仏蘭西の演劇聯盟乃至劇研究団体について何か書けといふ御註文ですが、御承知の通り、仏蘭西人は、頗る社交的ソシアブルであると同時に、極めて自立的アンデパンダンで、社会的ソシエテ交際は盛んであるが、組織的団体アツソシアシヨンを作ることはあまり好まない。大きな欠点とも云へるでせうが、そこにまた、民族的文化の特質があると思ひます。
 大阪演劇聯盟の組織や事業については、僕はまだよく研究してをりませんが、これに類するものが、独逸や亜米利加に――従つて日本に発達する可能を以てをることも亦民族的特質――従つて欠陥の半面を語るやうに思へます。
 僕は滞仏中、劇場はもとより、色々な芸術的団体に接近する機会も少くありませんでしたが、少数の「先駆芸術団体」を除いては、一般公衆の、言ひ換へれば、素人アマトウールの「芸術研究団体」といふものがあるのを聞きませんでした。所謂素人劇団は沢山あります。然しそれは、所謂劇壇なるものと全く没交渉で、金などを取れば、それこそ人が見には行きません。
 それならば、公衆は演劇鑑賞の標準を何によつて定めるかと云へば、たゞ個人的趣味によつてと云ふより仕方がありません。勿論、専門の劇評家は毎興行の初日に、筆を揃へて各新聞の劇評欄を賑はせます。之を見て、どの劇場に行かうとか、今度は面白さうだとかいふ、つまり観劇の動機を与へ、その方向を決定することもあるでせう。然し、やつぱりその人その人の教養、趣味によつて、劇場を選び結果を評価する以外に、そしてそれが屡々輿論を作る以外に、他動的な、又は団体的観劇組織といふやうなものは全く無いと云へます。
 それなら、仏蘭西の公衆は、何れも劇芸術の何ものたるかを解し、優れた作品を翫味する能力があるかと聞かれゝば、即座に然りと答へることが出来ないにしても、「否」と答へることは、少くとも、その比例に於いて躊躇しないわけに行きません。たゞ「芝居に行くのは、楽しみに行くのだ」「感心はしても、くつろいだ気持になれないものは、われわれは御免だ」さういふ人は沢山ある。幸なことに、仏蘭西には色々な意味でゞはありますが「面白くない芝居」といふものがない。低級な――芸術的には――芝居を見に行つても腹の立つやうなことは滅多にない。気の毒になるやうなことはない。安心して芝居が観れる。これだけは有難い。

 演劇講演会は、時々あります。劇場が主催することもあり、コンフェランシャの如き講演機関が主催することもあり、また学校が主催することもある。然し聴衆は固より一定してゐません。
 演劇に関する研究雑誌、研究書籍が極めて少く、殆ど無いと云つてもいゝのは、兎に角、仏蘭西の公衆が、演劇に冷淡な為めではなく、又専門家が不親切な為めでもなく、仏蘭西人は一番「芸術は学問でない」ことを心得てゐるからでせう。それよりも、「理窟を云はなければ芸術がわからないと思つてゐる」連中が割合に少いからでせう。
 無名作家の劇的作品募集といふやうなことも、近頃、「既成作家」の一部が集つてやつてゐますが、また新劇団体の一つが、それをやつたことがありますが、素人が集まつてそんなことをやつてゐる様子はありません。
 それよりも、一時、批評家の間で「無名作家撲滅会」といふものを組織してはどうだといふやうな議論さへありました。それは猫にも杓子にも脚本が書けると思ふ弊風――どこでも同じと見えます――を一掃する為めだといふのです。これは結局、不幸な文芸落伍者を少くするといふ意味で、有意義な社会事業だといふものもありました。つまり無名作家の作品を募集して、一々、それに対する意見を述べ「そんなもの」を書く不心得を諭してやるのです。そして、「そんなもの」を書く暇に手職でも覚えることを勧告してやるのです。どうです。大阪演劇聯盟でも、さういふことをおやりになつては。

 第二に、日本の芝居についての感想をといふ御註文ですが、これは、どうも、あまり芝居を見に行かず、殊に日本の劇壇の事情に疎い僕にとつて、甚だ危険な問題かも知れません。見当違ひを平気で云ひさうな気がします。若し変なことを云つたら、どうか、読者諸君の御叱正を願ひます。殊に大阪のことは、全く不案内ですから、次に述べることは、東京だけのことゝ思つていただきます。
 先づ、旧劇は、あのまゝ、そつとして置きませう。僕はちつとも不満がありません。西洋人にはわからないところなど、大にいゝと思ひます。
 次に新派劇ですが、これは何んとかしたいものです。僕は、脚本がつまらないから殆ど見に行きませんが、所謂俳優の芸としては、新派劇、決して軽視すべきではないと思つてゐます。それ処か、新劇などゝいふ「いかもの」を無暗にかつぎ上げるかはりに、新派劇が今迄開拓した、磨き上げた、ほんたうに「物になつてゐる部分」を、そのまゝ、これからの芝居に取り入れて、「明日の演劇」を作るやうにしたいと思つてゐます。
 新派の脚本といふものは実際ひどい。馬鹿馬鹿しい。通俗劇でもいゝから、せめて、ほんたうの感動を与へてほしい。それでも見物は見に行きます。それは、つまり新劇といふやつが、一層「面白くない」からでせう。
 新劇はなぜつまらないか。これは、役者らしい役者、言葉がわるければ、役者と云へる役者がゐないからでせう。それでゐて、徒らに「六ヶ敷いもの」をりたがる。「深刻めいたもの」をやりたがる。「非戯曲的な戯曲」をかまはずに舞台にかける。見物の迷惑此の上なしではありませんか。翻訳劇と云へば、すぐに、イプセン、ストリンドベリイ、……ゲオルグ・カイザー……ですか。創作劇と云へば何は扨て置き……いや、こいつは、あとにしませう。
 処で、これも日本人の悪い癖ですが、総て仕事を甘く見る。人がやる、すぐに自分にも出来ると思ふ。やつて見るとうまく行かない。あゝおれは駄目だ、死んでしまはう。一寸お待ちなさい。あんた、なかなかうまいぢやありませんか。さうかしら、ひやかしちやいけません。ひやかしやしません。あんたぐらゐにいけば、どこへ出ても恥かしくない。ほんたうですか。ほんたうですとも。早い話が、あんたゞけの××をもつてゐるものは、そんなにたんとはありませんよ。まあ、もう一度、やつて御覧なさい。うむ、うまいうまい。見込があるでせうか。なに、そんなに有名にならなくつてもいゝんです。え、もう新聞に出てゐましたか。やつぱり、人がゐないんですね。私、今度、かういふことをやつて見ようと思ふんですがね……
 女学校で歌を作ることを習ふ。歌人にならうと思ふ。ヴァイオリンを習ひ出した。舞台で着る裳模様が目に浮ぶ。作文が得意だ。原稿用紙に自分の名前を刷り込ませる。校友会の余興劇で主人公を演つた。『俳優表情論』を書いて『×劇×誌』に送りつける。「黒白」を弁ぜざるも甚しいではありませんか。
 よく人が云ふことではあるが、素人劇といふものが存在し得るだけに、芝居の「玄人」にはなりにくい。然し、現在の日本には、現代劇を演ずる為めの「玄人」が欲しいのです。現代劇を書く為めの「玄人」が、もつとあつてもいゝのです。現代日本の劇作家中、二三人を除いては、みな「玄人面をした素人」だと断言して憚りません。
 素人なら、素人らしい芝居を見せて貰ひたい。そこからだんだん、「現在の玄人には無いもの」が生れて来るのも事実です。然し、それが為めには、玄人のやらないこと、玄人では出来ないことをやつて欲しい。今の日本の現代劇が面白くないのは、素人劇だからと云ふだけではない。素人が玄人の真似をしてゐるからです。
 新劇の俳優に玄人と云へるものがないと云つて置きながら、玄人の真似とは如何、かういふ反問に答へることは、頗る容易です。これは、新劇の開拓者が、西洋の真似をした。真似の出来るところだけ真似をした。主に表面だけ、形式だけ、言ひ換へれば、半分だけ真似をした。内容と本質は、即ち残りの半分は、在来の芝居、又は間に合せの芸当でお茶を濁した。在来の芝居からは、比較的下らないものを随分取り入れてゐる。無意識的に取り入れてゐる。之等の新劇の開拓者の功労は、勿論認めなければなりません。また、色々な事情で、さういふ人達の理想は実現されなかつたでせう。然し、兎に角小成に安んじた――と云つて悪ければ――あんまり早く玄人のやうなつもりになつてしまつたのです。
 そんなら、どこまでが素人で、どこからが玄人か、そんな馬鹿なことを尋ねる人もありますまいが、それはつまり、修業の程度にあると云ふより外はありません。
「玄人の芸は型にはまつてゐていけない」。これは新芸術愛好者のよく口にする文句です。僕も、そのうちに、さういふことを云ひ出すかも知れません。たゞ、今のところ、日本に現代劇と云はるべき「殆ど完成した」芸術的演劇がまだその形を成してゐないことは、何と云つても心細い。
 そこで僕は、前にも云つたやうに、素人劇団でもいゝから、もつと「面白い芝居」を見せる工夫をして貰ひたいのです。それには危なかしくつてもいゝから変に固苦しくない、重苦しくない、かさかさ、或はじめじめしない、馬鹿馬鹿しくてもいゝから朗らかな、気取らない、大胆な、然し、常に聡明な、趣味の優れた作品を選んで、よく稽古を積んで、金なんか取らないで見せるくらゐの覚悟でかゝつて貰ひたいのです。
 さういふものゝ中から、やがて、ほんたうのものが生れて来るかもわかりません。
 要するに、歌舞伎劇以外に、「面白い芝居」が出て欲しい。われわれの芝居をもちたい。これが僕の現在の願ひです。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
   1926(大正15)年4月24日発行
初出:「舞台評論(大阪演劇連盟機関雑誌) 第四十一号(十月号)」
   1924(大正13)年9月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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