長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。遥か右のほうに当って、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界を遮り、一望千里の眺めはないが、奇々妙々を極めた嶺岑みねをいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしい眺めであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮び、もみの木に蔽われたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立きつりつしている高い山々に沿うて、数知れず建っている白堊はくあの別荘は、折からの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そして遥か彼方には、明るい家々が深緑ふかみどりの山肌を、その頂からふもとのあたりまで、はだれ雪のように、まだら点綴てんていしているのが望まれた。
 海岸通りにたち並んでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くように付けてある。その路のはしには、もう静かな波がうち寄せて来て、ざ、ざあッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を囘して遊んでいる子供を連れたり、男と何やら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。
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 この散歩路のほうに向って入口のついた、小粋な構えの小さな家が一軒あったが、折しもその家から若い女がひとり出て来た。ちょっと立ちどまって散歩をしている人たちを眺めていたが、やがて微かな笑みを洩すと、いかにも大儀そうに、海のほうに向けて据えてある空いたベンチのところまで歩いて行った。ほんの二十歩ばかり歩いただけなのに、もう疲れてしまったらしい、喘ぐような息遣いをしながら、そのベンチに腰を下ろした。蒼ざめた顔はこの世のひとの顔とも思われない。そして頻りに咳をした。彼女はそのたびに、自分の精根を涸らしてしまう、込み上げて来るその動揺をおさえようとするためなのであろう。透き通るような白い指をそのくちに押しあてた。
 彼女はつばめが幾羽となく飛び交っている、目映いばかりに照りはえた青空を見上げたり、遠くエストゥレル山塊の気まぐれな峯の姿を眺めたり、また近く足もとに寄せて来る静かな海の綺麗な紺碧の水にじッと視入ったりしていた。
 やがて彼女はまたしてもにっこり笑った。そして呟くように云った。
「ああ! あたしは何て仕合わせなんだろう」
 けれども彼女は、遠からず自分が死んでゆく身であることを知らぬではなく、二度と再び春にめぐり遇えると思っているのでもなかった。一年たった来年の今頃ともなれば、自分の前をいま歩いてゆく同じ人たちが、南国のあたたかい空気を慕って、今よりは少しばかり大きくなった子供を連れて、希望にもえ、愛情に酔い、幸福にひたった心を抱いて、再びこの地を訪れるであろう。しかるに自分はどうか。名ばかりながら今は生きながえらえている哀れなこの五体は、柏のひつぎの底に、経帳子きょうかたびらにしようと自分が選んでおいたあの絹衣きものにつつまれた白骨をとどめるのみで、あわれ果敢はかなく朽ちはてているであろう。
 彼女はもうこの世の人ではあるまい。世のなかの営みは、自分以外の人たちには、昨日となんの変ることもなく続くであろう。が、彼女にとってはすべてが終ってしまう。永遠に終りを告げてしまうのだ。自分はもうこの世のどこにも居なくなっているであろう。そう思うと、彼女はまたにっこり笑った。そして、蝕まれた肺のなかに、芳ばしい花園のかおりを胸一ぱい吸い込むのだった。
 そうして彼女はその思い出の糸を手繰りながら、じッと物思いに耽るのだった――。
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 忘れもしない、彼女がノルマンディーの貴族と結婚させられたのは、四年前のことである。良人おっとというのは、ひげの濃い、顔色のつやつやとした、肩幅の広い男で、物わかりは余りいいほうではなかったが、根が陽気なたちで、見るからにたくましい青年わかものだった。
 この縁談には彼女のあずかり知らぬ財産目あての理由があった。本心が云えるものならば、彼女は「あんな人のところへ行くのは厭だ」と云いたかったのであろう。けれども、両親の意に逆らうのもどうかと思う心から、ただくびたてって、無言のうちに「行く」という返事をしてしまったのだった。彼女は物ごとを余りくよくよしない、生活というものを愉しもうとする、陽気な巴里パリの女であった。
 良人は彼女をノルマンディーにあるその屋敷へ連れて行った。それは、鬱蒼と茂った老樹にぐるりを囲まれた、石造りの宏壮こうそうな建物だった。正面には、見上げるような樅の木叢こむらがたちはだかっていて、視界を遮っていたが、右のほうには隙間があって、そこからは遠く農園のあたりまで伸びている、荒れ放題に荒れた野原が見えた。間道が一条、柵のまえを通っていた。そこから三キロメートル離れたところを通っている街道に通じる道である。
 ああ! 彼女にはいま、その頃のことが何もかも思い出されて来るのだった。その土地へ着いた時のこと、生れて初めて住むその家で過した第一日のこと、それにつづく孤独な生活のことなどが、それからそれへと思い出されて来るのだった。
 馬車を降りて、その時代のついた古めかしい家を見ると、彼女は笑いながら、思わずこう叫んでしまった。
「まあ、陰気ッたらないのね!」
 すると、こんどは良人が笑いだして、こう云った。
「馬鹿なことを云っちゃアいけないよ。住めば都さ。見ていてごらん、お前にもここが好くって好くって、仕様がなくなっちまうから――。だって、この僕が永年ここで暮していて、ついぞ退屈したなんてことが無いんだからね」
 その日は暇さえあると二人は接吻ばかりしていた。で、彼女はその一日を格別長いとも思わなかった。二人はその翌日も同じようなことをして暮してしまった。こうして、まる一週間というものは、夢のように過ぎ去った。
 それから、彼女は家のなかを片づけ出した。これがたッぷり一月ひとつきかかった。何となく物足りない気はしたが、それでも仕事に紛れて、日が一日一日とたって行った。彼女は生活上の別に取り立てて云うほどのこともないような細々こまこまとしたことにもそれぞれその価値があって、これがなかなか馬鹿にならないものであることを知った。季節によって、卵の値段には幾サンチームかの上り下りがある。彼女にはその卵の値段にも興味がもてるものだと云うことが解った。
 夏だったので、彼女はよく野良へ行って、百姓が作物をっているのを見た。明るい陽ざしを浴びていると、彼女の心もやっぱり浮き浮きして来るのだった。
 やがて、秋が来た。良人は猟をしだした。そして二匹の犬、メドールとミルザとを連れて、朝から家を出て行った。そんな時に、彼女はたったひとりで留守番をしているのだが、良人のアンリイが家にいないことを、別に淋しいとも思わなかった。と云って、彼女は良人を愛していなかったわけではない。充分愛してはいたのであるが、さりとて、良人は自分がそばにいないことをその妻に物足りなく思わせるような男でもなかった。家へ帰って来ると、二匹の犬のほうがかえって彼女の愛情をさらってしまうのだった。彼女は毎晩、母親のように、優しく犬の世話をした。暇さえあれば、二匹の犬を撫でてやった。そして、良人にたいしては、使おうなどとは思ってもみなかったような、さまざまな愛称をその犬につけてやったりした。
 良人は彼女に猟のはなしをして聞かせた。それが良人の十八番おはこだった。自分が鷓鴣しゃこに出あった場所を教えたり、ジョゼフ・ルダンテューの猟場に兎が一匹もいなかったことに驚いてみせたりした。そうかと思うと、また、アンリ・ド・パルヴィールともあろう自分が追い立てた獲物を、町人の分際で横あいから射とめようという魂胆で、自分の領地の地境のところばかりをうろうろしていた、アーヴルのルシャプリエという男のやり口にひどく腹を立てたりした。
「そうですわねえ、まったくですわ。それは好くないことですわ」
 彼女はただそう相槌あいづちを打ちながら、心ではまるで別なことを考えていた。
 冬が来た。雨の多い、寒いノルマンディーの冬が来た。空の底がぬけでもしたように、来る日も来る日も、雨が、空に向ってやいばのように立っている、勾配の急な、大きな屋根のスレートのうえに降りつづけた。道という道は泥河のようになってしまい、野はいちめんの泥海と化した。聞えるのは、ただどうどうと落ちる雨の音ばかり。眼に見えるものと云っては、渦を巻いて飛んでいるからすの群だけである。その鴉の群は、雲のように拡がると見るに、さっと畑のうえに舞い降り、やがてまた、どことも知れず飛び去ってゆくのだった。
 屋敷の左手に大きな山毛欅ぶなの木が幾株かある。四時頃になると、もの淋しい鴉の群はそこへ来てとまり、かしましく啼きたてる。こうして、かれこれ一時間あまりの間、その鴉の群は梢から梢へ飛び移り、まるで喧嘩でもしているように啼き叫びながら、灰色をした枝と枝との間に、黒い動きを見せていた。
 来る日も来る日も、彼女は日の暮れがたになると、その鴉の群を眺めた。そして荒寥こうりょうたる土地のうえに落ちて来る暗澹たる夜の淋しさをひしひしと感じて、胸をめられるような思いがするのだった。
 やがて彼女は呼鈴を鳴らして、召使にランプを持って来させる。それから煖炉だんろのそばへ行く。山のように焚木たきぎを燃やしても、湿り切った大きな部屋は、ねっから暖くならなかった。彼女は一日じゅう、客間にいても、食堂にいても、居間にいても、どこにいても寒さに悩まされた。骨の髄まで冷たくなってしまうような気がした。良人は夕餉ゆうげの時刻にならなければ帰って来なかった。絶えず猟に出かけていたからである。猟に行かなければ行かないで、種蒔きやら耕作やら、耕地のさまざまな仕事に追われていた。そして、良人は毎日、嬉しそうな顔をして、泥まみれになって屋敷へ帰って来ると、両手をごしごし擦りながら、こう云うのだった。
「いやな天気だなぁ!」
 そうかと思うと、また、
「いいなあ。火ッてものは実にいいよ」
 時にはまた、こんなことを訊くこともあった。
「何か変ったことでもあったかね? どうだい、ご機嫌は?」
 良人は幸福で、頑健で、ねッから欲のない男だった。こうして簡易な、健全な、穏やかなその日その日を送っていれば、もうそれでよく、それ以外には望みというものを持っていない。
 十二月のこえを聞く頃になると、雪が降って来た。その頃になると、彼女は凍ったように冷たい屋敷の空気がいよいよ辛くなって来た。人間は齢を重ねるにつれてその肉体から温かみが失せてゆくものだが、それと同じように、この古色蒼然たる屋敷も、幾世紀かの年月をけみするうちに、いつしか、つめたく冷え切ってしまったように思われるのだった。彼女はとうとう堪りかねて、ある晩、良人に頼んでみた。
「ねえ、あなた。ここの家はどうしても煖房を据え付けなくッちゃいけませんわね。そうすれば壁も乾くでしょうし、ほんとうに、あたし、朝から晩まで、一時いっときだって体があったまったことがありゃアしないんですのよ」
 良人は、自分のやしきに煖房を据えつけようなどと云う突飛な妻の言葉を聞くと、しばらくは唖然としていたが、やがて、胸も張り裂けよとばかり、からからと笑いだした。銀の器に食い物をいれて飼犬に食わせるほうが、彼には遥かに自然なことのように思われたのであろう。良人はさも可笑しそうに笑いながら云った。
「ここのうちへ煖房だって! うわッはッは! ここのうちへ煖房だなんて、お前、そいつあ飛んだ茶番だよ! うわッはッは!」
 しかし彼女も負けていなかった。
「いいえ、ほんとうです。これじゃ、あたし凍っちまいますわ。あなたは始終しょっちゅう出あるいてらっしゃるから、お解りにならないでしょうけど、このままじゃ、あたしの体は凍っちまいますわ」
 良人は相かわらず笑いながら、答えて云った。
「馬鹿なことを云っちゃアいけないよ。じきに慣れるよ。それに、このほうが体のためにゃずッと好いんだからね。お前だって、もっと丈夫になれるのさ。こんな片田舎のことだ、巴里ッ児の真似は出来るもんでもない、私たちはおきでまア辛抱しなけれアなるまいよ。それにもう、そう云ってるうちにじき春だからね」
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 年が明けて、まだ幾日もたたない頃のことだった。彼女は大きな不幸に見舞われた。乗物の事故のために、両親が不慮の死を遂げたのである。葬儀に列席しなければならなかったので、彼女は巴里へ帰った。それから半歳ばかりと云うものは、死んだ父母ちちははのことが忘れられず、ただ悲しみのうちに日がたった。
 そうこうするうちに、うらうらと晴れた温かい日が廻って来た。彼女は生き返ったような気がした。こうして、彼女は、秋が来るまで、その日その日を悲しくものうく送っていた。
 再び寒さが訪れる頃になって、彼女は初めて自分の暗い行末をじいッとつめるのだった。こののち自分は何をしてゆけばいいのだろう? そんなことは何ひとつ無いのである。こののち自分の身にはどんなことが起きるのであろう? 起きて来そうなことは無い。自分の心を元気づけてくれるような期待とか希望、そんなものが何か自分にもあるだろうか? そんなものは一つとして無かった。彼女がてもらった医者は、子供は一生出来まいと云った。
 前の年よりも一しお厳しい、一しお身にみる寒さが、絶えず彼女を悩ました。彼女は寒さにふるえる手を燃えさかる焔にかざした。燃えあがっている火は顔を焦すほど熱かったが、氷のような風が、背中へはいって来て、それがはだと着物との間を分け入ってゆくような気がした。彼女のからだは、脳天から足の先まで、ぶるぶる顫えていた。透間風がそこらじゅうから吹き込んで来て、部屋という部屋のなかはそれで一ぱいになっているようである。敵のように陰険で、しつッこく、烈しい力をもった透間風である。彼女はどこへ行っても、それに出ッくわした。その透間風が、ある時は顔に、ある時は手に、ある時は頸に、その不実な、冷かな憎悪を絶えず吹きつけるのだった。
 彼女はまたしても煖房のことを口にするようになった。けれども、良人はそれを自分の妻が月が欲しいと云っているぐらいに聞き流していた。そんな装置を片田舎のパルヴィールに据えつけることは、彼には、魔法の石を見つけだすぐらいに、不可能なことだと思われたのである。
 ある日、良人は用事があってルーアンまで行ったので、帰りがけに、小さな脚炉あしあぶりをひとつ買って来た。彼はそれを「携帯用の煖房だ」などと云って笑っていた。良人はそれがあれば妻にこののち寒い思いは死ぬまでさせずに済むと思っていたのである。
 十二月ももう末になってからのことである。こんなことでは到底生きてゆかれぬと思ったので、彼女はある晩、良人に恐る恐る頼んでみた。
「ねえ、あなた。どうでしょうね、春になるまでに二人で巴里へ行って、一週間か二週間、巴里で暮してみないこと?」
 良人は肝をつぶして云った。
「巴里へ行く? そりゃアまたどうしてだい? 巴里へ何をしに行こうッてんだい? 駄目だよ、そんなことを云っちゃ――。飛んでもないことだよ。ここにこうしていりゃア、お前、好すぎるくらいいじゃないか。お前ッて女は、時々、妙なことを思いつくんだねえ」
 彼女は呟くような声で云った。
「そうでもすれば、すこしは気晴しになると思うんですの」
 しかし良人には妻の意が汲みかねた。
「気晴しッて、それアまた何のことだい? 芝居かい、夜会かい。それとも、巴里へ行って美味うまいものを食べようッてのかい。だがねえ、お前はここへ来る時に、そういうような贅沢な真似が出来ないッてことは得心とくしんだったはずじゃないのかい」
 良人のこの言葉とその調子には非難が含まれていることに気がついたので、彼女はそのまま口をつぐんでしまった。彼女は臆病で、内気な女だった。反抗心もなければ、強い意志も持っていなかった。
 一月のこえを聞くと、骨をかむような寒さが再び襲って来た。やがて雪が降りだして、大地は真ッ白な雪にうずもれてしまった。ある夕がた、真ッ黒な鴉の群がうずを巻きながら、木立のまわりに、雲のように拡がってゆくのを眺めていると、彼女はわけもなく泣けて来るのだった。いくら泣くまいとしても、やッぱりなみだがわいて来た――。
 そこへ良人が這入って来た。妻が泣いているのを見ると、良人はびッくりして訊くのだった。
「一体どうしたッて云うんだい、え?」
 そう云う良人は、ほんとうに幸福な人間だった。世の中にはさまざまな生活があり、さまざまな快楽たのしみがあるなどと云うことは、夢にも考えてみたことはなく、現在の自分の生活、現在の自分の快楽に満足しきっている彼は、世にも幸福な人間だった。彼はこうした荒寥たる国に生れ、ここで育ったのである。彼にとっては、こうして自分の生れた家で暮していることが、心にも体にも、いちばん愉しいことだった。世の中の人間が変った出来事を望んだり、次から次へ新らしい快楽を求めたりする心持が、彼にはどうしても解らなかった。世間には、四季を通じて同じ場所にいることを、何か不自然なことのように思っている人間がある。どうしてそんなことを考えるのか、彼には全くそういう人間の気が知れなかった。春夏秋冬はるなつあきふゆ、この四つの季節は、土地を変えることによって、それぞれ新らしい変った悦びを人間にもたらすものだと云うことが、彼にはどうしても呑み込めなかったらしい。
 だから彼女には返事が出来なかったのである。なんにも云わずに、ただ泪を一生懸命に拭いた。なんと云えばいいのか、彼女には分らなかった。やっとの思いで、頻りに云いよどみながらこう云った。
「あたし――あたしねえ――何だか悲しいんですの――何だか、妙に気が重いんですの――」
 しかし、そう云ってしまうと彼女は何だか怖ろしい気がしたので、周章あわててこう附け加えた。
「それに――あたし、すこし寒いんですの」
 寒いと聞くと、良人はぐッと来た。
「ああ、そうだったのか、――お前にゃ、いつまでたっても煖房のことが忘れられないんだね。だが、よく考えてみるがいい。お前はここへ来てから、いいかい、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
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 夜になった。彼女は自分の寐間ねまへあがって行った。彼女のたのみで、夫婦の寐間は別々になっていたのである。彼女は床に就いた。寐床のなかに這入っていても、やッぱり寒くて寒くて堪らなかった。彼女は考えるのだった。
「あああ、いつまで経ってもこうなのか。いつまで経っても、死んでしまうまでこうなのか」
 そして彼女は自分の良人のことを考えた。良人あのひとにはどうしてあんなことが云えるのだろう。なんぼなんでもあんまり酷い――。
「お前はここへ来てから、ただの一度だって風邪をひいたことが無いじゃないか」
 そんなら、自分が寒くて寒くて死ぬほどの思いをしていることを良人に解ってもらうには、自分は病気になって、咳をしなければいけないのだろうか。そう思うと彼女は急に腹立たしい気になった。弱い内気な人間のはげしい憤りである。
 自分は咳をしなければならないのだ。咳をすれば、良人は自分を可哀そうだと思ってくれるに違いない。そうか! そんなら咳をしてやろう。自分が咳をするのを聞いたら、なんぼなんでも、良人は医者を呼んで来ずにはいられまい。そうだ、見ているがいい、いまに思い知らしてやるから――。
 彼女はすねも足も露わのまま起ちあがった。そして、自分のこうした思い付きが我ながら子供ッぽく思われて、彼女は思わず微笑んだ。
「あたしは煖房が欲しいのだ。どうあっても据えつけさせてやる。あたしは厭ッてほど咳をしてやろう。そうすれば、良人あのひとだって思い切って煖房を据えつける気になるだろう」
 彼女はそこで裸も同然な姿のまま椅子のうえに腰をかけた。こうして彼女は時計が一時を打つのを待ち、更に二時が鳴るのを待った。寒かった。体はぶるぶる顫えた。けれども彼女は風邪を引かなかった。そこで彼女は意を決して最後の手段によることにした。
 彼女はこッそり寐間をぬけ出ると、階段を降り、庭の戸を開けた。大地は雪に蔽われて、死んだように寂然ひっそりしている。彼女はいきなりその素足を氷のように冷たい、柔かな粉雪のなかへ一歩踏みこんだ。と、傷のように痛くうずく冷感が、心臓のところまで上って来た。けれども、彼女はもう一方の足を前へぐいと踏み出した。こうして彼女は段々を静かに降りて行った。
「あの樅の木のところまで行こう」
 こう自分で自分に云いながら、彼女は雪に埋もれている芝生をつッ切って行った。息を切り切り、小刻みに歩いてゆくのだったが、素足を雪のなかへ踏み入れるたびに、息がとまるかと思われた。
 彼女は、自分の計画を最後までやり遂げたことを確めるつもりなのだろう、一番とッつきの樅の木に手を触れ、それから引ッ返して来た。彼女は二三度あわや雪のうえに倒れてしまうかかと思われた。体は凍り切ってしまって、もう自分の体のような気がしなかった。けれども、彼女はそのまま家へは這入らずに、しばしの間、この凍り切った粉雪のなかに坐っていた。そればかりではない。手に雪を掴むと、これでもかと云わぬばかりに、それを自分の胸に擦りつけるのだった。
 それから彼女は部屋に帰って寐た。一時間ばかりたつと、喉のあたりがむずむずして来た。蟻がそのへんをぞろぞろ這っているような気持である。また、別な蟻の群が自分の手足のうえを這い※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っているような気もした。しかし彼女はぐッすりねむった。
 翌日になると、咳がしきりに出た。彼女は、もう床から起きることが出来なかった。肺炎になってしまったのである。彼女は譫言うわごとを云った。その譫言のなかでも、彼女はやッぱり煖房を欲しがった。医者はどうしても煖房を据えつける必要があると云った。良人のアンリイは承知したものの、厭な顔をしていた。
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 病気ははかばかしく快方に向わなかった。深く侵された両の肺は、どうやら彼女の生命を脅かすようになって来た。
「このままここにこうしておいでになっちゃア、奥さんはかんまでは持ちますまい」
 医者はそう云った。で、彼女は南フランスへ転地することになった。カンヌへ来て、彼女は久しぶりで太陽をふり仰いだ。海を眺め、オレンヂの花の香りを胸一ぱい吸った。
 やがて春が廻って来た。彼女はまた北国へ帰って行った。
 けれども、今はもう彼女は自分の病気が癒ることがこわかった。ノルマンディーのながい冬が恐ろしかった。彼女は体の工合ぐあいがすこし快くなって来ると、夜、部屋の窓をあけて、遠く地中海のあたたかな海辺にその想いを馳せるのだった。
 こうして、彼女はいま、遠からずこの世を去ろうとしているのである。自分でもそれは承知していた。けれども彼女はそれを悲しいことだとは思わなかった。かえってそれを喜んでいた。
 持って出たまままだ開いてみなかった新聞をひろげると、こんな見出しが、ふと彼女の眼にとまった。

巴里に初雪降る

 それを見ると、彼女は、水でも浴びせられたように、ぶるぶるッと身顫いをした。それからにッこり笑った。そして、遠くエストゥレルの群峰やまやまが夕陽をあびて薔薇色ばらいろに染っているのを眺めていた。彼女はまた、自分の頭の上に大きく拡がっている、眼に泌みるような青い空と、渺茫びょうぼうたる碧い碧い海原とをしばらく眺めていた。
 やがて彼女はベンチから起ちあがると、ゆっくりゆっくり自分の家のほうへ帰って行った。時折り咳が出た。彼女はそのたびに立ち停った。余りおそくまで戸外にいたので、ほんの少しではあったが、彼女は悪感さむけがした。
 家へ帰ると、良人から手紙が来ていた。彼女は相かわらず微かな笑みをうかべながら、その封を切って、それを読みだした。

日ましに快いほうへ向ってくれればと、そればかりを念じている次第だ。お前も早くここへ帰って来たく思っていることだろうが、余り当地を恋しがらないで、くれぐれも養生をしてくれ。二三日前から当地はめッきり寒くなって、厚い氷が張るようになった。雪の降るのももう間近いことだろう。お前とちがってこの季節が好きな自分は、おおかたお前もそう思っていることだろうが、お前をあんなに苦しめた例の煖房には、まだ火を入れないようにしている――」

 ここまで読んで来ると、彼女は自分があんなにまで欲しがっていた煖房を、とうとう据えつけてもらうことが出来たことを知って、しみじみと嬉しい気がして、そのままさきを読むのをめてしまった。そして、手紙を持っている右の手は、静かに静かに膝の上へ垂れて行った。一方、彼女はその左の手を、胸をひき裂くかと思われる、頑強な咳を鎮めようとして、口脣くちのところへ持ってゆくのだった。

底本:「モオパッサン短篇集 初雪 他九篇」改造文庫、改造社出版
   1937(昭和12)年10月15日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或る→ある (て・で)置→お 却って→かえって 兼ね→かね 呉れ→くれ 此の→この 直き→じき (て)了→しま 凡て→すべて 其→その 度→たび 何う→どう 筈→はず (て)見→み (て)貰→もら 矢ッ張り→やッぱり 訳→わけ」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
※底本中、混在している「廻」と「」はそのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年6月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。