今の日本ではさういふことはあるまいけれど、私が三十年前にパリへ出掛けた頃は、仏蘭西に於ける新しい演劇界の消息といふものは、かいもく見当がつかぬ有様であつた。
 パリにつくと、めくらめつぱふに芝居をみて歩き、新聞や雑誌をあさつて目星しい作家や劇団を名をひろひ、新刊旧刊の書物をむさぼり読んで、それでもひととほり、その時代の演劇地図を頭にいれるまで、たつぷり一年はかかつたと思ふ。
 ヴィユウ・コロンビエ座の存在をやつとつきとめたとき、私の胸はをどつたけれども、変り目ごとの公演を欠かさず観るのがせいぜいで、その内部に接触をもとめることなど、無名にして貧寒な一外国青年の及びもつかぬことだと、半ばあきらめてゐたが、遂に意を決して、かねがねたまにその講義をのぞいてみたことのあるソルボンヌ大学のルボン教授に、私の希望を伝へたところ、至極手軽にコポオへの紹介状を書いてくれた。
 私は、勇んでといひたいが、実は、臆する自分を鞭ちながら、はじめてヴィユウ・コロンビエの裏門をくぐり、大道具製作場の乱雑な通路をぬけて、ここと教へられた舞台横手の小部屋をノックしたのである。
 まだ稽古のはじまつてゐない閑散な一つ時であつた。小部屋は粗末なテーブルと椅子とが舞台に背を向けておいてあるだけで、もうあらかた場所をふさいでしまふやうな窮屈な部屋であつた。舞台に面して斜に格子窓が開いてゐる舞台監督専用の見張場である。コポオがひとり、その椅子にかけて、たしかタイプで打つた台本を読んでゐた。
 一九二一年から二二年にかけてのシーズンは、十月にミュッセの「気まぐれ」、マルタン・デュ・ガアルの「ルリュ爺さんの遺言」、ボオマルシェの「フィガロの結婚」から始まり、十一月には、「カラマゾフの兄弟」、十二月にはジュウル・ロマンの「クロムディル・ル・ヴィエイユ村」、翌年一月はモリエール三百年祭、二月はアレクシス・トルストイの「愛、金色の書」、ゴーゴリの「縁談」、三月はラシイヌの「ベレニス」、中世のファルス「パトラン先生」、四月はシェイクスピヤ「王者の夜」、五月、バンジャマンの「偶然の楽しみ」、六月、イプセンの「ロスメルスホルム」とジイドの「サユル」、かういふ華々しく、豊かな上演目録であつた。
 前後の関係から考へると、その時、コポオの机上におかれてあつた原稿は、その頃の新進、マルタン・デュ・ガアルの「ルリュ爺さん」ではなかつたかと思ふ。
 コポオは、ぐるりと私の方へ向き直つて、あの特徴のある鋭い、しかし、いたづらつ児のやうな眼で、一瞬、私が何ものであるかをたしかめようとするものの如くであつた。
 その時、何を問はれ、何を答へたかは詳しく覚えてゐないが、日本人がよほど珍しかつたとみえ、むしろ意外なくらゐに私の希望をすべて快く容れてくれ、
「君は、この劇場へ、表からでも裏からでも出入は自由だ。当分勝手がわかるまいから、一人、適当な案内役をつける。すべての疑問はその男にたづねたまへ。学校へはいるのもいいが、役者になるつもりでなければ、むしろ、どのクラスへでも好きな時間に、出られるやうに、これもその男に話しておかう」
 話の最中に、のつそりそこへはいつて来た長身をもてあましてゐるやうな男が、これはまた、無気味とも無礼とも言ひたい容赦のない視線を私にまともに投げながら、コポオの方へ、一片の大きな紙片を黙つて差し出した。
 私は、それが誰であつたかを咄嗟に思ひ出すことはできなかつた。たしかに、ここの舞台で、ときどきみる俳優の一人であるとは感づきながら、まだ名前を覚えるほどの注意は惹かれてゐなかつたからである。
 コポオは受けとつた紙片を、さらに大きくひろげて、薄暗い光にそれをすかしてみた。舞台装置のプランであることがわかつた。
「あジュウヴェ……」
と、コポオはその男の名を呼び、
「この青年は、はるばる日本からフランスの芝居を勉強しに来たんださうだ。稽古もみたいといふから、舞台のことを説明してやつてくれ」
 さう言つて、私がゐるのをもう忘れてしまつたやうに、この二人の師弟関係にある芸術家は、「ルリュ爺さん」の装置について、簡単に、二言三言、意見を述べあひ、ジュウヴェが出て行くと、入れ代りに、今度ははつきりそれと覚えてゐる「商船テナシティイ」に出てゐたバケエがひよつこりはいつて来た。
「おい、バケエ……」
と、コポオは、また、ジュウヴェにしたやうに私を引き合せ、
「お前はこの青年の希望をよく聞き、疑問に答へ、できるだけの便宜を計つてやれ。学校の方も、特に、普通の生徒としての取扱ひでなく、学校の組織、それから教育方法などについて研究のできるやうにしてやれ」
 そして、私には、
「このバケエが学校の教務主任をしてゐるから」
とつけ足した。
 それ以来、ざつと二年間私は、ヴィユウ・コロンビエの稽古を見つづけ、学校の各クラスに顔を出し、時には、一座の俳優や生徒たちに混つて講義を聴きなどしたが、最も印象に残つてゐるのは、「劇的感覚の訓練」といふ課目の時間に、座の若手俳優や研究生とともに、コポオの鮮やかな指導振りに接したことである。
 いつも親切に私のめんだうをみてくれたバケエは、すぐに「ルリュ爺さん」の役をふられて、同僚のビング嬢と面白い舞台をみせてくれたが、ジュウヴェ、テシエなどのすぐ後に続き、この一座の中堅俳優として活躍してゐた。
 しかし、私が日本へ帰つてから、しばらくたつて、最も胸をうたれたのは、つぎつぎに紹介されるフランス映画のなかで、私がかつて親しく舞台裏で言葉を交へたことのある俳優が、それらの画面に出て来るばかりでなく、ジュウヴェの如きは既に巨大な存在となり、また、当時、海のものとも山のものともわからぬながら、偶然に机を並べて講義を聴き、あるひは、稽古場の一隅で困難な芝居の仕事について語り合つた関係で、その名と顔とを覚えてゐたにすぎぬ若手俳優や研究生のうちから、ともかく今日、映画を通じてみて、その天分が豊かに伸び育ち、押しも押されもせぬ立派な女優になつてゐるリイヌ・ノロの如きを発見したその瞬間である。
 これはヴィユウ・コロンビエではないが、同じく私が楽屋に出入を許されてゐたピトエフ一座の、名も無き一青年俳優、しよぼしよぼと、見すぼらしい風体を、稽古がすむごとに、私を誘つて附近の安カフェーのテラスに運んだミシェル・シモンが、いつの間にか、あの奇怪な風貌にふさはしい、重量のあるユニックな演技によつて、堂々、名優の貫禄を示してゐることも、私にとつては、感慨無量であつた。
 ヴィユウ・コロンビエ座は、私の帰朝直前、解散の止むなきに至つた。コポオの言ふところによれば、このまま経営をつづけると、既に家庭をもつた座員の生活が苦しくなるばかりだ。座員の生活をまづまづ保護するためには、少くとも千人の観客席を必要とする。この小屋は、もうわれわれを育てない、といふわけである。その後のコポオの消息は比較的わが国にも知られてゐるが、私がここで、ヴィユウ・コロンビエの運動が、第一次大戦をはさんで、単にフランス劇の伝統に生命を与へたばかりでなく、欧米を通じての最もオオソドックスな演劇革新の烽火となつたわけは、決して、一コポオの才能と着眼と努力と、ただそれだけの賜ではなく、実は、彼をメンバアの一人とし、彼の事業に声援と支持を与へ、常に清新溌剌たる美の息吹を彼の演劇活動の上に送つた「新フランス評論」による文学グルウプがあつたからである。
 ジイド、ロマン、デュアメル、デュ・ガアル、ヴィルドラックなどは、いづれも、ヴィユウ・コロンビエのために、はじめて戯曲の筆をとり、いづれもその舞台で初演された。このことは、フランス文学史並びに演劇史にとつて、極めて重大な意味深き出来事であつて、ヴィユウ・コロンビエをはじめ、多くの新劇団体が、その時代の優秀な文学者、芸術家をその周囲に集めてゐたといふことが、現代フランス演劇の、みのりゆたかな原因であるばかりでなく、演劇自体が他の芸術領域に及ぼす影響をも、そこに見落すことはできないのである。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「ふらんすの芝居」三笠文庫、三笠書房
   1953(昭和28)年2月15日発行
初出:「芸術新潮 第一巻第十一号」
   1950(昭和25)年11月1日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
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