僕は嘗て、築地小劇場の上演目録について希望を述べたことがある。今度また、新劇協会が文芸部を設けたについて、その点に触れた一文を草した。
 偶々、先日帝大劇講演会に列して、林和氏の講演を聴き、文芸座の上演戯曲選定方針について興味ある意見に接し、更に、今日築地小劇場が、来年度より創作劇を上演するといふ、歓ぶべき報道を読んで、もう一度、此の問題を考へて見たくなつた。
 従来の新劇運動史――少くとも欧洲に於ける――を研究して、最もわれわれの心を暗くするものは、優れた芸術的性質を恵まれた新劇団が、多くは、経済的窮乏に陥つて、再び起つ能はざる悲運に遭遇してゐることであるが、その経験と、更に演劇の一層広い、一層深い理解から、今日では、新劇運動者の悉くが、上演目録の選定に、一種の特別な注意を払ひ出した傾向があることを見逃してはならない。
 日本でも、上述の諸劇団は、それぞれ、首脳者にその人を得てゐるやうに思はれるし、豊富な経験と、綿密な計画に於いて、決して門外漢たる僕等の及ぶ処ではあるまいと思はれるが、たゞ一つ、上演目録作製の標準について、僕が、予て仏蘭西の某実際家について学び得たところを披瀝すれば、先づ、所謂新劇運動なるものには二種類あつて、或る時代が生んだ特殊な芸術的傾向の為めに起つたものと、演劇の根本的革新を目的として、永久の存在を主張するものとに別れるといふのである。前者は、その上演目録を選ぶに当つて、一定の明瞭な標準があるに反して、後者はその範囲が極めて広いと同時に、その結果の杜撰さは正にその劇団の致命傷たるべきものである。加之、劇団存続の為めには、所謂「傑作」のみを上演するのがいゝとは限らない。或る程度まで「ポピュラアなもの」「肩の凝らない物」を加へる必要がある。それでゐて、それが、非芸術であることは絶対に避けなければならない。つまり、種別ジャンルの問題である。思想劇よりも世相喜劇が「ポピュラア」であり「肩が凝らない」といふ意味に於いてゞある。それから、新進殊に無名作家に寛大であつてはならない――これはどうしたことです――劇団の生命を託するやうな作品は、作家は、三年に一度、十年に一度出るか出ないかである。何度観ても観あきない作品、それを何処よりも芸術的に演出する、これが、劇団の命であり財宝である。――古典劇はおろか近代劇中、わが日本ではさて何を選ぶべきでせう。これこそ人ごとのやうな話ではありませんか。
 僕は、こゝで、また、喜劇大に出でよと叫びたくなる。
 最後に、苟も演劇革新を標榜する劇団は、現代の作家に――勿論若き時代の作家に、彼が何を求めてゐるかを知らしめる必要がある、「佳いもの」ではわからない。「かういふもの」と云つて欲しい。それには、先づ第一に、舞台の上で「特に光つた或るもの」を、常に示せばいゝ。「これだ」と叫ぶ者がきつと出て来る。
 僕は、これだけのことを云つて何も新しいことを教へたつもりではない。要は、結果を見るに在る。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
   1926(大正15)年4月24日発行
初出:「時事新報」
   1924(大正13)年12月24日
入力:tatsuki
校正:Juki
2008年11月30日作成
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