日曜日――。
 明方四時頃例に依り輕い喘息發作に眼が覺める。アストオル吸入で發作を鎭めて再び眠りに就いたが、この一ヶ月近く毎朝さうして眠りを中斷されるのは叶はない。幸ひ重い發作に進まないので實際助かるが、明方のシインとした寢臺に自分の喘鳴と吸入操作のゴム球の音に一人耳を傾けてゐると、三つで喘息持になつてから既に四十一年、何と息苦しい一生を過して來た事かなどとつくづく思ふ。
 九時過ぎ起床。パンに紅茶、ボイルド・エツグにサラダとお極りの朝食を濟ますと、ざつと新聞に眼を通し、すぐ洋服に着換へて三田四國町の久保田万太郎邸へ行く。昨日の夕刊で奧さんの思掛ない死去を知つたからだ。玄關先の混雜の中で久保田さんに會つて弔意を述べ、二階へ上つて棺前に禮拜する。水上瀧太郎、小泉信三の兩先輩、その他水木京太、勝本清一郎、高橋邦太郎などに會ふ。多方面の弔問客の來往する間、水木、勝本達と夕方まで棺前に侍してゐた。飾られた奧さんの寫眞が眼に就く度ごと、母に先立たれた一人息子の耕一君の不幸不運が身に染みて感じられた。今年の六月妻が乳癌の手術を受けて退院して來たあと、自分は二人の子供達のために今後の自重養生を聊かくどいほどに説き頼んだ。幼少の子供が母に先立たれるなどは自分には考へても恐ろしい。耕一君が前夜のお通夜の疲れを近所の知己の家で休めてゐるといふ話を聞きながら、人知れず胸の迫るやうな氣持だつた。
 夕方、同じく弔問に來た佐佐木茂索とともに暇を告げて銀座へ出た。資生堂で簡單に夜食。暫く銀座通を散歩したが、冷冷とした夜氣の肌寒さに不安を感じて佐佐木と別れ八時過ぎ歸宅。入浴してから一時頃まで「トウルウ・デテクテイヴ・ミステリイス」の十二月號に讀み耽る。

 月曜日――。
 十時近く起床。陰鬱な曇り日。相變らず氣分が重く、體の疲れの脱けきれない感じ。月初めから月なかばまで朝毎の喘息發作を冐しながら仕事に無理を重ねたせゐもあるのだが、どうも晩秋は自分には快適でない。去年もちやうど今頃二十日ばかり床に就いてゐた。
 朝食の時、妻の話に、今朝もまた新しい刑事が二人來て、出入り商人に就いて何か聞き込みはないかと尋ねたさうだ。十日ほど前に家の半町ほど先に起つた女中殺しのためだが、住み馴れて既に二十六年、東京市内にもこんな閑靜な好ましい屋敷町はさうあるまいと思つてゐた[#「思つてゐた」は底本では「思つつてゐた」]ほどの町内も、あの騷ぎですつかり臺無しにされた感じ。不快この上もない。袋地の奧にある自分の家、出入りの度毎に厭やでも眼に著くのだが、古い日本家を洋風まがひに造りなほした、さう言へば如何にもそれらしい變に陰氣臭い感じの小住宅で、殺された女中の可憐な一田舍娘らしい容姿もぼんやり自分の頭に殘つてゐる。それにしても、近頃盛に探偵小説を愛讀する自分だが、小説の上ではスリリングな殺人事件も現實に近所に起つてみると甚だ以て有り難くない。いや、實に厭やな氣持だ。
 午後、久しく書き怠つてゐた手紙を書く。伏木の妹夫婦へ姪の縁談に就き、ニユウ・ヨオクの妹夫婦へ雜信、仙臺の小池堅治氏へ同氏の著書出版の交渉經過に就き、本郷の北岡壽逸君より亡妻追悼録を贈られた謝禮、その他俗用の葉書三つ。それから暫く讀書。四時半から五時半頃まで晝寢する。
 夜食後、暫くレコオドを聽く。ベルリオズの「幻想交響曲」、ドビユツシイの「海」、シヨパンの「ピアノ協奏曲」、最後にお氣に入りのリストの「ハンガリイ狂想曲第六番」、近頃暫く落ち着いてレコオドを聽く暇もなかつたので今夜は少し盛り澤山だ。それにしても、ここ八九年の間隔をおいて自分のレコオド熱は俄然復活して來た。八月の末に新しい電氣蓄音機を購ひ得たせゐだが、とりわけレコオドの録音の進歩に驚歎する。大正時代の熱中期に買ひ集めた二百餘枚のレコオドのかびさへはえてゐたのを拭き磨いて今更の如く掛けてみるのだが、こんなのを嬉しがつて聽いてゐたのかと呆れるばかりだ。
 七時頃和木清三郎から電話。明日の久保田万太郎夫人の告別式にお辭儀役の件、勿論そのつもりでゐたので謹んで承諾する。十二時過ぎまで讀書。戸外に雨音が聞え出した。

 火曜日――。
 九時起床。しとしとと晩秋らしい冷雨が降りしきつてゐる。時しも久保田万太郎夫人告別式の日、何やら如何にも降るべき時に降つたとも言へるやうな蕭絛たる小さはしい雨だ。正午過妻とともに本郷の喜福寺へ急ぐ。一時から二時過ぎまで井汲清治、和木清三郎、勝本清一郎達と肩を並べてお辭儀役。時時風を交へて降りまさる雨のしぶきの中、文壇藝苑の華やかな顏の往き來を前にして、不遜にもこのお辭儀役達必ずしも神妙に控へてもゐなかつたが、とにかく役目を濟まし、最後の燒香を終へてホツと一息吐いた。
 混雜するお寺の玄關先、水上瀧太郎さんにふと紹介されて喜多村緑郎丈と初めて詞を交へた。自分が十八の中學四年生の秋、それまで見ず嫌いで一度も見た事がなかつた芝居といふものを偶然の事から初めてみたのが本郷座の新派劇「白鷺」、そのヒロインのおつたで心憎くもたつた一度で自分を一時有頂天なほどの芝居好きにしてしまつたのが喜多村緑郎丈だつたが、今や向うは龍土町、自分は新龍土町と一町ほどの近所に住む間柄だ。
「同町内のよしみで……」と、挨拶すると、「いや宜しく……」と、三十年に近い「白鷺」の昔ながらに一向年をとつても見えない、覇氣充ちあふれた、この不思議な名女形は齒切れのいい句調で言つて、輕い皮肉めいた微笑を口元に浮べながら、「然しお宅は上の方の町内でせう? こないだ女中殺しのあつた……」
「ははは、物騷な方か……」と、引き取つて咳き、水上さんが顏を笑ひ崩した。
 三時前歸宅。モオニングを和服にくつろいでガス暖爐の前に坐ると間もなく、これも同町内の梅原龍三郎さんから電話。先方の臺灣旅行でこのところ久振の將棋の挑戰だ。時もよし、ござんなれと待つほどもなく、先づお土産の大甲藺製の卷煙草入を頂戴し、臺灣の話もそこそこにして早速一番、ところがこれが意外の大亂戰となつてしまつた。序番自分よく、中盤惡手から駒損となり玉再再ならず窮地に陷つて、梅原さん意氣大に上つてゐたが、自分屈せず腹を据ゑて長考幾度、やがて百二三十手頃の終番に近く、隙を見て奮然逆襲、敵の應酬の失を捉へて過に勝名乘を擧げてしまつた。正に一時間半餘に及ぶ珍しき力戰、梅原さんの無念の色は深かつたが、かういふ一戰は負けても勝つても寧ろ憾みなしと言ふべきか?
 六時過、和木清三郎、倉島竹二郎來訪。雜談の後、再び棋戰を交へてゐると、突然東日社から倉島君へ電話。神田七段の昇段問題で日本將棋聯盟に紛擾起り、分裂の危機に頻すとの事、お役目柄倉島君忽卒として暇を告げて行く。入れ違ひに文藝春秋社の文士劇の舞臺稽古をして來たといふ佐佐木茂索來訪。三人で暖爐を取りかこみながら雜談、再び棋戰交交、つい十二時近くになつてしまつた。

 水曜日――。
 昨日一日の疲れか明方やや強い喘息發作、アストオル吸入で鎭まるには鎭まつたが何やら不安なのでエフエドリン一錠半服用、例の陶醉的作用でやがて再び昏昏と眠り入る。十二時近く起床。幸ひ發作はすつかり止まつてゐたが、劇藥的な錠劑服用のあとで頭重く、體だるく、氣分がひどく陰欝だが、さういふ状態を人には出來るだけ平然と裝つてゐたいのが變に意地つ張りな自分の癖だから、それか自らには一そう内訌する。こいつが晝には全くやりきれない。生きる事の辛さを感じる。
 三時頃、散髮でもしようと思ひ立つて家を出る。電車通で息子さんを連れた大宮春枝夫人に會ふ。息子の勉強の事で今お宅へ御相談に行く所だといふ。家へ戻らうといふと、それには及ばぬといふので、立話で用件を聞いて六本木の散髮屋の方へと別れる。別れてから、やつぱり自分は少少不機嫌なのだなとすぐ思ふ。いつもの自分ならあれほど息子さんのために心を碎いてゐる春枝夫人のために進んで家へ戻つたに違ひなかつたから。然し、今や二十餘年お馴染みの散髮屋でクシヤクシヤした頭をいじつてもらひ、お互に口數は少い方だがポツポツ氣樂な世間話を交へてゐる内に、何となくふさぎの蟲の飛び散つて行くの感じた。そして、頭を洗つてサツパリして理髮屋を出ると、近所の古本屋二軒で暫く隙を潰した。一軒ではエラリイ・クイインの「エヂプト十字架の祕密」と「ロオマ劇場事件」と「支那オレンヂの祕密」の邦譯三册を、一軒ではアガサ・クリスチイの「ハゼルムウアの殺人事件」とカアメン・エデイングトンの「撮影所殺人事件」の二原書を買ひ求めた。
 夜食後、ストラヴンスキイの「火の鳥」を聽く。ストラヴンスキイ自身の指揮したものだが、これは新しく買つた内で一番出色のレコオドだ。「火の鳥」といふと、亡き小山内薫先生の事を思ひ浮べる。先生はこの舞踊曲を向うで聽かれ、その素晴さを話された事がある。そして、そのレコオドも買ひ歸られ、一度聽かして戴く約束をしながら、どういふ譯か自分はとうとうその折を持たなかつた。ニジンスキイの踊にもこれがあるが、先生は何しろこの音樂が非常にお好きだつたらしい。十時過ぎ「エジプト十字架の祕密」を讀みながら、體工合の不安な感じで早寢した。

 木曜日――。
 九時前起床。明方の發作今日も少し重くエフエドリンを服用したが、この四五日にない秋晴れの穩かな日で割に氣分がいい。間もなく煙草專賣局の本所工場觀覽招待に同行を約した内田誠君から、久保田夫人告別式の歸途自動車事故で足に負傷したのでお伴出來ぬと斷りの電話が掛かる。それで馬場孤蝶先生と二人だけで行く事になつた譯だが、お宅へお迎ひになどと思つてゐる矢先ちよつとした客來があつたので、お約束のまま午後一時に京橋の明治製菓賣店の前で先生と落ち合ひ、すぐ本所工場へ向つた。
 工場の觀覽は我我煙草好きには甚だ興味深い筈のものだつたが、結局割に單純な「曉」の製作課程を見せられただけで、殊に自分は横濱の博覽會でその中心部分を既に見た事があるので、全く期待はづれの始末だつた。而も、ついうつかりと生温い空氣のむつとした煙草葉乾燥室へはいつた刹那、輕い喘息の發作を誘發され、あとになつて今日は珍しく用心深く携へて來たアストオル吸入器が役に立つやうな羽目になつてしまつた。
 三十分あまりで工場を出ると、馬場先生と自分とは厩橋あたりの隅田川岸へ出て、川沿ひに兩國の方へ歩いて行つた。先生との散策はまるで明治文學史と歩み動くやうな感じだ。話はお好きだし、御記憶は生き生きしてゐるし、御藏橋の近くで齋藤緑雨の死を思ひ出されて、明治三十七年の十一月の或るうそ寒い夕方、幸田露伴、與謝野寛、戸川秋骨の諸氏とみすぼらしい座棺のあとに從ひながら、三河島火葬場へ向ふべく同勢わづか七八人でその御藏橋を渡つて行つたといふお話などは、殊更に自分の胸を強く打つものがあつた。
「みじめなものだつたんですね、あの時分の人達は……」と、自分は思はず先生を顧みてやや叫ぶやうにして言つた。
 報いられる事薄かつた明治時代の文人の中でも、緑雨は恐らくその不遇なるものの隨一人だつたであらう。それにしても、自分の少年期の長崎時代の思出に漸く殘る粗末な感じの座棺に收められて、その人をよく知る者の十指に充たぬ人達の葬送を得るに過ぎぬとは何といふ佗びしさか? その頃の隅田川岸と言へば自分の記憶にもぼんやり浮ぶが、低い家の立ち並んだ薄暗い泥の道、晩秋のうそ寒い川風の中をトボトボと辿り行くであらう寂しい葬送行進曲! それが明治文學史にあれほど特異な存在を刻みつけた文人の人生への告別だつたのだ。
 兩國橋の袂で先生と自分は一錢蒸汽に乘つた。隅田川へくると自分はきつとこれに乘る。芥川龍之介とも乘つた事があるが、何か間のぬけたのびやかさが好きなのだ。先生が臺灣旅行の話をなさると、自分は支那の旅を語る。例の呼び賣りの出現から腕無し藝者の妻吉の話が出る。妻吉が一錢蒸汽の中で自分の繪葉書を賣りつけられた話、上陸の時船員が手を取つてやらうとしてはめてゐた義手を掴み、それがスポリとぬけたのに驚いて腰をぬかした話。いつしか蒸汽は吾妻橋へ着いてゐた。
 穩かな行樂日和に淺草は賑かだつた。仲見世をブラブラ歩いて行く内に自分は少し息苦しくなつて來たので、梅園へはいつて一休みした。そして、さういふ姿をお眼に掛ける失禮をお詫びしながら、暫くアストオル吸入器を用ゐた。幾らか樂になつた。小倉汁粉をすすりながら三十分ほどを過す。それから淺草寺觀音へ詣でて、奧山から瓢箪池の橋を渡つて活動街へ。相變らずいろいろとお話を伺ひながら、やがて田原町へ出た。
「銀座へ參りませう?」と、自分は更に先生をお誘ひして自動車を呼び止めた。
 さてもさても心樂しき半日かな。慶應義塾の文科生時代に級友の井汲清治、福原信辰、それに今は亡き宇野四郎等と先生ともどもに銀座へ歩き出たりした事は幾度かあつたが、その頃から殆ど二十年振の今日思掛ない事柄が老先生とのかういふ半日を與へてくれた。健康がもつと滿足だつたら聊か憾みだつたが、それから銀座の資生堂で簡單な夕食をとりながらお話を伺つてゐる内に喘息の發作が幾分強まつてくる氣配だつた。
「畜生つ、畜生つ……」と、内心に呟きながら、手洗所へ立つて、わざわざ扉のある方へはひり、聊かあせるやうな氣持でアストオル吸入をつづけてみるのだつたが、もう駄目だつた。どうやらほんとの發作に進んでしまつたらしかつた。が、そんな氣配を今日殊更に先生にお見せるのは厭やだつた。そして、戸外の薄暗くなる頃まで自分はさりげなく先生との雜談に時を移してゐた。
 六時過ぎ資生堂の前で先生とお別れした。夜店を見に行くとおつしやる先生とまだお別れしたうもない心持だつたが、だんだん強くなつてくる息苦しさには勝てなかつた。畜生つ喘息め! 畜生つ喘息め! 自分は自らに腹を立てながらすぐ自動車に乘つた。
「厭やアね、もつと早く歸つてらつしやればいいのに……」と、息を喘がせながら内玄關で靴をぬいでゐる自分の姿を見ると妻が如何にも簡單な感じでさう言つた。
「馬鹿つ……」と、自分は思はず言つた。さういふ時には妻にも、いや、恐らく誰にも腹立たしい。さうして實に佗びしい他人を感じる。それは喘息持ちにして初めて知り得る不幸であるらしい。
 エフエドリン二錠を服用してすぐ臥床。
 金曜日――。
 土曜日――。
 二日とも喘息發作で遂に臥床。今年は元日以來一度も病臥に及んだ事なく、生れて初めての輝かしき記録だつたが、やつぱり一年間とは通せなかつた。然し、アドリナリン注射を要する強烈な發作には至らずに濟んだ。そして、臥床のお蔭で文藝春秋、三田文學、中央公論、改造、話、オオル讀物、モダン日本などの十二月號、エラリイ・クイインの三作、それに土居市太郎八段から贈られた「將棋作戰學」までも讀み上げてしまつた。この點だけはたまの病臥も惡くないと勝手な事も思ふ。
 日曜日――。
 やつと喘息發作も鎭まつたので、午後の半日だけ起きてゐたが、夜再び床に就いてラヂオなどを聞いてゐる内に變に體に寒氣がし出したので檢温器をあててみると八度一分、十一時にはそれが九度二分なつてゐた。以前發作で五日一週間を臥床して、それが鎭まる前にはきつと九度、四十度の發熱がお極りだつた。高熱による體内の異和が發作に何が影響するのであらう。これで十月中旬來引きつづいての朝毎の喘息發作も一おう納るのだらうと思ふと、恐らく人によつては非常な苦惱に違ひないところの九度二分の發熱も自分には何物でもなく、一種の肉體的福音なのだ。が、ただいつまでも眠りつけなかつたのはさすがにちつと閉口だつた。(終り)

底本:「三田文學」三田文學會
   1936(昭和11)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
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