『詩経』は中国での万葉集ともいうべき、まことに可憐な詩句と自由な愛がうたわれている。しかし、この詩篇を注釈した中国の最古の最大の美学者は、「詩は志なり」「詩は刺なり」といい放っている。
「志」とは、文学と文化に関係をもつものたちが、政治に対して、消しても消しきれない断っても断ちきれない願いをもちつづけること、そしてそのために身の危険を冒しても、あえて挺してそれを貫かなければならないところのものである。
 詩は、かかる五分の魂を風に吹かれてひろがる虫のように、人の口から口に伝わってひろがらしめるものである。詩が「諷」せられるというのも、風の中に「虫」の字がひそんでいるのもそのことをものがたっているのである。
「刺」とは、このひろがるところのものが、人民のうらみのことばであり、詩は剣のように、ひそかに政治の誤謬をさし貫き燎原の火のごとく人の手から人の手にうつりゆく武器となったのである。「諷」と「刺」は、かくして一つのものとなってくるのである。
 鄭玄の注の中に見いだされる東洋の古い美学には、プラトン、アリストテレスにない苦しい伝統の出発がある。
 この「志」と「刺」とは私たちの注目すべき、言葉である。
「古代のほほえみ」アルカイク・スマイルという言葉があるが、これと無関係ではないと思われる。ギリシャにも、エジプトにも、大同の石仏にも、中宮寺の観音にも一貫した「ほほえみ」があるのがそれである。
 私は、三百日の留置場生活の中で、顔前をうつり変わった数百人の人々の中に、この種の「ほほえみ」とギクッとするほど似たものを数度見たことがあった。そして、「刺」の中にある、ある嘆きの深さ、ほほえみの深さにふれたように思った。
 私は、詩句と詩句をつなぐものは、この「志」と「刺」であるという古い古い美学を、もう一度しっかり探求すべきであると思われる。
 私は映画の美ほど、このことと離れていない芸術はないと思っている。
 小説も絵画も、見ている視点が大体定まっている。したがって、方向と、範囲もきまってくる。ことに、小説では「……である」といった、と作者の肯定ないし否定の「コプラ」繋辞がついてくる。だから個人作者の観点が、一つ定まっていなければならない。
 ところが映画では、カットとカットの連続の間には「繋辞」「である」「でない」というものがなしにつながって、大衆の中にそのままでホリ込まれるのである。
 だから、監督がある予想でつないだカットも、現に館で観衆の拍手がきてみなければ安心はならないのである。
 全然反対の結果となることもないとはいえないのである。もし万一、監督が大衆の願いの「志」と「刺」から遊離してきたとなると、その監督のほうが映画界から消えてなくならなくてはならなくなる。……もっともファッショ時代はその反対であろうが。
 ここに映画は、別の文法をもっていることを考えざるをえない。
 トーキーあるいは字幕で通り一遍の「繋辞」「コプラ」をもってはいる。しかし、もう一つの大きなコプラは、大衆が「である」「でない」と胸三寸でつぶやくそのささやきの中にある。
 もし歴史が神の手でつくられるのだったら、神様の独言のようなコプラがひかえている。
 歴史のつぶやきがどのカットの継ぎ目にもさしはさまれ、刺し込まれている。どんなつまらないメロドラマの一カットにも、ガリレオが「でも地球はまわる」とつぶやいたような、この歴史のつぶやきと、嘆きの息がはきかけられずにはいない。
 文学でハッピーエンドを甘いとし、映画でもハッピーエンドを低級映画のしるしのようにいう伝説が批評界にあるが、しかし、私は、この映画で要求されるハッピーエンドへの傾向は単にそれが利潤機構であるからというだけでなく、このカットが、大衆の願いの鋏でつながれていることに関係があるのではあるまいかと思っている。
 継がんとする「志」、断たんとする「刺」うらみが、カットとカットをつぎはりする時、そのエンドは、個人の天才のペーソスでは盛りきれないほど、歴史の憤りが、それを波のように覆いつくすのではあるまいか。
 映画は、何にもまして、その時代の人々の「願い」、「悲願」に最も近く構成されるべき、文法を、みずからの構成の中にもっている。
 そこで、それは、芸術の始源の形態、すなわち「神話」化する傾きをもっている。
 モーゼが、一万の大衆をひきいて、紅海の岸に立った時、あのひろいひろい海に向って、
「この水よ開け」
 と、叫んだ、その時、水は徐々に彼の眼前にひらいたのである。そして、一万の大衆は乳が流れ蜜が流れるカナンの地に向って進んでいくのである。
 あの「この水よ開け」というこころ、あのこころざし、これほど、今、この歴史の中で、大衆の三寸の胸に叫びつづけている言葉はない。
 それは最もリアルな叫びなのである。
 この叫びが、映画のカットをつなぐ、最も強力なアクセントなのである。
 映画の文法は、この大衆の暗い叫びのリアルさをさぐり求めて進んでいくことに、これまでの芸術にない、巨大な武器と構成要素をもっている。作者も、その一員となって、世界と共にうたわなければならない創作構成をもっている。
 しかし、この文法の駆使は、まだ、真に文学から独立して、自分のものとして荒々しい力をもって立ちあがっているとはいえないのではあるまいか。
*『シナリオ』一九五〇年七月号

底本:「中井正一全集 第三巻 現代芸術の空間」美術出版社
   1981(昭和56)年5月25日新装第1刷
初出:「シナリオ」
   1950(昭和25)年7月号
入力:鈴木厚司
校正:宮元淳一
2005年3月25日作成
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