そんなところでずるいわ」
 と、云つた。後ろの方で、
「いゝのよ、こゝで……」
 と、彼女は頑張つた。
「だめよ、だめよ」
 大勢の生徒が同時に叫んだ。恰幅のいゝ年嵩らしいのが、町子の背中を押して前へ突きだした。それでまた、みんながドツと笑つた。
 大里町子は、もう尻ごみはしなかつた。すばやく左右をふり返り、心もち唇をすぼめて、きちんと両脚をそろへた。彼女は幾島のすぐ右隣りにゐた。
 写真は手間がかゝつた。
 幾島はさうしてゐるうちにも、町子の呼吸づかひをひとつひとつ感じ、ぢつとなにかを堪へ忍ぶやうな力の圧縮をそこにみると、さつき自分のとつた態度がいかに軽率で、その結果がまたいかに惨めなものであつたかを顧みた。
「ちよつと、また笑ふの?」
 と、もう一人の女教師が突然、カメラの方へ声をかけた。
「どうぞご自由に……」
 誰かゞ、どこかで応へた。吹きだすものがあつた。それを合図に記念撮影は終つた。
 一行はこれからバスで駅に向ひ、汽車で南へ降り、新宮へ一泊といふ予定らしい。
 もう一度、別れの挨拶。大里町子は、さすがに幾島の顔を見ようとはしなかつた。しかし、生徒らが隊伍を組んでいよいよ出発する時、彼は、玄関の前に立つて、
「さよなら」
 と云つた。特に大里町子にそれを云つたつもりであつた。
 乾いた道に、うつすらと埃が舞つた。列のなかで、うしろを振り向き手を振つてみせる生徒が二三人あつた。
 彼はそこへ出て来てゐる神子田初枝に、
「女学生にもなかなか勇敢なのがゐるなあ」
 と、感慨をこめて云つた。
「あんなに丁寧な説明をなさるんですもの。前代未聞ですわ」
 神子田初枝は、冷やかし半分に云ふ。
「さうですか、丁寧すぎましたか。知つてることをみんな云つちやつたんだからなあ」
 と、彼は、いまいましさうに苦笑しながら事務室へ引つこんだ。
 その晩、彼は早目に下宿へ帰つた。
 素子がいま、白浜へ来てゐるといふこと、会ひたければ何時でも会へるといふことは、彼の決意の度を試すものであつたが、さつき電話口で、咄嗟にその決意の動かしがたいことを証明したわけだから、もうこれで彼自身、自分を信用していゝと思ひこんだのである。しかし、さう思つた瞬間、彼の眼の前に、大里町子の姿が、これまでになく鮮かに浮びあがつた。これはもうただの「影」ではなかつた。色と匂ひをもつ女性の全貌である。それは素子のやうに多面的な、ありとあらゆる美しさを身につけたやうなものではないけれども、自然な、それひとつだけで十分だと思はれる単純な魅力がそこにあつた。しかも、たゞ、それのみではない。彼が素子に求めて得なかつた「一途なもの」を、この町子になら求め得る証拠をつかんでゐるのである。なにを躊躇することがあらう!
 彼は突進した。そして、躓いたのである。

 どこに誤算があつたかといふことは、それから四五日して彼の手許に届いた大里町子からの手紙によつて明らかにされた。
 ――いくども考へなほしましたすゑ、やはり申しあげることだけは申しあげないと気がすみませんので、一筆かんたんにしたためます。およそ待ちまうけないことゝ云つて、あそこであなた様にお目にかゝらうとは、まつたく存じよりもいたしませんでした。とんだ失礼を申しあげました。
 安藤弥生様から最初ご主人とあなた様とがお友達でいらつしやることを承り、私も蔭ながらあなた様を存じあげてゐるよしお話いたしましたところ、いろいろと印象など聞かれ、私、率直に思つたとほりを答へますと、それではといふので、ご夫婦がたいへん力をお入れになり、あんなお話になつたのでございました。さういふ場合、私として、なにができませう。漠然とした希望に、お恥しながら胸ををどらせたとしても、それはしかたがございません。あなた様は、もう理想の男性として、私の夢のなかに生きていらつしやるのですもの。ところが、幾月待つても、希望は近づいて参りませんでした。そればかりか、ある日、その希望が近づいたと見えたとたん、ふつつりと、それはあとかたもなく消えてしまひました。あなた様は、私の方を振り向いてもごらんにならないことがわかつたからでございます。おまけに、私はなんといふ迂闊ものでしたらう! あなた様の周囲に、私など物の数でもないやうなたくさんの美しい方々がいらつしやる筈だといふことを、つい忘れてをりました。かういふ無躾な物の言ひ方をおゆるし下さいませ。弥生様からひと言、さういふ風な消息を聞かされましたとき、私は、カツゼンと眼をさましました。誰を恨みもいたしませんでした。たゞ、自分はかうしてゐてはいけないぞと、無我夢中で起ちあがりました。幸ひ、ごらんの通りの仕事も私を待つてゐてくれたのでございます。
 私は、今、申分なくほがらかな気持で、人並の生甲斐を感じてをります。
 もちろんそれ以来、あなた様は私の心に生き生きと描かれてゐたあなた様ではなくなりました。ですから、先日、あゝいふ風にしてお目にかゝつても、私は、もうずゐぶんあなた様からは遠いところにゐるといふ気がいたしました。
浪よする白良の浜のからす貝ひろひやすくもおもほゆるかな
 御地で求めました案内記に、これは西行の歌としてのつてをりましたのですが、あなた様から不意にあんなお言葉をうかがひ、ふと、拾ひやすいからす貝とは、あなた様からごらんになつた私のやうな気がいたしました。若しさうでしたら、私、こんな悲しいことはございません。

 幾島暁太郎はこの手紙を読みながらいろいろなことを考へた。先づ彼女をどういふ風にして識つたかといふことについて、安藤夫妻のいかにも含みのない紹介のしかたを想ひ出さぬわけにいかなかつた。しかし、なによりもそれをそのまゝ受け取つた彼自身の単純な思ひあがり方に気がついた。なるほど、西行の歌とやらをひいて、純潔な女の憤りに似た気持を伝へようとする心理には、彼とてもまんざら同感できなくはないのである。
 そこで、彼は次のやうな返事を認めた――
 お手紙、多大の興味と感動とをもつて拝読いたしました。つらつら考へますと、小生は過去半年の間に、大きな過失を二つ冒しました。そのひとつは、あなたをもつと早く識らうとしなかつたことです。もうひとつは、これは前者の理由にもなるのですが、いはゆる小生として柄にない相手を夢中で追ひまはしてゐたといふことです。しかし、こゝではつきり申上げておきますが、その相手は、小生を単に翻弄するためにはあまりに善良でかつ聡明な女性でありました。「愛し合ふことの不幸」を、同時に双方が感じ、期せずして二人は遠ざかつたのです。かういふ結果は、第三者に首肯できるかどうかわかりませんが、事実は飽くまでも事実だといふことを信じていただきたいのです。それでなければ、小生の、あの場合の真意は決してわかつていただけますまい。浪よする白良の浜の一句は、小生は寡聞にしてはじめて知つたのですが、あなたと「からす貝」とはなんの関係がありませう! 西行の歌の解釈を問題にしてゐるのではありません。あなたが小生の言動をそこまで曲解されてゐるのを遺憾に思ふだけです。しかし、理窟はなんとでもつくものです。まして、先入観といふものはおそろしい力をもつて、われわれの判断を支配しますから、あなたの自尊心が小生の不用意極まる告白に反撥したとしたら、それはむしろ当然なことです。そして、そのことが一層、あなたに対する小生の敬慕の念を深めるのですから、これはぜんたいどうなりませう?
 小生は、いま、自分の生活と仕事とを地道に築きあげようとしてゐるのですが、さういふことと強ひて結びつけなくとも、あなたの存在は、小生にとつて、特別なひとつの光体だといふ気がするのです。なぜなら、かうしてあなたのお手紙を前にひろげてゐるといふだけで、小生の胸の底に、なにかしら、未だ嘗て知らない新鮮な力のやうなものが湧きあがつて来るからです。
 実を云ふと、ある点ではまことに困つた見栄坊の小生に、こんな文句をさへ綴る勇気を与へたのは、つまり、あなたのあなたである所以だと、僕は心から感謝してゐるのです。

 この手紙には、直接なんの反響もなかつた。そして、五月が過ぎ、六月が過ぎた。
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 文華土地株式会社の社長室である。専務の高野はさつきから田沢社長の云ふことを黙つて聴いてゐた。
「それや君に限つて公私混同といふことは考へられないさ。またかういふ性質の事業として、多少それに類することは、問題になりはせん。たゞ、さつきから云ふとほり、関西方面での風評だな、これをなんとかして貰はんと困るよ、君。おそらく、君にしてみれや、社員の一人や二人、勝手に随行を命じる権利があり、それが男だらうと女だらうと、必要に応じて適任者を選ぶんだといふかも知れん。尤もだとも……。僕は、それで一向差支ないと思ふ。但し原則としてはだよ、こいつは。ところがだ、あの斎木なる女性の場合は、ちよつと、その原則にあてはまらんところがある。これは、こゝだけの話だが、公平にみて、君も異論はあるまい。なぜかと云ふと、あの女には鞄を持たせるわけにいかん。銀行の貸付でねばるといふ芸当もどうかと思ふ。それだけならいゝが、同じ自動車で宿屋へ乗込んでみたまへ。わつはゝゝ。そんなへまはやるまいけれども、これや、君、重役が供の社員を連れて商用に来たといふ図かね。失敬、君にそんなことがあつたと云ふんぢやない。大阪からすぐ和歌山方面へ視察に出したことは聞いとるよ。帰りの汽車も別々だつたつてね。注意周到でよろしいが、それをまた却つて、臭いといふ奴がゐる。いや、なに、君の人物と手腕には僕が第一惚れ込んでゐるんだから、社員の誰彼を君がどう扱はうと、またどう料理しようと、そんなことは、まあ、見て見んふりをするよ。しかし、くどいやうだが、あの女性だけは、ひとつ、僕の高等人事に委せて貰へんかね? 君は最初、あまりいゝ顔をしとらんかつたぢやないか? しかし、僕の眼鏡はどうぢやね? 大所高所に立つて、あの人物の利用法を考へてくれたまへ。平気だらう、あの女は、男と一緒に歩くぐらゐ……。実に、徹底しとる。そのくせ、決して、その男のなにかといふことは分らせん。金輪際、見当がつかんと云ふね、誰でも……。立花伯爵とは、あの通り始終一緒に何処へでも行くだらう? 面白いね、伯爵の方の手加減もあるが、あれを秘書だと云ひあてた奴は一人もない。それやどんな想像でも働かせるが、その想像に誰一人自信をもたぬといふ、まつたく例外に属する女性の一人でね、僕はつくづく思ふんだが、どうして、今の日本にあんな女ができあがつたかと不思議でもあり、また、興味津々でもあるよ。あゝ僕一人で喋つたが、今のことは気にしないでくれたまへ。むろん、僕からあの女に余計なことは云はせん。えゝと、あとなにか聞いておくことあるかな」
 田沢がこゝでやつと口を噤むと、専務の高野は頬杖をついたまゝ、横眼で田沢をちらつと見た。
「いや、私の方からは別に……」

 この二人の組合せははたで見るほど危つかしくはないのである。高野専務は二十年来田沢の乾分こぶんとして働き、今日の地位を築いたのであるから、十分「親爺おやぢ」の気心を呑み込み、その言説の当不当を真正面からあげつらふやうなことはしない。その代り「親爺」の方では、近頃だんだん乾分の扱ひにくさを感じて来たといふ風で、言ひたいことを半分云ふと、あとは余計なご機嫌とりで、結局、なにも云はないのと同じことになるのである。
 高野専務は、大阪をはじめ関西各地の事業関係者に素子を社員として紹介しておいたことが、もう既に覿面の効果を表はして来てゐるので、今の社長の注意などはそれこそ公私混同の甚だしいものだと考へてゐた。
「あ、これや別の話ですが、例の泰平郷の内規にあります自治委員会といふのを、この夏は是非開かにやならんといふんですが、社長ひとつ、会社を代表して出席していただけますかな?」
 高野は突然さう云つた。
「僕がかい? あゝ、それや、出てもいゝが、委員会の方は、もう誰か世話を焼きだしとるのかな?」
 田沢は訊ねた。
「はあ、それが急にこの春あたりから動きだしたらしいです。なんでも、地元との微妙な脈絡もあると聞いてゐますが、そんなことはかまはんと、私は云つとるんです。水源の懸賞踏査も、只今では少し熱がさめたやうですが、結局あれで部落民の感情は軟化したかたちです。僅か十町歩足らずの水田が将来また問題の種を蒔くと云ふんなら、この際、山ぐるみ買つてしまつてもいゝと思つて、内々、調べさせてはゐます。それから、これはもう、お耳にはひつてゐると思ひますが、立花伯の旧別荘の利用価値は満点です。統計をお目にかけますが、最近二ヶ月の宿泊人員一日平均九・二五。子供を半人と計算してあります。そのうち現地に於て即座に契約を了したるもの、一・六三。一ヶ月以内に契約をなしたるもの、〇・七七……」
「この九・二五といふのは、夫婦連れも入れてだね?」
「人数の平均ですから、むろんさうです。こゝに家族数になほしたものが出てゐます。えゝと、四・三七ですか」
「ふむ……さうすると、一日四・三七家族のうち、殆ど二・五以上を直接引つ張り込んどる割合ぢやな。いくたりぐらゐ泊れるかい?」
「えゝと、今、ベツドだけぢや間に合はんとふんで畳の部屋もこさへたらしいんですが、二十人は楽らしいです」
「へゝゝゝゝゝ、温泉がほしいのう」
 田沢社長は眼を細くした。
 と、その時、ドアをノツクする音。高野が代りに「おい」と返事をすると、斎木素子が、すつと、肩を斜にしてはひつて来た。
「あら、只今お邪魔ぢやございません?」

「あ、僕に用かい?」
 と、田沢は鷹揚にそつちへ廻転椅子を向ける。
「いゝえ、急ぎませんのです。では後ほどまた……」
 高野がそれを制して、
「こつちの話はもうすんだんだ。さあどうぞ……」
 さう云ひながら、彼女の脇を通つて出て行つた。
 田沢は満足げに、空いた椅子を頤で指し、
「社ではなかなかゆつくり話ができん。どうだね、今夜、どこかで飯を食はうか?」
「いゝえ、ほんのちよつとしたことでございますから……」
「ほんのちよつとしたことだつて、話はさう簡単にいかん場合もあるぜ。はつは、はつは……」
 田沢は上機嫌である。素子は今日までこの男を曲者だと思つてはゐたけれども、それはたゞ漠然とした世間の通念がさう思はせるだけで、実際はこれと云つて、曲者の本領を発揮したこともなく、寧ろ、彼女に接する面だけでは、小心翼々、ひたすら不徳漢の名を懼れる一個の立志伝中の人物に過ぎなかつた。
「実はあたくし、せんだつて専務のお供をして関西へ参りましたとき、お暇をいただいて郷里へ寄つて参りましたの。そのとき、最近パラグアイから帰つた父の旧い友達なんかにも会つて、いろいろ話を聞いてをりますうちに、ふつと、自分の一番性に合つた土地つていふのは、どこでもない、そこなんだつていふ気がいたしましたの。それで、もう、あたくし、矢も楯もたまらないくらゐ、あちらへ行つてみたうございますの。まあ、こんな勝手な理由で、まことに申しあげにくいんでございますけれども、今月限り、こちらはお暇をいただきたいと存じまして……」
 ポカンと口を開けて田沢は聴いてゐた。がさもその手には乗らぬといふ風に、
「へえ、あんたがパラグアイへでかけて行くと、どうなるつていふのかね? 日本にゐて好きなことができるぢやないか、あんたなら? なにもわざわざ……」
「いゝえ、ところが、好きなことなんぞなんにもできませんわ、今までみたいな風ですと……。自分で、なにがしたいのか、それさへはつきりわからないつていふのが、正直なところ、一番情けなうございますわ。あたくしやつぱり、移民の娘らしく、珈琲畑を馬車で乗り廻すのが一番しつくりするつていふことがわかりましたの」
 さう云つて、彼女は、眉を引きあげるやうにして大きく微笑んだ。言葉つきほど淋しさうでもなかつた。
 田沢は、どうしてもこのだしぬけの「暇をくれ」には合点がいかなかつた。
「ねえ、僕だけにほんとを云ひたまへ。この会社にゐにくゝなつたのは、あの専務の高野先生がござるからだらう。え? ちがふかい?」
「専務さんがつて、どうしてでございますの?」
「いや、その、どうしてかは君の胸にあるわけだ。僕は是非聴かなくてもいゝが、聴いても喋るやうなことは決してせん。今度の旅行で、君は懲りるやうな目に会つたんぢやらう?」
 田沢は、気味わるく顔を近づけて来る。
「いゝえ、そんなことございません。専務さんは立派な紳士でいらつしやいますわ」
 彼女は、さう云つて、部屋の中を二三歩歩いた。

「僕も君のことではいろいろと考へてみとるんだが、会社の仕事が面白くないといふんなら、これやどうも無理にと云ふわけにもいくまい。どうだね、そのパラグアイとかへ出かけるかはりに、ひとつ満洲へ乗出して、新規な商売をはじめてみる気はないかね? これは此処だけの話だが、僕個人の名義で、新京へ今度土地を買つてね、これをひとつアミユーズメント・センターにしようと目論んどるんだがね。ホテル、ダンスホール、映画館、レストラン、できればナイトクラブ式な社交場、といふ風なものを網羅して……」
 田沢が夢中で喋つてゐる間、素子は、さつきから怪しくなつて来た空模様を、ぢつと窓に顔を寄せて眺めてゐた。と、一群の伝書鳩が、さつとかすめたと思ふと、大粒の雨がぱらぱらと窓硝子に当つた。
「あら、あら、大変なお天気になりさうですわ」
 彼女は、さう云ひながら窓をひとつひとつ閉めた。
「君がもうちつとくだけると、早速、ナイトクラブの経営なんてものを委してみたいんだが、少々その、方面では融通の利かんお嬢さんでな、これが……」
 さう云ひながら、彼は、首を縮める真似をした。素子は、それよりも、稲妻の鋭い閃光に見入り、遠雷の断続する音に耳を澄ましてゐた。そして明日は最後の現地案内に、うまく天気が恢復してくれゝばよいがと気が気でなかつた。で、話を早く切り上げるために、思ひ出したやうにかう云つた――
「折角でございますけれども、あたくし、さういふ風なことにはまつたく興味ございませんわ。それより、社長こそ、お金儲けはいゝ加減にあそばして、移民事業にひと肌おぬぎになりません?」
「うむ、それやほんとだね。もう少し纏つた金でも出来たらさうするよ。今だつて、君、土地会社つていふもんは、半分は道楽だよ。泰平郷を見給へ、最近の景気は、これやどうかしとるが、もともと、算盤に合ふ仕事ぢやないんだ」
「あんなことおつしやつて……。あれは、時代の要求に投じた名プランでございますわ。みすみす会社に儲けさせるんだといふことがわかつてゐながら、あゝいふ条件でなければ別荘が建たないといふ階級の弱味につけ込んだ、ほんとに憎らしいやり方ですのに、やつぱり、それで満足し、生活に何か豊かさと弾みみたいなもんを与へられてゐる人達の幸福を考へますと、あたくし、商売つていふものはやつぱりこれでいゝのか知らと、ついへんな気持になつてしまひますの……」
 雨はいよいよ激しく窓を打つた。すさまじい雷鳴が時々ビルデイングをふるはせた。まだ日暮れには間のあるこの時間に、部屋の中は、明りなしではお互の顔もはつきり見えぬくらゐであつた。
「電気おつけいたしませうか」
 と、素子が腰をあげようとすると、
「いや、いや、この方がいゝ。あんまりはつきり君の顔が見えると、どうも話がしにくいよ。実は、もう、半分愛想をつかされてゐるかも知れんが、僕といふ人間を、君はいつたいどう見とるかね?」
 それこそ、藪から棒の問であつた。

「さあ、どうつて、別になかなか活動家でいらつしやるやうにお見うけいたしますわ」
 笑ひながら、彼女は答へた。
「なるほど、活動家か。謙遜なしに云へば、それに違ひないが、その活動家なるものにとつて、なにか一番必要だと思ふね?」
「それや、お仕事以外にございますまい」
「うむ、仕事自体面白いには面白いが、しかし、それ以外にわき目もふらんといふのは、ちと、人間ばなれがしとる。僕のこれや持論だがね、活動家の最後の目標は、天下の美女をわが物にするといふことだ。俗に英雄なんとやらと云ふが、英雄などといふもんは、これ活動家に毛の生えたやうなもんでね。ところで、僕も、これまで、金で自由になる女はいくたりとなくそばへ置いてみた。が、どうも、さういふ女の頭の貧弱さには、我慢がならんのでね。なんとか、僕も、まだ活動力の旺盛なうちにだ、才色兼備といふ女性の知遇を得たいと念じとるわけだ。君は決して、金力や権力に屈するやうなひとではないと見込をつけて、敢て僕の希望を申出るんだが、どうだらう、完全に自由な立場でだな、僕と特別な交際を結んでくれる気はないかしらん?」
 彼女は、そつと起つて行つて、この時電燈のスヰツチを入れた。田沢の尤もらしい顔が煌々たる光りを浴びて一つ時、間が抜けて見えた。しかし、彼は怯まずに言葉を続けた。
「立花伯爵の君に対する心遣ひを、僕はよく知つてゐた。なるほど、あゝなくちやならんと、かねがね感服しとつたんだが、僕は、平民ぢやあるけれども、女性に対するエチケツトといふ点では、多少自ら悟るところもあるし、君に肩身の狭い思ひをさせるやうなことは絶対にないことを約束するよ。伯爵の死因について、人はかれこれと詮議をするが、僕はかうみとる――伯爵はやつぱり君に負けたのだ。え、さうぢやないか? 君とは第一その生活力に於て、てんで太刀打ができなんだのだ。伯爵は、なんといふか、君を完全に愛するために、死を選ぶよりしかたがなかつた、といふことは云へんかね? 君は、やれ、日本はいやだ、パラグアイならいゝなどと平気な顔をして云つとるが、それはつまり、君には、なんかしら、あり余つたものがあるからだ。普通の結婚生活ではむろんそのはけ口がない。職業婦人と云つたところで、からだと頭とを存分に使つて、しかも、君に女としての矜りとよろこびを与へる仕事なんぞ、ありつこないのだ。いゝかね、君は、それで、恋愛ができんのぢやらう? 僕はさう睨んどる。相手がをらんよ、相手が……なぜかといふと……それやまあ、君にわざわざ説明するまでもあるまい」
 素子はだんだん相手の言葉に惹き入れられるやうに、ぢつと眼をすゑてゐた。
 田沢は膝を乗り出すやうにして、
「僕は君になんにも義務を負はしやせん。たゞ、会ひたい時に会へればそれでよろしい。新京に君の気に入つた家を一軒建てよう。東京へ遊びに来たければ、飛行機でその日に来られるからね。無条件で月千円の生活費を出さう。まあ、ひとつ考へておいてくれたまへ。だが、この会社をやめるといふことは、これや、専務にも正式に云つとくといゝな」
「はあ、それはいづれ……では、只今のお話は伺つとくだけでよろしいんでございませう?」
 素子が部屋を出ようとするとき、田沢は云つた――
「もう帰る時間だらう。僕の車で送つてあげよう。下で待つてるよ」

 素子が社長室を出て自分の席へ戻ると、もう部長の辻をはじめ、同僚たちはデスクの上を片づけながら雑談をしてゐた。
「この天気ぢや明日は無理ですね」
 辻が云つた。
「えゝ、でも、朝になつて霽れるかもしれませんわ。あたくしはどうせお昼の汽車ですから、ともかく一旦、こちらへ寄つてみますわ。駅へはどなたが行つてくださるの?」
「僕がずつと向うまで行くことになつてるんですか、日帰りは辛いですよ。一泊つていふことにして貰へないかなあ」
 若い社員の一人が、素子と部長との顔を見比べて悲鳴をあげた。
「ほんとは汽車へ乗せてしまへばいゝんだね。あとは、高崎まで現地から人を出しとけばすむんだから……」
 辻が無雑作に云ふと、
「あ、いけねえ、藪蛇だ。そんなら、日帰りでもいゝですよ」
 で、みんなが笑つてゐる間に、素子は、帰る支度をして、
「ぢや、お先へ……」
 ビルデイングの表口で傘をひろげようとすると、田沢の運転手が走つて来て、彼女を車の方へ案内した。
 田沢は車のなかで、ぽつねんと待つてゐた。
「おそれいります」
 彼女は躊躇せずにその隣りへ腰をおろした。
「このまゝ家まで送つてもいゝけれども、どうです、差支なかつたら、夕飯でも一緒につきあつてくれちや?」
 その田沢の誘ひ方にちよつとした可笑味をかしみを感じて、素子は笑ひにほころびる口を外套の襟にかくした。
「おい、ちよつと待て! 瓢亭だ」
 赤坂溜池を目指して車は走つた。
 小ざつぱりした日本間の床を背にして、二人はなんともつかぬかたちで坐つたが、田沢は見る目も気の毒なほど気をつかひ、女中の一人一人に、「これはわしの大事なお客さんだからね」とか、「わしの娘にしちや綺麗すぎるだらう」とか、いらぬ口数を利いて、それとなく弁明これ努めるといふ風であつた。
 素子は最初、これが待合といふのではあるまいかと思つたけれども、さうらしくもない様子がだんだんわかり、田沢から京都料理の講釈等聞いてゐるうちに、すつかり寛いだ気持になつた。箸を動かしながら、彼女は盛んにお喋りをした。
「まだ詳しくお話しはしてをりませんけれども、あたくしの父が濠洲を引あげてパラグアイに参りました時分は、まだ日本人は一人もはひつてをりませんし、ずゐぶん苦労したさうでございますわ。なにしろ、仲間を呼ばうにも、手紙が出せないつていふ情ない状態で、やつとブラジルのトレスバラスつていふところへ出て、そこの日本人部落から一人二人引張つて行つて珈琲の栽培をはじめましたんですつて。その間、母は上の姉一人抱へて、濠洲で待つてゐたらしうございますわ。今度田辺で会ひました父の友達つて申しますのが、そのトレスバラスから引つ張つて行つた仲間の一人で、父が一家を纏めて日本へ帰つて参りました後を、すつかり引受けてやつてゐるらしいんですの」
 話の間、田沢は、時々、手酌で盃を満しては、飲み飲みしてゐた。
「ふむ、それで、その人にくつついて行かうつていふわけか、君が?」
「いゝえ、その人はもう隠居ですわ。息子がもう一人前になつたものですから、今度お嫁を探しかたがた郷里へ帰つて来たつていふわけなんですの」

「それやまあいゝが、その息子さんの嫁にまさか、君はどうかといふ話ぢやあるまい?」
 田沢はとぼけて、訊ねた。彼女も吹き出すやうに笑つて、
「いくら植民地でも、あたくしぢやもう花嫁の資格はなささうですわ。それに、候補者はいくらだつてありさうですし……。カウボーイのやうに逞しい青年ですもの。ですから、あたくしは、そんなことと関係なく、ぼんやり行つてみたいんですの。さきほどのお言葉のやうに、あたくしには、なにかしら余計なものがあるんですかしら。それとも、欠けたところつて云つた方がいゝかもしれませんけれど、とにかく、そのために、あたり前の女の生活がどうしてもできないんぢやないかと、近頃つくづくさう思ひますの。早く云へば、日本の風土に適しない性質を生れつきもつてゐるんですわ」
 そこで、彼女は、はじめて、気がついたやうに、
「おひとつ、お酌いたしませう」
「や、や、これやどうも……」
 と、田沢は、大袈裟に恐縮してみせる。
「そんなことは君の考へ過しだよ。どうして君が日本の女でないと云へる? 僕に云はせれば、君こそ日本の女ぢやないか。淑やかとか控へ目とか、世間ではそれだけを日本女性の美点のやうに云ふが、なあに、それも程度があつてね、君のやうにずばずば物を云つたつて、男を男と思はなくつたつて、そこに云ふに云はれん艶と品とがあればだ、これやもう、君……」
「あら、そんなよろこばせをおつしやつても駄目ですわ。男の方のおつしやることは、きまつてるから、あたくしつまりませんの。でも、さういふ風にはつきりおつしやるところは、やつぱり、さすがだと思ひますわ。今の若い人は、それをもぢもぢ云ふんですの、云へば損みたいに……」
「どうも気むづかしいんだね、君は……。ぢや、僕みたいな風に若いのが云へば気に入るつていふわけか?」
「それぢやまた、うま味がありませんわ」
 彼女は、二三杯の盃で、ぽつと瞼を赤くしてゐた。
「面白いな。うま味がないか。はゝゝ、これや面白い……もうひとつ、いかう」
 しきりに「面白い面白い」を連発しながら、田沢は徳利を取りあげたが、素子の盃は、もうちやんと伏せてあつた。
「そこで、君は、日本の男に見切りをつけて、遠くパラグアイまで幸福を探しに行かうときめたんだね。わかつた。しかし、その決心をもう一年延ばしてみんかね? 僕が責任をもつて、君のその、なんといふか、有りあまるものの始末をつけてみせるが、どうだ? 君は徹頭徹尾、自由なんだぜ。いゝか。そこを誤解のないやうにしてもらへんかな」
 またも話を蒸し返さうとする田沢に、素子は最後の一撃を与へるつもりで云つた。
「あたくしの父が今生きてゐれば、丁度七十二ですかしら? 今度帰つて来た友達つて申しますのが六十五で……。社長は、失礼ですけれども、おいくつでいらつしやいましたつけ?」
「え? 僕?」
 と、田沢は、飲みかけの盃を鼻先に浮かして、横眼で彼女の方をみた。

「伯爵とはちやうど一とまはりぐらゐ……?」
 と彼女は品物の値打を見定めるやうに、田沢を見あげ見おろした。
「うむ、まあ、そんなとこかな。だが、さう見えんでせう?」
「ほんとに、女もさうですけれども、人間の年の取り方つて不思議なものですわ。ある面では年相当に老けてゐながら、ある面だけその割りでないつていふやうなことがございますのね。逆にまた、こんなに若いくせに、どうしてそんな年寄じみた考へ方をするのかと思ふやうな、さういふひともゐますし、……社長は、どちらかと云へば、平均にお年を召していらつしやるから、ごく自然な落ちついた感じで、なにか安心できますわ。さういふ方、でも、少うございませう、近頃は……。あたくしさう思ひますわ」
 くすぐつたいが、しかし、まんざらでもない田沢の笑ひ顔を素子は素気なく受け流して、
「立花伯爵は、あゝいふご身分のせゐですか、あたくしなんかの眼から見ますと、かう申しちやなんですが、どこか片寄つたお年の召しかたをなすつて、一方ではそれは円満な常識家でいらしつたのに、ある点で、ひどく子供らしい、まあ、やんちやみたいなところがおありになりましたわ。その大きな矛盾が、結局、伯爵のあの悲劇的なご最期を生んだのだと思ひますけれども、社長はどうお考へになりますかしら? あたくし、以前はそんなこと気がつきませんでしたけれども、あゝいふことがあつてから、いろいろ思ひ合せてみますと、伯爵は、いくつにおなりになつても、ほんたうの恋愛がおできになる方のやうな気がいたしますわ」
 素子は、知らず識らず、声をはずませてゐた。すると、田沢は、やゝ不機嫌に口をとがらせ、
「さう、まあ、伯爵のことばかり云ふなよ。僕だつて、見かけほど俗人でもないぞ。それに、第一、君は伯爵の心をつかんでゐたと思つとるかも知れんが、僕の君について云つたことは、それとはやゝ意味が違ふんだ。それや、伯爵は君のために悩んだかも知れんさ。しかし、彼は、それ以上に、奥方のために悩んどる。そこを君は知らんぢやらう? え? 世間には伏せてあつたのだが、伯爵夫人は、ある不治の病のために、実家さとへ帰つてをられたんだ。その夫人に対する伯爵の濃やかな愛情といふもんは、これや、恐らく何ものにも例へやうがないと、われわれは信じてゐるんだよ。その証拠はいくらでもある。君は、伯爵の秘書だといふが、夫人から伯爵に宛てた手紙も、伯爵から夫人に送つた手紙も、一通として読んではゐまい。僕は、直接、夫人から伺つたわけではないが、夫人の兄さんの茂木氏から、一部始終を聞いとる。伯爵が蔭でなにをやつとるか、そんなことまで詮議をする必要はない。伯爵はたゞの一度も、夫人以外の女性にうつゝをぬかしたことなんぞないんだ。そこはまことに、さつぱりしたもんだつた。君といへども、決して例外でないといふことを僕は、ちやんとこの鼻で嗅いどるんぢや」
 多少は酔ひがまはつてゐるらしくはあるけれども、田沢のこの縷々として尽きない言葉のうちに、妙に自信たつぷりなものがまじつてゐた。

 素子は箸をおいてぢつと考へ込んでしまつた。夫人に対する伯爵の心情が、今、田沢の口から語られたやうなものであつたかどうかは疑問である。しかし、それが全くの作りごとであるといふ証拠はなにひとつないのである。古くゐる女中などが、時をり実家に帰つてゐる「奥方」の噂をして聞かせることはあつたが、伯爵自身は、彼女の前で、一度も夫人の名を口に出したことはなかつた。従つて、彼女の想像では、伯爵夫妻の交渉は、別居生活を当然とするほど冷やかなもの、なんびともこれに触れてはならぬものといふ風に、ひとりでにきめられてゐたのである。
 こゝに新しい面貌をもつて伯爵が登場した。素子は、その伯爵の日常生活のなかで、自分の演じてゐた役割をもう一度振り返つてみて、ふと言ひやうのない侘しさを感じた。
 それと同時に、伯爵の死因についても自分の解釈がいかに浅薄な独り合点であつたかを寒々とした気持で思ひ出した。
 すると、彼女は、急に胸がいつぱいになり、あやふく涙がこみあげて来るのを、田沢に気づかれまいとして、慌てゝ座を起つた。そして手洗ひ場の姿見の前で、彼女は、泣くだけ泣いてしまつた。
 素子の一変した態度を、田沢はほとほと持てあました。
「どうしたんだ、いやに、黙り込んぢまつたね。僕はそんなつもりで云つたんぢやないよ。伯爵はそれや、君には参つてた、たしかに……。だが、一方で奥方といふもんも、これや、先生にとつては……」
「もう、わかりましたわ」
 と、素子は、静かに遮つた。しかし、田沢は、やめなかつた――
「いや、まあ、聴きたまへ。そこが僕と違ふところだ。僕なんかは女房を問題にしとらん。十年この方宇都宮においとるが、一年に一度か二度、ちよつと顔をみせるだけだ。二号と云つたところで、これまた、素性が素性の女だから、別段どうといふことはない。云つてみれば、僕の青春はこれからだ。長いことは望まん。少年時代の苦学、点取り勉強、官吏生活、政略結婚、子供の教育、放蕩、事業慾、それから少しばかりの蓄財……と、こゝまで来て、あとなにが残る? 男の一生はこれだけか? え? 実に淋しい……」
 さう云つて、田沢は、心臓のやうな温室苺を楊枝で突き刺した。
「お子様がたはもうおみ大きくつていらつしやるんでせう?」
 素子も、苺の皿を取りあげた。
「あゝ、上の娘二人はとつくに嫁づいて、孫も両方で五人ゐる。その下が男で、これや出来物できぶつぢやが、今、兵隊に行つとるんだよ」
「その方はまだお一人でいらつしやいますの?」
「うむ、ぼつぼつ相手を探してと思つとるうちに、召集が来てね。帰つて来るまでには適当なのを物色しといてやらうと思つとるが……」
「ほんとに、いろいろとお大変ですのね」
 あたり前に云つたつもりなのが、それは明らかに皮肉の調子を帯びてゐたので、彼女もわれながらついをかしくなり、苺のひとかけを含んだ口を、思はず手で押へた。
 田沢は脇息に両肱をついて、苦笑した。
 話はそれきりであつた。素子は、別の車に送られて家へ帰つた。
 一通の絵端書が茶の間の長火鉢の上に置いてあつた――紀伊椿温泉の写真で、次の文句の終りに「暁太郎」といふ署名がしてあつた――

――いつぞやは電話で失礼しました、僕ももう気持が落着き、仕事に身がはひりだしました。今日、採集がてらこの椿温泉といふのへ来ました。この附近の谷を案内してくれた田辺小学校の石田といふ先生が、あなたがたご姉妹のことをよく識つてゐました。素子さんが一番おとなしかつたさうですよ。紀州といふところがすつかり気に入りました。腰を据ゑて大きな計画を立てます。もちろん、一人では何もできません。しかし、先づ一人が始めなければならないのです。この夏はちよつと東京へ帰りますが、お訪ねするかも知れません。ご機嫌よう。お母さんにもよろしく。
 素子は読み終ると、母のもの問ひたげな眼が自分に注がれてゐるのに気がついた。
「あんた、南米行きはどうすんの……母さんにもいろいろつもりがあるさかい、はつきり決めておくれよ」
 そこで彼女は、母もまんざらこの計画に反対でないことを知つて、急に元気づいた。
「えゝ、あたしはもう、是非行きたいと思つてるの。今、室井さんと県の移民協会へ問ひ合せを出してあるんだけれど、女はお嫁さんの資格でないと、はひれないつていふやうな規則がありやしないかと思つて……」
「それかて、あたしがついて行けばえゝやろ」
「それや、いゝわ」
 と、素子は、母の思ひきりのよさに感心した。
「室井さんのお話ぢや、今度小学校もできるし、購買組合だとか、共同宿泊所なんかをこさへるのに、女手がどうしてもいるんですつて……。あたしが一と足先へ行つて、その都合で母さんをお呼びするわ。ね、いゝでせう?」
「あほらし、あたしはもうあの土地には馴れてるし、知合ひも多いさかい、いきなり行つたかて困ることあらへん」
「それやさうだけど、母さんはなにも、今急にあんな不自由なところへ、いらつしやる必要ないぢやないの。あたしがちやんとお膳ごしらへをして、これでいゝつていふところで来ていただくわ」
 それきり母はなんにも云はなかつた。
 彼女はその翌朝、社に寄つて、現地視察の一行が既に上野駅を発つたといふことを知ると、急いで次の汽車に間に合ふやうに、タクシイを走らせた。
 沿道の見馴れた眺めも、季節の移るにつれて多少の変化はあつた。
 麦はもう、刈られ、桑の枝がいつぱいに伸びてゐた。
 ふと、昨夜のことを考へると、彼女は男といふものの正体がどこにあるのかわからなかつた。田沢の望むところがなんであるにもせよ、あれだけの話から、彼女がいま最も心を動かされてゐるのは、立花伯爵の知られざる一面についてであつた。彼の死を悼む気持が、未だ嘗てこれほど痛切であつた例しはない。彼女はかうしてゐて、伯爵の悩みを自分の悩みとすることができる。そこから、伯爵の死は一層深い真実にふれた意味をもつて来た。彼女は、今度東京へ帰つたら、日本を離れる前に必ず伯爵のお墓詣りをしようと思つた。
 高崎へ近づくにつれて、彼女の頭は、向うへ着いてからの仕事でもういつぱいになつた。が、どういふものか、この時、幾島からの端書にあつた――一人ではなにもできぬ云々といふ文句が、はつきりと胸に浮んでゐた。
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 一週間の休暇をもらつて、幾島は東京へ帰つて来た。両親に新しい勤め先のことを詳しく話して安心させたくもあつたし、ほゞ案をたてた研究方針に対する大沼博士の意見も聞きたかつたし、彼は始めて味はふ「帰省」といふものの気持に、まだ学生の興奮をみせて、東京駅へ着いた。
 妹の万千子がプラツトフオームに立つてゐた。
 やつと三月かそこら会はないでゐるうちに、この妹も目立つて大人になつたやうに思ひ、彼はそばへ寄りながら云つた――
「やあ、来てくれたのかい。いよいよ久しぶりみたいだなあ。みんな変りないね」
 彼女がトランクを持たうとするのを、渡さずに、彼は降車口の方へ出た。
「どうだい、僕がゐないと、うちん中が静かだらう?」
 彼はタクシイの中で、妹に話しかけた。
「あら、そんなでもないわ。簡次郎兄さんがこんだは暴君ぶりを発揮するから……」
「あ、あいつ、たまには家にゐるのかい?」
「えゝ、前とすつかりあべこべよ。勉強してらしつてよ」
 彼は弟の簡次郎が自分をそんなに煙たがつてゐたのかと思つた。
「友達で誰か訪ねて来た奴ないかい? 殆どまだ知らせを出してないから……」
「えゝ、いらしつた方あるわ。安藤さんも一度いらしつたわ。田舎へ行くつていふだけで、何処とは云はないから訊きに来たつておつしやつて……。お教へしちやいけなかつたかしら?」
「別にいけなくもないが、何時頃のことだい、それや?」
「さあ、兄さまがお発ちになつてから間もなくよ」
 家には母が待つてゐた。それは「待つ」といふ言葉の温たかな意味を存分に示した待ち方であつた。
 こゝが涼しいと云つて座蒲団を引つぱつて行き、冷えた麦湯を彼がなん杯もお代りをすると、大丈夫かとしまひに念を押しながら、いそいそと台所へ立つて行つた。
 父が役所から帰つて来ると、またひと騒ぎであつた。父の歓待ぶりはいちいち母に気が利かぬといつて小言を浴せることであつた。さういふ小言なら母も不服ではないらしい。母は母で万千子を手荒にこき使つた。そこで今度はこの娘がいつになく父親の揚足をとるのである。
 いよいよ夕食の膳に向はうとするとき、弟の簡次郎が飛び込んで来た。女たちのほつとした表情。
「お帰んなさい」
 とN大学経済学部に籍だけをおいてゐる弟は照れながら云つた。
「評判いゝぞ」
 と、兄貴は、応じた。
「休暇で東京へ帰つて来るなんて、ちよつと間が抜けてんね」
 弟のこの言葉に一座は冷やりとした。
「おい、なんだ、それや? 間が抜けてるとは誰に云ふこつた?」
 父が黙つてはゐなかつた。
「え?」
 と、弟は眼をみはつた。
「さうぢやないんですよ、お父さん。こいつの云ひたいことは、僕にやわかつてるんですよ。休暇で帰省するつて云へば、たいがい田舎へ帰るもんでせう。だから、僕の場合は、それが反対に東京に家があるんだから、ちよつと勝手が違つてへんだらうといふ意味なんです。なあ、カンチ、お父さんにやかういふことはわからないんだよ」

 険悪な空気は、一瞬にして去つたけれども、弟の簡次郎は誰の話にも興味がなささうに、始終話題を変へたがつた。
 幾島は弟の将来を考へると、やはりこの家族の雰囲気からは遠くにおいた方がいゝと思つた。善意に満ちた人々が、互に理由なく傷け合ふやうに仕組まれた現在の共同生活のかたちは、それぞれにまづ社会の横の秩序といふものを建て直すところから、新しい発足をしなければならぬと彼は常々信じてゐたが、この弟には、時代に適応した家族主義の明朗な伝統を身にしみて理解する能力はおよそ欠けてゐるやうに思つた。
 さて、翌日は、先づ大沼博士を訪ね、それから上野の科学博物館へ寄つて仕事の上の打合せをし、昼は銀座でトンカツを食ひ、夕刻近く、麻布の安藤の家へ出掛けて行つた。
 主人はまだ帰つてゐないけれども、まああがれと、細君がしきりに引留めた。
「なんですか、お手紙を差上げようなんて申してをりましたわ。きつとよろこびますわ。でも、ずゐぶん思ひ切つたところへおいでになりましたのね」
「そんな大へんなところぢやありませんよ。山あり海あり、温泉あり、おまけに世間はうるさくなく、月給は安いですが、ひと足外へ出れば研究材料がころがつてるんですから、僕としては申し分ないんです」
「そんなら、まあ、ちよつとお茶でも……」
「いや、また出直して来ます。まだ一週間はこつちにゐますから……」
「でも、折角いらしつていただいて……。今日は学校の方は三時に退けますんですよ。どうしたんでせう。せんはこんなことございませんでしたのに、近頃は、ちよくちよく黙つてほかへ廻ることがございますのよ。いちいち呼出し電話なんか掛けられるかつて、それやまあさうですけれど……」
「安藤君がわざわざ家へ向うの処を訊きに来てくれたつていふんで、僕、ことによつたら先生に怒られるんぢやないかと思つて……」
「まあ、どうしてでせう?」
 細君はまつたくなにも知らぬといふ風に首をかしげてみせた。細君が知らなければ、今こつちから云ひ出す手はないと思ひ、彼は大里町子のことには触れず、いとまをつげた。
 電車通りへ出ると、彼は、すこし街を歩いてみたくなり、二ノ橋の方へぶらぶらやつて行つた。日が翳ると急に涼しくなつた。そこ此処に打ち水の爽やかな気配がし、店にはちらほらと灯もはひつて、宵の鋪道は彼には住み馴れた東京の魅力であつた。
 二ノ橋から三田台へあがつて行くまでは無意識と云つてもよかつたが、ここへ来て、ふと、嘗て一度訪ねたことのある立花伯の邸がすぐそこだといふことに気がついた。伯爵が死んでから後はどうなつてゐるか、そんなことを考へながら、高い塀に沿つて横丁を曲つた。
 正門の鉄の扉は固く閉ぢてゐたけれども、表札にはまだ「立花」といふ文字がはつきり残つてゐた。そればかりではない、門番小屋の窓にはどうやら人影が動いて見える。彼は咄嗟の好奇心から、小門の潜り戸を押し開けて、その門番小屋の前に立つた。

「ちよつとお訊ねします」
 と、幾島は、声をかけた。
 奥から浴衣に袴をつけた老人が出て来た。
「僕は伯爵のご生前にこちらへ伺つたことがあるんですが、山の別荘ではことにご厄介になつたものです。今、この前を通りかゝつて、急に懐しくなつたもんですから……。こゝには今、どなたがお住ひなんですか?」
 彼は、薄暗がりの中に立つてゐる老人の顔が、面のやうに動かないのを奇妙に思ひながら、かう云つた。
「あんたは、なんておつしやるね?」
「僕、幾島つていひます。おタキさん、おツルさん、それから、以前ゐた秘書の斎木さん、みんな識つてゐますよ」
「ふむ。奥方は?」
「奥方は知らない」
 と、彼は兜を脱いだ。
「別にご用はおあんなさらないんだね?」
 老人は彼の風体をたしかめるやうに、彼の方に一歩近づいた。
「えゝ、なんにも用ぢやありません。たゞ、かうして邸のなかを見せてもらへばいゝんです。この建物は相当古いんでせうね」
「先々代がイギリスの技師に設計させられたもんだからね。その時代のもんは、東京にもさういくつも残つとらんよ」
「あゝ、さうですか。今、さうすると、空いてるわけですね?」
 彼は、植込の間から見えるシヤトオ風の母屋おもやのフアサードをひとわたり見渡したが、窓といふ窓には鎧戸がおろしてある様子であつた。
「あんたはまだご存じないらしいが、この春から奥方がこつちへ遷つて来られてな。お庭の手入もやつとすんだといふところへ、急になんだ、昨日の朝のことだが、ぽつくりとお亡くなりになつてしまつた。みんなが途方に暮れとる最中です」
 老人は眼をしばたゝいた。
「やつぱり、お病気がいけなかつたんですね」
「いや、さうなら仕方がないが、懐剣で、見事にご自害だ」
「えツ?」
 と、幾島は、飛びあがつた。
「どうしてです?」
「明日の朝刊にもう出るだらうが、やはり、その、なんぢやな、殿様の後を追はれたといふことになる。あんたは新聞社の仁ぢやあるまいね?」
「いゝえ、さうぢやありません。へえ、それが昨日の朝ですか。奥方はどんな方なんですか?」
「そんなことまで、わしはお喋りはできんよ。さ、誰か来るといかんから、帰つておくんなさい」
 さう云ひながら、老人は、上半身を突き出して門のなかを見廻した。
「奇態だなあ。僕は、去年の秋、ちやうど伯爵が亡くなられた晩、ほとんどその時刻にあの別荘へ行きあはせたんですが……今日もまた、かういふ時にふつとこゝへやつて来るなんて……。これや、なんかあると思ふんだ、僕は、……。焼香させてくださいませんか?」
 彼が「なんかある」と云つたのは、たゞこのまゝそこを去り難い気持からであつた。
 老人はしばらく考へて、
「さあ、めつたなことは請合へんが、わしが喋つたなんて云はずに、奥でひとつ訊いてみなさい」
 玄関で呼鈴を鳴らすと、取次の女中が出て来た。山で顔馴染の若い女中であつた。

「やあ、しばらく……」
 と幾島は、相手が自分を覚えてゐてくれゝばいゝがと思ひながら、帽子を脱いだ。
「幾島ですよ。いつかはご厄介になりました。今日は偶然、ご不幸があつたことを聞いたもんだから、お悔みに伺ひました」
「ちよつとお待ちくださいませ」
 おツルさんはさう云つて奥へはひつたが、やがて、モーニングを着た中年の男が現はれ、
「どうぞ、ご焼香を……」
 と云つて、祭壇の設けてある広い部屋へ彼を案内した。
 正面には、型の如く伯爵夫人の写真が飾つてあつた。彼ははじめてみる「奥方」のそれらしい風姿にしばらく見入つてゐた。病気だと聞けばさう見えなくはないが、細面にやゝ険のある、それでゐて、どことなくロマンチツクな性格を想はせる四十がらみの婦人であつた。
 焼香をすますと、彼は、立会の男に一礼して部屋を出た。
 もう日がすつかり暮れてゐた。
 彼はなんのためにわざわざ殊勝らしく伯爵家の弔問者になりすましたのか、自分ながらその酔狂を嗤ふ気持もあつたが、しかし、さうせずにゐられなかつた動機が必ずしも不純なものとは考へられない。伯爵夫妻の表面の関係と、異常なそれぞれの行為を裏づける秘密な原因について、彼は想像を逞しくした。そして、その間に斎木素子といふ女性の存在が明瞭に浮びあがつて来た。
 玄関から門までの暗い砂利道を、彼はふらふらと歩いて来た。と、その時、横合の小道から、若い女の姿が現はれ、低い声で彼を呼びとめた。
「ツルでございます。ちよつとあたくし、ご相談申しあげたいことがございますんですが……こんなところでまことに失礼とはぞんじますけれど……」
 彼は、不意を喰つて、その「ツル」といふ名前がすぐに思ひ出せなかつたくらゐである。
「なんですか?」
「実は、あたくし、この春から、奥方のお付を仰せつかりましたんですが、つい四五日前、突然あたくしに、斎木さまのことをお訊ねになり、誰にも知らせずに、これをすぐあの方のところへお届けするやうにつて、小さな包みをあたくしにお手渡しになりました。それであたくし、変だとは思ひながら、お処がわかつてをりましたから、早速、持つて伺ひましたんですの。生憎、お留守で、お母さまとおつしやる方にお預けして参りましたんですが、それからすぐあとで、かういふことが起りましたもんですから、あたくし、なんですか気がかりで、まだどなたにもそのことは申しあげてございませんのです。今度のことも多分、斎木さまにはご通知はしてないとぞんじますんですが、いかゞなもんでございませう? ほかにご相談申しあげる方もないもんでございますから、あゝしてお山で、斎木さまともお近づきにおなり遊ばしたご縁もおありなさいますし、あたくしの立場もおわかりくださいませうとぞんじまして、ほんとにぶしつけでございますけれども、あたくしとして、どうしたらよろしうございませうか、お智恵を拝借さしていたゞけませんでせうか?」
 このおツルさんは、年に似合はず、なかなか弁が立つた。しかし、小さな頭で大役の始末をつけかねてゐるといふ、思ひ余つた様子がありありとその表情に読みとれたので、彼は、いくどもうなづきながら、鷹揚に云つた――
「誰にも云ふなと云はれたのなら、誰にも云はない方がいゝでせう。斎木さんには、僕、今夜、会つて話しておきませう。あのひとのことだから、へまはやらんでせう」
 彼は急に心の引締るのを覚えた。――そこで、これだけの理由があれば、と、煽られるやうに、彼はその足で本郷の素子の家へ出かけて行つた。

 ところが、素子は会社の用事で山の方へ行つてゐるとのことで、幾島はがつかりした。
「いつ頃お帰りになるかわかりませんか」
「さあ今度は一週間ぐらゐかゝるとか申してをりましたが……もうかれこれさうなりますよつて……」
 と母親は、指を折つて日にちを数へた。
「いや、別に急ぐわけぢやないんですが、ちよつとお知らせしたいことがあつて……。実は、立花伯爵の奥さんが亡くなられましてね」
 彼がさういふと、母親は、のけ反るやうに両手を後ろへついて、
「えツ、あの奥方が……それやいつのことですやろ?」
「昨日の朝ださうです。なんでも、自殺だといふことです」
 幾島は落ちついた口調で云つた。向うから例の使ひのことを云ひだしはせぬかとの期待が手伝つてゐた。果して、彼女は、膝を乗りだすといつしよに囁いた――
「それでしたら、あの娘にも早う知らせんなりませんわ。四五日前でしたか、突然、奥方からのお使ひやいうて、女中さんがわざわざ、こまい品物の包みを届けておくれましたんです。なにやろおもて、まだそのまゝにしてますのやが、これや困つたことになつた」
「いや、おくれたからどうつていふこともないでせうが、お帰りの日取がおわかりにならなければ、僕、明日、山へ持つて行つてさしあげませうか? 久しぶりであつちの様子も見ておきたいと思ひますから……」
「ほんまにご迷惑やなかつたら、さうしていただきましよか?」
 彼女は起つて行つて、その包みといふのを持つて来た。
「ま、わかつたお方やから、かまやしませんやろ」
 さう、ひとりごとを云ひながら、封をした包みをそのまゝ、そこへおいた。
「たしかにお預かりします。この間、素子さんが白浜へいらしつて、僕のところへ電話をかけてくだすつたんですよ。そん時は都合でお目にかゝれませんでしたが……かうして、しよつちゆう旅行ですか、近頃は?」
 彼は、その包みをポケツトへしまひながら、訊ねた。
「えゝ、えゝ、あちこちへ動いてばつかりをりますわ。落ちつかん娘や思うて……。それに、今度はあんた、どう思うたんか、南米へ行く云ひだしましてな。以前わたしどものをりましたパラグアイですのや。わたしや、もう、めしまへん」
 これは、幾島にとつて初耳であつた。
「パラグアイへですか。へえ、素子さんが? なにしにです?」
 彼は思はず母親に詰め寄つた。
「百姓もでけん女に、なにもすることあらしまへんな。知合ひのところへでもころがりこんで、台所の邪魔するのが関の山ですわ。わたしどもの苦労を、あのらはひとつも知れしまへんよつてな」
「しかし、そんなことぐらゐ考へてるでせう。僕はなるほど素子さんの空想しさうなことだと思ひますね。それや面白いな。素子さんに必要なのは、新しい生活の空気ですからね」
「それやもう、空気は、このへんと違うて、飛切りよろしいわ」
 腰を折られて、彼は、早々に引退つた。


 幾島は一旦家へ戻つたけれども、預つてゐる品物を早く素子に渡さなければならぬと思ふと、伯爵夫人からぢかにそれを頼まれでもしたやうに、むやみに気がせいた。
 なんにも知らぬ父は久々に晩酌の量を過したらしく、彼をつかまへてゆつくり話しこむ――
「さういふわけで、幾島家といふのは、関東ではもういく軒も残つちやゐまい。本家の断絶が、今云つたやうに、元禄二年……幾島姓を名乗つてから十八代目で表向き家名を襲ふものがないといふことになつたんだが、それやつまり、公儀への申訳で、十六代政右衛門さんの末子が一人、津軽へ養子に行つて、当時医者をやつてた。この人が元禄四年だつたかな、江戸へ出て、その……」
「お母さん、僕の床は敷かないでおいてください。十一時の汽車で、ちよつと高崎へ行つてきますから……」
 幾島はたうとう云つた。
「なんぢやと? 高崎へなにしに行くんだ?」
 父は興ざめのていで、問ふた。
「いや、例の泰平郷の水源の問題がどう解決したか見て来たいと思ふんです。それに、かう暑くつちやどうも……」
 と幾島は、団扇をやけに使つた。
「暑いとは贅沢だな、え、東京がそんなに暑いか?」
「東京がといふわけぢやないんですよ。たゞ、山のことを考へたら、かうしてるのが『暑いなあ』と思つただけです。どうでせう、昔と今と、東京はどつちが暑いですか? 僕は、子供の時分から比べると、今の方が暑いやうな気がしますね」
「そんなことは寒暖計の度を比べてみれやわかるぢやないか。昔は、挨拶以外に、暑いとか寒いとかは滅多に云はなかつたよ。そんなことを、今のやつらみたいに、いちいち気にしなかつたんだ。簡次郎のやつまで、夏になると、やれ山へ行く、海へ行くで、小遣をせびりやがるが、ひとつ、今年は台湾へでも行けつて云つてやらう」
「それやいゝでせう」
 幾島は父の憤慨が度を超えると、いつも相手にならぬことにしてゐる。殆ど常にと云つてもいいくらゐ、父の言ひ分には理があり、しかも、力がなかつた。
「一日二日で帰つて来ます」
 と彼は、洋服を着替へに起つた。
「あゝ、いく日でもかまはん」
 父は、痩せた毛ずねを縁の方に伸ばし、ごろりと横になつた。
 汽車に乗つてからも、幾島の眼の底に、この父の姿がいつまでも残つてゐた。彼はこの近年、父がめつきり老いこんだことに気がついてゐた。長男としての義務を思ふと、彼の気持は暗くならざるを得なかつた。しかし、一方だけを見てゐてはならぬと、絶えず自分を励ました。犠牲とは常に勇気を必要とするものではないことをも知らてゐた。

 高崎に着いたのは真夜中であつた。
 幾島暁太郎は、バスの初発まで、まだ三時間も待たなければならないことを知ると、いつそ、歩いて行くのも一興ではないかと思つた。道のりにして二十キロあまりなのだし、荷物は小さなドーランひとつなのだから、彼の足にしてみれば楽なハイキングである。
 しんかんと眠つている街のなかでは、自分の靴の音がばかに耳につく。四辻の交番で念のために道を訊いたが、なかには、行先や、身許などを詳しく調べる巡査もゐた。「泰平郷」といふ地名はまだこのへんには知られてゐないらしく、その説明にも時間をつぶした。職業はなんだといふ問ひに、はじめて、博物館員といふ肩書を使つたが、そのまた説明が大へんなので、しまひには植物の研究をしてゐるもので採集旅行にでかけて来たのだといふことにした。
 街を出はづれると、あとは紛れる心配のない一本道で、行手には、折重つた山々の姿が星空の下に黒く浮いて見える。気のせゐか、汗ばんだ首筋にもう冷やりとした風があたつた。
 中之条で夜が明けた。すると、おそろしい空腹を感じたので、まだ戸の閉まつてゐる旅人宿を叩き起して、朝飯の支度をさせようとした。ところが、できるともできないとも返事をしないで、仏頂面をした女が、彼の前につつ立つてゐる。
「早く起してすまなかつたが、なにしろ、腹がペコペコなんだ。冷飯でもなんでもいゝ。あるのかないのか、どつちなんだ?」
「…………」
 このおかみさんらしい女は、それにも応へず、寝間着の袂で眼をこすつてゐる。
「おい、面倒なら面倒だとはつきり云つてくれよ。もうちつと我慢して歩くから……」
「さあ、なんにもねえだでねえ」
「あゝ、なんにもいらんよ」
「飯をこれから炊かにやならんで……」
「それくらゐ待つとも」
「なにしろ、バスの来んことにやマツチがへえ一本も……」
 さう云ひながら、彼女は、大きな欠伸をひとつした。
「さうか。そんならしかたがない。どうもありがたう」
 彼は、元気をつけて、またすたすた歩きだした。
 かういふことには慣れてゐるけれども、彼は、今日ぐらゐむしやくしやすることはない。これはまるで人間同士が会つて話してゐる図にはなるまいと思はれた。
 それでも泰平郷事務所へ着いたのは、かれこれ七時頃であつた。
 主任の粕谷が歯楊枝を銜へて、前の広場でラジオ体操をしてゐるのを、彼は見かけ、「お早よう」と声をかけた。
「やあ、幾島さんぢやありませんか? お珍しいですなあ」
「珍しいでせう? 高崎から夜行軍ですよ。朝飯を食はしてください」
「へえ、これや驚いた。泰平郷開闢以来、あそこから歩いたのは、あなたがはじめてでせう。さて、その朝飯ですが、わしどものとこのはお口に合ひますまい。それより、ひとつ、倶楽部の食堂はどうです?」
「そんなものができたんですか?」
「なるほど、あなたはまだご存じない。実は立花伯爵の別荘ですな、あいつを、会社が今度買ひ取つて、お客さんのサーヴイス用に使つてゐるわけです。ほれ、伯爵の秘書の斎木さん、あの別嬪さんがうちの社員の資格で、この倶楽部のマネージメントをやつてゐますがね。これがどうして、大当りですよ。まあ、行つてごらんなさい。下手なホテルなんかかなひませんぜ」

「でも、斎木さんはずつとこつちにゐるわけぢやないでせう?」
 と、幾島は念を押した。
「いや、いや、時々来られるだけですが、なにしろ先生、人を使ふのはうまいもんですね。そのへんの百姓娘があんた、ちよつとの間にすつかり要領を覚えちまひましてね。今ぢや一風変つたお客のあしらひでもつて、人気を呼んどるです。あ、それからね、幾島さん……ちやうどいゝ、あなたに伺ひたいことがある……」
 粕谷の話といふのは、会社は目下、第二水源の工事を続行する一方、地元部落と協力して、第三水源の発見に努めてゐるのだが、これこれの懸賞といふ奨励法を設けたにも拘らず、結局今日までのところその目的は達せられずにゐること、ところで、最近になつて、部落の一青年が、此処は有望だから是非掘つてみてくれと云つて来たのだが、黒岩万五の云ふところによると、嘗て幾島が同じ目的でこの附近を踏査した結果、図上で彼に指し示した場所と符合すること、黒岩はそれに対して否定的な返事をした覚えがあるといふこと、従つて、いよいよこいつを掘つてみて、結果がいゝといふことにでもなれば、最初の発見者は幾島なのだから、これは一応諒解を得なければなるまいといつてゐること、などであつた。
「それにですな、わしも現場を見て来ましたが、これやちよつと素人には、見当がつかんです。あなたはまあ、どういふところから見てさう云はれたか知りませんが、その青年は一晩あの水の浸み出してゐるところに耳を当てゝですな、地の中の音を聞いてをつたといふんです。さう深くないところに、きつと大きな水脈があると云つて、これはもう、頑として動かんのですよ。しかし、あそこはあの通りの岩山でして、やはり爆破でないとどうにもならんでせう。ところが、その爆破で、この前一人怪我人を出したもんですから、警察でなかなか許可をしてくれんです」
「怪我人が? そいつはあぶないな。事務所の人ですか?」
「いや、例の黒岩万五ですよ。背中と頭をやられましてね、奇蹟的に軽くてすんだですが……」
「水は出ないでね」
「はじめはえらく噴き出しましたよ。場所は中宿なかじゆくたひらですがね。それがあんた、どういふもんか、だんだんに勢ひがなくなりましてね」
「ふむ、果してその青年の云ふ場所が僕の目をつけたところかどうかわからないけれども、若しさうだとすれや、いろんな点からみて、やつぱり有望なんぢやないかな。もちろん、僕にや水の音なんか聞えやしなかつたが、まあ、直感みたいなもんですよ。僕もお願ひするから、一度専門家に調べて貰ひませうよ」
「斎木さんにもそのことをお話しましたらね、あの幾島さんに水源のことなんぞわかる筈ないつて、笑つておいででしたよ」
「笑ふのは勝手だけれども、自分でなんにもしないのはなほいけないさ。こゝの別荘に来てる人で、さういふことのわかる人ないかしら?」
「あ、さう云へばたしか、六条通の野口さんが、ボーリングの会社へお勤めだつたと思ひます」
「そら、そら、さういふ人物を利用しなくつちや駄目ですよ。今来てますか?」
「今夜おいでになりませう、土曜ですから……」

 粕谷と別れて、幾島は元の伯爵別荘、即ち現在の泰平郷倶楽部へ、勝手を知つた道だから一人でぶらぶら歩いて行つた。
 入口の様子はちつとも変つてゐない。たゞ、大きな標札が新しくかゝつてゐるだけである。
 玄関へ出て来た豊次のお神さんに、
「斎木さんはゐますか?」
 と訊ねると、
「はい、ゐなさいます。まだやすんでのやうだが……」
「そんならあとでいゝんだ。とにかく腹が空いてるから飯を食はしてもらはうと思つて……」
 食堂の模様が以前と違つて、すつかりホテル風になつてゐるので、彼はちよつと面喰つた。
 モンペ姿の少女が渋茶を注いで出す。
「不意に来て、食事できるの?」
「別荘のかたですか?」
 少女はにツともせずに訊き返す。
「いや、別荘のものぢやないが、事務所から来たんだ。朝飯はどういふことになつてるの?」
「土地を見にいらしつたんですか?」
「いや、さういふわけでもない。どうして?」
「土地を見にいらつしつた方は、食事のお代はいただかないことになつてゐます」
「僕は、たゞ遊びに来たんだから金は払ふよ」
「和食の定食が三十銭、パン牛乳なら二十五銭です」
「ふむ。どつちでも早く出来る方をくれ」
 和食の膳がすぐに運ばれた。炊きたての七分搗きは彼の食慾をいやがうへにもそゝつた。
「こゝは泊れるやうになつてるんだね?」
「はい。本社の紹介か事務所の伝票があればお泊めします」
 給仕の少女はすらすらと答へる。
「今、いくたりぐらゐ泊つてるの?」
「昨夜は十六人です。もうお部屋がないんです」
「ほう、十六人で満員か。今夜はあかないかな?」
「さあ、あとで事務所の方へ訊いてみますわ」
「うん。僕も斎木さんに相談してみよう。斎木さんは支配人だらう?」
「支配人つていふのかどうか知りませんけど……。斎木さんがいゝつておつしやれば、事務所で伝票を出しますわ」
「さうか。君たちは斎木さんの指導を受けてるわけだらう? なかなかしつかりしたもんだね。まるで兵隊さんだ」
 すると、少女は、はじめて、肩をくねらせて笑つた。
「味噌汁のお代りはできるの?」
「えゝ、よろしければ……」
「ぢや、頼む」
 かうして、彼は風雅な朝食をすましたのだが、最後までそこにぢつと立つてゐる少女の姿態のどこかに、嘗つてこの部落の青年集会所でやはり食事の給仕をしてもらつた一少女と共通なあるものを発見して、ふとその当時のことを思ひ出した。
「あのひと、君、識らないかな。なんて云つたつけ、ほら、君ぐらゐの年のひとで、小峯喬君の従妹だとかいふ……?」
「セツちやんですか?」
「あゝ、さうだ、セツちやん……あのひとどうしてる?」
「今月、お嫁に行きますわ」
 少女は、さう云つて、自分で赤くなつた。
 彼は好奇心を湧きたゝせた。
 と、その時、どやどやと四五人の客がはひつて来た。中年の男たちばかりであつた。が、そのすぐあとから、
「どうも、失礼……つい寝坊しちやつて……」
 さう云ひながら近づいて来たのは、さつぱりと朝の化粧をとゝのへた斎木素子であつた。
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 素子は自分の部屋へ帰つて幾島から受け取つた包みを開いてみた。中から小さなビロード張りの函と、名刺型の封筒が出て来た。
 彼女はまづその手紙の封を切つた。「立花伊勢子」と印刷した名刺のはしに、たゞ、次のやうな文句が書いてある。
「感謝と尊敬のしるしに」
 それから、こんどは函の蓋をそつと開けた。細い銀鎖のついた彫刻入りのメダルであつた。メダルの周りを無数のダイヤで囲み、象牙の浮彫は女の横顔で、裏には王冠がついてゐる。いかにも由緒ありげなものだが、彼女には、それがいつ頃のものだかむろんわからない。
 さて、伯爵夫人が何故にこんな品物を素子に贈らうとしたか、幾島から聞いた夫人の自殺といふ事実と、名刺にしるされた短い言葉だけで、それを判断しなければならぬとなると、これは一種の謎のやうなものである。
 しかし、素子は、この謎をどうしても解かずにはゐられなかつた。そこで彼女は、そもそも伯爵家へ出入りするやうになつてから、夫人について知り得たことのすべてを、もう一度頭の中で整理してみようとした。
 先づ伯爵自身の口から、最初、かういふ風なことを聞いた。
「家内は今実家さとへ帰してある。まあ病気とは云へないやうな病気だが、自分でこの家を暗くするに忍びないと云つて、強ひて別居生活を主張するもんだから、当分、さうさせることにしたんだ。従つて僕は独身ぢやない。のみならず、僕と家内との間に、人が想像するやうなこみ入つた事情なんかない。僕は家内が帰つて来るのを待つてゐるし、家内も帰つていゝ時機を見はからつてゐるものと信じてゐる」
 伯爵はそれ以外、殆ど夫人について語らなかつたが、書斎のアルバムでその容姿に接したことはある。飛びきり美しいといふほどではないが、特徴のある聡明な顔をしてゐて、一種の気品をさへそなへてゐる。
 可なり晩婚だといふことが察せられた。
 女中頭の話によると非常に召使には丁寧だが、口数が少く、めつたに笑はないで、近づきにくい印象を与へたといふ。実家へ帰つてからも、ずつと盆暮に召使たちへいくばくの心付をよこし、殊に女中頭のおタキさんには、「自分に代つて」伯爵の身の廻りに気をつけるやうに、度々伝言をしたりした。
 素子が伯爵の秘書になつたのは、夫人が実家へ帰つてから二年目の秋である。そして、その頃夫人は四十になるかならないかであつた。
 なほ女中の云ふところによると、夫人は、あまり外へは出ず、書物ばかり読んでゐるらしかつた。実家へ帰る前、二三度脳貧血で倒れたことがある。
 夫人と素子との間には、これまで、なんら直接の交渉はなかつたけれども、伯爵の口から彼女のことは夫人の耳にはひつたらしく、おタキさんまでは、新来の秘書の待遇法についてこまごま注意があつたといふ話を、誰かから素子は聞いたこともある。
 さういふ風で、いちいち気にもとめてゐなかつたことがらを、かうして寄せ集めて新たに伯爵夫人の輪廓を作りあげてみると、今度の痛ましい事件、そして、恐らく、さういふ決意のもとになされたに相違ない、この貴重な贈物とそれに添へられた一点曇りのない献辞が、理窟でなく、何か激しく素子の心を打つものがあつた。

 素子はもう一度、その古めかしい頸飾を、そつとつまみあげ、それを自分の頸にかけると、メダルの微な重みが胸のふくらに伝はつて、一つ時しんとした気持になつた。
 が、彼女の眼は再び、名刺の上に注がれた。なんのための「感謝」、なんのための「尊敬」なのか?
 この言葉をそのまゝ受けとつていゝものとすれば、夫人は彼女についてどれだけのことを知つてゐたか?
 それらはすべて、彼女の独断によつて、ひと通りの辻褄は合ふのだけれども、そして、その独断は必ずしも当つてゐないわけではないのだけれども、こゝで真相をはつきりさせておく必要があるだらう。
 伯爵は長い外国勤めを終へて帰朝すると、ある避暑地のホテルで識り合つた実業家茂木氏の女、伊勢子と結婚した。伊勢子は二十五、伯爵は三十六であつた。家庭は円満といふよりも寧ろ平静で、子供は三度生れて三度とも育たなかつた。そして十五年の歳月が過ぎた。ところが、ふとした機会に、伯爵は妻の結婚前の秘密を知つたのである。彼は努力してそれを赦した。しかし、まつたく赦したとは云へなかつた。なぜならそれ以来、口実を設けて妻の肉体を忌避しはじめたからである。彼は、妻をなほ愛してゐると断言し、自分もさう信じてゐたのだけれども、こればかりはどうすることもできなかつた。事実、妻への慈しみはあらゆる形をとつて示されたにも拘らず、彼女は夫の傍に身をおくことの苦痛に堪へられなかつた。たうとう実家へ帰つて、正式に離婚を迫つた。夫を自由にしたいといふ理由であつた。彼は頑として応じなかつた。屡々足を運び、また、手紙を書いた。彼女は、会へば静かに語り、手紙にはいちいち返事をした。伯爵が詳しく素子のことを話したとき、夫人は、かう云つた。――「その方がほんたうにさういふ方なら、あなたが恋愛をあそばしても、あたくし、ちつとも不似合だとは思ひませんわ」。すると伯爵は、やさしく夫人の言葉をおさへてかう答へた――「ところが、僕と恋愛なんかする女ぢやありませんよ。それや、僕の方はわからない。しかし、そこまで行つたら、おそらく僕は、君に対する責任から自分の方の始末をつける。あの女を解雇するか、さうだな、それやまあその時の話だが、……」――「そんな約束をあそばさない方が……」――「いや、いや、君に約束なんかしてるんぢやありません」
 このいきさつは、もちろん、この二人以外に誰一人知るものはない。素子の想像も決してそこまでは及ばなかつたけれども、たゞ、なんとなく伯爵夫妻の間に、ある微妙な心理のつながりがあつて、めいめいのつきつめた行動を生んだ主要原因をそこに求めなければならないといふことに想ひ至つたのである。云ひかへれば、伯爵は伊勢子夫人への愛情を護るために生命を断ち、伊勢子夫人は夫伯爵の幻を胸に描いて眼を閉ぢたのだといふ結論になる。この疑ふ余地のない結論は、素子を過去の陰鬱な記憶から一瞬に解きはなした。
 彼女は、胸のメダルを両手で押へ、瞼をとぢ、おぼろげに浮ぶ夫人の面影を追ひ求めながら、声ならば澄みきつた声で、しかし心の中で呟いた。
 ――感謝のお言葉はよろこんでお受けいたします。しかし、尊敬といふお言葉は、これは伯爵お一人にどうか差しあげてくださいませ……。
 その時、ドアをノツクするものがあつた。
 彼女は眼をつぶつたまゝ「はい」と答へた。
 一人の少女が、
「あの、幾島さんていふ方が、テラスでお待ちになつてゐます」

「幾島」と聞いて、彼女は、ドキツとした。
 ――さうだ、あの人がゐたのだ。
 すつかり忘れてゐたのである。その代り、それを想ひ出したとたん、彼女は、われながらをかしいと思ふほどうろたへた。今朝、豊次のお神さんが、階下したおりるなり彼の来てゐることを知らせてくれたのだが、その時は、たゞ「へえ、あの人が」と思ふくらゐの驚き方であつた。ところが、今は、どうであらう? 一つ時も我慢ができぬほど彼の顔が見たいのである。
「えゝ、今行くつてさう云つて……」
 返事をすると、彼女は、鏡の前に立つて、顔をなほした。
 テラスでは幾島が手もち無沙汰さうに煙草を喫つてゐた。
「お待ち遠さま……。どう、似合つて?」
 彼女は頸飾をいぢつてみせた。
「そんなものがはひつてたんですか? あなたのことをそんなに考へてたのかなあ。むろん非常に好意をもつてゐたことになりますね。こいつはどうも複雑で、僕にやわからないや。とにかくお葬式に間に合ふやうにあなたは東京へ帰るでせう?」
「さあ、どうしたもんかしら? 別にその必要ないと思ふけど……。あとでお墓詣りでもした方が気がすむわ。それに、今日はどうしても手がはなせないの。昼から自治委員会つていふのがこゝであるのよ。社長代理であたし顔を出さなけれやならないし、――今晩までに契約を取る筈になつてるお客さんもあるし……」
「忙しいんだなあ。ぢや、ゆつくり話なんかしてる暇ありませんね」
「うゝん、今、土地を見るお客さんを事務所へ送り出してしまひさへすれば、お昼まで暇なの。今夜は部屋があくわ。泊つてらつしやつてもいゝのよ」
「まる一年か。ずゐぶんいろんなことがあつたなあ」
 幾島は、感慨をこめて云つた。
「来年の今頃は、もつともつと変つてるわ。いろんなことが……」
 素子も引込まれるやうに、さう云つた。
「で、あなたのパラグアイ行き、どの程度にきまつてるんです、いつたい」
「どの程度つて……方法を研究中なの。手続きが面倒なんですもの」
「実現不可能つていふおそれはないんですか?」
「名目さへ作ればいゝんだから……」
「例へば?」
「例へば、向うにゐる誰かのお嫁さんになるつていふんなら、簡単だわ」
「ただ名目だけですか?」
「だつて、ほんとに当てがなければ、しかたがないぢやないの」
「なるほど、さういふことができるんなら、わけないですね。名義を貸してくれる人はゐるんでせう?」
「それやゐると思ふわ、独身の男なら誰でもいゝんだし、向うへ行つたら、どうもありがたうですむんだから……」
「面白いなあ、そいつは……。あなたを見て、名義だけぢやいやだつて云ひだしますよ。そしたら、どうします?」
「そしたら、また相談に乗つてもいゝわ。それよりも、あなた、パラグアイつて、どんなところかご存じ? ブラジルよりも気候がよくつて、暮しは楽だし、移民の天国つて云はれてるところよ。野生の蜜柑がどこにでもあるんですつてね。それから、女がうようよしてるんですつて。むろん土人の女だけど、これがスペインの血が交つた美人ぞろひで、日本の男をしよつちゆう追ひまはすんですつて。だから、息子がお嫁をほしがらないで、親たちは困るつていふ話があるの。ほんとかしらと思ふわ。あ、ちよつと失礼……事務所からお客さまを迎ひに来たやうだわ」

 土地を見る客は幾組かにわかれて出発した。近いところは徒歩で、遠いところは自動車で運ぶのだが、それぞれ事務所から案内人がつく。これまで、面倒な客とみると、素子が自分で乗り出すこともある。勧め方には一種のこつがあつて、相手の空想を適度に刺戟しながら、決断の機会をそらさないやうにしてやればいゝのである。
 素子は、しかし、この仕事にも一段落をつけねばならぬ。それに、今日は幾島の相手をするために予定をかへて、客を送りだすとすぐに彼のそばへ戻つて来た。
「鳥がずゐぶん少くなつたわ。どこかへ行つちまふのかしら?」
 耳をすますやうにして、彼女は云つた。
 樹立のなかにルリ鳥の囀る声がきれぎれに聞えた。
 幾島は、さういふ素子の横顔をぢつと見てゐた。以前とどこか変つてゐる。ある押されるやうな強さ、パツとした輝きの代りに、静かに内にたゝへたもの、深く秘められた淋しさといふやうなものが目にたつた。
「素子さん……」
 と、彼は不意に呼びかけた。
「え?」
 素子は、からだをねぢむけ、その特徴のある瞼をひきあけて、彼の次の言葉を待つた。
「どうして日本にゐるのがいやになつたんです?」
 ――なんだそんなことか、と云はぬばかりに、彼女は眼をそらして笑つた。
「どうしてつて、そんなこと別に考へてもみないけど……かうしててもつまらないから……」
「パラグアイつていふところは、そんなにあなたの性に合つてると思ひますか?」
「だつて、さう思つて行けばいゝんぢやない? だんだんいろんなものを失くしていくばかりですもの、かうして日本なんかにゐると……」
「そんなら、何処へ行つたつておんなじですよ。あなたは、何を得たいつていふんだらう? 何があなたにとつて一番大事なんです? 余計なことかも知れないが、僕の友情が、あなたに訊くんですよ」
「それや、わかつててよ」
 と、素子は、両手を頬にあてゝ、悶えるやうに頭をふつた。
「友情の押売りになつたかな。でも、僕はね、あなたが日本人つていふものをほんとに知らうとしないからいけないと思ふんだ。あなたの中にある日本が、あなたにはわかつてゐないでせう? 僕たちはみんなむつかしい時代に生れたんです。自分は『根こぎにされた人間だ』と思ふことが、ひとつの慰めになるなんて、そんな馬鹿な話がありますか!」
 素子は、なにも云はなかつた。幾島の言葉は、ひしひしと胸にこたへたけれども、その理窟に今さら同感をしてみたところで、どうなるわけでもない。寧ろさういふことは、自分が何かにぶつかつて、ひとりで悟るのを待つほかはない、と、彼女は軽く話題を転じた。
「もう、よしませう、そんなお話は? あたし、さういふ風に、自分をいぢめるやうな考へ方はきらひなの。それより、今日の自治委員会に、あたしとして、何か提案するやうなことないかしら? 正式には会社側を代表するわけだけど、それやどうせ受身の立場だから、なんとかかたをつけるわ。でも、せんにあなたがおつしやつてたやうな、地元との融和つていふ問題で、きつと、いろんな意見がでると思ふの、さういふ運動がもうあるんですつて……。だから、こつちから先手をうつて、すばらしい提案をしてみせたら、面白いだらうと思ふの。ねえ、考へてちやうだいよ、なんか……」

 幾島は気勢をそがれてやゝ不満げであつたけれども、屈託のない素子の調子にまた釣りこまれて、
「考へるつたつて、具体的なことは、当事者でなくつちやわからないから……。さうすると、例の小峯なんていふ連中がたうとう自治委員会に働きかけたわけですね?」
「あなたの示唆でよ」
「うん、それやそんなこともあるでせうが、いつたいその自治委員会のメンバーのなかに、さういふ問題を真剣にとりあげる人間がゐるんですかねえ?」
「えゝ真剣だかどうだか、とにかく、この春東京で委員の二三人が集まつて、そのことを話題にはしたらしいわ。結局、地元の人たちは、それでもつて会社を牽制しようとしてるんでせう。あなたの理想主義が政治的に利用されたかたちだわ」
「僕の理想主義つて、なんです? 僕ははじめから政治的な意味でその方法を勧めたんですよ。水源問題の解決には、新しく別の水源を見つけるか、別荘に住んでる連中の道徳的関心にうつたへるか、それ以外に彼等の執るべき平和手段はないとみたからです」
「会社では今、地元の青年たちと協力して別の水源を探してますわ」
「その話は聞きました。ところが、僕の想像だけれども、それは単なる会社の巧妙な策略にすぎないんぢやありませんか? 当てのない希望をもたせて、解決をできるだけ遷延させてゐるといふ印象を受けますね」
「あら、どうして?」
「だつて、さうでせう? いよいよ水源を探さうつていふのに、素人ばかりで山をほつつき歩いて何がわかります。懸賞付だつていふことも聞きましたが、そこが怪しいもんだ。一度や二度、怪我人の出るやうなまづい爆破作業をしてみて、それでお茶を濁してるぢやありませんか。さつき粕谷君の話だと、僕が有望だと思つて黒岩万五に話しておいた場所を、また誰か地元の青年がこゝならといふんで、非常な自信をもつて申出て来たさうですよ。僕のことなんか愚図々々持ちだすことはないと思ふんだ。さつさと試掘してみたらいゝんです。言を左右に託して、未だに実行してない。これで誠意があると云へますか?」
 幾島の言葉にぢつと耳を傾けてゐた素子は、この時、溜息まじりに云つた――
「さうよ、あたしが来ないと、事務所ではほつたらかしにしてるんですもの」
「会社がさういふ風に命じてるからですよ」
「さあ、そこまではどうかと思ふけど……」
 素子は、この案がもともと幾島の意見を自分の手で会社へ持ち込んだものだといふことをはつきり云ひたかつたけれども、それはたうとう云ひだせなかつた。
「さつきも粕谷君に云つたんだけれど、会社が本気でやるなら、専門家を一度よこせばなんでもないんです。経費だつていくらもかゝりやしない。たゞ、さうなると、いよいよ出ないつていふ時に、困るんだ。それを怖れてるだけですよ」
 幾島が畳みかけて来るのを、素子は、ぢつとその眼で聴いてゐた。そして、かう云つた――
「専門家つていふと、どういふのかしら?」
 それに直接返事をする代りに、
「こゝの別荘にボーリングの会社へ勤めてる技師がゐるさうですね?」
 と、わざと慇懃に、それゆゑ、なかば巫山戯ふざけて、幾島は腰をかゞめた。

 二人がやゝ話し疲れた頃、昼食のベルが鳴つた。
 幾島は、食事をしたらしばらく昼寝をすると云つて、素子と別れた。
 午後、予定どほり自治委員会が中央ホールで開かれ、分譲地のあちこちから委員に指名された人々が集つて来た。目下別荘に来てゐるものだけ、しかも、ゐるにはゐるが出渋つてゐるもの若干を除くと総員三十五名のうち、やつと十二三名であつた。
 互に初対面の挨拶をするものもあつた。
 顔だけは知つてゐるが、名前を知らなかつたと暢気に告白してゐるものもある。
 職業は、会社員、教師、小工場主、官吏、退職軍人、著述業といふやうなものが主なもので、後備大佐の今村老人を筆頭に、映画脚本作家内海うつみ某が一番若く、平均年齢はまづ四十五六といふところであらう。こゝで収入の統計を調べてみるのも面白からうが、それは読者の推察に任せるとして、この面々がずらりと卓子を囲んで座についたところは、なんともえたいの知れぬ会合であつた。
 第一に、服装がとてつもなくまちまちである。ノーネクタイの背広もあれば、浴衣の裾をからげたのもある。運動シヤツ一枚ですましてゐるのがあるかと思ふと、絽の羽織など着込んで扇子をぱちぱちやつてゐるのもある。回状に普段着のまゝと注意した、その実践が大体かういふ結果を生んだので、泰平郷の羨むべき風習が既にかうして作られつゝあるのである。
「明日にすればよかつたですなあ。もう少し出席率がよかつたでせう」
「いや、日曜は絶対にいかんですよ。折角、一日だけ骨休めに来た連中が、かういふ会に引つぱり出されちや、元も子もないですからな」
「あなたはこちらへはもう何年……?」
「わたしは第一期ですからして、つまり最初の年からです。もう五年、いや、今年で六年目です。みんな丈夫になりました、家内も子供も……」
「さうでせう、まつたく、類のない健康地ですなあ。わたしもお蔭で、三年続けて来てゐるうちに、長年の胃病がすつかりよくなりました。それに、冬、風邪を引かんことは不思議です」
「さやう、さやう……この紫外線といふやつが……」
 そこへ、素子がはひつて来た。
「わたくし、斎木でございます。今日は田沢社長が出ます筈でございましたけれども、拠んどころない差支ができまして、あたくしが代理に、この席でみなさまのお話を伺はせていただきます。なほ会社といたしましては、委員会のご決議、或はご希望に対して、誠心誠意、協力を惜まないといふ方針ださうでございます。なほ、この倶楽部の開設につきまして、会社は、別荘の方々のご便宜を計るといふことを十分に考へてゐるつもりでございます。お部屋、お食事、ご休息、いづれにもせいぜいご利用くださいますやうお願ひ申上げておきます。なにぶん、素人の経営で、間がぬけてをりますけれども……いかゞでございませう、みなさま、お気づきの点は、どしどし、おつしやつて下さいませ」
 さう云つて彼女は一隅の椅子に腰をおろした。
「すると、この別荘はもう伯爵の所有ぢやなくなつたんですね?」
 と念を押すものがある。
「さやうでございます。只今は関係ございません」
「さあ、始めませう」
 と今村老人が促した。彼は年長者といふわけで委員長に祭り上げられてゐるのである。
 拍手が一斉に起つた。
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「私は今村善九郎と申すものであります。もともと一介の武弁でありまして、かやうな自治団体の事務には甚だ疎いのでありまするが、故立花伯のご推薦もございましたといふのは、多分、隠居仕事としてこれくらゐなことはやれといふ思召しかと存じまして、止むを得ずお受けしたやうな次第でございます。どうかみなさんのご指導ご鞭撻を仰ぎまして大過なくこの任を果したいと存じてをります。
 さて泰平郷も建設以来満五年に相なりまするが、年とともに発展を加へ、諸種の点より見ましてまことに理想的な夏季保健地として内外に喧伝せらるゝにいたりました。これ一重に文華土地会社の営利を度外視したる奉仕の精神と、われわれ利用者側の、なんと申しまするか、他の別荘地などと異る質実剛健の気風とが、真にこの恵まれたる自然の恩寵のもとに於て、完全に歩調を合せてをるからだと確信いたします。
 つきましては、当自治委員会も、徒らに机上の空論を戦はすことなく、重大時局に直面したる銃後国民の覚悟といたしまして、特に自粛自戒、相互扶助の具体的問題について、慎重協議を重ねたいと愚考いたします。
 本日お集り願ひまして、第一に議題といたしたいと存じますることは、お聞き及びでもございませうが、当泰平郷建設事務所と、地元部落民一部との間に、昨年来、水源地の問題にからんでちよつとした紛争がございました。只今では、会社側の穏当な処置によりまして事件拡大のおそれはまづないのでありまするけれども、仄聞いたしましたるところでは、元来、これは単に一水源地問題に非ずして、当別荘地に対する地方青年の反感が土台になつてをる。われわれはかうして汗をかき、土にまみれてせつせと働いてをるのに、彼等は贅沢にも暑いと云つて都会をはなれ、われわれの鼻先へ来てぶらぶら遊び暮してをる。しかも、その多くは、華美なる服装をなし、男女相携へて散歩をし、甚だしきは、土地の人に会つても挨拶をしない。威張つてをる。自分らは特別な人間だといふ風な顔をして、鼻もひつかけない。怪しからん。これは風教の上からして土地の若いものに非常な悪影響を及ぼすのみならず、郷土の名誉のために、かゝる人間どもの侵入はこれをゆるすわけに参らん。と、まあ、かういふ次第なのでございます。
 えゝ、かゝる非難が当つてをりまするかどうか、これはみなさんのご判断に委せるといたしまして、私一個の考へを申しますると、甚だ心外である。たゞ極めて少数ではございまするが、やはり、若い方々のなかには、われわれの眼から見ましても、これはどうかと思はれるやうなのが実際にあることは否めません。東京と違ひまして、こゝでは一層それが眼につくのであります。さきほども私が出て参ります途中で、新婚のご夫婦でございませうが、奥さんの方が先に立つて旦那さんのステツキをぐんぐん引張つておいでになる。奥さんは袖の切れた洋装で、腕などはだいぶん日に焼けておいでになりましたが、こんなのは、私でさへ東京の宅の近所でなら、なんとも思はんのであります。しかしながら、考へてみますると、これがどうも土地柄だけに困るのではないかと思はれます。そんなことを云つたらなんにもできんぢやないかと、ある方々はおつしやるかも知れん。そこがまあ、人間の嗜みとでも申しませうか、つまりそこに、人がゐるかゐないかといふことが、その行為の善悪に関係するわけだらうと存じます。このへんのところをひとつ、みなさんで適当にお話合ひが願ひたいのであります」

 この話の間に、笑声や私語が時々混つた。しかし、今村老人の提案に対して、誰も意見を述べるものがない。たゞ二三、愚問を発するものがある。と、やがて、一人の男が、「議長」と叫んでいかにも大儀さうに起ち上つた――
「われわれはいつたい、こゝへ何しに来てゐるのかといふと、休養に来てゐるんです。休養といふのにもいろんな意味がある。まづ仕事から逃れ、刺戟から逃れ、殊に、他人との接触から逃れたい。一口に云へば、なにもしたくないために来るんです。お互の間に問題があればこれやしかたがない。かうして集つて相談もしなけれやなりますまいが、わざわざ規則を設けて、あれもしちやいかん、これもしちやならんといふのは、私は絶対に不賛成である。また、言ふべくして行はれない。少しばかりお互が嗜みをよくしてみたところで、人間同士の感情の融和などといふものはうまく行くもんぢやない。境遇の相違が反感嫉妬、軽侮憎悪を生むのは当り前です。こゝにゐるお互だつて腹の中ぢやなにを考へてるかわかりやしません。それでいゝんです。さつきもお話がありましたが、われわれはこの分譲地を月賦で買つてゐる。会社はそれで儲けてゐる。儲けすぎてゐるかも知れない。ところが、それでも、考へやうによつては、大いに会社を徳とすることもできる。……」
「はゝゝゝ。いやまあ、それは別の話だ。ご意見として伺つておきませう」
 と、今村老人は、なだめるやうに手を振つた。そして、さつきから後ろで小さくなつてゐる事務所主任粕谷の方を振りむき、
「君からひとつ、なにか気のついたことを云つてくれたまへ。地元の空気といふやうなものは君が一番よく知つてるわけだから……。わたしのところへ寄越した彼等の連名の手紙といふものは、これや非常に穏かならんもんだつたが……」
「いえ、私から別に、なにも申上げることはございませんが、あまり奴らを甘やかしてご機嫌をとるやうなことになりましてもどうかと思ひますんで……。現に、只今新たな水源をみつけるために、会社から懸賞を出すことにしてをりますが、これなども、明かに会社の譲歩とみて奴らは気勢をあげてをるです」
 粕谷がそれに負けぬ気で肩を聳やかしてみせると、今まで黙つてゐた素子が静かにかう云つた――
「会社と地元との関係は、まつたく直接の利害関係だから、今日のお話とは違ふでせう。あたくし、そのことで、ちよつとみなさまのお耳に入れておきたいことがございますが……よろしうございませうか?」
 と今村老人の方へ許しを乞ひ、
「実は、地元の青年たちが、会社を含めてこの泰平郷といふものに、ある種の反感を抱いてをりますことは、昨年の夏あたりからわたくしどもの耳にはひるやうになりましたんですが、丁度その当時、ご承知の方もいらつしやいませうが、植物学の講演のために大沼博士と助手の幾島さんとおつしやる方がこゝにご滞在になつていらつしやいました。それで、地元の青年たちが伯爵に会見を求めて参りました節、その幾島さんとおつしやる方が、さういふ問題に特別関心をおもちになつてゐて、その席にオブザーヴアーとしてお立会ひになりました。それ以来、ご自分で度々それらの青年とお会ひになり、直接、ある点について会社側の反省をお求めになつたりしたこともございます。さういふわけで、当地にお住ひの方ではございませんが、今日こゝでご協議あそばすやうな問題について、きつとなにかご研究になつていらつしやると存じます。いかがでございませう。偶然、今朝、こちらへお着きになりましたんですが、お差支なければ、参考までに意見を徴してごらんになつては……」

 素子のこの提議はどちらかと云へば冷やかな態度で迎へられたが、この時も今村老人が先づ口を切つた――
「そんなに熱心な方があるなら、是非こゝでお話を伺ひたいと私は思ふが、みなさんご異議はありませんか?」
 誰もなんとも返事をせぬ。たゞ、あちこちで私語するものがあるだけである。
「ご異議がなければ、ご苦労でも、斎木さん、どうかおいでを願つてください」
 明らかに好もしからぬ空気を感じたけれども、素子は、思ひきつて起ちあがつた。
 幾島は、与へられた一室のベツドの上に寝転んでゐた。
 入口で、素子は、かう云つた――
「おやすみになれて? お邪魔してごめんなさい。今ね……」
 と、彼女は、委員会のあらましの状況を説明し、この機会に彼の意見を述べてみてはと勧めた。
「いやだ、僕は、そんなところへ出て喋るのは……」
 彼は頭を押へながら、尻ごみをした。
「いやつていふ法ないわ。ご自分の考へをぢつとしまつておおきになつて、どうなさるの? そのためになんべんも地元の青年たちとお会ひになつたんでせう? その結果、あなたが会社に対して忠告をなすつたやうに、別荘の人たちにも、第三者としておつしやりたいことがきつとあると思ふの」
「だつて、そんなことは僕から云ふべきぢやない。別荘の人たちが自発的に考へるべきことです」
「考へる人がゐなかつたら?」
「事が面倒になれば考へるでせう」
「事を面倒にしないためにはどうすればいゝの?」
「知りません。僕一人でなにができます?」
「一人ではなにもできません。しかし、誰かがはじめなければならないのです……」
 素子は、それをわざとゆつくり、彼の口調を真似て云つた。
 すると、幾島は、一つ時ぽかんとしてゐたが、やがて苦笑しながら、云つた――
「人、各々畑あり、です」
「道はすべての人のためについてゐるんですわ」
 彼は遂に声をたてゝ笑つた。
「あなたは何時そんなにお説教がうまくなつたんですか?」
 素子は、ぢつと彼の眼を見すゑてゐた。が、ちよつと羞むやうに顔をかしげて、
「あなたが……あなたとお近づきになつてから……」
 その時、幾島は、大きく息を吸つて、
「それぢや、僕が出て喋つた方がいゝんですね? たしかにいゝんですね?」
 と力を籠めて、訊ねた。
 彼は素早く上着を着た。素子は、後ろからそれを助けた。
 二人は部屋を出て、廊下を並んで歩いた。
「僕は、さつきうとうとしてたんですが、どこかで演説をしてる夢をみましたよ。をかしなもんだなあ……はじめ、ベツドのうへへ寝ころんで、しばらく、今日開かれるつていふ委員会のことを考へてゐたんです。いろんな議題を想像して、勝手な人間に突飛な議論をさせてゐるうちに、いつの間にか眠つちまつたんだが……」

 二人の姿が会場に現はれるや否な話声がぴたりと止んだ。
 素子の紹介がすむと、幾島は、好奇的な数多の眼が自分に向けられてゐるのをはつきり意識しながら、まづかう切り出した――
「僕はたゞ、この部落の青年たちと二三度会合して、土地の事情と、彼等青年の心理とを多少知ることができましたので、自分が平生考へてゐる都会と地方との対立といふ問題に結びつけて、こゝのやうな特殊な別荘地の、理想的な在り方について、二三、具体的な対策を思ひついただけです。一例を挙げますが、このへんの山村の家庭では文字に親しむといふ要求も少いのですが、またその便宜もない。ごく勤勉な、最も合理的に家計を立てゝゐる小作農の一家族は、毎月教養費として二十銭を支出し得るに過ぎません。これがそのなかでも知識に餓ゑてゐる青年子女のおかれてゐる運命です。われわれはかういふ訴へに対して、なにもできないかどうかです。もうひとつの点ですが、これは今の問題と関連して、都会といふものが、地方農山村に比べて、すべての点で優位にあるといふ過つた観念を都会人の大部分がもつてゐるんです。これがどうもまづい。大体に於て、こいつは生産階級と消費階級との間にある微妙な差別的感情ですが、殊にかういふ土地では、露骨にさういふ感情がぶつかり合つてゐるんです。
 僕は結局のところ、田舎の人たちに、都会生活者羨むに足らず、また都会の人たちには、農山村の住民、軽んずべからず、寧ろ、真の意味に於けるその活動の尊さを認識させるといふことが、先決問題だと思ひますが、それには一方的な配慮や処置だけでは役に立たない。両方の識者が努めて協力しなければならないと思ふんです。そこで、第一に提案したいことは、こゝにお集まりになつてゐるやうな方々と、地元の有志、殊に青年代表者たちとが、時々会つて話をすることが必要だと思ひます。そこから、いろいろな研究すべき問題が生れて来ます。僕がこれまで彼等と話し合つて、およそ見当のついたことを、次にならべてみます……」
 この時、一人、席を立つて、部屋から出て行つたものがある。
「あなた方のご家庭でご不用になつた書物雑誌類を、少しづゝでも全体を纏めて、毎夏部落の集会所へ寄贈されてはどうかといふこと。別荘と地元との小学児童を主体とする共同運動会を開いて、双方から馴れ親ませるやうに誘導すること。これは土地の小学校の先生で非常にその効果を期待してゐる人がゐます。冬季副業のうち、特に土地の名産品といふやうなものを奨励して、その販路の保証を、ある程度まで、会社或はみなさんの手でなさること。別荘居住者、殊に婦人子供などが団体をくんで予め打ち合せをしたうへ、土地の主な生産活動、キヤベツの栽培とか、養蚕とか、炭焼とかいふものを、随時見学すること。その他、この土地の歴史などを詳しく調べてゐる小学校の先生がゐますから、さういふ人の話をみなさんでお聴きになるといふやうなこと。まあ、ざつとこれくらゐです」
 幾島は、座につくと、急いで汗を拭いた。
「どうもありがたう」
 と、今村老大佐は云つた。
「どれもこれも理想案ですな。われわれは社会事業をしにこゝへ来とるんぢやないから、……ワハツハツハツヽヽヽ」
 馬鹿々々しい高笑ひといつしよに、この男もまた起ち上がつた。
「理想案です。理想を失つた人間には、その頂上と麓が見えないばかりです」
 幾島は、昂然と云つた。

「今のお話はだいたい結構ですが……」
 と一人が起ち上つて喋りだした――
「私はそれにつけ加へて、曾根部落の神社ですな、あれの清掃美化運動をひとつ、われわれの手でやつてはどうかと思ふのですが……私は実は造園の方を専門にやつてをるものですが……」
 誰かがそこへ口を挟んだ。
「そいつは結局、勤労奉仕といふことになりますが、どうでせう、人が集まりませうか」
 すると、また別の一人が、これは坐つたまゝ、からだを乗り出して、
「私の家内の話ですが、このへんの部落を歩いてみると、幼児の栄養が非常に悪いといふことです。若し、当委員会のご希望でありましたら、家内がその方面の調査と指導をお引受けしてもいゝのですが……」
 と、人の好ささうな眼で一同を見廻したのは五弓ごきゆう和久朗といふ童話作家であつた。
「そいつは、余計なお節介だつて云はれますぜ」
 隣の保険会社員が云つた。
「そんなこと云や、あんた、さつきからの話はみんなさうだ。ひとつだつて余計なおせつかいでないのはないや」
 そこでまた、みんながどつと笑つた。
「議長!」
 と、この時、テーブルの反対の端から叫んだものがある。
「かういふことをいつまで云つてても切りがないぢやありませんか。わしはね、いや都会だ、いや農村だといふやうな議論は、これや政治家に委せておけばいゝと思ふ。わしなんか別に都会人でもないが、たゞ田舎ぢや食へんから東京に出とるだけです。自分ぢやどつちの贔屓をするつもりもなくつてですな、この二つは元来、食ふか食はれるかといふやうなもんで、云つてみれや西洋と東洋ぢや、これや……」
 その譬へよりも、その声の上ずつた調子が、どうやら歌舞伎芝居の三枚目に似てゐたので、誰も彼も吹きだした。なんとか紙器製造工場の経営者である。
「さうですとも……われわれがかうしてさゝやかながら別荘を構へるといふのがです、これ即ち、農村の土地を心ならずも奪ふといふことで、これがもう一種の挑戦です。その代り向うも、それに対してわれわれの懐から利益を得てをるに違ひない。好んで紛争を捲き起す必要もないが、さきほどの、その若い方のお話のやうに、なにもこちらから同情してみせたり、おべつかを使つたりする理由はない。堂々と互にしのぎを削つたらいゝ。これが生活の原理です。競争のないところに文化の向上はありません。いつたいぜんたい、何がさう怖いんですか?」
 某大会社の課長で、泰平郷テニス・クラブの創立者、ラケツトを膝の間に挟んでゐる。
 幾島は、その男の方へ鋭い視線を向けた。
「あなたは大へんお強いやうですが、競争と摩擦との違ひをご承知でせうか? 云ふまでもなく競争は互に伸び、摩擦は共に滅びるのです」
「そんな摩擦がどこにあるといふんです。われわれとこの土地の人との間に? 第一、接触する面なんていふものは殆どない。若しあるとすれば、すべて金銭的に解決できる。ないものがあるものを妬むといふ現象を、あなたは避け得られる摩擦と考へられるのか?」
 向うも鋭くつめ寄つて来た。
「さう考へ得ないこともありませんが、問題はその点にあるんぢやないと思ひます。日本の現状からみて、われわれはもつと同胞の苦難をひとしく身に感じなければならないからです。同胞のたゞ一人の声をも聞きのがしてはならないからです。われわれが今日の生活に於て、日本に生れたことを誇り得るのは、互に同じ喜びを喜びとし、悲しみを悲しみとすることができるといふ、たゞそれだけぢやありませんか!」
 さう云つて、拳を卓子の上で固く握つた幾島の眼には、きらきら涙が光つてゐた。

 幾島は、一種手硬てごはい沈黙のなかを抜けて自分の部屋へ帰つた。そして、上着を脱ぐと、再び寝台の上に横になつた。
 なぜかう涙が出るのか、おそらくたゞ興奮したためにすぎないと自分では思つてゐたが、決してそればかりではなかつた。彼の心は穴倉のやうに暗く、寒々としてゐた。なにかにぶつかつて弾き返されたやうな、すぐには足腰もたゝぬほどのやるせなさであつた。
 それは必ずしも自分の議論が、相手と太刀打ちのできないほど弱味を暴露したとは信じてゐない。それよりも、あの一座の、叩いても音のしない、不気味な表情の壁のせゐである。
 彼は眼を閉ぢて、自分の言つたことをもう一度繰り返してみようとした。
 しかし、それは、順序もなく、たゞ切れ切れに頭に浮ぶだけであつた。
 どれくらゐの時間がたつたであらう。彼はドアを軽くノツクする音で、ふと我れに返つた。
 素子がはひつて来た。彼は起ちあがると一緒に、子供のやうにワイシヤツの袖で眼をこすつた。
「ブラヴオー」
 と、彼女は、左手を彼の方に差しだした。
「なにがブラヴオーです?」
 彼は不愛想に云つて手をうしろへ廻した。
「あれだけおつしやれば気がおすみになつたでせう? 別に決議はしなかつたけれど、通じるものには通じてるわ」
「………」
「どうして、そんなこはい顔してらつしやるの? 不意にお起ししたから?」
 さう云ひながら、彼女は幾島の腰かけてゐる寝台のわきに、これもまた腰をおろして、そつとその手を引き寄せた。
「あたし、とてもうれしかつたわ、あなたのあゝいふところはじめて見て……男つていゝわね、いくらでも相手に切り込んでいけるから……」
 すると幾島は、彼女から少しはなれるやうにして、かう云つた――
「余計なところで余計なことを喋つたのは、あなたのお蔭ですよ。腐つた、僕は、こんな目にあつて……。少し歩いて来ます」
 上着の方へ手を伸ばさうとするのを素子は、さうさせない。その手をしつかり両手で押へたまゝ、彼の方へ躙り寄つた。
「後生だから、もうしばらくかうしてて……。あたし、なんだかこのまゝ日本にゐたくなつたわ。今までぼんやり気がつかずにゐたことが、すこしづゝわかりかけて来たの。かうしてゐたつて、美しいものが見られるつていふ気がするわ。愛すること、戦ふこと、死ぬこと……あたしにもこれから立派にそれができるつていふ自信がついたの。あなたが若し、パラグアイ行きをやめろつておつしやれば、あたし、きつぱり思ひ止るわ。さうして、このまゝなんでもいゝから、ほんとに生れて来てよかつたと思ふやうな幸福を探すわ……」
 彼女の声はだんだん低く、しまひには、殆ど口の中で呟くやうに云つた。
 幾島は、耳を澄まして、その声を聴いてゐるうちに次第に自分の気持がぐんぐん引きつけられて行くのを感じた。それは、もう、すこしの抵抗をも伴はない、青空へ融けこむやうな陶酔であつた。
 彼には、しかし、さういふ自分を、まだ見まもる余裕があつたのである。

 冷やりとした風がひと吹き大きく吹いて、窓のカーテンを捲きあげた。
 木の葉がさらさらと鳴つた。
 夕立である。
「あ、大へん大へん……」
 さう云ひながら素子は身軽に飛んで行つて窓を閉めた。
「あたしの部屋も開けつ放しよ。ぢや、またあとでね……」
 彼女は激しく吹きこむ雨のしぶきを浴びて、やつと、自分の部屋の窓硝子に手をかけた。それから少女たちに雑巾をもたせて各部屋を見廻らせ、干し物はないかと注意し、夕食の支度を指図しに台所へ行つた。
 そこでは、粕谷がうまさうに水を飲んでゐた。
「どうでした?」
「今夜九時に着かれるさうです。しかし、近藤さんにお願ひするのはかまひませんが、本格的な水源踏査つていふことになると、これや一日仕事ですぜ。お気の毒ですなあ」
「あたしがお願ひに行くわ。なんなら、正式の依頼つていふことにして、相当のお礼をしませうよ。今度こそ徹底的にやらなくつちや……」
 その晩、彼女は、二組の客に契約をさせ、ホールで幾島と晩くまで話をした。
 新聞の朝刊が二人の前にひろげられてゐたけれども、地方版はまだ立花家の不幸なニユースを報じてはゐなかつた。
 翌朝、素子は、近藤技師のところへ出掛けて行つた。彼は即座に彼女の頼みを引受けた。そして、すぐに現場へ行つてみようと云つた。
 素子は、事務所から使ひを倶楽部へ走らせて、幾島を呼ばせた。
 粕谷のほかに人夫二人を加へて、現地踏査の一行は出発した。自動車の通る道はすぐに尽きた。
 地図をたよりに、小径をひろつて歩くうちに、いくども方向を迷つた。それほど深い林を抜けなければならなかつた。登り降りも激しかつた。
「大丈夫ですか?」
 幾島は素子に訊ねた。
「大丈夫よ。なんだか猛獣狩りにでも来たやうね」
 深い草叢の中で、彼女はさう云つてはしやいだ。
「出るか出ないか? 但し、ライオンでなくつて、水だ」
 幾島もそんな戯談を云つた。
「井戸や温泉を掘るのと違つて、極端な深度の制限がありますから、こいつが一番厄介です」
 技師は落ちついて話す。
「たゞごらんになつただけでわかるもんですか、深度や水量なんか?」
 幾島が問ひかける。
「水の浸出しかたによりますが、わからないこともあります。見込をつけて、やはりボーリングしてみなければはつきりしたことは云へませんな」
 一時間あまり歩いたであらうか。粕谷が前の方を指して、
「あの平です。西側の斜面がずつと伸びて、曾根部落の南へ続いてをります。こゝです、ちやうど……」
 と、地図をひろげて近藤技師にみせる。
「ふむ、場所は理想的だな」
 はじめは、季節の違ひのために見当がつかなかつたけれども、近づくに従つて、幾島は、たしかに自分が去年の冬来た場所であることを想ひだした。
「こゝだ、こゝだ」
 と、彼は思はず叫んだ。

 鑑定の結果、大いに有望だといふことがわかつた。しかし、すべては試掘の結果に俟たなければならない。
「どうか是非……。いづれ更めて本社の方から必要な手続をいたさせますから……」
 素子は、元気づいて云つた。
「承知しました。だが、序だから、もう少しこのへんを見ておきませう。ちよつと地図を……」
 近藤技師が地図をのぞき込んでゐる間、素子は粕谷に耳うちをした。
「もうこんな時間よ。お弁当の用意をしてくればよかつたわね。あたし、もつと近いと思つたもんだから……」
 相談の結果、彼女が幾島と一緒にひと足先へ帰ることにした。
「あなたに百円の懸賞を差上げなければならないんだけど……」
 と、素子は、歩きだしてしばらくすると、云つた。
「僕ともう一人、例の土地の青年でせう? そいつはありがたい。……しかし、僕は棄権しますよ。そんなもの、をかしいや」
「あ痛ツ! この靴ぢや歩きにくいわ。あなたつてへんな方ね。なんでも一度はごねてみるのね」
 幾島は吹きだして、
ごねるか、あなたが云ふからなんのことかと思つた。さうさう、このへんを歩いたなあ、去年の冬は……。木の葉があるのとないのとぢや、こんなに違ふかなあ」
「お化粧をしてるのとしてないのとの違ひだわ」
「ところが、僕は、その冬景色つていふやつが、なかなか好きですね。あなたはお化粧の価値を重く見すぎてますよ」
「あなたに女のお化粧のことなんかわかつて?」
「それやわからないけど、あなたはとにかく目立ちすぎるんだ。僕に云はせると、あなたがそこにゐるつていふ、それ以上のものを、いつでもあなたはからだにくつつけてますよ」
「待つてちやうだい、考へるから……」
 一方は崖、一方は谷であつた。崖はところどころ岩肌をむきだし、高さは三メートル以上あつた。その頂上からは、あるひは蔦が垂れ、あるひは羊歯が群をなして伸びてゐた。
 幾島は立ちどまつた。そして、崖の下から上を見あげた。
「なに?」
 と、素子がそばへ寄るひまに、彼はステツキを放り出して、その崖を攀ぢ登らうとした。駄目である。足場はあるのだけれども、片手ではどうしてもからだを支へることができない。なんども試みてなんども失敗した。
「どうなさるの? なにかあるんですの?」
 彼は汚れた手を払ひながら、いまいましさうに云つた――
「いや、珍しい『こもちしだ』があるから、標本に持つて帰らうと思つたんだけれど……」
「どれ? 教へて」
 彼はステツキを拾ひあげると、その先で一株の華車な羊歯の葉を指した。
「あたし、やつてみる」
 さう云つたかと思ふと、彼女はハンドバツクを彼の手に渡さうとした。
「およしなさい、あぶないから。無理に採らなくつたつていゝんです。またどつかにありますよ」
「でも、珍しいものなんでせう?」
「あゝいふ風な標本があると便利だつていふだけなんです」
 彼女はたうとう、靴を脱ぎすてゝ、突き出た岩の一端へ足をかけた。

 非常に慎重に、だが、途中まで、わりにすらすら彼女は登つて行つた。
「あつち向いてらしつてよ」
 上の声に、幾島は、ハツとして眼を反らした。
「さあ、いゝ加減で降りてらつしやい」
 そのへんで彼女は諦めるだらうと思つてゐた。
 と、途端に、ザザツと土の崩れる音がしたので、彼は、振り返つた。その、振り返つた彼の胸さきへ、彼女の全身が落ちて来た。不意を喰つて、どうする暇もない。彼も、全身に力を籠めて、受けとめた。二三歩よろけただけですむところを、道が狭いために、足を踏み外した。二人は一団となつてさほど急でもない谷の斜面へ転げ込んだ。幸ひ、そこは草地であつた。
 幾島が、黙つて彼女を抱き起さうとすると、彼女は、うつ伏せになつたまゝ、肩で「いやいや」をする。
「怪我はしませんでしたか?」
 また、首をふる。しかし、よくみると、片肱を真つ赤に擦りむいてゐることがわかつた。
「ちよツ」
 と、彼は舌を鳴らした。
 その時、彼女はむつくりと起きあがつた。彼は彼女の靴を拾ひに走つた。何気なく崖を見あげると、さつきの羊歯がそのまゝ風に靡いてゐた。
 彼は、ふと、素子がなにをしたのかといふことに気がついた。彼は、脚を投げだしたまゝ靴を穿きつゝある彼女の顔をのぞき込むやうにしてやさしく訊いた――
「肱のほかに、どこか打つたとこはありませんか? 脚は?」
 すると、彼女は、不断のまゝの微笑をうかべながら、彼の眼をぢつとみた。
「ごめんなさい。たうとう採れなくなつて……。でも、すぐに事務所から誰か連れて来て採らせるわ」
 さう聞くと、幾島は、ぐつと胸がつまつた。
「あの標本一つのために、あなたのからだにこんな傷をつけて……どら、みせてごらんなさい」
 彼女は、肱をあげてみせた。
 彼がポケツトハンケチで滲んだ血を拭かうとすると、彼女はそれを遮つて云つた。
「いぢらない方がいゝのよ」
 彼は出しかけた手をそのまゝ素子の肩へおいて云つた――
「ありがたう、素子さん……。あの羊歯はいろんな意味で記念になります」
「ほかの誰にもとらせたくなかつたのに……」
「今日は、僕は、自分の力が倍になつたやうに思ひます。いや、三倍かな……」
「三倍つて?」
「僕の手が一本、あなたの手が二本……」
「そんな戯談はいや……」
 と、彼女は、彼の胸に顔を押しつけた。
 谷がはるかに西の方へ開いてゐた。すぐ眼の下のこんもりと茂つた森の縁を、里へ通じる小径がS字形に縫ひ、それに並んで水車が二つ見えた。水車は動いてゐない。
 その小径のゆるやかな傾斜を、二台の自転車が続いて通る。先登せんとうは男で、後のは女である。男は軍服を着た黒岩万五だ。そして、女は、横顔ではつきりはしないが、たしかに、小峯セツ子に違ひなかつた。
 やがて、それも見えなくなる。
 幾島は、いつまでもさうしてゐる素子の髪の毛に、うつとりと自分の頬を撫でさせてゐた。

底本:「岸田國士全集14」岩波書店
   1991(平成3)年4月8日発行
底本の親本:「泉」三学書房
   1943(昭和18)年8月25日発行
初出:「東京朝日新聞、大阪朝日新聞」
   1939(昭和14)年10月7日〜1940(昭和15)年3月11日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2012年8月7日作成
2012年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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