旅行前記

 今度文芸春秋社が私に北支戦線を見学する機会を与へてくれたことを何よりもうれしく思ふ。
 特派員といふ名義であるが、私のやうなものがジヤアナリストとしての使命を果し得るかどうか疑問である。この点は、社でも多くの期待はかけてゐないらしいから、甚だ肩の荷が軽いわけである。
 私は、むろん、作家として眼近に戦争現地の面貌を凝視し、そこに想像を絶した天地の呼吸を感じるであらう。その印象をなるべく具体的に細かくノートするつもりである。
 こゝで断つておきたいのは、私がどれほど「客観的」であらうとしても、それは恐らく無駄であらうといふことである。云ふまでもなく、私は「日本人として」此の戦争に対する外はないからである。現実の報告が国家のためにも国民のためにも害あつて益なき場合、私はたゞ沈黙するのみである。第一に、私はこの戦争が先づ何よりも祖国に幸ひをもたらすものであることを祈る。犠牲はたゞそれのみによつて尊いのである。
 戦塵を浴びてはじめて疑問のはれることもあるであらう。私は軍人の家に生れ、自分も軍人として青年期を過し、今なほ在郷軍人としての覚悟はもつてゐる。私は、日本の軍隊が精鋭無比である理由を夙に学び知つてゐるが、日本人の性能プラス軍人精神といふものが実戦に於てどんな力を発揮するかといふことを、いろんな面で観察してみたい。つまり心理的にはその複雑さについて、道徳的には例へば勇気の質について、若干の考察をめぐらすことができるであらう。
 北支作戦の完全な成功をわれわれは信じてゐる。戦後に来るものはなにかといふことについて、今、人々は多く語つてゐるやうであるが、私には無論、そんなことを語る資格はない。たゞ、それぞれの専門家の言葉に耳を傾ける興味をもつてゐるだけである。従つて、私の眼で視、暇があれば適当な人物に訊して、現在この地方に動きつゝあるものを探り得るとすれば、それは、単に、日支両国民の共通の希望となるべき将来の文化的工作が如何なる意図と方法によつて築かれつゝあるかといふことである。
 この報告は、努めて厳正に且つ自由になされなければならぬと私は思ふ。国を挙げての決意と無名戦士の幾多の血によつて購ひ得たひとつの結果について、わが同胞は等しく責任を分たねばならぬからである。
 私の比較的親しくしてゐた友人の幾人かゞ相次いで召集に応じ、何れも立派な門出であつた。彼等のうちの三人が、つい二三日前、殆ど日を同じくして二人は戦死し、一人は重傷を負つた。感慨無量である。
 北支各方面の戦線に活躍しつゝある部隊名を、新聞で毎日のやうに見る。幼年学校や士官学校で机を並べてゐた連中が、それぞれもう聯隊長級で、軍記風に云へば、駒を陣頭に進めてゐることがわかつた。さぞ満足であらうと思ふ。
 幸ひに便を得て、これらの旧同僚の後を追ふことができたら、是非、その機会を逸すまい。手柄話を聴くのも面白からうが、陣中閑談に時を過したら一層妙である。「貴様、いくさの邪魔をしに来たか」などと云はせてみたい。
 私は先日来、若い学生たちに接する毎に次のやうな問ひを発した。
「君が若し北支に派遣されたとしたら、どういふところを一番看て来たいと思ふか?」
 彼等はめいめいに面白い、或は平凡な意見を吐いたが、左の二項だけは、異口同音に、殆ど全部がこれをあげた。そのひとつはわが軍奮戦の実況、もうひとつは日本軍を迎へる支那民衆の表情。
 前者は、当り前のことゝして別に取りたてゝ云はないものもあつたが、後者は、これこそ、いろいろなニユアンスを含めて例外なく知りたがつてゐる事実であることがわかつた。
 そこで、私が痛切に感じたことは、新聞の報道が如何に統制されてゐても、その統制され方によつては、銃後の国民は却て報道の裏を知りたがるものだといふことである。
 さういふ私自身、決してその裏をのぞかうなどといふ好奇心はなく、また、そんな裏があらうとは信じないが、宛も秘すべき裏があるかの如き印象を与へる一面的な誇張粉飾は、将来、報道者も慎まなければならぬと思ふ。民衆は案外、ものを正しく感じ、意味を深く察する能力をもつことを銘記すべきであり、早く云へば、それほど御心配には及ばぬのである。

 私は、外国の観戦武官(現在さういふものがあるかどうか知らぬ)といふものが、どんな顔をしてこの連日の戦闘を眺め暮してゐるか、できれば、そばへ行つてその顔つきをのぞいてやりたい。
 それから、音にきく北京の都を、その風物を、ゆつくりとはいかぬまでも、しみじみと訪れたい。
 保定、大同、徳州などいふ城市も一見の価値があらう。
 石家荘とやらはもう落ちてゐるかどうか。
 虎列剌の予防注射をすませた。
 十一日の正午神戸を出る塘沽行の船に、もう部屋がとつてある。(十月十日夜)


 いよいよ報告をつゞらねばならぬ。が、私は一切の興奮と御座なりを避け、事実を観たまゝに語りたい。ところが、実を言ふと、第一に、暇が十分でなかつたからでもあるが、予定の行動を取ることができず、第二に、少しは何かを観たとは思ふが、いざそれを筆にするとなると、どうしても、今書くのは早過ぎるといふ気がし、それも自分のためばかりではなく、印象がすべて厳粛な歴史の批判を根柢とせねばならぬ関係から、主観的な物言ひは慎まねばならぬといふ、甚だ厄介な責任感にしばられてしまひ、平凡な記事でお茶を濁すことになりさうだ。
 殊にもうひと息といふところで、なんとしても時間の都合がつかず、それに、身心ともに疲労を覚えたので、所謂、「戦闘」そのものはつひに見ずじまひである。が、たゞ、広義の「戦争」なるものを、いろいろな面でいろいろな距離から、そして、いろいろな現象のなかで、身を以て味ひ、幾分実感として心の一隅に残し得た。これをせめてもの収穫と考へ、なんとかして読者諸君に伝へたいと思ふのだが、さて、前にも述べた通り現在はまだその時機でないやうである。
 なぜなら、戦さに勝つためには、国民は、ひたすら戦場の光景を美化することに努め、私もまたそれに努力することを任務と考へるからである。
 そして、私は、戦争の最も華々しき、従つて人間及び人間群の最も気高き姿を、第一戦の砲火の下に見得ることを確信するものであるから、銃後の国民は、その緊張した心の状態を、全ニユースの先端に通はせて、共に祈りを捧げ、凱歌を奏すればよいのである。
 例へば、後方勤務部隊の軍規厳正にして、日夜油断なく職責を果し、時としては、第一線部隊の労苦に劣らざる労苦に堪へ、時としては、決死隊と同様、生命の危険を物とせざる実例など、私はいくらでも挙げようと思へば挙げられるが、それは、国民一同が、所謂非常時局に処して、如何にそれぞれの持ち場で黙々と額に汗し、最後の勇気を振ひつゝあるかを吹聴すると同様、今更云ふも愚かといふ気がするのである。
 そこで、私は土産話になるかどうか知らぬが、私の僅か旬日の間に通つた道筋を追つて、いくらかでも戦争の臭ひのする人物風景の素描を試みてみようと思ふ。
 文辞甚だ整はないのは、行李を解いたばかりで旅の疲れがまだ癒えないためと思つていただきたい。

     出帆

 船が神戸を出る時、私はなるほどこれが天津に向ふ船だなと思つた。
 甲板には軍装いかめしい将校がいくたりかテープの束を握つて桟橋を見おろしてゐる。カーキ色の詰襟に袈裟をかけた従軍僧の一団が、これも不動の姿勢で見送人の歓呼を浴びてゐる。
「××部隊長万歳!」
 群衆のなかの一人が音頭を取つた。
「万歳……万歳……」
 これに和した幾百の若い声はひと眼でそれとわかる中学生らしい制服の一隊である。恐らくその学校の配属将校がこの船で戦地にたつらしい。
 船が動き出してから、岸壁が見えなくなるまで、生徒たちは「万歳」を連呼し、帽子と旗を振り、そのたびごとに甲板では一砲兵少佐が挙手の礼でこれに応へてゐた。
 外国人の男女が、私のそばでこの光景を珍しさうに眺めながら、しきりに何か囁き合つてゐる。
 突然、従軍僧の一人が、両手を挙げて、声を限りに叫んだ。
「天皇陛下万歳!」
 岸壁の人影は黒い塊りのやうに動かない。そして、それがそのまゝ船の反対の舷の方へ消えて行つた。
 私はしばらく甲板を歩き廻つた。自分に用意を促すといふやうな気持であつた。

     英国士官

 船室へはひつて、北支那の地図をひろげてみた。上陸後の行動について、あらましのプランを樹てゝおくつもりであつた。往復をいれて三週間といふ時日が限られてゐる。それ以上の暇は、絶対にとれない今の私である。万一の事故は計算にいれないまでも、この予定を勝手に狂はしては、第一に近く旗挙げ公演を控へてゐる文学座の諸君に相すまぬ。
 先づ天津に着いたら、各方面の情報をしらべた上、一番近い戦線を目ざすよりほかない。が、私の秘かに自分に与へた任務は、恐らく第一線の後方数キロの一地点に、三日ばかりぢつと腰をすゑてゐさへすれば果せるのではないか?
 新楽、石家荘、井※(「こざとへん+徑のつくり、第3水準1-93-59)といふやうな地名が眼にうつる。
 その時、同室の若い英国人がはひつて来た。話をしてみると、日本語がなかなかうまい。名刺には、ローヤル・アーチレリイ、即ち、王国砲兵とある。階級は中尉で、語学研究のため日本に派遣されたのださうである。
「で、今度は観戦武官といふわけですか」
「はい、まあ、さうです。実は、日本語の試験が迫つてゐるので、気が気でありません。試験に落ちると大変です。国へ返されてしまひます」
王国砲兵ローヤル・アーチレリイといふのは、日本の近衛砲兵と同じですか」
「いえ、英国では、砲、工、輜重の特科はみなローヤルといふ名誉の呼び方をします。歩兵と騎兵は、三分の一ぐらゐの聯隊がローヤルです」
「観戦武官は、あなたの外にどんな国の将校たちが今度出掛けますか?」
「この船で、米国、ポーランド、ペルウ、シヤムの人が行きます。現地で多分、フランスなどが加はるでせう」
「君は、今度の旅行で、どういふところを注意して見られるつもりですか?」
「戦争は、どんな戦争でもおんなじです。私、北京といふ都、いちばん見たいと思ひます」
 私は、この青年をつかまへて、支那事変に対する英国の態度まで釈明させる気はしない。
「日本語の試験は誰がするんです?」
「大使館の人です」
「先生は?」
「先生、三人ゐて、個人教授をうけてゐます」
 ベツドの上に例の艶のいゝ帯革がかゝつてゐるので、
「英国ではいゝ革ができるんですね」
「はい、英国の革、有名です。専門家が代々特別な技術を受けついで作つてゐます。それにこの革は古いからなほいゝのです。私の父も砲兵将校でした。その父から貰ひました」
「日本で隊附はされましたか?」
「高田の聯隊に一年ゐました」
「聯隊長は誰でした?」
「○○大佐です。聯隊の生活は、面白いですけれども、隊附の将校は一般に、いゝ語学の先生ではありません」
「それやさうでせう。訛りや方言を何時の間にか教へ込まれますからね」
「いゝえ、第一に、間違つたことを言つても直してくれませんから……」
「なるほど」
 彼は、トランクから数冊の部厚な書物を取り出して網棚の上にのせ、そのうちの一冊を持つて甲板へあがつて行つた。
 私もまた荷物のなかへ入れて来たピエル・ロチの「安南攻略の想ひ出」をかゝへて談話室の一隅に腰をおろした。

     女宣教師

 夕食の時間を知らせるディンナア・チャイムが鳴つた。席の配置をみると、私のテーブルには軍人を除いた乗客がひと纏めに集められてゐる。隣には、比叡山の従軍僧、向ひにはT書記生と支那人Fといふあんばいである。
 日本の将校連は将校連で、別のテーブルを占拠してゐる。外国武官の一行は、また別のテーブル、但しシヤムだけは特別の一卓が与へられてゐる。婦人の乗客が四人、何れも米国人、これがまた独立陣を張つてゐる。天津、北京から避難して来た女学校の先生たちで、もう大丈夫だからそれぞれ任地へ帰るのださうだ。
 何か面白い話が聞き出せさうだが、おいそれと誂へ向きにジヤアナリストの精神を発揮するわけにも行かず、始終隙をうかゞつてゐたにも拘はらず、遂に絶好の機会を捉へ損つた。
 ところが、二日目の日、コレラの予防注射をまだしてないものは二等の食堂へ集れといふ布令が出て、私も三分の一だけ残してあるので、注射液をもつて出掛けて行くと、もうそこには半裸体の群集が押し寄せてゐた。
 私は、順番がなかなか来さうもないので、何時でも裸になれる用意をして一隅のベンチに腰かけてゐると、そこへ、かの米国婦人の一人がのつそりはひつて来た。
 どうするかと思つて見てゐると、つかつかと私のそばへ来て、
「背中へするのか?」
 と訊ねる。
「イエス」
 私は英語がよくわからないけれども、この女の表情はなかなか豊かで、こんなに人のみてゐるところで女を裸にしていゝのかといふやうなことを喋り、子供が泣きだすと顔をしかめ、可哀さうにと、これも眼顔で私に同感を求める。
 私は黙つてうなづき、かうしてゐてはきりがないので、早くすまして貰はうと自分もシヤツの釦を外しだした。で、試みに、その時フランス語で、
「さあ、マドモアゼル、あなたの順番がもうぢき来ますよ」
 と云つてみた。
 彼女は、何を思つたか、大きく眼を見開き、これは敵はんといふ顔をし、こそこそと部屋を逃げ出して行つた。
 その後、彼女だけは、私に会へば挨拶をした。生憎フランス語はこつちの英語ほど覚束ないので、こつちが「モーニング」と云へば向ふは、「ボン・ジユール」と云ふのがせいぜいであつた。
 しかし、いよいよ上陸といふ前の晩、喫煙室で、彼女の連れの一人が、私に碁の打ち方を教へろとだしぬけに云ひ出した。
 私は、本式の碁はあなた方にむづかしいから、五目並べといふ別のゲームを教へようと答へ、二人で三十分ほど五目並べをやつた。すると、そこへほかの三人が集つて来た。一番年寄りの如何にも女学校の舎監然たる婆さんが、横から熱心にのぞき込んでゐた。
 この婆さんは少しフランス語を話すらしいので、合ひ間あひ間に、事変問答をしてやらうかと思ひ立つたが、どうしても気がひけて切り出せない。
「あなたは天津へお帰りですか?」
「さうです」
「天津には長くお住ひですか、もう?」
「十五年」
「……」
 支那は住み心地がいゝですか、と訊かうとして、つまらなくなつてよした。
「あなたおやりなさい」
 私が席を起つと、その婆さんは、大急ぎで盤に向つた。
 見覚えたにしてはこの婆さん、なかなか頭がよく、寧ろ意地の悪い手の連発で、易々と彼女の一番若い、そして、一番美しい同僚をひねつた。
「おゝ」
 と叫んで、負けた方は、私の顔を見た。気の毒だが、どうしやうもない。

     最初に会つた同期生

 門司でも幾人かの将校が乗り込んだ。
「おい、岸田ぢやないか」
 アレキサンダアに似た工兵中佐が私の肩を叩いた。
「忘れたか。Sだよ」
「あゝ、さうか」
「何処へ行くんだい」
「うむ、従軍記者だ。よろしく頼む」
「ほう……それはそれは……。貴様の書くものはうちの嬶が読んどるぞ」
 もう一人の騎兵中佐が、その時、私の方へ歩み寄り、
「しばらく……。私、Yであります。幼年学校でお世話になりました」
 さう云へば、私が三年の時、このYは一年生ででもあつたのだらう。
「今度は隊長ですか。今迄は?」
「騎兵学校にをりました。さつきから、どうもさうぢやないかと思つて……やつぱり変つてをられませんな」
 上陸の前夜、食堂で、何時の間にか将校たちの酒宴が開かれてゐた。
 外国武官連も、その時はじめて彼等の仲間入りをした。
 さながら聯隊の将校集会所であつた。
 ボーイは当番の如く右往左往した。
 米国中佐は流暢な日本語で、
「××参謀長閣下には以前大へん御厄介になりました。お酒ですか? いや、私はあんまり頂けませんです」
 Yが高らかに詩吟をやりだした。
 英国中尉に木曾節を歌へと責めてゐるのはSだ。たうとう自分でやり出した。
 と、だしぬけに、Yはポーランドに握手を求めながら、
「君の国はなかなかよろしい。日本の味方だらう」
 と、それを私に通訳しろである。
 私はペルウとポーランドを彼は間違へてゐはせぬかと思つたが、そんなことはまあいい。英米の方へ五分の注意を払ひながら、その意味を伝へてやつた。
 ポーランドは、「メルシイ、メルシイ」と云つてYの手を握つた。
 さつきから、この壮快な雰囲気のなかで、酒を飲まずに始終微笑をふくんでゐた日本の一大佐は、傍らの米国に向つて訊ねた。
「どうです、日本の将校は元気でせう」
 すると、米国は、なんでも呑み込んでゐるといふ風に、
「いや米国でもおなじです。戦地に向ふ前の米国将校と来たら、こんなことぢやすみません」
 大佐は、そこで、鷹揚に、天井を仰いで呵呵大笑した。
 私は、Sから盃を受けながら問うた。
「君は、どの方面へ行くの?」
「わからん○○○へ行けと云ふ命令を受けたゞけで、その先は聞いてない」
「新しい部下を渡されるわけだね」
「うん、一日一緒にゐれば新しいも古いもないさ。そこが軍隊の有りがたいところだ。なあ、さうだらう」
「さうだ」
 と、私は、彼の眼をぢつと見つめた。――いゝ隊長だな、と感じた。

     親日家

 船が朝鮮沖にさしかゝつた時、私宛の無線が配達された。
「ブジゴコウカイヲイノルマスヲ」
 大連にゐる弟からである。どうして私の旅行を知つたか? もう十五年も会はずにゐる彼のことを思ふと、帰りに寄れたら寄つてみたい。
 その他、船でわりに話をし合つたのは支那人のFである。
 この人は上海の商人だといふことだが、日本語も相当でき、言葉のはしばしで、所謂、事変後の工作に乗り出さうとしてゐる有力な親日家だといふことが察せられた。
 こんなことを何処まで書いていゝか、むろん大事なことは本人が漏らしはすまいと思ふから、こつちは遠慮なく聞いたまゝを書く。
 彼は云ふ。
「日本の支那通で支那のことわかつてゐるものごく少い。支那にいろんな支那ある。支那人にいろんな支那人ある。いつしよにする、よくない」
 私は聴いてゐる。が、時々こんな質問をしてみる。
「あなたは支那人として、今度の日本の行動を全然間違つてゐないと思ふ側の人ですか?」
「さう、間違つてゐない。少し遅いくらゐです。もう二年たつたら、駄目、効き目ない」
「なぜ?」
「支那強くなつて、負かすのむづかしい」
「待つて下さい。それぢや、あなたは、日本の行動を是認するばかりでなく、支那が負けることを望んでゐるんですね」
「蒋さん、負けるのかまはない。国民党ある間支那幸福になりません」
「でも、たつた今、あなたは、もう二年たつと支那は強くなりすぎると云ひましたね」
「軍隊だけです。人民は苦しい」
 Fは、しかし、もとは軍人ださうである。しまひに、日本の士官学校出身だといふことまで告白した。
「北支那はどうです? 大学なんか復活するでせうか?」
「大学はいりません。共産党の学生をつくつてもなんにもならない」
 話は簡単だ。
 太沽で、風のために一昼夜上陸が遅れ、しびれを切らしたわれわれは、ランチの姿をみつけると、思はず躍り上つた。
 ○○艦が一隻、沖を走つてゐる。

     ○○部隊長

 ランチは、白河を溯つて、塘沽に向つた。粘土色の水が陸との界を曖昧にしてゐる。
 白河といふ名前の由来をFが話して聴かせた。
「一般には、この河が九十九曲り曲つてゐるので、百から一を引いた、即ち白河と名がついたやうに云はれてゐるが、実は、それはこじつけで、冬になると一面に凍つて白くなるところからさういふ名が出たのだ」
 それはどつちでもいゝが、このへんに来て驚くことは、水上陸上ともに、英国旗のあちこちに翻つてゐることである。
 塘沽では、S中佐その他と共に同地の○○部隊本部を訪れた。部隊長がHといふ、これも同期生だといふことがわかつたからである。
「よう、やつて来たか」
 と、H中佐は、起ち上つた。
「うむ、さうか。恰好はなかなか勇しいのう」
 Sの説明を聞いて、彼は、私の背広の腰に水筒と図嚢をぶらさげた異様な姿を見上げ見下した。
「後方勤務はおれの柄ぢやないわい。しかし、大いにやつとるぞ。此処の王様ぢやからのう」
 そこへ副官がはひつて来て、街路拡張の問題について住民代表が全部集つてゐると報告した。
「よし、いま行く。おい、昼飯を御馳走しよう。兵隊の麦飯もたまによからう」
 ○○は兵糧の元締だから物資豊かで贅沢に事欠かぬやう俗に考へられてゐるが、その○○の親玉の御馳走はとみると、これはまた思ひきつて質素な、そして手荒な兵隊料理であつた。しかし、私は、船の食事に飽きてゐたせゐもあり、甚だ食慾を覚えた。
「おれは兵隊と同じものを食つとるんだが、第一線のことを思へばね」
 Hは、なんの衒ひ気もなく、さう云つて箸を取りあげた。
 その後、前線を親しく見廻つて、私は痛切に感じたことだが、戦闘部隊は時としてまつたく給養の道を絶たれ、やむを得ず大根や生薯をかじつて饑を凌いでゐるのである。しかし、後方勤務の部隊は、殊に将校であれば少しの我儘は許されさうである。それをHの如く、断じて易きに狎れない覚悟をもちつゞけるといふことは、なかなか凡夫にはできがたい業だと今更敬服してゐる次第だ。
「つい二三日前、敵の飛行機がこの上へ飛んで来てのう」
 と、Hは愉快さうに語る。
「ほれ、あそこに造船所があつたらう。あの附近へドカン/\と落して行きやがつたよ。やられたのは支那人ばかりさ。馬鹿野郎だ」
「こつちに防備はないのか?」
 私はうつかり訊ねた。
「う? うむ……ないことはない。○○砲が○門ある。当りやせんよ」
「逃げ脚が早いでのう」
 と、まだ敵の飛行機を見たこともないSが応援した。
 妙なもので、将校たちが、例へば、○○砲は当らんといふのを聞くと、素人はなるほどそんなものかと思ふかも知れぬが、それは彼等の言葉癖を解せぬからである。あからさまに云へば、彼等は、自分の属してゐる兵科の自慢は大つぴらにやる代り、他兵科をわざとこきおろす無邪気な習慣がある。決して、近代武器の威力を軽しとするわけではない。逆の例を云へば、某飛行将校は、今度の実戦の経験を私に語り、飛行機の強敵は有力な敵機に非ず、砲兵に非ず、機関銃に非ず、寧ろ散開せる歩兵の小銃射撃なりと断言した。味ふべき説である。
 さて話が混線したが、われわれは腹がいつぱいになつたところで、Hに暇を告げた。
「コレラなんかにやられるな」
 私が戯談をいふと、
「うむ、貴様も流れ弾に用心しろ」
 送つて出ながら、彼は、Sに囁いた。
「こゝにをると前線に出る同期生がみんな訪ねて来るよ。おれは云つてやるんだ。――貴様早くくたばれ。さうせんとおれに隊長の番が廻つて来んつて……」

     天津まで

 塘沽の停車場は雑沓を極めてゐた。
 そこで私は、最初に支那民衆の表情を読み取らうとしたが、なんのことはない、みんなのんびりとしてゐて、こつちだけが緊張してゐるのに気がついたくらゐである。一人一人についてはどうとも云へぬが、かうして群衆としての彼等を観察すると、そこには戦争などといふものか如何なる形でも映つてはゐないやうに思はれた。寧ろ、この雑沓の印象は、彼等の間を縦横に掻き分ける様々な日本人の姿が目を惹くせゐであることもわかつて来た。
 藍鼠の水兵服に真つ赤な袖章をつけた伊太利の守備兵が五六名、なんの屈託もなささうにプラツトフオームを往つたり来たりするのが、たゞ一つの明るい色彩である。
 明るい色と云へば、さつきから日本の女の着物がちらついてはゐるが、気のせゐかどれもこれも曰くありげな風体に見え、正視するに忍びない。こんなところで感傷的になるのはをかしいが、何れは慣れつこになるであらう。
 私は、将校たちと別れて、前の方の車に乗つた。
 これも内地から派遣されたばかりだといふ大朝東朝の記者諸君と一緒になつた。
 従軍記者も二三個月第一線にくつついて歩くと、何れもへとへとになるらしいといふ話など出る。さもあらうと思ふ。
 汽車は最小速力で進む。沿道は荒寥たる不毛地のやうに見えるが、それは土の色がまつたく違ふからで、到るところ、棉、唐もろこし、白菜など作つてあるのが、今年は手入れもできぬといふ状態にあることが察せられた。
 線路の傍らに一台の機関車が顛覆したまゝ風雨にさらされ、赤く錆びついてゐるのが見えた。
 電柱がひと並び倒されてゐる。
 柳であらうか、見渡す限りの平野に、ところどころ、こんもりと茂つた樹が立ち並んでゐる。人影はほとんどない。
 天津に着いたのは午後五時、早速、軍司令部へ自動車を走らせる。
 市中は、これこそ殺気立つてゐると思はれたが、それも停車場附近で人力車夫が争つて客を呼ぶ声をさう取つたのは致し方もない。街々に日本の兵隊があふれてゐることは事実だ。しかし、内地でも地方の衛戌地ならこれくらゐの割合で兵隊さんの姿に出会ふであらう。
 たゞ司令部だけは、物々しい警戒ぶりだ。先づ衛兵の身構が違ふ。平服の悲しさで私は恐る恐る名刺を差し出した。
「宣伝部のK中佐にお目にかゝりたいのですが……」
 指さゝれる方へたゞ歩いて行き、途中で会つた一将校にしかと道を訊ねた。
 宣伝部は二階の広い部屋で、その出口の横に新聞記者控室があり、壁に各社名を書き込んだ札が並んでゐる。文芸春秋社といふのもあつた。その下に「不在」と赤字の札が下つてゐた。
 控室をのぞくと、大テーブルの周囲にそれぞれ陣取つて、司令部の発表を待つてゐる記者諸君の顔が見える。連絡の給仕を後ろに待たせてゐるのもある。
 正面の黒板にや発表係の将校が念のために描いてみせた地図であらう、白墨で道路と高地の曲線が戦術教官の要図そのまゝ無造作に描きなぐつてある。攻撃の重点を示す矢の印が、その上を斜に太く走つてゐる。
 K中佐には、陸軍省の松井中佐から紹介を貰つて行つたのだが、生憎不在であつた。代つて、M少佐からいろいろと参考になる話を聞かせて貰つた。
「あなたのものは、何時か汽車のなかで、『富士はおまけ』といふのを読みましたよ」
「あゝ、さうですか」
 と、私はちよつと照れて、今度戦地を訪れた自分の目的といふやうなものを簡単に述べた。M少佐はよく私の意のあるところを汲んで、できるだけ便宜を計るからと、非常な好意を示された。私は、できれば観戦武官の一行に加へて欲しいのだがと頼んでみた。
「多分いゝと思ふが、明日もう一度来てみよ」といふことであつた。
 その夜は、同船したT書記生の配慮によつて、私は英租界のタラチ・ハウス・ホテルに宿をとることができた。日本租界の宿屋は満員だといふ話を前もつて聞いてゐたのである。

     租界文化

 夜は、支那語に堪能なT書記生の案内で市中を散歩した。
 日本租界へはひり、交通巡査に一番賑かな通りは何処かと訊ねたら、かう行つてかう曲つたとこだと教へられ、われわれは植民地の銀座通りを想像しながら、暗い通りをその方角へ歩いて行つた。
 それはたしか常盤街と云つたと思ふ。なるほど人通りは目立つて多く、両側の家からは珍しく明りが漏れてはゐるが、それは、内地の所謂花柳街に相当するものであることがすぐにわかつた。芸者屋、料理屋、待合風の家、その間に、寿司や、蕎麦や、生菓子やなどが軒を並べ、その何れもが、支那風の建物に入口だけ格子や暖簾をくつつけてゐる異様な風景は、ちよつと他の租界では見られまい。しかし、日本人の郷土色尊重はかういふ形で常に現れるといふことを私は幾多の例で示すことができる。
 さう云へば、各国の租界が面白い対照をなしてゐるのは、それぞれの辻に立つ交通巡査の服装である。
 英国は紺の胴に白い幅広の袖をつけた軽快なもの、仏国は、カーキ色の兵隊服は平凡だが、帽子は例の黒に赤い縁をとつた純フランス風のケピイがなかなか小粋である。ところが日本はとみると、これは誰が考へだしたのか知らぬが、甚だ間の抜けた支那保安隊式のもので、その上、ほかの租界のお巡りさんのやうに、得意げには見えないのである。そのせゐかどうか、日仏両租界の境界に、両方のお巡りさんが向ひ合つて立つてゐるが、一方は安南人でもいつぱしフランス人気取りで、日本側の支那人巡査を小馬鹿にしてゐる風がありありと窺はれた。
 こんなことを気にすると末梢的だと嗤はれさうだが、私は、支那に於ける「日本」が、あらゆる点で、平素から民衆の眼にもつと洗練された趣味、殊に近代的なスマートさを誇示してもらひたいやうな気がするのである。欧米依存の風潮は案外、こんなところにも一原因があると考へられないことはない。支那に於ける各国の租界文化といふものを当局は政治的に検討してみたらどうか?
 それはとにかく、ホテルに帰ると、私は、T書記生をつかまへていろいろな質問をした。この人は事変前、やはり支那沿岸のある領事館に長らく勤務してゐた経験から、支那に於ける日本人の問題について相当面白い話題をもつてゐた。今それをいちいち紹介する暇はないが、こゝにも日支関係調整のひとつの鍵が秘められてゐるのを知り、今度の事変は、益々複雑にしてしかも微妙な将来を、われわれ国民の肩に投げかけるものであると思つた。
 英人経営のこのホテルは、まづこの土地では一流と云つてよいのであらうが、ボーイは悉く支那人で、その点、甚だ妙な具合である。日本人にサーヴイスなどごめんだといふやうな強硬な手合はゐないのであらうか? ちよつとでも所謂「侮日的」態度が見えたら、私の一夜の眠りは安らかなるを得まいと案じられた。ところが、腹のなかはどうか知らぬが、表面はなんの変りもなく、寧ろ義務を義務として忠実に果すといふ風が見え、特にお愛相がいゝとまでは行かぬにしても、決して不愛想ではない。
 私は喉が渇いたのでアイス・ウオーターを持つて来いと命じた。すると、なにかの空瓶に生温い水を入れ、それへコツプをかぶせて持つて来た。水は一度沸かしたものだからそんなに冷くはないのださうだ。
 で、その理窟といつしよに、私は一杯の湯ざましを飲み込んで、今日日本租界の本屋で買つたばかりの「抗日論」を読みはじめた。時と云ひ、場所と云ひ、この翻訳論文集は興味湧くが如くであつた。
 蒋介石ほか十七人の、それぞれ時局を指導するためにものした文章が、こゝで様々な重要人物の思想と風貌を浮びあがらせてゐる。馮、張、毛、章、徐、胡(適)、何、陳、宋(慶齢)の言論は、殊に代表的なものである。
 この度の事変に対するわが国民の認識、就中、知識階級全般の覚悟を促すために、これらの文献は是非広くわれわれの間で読まれなくてはならぬと思ふ。
 それにしても、日本人の、いざといふ場合の挙国一致ぶりは誠に眼ざましく、頼もしい限りである。それだけ、政治家の責任が重いといふことを政治家自ら深く肝に銘じておいて欲しいものである。
 その翌日、私は、司令部に出向いて、従軍記者の腕章を貰ひ、M少佐から昨日の返事を聞いた。残念だが観戦武官とその案内者で飛行機の座席が満員であるから、同行の儀はむつかしいとのことで、止むを得ずそれは諦めた。が、そこで、私は早速保定に行きたいと云ふ希望を述べると、それなら、連絡機に乗せてやつてもいゝとの有りがたい取計ひに、私はほつとした。実を云ふと、天津から保定まで今のところ普通で行くと三日かゝるのである。それが一時間で着くのだから、こんな時間の経済はない。
 その場になつて間誤つかないやうに、私は、夕刻自動車を駆つて臨時飛行場を検分に出かけた。飛行機は、翌朝八時に出発といふことであつた。
 まづ安心と、それから、街へ引返し、日本租界のなんとか公司といふデパートへはひつてみた。ガマ口が破れかけて来たのと、襟巻を何処かへ置き忘れて来たので、代りを新調せねばならぬ。各売場をひと渡り廻つて歩いた。素晴らしい支那美人の売子の前に髭面の兵隊さんが集つてゐる。小間物の売場で煙草はないかととぼけてみたりする。女売子は、その典型的な柳眉を心もち寄せて、つんと澄ました。しまひに、誰がなんと云つても返事をせず、たゞ面倒臭さうに首を横に振るばかりである。流石の兵隊さんも根負けをしたらしく、「行かう、行かう」と云つて立ち去つた。
 私は、ふと、自分の捜してゐるガマ口がそこに並んでゐるのに気がついた。硝子箱の中の気に入つたのを出してみせろと指でさすと、件の女売子は、頗る横柄な手つきで、それを私の前へ抛り出した。
「いくら?」
「……」
 口の中でなにやら答へたらしいが、よく聞えない。
「え?」
「……」
「わからない」
「一円五十銭」
 と、彼女は、鈴虫のやうな声できつぱり日本語を操つた。
 金を出さうとすると、彼女は、そこにおいてある呼鈴をヂヤンヂヤン鳴らしだした。何時までも止めない。なんの合図かと思つてゐるうちに、向ふから給仕風の男の店員がやつて来て、私の出した金を受け取つて行つた。さて、彼女はおつりと一緒に品物を私の方へ押しやつたと思ふと、あとはもう、素知らぬ顔で、横を向いてしまつた。凄艶と云ふ言葉が実によく当てはまるやうな顔かたちである。が、サーヴイスは日本なら落第組であらう。但し故らさうしてゐるのだとすれば、また何をか云はんやである。それにしても女は飽くまでぢつとしてゐて、男がお使ひをする仕組が、デパートだけに面白い。やはり、支那の習慣としてはそれが当り前なので、女をこき使ふのは日本だけの美風だと一時は思つたが、これは独断を避けるためにもうひとつの見方をせねばならぬ。即ち陳列品から一つ時も眼をはなせない土地柄だといふことだ。

     空の一騎打

 荷物を半分ホテルの帳場へ預けて、朝早く飛行場へ駈けつける。
 白状すると、私は、飛行機といふものに乗るのはこれがはじめてゞある。
 それほど急ぐ旅をする必要もなかつたし、また、なんとなく億劫でもあつたから、つい食はず嫌ひみたいなことになつてゐたのだが、いざこれからあの機械で空中何百尺の高さを飛ぶのだぞと自分をおどかしてみても、一向危きに近づくやうな気はしない。それどころか、いよいよこれから鉄砲の弾丸の下をくぐるのだと思ふと、乗り物がなんであらうと問題にならぬといふのがほんとの気持であつたらう。
 空中飛行の感想などは時節外れだからやめにするが、天津の街を真下に眺めた時は、夢うつゝで自分の在りかを捜すやうな錯覚に陥つた。
 が、それでも、高度八百といふ指針に眼を据ゑ、プロペラの力強いうなりに耳を澄してゐるうちに、この壮快無比な空の旅を楽しむ余裕ができて来た。
 腰にさげた図嚢から北支の地図を取り出し、水筒の蓋についてゐる磁石を投じて、方向を見定め、度々話題に上る津浦線一帯の大浸水がこゝまで及んでゐるのかと疑ふひまもなく、それはまさしく、畑も部落もたゞところどころ水面に形を現してゐるだけの、見渡す限り、水また水の連続であることがわかつた。
 それでも、どうかすると、一部落の周囲に堅固な散兵壕を築いた跡などが見え、思はずからだを乗り出すこともあつた。白洋淀といふ湖を越えると、次第に、山の姿がはつきりして来る。畑の区劃が竪縞の織物を並べたやうに美しい。灰色の城壁に囲まれた保定の街が、小さく地平線に浮ぶ。窓の一方へ急に地面の模様が映る。飛行機が旋廻をはじめたのである。着陸。一旦外へ出る。
「S部隊長は何処にゐますか?」
「前線に出られた」
 参謀の答へである。
「今日は帰りませんか」
「わからん」
 急いで、また飛行機のなかへはひる。保定に近いもう一つの飛行場まで運んで貰ふためである。
 S部隊長は、同期生で○○機の部隊長である。前線と云へば石家荘あたりか? とにかく、保定の街を見物しておかう。
 こつちの飛行場には、○○機が○台、出動の準備中であつた。
 並んだ天幕の一つから、上着を脱いではゐるが将校用のバンドを締めた慓悍そのものゝやうな青年が、両手を頭の上へ組んでのつそり姿を現はした。
 私は地上勤務の兵士たちに、此処は何部隊かと訊ねてゐたところであつた。兵士の一人は、
「今こゝにゐるのは○○部隊の○○隊であります。あ、あそこへやつて来られるのが、ついこの間敵の重爆を撃墜された沢田中尉殿であります」
 どれどれ! 私は、この殊勲の勇士のそばへ近づいて、こゝで初めて従軍記者を名乗つたのである。
「まあ、休んで下さい」
 と、彼は私を天幕に案内し、晴れ渡つた真昼の空の下で、私の望むまゝに一席の武勇談をして聞かせてくれた。
「丁度○○飛行を終つて着陸しようとしてゐたところでした。地上で敵機現るといふ信号をしてゐます。急いで上げ舵を取りました。何処にゐるかわからない。そのうちに高射砲の炸裂する白煙が見えました。あ、あの方角だなと思つて、その中へ飛び込んで行つたら……」
 といふ具合に、情況は手にとるやうだ。
「なにしろ、初めて敵にぶつかるんですから、うつかりした真似はできません。奴、どうするかと思つて、しばらく出方をみてゐると、大した腕前ぢやないことがわかりました。そんならと云ふんで、こつちは、いきなり下へもぐつて……食ひついて……」
 言葉どほりにこの話を伝へることができないのは残念だ。
 中尉は、専門的俗語を連発して、壮絶な空中一騎打ちの瞬間を描いてみせた。
「後方射手のからだがぐたりと前へのめつたやうでした。もう占めたと思ひました。それからは、機銃を実直ぐに据ゑたまゝ、後ろ十米ぐらゐの距離を保つて追つかけたんです。そのうちに、操縦者がハンドルを放して起ち上らうとしました。恐らく飛び降りるつもりだつたんでせう。しかし、……」
 と、中尉は、その姿を想ひ出すやうに、瞳を据ゑて、今度は急に、冷然と、
「もう駄目でした。タンクが火を吹きだしたと一緒に、機体は墜落です」
「操縦者は支那人でしたか?」
「えゝ、まだ若い将校のやうでした。いや、場所が丁度この上でしたから、部隊の士気が大いにあがりました。地上勤務のものは退屈してますからね。それだけがよかつたです」
 そこに居並ぶ部下の将士たちも、この若い隊長の想ひ出話に均しく呼吸いきをはずませてゐるやうに見えた。
 それから、昼食のご馳走になり、地上勤務部隊の隠れた苦心談を聴きながら、以前支那兵営であつた宿舎を一巡した。それは殆ど普通民家を大きくしたやうな建物で、例の土をかためて壁と屋根とを作り、若干の部分に石灰を塗つて白く外観を装つてゐるだけである。
 裏庭の一隅にアンペラで囲つた急造便所ができてゐる。「下痢患者用」と書かれた貼札が眼を惹き、いま食卓を共にした若い見習医官大谷博士の言葉を思ひ出した。腹をこはすとなかなか恢復が困難らしい。
 午後、序があるといふので、保定まで自動車へ乗せて行つてもらふことになつた。途々いくたりかの農夫に出会つた。パアル・バツクの「大地」に出て来る農夫たちを眼のあたり見る思ひである。保定の城門に近い小川のほとりで、暢気さうに投網をしてゐる老人もあつた。さうかと思ふと、そのすぐそばの柳の木蔭に、馬が一頭、白骨をさらしてゐるのである。

     保定城

 この日は、日本軍の保定入城から丁度一週間目である。そして、第一線は、とくに石家荘を抜き、もはや邯鄲を落した時分である。しかし、つい二日ほど前、敵の飛行機が城外へ飛んで来て爆弾を落したといふ話を、その晩、人々は話し合つてゐた。
 私は西門で自動車から降されると、衛兵所で○○○○室の所在を尋ねた。
 生憎、さう大きくはないが手提鞄をひとつ持つて来てゐるので、こゝで降されてはちよつと困るのである。それでも私は教へられた方向へとぼとぼと歩きだした。道は白く乾いてゐて恐ろしく埃つぽい。城門に近いあたりは、場末らしい低く不揃ひな家が軒をつらね、往来では物売りが店をひろげ、そここゝで子供も遊んでゐる。
 突然、後から足ばやに追ひついて来るものがある。お巡りさんであつた。いきなり私の提げてゐる鞄を取り上げようとする。私は放さない。なにやら、声高に云ふ。わからないが、察するところ、道案内をしてくれるものらしい。おまけに、鞄をもつてやらうといふのだから、これは、すぐには私に通じない筈である。
 保定警察局といふ看板の出てゐる比較的立派な建物の前に来た。丁度そこに憲兵隊の自動車が待つてゐたので、運転手台にゐる兵隊さんに、私の会ひたいと思つてゐる人の名前を云ふと、やはりこの建物のなかで訊いてみろと教へられ、やつと安心した。
 私は、刺を通じて署長に面会を求めた。署長室へはひるや否や、驚いたことには、支那服の袖に黄ろい腕章をつけた一人の小柄なお婆さんが、つかつかと私のそばへ来て、日本語で、
「さあ、どうぞ……。これが局長さんです」
 と、奥の卓子の向ふでいま起ち上つた詰襟黒服の、なるほどお役人らしい一人を紹介してくれた。
 私は、そのにこやかな、如何にも遠来の客を迎へるといふやうな調子の挨拶をぼんやり聴いてゐた。
 お婆さんは、通訳して曰く、
「よくいらしつて下さいました。ご用はなんでせうか――こぎやん云ひよるですたい」
 そこで、私は、これに応へる代りに「はゝあ、これが有名なお婆さんだな」と思ひ、つくづくその姿、かたちを見直した。事変後保定にたゞ一人踏み止つてゐた日本婦人として、当時新聞が大々的に報道したのはこのお婆さんなのである。
「では、局長さんにかう云つて下さい。――私は保定の町が現在どんな風になつてゐるかを見に来ました。日本の国民は、何れも戦の過ぎ去つた後の町や村に、早く平和が訪れることを望んでゐますから……」
 お婆さんの通訳ぶりはどうであらうか? 恐らく、言葉通りの意味を伝へてもらふわけには行くまい。しかし、局長さんは、熱心に耳を傾け、いちいち大きくうなづいてみせ、さて、私の方に向ひ、
謝々シエーシエー
 と言つたやうに思つた。
 そこへ、表から、忙がしさうにはひつて来た一日本人があつた。年は三十をいくつか過ぎてゐるであらうと思はれるがつしりした青年である。
 お婆さんは私に耳うちをした。
「あれが、井河先生ですたい」
 私の会はねばならぬ人である。
 役目はこの警察局の主事といふ、つまり顧問格なのであらうが、実際の権能は寧ろ今のところ局長の上にありと私には察しられた。
 かういふ都市の治安維持、進んでは行政、経済その他一般の平和工作が、現下の情勢では、まだ軍事的機関の一翼に連つて進められることは勿論であるから、あまり立ち入つたことは書けぬと思ふ。が、単なる好奇心からでなく、国民は、前線躍進の有様と同時に、後方の落ちつきを「手に取るやうに」知り得る術はないかと念じてゐるのである。
 私は、この保定を一例として、可能な範囲に於ける見聞を綴つてみよう。
 井河氏の好意で、その夜は、警察局官舎といふか、同氏の私室といふか、とにかく局構内の奥まつた一室を特に私のために明けてもらつた。
 まだ日のあるうちにといふので、井河氏の巡視時刻を利用し、市中をあちこち見せて貰ふことができた。
 殆ど影をひそめてゐた住民の三分の一は自分たちの古巣に戻つて来てゐるといふ状態で、街々には日の丸の旗を手にした住民の三々伍々が、道ばたに佇み、門口に並んでわれわれの通るのを目礼を以て迎へてゐる――と、私には信じられた。なかには、旗を両手で捧げるやうに頭の上へ差出し、叩頭礼拝する姿も見うけられた。或は、そのなかで、盆にのせた巻煙草を恭々しくわれわれの前に差出さうとするものもあつた。懇ろな饗応であらうが、敢てこれを受けるものがあるであらうか? 婦人は老婆を除いては、まだ絶えて街上に姿を見せないと云つていゝ。
 一寺院の塔に登つてみた。案内の少年僧はわれわれの手を曳かんばかりにして、薄暗い埃にまみれた階段を先に立つて駈け上つた。塔の屋根は砲弾に見舞はれ、半壊のまゝ残つてゐたが、多分、敵の監視兵でもゐたのであらう。
 こゝからは、保定の城内が指呼のうちに見渡せる。意外だつたのは、アメリカとフランスの国旗がそれぞれ、いくぶん風変りな建物の頂に翻つてゐることであつた。一方は教会堂、一万は修道院で病院を兼ねたものだとのことであつた。フランスの尼さんがいくたりとか、大胆にも砲火の下に蹲り、日本軍の進入を待つてゐたのだと聞けば、私の好奇心は動かざるを得ぬ。しかし、事情あつて、私はその訪問を思ひ止つた。
 それから、商店街と覚しい通りへ出た。大きな店は大抵まだ閉つてゐる。閉つてゐる門には○○隊の貼札がしてある。曰く「居住者ナキ人家ニ入ルモノハ厳罰ニ処ス」。軍律の厳しさを思はせ、私は、ひそかに感謝の念にうたれた。
 もう、北門の聳えてゐる前に来た。扉は重く鎖されてゐる。城壁の上を歩いてみる。幅は三間もあらうか。地下室を設けた散兵壕が、蜿蜒と続いてゐる。機関銃座がある。支那兵が弁当を食ひ散らした跡が歴然と残つてゐる。缶詰の空缶に蠅がたかり、砲弾の破片が脱ぎ棄てた靴と一緒にころがつてゐる。城壁の外はとみると、これはまた半永久陣地の帯が幾重にも築かれ、所謂戦車壕と呼ばれる深い堀が要所々々に掘つてある。土の色はまだ生々しく、夕暮の靄が底をつゝんでゐる。
 街には灯がとぼらぬのに、空を仰ぐと月が白く浮び出てゐるのに気がつく。今夜は満月であつた。
 城壁の上には、雑草と灌木が生ひ茂つてゐる。ナツメに似た黄ろい実が刺のある枝につてゐる。同行のお巡りさんが、それをひとつもいで口の中へ抛り込んでみせる。食べられるから食べてみろと私に勧めるらしかつた。私はたゞ、その小枝を一枝折つて図嚢の中へしまつた。
 さつきからわれわれ一行の先導をしてゐる恰幅のいゝ老人が、帰りがけに、その住居でもあらうか、ある建物の前へ来ると、しきりに寄つて行けといふ身振りをする。門の中を何気なくのぞくと、蝶々のやうに舞ひ戯れてゐる一群の少女たちの姿が眼に映つた。私はおやと思つた。
 これは、迂闊ながら、歌妓の家であつた。つまり、芸者屋兼待合である。
 井河氏の説明によると、こゝらは、この町で最も高級な部類に属し、今の老人は、日本で云へば三業組合の頭といふやうな役柄だとのこと。それでゐて、これらの歌妓と共に宴席に出れば、忽ち、楽人となつて胡弓を弾くのださうである。
 戦塵遠ざかつて、平和の歌の第一声は、或はこのへんから聞えだすのであらうか?
 警察局の一室に支那兵の遺棄した武器が積みあげてあつたので、私は、初めて青竜刀なるものを手に取つてみた。こんな重いものをどうして使ふのかと、二三度斬りおろす真似をすると、側に控へてゐたお巡さんの一人が、そいつを両手に持つて、脚を踏ん張り、腰をひねり、気合もろとも、前後左右に振り廻してみせた。得意の手並を示すつもりである。

     靖郷隊

 晩餐の卓子には、お客が大勢あつた。
 主人側とでも云ふか、井河氏のほかに、例の局長とお婆さんの顔がみえ、客側として、日本人が四五人、そのなかに、満洲を本拠とする御用商、五十嵐組の若主人なる人もまじつてゐる。保定入城前後の模様、殊に、現在に於ける日本人の経済活動など詳細に聴くことができた。
 先づ私の興味をひいたことと云へば、軍人軍属に非ざる日本人、つまり、個人として商売を目的に既にこの土地にはひり込んで来てゐる日本人の数が、老若男女を合せて数百名に垂んとするといふことである。
 もちろん当局に於て、適当な選択制限が加へられてゐるのであらうと思ふが、それにしても盛んなものではないか!
 なるほど、その翌日のことである。井河氏を訪れて家屋賃借の許可を得に来た日本人男女の云ふところを聴いてゐると、なかなか面白い。
「手前どもは新京で料理屋をやつてゐるものですが、今度、こちらでひとつ、店を開かうと思ひます。如何でせう、あの停車場の前の通りで、只今煙草屋さんがございますな、あの右隣りに恰好な家が空いてをりますんですが……」
「家主はわかりましたか?」
「へ? 家主はこれから捜しますんで……」
「ぢや、家主の承諾を得たら、家賃をきめてあげませう」
「どうぞ、なにぶんよろしく……。それからこのお神さんですがな、一緒に出て参つたんですが、この方は、なにか簡単な食堂のやうなものをやりたいと云ふんですが、私は、それより、ドラ焼のやうなもんはどうかと勧めてゐるんです。丁度道具を二つばかり用意して参りましたからな」
 それをやはり傍で聞いてゐた五十嵐君は、すぐに膝を乗り出し、
「それやいゝ。私が日に何百円でも買ひますよ。兵隊さんにうんと安く売るんですよ。これや大きな商売だ」
「さやうですか。ありがたい。なあ、お神さん、ほれ見い、云はんこつちやない。わしの考へはどうぢや。お前さん、運が向いて来た、ほやろ」
 私は、城外の停車場附近に日本人のコロニイが出来てゐると聞いて、早速そこへ出掛けて行つた。
 なるほど、これが戦場の跡に早くも種蒔かれた伸び行く日本の生活である。健かに、豊かに実れ!
 流石に、五十嵐組は、大きな構へである。こゝで覚えた言葉を真似れば、これこそ、一個の「野戦デパート」に違ひない。
 お茶のご馳走になる。
 この時、不意に、一大爆音が窓硝子をビリビリとふるはせた。
「なんでせう」
 私は訊ねた。
 五十嵐君は外へ飛び出した。私も続いた。さつぱりわからない。停車場の方向に煙が濛々とあがつてゐる。
 人々が右往左往してゐる。
 が、そのうちに誰云ふとなく、人夫が運搬中の爆弾を取落したのだといふ。空から落ちて来たのではないらしい。
 私たちは家の中にはひつた。
 ところが、しばらくすると、一人の支那少年が泣きべそをかきながら、五十嵐君のそばへやつて来て、なにやら、口籠りながら喋りまくつた。
 この話は、かういふ風に書くとあまり気もちのいゝ話ではない。しかし、戦場挿話としては是非なくてはならぬものゝやうに思ふ。
 少年の云ふところはかうだ。
「今、父親が死にさうになつてゐる。先生、早く来て下さい」
 私たちはその少年の父親が今の爆弾で大怪我をしたものと直感した。
 五十嵐君は駈け出して行つた。といふのは、それがこの家の大家なのである。
 やがて五十嵐君は悄然として帰つて来た。
「もう駄目なの?」
 私は努めて落ちつかうとした。
「なんのこつた。まるで話が違ふんですよ。あの親爺といふのが、今何処かから手榴弾を盗んだといふんで、首を切られるところだつたんです」
「え? 誰に?」
「いや、それがね。……僕、ちよつと○○隊に行つて来ます。手落ちはないと思ふが、よく調べてもらはなくちや……。とにかく僕の大家さんなんだから……」
 私は、丁度そこへ来合せた井河氏に、敗残兵とやらがこの辺にまだゐはせぬかを訊ねた。
「城内は大丈夫です。一昨夜、ちよつと城外でそんなデマが飛びましたがね。なに、なんでもありませんでした。初めの様子では二千人ぐらゐやつて来たかなと思ひました」
「へえ、そんなに?」
「城内の住民はたうとう知らずにゐたでせう。日本人が先に騒いではいけません。最後まで知らん顔をしてゐなくちや……」
 そこへまた、昨夜五十嵐君から紹介された日本の一婦人が、彼女自身「隊長さん」と呼んでゐる、一見将校のやうな服装をした、如何にも気骨稜々と云ひたいやうな壮漢を伴つてはひつて来た。
 彼女は、先づ私に彼を紹介し、
「先生は是非この隊長さんのお話をお聴きになるとよろしいわ。きつと面白いとお思ひになるわ」
 出された名刺を見ると、「○○軍靖郷隊第○隊長。堀内鉄洲」とある。
 抑も靖郷隊とはどういふことをする部隊なのであらうか? この名前は多分、新聞にも一二度は出てゐる筈だ。現に、私と向ひ合つてゐる堀内隊長の華々しい負傷の状況が内地のラヂオを通じて国民の耳に伝へられたとのことである。
 氏は、いままで北京へ帰つて負傷の手当をし、全快を待たず、再び第一線に向ふ途中、此処を通りかゝつたのである。
 いゝところで、いゝ人に会つたものだと、私はその婦人にお礼を云ひ、貪るやうに堀内氏の話に耳を傾けた。氏は鹿児島の産であることが私にはすぐわかつた。勿論、現役の軍人ではない。肩章がないのを見てもわかる。しかし、やはり「特別任務を帯びた準戦闘部隊」の隊長には相違なく、その任務が命ずる行動の範囲は、正規の戦闘部隊に比して、決して狭いとは云へないのである。
 先づ、その名称の示す通り、靖は鎮めるであり、「郷」は部落、都市である。即ち、第一線部隊と共に保定なら保定に乗り込んで、直ちに住民を慰撫し、秩序の維持に当る役目なのである。従つて、隊長以下支那語に堪能で、地理に詳しく、風俗習慣に通じ、その上胆力と奇略に富んでゐなければならぬ。隊員は、大部分支那人で、隊長の腹心であるとまでわかれば、凡そその活動ぶりが想像できる。
 追撃戦の場合など、工兵の来ないうちに、落ちた橋をかけ直して急場の間に合せるなどといふ芸当はこの部隊でなければできぬだらう。それもその筈である。隊長の命令一下、何時どんなところでゝも、苦力の千人や二千人は立ちどころに集められるといふのだから。
 保定の南、新楽の町はづれに鉄橋があるが、それと並んで急造の橋がかかつてゐる。「靖郷橋」といふ札が立つてゐる。この鉄橋は退却する敵によつて破壊されたものである。
 軍の統一ある治安工作機関として宣撫班といふものがあることはもう誰でも知つてゐるが、早く云へば、場所によつて、その仕事の下ごしらへをしながら前進する半武装部隊である。恐らく、臨機応変の便法として、私設的に編成されたものであらうと思ふが、ともかくこれらの人々も、やはり彼等の信念のために身命を擲ち、効果百パーセントの働きを示してゐることを特記すべきであらう。

     保定第二夜

 五十嵐君の招待で、私たちは、開店前の酒場といふので牛鍋をつゝくことになつた。
 女たちは、悲痛な声で満洲小唄を歌ひ、堀内氏は朗々と槍さびをうなつた。
 アカシヤの生ひ茂る枝の下である。支那家屋の中庭は、忽ち「野戦カフエー」の珍奇な風景を呈しはじめた。
 頭の上を、騒がしく啼いて通る鴉の群を、私はしばらく眺めてゐた。その声は鳥といふよりも寧ろ獣に近く、例へば咽喉をからした小猫の啼き声を想ひ出させる。夕闇を更に暗くするほど、忽ち空一面を覆つた無数のこれらの鴉は、街の上をひと廻りして東へ飛び去つた。
 三本脚の野良犬が餌をあさりに来た。私は肉の一片をつまんで、こいつを門の外へ連れ出した。すると、あちこちから、大小さまざまな犬が寄つて来た。見ると、どれもこれもびつこをひいてゐるか、腰をひん曲げてゐる。私は、急いで門を閉ぢさせた。
「さあ、明日はいよいよ出発だ」
 堀内氏は感慨深げに叫んだ。
「やつぱり汽車は出るんでせうね」
 昼間、私は、鉄道に関係のある将校から、明日新楽行の軍用列車に乗せて貰ふ許しを得てゐるからである。
「大概、大丈夫と思ひますが……。わしの方はなにしろ大勢だから……」
「一緒に行けますね」
「何処までおいでですか?」
「先づ石家荘まで」
「わしも石家荘へ行きます。それから、命令でどつちへ出掛けるか……」
「僕も、行けるところまで行きますよ。連れてつて下さい」
「わしについてゐさへしたら安心です。これから先はあぶないと思つたら、教へてあげます」
 さうだらう。かういふ戦場では、どこが危いといふことを知ることさへ、素人にはむづかしいのである。
 夜が更けた。
 私は城内に帰らねばならぬ。堀内氏も警察局に用があるといふので、一緒にこの家を出た。
 城門にさしかゝると、歩哨が誰何すいかをした。戦地では、この「誰か?」に一度で返事をしないと、命があぶないのである。
「文芸春秋社特派員」
 云つてしまつて長すぎたなと思つた。「従軍記者」でよかつたのだ。
 銃剣がぴかりとして、私たちは衛兵所の前に立つた。
「通過証は?」
 司令が訊ねた。
「誰のです?」
「城内へはひるのには○○○○官の通過許可証がなけれや駄目だ」
「そいつは知りませんでした。昨夜はそんなことなかつたんでせう?」
「今日から命令が出た」
 そいつは弱つた。○○○○官だつて、もう寝てゐるだらう。
「警察局へ帰るんですが、それでもいけませんか。お巡りさんがそこにゐますから、なんなら附いて来てもらつても……」
「いや、規則は規則ですから、お気の毒ですが、衛兵としては、守則に従ふ以外、何等の権能もありません」
 司令は、顎髯を蓄へた年輩四十五六と覚しき老伍長である。
 たとへ日本軍の将校と雖も、巡察以外は入れないと云はれてみれば、止むを得ない。
 私は、井河氏に断りを云はねばならぬ。かくかくしかじかの理由で今夜は城外に一泊するが、明朝は汽車が早く出るらしいから、挨拶に伺へぬかも知れぬ。荷物を誰かに纏めさして明朝七時までに停車場へ届けて欲しいと、一筆名刺に認めて、そこにゐるお巡りさんに局へ持つて行つてくれと頼んだ。
 が、私は、こゝでも、内心、不便なことだとは思ひながら、一方軍律の厳として犯し難きを頼もしく感じ、衛兵に一礼して、堀内氏と共にもと来た道を引つ返した。
 私たちは、この時刻に、もはや万策つきて、さつきの家へ泊めてもらふことにした。幸ひ一と部屋空いてゐるといふので、五十嵐君の勧めるまゝにアンペラの上に毛布一枚にくるまり、身心ともに硬ばらせて、うつらうつら、妙に寒々とした一夜を明かした。
 翌朝、いよいよ汽車が出るといふ瞬間、私の荷物はやつと届いた。五十嵐君が、自転車を走らせてくれたからであつた。
 擬装した○○機関車が無蓋貨車をゆるゆると牽いて行くのである。
 貨車は寿司詰めであるが、周りの兵隊さんたちはみんな陽気だ。
 快晴、微風、満腹。そして、新楽までは、平時なら三時間といふのだが、今日はどれくらゐかゝるか?

     前線へ

 堀内氏は北京から連れて来た三人の部下と一緒に乗り込んでゐる。私は自分のトランクを椅子の代りにして無蓋貨車の一隅に陣取つたので、展望は自由であつた。
 便乗組のわれわれ以外は、多くて五十名、少なければたつた一人といふ風に、別々の部隊に属する兵隊さんたちの、云はゞ混合列車であることがわかつた。後方から特別の任務を帯びて前線へ派遣されるものもあり、留守隊から補充として第一線部隊へ編入されたものもあり、負傷とか病気とかのためにしばらく野戦病院にはひつてゐたのが、やつと全快して原隊へ復帰するといふものも混つてゐる。従つて、兵科もいろいろ、出身地もまちまちである。初めて戦線に出るのだといふ若い現役兵もゐれば、もう天津以来弾丸の下をなんべんも潜つたといふ古つはものもゐる。将校も一人二人はゐるらしいが、別に指揮官としてゞはない。
 沿線は一面の棉の畑である。農夫の姿もところどころに見える。
 例の粘土色の平野が何処までも続いてゐて、森も丘もない。たゞ、まばらな立木が、ところどころに生えてゐるだけである。そのなかに美しく黄ばんだ葉がみえるのはなんであらうか?
 不思議なことに、針葉樹といふものがまるで見当らない。その上、どの樹も枝ぶりが同じやうで、何れもやはらかく垂れさがつてゐる。楊柳、アカシヤ、楡、たまに部落の近くにはナツメなどあるさうだが、遠くからはその見分けはつかぬ。季節のせゐもあらうが、全体の緑は、白つぽくくすみ、紺碧の空のなかへ、大地の色が沁み込んでゐるやうに見える。
 なんの変化も、なんの刺激もない。自然は単調そのものだとは云へる。しかし、それでゐて、決して、荒涼たる眺めではない。たゞ巨きく、静かなのである。
 望都といふ停車場に停つた。
 守備兵の間を駈け抜け、梨売りが列車めがけてたかつて来る。五銭で十個、安いには安い。
「どら、ひとつ味をみてやる」
 手を出す兵隊があると、梨売りは、油断をしない。
 私は水筒に茶を入れることを忘れたので、早速それを買つた。今迄食つたどんな梨とも似てゐない、一種特別な香りと味とをもつてゐる。
 汽車は何時の間にか動きだし、何時の間にか止つてゐるといふ風である。人々は、だんだん退屈しはじめた。身動きもならぬ。背嚢の間に挟つて、居睡りをはじめるものもある。話声も聞えない。
 私は、遠く西の方に聳える山の連りをさつきから飽かず眺めてゐる。麓までは、近いところで二十キロもあらうか。あの山間の部落々々には、所謂敗残兵がまだうろうろしてゐるのだと聞いてゐたからである。
 汽車は清風店といふ駅に停つたまゝ容易に動きだしさうにない。もう昼近くである。飯盒をおろし、携帯口糧の袋をあけ、それぞれ昼飯にとりかゝるものもある。
 一時間、二時間、と過ぎた。なにを待つてゐるのだらう?
「今夜は新楽かな、定県かな」
 堀内氏はひとり言のやうに呟いた。
「弁当にしませうか?」
 隊員の一人、これは日本人の坂本氏が隊長の方へ声をかけた。
 ところが、どういふ間違ひか、弁当は隊員四人に対して、二人分しか用意がないとわかつた。その二人分は、支那の隊員二人が食ふことになり、堀内、坂本両氏は、土産の餅菓子を取り出した。
 さういふ私も、むろん弁当なんか持つて来てゐない。横着のやうだが、堀内氏にくつついてゐればどうにかなると思つてゐたからだ。
 遂に私も空腹を覚えだした。餅菓子ひとつでは後が続くまいと思つたから、兵隊の真似をして、生薯と大根を齧つた。実際、これは真似事である。一食ぐらゐぬかしたところで平気なことはわかつてゐる。が、この調子でまたどんなところへ何時間も止められないとは限らないのである。
 私は、線路から離れて、あちこちと歩いてみた。人家は何処にあるのだらう? 例の蒲鉾形の墓のほかに、回々教の石塔もところどころに建つてゐる。近くで銃声が一発、続いてまた一発、聞えた。妙にのんびりとした気分である。兵隊はよく誤つて引金を引くことがある。これを暴発と云ふが、多分それであらうと思つてゐると、畑のなかを、瘠せた小犬が一目散に走つてゐるのが目につく。
 汽車はまだ出さうもない。

     新楽まで

 守備兵の一人が、切りに大声で車の上へ話しかけてゐる。何気なくその話に耳を傾けると、
「驚いたよ、まつたくそん時は……。前を見ると、土手の上で白いものがさつと動いた。二十米もないんだぜ。すると、道の両側からパンパンパンと、一斉に撃ちだした。五十名以上ゐたな。こつちは、自動車の上だぜ。おまけに、銃を持つてるのはおれともう一人特務兵がゐるきりだ。運転手の××上等兵は、しかし、えらかつたよ。落ちついてやがるのさ。おれたちが車から飛び出して、とにかく応戦してゐるひまに、ゆつくりハンドルを廻しはじめたんだ。弾薬盒の弾丸を二人で道の上へぶちまけて、そいつを代る代るこめたんだが、それを拾ふ手のそばへ、敵の弾丸がピユンピユン跳ねるんだ。不思議と当らねえもんだなあ。こつちだつて、無我夢中さ。眼の前にゐる敵が、どうしても撃てねえんだ。運転台で、『よしツ』つていふ声がしたから、『さ乗れツ』つてわけで、飛び乗つた。そん時、××上等兵が、『やられたツ』ていふから、『どこを?』つて訊くと、片手で肩を押へてるんだ。後ろからは、まだ雨のやうに弾丸が飛んで来る。タイヤをやられたと見えて、車はガタンガタンさ。もう駄目だと思つたよ。しかし、××上等兵はえらかつたなあ。たうとう頑張つて、帰つて来た。たつた今、病院へ連れてつたんだが、軍医殿は急所を外れてるから大丈夫だつて云つたよ。うん、すぐそこさ。あの山の麓の曲陽つてところだ。始めから危ねえと思つて、隊長にもさう云つたんだ。あゝ、さうさ、豚を徴発に行つたのさ。なにしろ、敵前二十米で、あの大きなトラツクを廻れ右させるんだからな。あわてたらおしまひさ。もう少し前へ出てたら、道が狭くなつてるから、どうすることもできなかつたんだ……。最初、前の土手の上で……」
 話がまた始めへ戻りさうなので、私はそこを離れた。
 枯枝を集めて火を焚き、薯を焼いてゐる兵士がゐる。
 飛行機が一台はるか高いところを飛んでゐる。
 敵か味方かといふ穿鑿をするものもない。
 停車五時間半の後に、合図もなく汽車は動き出した。
 定県を過ぎると、日が傾き、線路間近に、支那兵の屍体が転がつてゐるのが眼につく。
 様々な形をしてゐる。俯伏せになり、片腕を額にあてゝゐるのもある。仰向けに、大の字になつてゐるのもある。なかには、今にも起き上らうとして膝をついてゐるのもある。さうかと思ふと、抜殻のやうに軍服だけがぺつしやりと地面に吸ひついてゐるのもある。土のなかから手袋をはめた片手がによつきり出てゐるのをみた時、私の傍らにゐた後備兵は、ペツと唾を吐いた。
 が、かういふ光景はやがて、夕闇のなかに没し去つた。
 と、汽車は、停車場もなにもないところへ停つた。
 何処かで銃声がするといふものがある。
 私は耳を澄ました。さう云へばあの音か知ら? 鉄道に沿つた道路を、逆の方向へ三台のトラツクが走つて行く。武装した兵隊を満載してゐる。
「敗残兵が出たな」
 誰かが囁いた。
「もう、新楽はぢきでせう?」
 私は堀内氏に訊ねた。
「そこが新楽ですよ」
 灯の見えない部落には、しかし、何かが動いてゐる。○○、○○○の集団が、そここゝに宿営してゐることがわかつた。
「今日は、もう前へは出られませんね」
 新楽の南端に沙河といふ河があつて、その鉄橋がまだ修復できないのである。河向ふから汽車が出るには出るのだが、その時間はわからない。
 鉄橋こそいゝ迷惑で、敵と味方が、代る代る毀す。それをまた、代り番こに直すのだが、鉄道関係の人の話では、支那軍の破壊方法はなかなか専門的で、手が込んでゐるさうだ。だから、修繕にも骨が折れるのである。
 新楽の駅に着くと、堀内氏は、荷物を一旦構内の片隅に纏めておろし、部下の一人を見張に残して、早速宿舎の探険に出掛けて行つた。私もむろんそれに従つた。

     支那民家

 停車場司令部はごつた返してゐる。なにしろ、戦場の旅行者はひと先づ此処で「自分の行くべきところ」をたしかめなければならぬ。宿と食糧にありつくためには、○○へ出頭すべきだが、その在りかが第一わからない。明日の汽車の時間も知りたい。副官は声をからしてゐる。
 われわれは、そこへいくと、堀内氏といふ大船に乗つてゐるから、どう間違つても大したことはあるまい。
「たつた今、定県の駅が襲撃された」
 といふ言葉を、私は、辛うじて耳にはさんだ。
 堀内氏は、すたすた、裏道伝ひに新楽の城門を目指して歩いて行くのである。
「詳しいもんですね」
 私は思はず感嘆の叫びをあげた。
「いやあ、なんべんも来てますから……」
 城門をはひると、すぐに「新楽県治安維持会」といふ標札の出てゐる建物があつた。城内氏は、そのなかの一室をのぞき込んだ。五六人の支那人が蝋燭を立てた卓子を囲んでゐたが、堀内氏の姿を見ると、懐しさうに起ち上つて、口々に何やら挨拶を述べてゐる。
 やがてその一人が先に立つて歩き出した。街はひつそりとして、家といふ家は固く門を鎖してゐる。
 月が出たのであらう。空はほんのりと明るく、人影のない街は、却つて無気味であつた。
 と、いきなり、街角をこつちへ駈けて来る若い女の姿が眼に映つた。日本の女である。披女は、われわれの方へ一瞥を投げ、そのまゝとある建物のなかへ消えて行つた。
 堀内氏は、
「おい、おい、ねえさん」と、呼んだ。
 女は、襟をかき合せるやうにして、再び門口に現はれた。
「なにか、御馳走はできないかい?」
「わしども、たつたいま来たばかりぢやけん……」
「来たばかりだつていゝぢやないか」
「なんにも支度がでけとらんですたい」
「ほう、支度がいるか。そいぢや、また……」
「どうぞ……」
 われわれは、一軒の空家とおぼしい家の門を潜つた。なかなか立派な家である。案内の支那人はもうゐない。堀内氏は、奥まつた建物の扉をこつこつと叩いた。
 意外にも、その扉が中から開いて、五十がらみの割に品のいゝ男が顔を突き出した。堀内氏が言葉をかけると、その男は、大きくうなづきながら、屋敷の中の一棟を指さした。中庭を横ぎらうとすると、その庭の真ん中に大きな卓子があり、四五人の男が暗闇のなかで食事をしてゐるところである。
 彼等は慌てゝ箸を投げ出した。一人の老人が私に椅子を薦める。他の若者は、急いで茶碗を洗ひ茶を汲んで出した。眼が馴れると、あたりの建物の様子がはつきりして来た。
「これはどういふ家ですか?」
 私の問ひに堀内氏は、
「穀物問屋です。この町では大尽ですよ」
「家族はみんなゐるんでせうか?」
「男だけは残つてゐるらしいですな。さあ、晩飯の支度にかゝりませう」
 隊員の支那人、賈陽山ヂヤヤンサン君が肉と野菜の買出しにやられた。もう一人の王振遠ワンチエンユアヌ君は、用がないと見えて、私のまはりをうろうろしてゐる。
 穀物問屋でも米がないとわかつたので、例の饅頭の皮みたいなものをこしらへることになつた。堀内氏が家の主人に紙幣を一枚握らせると忽ちサーヴイス振りが違つて来た。竈の火は赤々と燃え上り、油を煎る音が空腹を刺戟した。
 間もなく、賈君は豚肉と白菜と葱をしこたま仕入れて来た。王君が庖丁でそれを切る。味噌はあるが砂糖がないといふので、坂本氏がドロツプをひとつかみ鍋の中へぶちあけた。
 その夜、私は堀内、坂本の両氏と枕を並べて寝た。この一行は夜具の用意をして来てゐる。おかげで、私も寒い思ひをせずにすんだ。
「あなた方が連れてをられる支那人は、どういふ素性の人ですか?」
 私は、物好きに、かう訊ねてみた。
 堀内氏は、笑ひながら、
「あの年取つた方の王といふのは、以前張学良の部下で、陸軍大尉です。張の失脚後、職に離れてゐたのを、わしが拾ひ上げたのです。もう一人の若い方、賈といふのは、あれは、二十九軍の兵隊だつたのを、途中で逃げ出して、わしのところへ頼つて来たのです。あれの兄といふのをわしが北京で世話してゐたものだから……」
「へえ、すると、両方とも玄人ですね」
「なかなか役に立ちますよ。賈なんか、今でも敵の歩哨線を公然と通り抜けられるんですからね」
「なるほど、暗号も知つてるでせうからね」
「いま、第一線でわしの部下が働いてますがみんなよくやつてくれとるですよ。早う行つてやらにや、わしも心配でなあ」
「あなたの隊は、日本人はあなた方二人きりですか」
「いや、ほかに三四名ゐます。班長はやはり日本人でないといかんです」
 堀内氏は、そこで、図嚢から眼薬を出して眼にさした。迫撃砲の破片でやられた傷がまだ完全になほつてゐないのださうである。

     仮橋を渡る

 朝早く眼がさめた。
 私は中庭に出て、火事場のやうな光景を見た。家財道具を悉く運んだ後の、ガラクタと塵芥の堆積がそれである。
 古手紙が散乱してゐる。帳簿や、古い小説本、子供の絵本、法律書、殊に、裁判所の判例の写しが沢山ある。この家の息子の一人がその方面の学校へでも行つてゐるのであらう。裏庭へ出てみると、バスケツトボールの設備がしてある。純支那風のこの建物にそんな生活がどうして想像できよう。
 王君が金盥に湯を汲んで持つて来てくれる。なるほど大尉の軍服を着せたらさぞ似合ふだらうと思はれる立派な体格である。大陸には珍しい口髭も生やしてゐる。
 昨夜の食事の残りで朝飯をすます。
 荷物を運ぶための苦力が五六人召集される。
 朝霧のなかを、一行は城壁に沿うて、沙河の河畔へ!
 鉄橋のなかほどに機関車が一台立往生をしてゐる。河幅は千米もあらうか。洲の多い川である。鉄橋と平行に仮橋が架つてゐる。
 これが堀内氏の説明によると、二千人の苦力を集めて二昼夜のうちに完成した応急工事である。砲車も通ればトラツクも通る。われわれはその間を縫ふやうにして、やつと対岸へ着いた。
 乗馬将校の叫人が、演習のやうに号令をかけてゐた。堀内氏は、この橋に余程の執着があるらしく、
「まあ見て下さい。これが素人の架けた橋ですぜ。わしはひと晩、水の中に漬かつて、苦力どもを指揮したんです。はじめ請負でやらさうと思つたところが、親方が金を払はないといふんで、みんな逃げちまつた。それでしかたがない、ひとりひとり、わしがぢかに金を払つた。追撃部隊が、橋の出来上るのを待つてるんですぜ。気が気ぢやない。まるで死に物狂ひです。わしがこれで現役なら金鵄勲章だ――さう言つて、参謀に褒められましたよ」
 私だつて、いくらでも褒めてあげたい。しかし、愚図愚図してゐると汽車に乗りおくれる。向ふむきの貨物列車が、すぐ眼の前で、煙を吐いてゐるのである。
 どの貨車も予約済みとのことで、○○部隊一行は機関車の上へ乗ることになつた。石炭と同居である。私は、隙をみて一つの貨車へ飛び乗つた。その車は大部分○○材料で埋まつてゐたが、隙間隙間に、兵隊さんが蹲んでゐた。
「まだ乗れるか?」
 外で声がする。
「もう乗れん乗れん、満員だ」
 誰かが応へる。
 ふと横をみると、女が一人、ぢつと坐つてゐる。和服の上に男物のレーンコートを着て膝に風呂敷を抱いてゐる。女は顔をあげた。
「おや、君は……」
「えへゝゝ」
「ひとり?」
 彼女は、笑顔のまゝうなづいた。
 保定城外の「野戦カフエー」で満洲小唄を歌つてゐた女の一人であつた。
「大変だね。何処まで行くの?」
「わからんですたい。おかみが癪にさはつたから跳び出して来た」
「あゝさうか。あの晩、夜中に大きな声で怒鳴つてたのは、君だね?」
「聞いとんなさつた?」
「だつて、僕は、隣の部屋に寝てたんだもの」
「あら、ほんと?」
「君は満洲から来たの?」
 それにはなんとも答へず、彼女は、風呂敷をほどいて梨を二つ三つ取り出した。
「わしや朝ごはんを食べとらんと……」

     石家荘

 兵士たちは、実に無口である。貨物列車のなかは、一方の戸が開けてあつても、光は隅々まで行き亘らない。それにしても、一女性の存在が、彼等をかくまで謹厳にしてしまつたのであらうか? みんな、それぞれに照れてゐるのである。
 女は、最後の梨を私が貸したナイフと一緒に私の方へ差出した。
「まあ、とつとき給へ。そのうちにまた腹が空くよ」
「うゝん、お昼の分は、ご飯をこゝに持つてるから……」
 さう云つて、ボール箱を叩いてみせた。
 折角の好意であるが、私はその梨がなんだか衛生的でないやうに思ひ、ナイフだけを受けとつてポケツトへしまつた。
「僕は、支那の梨はどうも……」
 すると、彼女は、自分の隣りにゐる兵隊の鼻先へ黙つてそれを突きつけた。
 兵隊は、ちよつと面喰つたやうに顔を引き、女の顔と私の顔とを見くらべ、更に、前後左右を振り返つて、にやにやと笑つた。
 車中は、一つ時緊張したやうに見えた。わざと素知らぬ風を装ふものもあつた。それを機会に、欠伸をするものもあつた。誰もなんとも云はないのは、どうしたわけか?
 しかたがなしに梨を受け取つた兵士は、それでも、うまさうに齧つた。一口齧つては、うふゝゝと笑つた。子供が二三人もゐさうな年輩である。
 正定に着いた。
 さつきから、夥しい支那兵の屍体が眼につく。最近に夜襲でもあつたか。とにかく、正定と云へば、保定にまさる激戦の跡である。話に聞くと、保定の占領は、全ジヤーナリズムがその筆力を集注したわりに、あつけない戦闘であつたのに反し、正定の方は、その後をうけて、ニユースが幾分省略された傾きがあるらしい。が、事実は、これこそ、河北進軍のクライマツクスとも云ふべき大決戦であつたとのことである。
 軍事専門家がこれをどう扱ふか、そこまでのことは私にはわからぬ。ただ、作戦の規模と攻撃の難易を別にして、更に戦場としての名を高からしめる若干の条件を数へることができるやうに思ふ。
 美しい塔が城壁の上に聳えてゐる。その昔日本の僧侶某がこゝで修業をしたといふ寺がある。さういふことをもつと詳しく知つてゐたらと思ふ。
 正午、石家荘にはひる。
 大きな駅である。しかも、全体に近代的な都市を思はせる設備がみられ、駅前の道路には、事務所風の西洋建築がたち並んでゐる。往き遇ふ兵士の数も多いが、こゝへ来ると、流石に第一線部隊の眼つきを感じさせる。
 歩哨があちこちに立つてゐる。
 この町には城壁といふものがない。駅から町の中心に通ずる道路を、われわれは急きたてられるやうにして歩いた。
 鉄道線路の上の陸橋が、爆弾で半分飛んでしまつてゐる。危いぞと思ひながら、その上を渡つた。
 メーン・ストリートである。おほかた平家ではあるが、相当の店が軒を並べてゐる。骨組は支那式で、飾窓や扉には洋風の趣を取り入れてあるのもある。店を開けてゐる家は至つて稀であるが、道端で煙草や果物を売つてゐる支那人は、どれもこれも、保定などと違つて、人ずれのした顔が多い。ひつきりなしにトラツクが通る。徒歩部隊も通る。伝令らしい自転車兵も通る。将校の往き来が目立つ。
 ○○機の一編隊が低空をかすめて南に飛ぶ。
 街は沸き上り、燃え立つてゐる。

     ○○○司令部

 私は、こゝでしばらく足跡を曖昧にせねばならぬ。○○部隊一行と袂を分つて、いよいよ単独行動を取ることにした。
 その前に、今夜万一宿に困るやうだつたらといふので、堀内氏は、わざわざ、私に○○部隊本部の所在を教へておいてくれたのである。
 道みち頭をなん度もさげ、埃をいやといふほどかぶり、全身汗になつて、私はやつと目的の場所に行きついた。
 珍しく樹の茂つた村のなかである。そしてまた珍しくハイカラな洋館である。鉄柵を繞らした官庁風の構へも野戦軍の中枢に応はしい。
 衛兵所の前を通つて、建物の正面に立つと、アーチ形の玄関を距てゝ、泉水のある中庭が見え、この庭を中心に、廊下を繞らした二階が四方からのぞいてゐる。
 私は、左手の階段を上つて行つた。
 突きあたりが副官室である。
 名刺を差出して、H部隊長に取次を乞うた。
 その名刺をぢつと見てゐた副官は、
「失礼ですが、四十八にをられた岸田さんぢやありませんか?」
 と、馴れ馴れれしく椅子から起ち上つた。
「さうです」
「自分はやはり四十八にをりましたKであります」
 もちろん私とは時代が違ふらしいが、同じ聯隊の出身といふことは軍人同士にとつては格別なものなのである。
 H部隊長に敬意を表したいと思つたのは、私が嘗て巴里滞在中、国際聯盟の仕事でしばらく同じオフイスにゐたことがあるからである。ところが、生憎、今、会議の最中とあつて、私はT高級副官の室へ案内された。
 承徳の総攻撃が目下準備されつゝあること、娘子関方面の敵がなかなか頑強であることなど聞きかじつてゐたので、差支ない限り詳しい情報を得たいと思つたが、話はわきへ外れた。といふのは、所謂戦場ニユースに関する軍人としてのT氏の意見がなかなか面白く、時局ジヤーナリズムに対する適切な批判を含んでゐると思はれたので、私も図に乗つて、自分の考へを率直に述べた。
 会議はなかなか済みさうもない。
 私は、強ひて部隊長に会ふ必要はないのだが、われわれが幼年学校にゐる時分から、ウルトラ・秀才として殆ど伝統的な存在であつた「×期のH」の大部隊長ぶりをちよつと見ておきたかつたのである。
 しかし、こゝで時間を空費してはならぬ。
 私は、T氏に暇を告げ、K副官に謝意を表し、H部隊長の健康を遥かに祈りつゝ、司令部の門を出た。
 さて、これからの行動は?
 承徳の攻撃がまだ始まらぬとすれば、寧ろ井※(「こざとへん+徑のつくり、第3水準1-93-59)まで進出して、娘子関の嶮を一目見ておくのもよからう。が、交通の便はどうなつてゐるか? それを確めておけばよかつた。
 ○○部隊にくつついて邯鄲あたりまで行つてみるのもまたひとつの方法である。しかし、これは往復一週間をみておかねばならぬ。予定通りにいつても、それでは北京に寄る暇がなくなる。こゝまで出掛けて来て北京を素通りといふのはちと話にならぬ。
 なんとかして大砲の音ぐらゐ聞けないものか。
 ふとこの時頭に浮んだのは、○○機で戦線の上を飛ぶことができたらといふことであつた。
 それには、○○部隊長がこの辺にゐる筈だ。是非会つて相談してみよう。従軍記者の資格は多分ものを言ふであらう。同期生の誼みで更に無理が利きはすまいかと、私はひとりぎめにきめてしまつた。

     志士の群

 石家荘の大通りを――大通りと云つても道幅は三間あるかないかだが――北へちよつとはひると、右側に「靖郷隊本部」といふ札がかゝつてゐる。相当の構へをした支那風の住宅であるが、門をはひると、保安隊の巡警が歩哨に立つてゐる。
 例によつて屋敷は幾棟にも分れ、食堂にあてられた一室に私は案内された。
 卓子を囲んで、七八人の日本人が、賑かに食事をしてゐた。
 堀内氏は何処かへ出掛けてまだ帰つて来ない。
 一座の人々に紹介される。隊員のほかに、本願寺の従軍僧A氏、軍の通訳官I氏、同盟通信記者M氏、自ら「浪人」と称するW氏などである。
 さう云へば、堀内氏も自分のことを「われわれ浪人もん」と云つてゐる。誰が作りだした言葉か、昔から聞く言葉であるが、これを私は、「支那に志を有する人々」の意に解しておく。
 恐らく何に譬へやうもない、これら愛国的ヴァガボンドの平生について、私は些かも知るところはないが、彼等が日本を狭しとする理由は、その言動に徹して十分察せられるやうに思ふ。
 政治的或は文化的領域に於ける伝統的なその役割について、私はいまこれを取りあげて論じるつもりはない。
 たゞ、飽くまでも、時代の風貌をもつて、与へられた部署に活躍する性格的興味が、私をとらへて放さないばかりである。
 試みに隊員の一人M氏の自ら語るところを聴かう。
「わたしは支那の女を女房にしてゐます。北京にはもう二十年ゐますが、少しは御国のために働いたつもりです。女房が支那人だといふことは、わしが支那で仕事をする上の必要条件です。北京でMと云つて下さればわかりますが、これで見かけよりは信用がありますから」
 見かけはどうして、堂々たる紳士である。次に、自称「浪人」W氏、曰く、
「僕ですか、僕は別にこれといふ任務はないんです。ひとつ、これから黄河を渡つて、支那の真ん中に独立国でもこしらへようと思つてゐるんですが、うまく行きますか、どうか……。単身敵地へ乗り込んで行つての仕事ですから、下手をすれば生きては帰れません。文芸春秋はいつも愛読してゐます。文学のことはよくはわからんです。といふのは、少しは齧つてゐるといふことで、そのへんの連中とは違ひます。僕は、嘗て○○○の手記といふのを読んで感心した。○○軍を率ゐて南北を馳駆した時代のすばらしい記録です。内容も面白いが、文章がまた名文です。名文だと思ふんです、僕は……。それで、そいつを、仲間の川村といふ男と一緒に訳しかけてみたんです。川村といふのは、ほら、ご存じだと思ひますが、北京で桜井中佐の通訳をしてゐて、事変のはじめに戦死しましたな、あの男ですよ。僕は、そいつを川村の名で本にして出さうと思ひましたが、途中でこんなことになつたものだから、そのまゝで抛つてあります。ひとつ、お思召があつたら、それをなんとかして世に出して下さい。若し、いくらか金にでもなるやうでしたら、川村の遺族に送つてやつて下さればよろこぶでせう。原稿は北京にあります」
 と云つて、アドレスを附け加へた。
 みな相当に酔ひが廻つてゐる。従軍僧のA氏をつかまへて、「生臭坊主」と呼ぶものがあり、A氏は眼の縁を赤くして戦帽の庇を押しあげた。
 やがて食事が終らうとする頃、堀内氏が帰つて来た。
 新たな命令を受けて来たらしい。
 隊員は、早くそれを知りたがつた。
 が、彼は、先づ椅子を引き寄せて、静かに席に就いた。と、思ふと、いきなり、手袋をつかんで食卓の上に叩きつけた。
「××がやられた」
「××が……?」
 一同は、眼をみはつた。
「△△も死に、また××もやられたとなつたら、あとはどうなるんだ。わしがゐないのがわるかつた。無茶をやりよつたに違ひない。惜しいことをした」
 堀内氏は泣いてゐるのである。
「責任感の強い男だからなあ」
 イガ栗頭の若い隊員が感慨をこめて呟いた。
 ××は、隊長代理として第一線に出てゐた、まだ三十前の青年ださうである。堀内氏は、この左翼転向者たる青年を最も愛し、信じてゐたらしい。
「ようし、わしがきつと仇を討つてやる」
 かういふ時には、かういふ言葉が、極く自然に出るものらしい。
「隊長には敵の弾丸がまともに中らないから不思議だ」
 隊員の一人がまた独言のやうに云つた。
「うむ、なにしろ、唇と喉笛とをかすつただけだからなあ。眼だつて大したことはないし……」
 彼は、さう云つて、唇と咽喉とに、皮膚をすれすれに指で弾丸の通る形をしてみせた。
「わしを是非前線へ出して下さい。かうしちやをられんです」
 さつきの若い隊員が席を蹴つて起つた。
「支那服を持つとるか?」
「いや、こゝには持つとらんですが……」
「僕が一着、古いのでよけれや持つてるよ」
 従軍僧A氏が、この時、一隅から声をかけた。

     S部隊長との一つ時

「○○北方高地一帯の敵陣地には動揺の色が見えました。○○部隊の左翼は○○河の渡河を終り、対岸の敵を急追中であります。敵の遺棄死体は四百乃至五百、なほ友軍の損害も少くないと思ひますが、不明であります。なほ、○○より○○に通ずる道路上に約一千の敵密集部隊を発見し、直ちに数回の爆撃を加へ、これを壊乱せしめました。その際、翼と操縦桿に四発の銃弾を受けましたが、人員に損傷なし。
 帰途○○方面を迂廻し、友軍右翼前面の敵情を偵察しました。山岳地帯は非常に視界が狭く、低空飛行によつても、陣地の配備を明瞭に知ることができません。殆ど側面より射撃を受けつゝ○○の上空に達した時、○○部隊の一部らしき友軍の散開前進するのを見ました」
 S部隊長の天幕の中である。
 Sは卓子の上の地図をにらんでゐる。機上から飛び降りたばかりの若い飛行将校は、直立不動の姿勢で報告をしてゐる。
 私は、その二人の表情を代る代る読みくらべて、生々しい偵察の記録を胸にたゝまうと努力した。
「やあ、ご苦労。おい、○○司令部を呼び出して……。××中尉、君、電話口へ出ろ」
 Sは、ほつとしたやうに、ボタンを外した胸をそらし、年にしては早すぎる半白の頭へ片手をのせた。
「出てゐる飛行機が還つて来るまでは、気が揉めるつちやないよ。しかし、貴様、よくこんなところまで来たなあ。なるほど話を聞けやわかるが、小説家なんて、そんなことまでするのかい」
「まあ、酔狂さ。しかし、戦争つていふものは現地でないとわからんね」
「うん、それやわからん。おれは、かうしてゐてもまだわからんやうな気がするよ」
「どうして? そんなことがあるものか」
「いや、まだまだ……」
 と、彼は、意味深い笑ひ方をした。
 それから、Sは私を傍らの副官に紹介し、同期生の噂に移り、支那の飛行機の問題を論じ、海軍の飛行技術と陸軍のそれとの本質的な区別を説き、
「さあ、昼だ。飯を食ひに行かう」
 飯を何処へ食ひに行くのかと訊いたら、すぐそばの村落に、夜はちやんと舎営してゐるのだとわかつた。
 護衛兵同乗の隊長用自動車で、部隊本部へ。そこはなるほど、民家を利用した立派な、立派とは云へないまでも小ざつぱりした宿舎である。
 本部将校のための食堂もできてゐる。
 当番の兵士は頗る美少年で、恭しく盆を捧げてお給仕をしてくれる。一汁一菜の野戦献立も、いくぶんは特別の吟味が施され、焚きたての麦飯は相変らずうまい。
「当分米が来ない形勢だつたもんだから、二三日前から節約を申渡したんだ。いや、腹いつぱい食ふなといふわけぢやない。代用食と半々にする手筈をきめてゐたところが、やつと今日あとが着いたんだ。さあ、遠慮なく食つてくれ」
「酒はどうだ? 不自由はしないか?」
「う? うむ……」
 と、言葉を濁し、Sは当番を顧みて、ウヰスキイがあれば出せと命じた。いや、あるにきまつてゐる。私が欲しいといふのではないのである。
「留守宅は東京だつたね。何かことづけはないか?」
 私が云ふと、彼は血色のいゝ顔を更に綻ばせ、
「いや、別にない、序があつたら、元気にやつてるつて伝へてくれ。こんな贅沢な部屋に住んでることも話してくれ。こつちへ来ないか。おれの居間だ」
 戦場と思へば、これでも贅沢といふ意味であらう。形ばかりの家具、寒々とした壁の下に白い毛布をひろげたベツトがある。
 二三年前、同乗中の飛行機が墜ちて、彼は大怪我をし、再起不能とまで伝へられたことがある。その後の健康について、私は訊ねた。
 彼はいくどもうなづくやうに首をふり、
「もういゝ」
 とあつさり答へた。
「自分で偵察に出かけることもあるんだらう」
「あるよ」
「よく下が見えるかい?」
「見えることもあり、見えんこともある」
「それや、高度次第だらうが、一度おれも乗せてみてくれないかなあ。日にちがなくつて前線まで出られないんだ。こゝで引つ返すのは少しいまいましいから」
「うむ……」
 と、考へて、
「まあ、そいつはよせ、見えやせんよ」
「しかし、新聞記者は爆撃機にさへ乗せてもらつてるぜ」
「貴様はよせ」
 なんと云つても、彼は相手にしないので、私は、妙に拍子抜けがして、そのまゝ口をつぐんだ。
 彼もどうやら気まづげであつた。
 この瞬間の印象を今想ひ出して、私は、彼の胸中を読む術のなかつたことを憾みとする。
 話は飛んで私が東京へ帰つた翌日であつたが、何気なく新聞の記事に眼を通すと、丁度私がSを訪れた日の直前、彼の部隊の○○機一機が、偵察飛行中、行方不明になつたことが発表されてゐるのである。
 Sは、さうしてみると、私が訪れた日は、このことで頭がいつぱいであつた筈だ。しかも、それをまだ私にも語る自由をもつてゐなかつたのだと思ふと、彼が私の申出を拒んだ理由も、いろいろ複雑な気持からであつたことがわかる。
「出てゐる飛行機が還つて来るまで、気が揉めるつちやないよ」
 さもあらうと、たゞ聞き流した私の耳は、彼のストイツクな沈黙に恥ぢねばならぬ。

     舎営風景

 Sはまだ此処へ着いたばかりで、部下の宿舎をゆつくり巡視する暇がなかつたらしく、私にも見て行かぬかといふので、二人は車を待たして一緒に本部を出た。
 村落は全体で人家が五十戸もあらうか、わりにちやんとした門構へでそのくせ中へはひると、それほどでもないといふやうな家が多く、このへんもやはり住民の大部分は何処かへ姿を消してゐた。
 宿舎はすべて、住民のゐない家に限られてゐるが、なかに一軒、門の扉へ「日本軍入ルベカラズ」といふ貼紙がしてあるのがある。
「これはどういふんだい、誰が貼つたんだらう?」
 私は不審に思つて訊ねた。
「ふゝん、こつちで粘つたんだらう」
「こつちとは? 日本軍でかい?」
「さうさ」
「まるで、向うがやつたやうだね。すると、なんのためかねえ?」
「いや、夜になると部落の女どもを集めて番をしてやるんだよ。親切なもんだらう?」
「ほう、なるほど、それやよく気がついた。用心をするに越したことはないね」
 二人は笑つた。
 この時、私は端なくも、欧洲大戦の時、フランスの村落へ侵入したドイツ軍の兵士が、村の若い娘たちと意気投合してしまつたといふ話を思ひ出した。東洋人の間では、さういふことは殆ど想像ができないのではないか。これはなかなか面白い問題である。
 少し行くと炊事場である。
 皮を剥いた豚が大きな調理台の上に寝てゐた。一方では、白菜を洗つてゐるものがある。
 隊長は井戸をのぞき込んで、傍らの兵士に訊ねた。
「水はいゝか?」
「はあ、まづいゝ方であります」
「どら、汲んでみろ」
 釣瓶代りのバケツに汲みあげられた水は、白く濁つてゐた。
「これでまづいゝ方かな」
 Sは首をかしげた。
「ほつとくとだんだん澄んで来るんであります」
「それやさうだらうが、あんまり感心せんな」
 私も感心しない。が、兵士は水の責任を自分が負ふ覚悟で黙つてゐた。
 井戸の縁は地面とすれすれで、井戸側といふものがないらしく、外へ溜つた水が中へ逆流しさうである。
「こいつはなんとかならんか。汚いぞ」
 Sの注意は至極尤もだが、これは、炊事係の下士も気がついてゐるとみえ、
「はあ、それに、いま、はめるものを作らせてをります」
 敬礼! 一斉に靴の踵を揃へる音がした。
 私は帽子を脱いだものかどうか?
 それから、警備の状態をひと通り視廻り、Sは、自動車を招き寄せた。
「なにしろ、明日出発命令が下るかも知れんのだからな。落ちついちやゐられないよ」
「うつかり洗濯もできないね」
 と、私は暢気なことを云つた。やがて、飛行場の天幕に帰ると、そこへ、新しく交代した警備隊の隊長が打合せに来た。歩哨の地位を今迄と少し変へることなど相談をした後、
「それから、村落内に怪しい支那人が一名潜入してゐるらしいといふ報告を受けました。只今、巡察を二組派遣しておきましたが……」
「人間がゐるところは大丈夫だよ。それより、飛行機の方だな。まあ、よろしく頼みます」
 あとで、私は、部落民の日本軍に対する感情はどうかと訊ねた。
「うん、場所によるね。大体穏かだが、なかには油断のならん奴がゐるよ」
「ある砲兵隊が舎営してゐる部落で、敗残兵だか匪賊だかの襲撃を受けたところがあるつてね。なんでも部落民のいくたりかゞ焚火をして合図をしたんだつていふぢやないか」
 私は何処かで聞いた話を、逆に持ち出してみた。
「ふむ」
 とSは別に気にもとめないらしい。
 プロペラの唸りが、あちこちで聞える。機械の点検をしてゐるのであらう。ずらりと並んだ○○機の、やゝ仰向き加減に翼を張つて、隊長の天幕をぢつと睨み、命令一下を待つてゐるやうな姿勢が、息づまるほどの物々しさである。これ以上邪魔をすまいと思つたが、さて、行先はと考へる。北京へ直行するにしても、汽車では四五日を見ておかねばならぬ。若しや便宜を計つてもらへたらと、私は、Sにかう云つた。
「これから北京へ行かうと思ふんだが、飛行機の序はないかね?」
「序? さあ、おれんとこにはないが、待てよ……天津までぢやいかんか?」
「いかんことはない。それでもいゝ」
「○○司令部の連絡機に席が空いてないか、訊いてみてやらう」
 丁度、S自身、○○部へ出掛ける序があるとみえ、私も彼の車に同乗することができた。

     支那風呂

 南方邯鄲に通ずる道路は、交通のはげしいためか、ひどく傷んでゐる。
 日中はまだ相当に暑い。強行軍の徒歩部隊が、砂塵のなかをぐんぐん押して行く姿が目につく。胸の釦を外し、手拭を口にくはへ、戦帽の後ろに汗がにじんでゐる。根かぎり歩くのだといふ決意が、一人一人の顔色にうかがはれる。隊長は黙々と軍刀をつき、時々、隊列の乱れを気にしてゐる。ひと足おくれかけた兵士は、背嚢を両臂で支へ、前のめりに追ひ附かうとあせる。飯盒が音を立てるのは中身の乏しい証拠である。今夜は、何処で泊るのか。そこには何が待つてゐるか。せめて喉をうるほすに足る清水でも湧いてゐてくれ。
「おい、こら、みろ。徒歩部隊は、かういふ時は辛いぞ。お前らは、まるで大尽だ」
 Sは、運転手台の兵士らに声をかけた。
 ○○に着く。
 Sについて上つて行くと、彼は、
「ちよつと待つてくれ」
 と云つたまゝ、一室の中へ姿を消した。私は、戸口で、ぼんやり待つてゐた。この部屋のなかでは、重要な作戦が籌らされてゐるのだなと思ひながら、私は、廊下を往つたり来たりし、煙草を一本喫ひ、ノートを取出して、ふと浮んだことを記し、などしてゐると不意に後ろで靴の音がした。
 ○○の一将校が、銃に着剣をした○○兵を従へて、のつそり歩いて来た。私は、手摺を背にして道をあけると、その将校は、私の前に立ち止つて、じろじろ私の顔を見、「お前は何者だ」と云はんばかりの表情で私の返答を待つ身構へをした。
 そこで、私は、先づ、自分の風体といまゐる場所を考へ、なるほど不審に思はれてもしかたがないと気づき、
「S部隊長を待つてゐるところです」
 と、甚だ要領を得ぬ弁解をした。
 それでも、将校は、解せぬといふ顔つきで、今度は、私のからだを検めるやうに、見あげ見おろしするので、
「従軍記者です」
 と、怪しいものでないことを信じて貰はうとすると、いきなり、彼は、
「どなたです、お名前は?」
 もう安心と思つたから、
「文芸春秋社特派員で、岸田と云ひます。名刺を生憎、すつかりなくしまして……」
「あゝ、やつぱりさうですか。自分は、Cであります」
 急に姿勢を正して、挙手の礼である。
 Cといふ名前は、咄嗟に、ひとりの少年の顔を私の眼の前に浮びあがらせた。その少年は、眉目秀麗な、幼年校の服の似合ふ、和歌山弁の、忙がしく瞬きをする癖のある少年である。
 さう云へば、この将校の、日にやけた、頬のそげた、髭の濃い顔のどこかに、その少年の面影が残つてゐるのである。
 同県の後輩といふわけで、この学校の習はしに従つて、私はよく彼を連れて陸軍墓地などを散歩したものである。
「やあ、これはお見それしました。で、君は今、こゝの○○に?」
「いえ、○○部隊の○○をいたしてをります。○○○○に参りました。あなたはまた、ご苦労なお役目で……」
「どうしまして、のんびりと方々を歩いてゐるだけです」
 なにから話をしていゝかわからぬ。
「では、いづれまた……」
 彼は、大切な任務を果さねばならぬ。
「ご機嫌よう」
 私も、慌たゞしく帽子に手をかけた。
 大分待たせた揚句、Sは、
「やあ、失敬失敬……」
 と云ひながら出て来た。
 そこから、今度は、○○の○○へ車を走らせた。
 工業学校の校舎がそれにあてられてゐた。航空兵科の若い○○に私は紹介され、明日ならば天津までの便乗差支なしといふことになり、航空地図を壁一面に貼りまはしたその部屋のなかで、私はちよつと、うますぎはせぬかと心配した。
 S部隊長と別れて、私は、自分の宿舎(?)に戻つた。
 もう日が暮れてゐた。
 靖郷隊の面々は中庭へ大鍋をもち出して牛肉をつゝいてゐる。炭火が赤々と燃え、いくつかの眼が闇の中で光つてゐるのが、なんとなく殺伐な、それでゐてお伽噺めいたものを感じさせた。
 その晩、坂本氏から支那風呂にはいらないかと勧められ、さういふものがあるのかと訊くと、街の風呂屋が今日から開業したからとのことである。なにしろ、もう四晩も汗になつたからだを洗はないのだから、たとへ、何風呂であらうと結構である。
 食事をすますと、坂本氏は先にたつて私を街に連れ出した。いくつかの横町を曲り、珍しく二階建ての映画館のやうな建物の狭い階段を登りきると、むつと鼻をつく臭ひは、内地の銭湯のそれとあまり変らない。
 さう思つて部屋の中を覗くと、共同風呂には、丸裸の日本男児が殺到してゐるのである。
 坂本氏は見張りをしてゐる男に何やら交渉してゐる様子であつたが、やがて、われわれは貸切りの一室をあてがはれた。
 そこは休憩室と浴場とに分れてゐて、二人分の設備がしてある。休憩室には寝台が二つ並べてあり、暇と相手があれば一日ぢゆうごろごろしてゐられる仕組になつてゐる。給仕が茶を運んで来る。
 浴場の方は、殆ど西洋風呂と同じ形をした浴槽が二つあつて、別に風変りなところもないが、いよ/\三助君が「流し」を取りに来る段になると、私はまつたく面喰つた。
 先づ浴槽の縁へ細長い板を渡し、それへタオルを敷いて、私を仰向けに寝かせるのである。文字通り俎上の魚である。三助君は典型的支那人の相貌を備へた、六尺豊かの大男だが、これが日本のやうに裸ではなく、たゞ両袖をまくりあげたのみで、どこをどうしようといふのか。彼は無造作に、その掌で私の胸もとをきゆつきゆつと撫ではじめた。なるほど、瞬時にして垢がよれるので、私はをかしくなつた。胸から腹、股から臑へとこすりおろして行く。片脚を高く持ちあげて、尻のあたりに及ぶと、皮がひりひり痛む。しかし、到るところ、面白いくらゐくるくるとはがれおちるものが感じられる。ますます笑ひたくなるのを、こゝで笑つたら三助君がなんと思ふか、恐らく支那人にその意味は通じないであらうと気がつき、坂本氏をふり返つて、
「なかなか出ますよ」
 と報告してごまかした。
 表がすむと、今度は裏返しにされた。
 脇の下から足の裏まで容赦なくやる。人間はくすぐつたいものだといふことを、彼等は知らぬと見える。恐らく、支那人の残虐さとはこんなところにあるのかも知れぬ。
 しかし、この徹底的な「流し」のおかげで私は一生の垢を洗ひ落したやうな気分になり、日支三助比較論の意義を考へながら、一つ時、休憩室の寝台の上に寝そべつた。

     「文弱」について

 堀内氏の部屋で寝る用意をしながら、明日私は天津へ引つ返すといふ話をもちだすと、氏は幾分残念さうに、
「もう少し前へ出てごらんなさい」
 と云つた。
「いつでも飛行機へ乗せてもらへるなら、さうしてもいゝんですが、この機会を逃すとどうなるかわからないから……」
「なあに、大丈夫ですよ」
「また出直して来ることにしませう」
 そんなことこそ出来るかどうかわからない。しかし、私の言葉に嘘はなかつた。実際、戦争の一番見ごたへのある部分を見ずに帰るのはなんとしても心残りである。
 堀内氏は、こんな序でもなければと云つて、内地にゐる奥さんへの手紙を私に託すべく書きはじめた。
 その時、部屋の入口をのぞき込むやうにして、一人の支那人がはひつて来た。
 片腕を三角巾でつるし、傷が痛むのか、泣きだしさうに顔をゆがめてゐる。
 堀内氏は、その訴へるやうな言葉を聴いてゐたが、やがて、私の方に向ひ、
「この男はわしの部下ですが、負傷して此処の野戦病院にはひつてゐるんです。ところがたつた一人の支那人で、言葉も通じないし、心細いから北京へ返してくれと云ふんです」
「北京に実家でもあるんですか?」
「あることはあるんですが、北京へ帰すにしても、やはり軍の病院へ入れてやりますよ」
 その支那人がまた喋り出した。堀内氏は、今度は諭すやうに長々とそれに応へた。支那人はすごすご引きさがつた。
「病院なんかへはひるより、自分で薬を買つてなほすと云ひ出すんです。銃砲の傷にはとてもよく利く薬を北京で売つてゐるからつて承知しないんですよ」
 傍らから坂本氏が口を挟んだ。
「奴さんたちは一度負傷なんかすると、から意気地がなくなるんでね。もう駄目ですよ、あれぢや」
 私は、横になつた。
「あなたも日本へなにかお言伝はありませんか?」
 坂本氏はそれに答へて、
「わたしは、もう支那人みたいなもんですから……。名前も支那風に劉栄正と云つてるくらゐです。郷里の方とはほとんど縁を切つたやうな形でしてね」
「ぢや、家族の方は北京にでもをられるんですか?」
「えゝ、わたしの姉が○○○の家内になつてましてね、ご承知でせう、○○省の主席をしてゐた、いま行衛不明ですが、むろん、日本軍と戦つてゐるでせう。それも止むを得ずです。わたしも、今度の事変がなかつたら、その○○○の妹を貰ふことになつてゐたんですが、さうすれや、これで○○省秘書ぐらゐの地位につけたんです。さういふわけで、姉がいま北京にゐるもんですから……」
「○○○といふのはたしか日本の士官学校を出た人ですね」
「それがですよ、事変直後に、日本の新聞が姉のことを書きたてたもんだから、先生、南京に対して立場がわるくなつたらしくてね。それも、姉とわたしとで満洲へ行つたことをなにか日本のためのやうに書いたのが致命的だつたんです。困つたことをするもんですよ、新聞は……。親日家はみんな日本の新聞に親日家と書かれることをひどくおそれてゐるわけがわかるでせう」
 手紙を書き終つた堀内氏は、
「ぢや、これをひとつ郵便で出して下さい。家内のゐどころがはつきりわかりませんから、宛名をかうしておきました。この家は日本でもわしの根城です」
 私は、今迄見た限りは戦場のどういふ部分と云ひ得るかを考へた。戦線の後方と云つても、弾丸の音が聞えないくらゐのところでは、その言葉の感じとは隔りがあるやうに思はれた。
 さつき○○を出るとき、ふと耳にはさんだその日の前線の情報にも、娘子関に向つた鯉登部隊が、地形の関係であらうか、敵の包囲を受けてなかなかの激戦中だとのことである。鯉登は事変当初からニユース面に登場した私の同期生の一人なのである。さういふ緊迫した情況も、此処にゐては、想像が眼に浮ばず、内地で号外の文句を読むのと大差はない。
 堀内氏から、「あなたは流石に軍人であつただけ」などと云はれ、さうか知らと自分で不思議に思ふくらゐ、危険は常に遠くにあるやうな気がしてゐたのを、いよいよ明日は後退だときまると、また一層ほつとしたやうな、それをまた自分に咎めるやうな、複雑きはまる気持になつた。
 これでみると、敵の砲火を浴びるといふことが、なるほど人間を得意にする理由がわかるやうに思ふ。
 私はぐつすり眠つた。
 翌朝、堀内氏の計ひで自動車が用意されてゐた。
 志士諸君、あなたがたが日本を愛し、同時に支那の民衆を愛するといふ言葉を私は信じようと思ふ。事変でも終つて、諸君と再会の機を得たら、その日本について、また支那民衆について、お互に率直に語り合ひたいものである。
 ○○部隊○○から、○○飛行場へ送られる。同乗の一将校は、その軍服が血の臭ひのするほど殺気立つてゐた。恐らく、第一線の物音を耳に残し、これからまた、その物音のなかへ飛び込んで行くのであらう。相手の話しかけるまゝに、私が答へる声は、およそわれながら調子の合はないものであつた。
 この時、私は、ふと「文弱」といふ言葉を思ひだし、この言葉が今日軍人の間でのみ使はれてゐるらしいのを面白いと思つた。
「文弱」とは正確にはどういふ意味であるか、語原的な穿鑿は私もしたことはない。
 しかし、第一に、「軍人勅諭」に、軍人は文弱に流れてはいかぬと仰せられてある。
 質素を旨とすべしといふ御諭示のなかにその言葉が使はれてあり、従つて、質実剛健の気風と相反する傾向を指したものであらうと思はれるが、軍人仲間、殊に陸軍の将校生徒らは、少くとも私の嘗てさうであつた時代には、この言葉をやゝ特別な意味にも用ゐてゐたやうである。
 即ち、学課はよく出来るが、教練とか武術とかは不得意なものを往々にして「文弱の徒」と呼び、言語動作が活溌でなく、神経質であつたり、瞑想的であつたり、身なりを気にしたりするやうな輩にもこの言葉が当てはめられる。殊に、同じ学課でも、図画や作文を好み、外国語に熱中し、仮に体操の時間を頭痛がすると称してサボリ、許可されてゐない書物など読み耽るものがあつたら、これこそ「文弱」の尤なるものであらう。
 それからまた、女の話などする奴も、文弱の類ひに入れられる。抑も異性との恋愛なるものは、文弱から生れるものだといふ信念をもつてゐるのである。
 彼等の思想、言論のはしばしに於ても、この「文弱」といふ尺度はしばしば適用される。第一に、平和主義、人道主義、自由主義、等々の流れを汲んだものはすべてこの範疇に入れるべきであらう。
 さて、私が思ふに、これを一般的に論じつめれば、武断的なる精神の忌み嫌ふところは、かの「文化的と称する柔弱さ」にあるのである。
 その一例として、幼年学校の教育綱領とでも云ふべきもの、中に、作文教授の方針を規定して、「小説的なるべからず」といふ一項目が掲げられてゐたことを記憶する。
 この「小説的」なる言葉の意味は所謂「軟文学」の概念から割出されたものに相違なく、勿論文体については言文一致を禁じ、心理描写や自己分析めいた記述を排し、現実暴露的な物の見方を許さぬといふことは事実であつた。
 昔と今とは幾分違ふであらうとは思ふけれど、早く云へば「近代文学」の一面が日本軍人の気質と相容れないものであると同時に、「文化」なるものゝ如何なる意味に於けるデカダンスも、真の武弁には鼻もちのならぬ現象なのだ。従つて、さういふデカダンな傾向をはらむ一切の人間的欲求に同情をもたぬ決意が、当然、今日の重々しい非常時局を形づくつてゐる原因と見て差支ない。
 社会心理としてのひとつの重要な問題がこゝにある。そして、日本の知識階級は、たしかに「文弱」に流れてゐるといふことを遺憾ながら私は認め、自動車が飛行場へ着くと、私には一瞥もくれず立ち去つた例の将校の後姿を、しばらく苦笑を以て見送つた。

     焼芋

 飛び出す○○機、舞ひ降りる○○機、場内の空気はどよめき立つてゐる。
 一瞬、捲き起つた砂煙が徐々にはれると、隅々に張りめぐらされた天幕の内外に、慌ただしい地上勤務兵の活動が見え、着陸点を示す紅白の吹き流しが静かに朝風に翻つて、○○大集団の基地らしい威容を感じさせる。
 ○○機は何処から出るのか、それを確めるために、私は一つの天幕に近づいた。
 将校が五六人、その入口に佇んで空を見あげてゐる。いま離陸したばかりの一編隊がもう山の彼方に消え去らうとしてゐた。その時、私は、彼等のうちの一人に問ひかけた。
「天津行きの○○機に乗りたいんですが……」
「あ、新聞の方ですね。まあ、こちらへ……」
 まだ時間があると思つたので、私は指されたアンペラの小屋のなかへはひつて行つた。見ると、真ん中に、土を掘つて炭火をおこし、その前へ椅子を引寄せてどつかと腰をおろしてゐる一将校が、穏かな微笑をもつて私を迎へ、
「新聞はどちらですか?」
「いや、新聞ではありません。文芸春秋といふ雑誌です。生憎、名刺をすつかりなくしてしまひまして……」
「あゝ、文芸春秋……。それはそれは……。記事になることがありますか?」
 といふ風になかなか如才のない応接ぶりである。私は、これがG氏であるといふことはすぐわかつた。
 別に一問一答をしようとは思はず、私は、たゞ、戦場に於ける一高級武官の身辺について観察することの興味で満足した。
 しかし、G氏は、極めて熱心に私に話しかける。特に支那の軍隊について、その歴史的特性から説き起した一種の論断には傾聴すべきものがあつた。近代戦に於けるその訓練の程度といふ問題になると、氏は、いきなり私にかう問ひかけた。
「支那兵の構築した陣地といふものを見られましたか?」
「野戦の陣地は見ました。相当大がかりなもんですね」
「大がかりだ。その上、労力を惜しげもなく使つてある」
「まつたく、私も、作業の丹念なのに驚きました。ちよつとした散兵壕でも立派な細工といふ感じですね」
「さうでせう。あれを日本軍なら、さう易々と棄てはしませんよ。支那軍は、あんなに丁寧に作つた陣地を、どうしてあゝ簡単に投げ出すかといふと、それには、わけがある。強い弱いといふ問題以外に、陣地といふものに対する考へ方、観念が違ふんです。いゝですか、どうせ一日か二日で退却するんなら、弾丸さへ防げればよささうなもんだ。なにも、あゝ馬鹿丁寧に、定規をあてたやうに作らなくつてもよささうに思はれる。ところが、支那人は、それ、土といふものに対して、日本人の想像もつかないやうな親しみをもつてゐる。土をいぢるといふことが、ちつとも苦にならないのみならず、それは一種の日常茶飯事です。ごらんなさい、日本の子供は、たとへ百姓の子でも、転んで着物へ土がついたら、起き上つてすぐにそれを払ふでせう。これや習慣でさうなつてゐる。然るに、支那の子供はどうです。転んでも決して土なんか払はうとしない。土のなかで生活してゐるやうなもんだ。泥まみれになることは、汚いことぢやないんです。土工作業でも、日本人なら足で踏みかためるところを、支那人は、平気で手を使ふ。綺麗に仕あがるわけです」
「鉄砲を打つより、その方が面白いんでせう」
「まあ、さういふわけだ。それに、第一、支那軍はちよつとした陣地を作るのにも、そのへんの農民や苦力を大勢使ひます。たゞで使ふ。兵隊は監督するだけだ。これなら、暇をかけて、いくらでも念入りにやれるでせうよ」
 朝の空気はそれでも冷いとみえて、時々、年輩の将校が火にあたりに来る。
 飛行服の一将校が突然はひつて来て、一方の壁に貼りつけてある地図に向ひ、何やら説明をしはじめた。
 それが出て行くと、G氏は、私を地図の前へ招き、今はひつたばかりの情報を聞かせてくれた。
 私は、○○機のことが気になるので、そのことをちよつと断つてこの小屋を出た。
 やつと尋ねあてると、飛行機は出るばかりになつてゐるが、天津からの気象通報で、向うは霧が深いことがわかつたので、しばらく出発を見合せてゐるといふ話であつた。
 松竹映画班の一行がやつて来た。飛行機へ爆弾を積むところを写すのださうである。私も、それは見ておきたい。
 ○○部隊の○○機数台が、○○キロの爆弾を翼下に抱へ込む操作が開始される。
 瞬きをせずに見てゐるのは辛い。
 ○○部隊長は、腕時計を見てゐたが、そこへ出動命令が下つたらしい。
 操縦士一同は部隊長の天幕へ集合した。
「○○部隊はこれより○○方面に出動し、地上○○部隊の攻撃に協力しつゝ、なし得れば……」
 若い部隊長の声は、凜然としてゐた。
「自分は××中尉機に同乗する。終りツ」
 操縦士の間で、細かい合図の方法などが打ち合はされた。
 油断をしてゐると、○○機がいつ飛び出すかわからないので、絶えずその方向へ眼をくばつてゐなければならぬ。藍色のいくぶん華車な胴体が、遠くからでも見分けられるのである。
 ○○部隊は、一機一機、同じ間隔をおいて順々に、離陸した。それがやがて、規則正しい編隊となつて、南西へ、南西へ。機上の人々の姿がいつまでも私の眼に残つてゐた。
 さあ、こゝでどれだけ時間を過したらいゝのか? 出発が明日に延びるやうなことになるまいか?
 もう昼も近く、腹は遠慮なく空いて来る。
 私はしかたがなく、催促顔を見せに行つた。操縦士は、飯盒の弁当を食つてゐるところである。
「どうも痛くていかん。歯だか耳だかわからないんだ。とにかく、間をおいて、キリキリキリキリツと来るんだ」
 そばの機関士に話しかけてゐる。見ると、どうやら熱のありさうな顔色である。
 今朝から二度も○○まで往復したといへば、相当に疲れてはゐるであらう。この人がまた天津まで私を乗せて行つてくれるのかと思ふと、済まぬやうな、危いやうな気がして、
「僕、アスピリンを持つてますが、飲んでみますか?」
「いや、熱はないですよ」
 アスピリンは鎮痛剤であることを知らないのであらうか。私は無理に勧めてはみなかつたが、空中で痛みが堪へられなくなつた時、飛行機はどうなるのであらうかと、ひそかに気を揉んだ。
 出発の時は知らせてくれと、機関士に云ひおいて、私は、またぶらぶらそのへんを歩き廻つた。
 さつきのG氏の小屋に近づいた時、私は何気なく、その中をのぞいてみた。
「まあ、はいり給へ」
「天気がよくつて何よりですな」
 私は、この眠くなるやうな支那の秋日和をなんと讃美していゝかわからなかつた。
「あゝ、いゝ天気だ。どうです、これは……。戦地にゐると子供みたいなもんだ」
 G氏が棒切れで灰のなかを掻きまはしてゐる、その棒の先へ転がり出たのは、うまさうに焼けてゐる二つ三つの薩摩芋であつた。

     空中の論理

 ○○機は午後二時になつて、やつと出発した。
 高度の加減か、光線の具合か、来がけに見た時よりも下界は一層単調な物の象を示すにすぎず、私は早くも退屈しはじめた。
 そこで私は、ぼんやり「勇気」といふことについて考へてみた。
 誰が云つたのか忘れたが、支那兵のなかにもなかなか強いのがゐて、勇敢に立ち向つて来るが、それはたゞ、向つて来るといふだけで、こつちにとつてはあんまり怖ろしくない。なぜなら、それ以上のことはできないからで、いよいよとなると、たゞ首を差しのべるだけだ、といふのである。
 これがどこまでほんとだか私にはわからない。しかし、今度の戦争でも、さういふ支那式の勇気が発揮されてゐるやうに思ふ。
 日本人の眼から見れば、この種の勇気は、まことにつまらぬものゝやうにとれるかも知れず、進む以上は一敵でも多くを屠ることこそ真の勇気であると考へられるであらう。
 ところが、この違ひは、たしかに国民性によるものであるのみならず、軍隊としての士気、即ち、訓練と自信の相違にあること明かであつて、恐らく彼我立場をかへたならば、どういふ形で表れるか、これはちよつと判断がしにくいのである。
 およそ今日、わが軍将士の眼覚ましい働きについては、これをかれこれ論ずるものもないくらゐであるが、その働きのよつて生ずる精神的な力、特に「勇気」の形に現れたところをとらへて、その質を吟味するといふことを、誰かが試みてはくれないであらうか?
 私は、また嘗てある武官からかういふ話を聞いたことがある。欧洲戦争の時、各国の軍隊は、それぞれよく戦ひ、長期に亙る対陣中にも、われわれが眼をみはるやうな勇猛ぶりを発揮した。しかし、彼等が日本の兵隊と違ふところは、飽くまでも自分の「生命」を大切にすることである。生きられるだけ生きようとする努力が、常に彼等の行動を支配してゐる。死んでもかまはぬと覚悟する前に、なんとかして生きられぬかといふ工夫を忘れない。
 それがいくぶん死を怖れるといふ表情を呈することもあるにはあるが、それでも危険を冒しもし、その危険のなかで最も安全な道を選ぶ判断を狂はせないことにもなる。
 そこへ行くと、日本人は、死ぬことが即ち目的であるかの如き放れ業を演ずる。生命を投げ出すことが、即ち義務であり、名誉であるといふ信仰に燃えてゐる。その結果が、奇蹟的な勝利を導きさへするのである。生命への執着は、明かに卑怯と見える場所があることをわれわれは教へられてゐるのだ。指揮官が部下に「死ね」と命ずる、その象徴的な意味を、西洋人は理解し難いだらう。自分の最後を壮烈なものとしようとする祈願は、日本軍の所謂「神速な行動」の基礎である。
 なるほどと、私は思つた。
 が、こゝでちよつと面白いと思ふのは、日本人の勇気は、支那人のそれとも、西洋人のそれとも違ふのは確かだとして、さて、東洋と西洋とを比べてみた時、日本人と支那人とに共通なある一点が発見されはせぬかといふことである。この比較は、支那軍を敵として無理に高く評価することにはならぬと思ふ。
「生命」または「死」といふものに対する、東洋的なある種の観念が、たまたま、二つの民族の間で、別個のニユアンスをもつて、その戦ひぶりを彩つてゐるといふだけの話である。
 私は別にこゝから教訓を引出さうとは思はぬ。戦ひは現に、この両民族の手で戦はれ、欧米人は、その光景に戦慄しつゝある。
 われわれは、どちらかと云へば、殺戮の悲劇に眼を蔽ふことを恥ぢ、「生きんとするもの」の叫びをたまたま滑稽に感じる風習に慣らされてゐることを告白せねばなるまい。
 私はまだ飛行機の上にゐるのである。外をみると、何時のまにか、もう例の大浸水地帯の上にさしかゝつてゐる。雲がきれぎれに浮んでゐる上へ、翼の影をおとしながら、高度八百の水平飛行である。
 空の一角に地上の部落が映つてゐるのかと思ふと、それはやはり、水面に浮ぶ村々の眠つてゐるやうな姿であつた。それほど、眼界は広漠として高いのである。
 たちまち、綿雲が地上を包んだ。その代り空は緑色に輝きだした。私は眼をつぶつて、再び瞑想に耽るより外はない。
 が、それからの、とぎれとぎれの夢は、まつたく事変とは関係のないものであつた。

     天津――北京

 天津の街では円タクを拾ふといふことが不可能である。平生はどうか知らぬが、只今は流し自動車など一台も見当らぬ。
 私の拾つた人力車は、勿論、私の言ふことは通じないらしい。
「タラチ・ハウス・ホテル」
 なんども繰返したが、駄目である。
「英租界」
 と、いくぶん、支那語風に発音して聞かせたけれど、車夫は困惑の態に陥るばかりだ。
「タラチ・フアンテン」
 と云ひ直した。飯店とはホテルのことである。
 交通整理のお巡りさんがやつて来た。
 これならわかると思つて、再び、タラチ・ハウス・ホテルを繰り返した。
 彼はうなづいて、車夫に何やら説明したらしい。
 車夫は、「なあんだ」といふ顔をして走りだした。
 が、どうも方角が違ふやうである。仏租界を通り抜けねばならぬ筈だのに、日本租界からいきなり、反対の方角へ曲つて行く。
 足を踏みならして、
「英租界」
 と、私は念を押した。
 車夫は耳を藉さない。見ると、外国租界には違ひないが、こんな方から廻つて行けるのか知らと思つてゐると、眼の前の洋館に伊太利の国旗がはためいてゐる。
 どうしても変だと思つてゐるうちに、車はあるお城のやうな建物の門前へ、急に、勢よく梶棒をおろした。
 広い中庭を前にしたそのクリーム色の総二階建は、軽快な円柱をアーチで結んだ如何にも南国的な廻廊に取巻かれ、その廻廊のところどころに、軍服姿の白人が、或は談笑し、或は靴を磨きしてゐた。
 云ふまでもなく、こゝは、伊太利駐屯軍の兵舎なのである。
 間違ひもかうなると愛嬌で、私も一向不満には思はなかつた。わざわざは来ないであらうところを見物させてくれたわけだから、賃銀を倍にしてやる決心をした。
 やつとその辺を通りかゝるインテリ風の支那人に、手帳を出して“Talati House Hotel”と書いてみせたら、車夫にそれを説明してくれ、車夫は、さもがつかりしたやうな表情で汗を拭いた。
 泰来飯店タラチフアンテンでは私の顔を覚えてゐて、マネエヂヤアもボーイも愛想よく迎へてくれた。
 上海の外国租界では、かうは行かぬらしい。殊に香港では、うつかり日本人などは街を歩けないといふ話も聞いた。いや、そればかりではない。天津や北京でも、事変前の空気はまるで違つてゐたやうである。ある日本人が人力車に乗らうとして賃銀をかけあふと、普通なら十銭ぐらゐのところを五十銭出せといふ。で、それは高いと云つたら、そんならこつちが五十銭出すからお前車を挽いておれを乗せて行けと云つて、空嘯いたさうだ。
 勿論、こんな話はざらにあつたらう。ところが、今では、それが信じられないくらゐである。日本人としては一応住みよくなつたと云ひ得る。が、それで安心はできないやうに思ふ。支那人の「時勢」に順応する力は恐ろしいものだといふことを知りさへすればいゝのである。彼等は、少しも変つてはゐないと、私は判断してゐる。保身の術を心得きつた民衆の、季節的な化粧を見るばかりである。
 たゞ、日本人などに、それがどうかすると彼等を与し易しと感じさせる場合がありさうだ。忍ぶべからざるを忍ぶ、その程度が、あまりにわれわれとかけ離れてゐるからだ。日本人ならば歯を食ひしばるであらうところを、彼等は、ポカンと口をあけてゐるのである。日本人なら、すぐに後を向いて舌を出すところを、彼等は、夜、寝床へはひつてからででもなければ、それをやらないだらう。
 彼等が、日本軍の勝利をどう思つてゐるかといふこと、これは、さう一般的な問題として取りあげる必要はない。たゞ、支那を負かした日本が、将来、如何なる態度で、北支民衆の上にのぞむかといふ、そのこと自身が、彼等を永久の味方にするか敵にするかの分れ目だと思ふ。
 彼等に民族意識や国家観念がないといふ説も極端だし、彼等が抗敵精神に燃えてゐるといふ見方も度が過ぎるのではないか。すべては、日本人の標準で推しはかることは誤りのもとである。
 欧洲のやうなところでも、つまり、あれほど近代国家としての発達を遂げた国々でも、さういふ点になると、案外、矛盾した現象を屡々見せつけることは、いろんな物の本にも現れてゐるのである。
 モオパツサンの短篇など読むと、普仏戦争を題材にしたものが多いなかに、愛国精神と超国境的親和とが、同じ環境、同じ人物のなかに微妙な混りあひを示してゐることを誰でも感じるであらう。それは、或る場合には当然であるが、ある場合には、日本人の考へ及ばないやうな奇怪な場面をも繰りひろげるのである。
 欧米人が戦闘員と非戦闘員の区別をあんなにやかましく云ひたてるのは、やはり、日本的感情ではちよつと始末のできないものがあるのであらう。
 天津から北京への汽車は、平時と違つて、今は日に一度、それも、六時間たつぷり見ておかねばならぬ。
 前線へ出るときとはまた違つた興奮を以て、私は、北京といふ「万人渇仰の古都」を胸に描いた。
 乗客は日本人が大部分を占めてゐるやうに思はれた。しかし、駅々のプラツトフオームを見ると、大きな風呂敷包をかついだ支那人の数も相当に多い。
 満鉄の経営にうつつてから、この列車にも満洲人のボーイが乗り込み、日本語があまり達者なので私ははじめ日本人だとばかり思ひ込んでゐた。
 北京に近づくに従ひ、沿道の眺めは却つて物寂しく、秋の色が次第に深くなつていくやうに思はれた。それにしても、木の葉はまだ枝をはなれず、黄一色の濃淡に染めわけられた大自然は、巧まない絵のやうに奥床しい。
 が、いよいよ、北京の城門が見え、列車が駅の構内へ突入すると、私は、一種名状しがたい錯覚に陥つた。
 アメリカ国旗を立てた大型のバスが、処もあらうに、プラツトフオームの上を悠々と走つてゐるのである。

     巡査の棍棒

 私がのぞいてゐる列車の窓口へ、GRAND HOTEL DE PEKIN と金文字で書いた帽子をかぶつた男が首を出したので、私はこれに黙つて荷物を渡した。
 駅の出口には人力車が殺到して身動きができないやうな有様であつたが、私はやうやくホテルのバスが待つてゐるのを見つけ、その方へ歩いて行つた。
 バスが出るまで私はしばらく駅前の光景を眺めてゐた。
 一人の巡査が棍棒を持つて群がる人力車を追ひ払つてゐるが、前を追ひ払ふと、後から、右を制すると、左からといふ風に、人力車は死にもの狂ひで客を目がけて突進して来る。巡査は、それらの車をいちいち押し返す。押し返されても、隙をみてまた走り出る。巡査は、いよいよ棍棒を振りあげる。相手はひるまない。すると、巡査は、躍起になり、声をからして、地団太を踏む。しかし、振りあげた棍棒は、決して人間の上へは打ちおろされない。幌とか梶棒とかを申訳のやうに叩く。車夫たちは、だから、痛くも痒くもない。遮二無二、割り込まうとする。巡査は、最後の手段として、車の上のクツシヨンを後ろへ放り出す。流石にこれは困るとみえ、車は一旦後ずさりをする。一度に幾十台といふ車が駈け寄つて来ると、一人の巡査では喰ひ止めやうがない。なかには、素早く客を拾つて走り出すものがある。巡査は恨めしさうにそれを見送る。
 いつたい、どういふ規則になつてゐるのか知らぬが、かうまで巡査の威令が行はれないといふのは、抑も事変の影響であらうか。
 それにしても、相手は人民、こつちは、役人である。職権をもつて、取締りができぬわけはなささうに思はれる。「断乎たる」処置をなぜ取らないであらう。
 れつたい話である。が、事実は、この通りで、巡査は堪忍袋の緒を切らず、車夫どもは反抗の限度を守つてゐるのである。
 従つて、最初はすさまじいものだと思つてゐたのが、だんだん、なんでもないことになり、いつたい構内人力車取締規則といふやうなものがあれば、それをちよつと聞きたいものだと、私はひとりでに微笑が浮んで来た。
 誠に支那といふ国は妙な国である。かねて規則ぎらひとは聞いてゐたが、かうまで世話がやけるなら、もうちつと方法がありさうなものである。私が云ふのは可笑しいが、ちやんと駐車場でもこしらへて順番に車を呼び出すやうにすればなんでもないぢやないか。お巡りさんも、自分でそれぐらゐの智恵をしぼりさうなものである。ところが、そんなことは考へもせず、さうかと云つて、不埓な人民に棍棒の一撃を喰はすでもなく、たゞ、その時々に、効果の少い同じ骨折りを繰り返してゐるのは、悠長千万な話である。しかし、見やうによつて、これこそ馬鹿にならぬ風習だと、私はつくづく感じ入つた。なぜなら、人力車夫の取締は罰則を設けさへすれば容易にできるが、巡査が、彼等の無秩序を「殴つて」まで懲らしめようとしない、その平和主義は、一朝一夕の訓練で得られるものとは思はれないからである。
 もちろん、その反面には、万一、巡査が暴力を振つたとしたら、あとの祟りが怖ろしいといふやうな事情があるかも知れぬ。それはつまり警察力の微弱を語るものであらう。
 問題は、だから、そんなところにあるのではなく、かゝる無秩序そのものが、支那人の神経をさほど焦らだたせないのだと見る方が当つてゐるかも知れぬ。それゆゑ、どうかしたらよささうなものだと思ふのは、実は、こつちが見るに見かねてさう思ふのであつて、支那の巡査は、なに、これぐらゐのことはなんでもないと、案外、芝居をするやうなつもりで、ひと通りの役目を果してゐるのだとしたら、更に、支那といふ国は、恐ろしい国だと云はねばなるまい。
 バスには私のほか、四五人の日本人が乗り込んだ。こつちも別に口を利かうとは思はず、向ふも、私の存在に注意を払ふ様子はない。同じ外国の旅でも日本が近すぎ、日本人を見あきてゐるせゐであらう。
 古色蒼然たる大型バスを、でつぷりと肥つた運転手が、急がず慌てず操縦する。乗心地はさうわるくない。
 厚い壁の上に葉の細かな並樹がしつとりと枝を垂れ、街は人通りがすくなく、乾いた路面が煙つたやうに長く続いてゐる。朱塗りの門をはひると、公園のやうな広場へ出るが、そこはもう、北京ホテルの前庭である。
 堂々たる四階建の洋館が、なんと、がさつに見えることか。正面の廻転扉を押すと、中は国際色に満ちた大ホールである。西洋人の幾組かが茶を飲んでゐる。日本の将校が二人、中央の階段を駈け上る。帳場では、英仏日支の国語がちやんぽんに使はれてゐる。両替をするところがある。欧洲語書籍の売店がある。土産物の陳列棚と、その番をしてゐる支那娘がある。
 私は三階のひと部屋をとつた。
 このホテルは日本婦人を細君にしてゐるフランス人が経営してゐるのだといふ話を聞いてゐた。そこで、はしなくも、私は近代支那の一享楽主義者が発した言葉といふのを思ひだした。曰く、「この世の幸福は、洋式の部屋に住み、日本の女を妻とし、支那料理を食ふことに尽きる」と。
 ボーイがぞろりとした支那服で、怪しげなフランス語を使ふのをみてゐると、こつちは馬鹿に気が楽になる。嘗ての放浪癖が頭をもたげて、早くも、私は、「故郷を失つた人間」の気持にひたる。

     慈善興行

 日本を発つ時、阿部知二君から、北京へ寄るのだつたら是非この人に会へと、わざわざ紹介の名刺を貰つて来てゐるので、ともかくそのS・O氏と連絡をとることにした。何時何処でお目にかゝれるかと手紙にしてメツセンヂヤア・ボーイを走らせたのである。すると、間もなく、こつちから出向くといふ丁寧な返事に、私は大いに恐縮した。
 O氏は、支那文学を専攻する慶応の若い教授で、なんの予備知識もない私に、「これが北京だ」と教へて誤らざる人だと阿部君はにらんだのであらう。
 事実はその通りで、私の勝手気儘な註文にも拘らず、実用と趣味の両方面から、極めて豊富かつ適切なプログラムを作つてくれた。
 私は先づ、滞在日数の極めて少いこと、「事変」に関係ある範囲で会ひたいと思ふこれこれの人々があること、名所旧跡はこの際強ひて見たいと思はぬこと、それよりも「北京の現代相」といふやうなものについてひと通りの概念を得たいこと、序があつたら古物商を一二軒のぞいてみたいこと、等を述べたのである。
 北京へ来て名所旧跡を二の次ぎと考へる私の料簡を、氏は多少遺憾に思つたらしい。私もまた、それは好意ある案内者への礼でないことをぢゆうぢゆう知つてはゐるが、今度の旅行の目的を忘れてはならないのと、もうひとつは、従来の経験に徴すれば、私は、所謂名所旧跡といふものに接して、真に心を豊かにした記憶がないのである。
 それはさうと、O氏は、同伴の支那劇研究者H・N氏を私に紹介し、その晩、丁度いゝ芝居がかゝつてゐるから、一緒に観に行かうと云ふ。そして、晩飯は、両氏の宿で家庭料理を御馳走しようといふ、結構すぎる提議に、私は快く応じた。
 さて、その芝居であるが、当夜は、北京市政府社会局主催の義務戯(慈善興行)の第二夜で、しかも、二日しかやらぬその興行は、年に一度のオール・スタア・キヤストだとのこと、北京の名優をかうして並べてみられるのは運のいいことだと云へば云へる。
 元来、私は支那芝居といふものを、専門的な立場からもあまり重要視してゐないし、嘗て上海で観た相当いゝ芝居といふのも、その時の印象では、ちつとも面白くなかつたのである。勿論、研究をした上での批判ではないから、大きなことは云へないけれど、形式から云へばまづ歌劇の部類にいれるべきであつて、「演劇そのもの」としての価値は低いものと断言して憚らなかつた。殊に、歌詞がまるで解らないと来ては、音曲としての縁遠さは別にしても、われわれの興味を惹く何ものもないと高を括つてゐた次第だ。
 ところが、N氏の説明をきゝ、台本のあらましを読み、俳優の閲歴、芸格など、大急ぎではあるが大体呑み込んだ上で、いざ、舞台を眺めてゐると、こいつは馬鹿にならんぞといふ気がして来た。
 観客席は超満員である。しかも入場料は、平生とくらべものにならないほど高いのである。支那人、殊に、北京人の芝居好きは底知れずと云はれるだけあつて、国家の安危を打ち忘れての陶酔ぶりである。
 贔屓役者が出て来たり、いはゆる「見せ場」「聴きどころ」といふやうなところへ来ると、あちこちで、「好々ホーホー」と声がかゝる。
 椅子席の前に、狭い板が渡してあつて、それが卓子の代りになる。売子が茶を持つて来る。菓子や果物を置いて行く。いらぬと云つてもなかなか承知しない。
 舞台では、三国志の一節が物語られてゐる。「撃鼓四馬曹又は群臣宴」といふ外題である。女優が髭の生えた男の役をやつてゐる。
 舞台裏から平気でこつちをのぞき込んでゐるものがある。それどころではない。舞台の隅へはみ出して来る奴がゐる。道具を出したり引つ込めたりする男が、早く云へば小道具方が、まるで自分の家を片づけるやうな歩きつきで、役者の間をうろつき廻る。
 ひと節歌ひ終ると、役者は後ろ向きになつて差出された湯呑みの湯を一杯飲む。口髭のあるのは、その口髭を頤の下へ外すのが見える。女の役は、それでも、袖屏風をつくる。
 支那芝居の講釈は怪しいからやめる。名優と云はれてゐる二三人は、なるほど、役者としての魅力で私を惹きつけた。程硯秋といふ女形は、N氏に従へば、「現在北京で聴かれる名旦中での第一人者、その名海外に知られてゐることは梅蘭芳に次ぐ」とのことだが、次に紹介する「珠痕記」といふ芝居のなかで、春登の妻に扮し、遺憾なくその才色を示したやうに思つた。
 支那芝居の面白さは、N氏ぐらゐにならないと、外国人には隅々までわからぬことは当然と思はれるが、とにかく、かういふ種類の芝居を今もつて無上のものと心得てゐるところ、支那の好みが窺はれて、それだけでも大いに参考になつた。
 試みに、多分N氏の筆になるものらしい当夜の番附にのつてゐる上記「珠痕記」の筋書を写してみる。

 人物
朱春登       老生 譚富英
趙景棠(春登の妻) 青衣 程硯秋
中軍(春登の部下) 浄  侯喜瑞
朱春登の母     老旦 文亮臣
 山東の人朱春登は叔父に代つて出征し、老母と妻君を家に置いて、十数年帰つて来ない。其間に叔父は物故し、従弟の春料は科挙の為め京都に流寓する。それで春登の叔母宋氏は家政を壟断し、春登からの音信を没収して、趙氏には春登が既に戦死したと偽り、自分の甥宋成と再婚するやうに迫る。趙氏が肯じないので姑と一緒に追出される。二人は初め羊を飼つて糊口してゐたが、終にそれも出来なくなつて乞食になる。
 一方春登は戦功を建て、平西侯に封ぜられ、春料も官を得て、兄弟揃つて故郷に錦を飾る。宋氏は春登に、彼の母も妻も既に死んだといふ。断腸の思ひで春登は母の霊前に痛哭する。此処の唱は中々聴ける所である。至親を失つた春登は失望落胆、出仕の意なく、隠遁せんと決心する。その前に故人の冥福の為に我家の墓前で蓆棚を設け七日間の施食をやる。其時既に遠地に流離してゐる趙景棠とその姑は、神力に助けられ、蓆棚の前へ来て、何も知らずに乞食する。食べてゐる中に、墓前にある槐の木を見て我が家の祖墓なるを知り、吃驚して碗を落す。その為に中軍に酷く叱られるが、中軍は貧民をいぢめたかどで却て春登に罰せられる。さて春登が件の乞食を呼んで事情を聞いてみると、どうも自分の妻君らしい。終に我が妻の左手に赤いあざのあつた事を思出し、乞食の手を見せて貰ふ。間違ひない。それで愈々名乗つて母親にも邂逅する。珠痕記なる名前を得た所以である。この夫妻相認の場が此芝居の絶頂で、譚富英と程硯秋とのコンビは得難い絶唱である。
 再び母と妻を得た春登は叔母を呼んで問ひ糾すが、中々泥を吐かない。おまけに、「自分に若しそんな事があつたら竜にさらはれてもよい」と天に誓ふ程の図太さであつたが、誓ひの言葉が未だ終らない中に、本当に竜にさらはれて行く。

 筋は他愛のないものだが、歌を聴くのが主だと云はれてみれば、それまでの話である。しかし、歌を唱ひながら、それぞれの役柄に応じて、型の如き身振りをするのだが、その身振りは、身分、年齢、性格、殊に、青年男女の性的魅力を、極めて端的に、しかも微妙に現はすこと、わが歌舞伎劇の手法に酷似し、更に私の観察では、若い女の媚態を形づくる線の動きは、不思議に日本の伝統的な女性美の標準と一致するものがある。云ひ換へれば、西洋の如何なる芝居に出て来る女も、コケツトな表情の百姿百態を通じて、まつたくこれと共通したものをもつてはゐないことを注意すべきである。
 それともうひとつは、役者の見得の切り方であるが、あの瞬間の動きと「きまり方」の呼吸は、これまた、日本の歌舞伎と支那劇との性格を近づけてゐる。
 この発見は、恐らく、私を途方もない仮定に導くやうに思はれる。といふことは、わが歌舞伎劇なるものが、案外、今日まで信じられてゐるのとは反対に、直接支那劇の影響を受けてはゐないかといふことである。
 さもなければ、両国民の伝統的な生活感情は、種々相距る外貌をもつに拘はらず、少くとも、異性理想化の一点で、隣国に応はしい接近を示してゐると云はなければならぬ。
 まあ、この議論は将来N氏にお委せするとして、私の支那芝居見物記はこのへんで切り上げることにしよう。

     女学生の作文

 忘れようと思つても忘れられません。私達はいつ迄も七月二十七八日の爆声を記憶するでせう。
 あの日私の父は私達に言ひました。
「我々は明日は天津に避難しよう」
しかし私達は父に反対して言ひました。
「あたしは行かない。ともに国難に赴くのよ」
 私達だつてやはり死にたくはありません。しかし避難、この二字はどうも聞き苦しい。
 数日たつて新聞に天津の戦禍が報ぜられてゐた。
※(「口+愛」、第3水準1-15-23)ヤレヤレ、天津に避難して行つた人はみんな死んぢやつたよ」
 と、父はこの一語を云つてニツと笑ひました。
          ×          ×
 私の家には姪が沢山にゐます。私よりたつた一つ年下の姪は或日旗行列に参加しました。彼女は一日中街を歩き廻つたので迚も疲れてゐた。
「お前達はどこへ行つたの」
 私がかうたづねたけれども彼女は答へなかつた。室の中が一種の淋しい空気で一杯になつた。私は二度と訊かなかつた。
 暫くすると彼女は自分から旗行列の感想を話しだした。
「今朝私達は学校に行つた。しかし何のためだか知らずに行つた。先生が来いと云つたから私達は行つた。
 校長先生は一言もものを言はない。たゞ沈黙のうちに私達に旗を渡した。私達学生も旗を受取つて一言もきかうとしなかつた。旗の上には『○○○○○』と書いてあつた」
 校長も説かず、生徒も問はず、各人が暗黙の裡に旗行列に行つたのださうだ。
 私はこの姪の言葉を開いて心中非常に痛快であつた。
「叔母さん、あんたの学校は何故行かなかつたの」
 彼女が私にかう訊いた。
「私の学校は行かなかつた。去年お前達の学校が排日のデモンストレーシヨンの時にも私達の学校は行かなかつた。去年お前達は大きな声で旗を振上げながら『みんな起ち上れ(大家起来)』の一句を叫んだではないか。しかし私達の学校は参加しなかつた。それだから今日もやつぱり参加しなかつたのだ」
「叔母さんの学校はいゝわね」
「去年お前達はどう云つた、私はおぼえてゐるよ、あなたの学校は不好ブーハウと云つたでせう」
「……」
「お前達は知つてるの、お前達の排日デモンストレーシヨンが今の戦争を惹き起したんだつてことを」
 姪は首を垂れて何も云はなかつた。しかし心中甚だ不安の様だつた。
          ×          ×
 うちの兄がラヂオを一つ買ひました。米国のフイルコ会社の製品ださうだ。一寸ヒネつて燈をつけると、世界各国の音楽が聴けるさうだ。そのラヂオは大変高い。兄は三百円つかつたさうだ。
 兄はなぜこのラヂオを買つたかといへば、英米の放送局の音楽をきゝたいからではない。私はとうから知つてゐる。彼は南京の放送局からニユースを聴かうとしてゐるのだ。
「駄目だ、聞えない」
 或晩、かう叫んで彼は癇癪を起した。
「誰かゞチーチーペンペンとラヂオの放送を邪魔してやがる。一言も聞えやしない」
 兄はそれからスヰツチをヒネつてもみない。ラヂオは床の上に淋しく立つてゐる。その函の上には埃が一杯たまつてゐる。
 私はこのラヂオを見て、
 ――国家の地歩はどこ迄落ちゆくのであらう(国家地歩落到那辺)――
と、独り問ひ独り嘆じて心中不安に堪へないものがあつた。

 これは、北京の崇貞学園といふ邦人経営の女学校を訪ねた時、校主の清水安三氏が私に訳しながら読んで聞かせてくれた一生徒の作文である。「時局感想の断片」といふ題がついてゐる。
 清水氏の事業と、事変勃発当時のその行動を、私は氏の発表した文章で知つてゐたから、北京に着く早々、同学園を参観かたがた、氏の話を聴かうと思つて、朝陽門外の東堂子胡同といふところへ出掛けて行つた。
 附近は場末らしいごみごみしたところであるが、学園は二階建の瀟洒な洋館と、これに続くバラツク二棟がわりに広い敷地のなかに建てられてゐる。
 全級を六級に分け、小学から中等科程度の教育を施すやうになつてをり、生徒は悉く支那少女ばかりで、先生も私の見かけたところでは、若い支那婦人のみのやうであつた。
 清水氏は基督教の牧師であり、支那の貧民の子女を、彼地ではまつたく望んでも得られない文化的恩恵に浴せしめようといふ発意から、この学校の経営を始めたのださうである。十数年の闘ひの後に、遂に、こゝまで漕ぎつけたのだと、氏は述懐しながら、綺麗に磨かれた校舎のなかを案内してくれた。
「事変後、生徒の数は変りはありませんか。多少減つたでせうね」
 私の問ひに、清水氏は、得意らしい微笑を浮べ、
「ところが、ちつとも減りません。なるほど、例の通州事変の後、一時、この界隈に匪賊化した敗残兵が出没して、夜道はむろん危険ですし、何処の家でも戸を閉めて子供を外に出さないことがありました。それが一週間も続きましたかな。この間、生徒がぐつと減りました。が、それも、だんだん落ちつくに従つて、もともと通りになりました」
「すると、生徒の父兄は、この学校を信じきつてゐるわけですね」
「事変前の空気にくらべて、今は却つてよくなつてゐるくらゐでせう。私の仕事も、ですから、ずつと楽になると思ふんですが、或る意味では、かういふ特殊な事情を背景に、自分の仕事を発展させる野心など私にはないのです。寧ろ、これからは、もつと奥へはひつて行つて、未墾の土地へ根をおろさうかと思つてゐるくらゐです」
「こゝで女学校程度の教育を受けたものは、どういふ将来が約束されるのですか」
「なにしろ、殆ど家庭的には恵まれない女の子たちばかりですから、大がいは、職業につきます。希望者は日本へ送つて高等の教育を受けさせるやうにしてゐます」
「今、読んでいたゞいた作文で、ほゞ見当はつきますが、日本といふものを、どういふ風に考へさせるかは、なかなか、むづかしい点ですね」
「さう、それです。私は、直接に日本の宣伝はいたしません。日本人の一人が、献身的に、支那人の幸福と利益とを計つてやつてゐるといふことが、なにより日本をよく理解させる結果になると思つてゐます。私は、修身の時間に、よく、あなた方はもつと自分の国を愛さなくてはいかん、と云つて、生徒の愛国心についても、良心的な指導をしてゐるくらゐです。実際、こゝに来てゐる女の子たちは、支那といふものに対して無関心なのが多く、私はそれを心配してゐます。今の作文が、まづ例外と云つていゝくらゐ、支那人としての気持を表はしてゐると思ひます」
「支那側から学校に対して、何か干渉めいたことをしませんでしたか、事変前など」
「いろいろありました。しかし、いやがらせ程度のことで、別にそれ以上の圧迫はありませんでした。とにかく、父兄の支持は今日では絶対です。といひますのが、たゞで学問を教へてやるばかりでなく、家の手助けにレースを編むことを教へてゐますから、それがだんだん一軒一軒ひろがつて、近頃では、この界隈の名物のやうになり、年々相当な金がはひるのです。数年前は貧民窟であつたのが、今では、裕福な暮しをしてゐる家が随分あります」
「さうして支那の少女たちにいろいろなことをお教へになつて、これはちよつと勝手が違ふなとお思ひになつたことはありませんか」
「さう、一度、ずつと以前ですが、どうも理由がわからずに生徒が減つて来るので、不思議だと思つて調べてみると、父兄の間で、こんな意見がひそかに持ち上つてゐたことがわかりました。といふのは、あの学校はほかに不満はないが、たゞ習字に力を入れんから困る。習字といふのは、支那では大事なんです。私は、それをうつかり忘れてゐました。といふより、今の時代にそれがそんなに必要なこととは思はなかつたんです。ところが、父兄にとつては、子供が、学校へ行きながら字が何時までも上手にならなくては困るんです」
「生徒の顔をみると、みんなそれぞれに好い顔をしてゐますね」
「どれも可愛らしい顔をしてるでせう」
 傍らからO氏が附け足した。
「北京といふところは、かういふところです」

     つかめない文化工作

 現地に於ける文化工作のイデオロギイといふやうなものを聞ければ聞きたいと思ひ、私は、二三の日本側の主要人物を訪れた。
 誰がどう云つたといふことをこゝでいちいち言ふ必要はあるまい。
 ――雑誌に書くんだらう。それぢや、話すわけにいかん。もう少し待つてくれ。
 ――文化工作なんて、まだ早いよ。なんにもそんなことは考へてゐない。今は戦争の最中だ。非文化的なことをやつとるんだ。毀す一方さ。ハヽヽ。
 ――われわれは、戦争の方は引受ける。あとは、誰か出て来てやつてくれるだらう。
 ――いつたい、内地で、かれこれ云ひすぎるよ。一種の自己満足だ。知識階級にはさういふ傾向が多くていかん。こいつは相手を乗ぜしめる隙になるといふことがわからんとみえる。怪しからんよ。当分、出先のものに委せておいたらどうだ。
 ――大学か、大学なんか、こゝにはいるまい。奴らにそんな智恵をつけてなにになる。だが、これや、まあ、どうなるかわからん。
 ――自然発生的なものが一番いゝと思ふんです。そのうちから、われわれが、これとこれといふ風に撰択するより外ありますまい。無理に作り上げたり、お膳立てをしてやつたりする方法は避けたいと思ひます。
 ――文化工作は、今着々計画を進めつゝありますが、抑も北支なるものは、歴史的、地理的、風俗的に、支那の他の如何なる部分とも区別さるべき特性があることは云ふまでもありません。従つて、政治、経済、文化の諸部門に於て、その特性を生かすことを先づ考へねばならず、それがためには従来の対支観念を清算して……。
 ――役人のやることは一から十まで駄目、民衆と民衆との結びつきを土台として、将来の北支文化なるものは建設されなくてはならんと思ふのですが、それがためには、……云々。
 内地ばかりでなく、こゝでも、かれこれと云はれてゐるのを、私は当然なことゝ考へた。
 みんなが真面目に日本と支那のことを考へてゐてくれるなら、私ごときが、なにも心配することはないといふ結論に達し、なまじ好い加減な予想など植ゑつけられないうちに、遠くから大勢の定まるのを見てゐた方がわれわれには面白いかも知れぬと、私は、ひとまづこの政治的雰囲気から逃れ出た。
 O氏は、私の公用(?)が済むのを、いつもほつとしたやうに迎へてくれる。
「さあ、これからどこと、どこを廻つて……」
 といふ風に、なかなか時間を無駄にしない。
「えゝ、えゝ、あとは君の連れて行つて下さるところへ参ります」
 と、私は、心の中で答へる。
 が、もう日が暮れかけて来た。
 連れて行かれたのは、清華大学教授、日本文学に精しいといふ銭稲孫氏の家である。
 この種の会見は、私の方では全く北京へ来るまで勘定に入れてをらず、従つて、質問の準備もない。第一、私は、この事変下の感情をなんと云ひ現すべきかを知らないのである。月並に、「誠に困つたことになりました」とでも云はねばならぬとすると、それは、一層困つたことである。
「初めまして……」
 と、私は日本流に挨拶した。
 銭氏の温厚君子の如き顔は、心もち緊張したやうに見えた。
「何時こちらへおいでになりましたか?」
「は、昨日……」
 と、外国人らしく私は答へた。が、何しに来たと訊かれない先に、私は、率直に、旅行の目的を述べ、北京で先生にお目にかゝれたことは、この旅行の一大収獲だとお世辞を云つた。
 やはり、なんとなく、話がしにくいのであらう。銭氏は、いく度も眼をつぶつて考へ込んだ。
「今度の事変は国民と国民との争ひではないと、両国の政府は声明してゐますが、私もそれを信じた上で今度の旅行を思ひたちました」と、私が云ふ。
「日本も支那も、この機会に、なすべきことはたゞ二つだと思ひます。即ち、忘れること、反省すること、たゞこれだけです」
「先生の御意見は、甚だ東洋的で結構だと思ひます。私は、御国の知識階級が殆ど北京を去つてしまつたといふ話を聞いて、非常に悲しく思ひました。この状態は永く続くでせうか?」
「さあ、わたくしにはわかりません」
「先生はイタリイにもおいでになつたさうですね」
「父が公使をしてをりましたから……」
「ずつと北京においでになるおつもりですか」
「なんにもすることがなければ、田舎へ引つ込みます。私の眼の前は、いま、真つ暗です」
 相手を識らなければ、何を話してもまづいやうな気がして、私は遂に黙つた。銭氏の今までの仕事について、皆目知識がないことを私は悔んだ。なんでもダンテの「神曲」を訳してゐるといふことは知つてゐたが、話を六百年前に戻す法はないのである。
 O氏が、四方山の話をしてくれる。
 その間、私はぼんやり、部屋の隅々を見廻し、支那文人の住居らしい、それでゐて、どことなく欧羅巴に通ずる何ものかをひそませた生活様式に興味を覚えた。
 不躾な訪問を謝して外に出ると、細い露地は暗く霞んで、街の子らが車の周囲を取巻いてゐる。
 誰がなんと云はうと、この風雲の下で私と銭氏との立場は明かに違つてゐるのである。万が一、彼の眼に、戦捷国民の思ひあがつたひとつの顔が映つたとしたら、私は穴にでもはひりたい。
 代表的な北京料理を食べたいといふと、O氏は、それなら、食通のW君を呼んで献立の註文をしてもらはうと云ふ。それほどのこともあるまいと思つたが、W君といふのは日本に留学してゐたお医者さんで、気骨のあるさつぱりした人物だといふから、話ができればそれも面白からう。
 料理屋の名は忘れた。所謂「うまいもの屋」といふに応はしい小さな構への、体裁お構ひなしといふ店である。屏風で仕切つた奥のテーブルに着く。
 W君はやゝ遅れてはひつて来る。
 ざつくばらんな調子で、いきなり現在の心境を語る。
「しかし、いま北京にゐるといふだけで、僕などは、南からは睨まれてゐるでせう。うつかり上海へでも行かうもんなら、首がなくなるさ。北京も変るでせうね。どう変るか。北京人は北京が好きなんだから、そのつもりで、あんまり滅茶なことはやらないでほしい。僕は政治なんかに興味はない。だから、まだいゝ、かうして平気でゐられるんです。こゝまでは民衆も黙つてついて来るだらう。あとを、日本がどうするかだ。どういふ態度で民衆にのぞむかです。被征服者扱ひはよくない。忍ぶといふことにも限度があるからね。この間、保定が陥落した時、ほら、こゝで旗行列をやつたでせう。誰が考へ出すかね、あゝいふことは? 上の方ぢやない、それはたしかだ。行列に加はつたのは、小学校の生徒とあとは……。まあ、これや大した問題ぢやないがね。僕は、看板と標札を外して天津へ行つてたよ、その日は……。……………れないからね、かういふことは。日本のためにも考へるべきことですよ」
 料理が運ばれた。豆腐と茸の清汁、鰻のシチユウなど珍味である。
「日本には、僕の尊敬する先生もをられるし、世話になつた人達は、みんな僕の心のなかに永久に生きてゐる。日本にゐる日本人は、懐かしい。だが、北京はどうなるのかね。僕が住めなくなるやうな北京に誰がするのかと思ふと、淋しい気がするね」
 彼は急に聴き耳をたてる。そして、私たちの方へ、眼で用心しろといふ合図をする。何者かが秘かに私たちを狙つてゐるとでも云ひたい表情である。私は、正直なところ、ギヨツとした。「藍衣社」といふ言葉が咄嗟に頭に浮んだ。
「あの話声は日本人ぢやないか」
 さう云つて、屏風の向うを頤で指し、W君は大きく眼をむいた。

     市中見物

 翌日は自動車で市中を見物した。
 民衆娯楽場とも云ふべき鼓楼では、車を降りて屋台店の間を縫ひ、掛小屋の芝居をのぞき、文字通り支那群衆に取り巻かれて、私は少しも不安を感じなかつた。勿論、それはO氏の平然たる態度に影響されてのことであるが、この印象は貴重なものであると信じる。仮面は仮面であらうとも、それはもはや仮面としての欺瞞性をもたないところに達してゐるのである。
 名所旧跡も此処だけはといふので、今は公園になつてゐる旧王城の内苑に杖を曳き入れた。
 一番高い丘の上から見おろす天下の名宮は、たゞ仰々しく子供じみ、秋の陽を浴びて五彩に輝く棟の重畳が、怪奇な歴史を秘めてはじめて感傷の一つ時を愉しましめるていのものである。
 これに反して、半ば色の褪せた廻廊を伝ひ伝ひ、広々とした池のほとりへ出ると俄然、趣きが一変する。
 幽邃とは云へぬが、物寂びた豊かな眺めである。
 渡し船がある。切符を買つて、それへ乗り込むと、あとから、伊太利の水兵七八人が、どやどやとはひつて来た。
 一人が写真機を取出して、仲間を写しにかかつた。われわれは邪魔にならぬやう席を立たうとすると、そのまゝでをれといふ合図をする。
「君たちは天津からやつて来たのか?」
 とフランス語で問うてみたら、
「さうだ」と答へた。
 更に、私は、訊ねた。
「われわれが日本人だといふことを君は識別し得たか?」
「もちろん」
 と、その水兵は愛想のいゝ返事をした。そして言葉をついだ。
「われわれは今度の事変で、こつちへ送られて来たのだが、君たちの国へも是非行つてみたい」
「君たちの艦長がそれを欲しさへすればいゝのだからね」
 と云つて、私は笑つた。すると、その問答の意味を仲間に伝へたらしく、みんな声をたてゝ笑つた。
 私は調子にのつて、
「僕は欧洲大戦の直後、伊太利へ旅行したことがあるが、南部チロルのメランといふ町は、丁度、君たちの国の軍隊が占領してゐて、君たちが今、天津や北京でみるやうな光景を呈してゐた。チロルの平和な自然と国民的デモンストレーシヨン……。軍楽隊のマーチがいつまでも耳に残つてゐるよ」
 通訳がすむと、一同は、大きく眼を見張つていくどもうなづいてみせた。気持のいゝ青年たちであつた。
 船が対岸へ着くと、彼等はめいめいに挙手の礼をして立ち去つた。
 私が空腹を訴へると、O氏はかねてそのつもりでゐたらしく、
「そこに※(「にんべん+方」、第3水準1-14-10)膳といふ飯館フアンカンがあります。これはつまり、宮廷風庶民料理を専門にやる店で、例の西大后の好みから特に宮中でさういふ献立を作らした、それがこの店に伝はつてゐるのです。ひとつ試してごらんなさい」
 といふわけであつた。
 吹きさらしの前庭に、いくつかの食卓が並んでゐて、公園のレストランとしての趣をそなへてゐる。
 軽いランチではあつたが、いく品かの菜汁にそれぞれの工夫を凝らしてあることがわかつた。しかし、料理に関する限り、私は形容の言葉に窮するから、あとはどなたかよろしく。
 日が傾くと、水が近いせゐでもあらうか、風がやゝ冷たくなつて来た。私は外套の襟を立てゝ歩きだした。樹立のなかにゐて、木の肌のなんと目立たぬ色をしてゐることか。幹は悉く小枝と葉のひろがりに席を譲つたのである。自然が常に煙つてゐるやうに見えるのはそのためであらう。
 自動車は裏町へさしかゝつた。土地の起伏につれて、波形につゞく白壁の美しさ。曲りくねつた凸凹道も、こゝでは、往き悩むわれらが自動車のはしたなさを思はせるばかりである。
 こゝは女学校と聞いても、それは昔の大官の住居にも似て、門は厳かに閉つてゐる。居酒屋風の燻けた店の前に、長い煙管を銜へた男が二人立つてゐる。千年前からそこにさうしてゐたかのやうである。
 賑かな大通りへ出た。道傍で物を売る商人は支那の名物であらう。古物商を一二軒のぞいてみた。掘出し物などしようといふ肚はないが、安い土産でもあればと思つてである。これはと思ふものがまるで見当らぬ。蒙古鐙の貧弱なのが手にはひつた。
 下手ものなら天橋テンチヤウに限ると聞いてゐたので、O氏に案内を頼む。城門に近い、云はゞ場末の古物市場である。
 このガラクタの堆積はまづ見ものである。毛皮から勝手道具まではいゝが、その先は、空壜の数々、気をつければ古新聞の束でさへおいてないとは保証できぬ。大通りを挟んで蜿蜒数丁に亙るこの光景は、巴里蚤の市の比ではない。私は疲れた。一軒で絨毯をひろげて見たら、次ぎ次ぎの店から、「いゝのがある。はひつてみろ」と呼びかけられるのには閉口した。
 名刺を作りたいといふと、O氏は勧工場の様に色々な店の並んだ建物のなかへ連れて行つてくれた。名刺はまる一日かゝるといふので、すぐに使ふ分を二三枚別にその場で書いて間に合せようと思つた。が、ふと、私は、その字を店員の支那人に書いてもらふのが面白いと気がつき、そばにゐる一人に、それを頼んだ。すると、その先生はにこにこしながら早速筆を取りあげた。余程うれしかつたとみえる。子供のやうな緊張ぶりである。出来上つた字は、流石に立派であつた。
 その夜は、本場の羊料理、かの豪快な炙肉の立ち食ひを試みた。ヂンギスカンとは日本人の命名ださうだが、沙漠に開かれる軍旅の夜宴は連想としてまづくない。羊料理の店は給仕の少年までみな回々教徒だといふこともはじめて聞いた。

     座談会

 ○○○○室のB氏が人選をしてくれ、北京を発つ前の晩、ホテルへ若干名の支那人を招待した。半ば特派員としての資格ではあつたが、半ば個人として北京在住の所謂「インテリ」に会つておきたかつたからである。多少でもはつきりした思想的立場をもつてゐる人はどうかと思はれたが、集つた顔ぶれは、左の通りである。
柯政和(東京音楽学校卒業、北京地方維持会専門委員、華北教育総会総務組組長、北平師範大学教授、四十八歳)
関瑾良(日本明治大学法科卒業、北京警察局秘書、地方維持会公安組第一科長、三十五歳)
劉家驤(北平大学卒業、北京競報社々長、亜洲文化促進会副主任、中聞通訊社々長、二十八歳)
鮑澂夫(北平大学卒業、毎月評論社々長、亜洲文化促進会常務委員、二十七歳)
※(「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1-91-13)棕(朝陽大学法科政治系卒業、反共戦線社々長、二十六歳)
 このほかに、文学者として、周作人氏にも出席してくれるやう、私は昼間わざわざ同氏を訪ねて、その了解を得ておいたところ、丁度、周氏が家を出かけた時刻に、勅使が着かれたといふので全市に戒厳令が敷かれたため、もうちよつとのところで通行禁止に遇ひ、たうとう、あと戻りをしなければならなかつたといふことを電話で知つた。
 日本人側は、私と外務省文化事業部嘱託の橋川氏との二人。話がすんで晩餐の席には、O、N両氏にも出てもらつた。
 関瑾良氏が日支両国語のそれぞれ翻訳をしてくれることになつてゐ、同氏は座談会のための速記者をちやんと連れて来てゐた。
 さて、予め席を設けさせた別室で、私は挨拶を述べた。
「私はこの度、雑誌文芸春秋の特派員といふ資格でこゝへやつて来ました。しかし、私は元来、ジヤーナリズムのエキスパートではありませんし、さういふ角度から、この事変の現地報告をする能力も興味もないのです。
 私はたゞ日本の一作家として、戦乱の地を訪れ、自分自身のためにも若干の新しい体験を、また、私の読者のためには、なるべく冷静に今度の事変の性質、及びその結果を考へてみる材料をもたらしたいといふのが、本来の希望であり、任務なのであります。
 実は、十分の暇がなく、非常に短時日の旅行なのですが、ともかく、石家荘まで行つてみました。それからつい一両日前北京へ着いたところです。北京の街は、なるほど、見たところでは、不幸な戦禍を免れてゐるやうに思はれます。しかし、民心はどうでありませうか。旅行者たる私には、一種解し難い時局の謎もあります。そこで私は、この機会に是非、御国の知識人から、出来るだけ率直な御意見を聞かしていたゞけたらどんなに参考になるだらうといふ考へを起しました。しかも、それが必ずしも不可能でない最大の理由は、今度の事変が幸ひに国民と国民との争ひでないといふこと、お互にいくぶんは違つた意味をもつてはゐませうが、ともかくも、中国人と日本人とが、事こゝに至つても、なほかつ仇敵の間柄ではないといふことを、両国の政府がはつきり声明し、国民も亦それぞれ、その点を深く認識してゐることであります。この認識は、外交の掛引からは遠いものであると私は信じたい。少くとも、さういふ信念をもつて、両国民の不幸を見つめ、その前途を憂へてゐる日本人、殊に、知識層の大部に、私は少数の方々でもいゝ真に同志と呼ばるべき御国の知識人の声を聞かせてやりたいのであります。
 今日こゝにお集り下さつた方々は、その経歴、地位、また、現在の出処進退に於て、われわれが躊躇なく、味方と呼び得る方々であらうと信じますが、私自身、日本人として当然の国民的義務を負うてゐますと同様に、皆さんも、中華民国人として、言論行動の上の制約を顧慮せられなければなりますまい。これは申すまでもないことで、私がたゞ、皆さんから伺ひたいと思ふのは、専ら、文化的な部門についてであります。例へば日中両国民の提携による平和百年の事業が、果してどんな基礎の上に築かれなければならぬかといふやうな問題について、皆さんの抱負なり、予想なりを聴かせていたゞけたら、大へんうれしいと思ひます」
 通訳者の迷惑も顧みず、私はひと息に喋つてしまつた。
 が、どうやら趣旨だけは通じたと見え、劉氏が徐ろに口を開いた。この人は、たしか、上海に於ける左翼運動のリイダアの一人であつたとか、その後転向して反共運動に投じたのだといふ話を前もつて聞いてゐたから、私は、その雄弁のお里が知れる気がして興味を覚えた。熱情を織りまぜて理論を運ぶことになれたあの一種の型は、世界共通とでも云ひたいほどである。通訳がところどころにはひる。それでもう訳したのかといふ、納まらぬ顔附がありありと読みとれる。が、彼は続ける。
 日本語に移された部分について云へば、この座談会はまつたく散漫至極なものであつた。
 二三の質問を発しはしたが、私の訊きたいことはまともに答へられず、僅かに日本語達者な柯、関両氏がその親日的辞令をもつて、あたらずさはらずの意見を述べるだけである。

     デリカシイについて

 座談会を切り上げて、一同食卓につく。扉を距てたホールでは、ダンスがはじまつてゐる。
 フランス人の給仕頭が平服のまゝで酒の注文をきゝに来る。
 速記者の※(「にんべん+(鼕−鼓)」、第3水準1-14-17)錚君は菜食主義者だといふことがわかり、私は給仕頭に、なんとかならぬかと相談する。卵はどうか。卵もいかぬ。ソースも肉汁がはひつてゐては困る。サラダならよささうだが、マイヨネーズは卵の黄味を使ふから駄目だ。やつとバタだけはよろしいとあつて、ハウレンサウのバタいためを皿へ山盛り持つて来させる。給仕頭はヴエジエタリアンといふ言葉を知らなかつたのである。
 日本人と支那人ではどういふところが違ふかといふ話になる。
 第一に、ちよつと見たところでは、日本人だか支那人だかわからない顔があると、誰かが云ひ出す。さう云へば、さつき、関瑾良氏がはひつて来た時、私は、日本人だとばかり思つてゐた。名刺を出されても、まだ、せきなにがしと読んで、日本人側が一人ふえたものと早合点をし、そのつもりで話をしかけたくらゐである。柯氏も亦、よく日本人と間違へられるといふ。なるほど、さう云へば支那人には珍しいずんぐり型である。そして、この二人とも、不思議なことには、日本に長く住んで、日本を識ること最も詳しいのである。
 柯氏曰く、
「日本人と交際をして一番われわれが苦痛に感じるのは、例へば、日本人に物を貰ふ、或は御馳走になる、すると、その後会つた時、必ずお礼を云はなければならない。先日は誠に、といふ具合に、ちやんと挨拶をしないと、あいつは怪しからんと云はれる。忘恩の徒だといふことになる。少くとも礼儀を知らん奴と思はれる。これは、支那人の習慣と違ひます。こつちは、決してそれを忘れてゐるわけでもなければ、有難く思はないわけでもない。しかし、それを口に出して云ふのは可笑しいぐらゐに思つてゐる。何時かは返礼をするつもりだし、それも、直接にそのお返しをするのではなく、たゞ厚意に酬いるに厚意をもつてする機会を待つてゐるわけです。ところが、日本人は、それでは承知しない。黙つてゐると感謝のしかたが足りないと思ふ。顔を見たら、すぐ、その相手から何を貰つたか、いつ御馳走になつたかを憶ひ出さなければならぬといふことは、これは、われわれには辛い。支那人同士は、さういふことで、恩を着せたり着せられたりしないのです」
 この話は実に面白いと思つた。
 ところで、私は、その後日本へ帰つて、信濃憂人といふ人の訳した「支那人の見た日本人」といふ本を読んだが、たまたま、黒海震なる一支那人の「日本留学日記抄」の中に、次のやうな記事がある。
「十二日。日本人は本当にケチ臭い人間だ。一円何十銭か出して支那料理の一遍も奢つてやるとか、或は、飲食品の一番安いところでも贈つてやると、何度も何度も仰山にお礼を云ふことは請合で、たとへそれから何年かたつた後にでも、何時何処そこでは御馳走にあづかりましてなどと、まだお礼を云ひだすものである。
 私が今度鈴木さんの家に越して来た最初の日に、一箱の白砂糖を買つて鈴木さんにあげようと思つてそれを持つてあの人の前まで行くと、鈴木さんは早速跪いて、何だかよくはわからないが、くどくどとお礼の文句を述べたてられたので、私はまつたく途方に暮れて泣きだしたくなつた。かういふことはわれわれの国では決してみられないことである」
 これでみると、われわれは、やるとか貰ふとかいふことに、そんなにこだはつてゐるのかと、変な気持になる。
 日本語を話さない人はつい黙り勝ちになり、さもなければお互に支那語で喋り合ふといふ具合で、私はやうやく隣席の胡※(「藩」の「番」に代えて「位」、第3水準1-91-13)棕氏から反共戦線社の事業について説明を聴いたくらゐである。同氏の云ふところに従へば、この運動は東洋思想を指導精神とし、儒教的な道徳原理をかゝげて、唯物論の虚を衝かうとするものらしい。
 一同を送り出してから、私は自分の部屋にはひり、今日の会合が、いろいろな食ひちがひで失敗に終つたことをひどく後悔した。
 殊に、私として心甚だ愉まない理由はもう一つほかにある。どんな口実を設けたにせよ、この時局下に、公に支那人を招き、何かを喋らせようといふ浅薄な思ひつきは、われながら感心しかねるといふことを、とくに気がついてゐてどうにもできなかつたのである。
 さう云へば、周作人氏が故障のために引つ返した事も、寧ろお互のために幸ひであつた。
「私は今度の事変がなんのために起つたのか、どうしてもわかりません。もちろん、普段から政治といふものはちつとも興味はないのですが、日本と支那との間に、武力で解決をつけなければならないやうな難問題があつたでせうか」
 と、彼は訪ねて行つた私に向ひ、落ちついた調子で云つた。私は、日本人の立場からそれに答へる必要を敢て認めなかつた。事変前の、所謂「排日的空気」なるものを、彼は誰よりもよく知つてゐる筈である。それを知つてゐて、なほさういふことが云へるとしたら、彼にはまた彼の見方があるのであらう。
 日本婦人を妻とし、大学で日本文学を講じ、革命作家魯迅を兄にもち、南京政府から俸給を貰つてゐた氏の苦衷は察するに余りがある。
「北京大学が今度長沙に移つて、もうそろそろ開講の時期なんですが……政府からも早く来いといふ通知が来てゐます。しかし私は、行かないつもりです……家族の関係がありますから……」
 最後の一句を口の中で云つて、氏は静かに眼を閉ぢた。
 凝つたところのない、どつしりとした好もしい住居である。いくつかの壁で仕切られた中庭が僧院のやうに閑寂な匂ひを漂はせてゐる。植木らしい植木はない。たゞ、自然に伸びたやうな楊柳が一本、ひよろひよろと立つてゐる。敷石のモザイツクが、細かな葉の影を映して、母屋の前の日溜りをくつきりと浮きあがらせる。何ひとつ、こゝをかうしたいといふやうな気を起させぬものがある。おのづからな調和とはこれを言ふのであらう。
 氏は門口まで私たちを送り出し、O氏の問ひに答へて、嘗て魯迅が住んでゐた部屋といふのを指さし、N氏の希望で、私と並んでレンズに向つた。
 氏にとつて、なんのための見も知らぬ日本人の訪問であらう?
 時として冷酷たらんとする観察者も、また、にがさを苦さとして永く記憶する瞬間があるのである。

     北京を去る

 予定の日数は余すところ幾日もない。
 塘沽から出る船を待つてゐるより、大連へ廻つた方がいくらか早いやうなので、弟に会ふ便宜もあり、かたがたさうすることに決めて、寝台車を予約した。
「もう一度是非来ます。これでは北京を観たとは云へますまい。なにか、非常に心を捉へるものがあるのはたしかです。好きになつたらたまらないだらうと思ふ。早く云へば、生活のダイメンシヨンといふやうなものが、人間の本性にぴつたり合つてゐるといふ感じがするのだが、僕には、それ以上の分析はできません」
 私はO氏にそんなことを云つた。
 事実、かういふ都会が世界に一つや二つ残つてゐてもいゝと思ふ。機械文明が取りつゝあるコースとは別に、いくらか頽廃の色は帯びながらなほこのやうにある種の秩序と豊かさとを保ちつゞける文化の形態といふものは、さうざらにはないのである。
 人類の進歩のために、かういふものは役に立たぬといふ考へ方もうなづけないことはないが、伝統の墨守から生じた潤ひのない形式主義とはおのづから別な、融通無碍な一面がたしかにあることを注意しなければならぬ。
 私は、たゞ、建物や、街路やそれらが組み立てる都市の外観についていふのではない。それらを含めてではあるが、北京といふ「生活体」の発散する雰囲気についていふのである。
 支那全体については、また違つた見方をしなければなるまい。私は、この複雑な国家を、民族を、まだ語る資格はなささうである。
 が、今まで漠然と伝へ聞いてゐた支那、時としては比類なき愛情を以て、時としては、敵意と軽蔑とをもつて語られる支那を、極めて自分には縁の遠いものと考へてゐた。ところが、政治的な意味ばかりでなく、私は、今度の旅行を契機として、支那及び支那人に対する興味が、非常な勢ひで頭をもたげて来たことを告白する。
 十月二十八日午後二時、O、N、Wの三氏に送られて、私は、北京を離れた。
 二等のコンパルチマンには、私のほかに、支那人の一家が乗り込んでゐた。中年の夫婦と、やゝ年をとつた身内らしい女と、赤ん坊との四人である。細君は三十そこそこであらうか、わりに智的な顔をしてゐるが、だるさうに後ろへもたれたまゝ、赤ん坊の世話を主人ともう一人の女に委せたきりで、時々、ちらちらと私の方へ好奇的な眼を向けてゐた。
 主人は子供のことばかりに気をとられ、抱き上げたり、寝かせたり、菓子を与へたり、頭を撫でたりしてゐた。やがて、ズボンを脱がせ、床の上の痰壺へ小さな尻をあてがつて大便をさせはじめた。
 云ふまでもなく、私の眼の前である。私は廊下へ出たくもあつたが、また、それも惜しい気がして、ぢつと網棚の一隅を睨んでゐた。
 用事がすむと、痰壺は廊下へ持ち出された。細君が何やら小声でもう一人の女に囁いた。主人が帰つて来て、袋から梨を取り出し、女たちはそれを一つづつ分けた。
 主人は、私の前へも二つ梨をおいて、食へとすゝめるのであるが、私は、遠慮した。
 天津でこの一家族は私に丁寧な会釈をして降りた。
 塘沽で日が暮れ、昌黎で夜が明けた。
 葡萄と梨の産地と見え、プラツトフオームはさながら果物市場である。大きな籠に積みあげた葡萄をめいめい手に提げて帰つて来る。
 秦皇島は砂丘のなかに建てられた明るい街である。海上に浮んだ無数の船は、みな英国の旗をたてゝゐるわけではない。時代の転換を暗示する風景である。
 いよいよ山海関だ。万里の長城の一端があつけなくそこで切れてゐる。遠く山腹を這ひあがる姿は、奇観でないこともないが、私の眼は、もうさういふものにいつか慣れてしまつた。
 それよりも、一歩満洲へ踏み込んだ瞬間、私を微笑させたのは、畑の真ん中を、黒い一頭の豚がちよこちよこと走つてゐたことである。
 北支の旅行を通じて、生きてゐる豚をはじめて此処でみたといふのは、ちよつと皮肉な気がしたからである。
 また夜が来た。
 闇の中に、次第に浮ぶ灯の海は、金州であつた。ネオンサインもあちこちに見えて、私は思はず身ぶるひをした。
 もう日本へ帰つたのも同様である。私の役目はこれですんだのであらうか?
 大連で弟とその一家のものたちに会ひ、大場鎮陥落の提灯行列に賑ふ夜の街を歩いて、私は、この旅行の無意義でなかつたことをしみじみ感じた。
 が、最後に門司までの船の中で、私は是非読者諸君に告げておかねばならぬ情景を目撃した。
 それは、食堂で夕食の最中である。
 一団の日本人が酒杯をあげて大いに戦勝気分を漂はせてゐたが、忽ち、そのうちの一人が、すぐ後ろの席にゐる白人の男女に、何やら怪しげな調子でからみつき、しまひに、その女の肩へ手をかけようとした。女は、憤然として起ち上つた。連れの男は、その女をかばふやうにして連れ去つた。件の日本紳士は、重心を失つて尻もちをついた。
「Sale type!」
 私の耳へ、鋭く、この一言が飛び込んで来た。今の女が、吐きだすやうに云つたのである。
 海は静かであつた。
 馬関海峡はしかし秋雨に煙つて、晴天十日の大陸は、もはや私の記憶のなかに遠ざかつて行つた。

底本:「岸田國士全集23」岩波書店
   1990(平成2)年12月7日発行
底本の親本:「北支物情」白水社
   1938(昭和13)年5月1日発行
初出:「文芸春秋 第十五巻第十四号」
   1937(昭和12)年11月1日発行
   「文芸春秋 第十五巻第十六号」
   1937(昭和12)年12月1日発行
   「文芸春秋 第十六巻第一号」
   1938(昭和13)年1月1日発行
   「文芸春秋 第十六巻第二号」
   1938(昭和13)年2月1日発行
   「文芸春秋 第十六巻第三号(事変第六増刊)」
   1938(昭和13)年2月18日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年11月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。