一代の人気女優、ド・リュジイ嬢は、給料の問題で、作者にも金を払はなければならないと云ふことを聞いて、「何だつて。一体作者なんて云ふものを、なしにするわけには行かないかね」と、やつつけた。ラ・カメラニイ夫人もまた、オペラ座の化粧部屋に納つて、「作者なんぞゐるうちは、芝居の繁昌するわけはない」と宣言した。それが、仏蘭西のことである。しかも、そんなに旧いことではない。
 モリエール、マリヴォオを先輩と仰ぐ仏蘭西劇作家である。それくらゐのことを云はれても腹は立てまい。まして、相手は男に非ず。たゞ、さう云はれながらも、書いたものが舞台に上り、舞台に上つたものが相当の金になり、金にならずとも、いくらか見てくれ手があればまだいゝのであるが、実際さうなるまでの手数が大変である。先づ脚本を書く、勿論傑作である。成る可くなら原稿はタイプライタアで打つ。人に打たせるなら、それは大抵、若い女だ。批評の悪からう筈はない。原稿は、自分で持つて行くよりも「彼女」に持つて行かせた方がいゝ。なぜなら、劇場の門番は、おほかた無名の天才に対して冷酷だからである。反感さへ持つてゐるらしい。「これをどうぞ」「今、大将は忙しいんだがなあ」「こつちは別に急ぎませんから」門番はにやりと笑ふのである。四十日経つと、返事を聞きに行くのである。勿論、原稿を返して貰ひに行くのと同じことである。「まだ見てなさうですが、もつとお預りして置きますか、それとも持つてお帰りになりますか」――持つて帰りますと云ふ元気ありや。「わが原稿は眠れり」――無名作家の嘆声である。脚本の原稿は劇場に持ち込むときまつてゐる。雑誌社なぞでは受けつけてくれない。(ミュッセは大方その戯曲を舞台に掛けないつもりで雑誌に発表した)
「あゝ、××さんですか、お作を拝見しました。結構だと思ひますが、あの第三幕ですがね」劇場主の注文が出る。
 然し、こゝまで漕ぎつければ、もう占めたものである。占めたと云ふ意味は、つまり、為事にありついたわけである。
 そこで、劇場主との間に契約が結ばれる。上演は受附順と云ふきまりになつてゐるが、なかなかその通りに行かない。延ばされても苦情は云へないやうになつてゐる。損害賠償を要求するにも理由が成立しないからである。
 此辺の交渉は、どうしても作者単独では駄目である。まして、上演はするが金は出せないと云ふ劇場主に対して、出せ出さぬの押問答は無益である。コルネイユは自作の上演料だけで生活は出来なかつた。その後、上演料に関する劇場の内規が出来はしたが、勿論、俳優殊に劇場主本位のものである。十七世紀末、勅令によつて作者に支払ふべき上演料を決めたが、多くの例外規則が出来て、作者は常に虐待され勝ちであつた。
 此の状態から劇作家を救つたのが、「フィガロの結婚」の作者、ボオマルシェである。彼は宣言した。「成るほど、名誉は有難い。然し、その名誉を、たつた一年間背負ふために、三百六十五日、飯を食はなければならないことを忘れて貰つては困る。軍人や裁判官が、堂々と俸給を貰ふのに、どうしてミュウズの情人どもは、パン屋の勘定に苦しめられながら、役者たちと金の談判が出来ないのだ」一七七七年、デュラの後援を得て、劇作家協会を設立した。ディドロは、その隠退所から盛に声援したものである。
 劇作家の利権は、漸次法律によつて擁護されるやうになり、例へば、上演料も、作者生存中支払ふべき規定が、作者の死後十年間、遺族がこれを受くべきことに改正され、次で、それが五十年まで延ばされるに至つた。処で、五十年後は、如何なる作品も公衆の所有に帰するわけであるが、それもなほ、現存作家の利害問題に関すると云ふので、一代議士は、先年、五十年以上を経過した作品と雖も、その上演料(或は印税)は文芸奨励資金として事業家より徴収すべき法律案を提出した。
 五十年と云ふ作家遺族の利権は、屡々、論議されたが、その長きに過ぐと云ふ説に反対して、「文学者の子孫は、概して、父祖の精神過労による健康上の影響を受けて、生活能力の微弱なことが統計上示されてゐる。従つて、父祖の恩恵を蒙るべき期間は、他の場合と同一に視てはならない。」と云ふ社会的主張が勝を制したと云はれてゐる。
 そこで、上演料に関する現行規定であるが、実際は、各契約に於いて協定されるので、作品の価値、殊に作者の名によつて、更に劇場の性質によつて差異がある。たゞ、あくまでも、一興行収入(純益に非ず)の歩合制度を守つてゐる。その歩合は、八乃至一八パーセントの間を上下してゐる。例へば、ポルト・サンマルタン座は一〇パーセントと云ふ規定であるとすれば、一晩の収入が二万法以下のことはないのだから、二千法になる。一晩三百円なら、そんなに悪くない。
 劇場主と作者との契約に於いて、此の歩合を決定するばかりでなく、最小限の興行日数を予定する。これが劇場主に取つては一つの冒険である。大概なら、その期限だけはやり通す。また、その期間だけやつて貰ひたさに、或る種の譲歩をする作者もあるらしい。
 現在の劇作家協会は、その事業として、第一に上演の保障、第二に救恤金の積立、第三に新進作家の擁護を標榜してゐる。第一は先づ申分の無い成績を挙げ、第二も老朽作家の保護、寡婦孤児の扶養、医療設備、購買組合等に著々実績を挙げつゝあるやうである。たゞ、第三が思はしく行かない。
 会員を三種に分け、第一種会員は、八幕以上を上演し、四百法を拠金し、且つ二名の同種会員により推薦されたもの、第二種は、たゞ三幕以上を上演したもの、第三種はそれ以外のものとなつてゐる。従つて、誰でも会員になれるわけである、勿論会員の種別によつて、擁護せらるべき利権の範囲が違ふばかりである。
 会規は一々こゝで挙げる必要もあるまい。同協会と契約を結んでゐない劇場で会員の作品を上演することはできないとか、会員が個人的に関係のある劇場で自作を上演させる場合の特規とか、殊に、協会と劇場とが取交した契約より不利な条件で、会員がその劇場の一つと契約を結ぶことは出来ないとか、会員が自己の経営する劇場で自作を上演する場合の制限とか、(これは興味のある問題で、久しく仏国劇壇を騒がした。結局、劇場創立後三年間は無制限に自作を上演し得るが、その後は、或る割合で、他の劇作家の作品を上演する義務を負ふことになつた)その他、劇作家一般の利権擁護に関して詳細な規定が出来てゐる。
 劇作家協会は、多数劇作家の利権のために少数の劇作家を敵としたこともある。即ち、劇作家にして劇場主たる少数の幸運児を相手取り、前述の義務履行を迫るために訴訟を提起した。弁護士レイモン・ポアンカレは、当時、劇作家協会のために光彩ある弁論を試みた。嘗て代議士ミルランが、議会に於いて、自由劇場の功績を称へて、政府の没理解を攻撃したのと一対の佳談である。そして、日本の名ある政治家に一寸真似なりとして貰ひたい芸当である。
 最近に制作劇場主ルュニェ・ポオを相手取り、元同劇場専属俳優にして劇作家なるジャン・サルマンが、自作の上演権取戻しに関する争議を捲き起し、一時劇壇の注目を惹いた。時節柄、ポオは四面楚歌の声を受けて、たうとう譲歩したやうだが、これも、劇作家協会に加入してゐなかつたサルマンが、ポオの搾取に遇つてゐたわけである。それは表面の問題で、実際、二十を越えたばかりのサルマンが、自作を上演して貰へると知つたら、どんな契約にでもサインしたに違ひない。処が、其のお蔭で、此の青年は新進作家の錚々たる列に加へられる。さうなると、もうポオから小僧扱ひにされるのが癪に触る。そのうちに、出世作「影を釣る人」を持つて細君と一緒に旅行がしたくなつた。ポオが承知しない。契約書をつきつける。制作劇場以外では上演しないことゝ書いてある。一度制作劇場を飛び出したサルマンは、将来自作を自分が演ずることはできないわけである。そんな無法な話はない。こゝが論争の起点である。アントワアヌやベルンスタインなどが頻りにサルマンの肩を持つてポオの横暴を責めた。ポオは飽くまでも契約書と、二人の関係と、当時の情誼的交渉とを楯に取つて譲らない。制作劇場でなら何時か上演する。それ以上云ふことはないと頑張る。その間に、今日まで作者に支払つた上演料などの真相が暴露して、サルマンに同情するものが殖えてくる。サルマンはたうとう劇作家協会に加入して、その力を藉りることになり、結局、云ひ分だけは通つたが、少々男振りを下げた。偉くなると昔のことは忘れたがる。相手は、昔のことばかり云ひたがる。お互にわるい癖だ。
 一方に、大家あり、流行作家あり、一方に駈出しあり、不遇の自称天才あり、これを総称して劇作家と云ふも、その実は、全く別種の人間である。一方が王侯の生活を営み一方が道ばたの溝掃除に等しい暮しをしてゐるからと云つて、それがあながち不公平だとは云へないわけである。然るに、弱いものが集つて団体を作り、少し強味を感じ出すと、その団体は頭と尾と妙に反りが合はなくなる。その団体はつまり頭のためにのみ存在するやうな観を呈して来る。尾の方が、それでは承知しない。此の尾の方に属する連中が、頭の連中に対抗して更に一団を形ることになる。それが、新しく起つた劇作家組合である。つまりプロ劇作家協会である。プロ劇作家は左傾党である。従つてサンヂカリズムの共鳴者であるのみならず、モスコオの国際労働組合と気脈を通ずる連中である。早く云へば革命党である。この革命党、政治的主張は、甚だ過激であるが、職業の立場からは、なかなか如才がない。一方、筋肉労働者と握手して、君等こそ、われらのカマラアドと誓ひを立てながら、組合で劇場を立てるために、一度砂をかけたブル劇作家協会に寄附を申込んだ。
 一寸面喰つたのはCGTの荒武者連である。「劇作家つて云や芝居の筋を作る先生だが、名前を見て見ると、一向聞いたことのない名前ばかりだ。アンリ・バタイユとか、トリスタン・ベルナアルつて云ふやうな先生はどうしてへえらねえんだ」と疑い出した。「そんなら、劇作家がへえつたつて、別にCGTの名誉にもならねえ」と思つた。然し、同病は日ならずして相憫み、相愛し、相助けるやうになつた。こゝで特筆すべきことは、貧乏ではないがコンミュニストの一劇作家は、久しくヴォオドヴィル座に原稿を「眠らされ」てゐたが、劇作家組合に加入して、CGTの仲間入をすると、すぐに同劇場の機械係、小道具係、電気係等の運動でその脚本が上演され、サンヂカリズムの予期せざる効果が現れたことである。

 そこで、今後注目に価するのは、此のCGT劇場である。無資力無後援の隠れた才能を世に出すと云ふのが同劇場の目的であるとすれば、必ずしも主義宣伝劇に終始するわけでもあるまい。
 一度上演された脚本は、始めて単行本として印刷される可能性ができるわけである。前にも述べたやうに、脚本の原稿を本屋や雑誌社に売込むと云ふことは先づ絶対に無いと云つていい。この点、日本などゝ反対のやうであるが、今、遽かにその可否を断ずることは出来ない。
 成るほど、仏蘭西(英独あたりでも同様だと思ふが)のやうな国では、劇作家が舞台以外で自作を公表する方法が無い。従つて、上演しさへすればその価値を認められるやうな作品でも、比較的長く人目に触れないでゐることが多いかも知れない。せめて印刷されて、読まれる機会でもあれば、さう云ふ人達に取つては幸せであらう。然し、一方で、さう云ふ国の劇場主は、競つて優れた新作品を探し出さうとしてゐる。勿論、評価の規準はまちまちに違ひない。たゞ、「佳いものなら、上演しよう」と待ち構えてゐる劇場が相当にある。大家のもの、人気作者のものでなければやらないと云ふやうな劇場も可なりあるにはある。が、それだけまた、権威ある批評家、劇壇の耆宿、理解ある舞台監督等が、常に、若い無名作家の原稿を読んで、佳いものがあれば相当の劇場に推薦することを努めてゐる。アントワアヌの如きは、今日に至るまで、机上に堆高く積まれた原稿を、根気よく片端から読んで行き、百のうちに一つでも掘り出し物があれば、「自分の仕事は無意義でない」と思つてゐる。キユレルなども、その点にかけては、頼母しい先輩だと云ふ話である。
 一興行二時間半乃至三時間半、その間に、一作家の一作品を上演する。それが原則であるから、劇場主と作者と主役俳優との関係は頗る緊密である。一つの出し物が「当れ」ば幾月でも打ち続ける。歩合でふくらむ作者の懐ろ加減想ふべしである。
 たゞ、営利を目的としない劇場では、交互上演法によつて、出し物を毎日入れ替へる。一攫千金を夢みる作者は、かう云ふ劇場をあまり悦ばない。
 作者対劇場主及俳優の問題について、いろいろ研究すべきこともあるが、あまり立ち入つた話しはやめにする。
 序に、劇作家協会は作曲家協会と合併したことを附け加へて置く。協会の内容は、何時かもつと詳しく紹介したいと思つてゐる。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「新選岸田國士集」改造社
   1930(昭和5)年2月8日発行
初出:「演劇新潮 第一年第四号」
   1924(大正13)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2006年2月20日作成
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