非常に漠然とした提議の内容でありましたが、それにも拘はらず大体の趣旨に御賛成の上でありませう、今日、わざわざここへお集り下さいましたことは、私として感謝にたへません。
 実は、今日の集りは、なるべく固苦しい論議をさけて、いはば、お互に顔を知り合ひ、何かしらそこに、同じ仕事にたづさはつてゐる者同士の親しみ、しかも、めいめいが自分の仕事の領域を通じて、幾分でも共通の利害、共通の希望をもち合つてゐることを感じ合ふことができるやう、話を進めたいと思ふのでありますが。
 元来、私は、何事によらず、先頭に立つとか、音頭を取るとかいふことは、その任でないのみならず、性来、甚だ好まないのでありまして、今日の会合の如きも、誰かが提議をして下されば、それに越したことはなかつたのであります。
 ただ、事態はやや、それを待つことを許さないといふ気がいたしました。
 と云ひますのは、御承知の通り、最近、新劇行詰りの声が聞え、その対策について、各方面でいろいろな論議が交はされてをりますが、その論議たるや、多くは何等かの主張に基く一個の芸術論でありまして、それは固より結構であるとしても、それだけでは、各人各個の仕事を特色づけることにはなりませうが、一般演劇界の注意と関心を惹くに足りないやうに思はれます。仮にまた、もつと根本の問題について誰かの意見が発表されたとしましても、これまた多くは、単に批評的であるか、又は、消極的助言にすぎませんから、「なるほどそれに違ひない」と云つて、すまされてゐるやうな状態であります。
 殊に、最も、注意すべきは、それらの論議そのものに於て、われわれは、真に、相手の「精神」を汲み取つてゐるかどうかといふことです。
 お互に、「こんなことは云はなくてもわかつてゐる」と思つて、その点には触れずにゐることが、案外、それを云はないために、重点のおきどころを誤り解されてゐるといふ場合が多いと思ひます。われわれ新劇にたづさはる者ならば、当然、解り合つてゐなければならぬことが、どうしたわけか、さう行つてゐないといふ事実を、皆さんはお気づきになりませんか。この原因は、決して、めいめいの芸術論に、それぞれ相容れないものがあるといふ、そんなところにあるのではありません。要するに、芸術家は孤独であるといふ悲壮なプライドが、あまりに今日までのわれわれを支配し、それよりも、日本の新劇界は、芸術家を育て上げるに適した土壌であるかどうかをやや忘れてゐたところにあるのではないかと、私は考へます。言ひ換へれば、今日までのわれわれは、スタンドをもたない競技者の形であります。同一のコンディションで勝負を争ふことができない状態でありました。
 まだ少し、云ひ方が足りないやうです。
 元来新劇といふ言葉の意味についてさへ、われわれは共通の観念をもつてゐないのではないでせうか。ある者は、歌舞伎劇でも新派劇でもない「新しい国劇」の意に用ゐてゐるでせう。ある者は、西洋近代劇の影響とその移植から出発した演劇の先駆的傾向と解してゐるでせう。またあるものは、興行資本の手から独立して、自ら大衆のうちに観客層を開拓しつつある演劇行動の意をも含めてゐるでせう。むろんそれはそれでよろしいのでありますが、その何れを目指して一つの新劇理論が提唱されてゐるかが、往々、曖昧であり、不徹底であることは誰の罪でありませう。
 これはまことに、日本語の罪だと云つてもよろしいのですが、さういふ言葉を無批判に通用させてゐたわれわれ自身の罪も半分はあるんぢやないかと思ひます。
 かういふところに、抑も、お互は、想像にあまる隔たりを感じさせられてゐるやうです。
 申すまでもなく、演劇の革新運動には、様々な目標がありませう。日本の新劇も亦、その意味で、様々な道を辿つたと云へますが、ここにひとつ、われわれは過去の歴史と、今日の情勢に鑑みて、将来、それぞれの目標に到る道が、実は、ある一点から岐れてゐるのであつて、その手前に、ただ一つ、或は、大同小異の目標がおかれてあり、そこを通らなければ、何れの終点にも達し得られないのだといふ事実を知つたのであります。つまり、われわれは、ある地点まで臂を接し或は腕を組み合はなければ通過できない道のあることを発見したのであります。
 いや、しかし、さういふことを、まだ誰も云つてをりません。少くとも、公然とは云つてをりません。的確には云つてをりません。私も亦、その一人であります。
 ただ、一つ、例の村山知義氏等の提唱による劇団の大同団結説とその実行運動が、幾分この機運と申しますか、さういふ方面の空気を反映してゐると思ひますが、しかし、村山氏らの提案そのものには、若干のユウトピヤン的思想が含まれてをり、少くとも私個人の人生観を以てしては、そのままにはかに賛同しがたい半面があります。が、それにも拘はらず、その提案の半面には、頗る謙虚にして現実的な精神が閃めいてゐるのであります。即ち、率直に言へば、「自分たちだけでは何もできない」といふことです。
 ところが、この、「自分たちだけでは何もできない」といふ本音を、われわれは、冷淡に聴き流しておくべきでありませうか。
 ここで、私は、事実に即して、私一個の考へを申し上げておかなければなりません。
 実は今日お集りを願ふやう御案内を差出す範囲について、私には、三つの点に考慮を払ひました。
 一、飽くまでも、村山氏等の提案と別個の立場からであることを明瞭にし。
 二、私個人の資格ではありますが、何等私心なく、不偏不党の無人称的形式を取ること。
 三、成るべく少数で、成るべく広く、即ち、この方々のうち、どなたかが出ていただければこの会合の目的を達するであらうといふやうな意味合ひ。
 でありますから、或は、顔が見えてもいい筈の方に、わざと御出席を求めなかつたといふやうな向きもあり、さういふ方々は、この会合の結果について、多大の関心をもつてをられるに相違ありません。どうか、それぞれ最寄の方々からよろしくお伝へを願ひたいのであります。そして、更に、第二回第三回の会合が必要である場合は、今度こそ、もつと広く、もつと多数の席を準備しなければならぬやうありたいと念じてをります。
 そこで、今日の会合の趣旨は、前に申しましたやうに、われわれがみな、ひそかに感じてゐる仕事の上の共通の悩み――悩みと申してわるければ、共通の希望を、ここで披瀝し合ひ、お互に、違つた面は違つた面として、寧ろ、同じ面によつて近づき合ふ工夫をしてはどうかといふ点であります。
 これは、必ずしも一片の挨拶や、固苦しい論議によつて得られるものではありますまい。一緒にめしを食ふだけでもいいことだと、水木京太氏から返事を貰ひましたが、――その水木氏はお勤めの関係で、めしの時間には出て来られる筈であります――実際、別々のグルウプに属してゐるものが同じ卓子テエブルでめしを食ふといふことは、凡そ最近の新劇関係者間には行はれてゐないことでありました。
 さういふ機会が若しあつたとすれば、われわれ皆なが口を揃へて、「新劇はつまらん」などと、世間に向つて云へた義理ではないのであります。
 ところで、めしの時間まで、少し暇をおきましたのは、話よりめしの方に気を取られるといふ心配があつたからではなく、一円の料理では、さう皿数を重ねるわけにも行くまいと思つたからであります。
 で、それまでの時間を利用して、皆なさんに、いろいろの御意見を伺ひたいと思ひます。
 どなたかに、急に司会者の役をお願ひしたいのですが、急にお引受け下さるかどうかわかりませんから、これまた僭越ながら私が進行係を勤めます。
 予め一つ提案をいたします。この席へは、何人も義務を負ふて出席してゐるのではありません。で、討論を避けたいと思ひます。但し、質問はこの限りに非ずといたしては如何でありませう。

 それからもう一つ、めいめい自己紹介をする必要があると思ひます。そちらから次々にどうぞ。

 議題といつては大袈裟になりますが、最初のことでありますから、お話の中心を一つきめておきませう。
一、一国一時代の演劇文化から、新劇といふものが日本のやうに孤立してゐる国は、どこにもないと思ふ。つまり、一般の商業劇場の水準がもつと引上げられるか、所謂今日の新劇がもつと職業的に自活し得る能力をもつか、そのどちらかでなければ、これからの若いジェネレエションは勿論、われわれ自身が既に非常に仕事がしにくいやうに思ふ。われわれの共通の目標は、芸術的立場を離れて、一応劇壇の主流をさういふ状態に早く導くことにあるのではないか?
一、現代の俳優はどうして生れないか?(近代人の頭脳と感覚をもつた俳優)
一、われわれが自分一個の好みからでなく、日本の演劇的文化のために、是非なくてはならぬと思はれるやうな、つまり標準となるべき新しい演劇とはどんなものだらうか? 標準のおきどころにもよるし、経営の方針にもよるが、一般大衆の芸術的教養が今のままだとしたら、当然、さういふことをも考へに入れて、しかも、一方、劇場の文化的意義を果し得るやうな演し物が、果して、われわれの頭のなかで想像ができるか?
一、現在あるいろいろな新劇団は、最早、芸術史的に、新しい傾向を追ふとか、それを生み出さうとかいふ努力はしてゐないと思ふ。出し物の選択も、ただ、受けさうで、やり易くて、配役の都合がついて、その上、劇団の頭脳に応じて、芸術的に優れてゐると思ふものをなるだけやるやうにしてゐるだけだと思ふ。それゆゑ、劇団の目標は、プライドを傷けない程度で、職業的にならうとしてゐる。つまり、ある時期に於けるある種の作家の態度と同じであります。さういふ新劇団は、しかし、その態度の故に非難されてはならないと思ふのです。なぜなら、今日、それらの新劇団の指導部は、理論家の手から俳優の手に遷りつつあるからです。俳優は、作家でなくてもよろしい。出版者であればいいのです。先駆的な新劇運動もいつかはまた起るでせうが、現在の新劇の歩みを、それが若し、方法をさへ誤らなければ、極く自然なものと見てゐます。それについて御意見を?
一、演劇雑誌を中心とするグルウプのやうなものがあります。それぞれのグルウプは、それぞれの芸術的主張をもつてゐますが、何れも、今日では一つの芸術的流派と称し得べきやうなものではなく、また、思想的にある異つたイデオロギイを振りかざしてゐるわけでもありません。従つて、どの雑誌に誰が書いても、かまはないくらゐのもので、その点、同人雑誌に近いのでありますが、なにしろ、今日の劇壇は、御承知の通り、文壇には絶縁状態であります。これがいいか悪いかは別として、文学の方なら、同人雑誌同士が知らん顔をし合つてゐても、文壇一般がこれに注意を向け、また、その中から優れたものを拾ひ上げることを怠りませんが、演劇の方面、殊に新劇の畑では、各雑誌によるグルウプ同士が、徒らに、揚足取りをしたり、軽蔑し合つたりしてゐては、誰を相手に物を云へばいいのでせう。私なども、時によると、自分に最も近い演劇雑誌に何か書かして貰ふ時、これを読んでくれるのは、その雑誌の同人諸君だけではないかと思ふことがあります。そしてまた、同時に、自分と関係の遠い演劇雑諺の中からは、常に自分の目指してゐる仕事が、全く今日の劇壇にとつてなんの意味もなさないやうな、あるよそよそしい空気を感じるのです。
 勿論、作品や研究などでは、大に注意を惹くに足るものがあります。ところが、さういふ印象の告白は、わざとらしくてできないやうな障壁を、その雑誌の色彩のうちに感じるのです。
 これは実に困つたことであると思ひます。必ずしも、そこに、党派的な感情が盛られてゐるからといふのではありません。党派的感情は、排他的でさへなければ、それほど苦々しいものだとは考へません。しかし、それ以上に、大きなものです。つまり、冷たいことです。
 これは決して、他を批評する言葉だけではありません。自分自身の今までを省みて云ふのです。
 芸術家は、自分の芸術に対してのみ熱情を傾ければ、それでいいのかもしれません。が、わが、新劇は一人の天才を要求する前に、その天才を生ましめるべき母胎を要求してゐます。その母胎は、現在、手は手、足は足で、ばらばらの状態です。われわれの熱情は、先づ、その母胎の生成、即ち、新劇関係者相互の理解と親睦に至る交友的接触に向けらるべきではないでせうか?
 協力の指針と、公明正大な批評とが、将来の新劇を黎明に導くものだと信じます。
 その意味で、今度、村山氏らが提唱してゐる日本新演劇協会の設立といふ問題を、例の劇団の大同団結、乃至所謂単一劇団の結成といふ中心運動から引離して、単に、新劇関係者の親睦連絡機関といふ意味で、一つ、研究してみてはどうかと思ひます。ある組織の中に加はるといふことは、われわれには、なんとなく負担に感じられますが、その組織が、何事かを強ひる性質のものでなければ、提案者の如何に拘はらず、いや寧ろ、われわれ一同提案者となつて、その実現を計つてはどうかと思ひます。

底本:「岸田國士全集22」岩波書店
   1990(平成2)年10月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
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