「背広一と揃いと外套がほしいんだ。ちよつと見せてくれ」
「おや、あんたはん、復員とちがいまつか」
「お察しのとおり。だから、早くこのボロ服を脱いじまいたいんだ。相場はどんなもんか知らんが、現金が足りなかつたら、ちよつと金目のものを持つてるんだ。とにかく、寸法の合うやつを頼む」
出された中古の二、三点のなかから、手あたり次第、身丈に合つた灰色無地の三つ揃いと、すこし旧式すぎたが、暖たかそうなダブルの黒外套とを、これときめて値をきくと、当節、どんなに勉強しても両方で二万五千だと、主人は、それを引つ込める身構えで言う。
「よし、現金はむろんそんなにない。その代り、こいつを金にしてくれ。いくらに踏むか、おじさん」
彼が、胴巻から取り出したのは、金無垢と一と目でわかる女の腕環であつた。
「これや、なんや。ようでけとるけど、鍍金やな」
「よせやい、じいさん、ふざけないで、早くしろよ。買うのか、買わないのか」
「いくらやつたら、よろしおまつか?」
「目方をかけたらすぐわかるじやないか。二十八匁きつかりだ。三万ならいゝだろう」
古着屋の唇がヒョットコのように伸び、
「よろしおま、信用しときまひよ」
京野等志は、一時間後に、出張先から帰る一会社員の風体に早変りをした。実をいうと、彼は、鹿児島へ上陸するとすぐに、復員局の事務所で荻窪の家の処番地が変つていないことだけをたしかめておいて、早速、リュック・サックにつめたろくでもない品物を一切売り払つた。収容所を出る時、時計も万年筆も捲きあげられ、いよいよ乗船の間ぎわに、サイゴンの桟橋へ駈けつけて来たポーレットが、別れの挨拶をしに頬を差出したとたん、飛行靴の胴へ手早く落し込んだのが、この金の腕環で、その時は、なんの意味ともわからず、たゞ紀念にというほどの感傷を、あの黒くうるんだ瞳のなかに読んだきりであつた。
ポーレット・ユアンは、フランス人と安南人との混血児で、いわゆるメチスの娘なのだが、彼が俘虜生活をはじめてから、ふとした機会に言葉が通じたのがもとで、やがて、ずるずると一年あまり、公用にかこつけて、彼女のアパートへ週に一、二度隙をぬすんで会いに行く間柄となつてしまつた。彼は、幹部候補生あがりの軍曹であつたが、収容所では、外国語学校中途退学の語学力がものを言い、通訳という何かにつけて役得の多い地位をひろいあてたのである。
さて、そのポーレットの贈物が、意外なところで役には立つたものの、彼は、いささか無惨な気持がしないではなかつた。それは、消えれば消えたでもよい過去の甘ずつぱい記憶の一つである。しかし、それはまた、ほかのいくたりかの相手とは違う、なにかまともなものを心の隅に残して行つた不思議な異国の女であつた。
東海道線の急行は、さすがに彼をさまざまな感慨にふけらせたが、次第に東京に近づくにつれて、彼の胸は押しつけられるように痛んだ。母の顔、そして、父の顔がまず眼に浮かぶ。留守宅の所在が明らかになつたということは、父がまだ生きていたということ以外に、ほかの家族の安否をたしかめたことにはならない。母は無事なのであろうか? 妹や弟たちは、みな元気でいるのかいないのか? それからまた、家の暮し向きはどうなのか? その日の生活に困つているようなことはないか? 鹿児島から、ほかのものがおおかたそうしたにもかゝわらず、彼は、わざと留守宅へ電報を打つのをやめた。別に深い理由はない。たゞそんなことをするのがいやであつた。少しでも大袈裟な身振りで家の閾をまたぐ気になれなかつたのである。それこそ、なんでもなく、ちよつとした旅行から戻つたように、「ただいまア」とひと言、それきりですませたかつたのである。
ほんとうのところ、彼は、印度支那の岸を船がはなれ、ポーレットの姿が南の空のなかに消えたとき、なんとも言えぬ複雑な感情がこみあげて来て、泣くにも泣けず、笑うにも笑えぬような、妙な一瞬を過したことを思い出す。ほッとしたといえばそうもいえるが、内地へ帰り、家族のものに取り巻かれることを想像すると、それをたゞ、うれしいとはどうしても言いきれない、あるこだわりが底の底にある。なぜだろうか? 彼にも、はつきりとは答えられまいが、おそらく、この年になつて、彼はもう三十一だが、七年間も家をあけ、戦場から戦場を駈けめぐつて、それこそ、孤独と殺風景になれた生活から、急に、両親と弟妹から成る家の秩序と情実のなかへ飛び込む億劫さは、よくよくのことなのであろう。
現に、彼は、東京駅へ着くと、その足で中央線に乗り換えはしたが、まつすぐ荻窪へは行かず、新宿で電車をすてた。もう、日が暮れていた。
敗戦のすがたはこれかと思われる奇怪な雑沓とネオンの光のなかを、彼は、つとめて平然たる足つきで縫い歩いた。嘗て足繁く通つたバアの看板はどこを探してもなかつたが、風変りな喫茶店が軒を並べた裏通りで、彼は真夜中まで、どぎつい色と匂いのなかで、盃を傾けた。
あるそういう店の女主人が、彼に突然、馴れ馴れしく話しかけた。
「あなた、失礼だけど、遠くから帰つてらしつた方ね。今朝、どつかへ上陸したつていう顔よ。ほら、その眼つきよ、いやに懐しそうな眼つき、こわいようだけど、その実、なんかを探している淋しい眼つき、わかるわ、あたし……」
彼はもう可なり酔つていたけれども、その言葉が、たゞのキザなお座なりとは響かず、周りを取巻く女たちの蓮葉な笑い声に交つて、気味わるく尾を引き、チクリと脳天にこたえた。
「ふむ、そう見えるか。いゝ勘だ。そういう君は、たしか満洲からの引上げだね。どうだ、そのカールでかくした額に書いてある」
「あら、すごい」
と、一人の若い女が、眼を丸くして双方の顔を見くらべながら叫んだ。
「話せるわ、このひと」
洋装にいくらかのおちつきをみせた女主人は、いきなり、彼の真横へ割り込み、肩へ手をおいて、しげしげと彼の眼へ、意味ありげな視線を流しこんだ。三十をもう五つ六つ越したと思われる年頃だが、その面やつれが却つてかげを深くするなまめかしさで、彼の神経を容赦なく撫でまわした。
「ちよいと、満洲は、あなたどこにいらしつたの?」
「僕か、僕は牡丹江からハイラルまでを転々とした。一番長かつたのは、ナラムト、ソ連国境に近い……」
「知つてます。ナラムトから来るロシヤ人に、しよつちゆうバタ買つてました。いゝバタでしたわ。あなた、満鉄の方……それとも、特務機関?」
「僕は単なる一兵卒さ。死にぞこないの兵隊さ。もう、そんなことどうでもいゝ。黙つて酒をついでくれ」
「満洲もわるくないけど、あんたも、いゝとこあるわ。今夜は、あたしと一緒にゆつくり飲みましようよ」
「そいつは面白い。今夜、おれも帰るとこないんだ。帰るとこあつても、帰りたくないんだ」
「帰りたくつたつて、帰しやしないわよ」
京野等志は、ぐつとウィスキイを飲み干した。苦が笑いを噛み殺すためであつた。
いつの間にか、あたりはひつそりとしていた。赤々とともつていた店のあかりが、一斉に消え、奥まつた部屋から薄い光が漏れるばかりとなつた。
「取締がうるさいから、あかり消したの。さ、もう、二人つきりよ。もつと酔いたいの、あたし……」
「さあ、さあ、ご遠慮なく……。お相手ならいくらでもするよ。たゞし、持ち合せはこれつきり、いゝようにしてくれ」
ポケットから、四、五千、残りの紙幣を全部、そこへ投げだすと、女は、
「いゝのよ、そんなことしなくつたつて……今日はあたしの特別サーヴィスよ。心ばかりの歓迎つていうとこ……」
もう、その時、京野等志は、自分が今、なんのためにこんな女を相手に酒にひたつているのかわからなくなつていた。酔いしれた結果ではない。それどころか、いつもの量をはるかに越していながら、酔いは次第にさめ、そして、酒は舌に苦いばかりであつた。
老いこんだ母の顔が眼の前にちらつきはじめた。別れた頃の妹たち三人の、それぞれに特徴のある面影が、つぎつぎに、瞼に浮ぶ。腕白盛りだつた弟のイガ栗頭が、これはなぜか影絵のように現われて消える。最後に、眉をはげしく揺り動かす父の例の不満の表情が、あざやかな印象として、いま、彼のうつろな網膜に描き出されている。
やがてまた、それらの一人一人が、なにやら彼に喋りかけるように、唇を動かしはじめる。彼は、耳をすます。それは、彼等のそれぞれの声を、記憶でとらえようとするにすぎないけれども、それがまつたく無駄であることがわかる。彼はじれる。そんな筈はないがと思う。
「いやよ、なに考えこんでんのよ。奥さんにわるいと思つて、後悔してんでしよう」
彼は、キョトンとした顔を、彼女に向け、
「今、いく時?」
「もうダメよ、じたばたしたつて……。電車はとうにおしまいよ」
「いく時だつて訊いてるんだ」
「だから、時間なんかどうだつていいじやないの。へんなひと、急にむつつりしちまつて……。なにが気に入らないの?」
「すべてが気に入らん。第一、この自分が気に入らん。帰るよ、おれ」
「へえ、帰りたきや、お帰んなさい。内地へ帰つたら、内地の仁義を心得てほしいわね」
「おれは、そんなもんは知らん」
すると、女は、奥に向つて、叫んだ。
「ねえ、あんた、この狸をなんとかしてよ」
にゆッと顔を出したドテラの男が、いきなり、彼の前へ立ち塞つて、
「勘定払いな」
「それだけじや足りないか」
ちらとテーブルの上を見て、
「いくらおいたんだ」
と、女にたずねた。女は、紙幣をつかむと、ろくに数えてもみずに、
「ダメなんだよ。これで夜つぴて飲ませろだから、いゝ気なもんさ。その外套でもおいてかせるんだね」
「外套ぬぎな」
と、男は、けだるそうに言つた。
京野等志は、思わず拳を握りしめた。その種の威嚇を反射的にはね返そうというよりも、みすみす暴力に屈しようとする自分のすがたに憤りを感じたからである。が、彼は、踏み止まつた。それを正当づけるなんの根拠もなかつたけれど、たゞ、いずれにしても、ぶざまなことはおなじだと、肚をきめて、ゆつくり外套を脱ぎすてた。
京野等志は、もう人ッ気のない青梅街道を冷たい夜風に吹かれながら、すたすたと歩いた。
足が宙に浮き、皮膚がじかに物にふれず、どつちを向いても言葉の通じぬような不安にふと襲われた。もちろん、酒のせいも手伝つてはいようが、彼は、自分の精神と感覚がこれほど鋭く研ぎすまされた状態を、これまで一度も経験したことはないように思つた。
彼は、たゞ、無意識にわが家の方向に向つて道を急いでいるのである。なぜ、こんなに急がねばならぬのか? 以前、学生の頃、一度神田から、友人と二人で酔興に高円寺まで歩いてみたことがある。三時間あまりかゝつた。戦場での、あの強行軍にくらべれば、なんでもない。彼は、荻窪に着くのが朝であろうと夜であろうとかまわぬ。ただ、家族のものが一人でも少い時がよい。一度に左右から質問を浴せられてはかなわぬという気がする。
が、そう思うしりから、彼の無事な顔を不意にみた家のものたちの驚喜、いそいそと、またおろおろと彼を迎える肉親の佯りのない表情が、想像できなくもない。
素直に、なによりも素直に、彼等の感情にこたえねばならぬ、と、彼は、一つ時、自分の今の気持をかえりみた。
そういえば、彼は、出征以来、実に稀れにしか家へ手紙を出していない。満洲時代に二度、華中ではたしか九江から一度、マレイ作戦に加つてからはずつと音信不通、仏印に落ちつくと、暇があり余るほどあつたのに、やつと二度、それも所属部隊名を略した絵はがきの程度であつた。
家からの便りは、それゆえ、太平洋戦がはじまると間もなく広東で受取つたきり、それが最後であつたから、一家をあげて父の郷里の宇都宮近在へ疎開しようとしている消息を知つているだけである。手紙にはたいてい、父の教訓めいた簡単な文句と、たどたどしい母の繰り言と、妹や弟の、その時の都合での紋切型の挨拶が同封してあつた。
父は小学校の校長を停年でやめて、それまで郷里に持つていたいくらかの家屋敷を売り払い、東京の荻窪へ、小さな住居と貸家を二三軒建て、裏の空地で養鶏をはじめていた。彼が外国語学校へ通うようになつて、一家の財政は、可なり困難のようであつた。家賃の取立てが思うようにならぬのが原因であつた。彼は、父に無断で学校をやめ、友人の伯父の経営する土建会社に事務員としてはいつた。父はそのことを賛成もせず、また強いて反対もしなかつた。彼は、自分が長男だという意識を、それほどはつきりもつて行動したわけではなかつた。しかし、時がたつにつれて、それは自然に彼の胸中に、一種の強制、自発的ではあつたが、絶対の力に抗し難いことを覚つた忍従のかたちで、もたもたしたものを残さずにおかなかつた。
彼の父、京野憲之は、在職中、師範出の、県下でも優秀な校長で通し、いわゆる政治的手腕なるものも認められていたらしく、多少は教育界のボス的存在であつたが、職を退くと、今度は、一転して、算盤を手から放さぬようになり、養鶏のかたわら、実用新案の工夫に没頭したり、怪しげな株を買い込んだりしていた。
しかし、それを一概に、老年の物欲へ走つたものとみることはできなかつた。発育盛りの二男三女を抱えて、一家の経済は既に危急を告げていたのである。まずまず、善良な父であり、夫であつた。時に我田引水とみられる処世理論で、ねちねちと家人を悩ますことはあつても、決して荒い言葉で怒りを爆発させることはなく、家の掃除から、夜の読書まで、率先躬行をもつて、厳しく範を垂れ、自らそれをなによりのほこりとしていた。
数えてみると、今年はもう五十七になる。母は、生きているとすれば、五つ違いの五十二、七年前に、もう、父とおなじ半白の頭髪を、自分で染める気にもならぬらしかつた。なにごとにも目立たぬように気を配るのが特色で、父と並んで坐る時は、きつと、この蔭に半身をかくすほどであつた。よほどの必要がなければ、買物以外に外へ出たためしはなく、親戚のものでもなければ、客と対座するのが苦痛のようであつた。そのくせ、子供たちの面倒は至つてよくみる方で、男の子と女の子の区別を、些細なところまでちやんとつけ、男はまあしかたがないけれど、というのが口癖で、娘たちは、その点、母を旧式のこちこちと批難しながら、一方では、なんでもその母に倚りかゝつていた。母は癇性といえるほどの綺麗好きで、また、料理の天才であつた。母の手料理は、なんでもうまかつた。膳が淋しい時でも、実に巧妙な味と色彩のとり合せで、ありふれた料理を引きたゝせ、みなの食欲を弾ませる術を心得ていた。母は、若い頃の写真でみると、下町風の美人という型である。日本橋のさゝやかな旅館の娘だつた。父は、これまた青年教師の時代に、なんの関係か、上京の毎にしげしげこの旅館に宿をとり、そこから、お茶の水や竹早町の講習会場へ通つたのだという、問わず語りの話を聞いたことがある。
京野等志が、そんなエピソードをふいと想い出した時は、高円寺の駅の灯が、もうすぐ先に見えた。青梅街道を中野へんから右に折れて、学校時代の親友の一人が住んでいた下宿のあたりを、当然あと形もないものときめながら、ちよつと歩いてみたかつたのである。彼は、入営の前日、その下宿を訪れた。彼も間もなく応召したという通知があつた。それから、満洲で一度、近くどこかへ連れて行かれるらしいという消息を得たきり、ぱつたり、行先がわからなくなつた。
その下宿のあつたあたりは、まだ家も建つていない、荒れ果てた畑になつていた。枯れたトウモロコシの茎が二三本、なにかの印のように立つているだけである。今日、生死不明のまゝ、彼の思い出に生きている人物の名前は、一人や二人ではない。しかし、ある程度心をゆるしたといえる通称「バイロン」の名を、いつまた呼ぶことができるか、京野等志は、万感交々いたるという面もちで、もういくらか白んで来た星空を仰いだ。
彼は、いつの間にか、省線の電車道を伝つて、西へ進んでいた。
が、この時、彼の東を電光のようにかすめた、ひとつの幻影に、彼は思わず立ちすくんだ。
高円寺が大部分焼けたという話は聞いていたが、その高円寺がもうすぐそこだと気がついた時、彼は、応召間ぎわまで往き来していた一人の女性、実は、この七年間、文字どおり夢にまでみつゞけた味岡小萩の家が、ひよつとすると残つていはせぬかという好奇心が、激しく彼をゆすぶつたのである。
たとえ七年前はどうであろうと、別に固い約束を交した間柄でもなく、最初の一年間はほとんど月になんどという割合で便りや小包が届いたのに、二年目からはぷつつりと音沙汰がなくなり、こつちからの手紙も梨のつぶてというかたちになつてしまつた。もちろん、彼は、それをとがめる気もせず、そんな権利はどこにもないことを知つていた。おそらく縁あつて他家へ嫁いだか、かねて苦にしていた胸の病が高じたか、それとも、戦乱の渦にのまれた犠牲の一人になつたか、そのいずれかと彼はひとりできめてしまい、また相逢う日があろうなど、望んでもいなかつたくらいである。
しかし、それとこれとは別である。彼は、高円寺駅のすぐ手前の踏切を左に折れ、杉ノ木口の方へ、通りなれた道を、そらで詩を口吟むように、からだに調子をつけて、ぶらぶらと歩いて行つた。
以前のまゝの門構えの二階家、以前のまゝの門標、たゞ、「味岡」と白木へ書いた墨の字が、彼のじつと据えた眼の中へ、生々しく飛び込んだ。
「あゝ」
と、彼は、心の中で、意味もなく呟いた。なにが、「あゝ」なのか。彼女の顔が、かつて、のぞき、彼女の影が、かつて、映つていた二階の張出し窓は、雨戸が固く閉じられ、やがて朝日の射すであろう白々とした障子さえ、今は、見るすべもないのである。それは、なんの想像もゆるさず、なんの気配も感じさせない、一切を彼と彼女から隔てる時と空間の象徴であつた。
阿佐ヶ谷まで、また、電車線路を伝つて歩いた。貨物列車の警笛に、やつとわれに返るほど、彼は、なにやかやで頭がいつぱいであつた。
明日からでも一家を養わねばならぬ、そんな境遇がこの自分を待つているのではあるまいかと、それがもうそうときまつたように、彼を一つ時緊張させる。すると、なんということなしに、妹や弟たちの年のことを考える。弟は、たしか、二十二になるのだが、ことによると、予科練を志願したのではあるまいか。彼は、ぞつと、身ぶるいを感じる。ずつと整備兵をつとめた彼の経験から、少年飛行兵の痛ましい最期をいやというほど見た。そうでないとすると、弟深志は今や、うまく行つて大学生か。それとも、中学を終つて平凡な腰弁か? 闇屋の手先などになつていてくれなければよいが。上の妹多津は、ほんとなら、もう家にはいない年頃である。二十七といえば、子供の二人も作つていていゝ筈だ。次の妹、美佐も、戯談じやない、二十五である。どんな亭主を見つけたか? こいつ、ことによると、経済的独立などと、オフィス通いをしていないとも限らぬ。一番下の真喜は、それでも、十八、いや、十九だ。なるほど、十九か。こいつ、どんな挨拶をするか。十二から十九、やれやれ、大した飛躍だ。兄さん、兄さま、お兄さん、なんとこの自分を呼ぶかだ。妹らしい妹、多津よりも美佐よりも鷹揚に可愛がつてやれる、生意気でない、しかし、なんでもわかる妹、真喜、真喜……と、彼は、小さな声で、その妹の名を繰り返した。
彼は、夢中で歩を速めた。朝靄につゝまれた武蔵野の雑木の立木が、見覚えのある荻窪界隈の街道筋を、ぼんやり真向うに浮び出させる頃、彼は、額にも、背にも、しつとり汗をかいていた。
いくども爆撃の目標になつたと伝えられる飛行機製作所の本館の建物が、依然として残つているのは意外だつた。
彼の家は、そこからあまり遠くない、清水町と呼ばれる新開住宅地のとつつきにあつた。戦災をまぬがれた一画の、それでも、すべてが荒れるにまかせてある、わびしい生活のかげが家々をおおつていた。その昔、きれいに刈りこまれた生垣が、今は、ジャングルのように枝葉が伸び放題になつている元貴族院議員の邸の門には、その標札が消えて、別の名前が出ていた。いつも会えば向うから笑いながら帽子を脱ぐ大学教授の、小じんまりした洋館の芝生の庭は、キャベツと大根の畑になつている。その庭の隅で、向うむきにしやがんだ撫で肩の細君が、団扇で七輪の火をおこしていた。
そこまで来ると、もう彼の家の屋根が葉の落ちつくした桜の梢のかげから、ちらと見える。
彼は、ゴクリと唾を呑みこむ。やけに胸騒ぎがするのである。おかしなものだ、と、彼は思う。自分を変なやつだと叱りたいような不機嫌な気持である。彼は、やゝ古びた檜丸太の門柱に眼を注ぐ。たしかに、わが家へ辿りついたのだけれども、彼の足は、鎖がついているように重い。
門の扉は内側から閉まつている。開くまで待つか、ドンドンと叩くか、外から声をかけるかするよりしかたがない。呼鈴をなぜつけておかぬのか。
彼は、突嗟に、その門を乗り越えることを思いついた。なんでもないことであつた。玄関に呼鈴はついていたけれども、わざと勝手口へ回つてみた。と、そこには、手拭を頭にのせた母が、散らかつた薪屑を箒で掃き溜めているではないか。跫音で、彼女は、顔をあげた。
息づまるような一瞬の後、母の手から、竹箒がするすると地面にすべり落ちた。
「お母さん」
と、彼は、呼んだつもりである。喉がつまつて、その声はまともに出なかつた。
「兄さんじやないの……兄さんだわ……帰つて来た……帰つて来た……」
彼女は、そう言いながら、一歩一歩、彼に近づいて来た。そして、彼とはつきり視線が合つたとたん、くるりと横を向いて、両手で顔をおおつた。
「たゞいま……」
彼はやつと、落ちついてそういうことができた。
母は、それにはなんともこたえず、いきなり勝手口から奥へ、
「お父さん……みんな……兄さんが帰つて来ました……兄さんが帰つて来ましたよ」
と、ひと息にどなつて、すぐにまた、彼の方に向き直り、涙で眼を光らせながら、
「もつと早く知らせてくれればいゝのに……。さ、玄関を開けるから、ちやんと、あつちからおあがり………」
そういつて、そゝくさと、奥へ姿を消した。
朝食の支度ができ、一同の顔が茶の間に揃うまで、家の中は、上を下への騒動であつた。
一人一人とゆつくり挨拶を交すひまはもちろんない。父は想像以上に年をとり、母は、反対に、まだしやんとしていた。すこし意外でもあり、なんとなく気にかゝるのは、一番上の妹多津が、口数少く、無器用に、母の手伝いをしていることと、中の妹美佐が、ついに顔をみせず、誰もまだそれについて理由を告げようとしないことである。
父は、食卓につくと、また更めて、
「うむ、無事に帰つたか。よかつたな。まあ、ゆつくりからだを休めるといゝ」と、言い、そのあとで、「こつちも、まあ、だいたい変りはない。深志も、予科練にはいるにははいつたが、この通り、終戦で帰つて来た。中学へはいり直すのが辛らかつたらしい」
弟の深志は、にやりとし、襟に「L」とある大学の制服を、ちやんと着込んで、頭の毛を伸ばしはじめていた。が、これは、さつきから一緒にいても、別段向うから話しかけようとせず、煙草ばかり喫つていた。
下の妹、真喜が、やはり、目立つた変りようであつた。新制高等学校の上級生とだけでは、彼にはピンと来なかつたが、簡単な受けこたえに、もう知性といえばいえるものゝ片鱗をのぞかせていた。
彼は、しかし、その場にいない妹のことを訊ねずにいられなかつた。
「美佐はどうしました」
誰にともなく、こういうと、
「美佐か、うむ、あいつのことは、いずれゆつくり話す」
父が引取つて、こう答えたのだが、この時、一座の空気は、明らかに動揺の色をみせ、女たちは、さッと顔を伏せたのを、彼は見逃がさなかつた。
「生きちやおるよ。まあ、それより、お前の七年間の戦場生活を、ざつと話せ。思うように便りのできんことはわかつとるが、満洲、華中、それから、どこだ。最後にくれた絵はがきは、多分、仏印からかと思うが……」
「えゝ、サイゴンから一度、ハノイから一度です。華中から、マレイ作戦に加わつて、それから、ビルマの飛行基地にやられたと思うと、すぐ仏印へ呼びもどされ、それからずつと、ハノイの基地にいました」
「怪我も病気もしなかつたの」
と、母がたずねる。
「基地で味方の不時着機に刎ね飛ばされたぐらいのもんです。背中を十針ばかり縫いましたが……」
「そんなことですめばいゝさ。内地にいたつて広島みたいなこともある。わしの同僚で、一人、原爆の犠牲になつた奴がいるが、生き死になんていうもんは、こりや天命さ。戦争そのものの不幸は、誰それ個人の上に落ちて来るんじやない。右を向いても左を向いても、罪のない人間が苦しみに喘いでいる。その惨憺たる状態を指すんだ」
父のこの言葉に、誰も、なんの反応を示さず、末の妹真喜だけが、兄の深志と眼くばせをして、首をちゞめたぐらい、その拍子に、
「そういえば、兄さんのお部屋はどこにするかね。お留守中に深志が占領しちまつたんでしよう。お父さんのお部屋を明けていたゞきましようか」
と、母は、いきなり、父の方へ向き直つた。
「いゝですよ。僕は寝るところさえありやいゝ。どうせ、じつとしてはいないんですから……」
「何か仕事のあてでもあるのか」
と、父が口を出す。
「えゝ、まあ、なんとかするつもりです」
「そう急がんでえゝ。これで、終戦まではどうなるもんかと思つたが、近頃、どうやら、芽が出て来たよ。暮し向きのことは当分心配せんでええ」
「そんなに景気がいゝんですか」
「いや、それほどでもないがね」
すると、母が、
「なんでも、粉の方が当つたらしいんでね」
「コナ?」
「製粉……ウドン粉を作る会社よ」
と、母は、やゝ得意らしく説明する。
なるほど、そう言われれば、さつき玄関から座敷へ通る間にも、なにかほつとしたものを感じた。それは、ゆたかさとまではいかぬにしても、思いがけぬ見た眼のゆとりが、住居の空気に漂つていることを、彼は異様にさえ思つたのである。時節柄というハンディ・キャップもあるにはあつた。先ず新調と覚しい家具置物、張り替えて間もない畳、唐紙、そして、火鉢には盛りあがるような炭火。彼の記憶では、わが家にしては例のなかつたことである。
「あゝ、兄さん、僕は、兄さんさえよけれや、一緒の部屋でもいゝよ。そうするより仕方がないもの。お父さんは、あの部屋、明けられないだろう」
と、弟の深志が、だしぬけに言いだした。
「うむ、いや、別に明けられんこともないが、あの山のような荷物をどこへ始末するかだ」
父は座敷は客間としてだけ使いたい平生からの意向で、自分が居間にしている次の間を明け渡すのが、すこし億劫らしかつた。
「山のようなつておつしやるけど、たいがいお使いにならないものばかりでしよう。物置をちよつと広げればなんとかなりますよ」
「それや、そうだ。もう一と間ほしいな、この家も……」
「あたしだつて、一人のお部屋ほしいわ」
と、下の妹、真喜が甘えるように言つた。
「贅沢言えばきりがないさ。そんなら、あたしのお部屋は、いつたいどこ?」
母が、あつさりとたしなめる。
「母さんは、家全体がお部屋みたいなもんよ」
「うまいことを言う」
父がほめた。
で、結局は、物置の建て増しをするまで、弟と一緒にということになる。
その間、始終、黙つて、話題に無関心な風をみせていたのは、上の妹の多津であつた。京野等志は、さつきから、この年頃をすぎた妹の存在と、なにか神秘めいた影を匂わせている表情とが頭にこびりついていた。
やつと、学校へ行くものが行つてしまい、父が庭の掃除に立ち、母がマーケットへ出かけた留守に、彼は、妹の多津と二人きりになることができた。
「お話したいことが、いつぱいあるのよ。でも、今日はよすわ、お疲れになつてらつしやるんだから……。たゞ、ちよつとだけね。あたし、二年前に結婚したの。そして、すぐ、別れたの。それを早くお耳に入れておかないと、いやでしよう、だから……。兄さまつたら、あたしの顔ばかり、じろじろ見てらつしやるんですもの」
多津は、そう言い終ると、急に、晴れ晴れと、くつろいだ笑顔をみせた。
「いや、そんなわけじやないが、なんだか、お前ひとり沈んでるようにみえたんだよ。なんだ、そんなことか、別に、苦にするようなことじやありやしない。それとも、出戻り扱いをする奴でもいるのか」
彼は、今がはじめてと言つていゝほど、この妹のやわらかな心に触れて、すつかり、よい兄らしく振舞つた。
「うゝん、別に……。そりや、ひけ目みたいなものは感じるわ。それや、どうすることもできないの。それがひがみになるとこわいと思つて……。家つて、やつぱり、デリケートだわ。いろいろ、ご相談したいわ。むろん、兄さまは、ご自分のことをまずお考えにならなきやね。そのあとで、ゆつくり……。あたし、うれしい、やつぱり、昔の兄さまだつたから……」
こう言つて、彼女は、兄の手を、なんのためらいもみせず、強く握つた。
京野等志は、すこし照れて、その手を大きく振り、内心、この妹から、「昔の兄」と云われる理由を不審に思いながら、
「まあ、まあ、お互いに暢気にやろうよ。ところで、美佐の奴は、いつたい、なにをしでかしたんだい?」
と、彼は、不吉な予感を、さりげなく、微笑でかくしながら訊ねた。
「美佐ちやん、今年の春から、愛人ができて、いま一人でアパートに住んでるの。その愛人には、妻子があるの。美佐ちやんは、それを承知なのよ。でも、そのことがお父さんの耳にはいつたもんだから、まあ、この家にいられなくなつたつていうわけ……。お父さんは、そういう問題にぶつかると、からつきしダメなのよ」
彼は、それを聞いて、たゞ、軽くうなずいた。
「母さんは、どうなんだ」
「母さんは、お父さんの顔色を見るだけ、自分には発言権はないと思つてるの」
「でも、ちよつと愉快じやないか。美佐にそんなひたむきなところができたのかねえ。それだけでもおれは、あいつのために乾盃するよ。お前も同感だろう、ひとつ、美佐の後援会を作つてやろうよ。いや、真面目な話、おれたちにできることは、たゞ、そういうところへ落ちこんで、悪戦苦闘しているあいつをだよ、必要以上に不仕合せにさせないこつた。少しでも勇気をつけてやるこつた。わかるだろう。親同胞なんて、せいぜいそんなもんさ。それができなきゃ[#「できなきゃ」はママ]、なんになるもんか……」
彼は、きつぱり、言いきると、妹多津の深々とした瞳に、精いつぱいあたゝかい視線を送つた。
[#改ページ]
それから、もうかれこれ三月たつ。久々で迎える東京の春であつた。
ケヤキの梢が煙るように色づき、庭の隅のレンギョウは水々しい黄いろの花をつけ、若い娘たちの軽やかな粧いが目立つて来ると、微風に誘われるように、京野等志も、じつと家のなかに落ちついてはいられなかつた。
あちこちへ頼んである就職口もなかなかラチがあかぬので、思いきつて肉体労働でもしようかと思つている。父は、まあ、そう急ぐなと言い、たゞなにかしたいというだけなら、自分の関係している製粉会社へ入れてもよいのだからと水を向けるのだが、彼は、それだけは真平であつた。
そんなわけで、いわば半分贅沢な気持で、今のところ、これならと思う仕事を探しているわけである。条件としては、自分一人が食つていけること、営利本位の企業でなく、どこか公益という目的に結びついていること、特殊技術としてそれ以外にもつていない外国語をいくらか役立てること、できればオフィスのテーブルに縛りつけられず、ある程度自由に外を飛びまわれること、などである。
が、なににしても、そうおいそれと、彼の註文どおりの勤め口が待つているわけもなく、そろそろしびれを切らしはじめたところへ、旧友の南条己未男がひよつこり訪ねて来た。
「よう、どうしてわかつた?」
玄関へ迎えた京野等志は、われ知らず声をはずませた。
「元気か、おい。それが妙な廻り合せなんだ。まあ、ゆつくり話す」
二人は奥の座敷の縁に座蒲団を持ち出し、うらゝかな午後の陽を浴びながら、積る話をしはじめた。
「実は、この間、関東大学の助教授をしている同郷の後輩に会つたんだ。いろいろ、近頃の学生の話がでてね、どういうはずみだつたか、君の弟の深志君が先生のゼミナールに出てることがわかつたんだ。京野深志つていう学生なら君の弟にきまつてらあ。おれは、すぐにぴんと来たから、ちよつと待て、そいつの兄貴は外語でおれと同級なんだが、応召したきりまだ帰つて来ないらしいつていうとね、バカ言え、もう三月も前に帰つてるはずだ、その京野つていう学生からたしかに聞いた、とこうなんだ。そう言えば、おれがこの家へ君の消息を訊きに来たのは、去年の夏だよ。その時分は、まだ居所もきまらず、それつきりになつてたんだ」
「へえ、おれの方は、おれの方で、ずいぶん探したよ。帰つているかいないか、以前の会社へ聞けばわかると思つて、電話をかけてみたんだが、いつこう要領を得ないのさ。そうそう、あの中野の下宿さ、あの焼跡の前で、しばらく君のことを考えたよ。復員して東京へ着いた晩だよ。新宿から家まで歩いた、その途中だからさ」
「満洲で君の部隊が牡丹江にいることがわかつたから、一度端書出したんだが、見てないだろうな」
「いや、それは、たしかに見た。返事はすぐ出したぜ」
「受取らん。もつとも、あれからすぐ、広東へ廻され、着いたとたんに、内地へ帰れだろう。どうするのかと思つたら、九十九里浜の防備さ。終戦と同時に復員はよかつたんだが、おれは、君のことが気がかりでしようがなかつた。やつぱりシベリヤ組かい?」
「ところが、そうじやない。仏印で終戦だよ。変な話だが、内地へ引揚げるのがなんだか気が進まなくつてね。しかし、帰つてみると、やつぱり家もわるくないなあ、と思うよ」
「君なんかそうだろうな。おれみたいな風来坊で、親も同胞もない人間には、その味はわからんよ。なつかしき我が家なんて、子供の頃の記憶のなかにあるだけさ」
「まだ一人か、君は?」
「二人になりかけというところだ」
こゝで、南条己未男は、眼を細くし、肩をゆすつて、笑つた。
母の弓がそこへ出て来て、なんにもないけれど、ゆつくり夕食でもというのを、この旧友二人は、せつかくの機会をそれでは面白くないのであろう、どちらからともなく、どこかで一杯と、目顔で合図をして急に起ちあがつた。
どこをどう飲み歩いたか、その夜、京野等志は、したゝか酔いしれて、家の玄関をあけさせ、まつすぐ二階へあがろうとすると、母がその骨ばつた腕で彼を抱えるようにし、階段を一歩一歩踏みはずさせまいと気を配つた。
「大丈夫ですよ、お母さん、早くやすんでください」
口でははつきりそう言いながら、足がもつれて危うく母の肩に倒れかゝる。やつと、弟の寝ている隣りへ、どさりとあぐらをかいた。もう彼の床も敷かれてあつた。
「ずいぶんはいつたらしいじやないの。あんた、そんなにいけるのかい?」
と、母は、息子のこんなに酔つたざまを見るのははじめてなので、意外なような、頼母しいような訊きかたをした。
「なに、そんなに飲みやしませんよ。あのバイロンが懐しがつて、いつまでも放さないもんだから……。すみません、水をいつぱい……」
母の顔をみると酔いが急にさめた。水をコップに汲んで持つて来た母に、彼はぴよこんと頚をさげ、ひと息にそれを飲んだ。
「もう一杯かい?」
「いゝえ、もうたくさん」
「おなかすいてやしない?」
「そうだなあ、なんか、ありますか」
「ご飯はあるんだけど、お茶漬けでもどう?」
「いゝですとも……下へ行きましよう」
「持つて来てあげるよ」
「いえ、下へ行きます。用意しといてください。すぐ行きますから……」
母が降りて行くと、彼は、そこへごろりと横になつた。
弟の深志は、なにも知らずに眠つている様子であつた。
旧友南条己未男は、七年前と少しも変つていない、と、彼は思つた。多少の変化が認められるとすれば、昔のバイロンよりも人間の幅ができ、それだけ世間を見る眼が広くなつているようであつた。学生時代にバイロンという渾名で通つたのは、かの英国ロマンチック詩人のよくある肖像にどこか似ていたうえに、その性格言動においても、むろん他愛のない比較ではあつたが、神経質で空想的で、なかなかのスタイリストで、いつも恋愛に悩み、独りで外濠の土手を歩いていた、というようなところから来ているのである。ところで、今日久々で会つたバイロンは、幹部候補生から砲兵中尉になり、高射砲隊の中隊長までやつていたというのに、やはり、神経質で空想的で、なかなかのスタイリストで、相変らず女性に関する話となると眼を輝かし、たゞ、以前といくらか違うところは、恋愛の苦悩をしみじみと語るかわりに、女心のさまざまを面白可笑しく話す、その話しぶりに、現実の風波をくゞつた、冷たい皮肉がちらちらと顔を出すことであつた。それだけは、たしかに、南条己未男の成長であつた。が、そうかと思うと、
「ところで、今、なにをしてるんだ?」
と訊ねると、
「無条件降伏と聞いて、おれは、すぐに考えた。もう祖国に未練はない。一刻も早く日本を離れ、世界放浪の旅に出よう、そう考えた。今もそう考えている。機会をねらつてるんだ。振り出しは中国さ。揚子江に沿つて、まず四川にはいる。アジア大陸横断にどれくらいかゝるか。天山南路はもう眼の前だ」
「だからさ、今は何をしてるんだ、今は?」
重ねて返事を促すと、
「む、今か、今は、ちよつとした仕事さ。フランス・ミッションの翻訳の下受みたいなことさ。お前にだつて出来るぞ。紹介してやろうか?」
「ごめんだ」
と、彼は断つた。それをなぜ断つたか、今になつて理由がわからないのである。
母が階下から、彼を呼んでいる。
「兄さん、用意ができたよ」
ハッと我れに返つて、彼は、起きあがろうとした。弟が寝返りを打つた。幼な顔のまだありありと残つている静かな寝顔であるが、もう二十を過ぎた男の、血気とでも言いたい逞しさが少し突き出た頤のあたりの筋肉の線に隆々と盛りあがつていた。
「深志、眠つてるのか?」
ちよつと声をかけてはみたが、それは、眼をさまさせはしなかつたかという配慮からで、反応がないとみると、彼はそのまゝ階段をゆつくり降りて行つた。
さて、こうして母と二人、向い合つて坐つていると、彼は自分の方からなにも言い出すことがないのに驚くのである。自然、むつつりと、たゞ箸を動かし、飯茶碗が空になるとそれを差出す。母も、今夜は、余計なお喋りはつゝしんでいるようにみえたが、しばらくたつて、彼が、茶碗をおくと、それへ茶を注ぎながら、
「そういえば南条さんも変んなすつたねえ」
と、言つた。
「へえ、そんなに変りましたか?」
「あら、あんた気がつかないの。あんなに如才のないひとだつたのに、すつかり、でんと構えちまつて、……でも、貫禄がついたつていうのか、立派にはなんなすつた」
「そうですかねえ、年は僕とおんなじだけれど、たしかにオヤジにはなりましたね」
「奥さんは?」
「まだらしいですよ。許婚かなんかあるんでしようね。そんなことをちらつと臭わせてました」
母は、それつきり、話をやめて座を起つたと思うと、小箪笥の抽出をあけて、一枚の写真を取り出し、それを息子の前においた。
「ちよつと見てごらん」
彼は何気なくその写真を手にとると、
「これや、なんです?」
装いをこらした若い女の全身像である。修整もあまり上手でなく、いくらか固い表情ではあるが、キリヽとしたところのある豊かな顔だちが、まず彼の眼を惹いた。
「それ、あるひとが持つて来たの。お家はちやんとしたお家で、持参金づきなんだつて……。今年、満で二十四だつていうけど、老けてみえるね」
「ちよつと面白い顔だな。馬鹿には見えませんね」
「すこし悧巧すぎるかも知れないけれど、第一、兄さん、今時の女は、あんまりうじうじしてちやダメ……」
「僕にそんなこと言つたつてしようがないですよ」
「だから、あんたのお嫁のことを言つてるのさ。強情はいけないけれど、しつかりもんを貰うんだね、なにしろ」
後は、うまうまと母の手に乗つてしまつた自分がおかしく、今さら文句の言いようもなかつた。それで、写真をそつと母の方へ突き返しながら、
「僕は、まだまだ結婚のことなんか考えてやしませんよ。物事には順序がありますからね。それに、もう少し自由に相手を選ぶひまが欲しいですね」
「それやもう、急いじやいけないよ。でも、ゆつくり探せば間違いがないかつていうと、そうもいかないからね」
母の言葉にも真理はあると思つたが、いずれにせよ、結婚という問題については、彼にも一と通り考えがあつて、周囲からいろいろ言われるのが、うるさいというよりも、むしろ、照れ臭かつた。
照れ臭いといえば、今も、彼は、顔にこそ見せないつもりだが、実にやり切れない気持である。これが初めてのことではあるが、母の口からそんな話を持ち出され、まして、女の写真を、これはどうかといつて見せられる自分の立場は、情けないほど惨めなものに思われた。
が、よくよく考えてみると、自分に果して、そんなチャンスがひとりでに来るかどうか疑わしい。今日まで、ほんとに心を打ち込めるような恋愛の相手も得られず、たまたま一人、互いに友情以上のものを感じ合つて、さて、未来の約束をと肚をきめたとたん、二人の間を戦争という事件が引き離してしまつたのである。それも、言つてみれば、彼になにか粘着力のようなものが欠けているからだと、思わぬわけにいかぬ。そういう力さえあつたら、味岡小萩の運命もまた、別の道を辿つたかも知れぬのである。
「まあ、まあ、こつちさえその気になれば、相手は選り取り、お好み次第つていう有様だから、兄さんなんか、気が強いわけさ」
と、母は、捨てぜりふのように言つて、その写真を元のところへしまい込んだ。
「それにつけても、美佐のことが、あたしや可哀そうで……。お父さんはあの通り頑固におつしやるし、もう諦めてはいるんだけど、ふつと心配になつて来てね……」
とつぜん、母は、彼のそばに坐つて、こう言つた。
「美佐ですか。美佐はもういゝですよ。僕が帰つたことだけ知らせてやりました。会いたければいつでもそう言つて来いつて言つてやつたんですが、まだ返事もよこしません。兄貴なんぞに会いたくないんでしよう」
「でも、一度、相手の男に会つて、先々どうするつもりか、ちやんと話をつけることはできないか知ら?」
「僕がですか? それやできないこともありますまいが、美佐のために、それがどんなもんですかね。美佐からそういう相談を受ければ別ですよ」
彼は、母のまだ何か言いたげな顔附きを、わざと見ぬふりで、そのまゝ、「おやすみなさい」と言つて、二階にあがつた。
翌朝、ふと眼を覚ますと、弟の深志が、もう床をあげて、学校の制服に着換えている。
「兄さん、ゆうべは遅かつたね」
「あゝ、飲みすぎたよ」
「僕も、今、修業中なんだ。ずいぶん強くなつたぜ」
「ほゝう、家の系統はあんまり強いのはいないらしいな」
「おやじは、外で相当に飲むらしいんだが、家じや、そんな気配はみせないからな」
「外で飲むこと、どうして知つてるんだい」
「わかるよ、そんなこと。おふくろも僕たちにかくしてるんだよ」
「好きじやないが、つきあい酒ならつていう口か。おれとおんなじだ」
「おやじはどうだかな。偽善だよ。子供の教育によくないと思つてるんだ」
「それほどでもあるまい。以前よりはだいぶん砕けて来たじやないか」
「うん、もつと砕けりやいゝんだよ。とにかく面白くねえよ、おやじは」
そう言いながら、弟の深志は、階下へ降りて行つた。と、入れ代りに、妹の多津が、速達が来たといつて、彼の手に一通の封書を渡した。
達者な行書で、たしかに見覚えのある字体ではあつたが、一瞬、彼の頭は混乱して、信州松本在に住む六笠久史なる差出人の見当がつきかねた。
が、封を開いて、和紙の水色の書簡箋にやゝ薄めの墨で、まず、京野等志さま、と書き出した、その調子で、彼はやつと、さてはと思い、急いで最後の署名をたしかめ、もう、息づまるような胸さわぎを覚えた。
署名は、たゞ、「小萩」としてあつた。
さて、それはそうと、ほんとにおめでとうぞんじます。手紙ではこんな言葉しかないのでしようか。わたしのたゞいまの気持は、もう、胸が迫つて、わつと泣きたくつて、はつきりうれしいとさえ口には出ないような気がいたします。しかし、やつぱり、うれしいのです。あなたのおすがたを、好きな場所に想い描く自由をわたくしは得たのですもの。もう決して、その自由を失いたくはございません。わたくしの願いはそれだけです。あなたが生きていてくださることは、わたくしにとつて、このうえもない力、くらべるものとてもない慰めでございます。
そのほかのわたくしの自由は、いつさい奪われました。自分の愚かさを恥かしく思いますけれども、ほかに生きる道があろうとは考えられませんでした。わたくし、縁あつて、この農家へ嫁いでまいり、一人の娘の母親になつております。
もう十年、いえ、二十年たつて、もし、機会がございましたら、一度お目にかゝりとうぞんじます。それまでは、どんなことがあつても我慢いたします。
では、ご機嫌よろしゆう、くれぐれも幸多い前途をお祈り申しあげます。
読み終ると、京野等志は、大きく伸びをした。なんだ、そうか、という失望に似た気持と、その後に尾を引く胸苦しいまでの悔恨とが、彼をしばらく、冷熱相交る感情のなかにさ迷わせたのである。
その日の夕方、彼は、たゞここ二日旅に出ると言い残して、新宿駅から松本までの切符を求めた。ともかく、百瀬秀人の住所が手帳に書きつけてあつたので、その男を訪ねてみることにした。今さら、かつての秘めたる恋の相手、味岡小萩に会つて、それをどうしようというほどの決意があつたわけではない。たゞ、今朝の手紙は、彼の心を揺り動かし、そのまゝじつとしていられなくなつたというだけのことである。かの女の噂を百瀬から聞くだけでもよい。もしも、その嫁いだ先の農家というのを、遠くからでも眺めることができたら、いくらか気がすむのではないか。そうはいうものゝ、うつかり顔を合せるようなことはないであろうか。手紙には「麦ふみを終えて」とあつたけれど、野良に出ることがあるとしたら、その後ろすがたをちよつと見てやりたいものだ。あの都会育ちの娘に、そんなことがどうして出来るのか。戦争はある人々の生きかたを強いて変えさせたことは事実だ。しかし、まつたく変えきれるものかどうか……。
中央線の旅といえば、中学時代に諏訪湖へ行つたことがあるきりである。まだ若葉というには早い山裾の樹々の芽吹きは、夜明けの爽かな空気のなかで、眼に沁むような艶をみせていた。
思えば酔興な旅である。京野等志は、われながら、おかしくなつた。もうとつくに自分とは縁のないものと思い、たゞその後の消息がわかれば知りたいと、かすかに心のなかで念じていた味岡小萩は、いつたい、いまの自分にとつて、どういう存在なのであろう? と、自問自答せずにはいられなかつた。
彼は、彼女と最初に識り合つた日のことをはつきり覚えている。
それは太平洋戦争の始る前の年の夏の終りであつた。彼はまだ外国語学校に籍はおいていたが、家庭教師、筆耕、翻訳の手伝いなどの収入で、少しでも家の負担を軽くしようと、それこそ青春の誘惑には眼もくれぬという時代であつたが、ある日の夜遅く、高円寺に住む某銀行家の息子の中学生に初歩の英語を教えに行つた、その帰りみちで、ふと誰かが落したらしい紙入れを拾いあげ、駅前の交番へそれを届け出た。ところが、その紙入れの落し主が、ちようどその交番へ来合わせていて、話はすぐにわかつた。落し主というのは、五十がらみの紳士で、やはり高円寺に住んでいるらしく、差出された名刺には何々製薬取締役とか、何々協会理事とかいう肩書が二つ三つ並べて書いてある。警官に中身を一応調べさせ、現金はいくらもはいつていないが、この通りの額の小切手も入れてあることだし、慣例に従つて、一割のお礼をしたいと、その紳士は申し出た。そして、折鞄から小切手帳を出して、その場で二千何百円という小切手を書こうとするのを、京野等志は、そんなものは絶対に受取らんと断つたのである。警官も仲に入り、押問答の末、彼はやつと住所姓名だけを明かして、さつさとその場を引きあげた。が、さつきから交番の外に、紳士の連れらしい若い娘が、手持不沙汰そうに、時々、からだを左右にねじり、手に提げた買物包みを、長い袂といつしよに大きくゆすぶつているすがたが眼についていた。二つに編み分けたおさげの髪が、まだ初々しい肩先に軽く垂れ落ちて、薄い藍地の和服だけが、妙に大人つぽくみえた。と、交番を出る時、彼は、その娘が自分にお辞儀をしたように思い、こつちも、慌てて帽子に手をかけた。視線が合つたのは、ほんの瞬間であつた。彼は、むしろはつきりとその娘の顔をみた。薄暗い光の下で、それは、絵に描いたような美少女であつた。
それから二三日して、彼の留守中、味岡正造という名刺をもつた使いの者が、菓子折と、別に寸志と書いたノシ袋を置いて行つたことを知り、彼は、その「寸志」の方を、自分でわざわざ返しに行つたのである。はじめ玄関へ出て来たのは例の娘で、すぐに奥へ母親を呼びに行き、しばらく、受けとれ、受けとらぬの騒ぎを演じた末、ではもう一度主人に相談して、ということになり、この時、彼は、その娘のどことなく好もしい印象を心の奥深く刻みつけたのである。
ところで、偶然にも、その味岡の家というのが、彼が家庭教師をしている某家へ通う、そう遠廻りにならぬ道順で、それから後は、駅からの往復を自然、そつちの道を通つてということにした。別に、わざわざ立寄るほどの理由も口実もないまゝに、いく月かは、たゞ、門の前をいくぶんゆつくり歩き、二階の窓をそれとなく見あげ、時たま大きく咳払いをしてみるぐらいですぎたのだが、遂に、彼にとつて忘れ難い日が来た。新宿からの電車の中で、彼女にばつたり会つたのである。その日彼は家へまつすぐ帰る筈なのを、高円寺に用事があるといつて一緒に電車を降り、のこのこと彼女の歩く方角へ歩きだした。
「僕、実は、家庭教師をしてるんです。その家は三丁目なんですが、ちようどお宅の前を通つても行けるんです。ですから、ご迷惑でなかつたら、お宅までお送りします」
「まあ、そうでしたの。今日もそちらへ?」
彼は、ぐいと唾を呑み、
「今日はどうでもいゝんですが、ちよつとのぞいてみます。ほんとは、月水なんです」
「月水……あたくしのお稽古とおんなじ日ですわ」
「なんのお稽古ですか」
「お茶ですの」
「学校はもうすんだんですか」
「えゝ、女学校だけでたくさんだつて、父がいうんですもの」
「あとはお嫁入りの仕度ですか」
「あたくしはそんなつもりじやないの。でも、自分でしたいことつて、なかなかできないわ」
「なにが一番したいんですか」
「…………」
その返事はついに聞かれなかつたけれども、彼はこうして、一週に二度、彼女を高円寺駅で待ちうけ、みちみち話をしながら、彼女をその門口まで送るという楽しみをかち得たのである。
たまには、待ちぼうけを喰うこともあつた。しかし、そういう日は、たいてい、彼女の家の二階の窓が開いていて、窓ぎわに彼女の笑顔がうつつていた。
半年はまたゝくうちに過ぎた。彼は学校をやめ、新しく勤めの身となり、味岡小萩を駅で待ち受ける度数も少く、ただ、その代り、駅以外の場所で時々は落ち合う機会ができ、そのうちに、自分の家へも誘い、また彼女の家へも二三度は顔を出したことがある。
それにしても、彼は、自分の感情を露骨に彼女の前に示したことはなく、彼女の方でも、およそそういうキッカケを彼に与える隙をみせなかつた。互いに好意以上のもの、友情というにはあまりに複雑な気持を感じ合いながら、もう一歩というところで、常に彼は踏み止まり、それが明らかにためらいにすぎないと知りながら、そのことに却つて自己抑制に似た誇りを意識して、自ら慰めるという風であつた。それは、不自然にちがいなかつた。しかし、彼は、その当時、恋愛というものを極端に神聖視していた。結婚に導かれない恋愛は、決して女性を幸福にはしないと信じていた。しかも、彼の境遇では、彼女を妻に迎えることは到底不可能だという先入見ができていたのである。
太平洋戦が勃発し、彼もいよいよ召集に応じなければならなくなつた時、最後の別れを告げるために、彼女を訪れた。
「ねえ、小萩さん、僕はやつぱり先見の明がありましたよ。二人はこれだけ親しい友達になつていて、友達という一線を超えなかつたことは、僕として、実はたいへん心残りなんですが、それは却つて二人のためによかつたと思うんです。戦争はいつまで続き、どんなところへ僕たちを連れて行くかわからないけれども、お互に、余計な心配をしないで、自分の選んだ道を勇敢に歩きましよう。僕はおそらく死ぬでしよう。あなたは、どんなことがあつても、元気でいてください。からだを大事にしてください。戯談でなく、いゝ日本人の種を絶やさないようにしてください」
こんなことを、つい、臆面もなくしやべつた。すると、彼女は、はじめは、いつものようにあどけない笑顔で、しかし、しまいには、自然に涙ぐんで、こう言つた。
「なんだか知らないけれど、あなたのおつしやること、とても残酷みたいだわ。きつと男の方としては立派なんでしようけれど、あたしに、そういう気持になれつておつしやるの、むりよ。あたしは、たゞ、悲しいだけよ。あなたは、今まで、あたしに待つことを教えてくだすつたの。たゞ、信じて、待つことを、よ。でも、もう、それもいけないのか知ら………」
「いけない、というよりしかたがない。いや、あなたが、どこかに、それを求めるということはできる。信じていゝものが、どこかにあるはずです。それを、たゞ待つのでなく、勇敢にお探しなさい。あなたの幸福はそこにあるのだ」
満洲、華中、マレイと、彼女の手紙と慰問袋が執拗に彼を追いかけて来た。が、それはまる一年間であつた。ぴたりと音信が止つた。
妹の多津よりたしか一つ上の彼女は、今年もう二十八になる。囲炉裡ばたで子供に乳をふくませている味岡小萩の面影を、どう想像しようにも、それは彼にとつて不可能なことといつてよかつた。
松本駅からすぐ島々行の電車に乗り換えて、京野等志は、大体地図で見当をつけておいたとおり、大庭という停留所で降りた。同じ姓の多いことはどこの村とも変りはないのだが、百瀬秀人とたずねると、すぐにそれはわかつた。二キロあまりの田圃道を、なんとなくのんびりした気分でゆつくり歩いた。
村としてはまず中位と思われる農家の玄関に立つと、昼間の屋内には人ッ気がなく、しばらく案内を乞いつゞけているうちに、耳の遠そうな老婆が奥から出て来た。
「秀人君はおいでですか? わたくしは、同じ部隊にいて、一緒に引揚げて来た京野というものですが……」
老婆はなにやら口の中で呟きながら、奥へ引つ込み、やがて、十五、六の小娘が現われて、兄さんは役場へ行つているから呼んで来ると言つて、そのまゝ出て行つてしまつた。
別に上れともいわず、掛けろとすゝめるでもなく、老婆は、彼のいることを忘れてしまつたように、奥へ姿を消したきりである。
ものゝ三十分も待たされたであろうか。外から大声で話をしながら、二人連れの男がはいつて来た。その一人は、たしかに百瀬秀人であつた。
「珍らしい人物が現れたね。なにごとずら、いつたい」
「なにごとというほどのこともないが、君の自慢の村を見せてもらいに来た。急に思いたつて、ふらつと汽車へ乗つたんだ」
「はてな、わしは村の自慢なんどした覚えはねえが、まあ、よかろう。江戸ッ子京野元軍曹にトロヽ飯でもご馳走せじや」
「忙しいようだが、あんまりかまわんでくれ」
「なに、忙しそうにみえるだけさ。まあ、ゆつくりして行け。さ、上りなつたら。おれや、足洗つて裏から上るで……。あ、おめえも、さ、ウジさ、上つておくんなんし」
と、百瀬秀人は、連れの男をも促した。
通された座敷は、それでも床がつき、コタツが切つてあり、一方の壁には、大きな書棚を据え、彼がひとかどの読書家であることを示していた。
京野等志は、その本棚をじろじろ眺めまわした。この男がどんな本を持つているか、ちよつと好奇心が動いたからである。なるほど、蔵書の大部分が社会問題乃至政治経済方面の著書である。一農民としての立場から、その必要があるのだということは、彼の平生の主張からもよくわかつていた。
やがて、百瀬秀人は、自分で十能にオキ火を入れて持つて来た。それをコタツにほうり込むと、
「さ、楽に……さ、楽に……」
と、続けさまに言い、ふと、初対面の人物が互に白けた様子をしているのに気がつくと、
「あ、まだ紹介をせんじやつた。これは、わしの戦友で、京野等志つていうフランス語の達人、俘虜収容所でも半年あまり一緒に暮してさ、同じ船で仏印から引揚げて来ただ。こちはな、京野君、村の旧家で、名望サクサクたる大地主、もつとも今じや土地の方はわしんとこといくらも変りはねえが、とにかく名望だけは保つてござる長久保家の本家の当主だ」
二人は、いずれもこの紹介には少し辟易のていで苦笑を交わした。
が、すぐそのあとで、その長久保某は、百瀬秀人の耳に小声で囁いた。
「うん、そうか、それに違いねえ」
と、百瀬は頓狂に叫んだ――
「おい、京野、おめえのことをわしはいつかこのひとの家で話したことがあるだ。このひとの細君がよ、すると驚いてさ、京野等志つていうひとなら、東京で知合いだつたつていうじやねえか。細君は、元の姓は、なんだつけ……」
「味岡……」
と、長久保は言つた。
「うむ、味岡、小萩さつていうだ」
「ご存じかね?」
長久保は、やつと親しみを見せて、たずねた。
「えゝ、味岡小萩さんなら、僕、知つています。あなたの、それが、今、奥さんですか。へえ、そういえば、ずいぶん昔のことですよ、偶然、僕が家庭教師に行つてる家と、味岡さんのお宅とが、つい近所だつたもんですから……」
なにをどこまでも言うつもりなのか、京野等志は、こゝまでついぺらぺらと言つて、急に口をつぐんだ。
[#改ページ]
意外な場所で意外な人物に会つた京野等志は、なるべく話題を変えようとするのだけれども、相手の長久保宇治なる男は、むしろいゝところで彼にめぐり合つたといわぬばかりに相好をくずし、是非今夜でも明日でも家へ寄つてくれと頼むのであつた。
この招待に応ずることは、つまり、小萩に会うことだと思うと、彼の決心は容易につきかねた。で、いゝ加減に言葉をにごして、その晩は別れるには別れたが、あとで、彼は百瀬秀人にすこし立ちいつて長久保家の事情などを訊ねてみた。
「あの宇治という男は、面白い、風変りな男でなあ。今年三十七になるだが、女房以外の女には眼をくれんという律義者だ」
「それだけなら、別に風変りでもなんでもないじやないか」
「うん、それがさ、たゞそうならいゝんだが、田舎じやおかしいくらい女房を大事にする男でさ。それも東京の娘ッ子を、しかも、頭のでけとる別嬪をもらつたつていうんで、大自慢なんだ。実際、自慢されても仕方がないくらいの代物じやあるよ、お前も知つての通り……。だが、人の手前つてこともあるしな、ちつと、そばで見ていて、業の煮えるところもないじやないよ」
「いゝじやないか、そんなこと……自分で気に入つて貰つた女なら、せいぜい大事にするのが本当だよ」
「だが、なあ、野良へ出るのに鍬までかついでやる必要があるかどうかだ」
「ほゝう、やつぱり野良仕事はさせるのか」
「そいつはしかたがあるめえ。お袋もいるし、弟夫婦もいるだから、義理にも、床の間へ飾つとくわけにやいかんよ」
「夫婦仲は、すると、上々つてわけだね」
「女房の方はどう思つとるか、わしや知らん。よう勤めるにや勤めとるつていう話だ。たゞ、笑い顔ちゆうもんを見たことがない。これやどういうもんかな」
「おかしくないからだろう、そいつは」
「百姓の生活に、おかしいことなんぞあるわけがねえ。しかし、根からの百姓女は、よう笑うぜ。なにが楽しいのかと思うほど、よく笑うよ」
京野等志は、床にはいつても、なかなかねつかれなかつた。笑わない小萩の現在の生活とは、いつたい、どんなものか? 彼女はひととおり幸福なのか、それとも堪えがたい不幸を忍びに忍んでいるのか? 夫宇治の愛情は、彼女の心をゆたかに満しているのか、或は、その愛情のために、却つて、自分をいつわる苦しみに身をもがいているのではないか?
彼はもうじつとしてはいられなかつた。結果を考えてみる余裕もなかつた。彼は、自分の眼で、彼女の眼をじかに読んでみたかつた。
早い朝食をすますと、彼は、百瀬秀人を促して長久保家までの道案内をさせた。
「なんでも、細君の実家では、戦争中、娘を大きな百姓へかたずけておけば、どんなことになつても、なにかと都合もいいし、先々、安心だつていう腹があつたらしい。ちよつと都会人の考えそうなこつた。それに、当の相手は、あれでも高等農林を出とるしなあ、普通の百姓よりや、ちつたあ見どころがあつたんずら。しかし、来てみて、話と違うこと、話ばかりじやわからんことが、ずいぶんあるでなあ。それに、なんでも、近頃は、細君の実家と仲たがいをしとる風だよ」
「長久保家とか?」
「うん、それが原因だろうが、細君も実家とまずくなつとるちゆう話だ」
水田の多いこの地方では、麦作をする以外の田には、肥料用のれんげが蒔きつけてあり、花にはまだ早いけれども、やわらかな薄緑の葉がもう地面をおおい、道ばたの細い流れは朝の光を吸つてかすかな瀬の音を立てゝいる。澄み渡つた空から、大きな弧を描いて舞い降り、チヽと鳴いて、また、素早く舞いたつ幾羽かの小鳥は、春のおとずれをつげるひばりでもあろうか。
この長閑な風物に、京野等志の心はもうなごむことはできなかつた。彼は、一人の女性の、物思わしげな風姿を心に描き、自分は果して、ほんとうにその女性の幸福を願つているのか、それともまた、いくらかその不幸を念じているのか、そのけじめがつかなかつた。いまだにまつたく執着がないとはいえぬ女、止むを得ぬ事情でついに自分から離れ去つた女の運命に、幸あれかしと祈ることはまことに当然のようであつて、彼にはすこし偽善めいて感じられるのである。それなら、どこまでも彼女がみじめな境遇に追い込まれることを望むかといえば、それはまさかどう考えてもそんなはずはないと言いきれる。たゞ、はつきり自分にもわかつていることは、彼女の現在がそれほど満ち足りた生活ではないということを、うすうすながら知るにつけて、それを彼女のために悲しむ一方、たしかに矛盾したことではあるが、自分のためには、なにか、眼の前に、ひとつの期待のようなものが湧きあがつて来たことである。
この複雑な感情は、すでに、小萩からの便りを読んだ瞬間から、彼の胸をかき乱していた。彼を前後の考えもなくこの島立村に運んだのも、その感情の発作的なあらわれであつた。
そして、こゝへ来て、彼の眼にふれ、耳にきくことは、すべて、そういう気持に拍車をかけるばかりである。彼はまだ、なんの決意もしていない。自分がどこまで飛びこんで行くかもわかつていない。彼はたゞ、確信を得たいのである。
なるほど大地主の名にそむかぬ堂々たる構えの屋敷が、もうそこに見えていた。いくつかの土蔵をバックに、城郭のような白壁の塀をめぐらした長久保家の門の前に立つた時、彼は自分自身に言いきかした。
――彼女の心を試すような言葉はつゝしもう。
しかし、百瀬秀人の後につゞいて勝手口の土間へはいつた彼は、囲炉裡ばたの薄暗い光線の中に手拭を頭にかぶつた小萩の姿をちらと見てしまつたのである。
百瀬秀人は仕事があるからといつて、彼をひとり残して帰つて行つた。十二畳のひろい座敷にひとり待たされている間に、京野等志は、たつた今、たしかに小萩だと思つた女は、あるいはそうではなかつたのかと疑いはじめた。なぜなら、さつきから座蒲団をすゝめたり、コタツの火をもつて来たり、いらつしやいませとていねいにお辞儀をしたりする若い女の年頃がちようど似たりよつたりで、あの瞬間、小萩だと思いこんでもしかたがないからである。やがて、長久保宇治がのつそりとはいつて来た。
「昨夜は失礼……ようこそ……」
「お忙しいところをお邪魔かと思いましたが、折角こゝまで来て、お訪ねしないのも残念ですから……」
「いや、その話ですが、あれから帰つて、小萩にあなたのことをいいますとね、ほんとにしないんですよ。明日は見えるかも知れんといつても、そんな筈はない、百瀬さんのところへわざわざなにしに来なすつたんだ、と、まあ、こういつて、なかなか信用せんのですよ。――そりや、なにしにだかわしは知らんが、とにかく、百瀬君のところに来てござることはたしかだ。いまそこで会つて話して来たんだから、間違いはないといつてやつたんですよ。それでもまだ、腑におちんような顔をして、今も、早くご挨拶に出ろというのに、ぐずぐずしとるんです。女ちゆうもんは、疑い深いもんですなあ、わしや驚いた」
「なるほど、そう思われるのは無理もないかも知れません。偶然があんまり重なりすぎると、なんでもないことでも、ちよつと、薄気味がわるくなるもんですよ。ふだん忘れているような奴と、一日に三度、場所をかえてひよつくり出くわしてごらんなさい。そのつぎに、そいつが、またそこにいるといわれても、おいそれと信じられるもんじやありませんよ。一日を、一生涯にしてもおんなじことです。小萩さんとは、まつたく、最初から偶然ばかりでつながつているようなもんですから……」
京野等志は、おそらくこういう場合誰でもがもちそうな疑惑と不安とをかき消すつもりで、ひと息に、こうしやべりまくつた。
が、その時、襖がしずかに開いて、盆を手にさげた小萩が、やゝ伏眼がちに、それでも口元に微笑をたゝえながら、はいつて来た。
「どうです、やつぱり、うそじやありませんでしたね。この通り、京野等志、無事に生きていました。お変りありませんか?」
と、彼は、いくぶんわざとらしく、膝を組みなおした。
「ほんとに、夢みたいですわ。でも、お元気そうで……ちつとも、お変りにならないのね。百瀬さんから、それや、伺つてはいましたけれど、こうしてお眼にかゝるまでは、なんですか、ぴんと来ないみたいで……」
小萩は、夫宇治の後わきに、きちんと坐り、小さな両手を膝の上で組み合わせながら、すこしからだを斜にして、口籠るように言つた。
老けたというよりも、やつれた感じがどことなく見え、ことに、白粉ッ気ひとつない顔が以前よりも表情をむき出しにしていた。
「そうおつしやれば、僕は、お別れにあがつた時、たしか、変なことをいいましたね。僕はきつと死ぬでしよう――そういいました。あなたも、多分、それをそのまゝお受けとりになつたんでしよう。生きて還るのが当然と思われる人間もいますが、死ぬのが当り前だと思うような人間もいるもんです。別に理屈はないんだけれども、つまり、その人間のたちみたいなものですよ。僕は、もともと影のうすい人間でしてね」
まことにその場を取りつくろう会話というものは面倒なものだ、と、彼は思つた。
「あら、そんなこと……」
と、小萩は、これも、なんとなく救われたような声で、明るく応じた。
この二人の話しぶりをじつと聴きながら、片手で頸を押えたり、二人の顔を見くらべたりしている長久保宇治の、キョトンとした眼つきには、たゞなんとなく、自分には縁のない話題がいつ終るかを待つているという風な、手持無沙汰な様子が見えるばかりで、そこにはいささかも警戒の色を示してはいなかつた。事実、二人の話が急に途切れると、彼は、
「なにしろ、東京から一足飛びにこんな田舎へやつて来て、これもはじめは面喰つていたらしいですよ。別に百姓をさせるつもりはなかつたんですが、戦争で人手は減りましよう。そこへ増産々々で、女子供総動員ですからな。手もこんなに荒れちまつて……」
と、妻の膝に眼をやりながら、恐縮するように首をふりふり笑つた。
小萩は、つまらぬことをといわぬばかりに眉を寄せて、その手を後ろへ引いた。
「しかし、都会の生活も、近頃では、そう悠長なもんじやないでしよう。ところで、僕が日本へ帰つて来て、一番驚いたことはなんだと思います? 男がのほゝんとし、女がとにかく真剣な顔附きをしていることですよ。いや、長久保さんのことじやありませんよ。一般にそういう傾向が目立つということです。農村はどうだか知りませんが、東京なんかじや、普通の女の立場は、以前と全く変りましたね。形に現われないまでも、女の気持は、いま張りつめているように思われるんです。明るい暗いの違いは、個人々々で違うでしようけれど、まつたく、男を尻眼にかけているという風が見えますよ。長久保さん、農村なんかでは、そんな変化は見られませんか」
はじめは小萩の方へ、それからだんだん、長久保の方へ話しかける調子で言つた。
「そうですなあ、農村でもやつぱり、男がみんな兵隊に取られたせいでしようが、女だつてなかなか理屈を言うようになりましたよ。それにご時勢がご時勢で、どこか男にも遠慮が出て来ましたなあ」
それを聞いて、小萩はかすかに眼で笑い、京野等志は、思わず声をたてゝ笑つた。
と、その時、さつきの若い女性が再び顔を出して、
「兄さん、あの、竹を二十本ばかり伐らしてくれつて、熊川のおじさんが来てなさるが、どうしましよう?」
「え、竹を……? じや、わしがいま行くで……。ちよつと、失礼します」
長久保宇治は、そう言つて、座をたつた。
「今の方は、ご主人のお妹さん?」
「いゝえ、主人の弟の嫁ですの。あたくしとおない年よ。きれいなひとでしよう?」
「と、いうんでしような。典型的な地方美人か。話が合いますか?」
「とつても、気だてのいゝひと。たゞ、なかなか親しめなかつたわ。むずかしいものよ、違つた気風を呑みこむのは……」
「土地の気風ですか、家の気風ですか?」
「両方……。でも、あたくし、わりあい呑気だから……」
と、こゝでちよつと、後ろを振り返るようにして、言葉の調子をあらため、
「ねえ、京野さん、どうして、こんなところへいらしつたの?」
「あなたのお顔を見にです」
「お会いしても、なんにもなりませんわ。それや、うれしいことはうれしいのよ。でも、却つて、あとが悲しいだけだわ」
「しかし、あなたは、どうして、あんな手紙をくだすつたんです?」
「ちよつとご挨拶がしたかつたの。無事にお帰りになつたことを、あたくしが知つていることだけ、お耳に入れたかつたの。それと、あたくしがどうしているかも、まあ、申しあげておく方がいゝと思つたの。それがいけなかつたか知ら?」
「いけないとは、どういうんです? なんでも知つていることは大切ですよ。それを知つて僕がどうするかは、僕の責任ですからね。ご心配には及びません」
「まあ! 誰が心配だなんていいましたの? あたくしがどうしているか、それを見に来てくだすつたのはいゝのよ。でも、それは単純なご好意と解釈させていたゞきたいわ。あたくしは、もう、なんにも申しあげたくないの。この通り、平凡な農家の主婦として暮しているところをごらんになつて、あなたは安心なすつたか、それとも、興ざめにお思いになつたか、それはどつちでもいゝの。たゞ、今になつて、あたくしが、なにかほかのことを望んでいるようにはお考えにならないでね。それだけお願いするわ」
それは意外にキッパリとした言葉つきで、気取りも思わせぶりもなく、どちらかといえば、彼には挑戦的にさえみえた。
「わかりました。あのお手紙で、一応はあなたのお気持も察したつもりですが、つい、あなたのおつしやる我慢ができなかつたのです。僕の方が弱いからでしようか? 恐らくそうではないつもりです。僕の方が自分というものを大事にしているだけです。それは、あなたの方はどうでもいゝということじやなく、あなたにも、あなた自身を取りもどしてほしいという僕の願いがこもつているんです」
彼女は、しばらく、黙りこくつていた。が、とつぜん、眼をあげて、すこしふるえを帯びた声で言つた。
「あなたは、やつぱりエゴイストよ。もともとそうなのよ。戦地へお立ちになる時だつて、あなたのお取りになつた態度は、ご自分の立場で、すべてを解決なさつたようなもんだわ。いえ、弁解なんかなさらなくつていゝの。もう済んだことですもの。今日だつてそうだわ。まつたくおんなじだわ。あたくしにとつて、今、あなたにお会いするつていうことが、どんなことだか、あなたはちつとも考えてくださらないんだわ。あなたがご自分を大事になさるつていうことゝ、あたくしが自分を忘れまいとすることとは、まるで意味が違うのよ。それがおわかりにならないか知ら?」
彼女は涙にくもつた眼を、そのまゝ彼に向けて、むしろ憐むように、言葉の終りを低く溜息のようにぼかした。
「さ、もう、お帰りになつて……。いつまでもこんなお話をしていてもきりがないわ」
京野等志は、苦笑した。なにか相手の姿勢を崩させるような名文句はないかと考えているうちに、小萩は、つと起ちあがつて、奥へ姿を消した。障子にうつる日射しが急に明るく彼の眼にうつつた。彼は、今さらのように部屋のなかを見廻した。床には、稚拙な南画風の軸がかゝり、紅梅の枝が月並に生けてある。ナゲシに眼をあげると、そこには三ツ叉のヤリが物々しく飾つてあつた。なんとも退屈な部屋の空気である。彼は席をはずして、障子を開け、坪庭のドウダンと松の植込みをぼんやり眺めていた。
「なにを見ていらつしやるの」
小萩の声に、彼は、振り返ると、反射的に言つた。
「僕、もう失礼します。このまゝ黙つて帰ればいゝんでしよう? ご主人によろしく……」
彼は、立つたまゝ頭を軽くさげ、大股に内玄関の方へ歩きだした。
「お怒りになつちやいやよ。なにもかも、あんまり不意なんですもの……」
と、彼女は、しんみりと、彼に寄り添うように、口の中で呟いた。そして、自分も下駄をつつかけて門まで送つて出た。
裏の竹藪から長久保宇治がひよつこり飛び出して来て、
「もうお帰りですか。ゆつくりしていただくつもりでいましたのに……」
「いや、いや、そうしてはいられないんです。またいつか寄せていたゞくかわかりません。お二人ともご機嫌よう」
「百瀬君のところ、道はおわかりでしようか?」
「さあ、わかると思いますが……」
実は、まるで見当がつかなかつた。それを見てとつて、長久保宇治は、
「おい、小萩、お前ちよつと送つてあげなよ」
「でも、おわかりになるわ、ねえ」
と、小萩はしぶつてみせる。
「ちよつとやゝこしいで、途中までゞも附いてつてあげるといゝ」
「じや、そう願いましようか」
京野等志は、たずねればわかるとは思つたが、いつそ、この田圃道を小萩と並んでしばらく歩いてみるのもわるくないという気がした。果して、あのどんよりとくすんだ部屋の中で向い合つた小萩とはまつたく別な小萩が、青空のまぶしい光の中に浮びあがつた。それは、地味な衣裳と無造作な髪の形が、すんなりとしたからだつきに、一種のつゝましい媚態のようなものを浸み出させていることだつた。あの時感じた、いくぶんのやつれも、今はそれほど気にならず、却つて、野の微風に髪のほつれをなびかせて、ぐつと胸をそらせた瞬間など、まだ若々しさを十分に保ち、心にもからだにも、弾みのあることが明らかに見てとれるのである。そして、なによりも彼の眼をみはらせたのは、ふとしたはずみに、彼女が、昔よく唱つた「菩提樹」の歌を、さりげなくハーミングしはじめたことであつた。
彼はわざと、それにはなんの反応も示さず、たゞそういう彼女の、なにゆえか浮き浮きとなつた気分をこわすまいと努めた。
「あら、あたし、道を間違えちやつた。すこし遠廻りになつたけど、いゝわね。でも、変だわ、あたし……。なんのために、こうして歩いてるのか、ふつと忘れてしまつてたわ。あなたをどこへお連れするのか、それを忘れるなんて、大変だわ」
と、だしぬけに、そういう彼女は、たしかにはしやいでいる。
「えゝ、いゝですとも……どこへでも連れてつてください。その方がありがたいくらいです。さあ、これから先は一人で歩けといわれても、僕は、がつかりするだけですよ」
「あなたのおつしやることはわかるの。でも、そういうこと、おつしやつてはいけないわ。ほんとに、あたくしはもう、そつとこのまゝにしといてちようだいね。すこしお目にかゝるのが早すぎたわ。だから、十年か二十年先につて申しあげたのよ」
「ところが、それじや、もう遅すぎます。結局、丁度いゝ時なんて、ありつこないんですよ。それを作らなければね。しかし、僕には、僕だけでは、それは作れないんです」
二人はまた黙つて歩いた。
やがて、いつの間にか、百瀬秀人の家の前に来ていた。
「もう一度来てもいゝですか?」
と、彼は、そつと彼女の手をとろうとした。
「えゝ、でも、おんなじことよ。じや、お大事に………」
彼女は素早く身をひるがえして、すたすたともと来た道を引つ返した。
その日の午後、京野等志は松本発の上りで東京へ帰つた。
なにはともあれ、小萩に会えたということは無意味ではなかつたと思われた。向うには、まだ多少のこだわりがあり、不意の訪問にどうこたえていゝか迷つているところはみえたけれども、結局、こつちからあそこまで踏み込んでおけばいゝのだ、と、彼は、ひとりぎめにきめた。彼女の口に出して言つたことは、すべて一と皮むいてみなければならぬことばかりだ。なるほど、今の夫を愛してはいないとも、現在の生活は耐えがたいともいわなかつた。しかし、それを強いて言わせる必要があるだろうか? ――お目にかゝるのが早すぎた、と、彼女が、恨みをこめて言つたのは、逆に、まだ遅くはないということを、おそるおそる宣言したようなものだ。しかし、あまり、事を急いではならぬ。破壊ということは、どつちみち、女性にとつては、一大苦難である。それを察してやらればならぬ。だが、正直なところ、予期以上の成功だが、彼女にとつては、どうであろう? 新しい苦しみと新しい希望とを与えたことはたしかだ。そして、その苦しみと希望との、どつちが最後に彼女を支配するか、だ……。
家に辿りつくまでこんなことを考えたのだが、京野等志は、ちようど夕食にかゝる前の、なんとなく落ちつかぬ一つ時を、二階の居間で、ぼんやり煙草をふかしながら相変らず、いかに昔の花やかさはなくとも、今は今で好もしい小萩の面影を、いつまでも心に描いていた。
夕食の膳に向いはしたものゝ、今日は父と弟の帰りが遅いとみえて、母と妹二人は、彼にだけ先へ食事をさせて、自分たちはもうしばらく待つてみる風であつた。
「いゝじやないか、みんな、すましたら……」
「うん、でも、お父さんはそうお遅いはずはないから……」
と、母が言つた。
「それじや、僕もあとにするよ。腹がへつたにやへつたけれど……」
「兄さんは、かまわないのよ。それに疲れてるだろうから……」
母がさつさと飯をよそおうとするのを、彼はもう止める気はしなかつた。父よりも先へ女たちが食事をしない習慣が、まだこの家に残つていたのかと、彼はちよつと意外に思い、それが愛情とか礼儀とかの問題ではなく、家長のおのずからな圧力がそこに示されているもののように感ぜられた。
が、彼が箸をとりあげると間もなく、父が帰つて来た。
「おや、早かつたんだなあ。どうだ、信州旅行は?」
と、父は着物を着かえながら、彼に言葉をかけた。
「別にどうつてこともないです。お先へはじめてますよ」
「さあ、さあ。あ、わし、たつた今、すしを御馳走になつたもんだから、腹はすいとらん。熱い番茶をいれてくれ」
「あら、でも、今日はあなたのお好きな湯豆腐ですのよ」
と、母が言うのを、
「いや、いや、なんであろうと、欲しくない。今日は風呂はあるのか、風呂は?」
長火鉢の前にあぐらをかいた父は、そういつて女たちをねめまわした。
「今日はあいにく沸しませんでした。薪を割るのがつい億劫で……」
「薪を割るぐらい、僕が手伝いますよ。なんだ、そんなことまで遠慮してるのか」
と、京野等志は、つい、遠慮という言葉に力をこめた。
「深志兄さんに頼んでも、なかなかやつてくれないのよ。文句ばかり言つて……」
末の妹、真喜が口をはさむ。
「今度のはまた、太いのばかりと来ているから………」
母は、茶を注ぎながら、真喜に兄の茶碗が空になつていることを、頤で知らせた。
「深志は、毎日どうしてこんなに遅くなるんでしよう? 何をきいても黙つてるから、わからないわ」
女たちが食事をはじめると、上の妹の多津は、小声で母にさゝやく。
「あいつはだんだん口数が少くなつた。いゝ傾向だ。若い男のお喋りは、軽薄にみえていかん」
と、父は、独言のように言う。
「あら、だつて、必要なことは、ちやんと言う方がいゝわ。卑屈で言えないのも、かたくなで言おうとしないのも、どつちも、感心できないわ」
真喜がちよつぴり意見を吐く。
「それやそうさ。たゞ、わしの言うのは、言葉は最少限に、ということだ。若いうちは特に、余計なことを言つちや、しくじるもんだ。そこへ行くと、年寄りは多少趣きがちがつて来る。言葉が多いようにみえても、その言葉には、余裕というもんがでて来るんだ。当りもやわらかになる。人を傷つけて、快とする風が、絶無とは言わんが、いくらか少くなる。その代り、相手と共に言葉を楽しむ、言葉だけを楽しむ一種の境地が生まれる。言葉はもはや、行動としてのはたらきを失つて、単なる表情だけに止まることになるのだ。わかつたか、真喜坊」
父の身勝手な饒舌論は、一同を吹きださせた。
「そんなら、お父さんのお話は、たいてい、言葉を楽しんでいらつしやるわけね。こつちが楽しくなかつたら、どうすればいゝの?」
ズバリと、真喜が釘を刺したので、母と多津とは、思わず顔を見合した。
「聞いてなけれやいゝさ」
「但し、聞いてる風だけはしてね」
と、多津も、悪戯ッ子のように、すこし調子に乗る。
「ハヽヽヽヽ」
父は、うつろな笑い方をした。実に、なんとも言えぬ寒々とした笑いである。
その夜、深志は、十二時になつても帰つて来なかつた。
京野等志は、弟の机の上に、学校のノートが一冊投げ出してあるのを、ふと拾いあげてパラパラと頁を繰つてみた。哲学概論のノートであるが、ところどころに講義の筆記らしい走り書きがしてあるだけで、大部分が空白のまゝである。読みにくい字を拾い拾い、どんなことが書いてあるか、たゞ好奇心だけで眼を通しているうちに、ある個所に来ると、それは明かに講義とは関係のない、一連の文章にぶつかつた。
歓びは甘き忍従
憩いは恥じ知らぬ限り
家こそは愛と憎しみの嫡子
はた、夜と昼との落し子
恩恵の重荷に堪うるもの
ただ奉仕の鎖
威圧は熱風と吹き
沈黙は冷雨と注ぎ
ひそかに忍びよる功利の波は
巧まざる迎合の磯に打ち寄せ
みよ、強いられし笑いの後に来るもの
得々たる泣訴哀願
時に身振多き団欒の図はあれど
そは人形芝居、仮面劇
男女老若登場の道化一幕
あに、われひとりピエロたり得んや
扶養の義務とはなんぞ
これ善意の搾取にあらざれば
憤懣の去勢
人は人たることをやめて
ひたすら肉親の変化たらんとす
京野等志は、この詩のようなものを、三度繰り返して読んだ。他愛のない楽書のようでもあり、弟深志の痛切な叫びのようでもある。この幾行かの呪詛の文句を、彼は、味うともなく味つてみた。
[#改ページ]
それから数日後のことである。夕飯をすまして、いつ時雑談がつゞき、母の弓が風呂の加減を見て来いと姉娘の多津に言いつけていると、そこへのつそりと深志が帰つて来た。
「今日は早いんだなあ」
と、兄の等志は、ひやかし半分に言つた。毎晩十二時近くならなければ家の閾をまたがぬ習慣がちかごろついているからである。
「ご飯はまだ?」
母がたずねるのに返事もせず、深志は、いきなり父の方へ、立ちはだかつたまゝ声をかけた。
「僕、あしたから、この家を出て、下宿します」
一同の視線が彼の上に集り、それから、互いに顔を見合わし、息をのんだ。
「まあ、坐つて話をせえ。いきなりそんなこと言つたつてわからん」
「別にそれ以上言うことはないんです」
「そつちはないかも知れんが、こつちできゝたいことがある。坐れと言つたら坐れ」
深志は、そこへ、しぶしぶあぐらをかいた。
「なんですか、僕にきゝたいことつて?」
「どうしたつていうの、あんた、そんなむずかしい顔して……。なんのことだか、もつと穏かにお話したらどうなの」
と、母も見かねて口を出した。
「お母さんは黙つててください。とにかく、このことは、お父さんの諒解さえ得ればいゝんです。無断家出ということにならなきやいゝんです」
「まあ、それはそれでいゝ。どうしてこの家を出たいのか、その理由を言うわけにいかんか」
父は、気を取り直したらしく、努めて平静を装つていた。
「…………」
相手は黙つている。いつまでも黙つている。重苦しい一瞬であつた。
「理由は、そんならきくまい。下宿をするのもいゝが、学校は続けるのか、やめるのか?」
「わかりません」
「わしの補助は、いるのか、いらんのか?」
「いりません」
「いらん? 自分で働く気か?」
「そんなこと、わかつてるでしよう」
「まるで、その調子は、喧嘩腰だが、どうして、無断家出になつちやいかんのだ? たいした違いはないじやないか?」
「そうですか。たゞ、余計な手数をかけないようにしたまでです」
「等志、兄の立場から、なにか言つてやることはないか?」
その時まで、わざと言葉をはさまないで、二人の切迫した応酬をじつとながめていた京野等志は、突嗟に、なにを言うべきかに迷つた。実は、なんにも言いたくないというのが、底を割つた気持で、今こゝで、取りなし役を買つて出たり、兄きぶつた意見を吐いてみたりしたところで、なんのたしにもならぬと考えた。
「お父さん、この話はこれくらいにして、あとは僕と深志に委してください。事をもう少し自然に運ぶ方法があるかも知れません。深志、二階へ行こう」
「行くさ。しかし、僕は兄さんにだつて、これ以上のことは言わないよ」
そう言いながら、彼も立ちあがつた。
二階の電燈をつけて、等志がまず、座蒲団を弟の机のそばへ引寄せて坐つた。が、深志は、なかなか座につこうとせず、本棚をのぞいたり、中腰で机の抽出をあけ、なにやら探す風をしたり、押入れの中へ首を突つ込んだりしている。
「おい、深志、そんなことしてないで、すこしおれの言うことをきけよ。まず第一に、今まで二人はゆつくり話をする機会がなかつた。不思議なくらいなかつた。おれがそいつを努めなかつたのもわるかつた。しかし、君の方でも、なんだか口を利くのが面倒臭そうにみえたぞ。今日の話だつて、本来なら、一応おれに相談してくれればよかつたんだ。いや、その相談相手になれなかつたことが、もし、おれにその資格がなかつたためだとすれば、こいつは、非常に残念な話だ。取返しがつくもんなら、取返しをつけたい。おれで役に立つことがあれば、なんでもするよ。とにかく、君がこの家を出たいという気持は、まんざらわからなくはないつもりだが、そのことを、ひとつ、ざつくばらんに話し合おうじやないか」
柱にもたれたまゝ、しばらく天井を見つめていた弟の深志は、やつと机の前へ来て、坐つた。
「いゝんだよ、僕のことはかまわないでくれよ。兄さんは兄さんで自分のことを考えたらいゝ。なにも、兄弟だからつて、特別な関心を持ち合う必要はないさ。偶然おんなじ両親をもつたつていうことだけで、お互い、なんの責任も負つてやしないんだからね」
「うむ、そういう考え方も成り立つだろう。自然の情愛だけが肉親を結びつけるんで、君がもしそれを否定するなら、おれはもう、なんにも言わないよ。たゞ、念のためにきいておくが、君は、おれや、おやじに対してある種の反感をもつているとしても、おふくろや女きようだいに対しては、もつと別な感情をもつてやしないか?」
「…………」
「ことに、おふくろを悲しませることが、君は平気でできるかい?」
「そんな問いに答える義務はないよ」
「義務はないさ。君が自分の心にそむき、自分を誤魔化していなけれや、それでいゝんだ」
「…………」
「この家を出て、ひとりの生活をするという、たゞそれだけの目的なら、もつとほかにやり方がありやしないかい? おやじはなかなか説得できなくつても、せめて、おふくろだけは、しかたがないと諦めさせる手段はなくはないと思う。それも、君は、めんどうだというのかい?」
「めんどうよりなにより、そんなことして、らちがあくもんか。結局、喧嘩して飛び出すことになるのさ。いゝじやないか、僕ひとりのことは僕自身で考えるんだから……。おふくろに同情して、こんな陰鬱な生活に一日でもしばりつけられているのは、まつぴらだ」
「なるほど、この家の生活は、健康ではない。しかし、どんな明朗な生活が、外で君を待つているか知らんが、他愛のないイリュージョンだけは警戒したまえ。ともかく、なににでもぶつかつてみることだ。それは賛成だ。アルバイトの口は、ちやんとあるのかい」
「…………」
「それも、答える必要なしか。よろしい。いよいよ、君は、われわれと戦闘開始のつもりだね。但し、断つとくが、おれは、君を敵とみるつもりはないよ。一方的宣戦布告というのは、どういうことかね。それだけのことを頭において、自由行動をとるさ」
「余計なこと、しやべらないでほしいな。みんなピントが外れてらあ」
そう言い放つたと思うと、深志は、夜具を引出して、さつさと横になつた。
等志は、ひとりでに苦笑が浮んだ。むかつとして思わず相手をにらみつけたとたん、腹の底からおかしさがこみあげて来たのである。七年間別れているあいだに、彼は、弟の姿を見失つてしまつた。二人の再会は、互いの距離を近づけることができなかつたのである。兄弟という関係の上に、彼は安閑とその日を送つていた。それが不覚であつた。
茶の間へ降りて行くと、父は風呂へはいつているらしく、母と妹二人が、ぽつねんとそこに坐り、ひそひそと話していた。
「兄さん、困つたことになつちやつたね。どういうつもりなの、深志は?」
と、母が打ちしおれた風で、彼の方を見あげた。
「どうもこうもありませんよ。あゝいう時代があるんですよ。しばらく勝手にさせてみたらいゝでしよう。うまく行けば、一生の得だし、間違つたつて、たいしたことはない。自分で働いて、勉強するつていうんだから、ほんとは、感心だつて、ほめてもいゝんです。たゞ、内心てれ臭いもんだから、怒つたような顔をしてるんでしよう。それに、当り前じや許してもらえないと思つて、いやに、高飛車に出てみるんです。それも、あの年頃のひとつの流儀ですよ。心配ありません」
すると、下の妹の真喜が、
「それにしても、子供臭さすぎるわ。あの態度は、一種の甘つたれよ。第一、ひととあたり前に話ができないの、変だわ」
「ふだんから、そうだけれど……」
と、母が言う。
「男にはよくあるわ。よくない癖ね」
これは姉の多津である。
「まあ、まあ、みんなでそう攻撃しないで、誰か味方になつてやれよ。家をはなれて一人つきりになりたい欲望は、これは責めるわけにいかんよ。その理由を改まつてきいてみたところで、どうにもならんさ。お母さんだけはちよつと面倒だが、多津にしたつて、真喜にしたつて、時々は、自分だけの生活があつたらと思うだろう。深志のやつは、単純にその夢を追つてるというわけだ。そして、誰だつてそうだが、その夢をいちばんわかろうとしないのは、おやじやおふくろだと思い込んでるのさ。そこへ行くと、きようだいは違うんだが、おれにはどうも兄きの資格がないらしいよ。多津、お前、あした、荷物ごしらえの世話をしてやれよ」
「下宿つて、いつたい、どこなのさ」
と、また、母が気をもむ。
「いずれ知らせるんでしよう。お母さんも、あんまりくどくいろんなこと、おつしやらない方がいゝですよ。当座いり用なものをひと通り持たしてやつてください。お父さんには、僕からよく話します」
その翌日、父は自分の居間に引つ込んだまゝ顔をみせず、その間に、母と多津とが手伝つて、蒲団包みと、柳行李と、本箱、机などが運送屋のリヤカーに積み込まれた。
等志は、二階の窓からそれを眺めていた。
なんとも知れずぎごちない、気のぬけた出発であつた。
この事件ともいえぬ事件は、父にとつて非常な衝撃であつたらしく、それ以来、母との間にも気まずい口争いがしばしばみられるようになつた。酒気をおびて夜おそく帰つて来る父を、母は冷たく迎えた。
が、こうなると、京野等志には、家族の一人一人が痛ましい存在のようにみえて来た。それと同時に、弟の深志がすこしいまいましかつた。もつと早く、自分の方が、この家を出て、一人の生活を築くべきだつたのに、彼に先手をうたれたという気がして来た。弟が出て行つた後に、また自分もおなじ道を踏むということが、なんとなく躊躇された。誰にわるいとはつきり言えるようなものではない。自分の気持が承知しないのである。一歩つきつめて考えれば、やはり長男の立場ということもあるのであろう。頭までは立派にそれを否定しながら、今日このごろの家の空気、ことに母や妹たちの弱々しい表情にぶつかると、つい、彼女らの運命を、自然の手にまかせる気にはなれない。
彼は、急に、仕事を探そう、なんでもいゝ、仕事にぶつかつていこう、と思いたつた。
友人の南条己未男がかねてすゝめてくれていた翻訳の手伝いも、会つて話をしてみると、今はもうそれほど口がないということで、そんならどこか勤め口でもと、心当りを歩いたり、あちこちへ手紙を出してみたりしたが、すこしもラチがあかなかつた。いずれもていのよい断りの一手で、彼の希望は片つぱしから崩されていつた。なるほど、こいつは深刻だ、と彼はやつと時代の真相にふれた思いで、いくぶん、あわて気味であつた。職業安定所にも通つた。肉体労働以外の口は、おおかた怪しげな、人を小馬鹿にしたような仕事か、さもなければ、採用者の顔を見ただけで虫ずの走るような、職場しか廻つて来なかつた。
――仕事とは、いつたい、なんだ?
そう考えて、彼は暗澹とすることがあつた。選り好みをするうちは、まだ余裕があるのだ、と、ある友人は言うのだけれども、彼は必ずしもそうは思わない。選り好みの標準次第では、人間の生き甲斐にかゝわる問題ではないか。食うためだけに、心にそまぬ、つまり、人間らしくない仕事をするくらいなら、空腹に堪えて死を待つ方がましだ、と、彼は結論をくだした。
結論はなるほど、そうくだしはしたが、事実、ぶらぶらしていて、しかも腹はすかぬ今の立場であつてみれば、無為徒食を共にするというのは、とりもなおさず、黙つて飯を食わしてくれる家というものがあるからだ。ありがたくない家のおかげで、今どき世間に通用しない悩みを悩んでいるという恰好になる。
彼には、食うのに困るためにわざわざ家を出るという酔狂を敢てする気もなかつた。彼は、平凡に、しかし、多少虚勢を張つて、父の憲之に相談をもちかけた。
「ぼつぼつ、なにかしようつと思つて、いろいろ考えてみたんですが、時節柄、思うような仕事がないんです。いつかお話があつた、お父さんの会社に適当な席はありませんか」
「そうか、そういう気になつたか。ないこともないよ。しかし、言つとくけれど、会社というほどのもんじやない。社員といえば重役をふくめて十人足らずだ。職工は二つの工場を合せれば、あれで、五、六十人もいるか」
「お父さんは、その会社の、なんです?」
「うむ、わしは、まあ、常務の一人になつとるんだが、主に熊谷の工場の責任者を兼ねているわけだ」
「本社はどこです?」
「本社といつても別にビルディングがあるわけじやない。仲間の一人を社長ということにして、そいつの私宅を事務所に使つてるんだ。そうさな、お前が来るというなら、熊谷の工場の監督でもやつてもらうかな。ちようど、そういう人間がほしいところなんだ」
「できることなら、なんでもやりますよ。専門の知識はたいしていらないんでしよう」
「あるに越したことはないが、それより、やつぱり、人間を扱うコツだな、必要なのは。いずれ、形式だけでも重役会議にかけにやならんから、履歴書を書いとけ」
父のこんなに上機嫌な顔を、ちかごろ彼はみたことがなかつた。それなのに、彼は、そういう父をみることが、すこしも愉快ではなかつた。一歩一歩、安易な道へ踏み込もうとする自分のすがたが、父の、その満足げな微笑のなかにうつつていたからである。
父が出かけた後、彼は二階にあがつて、今はたゞ履歴書を書くためにだけそこにあるような机に向つた。
すると、階段をあがつて来る足音がする。振りむくと、上の妹の多津が、遠慮がちにそつと唐紙をあけてはいつて来た。
「すこし、おしやべりしてつていゝ?」
「あゝ、いゝよ。今のうちにうんとしやべつとけよ。そのうちに、おれは忙しくなるからな。おや、今日はバカにおめかししてるじやないか」
ふだん身なりをかまわぬように思われたこの二十七の妹の、今日の朝の化粧は、匂うように美しかつた。
「それや、いざつていう時は、化けるわよ。なんて、戯談なんか言つてる場合じやないのよ。重大問題の相談にのつていたゞきたいの」
「おい、おい、また問題を起すのか?」
「もう、起つちやつたんだから、しかたがない」
「なんだい、早く言えよ」
「ちよつと、待つて……。あたし、もう、自分のことは考えないつもりだつたの、ほんとに……。それが一番、自分のことを考えるからだ、ともいえるけど、とにかく、あたしの生涯は一応終つたつもりにして、どこかの隅で、ひとの邪魔にならないように暮して行きたいと思つていたのよ。今でも、そうは思つてるんだけれど……」
「聞いてるよ。言いたいだけのことを言つてごらん」
「えゝ、言わしていたゞくわ。そうなるまでは、ずいぶん苦しんだの。やつとこさ、気持の落ちつき場所をこしらえたと思つて、ほつとしていたところへ、まつたく困つたことができちやつたの。きのう、新宿の地下道で、ぱつたり、会つてはならないひとに会つてしまつたんです」
「天下の公道でなら、誰にだつて会うさ」
「会い方にもよるわ。口を利かないわけにいかないような会い方、こつちで避けようにも避けられない会い方なの。そのうえ、あたしは、どうしてだか、そのひとの顔をみて、ぐらぐらッと、意地も張りもなくなつてしまつたの。今日、また、会う約束をしてしまつたんです」
「宮坂と別れる原因になつた、例の男かい?」
「えゝ、そのお話、まだ詳しくしてないわね」
「詳しく聞く必要があるかい? とにかく、宮坂と結婚する前から知つていた男だろう。それが、お前のところへ手紙をよこす。宮坂はそれに因縁をつけて、とやかくいうんだろう。しまいに、双方の感情が爆発してしまつた。それだけじやないか」
「それだけにはちがいないわ。たゞ、雲井つていうんだけど、そのひとは前からあたしに結婚を申込んだこともないし、宮坂のところへ行つてからも、手紙をよこしたつて、別にひとにみられてわるいようなところはちつともないの。他愛もない世間話や、自分の書こうとしてる小説の筋や、そんなことばかりなの。宮坂の怒るのが不思議でしようがなかつたのよ」
「まあ、それはどつちでもいゝとして、お前が宮坂と別れたことは、その先生、むろん知つてるんだろう?」
「知らせるには知らせたわ。その原因もついでに書いて、以後、実家の方へも、手紙は絶対にくれるなつて、言つてやつたの」
「どうして?」
「宮坂には二人の間がなんでもないことを断言してあるんですもの。もし、これから交際をつゞけていたら、どうなるかわからないと思つたからだわ」
「宮坂と別れてからなら、どうなつたつていゝじやないか」
「以前から、なにかあつたと思われるのが癪なのよ。それに、籍をまだぬいてくれないの」
「よし、わかつた。それで、きのう、偶然、新宿で雲井先生に会つたと……。会つたら、こつちはぐらぐらッとした。そして、向うは? 今日、会うのは、なんのためだ?」
「会いたいつていうから、会うのよ。あたしも、会うの、いやじやないの」
「いやじやない、と来た。求めよ、さらば与えられん。行つて来い」
「行つても、大丈夫ね」
「大丈夫という意味にもよるが、幸福つてやつは、向うから追つかけて来るもんでもなく、安全な橋を渡ることでもない。お前の眼は、いきいきと輝いている。幸福とは、これだな、と、おれは思う。よけいな取り越し苦労をするより、堂々と、今の気持を押して行くといゝ、急がず、慌てず、ためらわず……」
「ありがとう、兄さま……。行つて来るわ」
つと、起ちあがつた妹の多津は、片手を髪の後ろにあてたまゝ、部屋を出た。そして、唐紙を静かにしめながら、わずかな隙間に顔をよせて、兄の方へにこりと笑つてみせた。
上武製粉株式会社総務部勤務兼熊谷工場営業部長という肩書をもらつて、再び京野等志がサラリーマンの生活にはいつたのは、それから一週間目であつた。
勤務先としては途中に時間を食われ、帰りは上野に着くと、もうぐつたりするような日が多かつたけれども、彼は苦情を言わないことにきめた。月給八千五百円、袋のまゝ母に預けて、いるだけ貰うというやり方にしてみた。別に損得を計算しての上ではないが、やつてみると、母はそれがうれしそうである。
工場は熊谷の町はずれにあつた。古い建物を改造し、それにバラックを建て増した、見るからに間に合わせという風な工場であるが、小口の注文が案外多く、機械を休める所がないくらいの繁昌ぶりで、経営次第では、中工業としての基礎を早晩固めることができそうに思われた。第一に腰を据えてかゝらねばならぬ対労組の問題も、こゝではまだ初歩の動きが見えだしたくらいで、これも、彼としては、健全な指導者に一切を委せるか、自分が矢面に立つて攻勢の先手をうつか、どちらかに肚を決めるつもりであつた。
同僚は工場長の牧田と工務部長の菱刈、あとは、彼の下に会計と庶務を分担する菅老人と市田青年とである。職工は総員三十五名、三分の一が女であつた。
さて、京野等志の着任以来、工場は、徐々に面目を変えて行つた。殊に、厚生という面で、着々、不備な点が整えられ、そのために、経費のかゝりすぎることもあつたが、それは、能率の増進と、大口注文の倍加によつてカヴァーされた。京野等志の評判は、しかし、一部のものの間を除いて、あまり芳しくなかつた。なぜなら、すぐに、急進的な分子の警戒心をあおる結果になつたからである。「あいつ、油断がならんぞ」という考が、そここゝで囁かれた。
京野等志は、自分の仕事と真剣に取り組み、甘い理想主義者という名を光栄として身に受け、ぐんぐん、よしと信じることを断行した。
社長の陣内をはじめ、父の恵之を含む重役連は、それで利益が十分にあがる間は、黙つてみているつもりか、給与の改善を提案する時以外は、たいてい、ふんふんと彼の言うことを聞いていた。
彼は、工場の実権をほとんど握つたつもりになつた。彼の頭は、仕事でいつぱいであつた。
それでも、日曜だけは、勤めを休むことにしていた。終日、参考書を読みふけることもあり、たまに妹二人を誘つて映画をみに行くこともあつた。上の妹の多津は、その後、例の話には触れようともせず、彼の方でも、別に穿鑿する気はなかつたが、ある日、下の妹の真喜が、みちみち、すつぱぬいた。
「お姉さん、あのことお兄さんにおつしやいよ。お姉さんが黙つてるなら、あたし、言うわよ」
「なによ、真喜ちやん、よけいなおせつかいだわ。兄さまはもう、ご存じなのよ」
「ほんと、お兄さん、多津姉さん、愛人ができたの、ご存じ?」
「知らないね」
「それごらんなさい。相手は、雲井秋生、ほら、小説家の……」
多津は、それを否認はしなかつた。彼も、なんの反応も示さなかつた。この話題は、それきりに、夏の夜の微風とともに流れて行つた。
そういう夏が、もう過ぎようとしていた。
深志からも、まつたく音沙汰がなかつた。母がときどき、前に荷物を運んだ運送屋に頼んで、下着類などを宿に届けさせているらしかつた。
その日もちようど日曜であつた。多津は、前の日から外出の用意をし、朝食をすますと、帰りはすこし遅くなるかもしれぬといつて、いそいそと出て行つた。真喜は、友達の家を訪ねる約束があるといい、これも、一人で、あたふたと出掛けた。京野等志は、久しぶりで友人の南条を誘い、どこかでいつぱいひつかけようと思いたち、電話をかけておいて、夕方、早めに家を出た。
南条己未男は、彼の顔をみると、
「おい、ビッグニュースだ。驚くなよ」
と言つた。
「驚かない。それより、早く支度をしろよ」
「支度はもうできてる。そうかなあ、驚かないかなあ。美佐ちやんの消息、最近の、知つてるかい?」
「美佐の消息? 知らない。死んだか?」
と、彼は、わざと冷静に、とぼけてみせた。
「それがそうじやないんだ、つい、こないだ、おれは、妙なところで、ぱつたり出くわしたんだ。築地の待合だ」
「…………」
京野等志は、すぐには腑におちなかつた。それとみて、南条は言葉をついだ。
「芸者になつてる、芸者に……。これでも驚かんか?」
「ほんとかい?」
「おれがこの眼で見たんだから間違いないさ。まさかと思つた、はじめは。こつちの方がまごついちまつたよ。向うは、どうして、出たてだつていうけれど、落ちついたもんさ。おれを知つて、わるびれるどころか、――とうとう見つかつちやつた。兄が帰つて来てるのご存じ? もうお会いになつた? こうだよ。会社の宴会なんだが、おれは挨拶に困つた」
二人は、もう本郷の通りを歩いていた。
京野等志は、この話を聞いて、驚くよりも、唖然とした。美佐という妹の正体がまつたくつかめなくなつた。妻子のある男との恋愛関係に、どれほどの悦びと悩みがあつたか、それを知るひまもなく、どんな経路を辿つたにもせよ、彼女の運命は、そこまで彼女を引ずつて行つたことを、今聞かされて、彼の胸は張り裂けるようだつた。もつと早く、救援の手を差しのべることを、なぜしなかつたか? 彼女の不幸を予感できなかつたわけではないが、それよりも、彼女の勇気と、生きる力を信じようとしたからであつた。
すべては、後の祭りだ、という気がした。しかし、それにしても、眼をつぶつていていゝのであろうか?
「おい、南条、とにかく、飲もう」
そこから、二人はタクシーを拾つて銀座へ出た。先ず、ビヤ・ホールからはじめ、やがて、バアに移り、そこで、酔いがまわると、京野等志は、
「おい、築地の待合つていうのを教えろよ。おれは美佐に会う。会うべきだと思う。貴様は、一足、先へ帰れ」
南条己未男は、言われるまゝに、とある待合に彼を案内した。
京野等志は、待合というところへは、生れてはじめて来た。ずつと以前、やはり会社の連中と、箱根の温泉宿で芸者の出る席に列したことはあるけれども、自分で、芸者を呼んだという経験は一度もない。
南条は、この家の女中と顔なじみらしく、親しげな口を利いていた。
「なあ、この男は、いつかどこかで会つた小菊つていう芸者にどうしても会いたいつていうんだよ。なんとかしてやつてくれ。ちよつと会うだけでいゝんだ」
こう言いおいて、南条はさつさと引きあげて行つた。
京野等志は、もう酒を続ける元気はなかつた。味気ない、うらぶれた気持であつた。なんという時代ばなれのした、芝居にもならぬ芝居を演じなければならぬのか! 芸者になつた妹に会う方法は、こんなところへ呼び出す以外に、もつとなにかありはせぬか、と、彼は、やつと気がついた。
そこへはいつて来た女中は、小菊という芸者がいますぐ来ることを伝えた。が、彼は、思わず腰をうかして、
「ちよつと、ちよつと……。せつかくだが、おれは気が変つた。こゝで会うのはよす。いや、君にはほんとのことを言おう。この小菊とかいう女は、たしか、僕の妹らしいんだ。しばらく会わずにいる、ほんとの妹なんだ。こういう場所で、僕は、妹の顔を見たくなくなつたんだ。頼むから、断つてくれ。損害賠償はする。たゞ、その小菊というのは、なんていう家に抱えられているのか、それだけ教えてくれないか。いゝだろう? たしか、家号みたいなものがあるんだろう……」
そう、彼が、急きこむように言つているところへ、襖がさつと開いて、見違えるような、しかし、たしかにそれに違いない、芸者姿の妹、美佐が、静かに手をついて、こつちを見あげていた。
「美佐、わかつたか、おれだ。まずいことをしたが、ゆるしてくれ。まあ、来た以上は、ゆつくり話そう。南条に聞いたんだ。どこかほかで会うようにすればよかつたが、つい思いつかなかつた。達者は達者かい?」
立てつゞけに、彼はしやべつた。
「お帰りなさい……ご無事で、なによりだつたわ……。あたしのこと、家ですぐお聞きになつたのね」
「聞いたさ。どういう風にしてるのか、実は早く知りたかつた。手紙だけ出したが、見てるだろうな」
「えゝ、拝見したわ。でも、誰にも、その頃、会いたくなかつたの。兄さんには、ことに、顔みられたくなかつた」
「どうしてだい? やつぱり、周囲がわるいんだなあ。あの手紙にも書いたとおり、おれは、そんなこと、なんとも思つてやしない。たゞ、勇気と忍耐がいるなと、同情してただけだよ。肩身の狭い思いをしてやしないか、それだけが心配だつたけど……」
「やつぱり、女はダメだわ。自分にいくら元気をつけても、すぐ心細くなるんですもの。意地を張るんだつて、食べるのに困らないうちだけだわ」
「うむ、生活の問題は大きいからなあ。結局、そのためだけかい、こんな商売をはじめたのは……?」
「えゝ、まあ、そうなの。まとまつたお金もいる事情があつたけど……」
「相手の男のためにか?」
「そう……。一時しのぎのつもりだつたの。自分だけ食べるお金は、あたし、とうから、自分で稼いでたのよ」
「なにしてたんだ?」
「はじめは喫茶店、それから、ダンス習つて、ホールにも出てたわ」
「相手の男は、なんだ、いつたい?」
「…………」
「名前を言わなくつていゝから、どんな種類の男か、言えよ」
「別に変つた種類の男でもないわ。会社員よ。商事会社の課長よ」
「今でも、会つてるのか?」
「会つてるわ、どうして?」
「どうしてじやないよ。お前を芸者にして平気でみていられる男と、まだ会つてるは、おかしいじやないか」
「だつて、そのために、どうこうつてことないわ。女の商売は、なんだつておんなじよ」
彼は、そういう言葉を聞きながら、変り果てた妹のすがたを、正視するに忍びなかつた。涙が胸へぐつとこみあげて来る。それを、押しかくすために、眼をそらした。開け放された障子のさんに、大きな白い蛾が、バタバタと羽を動かしていた。
「美佐、おれはもう、ほかに言うことはない。女の商売はなんだつておんなじだつていうが、それはお前の本心かしら? 誘惑の多い商売といえばいくらもあるさ。しかし、娼婦といういやしい商売は、はつきり、別にあるね。お前のは、そこまで落ちこんで行きやしないだろうな?」
「そのつもりではいるわ。大きな口は利けないけど……。あたしは、まだ、汚れてはいないつもり、心だけは……」
「おれも、そう信じたい。いつか、どこかで、もつとゆつくり話をしよう。そんな恰好でなく、あたり前の風をして、上野あたりで会おうよ。金ですむことなら、いつでもおれに相談してくれ。なんとでもするから……。それこそ、おれたちの家を叩き売つたつてかまわない。お前が愛情のために苦しむのは、これやどうすることもできないが、金のために生涯を台なしにするのは、おれたちだつて、黙つてみているわけにいかないよ」
「そう言つてくださるのはありがたいけど、あたし、絶対に、うちのひとの世話にはなりたくないの。これだけは、死んでもいやなの。あたしは、もう、こうなつてしまつたんだから、ほうつといていたゞきたいわ。つまらない意地を張るみたいだけど、兄さん、あたし……あたし……親きようだいぐらい、つめたいもの、ないと思うのよ。それが、心の底にいつまでもこびりついてるの。兄さんは別かもしれないわ。でも、でも、あたしは、もう、あのひと以外、だれも信じられなくなつてるの……」
彼女は、とぎれとぎれに、力をこめて言いながら、ついに、そこへ泣き伏してしまつた。
[#改ページ]
もう梅雨にはいつたのか、ぐずついた天気が毎日つゞき、雲の切れ目にたまに青空がのぞくと、いよいよ夏の気配がはつきりと感ぜられた。京野等志は、しばらく南方の湿気に息のつまる思いを経験しただけに、カラリと晴れた高原の陽を存分に浴びたいと思つた。しかし、今の仕事は、彼にそんな暇を与えるはずはない。工場のトタン屋根にしとしとと降りそゝぐ雨の音を聴きながら、煙草の吸殻を、やけに灰皿の上でもみつぶした。と、そのとき、ふと、家を出がけに、今朝の郵便物をポケットに突つこんだまゝ、まだ目を通していないことに気がつく。たしか、百瀬秀人からの封書が一通まじつていた筈である。それを急いで、封を切つてみる。
序でながら、この娘は、多少都会そのものにあこがれている風が以前からあつて、例の長久保夫人とよく話が合うらしく、ちよいちよい出入をしていたようだ。そういえば、長久保夫人の近況は知つているか。先月末に盲腸の手術を受けて、目下松本県立病院に入院加療中の由だ。経過ははじめ順調と聞いていたが、予定よりすこし長びいているのは、どうしたわけか。別に容態悪化という話は聞いていない。
話は前に戻るが、問題の娘は、百瀬しのぶ、二十歳、もちろん実家は百姓、没落組の地主だが、父親は身勝手な自由主義者の一人、小生の血を分けた兄で、同時に、不倶戴天の政敵だ。お含みを願う。
京野等志は、実は、この手紙を読みおわつた瞬間、文学志望の娘、百瀬しのぶとやらのことよりも、病院のベッドで呻いているかもしれぬ長久保小萩のことで頭がいつぱいになつていた。彼は、すぐにも松本へ飛んで行きたい衝動にかられたが、相手がどの程度にわるいのかを考えると、軽率に病床をさわがせるのは心なきわざのように思われた。
それにしても、と、彼はやつと、百瀬秀人の依頼のすじを、もう一度真面目に取りあげ、漠然とながら、その娘の希望を読みとり、自分にいつたい何ができるかを考えてみた。
いくら考えてみても、身近にこの娘を托すべき人物は見当らなかつた。文学の修業といつても、常識からいつて、必ずしも文士の家へ弟子入りをしなければならぬと限つてはいない。万事、間接の話では見当がつけかねるという結論に達したので、その旨、簡単に百瀬にあてゝ返事を認めた。
すると、折り返し――では、直接その娘を差し向けるから、本人の意向をよくたしかめて、適当な忠告をしてやつてくれ。もし、君の眼鏡で、全く見込みがないと思つたら、十分その非をさとらせた上で、田舎へ追い返すよう、くれぐれも配慮を頼む、というような、のつぴきならぬ交渉をして来た。
そして、その手紙を追いかけるように、百瀬しのぶが、彼の家の玄関に、もう、田舎出の小娘とは見えぬキリヽとした姿で、立つていた。それは、京野等志がまだ食卓をはなれずにいる朝のひと時であつた。
妹の多津が取次ぎに出て、百瀬秀人の紹介で来た若い女のひとだという。紹介状の封のわきに「百瀬しのぶ持参」と書いてあつた。
「二階へ通してくれ。それから、あとで、多津もちよつと話を聴いてやつてくれよ。百瀬から手紙で頼まれていたんだ」
まだ家のものにはなにも話してないので、京野等志は、一同の物好きな視線に応えるように、そう言いながら、急いで茶を飲み干した。
「はじめまして……わたし、百瀬秀人の姪のしのぶでございます」
と、すこし膝をずらして、丁寧に畳に手をついた洋装の娘を、彼は、意外な面持ちで眺めながら、
「さあ、楽にしてください。百瀬君から話は伺つています。難問題だけれども、一緒に考えてみましよう。但し、僕はまるで方面ちがいなんだから、お役に立つかどうかわかりませんよ」
そう言つて、彼は、あらためて、この少女の全貌を観察した。髪の形も、身につけたものも、どちらかといえば地味で、無造作とさえいえるのに、心もち両肩をいからせて、頤をぐつと引いた上半身の特徴のある感じは、浅黒い皮膚に正しい輪廓の目鼻だちを、幼々しいながら、どこか知的なひらめきでつゝんでいた。
「ほんとに、ご無理なお願いをしてすみません。わたし、どんなことでもするつもりですの。食べていけさえしたら、あとは、自分の心掛けだと思うんですけど……」
ぽつり、ぽつりと、彼女はいう。伏せた眼をときどきあげる。一重瞼がくつきりと二重になる、素朴で、熱つぽい眼である。
「食べて行くだけなら、東京の真ん中で、なにをやつたつて食べていけるでしよう。それより、肝腎の勉強が、そのためにできるか、できないかでしよう。百瀬君の言うように、適当な先輩であなたの面倒をみてくれるひとがいれば、一番文句はないんだけれど、そういう人物が、おいそれとみつかるかどうか……。それより、僕の考えじや、直接、師事したいと思うひとに、ぶつかつてみたらと思うんだ。君はいつたい、文学つていつたつて、どういう方面へ進みたいの?」
「小説を書いてみたいんです」
「もう、そういうもの、書いてるの?」
「えゝ、どうせつまらないもんですけど……」
「じや、そいつを、誰かにみせたらいゝじやないの。君が尊敬してる作家はだれ?」
「若い方では、水島祥一先生……」
「知らないな」
「もうすこしふるい方では、雲井秋生先生なんか……」
「雲井秋生か。ふむ……名前は聞いてるが、そんなにいゝの?」
と、念をおしたのは、ふと、妹の多津と結びついている名前だつたからである。
「女流では? 誰かいない?」
「わたし、先生につくなら、男の先生にしたいと思いますの」
「へえ、それはまた、なぜ?」
「言えませんわ、その理由は……。わたし、せんから、そうきめていますの」
そこへ、ちようど、妹の多津が茶をいれてあがつて来た。簡単に紹介をしてから、
「ねえ、多津、おまいは多少おれよりは、その道に明るいらしいが、この方は作家志望で、東京へ出て来たいつていわれるんだよ。そういう娘さんはずいぶんいるんだろう。いつたい、作家なんて、すぐ弟子にしてくれるもんかい? 内弟子をとるなんてことがあるのかい?」
「さあ、そういう例もないことはないけど、名目だけのお弟子さんもあるし、ことに、内弟子なんて、そんな形式は表向きはないと思うわ」
「そうだろうな。じや、形式はどうでもいゝからさ。お弟子入りを条件にして、それとは別に、家事の手伝いをしたいつて頼んだら、どんなもんだろう? 相手が若くつて、しかも独身だと、こいつは考えもんだな。そうでしよう、百瀬さん」
「あら、そんなこと、文学をやるうえにちつとも関係ないわ。ねえ、あなた……」
と、強く多津が主張した。
「そうかね、そういう警戒心は、非文学的か……。すると、相手は、独身でいゝ、と。誰かないかい、君の心当りで……。尤も、百瀬さんの方で、そんなひと、いやだつていえばしかたがないが、一挙両得は、なかなかむつかしいから、ともかく、家に人手がいるつていう文学者なら、どつちみち住み込んで、あとは、利用できるだけ利用したらいゝじやないか。書庫の臭いをかぐだけだつて、なんかの役に立つでしよう」
「あたし、こんど、雲井に話してみるわ。お友達だか、先輩だかの家に、文学好きの女中さんがいる話、ついこないだもしてたから……」
「雲井秋生先生は、もう女弟子はいらんのだな」
「あのひと、女でも男でも、弟子と名のつくようなもんはいやなんですつて……。その代り、自分も先生がいないつていうのが得意なの」
「あの、雲井先生をご存じでいらつしやいますの?」
と、百瀬しのぶは、眼を輝やかした。
「えゝ、先から存じあげていますの。まだ、無名でいらしつた頃から……」
多津は、年嵩らしく、鷹揚にうなずきながら、兄の方へ、いたずらつ子のような眼くばせをした。
「多津、さつき話に出たんだが、百瀬さんの最も尊敬する作家の一人が、その雲井先生なんだそうだよ。これは、なんとか、いずれは、せにやなるまいね」
「あら、ほんと? じや、いつかご紹介するわね」
多津が笑顔で快く引きうけると、百瀬しのぶは、もう、頬を赤くして、
「どうぞ、ぜひ……。でも、こわいわ」
と、からだをくねらせた。
百瀬しのぶは、その日の午後の汽車で、一旦、松本へ帰ると言つた。叔父の秀人から、そのつもりでと言われて来ているのである。別に強いて止める理由もないので、京野等志は、出勤までの三十分ほどを、まだ雑談にすごすつもりでいると、二人きりになつたのを見計らうように、彼女は、不意に、こんなことを言いだした――
「あの、わたし、長久保の奥さまとご懇意にしていますの。小萩さんとおつしやる方、ご存じでいらつしやいましよう。いつも、京野さんのお噂うかゞつて、どんな方か、一度お目にかゝりたいと思つていましたの」
京野等志は、百瀬秀人の手紙で、あらかじめこの娘が長久保家に出入りしていることを知らされていたけれども、この調子で話を切り出されようとは、夢にも考えていなかつた。
「えゝ、小萩さん、知つてますとも……。こないだ、久しぶりで会いました。変つたような、変らないような……しかし、今、盲腸の手術で入院してるそうですね。秀人君から知らせてくれたんですが、君は、最近の容態を知つていますか?」
「えゝ、こちらへ発つ前にも、ちよつとお寄りして来ましたの。すこし、こじらしておしまいになつたんでしよう……。当分は退院なされそうもありませんわ。わたし、こちらへ伺うこと申しあげたら、くれぐれもよろしくつて、おつしやいました。つい、はじめにお伝えすること、忘れちまつて……」
「あゝ、そう……。こじらしたつていうのは、腹膜炎でも起したのかな」
「さあ、はつきりは伺わなかつたんですけれど、微熱がとれなくつて……。レントゲンを三度もかけたつておつしやつてましたわ」
「そいつは厄介だな。以前から、胸も弱いんだ。今度会つたら、言つといてください、ちやんと養生しなけれや、ダメだつて……。病院には、誰か家のものが附添いに来てるんでしようね」
「いゝえ、病院で雇つた看護婦さんだけのようでしたわ。毎日、退屈でしようがないんですつて……。話しに来い、話しに来いつて、おつしやるんです。ご気分はちつとも、なんでもないらしいですわ」
「僕も、そのうち、なんとかして見舞に行きます。行つてよければ……」
「あら、いゝどころじやありませんわ。きつと、およろこびになるわ」
「その前に、僕が最近読んで面白かつた本を、あなたにお願いして、持つてつていたゞくかな。お見舞のしるしだつて、言つてください」
彼は、書棚から、近刊の翻訳小説を二冊引きぬいた。バルザックの「谷間の百合」上下二巻である。扉に、ちよつと走り書きで、何か一筆と思つたのだけれども、とつさにいゝ文句が思い浮ばない。
「わたしも、まだ、これ、読んでませんの。奥さまのお読みになつた後、拝借してもいゝかしら」
「どうぞ、どうぞ……。長久保夫人がもし、そいつは困る、と言いさえしなければ……」
「意味深ですのね」
「いや、信州の白百合はね、谷間じやなくつて、火山の噴火口に咲いてるんだ。あぶない、あぶない」
こんな風な戯談にまぎらして、彼は、洋服を着かえはじめた。その間、百瀬しのぶは、多津に連れられて、階下におりた。おりると、もう、下では、母をふくめた女たちの笑い声が聞える。活き活きとしたものを、どこへでも運んでいく娘とみえる。
彼は、その時、なにものかにそゝのかされるように、万年筆をぬいて、さつきの書物の一冊の扉へ、「味岡小萩嬢へ、心をこめて、著者」と書いた。そして、更に下巻の扉へ、同じ意味をフランス語で、“A Melle Kohagi, de tout mon coeur, Auteur.”と、すこし気がとがめながら、書いて、ぱたりと頁を閉じた。
それ以来、京野等志の身辺は、なにやら急に色めきたつたようにみえた。彼は信州に嫁いだ小萩のことを、決して忘れるどころではなかつたが、そうかといつて、現在の二人の間の距離を、そう手軽に縮められるものとは思つていなかつた。こつちが一歩近づいていけば、むこうは二歩後すざりをする気配がはつきりと察せられる以上、すべての努力は当分無駄だという見極めをつけて、たゞ、来るか来ぬかもわからぬ機会を待つていたのである。
ところが、まつたく突如として、彼女と彼との間を不安なくつなぐ手がかりができ、しかも、彼女は、今、夫の許をはなれて、ひとり病院のベッドに構わつているという事実が明らかにされたのである。百瀬しのぶが、どんな志望を抱いて東京へ出て来ようと、それはこのことゝなんの関係もない。重要なことは、この聡明らしくみえる一少女が、小萩と彼、京野等志との間に立つて、どういう役割を果すことかできるかということである。
百瀬しのぶからは、松本へ帰ると、すぐに挨拶の手紙をよこした。なにぶんの沙汰があるまで叔父の家で待つていてもよいが、なるべくなら、一日も早く上京して、少しでも都会の生活に慣れておきたいといゝ、作家の家へ住み込みで働くことも、べつだん是非というわけではなく、他に生活の最低保証さえ得られゝば、事務員のような勤め口でもかまわぬから、なんとかならぬだろうか。無理とは思うが、どうか特別の配慮をお願いするという、熱心のほどが文面にあふれた手紙である。
その上、最後がこう結んである。
なかなかガッチリした娘だと、京野等志は苦笑した。それにしても、なるほど、小萩からまで頼まれたとあつては、これはすこし、話が違つて来る、と思つた。
百瀬しのぶが京野等志の計らいで彼の工場へ事務員として入社してから、もうかれこれ一と月たつた。宿の方も、彼が口を利いて、工場から近い熊谷の町の、ある大工の家の二階に間借りをした。だいぶん仕事にもなれて来たので、休日には東京へも遊びに出た。京野家へも、時々顔を出すことを忘れなかつた。そして、家じゆうのものに馴れ親んだ。
ことに上の妹の多津は、かねてからの約束どおり、ある日、この少女を雲井秋生の下宿へ連れて行つた。いくらか見どころはあると元気をつけられた百瀬しのぶは、昼間の勤務を終ると、あとの時間を机に向い、夢中で、書いたり、読んだりの日課をつゞけるようになつた。
京野等志は、この百瀬しのぶを通じて、小萩の消息は、小萩からこの娘に送られる自筆らしい手紙によるほかはなかつたのである。そのことを、ある機会にたしかめると、百瀬しのぶは、笑いながら、自分への便りは、気楽に書けるからだろうといつて、その場をつくろつた。
彼は思いきつて、小萩に直接手紙を出してみることにした――
あなたの病状、容態は、雲をつかむようで、僕にはよくわからないが、いつたい、軽いのですか、重いのですか。楽観できる性質のものですか、それとも、よほど慎重に考えなければならないものですか? もうすぐ快復の見込はあるのですか。或は、長期療養を覚悟しなければならないのですか。苦しいとか、痛いとかいう自覚症状はないらしいが、それで微熱がとれないとすると、僕の想像では呼吸器疾患とにらんでいますが、若しそうなら、そんな病院でグズグズしているより、ちやんと、肚をきめて、サナトリウムへでもはいつたらどうですか? いろいろな事情で、それができないとすると、あなたは、自分の健康をむざむざ、周囲の束縛のために犠牲にすることになる。僕は黙つて見ていられないんです。しかし、また、一方で、こんなことも考えるんです。仮に病勢が次第につのつて、言わば、あなたの周囲からそれが絶望とみられるようになり、あなたの存在が、その周囲にとつてむしろ重荷であり、不必要でさえあるという状態が来るとすれば、それは、僕にとつて、まさに、乗ずべき機会、千載一遇の機会だと思うのです。つまり、あなたの生命を僕の手中に握つて、僕は必ず、その生命に力とよろこびを取りもどさせる自信があるからです。なんにもおそれることはない。四十度の高熱を毎日おだしなさい。金盥いつぱい血をお吐きなさい。瘠せ、青ざめ、呼吸も絶え絶えにおなりなさい。藪医者は匙を投げ、見舞客は顔をそむけ、坊主は戒名を工夫するでしよう。よろしい。後は、僕が引き受けます。あなたは、青空と、木の葉と、匂う風と、日光と、そして、僕の愛によつて、健やかな肉体と、爽やかな魂とを再びあなたのものとすることができる。僕がそれを保証する。神仏の名に於てゞはない。近代科学の名に於て、そして、人間の意志と情熱の名に於てです。
禍を転じて福となす、というのは中国人のよく使う言葉です。
あなたは、なぜ、百瀬しのぶには手紙が書けて、この僕には書けないのか? ペンの重さがどう違いますか? 谷間の百合は、悲しく美しい物語です。しかし、あれは、百年前に書かれた夢物語だ。われわれの人生は、空想に酔うひまに、行動の倫理をうちたてなければならない。罪と善行とは、微妙な一線で、愛情の歴史のなかに、それぞれの流れを形づくつています。僕は悪を憎みます。しかし、美徳は必ずしも神性からのみ生れるものではありません。図太さも、たくらみも、善意の戦いに欠いではならぬ武器です。僕はそう信じます。手紙をください。待ちきれなくなつたら、僕は、でかけて行きます。
返事はなかなか来なかつた。
百瀬しのぶのところへも、便りが遠のいている様子であつた。
その間に、京野等志は、弟深志のことで、つまらぬ暇と精力とを浪費した。
なにかというと、それは、ある日のこと、父がいきなり彼に、警察署からの呼び出し状を見せて、
「深志のやつが何かしでかしたらしいんだ。おれは、あゝいう場所へ顔を出すのはいやだ。お前、おれの代理として、行つてみてくれ」
彼はとつさになんのことか見当がつきかねたけれども、家族を呼び出すなら、たいした犯罪事件ではあるまいと思い、
「それやいゝですが、もらい出して、さて、どうしますか」
と、父の気持をさぐるように言つた。
「どうするもこうするもないさ。おれはもちろん、後の責任はもてん。そのことははつきりさせておくといゝ」
「警察で、そうはつきり言うんですか。それや、ちよつと、おかしいですよ。そんなら、行かない方がましだ」
一応、そう反駁はしてみたものゝ、この父に、それ以上理屈は通らぬとあきらめて、彼は、谷中警察署にでかけて行つた。
係りの警官から、こういう処置がとられた理由を一と通り聴きとり、彼はやつと、事の次第が呑みこめた。それは、ある工場のストライキに、デモの応援を頼まれた一団の学生が、警官の制止にも拘わらず、工場の内部へ侵入して建物を毀損したというのである。深志がそのリイダアと目されたのである。
留置場にまる二日間とめられていたという弟の深志は、係りの警官に呼ばれて、彼の前に立ち、にやにや笑いながら、
「なにしに来たんだい?」
と言つた。
「なにしにじやない。君を保護者の手に渡すために、わざわざ来てもらつたんだ」
と、警官は横から、抑えるように口を挟んだ。
京野等志は、なるべく不必要な摩擦を避けるつもりで、ほとんど一言も喋らず、警官の注意もたゞうなずいて聴いただけで、弟を促すように警察の玄関を出た。
「服が泥だらけじやないか。どうだ、一旦、家へ帰らないか?」
彼は、しばらくたつてから、こう言つた。
「いやだよ。別に来てもらわなくつてもよかつたんだ。どうせいつまでも置いとけやしないんだ」
と、弟は冷たく言い放つた。
「それや、そうさ。まあ、形式的に親父を呼び出したのさ。気にしなくつてもいゝよ。それより、こつちに言わせれば、君がふだん、どんなことを考え、どんなことをしてるかゞわかつていれば、今度だつて、別に慌てないですんだんだ。慌てるつていうのは、つまり、余計な心配をするつていうことだが………」
「心配するのは、そつちの勝手じやないか。僕のことより、家のことが心配なんだろう。警察へ引つ張られたつてことは、不名誉だと思つてるんだろう」
「誰が?」
「親爺だつて、兄さんだつて……」
「親爺はどうか知らん。おれのことは、そう甘くみるなよ。たゞ、人がどう思おうと、そんなことを気にする方がおかしかないか。まあ、それはそれとして、久しぶりで会つたんだから、一緒に飯でも食おうか」
「…………」
強いて反対もしないので、上野のさる中華料理店でビールを飲み、すこし打ち融けた気分になりかけると、急に、弟の深志はむつつり口を噤んでしまう。が、そのまゝ、二人は、好い加減酔うまで飲むには飲んだ。結局それだけのことである。
弟の強情に遂に兜をぬいで、京野等志は、起ちあがつた。
「さ、もう話もないようだから、おれは帰る。もつと素直になれよ、素直に……。相手の区別がつかんようじや困るな。しかし、おれだつて、そう己惚れてるだけかも知れない。うるさいようだが、なんでも、役に立つことがあつたら、そう言つて来いよ」
勘定を払い終つても、まだ腰をあげようとしない弟の前へ、千円札を二枚おいて、彼はその店を出た。
彼は、たしかに、近来になく酔つていた。その証拠に、通りへ出ても、方角が皆目わからなかつた。どこをどう通つて、荻窪の家まで辿りついたか、翌朝になつて、まるで覚えがなかつた。そして、たゞ、ビールのコップを手に、憂鬱に黙りこんでいる弟の顔が眼に残つているだけであつた。彼は、またどうして、事の序に、弟の居所をたしかめておく気にならなかつたか、それが今になつてたゞひとつ後悔の種となつた。
父は、ざつと彼の報告を聴いて、
「そうか、そんなことなら、まあよかつた。破廉恥罪と違つて、単なる青年の軽挙妄動だな。まさか、ほんものゝ赤じやあるまい」
と、案外、わかりのいゝところをみせた。しかし、その後がよくなかつた。
「勝手に家を飛び出すなら、一切、家に迷惑をかけんぐらいの決心が必要だ。都合のいゝ時だけ親に背中を向け、ちよつと困ると親の名前を出すなんていうのは、そもそも、意気地がないじやないか」
彼は黙つているつもりであつたが、ちよつと弟をかばう気になり、
「お父さん、それや違いますよ。困つたから親の名前を出したんじやないんです。嘘をつく必要がなかつたから、聞かれたことを、正直に答えたんでしよう。あいつは、偏屈は偏屈ですが、家を出て行つたことに対して、お父さんも、そう感情的におなりになる必要はないと思いますね」
「なに? 感情的になつてるのは向うじやないか。わしは、たゞ、道義的に批判しているだけだ」
「道義的ですか? それも変じやないですか。むしろ、あいつの子供つぽい不器用さを、笑つてすませばいゝんじやないですか」
「バカ、お前までなにを言うか。大体、家の秩序というもんが、まるで乱れきつとる。そもそも、家長の権限なるものを、わしは最少限度にしか用いておらん。その弊害を重々、知つとるからだ。しかし、長幼の順なくして、共同社会というものが保つて行けるか」
「まあ、よしましよう、そういう議論は」
「議論なんぞしとりやせん。教えてやつとるんだ」
「あ、そうですか。もう、わかりました」
家族の手前、彼もあつさり切り上げるつもりで、不機嫌な父の鉾先を封じようとした。しかし、父は、まだ、ひとりでぶつぶつ言つていた。
弟の事件から引きつゞいた家の中の気まずい空気が、家族一人一人の印象として、数日の間、彼の心の中に、一種言いようのないさびしい影をおとしていた。そのうちには、例の、芸者姿の美佐を、これが実の妹かと思つて見た時の印象もむろん含まれていた。しかし、宿命的とも思えるこのおりのような感情は、それから幾日もたゝぬある日の朝、工場でいつものように百瀬しのぶの顔をみ、その百瀬しのぶから、小萩の新しい消息をきかされた時、一瞬にして、霧のように消え去つた。小萩が、松本の病院から、小諸の奥にある国立結核療養所へ移つたという報らせなのである。
「簡単な文面でよくわからないんですけれど、途中がずいぶん大変だつたつて書いてありますの。なんでも、山道をずいぶん上るらしいんです。寂しいところなんでしようね。なんだか、おかわいそうだわ」
と、百瀬しのぶは、眼を伏せながら言つた。
その手紙はいつ出したものかをきいて、日を繰つてみると、彼の出した手紙は、ちようど入れ違いになつていることがわかる。予想が適中したと、彼は内心得意なようでもあり、またそれは、不吉な予感であつたといえばいえるので、すこし薄気味がわるかつた。
彼は、もう、じつとしてはいられなかつた。
事務的なことを一と通り片づけると、なんの支度もなく、そのまゝ、二三日休むかも知れぬと言いおいて、熊谷駅から直江津行きの準急に飛び乗つた。
小諸に着いて、病院の在り場所をたずねたら、すぐにそれはわかつた。バスで一時間近く坂道をゆられて行かねばならぬ。
戦時中建てられた陸軍病院が、そのまゝサナトリウムになつているわりにガッシリしたバラックの幾棟かゞ、山腹の松林の中に、ひつそりと並んでいる。水色のペンキの色は、清潔には違いないが、なにか不安なおのゝきをあたりに漂わせ、砂利を踏む靴の音にも、いくらか哀調のこもる特殊なこゝの雰囲気である。
玄関で面会の手続をする。受附で部屋の番号はわかつたが、一応、前もつて医者か係りの看護婦に容態をたずねてからと思い、医局の前へ来ると、ちようど若い医者がドアを開けて出て来た。
「ちよつと伺いますが、長久保小萩という患者に面会したいのですが、もしおわかりなら、簡単に容態をおきかせいたゞけないでしようか?」
彼がこう問いかけると、若い医者は、即座に、
「あゝ、その患者は、重態で、面会謝絶ということになつています。お身内の方ですか?」
「いえ、そうじやありませんが……」
「お身内の方でも、なるべく遠慮していたゞいた方がいゝんです。この療養所は、その点、特に厳重にやつてるもんですから……」
「重態というのは、危険ということでしようか?」
「いや、必ずしも、そうじやありませんが、容態としては、楽観をゆるさない、最も慎重を要する時期なんです。絶対安静を要求してあります。些細なショックでも、すぐに影響があるものとみて、一切面会をお断りしてあるわけです」
「そういう状態は、当分続くんでしようか、愚問かも知れませんが……」
若い医者は、さすがに答えに窮したらしく、
「さあ、急変がない限り、二、三週間で、面会ぐらい許されるんじやないでしようか。僕は、ちよつと、責任をもつてお答えはできないんですが……」
「手紙はどうでしよう? 看護婦さんに読んでもらえば差支えありますまいか?」
「そういう制限はしていません。しかし、ちよつと余計なことのようですが、僕の経験だと、手紙によつては、意外に大きなショックを与えられますから……喀血の久しく止つていた患者が、ある種の内容の手紙を読んだとたん、大喀血をした例もあります。医者は、しかし、そこまで患者の生活に立ち入ることはできませんからね」
若い医者は、そう言いながら、微笑をふくんだ視線を軽く彼の上に投げて、そのまゝ廊下を奥の病棟の方へすたすたと歩きだした。
その病棟の部屋々々から、途切れ途切れに尾を引く、鈍い笛のようなうめき声が聞えて来た。
[#改ページ]
京野等志は、足音を忍ぶようにして、病棟の廊下をあちこちと歩いた。病室の番号が次ぎ次ぎに彼の視線にうつり、教えられた七号室がもうそこだとわかると、彼は、急に呼吸をのんで立ちすくんだ。その室の、廊下に面した窓が大きく開け放されたまゝ、一台のベッドがかすかな光の中に浮かんでみえた。ベッドの枕もとには白衣の看護婦が向うむきに坐つていて、寝ているひとの顔をかくしている。しかし毛布の中央が軽く盛り上つて、脚から腰へのほつそりした女体の輪郭をそのまゝそこにみることができた。すべてが一点に凝集しているような部屋の空気を感じると、彼は、胸がつまり、脚がふるえた。
ほんの一瞬ではあつたが、彼は、いきなりその部屋に飛び込んでいきたい衝動にかられた。それがどんな結果を生むかは問題ではなかつた。彼女のそばに立つて、自分が彼女のために何者であるかを示すことができれば、それでよかつた。
彼はしかし、さつき医者の言つた言葉をふと思い出した。患者にショックを与えることは禁物だという、あの言葉である。医者のいうショックとはなんだ、と、彼はまた考えた。病気に障るショックと、病人を元気づけるショックとはおのずから別物ではないか、と、考えられなくもなかつた。生命の灯が風にゆらいでいる時、ひとはたゞ、風の勢いを弱めることに気をとられ、その火に油をそゝぎ、火元をかきたてることを忘れがちではないだろうか? 生命の灯が、もし生きる力のすべてを必要とするものなら、なによりもまず、生きようとする意欲を高め、生きようとする情熱をあくまでも燃えたゝせることが第一条件ではないだろうか?
彼女は、どうかすると今、生きる希望を失つてはいないか? 誰がそうでないと保証できるか?
こゝまで考えて来ると、京野等志は、もうぐず/\してはいられなかつた。そつと窓ぎわへからだを近づけて、外から、囁くような声で言つた――
「静かに……静かに……おどろいちやいけません……僕です、わかるでしよう……ちよつとお見舞に来ました。眼をつぶつたまゝ、僕の声だけをきいてください……」
が、その言葉の終らぬうちに、先ず看護婦が後ろをふり返り、やがて、つと座をたつて、こちらへ歩いて来た。小萩は、あおむきになつて、枕に頭をうずめている。きれいに撫でつけた髪が片頬をつゝみ、白くすき透つたひたいと、心もち尖つた鼻と、うすく紅をさしたかと思われる唇が、身じろぎもせず、天井を仰いでいた。眼は開いているのか、つぶつているのかわからなかつた。しかし、心もち釣り上つた眉の下に、煙るような睫毛の一線が引かれていた。
看護婦は、不審そうな眼つきで彼を見据えながら、近づいて来る。
「なにかご用でしようか?」
「見舞に来たんですが、面会謝絶だということは聞きました。しかしそのまゝ帰ることができなかつたんです」
「お気の毒ですけれども、ご容態がご容態ですから……」
と、彼女は、患者の方に気をくばりながら、低く呟く。
「わかつてます。僕はたゞ、ひと言、病人に言いたいんです。直接、顔をみて言いたいんです。そのひと言が、病人を死から救うことができたら、それでいゝじやありませんか」
「そんなことおつしやつても、わたくし、困りますわ。絶対安静ということは……」
「その説明はもうたくさんです。僕は、医学のことはわからない。たゞ、病人を、精神的に力づける役を、僕以外の誰が引受けてくれるか、です。僕がこうしてこゝへ来たことを、はつきり、あの病人に知らせておきたいんです。僕の声が聞えるでしようか?」
「そんなに大きな声をおだしにならないで……。今、ちようど、お薬をのんでお眠りになつているところです」
「眠つてる?」
と、彼は、やゝ失望に似た気持で、もう一度、ベッドの方に視線をうつした。
なんという静かな寝すがたであろう。だが、このまゝ彼女が、永久に眠つてしまうということはあり得ないだろうか?
京野等志は、更めて、看護婦の顔をみた。
「そんなに危険な状態なんでしようか? あなたの勘で、助かる見込みはあるんですか?」
彼は、その若い看護婦に、憐みを乞うように問いかけた。
「さあ……わたくしからはなんとも申しあげられません。たゞ、こちらへいらしつた時は、これほどとは思いませんでしたの。急におわるくなつて……一時は、絶望かと思いました。でも……」
「わりに持ちこたえているというわけですね。それなんです。僕は、自分でも周囲でも、もうダメだと思つたら、それでおしまいだと思うんです。そういう時の心の支えが、この病人にはないんじやないかと思うんです」
「失礼ですけれども、あなたは、京野等志さんでいらつしやいますか?」
「おや、どうしてそれがわかります?」
看護婦は、かすかに眼で笑いながら、
「なんとなくわかりますわ。あとで、折をみて詳しく、奥さまにお話し申しあげておきますから、今日はこれでお帰りになつてください。わたくしも一生懸命で、できるだけのお世話をしたいと思つていますの。奥さまは、ほんとにおやさしい、いゝ方ですわ」
彼は、そういう看護婦の言葉をどんなに心強く聞いたか!
「ありがとう。おねがいします。ほんとに、おねがいします。あなたは、おそらく、僕よりも、もつと、奥さんにとつては大事なひとかも知れない。いゝえ、今は、そういうことが言えるんです。僕は、これで引きあげます。安心して、引きあげます。万一のことがあつたら、じかに僕のところへ知らせてください」
彼が二三歩、歩きだした時、看護婦は、ベッドからの合図にこたえるように、
「はい、はい、たゞいま……」
と、そつちへ急いで駈け寄る気配がした。
それから一週間は、またゝくうちに過ぎた。
百瀬しのぶは、彼が病院に小萩を見舞つたことを知ると、眼を丸くして驚いた風をし、
「それでもう、わたしの役目はすんだみたいなもんですわね」
と、言つた。戯談にしても、なにか冷たいものをふくんでいた。彼はちよつとそれがいやであつたが、この年頃の娘に、そう周到な心のくばり方を要求するのは無理であろうと考え、
「そうさ、君をそのためにわずらわす必要はなくなつたよ。しかし、君が、小萩さんの役に立つことは、まだ残つてやしないか?」
すると、彼女は、ちよつと首をかしげて、
「わたし、自分のことで、いま頭がいつぱいだから……」
と、言い放つた。彼は、それには二の句がつげなかつた。
そう言えば、ある日の夕方、家へ帰ると、上の妹の多津がぷりぷりひとりで怒つている。わけを聞くと、下の妹の真喜が、ちかごろ生意気でしようがないという。
「どう生意気なんだい?」
「言うことなすことがよ。人を小馬鹿にしたみたいな口の利き方をするし、自分の行動は絶対正しいと思つてるのよ」
「その自信はわるくないじやないか」
「でも、変じやない、少しは反省つていうもんがなけれや……」
「反省に値するようなことをしたのかい?」
「どこまでがほんとだか知らないけれど、まるでやつてることが無茶なのよ。男のお友達を作るのはまあいゝとして、その一人一人と、一度ずつ恋愛をしてみるんだ、なんて平気で言うんですもの」
「言うだけなら、言わしとけよ」
「いゝえ、どうも、本気でそれを実行するらしいの。現に、そういう様子がみえなくもないわ」
「おれには別に変つたところもみえないぜ」
「そこがあの娘のにくらしいところだわ。まつたく、ボロをみせないのよ。特別にはしやぎもしなければ、妙に沈んだところもないでしよう。家では泰然自若として、学校の勉強ばかりしてるんだから、あきれるわ」
「それで、様子が変だつていうのは、どこでわかるんだい?」
「自分で喋るんですよ。なにからなにまで、自分であたしに話して聞かせるんですよ。その話しつぷりは、どうも、誇張を割引しても、まつたく嘘とは思えないの」
「へえ、しかし、そいつは、黙つて秘してるよりや、ましじやないか。少くとも、お前にとつては、うれしいことじやないか」
「それが、いちいち、あたしに相談でもするつていうなら、まだわかるんだけど、決してそうじやないの。まさか、自慢話のつもりじやないんでしようけれど、つまり、そういうことを話題にして、議論の種にするんですよ。あたしに一応反対させて、それを自分で逆に批判しようつていうわけなのよ。驚いちやうわ」
「お前の年代と真喜の年代と、そんなに考えがちがつて来たかねえ。やつぱり、お前なんか、戦後派の仲間入りはできないとみえるな」
「えゝ、えゝ、戦後派どころですか。あたしはまた、おそろしく旧いのよ。自分でつくづくそう思うわ。でも、どういうんでしようね、真喜ちやんみたいなのも、例外じやないかと思うけど……」
「どうせ人間の一人一人は、男だつて女だつて、いわゆる個性なんてものとは別にそれぞれ例外的なもの、つまり、習慣に反する傾向をもつてるんだよ。それが表面に出るか出ないかの違いさ。家族なんてものは、その例外の部分を、努めて、表に出さないようにしていなけれや、成り立つていかない制度なんだ。それが近頃は、誰もそんなことを努めなくなつて来たんじやないか? それでも、真喜なんか、内と外とを区別してるところは感心なもんだ」
彼は、いくぶん多津の興奮をおさえるつもりでそんなことを言つたが、自分ながら、お座なりの、俗つぽい意見だと思つた。
ちようどそこへ、真喜が陽気な歌を口吟みながら、二階へあがつて来た。
「姉さん、いやだわ、早くお食事の支度してくれなきや……遅れちやうじやないの」
「わかつてるわよ。もうあらかたできてるのよ。母さんが帰つて来るのを待つてるんだわ」
「あたし、そんなの、待つてられないわ。母さん、どこへ行つたの?」
「マーケットへほしいもんがあつて行つたのよ。だけど、あんた、そんなに急ぐなら、できてるおかずで、すましていらつしやいよ」
「だから、それ、出してよ。あたしにやわからないわ」
二人は階下へ降りて行つた。
京野等志は、なるほど多津のいうとおり、真喜の態度がすこしおかしいと思つた。帰つている自分にはなんの挨拶もしないで、いきなり、姉にがみがみ喰つてかゝる様子は、なにかに気をとられているにしろ、普通の状態ではないように思われた。そういえば、これは、今はじめてそれと気がついたことで、平生の真喜にはこんなところは露ほども感じられなかつた。なるほど、時によると、ずばずば思つたことを言つてのける率直さに眼をみはるような場合はあつたけれども、それも、おおかたは、若々しい、伸び伸びとした性格の現われとして、彼はひそかに賛意を表していたくらいである。しかし、今日の真喜には、実は、そういう類いの好もしさよりも、なにかどぎつくこちらの感情にふれてくる棘のようなものがあり、彼は、それをどう始末していゝかわからなかつた。
その晩、父の憲之も何やらの会合があつて遅くなる模様だというので、いつもより淋しい人数で夕食の膳に向つた。
「真喜はどこ行つたんだい?」
と、彼は多津にきいた。
「ダンス・パーティーですつて……。お友達の家つていうんだけど、そのお友達が早稲田の建築科の学生なのよ」
「どこだい、その家は?」
「なんでも池袋の方らしいわ。詳しく知らないけど……。この頃、急に、学校でもそういう仲間ができたとみえて、夢中なのよ。十八や十九やそこらで、おかしいわ」
「そのお家ではお父さんもお母さんもダンスなさるんだつてね」
母が、自分には手の届かないことのように言う。
「だからよ、そういう家の子供は、それでいゝのよ。でも、真喜ちやんなんて、いつたい、どんな顔して踊つてるんでしよう。どうせ万事が板につきやしないわ。第一、物珍しそうに……不潔だわ」
多津がむきになつて、顔をしかめるのを、彼は笑つて、
「不潔つてこともないだろうが、まあ、そういう大人がいて、コントロールしてくれゝば、大した間違いはあるまい」
こういうと、多津は、
「ところが、兄さん、それだけじや、すまないのよ。こないだも、奥多摩へピクニックするんだつて、その仲間と一緒にでかけたのよ。それがどう、ポータブルなんか持つて……原つぱで踊つたらしいのよ」
「まあ、まあ、お前は、そんなこと心配するなよ。お母さんをみろ、ちやんと覚悟をきめてござるよ。お父さんは、まさか、そんなこと知るまいなあ」
すると、母は、お父さんと聞いただけで、身ぶるいをし、
「それだけは、後生だから、お父さんのお耳にいれないでおくれ。どんなことになるか知れたもんじやない」
母の気持はそれに違いないが、彼は、そういう母があわれでしようがなかつた。
「誰もお父さんになんぞ言やしませんよ。だけど、お父さんも案外、腹をきめてるかも知れませんよ。少くとも、それぐらいは大胆に見るんじやないかなあ。そうでしよう、お父さんは、もう二度失敗してるんですからね。三度目は気をつけなくつちや……」
「そうだよ」
と、母は、大きくうなずいた。
「お父さんもだんだん折れて来なすつた。時代がすつかり変つたんだから……」
すると、多津が、しんみりと、
「いゝわねえ、お母さんは……。時代が変つても、それほどお驚きにならない修業ができていらつしやるから……」
「そうともさ。あたしにや、自分の時代なんてものはなかつたんだもの」
これは皮肉な名言であつた。彼も、多津も、顔を見合わせて、苦笑した。
一週間たち、二週間目がもう終ろうとするのに、小諸の療養所からはなんの音沙汰もなかつた。急変がない限りという医者の言葉が思いだされ、この病気も、時間が有利に解決するという場合があるらしく思われた。それゆえ、二週間を経てなんの音沙汰もないということは、すくなくとも、意を強くするに足る事実ではないか、と、自分に言いきかせた。
こういう矢先、会社の経営が急に困難になりつゝあるという寝耳に水の情報が、父を通じて彼にはいつた。
「それや、いつたい、どういうわけなんです。僕の工場だけは、立派に採算がとれているはずですよ」
「だからさ、結局、工場によつて成績が違うということ、それに、税金の過重負担などもあつて、全体の収支のバランスがとれなくなつたということ、だ」
「つまり、僕の考えじや、この会社も、頭でつかちだということですよ。資本金百万足らずの会社に有給の重役が五人もいるなんて、およそ意味ないじやありませんか」
「それがどうにもならんのさ。誰がやめるつていうわけにもいかんじやないか。早い話が、このわしだつて……」
「それや僕にやよくわからないけど、重役が自分で欲しいだけのものをとつて、あとが足りないじや、ほかの従業員が承知しないと思いますね。僕のところは、人員整理の相談には絶対に応じられませんよ」
「まあ、それや、公式の話になつてからでいゝが、だいたい、小資本の製粉事業というもんが、ぼつぼつ行きづまりになつたんだよ。もうちつと早くそれに気がついて、仕事の切り替えをやるべきだつたんだ」
「いくたりかの人間が甘い汁を吸えるだけ吸うつていう仕事が永続きするわけはないや。お父さんも、いゝ加減に手を引くこつてすね」
と、京野等志は、相手にならぬ相手に見きりをつけて、その話をほかへもつていこうとした。が、その時、彼はもう、いつでも自分は身を退こうという決心をしていた。
ところが、事態は果して容易ならぬ形勢をはらんで、急転直下していつた。
まず、その月の給料は、半額しか支払われなかつた。工場内の不平が彼に向つて爆発した。彼は自分の俸給袋を、そこへ押しかけて来た人たちの前へ投げ出して、
「諸君の不満は尤もだ。この会社の処置を不当として、われわれは受諾できないことを、経営者側に僕は責任をもつて伝える。しかし、僕にはそれ以上のことはできない。できることは、たゞ、僕のこの半分の給料を、諸君の方へまわしてもらうということだけだ」
「ずるい責任回避だ。経営者の立場でわれわれの要求にこたえろ!」
と、一人がわめいた。
「僕は経営者じやない。一介の事務員だ。経営者の代弁はしても、常にその味方としてではない」
「そんなことが信用できるか! はつきり、どつちかの側について闘え!」
彼は、その声が女の声であるのに、ギクリとした。たしかにその通りだ、と思つた。
「そうか、もう闘いがはじまつたのか。よろしい。僕は、諸君を敵にまわすことに甘んじよう。いくらでも攻撃の矢表に立とう。だが、ちやんと戦闘の姿勢をとろうじやないか。まず、交渉委員を選んで、正式に要求を提出してもらおう」
こういう風にして、会社は、自然に争議の形にはいつていつた。
経営者側の弱点と、組合の無統制とが、程よく力の均衡を保つて、ひとまず妥協が成立したのは、京野等志の巧妙な策動の結果であつた。組合側の要求を一部抑えるとみせて、実はこれを全面的に受け容れ、経営者側から自発的に重役をはじめ幹部級の引退乃至減俸の声明を出させたのである。
彼は、そのために、父憲之を一晩、説きに説いて、無給監査役の地位を買つて出る決意を固めさせ、社長と常務一人を残して、他の取締役を一律に無給重役にする案を通させてしまつたのである。
父が彼の意見に渋々ながら従つてくれたことを、心の中で感謝しないではいられなかつたが、一面、近来ますます物質への執着が高じている父の、往生際のわるさにも、やゝ肌寒い思いをさせられた。
争議の余波が一応おさまつて、工場の空気もどうやら平静に返つた頃、彼は、社長の許へ辞表を出した。ところが、社長は極力その翻意を求め、もう一年踏み止まつて、危機にある会社の建て直しに協力してくれと懇願した。彼は、固くその任でないといつて断つた。
「いや、君の手腕も手腕だが、君のお父さんの人格には、僕もほとほと敬服したよ。お父さんがあゝ出てくれなけれや、ほかの重役はなかなかどうして……。実は、あの連中がこの会社の癌なんだから……」
と、社長は、最後に声をひそめて彼に告白した。そして、更に、
「いわば、そのお父さんにつめ腹を切らせておいて、その上、君まで一緒に追い出す結果になつたんでは、僕の顔が立たんよ。君はなるほど経理の方面はあんまり明るくないようだが、事業家として、着眼に非凡なところがあると、僕はにらんでいるんだ。そこで、今の会社は、まあ、先が見えてるとしてだ、こゝで新規の事業計画を樹てるについて、ひとつ、是非、君の智恵をかりたいんだが、とうだね、ひと肌ぬいでくれる気はありませんか」
彼は、なるほど、今まで相当あばれるにはあばれたが、この社長に、そんな意味でおだてあげられる理由がかいもくわからなかつた。君の智恵などと言われると、たゞもう、くすぐつたいばかりで、社長の、どう見ても凡庸な五十面を、冷然と眺めていた。
「せつかくですが、僕にはもう、金儲けという仕事に情熱も自信ももてないんです。このへんで自分の柄に合つた仕事をみつけるつもりです」
そう言つて、彼は、その日を最後の工場へ顔を出した。
同僚たちは、突然の彼の退職を不審がつた。
百瀬しのぶは、その時は黙つていたけれども、彼が工場の門を出ようとすると、後を追いかけて来て、みちみちこんな風に話しかけた――
「こんなことになるんじやないかと、こないだから、思つてましたわ。自分のことばかり言つてすまないんですけれど、わたし、もうすこし、このまゝでいてよろしいでしようか?」
「君には関係ないさ、むろん、いるのがあたり前だよ、いやでさえなけれや……」
「そりや、具合がわるくないことないんです。でも、我慢できると思いますわ」
「そうさ、我慢してくれたまえ、これから、君のことまで背負いこんじや、僕もちよつと閉口だよ」
「えゝ、この上、ご迷惑かけたくないと思いますわ。雲井先生が、こんどわたしが書いたもの、どこかの雑誌へ紹介してやるつておつしやいましたの」
「へえ、そんなにいゝものができたの? そりや、よかつたね」
「雲井先生つて、ほんとにおそろしい方ですわ。先生が、こゝがわるいつておつしやつたところを、ちよつと直すと、自分でもびつくりするようによくなるんですの」
「あ、そう……あ、そう……」
と、京野等志は、この少女の無邪気とも思いあがりともつかぬお喋りを聞き流していた。
「わたし、考えてるんですけど、雲井先生のおかげで、すこしでも原稿でお金がとれるようになつたら、工場の方はやめさせていたゞくつもりですわ。やつぱり、文学はそれだけに打ち込まなくつちやダメだつて、つくづくわかつたんですもの」
「ふむ、どうしてそれがわかつたの?」
「だつて、雲井先生がそうだし、先生のところでお目にかゝる若い方がみんなそうおつしやるから………」
「まあ、君がいゝと思うようにしなさい。僕にはそういう方面のことはまるでわからないんだ。それや、君は天才かもしれないけれど、なんだか、君の小説を買つて読むひとがあるなんて、僕には不思議みたいだよ」
彼は、吐き出すように言つて、それでも、戯談のように、彼女の方へ笑顔をむけた。
「あら、いやだ、わたしの小説を買つて読むなんて、まだ、そんなところまでは、なかなかいきやしないわ。たゞ、雑誌で、のせてくれるかもわからないだけですわ。それでも、雑誌によつては、原稿料をくれるんですつて……いくらか知らないけど……」
「それやそうだろう、その雑誌が売れる雑誌ならね。雲井先生は、君に甘いんじやないか」
「そうでもないらしいわ。陰でも、ほめてらつしやるんですつて……。でも、それで、あるひとに冷やかされちやつたわ」
「当り前さ、誰だつてそう思うよ。うちの多津なんぞ、すこしやき餅やいてるぞ」
と、彼は、ふと、この間、多津が口をすべらした、雲井秋生の少女趣味を思い出した。
「あら、そんなの変だわ、多津お姉さまは、れつきとした先生の愛人じやないの。それに、なんにもお書きになるつもり、ないしさ」
「書く書かないは別としてさ、雲井先生が、君なんかに特別の好意をもつてるとしたら、心穏かでないだろう。あんまりあいつをやきもきさせないように頼むよ」
「大丈夫よ、多津お姉さまは、雲井先生を完全にキャッチしてらつしやるわ。そりや見事よ、実にやんわりとですもの」
「おい、おい、君に、そんなことがわかるのかい? 驚いたね、やんわりと、か……」
京野等志は、ほんとに唖然として、溜息まじりにうそぶいた。
その晩は、真喜が神妙に膳ごしらえをしているかと思うと、多津は、夕食の時間に帰つて来なかつた。
「姉さんは、はつきり帰らないなら帰らないつて言つてけばいいのに、いつも、あいまいなことばかり言つてるから、きらいさ。帰れたら帰るとか、帰れないかも知れないけど、なるたけ帰つてくるわ、とか、変に、煮えきらないのよ」
彼は、真喜がブツブツいうのを面白がつてきいていたけれども、母の弓は、それを引きとつて、
「お前だつてそうじやないか。帰ると思つたら帰らないことが、よくあるくせに……」
それを、そう角を立てゝ言つたわけでもないのに、真喜は、もうむきになつて、
「へ、あたしは、帰れない時に、帰るかも知れないなんて、言いませんよ。出かける時は、帰るなら帰る、帰らないなら帰らないつて、はつきりさせてるわ。それや、予定が狂うことはあつてよ。それや、しようがないわ」
母は、もう、かなわぬという風に、
「もういゝから、早く、お父さんに、ご飯だつてお言い」
父は、近頃、退屈とみえて、しばらく手にしなかつた碁石をひとりで並べている時が多かつた。
食卓についても、あまり口を利こうとせず、好きな晩酌もいらぬと言つて、そのくせ、淋しそうに箸を動かした。
母は、落ちつかぬ気持を強いて押し静めようとして、当り障りのない話題をさがし、それに誰も返事をせぬので、ひとりでなにやら合点しながら、そゝくさと茶を飲んだ。
そういう空気のなかで、真喜は、兄の方へときどき皮肉な微笑をなげ、自分だけが別な世界をもつているとでも言いたげな、いわば反抗的な無関心さをあらわに示した。
で、努めて、それら家族の一人一人に、自然な態度で立ち向おうとしている京野等志も、どうやら、自分の顔が硬ばるのを意識して、あちこちへ眼をそらし、結局、ひとり言のように、
「さあ、あしたからは、なにをするかな。ルンペンになつたのを幸い、しばらく旅行でもするかな」
と、言つた。
「おまえもやつぱりやめたのか?」
父は、予期していたように、天井を向いて言う。
「やめないわけにいかんでしよう。僕は自分でなにか仕事をはじめますよ。勤めるのは、もう、いやです」
「贅沢を言つとる。自分でなにができる!」
「もちろん、できる範囲のことをやるんです。まあ、すこし考えさしてください。真喜、なにが可笑しいんだ?」
真喜が首をすくめたので、こつちもそれに釣りこまれて小鼻をふくらました。
「あら、あたし、笑つてなんかいないわ。できる範囲のこと、なんて、別に自慢にもならないことおつしやるから、ちよつと、兄さまらしくないと思つたのよ」
「そうか、自慢にならんか。謙譲の美徳だと思え」
そんなあんばいにゴマ化して、彼は座を起とうとした。
「おい、等志、ちよつと話したいことがあるから、わしの部屋へこい」
父は不機嫌をかくそうとしなかつた。一言の相談もなく、勝手に進退をきめたというのが、父の気に入らぬらしい。
「わしと関係のないところなら、まあ、それでもいゝさ。わしが口を利いて、いわばわしの顔で入れたお前だ。社長の陣内だつて、気をわるくせんとも限らん」
「そのへんのことも、考えないわけじやなかつたんです。お父さんの立場は十分尊重して、事を運んだつもりです。社長も、今日、お父さんは実に立派だつて、褒めてましたよ」
「それや、褒めるだろう、うまくやつたのは、あいつ一人だ。そんなことより、お前は、みすみす、運を取り逃がしたようなもんだ。あの男に喰い入つとくのは、今なんだ」
「僕には、あいにく、そういう興味はないんです。お父さん、僕からこんなこと言うと、変ですけれど、もう好い加減に、つまらん事業から手を引いたらどうですか?」
「それで、食つていければ、だ」
「そんなに、先が見えてるんですか?」
「なにを言つとる! まだまだ、貯えなんぞできとりやせん」
「家や土地をだいぶん買つたようじやありませんか」
「そんなものが何になる。会社の俸給を棒にふつて、わしは、来月からどうしようかと思つとるんだ」
「株の配当で、十分やつていけるでしよう」
「バカ! そんな量見だから、うかうかお前までが鷹揚な真似をしたくなるんだ。わしは、なるほど、お前の言うことに一応は従つた。それはなにも、重役の俸給なにがしが不要だというんじやない。こうしておけば、あの社長が、いずれ黙つてほうつてはおかんと思つたからだ。それに、こうなつた以上、わしは、今少しばかりある現金を、なるだけ割のいゝ方面へ廻してみようと思つとるんだ。うまくいくかどうか知らんが……。乗るか、そるかだ」
「あとのことは、僕もあんまり考えてはいませんでしたが、とにかく、あの場合、お父さんにあゝ出ていたゞくことは、絶対に必要だつたし、その結果については、十分感謝しているわけです。しかし、僕はもう、家へ物質的な負担はかけない決心でいますし、多津も、ぶらぶらしてないで、再婚するなり、すぐ働きに出るなりした方がいゝんだし、そうすれば、お父さんも、あんまり、金のことであくせくなさらんですむわけでしよう」
「わしは、今なら、どうかなると思つとる。たゞ、老後のことだ。結局、足腰立たんようになつて、お前たちに厄介をかけたくないのさ」
京野等志は、ぐつとつまつた。そんな心配はいらぬ、どうか厄介をかけてくれと、まともに言い切る勇気はなかつた。それは、事実、感情の上からは、両親の老い先を不安なく送らせるのが、当然の義務のようにも思われるのだが、それをあからさまに、そう表現する照れ臭さを、どうすることもできないのである。
相手がよろこぶとわかつていることを、それが肉親の間であるがために、どうしても素直に口に出して言えぬもどかしさを、彼は、今はじめて経験したわけではない。
しかし、彼は、しばらく、無言のまゝ、じつと父の筋ばつたうなじのあたりを見つめていたあげく、やつと口を開いた――
「お父さん、僕たち、きようだいのうちには、あんまり孝行のできる奴はいないようですが、それにしても、お父さんの方で、先に見切りをつけてしまつちや、ダメですよ。僕たちには、お父さんやお母さんが、こうあつてほしいつていう願いがあるんです。それは、僕たちのためでもあり、お父さんやお母さんのためでもあるんです。要するに、子供は我儘なんですよ。たゞ、その我儘が、両親も幸福であつてほしいつていう希望をふくんだ我儘だ、と思つてください。お父さん、僕は、今、ちよつと困つた立場にいる女のことを忘れられないでいるんです。多津は、これまた、いつ結婚できるかわからない相手と親しい関係になつているらしいんです。最近の美佐のことは、お父さんも、まるでご存じないでしよう。僕は、ついこの間、機会を作つて、会つて来ました。非常に惨めな境遇で、絶望的ともいつていゝ恋愛の結末に悩んでいます。深志は、たゞ、家庭の束縛から解放されて、自分の生活を自分で築こうとしています。これは、間違つても大したことはありません。その次ぎが、真喜です。もう子供じやないですよ。けつこう大人並みのことを考え、世間一般の女のすることを、なんでもしてみるでしよう。むろん、自分で行動の責任をとる能力がある、とみなければなりません。こういう子供たちを、いつたい、親の力で、どうすることができますか?」
父は、ひと息に喋りまくる息子の言葉を、半ば異様な興味と、半ば、しんみりした感傷の面持で聞き入つていた。
と、その時、玄関で、
「京野さん、電報!」
という、配達の声がした。
[#改ページ]
兄の手に電報を渡した多津は、そのまゝ、そこに膝をついて、結果を待つともなく待つていた。
京野等志は、自分宛のこの電報を、ほんの一瞬間ではあるが、開いてみるのをためらつた。不吉な予感以外にはなにもなかつた。それも、味岡小萩の容態の急変という一事が彼の頭を支配して、あの療養所の病室の光景がありありと眼に浮かんだ。
彼は、すこしふるえる手で、電報用紙をひろげた。が、電文は、意外な言葉でつゞられていた。
美佐急死す、という意味がはつきりするまで、京野等志は、「三崎……三崎……」と、口の中で繰返した。
彼は、黙つて、その電文を父にみせ、傍らの多津をふり返つて、
「美佐が死んだという知らせだ。お母さんに言うのはちよつと待て。とにかく、電話で連絡してみよう」
父はひと言も口を利かず、電報を多津の差出す手に渡したまゝ、横を向いてしまつた。
「電話の都合で、おれは出かけるかも知れないから……」
と、言いながら、京野等志は、外出の支度をして、隣の電話を借りに行つた。
電話先は、美佐の「抱えられている」芸者屋らしいということが、すぐに彼にもわかつた。話は突嗟には呑みこめぬほど複雑なものだつた。が、ともかく昨日の午後、客に連れられて箱根へ行つたのだが、強羅の登仙閣という旅館から、今日昼近くかゝつた電話によると、昨夜相手の客もまつたく気づかぬうちに催眠薬を多量に飲んだらしく、今朝から医者を呼んで手当を加えたのに、まつたく意識を失つていて、午後一時半、ついに呼吸を引きとつた、というのである。家の者が早速出向いたには出向いたが、遺書の一通が彼宛のものだつたので、取りあえず通知したのだけれども、遺骸はまだその旅館においてあるから、もしお会いになるなら、至急、そちらへおいでを願う、と、その声の主の女はつけ加えた。
谷川の音が耳ちかく聞える旅館の離れの一室に、想像もつかぬ生涯を終つた妹の、いたましい死のすがたを、彼はじつと眺めた。
「兄です。京野等志といゝます。みなさんにたいへんご迷惑をかけました」
そばについている二人の女に、彼は挨拶した。一人は昨日から行動を共にした朋輩の芸者であり、もう一人は、抱え主の松木某というそれらしい中年女である。
二人の女は、こもごも語つた。
「ご家庭のことは、かねがね菊ちやんから伺つておりました。ことに、お兄さまに最近お目にかゝつたなんて、それとなく話していたようですわ。まつたくこういう商売にはもつたいないくらい純情な子で、ご存じかどうか知りませんけど、以前から想つている一人の男のために、尽せるだけ尽している様子は、みていて、気の毒なようでもあり、まつたく、そう言つちやなんですけど、じれつたいほどでしたわ。ねえ、ツタちやん」
「ほんと……相手はそれをいゝことにしすぎてたわ」
「こゝへ来たのは、その男とじやないんですか」
と、彼は、いぶかしげにたずねたが、すぐにヘマな質問をしたということがわかつた。果して、女二人は顔を見合わせて、意味ありげに笑い、
「あら、こゝへはたゞ、みんなで遊びに来ただけですわ。べつに、そんな意味はなかつたんですのよ」
と、若い方の女が弁解するように言つた。
「菊ちやんが入れあげてた男つていうのは、ピイピイの会社員で、旦那ともいえないようなひとなんですよ。でも、今度のことは、その男とまつたく関係がないとはいえないね」
年嵩の方が、わけ知り顔に呟いた。
「というと、どういうんです? あ、妹の遺書があるそうですが……」
と、彼は、思い出して、そのへんに眼をくばつた。枕許に、三通の封書が重ねて置いてある。
その一通は、たしかに彼宛のもので、――兄上様、と、封筒の中央に書き、その横に、所番地と名前がしるしてあつた。
彼は、その封書を受取るとき、なに気なくほかの二通の宛名に眼をくばつた。一通は、田所清名様として、その下に、中央区築地云々、大東産業総務課と小さく書いてあり、もう一通は、松木母上様とあり、そばから、
「それは、あたしにですの」
と、年嵩の女が口を出した。
「これは?」
「ですから、それが菊ちやんのいゝひとなんですよ」
若い方が、説明した。
遺書の内容は、警察でしらべる必要があるそうだから、そのつもりでとのことであつた。
彼に宛てた美佐の最後の言葉は次のようなものである。
そのひとの経済的な苦境がだんだん、美佐にも察しられるようになり、美佐は、そのひとのために、できるだけのことをしました。その時分は、まだ、美佐には希望と慰めがありました。けれども、今の商売をはじめてからというもの、そのひとの心は、だんだん、美佐から離れていくのがわかりました。実際は離れていくのではないのです。美佐のいることが、そのひとの心の傷になり、美佐の生きているすがたが、そのひとの堪えがたい苦痛になつたのです。それは、よくわかります。ふとした時に、自分をかえりみて、美佐は、顔をおゝいたくなることがあるのです。美佐は、そのひとを決して、恨んではいません。男の力ではどうすることもできない約束が、そのひとを縛つているのでしよう。美佐も、女の力ではどうにもならない、甘い呼び声に耳を傾けるようになりました。その声の方に、美佐は、知らず知らず、引かれていきます。今夜は、いよいよ、ひと思いに、惜しくもないからだを投げ出す決心をしました。これだけのことは、兄さま以外のだれにも言いたくありません。美佐は、ひとりぽつちだ、と思つたとたん、あのひとの顔が眼に浮ぶには浮びましたけれど、美佐は、それに向つて、なにも言うことがないのに、びつくりしました。そして、そのつぎに、家のひとの顔を思い出そうとしました。それがどうでしよう。誰の顔も、はつきりと眼にうかばないのです。せめてお母さんの顔をと思つて、じつと眼をつぶつてみたのですけれど、もやもやとした記憶の影が、まつたく表情のないリンカクだけを描き出しているのです。たゞ、お兄さまだけが、はつきりと、そこに、口を動かしておいでになるではありませんか。美佐は、思わず、お兄さんと、声を出して呼びました。涙がとまらないのです。
明日、おひるから、箱根へまいります。もう夜が明けかゝつています。この手紙が、美佐の冷たくなつたふところから取り出されるのは、明後日の朝になるでしよう。
では、これでお別れいたします。どうぞ、どうぞ、大きな幸福がお兄さまをおとずれますよう、美佐はお祈りいたしております。
読み終つて、京野等志は、その手紙を握つたまゝ、つと座をたつた。悲しみとも、憤りともつかぬ感情が、胸をかきむしつた。彼は、自分が、今、誰からも見られたくないという気持で、無意識に、二人の女の前から姿を消したのである。
夜風の流れている渡り廊下へ出た。彼は、もう、泣いてもいゝと思つた。しかし、涙は喉につかえて、闇の樹立に注がれている眼は、冱えかえるばかりであつた。
妹の遺書は、取乱したところがわりにないばかりでなく、一種、ほこりをもつた女の抗議とでもいうべき語気にみちている。
その抗議は、とくに、誰に向つてというのではない。むしろ、眼に見えぬ、周囲の暴力に対してであるように思われ、彼は、すこし張り合いぬけがして、大きく溜息をついた。
事件はまず穏便にかたがついたと言つてよかつた。新聞も、折よく、政治季節の波にもまれ、一芸妓の厭世自殺を、半ば黙殺したかたちであつた。父の軽い反対を押しきつて、遺骨はしばらく家の仏壇におき、やがて、母、手ずからそれを抱いて、郷里の寺へ葬つた後というものは、美佐のことを、家族の誰ひとり口にしなかつた。
京野等志は、それでも、機会があれば、彼女を遂に死にまで導いた相手の男というのに会つてみるつもりであつた。会つてどうするという目的はべつにない。たゞ、それによつて、彼女の死に別の意味が加わるかも知れぬと、かすかな望みをかけているばかりである。話に聞けば、遺書があるという通知を出したのに、いつまでも顔を見せず、警察の呼び出しでやつと腰をあげたという男、その警察の取調べに対しても、ひたすら自分に責任のないことを主張し、最近ではまつたく手が切れていたと逃げ、火葬場にはもちろん、遺骨を運んだ実家へも、てんから寄りつこうとしない男、そういう男の、四年にわたる彼女への愛情が、どんなものであり、この事件が真に彼に与えた影響がどの程度であるかを、彼は、是非ともたしかめてみたいのである。
そういう欲求を一方にはもちながら、いざ、その機会を作るということが、なかなか、億劫であつた。
そして、忘れるともなく、そのことはついのびのびになつていた。
彼にとつて、目下、焦眉の急とすべきは、父の世話にならずに、なんとか食つていける道をさがすことである。以前の失敗にこりず、彼は、またぞろ、仕事を探し歩いた。きまりきつた勤めはいやだという彼の気焔を、真面目に取りあげてくれるものはなかつた。
親友の南条己未男でさえ、吐きだすように、
「そんなら、輪タク屋にでもなれ」
と、言つた。
彼は、ふと、気持が動いた。
「うむ、輪タク、結構。それにしたつて、手蔓はいるだろう」
「親方みたいな奴がいるにちがいないよ。面倒なことはないさ、じかに当つてみろよ」
「当つてみてもいゝが、そこまで腹をきめたら、別に輪タクには限るまい。もうちつと、スリルのある商売はないか?」
「輪タクも、やりようじや、スリル満点らしいぜ。おれの中学時代の同級で、鎌倉にいるのが、土地じやまずいからつて、銀座で稼いでる奴がいるよ。こないだ、ひよつくり会つて、面喰つたよ」
南条己未男は、彼の就職について、とんと心配はしていないらしい。ほんとに輪タクをやると言つても、べつだん、驚かぬにきまつていた。それほど、二人のつきあいは、長く、一切の忠告や干渉を廃し合つて、うまく続いて来たのである。
京野等志は、もう、この者に見切りをつけて、ひそかに、輪タクで、一夜、彼をとてつもないところへ引つ張つて行つてやろうと空想した。
と、その時、南条己未男は、
「いけねえ、おれはどうかしてるぞ。おい、美佐ちやんは、いつたい、なんだ、あれや……。新聞に本名が出てたからわかつたんだが、まさか、間違いじやあるまい?」
京野等志は、黙つて、うなずいた。
「やつぱり、ほんとか。おれは、ちよつと、悔みにも行きにくかつたんだ。実のところ、おふくろさんの顔をまともに見られやせんぜ。可哀そうなことをしたなあ」
京野等志は、こういう時の、南条己未男の口下手をよく知りぬいていたから、こつちも、いちいちそれに応じる手間をはぶいていた。
が、それから、話が、家族の一人一人の上に及び、南条己未男は、この日はじめて、顔をやゝ赤らめながら、奇妙な告白をしたのである。
「おれは、学生の頃、ひそかに、多津ちやんに憧れていた。多津ちやんがお嫁に行き、おれが兵隊に取られる頃まで、今度は、むやみに美佐ちやんが好きになつた。むろん、誰もそんなことは知りやしない。兵隊から帰つて来ると、美佐ちやんはもう家にいなかつた。お前と小萩さんの関係に、ちよつと似てるだろう。美佐ちやんが、芸者になつてるのを知つた時、おれは、脳天をぐわんとやられたにはやられたが、それでもまだ、芸者なら、いつかなんとかなると思つて、実は、金を溜めようと決心したんだ。まあ、そいつは、それだけの話だが、おれも、こう見えて、まだ精神的には童貞だぜ。うそじやねえ。女に縁がないつていうのは、このおれのこつた。どうも、つぎつぎに相手を変えるようだが、つまり、今のおれは、女房として、ある女性を心から求めている。その女性は、これまでに、こつちがひそかに想いを寄せたことのある二人の女性の延長なんだ。それでわかるだろう?」
南条己未男のこの述懐は、京野等志をついほおえませた。
「おれがわかつたつて、どうにもならないぜ、そいつは」
と、いくぶん突つぱねるように言うと、
「いや、ついでだからお前の耳にいれるだけの話で、いずれ、段どりはこのおれがつけるよ。もつとも、手遅れなら、こいつ、しかたがないが……」
そういうことがあつて、一週間ばかりたつたある日曜日の朝、南条己未男は、その叔父だという南条庄介なる人物を伴つて京野家を訪れた。
京野等志は、あいにく出掛けようとしているところだつた。
「いゝんだよ、今日はお前に用はないんだ。お父さんとお母さんに、ちよつとお目にかゝりたいんだ」
と、南条己未男は、平然として言つた。
「じや、ゆつくりしてけ。約束の時間があるから、おれは失敬するぜ」
京野等志は、そのまゝ家を出るには出たが、南条の用件が彼にはうすうすわかつているので、すこし気にならぬでもなかつた。
彼がその日会う約束があるのは、現在、横浜のさる労務関係の事務所に勤めている兵隊時代の仲間であつた。
その男は、実にいろいろなことをして来た男で、退屈な守備の夜々、類例のない豊富な経験談で、いつも彼を興がらせた。京野等志が、仕事を探しあぐね、例の輪タクでもと肚をきめたとき、ひよつくりと、彼の消息がわかつたのである。一度会いたいと言つてやると、早速、この次の日曜の朝十時に、事務所で待つているという返事であつた。
海岸に近い、焼跡のビルディングの一階をそのまゝ手入をして使つている殺風景な事務所であつたが、受附もなにもなく、正面のデスクから、彼の姿を見つけて、「おい、こゝだ」と声をかける浜田浜六の顔は、屈托のない笑いに崩れていた。
彼は近所のビヤホールへ京野を案内した。話はどこからでもほぐれていつた。
「なに、仕事を探してる? ぼやぼやするなよ。そんなもの、いくらだつてころがつてるじやないか」
「選り好みをしなければだろう?」
「よろしい。貴様の選り好みを言つてみろ」
「平凡な勤めは真つ平なんだ」
「平凡と来やがらあ。勤めは、どつちみち平凡を基礎にして成立つもんだ。そいつを、平凡でなくするのは、頭と腕だよ」
「また、お説教か。それより、おれは、輪タクでもやろうかと思つてるんだ」
「輪タク……おどかすない。あんなもん、貴様にできたらおなぐさみだ。おれも人力を挽いたことはあるが、腕力をあんな風に使うのは損だ、どうだ、ひとつ、面白い商売を教えようか?」
「面白くなくつても、自分勝手にできるもんならいゝな」
「だからよ、たつた一人で、マンホールの中を歩く商売は、どうだ。夕方から朝までかゝつて、三里近く、あの暗い下水道をぶらぶら歩くだけだ。一晩の収入二千円はどうだ」
「そんな商売があるのか?」
「からだがじくじくするのと、眼がくらむほど臭いのが難点だが、ほかにうるさい相手はいないしさ。時々、泥鼠が頬つぺたへぶつかるぐらいなもんだ」
「毎晩か?」
「そいつは、自由勝手だ。いやになつたら、いつでもやめてさ、からだに浸み込んだ臭いがぬける頃、またおつぱじめれやいゝんだ」
「二千円は大きいな」
「そうよ、贅沢言わなけれや、十日働いて、十日休めるつてわけさ。それがいやなら、今、おれのところで請け負つてる、船の荷役の監督はどうだ。これは、八時間交替で、夜勤は定額の三倍、一と月、夜勤を続ければ、ざつと税ぬき五万だ。わるくないだろう」
「わるくないが、楽でもないな」
「そんなら、こういうのは、どうだ。ある新興成金の英語個人教授、毎週三日、午前九時から午後一時までの間に三十分乃至一時間、初歩英会話を主として見てやる。時間が不定なのは、暇があつて気が向いた時というのだから、その日は、半日、その別宅で待機しているという条件だ。それで一ヵ月交通費は別として、一万五千、ひと部屋自由に使わせて、昼食はむろん出すというのだが、これは、わりかたいゝだろう」
「ちよつと気味のわるい話だが、相手次第では引受けてもいゝな」
「なに、当人は三十いくつかの若造で、戦後急にのしあがつた一種の風雲児さ。鼻息は荒いが、さつぱりした、腹のすわつた男だよ。紹介しようか?」
「どこだい、場所は?」
「その別宅は鎌倉材木座だそうだ。オフィスがこの横浜にもあつて、ちよいちよい会うんだ。待てよ、電話をかけてみよう」
こうして、京野等志は、計らずも、極めて類の少い、大人の家庭教師という役を引受ける決心で、遠矢幸造の別宅へその日の午後、浜田と一緒に訪ねて行くことになつた。
鎌倉駅前に、迎えの自家用車が出してあつた。
別宅というのは、この辺によくある別荘風の構えで、門柱には、たゞ、「富田」という標札が出してあるきりで、浜田の説明によると、たぶん妾宅の一つだろうということであつた。
応接間に通された二人は、あたりを物珍しそうに眺めまわした。それは、一応金目のものは置いてあるに違いないけれども、いかにもチグハグな、急ごしらえの感じであつた。
やがて、主人の遠矢幸造が、女中にドアを開けさせてはいつて来た。
「やあ、ようこそ……浜田君はこの家、はじめてだつたんだねえ」
「はじめてさ。こんなところへ呼ばれる身分じやないもの」
「まあ、そう言いなさんな。時に、早速、心掛けてくれてありがとう。この方かい?」
「あゝ、京野等志君だ。さつき電話で詳しいことは話さなかつたが、外語出の秀才でね、英仏独、なんでもござれだ。窮屈な勤めは性分に合わんのだそうだ。お父さんのやつておられる会社を、自分でおん出たという経歴の持主でね、まあ、あんたの英語の相手なら、我慢できるだろうと思つてさ」
「どうも、今更、英語でもあるまいなんて、時々思うんだが、やつぱり、近頃は、片言ぐらい喋れんと不自由でね。元来、勉強ぎらいと来てるんだから、先生、ひとつ、よろしく頼みますよ」
と、遠矢幸造は、胸を反らして、軽く頤をしやくつた。
「いや、僕は英語の方はあんまり得意じやないんですが、初歩の手ほどきぐらいは、やつて出来ないことはないでしよう。会話を主にというお話ですが、やつぱり、読む方もちつとはやつておかれたらどうです」
京野等志は、この、闘志満々という風貌のどこに、英語を喋つてみたい欲望がひそんでいるのかわからなかつた。
「読む方は、ABCからやつてもらわにやならんですよ。わしの学歴は高卒となつてるが、実は、尋常を五年までしかやつとらん。それも七年かゝつてだ」
別の自信がそれを言わせるのである。
浜田浜六は、そこをぬからず、
「それが、どうして、金儲けとなると、目をつぶつてても、損得の勘定を間違わないんだから、つまり、その道の天才というわけだ」
「バカにおだてるなあ。今晩、飯を食つていけよ。京野先生も一緒にどうです」
京野先生と呼ばれて、彼はいくぶん照れたが、そう言わせておくことにした。
奥の間に食事の支度ができていた。松林を透かして、海の見える十畳の座敷で、床には、極彩色の美人画がかゝつていた。
酌に出て来た二十四五の婦人が、
「いらつしやいまし」
と、丁寧に頭をさげた。
「家内だ。但し、鎌倉の家内、これは極秘だ」
この紹介に、浜田浜六は、にやりとして、京野等志の方を見た。そして、
「僕、浜田です。これが、京野等志、どちらもまだ、一号がもてずにいる風来坊です」
婦人は、自若として、応じた。
「あら、お二人とも……。その代り、お好きなことがおできになつてよろしいわ」
京野等志は、さゝれるまゝに盃を受け、なんとなく憂鬱になつて黙りこんでいた。
浜田浜六は、しきりにはしやいだ。そして、二人とも、いゝ加減に酔い、飯がすむと、また車で駅まで送られた。
「どうだ、遠矢幸造の印象は?」
「なに、印象なんかどうでもいゝさ。第一、ほんとにやる気かどうか、おれにはさつぱりわからんよ」
「いゝじやないか、向うがやるというんだから……。まあ、どこまで続くか、ちよつと見ものだよ」
二人は、電車に乗ると、ぐつすり眠りこんでしまつた。
京野等志が家へ帰つたのは、十一時過ぎであつた。例によつて、母は、まだ起きて待つていた。
「みんなもう寝ましたか」
「さつきまで起きてたんだけど……。それがさ、今日、南条さんが来なすつたろう? あの話で、みんな大笑いさ」
「真喜をくれつていうんでしよう。どうして、大笑いなんです」
「おや、兄さん、それを知つてるの? だつて、真喜が帰つてから、お父さんがその話をなさると、あの娘、なんて言つたとお思いだい?」
「真喜がですか? さあ、ちよつと面喰つたでしよう」
「それどころじやないんだよ。いきなり、プッつて、吹き出すんじやないの」
京野等志は、それでだいたい、想像がついた。
翌朝、食卓につくと、真喜はもう、さつぱりと化粧をとゝのえて、なにごともなかつたように、旺盛な食欲を示していた。
多津が、いくぶん寝不足らしい眼を、ときどき妹の方に向けて、洋服地の値段の話などしかけるのを、真喜は、興味がなさそうに、生返事をしている。
父が突然、誰にともなく、こんなことを言い出す――
「縁談の申込みというやつは、これで、なかなか微妙なもんだ。然るべき仲人を立てるのが順序ではあるが、当人がじかに先方の父親なり母親なりにぶつかるというやり方も、時には、ざつくばらんで、面白いことがある。それで成功した例も、珍しくはないが、ちよつと自信がないと、できん芸当だな」
みな、黙つていて、なんの反応もない。真喜が、たゞ、ちよつと茶目つ気を装つた眼つきで、姉をかえりみただけである。
すると、父は、続けて、
「どうだい、等志、あの南条という男は、将来見込みはあるのかい?」
「見込みつて、どういう意味ですか?」
彼は、こんな風にして、好かれあしかれ友人の批評を試みる気はしなかつた。
「つまり、人物としてさ。大成する人物かどうかというんだ」
「しかし、お父さん、真喜は別に大人物を夫に持とうとは思つていないでしよう」
「いや、わしの言うのは、真面目に仕事の出来る男かどうか、だ」
「いゝわよ、もう、そんな詮議なんかしなくつたつて……」
と、真喜は、つッけんどんに言つた。
「それや、お前の意志が第一は第一だ。しかし、お父さんとしてもだ、この際、どつちかにはつきり、肚をきめとかにやならん」
「いやだわ。あたしが問題にしてないひとを、お父さんが問題になさる必要ないわ」
「問題にするもしないも、お前だつて、あの男のことは、なんにも知りやせんじやないか。ふだん、そうつき合つてもおらんというし……」
「だから、知らないから問題にならないのよ。それに、あたし、結婚なんて、まだ、いやよ。そんな話きくと、ぞつとするわ」
「まあ、まあ、そうずけずけ言わんでも、話はできるじやないか。昔なら、お前ひとりを前において、それとなくお父さんなりお母さんなりから、意向をたしかめるという具合にするんだが、今どき、ことにお前ほどの現代娘に、そんな改まつた方法をとる必要もないと思つて、実は、昨夜もみんなの前で切り出したんだ。この話は、お前はいろいろ言うけれど、決して、当節、悪い話じやないと、お父さんは思う。相手は兄さんの親友で、家柄は秋田で名の知れた旧家だというし、亡くなつた父親は村長もしたことがあるそうだ。それに、親代りの叔父さんが元陸軍中将で、現に、有名な自動車会社の顧問をしてござるというんだ。田舎にまだかなりの土地もあり、甥の名義で果樹園をやつているというから、どんなことをしたつて、食いはぐれはない。まあ、それはそれとして、昨日、あゝやつて、わざわざ叔父さんを連れて来てさ、二人で、率直に、熱心に、お前を是非くれと言つて、手をつかんばかりにして頼むところをみると、わしは、なんと言つたらいゝか、その意気に感じないわけにいかんじやないか……。礼を尽し、誠意をこめ、しかも、堂々として、臆するところのない態度は、まことに見あげたもんだ。たゞ、一点、慎重を期すべきは、なんといつても、当の相手、南条なる男の、俗にいう頭のよしあし、腕のあるなし、だが、これは、等志が、古くから友人としてすべてのことを知りぬいているわけだから、ひとつ、参考意見を、割引なしに言つてもらおうじやないか」
「お父さん、おつゆがさめますよ」
と、母親の弓が、急きたてた。
「あゝあ、もうおなかがいつぱいになつちやつた。時に、等志兄さん、お仕事の口、みつかつた?」
真喜は、つと、起ちあがりながら、そう言つて、返事もきかず、行つてしまつた。
父は、さつきからの様子でみると、南条己未男の申込みをむげに、一蹴する気持はないらしく、真喜の無関心は、たゞこの年頃の娘の羞かみ、乃至、見栄にすぎぬと思いこんでいるのである。
「お父さんは、あんまり、むきにおなりになるから、かえつて、真喜がお茶らかしてしまうんですよ。もうちつと、ほうつたらかしといて、自分で考えさしたらいゝんですよ」
と、母が、やつと、口を挟む。
「南条さんが、今どき、変に、固苦しいのよ。なにもわざわざ、叔父さんまで連れて来て、表玄関から申込むつていう手はないわ」
多津が、ずばりと、真理らしい一言をもらした。
「それに、なんて言つても、年が違いすぎやしないかねえ。十九に三十二じや、お前、真喜の方が可哀そうだよ」
母の、この意見に、多津は、おかしいほど高飛車な調子で、
「あら、そんなことないわ。ちかごろの娘は、わりに年とつた男に興味をもつのよ。結婚の相手は、ことに、十以上違わなければつていうのが、常識になつてるくらいよ」
「ほんとかい、それや? 驚いた世の中だよ。そんなら、兄さんのお嫁さんも、十八ぐらいの小娘でなけれやつていうわけだね」
「それが、年を取るほど開きが大きくなるんですよ。女も三十近くなると、もう、六十以上の男でなけれや、相手にしないんですつて……」
と、京野等志は、母をからかうように、戯談を言つた。
朝食がすむと、彼は父と二人で向い合つているのが妙にいらだたしく、そのまゝ部屋へ引つ込もうとすると、父が、
「おい、等志、まあ、もうちつと話をしていかんか。わしひとりじや、考えのまとまらんことが、いろいろあるから……」
と、言つて、呼び止めた。
「なあ、今の真喜の縁談だが、いずれ、当人の意向もたゞし、周囲とも相談して、なにぶんの返事をすると、こんな挨拶をしておいたんだが、お前には南条から、なんにもその話はなかつたか?」
「それや、ありました。自分で、ちやんと順序を踏んで申込むと言つてました。あいつ、あれで、なかなか、形式家なんです」
「形式はそれでよろしいが、真喜があの調子じや、まるで話にならんじやないか」
「そいつは、僕の責任じやありませんよ。真喜が南条を知らないように、南条もおそらく、真喜のことがわかつてないんだと思います。箱入娘ぐらいに思つてるのかも知れませんよ」
「じや、どうすればいゝか、だ」
「まだその時期じやないつていう返事をしたらいゝでしよう」
「ちよつと、惜しい気もするな」
「お父さんにこんなこと言うのは無理でしようが、僕の考えだけを言うとですよ、大体、両親が子供の縁談を多少、急ぐ傾向があるのは、どうかと思うんです。結局、娘の場合なんか、それは、却つて、不幸の原因になることが多いんじやないでしようか。娘を嫁にやつて、ほつとするのは大間違いで、それより、自分で相手を選ぶ能力と、男によつかゝらないでも、生活していける下地を作つてやるのが、親の責任だという考え方が、僕は、健全だと思うんです」
京野等志は、自分でも、ちかごろ、ほとんど口癖のようになりかゝつた親父教育の一席を、また始めたと思い、すこし、気がひけるのであるが、父は、そういう場合、意外に、打ちしおれて、息子の説諭に耳を傾ける風がみえる。
「うむ、それはわかつとる。わかつとるが、しかし、実際は、そう割り切れた態度はとれんのだよ。まあ、お前だつて、今に、わしの年になつて、娘の二、三人も持つてみろ」
「そん時、僕のやり方を、お父さんに見ていたゞきたいですね、できることなら……」
父は、もう、話すことがないとみえて、あくびまじりの伸びをした。そして、まだ、露にひかる庭のしだの葉に、じつと眼をおとしている。
玄関に来客があるらしく、取り次ぎに出た多津が、大形に、
「まあ、まあ、よくいらしつたわね……随分お久しぶりじやないの……」
と、言うのに、
「ほんとに、ご無沙汰してしまつて……みなさま、お変りありません?」
それは、しばらく聞かない、百瀬しのぶの張りのある、落ちついた声であつた。
[#改ページ]
百瀬しのぶは、汗ばんだ額にハンカチを当てながら、京野等志の顔をみると、いきなり、こう言つた――
「長久保の奥さまが、もうすぐ退院なさるの、ご存じかしら?」
それを、彼が知る筈はなかつた。
「へえ、もう、そんなによくなつたの?」
と、彼は、心の中で、――あの看護婦の奴、けしからん、と思いながら、表面、穏やかにたずねた。
「それが、そうよくないらしいんですの。でも、お家で、そうそう長く病院にいられては、つて、おつしやるんですつて……」
「そういうところがわからないんだなあ、あゝいう連中は……」
と、彼は、義憤を感じるように、呟いて、
「今日は工場は休み?」
そう言いすてゝ、二階へあがり、早速明日の火曜から始めなければならぬ、英語出張個人教授の準備にとりかゝろうとした。
しかし、彼の頭はそんな方向へはちつとも働かず、ひたすら、長久保小萩の現在と、将来の運命を想い描くばかりであつた。
それにしても、一応、退院の話が持ちあがるからには、いつかの険悪な状態から、いくぶん持ち直しているに違いないと考えた。相当長い道中を、乗物にゆられて松本在まで帰るだけの体力がもうできているとすれば、あの病気にしては、むしろそれは不思議で、周囲の無理解に業を煮やして、無理にでも病院を出ようとしているのではあるまいか、と、急に不安が募つて来た。
彼は、また、階下へ降りて行つた。
「どうだい、近頃、工場の方は? 満足に月給をくれるかい?」
「えゝ、どうやら、やり繰りをしてるらしいわ」
「小説の方は? 傑作ができたらしいな」
「あら、どうして? そんなこと、誰か言いました?」
「誰から聞かなくつても、君の顔に書いてある。だんだん、新進女流作家みたいな恰好になつて来たよ」
「いやだわ、デタラメ言つて……」
「しかし、二人でいやにしんみり話してるじやないか。文学の話は、そういう風に、ひそひそと話すもんかい?」
「兄さまつたら、変よ。しのぶちやんをそんなにいじめるもんじやなくつてよ」
「いじめてやしないさ。だつて、ほんとじやないか、二人は、さつきから、一度も笑わなかつたぜ、ちやんとわかるよ」
「だから、真面目なお話してるんだから、そんなに邪魔しないでちようだい。なんか、しのぶちやんにご用なの?」
と、多津は、いくらか痛いところを突かれたという風に、百瀬しのぶの顔をちちと見た。
「こつちも真面目な話だ。ねえ、百瀬君に聞くが、長久保の奥さんから、いつたい、なんて言つて来たの? もうじき退院するつていうだけ? やつぱり松本へ帰るんだろうな」
「もちろん、そうだと思うわ。だつて、ほかにいらつしやるところ、ないわけですもの」
「汽車へなんぞ乗つて、大丈夫なのか知ら?」
「大丈夫でなけれや、お医者さまがおゆるしにならないわ」
「なるほど、君は、実に、はつきりしてる。奥さんの手紙には、絶望的というか、どこか、やけつぱちなところとか、妙に諦めきつたようなところ、なかつた?」
「あの奥さまは、いつも、静かで、激しいところを表面におだしにならないから、お気持の奥の奥までは、わたしには、よくわかりませんの。でも、絶望的なんてことは、おありにならないと思いますわ。でも、今度のお手紙には、珍しく、京野さんのことは、ちつとも書いてないんです」
「多津、お前、そばで、そんな顔してきいてなくつてもいゝ。これは二人だけの話だ」
「おや、あたしにもわかつてるお話のつもりでいたのに……」
「わかつてれば、それでいゝさ。わかつてるなら、わかつてるようなきゝ方があるだろう。お前の、その、空とぼけたような顔が気にくわんのだ」
「しのぶちやん、こんなご機嫌のわるい兄は、今まで見たことがないのよ。きつと、その問題で、じりじりしてるんだわ。ご存じのこと、なんでも詳しく話してあげてちようだい」
「そうまた、お前が余計なお節介をする必要はないさ。しのぶ君は、なんにもおれにかくす必要はないんだから……。さ、こつちの話は、これですんだ。どうぞ、あとは、ゆつくり、文学の話でも、恋愛の話でもなさいまし。多津、おれはちよつと出て来る。四五日、帰らないかも知れないから、飯の用意はしなくつていゝよ」
高円寺駅で省線を降りて、彼は、戦災後一変したこの郊外のバラック街を、その昔、通りなれた道を探し探し、北東へ進んだ。引揚げの日、東京へ着いて、中野から線路伝いに、焼け残つた一郭の住宅地へ辿りついた時、彼はほとんど無意識に、味岡小萩の家を探し求めていたことを想い出した。
その時に、たしかに「味岡」という標札を見届けておいたので、今日は、なんの不安もなく、その家の門を潜ることかできたのである。
「お忘れになりましたか? 僕、京野です。京野等志です」
そこへ出て来た老婦人は、小萩の母で、うつかりすると、こつちも間誤つくくらいに、老けこんでいた。
「まあ京野さん……これは、これは……。いつお帰りになりました?」
この老婦人は、彼に、あがれとも言わず、復員兵に対する月並な挨拶の言葉をならべたてた。
「皆さんもお元気ですか? ご主人は……?」という問いに、
「主人は、昨年からずつと、中風の気味で、臥せつておりますんです。あたくしも、眼をひどく患いまして……こうしていても、あなたのお顔がはつきりいたしませんのですよ」
「そうですか、それやお困りでしよう。それから、弟さん、宗重君はどうされました?」
「あれは、予科練から無事に帰つて参りまして、たゞ今、父の会社の方に勤めております。それから、小萩は、なんでございます……信州の方へ嫁ずきまして……」
と、言いかけるのを、抑えるように、
「はあ、それは知つています。というのは、松本在に、戦地で一緒だつた友人がいまして、ついご近所だつていうことを聞いたもんですから……。それで、実は、この間、そつちへ遊びに行つたついでに、長久保さんのお宅をお訪ねして来ました」
老婦人の表情は、一瞬、こわばるようにみえた。
彼は、わざと、容赦なく突つ込んだ――
「その時は別に気がつかなかつたんですが、今、たいへん、おわるいそうで……ご心配でしよう」
すると、老婦人は、キョトンとして、
「あの、小萩がでございますか……」
と、なにも知らぬらしい様子であつた。
「こちらでご存じないとすれば、これは由々しいことです。その間の事情も、うすうす、友人から聞いてはいましたが、小萩さんになんの罪もない筈です。ご実家の方が、小萩さんの現在をどういう風にみておいでになるか、僕はそれを知りたいんです」
「主人の耳にはいるとうるそうございますから、どうぞ、もうすこしお静かに……」
と、老婦人は、おどおどしながら、後ろをふり返つた。
「いや、僕は、お母さんだけでなく、お父さんのご意見も伺いたいんです。別に面倒な問題じやありません。長久保家で、小萩さんの病気治療に責任をもたない場合、ご実家では、どういう処置をお取りになりますか」
「さあ、いきなりそうおつしやられても、わたくし一存ではお返事ができかねますけれども、実は、長久保家と、当家とは、まつたく絶縁も同然で、小萩はもう、あちらへやつたものでございますから、わたくしどもの娘とは思つておりませんのです」
「それは、お母さんのお考えですか、お父さんのお考えですか?」
「…………」
それには返事はなかつた。
「すると、小萩さんは、一旦かたずいた以上、長久保家の人間だから、生かそうと殺そうと、勝手にしてよろしい、という、ご両親のお考えと解していゝわけですね。わかりました。僕は、小萩さんを、なんとかして、死の危険から救い出したいんです。長久保家は、小萩さんの健康についての配慮を、全然怠つていると、僕はみています。妻の生命の鍵は、夫が握つていて、いゝ場合とわるい場合があります。夫に、その資格があるか、ないか、です。通りいつぺんの愛情や、責任の問題じやありません。僕は、その点、世間の夫婦関係というものを信じないんです。まだしも、肉親の一部に、ほんの一部にですが、すべてをあげて、力のある限りを尽して、ひとつの生命を護ろうとする衝動が残つていると思います。あなた方は、血を分けた親の本能をさえ失つておられるのだ」
彼は、手に握つた帽子を、叩きつけるように振つて、
「では、勝手なことを言つて失礼しました。お母さんに、今こゝで、誓つて申しあげておきます。僕は、小萩さんを、心から愛しています。どんなことがあつても、僕が、小萩さんを幸福にしてお目にかけます」
大見得を切るつもりもなく、自然に、そんな芝居がかりのせりふになつてしまつた。彼は、老婦人のうつむき加減の眼から、ひと滴の涙が、拭きたての床の上に、ぽたりと落ちるのを見逃さなかつた。
ことによつたら、実家の応援を得て、小萩を最も安全な地帯へ移そうという彼の計画は、もはや、ふいになつた。
彼は、鎌倉の遠矢幸造に宛てゝ、電報で、「今週差支えあり、来週から始める」と断りを言い、すぐその足で小諸に向つた。
汽車の中で、彼は考えた――第一に、小萩は、なにゆえに、彼の再三の意志表示に、露ほどもこたえようとしないのか? なるほど、百瀬しのぶを通じて、いくたびか遠慮がちな言伝をしてよこしたことはある。しかし、あれだけ心をぶちまけた手紙に目を通したうえ、この前療養所をわざわざ見舞つたことを看護婦からおそらく聞いていない筈はないとすると、その後、看護婦に代筆をさせるなり、百瀬しのぶへの便りのついでなりに、なんとか、自分に挨拶の一言ぐらいあつてよさそうに思う。おそらく、あれほど看護婦に頼んでおいたことも、小萩にかたく止められて、それが果たせないのであろう。ともかく、どんな手段にせよ、彼女は一切、自分に消息を伝える意志はないとみるべきである。それは、いつたい、どういう意味なのか? 彼女は、なにかを、たゞ、おそれているのである。つまり、自分という人間との交渉を、できるだけ露わなかたちにしたくないと警戒ばかりしているのである。それは、彼女が、世俗的な習慣に縛られて、夫ある身というような、つまらぬ気兼ね、遠慮が先に立つているからに過ぎぬのではないか? それとも、彼女は、貞節な妻というほこりを後生大事にして、あらゆる不当な境遇に甘んじているのであろうか?
彼には、直感として、勝利の確信がある。それは事実である。しかし、彼にもまた、無謀のそしりを受けたくない常識的な半面もなくはないのである。敵情を十分に探らずして、敵地に乗り込む蛮勇は、いかにしてもなかつた。
小諸で汽車を降りると、ひとまず、城跡の公園の中にある旅館に部屋をとり、そこから電話で、療養所を呼び出した。
「医局の先生で長久保小萩という患者を見ていられる方に、ちよつとお話を伺いたいんですが……。あ、その患者は、まだそちらにいますか?」
明朝、退院する筈だが、今なら、まだいるという返事に、彼は、躍起となり、
「退院できるような状態なんですか?」
それには、答えがなく、――では、先生をお呼びしますか、と、受附の女は、きゝかえす。
「えゝ、待つてください。面会はできるでしようね、むろん?」
「差支えないと思います。お宅の方が見えていますから……」
彼は、そこで、慎重に策戦を練つた。
バスの時間には間があるので、ハイヤアを奮発することにした。療養所に着くと、彼は直接、医局のドアを叩き、主治医に面会を求めた。小柄な、学位論文を書いていそうな青年医師である。
「僕は、京野という、患者の実家と関係のある者ですが、今までの容態でみると、明日退院というのは、すこし、素人考えにも無理のように思われて、心配なんです。療養所として、まさか、無責任な処置をなさる筈はありますまい。しかし、患者自身なり、その保護者なりが、たつてという場合、ある程度、危険でも、退院をゆるされるようなことはありますまいか?」
「そうですねえ、医者の立場からは、もつと入院治療を続けた方がいゝと思つても、家庭の事情やなんかで、どうしてもそれができないといわれゝばしかたがありません」
「しかし、それは、たゞ、どちらがいゝかという別の問題で、まだ安静を必要とする患者を、旅行とか生活環境の急変とか、そういう、直接、容態に影響する悪条件の下に、強いておくことは、あなた方の責任で回避するのが当然ではないんですか?」
「それは、厳密に言えばその通りです。絶対許可できない状態なら、誰の要求でも絶対に許すわけにいきません。しかし、多少の危険があるかも知れないという程度なら、これはどうも、患者側の意志を尊重しないわけにいかないでしよう。むろん、こつちは、それに対して責任はもち得ません」
「多少の危険と言われましたが、それは、生命の危険を含む場合だつてあるでしよう? たとえ、そんなことは、万が一であるにせよ、お医者の権威と人命尊重の精神から、断乎として、患者の行動を制約するという風にしてもらいたいんですが……」
「あなたのおつしやることは、よくわかります。しかし、今度の場合は、患者から、家庭の事情で、どうしてもこのまゝ、こゝにいるわけにいかないからと、かなり強い要求があり、その理由はともかく、そういう状態では、仮りにこゝにおいても、満足な療養生活はできないだろう、という見透しで、所長が裁断を下したんです」
「では、すこし立ち入つた事情をお話しますが、あの患者は、現在の家庭に帰れば、おそらく、周囲の無理解のために、死を早めることになるだろうと思うんです。今日、家の者が来てるそうですが、あの患者は、不幸な結婚をした女で、夫のそばにいることが、むしろ苦痛といつてもいゝんです。そこで、僕のお願いですが、一度、その家の者と一緒にお話を伺うようにさせてください。今、僕が伺つたとおりのことを、もう一度、家の者と僕と、二人の前で、はつきり、おつしやつていたゞけませんか?」
「さあ、それはちよつと……なにしろ、もう、退院の許可が出てるんですから……」
「では、もし所長がおられゝば、所長に直接お話し願つてもいゝのです。どうか、それだけ、所長にお取り次ぎ願います。それから、恐縮ですが、看護婦さんにでも、患者の家の者をこゝへ呼ばせていたゞけませんか」
やがて、看護婦の後について、長久保宇治が、のそのそと廊下を歩いて来た。
「やあ、しばらく……」と、京野等志は、声をかけた。
「おや、誰かと思つた。どうして、こんなところへ……?」
長久保宇治の不審そうな顔へ、
「ちよつと知合いの病人を見舞いに来たら、お宅の奥さんもこゝに入院しておられると聞いて、黙つて帰るわけにいかなくなつたんですよ。どんな具合です? 明日退院するそうじやありませんか? 大丈夫なのかなあ」
と、やつた。
「あ、そう……いや、もうだいぶんいゝんですよ。あんまり長くいるのも、どうかと思つて、退院させることにしました」
当り前なら、聞き流す言葉を、京野等志は、すかさず捉えた。
「だつて、退院は、医者がもういゝつて言つてからで遅くないじやありませんか。今、主治医に聞いた話によると、まだ、そんな状態じやないつていうのに……」
「なに、医者はいつまでもそんなことを言うのさ。当人も、早く出たいつて言つとるし……」
「病人がそう言うから、も、おかしいと思いますねえ。余計なことのようだけれども、僕は、この病気について、多少、聞きかじつてることもあります。療養所以外に、完全な治療のできるところはないそうですよ。僕は、いま、所長に会おうと思つてるところですが、あなたも、一度、挨拶をされたらどうです。まだでしよう」
「所長にかね、まあ、そりやどうでもいゝが……」
「どうでもよくはないですよ。特別に退院を許してくれたんだそうだから……」
後ろから手をかけるようにして、京野等志は、長久保宇治を所長室の前まで押して行つた。ちようど、ドアが開いた。中から、さつきの若い医者が現われて、
「どうぞ……。所長がお目にかゝるそうです」
所長の牧内博士は、温厚そのものゝような人柄をその物腰態度のうえに見せてはいたが、京野等志が、長久保小萩という名前を口にすると、急に、厳粛な表情になり、二人の顔をあらためて見比べた。
「もちろん、僕には長久保家の事情はさつぱりわからないんですが、それはそれとして、患者が現在の容態でこの療養所から出ることの可否について、先生のはつきりしたご意見を、直接、ご主人の耳にいれておいていたゞきたいんです。どうも、そのへんのところが徹底していないのじやないか、と、僕は、ちよつと気がついたもんですから……」
「いや、それは、もう、だいたい石川先生の話で……」
と、長久保宇治は、京野等志の方を向いて、不機嫌に言うのを、
「石川先生は、僕には、今退院させるのは不賛成だと言いましたよ。患者の家庭の都合で、止むを得ず許したと、はつきり言いました。所長のご意見として、そのことが、どういう風にあなたの耳にひゞくか、僕はそれが知りたいんだ」
「失礼ですが、京野さんといわれましたね、あなたと長久保さんとはどういうご関係で……?」
と、所長は慎重を期するように、たずねる。
「あ、それは、さつき申しあげませんでしたが、僕は、患者の小萩さんの実家をよく知つているものです」
「それだけのご関係ですか?」
「それで十分じやないでしようか?」
この反問が所長には突飛に思えたらしく、ちよつと眼のふちに皺をよせて、困つたように眼をそらし、
「いや、それだけ伺えばよろしい。療養所としては、できるだけこのまゝ、こゝで加療を続けられるようにお勧めしましたが、患者の話では、家庭のご都合で、どうしてもそれができないといわれる。医者は患者の生活自体にまで立ち入つて責任はもてないのですから、是非とも退院したいという要求は、絶対に動かせない場合は別として、まあそれを許すよりしかたがないのです」
所長は、それを、キッパリといつて、なぜか冷たい視線を彼に投げた。
「では、伺いますが、家庭の都合が、どういう都合であつても、それは、あなたがたには、問題でないとおつしやるのですか? 例えば、経済的な負担に堪えられないというような場合、療養所として、採るべき方法はないのですか?」
「ないことはありません。そのことが明瞭にされゝばです」
「そんなら、家族の者が、容態を軽く見すぎているか、或は、病気に対する理解が薄いために、自宅で多少の雑用ぐらいはできると思い込んでいる場合、医師として、その蒙を啓く義務はありませんか」
「それも、患者を通じて、十分に、注意してある筈です」
「患者を通じて、それが徹底するとお思いですか? 患者が、ことに、農村の主婦である場合、医師の注意を自分も守り、周囲にもそれを認容させることの如何に困難であるかをお考えになつたことがありますか?」
「それは、おつしやるまでもなく、われわれも考えていることです。しかし、われわれの力には、限りがあるのです。医者が、そこまで力を伸すことは、現在の制度では不可能だということを、あなたもお察しくださることはできませんか?」
こちらの調子が激しくなればなるほど、所長の言葉つきは、ものやわらかになつて来た。
「長久保さん」
と、京野等志は、鋭く呼びかけた。
「今、お聞きの通り、あなたのご意志は、微妙なところへ働いているのです。小萩さんが安心して、この療養所でもつと治療をつゞけられるように、所長ともあらためてご相談になつたらどうですか?」
長久保宇治は、自分が妙な立場におかれていることを気づいているのか、いないのか、顔色ひとつ変えず、平然と、そこに立つていたが、そのとき、重い口をやつと動かした。
「小萩はわしの家内だで、わしが責任をもてばそれでいゝわけだ。あれも早く家へ帰してくれというし、わしも、そばへおいて面倒をみてやりたいと思うし、松本にもお医者はないわけじやない。やつぱり、明日、連れて帰ることにするで、せつかくだが、京野さん、小萩のことは、わしに委しといてもらいたい」
所長は、ほつとしたように、胸をそらした。
京野等志も、この相手をもう動かす自信はなくなつた。
「たいへん、先生にはぶしつけなことを申しあげたようです。どうぞ、おゆるしください。しかし、これは無駄にはならないと思います。ありがとうございました」
彼は、そういつて、部屋を出た。長久保宇治も、ひと足おくれて、出て来たが、二人は、どちらからもすぐに口を利こうとはしなかつた。
これだけのことをした後で、京野等志はまだなにかすべきことが残つているような気がした。しかし、それがどういうことであるか、はつきりつかむことはできなかつた。
ともかく、もう、そこにいる用はないということだけはわかつた。
彼は、はるかに続く山の峯に焦らだたしい思いをのこしながら、夕闇につゝまれた、石の多い坂道をとぼとぼと降りて来た。
宿に着いた時は、汗が上着の背をとおし、足のゆびが赤くはれあがつているのに気がついたが、彼は、風呂を浴びる元気もなく、夕食にビール一本をつけさせて、そのまゝ横になつた。
翌朝は、早く眼がさめた。雨戸を自分でくると、朝霧をふくんだ爽やかな風が肌をかすめた。
この時、彼の頭のなかでは、今日、これからとろうとする行動のプランが、ちやんとたつていた。
八時が鳴ると、彼は療養所へ電話をかけ、長久保小萩の退院はいく時頃になるかを問い合わせた。十時頃という返事に、それなら、中央線に連絡する小諸発の汽車に間に合う計算だということがわかつた。
その時間に、彼は、小萩を乗せた自動車を駅で待ち受けるという寸法なのである。
不思議な興奮が、だんだん、彼を襲う様子は、時刻が迫るにつれてはつきりして来る。駅の前の通りを、無意味に往つたり来たりする自分のすがたを、まつたく自分では意にとめぬ風であつた。
降り列車の時刻は、もう数分を余しているにすぎぬ。ところが、待つている自動車はいつこうに現れない。いよいよ、列車がホームにはいつた。そして、僅かな停車の後、発車の汽笛が鳴つた。
彼は、近所の公衆電話へ駈け込んで、療養所を呼び出した。
迎えの自動車へ乗せようとする間際に、小萩が脳貧血を起して、そのまゝ、病室へ引き返さねばならなくなつたことを知つた。
「脳貧血ぐらいですむんですか、え、そいつは?」
と、彼は、呼吸をはずませて、受話器へどなりかけたが、なんの返事もなかつた。
彼は、昼頃まで懐古園のなかを歩きまわり、千曲川を見降ろす崖の上に立ち、うろ覚えのローレライを口吟み、たゞなんということなく、時間の過ぎるのを待つた。それから、彼は駅へ引つ返し、また、公衆電話にしがみついた。
「長久保小萩という患者が、今朝脳貧血で倒れたそうですが、主治医の石川先生に、その後の容態を伺いたいんです。すみませんが、ちよつと先生を電話に出てもらつてください」
すぐに若い医者の声で、
「僕、石川です。あ、昨日見えた方ですね。患者は、今、落ちついています。少し発熱もしていますが、却つて、よかつたと思います。当分、動かすのは無理だということになつたからです。ご主人は、今夜の夜行で引きあげられるそうです」
と、彼の耳には、なにか力強く響く言葉が伝わつて来た。
「あゝ、そうですか、安心しました。どうぞ今後ともよろしく……。あの病人は、どうしても、僕は助けたいんです。家へ帰したら、絶対にダメだ、ということがわかつてるんです。先生、ほんとに、僕の真剣なお願いをきいてください。わざわざお呼びたてして……ありがとうございました」
彼は、そう言いながら、思わず、眼がしらが熱くなるのを感じた。「ありがたい」という文句を、相手にだけ言うのでないことが自分にもわかつていた。言わば、天運に感謝したい気持が、おのずから、口をついて出たのである。
午後の汽車で、彼は東京に帰つた。
翌日から、一日おきの鎌倉通勤がはじまつた。
遠矢幸造の勉強ぶりは、思つたより真剣で、記憶のわるさを補う子供のような素直さと野心家独特の負けん気とで、教える方でも、わりに張合いがあつた。
ひと通り句切りがつくと、時間にかまわず、
「今日はこれくらいで……」
と、向うから言い出し、あとは、しばらく雑談である。昼食を一緒にすることもあつた。
「わしの会社にも大学を出た連中がいて、英語なんかちつとはできるかと思つてたが、いざ話をさせてみると、まるでなつちやおらんね。向うの言うことがわからんで、頭ばつかり掻いとる。わしは、半年で、奴等よりうまくなつてみせますよ、先生」
こんなことを言うかと思うと、
「ねえ、先生、わしが英語を習つとるなんてことは、世間には絶対に秘密にしといてくださいよ。それでなけれや、わざわざ、先生をこんなところまで引つ張り出しやしませんよ。いゝですか、ほんとに内証ですよ」
第二夫人がそばで、それを笑うと、
「お前がなにも笑うこたあねえさ。この女はね、先生、わしが独占するまで、わしともう一人の男を、それこそ、どつちにも内証で、操つていた、したゝか者ですよ。もちろん、商売柄、そんなことはとがめるには当りませんがね。ともかく、あることを隠しおおせる腕は、それや、たいしたもんですよ」
遠矢幸造がずけずけとすつぱぬくのを、女は、別に慌てもせず、
「自分のことは棚にあげて、そんなこと言うの、おかしいわ。そらまた、膝の上へご飯つぶを落して……」
と、半ば京野等志に笑いかけながら、男のあぐらをかいた膝の方へ手を伸ばす。
こんなあんばいに、英語個人教授は、その度毎に、彼を珍しい妾宅の雰囲気のなかに捲き込み、まる半日は、なんとも恰好のつかぬ待遇に甘んじなければならなかつた。たゞ、余徳といえば、生徒がまだ遅い朝食の最中であつたり、午前中どこかへ出かけた後などは、彼に与えられてある離れの茶室で、ゆつくり本が読めること、時には、そう遠くない海岸へ出て、思いきり潮風に吹かれる暇のあることであつた。
しかし、また、どうかすると、生徒が予定の日にこの家に姿をみせぬことがある。電話が前の晩にかゝれば、その日は休むことにしているが、電話のない時は、昼すぎまで、ぼんやり待つているわけである。そういう時、この家の女主人は、いさゝか神経を高ぶらせていることがわかり、応対のしぶりがいつもとは違う。別に無愛想になるわけでもないが、むしろ、わざとらしく、投げやりな調子をみせ、不必要に馴れ馴れしい口を利くのである。
そういうある日のことであつた。彼女は、いつものように、昼の食事を女中に運ばせておき、食後のメロンを自分で持つて来て、そのまゝそこに坐り込み、
「ご退屈でしよう。ほんとに……。ちよつと電話するぐらいなんでもないのに、すぐ無精するんですものねえ……」
と、すこしはだけたセルの襟を、軽くおさえるような手つきで、彼を見あげた。
「結構、自分で時間つぶしをしています。たゞ、こいつを商売として考えると、妙な気がする時がありますよ。不労所得つていうのは、まさにこれかと思うんですがね」
と、彼も、相手に通じるような話にもつていこうとすると、
「それや、そういうことも、たまにあつていゝと思うわ。あたしたち、商売に出てた頃、やつぱり、お座敷以外に、お客さまの懐で、勝手に遊びに行くことあるんですもの」
すこし、それとはわけが違うと思つたけれども、彼は、すまして、
「失礼ですが、商売に出ていらしつたつていうのは、どこですか?」
「あたし? はじめは赤坂、それから、ずつと新橋……つい最近までよ」
「へえ、新橋ですか……」
と、彼は、眼を丸くした。そして、妹美佐のことが、ふと喉まで出かゝつたけれども、それは、つい口に出ししぶつた。
「だれか、ご存じ?」
「いや、いや、僕は、その方面とはまつたく縁がありません。たゞ……」
と、この時、やつと、腹がきまり、
「たゞ、僕の妹が、やつぱり芸者をしていましてね、新橋で……」
「あら、なんておつしやるの?」
「小菊とかいう名で出ていました。本名は、美佐ですが……」
彼が、名前をいうと同時に、女主人は、それこそ、後ろへ倒れるかと思うほど、大げさに反り返つて、
「あら、まあ……小菊ちやん……こないだ、あんなことになつた……あたしの、一番の仲よし……」
それは、まんざら、嘘でもないらしい、どこか、その親しみをこめた呼び方でこつちをも引きずり込むような、調子であつた。
[#改ページ]
遠矢幸造の隠し妻、平山いく、が、妹美佐の親しい友達であつたという事実は、なるほど、話を聞けば聞くほどよくわかつた。しかし、京野等志がなによりも意外に思い、ふと胸をつまらせ、これが感傷というやつだな、と、われながら自分を叱りつけたくなつたのは、平山いくが、妹美佐の親兄弟について語つた一切の言葉を、決して反感や敵意を含んだものでなく、常に肉親の愛情を信じ、しかも自らそれに叛かないわけにいかなかつた苦しさを訴えるものだつた、と、しみじみ語つたことである。
「あたしたちの仲間には、それや、いろんな意地や見栄つてもんもなくはないけど、小菊ちやんぐらい、その点、あつさりしてたひとはないの。たゞ、不思議なくらい、お家の方々にわらわれたくない、それみろつて言われたくないつて気持を強くもつていたようだわ。お父さまもいゝ方、お母さまもやさしい方、ごきようだいも、みんなよくできた方だつて、いつも、それや、ご自慢なの。それだけに、自分のしたことが、みなさんには、向う見ずで、ふしだらのようにとられるのは、あたり前だつて……。だから、せめて、結果だけでも、立派に一人の男を守りとおして、お家の方々に、『まあ、まあ、それなら』といつてもらいたい、小菊ちやんの言つたとおりを言うんですけど、そう言いとおしてましたわ」
京野等志は、妹美佐が、口先だけでそんなことを言うはずはないと思つた。たとえ、すこしの誇張や、自己陶酔のようなものはあつたとしても、そういう気持がまつたくないとはいえぬ証拠は、彼女が自殺の決意をした時、第一に、家のものゝ顔が目に浮んだからこそ、自分にあてゝ、あの切々たる遺書を書いたのである。問題はたゞ、親きようだいの自然の愛情を、彼女がどういう風に、身ぢかに感じ、彼女自身がまた、親きようだいに対して、どんな種類の愛情を抱きつゞけたか、ということである。
愛情とは、まことに、微妙なものである。なんびとも、現に、どんな程度にしろ、心の奥底に分ちもつていながら、それが、なんらかの形に現れ、互いにそれをそれとして、素直に受け容れる機会がないかぎり、愛情は、かえつて、わずらわしい束縛、抵抗となるか、さもなければ、永久に冷たい人生の壁なのである。
京野等志は、そう考えると、妹美佐も不憫にちがいないが、第一に、両親が、それに気づかぬことが、あわれこの上もないものに思われた。
平山いくの述懐は、ひとの身の上から自分のそれに移つていつた。京野等志が案外よい聴き手であつたために、彼女は、調子にのつて、過去の苦労、現在の不満を並べたてた。そして、最後に、酒乱の父と強欲な母とをか細い女の手で養う手段は、どう考えてもほかにないと、なかば自嘲的にいい放つて、つと座を起つた。
世間話としてはおそらく、ありふれた、驚くにあたらぬ話かもしれない。だが、実際にそういう境遇におかれた女性が、その暗い影をこういう賑やかな饒舌の裏にかくしていようとは、彼には想像もつかぬことであつた。
これが機緑になつて、平山いくは、彼をいつそう隔てのない間柄として取扱うようになり、遠矢幸造がうるさがつて相手にせぬほどの問題を彼にもちかけ、時には、遠矢にさえ打ちあけかねる相談ごとまで、彼の耳に入れるという親密ぶりをみせた。
京野等志は、一方でその待遇を甘んじて受けいれながら、一方では、いくぶん、こちらのどこかに隙があるのではないかという警戒心をもつて、これに応えていた。
その頃、彼は家にいる時間がわりに多かつた。きまつた仕事がほかにあるわけではないから、自然、自分の部屋にとじ籠つて、読みたい書物を読み耽るぐらいのものだが、そういう生活はまた、家のものとの接触を意外に複雑にした。父とは、それこそ、めつたに顔をつき合わせることはないのに、刻々の気分の移りかわりが手にとるようにわかつた。第一に、母の顔色で、それが読めた。第二に、妹たちの眼つき、声の調子に、それが映つていた。
もちろん、文字どおり一家の空気を支配している父の存在が、以前のように、すべてを圧しつぶしているようにはみえなかつた。それどころか、いまは却つて、ひとつの力、ひとつの中心に向つて、すべてが反撥の姿勢をとつているようにさえ思われた。はつきりと敵意を示すものこそないが、ひそかに、眉をひそめるような気配は、ことごとに感じられた。
それなら、この一人の父とは、家族たちにとつて完全に、無用有害な存在なのだろうか。そうともいいきれぬ何かゞ、まだ残つている。単なる利害関係か、あるいは、習慣のようなものか? 時によると、この父は、四面楚歌の声につゝまれる。それにも拘わらず、時によると、かれは、「一番大事なひと」としての成光を保つているのである。
その証拠に、父は相変らず、一等贅沢な部屋を占領し、一番最初の風呂にはいり、だれよりも多くひと手を煩わし、すこしこみいつた問題になると、必ず最後の断をくだすのである。
そういう父にとつて、最も悲惨な運命がついに訪れた。
その年もおしつまつたある日のことである。みぞれまじりの雨が朝から降りだしていた。妹の真喜は早くから学校へ、父は銀行に用があるといつて九時すぎに家を出たのだが、すぐそのあとへ、乳呑児をねんねこで背負つた女が、しばらく門前をうろうろしたあげく、ためらうように玄関の呼鈴を押した。中年と呼ぶにはまだ若すぎる横顔の美しい女であつた。
取次ぎに出た母に、
「あの、あたくし、ぜひちよつと、こちらのご主人さまにお目にかゝりたいんでございますが……」
と、口ごもりながら、言つた。
「失礼ですが、どちらから……?」
「名前なぞ申しあげてもしようがございません。熊谷からとおつしやつてくださればわかります」
「あの、熊谷? どんなご用事か存じませんけれど、たゞいま、あいにく、出かけておりますんですが………」
「では、お帰りになるまで、こゝで待たせていたゞきます」
ものゝ二時間も、玄関の敷台に腰をおろしたまゝ、てこでも動こうとしないこの女を、母も、妹の多津も、うさんなという眼つきでみないわけにいかなかつた。それでも、妹の多津は、寒いだろうといつて、小火鉢と座蒲団を出し、しまいに、茶をいれてすゝめるというぐあいであつたが、やがて、それとは知らず、父の憲之が表をあけて、ひよつこり帰つて来た。
女は、起ちあがつた。父は顔色を変えて、コウモリ傘の柄を握り直した。
意外な、この男女の対面は、ちようど小門の開く音を聴いて出て来た母の視線からのがれることはできなかつた。
「なにしに来た」
と、父は、うろたえた拍子に、へたに一喝した。
「なにしに、ですつて……? お目にかゝらなければ、話がわからないからですわ」
女は、それに対抗するように、落ちつき払つて答えた。
「話はもう、ちやんとついとるじやないか。無考えなことをすると、かえつて、お前のためにならんぞ」
わざと焦点をぼかそうとする努力が、ありありとわかつた。と、女は、もうこれまでといわんばかりに、
「あたしのことなんぞ、どうでもいゝの。この子をなんとかしてください、この子を……」
と、背中の乳呑児を、激しくゆすりあげた。
「なにを言うんだ! その子とおれと、な、なんの関係がある!」
父は、地団太を踏むように、怒鳴つた。そして、いきなり、ゴム長靴を脱ぎすてゝ、上へあがり、
「話があれば、弁護士をやるから、その男に話せ。無礼千万な……」
と、女の方はみずに、そのまゝ奥へ姿を消した。
母の弓は、その女を相手にしばらく、話をしていた。はじめのうち、いくぶん甲高かつた女の声が、しまいに、うち沈んだ調子に変り、二人のひそひそ話は、三十分以上続いた。
この様子が、二階にいる京野等志には、手にとるようにわかつた。しかし、母の方から触れて来ないかぎり、彼は、自分の口から、この問題について切り出す必要はないと思つていた。
ところが、年が明けて、なんとなく家じゆうのものが時間をもてあましているような一夜、父は、家族全部を前にして、とつぜん、こんなことを言いだした――
「お父さんは、今日、お前たちに、重大なザンゲをしようと思う。お母さんだけには、もうすべてをつゝまずに話しておいたが、まだ多分、お前たちみんなの耳には、はいつていないと思う。まことに恥かしいわけだが、お父さんは、この年になつて、ある女にふと迷つた。そして、取りかえしのつかん過ちを犯した。世間並みの言葉を使えば、妾を一人囲つて、その女に子供を生ませたということになるんだが、お父さんの場合は、あくまでも、そういう行為を是認しちやおらん。絶えず良心の苛責は感じておつた。第一に、お母さんに対して、第二に、お前たちに対して、こいつは、ゆるすべからざる罪悪だ、という後ろ暗さはもとより、自分一個の立場からいつても、およそ軽蔑に値する人間的弱点の暴露にほかならんのだ。その点、重々、反省悔悟はしておるが、お前たちもひとつ、お母さん同様、わしの父親としての大失態を、寛大にゆるしてもらいたい」
きようだい三人は、いずれも、黙つて、聴いていた。
母は、かねて、このことをもうある程度察しているはずの上二人の子供たちの手前を、どうとりつくろおうかと腐心していた矢先なので、自分自身をむしろ父の立場において、神妙に、子供たちの前で眼を伏せていた。
と、末の妹の真喜が、いきなり、父に向つて、容赦もなく、言葉をかけた――
「お父さんも、それでやつと、人間だつていうことがわかつたわ」
一同は、はつと、顔を見合わせた。
「そうか。お前の言いたいことはそれだけか。なるほど、お父さんも人間か、ハヽヽヽヽ」
と、父は、わざとらしく、しかも、力のぬけたような笑いかたをした。
すると、また、その笑い声にかぶせて、真喜が、
「笑いごとじやないわ。あたしは、精いつぱい皮肉を言つたつもりよ。お父さんは、あたしたちに、そんな告白をしたつて、別に、自分を責めてなんかいやしないでしよう。たゞ、いずれは知れるもんならと思つて、わざとそんな言い方をするんでしよう。わかつてるわ。事実は、事実だけでたくさんなのよ。あたしたちが、それを知つたつて、知らなくつたつて、お父さんのねうちに、ちつとも変りはないわ。どつちみち誰も尊敬なんかしてやしないんだから……」
と、すこしヒステリカルに喋りつゞけるのを、京野等志は、
「おい、真喜、お前はちよつと黙つてろ」
と、おだやかに制しておいて、
「もう、その話は、それでいゝことにしましよう。お母さんの気がすむように、問題が解決されゝば、われわれには、そう関係のないことだ。真喜、そうじやないか? あんまり、理屈を言うなよ」
そう言つて、妹の肩を軽くたゝいた。
すると、母がやつと口を開いた――
「兄さんの言うとおり、あたしは、どうやら、自分の気持だけは始末することができたんだけれど、たゞ、ひとつ、厄介なことが残つてるのさ。お父さんも、そのために、今日、みんなに、言いにくいことを言つてしまおうとなすつたんだろうが、それは、つまり、子供のことさ。先方の要求でもあり、あたしも、訳を聞いてみると、その方がいゝと思うのは、その子供を家へ引取つて、あたしの手で育てるつてことなんだよ。でも、こればかりは、あんたたちも承知のうえでないと、できないことだし、その相談を、今、してほしいんだけれど……」
母の言葉が終るか終らぬうちに、また、真喜が口を出した――
「相談つて、別に、その必要ないと思うわ。そんなこと、母さんの勝手じやないの。でも、誰からも強いられずにでなけれや、いやよ」
京野等志も、上の妹の多津も、それには、なんの異議も唱えなかつた。
「みんな、よくわかつてくれて、ありがたい」
と、父は、額に手をあてゝ、ペコリと、うなずくように、首を振つた。
父の秘密が明るみにでた動機は、そのもとをたゞせば、女へのきまつた仕送りが途絶えたことからであつたが、それというのも、例の会社から手を引いて以来、怪しげな金融ブローカーの口車に乗り、多少の貯えも次ぎから次ぎへと吐き出してしまつた上、ついに、家屋敷を抵当に入れなければならぬ羽目に陥つていたのである。
父は、つい最近、それとなく目下の経済的不如意を食卓の話題にしたことはあるが、そうまで差しせまつた事情があるとは、肝腎の母でさえ気がつかずにいた。それほど、父は、痩せ我慢を張つて、生活費の捻出に大童だつたのである。
が、ついに、危機が到来した。しかも、突如として、破産の一歩手前という、一家のものにとつて、寝耳に水の事態が襲いかゝつたのである。
この月いつぱいに、今住んでいる家も明け渡さねばならぬという、のつぴきならぬ期限を眼の前にひかえて、父は、もう、まつたく、動く気力を失つていた。
「わしは、たゞ、生きているのが辛いだけだ。どうでも、いゝようにしてくれ」
京野等志は、そう言う父の顔を、まともに見るに忍びなかつた。
母は、泣くにも泣けず、たゞ、茫然と、あちこちに貼られた差押えの紙ぎれを眺めて、立ちすくんでいる。
妹二人は、存外、覚悟のよいところをみせ、上の多津は、住うところさえきまれば手内職をはじめるといい、下の真喜は、学校をやめて事務員になれば、一人で食べていけると宣言した。
しかし、京野等志は、
「それもいゝが、なにもそんなに慌てることはないさ。おれだつて、稼ごうと思えば、もうちつとは稼げるし、食う心配なんかさせやしないよ。それより、先決問題は、手頃な家を探すことだが、これは、おれの今の力ではどうにもならん。まあ、当分、間借りで辛棒するのさ。二間あればなんとかやつていけるだろう。その方の段取りはおれに委せろ」
と、兄貴らしく二人を説得した。
彼は、遠矢幸造に、事情を話して、五万円の前借りを申し込んだが、三万円ならというので、しかたがなく、それだけ受けとつて、早速、貸間探しをした。もちろん、それは、無理にきまつていた。ところが、遠矢幸造に前借りを値切られた代りに、平山いくが、その埋め合せに、耳寄りな話を持ち出した。というのは、彼女のもとの朋輩で、やはり、同じ境遇にいる女が、今まで世話になつていた男と別れ、わりに大きな家をそのまゝ貰うことになつたので、二階二間をひとに貸してもいゝという話なのである。自分から頼めば、きつとなんとかなるから、今からでも一緒に見にいかぬかと彼女はいう。その日は、また、生徒が予告なしにサボつたため、夕食後まで、ぶらぶら待ち暮らした。もう七時を過ぎていた。
場所は、大森の奥で、駅からすこし遠いけれども、なるほど、これなら文句などいゝようもない小綺麗な家で、京野等志が、早速、条件はとたずねると、平山いくはそれを引取つて、
「まあ、そんなことはあたしたちに委しておおきなさいよ。それより、ご家族のことをよく伺つておかなくつちや、ねえ」
と、女主人の方に笑いかけた。
「えゝと、僕のほかに、両親と妹が二人、妹は、どつちも、もう子供じやありませんが……」
「ほんと、小さいお子さんのある方は、絶対にお世話できないわ」
平山いくが、よいところで加勢をした。あとは、女二人のコソコソ話で、やつと、談判がとゝのつたようである。
京野等志は、やがて家族の一員として、迎えるはずの、例の異母弟たる赤ん坊を数に入れなくてもよいか、どうか、迷つていた。が、それを言い出す機会は、いずれあるだろう、と、肚をきめた。
「ありがとう、おかげで助かりました」
京野等志は、帰るみちみち、思い出したように、平山いくに言つた。
「あら、そんなにおつしやらなくつたつていゝわ。あたしで、お役に立つことつていえば、こんなことぐらいだわ」
道は暗かつた。女は、時々、なにかにつまずいて、彼の腕に縋りついた。はじめは、それでも遠慮がちなところがみえ、すぐからだをはなしたけれども、彼がさほどそれを気にせぬ風をみてとると、しまいには、よろめいたついでに、彼のぶらりとさげた手に、自分の華奢な手をことさらからませて、じわりと握つた。
彼は、この戯れにこたえる方法を知らなかつた。彼は、いつまでも、無感覚を装うよりほかなかつた。相手は、図に乗つて、彼の指を弄び、掌をくすぐり、さては、その一つ一つの指を彼の指の間に割り込ませて、力いつぱいに押しつぶすような仕草をした。
「痛い」
と、彼は、そうさせたまゝ、無意識に言つた。自分でも、それはおかしかつたが、そう言いでもするより、しかたがなかろうとも思つた。
「あんたは、真面目なの、臆病なの?」
と、女は、しめつた声でたずねた。
「僕? さあ、真面目でもなく、臆病でもない、つていうところかな」
と、彼は、すこし挑戦的な身構えで答えた。
「あたし、ちよつと、浮気がしてみたいの」
「へえ、わるい趣味だ、手近なものを利用するのは」
と、彼は、ひとごとのように言つた。
「いゝじやないの、それがそんなに、ざらにあるもんでさえなけれや……」
「光栄です。たゞ、そつちが、ざらにないかどうかの問題さ」
と、彼は、つい、たまりかねて、言い放つた。
「あら、そこまでは気がつかなかつた。ごめんなさい」
平山いくは、さすがに、気まずさを呑みくだすように、はしやぎながら、言つた。
「今のは、戯談……」
と、京野等志は、余計な憎まれ口を取消そうとした。
「今のは、まつたく戯談だけれど、僕は、あなたのような女性と、しやれたおつきあいはできない男なんだ。浮気というような言葉でさえ、僕には、ほんとの意味がわからないんだからな。ほんとの意味つていうか、むしろ、微妙な意味がね。それで、浮気の相手になれますか、いつたい……」
「そんなこと、なんでもないじやないの。男と女とがいてさ、ふつと、どつちかの出来心で、なんとなく、そうなつたら、それでいゝんだわ」
「なんのことか、さつぱりわからない」
と、京野等志は、しらばくれてみせる。が、このへんから、彼の気持は、ぐらつきはじめた。この種の誘惑には、どこか熟しきつた果実の甘酸つぱい香りに似たようなものがある。彼の道徳が、これを拒む理由はすこしもない。たゞ、今もなお頑固に、彼の危うい衝動を支えているのは、彼自身、はつきりそれと自覚してはいないが、つまり、彼一流の自尊心なのである。
「さつぱりわからないのは、こつちのことだわ」
と、平山いくが、ぽんと手を振りはらいながら、独言のように呟いたとき、彼は、ぼんやり、病院のベッドに横わつている小萩のことを思いだしていた。
もう、まる三月、なんの消息もきかぬ小萩、このまゝ、永久に相見る機会がないかもしれぬ小萩、たとえそういう機会があつたにしろ、おそらく、彼の手に再び戻つて来ようとは思えぬ小萩、その小萩なる一女性を、どうして彼は、忘れ去ることができないのか?
それもまた、彼一流の自尊心からであろうか? まさに然り。彼を駈り立て、彼を鼓舞し、彼を熱狂させるものは、た易く得がたいというものなのである。
大森駅へやがて辿りついた。
「じや、今日は、これでお別れ?」
と、平山いくは、首をかしげ、あどけない調子で言つた。
「お送りしなけれや、わるいかな」
と、京野等志は、ことによればそうしてもよいと思いながら、言つた。
「送つてちようだい、つて言いたいところだけど、まあ、やめとくわ。じや、おやすみなさい」
「どうも、うまい挨拶ができなくつて困るが、ともかく、送りません。気をつけてお帰りなさい。タクシイがあるでしよう」
自分ながら、しどろもどろなのに気がついて、彼は、苦笑した。
家へ帰りついたのは、十一時過ぎであつたが、今日の結果をみなに話そうと、茶の間へどつかりと坐つたとたん、妹の多津が、一通の速達便を彼の前に差し出した。
思いもかけぬ小萩からの便りであつた。
いつぞやいたゞきましたお手紙、うれしくまた、せつなく拝見いたしました。
そのうえ、二度までも療養所へお越しくださいましたこと、後で、附添いの看護婦さんや主人から承わり、ほんとうに、どうしたらいゝかと思いました。
しかし、その時までは、まだ、直接、お礼など申しあげるべきではないと、固く心にきめておりました。わたくしの立場がそれをゆるさぬと信じておりましたから。そのため、かえつて、あなたを、お恨みしたくらいでございます。
わたくしも決して強い女ではございませんから、それだけに、かりにも、夫の信頼を裏切るような危険に、身をさらしたくないと、心に念じていたのでございます。
思えば、無駄な努力でございました。
一時はもうこのまゝかと思いました病状も、どうやら近頃では、まだいくらかの余命が保てそうな気がいたしますくらい、もちなおして参りましたし、その後、身辺に起りました変化が、この通り、あなたに公然と筆をとらせるようなわけでございます。
もちろん、病状は小康を得ていると申す程度で、もはや廃人同様のからだに違いございませんから、さしあたつて、なんの希望も夢もあろう筈はないのですけれど、せめて、もう一度、あなたにお目にかゝり、心からお礼やら、おわびやらを申しあげ、できることなら、晴れ晴れと、過ぎし日の思い出など語り合う日の近いことを祈つております。たゞいま、療養所では、許しを得さえすれば外出もできますので、ご都合のおよろしい時日と場所とをお示しくださいましたら、わたくし、いつ、どこへでも出向いて参りたいと存じます。
読んでみると、これだけの文面だが、そこには、さまざまな感情に彩られた重大な事実の暗示があつた。第一に、病状は疑う余地もなく危機を脱していることがわかり、彼はほつとした。つぎに、身辺の変化という言葉の意味である。公然と彼に手紙の書けるような状態とは? 長久保宇治の急死ということも考えられた。それなら、そう遠廻しな言い方をしなくてもよさそうに思われた。夫との間がいよいよまずくなつて、結局、宣戦布告をしたのであろうか? なるほど、それならわかる。が、それにしても、そうならそうで、もつと、昂然たる意気を示せばよいものを、最後は、世捨人のように消極的な調子で結んであるのは、なぜであろう? 業病は精神力をこうまで蝕むものであろうか?
京野等志は、そんなことを考えながら、そこへ集まつている母や妹たちのことを忘れて、しばらく、その手紙から眼をはなさなかつた。
「あ、やつと、部屋がみつかつた。明日からでもいゝそうだ。ともかく、越そう」
と、彼は、やつと我れにかえつて、言つた。
「どこなの?」
多津は、眼を輝やかす。
「大森……いゝ家だぜ。二階の八畳と四畳半二間、それに、台所と風呂は自由に使つてくれつていうんだ」
「それで、あちらさんのご家族は?」
と、母がたずねる。
「女主人と女中一人、それだけです。二階を貸したら、女中は暇を出すつていうんです。お母さん、まあ、しばらく、我慢してください。赤ん坊は、すぐでなく、一と月たつたら、引取りましよう。赤ん坊のことを、つい、言いそびれちまいましたから……」
「それが、兄さん、今朝も、また、催促に来てさ、いつまで待たせるんだつていうんだよ。あたしは、どうせそうときまれば、すぐでもいゝんだけれど、多津が、まあ、このどさくさが落ちつくまで待つてもらえつていうもんだから……」
「そうよ、なにもなけれや、お母さん、きつと、倒れちまいなさるわ」
「あたしは、どつちみち、赤ん坊の世話なんかごめんだわ。一緒に寝るんだつていやだわ」
と、真喜が、顔をしかめてみせる。
「あんただつて、赤ん坊だつたのよ」
多津が、当り前のことを言つて、歯がゆがるのを、真喜は、鼻でわらつて、
「だから、どうなのさ。話がちがうじやないの」
京野等志は、もう、その口争いには興味がなく、座を起つて二階へあがつた。
それでも、なにやかやと支度に手間どり、引越を終つたのは、三日目であつた。道具や衣類には、ほとんど手をつけることができなかつた。まず着のみ着のまゝといつてよく、わずかに差押えをまぬがれた勝手道具の類と、人数だけの夜具が運び出されたに過ぎない。
母は、玄関の前で、しばらく、涙を拭いていた。
父は、終始無言のまゝ、母の差出す袷羽織に手を通し、最後に、庭の松の木を見あげて、悄然と門を出た。
京野等志は、ひとり後に残つた。債権者に家屋家財を引渡すためにである。彼にとつて、それは、単なる事務にすぎなかつた。なんの感慨も催さないというのが、いつわらぬ事実である。それどころか、むしろ、さばさばとした痛快味さえ覚えるほどの瞬間もなくはなかつた。
さればこそ、彼は、露ほどの屈托もなく、翌朝、上野を発つて、小諸に向つた。
冬の山は、白雪の間に、荒々しい岩の肌をのぞかせて、眼の前にそゝり立つていた。
[#改ページ]
京野等志からの返事がもう来そうなものだと、小萩は、こゝ二、三日、なにも手につかなかつた。軽症患者の日課はわりにゆるやかで、雪の山道が大儀でさえなければ、いつでも診察時間以外は好きな時に散歩ができる。彼女は、今日も、朝の化粧をしながら、鏡にうつる自分のすがたが、すこしは見られるようになつたかしらと、わざとあどけなく小首をかしげ、さて、裏山をひとまわりするための、誰にみせるでもない衣装の選択を、あれこれと意のなかでしでみるのであつた。
朝食を運んで来た看護婦に、
「今日は風もなさそうね。あたし、うんとおしやれして散歩に行くの。病人だつていうこと、ちよつとの間でも忘れたいわ」
同室の婦人患者の一人が、横から口を挟んだ。
「長久保さんのおしやれは、どうもほかにわけがありそうだわ。旦那さまが今日あたりいらつしやるんでしよう」
しかし、それにはこたえず、小萩は、内心ギクリとして、眼を窓の方へそむけた。
午前中は、院長の臨時の回診があつたり、患者たちで作つている組合の委員選挙があつたりして、とうとう時間がつぶれてしまい、やつと、昼すぎになつて、自由行動がゆるされた。小萩は、いつも一緒について来る同じ部屋の島内京子をさそつて、外へ出た。
やつと十七になつたという、この敏感な少女は、話相手としてはどこかまだ物足りないところはあつても、節度のある快活さで彼女の気分をつねに引きたてゝくれる得がたい相棒であつた。
「おばさま、今日はとてもすてきだわ。なんの感じかしら……? あゝ、そうだわ、リンドウだわ……」
「あら、たいへんな形容ね。どうしても花をもつて来なければわるいと思つて……。でも、秋、一番おそくまで、山道の枯れかけた草むらの中に咲いている花じやないの」
「そんな意味をおつけにならなくつていゝわ。たゞ、あの花のかたちと色の感じよ……お着物のせいもあるわ、きつと……」
なるほど、この日、小萩は、万一の用心に持つて来ておいた、濃い紫地にナンド色のタテ縞のあるお召のアワセを着、そのうえに、薄茶色の羽織をひつかけていた。
高原の強い日光の下でも、とけるひまなく降り積つた雪が、山頂からこの山裾にかけて、草原という草原一帯を覆つていた。わずかに、炭焼小屋へ通じる小径が、松林をぬけて、谷へ降つて行く、その踏みかためられた雪の一と筋だけを、ひろうようにして、彼女たちは歩いた。
島内京子は、いつも散歩の時は、医者に言われたとおり、紫外線よけの色眼がねをかけていた。小萩がそれをしないでいるのを、今やつと気がついたように、
「おばさまは、お眼がお丈夫なのかしら? 眩しくおありにならない?」
と、彼女の方を見上げながら、たずねる。
「あたしは、サン・グラス、似合わないから……」
小萩は、笑いながら答えた。そして、ふと、自分でもその理由が理由にならぬことをおかしく思い、
「それや、眼のためにはいゝにちがいないけれど、あたしはとにかく、一生眼がねはかけないつて決心をしてるの。あなたなんかとちがつて、あたしが眼がねかけたら、とても気障になると思うわ」
「迷信よ、おばさま……そんなの、ふるいわ」
島内京子は、容赦なく、つつこんだ。
「ほんと、ふるいつたらないのよ、あたしは……。眼がねにかぎらず、いろんな、そういう先入見が、頭へしみこんで、なかなかぬけきれないの。子供の時分からそれ式にしこまれてしまつたんだわ」
「あら、おばさま、あたしは、眼がねのことだけをいつてるのよ。おばさまは、そのほかのこと、ちつともふるくなんかおありにならないわ。療養所の、女のひとのうちで、一番、進歩的じやないの」
「進歩的はおそれいるけど、まあ、せいぜい、自分で気のつく範囲では、旧套を脱しようとつとめてるのよ。これでも、たいへんな革命なの、あたしとしちや……」
こんな会話が、きびしく澄みきつた空気のなかを、アルトとソプラノの歌声のように流れた。
「革命」という言葉を口にした時、彼女が、ひとりでに力をこめているのに相手もつられたのか、島内京子は、すこしはずんだ調子で、
「まあ、すてき……。やつぱり、おばさまは勇気がおありになるんだわ。あたしも、うちで、いけないつて教えられたことで、どうしてもなぜだかわからないことがあるの。それが、みんな、女だからいけない、でしよう? そういうの、どうお思いになる、おばさま?」
「さあ、それだけじやわからないけど、例えばどういうこと? 言つてごらんなさい」
「だから、それがどういうことだかも、うまく言えないのよ。なんだかわからないけど、ちよつとしたところで、もういけないんだわ。うちの父も母も、それでも、みんなから、ハイカラだつて言われてる方なのよ。それなのに、あたしのことになると、すぐに、そんなことするもんじやない、そんなこと言うもんじやない、そんなこと考えるもんじやない……どうすればいゝんだか、しまいにわからなくなるの」
「へえ、それにしちや、あなたは、ちつともいじけてなんかいないわ。ちやんと、なにもかもわかつてるじやないの。お父さまやお母さまは、きつと、あなたを上手に教育なすつたんだわ」
「いやなおばさま……それじや、まるで、あたしが自慢したみたいじやないの」
と、島内京子は、うらめしそうに、言つた。
小萩は、もう、息切れがしはじめたので、すこし、立ちどまつて、休もうと提案した。
はるか眼の下に、小諸の町がみえる。こんもりと茂つた森のあたりが、例の城跡の公園であろう。深い山ひだをぬつて、佐久の平野を南へ貫いている千曲川の流れが、青空の光を吸つて、霧のなかに消えている。
汽笛がかすかに響く。玩具のような上り列車が、いま小諸の駅へすべり込んだ。小萩の心は、いらだたしく東京へ飛び、急にはどこと方角もつかぬ都の街々をさ迷つた。彼女は、今夜にでも、あの汽車で東京へ行つてしまおうかと思つた。
と、ちようどその時、療養所の方から、松林の中を、このへんで見なれぬ恰好の男が一人、ふらふらこつちへ歩いて来るのがみえ、近づくにつれて、それが、まさしく京野等志だということがわかると、小萩は、カッと胸の熱くなるような思いで、伸びあがるように、われを忘れて、手を高く振つてみせた。
「どうなすつたの……」
と、彼女は、まだ表情もかえぬ相手に叫びかけた。が、その声は、たゞ、あたりの静けさを破つて、遠いこだまとなるばかりであつた。
「どうして、わざわざ出てらしつたの?」
彼女は、こんどは、もどかしそうに、走り寄つた。
「出て来る方が早いと思つたからです。もう、そんなにいゝんですか?」
うしろに黙つて立つている少女にも気をくばりながら、京野等志は、見ちがえるほど生きいきとした小萩の顔を珍しそうに打ち眺めた。もちろん、彼は、病床に横たわつていた小萩の、あの言いようもないやつれ方と、今の様子とを比較しているのではない。むしろ、彼女をはじめて松本在の嫁ぎ先、長久保家へたずねて行つた時の印象にくらべて、まだ療養所の生活をつゞけている今日の彼女の方が、ずつと明るく、生気があふれているといつてもよいほどの、溌剌としたところがあるのに驚いているのである。
「すこしくらいの坂道なら、もう平気よ。ずいぶんお探しになつた?」
「今、散歩に出てるつていうもんだから、じつと帰るのを待つてるより、こつちも散歩かたがた、あとを追つかけてみようと思つたんです」
「この雪の山道を……? 途中でいやにおなりになつたでしよう?」
「もうすこしで……」
「よかつたわ。あ、このお嬢さんはね、おんなじお部屋の方、島内京子さん……あたしの一番の仲よしよ。こちら、京野等志さん、いつかお話したわね、あたしの娘時代のお友達……」
小萩は、二人を紹介しておいて、すぐに、また、京野等志に向い、
「いろいろお話したいことがあるの。療養所でもいゝけど、あなたさえおさしつかえなかつたら、小諸のどこか、ゆつくりした場所で、しばらくお話したいわ。療養所へは、そう断つとけばいゝのよ」
と、切り出した。
「僕も、そのつもりでいるんですが、今からすぐでもいゝですか。車は待たしてあるんです」
で、一旦、療養所へ帰ると、小萩は、すぐに手続きをすませ、支度をとゝのえて、待つている車に乗つた。
こうして、京野等志と並んで自動車へ乗ることなど、そもそも、今までには一度もなかつたことである。おまけに、その車は、揺れほうだいに揺れ、二人の肩と肩とは、もみ合えるだけもみあつた。彼女のまだ不安定なからだが、自然に、彼の腕のなかで支えられることになつても、それは、いたしかたがない。そういう運命に、たゞ、逆らう意志のないことが、二人を共通の幸福感にひたらせたにすぎないのである。
「車がバカバカしく揺れるつてことが、こんなに苦にならないものだ、とは、今までつい知らなかつた」
と、京野等志は、真顔で、告白してみせると、
「このまゝ、谷底へ落つこつてもいゝわ」
と、小萩が、もう、夢みるように囁く。
思えば、三十分にあまる天下最悪の道は、相寄る二つの生命に、かけがえのない祝福を与えた結果になつた。
物事はつねに順序をたてゝ運ぶものではない。と、思うのは実は誤りで、物事の運ぶのには、ちやんと順序が立つているのである。たゞ、ひとつの事実は、そこにいたる経路を表面にはつきりみせないことがあるというだけの話である。
京野等志は、あらかじめ座敷を約束しておいた懐古園のなかにある古めかしい旅館へ、小萩を案内し、まだ夕食には早い午後のいつ時を、コタツに向い合つて、それこそ、久々で打ちとけた話をした。それが、まるで、振り出しへ戻るというあんばいで、一応は、「さて」とあらたまらずにはいられなかつたが、お互いの眼が、もうすべてを語りつくしていたから、残された問題は、なぜ、小萩が、急に態度をかえて、彼のふところへ飛び込んで来る決心をしたか、といういきさつがわかればいゝのである。
「それもまあ、僕としては強いてきく必要もないんだけれど、現在、長久保さんとは、いつたい、どうなつてるんです? まさか、喧嘩別れをしたわけでもないでしよう?」
と、彼は、彼女のまだ冷たい指先を、自分の手の平の間にはさんで、たずねる。
「喧嘩別れともいえないわ」
「僕はまた、長久保さんが急に死にでもしたのかと思つたくらいだ。じや、生きてることは生きているの?」
「ぴんぴん……。でも、ちやんと話合いはつけたの」
「すると、双方合意の上の離婚ですか?」
「まあ、そうね。言い出したのはあたし、賛成したのは向うなんだから……」
「あ、そう、あべこべじやないんだな」
「あべこべでもおんなじよ。こつちも、向うがそれを切り出すのを待つてたんだから……。待ちきれなくなつただけ……」
「あなたは、どういう風に切り出したの……」
「この暮に、あのひとが二度目に療養所へ来たとき、また親戚がどうの、近所がどうのつて言いだしたから、あたし、思いきつて、別れ話を持ちだしてみたの。できるだけ穏やかな言葉で、こういう病気の女は、主婦としても、妻としても、まつたく無資格なんだから、潔よく身をひくべきだと思うつて、言つてやつたの。子供のためにも、結局、今のうちに、早く新しい母親をみつけてやつた方が、仕合せなんじやないか、とも、言つたわ。自分のことはどうでもいゝ。長久保家のために、すべてを忍ぶつもりだ、なんて、神妙なことを言つてしまつたの。すると、長久保は、はじめ、とんでもないつていうような顔はしたけど、そのあとで一生懸命、しよげきつたような顔をして、――お前がそこまでのことを考えてくれるのは、ほんとにわしを愛してくれるからだと思う。それに対して、わしは、夫として取るべき二つの態度のうち、やはり、お前と同様に勇気のいる、困難な方を選ぶのが、お前に対するほんとの愛情だと思う。お前を、そのからだのまゝ、長久保家から去らせるわしの苦痛は、察してもらいたい。しかし、一方、お前もまた、このまゝ、わしどもの世話になつているという心の負担を取除くことができるわけだ。東京の実家でも、ひとりになつたお前を見捨てゝおくようなことはあるまい。こんどこそ、誰にも気兼なく、安心して養生するがいゝ。そう言つて、あと一ヵ月分の費用をおいて行つたわ」
ひとごとのように、小萩はしやべつて、やゝ手荒く、今朝思うようにならなかつた髪の毛のふくらみを、鏡を出して、またおさえたり、盛りあがらせたりした。
「そういう話をきいてると、僕にはわからなくなるんだが、一種の完全な誤解が生んだ、申し分のない理解が成立したわけなんですね」
と、京野等志は、皮肉とも皮肉ともつかぬことを言つて、小萩の唇にうかぶかすかな微笑を読みとろうとした。
が、彼女は、いきなり、彼の方にいぶかしげな視線を投げながら、
「あら、誤解なんて、ちつともないわ。たゞ、いくらか、お互いに芝居をしただけよ。その方がどつちも傷つかないと思つたからだわ。長久保だつて、案外、話せるのよ」
と、小萩は、こんどは、眼いつぱいに、いたずらつ子のような笑いをふくんで言つた。
「そうかな。僕は、そういう芝居はきらいだなあ。はつきりさせることは、はつきりさせたらいゝじやないか。先生は、僕のこと、なんか言つてた?」
「それが、あなたのことなんぞ、おくびにも出さないの。いつか療養所へいらしつた時、ちらつと暗い顔をしてみせたきりよ。それも、あたし、感心してるの」
「感心ばかりしてるんだなあ、旦那さんのことを………」
と、京野等志は、わざとぶつきらぼうに、言い放つた。と、小萩は、落ちつきはらつて、
「だつて、あたしが自由になるか、ならないかは、長久保の出かたひとつなんですもの。いよいよ、話を切りだすまで、それこそ、いろんなことが心配になつたわ。こつちの気持をみすかされたら、もうおしまいだと思つたくらいよ」
「見すかされるつて、なにを?」
と、京野等志は、こゝで、小萩の本心を聞いておきたかつた。
「それは、いま、言えないわ、あなたの前で……。あたしの果敢ない夢みたいなもの……現実の問題じやない……。たゞ、あのひとの束縛から自由になりたい気持……なにもかも、うるさい世間も、きゆうくつな習慣も、払いのけたい気持……そんなわがまゝな気持を、直接あのひとにぶつけてみたつて、どうにもならないと思つたの。なぜだつてきかれたら、返事はできないんですもの」
「じや、僕からきゝますが、あなたは、なぜ、あなたの夢を、現実の問題じやないつて言い張るんです? 僕への手紙にも、なぜ、あんな、生ぬるいことしか書かないんです? どうして、なんの希望もない、とか、僕に会つて、過ぎし日の思い出を語ろうなんて、つまらないことしか書かないんです? どうして、もうひといきという勇気を出さないんです? あなたは、その元気じやないか! いつたい、どこがわるいんだ。あなたは、精神まで結核に侵されてるんですか? 僕は、いま、ここに、あなたのそばにいるんですよ。どうしろ、と言つてください。あなたの、その、逃げ支度みたいな、うさんな影が、僕には目ざわりなんだ」
京野等志は、そう言つて、コタツ越しに、小萩の手をとつて、ぐいと引き寄せた。
なんの抵抗もなく、彼女の上体が前にのめり出た。その瞬間、二人の唇が、合うべきものが合うように、静かに、ぴたりと合つた。それは、激しく高ぶつた感情のあらわれとはみえなかつたが、解放の自覚と、安堵の堰から流れ出る、おのずからな酔い心地であつた。
やがて、顔をコタツ蒲団の上に伏せると、彼女は低く呟いた。
「うれしいの、あたし……。だけど、もう、いけないわ。あたしは病気なのよ」
「病気にさわるかしら……これつぱかりのこと………」
と、京野等志は、それでも、ハッとわれにかえつた。
「いいえ、あなたまでわるくしてしまつてはいけないから……。あたしひとりでたくさんですもの」
小萩は、それを言わずにはいられないという風であつた。
「大丈夫ですよ。僕は、そんな病気、ちつともこわくはない。うつらないものには、うつらないんですよ」
と、根拠のない反対をしてみる。
「そういう保証を誰にしておもらいになつた? ご自分で、そんなことおつしやつてもダメよ」
と、彼女は相手にしない。
「まあ、いゝでしよう。すべて自然の成行にまかせましよう。あなたのからだは、僕がこれからいゝようにしますよ。殺したつて、活かしたつて、勝手でしよう? あなたは、たゞ、今までより幸福であればいゝんでしよう。すべてを僕におまかせなさい。健康は、それや大事さ。しかし、人間が、肉体の健康以外、なにものも持つていないという淋しさを想像してごらんなさい」
京野等志は、それを、やゝむきになつて言つた。
「そういう想像は、あたし、してみたことないけど、やつぱり、からださえ丈夫ならつて、いくど考えたかわからないわ」
「欲ばつちやいけない。あなたの肺臓に、病菌がどれほどうようよしていても、僕は、そのあなたが、世の中で一番好きなんだ。どら、僕の顔を、そうしてじつと見ていてごらんなさい。あなたの眼は、もう希望に輝いている。みていたまえ。明日から、めきめきとよくなるから……。医者がびつくりするから……。この三月には、用意万端をとゝのえて、僕が迎いに来よう」
「あたし、もう、病院生活は、あきあきしたの。どこか山奥へでも引つ込んで、ひとりで自炊をしながら、誰の邪魔にもならないようにして暮せたらと思うわ」
彼女は、なぜか、それを言うのに、涙ぐんでいるのが、京野等志には、せつなく、不憫に思われた。
「ふむ、それも一案だが、そんな生活に堪えられるかなあ、あなたが……」
「どんな生活だつて、今までの生活よりは堪えられてよ。娘時代の生活も、やりきれないほどつまらなかつたし……それから後は、お察しのとおりだわ。あたしをもし、一日でも長く生かしておきたいとお思いになつたら、後生だから、医者も薬も、なんにもいらない、たゞ、あなたのことだけ考えて、その日を送れるようなところへ、やつてちようだい。あなたのお声をたまに聞いてさえいれば、人の言葉なんぞひとつも聞きたくない……」
そう言つて、彼女は、またつつぷしたと思うと、ダヽをこねるように、肩を左右に大きくゆすつた。
「それは、まあ、誇張があるとしても、僕には、だいたい、あなたの今の気持はわかつた。できるか、できないか、まあ、やつてみよう。しかし、僕のお願いは、あなたがやつぱり早く健康をとりもどして、僕と一緒に東京で家を持つてもらうことだ。それでなけれや、二人は食つて行けないもの」
この現実の壁の前で、小萩はようやく、分別をつけたように、やさしく、彼の手を撫でながら言つた。
「ねえ、あたしは、ほんとに、困つた女でしよう? これで、自分だけのことを考えてるつもりじやないのよ。それが、つい、今までの反動で、言えることは、みんな言つてしまいたくなるの。でも、言うだけなら、いゝでしよう? あなたが、それを、いちいち本気におとりになるなら、あたしもうちつと、考えてものを言うわ。ふつと頭に浮んだことを、すぐに口に出すと、あゝなるのよ。ほんとに、それも、つい、最近よ、そういう傾向があるのは……」
「いやにまた、神妙に自己反省をはじめたもんだなあ。いゝよ、かまわないよ。うんと、難題を出したまえ。その方が張合いができて、いゝくらいだ。空気のいゝ、景色もわるくない、どこか山国の、静かな村か町かで、百姓家かお寺の離れでも借りてさ、のん気に、一年か二年、ひとり暮しをするなら、そんな費用はなんでもないさ。たゞ、僕が始終そばについていて、面倒をみてあげられないのが難点だ、というんだよ。それだけさ、問題は……」
「そうよ、それだけよ、問題は……。でも、やつぱり、それでも、療養所にいるよりは、ましだわ、どこからみても……」
「お医者がどういうかは別としてね」
「あなただつて、その方が、あたしのところへいらつしやり甲斐があつてよ。すこしは、サーヴィスだつて、あたしの思うように、できるしさ。お好きなものぐらい、どうにか、作つてあげられそうだわ」
「僕は、野菜があればなんにもいらないんだ」
「もつて来いじやないの、お百姓の畑から、とりたてのお野菜を、いつだつて貰つて来れるわ」
「戦争中と違つてね」
「まつたく……。おトウナス一つをおろしたての博多帯一本で買わされるなんて、どうかしてたわ」
話がますます散文的になるのは、もう、二人の間に、月並な世帯という観念が侵入してしまつたからであろう。
そこへ、夕食の膳が運ばれた。
その夜、二人は、なんのこだわりもなく、二つ並べた床へ、それぞれ、もぐり込んだ。小萩は、外泊の許可を得て来たというので、京野等志はちよつと面くらつたが、それも、堂々としていて、変に思わせぶりをするよりも、却つて、頼もしいように考えられた。
「明り、消してもよろしい?」
「あゝ、どうぞ……」
しかし、外の雪明りが、まだ、ところどころ雨戸の隙間から漏れて、ほんのりとすゝけた障子に映つていた。
「疲れた?」
京野等志は、しばらく、眼をつぶつていたが、気になつて、そうたずねた。
「いゝえ……」
かすかな、絶えいるような返事であつた。
「こんな風にして、眠れる自信ある、あなたは?」
と、彼は、更に、声をかけた。
すぐに、答えはなかつたが、しばらくたつて、
「まだ、いくらでもお話が残つてるみたい……それを、自分ひとりで、あゝ言つたり、こう言つたりしてみているの……。あなたのお返事をむろん想像してよ。あなたは、そうすると、ほんとに、いゝことばかり言つてくださるわ」
「すると、その僕は、この僕よりも、大いに歓迎されてるわけですね。嫉妬を感じる権利がありそうだな」
「あなたには、そんなものは、おありにならないはずよ」
「え? 僕に嫉妬がない? よろしい、ないとしておきましよう。すくなくとも、それがあるという証拠をみせるのは、まだ早いと思うから……」
「そんなこと言つてるんじやないわ。あたしが、かりにも、あなた以外の男を夫と呼んだ事実を、黙つておゆるしになるの?」
それを聞いて、京野等志は、ぐつと胸をつかれたように、息を呑んだ。
「あなたが、わざとその事に触れないようにしていらつしやるのが、あたしにはわかるの。それがどんなに辛いか、おわかりにならない?」
小萩の声は、聞きとれないくらいに、低くなつて行く。
「そんなことが、言葉で通じるもんか。理屈が通つてれや、それでいゝのさ。僕は、はつきり言うが、そんなことは、なんとも思つてやしない。むろん、君を責めたり、恨んだりする筋合のもんじやない。長久保それがしという男なんぞ、僕は、君の夫だなんて思つてやしなかつたくらいさ。いや、これも、失言にちかい誇張だが、ほんとに、君というひとは、そんな関係からは、まつたく独立した永遠の僕の偶像さ。仏さんの前で坊主がなにをしたつて、それで仏さんのねうちが減るもんじやないからね」
「そういうたとえを、いくら上手におつしやつたつて、あたしの胸に、ぴんと来ないから、いや……。あたしは、たかだか女よ。生身の女よ。一度失つたものは、もう取り返すことのできない、あわれな女よ」
「そんなことを、あわれがるほど、僕はおめでたくないよ。なんだい、その、一度失つたものつていうのは……? まあ、それも、僕へのいたわりのつもりなら、黙つて聞いておくけど、そういう感傷は、僕たち二人の間には、用はないものとしておこうよ。僕はたゞ、君の善意、情熱、それから、女らしい欲望、それだけでたくさんだ。あとは、たゞ、露骨に言えば、君の、その、ふつくらとした……。よそう、あぶないから……」
しばらく、沈黙がつゞいた。彼女の、軽い溜息が一度、二度、彼の耳に伝わつて来た。すると、いきなり、思いがけなく、はにかみを含んだ声で、
「ねえ、ちよつとだけ、こゝへいらしつていゝわ。おとなしくなさる約束でよ……」
おとなしくしていないのは、結局、彼女の方であつた。
京野等志は、いつか、深い眠りにおちこんでいたが、小萩は、瞼がさえかえつて、夜の明け方まで、まんじりともしなかつた。
それでも、二人は、八時に床をはなれて、なにか、しんと静まり返つた気分で、朝食をとり、小一時間、公園のあちこちをうろついた。檻の小熊や、猿のむれに笑い興じ、藤村の詩碑の前にたゝずみ、千曲川の急流にのぞんだ崖の上で、小萩は、思い出したように、浅間の爆発について、その時の詳しい話をしてきかせた。
「からだがぐつと宙に押しあげられたと思つたら、部屋じゆうの窓はおゝかた外れて、窓ガラスがメチャメチャにわれたのよ。それと、ほとんどいつしよに、爆弾の落ちたような音がして、部屋じゆうが、いつまでもゆれてるの。電燈のカサは落ちる。テーブルの上に立て、あつた薬瓶は倒れる。そのうちに、屋根へバラバラ石のあたる音がするでしよう。もう、その時はおしまいだと思つたわ。だつて、あんな爆発はじめてなんですもの。やつと、浅間だとわかつて、みんな、外へ飛び出してみたの。明け方でしよう、最初の時は。白んだ空に、あの山の輪郭がくつきりと浮んでみえたとたん、頂上から噴きあげた煙が、古綿を丸めたようなかつこうで、末ひろがりにひろがりながら、頭の上へかぶさつて来てるの。それや、気味がわるいつたらないのよ。実際にみたものでないと、あん時のすさまじい感じはわからないわ」
「なるほど、それやわからんでしよう。僕だつて、新聞は読んでるけれど、まるで見当はつかないもの。あなたのところなんぞ、まつたく関係はないと思つてた。しかし、まあ、危険つていう点じや、別にどうつてこともないんじやないの、浅間のちよつとした噴火ぐらい……」
「いつでも、ちよつとした噴火ですめばいゝけどさ。天明の大爆発みたいなことがないとも限らないわ。鬼押出し、まだ、ご存じない?」
「知らない。天明とは、よく歴史をしらべたもんだな」
「みんなが言うから知つてるのよ」
火山の近い地方では、火山の話題が一種のお国自慢みたいなものであることは、彼も知らぬわけではなかつた。たゞ、小萩が、いつの間にか、それにかぶれていて、不似合な知識をふりまわすのが、なんとしてもおかしかつた。
二人は、それから、小諸の町へ出て、信州ソバを食おうということになつた。
公園の昔の城門をそのまゝの、懐古園と書いた扁額を仰ぎながら、京野等志は、ちよつと照れながら、嘯いた――
「ねえ小萩さん、こうして、こんなところを並んで歩いてると、まるで、新婚旅行だね」
彼女の方は、却つて、すました顔で、
「それにちがいないから、それでいゝじやないの」
「それでいゝのか、なるほど。わるいといつてみてもはじまるまい」
ひとり言のように、京野等志は、言つた。
宿命のような重荷が、もう、彼の肩にのしかゝつて来ているのを、ぼんやりとではあるが、感じていたのである。
[#改ページ]
翌日は、朝から雪が降りだした。山国特有の密度の濃い粉雪が、みるみるうちにあたりの風景を一変させた。
「今日は外へは出られないな、これじや……」
と、朝の膳に向いながら、京野等志は、まだ鏡台をはなれない小萩の方へ声をかけた。
「ちようどいゝわ、出られなくなつて……。そんなにお急ぎになるの?」
鏡をのぞきこむようなかたちで、小萩は、ちらと彼の方を見で笑つた。
「こゝで冬越しをするわけにもいかんでしよう」
と、彼は、張り合うように言つた。
コタツ板の上に、向い合つておかれた膳を、彼女はわざとわきにずらして、彼の右横へ視線を外すように坐つた。
「顔みられるの恥かしいから……」
そう言いながら、肩さきを彼の方に近づけて、顔をそむけるように伏せた。それは一種の媚態にはちがいなかつたが、露ほどもわざとらしいところはなく、彼が、
「さあ、そんなこと言つてないで、早く飯にしよう」
と、せきたてるのを、軽く「はい」と受けて顔をあげ、箸をとつた。
「おつゆ、冷めちやつたわ。あつたかいのと替えてもらいましようか」
「宿屋で、そんな贅沢言えるのかい?」
「かまうもんですか、ちよつとそう言うわ」
彼女は、つと起ちあがつて、呼鈴を押した。
運よく、望みどおりの熱い味噌汁が運ばれて来た。
京野等志は、こういう小萩の一面を、もの珍しく、また、いくぶん、たのもしく打ち眺めていた。
食事が終つて、膳が引かれたあと、二人はそのまゝじつとしていた。さしあたり、何もすることのないからだをもてあますように、それぞれ、腰をおちつけているにすぎなかつたけれども、京野等志は、運命の予測しがたい結果を前にして、たゞ、夢のような幸福感に酔う一方、まだなにか、自分自身を信じることができないような、漠とした不安に耳をすまさないわけにいかなかつた。
二人で話す時間は十分にあつた。そして、二人の間には、解決すべき問題が残されていた。
彼は小萩の細つそりとした肩に手をかけて言つた。
「ねえ、ちやんと相談すべきことは相談しておこうよ。君はもう、退院してもいゝんだろう?」
すると、小萩は、いつ時、黙つて、宙をみつめていた。が、やがて、
「えゝ、退院しようと思えばできるわ。でも、退院して、どうするの?」
「僕と一緒に家を持つのさ」
「こんなからだで、家のことなんかできないわ。あなたの足手まといになるだけだわ」
「そんなこと、かまわないよ。君は病気の養生をすればいゝし、僕は、自分でなんでもするよ」
「ダメよ、そういうことは……。しまいに、あなたがお疲れになるわ。あたしがおそばにいることがなんにもならないばかりでなく、いつかあなたを不幸にするにきまつてるわ」
「そうきめてしまうのは、どうかと思うね。もつと、希望をもとうよ、希望を……。君が健康を取り戻せば、それでいゝんだろう。僕は、そのために、なんでもするつもりだ。君の病気は僕の力でなおしてみせる。それは、医者がなんと言おうと、僕の信念みたいなものだ。僕は、それだけで、勇気がいくらでも出るような気がするよ。君だつて、僕の熱心な看護に対して、是非とも早くなおろうと思うようになるだろう」
「そういう風におつしやると、あたしは、もうどうしていゝかわからないわ。はつきり言えば、あなたは、まだ、なんにもご存じないからなの。あたしの病気は、もう、ほんとに、なおらないのよ。こうして、歩けるようになつたこと、まつたく、お医者さまも、不思議だつておつしやるの。自分でも、それはよくわかるわ。なまじつかな希望は、今のあたしには、苦しみの種だつていうことが、あなたにもわかつていたゞきたいわ。でも、あたしは、現に生きているんです。遠い先々の希望はないにしても、決して、暗い絶望のとりこにはなつていません。あなたと、こうしてお会いできたからですわ。まだ生きていて、よかつたと思うわ。でも、欲張らないの。一度、あなたのお顔をみて、言いたいだけのことを言つて、おしまいにするつもりだつたのに……あたしたちは、とうとう、こゝまで来てしまつたのよ。もう、いや……。もう、あたしは、なんとしても、こゝで踏み止まらなくつちや……。あなたを、これ以上、あたしのそばに引きとめておいては、いけないわ……」
彼女は、そう言いながら、袂で涙をふいた。
「そんなこと聴いたつて、僕がこのまゝ帰ると思いますか」
と、京野等志は、彼女のからだを引きよせるようにして言つた。
「だいいち、あなたは、自分でなにを言つてるかわからないんだ。病気がそんなにわるいという医者が、あなたの歩けるようになつたのをみて、不思議だなんていう法がありますか。その医者は、なにを知り、何を予言できるというのです? あなたの生命力は、彼の判断をこえているということじやありませんか。僕には、あなたが必要なんだ」
彼は、無我夢中で叫んだけれども、小萩は、もう、冷静をとりもどしたように、キッパリと言つた。
「ちよつと、よくお聞きになつて……。あたしは、自分の命が大事じやないつて言つてるんじやないのよ。たゞ、どう考えてみても、この先、もう長くは生きられないことだけはたしかなの。それは、どうしようもない、自分だけの予感なの。こうしていて、あしたはもう、起きられなくなるかもしれないわ。熱が出て、胸が苦しくなつたら、もう、寝ているよりほか、しかたがない。それは、たゞ、死んでいないというだけで、生きていることがむしろ苦しい、一番残酷な状態なのよ。これまでそういう状態を二度も三度も繰り返して来たの。あなたにいつかお会いできるつていう希望がなかつたら、あたしは、その苦しみに堪えられなかつたと思うわ。もう、これでいゝの。なにもかもおしまいよ。あなたのために、これ以上、あたしが重荷になることは、どうしてもできない。あたしは、今日限り、この世にいないものと思つてちようだい」
彼女の声は、だんだん、沈痛な響きを帯び、最後の一句は、喉をつまらせながらやつと言つた。
「バカ言うのはよしたまえ」
と、京野等志はこの囈言のように喋りつゞける彼女をさえぎつた。
「なにをくだらないことを言うんだ。君は好きこのんで、二人のやつとこさかち得た幸福を台なしにする気かい? 君はこの僕を卑怯なエゴイストだと思うのか? 君は、僕の愛を信じないのか? 黙つて、君のすべてを僕の手にゆだねることが、どうしてできないんだ。誰がなんと言つたつて、君はもう、僕のものじやないか。余計なことは考えなくつたつていゝ。たゞ、僕たちの幸福のために、生きること、丈夫になることを考えてくれたまえ。僕は、なんべんも言うように、君をきつと、健康なからだにしてみせる。そのために、いつたい、これからどうすればいゝか、それをまず、相談しよう」
小萩は、眼をつぶつて、肩で呼吸をしていた。そして、時々、軽い咳を続けさまにした。
「苦しいんじやない?」
「大丈夫……」
と、低い声で答え、片手を彼の膝にのせて、ぐつたりと倚りかゝつて来た。
「すこし、喋りすぎたかな。もう、これで話はすんだ。しばらく横にならなくつてもいゝ?」
「うゝん、こうしてればいゝの。なんだか、眼の前がすこしずつ明るくなつて来たわ。やつぱり、あなたは、そういう方なんだわ。あたしは、ほんというと、今まで、愛されるつていうことが、どんなことかわかつていなかつたんだわ」
「それはうかつなこつた。しかし、君が、僕をどういう風に愛していてくれるのか、僕にはよくわかつた。しかし、間違わないでくれたまえよ。愛の強さ、深さは、相手の愛を完全に享け容れるか、どうかにもよるんだぜ」
「えゝ、わかつたわ。あたしは、たゞ、あなたがお気の毒みたいな気がしたの。そのことだけを考えたの」
「それがいけないんだ。その結果は、二人がつまらない議論をしただけじやないか。参考にきいておきたいんだが、笑い話になるから言つてごらん。今日二人が、これつきり別れたとするよ、君の提案どおり……。それからあと、君はどうするつもりだ?」
「とにかく療養所へ帰つて、ひと晩、ゆつくり、あなたとお会いしたことをもう一度想い出してみるの。生涯にたつた一度の幸福を、もしできたら、夢のなかで、もう一度味つてみるつもりだつたの」
「僕と一緒にいられるだけいようと、どうして思わないの?」
「だつて、そんなことしたら、いよいよ、別れられなくなりそうなんですもの」
「それじや、一旦、療養所に帰つて、夢でもなんでもみるとしてさ、それから先は、どうするの? 病気がだんだんよくなつたら? それとも、ほかの事情で、療養所を出なけれやならなくなつたら? 君はいつたい、どこへ行くの?」
「もう、そんなことはおきゝにならないで……。それこそ、過ぎ去つたことじやないの」
小萩は、あれほどまぢかに迫つていた死の幻影を追い払うように、低く呟いた。京野等志は、彼女のうつろな視線のなかに、すべてを読みとつた。彼は、しずかに、彼女の手をとつて言つた。
「僕の手からあなたはもう脱け出してはいけない。あなたをすべての不安と危険とから守るのは、僕の役目だ。万事、僕にお委せなさい。あなたのためにとは言わない。僕たち二人のために、一番便利な、いゝ方法で、将来の幸福の土台を作ろうよ」
彼は、自分の言葉のいつにない感傷的な調子に気がついていた。しかし、こういう言葉でなければ、自分の今の気持ちは言いあらわせない。それは一切の打算をはなれた感情の流露だという意味で、それはそれなりに真実にちかい言葉であつた。
小萩は、彼の胸に顔を埋めて、たゞ、子供のようにうなずいていた。
雪は、昼ちかくなつても、まだ、降りつゞけていた。
二日二晩は、なんということなしに過ぎた。
京野等志は、小萩を促がして一旦療養所へ戻り、係りの医者の意見をたゞして、今後の方針をきめることにした。顔見知りの若い医者は、二人を前において詳しい容態を話してきかせ、なるべくならこのまゝ療養所にいた方が安全だといい、今が一番大切な時機だから、生活を変えることは考えものだと、強く主張した。
小萩はもう長い病院生活に倦いているらしかつたけれども、京野等志は、今すぐ彼女を東京へ連れて帰るわけにもゆかぬ事情を説き、療養所に代る適当な住いがみつかるまでという条件で、しばらく辛抱させることにした。
「なんかうまい方法がきつとあると思うんだ。静かな、空気のいゝところで、花でも作つて暮すのはどうだい? 君を中心に、いろんな空想が浮んで来るよ。ともかく、僕は、東京の家族の始末をつけて、君と二人きりの生活ができるように、今からその準備にとりかゝるからね」
別れしなに、彼は、小萩の淋しそうに打ち沈んだ様子をみて、そう言つた。
「でも、あんまりご無理なさらないでね。このつぎは、いつ来てくださるの?」
「さあ、いつときめてもいゝが、来たくなつたら、いつでも飛んで来るよ。さしあたり、なにか欲しいものはない? あつたら、すぐに送るよ」
小萩は、別に欲しいものはないといい、やつと踏み固めた雪の上を、門の外まで見送りに出て、いつまでも手をふつていた。
その晩、東京へ着くと、新しい引越し先の家では意外な出来事が彼を待つていた。
まず、階下の女主人が、不機嫌な眼つきで彼の挨拶にこたえたことからはじまり、二階へあがると、父の憲之は、もう床を敷いて寝てしまつたのはいゝとして、母の弓が、問題の赤ん坊を膝に抱いて、なにやら独り言をいつているのである。
「たゞいまあ」
と声をかけた彼の方へ、母は、疲れきつたような視線を投げ、
「困つたことになつたよ、兄さん……」
と、言つた。
「その赤ん坊、どうしたんです?」
彼は、約束が違うと思つたのである。
「どうしたも、こうしたも、あんた、昨夜おそく、あの女がやつて来てさ、無理矢理に押しつけて行つたんだよ。いつまで待つてもらちが明かないからつていうんだけど、もう、こつちの言うことなんぞ、聴こうとしないんだから……」
「多津は?」
「きよう一日、あんたの帰りを待つてたんだけど、夕方から、ちよつと出掛けるつて出たつきり、まだ戻つて来ないんだよ」
「真喜は?」
「あの子が始末にいけないのさ。ゆうべもお父さんをガミガミどなりつけて、今朝になると、もう学校へ行くのはやめるなんて言いだすんだもの」
「お母さんもずいぶん苦労をさせられますね。しかし、その赤ん坊以外は、みんな自分で自分のことは考えるんですから、ひとりで心配するのはおよしなさい」
と、京野等志は、母の面やつれした顔をみながら、励ますように言つた。すると、母は、急に声をひそめて、
「ところで、兄さん、下の奥さんがね、今朝からおつしやるんだよ――赤ちやんがおありになることは伺つておりませんでしたがつて……。詳しい事情を話すわけにいかず、あたしは、とにかく、親戚の子供をちよつと預ることになりましてつて、いゝ加減にごまかしといたけれど、とにかくお約束が違いますから、なんとかしていたゞかなければつて、それや、強硬なんだよ。どうしたものだろうね」
「それやいゝですよ。僕からなんとか話してみましよう。どうしてもいけなけれや、またほかを探せばいゝじやありませんか」
そんな話をしているところへ、ふらりと真喜が帰つて来た。
「兄さん、あたし学校やめて、自活しようと思うわ。今日、お友達に頼んで、もう、勤め口をきめて来たの」
「うん、それもよかろう。どんな勤め口だ?」
「銀座の化粧品店よ。交通費は別で、月に五千円ですつて……。お友達の借りてる部屋へ当分一緒においてもらうことにしたの」
母はなにか言いたそうに口を動かしかけたけれども、兄の顔色をみて、押し黙つた。
「ねえ、お母さん、元来こういうことは、みんなに相談して決めた方がいゝにきまつていますが、真喜は、それを待つていられなかつたんでしよう。現在の家の状態は、実際そうなんです。僕自身にも、真喜にどうしろという力はないんです。めいめいが働いて食つて行く以外に、京野一家が人並に生きられる道はないと思います」
彼がそう言い終るか終らぬうちに、
「京野一家なんぞどうなつたつていゝわ。あたしは、はつきり言うと、母さんだけは気の毒だと思うの。将来、もし母さんが一人つきりになつたら、あたし、母さんを養つてもいゝわ。それまでは、この家へは、絶対に寄りつかないわ」
と、真喜は、宣言した。
十二時が鳴つた。多津はとうとう、その晩は戻つて来なかつた。
京野等志は、小萩のことで頭がいつぱいのところへ、急にまた、一家の問題が手のつけようもなく眼の前に繰りひろげられ、しばらく唖然とするよりほかなかつた。床にははいつたものゝ、あれこれと思い悩むばかりで、なにひとつ、解決のいとぐちを見出すことはできず、冴えかえる瞼をじつと天井に向けて、夜の明けるのを待つた。
翌日、彼は、父と二人きりになつた時、父に向つて、すこし改まつた調子で言つた。
「お父さん、僕は京野家の長男として、自分が今、おかれている地位というものを考えるんですが、どうでしよう、いつたい、われわれ現在の家族が、こうして同じ屋根の下で生活する意味は、もうないんじやないでしようか。もちろん、自然崩壊の現象はとつくに始まつていますが、こゝは、ひとつ、お父さんから、はつきり、一家解体の声明をなすつたらどうかと思うんです。それで、まず、僕からお願いしたいことは、お父さんもまだ老いこまれる年じやないんですから、こゝでひとふん張りなすつて、なにか適当な仕事についていたゞくことです。もしそういうお気持があれば、僕からこれと思う人に話して、まあ隠居仕事とでもいうようなポストを探してもらいます。これだけは是非、僕たちのためにも考えてほしいんです」
父は、腕組みをしたまゝ、じつと耳を傾けていた。が、やがて、
「お前の言うことはよくわかる。誰に言われるまでもなく、わしもほんとは、こうしちやいられんのだ。第一、今まで、おめおめ生きているという法はないんだ。実際、ひと思いに自決するぐらいのことは、なんでもない。しかし、それも恥の上塗りだと思うと、つい、心が臆して、今日まで断行できなかつた。いや、お前にも、いろいろ心配をかけたが、なるほど、一家の解体という案は、つい思いつかなんだ。それでわしの父親としての責任が果せるかどうかは別として、お前たちの希望とあれば、やむを得まい。真喜の話は、ゆうべ寝床のなかで聴いていた。多津は、どうする気かな?」
と、言つて、眼のやり場に困つたように、掛軸ひとつかゝつていない床の方を振り返つた。
「多津も多津ですが、その前に、僕のことをいいます。僕は、近いうちに結婚するつもりです。相手は、七年前に知り合つた女で、一旦ほかへかたずいたのですが、病気になつて入院している間に、離婚することになつたんです。味岡小萩つていう名前を覚えておいでになりませんか?」
「覚えとる。わざわざ病身の女を貰つてどうするんだ」
「それはまあ、説明の限りじやありませんが、とにかく、女房を養うだけが僕には精いつぱいだと思いますから、予めそのことをお耳に入れておきます。あゝ、多津はどうするかですが、いずれ、なんとかするでしよう。みんな、けつこう、覚悟はできていますよ。たゞ、僕の場合、さしあたり、お父さんを楽な身分にしてあげられないのが残念です。ほんとに、それだけは申わけないと思つています」
その日のうちに、京野等志は、八方へ手を伸ばして、父の就職運動をした。かつて父と共に製粉会社を興し、今なおその社長の椅子にある陣内某をたずねて、失意のどん底にある旧友のために、ひと肌ぬいでくれと頼んでみたが、これは見事に当てが外れた。友人の南条己未男は、妹真喜との縁談を断られてから、つい足が遠のいていたのだけれども、京野等志がとつぜんその勤め先の会社へ訪ねて来たのをみて、なんのこだわりもなく、これを迎えた。そして、彼から、あらましの話をきくと、ちよつと小首をかしげ、例の人なつつこい眼を輝やかして、
「老人の就職つていうやつが一番厄介なんだ。しかし、持つて行きようでは、話に乗らんとは限らんからなあ。君みたいに贅沢さえ言わなきや、食つて行くぐらいのことは、なんかあるよ」
と、南条己未男は、わりに親身に、父のことを考えてくれそうな口ぶりであつた。
「それはそうと、真喜のやつ、とうとう、学校をやめて、自分で働くつて言いだしたんだ。銀座の化粧品店へ勤める話を、ひとりで決めて来やがつたよ」
京野等志は、ことさら妹のことに触れないのも不自然だと思い、ざつくばらんに、消息を伝えた。
「そうか。おれはたしかに振られたものと思つていたが、やつぱり、結婚は後まわしか。そんなら、まだ、諦めるのは早いな。しかし、なんだな、毎日、その店の前をぶらつくわけにもいかんじやろう」
と、彼は、快活に笑つた。
老人夫婦と赤ん坊のために、やつと手頃な部屋がみつかつたのは、父の就職口がきまるのと同時であつた。というのは、池袋に新しく建つたアパートの管理人はどうか、という話を、南条己未男が持つて来てくれたのである。そのアパートの玄関わきの二た部屋が、管理人とその家族のためにとつてあつた。父は、はじめ、その話をきくと、ちよつと意外なような、照れたような風であつたが、そのアパートの経営者が南条の親戚にあたる元伯爵の某だと知つて、急に、乗り気になり、殊に、最初の計画では、伯爵の家令が自分で管理を引受けるつもりでいたところ、主家に対する背任行為が暴露して、急に他から信用のおける人物を探すことになつたのだといういきさつを聞くに及んで、父は、おかしいほど南条に礼の言葉を繰返した。
さて、そういうわけで、父と母と、表面は貰い子ということにしてある赤ん坊とが、そのアパートに移つたあと、京野等志と、妹の多津とだけが、そのまゝ今までの二階に残るかたちになり、そうなると、たまには、外に出た真喜が遊びに来たり、兄の留守には、多津が風変りな友達を連れ込んだりするようになつた。その風変りな友達というのは、近頃、エロチックな小説を売り物にしている女流作家で、雲井秋生のところで紹介されて以来、親しい交際をするようになつたのである。
京野等志は、そういうことにかゝわりなく、家のことは一切妹の多津に委せきりで、毎週二回、鎌倉へ出かけ、そのほかは、たいがい、午前中から弁当持ちで上野の図書館へ通い、気の向くまゝに、新旧の書物を手あたり次第に読み漁つた。
それはなんのためかというと、彼のつもりでは、ふとなにかいゝことを思いつくためであつた。自分ひとりの頭で、あれこれと考えてみても、これから先の見透しもつかず、これならという生活の拠りどころも、しかとつかめないもどかしさに、彼は、腹をきめて、まず、眼界をひろげ、その視野のなかに、一点、光明を見出そうという計画をたてたのである。
彼の選択は、しかし、自然にある範囲に集中されて行つた。まず肺結核の治療に関する書物を片つぱしから読んでみた。医者の書いた専門的な研究から、素人患者の経験談に類するもの、さらに、相当の歴史をもつらしい結核患者相手の月刊雑誌に至るまで、ほとんど、あますところなく手にとつてみた。
彼は、そのつぎに、個人経営の各種農園の実態と、その経営の基礎となるような経済的、技術的な参考書を、ひと通り拾い読みをした。なかでも、彼の興味を最も強くひいたのは、養蜂事業であつた。養蜂に関する重要著書だけでも、二十幾種類かあつた。彼はその題名、出版元、著者名、発行年月を手帳に控えた。それから、彼は丸善へ行つて、欧米で発行されたこの種の書物をあらまし調べ、それだけでは満足せず、二、三の農科大学の研究室へ出掛けて行つて、直接、その道の専門家に質問を浴びせかけた。
ある教授は、彼の熱心さに打たれて、いわゆる養蜂家と称せられる著名な人物に彼を紹介しようと申し出たくらいである。彼はよろこんでその申し出をうけいれた。
彼の読書は、もともと気まぐれで、必ずしも系統立つたものではなく、また、一定の範囲を厳重に守るという性質のものではなかつた。時としては、探偵小説に飛びつき、時としては、文豪誰それの施行記で道草を喰うこともあつた。しかしながら、彼は一歩一歩、この図書館通いで、自分の道がひらかれて行くような気がした。
彼の関心が、ようやく蜜蜂からはなれて、バラの栽培に移ろうとした頃、毎週一度は手紙の往復を欠かさなかつた小萩から、やゝ恨みがましい文句をならべた便りが来た。
待つことに慣れて、山の春は、まだその気配さえもみせませんのを、べつだん、待ち遠しいとも思いませんけれど、あなたのお顔がこんなにも長く見られないということは、どうも不思議と申すよりほかございません。ご病気でもなすつていらつしやるんではありますまいか。蜜蜂の博士におなりになるのも結構ですわ。わたくしも、こゝの図書室からファーブルの昆虫記を借り出して読んでおりますから、助手ぐらいにはなれると思いますものゝ、求める花の遠すぎて、飛んでいけないあわれな蜂だけには、なりたくございません。
では、また、来週……多分、こんどはお手紙でなく、懐古園からお電話いたゞけることゝ、勝手に空想いたしております。
彼は、この手紙に、こんな返事を書いた。
もちろん、僕は、来週とは約束できないけれど、近いうちに一度、訪ねたいと思つている。あなたの顔もみたいし、医者からその後の経過も聞きたい。しかし、実のところ、それだけの費用で、あなたに栄養をとつてもらいたい。みゝつちいことを言うようだが、それは僕たちにとつて、現在、バカにできない問題なんだ。
だが、僕は常に合理主義者じやない。なにをおいても、あなたのそばへ行くという過失を犯す日が、きつと、そのうちに来ると思う。
たくさんたべて、よく眠りたまえ。
この手紙を出して二日たつと、彼は、遠矢幸造からもらつた通訳の臨時手当を懐ろに、大船から東海道線の急行へ乗り込んだ。岐阜で大きな養蜂園を経営している、その道で名の知れた猪狩芳介という人物を訪ねるためである。
小萩のところへ、突然、ビン詰めの蜂蜜が小包で届いた。差出人は、岐阜市外猪狩養蜂園とあるので、彼女は首をひねつた。が、結局、京野等志の計らいで、滋養品として見舞に送らせたにちがいないと思つた。
彼女は、まる二た月、彼に会わずにいるうちに、刻々、自分の生命がすり減つて行くような不安にかられはじめた。彼の手紙は、きまつて月曜か火曜に配達された。それは、いつでも力強い言葉に満ちたものであつたが、彼女にしてみれば、そういう言葉は、それだけとしては、もう、なんの慰めにも、励ましにもならない。しよせん、彼は、望むべからざることに望みをかけているにすぎないのである。
彼が想い描いているらしい二人の生活というのは、彼女自身が、既に諦めきつている、普通の結婚、世の常の夫婦生活ではないか。彼がどんなに理解に富み、深い愛情によつて彼女を病苦から救おうと決心していても、彼女は、もう再び、妻という名で呼ばれる、ある種の重荷を負いたくない、というのが、ひたすらなる願いであつた。
そのことをはつきり彼に伝える機会が、いつたい、いつ来るか。
なるほど、彼女のおそれ、忌み、そのことのために心を痛めている、妻という立場は、彼女の経験によつて感じとられた、いわば道徳的な存在にちがいない。健康に全く自信を失つた女が、たとえどんな条件がそろつているにせよ、夫たる男性と起居を共にするという苦痛を、彼女は痛切に感じたからである。愛情の度が深ければ深いほど、その苦痛は大きいということを、彼女は、京野等志の最初の愛撫の下で、早くもそれと察し、そして、警戒しはじめたのである。
互いにこれほど愛し合つている二人の男女の、それぞれに描く未来の生活図は、この一線で、はつきり、違つている。京野等志は、それを知つて、なんと言うか。この問題をどう処理するか。
小萩は、蜂蜜よりも一足先に届いた彼からの手紙を、またとり出して読み直した。そして、彼女は、そのうちのある文句を口の中で言つてみて、かすかに胸をおどらした。
「あゝ、うれしい……」
といつて、寝台の上に、長々と、あおむけに寝そべつた。
隣りの寝台で、婦人雑誌に読みふけつていた若い女の患者が、却つて、それをたしなめるように、
「あゝ、びつくりした」
と、大仰におどろいてみせ、あとは、
「なんだかしらないけど、うらやましいわ」
で、女同士の、異常な好奇心と、病院生活の倦怠とにふさわしい、一瞬の空気が流れた。
[#改ページ]
信越線の沓掛駅から千ヶ滝行というバスが出ている。バスの終点は丘の中腹に建てられた白堊のホテルの門前だが、それから徒歩で避暑客のためのドライヴ・ウェーを三十分も登ると、深い谷を距てゝ浅間のなだらかなスロープが落葉松の林をすかして眺められる。
そのへんまで来ると、同じ別荘地にはなつているけれども、家はごくまばらで、しかも、今は荒れるにまかせた廃屋同然の建物ばかりで、持主はあつても、今更それを役立てようというつもりはなく、いくらにでも買手があれば早く売つてしまいたいとおおかた思つている。そういう話をふと耳にした京野等志は、早速、実地検分のうえ、そのうちの手頃な一軒をすぐその場で買う契約をした。
十坪足らずの平家で、洋風とは名ばかりの安普請だが、板葺屋根の雨漏りをなおし、満足なガラスは一枚もはまつていない窓や戸をなんとかすれば、決して住めないことはない。ありがたいことに、水道と電気の便利がある。二百坪の土地がついて、五万円というのだから、彼の乏しい財政をもつてしても、なんとかやりくりがつくと考えたのである。
その頃、彼は、だいたいの目標がきまり、いよいよ新しい生活の設計にとりかゝつていた。ある先輩の世話で、思いがけない有利な翻訳の仕事にありついたことは、計画の実行を一歩早める結果となつた。というのは、あと一と月で、十万そこそこの金がはいることになつていたのである。彼の予算では、五万を住居と土地の獲得に、あと五万を事業の第一期の資金にあてるつもりであつた。岐阜の養蜂家の猪狩氏が、彼の熱意に動かされて、無償で良種の種蜂を数群分けてくれ、その上、必要な器具材料を実費で供給してくれることになつていた。
こうして、六月にはいると、住居の手入れもあらまし目鼻がつき、簡単な家具食器類を運びこんで、そこで小諸の療養所から小萩を迎えた。
小萩は、眼を輝やかし、手をたゝいて喜んだ。
「あなたつて、ほんとに、どういうかた……? こんなこと、いつの間にか、ちよこちよこつとやつておしまいになるなんて……」
「今度は、万事好都合に運んだからさ。しかし、いつもこの通りにいくとは限らないぜ。油断は禁物だよ。みたまえ、あの浅間のスロープ、それから、あの、落葉松やナラの芽吹きの色……日光は、たつぷりあるし……買物はちよつと不便だが、なに、そのうちに慣れるさ」
二人は、南向きの小さなヴェランダに出て、倚り添うようにして立つていた。
立ち枯れのスヽキの聞から、もうヨモギやアザミが萌黄色の艶やかな葉をのぞかせ、さまざまな小鳥が、耳を澄ますと、空の上にも、谷の底にも、長く、短かく、競うように啼き交していた。
「いゝかい。あの斜面を削つたところね、あそこへ蜜蜂の箱を並べて置くんだ。もうやがて、岐阜から着く時分だ。着いたらすぐに、フタをあけてやる。すると、今頃は、そら、道に白い花が咲いてたアカシヤ、このへんは、一番アカシヤが多いから、みんなその蜜をこゝへ運んで来るんだぜ」
「だつて、ほかの花も咲いてるでしよう」
「うん、はじめは多少、まじるけれど、すぐ土地の事情に通じて、ひと色の花の蜜を集めるようになるんだよ。普通、二キロ以上、時によると十キロぐらい先まで飛んで行くんだから、たいしたものさ。怠けて腹いつぱいためて来ない奴がいると、番兵がいて、入口で追い返すんだぜ」
「へえ、厳しいのね」
「厳しいさ。蜜蜂の女王は、飛べないことは知つてるね」
「知らない。へえ、飛べないの? なにしてるの、じや?」
「じつとして、働き蜂が運んで来た蜜ばかり吸つてるのさ」
「あら……でも、卵は生むのね」
「当り前さ。そのためにいるんだもの」
「働き蜂のなかで、一等お気に入りができるわけね」
「いや、それが面白いんだ。働き蜂は男かと思つたらそうじやなくつて、別に、雄蜂なるものがいるんだ。これは、人間が卵のうちに見分けて、一つだけ優秀な奴を残すことにするんだそうだ。こいつは、つまり、女王のお婿さんの役目だけ果して、すぐに死んでしまい、次ぎの代に位を譲ることになる。卵はひとつひとつ、働き蜂が受持をきめて養う制度になるつていうのは、なかなかしやれてるじやないか」
「そう、そう、それは、読んだの覚えてるわ。ダメねえ、ずいぶん勉強したつもりなのに、すつかり忘れちやつたわ。ほかのものとこんぐらかるんですもの」
「蜜蜂の習性は、実に愉快だね。人間もちつと真似たらいゝと思うところがあるよ。社会とか家族とかいう問題をやかましく考えるより、僕は、人間を蜜蜂式に養成してしまつた方が便利じやないかと、よく考えるんだ」
「すると、大部分の人間は働き蜂つていうわけね。ふゝ、恋愛もなんにもないわけ?」
「そうさ、そんなもの、誰にだつて必要はないさ。ほんとの恋愛ができる人間なんて、そうはいないもの」
「あら、残酷ね」
「一人の女王に奉仕する本能が恋愛の代りさ。幼虫を護り養う本能がつまり母性愛の変形だ。要するに、大部分は中性なんだから、それで満足すればいゝんだよ」
「家族なき社会つていうことになるじやないの。それ、いゝわ。賛成だわ。だれもかれも結婚して、それぞれに動きのとれない家を作るなんて、人間は自分の手で自分の不幸を準備してるようなもんね」
「また、始めたね。今日はまあ、その話は止そう。疲れたろう、それに……だいぶん乗物にゆられて、そのうえ、ずいぶん歩かしたからなあ。さあ、ベッドには蒲団さえのせればいゝんだ。それとも、寝椅子の上へ横になるかい?」
「どつちでもいゝわ。でも、もう少し、外を見てたいから、こゝへ寝椅子もつて来るわ」
「よし、動かないで……」
こうして、京野等志は、わるくすると、小萩を女王とする働き蜂の生活をはじめようとしていた。
しかし、こゝまで事を運ぶのに、一番手こずつたのは、あくまでも結婚という形式で二人が同棲することを拒みつゞける小萩を、ともかく療養所からこの山小屋へ連れて来ることであつた。
彼女は、しつこく念を押して言うのである。
――自分はいま幸福にはちがいないけれども、それはまだどういう約束にも縛られず、彼をのぞく周囲の一切が、彼女にとつてなんの係りもないからだ。それが、もし、夫婦という約束と関係から生じるいろいろな責任や負担を覚悟しなければならないとすると、もうそれだけで自分の気持は重くなるばかりだ。
どうか、それが我儘なら、そのわがまゝをゆるしてほしい。ほんとうに、もう長くはない命なのだから、できれば、このまゝ、彼の愛人としてせめてどれだけかの余生を楽しんで送りたい。それが、妻としてでは、どうしても、そんな呑気なことは言つていられなくなる。
このことは、理屈のうえからそう言えるばかりでなく、実際に世間のどんな例をみてもわかることだ。自分は妻という名を呪い、妻という立場にあくまでも挑戦する。これは、たとえ迷信であつても、今の自分にはどうすることもできない運命の声のようなものだ。
この頑なともいえる彼女の宣言、彼女の悲願を、京野等志は、はじめ軽くうけ流し、それなら、愛人のような妻ならいゝではないか、と言つてみた。
「妻つていうものを、そういう風に考えられるのは男のひとが、女つていうものをどんなに軽くみてるかつていう証拠だわ」
と、彼女は、すこし味気なさそうに、唇をかんだ。
「どうして? え、どうしてそんなことが言える? 妻より愛人の方が軽い存在だろうか?」
「性質がまつたく違うといつていゝわ。妻に求めるものを愛人に求めるのは無理だし、愛人に求めるものを妻に求めたら、それこそ滑稽だわ」
「へえ、それも一応、原則としては成立つかもわからないが、どんな例外だつて、あつて差支ないだろう?」
「例外? ダメよ、あたしは、そんな天才じやないんですもの」
「いやに割り切るじやないか。そうか、そんなら、まあ、君の望みどおり、僕は譲歩しよう。じや、愛人としてなら、僕のそばにいてくれるね」
「それが、どんな結果になるか、試してみてもいゝわ。ごめんなさい、こんな勿体ぶつた言い方するの……。実は、それが、どんなにうれしいことだか……まるで、夢みたいな気がするわ。あんまり、幸福すぎて、それだけが、あたし、心配なの」
「いゝさ、いゝさ、取越苦労は、もうよしたまえ。そんなに心配なら、一札入れておいてもいゝ。一、同棲はしても、決して、夫婦にはあらざること。従つて、甲は乙に対して、如何なる場合にも、愛人の礼をつくし、絶対に妻としてこれを取扱わざること」
「礼をつくし、は余計だわ。妻として取扱わざること、なんて、それもアイマイよ。解釈に疑義を生じそうだわ」
「生じるね。妻としての義務を負わさざることか」
「妻としての特権を認めざること、でいゝわ」
こゝで、双方、円満な諒解に達して、めでたく調印の儀式を行つた。調印は、互の唇の上に鮮明な跡を残したのである。
京野等志は、すこし子供じみた小萩の主張をたゞ一笑に附するわけにいかぬ理由のあることだけは、彼自身、すでにその経験によつて知つていたことも事実であつた。
内地へ帰還以来、悩みぬいた「家」の問題、原因をたずねれば、これすべて不合理、不健全な男女の結合に端を発し、肉親なる一人一人の人格がそこから無責任に生れ、習慣を掟とする重圧が自然の情愛をゆがめ、息づまらせているのである。
よかれあしかれ、崩壊の一途を辿つた京野一家の現在にも、なお、幾多の予測しがたい困難が待ちうけている。そして、その困難に、彼自身、われ関せずという風はしていられない。法的な責任がないということは、身をかわすなんの口実にもならぬ。彼の性来の気質にもよるのであろうが、肉親の不幸は、なんとしても彼の胸をかきむしる無言の叫びであつた。
さればこそ、彼は、大森の住いを引払うにあたつて、妹多津の身のふり方を懸命に考え、雲井秋生との中途半端な関係をはつきりさせることを勧め、女流作家鷲尾某と協同で喫茶店をやりたいという希望に頭から反対し、住み込みの家政婦にでもなれといつて、当分、月々四千円の生活費を補助する約束さえしたのである。
弟深志のことも、始終気がかりで、男一人食いはぐれはないとしても、一歩一歩、生活の乱れから自暴自棄に陥ることがあつてはと、それだけが不安の種であつた。
が、深志のことに限らず、両親や同胞のことは、心配しだすと際限がないので、努めて楽観的にそれぞれの運命を陰ながら見まもることで満足しようとした。
さて、山小屋の生活もやつと軌道に乗り、小萩の容態も、このまゝならまず順調と思われ、僅かの野菜畑を作るほかは、暇さえあれば蜜蜂の箱の前にしやがみこんで、あの無心の羽音に耳を傾けながら、驚嘆すべき彼等の勤労ぶりを眺めているという状態がしばらく続いた、ある日のこと、もう午後の日ざしがヴェランダの硝子戸に黄色い反射を投げるころ、ふと、はるか下のホテルの前で、たつた今停つたバスから五、六人の乗客が降り、そのうちの三人はホテルの中へ吸い込まれたのに、あとの二人は、珍しくそのまゝ、こつちへあがつて来るのが眼にとまつた。洋装の身についた若い男女の一組であつた。このへんのハイキングがもう始まる季節なのかと、彼は、いつ時、腕を腰にあてたまゝ、ぼんやりその二人の姿を眼で追つていた。白く乾いた火山灰の道は、大きく弧を描いて一旦落葉松の林の中にかくれる。そして、やがて緩い斜面に沿つてまつすぐにこつちへ延びているのだが、その男女の人影が彼の視線から外れると、彼は、もうそのことは忘れたように、矢車草やコスモスの種を蒔いてやつと二週間になる待望の花壇の成績をしらべにかゝつた。
「どうかしら? もう芽が出てる?」
と、ヴェランダから小萩が声をかけた。
「さあ、はつきりわからない。どうも雑草と見分けつかないんだよ。やつぱり苗床を作つた方がよかつたかな」
「だから、ハギのいうとおりになさればよかつたのよ。でも、大丈夫よ、少し伸びて来ればわかるわ。これでも、草花は多少、自信があるのよ」
「あゝ、その方はハギに委せるよ。僕は、専ら生産的な方面を受持つことにする。但し、野菜なんか、あらまし買つたつて間に合うんだからね。そんなに一生懸命にやる必要ないよ」
「まず予防線を張つておいて……。そうよ、お百姓は無理よ。青いものが少し取れゝば、畑はそれでいゝわ」
そう言いながら、小萩の表情は急に引きしまり、眼で彼に合図をしたので、彼は、表の方をふり返つた。
「どうもこの家らしいと思つた」
南条己未男が、片手を挙げながら、崖の階段を登つて来た。そして、すぐうしろに、妹の真喜が、ちよつと照れたような笑顔をまともにこつちへ向けて、ついて来るのである。
「差支えないかい?」
と、南条己未男は、ちよつと小萩の方に会釈をした後、彼のそばに寄つて、たずねた。
「ふむ、これは意外だ。もちろん差支えないが、真喜が一緒というのは、どういうんだい? まさか、もう結婚したんじやあるまいな」
京野等志は、実際、そうとでも言うより、挨拶のしようがなかつた。
「結婚なんか、まだしないわ、ねえ、南条さん……。あたしたち、お友達になつたばかり……。だつて、南条さんが、兄さんを訪ねるつていうのよ。あたしも、すこし、お話があるから、連れてつてと頼んだの。それだけよ」
「もつとも、そう頼まれたのは光栄だと思つてるがね。とにかく、前触れもしないでやつて来てよかつたかどうか……」
そう言つて奥に眼をやる南条己未男の視線から、小萩はもうとつくに姿を消していた。
「兄さん、今の女の方、どなた? あたし、見たことあるようなひとだわ」
と、真喜が、やはり、奥の方をみながら、言つた。
「それやそうだろう。お前の知つてるひとだよ」
「小萩さんでしよう、そんなら……」
「その通り……今、病気なんだ。よくわかつたな」
「へえ、そうか、かつての小萩さんか、あれが……。すつかり変つたじやないか」
どちらも、その昔、会つたことがあるだけに、詳しい説明はいらなかつた。
小萩に合わせたものかどうか、一応彼女の意向をたしかめるつもりで、京野等志は、部屋にはいつた。
小萩は、寝台の上に腰をおろしたまゝ、彼の顔をみると、いきなり、黙つて、かぶりを振つた。眉にしわを寄せている。会いたくないという意味がすぐに察せられた。
「どうして?」
と、彼は小声でたずねた。
「どうしてつて……わかつてるじやないの。いま、誰にも会いたくないの」
彼は、ちよつとまずいなと思つたけれども、強いて会わせるにも及ばぬと考えなおし、
「あゝ、そんなら、それでいゝよ。なんの用事だか知らないけれど、こゝで長つ話はうるさいだろうから、散歩かたがたホテルまで送つて来るよ。どうせ、今夜はあそこへ泊めるよりしようがないだろうから……」
彼は、戻つて来ると、二人に言つた。
「病人姿で人前に出るのはいやだというから、あしからず……。さて、こゝはごらんの通り客を通す部屋もないんでね。ぶらぶら歩きながら話そう。君たちは今夜はどうする予定だい? ホテルへ泊るなら案内するよ」
そう言つて、彼は二人を外へ誘いだした。
「おれはただ、君の養蜂事業というやつを見学かたがた、山の空気を吸いに来たんだ。しかし、あゝいう女性がそばにいることは想像もしなかつた。羨ましい生活だな」
と、南条己末男は、ほんとに羨ましそうに言つた。
「あたしは、たいがい見当がついてたわ。南条さんには黙つてたけど、兄さんの近頃の様子で、結局こうなるんだろうつて、多津姉さんとも話してたのよ」
と、真喜が、得意らしく、告白した。
「それで、たゞそいつをたしかめるために、来てみたのか?」
「あら、そんなつもりじやないわ。あたしは、ちよつと相談があつて来たの。南条さん、こつちの話からかたづけていゝ?」
真喜は、なかなか事務的だつた。
「さあ、さあ、どうぞ……。僕は、しばらくどつかへ行つてようか?」
「その方がいゝわ。呼んだら聞えるところにいらつしやい」
南条己未男は、声をたてゝ笑つた。京野等志もにやりとした。
兄と二人きりになると、真喜は、歩をゆるめながら、話しだした。
「あたし、とても今、生き甲斐を感じてるの。お店の仕事はまあ、なんていうことはないけど、自分で働いて、自分で勝手なことができるの、とてもうれしいわ。でも、そうなつてみると、こんどは、やつぱり家のことを考えちやうの。第一に母さんが気の毒でしようがないの。あんなかわいそうなひとつてないわ」
「たずねてみたかい?」
「うゝん、時々、アパートへ会いに来てくれるの。お店の前をのぞき込むようにして通りすぎることもあるのよ。あたし、見つけたら追つかけてつて、お茶おごつてあげるの」
「そいつはいゝな。多津はどうしてる、その後……?」
「ああ、多津姉さんね、やつぱり雲井さんと別れるんですつて……。それから、ほら、仲よしだつた鷲尾妙子つていう女流作家がいるでしよう。あのひととも喧嘩しちやつたんですつて……。今、なんだか知らないけれど、行商つていうのか、外交員つていうのか、そんなことしてるわ」
「なんだい、お前の相談つていうのは?」
「うゝん、なんでもないこと……母さんはお父さんと別れちまつたらどうかと思うのよ。だつて、くだらないでしよう、あんな生活は生活つて言えないわ」
京野等志は、この少女の意見が、いつたいどこから出て来たものかを疑わないわけにいかなかつた。
「お母さんは、そんなにこぼしてるかい?」
「うゝん、それがそうでもないから、あたしなお情けなくなるの。なんとかしてあげられないか知ら?」
真喜の調子は意外なほど真剣であつた。
「まあ、待てよ。お前がそういつたつて、お母さんがそれを承知しなけれや、どうにもなるまい。お前はそれより、自分の将来のことを……」
と、言いかけるのを、真喜はみなまで聞かず、
「えゝ、それやわかつてるわ。あたしは、多津姉さんとも、美佐姉さんともちがつてよ。大事な青春を特定の男性に捧げるなんて、バカなことはしないわ」
昂然と言いはなちはしたが、その言葉には自分でも多少の誇張があることを認めるらしく、あとは、舌を出してごまかしてしまつた。
京野等志は、この真喜という妹のどこかに、なるほど一家の誰よりも強く明るい性格がのぞいているのを感じ、これはこれでいゝのだと思つた。南条己未男との間柄も、別に詳しく詮議だてをしようとは思わなかつた。たゞ、戯談めかして言つた南条のいつかの述懐が、戯談どころか、それが真意であつたことを、やはり、南条らしいと思つた。後は、実際に、真喜の居所をどうしてつきとめたか? そして、どういう出方で、いわゆる友達づきあいをしはじめたか? それもこれも、彼にとつては、どうでもいゝことである。
ホテルの門前に辿りついた時、真喜は、大声で、「南条さん……早くいらつしやあい」と叫んだ。南条己未男は、二、三十歩後から、ちやんとついて来ていた。
「もう話はすんだの?」
と、彼は真喜の方に問いかけた。
「えゝ、すんだわ。こんどは、あなたの番、あたし、あつちへ行つてましようか?」
「僕は、君に、なんにも秘密はないんだ。そこにいたまえ。ねえ、京野君、どう思う、君は? 真喜ちやんは、僕のお神さんになれば幸福だろう?」
と、南条己未男は、ずばりと言つた。
「あら、いやだ。そんなことこゝじや言わない筈だつたわ。兄さん、このひとつたら、いきなりあたしに結婚してくれつていうんだけど、そんなこと、変ねえ。お友達として、お互にまず及第かどうか試してみるのが肝腎だわ。それなら、おつき合いしましようつて約束なのよ。それでいゝわねえ」
真喜は、それを、はにかみひとつみせず、男二人の前で、ずけずけと言うのである。京野等志は、もうそんなことには驚かなくなつている。
「僕はそういうことには、いつさい干渉しないよ。第一、そんな問題は、第三者に、なにひとつ、わかる筋合のもんじやないさ。南条君、蜜蜂が見たければ、あすの朝、箱をあける時間に来ないか。六時キッカリにあける。じや、失敬だけど、僕は病人のそばへ帰る。ゆつくりやすみたまえ」
二人をホテルの玄関口まで送つて、彼は、大股にもと来た道を引つ返した。
もう日がかげつて、あたりの空気が、肌にひえびえとするくらいであつた。
と、やがて、この土地特有の霧が、山裾からもくもくと這上つて来る。
「いけねえ」
と、彼は口の中で呟いた。
霧の時は、早く窓をしめないと、病人が息苦しいというのである。その窓が、また、女の力でどうにもならぬほど、締めにくいと来ている。彼は、飛んで帰つた。
小萩は、まだ、ヴェランダの寝椅子の上にからだを横たえていた。
「ちよつと、ちよつと……早く……さつきから蜂がさわいでると思つたら、なんだか熊ん蜂がいくつも襲つて来てるらしいわ」
「え?」
と、彼は、それこそ、顔色を変えて、蜂箱の方へ去つて行つた。かねて、そういう場合に使う大きな蠅たゝきが樹の枝にかけてあるのをはずし、それを右手で振りあげながら、空中をにらみつけた。
なるほど、蜜蜂の数倍もあろうという獰猛なすがたをした熊ん蜂が、箱の入口を目がけて急降下すると、入口を守備している蜜蜂が、たちまち、その一撃で斃される。続いて、また一つ、その熊ん蜂目がけて飛びかゝつて行く。それがまた、あえなく、地上に墜落して来る。が、更に、ほかの一つが、横あいから敵に喰いさがる。それも無駄である。一対一の戦闘が、こうして、きりなく続く。そして、勇敢な蜜蜂は、力敵せず、一つ一つ、その犠牲となつて屍を地上にさらすのである。その間に、手さえ届けば、人間が蜜蜂の助太刀をするのであるが、今という瞬間を見定めて、蠅たゝきの一撃をねらい誤またずこの悪鬼のような侵入者の上に加えることができれば、それでいゝのである。
京野等志は、まだその戦法に熟達はしていないが、闘志満々、義憤に燃えて、蠅たゝきを持つ手が、ぶるぶる、ふるえているのである。しかし、熊ん蜂は、なかなか、近くへ寄つて来ない。
小萩は、いらいらしながら、こつちを見ていた。
「チクショウ!」
と、京野等志は、歯ぎしりをした。
が、その時、どうしたはずみか、熊ん蜂の大きな図体が、急に丸まつたと思うと、それこそ、木の実が落ちるように、ポタリと地面にころげ落ちた。よくみると、その頸に一匹の蜜蜂がしがみついて、尻の剣を深く背中に突き刺していた。
「やられたよ、とうとう……。しかし、あくまで一騎打ちとは面白いな。見せようか? やつた蜜蜂も、むろん死んでるよ」
蜜蜂は、敵の体内に剣を残して、自分も、そこで生命を終るのである。
小萩は、そんなものは見なくていゝというので、京野等志は、そのまゝ、上へあがつた。霧はもう、崖を這つて、向うの林を墨絵のようにぼかしはじめていた。
「呑気なやつらだ。どつちも、大した用事なんかないのに、わざわざ、こんなところへやつて来やがる。君の名前は黙つてるわけにいかんから、喋つたが、二人ともむろん、君のことは覚えてるんだから、ちよつと会つて、一言なんか言つてやればいゝのに……」
と、硝子戸を手早く締め終つて、彼は小萩に言つた。
「そうも思つたけど、やつぱり会いたくないの。いゝでしよう? まさか、これ僕の家内じやない、なんて紹介する手はないわ」
「そんなこと、なんとでも言えるじやないか。そう言えば、真喜のやつ、はつきり、こう言うんだ。――南条さんはあたしに結婚しろつていうんだけど、そんな話はまだ早い。まず友達としての試験にパスしなけれやつて……。はつきりしてるだろう?」
「へえ、ガッチリしてるわ、むしろ。そんなの、あたし嫌いよ。南条さん、それで、なんて言うの?」
「なんとも言わないよ。自分と結婚すれば、真喜は幸福になるだろうつて、それを、あいつがはじめに僕に切り出したんだ」
「で、トシは、それに、なんて返事なすつたの?」
「それをハギにもわかるように言うのはむつかしいよ。僕は、つまり、どうでも勝手にしろつて、言つてやつたんだ」
「賛成だわ。トシはいつでもおつしやるじやないの、人おのおの流儀あり、つて……。それを無理に、ひとに押しつけるのが、家族つてもんじやないかしら? あたしは、自分の家つてものに愛想をつかした女よ。だから、つていうこともないけど、なんだか、トシのお家の方が、みんなこわいわ。お一人お一人はいゝ方かもしれないけど、家族の一人つていう意味では、おつきあいはごめんだわ。それ、いけない?」
「いけなくないね。ハギの自由だよ。僕は、まだ肉親の愛情つてものを、全面的に否定はしないんだ。こいつは宿命的なもんだと思つてる、人によつてはね。だから、その愛情の、ほんとの活かし方を考えてるんだ。家庭のいざこざなんていうもんは、これや、みんな、肉親の愛情の病的な現われだ。ハギの言うとおり、相手をあんまり自分流に愛し、自分流の愛情を相手に求めすぎるからなんだ」
「結局、愛し方が下手つてことになるかしら?」
「うむ、下手ということもあるが、それより、すべて、愛情そのものが、光と影の両面をもつてるんじやないかと思う。いや、愛情は常に光さ。しかし、その光がまた、常に影を作る性質をもつてるんだからね。おや、今日は、まだ電気が来ないのか」
京野等志は、もう薄暗くなつた部屋のなかを見廻してから、夕食の支度をしに、勝手へ廻つた。
翌朝、いつもより少し早く、京野等志は眼をさました。
日がのぼるのにはまだ間があつたけれども、半弦の月がほの白く西の空に残つて、澄みとおるように晴れあがつた山の朝であつた。
いつものように、彼は、顔を洗う前に外に出て、蜜蜂の箱をあけようとすると、きのう、南条に朝六時頃に来いと言つたことを思いだした。もう間もなく六時である。
ことによると寝坊をしているのかも知れぬ。もうしばらく待つてみるつもりで、道ばたまで崖を降りて行くと、向うの道の上を、ぶらぶら、二人が歩いて来るのが見える。あつちでも気がついたと見えて、真喜が手を振つている。
「早いね、感心、感心……」
と、彼は、声をかけた。
「驚いたひとだよ、この真喜つていうお嬢さんは……おれの部屋へ、今朝、黙つて飛びこんで来て、いきなり毛布をひんめくるんだからね」
南条己未男は、わざとしよげて、訴えるように言つた。
「そんなこと、言いつけるもんじやないわ」
真喜は、相手をにらんで、
「さ、兄さん、早く蜜蜂見せてよ」
と、兄の手を取つて促した。
蜜蜂の巣の前に立つて、京野等志は、まだ床についている筈の小萩のことを時々気にしながら、ともかくも、ひと通りの説明をしてきかせ、ひとつ、ひとつ、箱の蓋をあけた。蜂の群が、みるみるうちに、十いくつかの入口から飛び立つた。
「すごいわね。蜜がとれたら、ちようだいよ」
真喜が言つた。
「新婚旅行に来た時、うんと嘗めさせてあげるよ」
と、京野等志はいつた。
「なるほど、蜜月旅行だ、それこそ……」
南条己未男が、すかさず口を挟んだ。
二人は、やがて、もう、帰ると言いだした。京野等志は、別にそれをとめようともしなかつた。
「そうか。なんにもおかまいできなくつて……。小萩からよろしくつていうことだつた」
とつさに口に出た、言わば儀礼的な挨拶であつた。
「じや、ご機嫌よう、兄さん……。お二人のご幸福を祈つてるわ」
と、真喜が、快活に言つた。そして、いくどもうしろを振りかえりながら、南条己未男の腕をとつた。
京野等志は、返す言葉もなく、この小鳥のようにはしやいでいる妹の後姿を、じつと見送つた。なんだか、いまいましいような気もする。だが、それと同時に、はじめて、七年前のあの無邪気な、人懐こい妹にめぐり合つた思いで、胸がじいんとするのであつた。この一年あまり、同じ屋根の下で暮していた時分の、どことなく刺々しい、つねに反抗的な身構えで誰にでも突つかゝろうとした彼女の態度は、まつたく今はみられず、たとえずけずけ物を言うにしても、ヒステリカルな暗い影などは、露ほどもないのを、彼は不思議に思わないわけにいかなかつた。
考えれば、それは不思議でもなんでもない。古い「家」の重圧から解放され、不必要にまつわりつく肉親の眼から逃れ出た、一つの若い生命の跳躍が、そこにみられるからであつた。
京野等志は、腕組みをして、じつと眼をつぶつた。両親をはじめ、家族の一人一人の面影が瞼に浮ぶ。それらの一人一人が、多かれ少なかれ「家」を愛し、そして、「家」を憎んでいた。春の風が、ある時は、あの「家」にも吹いたに違いない。しかし、あの家に吹き荒んだ冬の風を、誰が一番多く身に受けたろう? 美佐か? 深志か? それとも、母か?
彼は、ふと、あれから久しく顔をみない弟深志の安否が気になりだした。そして、いつか、今日の真喜のように、眼を輝やかしてこゝへ訪ねて来ないものかと思つた。
窓のしずかに開く音がした。
朝の化粧をすました小萩の顔が、そこからのぞいていた。
「トシ、そこでなにしてらつしやるの? お湯がもう沸いたわ」
「あ、そうだ、忘れてた。失敬、失敬……。もう起きるの? 今日はメチャクチャにいゝ天気だぜ」
「気のせいかしら? 花の匂いがするわ。なんでしよう?」
眼を細めて、小萩は、その匂いのする方角を見定めようとしている。
「花の匂いもするだろう。どこにどんな花が咲いてるか分らないからね。飯を食う前に僕が突きとめて来るよ。風は……北東々だな……よし」
そう言いながら、彼は、一旦、窓に近づいて小萩の差しのべる手を握り、ゆつくり、裏の方へ歩いて行つた。