風俗といふ言葉をごく広い意味にとつて、私はこの書物に「現代風俗」といふ題をつけた。
 世の中の現象をすべて「風俗」としてみる興味が私には一番強く、また、さういふ見方をしなければものが云へないといふ理由も私の場合には成り立つのである。
 一国一時代の風俗は、個人の生活のうちに、社会万般の様相のなかに、共通の現象としてあらはれるものである。政治と云はず、教育と云はず、家庭にも街頭にも、ジャアナリズムの紙面にも、国家の議場にも、均しく現代日本の奇怪な風俗が横行してゐることを誰もなんとも思はないであらうか?

 眼に角たてて云ふほどのことではないかも知れぬ。誰にでもわかつてゐることだとみんなが云ひさうでもある。或は私の神経過敏がさせる業だとすれば、これは即ち、悲憤の書でも反省の書でもなく、単なる自称病人の容態書きにすぎぬ。せめて、歴史的な意味だけをもつ埋れた記録となれば、それはそれでもよろしい。

 この書物のなかに加へた一文に、「仏国議会に於ける上演禁止問題」といふのがある。この異国的議会風景は、当時、わが国の議会のそれと比べて、ちよつと面白いと思つて紹介したのであるが、今読み返してみると、そこには、フランスといふ国の何時かは惨めなことになる運命がちやんと約束されてゐるのである。
 しかしながら、議政壇上に起つて文学芸術を論ずることが敗戦の一因だといふ論理をこゝから導き出すとしたら、これまたドイツの勝利の原因に故ら眼をふさぐことになるであらう。民族の消長にとつての風俗の微妙な役割は、単純な政策論とは係りなきものである。
 私は最近、某誌上に「風俗の非道徳性」といふ文章を発表したが、それは、われわれ日本人は、今日の生活の秩序の問題を、一から十まで道徳的に解決しようとしても、これは無駄であること、まづわれわれは現代の風俗の混乱と空白とに気づき、なんらかの方法によつてすべてに「共通の表現」を与へねばならないといふ意見を述べたものである。この文章は都合で本書には収めなかつたが、そのなかで、私はかういふ一例を挙げておいた。汽車の切符売場などで「左から順に」といふ注意書が出てゐるにもかかはらず、左側に列を作つてゐる人間を尻眼にかけて、図々しく右から手を出すやつがゐても、それを誰もなんとも云はぬのが普通である。こゝへ、公衆道徳の問題を引つぱり出してみてもはじまらぬ。たゞ、この図々しいやつを相手にする気まづさを噛み殺す習慣が一般民衆の間にあるからで、これ即ち、われわれが互に「共通の表現」をもたぬ風俗上の欠陥に由来するのである。
 ところで、その文章を書いたすぐ後、私はある大都会の停車場で、急行券売場の窓口に立つたのである。人が列を作つて順番を待つてゐる。私もその中に加つた。一歩一歩窓口に近づく。私はもう四五番のところへ来た。すると、私のすぐ後ろの番のものへ、一人の中年の男が、ぼそぼそと話しかけてゐる。「あなたも急行券をお買ひになりますか? そんなら私のも一枚買つてください。名古屋までのを一枚……」と云つて紙幣を差出し、帽子を軽く脱いでお辞儀をした。頼まれた男はどうするかと思つて私は後ろを振り返つた。識りもせぬ男から突然「不正な要求」を持ち出されたのである。しかも、この利己的行為は、しびれを切らして順番を待つてゐる人々の眼の前で行はれようとしてゐるのである。それらの人々は、黙つて見てゐるであらうか?
 頼まれた男は、ちよつと迷惑さうに、といふよりも、寧ろ照れくささうにその男と紙幣とを見比べ、やがて、その紙幣をしぶしぶ受けとり、これも軽く帽子のふちへ手をかけて会釈を返した。長蛇の列は、蜒々として真昼の埃のなかに眠つてゐるかの如くであつた。
 新東亜の建設を論じ、国家の安危を口にする人々のうち、誰でもいいから、この善良な市民の性格を判断してほしいものである。
  昭和十五年六月廿二日    想ひをコンピエーニユの森に馳せつゝ
著者

底本:「岸田國士全集28」岩波書店
   1992(平成4)年6月17日発行
底本の親本:「現代風俗」弘文堂書房
   1940(昭和15)年7月25日発行
初出:「現代風俗」弘文堂書房
   1940(昭和15)年7月25日発行
入力:門田裕志
校正:Juki
2011年8月27日作成
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