ブルタアニュは、同じ仏蘭西のうちでも、著しい特色をもつた地方である。
 大部分半島を形づくつてゐる処から、海そのものと離して考へることは出来ない。その海は、大西洋である。女性的な地中海にくらべて、男性的なところがある。
 ブルタアニュの自然は瞑想的である。沈鬱である。空が低い。
 住民は素朴である。中世風の信仰から脱しない。従つて迷信が盛んである。――どこまでが迷信だか、それはわたしにもわからない。
 伝説の豊富な点で、文学的にも興味があるが、文学は文学として置いて、辺鄙な漁村の、炉辺に蹲る老婆などの口から、奇怪な物語を聞かされる面白味は、また格別である。
 わたしは、一と夏をカルナックといふ村で過した。この村がまた伝説の中心地である。路ばたに転がつてゐる石ころにさへ、「いはれ」があるのに驚いた。
 その昔、一人の司祭が、異教徒の軍勢に追はれてカルナックまで逃げて来た。前は海である。司祭は神の名を呼んだ。敵兵は悉く石になつた――といふのである。なるほど、今でも人間の丈ほどの石が、無数に立ち並んでゐる。これらの石は、年に一度、降誕祭の夜、川の水を飲みに行くさうである。道でそれに出遇つたものは、忽ち潰されてしまふ。

 昔、この附近にケリオンといふ小人の種類が棲んでゐた。山腹に穴を開けたり、石を積んだりして、その中に棲んでゐた。石を積んだ家、それをドルメンといひ、現にそれが残つてゐて、土地の名物になつてゐる。彼等はどんな大きな石でも平気で持ち上げることができたらしい。
 彼等は、月夜だと、牧場の草の上で踊る。歌を唄ひながら踊るのである。
「月曜、火曜、それから水曜」
 手をつないで輪を作り、面白さうに、この文句を繰返す。
「月曜、火曜、それから水曜」
 或る晩のこと、佝僂の仕立屋が、仕事の帰り路に、此の歌を聞きつけて、踊りの仲間入りをさせてもらつた。然し、歌の文句が、あんまり単調なので閉口した。それで、
「月曜、火曜、それから水曜……」と来たときに、
「それから木曜」と続けて見た。
「おや」一同は顔を見合はせた。
「わるくはねえ」と、親玉らしいのが云つた。そこで、みんなが、今度は、
「月曜、火曜、それから水曜、それから木曜」とやり出した。
「なるほど、こいつはいゝや」と、一人が云つた「褒美をやらうぢやねえか」
「何をやらう」親玉が相談した。
「背中の瘤を取つてやれ」一同は声を揃へて云つた。
 背中の瘤が取れた。
 翌朝、日の昇る前に、仕立屋は意気揚々と家に帰つた。その日は日曜である。近所のものが寄つてたかつて「一体どうしたんだ」と尋ねた。仕立屋は昨夜の一件をつゝまず話して聞かせた。
 之を聞いた織物屋――これも佝僂である――額を叩いてよろこんだ。「おれもやつてやる」
 織物屋はケリオンの踊つてゐる場所を尋ね廻つた。やつと、それを見つけて仲間入りをした。
「月曜、火曜、それから水曜、それから木曜」
 そのあとへ「それから金曜」とつけ加へた。
 一同は之に和した。
「いけねえ、こいつは」一人が云つた。
「とてもいけねえ」もう一人が云つた。
「こいつは駄目だ」みんなが声を揃へて云つた。
「罰をくはせろ」誰かゞ云つた。
「どうしてやらう」親玉が諮つた。
「仕立屋の瘤をつけてやれ」一同が一斉に叫んだ。
 織物屋は二つ瘤を背負つて、すごすご家に帰つた。彼は悲嘆のあまり、年の暮に死んでしまつた。

 カルナックの海岸に、「牛のお化け」が出ることは誰でも知つてゐる。カルナックのものはみんな知つてゐる。此のお化けの名はコオレ・ポル・エン・ドルウといふのである。
 このお化けは決して人に危害を加へない。たゞ手におへない悪戯者である。殊に漁師はさんざん弄りものにされるのである。
 よく、牛の姿をして、浜を走りまはつてゐるのを見ることがある。どえらい声で唸る。真夜中など、あまり気味のいゝものではない。
 ある日、一人の農夫が、飼牛が見えなくなつたので、日が暮れるまで探しまはつた揚句、やうやく見つけて、牛小屋まで連れて来ると、それが急に人間の姿に変つて、大声で笑ひながら、手を叩いて逃げて行つた。

 嵐の前には、きつと、岸の上で悲しさうな声が聞える。
 夜中に、村ぢうに聞えるやうな声で、怒鳴るものがある。
「やあい、みんな来い、昆布が山ほど浜にあるぞ」
 漁師や農夫たちは、熊手や車を用意して、大急ぎで出かけて行く。行つて見ると、なんにもない。
 コオレ・ポル・エン・ドルウは手を叩いて笑ふのである。そして海の中へもぐつてしまふ。
 度々、魚に化けて漁師の網にかゝる。家へ帰つて、いざ料理をしようといふ段になると、人間の姿に変つて、笑ひながら逃げて行く。

 此の附近の漁村には、大抵、かういふ怪物が一人――一匹づゝ棲んでゐる。

 中には、「顔は花の如く、声は雲雀の如き」美人の姿に化けて、川の岸に蹲り、旅人が橋を探してゐると、
「あたしがおぶつて渡してあげます」
と優しい眼付をして見せる。
「済まないなあ、ねえさん」などゝ、好い気になつて背中に跨らうものなら、川の中へどぶり。
 この「ねえさん」名をパオトル・ペン・エル・ロオと呼ぶ。

 カルナックからケルゴレックに通ずる国道は、今でも変なことがある。「森の泉」と称する小川の附近には、パオトル・フェタン・ゴエといふ化物がゐて、或は人の姿、或は猫の姿、或は馬の姿、時によると火の玉になつて現はれる。
 或る晩、一人の農夫が通りかゝると、へんな男が後からついて来る気配がする。さうかと思ふと、今度は、自分の前に男が歩いてゐる足音がする。こいつは変だと思つてゐると、後の男が近づいて来て、「お前は祈りの文句を知つてゐるか」と尋ねる。「知つてゐる」と答へると、「そんならよし、さもなけれや、お前は恐ろしいものが眼に見える筈だ」と云つた。
 その後、また二人の青年が、その辺を通りかゝると、一方の青年が、何ものかに投げ倒された。どこも痛くはなかつた。
 ある農夫は、一匹の放れ馬が走つて来るので、鬣をつかまへて止めやうとすると、飛び上るほど手が痛かつた。気がついて見ると垣の茨をつかんでゐた。

 やはり此の附近に、石杭で細かく仕切りをした畑地がある。
 夜中になると、何処からとなく溜息が聞え、続いて、「わしの杭は何処へ打たう」といふ声がする。
 これは、その昔、隣の地所へ杭を打つたゝめに死刑に処せられた亡者の怨霊だとなつてゐる。
 処が、ある時、面白い男がゐて、その声を聞くと、いきなり、「前にあつた処へ打ちねえな」とやり返した。すると、重荷を卸した人間のやうに、「やあ、どうも有がたう」といつたきり、黙つてしまつた。
 此の辺はまた、火の玉がしきりに出る。「聖母の泉」と呼ばれる井戸があるが、そこからは屡々火の玉が現はれて、ホア川の方に飛んで行く。そして、いつの間にか消えてしまふ。

「夜の羊飼」と呼ばれる化物がゐる。風が吹くと、煙突の口から「おい、おい」と怒鳴り、雨が降ると、窓を叩いて、「家の中へ入れてくれ」と訴へる。

 かういふ話をしてゐるときりがない。

底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社
   1926(大正15)年6月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月29日作成
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