文学を愉しむ文学者の少いことは一体わが国の誇りですか。
 あれではいけない、これではいけない――まあ、なんといふ気むづかしい連中の寄合だらう。
 それもいゝさ。批評家などゝいふものは、わかつてもわからなくても、顔をしかめてさへゐれば、何か意見がありさうに見えるんだから。しかし、自分で小説なり戯曲なりを書いてゐながら、人の書いたものと云へば頭ごなしにこき下し、たまに褒めたかと思へば、きつと説教めいた文句で、将来の心得まで附け加へなければ承知しない。そんな仲間が、どこへ行つたつてあるもんかい。
 殊に片腹痛く思ふのは、世界歴史さへ碌に知らずに、時代がどうの、社会がどうのと、文学そつち退けの思想家気取り、そんな批評家もたまに出て来るのは愛嬌だが、猫も杓子も、文学史論はちと聴きづらい。
 凡そ当今の文壇に、奇々怪々な迷信が一つある。曰く「作家の職分」に対する迷信。
 詳しく述べるまでもない。文学者殊に作家は、人間のうちで、一番「えらい人間」だと思つてゐることである。さう思はなければ承知ができないことである。
 教へて呉れとも云はないのに、「人間の生き方」などを鹿爪らしく説いて見たり、知りたくもない自分の生活を深刻らしく吹聴したり、従つて、或作品を読んで、さういふものが見つからないと、この作者は「人間が如何に生くべきか」を考へてゐないと云ひ、此の作者は、「一生懸命に生きようとしてゐない」と云ふのである。
 いづくんぞ知らん、文学を愉しむ読者は、作品を透して、作者の考へを、生活を、一生懸命さを知らうとはしないのである。たゞ、その考へが――誰でも考へるほどの考へが――どう考へられ、どう現され、その生活を――誰でもしさうな生活を――どう生活し、どう描き、その一生懸命さが――一生懸命になるほどのことでもないと思ひながら――どういふ風に一生懸命になり、それがどう面白く書かれてゐるかを味はへばいゝのである。
 勿論、小生がこんなことを云はなくつても少し静かに考へたら誰でもわかることである。「おれが何時それと反対なことを云つた」と怒鳴り込まれない先に断つて置くが、文学者だからと云つて、ほかの種類の人間と、何も変つた考へを有ち、変つた生活を生活し、ほかの種類の人間よりも一生懸命に生きようとする必要はないぢやないか。
 或は云ふだらう。何人と雖もその心掛けが必要である。たゞ、文学者は、その心掛けを文に綴るを以て本領となすのであると。
 なるほど、そこが議論の分れ目らしいですな。小生に云はせると何人も心掛けてゐることなら、それをわざわざ文学者などが文に綴つて、やかましく囃し立てなくつてもいゝぢやありませんか。さもなくてさへ、人生といふものは、考へても考へてもまゝならぬもの、できることなら、一時でも、そのまゝならぬ人生を忘れて、まゝになる別の世界に遊びたい。まあさう卑怯呼ばわりはし給ふな。君だつて、五月蠅うるさい客に留守ぐらゐつかつたことはあるだらう。

 それや、文学者の中には、物事を真面目に考へ、真面目に云ひ、大いに軽佻浮薄な世人どもを反省させる人もあつていゝ。と云つてまた、文学者の中には、真面目な事でも巫山戯ふざけて云ひ、重大なことでも茶化してしまふ男があつていゝ。いゝといふのは、巫山戯ても、茶化しても、真面目なこと、重大なことに些かも変りはないからである。その変りのない、範囲に於て、真面目なことが一時でも真面目な顔を見せず、重大な事が一時でも重大さうな顔を見せなかつたら、この人生は、いかに住みよき人生となるであらう。
 なに、それは誤魔化しだ。あゝ君は遂に人間を侮辱した。誤魔化しとはなんだ。失敬な。君の此の世の中で、どんなに下らないことが重大さうな顔をしてゐるかを知らないか。君自身が、いくど、屁の如きことを真面目な問題の如く人に語り伝へたか。事機微に触れるから、それは云ふまい。が、君よ、聴け。君は、白を黒く見せかけることは誤魔化しと云はず、黒を白く見せかけることのみを誤魔化しと云ふのだな。
 それなら云つてやる。おれは誤魔化されたいんだ。おれはおれを気持よく誤魔化すやつに感謝する。どうだ、おれの頭も殴れ。そしておれを笑はして見ろ。うむ、殴りやがつたな畜生、くそ痛くもねえ。ワツハツハツハツハツ。
 元来そこいらの人間は「大きさ」とか「偉大さ」とかいふことを変に履違へてゐる。この事は、或訳書の序文にも書いたが、「偉大さ」を有がたがるのはいゝとして「偉大さ」の迷信は始末がわるい。
 一篇のソンネを書く詩人よりも十巻続きの小説を書く小説家が「えらさう」に見え、蚤の研究よりも象の研究の方が「大事業」に思はれ、同じ医者でも小児科と云へば何となく「小さく」、悲劇作家は喜劇作者よりも「堂々として高尚らしく」、一個の魂を描く文学よりも、群集の心理を、社会の相を、人類の運命を、宇宙の神秘を取扱ふ文学により以上の「大問題」を感じ「大思想」を発見し、たゞそれだけの理由で、それが「偉大なる芸術」としてより以上の尊敬を受け、より以上「大きな価値」があるものゝ如く持て囃される傾きがある。古くとも帽子は尊く身につけずとも腰巻は卑しき類であらうと思はれる。
 その半面には、いやに平凡ぶり、いやに大人ぶり、いやに苦労人ぶり、いやに「己を知つたかぶる」手合が多い。これはつまり、何んでもない顔をして「大きなこと」を云つてのけようといふ了見に違ひない。甚だ浅間しい。露骨な自己弁護に陥つて恐縮であるが――実はそんなに恐縮もしてゐないが――小生の書くものを評して、やれハイカラであるとか、気取つてゐるとか、甚だしきは、それ以外に何にもないとか、さういふ文句を耳にするが、さてさて、うるさいことである。ハイカラならハイカラでいやなら読まなければいゝ。気取つてゐるのが癪に触るなら、そつちを向いてゐればいゝぢやないか。誰もハイカラ代や気取り賃を出せとは云ふまいし、兎角作者に対して、あまり親切すぎるのがよくないのである。自分の兄弟かなにかなら、あゝハイカラでも困るとか、あゝ気取つてゐては嫁に来手があるまいとか、そんな心配もしなければなるまいが、そこは赤の他人ぢやないか。

 此の間も何かで読んだが、或る人が或る作家のことを「まだ人間として頼りない気がする」と云つてゐた。その人の息子か娘婿でゞもあるのかと思つたら、さうでもないらしい。その作家がその人の処へ何か頼みにでも行つたのかと思つたら、さうでもない。実は、その作家の作品について話しをしてゐるのである。小生は撫然としてその作家の為めに悲んだ。かういふことは、公の席で云ふべきことだらうか。作品の批評をする為めに、作家の人物に触れる必要があつたら、芸術家としての素質を芸術家らしく云々するがいゝ。此人はその作家と別懇な間柄らしくもあるが、それならなほ更のことである。此の種の批評は、文学を俗化し、読者に不純な好奇心を与へ、芸術の真正な鑑賞を誤らしめるものである。
 まだ、ひどい例がいくらもある。「此の作者は頭が悪い」とか、「人物がオツチヨコチヨイだ」とか、誠に聞くに堪へない暴言を平気で書き連らねてゐる批評家がある。それを批評家の特権と心得または義務とさへ心得てゐるとすれば、止んぬる哉である。
 これなどは、実際さう思はれるやうな作家にぶつかることがあるのだから、軽蔑のあまり我を忘れて叫んだと見れば、まあ許されないこともないが――批評家も人間なんだから――然し、許されないのは――彼等が苟くも一個の芸術家である以上――作品中の人物にまで、此の種の評価を下して、それが文芸批評だと思つてゐることである。
 滑稽な話ぢやないか。「此の人物の性格には同情が持てない」だとか、「此の主人公はエゴイストだから嫌ひだ」とか、「あの妻君の方は普通のありふれた女ぢやないか」とか、「こんな男がゐたら社会に害毒を流すばかりだ」とか、「此の二人の男女は恋愛を遊戯視してゐる。しからん」とかやれなんとか、かんとか、こんなことをいふ批評家の顔が一寸見たいと思ふが、さて合つて見ると、その男こそあんまり同情の持てない性格の持主であつたり、人並以上エゴイストであつたり、普通ありふれた男であつたり、社会に害毒を流しさうな男であつたり、恋愛を遊戯視してゐる男であつたりするのであらうから、なかなか面白い。

 作中の人物を実在の人物の如く批難攻撃する点に於て、作者の人格を云々する以上にお目出度いものであるが、これは然し、当今文壇の常識的文芸観を語るものであらうと思はれる。
 つまり、描かんとする或人物に対して作者の興味が如何に動くか、この動き方には、時代時代の流行といふか、型といふか、さう云つたほゞ一定の「プアン、ド、ヴュウ」があるやうである。
 何時の時代に於ても、その興味は人生と深い交渉をつてゐなければといふことは、言葉そのものとして首肯できる。さて、その人生とは何ぞやである。議論が後戻りをしさうになつて来たが、いくらくだを巻くにしてもそれはあまりに巻き方が大きくなるから、一躍して結論に入れば、人生とは何を匿さう、この人生である。この人生と交渉を有つといふことは、必ずしも、「人生は斯の如く生くべし」といふ教訓を引き出すことではない。「人生には斯の如く生くる人物あり」で沢山ではないか。更に、腕さへ許せば「人生は斯の如く生くるも亦一興ならずや」と出てはどうか。
 人物に対する興味の動き方、此興味があくまでも芸術家としての興味であつてはどうか。令嬢の木のぼりを叱るは親なり、隣の息子は指をくはへて打ち眺める。その令嬢も、その親も、その隣の息子も、君の眼には一様に面白くはないか。芸術家よ、しばらく親心を棄給へ。
 大きな声では云へないが、人生は文学者だけがどうにかしなければならない人生でもなく、文学者だけがどうにかできる人生でもない。
 たゞ、「書いてゐることしか考へてゐない」文学者ばかりもなく、「考へてゐることをみんな書く」義務はこれまた文学者にもないのである。
 おつと、こんなことを云ふんではなかつた。
 誰だい、手なんか出す奴は。

底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「都新聞」
   1925(大正14)年3月15、17、18、19日
初出:「都新聞」
   1925(大正14)年3月15、17、18、19日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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