私はこの雑誌の五号で「カットの文法」という文章を書いたが、あの中で私は次のように書いた。カットをつなぐのは、ほんとうは、観衆なのである。観衆が、あの場面と場面をどんなこころで、つないで見るかを頭に置いて、シナリオ・ライターも、監督も、フィルムをつないでいくのである。
 フィルムには「である」「でない」の言葉がカットとカットの間にないから、小説家が勝手に書くように簡単にいかないのである。
 シナリオ・ライターの悩みはここにあるのである。
 シナリオ・ライターは、だから直接、大衆のこころの中に割り込んで、一緒に、シナリオを書いていかなくてはならない。
 大衆のこころのどまんなかに融け込んでいなくては、うまいシナリオとはなってこないのである。
 もはや、映画が、独りよがりの、個人的天才の芸術のための芸術というようなものではありえなくなりつつあると共に、この種の芸術論をでんぐりかえして、新しい天地に、自分独特の世界を切りひらきつつある。
 そこで、シナリオ・ライターが、大衆の知恵を、どう測定し、どの角度から、その懐ろに飛び込んでいくかが、大きな問題となってくるのである。
 ことに、一体、日本の大衆とは何なのか。
 日本は、世界が、一度も実験したことのない、歴史的実験を試みている。
 それが島国であったからできたことであるが三百年にわたって、国を外国から断ち切って鎖でとざしてしまうことができたという、とんでもないことをやってのけたのである。
 国の文化を、冷蔵庫の中に閉じ込んで、じいっと、そのままに三百年も、凍らせてみるという大実験をしたのである。
 そこには二つの大きい問題がある。
 一つはプラスとも思えること、一つは何といってもマイナスにしかすぎないことである。プラスといえるものは、三百年もの間戦争をせずに人間が生きてきたことである。このことから、妙な、凝った、ひねたものまでが、その美を追求し、手の込むのを何とも思わない遊びにまで発達した。ここに外国にさがせないものが発生した。雛人形の凝りに凝った儀式と、その大衆的遊びかた、あるいは、春は花見、夏は七夕、川開きの花火、明月にあとの月、菊に雪見にいたるまで、その衣裳まで、凝りに凝るという、上等なメロンにウィスキーを入れて四、五日冷凍したような、手の込んだ冷凍文化がここに三百年つづいていることは、何でもないことのようであるが、大変なことなのである。
 しかも、その冷凍が、この蒸しあつい一九〇〇年代に、一度に開放されて、野ざらしになっていることである。冷凍の常ながら冷たいまますぐ腐っていく可能性がじゅうぶんあるのである。それはそのまま、マイナスに転化する。
 この三百年のマイナスは、いうまでもなく、呂宋助左衛門頃(一六〇〇年)世界のどこにも、オランダにもイギリスにも負けない態勢にあった国が、ピタリとその発展を三百年の弾圧につぐ弾圧で、冷凍して、封建の大ピラミッドをエジプトの巨大さよりも、はるかに大きく高くきずいていったのである。
 一言にしていえば、この明治以後の百年ではどうしようもない封建性の残滓が、近代知識と同時に共存して、世界に類例のない滑稽な姿で、世界のスポットライトの前にさらされている。
 マッカーサー元帥が、日本を十二歳ぐらいの子どもだといったのは、このペコペコするチョンマゲ残滓が、あまりにも奇妙にうつったからなのであろう。
 三百年の冷凍文化が、三百年の過去を一度に、古めかしい博物館を白昼の街頭に土用干ししたように、一度に並べたてているのが明治、大正、昭和につながっている私たちの文化であり、大衆の立っている地盤なのである。
 そこで、「知識人」といっても、じゅうぶん眉につばをつけなければ、いただけないものをもっているのである。「抜け馳けの功名」、やあやあ我こそはという「見てくれ根性」等々、その尻には、変なものをいっぱい引きずっているのである。
 自然のパニック、人為的パニックの連続でこの三百年、否三千年を、滝壺の水のように、繰り返し、繰り返し、たたきつけられている農民は、この百年にできてきた「知識人」を、妙な目でいまだに見まもっている。
 この農民たちは、いまだ、思想といえるほどのものをもっていない。しかし、強い願いを、この二千年ももちつづけて、一度も自分たちの思いを表現したことがないのである。
 農民にあるのは、善良と残忍、信頼と懐疑、エゴイズムと濫費等々、個性というよりも、「矛盾的性格」である。三百年の二重の重圧は、彼らに世界に類例のない不可解な性格を出現している。
 あのフィリッピンあたりの戦犯の死刑宣告の日本兵たちも、村に帰れば、善良きわみない父であり子であるであろう。これはアメリカ人にはわからないであろう。
 しかも、肥料のことでも、自然の秩序の動きでも立派に理解し察知できる彼らであり「知恵」というにふさわしい必死の知識を蓄えている彼らである。
 しかし、長いパニックの連続は、彼らを、二千年のアプレゲール、「矛盾的性格」に追い込んでいる。
 いまだ、彼らは、「知識人」を見まもっている。彼らの表現せんとしてきた、果していない自分の顔をいかに表現してくれるかと、その口もとを見まもっている。
「股旅もの」が流行し、「剣もの」が「ピストルもの」にかわっていても、彼らが求めているのは、もっとほんとうの奥のもの、しみじみと語ってくれるものなのではないだろうか。もっと、ほんとうの涙、ほんとうの声を見聴きしたいのではないだろうか。
 大衆の「知恵」に見まもられているシナリオ・ライターの位置は、この三百年の冷凍文化崩壊後の現代において、まことに切実な位置であるといえるであろう。
 ほんとうにカットをつないで見るのは、この日本の大衆なのである以上、シナリオ・ライターは、この大衆の「知恵」のどまんなかに融け込んでいかなければならないのである。
 容易ならざるものがまっている。
*『シナリオ』一九五一年九月号

底本:「中井正一全集 第三巻 現代芸術の空間」美術出版社
   1981(昭和56)年5月25日新装第1刷
初出:「シナリオ」
   1951(昭和26)年9月号
入力:鈴木厚司
校正:宮元淳一
2005年3月25日作成
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