演劇について語るということは、演劇のある部分について語るということではない。
 演劇がいろいろの要素から成っていることはたれにでもわかるが、それらの要素がどんな関係において組み合わされているか、ということは、専門の道にはいってみなければ容易にわからない。
 演劇は総合芸術なりという説も、一応は成り立つけれども、文学、美術、音楽というような各種の芸術が、ただ、ある割合で混ぜ合わされているのではもちろんない。それらの芸術をいかに深くきわめていても、それだけで演劇はつくり出せないし、また、味わいつくせるものでもないのである。
 こう考えてくると、演劇について正しい知識をうるためには、演劇の一つの窓から、その中をのぞくようなことをしないで、演劇全体のすがたを大きくつかんで、そこへはいっていくたしかな道を自分で捜すことが大切である。
 つまり、演劇全体のすがたを、どういうふうに読者に印象づけたらいいか、それをまず私はくふうした。
 そこで、六人の専門家によって、それぞれ、演劇の六つの見方を分担してもらう案をたてた。
 この六つの見方によって、あらかじめ、演劇の正体なるものを誤りなく見とどけ、その上で、各自の好みによって「おもしろい芝居」を見、各自の才能に応じて、「舞台芸術の一分野」を開拓すればよいのである。

 われわれは、手近にあるものを、偶然選ぶことで満足してはならないと思う。
 演劇は、いつの時代でも、民衆の生活と欲求とを反映するものであるが、時として、それは、ゆがめられた政治や、卑俗な商業主義によって、民衆自身の真の希望を裏切るようなものに堕落する。民衆はしばしば「あるもので間に合わせる」習慣になじむところから、常にきびしい注文を持ち出すことを忘れてしまう。
 日本の演劇の水準が、どの程度のものかということは、もちろん議論の余地はあるが、少なくとも現代人の生活に根をおろし、そこから健かに伸び育ったというものは、ごくわずかしかない。
 演劇のほとんどすべてが、興行者の手中に握られているという状態も、おそらく、近代社会に類をみないところである。
 公共的な性質を帯びた演劇活動が、なぜ日本には起らないか? 政治家の無定見もさることながら、やはり、民衆の演劇に対する理解が薄いところから来るともいえる。
 公立劇場のない文明国は、世界に一つもないし、自治体たる都市の経営する非営利的劇場の設立は、今や、時代の趨勢である。東京都が数年前から、「都民劇場」の名で、会員制度の観劇グループを作り、目ぼしい公演を選んで入場料の一部負担を実行しているのは注目に値する。
 日本では、大蔵省が反対するというだけの理由で、研究的な、あるいは、報酬を当てにしない試演程度の演劇にも、十割の税をかける。古典や優秀な現代劇の上演には国庫の補助を与えている国々の例を、われわれはただうらやむばかりである。
 日本ではまた、劇作家がただそれだけの仕事では、職業として成り立たないのが普通である。これはいわゆる「新作」の上演が少ないのと、たまたまその機会があっても、上演料の算出に合理性を欠いているからである。これがどうしても是正できないところに、日本の現代演劇の病根の一つがある。
 その上、無断上演の暴挙が半ば公然と行われ、作者の許可を得たものでも、脚本使用に対する応分の謝礼がなされている例は、ほとんど絶無にちかい。この野蛮な風習だけをみても、日本の劇作家が、社会からいかに遇されているかを想像しうるのである。

 一般演劇の観衆にとって、こういう問題はどうでもいいであろうか? あるいは、どうでもいいかも知れない。しかし、演劇が真に民衆のものにならない原因の一つが、こういうところにもあることを、指摘したい。
 観衆は、演劇を選択する自由と権利とがある。が、それと同時に、演劇を健全に育てる義務もあるのではないか? 「おもしろい芝居」は、どこかに「いいところ」がある芝居にちがいない。その「いいところ」とは、どういうところかを、自然に会得したものが、いわゆる「見巧者」である。
「おもしろくない」けれど、「いい芝居」だというようなものが、もしあるとすれば、これはなかなか問題である。「おもしろくない」のは、「むずかしすぎる」からという場合もありうるけれども、芝居の場合は、やはり、「わかる」よりも「感じる」部分の方が大きいのだから、あまり「考え込まず」、先入見をもたずに、素直に、舞台の印象を受けとるようにすべきである。
 この意味で、「どんな芝居がいい芝居か」という、微妙な問いに答えなければならない。

 演劇がある民族の特質と、一つの時代の風潮とを示すばかりでなく、また、社会生活本来の機能と現象とに深い繋がりをもつものであることはいうまでもない。
 演劇は、それゆえ、われわれの公私を通じての日常の生き方をはなれては存在しない。生活に不足したものを、「お芝居」で補うという考え方もないではない。しかし、一方では、われわれの生活の中に、「芝居」があるという原則をも認めないわけにはいかないのである。
 われわれが劇場に求め、舞台において発見しうる「演劇の美しさと真実」は、すべてわれわれの現実に営む生活を土台としてつくりあげたものである。
 演劇を職業とする専門家は、もとよりこのことを知っているはずである。しかるに劇場に集まる観衆の多くは、もうこのことを意識しなくなっている。演劇が現代生活から浮き上がる最も大きな原因は、職業演劇人の大部が、観衆が無意識に舞台に求める夢を自ら夢みる力を失っているところにある。
 学校や職場を中心とする素人演劇の魅力と存在理由は、まさにこの空隙を埋めるものであろう。
 これと同じ理由で、演劇は時代に逆行し、または時代を逆行させる役割を演じやすい。社会に潜在する因襲の根は、さまざまな衣裳をまとって、舞台にはなやかな行列をつくる。
 観衆の多くは、自己の魂の中に、常に、これに共感するなにかをもっていて、批判が陶酔に道をゆずる。「芝居はそれでいいのだ」と、たれかが弁護する。たとえば、アメリカの劇作家と称する一人物が弁護側に立つ。検察側の分が大いにわるくなるのである。
 こうして現代日本の演劇は、かくあるべき社会生活との繋帯をしばしば断たれる危機に遭遇している。

 演劇にもいろいろの種類(種目)があり、それぞれの種目は、それぞれに歴史的な意味をもっている。
 演劇の全貌をとらえるためには、どうしても、この種目(ジャンル)の識別と、その歴史的位置づけとができなくてはならぬ。
 この仕事は実はたいへんな仕事で、ひと通りの記述にも膨大な紙数を費さなければならぬのであるが、限られた本の中ではあり、主要な部分の概略を、世界演劇史の立場から、現代に最も関係の深い線に沿って、概略の記述を試みることにした。
 一つの芸術の製作過程を知ることは、鑑賞の正しい目を養う上にも必要であるし、ことに、その製作にタッチする人々にとって、いわゆる初歩の知識となる。
 多年演劇の実際活動をつづけ、新劇団の内部にあって、その運営に参加した経験が詳細に語られることをわれわれは望んでいる。
 現在、日本では、どんな演劇がどんな劇場で上演され、それがどれほどの割合で観衆を集めているか、ということをわれわれは知りたい。
 これまた、演劇に関する現代の常識でなければならぬ。
 ことに、観客が自らの選択によって、よりよき舞台に接する機会が多いほど、それを真に演劇の愛好者と呼びうるのである。
 最後に、「演劇に志す人へ」という一項を設け、初心の人々のために、きわめて迷いやすい正しい演劇への道をさし示そうとした。もちろん、この場合、演劇を単なる娯楽的興行物として、単なる職業の見地に立ってではない。それならば、手づるを得て、劇場の裏口にはいればよいのである。
 演劇は、俳優にしても、作家にしても、まず芸術家として出発することが絶対条件であるから、そういう意味での一つの門をここに開こうとした。
 笠信太郎氏の「ものの見方について」を読んだひとは、同書の中に、ドイツ人の特性を述べながら、あるヨーロッパ人の評言として、一つの興味あるたとえが語られているのを記憶せられるにちがいない。いわく、ドイツでは、こういう奇妙な現象が見られる。すなわち、ある場所に二つの掲示が出ているとする。その一つには、「天国への入口」と書いてある。もう一つには、「天国に関する講演会場の入口」と書いてある。一群衆はその前に立ち止まり、やがて、たれもかれも、例外なく、「講演会場の入口」の方へぞろぞろ流れ込んで行く……。
「演劇」と題されたこの一巻の書物が、「演劇への入口」であって、「演劇に関する講演会場の入口」でないことを切望する。

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「演劇」毎日ライブラリー、毎日新聞社
   1952(昭和27)年4月20日発行
初出:「演劇」毎日ライブラリー、毎日新聞社
   1952(昭和27)年4月20日発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年2月19日作成
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