私の講演題目は「支那の古代法律」と云ふのであります。今日から見ますとやや時代離れをして居つて、現代生活には關係がないようにも考へられますが、必ずしもさうではないと思ひます。此頃、いろいろ新しい思想が日本に入つて來て居りますが、新しい思想が盛んに行はれて來ると、當然その反動として自國の囘顧と云ふ事が行はれる。既に日本などにもさう云ふ氣分が見えて來て居りまして、或は國粹會、或は建國會、近頃では東京に國史囘顧會と云ふやうなものも出來て居ります。又いろいろ教育界方面の希望もあつて、國史の教授を盛んにする氣運も動き、また確か今年あたりから、これ迄高等文官の試驗にも今迄に無かつた日本の法制史といふ新科目をも加へることになつて居ります。日本の過去を囘顧して、日本と云ふ國はさう外國の眞似ばかりもして居れぬ、日本の國の特質をも考へなければならぬと、さうした自省が行はれますと、當然、支那の古代の文化と云ふことに觸れて來るのであります。
 それは云ふ迄もなく日本の過去が支那の文化とは離るべからざる密接な關係をもつて居つたからであります。かう考へて來ますと、今私の講演の題になつて居る「支那の古代法律」と云ふことも、これ亦、支那の過去の文化の一つでありまして、日本の現代の思潮と――幾分間接ではあるが――無關係ではないやうに思はれるのであります。
 更に之を、世界的な立場から見ますると、世界大戰以後この十年間に、歐米に於いてはアジア研究といふものが非常に盛んになつて來て居る。これは一體どう云ふ所から出發したのであらうか。それにはいろいろな事情や理由もありませうが、その主なものは、西洋の文化は行詰つて居る、この西洋の文化の行詰りを展開さす新しい方針を求めるには、どうしても今迄とは全く異つた文化を取入れなければならぬ、それには古い文化をもつてるアジアと云ふものをよく研究しなければならぬと云ふやうなことが、非常に歐米の學界に起つて來まして、近頃ではこのアジア研究が、非常に盛である。尤も、ひろくアジアと云ひましても、主に支那であります。支那の藝術とか、哲學とか、その他習慣或は制度に關する研究に至つては、近頃殊に盛んであります。それは追々お話する中にも出て來ると思ひます。
 して見ますれば、支那の文化の一つである古代法律と云ふものを、ここでお話しますことは、今申した古い日本と云ふものに關係がある。現代の生活に觸れるか觸れないかといふことは暫く離れて、今の世界の學界の風潮から見て、さう縁の遠い、時代離れのした問題ではないのであります。これら二つの理由で――隨分過去の問題ではありますが――いまこの演題を掲げる事も、さう意味の無いことではないと思ふのであります。

 それでは、支那の古代法律は、何時頃からあつたかと申しますと、これは餘程古くからあつた。『書經』、或は『左傳』などのいろいろ古い記録を見ますと、支那では古く堯舜時代から法律があつた。併しながら、この二千年來支那を支配して來た、傳統的な成文律の母とされるもの、つまり、その成文律の源は、今から二千三百年ばかり前に魏の李※(「りっしんべん+里」、第3水準1-84-49)と云ふ人が作つた『法經六篇』と云ふものである。これは、その當時迄に行はれた凡ゆる法律を比較研究して、その中で最も優れたものを、六篇に纏めたものであります。
 この六篇と云ふのは、第一には泥棒に關する盜法、第二に人殺しに關する賊法、第三にこの盜賊を捉へることに關する捕法、第四に牢獄に關する囚法、第五にその他いろいろの法律を集めた雜法と、最後に、一般の法律の大體に通ずる具法と云ふものがあつて、これだけで六篇になるのであります。所でここに一般に通ずると云ひますのは、それは例へば、拘留何日に處すると云ふ場合、その一日を何時間とすべきか、或は婦人の場合はどうするか、年寄りの場合はどうするか、又人殺にしても泥棒にしても、年寄の場合はどう、婦人の場合はどうと云ふやうなことなど、要するに一般に關することを規定してあるのであります。
 この『法經六篇』は、降つて漢時代邊りまでは殘つて居りましたが、その後はかう云ふ組織であつたと云ふ記録が傳はつて居るだけで、その詳細な内容を知ることが出來ない。兔に角、これは戰國時代の法律でありまして、これ以後秦の時にも、漢の時にも、秦ならば秦律、漢ならば漢律と云ふことになつて、時代時代に法律はありましたが、それらは――幾分は、増したり減じたりしましたけれども――、大體、この李※(「りっしんべん+里」、第3水準1-84-49)『法經六篇』の形式を踏んで居りました。かやうな譯でこれは支那の成文律の母と云ふべきであります。
 さて、その後、六朝時代になりましても、魏・晉・齊を始として各時代にそれぞれの法律はありました。併し、それらの秦から以後の時代の法律と云ふものは、何れも今日極めて斷片が傳はつて居る丈けで、全體のものは傳はつて居らない。それで、それらの全體の組織、形式と云ふやうなことをここに知ることが出來ませぬ。唯民國十五年、今から三四年前の千九百二十六年に程樹徳といふ人が『九朝律考』と云ふ本を拵えました。この『九朝律考』の九朝とは、漢から始まつて魏、それから晉――南朝の間では大體晉律を用ゐたやうでありますが――、梁・陳・後魏・北齊・北周・隋と、これだけを云ふのであります。これはもともと完全に傳はつて居らぬものを、いろいろの書物から斷片的に拾ひ集めたものですから、隨分苦心したものではありませうが、その内容はといへば、殆ど漢の律ばかりであります。漢の律はいろいろの經書の註などに引かれて、比較的餘計に殘つてゐるからです。この漢の律を蒐めたものには、別に、沈家本といふ清朝の時分に日本の司法大臣に當る職にあつた非常な學者の著述である『漢律※(「てへん+庶」、第3水準1-84-91)遺』と云ふものが二十二卷あります。これは發行の年月を書いてないので何時出たか分りませぬ。落ちて居るのを拾ひ集めたと云ふ所から、※(「てへん+庶」、第3水準1-84-91)遺と名附けたのですが、この點、程樹徳の『九朝律考』と同然であります。集める方法が違ひますから、少しは内容も違ひませうが、片方は二十卷、片方は二十二卷になつて居ります。何れに致しましても、元來のもの自身が完全に傳はつておりませぬから、之によつて、全體の漢律はかう云ふものであると云ふ形式や内容をすつかり知ることは出來ませぬ。

 支那の古代法律で、原の儘今日傳はつて居るものは、唐律であります。一概に唐律と云つても、唐は三百年ありますから、その間には何百遍も改正があつた筈であります。併しながら、普通に唐律と云ひますと、これは唐の第二番目の太宗が、貞觀十一年に制定したものを指して云ふのであります。日本などへ影響を及ぼした支那の法律は、この貞觀十一年の唐律であります。
 それから高宗の永徽四年に至つて、この唐律の本文の中に、或は文意に疑ひを生じたり、或は分らないやうな所がありましたので、その解釋を一定する爲めに『唐律疏議』といふものを拵へて、これを司法官達に交付しました。その『唐律疏議』は、太宗の貞觀十一年に決めた本文を本にして、これに注釋を加へたのであります。今日傳はつて居る唐律は、此『唐律疏議』と本文が一緒になつたものでありますが、その本文は貞觀十一年の太宗の時に決まつたものであります。
 それで、支那の古代法律と云ひましても、完全に原の儘で傳はつて居るのは、この唐律からであります。故に、唐律は支那の古代法律で今日迄殘つて居る、一番古いものであります。丁度今から千三百年ほど前に相當します。この唐律の價値と云ふものは、成文律の中で最も古く、原の儘に傳はつて居ることと、もう一つは唐律と云ふものが出來ましてから、宋であらうが、元であらうが、何時も、唐律と云ふものの形式を眞似て、内容も大體唐律に依つてやつて居る、餘程支那の後世の法律に役立つたものであるといふことと、それからもう一つは、この唐律は支那の文化の影響を非常に受けた東亞諸國の日本、朝鮮、安南等の國の法律の模範として採用されたこととなどであります。
 更に、原の儘で傳はつて居る第二に古いものは明律であります。明律と云ふものも、幾度びとなく改められたのでありますから、一概には云へませぬが、今傳つて居るのは、明の太祖の洪武三十年(西暦一三九七)に制定されたもので、原形の儘で傳はつて居ります。これは支那の法律中、唐律に次いで第二に古いものであります。且つ明律と云ふものは、唐律から獨立した形式をもつて居つて、支那の傳統的の唐律の型を破つて居ります。これが、支那の法制史上に於いて明律の注意すべき點であります。
 唐律の内容と云ふのは大體次の十二篇に分たれて居ります。
(一)名例律  (二)衞禁律  (三)職制律  (四)戸婚律
 (五)廐庫律  (六)擅興律  (七)賊盜律  (八)※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律
 (九)詐僞律  (十)雜律  (十一)捕亡律  (十二)斷獄律
 この内、名例律と云ふのは、法律上に使ふ所の名稱の解釋に關するもので、名とは名稱のこと、例へば法律一般のことを書いた通則であります。衞禁律は、宮中護衞に關する法律で、天子の護衞が不行屆の時にはどうするとか、或は關所破りなどのこともこの中に入つて居ります。職制律は官吏の職務に關することであります。戸婚律は、戸籍に關することやら、婚姻に關することであります。廐庫律は、廐はうまやですから、これは牧畜に關することであり、庫と云ふのは穀物に關することであります。擅興律は兵事に關する諸々の取締のことであります。賊盜律は泥棒に關すること、※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律は、※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)は毆合ひをすることであり、訟と云ふのは訴訟をすることであります。明律はこれを二つに分けて居りますが、唐律は喧嘩をしたり、訴訟することを一緒にして居ります。詐僞律は詐僞に關することであり、雜律は今分類したものの中に入ることの出來ないやうなことを雜律で處置するのです。それから捕亡律は囚人が逃亡したのに關する規則であり、斷獄律は監獄に關することで、罪人を處置するに當つて不法行爲のあつた官吏に對する法律であります。この十二種になつて居りますが、宋の時でも、元の時でも皆これと同じやうに十二の分類に據つて居ります。所が明律にはこれを改め、全く此型を破りまして、七種のものとして了ひました。即ち、第一の名例律は其儘で變りがありませんが、その他は、
 戸律、禮律、吏律、兵律、刑律、工律
の六律に分けました。この六律に名例律を加へた七律の中を更に小分けして三十卷に致しまして、形式だけでも餘程唐律とは異つて居るし、從つて内容も隨分異つて居ります。
 さてこの唐律成立以後、ざつと千三百年間に亙る支那の古代法律を通觀しますと、最初の、唐の始からして元の滅亡まで七百五十年程の間は、大體に唐律の行はれた時代であります。それから明代以後の五百年、即ち明の初めから清朝の末にかけては――清朝の清律と云ふものは大體に於いて明律の型を採つたものでありますから――明律の行はれた時代であります。かう二つに分けることが出來るのであります。
 外國に對する影響と云ふ點に於いても、明律は、朝鮮及び日本に對しては中々影響を與へたものであります。丁度、奈良朝から平安朝にかけて行はれた我邦の古い王朝時代の法律は、形式も精神も、皆唐律に依つて居る如く、徳川時代から明治の初年、明治十三年頃迄の日本の法律と云ふものは、直接、間接共に明律の影響を受けて居るのであります。
 この唐、明兩律を比較して、形式内容を比較するといふことは隨分學術上面白いものであります。これに就て、私は嘗て、「唐明律の比較」と云ふ大したものでありませんが、極めて簡單な論文を作りまして、昨年十二月高瀬文學博士の還暦記念論文集に發表致しました(本卷九三頁所收)。これは唐明律を比較した一部分であります。
 それから支那でもこの問題を取扱つた本があります。それは薛允升の『唐明律合篇』三十卷(一九二二年發行)でありまして、唐明律の各章を比較して書かれて居ります。又これより餘程新しいもので、二三年前に出來た沈家本の『明律目箋』(四卷)といふのがあります。この沈家本と云ふ人の著書は『沈寄※(「竹かんむり/移」、第4水準2-83-68)先生遺書』の中にすべて收録されて居りますが、中々良い本であります。何時出來たか正確には分りませぬが、併し薛允升の書物より後であること丈けは確であります。この書物は日本人などの盡力で、沈家本の遺族の人が日本人の希望を容れて、數年前から再版を賣出したのでありますから、近來日本にも隨分入つて來ました。支那古代の法律を研究するには沈家本の本は中々良い參考書であります。

 唯明律と唐律と隨分形式も違ひ、内容も違ひますが、この二つを通じて一つの特色があります。それはただに唐明律ばかりではない、その外の、今日では殆ど傳はつて居らぬ支那の各時代の法律を通じて見ても、一貫した特色と云ふものがあります。一貫した精神といふものがあります。どんな點に於いて、支那の古代法律と云ふものは一貫した精神をもつて居り、今日の西洋の法律と比較して特色があつたかと云ふと、その第一は家族主義であるといふ點にあります。支那古來からの家族制度を維持せんが爲に、各法律の條項に於きまして非常に注意して居ります。どの法律でも家族制度を毀さないやうに、維持するやうにと云ふことを眼目として居ります。
 その第二は道徳主義を發揮して居るといふ點であります。元來法律には法律主義の法律と、道徳主義の法律との二種があると思ひます。今日の日本などに行はれてる法律や、西洋などに行はれて居る法律は、法律それ自身を基として居る。所が支那の古代法律は、通じて道徳主義の法律であります。法律と云ふものは道徳の補助であるといふ主義を發揮したものであります。つまり道徳は第一で、法律は單に其の補助であるにすぎない、道徳が本で法律が末である――これは儒教でよく云ふことでありますが――と云ふ精神が唐律にも、明律にも現れて居るのであります。勿論時代に依つて多少相違はありませうが、根柢には必ずこの精神が發揮されて居ます。支那人とても無論、國を保つ以上は法律がなければならぬことを認めて居りますが、併しながら法律萬能ではいけない、法律は道徳の單なる補助であると云ふ考へであります。司馬遷の『史記』の酷吏列傳序に、「法令者治之具、而非治清濁之源也」と述べて居つて、國を治めるには法律と云ふものは一つの道具として必要ではあるが、國家が亂れては、それを元に復へすには、法律では到底目的を達することが出來ない、濁れる所の源を清むる根本のものでない、濁れるものを清めるには道徳教育に俟たなければならぬと云ふ意味のことを主張して居ります。これ等の主張の精神は、法律は必要であるけれども、法律は第一ではない、法律萬能ではない、道徳の補助であるにすぎない、だから道徳と法律とが不幸にして一致しないやうな場合には、法律は法律としてさうあつても、それを差し措いて道徳主義に則るべしと云ふのが即ち支那法に於ける徳治主義であります。これは第二の特色であります。
 それから第三の特色は差別主義といふことであります。今日の法律は平等主義でありますが、これが果して善いか惡いかは別問題としまして、支那の古代法律は差別主義を執つて居ります。それは支那では古來より「禮不庶人。刑不大夫」と云はれて居りまして、社會上の身分の有る人にして、もし不當の行爲があるならば、自ら制裁すべきものであつて、法律で制裁すべきものではない、丁度日本の武士には法律で制裁を加へず自殺せしめる、切腹せしめるといふ風があつたのと同じ考が行はれて居りました。この刑不大夫と云ふのは周時代からの主義でありますが、此主義に依つて、社會上、特殊な位置に居る人には、成るべく實刑を科しない、たとへ科しても幾分輕くして、その代り自發的に自制せしむると云ふのでありまして、社會上の上流の位置に在る人には成るべく罰金刑にしてやるとか、又は幾分罪を輕くすると云ふやうな主義を執つて居ますが、唐律には殊にそれが多いのであります。それからこれも差別主義の結果起つた現象でありますが、同じ罪の中でも家族の内に於て處罪が違ふ、同じ毆打するにしても、お父さんが子供を叩けば無罪ですが、子供がお父さんを叩けば死罪であります。さう云ふ風に非常に差別がある、これは支那の古代法律を見ますと、吾々が今日の法律と比較して非常に奇異に感ぜられる特色であります。
 かく三つの特色がありますが、一言以てこれを掩ふと、矢張り家族主義と云ふことに歸着するのであります。第一の家族主義は云ふまでもなく、第二の道徳主義と云ひましても、支那の道徳は家族主義を本にしたものであつて、儒教なども家族制度を度外視しては絶對に諒解出來ない。支那の道徳は孝悌が本ですから、道徳主義と云ふのは、つまりは間接に家族主義と云ふことになるのであります。それから差別主義といふのは、家族の内に差別を設けるのでありますから、これも半ばは家族主義であります。それで支那の法律の特色は三つ算へられますが、その中の一番の特色は家族主義であると云ふことであります。
 支那の古代法律は何故斯くも家族主義に重きを置くのであるかと云ふと、支那では昔から家族制度と云ふものが非常に發達して、それが社會なり或は教育なり、政治なり、總てのものの基礎になつて居りますから、當然法律も家族主義と云ふことに歸屬しなければならぬのであります。故に次に支那の家族主義のことを少し述べることに致します。

 抑も支那の家族制度は世界の中でも最も古く、最も強固に發達したのであります。何處の國でも古代では若干家族制度が行はれて居りまして、西洋でもユダヤとか、或はローマとかには殆ど支那に劣らぬ強固な家族制度が存したのであります。併し、それ等はいろいろの事情で早く壞れて了つて、今日では皆個人主義になつて居る、所が東洋の方では、日本でも、朝鮮でも、支那は云ふに及ばず、家族制度が西洋に比較すれば尚ほ餘程勢力を維持して居ります。東洋の中でも支那の家族制度と云ふものは殊に強固に發達して居るのであります。
 支那では周時代からして、家族制度が十分に成立して居りまして、宗法と云ふものが出來て居りました。宗法とは同じ祖先から出た者の關係を決めた一つの禮法です。同じ祖先から出たものは、宗法に依つて一致團結して、互に親睦を圖るので、その宗法の中心になるものは祖先崇拜の風習であつて、祖先の祀をすることであります。それで周時代から支那では、同族の本家が一年の中に時を定めて祖先の祀を營む、その時には同じ祖先から出た分家の人々が、本家に集まつて酒盛りをして親睦を圖るので、この祖先の祀を營むと云ふことは本家の主人の特權であります。故に家族制度に於ては此の祖先の祀をすると云ふことが一番大切なことになつて居るのであります。
 支那では、家を相續すると云ふことは、日本のやうに財産を相續すると云ふことではありませぬ。祖先の祀を相續すると云ふことであります。誰が、祖先の祀に際し一族を代表して主祭すべきかと云ふことが、相續權の一番重要な問題をなすのであります。故に宗※(「示+兆」、第4水準2-82-69)相續と云ふべきであつて、財産相續は大した問題となつては居ない。然るに此の祖先の祀を繼ぐことは、云ひ換へると、それを承繼いで自分が代表してやることで、これは本家の嫡男に限るのであります。されば支那では家を相續することは、嫡男が親が代つて家を繼ぎ、祖先の祀をすると云ふことであつて、これを承重と云ひ、それから親が自分の家督を嫡男に讓ることを傳重と云ふのであります。一家に於て祖先の祀ほど重んぜられるものはないのであります。されば支那の家族制度は世界で最も強固なものでありますが、その特色は祖先崇拜であると云ふことが出來ます。
 支那に於ては、祖先崇拜と云ふことは非常に意味のあることで、又非常に重んぜられて居るものであります。支那の祖先崇拜に關しては幾らも書いたものがありますが、
W.A.P.Martin;The Worship of Ancestors.――How shall we deal with it.1904.Shanghai.
J.T.Addison;Chinese Ancestor Worship.1925.
の二書はこの問題を主に取扱つたものであります。このマルチンと云ふ人は、支那に大學を拵へた人であり、アヂソンの方はアメリカの大學の助教授であります。支那にキリスト教が傳道されましてから、キリスト教は祖先崇拜と云ふことに非常に反對しました。今から二百年程前、キリスト教の宣教師連が、支那の祖先崇拜は偶像崇拜であるから、キリスト教では許されないと主張しました。それが爲めに支那のキリスト教は新教も舊教も非常に迫害された歴史があります。それでマルチンでもアヂソンでも、その著書に於きまして、ヨーロッパ人は支那の祖先崇拜を指して迷信と云ふ譯にはゆかないと云つて、從來宣教師達が祖先崇拜の風習に對して執つた態度は幾分間違つて居る、もう少し愼重に考へなければならぬと主張するのでありまして、支那の祖先崇拜を迷信として、排斥するよりも、同情を以つて、キリスト教の信仰の中に取入れて差支ないと言つて居ります。これは祖先崇拜と云ふことが、何れ程まで、支那人に取つて必要なものであるかを物語るものであります。
 それで支那に於いては、唐時代から清朝迄、一切の古代法律を通じて、親の存命して居る間、若くは祖父母の存命して居る間は別居を許しませぬ。唐律を見ても、
諸祖父母父母在。而子孫別籍異財者。徒三年。……諸居父母喪。……兄弟別籍異財者。徒一年。
とありまして、隨分重い罰を加へて別居を禁じて居ります。祖父母、父母の存命して居る間は子の別居するを許さないといふのは、祖父母若くは親の下に在つて、同じく團欒をして親を慰めなければならぬと云ふことであります。それを無理に別家するならば徒刑三年に處する。それから親が亡くなれば支那では三年間は喪に服すのですが、親の喪中の三年間に別家をしようと云ふものがあればそれは徒刑一年である。だから祖父さんやお父さんの居る間は別居は出來ない、又お父さんや祖父さんが亡くなられても、三年の喪が濟んでからでなければ別家することが出來ない。これが唐律の規定で、かう云ふ風に家族制度を重じて居ります。親の喪が濟んだならば無論別家しても差支はない、併しながら其親が亡くなつて喪が濟んでも、矢張り子孫が相承いで團欒して分家しないものを、支那では孝義、或は孝友と云ひますが、歴代の史書には孝友傳、孝義傳と云うて、かう云ふ人達の行爲を皆書いて居ります。
 親が死んで、祖父さんも死んで、既に別家しても差支ないのに、なほ今迄通り一家同居して行くことを、政府も非常に奬勵するし、社會も非常に之を褒めます。支那の歴史を見ますと、北宋の陳※(「日+方」、第3水準1-85-13)などは十四世同居して居ます。明の始めに出た鄭濂と云ふ人は、同居三百年一家三千口と云はれて居ります。十四代と云ふと隨分永く、一世が三十年としても四百年ばかりであります。それから、後の鄭濂の家では三百年の間別家せずに居つたので、三千人が同居したと云ふのですから、隨分なものでありませう。とても本願寺の本堂のやうな建物でも、三千人は同時に住むことが出來ませぬから、今日の避暑地にある貸別莊のやうに彼處此處に家があつたものと思はれます。かやうに多勢のものが同居する場合に、この大勢の者の指揮者になつて行くものは、矢張り本家の主人であつて、それが祖先の代理者として多勢の人を指揮して行くのです。同族の者は、祖先の名に於いて、之に服從して決して違背しない、だからして大きな家族になればその間一種の共産主義が行はれる譯であります。かやうに三千人も同居すると云ふやうなことは滅多にないことでありまして、一般には法律で別居が許されれば別居すると云ふのが普通であります。さうして別居しても、本家と分家とは祖先の祀を中心にして、連絡を取つて和合して行きます。今日でも支那で相當の舊家と云へば一族の宗祠と云ふものがあります。一年の中に多い時は春秋二季、同じ祖先から出た一族の者が會合して一緒に祀を營みます。この祖先の廟祠を維持する爲めには、一族共有の祭田と云ふものがありまして、其田地から出た物で祀の費用を辨じたり、廟の修理をしたり、一切のことを辨じます。又共同の墓地を持つて居ります。支那人は生きて居る間は遠くへ出て居つても、死ねば同じ祖先の墓地に葬られると云ふことが最も強い願望であります。死んだ時には重い棺桶に入れて、支那の棺桶は隨分頑丈なもので運搬費もかかるのですが、たとへ外國に出稼ぎして居つても、また人間到處有青山などとは云ひますけれども、事實としては皆故郷に歸つて祖先の塋域に葬られると云ふのが支那の大體の風俗であります。さうしてその一族毎に大抵族譜と云ふものがありまして、一族に關する家憲が定められて居ります。
 族譜は家訓・家範・家禮・家約等の内容をもつて居りまして、先づ同じ祖先から出た所の系圖を書いて居ります。その外に一族として守るべき家憲、或は一族として守らなければならぬ家約を書いて居る、これは一族の團結を固くし、或は行違ひなどを解決する爲めであります。若し一族の中で不都合な者があれば、その族長が祖先の名に於て、祖先の祀に參列することを禁止する。これを停胙一年と云ひます。胙と云ふのは、祖先の祀をする時に、その前に肉を供へ、參列者にその肉を分け與へる、それを胙と云ふのであります。胙を分與しないのでありますから、即ち、一年間祖先の祀りに參列することを禁止するのであります。それからもつと重いのになりますと、この族譜から削り去つて了ふ、これを出族と云ふ、つまり勘當であります。さうするとこの人は宿無しになる、支那ではこれが一番の恥辱で、出族されたものは各方面で信用がないからこれは隨分重い處罰であります。それからもつとひどい罰としては、とても直らぬと云ふ者は同族の間で、それを殺して了ふ、此を淹死と云つて皆で寄つて集つて水の中に突込んで了ふ、それから活埋と云つて一族で活埋めにして了ふのもあります。それ等は無論法律で認めて居りませぬけれども、實際には行はれて居るやうであります。荒立つて來れば、已むを得ず、法律にあるだけの處罰は加へますけれども、同族關係のことに就いては、政府も成るべく知らぬ顏して進んでそれに干渉しないことになつて居りまして、同族間に中々強い制裁が行れました。それで一族の間には財産爭ひなどの起ることもありますが、それは皆祖先の廟の前で黒白を決定して了ひます。吉凶共に一族の族長が裁判長となつて決定します。ですから、支那では民事の裁判事件などは、大體は一族の間で處置されて、比較的容易に治安が維持される譯であります。それで政府も家族制度を維持するし、又家族制度の中心である祖先崇拜は非常に尊重するのであります。昔から、支那の法律では一族の祖先を祀る廟の建つて居る處を賣ることは許しませぬ。又前述した一族の祀を維持する費用を支出する所の祭田をも賣ることは許しませぬ。それが發覺すると云ふと、元の本人に返させて、買つた者が出した金は官に沒收されて了ひました。
 政府が家族制度をそれ程維持するに努めるのは、どう云ふ譯であるかと云ふと、御承知の通り支那では、政治組織は家族制度を基にして居りますから、家族制度が崩れると、支那の政治機關の運轉が出來なくなつて了ふからであります。支那の政治組織と云ふものは家長政治、族長政治である、Patriarchy である、天下と云ふものは家族をモデルにしたものである、大なる家族が天下で、小なる天下は家族と云ふことになつて居ます。つまり家族といひ、天下といひ、言葉は違うても理屈は全く一緒であつて、支那では國のことを國家と云ひますし、又天下一家とも云つて居ります。そこにこの家族主義の思想がよく現はれて居ると思ひます。
 支那人の考へによると、小さい家族の君が父で、大きい家族の父に當るべきものは天子であつて、君は家の大きくなつた天下といふ家族の父であります。支那では天子のことを單に民の父母といひ、人民のことを君の赤子と云ひ、君民の關係は父子と云つて居ります。一家の中で親に盡す孝行を、大なる家族である天下の父に致せば忠であつて、忠と孝とは本質的に何も相異がなく、同じことであります。即ち、小なる家族の父に向へば孝、大なる家族の父に向へば忠であるのであります。故に『禮記』の祭法に「忠臣以事君。孝子以事親。其本一也」とあつて、忠孝一本と云ふ言葉がこれから出て來るのであります。家族の父に孝行するやうなものであつたならば、大きな家族である所の天下の父たる君に忠義を盡すに相違ない、それで忠孝一本と云ふことになります。それで忠臣を求むるには必ず孝子の門にすべしとも云ひますが、人が父母に孝行でありますれば必ず君に忠義を盡すと云ふことは、支那人の動かすべからざる信念であります。
 支那は、御承知の通り、昔から專制君主國でありますから、無論忠義と云ふことを奬勵するにはするが、孝行と比較すると、それほど喧しく云はない。忠孝と竝べて云ひますが、どちらかと云ふと孝の方が大事です。それは孝さへあれば、その中に忠が備はると云ふのが支那人の考へ方だからです。孝と云ふ字は『説文』によると「※[#「老/子」、152-6]」の老が※(「者−日」、第4水準2-85-2)と省略されたもので、老いたる人を戴く貌であります。孝行と云ふ字は必ず子が自分より老いたる父母、若くは祖父母によく仕へると云ふ意味であります。子が下になつて上に老いたる者を戴くのですから、子に對して老いたる者と云ふのは大體親であつて、昔からその意味は外には使はず、子供が能く親に事へることを孝と云ふのであります。所が支那では忠と云ふのは心を眞直ぐにすると云ふことです。無私忠也であつて、心を眞直ぐにして分け隔てをしない、自分の物だから、他人の物だからと云つて分け隔てをしないことです。だから忠の字は官吏の者から云ふと君に對して分け隔てなく義務を果すと云ふことであつて、臣下が君に對して私なく、二心なく仕へることも忠、又人民が眞心を以て盡すのも忠であります。これが支那に於ける忠であります。
 それで『論語』を見ましても忠孝と云ふことが見えませぬ。『左傳』などを見ましても、忠孝と熟したのはなくて、皆忠臣とあります。又支那では『孝經』と云ふものがあつて、『論語』などと竝び稱せられて居りますが、『忠經』と云ふものがありませぬ。無いことはないが、それはずつと後に、詰らぬ人間が拵へたもので、唐末宋初の頃に出來たものであります。それほど支那では忠と孝とが違ひますが、それは決して忠を輕んずるからではなく、支那の政治組織では、孝さへ行はれればその中に忠が備はると云ふ考が行はれて居るからであります。それで『韓詩外傳』と云ふ書物を見ますと、或時齊の宣王が、自分の家來の田過に向つて、君と父と何れが重きかと云つて質問したことがあるが、田過は、父が第一である、君は第二であると云つたと傳へて居ります。又『三國志』を見ますと、※[#「炳のつくり+おおざと」、U+90B4、153-3]原と云ふ人の話ですが、魏の文帝曹丕が尋ねて、君達に一つ意見を聞くが正直に答へて見よ、ここに君と父と同時に急病にかかつたとする、所が非常な名藥が僅かに一粒しかないとしたらこれをどちらに飮ますかと聞きました。尋ねた人は君たる曹丕であります。所が※[#「炳のつくり+おおざと」、U+90B4、153-6]原は、勿論親にやりますと答へて居ります。是が支那人であります。忠よりも孝が重い、この點は餘程支那が日本と違ふ所であります。支那も日本も均しく忠孝一本と云ふことには違ひないのでありますが、唯支那の方では、いろいろ革命などがあつて、忠と云ふものが日本ほど發達することが出來なかつた。日本の方では申す迄もなく萬世一系の國でありますから、孝中の孝とも云ふべき忠と云ふものは無窮の發展が出來る、又その上に君民血を同じうすると云ふやうな考へが多いのでありますから、一層その間の結合が強固になる譯でありまして、これは日本の國體の有難い所であると思ひます。つまり儒教では忠孝一本でありますから、その忠孝一本は日本の國體によく適合するので、日本の國體は此の思想をいよいよ培養し強固にしました。これは支那の儒教が我邦に非常に貢獻する所であつたと思ふのであります。

 唐律を始めその他支那の古代法律は、何れも開卷第一に名例律と云ふものがありますが、この名例律には總説のことが書いてありまして、どの名例律の始めにも五刑、十惡と云ふことを必ず書いてありますから、先づこのことから説明して置きます。五刑と云ひますと、
一 笞刑 十 二十 三十 四十 五十
二 杖刑 六十 七十 八十 九十 百
三 徒刑 一年 一年半 二年 二年半 三年
四 流刑 二千里 二千五百里 三千里
五 死刑 絞(全其支體) 斬(身首異處)
であります。これを五刑と云ふのは、刑罰の種類を大別したもので、五種類あるから五刑と云ふのであります。支那では五刑は堯舜時代から存在したと『書經』などに出て居ります。この五刑として何々を算へるかと云ふことに就いては、經學上いろいろ異つた意見がありますが、大體に於いて五刑とは刑罰をひつくるめた代表のものであります。古い所では一般に五刑と云ひますと、
 墨※(「鼾のへん+りっとう」、第3水準1-14-65)※(「(緋−糸)+りっとう」、第4水準2-3-25)※(「月+りっとう」、第4水準2-3-23)又は※(「月+嬪のつくり」、第3水準1-90-54)、宮、殺大辟
の五種の刑辟を指しました。黥と云ふのは入墨することであり、※(「鼾のへん+りっとう」、第3水準1-14-65)は鼻を切ることです。※(「(緋−糸)+りっとう」、第4水準2-3-25)と云ふのは足を切ることであり、つまり歩行出來ないやうにするので、どこを切るかは一寸分りませぬ。足の筋を切り、或は膝の筋を切ると云ふことでありますが、時代に依つて多少違ふやうであります。それから宮は宮刑です。それから大辟は殺すこと、これだけが支那の古い所の五刑と云ふのであります。何れも肉體を傷けるのでありますから、肉刑と云ふのであります。これは傷けますから後で取返しが付かないと云ふので、支那では漢の時代から漸次廢止される傾向になりまして、唐の前の隋の時から既に廢止されて、ここに擧げた通り笞刑、杖刑、徒刑、流刑、死刑の五刑になつて居ります。これより以後、何百年を通じて五刑と云ふのは普通ここに擧げて居る笞刑に始まる五刑であります。
 そこで隋以後の五刑の説明を致しますと、先づ笞刑と云ふのは、竹で拵へた笞をもつて臀を叩くのであります。昔は背中を叩いたものでありますが、背中を叩くと内臟に影響しますから臀を叩く、其數は十、二十、三十、四十、五十迄分れて居ります。
 次に杖と云ふのはつゑであります。これも同じく竹で拵つた棒で叩く、この杖も實は臀を叩くのであります。笞も杖も臀を叩くので同樣でありますのに、これを二種類に算へるのは、強いて五と云ふ數にせんが爲めにかうしたのでありませうが、後の徒・流・死刑とは全然類の違つたものであります。杖刑は叩くのでありまして、これも六十から百まで五つ通になつて居りますが、これは笞刑と數が違ふのみならず、叩く道具も違ふ。杖も竹で拵へますが、杖は太くて痛いのである。且つこの刑具に就いては明の時でも唐の時でも法律でその寸法や大さが決まつて居る、刑を執行する者が勝手に太いので叩いては受刑者は堪らない、長さ三尺五寸、先きは細いので何分、太いので何分と云ふことが決まつて居ります。今云ふやうに叩く數は十から百迄ですが、叩く人は中途で代ることが出來ない、叩き了るまでは同じ人が叩くので、これが一つの要件となつて居ります。又婦人でも罪を犯したものがあつたならば、笞刑、杖刑でお臀を叩かれる譯でありますけれども、どうも婦人に對してこの刑を行ふことは餘り體裁のよい事でないといふので、明の時には、婦人だけは單衣ものを着せてその上から叩きました。唐の時には、そのことが法律に書いてありませぬから、矢張り婦人でも肉體を叩いたものと見なければなりませぬ。明律の名例律を見ますると、
婦人犯罪。應決杖者。姦罪去衣受刑。餘罪單衣決罰。
とあります。これに決と云ふのは法律上の熟語となつて居まして、決行するの意であります。決杖と云ふと愈※(二の字点、1-2-22)杖を行ふといふことであります。杖なり笞なりを決行する場合に、姦罪は衣を去る、即ち姦罪を犯した時には體裁も何も構まつてやる必要がないから裸體で叩くが、さうでないものは單衣を着せて、その上から叩くといふのでありまして、かう云ふ點は支那の法律の餘程面白い所だと思ひます。
 徒刑、これはヅケイと讀むのでありまして、今日の懲役であります。牢屋に一定の期間だけ入れて、勞役に服せしめるのであつて、一年、一年半、二年、二年半、三年と期間によつて五種に分れて居ります。
 流刑は流し者にして了ふのであります。その中には二千里、二千五百里、三千里の三種が含れて居ります。これは何れも罪人の故郷から、支那里數で計つて、輕い者は二千里、その次に重い者は二千五百里、その次は三千里の離れた處へ移して了ふことになつて居ります。この流刑は日本の方でも採用されましたが、ただ王朝の律では二千里、二千五百里とせずに、近流・中流・遠流の三種になつて居る點が違ふのであります。流刑は流し者にすることですが、大抵其罪人は流された所の牢屋に二年間入れられて苦役に服せしめられまするが、それから後はその土地に住まはせられます。併し加役流と云つて、特別に苦役を延長される者があります。或は死罪に處しても宜いと云ふやうな重罪者で、死一等を減じて流刑に處せられた者は、移された所に三年間苦役して後にその土地に住まはせられます。兔に角、流刑になれば故郷を二千里なり三千里なり流されて、加役流ならば三年間苦役に處せられて、其流された土地に一生住まはなければならぬのであります。故に若し良人が流刑になれば、その妻子は家族制度の當然の結果として、流し者にされた良人に附いて行き、其處に住まはなければならぬのであります。
 若しそれが婦人の場合であるとどうするかと云ひますと、婦人が流刑になれば二千里も離れた處に移され、良人は故郷に殘つて居ると云ふ譯にいかない、さりとて良人が妻の處へ引移つて行くと云ふことは、男を主とする家族制度の上から面白くない、そこで女が流刑を犯して土地を離れなければならぬといふやうな場合には、唐律でも明律でもこれは特別扱ひを致しまして流刑とはしないで徒刑にして、その上に杖刑に處するのであります。たとへば婦人が一番輕い所の流刑、即ち流二千里の罪を犯した時には、徒刑三年にして其上にお臀を六十叩くのであります。二千五百里の流刑に當る場合は、矢張三年の徒刑にしてお臀を八十叩く、流刑三千里の場合には、徒刑三年にしてその上お臀を百叩く、斯う云ふ風にして婦人に對しては特別な便法が講ぜられて居るのでありますが、これも家族制度を維持する必要から起つたのであります。
 次に死刑でありますが、凡そ死刑には二つあります。絞と云ふのは絞殺するの謂であつて、斬といふのは刃物で首を斬つて了ふの謂でありまして、この二通りあるのであります。無論絞の方が輕くて、斬の方が重いので、その註に據れば絞は身體をその儘にして置きますが、斬は身と首と處を異にする、離ればなれにするのであります。同じく死んで了ふのですから、身と首とが離ればなれになつても別に構はぬ譯でありますが、そこが人情と云ふものであつて、殊に支那人は身體を切れぎれに分つと云ふことを非常に嫌ふ、その感情は日本人などより遙かに強く、支那では罪人が首を斬られたり、或は戰爭で討死して首を無くする事があると、その屍體を埋める時には、藁などで假の首を拵つて挾まなければ葬式を致しませぬ。かくの如きは勿論迷信に由るのでありませうが、さうせぬと靈魂が歸れないと云ふ考がありまして、それが支那人の身首離ればなれになることを深く忌み嫌ふ譯であります。故に死刑も絞と斬との二通りに分けられた次第であります。
 それからここに絞と云ふのは待時決と稱して、時を待つて決すると云ふのであります。待時決は之を秋から以後に行ひますから、或は秋後決とも云ひます。所が斬の方は、大體に於て時を待つて決すといふことはなく不待時決と稱しまして、愈※(二の字点、1-2-22)判決が決れば直ちに實行するので、之を立決とも稱するのであります。立決と云ふのは、判決が決まれば愚圖愚圖せず直ぐ執行するのですから、猶豫する暇がありませぬ。しかるに時を待つて決すると云ふ方は、どうかすると、その待つて居る間に恩命に浴して一命が助かることがあります。支那法には赦と云ふものがあり、日本でもありますが、何か國家に目出度い事があつたりする時には罪人の罪を輕減するのであります。その赦には單に赦と云うて一部分に限ることもありますし、天下中に行ふ大赦と云ふのもあり、或は一地方に天子が行幸になつたので、その付近だけの赦を行ふ曲赦と云ふものもあります。處刑に時を待つてまだ實行しない場合には、或は事に依つて赦に遭ひ、命が繋がると云ふ望みがあります。時を待つて決すと云ふのは、支那では古くから行はれたことでありまして、後世になると多少變つて來ますが、精神は立派に傳はつて最近の清律にまで行はれて居りました。周代の書物である『左傳』其他のものを見ましても、古くからこの精神は現れて居ります。支那では、天子と云ふものは天の子でありますから、天の時を奉じて政治を行ひ、天の時に從はなければならぬと考へられて居ります。所が、春から夏は萬物の生長する時であるから、この時に人命を傷めるのは天意に適はないし、秋から冬は萬物が凋落する時でありますから、人の命を無くするには秋から冬にしなければならぬと云ふことは、周代から支那人間に行はれて居る考であります。それに基いて刑罰、殊に人命に關するものは秋以後に於て執行すると云ふのが支那人の傳統的な考であります。それで死刑は、非常な惡人でどうしても時を待つことが出來ないと云ふものは斬として立決をやりますが、絞の方は時を待つて秋以降に行ふことになつて居るのであります。
『禮記』に月令と云ふ一篇があります。政治のことに關して、月令には何の月にはどう云ふことを行ひ、その次の月にはどう云ふことを行ふと云ふことを詳しく書いてあります。この月令を見ますと、裁判のことも書いてありますが、その中に、萬物の生長する仲春、即ち舊暦の二月、新暦の三月に當る時の年中行事として、成るべく罪人を牢獄から出してやり、責め道具なども成べく片付けるやうにする、訴訟も緊急已むを得ざるものの外は受付けないと云ふことが書かれてあります。それが立秋の時になりますと、この月からは牢獄の手入れをして、責め道具の修理もし、訴訟事件の受付を始める、そして秋の末、即ち舊暦の九月、十月にもなれば追々秋の末になりますから、裁判の處理はどしどし片付け、總て刑罰はこの秋に於いて執行する、殊に死罪の處刑は秋に行ふと云ふことが述べてあります。
 戰國の時の韓などを見ますと、この精神を最もよく實行して居ります。また漢の時の歴史を見ますと、法律上の斯う云ふ特典を利用する人が少からず存したやうであります。春になれば死刑は行はぬと云ふので、それを利用して強情張つて延ばす、冬の十二月に判決されると、死罪になるものを、存じませぬとか、知りませぬとか云ひ張つて春まで延ばし、時效にかかり免れるといふのであります。漢の梁王劉立と云ふ人は漢末の王で極めて亂暴な行爲が多く、人を殺したりするものですから、朝廷でも態※(二の字点、1-2-22)官吏を派遣して、その罪状を調べた。所が劉立はこれは耐らぬと思つたのでありませう。訊問される毎に必ず卒倒します。それで訊問を繼續することが出來ないから、延しのばしするうちに立春になつて、年が改り春になると刑は行ひませぬので、遂に免れたといふことであります。漢の時にはかう云ふ例が幾らもあります。諸葛豐と云ふ人は漢代の地方官でありますが、この人が春になつてから罪人を捕へて牢屋に投じ、又その裁判をしたと云ふので、非常に天子からお目玉を頂戴して、遂に免官になつた。其時の免官の言ひ渡しには「不四時。專行苛暴」とありまして、地方官が春から夏に罪人を訊問するのは天の時に順はない專行苛暴だといふので免職になつたのであります。
 唐時代にも已むを得ざる外は、死刑を春に行はず、秋以後冬に行ふのであります。それで『唐六典』(卷六)には次の如く書いてあります。曰く、
毎歳立春後至秋分。不決死刑。若犯惡逆〔以上〕。及奴婢部曲殺主。不此法
と、これは刑法のことを書いたのでありますが、毎年立春の後からして秋分の時に至るまで、今日の太陽暦で云ふならば二月から九月に至るまでは、死刑を奏決するを得ずと云ふのであります。奏決と云ふのは死刑を行ふ時に天子に申上げて執行することであつて、死刑を愈※(二の字点、1-2-22)執行する時にはその旨を天子に申上げなければならぬのです。『六典』の本文は、立春以後秋分に至るまでは死刑を行ふことが出来ないと云ふのであります。併し、どんな場合でも行ふを得ないと云ふのではない。若犯惡逆と本文にはありますが、これは惡逆以上といふ意味で以上の二字を惡逆の下に入れなければならぬ。惡逆、大逆、謀叛などといふ、惡逆以上の罪を犯したり、或は奴婢部曲にしてその主人を殺したと云ふやうな場合には、たとへ立春以後でも死刑を行ふのであります。この奴婢と云ふのは説明する迄もないが、部曲と云ふのは唐の時代に存在した一種特別な階級であつて、親子代々その家に仕へて居る、我邦で云ふ家人の類でありまして、古くは三國、漢の時代から唐の時代まで存在しました。勢力ある豪族の下には屡※(二の字点、1-2-22)何代も續いて主從の關係になつて居ります。これを部曲といふのでありますが、それが主人を殺すと云ふやうな時には直ちに死罪に處するのであります。
 かくの如く死罪の中にも絞罪と斬罪との二種がありまして、斬罪は立所に決するが、絞罪はすべて秋後に行ふと云ふのであります。これは唐に時代の規定であります。
 五刑の中で笞刑の五十迄は笞で叩き、且つこれは地方の縣で行ふのであります。たとへば、ある犯罪が起つたとすると笞刑迄はその縣で知縣が處置するのであります。若し杖以上の罪になりますると、犯罪が起つた地方の知縣が犯罪の事實と、それに擬律と云つて其罪に對する自分の意見を書き添へて、直接上官である州刺史に報告し、州刺史はそれを見て誤れる所は之を訂正し、若し誤りがなければその儘に處刑さすのです。ここでは杖刑だけを執行するのであります。これは今日の我邦で云へば縣知事位の事務であります。
 次に徒刑になりますと、大分重い刑ですから州の刺史だけに委しては置けない、必ず中央政府の刑部に報告するを要します。そして刑部の審査を求め、その結果間違がなければ伺ひの通りにせよと云ふ指令が出るのであります。
 更に流刑以上になりますと今一遍調べることになつて居ります。之を按覆と云ふのであります。死刑の場合も無論さうですが、愈※(二の字点、1-2-22)間違ないと云ふことで、伺ひの通りにせよと云ふ指令を受けて後、始めて流刑を執行するのであります。
 更に死刑の場合には、刑部が知縣の擬律を受取ると、それを按覆して今一遍調べ、間違がないと云ふことであれば、これは一應天子にまで奏上を致します。中々鄭重を極めたものであります。されば死刑を執行する迄には非常に長い時を要するのでありまして、交通不便な處から中央政府迄伺ふ上に、天子に奏上してから後、一週間、或は十日間經つて愈※(二の字点、1-2-22)執行しますと云ふ奏上を二度三度繰返すのであります。
 されば地方で執行する時は兎も角、天子の都の所在地たる長安で死刑を執行する時には、天子は其日は謹愼せられて、自分の臣民の中から死刑に處せられるやうな者を出したことを深く遺憾とされるのであります。これは前述したやうに支那の國體では君臣の關係は親子の關係で、自分の子に當る赤子が死するのを悲しむといふ念を現はす爲め、その日一日天子は膳を粗食にし、音樂を停止せられることになつて居ります。『唐六典』卷六刑部の條に、
凡京城決囚之日、尚食蔬食。内教坊及太常皆徹樂。
とあります。京城とは長安の町であります。地方で行ふのは仕方がないのですが、京城で囚人の死刑を執行する時には、執行する迄は牢屋に入れて置きますが、愈※(二の字点、1-2-22)死刑を決行する時には天子の召上る物は皆蔬菜とします。尚食の尚と云ふのは、天子の書記官を尚書と云ひ、天子の衣裳を司るのを尚衣と云ふが如く、食事を司るの意であつて、即ちその日の天子の尚食は蔬食を供するのであります。それから内教坊とは奧向の音樂、太常とは表向の政事上の音樂であつて、要するに宮城の音樂に關することは一切停止すると云ふことを規定したものであります。これ等は支那の古代法律の深い意味のある所でありまして、決して單なる空文ではないのであります。只法律にさう書いてあるだけで、少しも實行しなかつたやうにも考へられるのでありますが、實は心ある天子は之を實行して居つたのであります。唐の太宗の時などは明かに實行して居ります。太宗は或時大臣を左右に麾いて、お前達は今少しく政治に勉強して貰はねばならぬ。近頃は死罪を犯す者が多く、殆ど隔日、又は三日置き位に死刑が執行されて居り、その度毎に朕は肉を食べることが出來ないので、この頃殆ど肉食したことがない。もう少し諸臣が政務に勤めて、せめて私に肉食をさせるように勉強して呉れと云うたと傳へられて居ります。若し自分の國民の中に、死刑囚の如き不心得の者があつては、民の父たるべき君として誠に忍びないと云ふので、音樂を停止すると云ふ精神に基いて居るのであります。それで、支那では一年中の死刑の統計を取つて、年末には天子に報告すると云ふことになつて居るのであります。

 次ぎに十惡と云ふことを述べます。これは十種の惡い罪を指したのでありますが、罪の中には種々あり、道徳的なものもありまして、十惡の中に決められた罪が皆死罪、流罪の如き重い罪に限つたものではありませぬ。名教の上から見て好ましくないものが、主として十惡の中に含まれて居るのであります。道徳上、名教上から見て面白くないものは、罪の重い輕いに拘らず十惡に數へるがよいか否かの點に就いては、學者の意見一致しませぬ。僅かに徒刑一年位の罪、例へば自分の從兄を毆つたとか、親類の從※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、163-6]を毆つたと云ふのは徒刑一年か一年半であるけれども、これは親族の中でも自分より年上の人を毆つたと云ふので十惡の中に數へられます。又泥棒をしたり人を殺すと、無論殺人竊盜でありますが、これは一概に十惡に加へませぬ。ここに掲げた十惡の罪は名教上、道徳上面白くないと云ふ罪を、十條ほど出して十惡と云ふのであります。さう云ふ譯で道徳上の罪惡のことでありますから、十惡と云ふ罪に當るものは、いろいろの特典を剥がれるのが常であります。前囘も述べた通り支那では知識階級の人の罪はなるべく輕くするのですが、十惡は名教上の破廉恥罪であります。如何に刑不大夫と云つても、十惡の罪を犯したものだけは、其の身分の如何に拘らず刑不上大夫などと云つて、特別の扱ひは致しませず、贖罪をも許さないと云ふのが十惡の特徴であります。
 以下簡單ながら十惡の説明をします。先づ初めの、
 (一)謀反であります。これは謂社稷と註せられて居ります。社稷と云ふのは支那古來からの制度でありまして、王朝が新しく立つと社稷と云ふものを立てます。その社稷を危くすと云ふのは、その王朝を倒さうと云ふ意を間接表現法で書いたのであります。つまり國家を覆へす、王朝を倒すと云ふ意味であつて、今日で云へば國體の變更を企てると云ふのと同じであります。我邦の王朝の律の方では、養老律でも大寶律でも、この社稷と云ふ字に代ゆるに國家を危くすると書いてあります。これは日本には社稷の制度がないから國家と云ふ字を以て代へたのであります。支那の皇宮は何時代でも都城の北に在ります。而してその宮城の南西の方に社稷、南東の側に宗廟があります。宮城から南面して宗廟の方は左に在つて社稷の方が右に在る、宗廟とは歴代祖先の御靈舍で、御靈を祀つて居りますが、社稷の方は御靈舍ではありませぬ、壇を拵へて、その上で天のお祭りをするのであります。
 長安の皇宮は都城の北部に南面して建てられ、後部が内裏で前部が百官の集ふ役所である、その眞中が朱雀通りで朱雀門が南面してある、この朱雀の西の側に社稷がある、この朱雀通りの左が左京、右が右京になります。或はこれを左街、右街とも云ひます。唐が亡ぶと云ふのは、この唐の立てた社稷を毀して了ふことを云ふのであります。
 (二)謀大逆といふのは、謂宗廟、山陵、及宮闕と註せられて居ります。これもかかる文字を使つて云ひ表はして居りますけれども、實は天子直接に御身の上に不都合な事を企てるのを云ふのであります。故に直接御身の上でなくとも、不都合な心を抱き、天子に對して不滿な心を抱いて宮闕に爆裂彈を投げるとか、山陵を毀つたと云ふものはこの罪に入るのであります。
 (三)謀叛といふのは、謂國從一レ僞と註されて居りまして、明律では謂本國僭從他國とあります。これは他國に裏切つたり、内通することを云ふのであります。第一の謀反の反とは上の者が下になり、下の者が上になることであり、上下顛倒することであります。此の謀叛の叛の方はこれは半分の反ですから、左の者が右になり、右の者が左になるのが叛です。つまり今迄源氏の味方して居つた者が心竊かに平家に心を通ずるの意であります。本國に背いて他國に心を寄せたりするのが謀叛であります。十惡の第一の謀反は國家に對して不穩なこと、第二の謀大逆は天子の御身の上に不都合のことであり、第三の謀叛は矢張り國に背くことでありますが、第四に至つて始めて家族制度と關係があります。
 (四)惡逆と云ひますと、「謂及謀殺祖父母、父母。殺伯叔父母、姑、兄、※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、165-4]、外祖父母、夫、夫之祖父母、父母」と註されて居ります。同じ家族の中のものを實際に殺したり、或は殺さんことを計畫したり又は毆つたりすることが惡逆になるのであります。祖父母、父母は説明を要しませぬ。伯叔父母と云ふことに就いては少しく説明を加へませう。それは日本とは少し意味が違ふからであります。
 支那に於いては自分のお父さんの男兄弟の年上の人を伯と云ひ、その伯父の妻になつて居る女を、自分から指して伯母と云ひます。故に伯母と云ふのは多くの場合血縁の關係がないのです。次に父の弟の方は叔父でありまして、その妻は叔母であります。それから姑と云ふのは日本で申します叔母の意味であつて父の女※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、165-10]妹を姑と云ふのであります。母方の人はこの中に入りませぬ。それは男系を重んずるからであります。姑と云ふのは皆他家へ嫁いで了つてその家に居ないのですが、兄、※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、165-12]と共に皆自分より目上の人になるのであります。外祖父母と云ふのは申す迄もなく自分のお母さんの兩親であります。それから妻が夫を殺したり、又夫の祖父母、父母を謀殺するが如き罪もすべてこの中に入ります。
 (五)不道と云ひますのは「謂一家非死罪三人及支解人。造畜蠱毒厭魅」と註して居ります。不道と云ふのは、人道を無視した惡逆の行爲を云ふのであります。自己と親族關係の全くない他人に對しても、もし極めて殘虐な罪を犯すと、十惡に數へられるのであります。殺一家非死罪三人と云ふと、能く六人斬とか十人殺しと云ふのがありますが、一家の中で三人を殺す罪であります。從つて、若し隣り二軒に跨つて三人殺した場合は之に當りませぬ。一軒の家で、殺された人が非常な惡人で、先に死罪に當るやうな罪を犯して居たならば不道とはなりませぬ。然らざる良民――奴婢などの賤民はこの内に入りませぬ――を殺す場合に限るのであります。例へて云へば、自分の身内を殺した者を報復にその一家三人殺したなれば、これは相手が既に死罪になるべきものですから、三人殺してもこの例に入りませぬ。又ここに一家と云ふのは現實に同居してゐる家族のみを指すのではありませぬ。同籍及び期親の者で現在は既に別居してゐる者も一家と考へられ、一時にその三人を殺すと不道の罪になります。一家を特に三人に限つた譯ではないが、一家の中三人も殺すと、時に依つてその家が斷絶する惧れがありますから、家族主義から特にこれを重く罰したのであります。
 又單に人を殺しただけならばこの不道の中に加へないが、支解と云つて手足をばらばらに斬り離す樣な、殺し方が如何にも殘酷である場合、支那人は前申す通り身體を別々に斬られることを非常に嫌ふ爲に、これを特に不道に數へます。
 次に造畜蠱毒の蠱毒と云ふのは南支那に行はれた迷信であります。夏から秋に始めにかけて澤山の蟲を捕つて置いて一つの壺の中に入れて蓋をして置く、さうすると其蟲の中の強い奴が弱いのを喰い殺して一番後に一疋殘る、それだけ功が經て居りますから一種靈妙な働きがあつて、それを使へば人を殺すことが出來ると信ぜられてゐます。この蠱と云ふのは蟲を皿に入れることであり、さう云ふ風にして人を呪つたりするのであります。造畜蠱毒とは蠱毒を造つたり、又これを人から貰つて自分の家に蓄へたりすることを云ふのであります。次に厭魅とは蠱毒ばかりではなく、丑の時詣りの如き、人を呪ふ行ひ總てを指します。蠱毒を造蓄したり、その外の厭魅で人を呪つたり、さう云ふ術を使ふと云ふことを非常に嫌つたので、これらも不道に數へたのであります。
 (六)大不敬といふのは天子に對して不謹愼の行爲をしたものを一と纏めにしたのであります。註に由りますると、
大祀神御之物。乘輿服御物。盜及僞造御寶。合和御藥。誤不本方。及封題誤。若造御膳。誤犯食禁。御幸舟船。誤不牢固。指斥乘輿。情理切害。及對捍制使。而無人臣之禮
とあります。先づ大祀神御之物及び天子の乘輿、御衣、御物、御寶を盜んだり僞造したりする罪であります。大祀神御之物とありますが、支那には大祀・中祀・小祀とあつて、この大祀とは天地宗廟の祭りを指します。日本で云へば、伊勢の大廟と同じであります。この大切なお祭りに使ふ物を盜んだり天子の御用の物を盜むと云ふのが大不敬に當るのであります。御藥誤不本方及封題誤とは醫者に關することであります。侍醫として御不快の時に、お召上りになる藥の調合を誤つて、處方通りでないのは本方を誤るもので、或は調合はよくとも藥の上書を誤つたのが封題誤であります。また若造御膳誤犯食禁と云ふのは大膳職に關したことで、誤つて食禁を犯し、食ひ合せのものをうつかりして天子に差上げるが如きであります。御幸舟船誤不牢固といふのは、天子が行幸の時、川なり海なりを行かれる途中、故障が起ればその御身の上に思ひもよらぬ事が起りますから、御幸の舟船に手ぬかりがあつたり、水が漏れたりする樣な誤を罰するのであります。次に「指斥乘輿。情理切害。及對捍制使。而無人臣之禮」とあります。これは臣下が、天子に對して無禮をすることを指したもので、指斥すると云ふのは天子に惡口することでありますから大不敬に數へます。及對捍制使と云ふのは、天子の勅使に對して抵抗したり、暴力を用ゐるのを對捍と云ふのであります。免職の辭令を渡すと云ふ場合に、それを突返へしたりする、これらは人臣の禮なきもので大不敬であります。
 (七)不孝は親の立場から見てよくないものを指したのでありまして、唐律には、
言詛詈祖父母、父母。及祖父母、父母在。別籍異財。若供養有闕。居父母喪。身自嫁娶。若作樂。釋服從吉。聞祖父母、父母喪。匿不哀。詐稱祖父母、父母死
と註して居ります。親に對して孝道上から面白くない行爲を十ばかり數へたのです。祖父母父母を告言すると云ふのは、罪を官に訴へて出ることで、例へば私の親は斯う云ふことをしたなどと密告したり、或は親を相手に裁判訴訟を起すが如きは告言であります。詛詈の詛と云ふのは呪詛の意で、親に向つてこんな年寄は死んで了へなど云ふのが詛に當りますから、詛詈とはつまり惡口です。親を訴へて出たり、さうでなくとも親を惡口したりするのは皆不孝の部類に入ります。又祖父母や父母が未だ在世中に分家すれば徒刑に處せられますが、これも質が惡いから不孝になるのであります。それから供養有闕と云ふのは、子として自分の養つてゐる親に對して十分御馳走しないことであります。
 又「居父母喪。身自嫁娶。若作樂。釋服從吉」と云ふのは、父母の喪中にあつて子としての義務を怠つた罪であります。第一の「身自ら嫁娶する」とは、父に對して誠に宜しくないことでありますから不孝であります。第二の「作樂」は、父母の喪に逢うて音樂を聽き、樂器を弄ぶことでありまして、親の忌中と云ふものは悲んで、かかる慰みなどする暇がない筈であるにも拘らず、それを忘れて作樂と云ふことは、親に對して不都合な話であるとして、是は道徳上のことであるが不孝に加へます。第三に「釋服從吉」と云ふのは喪服を釋いて平常の着物を着ることであります。祖父母、父母の喪に逢へば三年間――支那には喪が五通りありまして、親の時には一番重く三年間喪服を着けます――必ず喪服を着けて家の中に蟄居して居らなければならぬ。故に一寸何かの用事で、都合が惡いからと云ふので、喪服を脱いで外に出るならば、それは不孝になるのであります。
「聞祖父母、父母喪。匿不哀」の祖父母、父母の喪を聞くと云ふのは、例へば官吏になつて故郷を遠く離れて居る時のことを謂ふのであり、匿不哀の哀を擧ぐは、支那では親が死んだと云ふ知らせを聞くと、哭と云つて――泣くと云ふのは涙を流すのでありますが――聲を立てて近隣に聞えるやうに大聲で泣かねばならぬことになつてゐます。何故こんなことをするかと云ふと、支那では哀を擧げると云ふことがつまり葬式發表になるからであります。既に發表をしますと、三年間は喪に服さなければならぬ。所が、時と場合に依つては三年間も喪に服するのは困ることがあります。官吏は親が死んだならば直ちに其日から辭職して、家に蟄居し親の喪に服せなければならぬ。辛うじて官吏の職に就いた計りのものもありますから、親の死んだのを當分匿して置くと云ふことが支那では實際よくあります。これを匿不哀と稱し、自分の一身の利害の爲めに匿すのであるから、不孝の中に數へるのであります。それから次ぎの詐稱祖父母、父母死といふのは前項の正反對であります。即ち親が死んで居らぬけれども死んだと云ひ觸らすのです。これも亦自己本位からです。支那では親子の間のことに藉口すれば大抵の願は許して貰へるのですから、仕官して厭な役を仰付けられ、私は厭だと云へないときには、私は甚だ行きたいのですが、郷里からの通知に依りますと、親が死んだと云ふことでありますからと云ふと、それぢや仕方ないと願の通りになります。遠い故郷の實状などは仲々分らぬのですから、屡※(二の字点、1-2-22)さう云ふことを行ふ者があります。これは朝鮮人などにも能く行はれた所で、徳川時代には李朝から將軍家に使に來る使者がありました。その時日本の漢學者中には朝鮮の使者が來たならば一つ自分の學力を示してやらうと云ふので、豫め詩やら文を作つて用意し、九州から東海道を經て江戸に至る途中、朝鮮の使者に對して詩文を示して和し下さいとか返事を呉れとかいつたり、又能く議論を吹つかけたりして、それには朝鮮の使者が閉口しました。それが爲め幕府の末年には朝鮮で日本へ使に行くを肯ずる者がなくなりました。日本へ行けばいぢめられるといふので、大抵は親の喪に藉口して逃げて居ります。他に逃れる言譯がないから親の喪を云つて逃げたのであります。これらは甚だ不都合であるから不孝とせられるのであります。
 (八)不睦とは註に「謂及賣※(「糸+思」、第4水準2-84-43)麻以上親。毆告夫及大功以上尊長、小功尊屬」とあり、これは※(「糸+思」、第4水準2-84-43)麻以上の親屬を殺さんと謀りたるもの、及び妻として夫の罪を告訴したり、或は毆打したりするもの、及び大功以上と云つて親族關係で日本で云ふならば三等親以上の尊長を――尊長の尊と云ふのは自分と同じ祖先から出て居る一族の者で輩行が自分よりも上の者を指すので、これは尊族と云うて餘程尊ばなければならぬことになつて居ます。長と云ふのは自分の祖先から見て自分も五代ならば、その男も五代で輩行は同じであるが自分より年が老けて居るのを云ふのであります――毆つたり訴へたりするものが不睦とせられて居ります。これらの同じ家族、親族の間でありながら甚だ其間が睦じくないものを一括して不睦と云ふのであります。支那の親屬は次の如く分類せられてゐます。
一等親 斬衰(三年)┐
二等親 齊衰(期) │
三等親 大功(九月)├五服
四等親 小功(五月)│
五等親 ※(「糸+思」、第4水準2-84-43)麻(三月)┘
等外親 袒免
支那の方では血の濃いほど長い期間喪服を着けることになつて居ります。一番重い喪服を斬衰ざんさいと云ひます。衰と云ふのは喪服のことです。次は齊衰しさい、大功、小功、※(「糸+思」、第4水準2-84-43)しま、一番輕いのは袒免たんもんと云ひます。袒免は日本の五等親には入らぬけれども、喪服の方では袒免と云ひ、服喪の一種に數へるのであります。その中斬衰は三年、齊衰は期と云つて十三月、一年であります、大功と云ふのは荒い麻、小功は荒くない麻、※(「糸+思」、第4水準2-84-43)麻は細かい麻を用ゐて作つた喪服でありまして、袒免とは喪服は着けずに單に肩の所に印を付けるのみであります。
 (九)不義とは、
本屬府主、刺史、縣令。見受業師。吏卒殺本部五品以上官長。及聞夫喪。匿不哀。若作樂。釋服從吉。及改嫁
と註されて居ります。
 この不義と云ふのは直接血縁の血はかかつて居らぬ他人であつても、甚だ恩義を受けてる人であるのに、義理に背くと思はれるやうな行爲をするのを云ふのであります。本屬府主と云ふのは丁度今日の軍隊で從卒とその仕へる士官との關係であつて、從卒の方から士官を指す言葉です。唐の時には士官ばかりではなく、文官でも勅任以上には政府からその人の隨身として身廻りをする爲めに小使の如きものを付けて、その小使は若し大臣であるならば何人、高等官一等ならば何人と云ふやうに規定されて居ました。かかる從卒のやうに側に附いていろいろ仕事をする者がその本府屬主を殺したり、又刺史、縣令の如き地方官をその管下の者が殺すことがあります。支那の政治組織は親子の關係が根本ですからこれらは正にその親に當る人を殺したものであります。又現に業を受けてゐる弟子たる者が教を受けて居る師匠を殺したり、それから吏卒が――吏卒と云ふのは今日の判任官で、吏の方は文官、卒と云ふのは武官でありますが共に身分の低いものであります――自分の所屬して居る所の五品以上の官長を殺した罪も不義であります。それから「聞夫喪。匿不哀。若作樂。釋服從吉。及改嫁」と云ふのは妻が夫の喪を聞いても匿して哀を擧げず、三年の喪である斬衰に服すべきであるのに、自分一身上の都合で知らぬ顏をし、その間に音樂を弄んだり、夫の忌中に喪服を釋いて平服を着たり、又若し夫の三年の喪を勤め終つてから後ならば他に再婚しても差支ないが、夫の忌中にありながら改め嫁したりすることであります。これらは何れも不義の中に數へられるのであります。
 (十)内亂とは「謂小功以上親、父祖妾。及與和者」と註せられて居ります。ここに内亂とは近親の間で姦淫することを云ふのでありまして、亂とは姦通するの意であります。小功以上の親屬、或は父祖の妾を姦したり、又與に和する者を指します。姦とは男が主となるもの、與に和するろは男女合意で行ふものを云ひます。支那では男女の別は仲々やかましく、殊に一族間の相往來する者の間に於ける男女の別は一番やかましく申します。普通の見ず知らずの他人とは初めから交際もないのでありますから、間違の起ることも寡いのですけれども、身内の者となると交際が頻繁な爲、その身内の親しい者同士が姦通すると云ふことは珍らしいことではありませんから、餘程やかましく禁ぜられて居ります。支那では一族で姦通する者を非常に嫌ひます。結婚は必ず先祖を異にする異姓から娶らなければならぬと云ふ聖人の教に基いて居るのでありまして、從つて内亂と云ふことは非常にやかましく禁止されてゐるのであります。今日から見て、これらのものは果して十惡の中に入れなければならぬかは、恐らく議論の餘地もあると思ひますが、唐律は明かに破廉恥罪と考へて、これらを犯したものは、如何に身分のよい者でも特典を與へないと云ふのであります、これと同樣の方針は明律・清律に至る迄繼承されて居ります。これで大體十惡の説明を終りました。

 日本の古代法律は支那から入つたのでありますから、無論十惡と云ふものは日本の古代法律の中にも規定されて居りました。併し支那とは少し違つて居ります。これは日本の昔の人が支那の法律を取入れて法律を定める時に、餘程日本の國情に調和さすことに苦心した結果のやうに思はれますから、一應日本の方の異つて居る點を簡單に紹介して置きます。
 日本で十惡を取入れたのは養老律、大寶律でその第一名例律の初めにそのことが書いてありますが、名は十惡ではなく八虐と改つて居ります。そしてその内容の如きも十惡の内の第八不睦、第十内亂の二項だけを削つて居ります。第八の不睦と云ふのは一族間に於いて不和な事をしたものを書いてあつたものを、日本の方では削りましたが、その原文を少し改めて第五の不道と云ふ條項の中に附加へて居ります。だから、項目の上では減つて居るが、事實上では不睦は減つて居りませぬ。第五の不道と云ふのは一家三人を殺すとか、或は人を祷り殺すやうな呪ひをすることを書いて居りますが、其下には人を殺したりするやうなことを附加へて居つて、多少區別のあるものを、一つに纏めたのでありますから、調和の例として擧げるのは如何かとも思ひます。兔も角も、日本では第五の不道の中に入れて不睦は削つて了つて居るけれども、内容は同じものであります。第十の内亂は、近親間に於ける淫亂のことを書いたものでありますが、日本では昔から比較的近親の間でも通婚した例があり、支那程やかましく云はない風習でありますから、内亂と云ふ項は削つて了つて、但この中に書かれて居る姦父祖妾と云ふのを第七の不孝の中に附け加へて居ます。以上の樣な次第で八虐と云ふのであります。
 併し詳しく見ると尚ほ注意すべきことが澤山あります。例へば、第七不孝の項下に唐律には若供養有闕とありますが、日本の法律の本文にはこれは削られて居ります。是はあつても宜しいが、無くても差支ない、有ると云ふと時に依ると誤解を來すやうな惧れがあるからであります。供養有闕と云ふのは親に十分の御馳走をすべきであるのに、それを十分にしないと云ふことになりますが、唐律の※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律の方で見ますると、
諸子孫違犯教令。及供養有闕者。徒二年。
とありまして、第一には總て子孫が祖父や父の御指圖に背くこと、第二には子孫として祖父や父を供養するに不十分な者は二年の徒に處すると云ふことになつて居ります。これに對する注釋に、
從而違。堪供而闕者。須祖父母・父母告。乃坐。
とあります。これは從ふ可くして違ふといふのでありますから、父や祖父の指圖と云うても、甚だ度の過ぎたもの、即ち泥棒をせよと云ふやうな道理に背いた指圖といふのではなく、子として當然從ふべき指圖に從はぬことを指すのであります。又供に堪へて闕くるある者は父祖に對して十分御馳走する資力があるにも拘らず御馳走をしないことを云ひます。これらの場合は祖父母・父母の告訴をまつて罪に處するといふのであります。
 この立法者の意を酌みますると、かく文字には消極的に書いてありますけれども、もつと積極的に御馳走せよと云ふことを要求して居るのであります。『禮記』の王制を見ますと、親が年寄になると、食慾も衰へて來るから、成るべく食慾の衰へないやうに御馳走しなければならぬ。五十歳から六十歳以上になれば、殊に食物に氣を付けなければならぬと述べ、
六十宿肉。七十貳膳。八十常珍。
と書いてあります。この肉を宿むと云ひますると、血氣の衰へた老人ですから、冬などは肉食で温か味を與へなければならぬ。何時も肉を準備して置かなければならぬといふことであります。七十は膳を貳にすると云ふのは、貳の膳附きにして出し、どちらでも好きな物を攝れるやうにすること、八十珍を常にすると云ふのは、何時も季節より珍らしいものを食膳に供へて出すことを云ひます。これは中々難しいことでありますが、この唐律の立法者は注釋の所に於いて、經書の中の七十貳膳、八十常珍などと云ふことは、子たるものは常に心得て居らなければならぬと力説して居ります。日本の立法者はそんなことは書かないでも宜からうと云ふので、大寶律・養老律共にこの一句は削つて了つたのであります。昔の人はたとひ一句であるけれども、餘所の國の法律を漫然と燒直して採らなかつたので、中々注意深かつたと云はねばなりませぬ。
 今一つ日本の古代法律が、支那の法律を採用する時に注意して改めて居ることがあります。支那法では、妻が夫を殺した場合は十惡の中の第四の惡逆とせられまするが、その反對に夫が妻を殺した場合には十惡の中に入れて居りませぬ。この點は唐律でも、明律でも、清律でも一樣であります。所が日本では、夫が妻を殺した場合には矢張り十惡に加へて、第五の不道の中に入れたのであります。これは餘程考へたことでありませう。確かに日本の方がよいと思ひます。
 もう一つ日本の方で支那法を改正したのがあります。それは第九の不義の項の見受業師に就てであります。唐律の注釋にはこれを解して、
膺儒業而非私學者
と云つて居ります。官立學校で經學の教授を受けて居る者が、先生を毆いたり、傷つけたりすることを指すのであつて、私學の先生は毆いても、これは不義の中に入れず、又見受業師とありますから、もう學校を出て了つた者が、昔教はつた先生を毆いても不義の中に入れないことになつて居ります。これは甚だ感心出來ない法律と思ひます。
 所が日本の方では、見受業師と云ふ文句はその儘採用しては居りますが、註に於いては、
見受經業大學國學。私學亦同。若已成業者。雖先去一レ學。竝同見受業師之例
と解釋を加へて居ります。日本の方では見受業師と云ふことを餘程廣く見て居ます。大學、國學とはその時分の官立學校で都にあるのを大學と云ひ、地方にあるを國學と云うたのであります。この官立學校で現に教を受ける者は學生であり、業を授くる者は師であります。併し私立學校と雖ども授くる者が師たることは同じである、又既に卒業したものにして、もとの先生を傷付けると云ふやうなものは、現に業を受くる者と同じ例に傚つて制裁すると定めて居る。官立學校でも私立學校でも、苟も先生と云ふ以上は同一にし、又過去と現在を別にしないことは、確かに日本の法律の方が筋が通つて居てよいと思ひます。
 一體、支那と云ふ國は世界中でも尤も師道を重んずる國でありまして、儒教に於いては殊に然りで、君と師と父を三事と稱して殆ど同樣に尊敬します。『國語』の晉語を見ますと、
民生於三。事之如一。父生之。師教之。君食之。非父不生。非食不長。非教不知。生之族也。故壹事之。唯其所在。則致死焉。報生以死。報賜以力。人之道也。
とあります。師匠に對するは、猶ほ親に對すると君に對すると同樣にしなければならぬ。民生於三と云ふことはつまり君、父、師の三つのお蔭でこの世に生きて居ることが出來、生活らしい生活を送ることが出來るのだから、この三つは吾々の生存の本であつて、一樣に尊敬を盡さねばならぬ。第一が父で、父に依つて生れ、次に師匠に依つて人間らしい道を教へられ、それから君の土地に生れて君から養はれる、父非ざれば生れず、君に食はるる非ざれば人間としても獸同樣の生活をしなければならぬ。吾々の生活と云ふものはこの三つのお蔭であるから、この人々の爲めには愈※(二の字点、1-2-22)と云ふ時には自分の生命を投出しても報いなければならぬ。それが人間の道であると云ふのであります。
 更に『禮記』の檀弓を見ますと、君と師匠と父と云ふものは同樣に尊敬しなければならぬと云ふことを説いて、親が亡くなつた時にも、君が亡くなられた時にも、師匠が亡くなられた時にも、服喪は均しく三年勤めます。無論、三者の間で勤め方に違ひがあります。師匠の時は別に血縁がかかつて居る譯でありませぬから、喪服は着けませぬが、心喪三年と云つて外へは現はさぬけれども、心の中では喪に服することになつてゐます。さう云ふ風に支那では師匠を大變尊ぶのであります。所が法律だけはどうしたことか見受業師と限定を下して、現に業を受けて居らなければ毆いても罪にならぬと云ふことは、誠に水臭い話であると思ひます。所が日本の法律では十惡を包含せる八虐の中に於いて、人情を盡して現舊を問はず師匠を厚く遇する主張の明載されて居ることは誠に良いことであると思ふものであります。
 一體、我邦では師を非常に尊びます。徳川時代では師匠は、經學の師匠ばかりでなく、音樂でも、俗歌でも、師匠に對しては、弟子たるものは餘程尊敬をしなければならぬ。もし師匠に抵抗して傷を負はせれば、徳川時代には必ず死罪に處せられ、又親に對すると同樣に、師匠の罪は役所に告訴することが出來ないことになつて居ます。これは日本に於いて儒教の精神がよく傳へられたものと思はれます。然るに、現在では學校には屡※(二の字点、1-2-22)ストライキと云ふことがあつて、世界中で日本程學校騷動の多い國はありませぬ。アメリカから日本の教育制度を調べに來た人で、このストライキの多いのには驚いて居るものがあります。學校騷動が起るには種々な原因があらうと思ひます。文部省などはもつと根本的にストライキなどが起らぬやうに勉め、若し起つたならばその原因がどこに在るかを深く考へなければならぬ。新聞などは學校騷動が起れば大概生徒の肩を持つが、抑も爭と云ふものは、一方が絶對的に良い場合には決して起るものでなく、双方に缺點があるのであります。近來、日本は支那と比較して優れて居るとて威張る、屡々支那を指導奬勵しようと云ふことでありますが、それが頻々として學校騷動を起しては、現實暴露でないか、お互に大いに注意しなければならぬことであると思ひます。

 以上で唐律の大體の形式をお話ししました。如何に唐律の中に家族主義が發揮されて居るかお分りのことと思ひます。これに關して私は昨年狩野博士の還暦記念論文集に「支那の孝道殊に法律上より觀たる支那の孝道」(本卷九頁所收)と云ふ論を書いて置きましたから、それを參考の爲めに讀んで下されば結構であります。
 唐律ばかりでなく、明律でも到る處に家族主義を發揮して居ります。一つの犯罪に就いて、他人間の場合ならばどう、家族間の場合ならばどうと必ず區別してあります。喧嘩の場合でも、殺人の場合でも皆この區別が設けられてゐます。さうして家族内の罪の規定は、大體に於いて家族内で位置の低い者とか年の弱い者とかは位置の尊い者、年の多い者に對して、服從せねばならないことになつて居ります。支那の言葉で云ふと卑幼尊長と云ひ、卑幼とは、幼は同じ先祖から數へて代數の多いものが卑であり、年の若い者が幼でありまして、尊長は卑幼の反對であります。卑幼の位置にあるものは家族の尊長の位置に在る者に對しては、絶對に服從しなければならぬ。決して抵抗したり、積極的に傷を加へたりするやうなことがあつてはならない。大體が斯う云ふ主義になつて居ますから、たとへ微罪でも卑幼の者が同じ家族中の尊長に對して加へた罪は、中々重く罰せられるのであります。所がその家族關係の中心となつて行くものは云ふ迄もなく親子ですから、親子の間では子が親に對して加へた罪は尤も重く罰します。この主義は到る處に現はれて居ります。これは唐律ばかりではありませぬ、昔からさうでありました。『孝經』にも、
五刑之屬三千。而罪莫於不孝
とあります。五刑の屬と云ふのは、鼻を切るとか、肉體に傷付けるとか刑罰の總稱です。それを細かく分けると三千あります。その内容は正確には分りませぬが、周代には入墨の刑が一千、鼻を截る刑が一千、その次に足を切る刑が五百、宮刑が三百、死刑に處せられるものが二百あると云ふのでありますから、合計三千となるのでありますが、この三千の刑罪の中で不孝の罪が一番重いと云ふのであります。この精神は支那の法律を一貫して居ります。前回は十惡の中の不孝を話したのでありますが、その中の一二のもの、例へば親を罵つたりするやうなことは別と致しまして、その他のものは何れも親に對してさしたる惡いことを加へるのでもない、單に親に對し當然務むべき行ひを怠つたにすぎないのに、それを十惡に加へました。親の喪を三年間十分に勤めなければならぬなどいふことは、今日の吾々から考へますれば、十惡の中に加へる必要はないと思ひますが、それを特に十惡に加へて居ます。
 唐律の職制の條下に、
喪制未終。釋服從吉。若忘哀作樂(自作遺人等)徒三年。雜戲徒一年。即遇樂而聽。及參預吉席者。各杖一百。
とあります。親の喪に服し三年間家に居りますから、退屈して將棋をさすとか、碁を打つと云ふやうなことをやる、それが見付かると徒刑一年に處せられるのです。遇樂而聽と云ふのは道路を流して歩く音樂を聽くのを杖一百に處すと云ふのであります。隨分嚴しい規定ですが、併しこの唐律の規定が果してその通り行はれたかどうか分りませぬ。
 その次に唐律の戸婚には、
諸居父母……喪而嫁娶者徒三年。妾減三等。各離之。知而共爲婚姻者。各減五等
とあります。親の喪三年即ち、二十七ヶ月の間は結婚出來ないのであります。結婚には年の良し惡しがあるから、時に依ると喪を匿して急いで結婚することもありますが、さう云ふものは徒刑三年に處せられます。妾と云ふのは正妻の外に認められて居る側室であります。妾を入れたものは徒刑三年の所を三等を減じて一年位の徒刑に處するのであります。各離之と云ふのは、徒刑三年、又は一年にした外に、その結婚は成立しないものとして、もとに戻して離縁させるのであります。「知而共爲婚姻者。各減五等」といふのは相手の嫁になる方がそれを知らなければ無罪ですが、知つて居りながらまあ往かうと云ふことで、嫁いで來たものは嫁も罪に處せられますが、それはその夫になる人より五等を減ずると云ふのですから、杖何十かに處せられます。
 その次は同じく唐律の戸婚に、
諸祖父母、父母被囚禁。而嫁娶者。死罪徒一年半。流罪減一等。徒罪杖一百(祖父母、父母命者勿)。
とあります。これはどう云ふことかと云ふと、祖父母、父母が罪を犯して死罪、若しくは徒刑に決まつた、然るに死罪ならば死刑執行迄牢に繋れ、徒刑ならば一年から三年迄牢屋に入らなければなりませぬ。その牢屋に入つて居る間に後に殘つて居る子女が、勝手に適當な配偶を見付けて結婚するとしますと、父や母は尚ほ牢屋に入つて居つて苦しい位置にあるのに、それを顧みずして嫁娶を行ふとは甚だ不都合なことであると考へたものでありますから、父母が死罪の場合は、その嫁娶した者は徒刑一年半に處する。若し流罪で父や母が牢屋に入つて居る時に嫁娶すれば、徒刑一年半から一等を減ずるのでありますから、徒刑一年に處する。若し、父や母の罪が輕くて單なる徒刑の場合であつたならば、嫁娶した子女の罪も輕くなつて來て杖一百であります。但しこの場合父母から自分は牢屋に往かなければならぬが、さうするとお前達が困るだらうから、今の内に結婚せよと云ふ許可があれば、それは罪にならないといふのであります。
 同じく唐律の戸婚には、
諸居父母喪子。徒一年。
とありまして、父母の喪に居る者が、子を生むと云ふと徒刑一年とあります。これも支那の法律の特長であると思ひます。日本の養老律などでは諸居父母喪子云々と云ふことははつきり罪を決めて居りませぬ。恐らく日本の國情に照して廢めた方がよいと云ふことであつたのでないかと思ひます。
 上來述べましたが如く支那では不孝の罪が非常に重いのですから、若し一家族の中の者が親に對して何か積極的に不都合なことをなす時には、今日私達の考へでは少し嚴に過ぎはしないかと思はれる位重い懲罰が加へられます。茲に一例を擧げまするならば、唐律の※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟に、
諸詈祖父母、父母者絞。
とあります。これは親に對して惡口云ふ者は絞罪に處されると云ふのであります。日本の古代法律も無論この精神を採つて居りますが、多少この罪を輕くして居ります。一體、日本の古代法律たる養老律は唐律に比較すると全般的に緩刑主義と云つて一等位は輕くして居ります。殊にこの場合には大分輕くして居つて、
諸詈祖父母、父母者徒三年。
とあつて、支那の方は死罪でありますが、日本の方は僅かに徒刑三年ですから餘程輕くなつて居ります。併し單に罵つた位の者すら徒刑三年ですから、今日から見れば豫想出來ぬ位重いものであります。
 明治になつてから決められました新律綱領といふ、明治初年から十年頃迄行はれた刑律がありますが、それに依りますと、
凡子孫、祖父母父母ヲ罵ル者ハ流三等、祖父母父母ノ親告ヲ待テ乃チ坐ス。
とあります。明治の初年までは祖父母、父母に惡口をし、若し祖父母父母から役所にその事を親告すれば、流三等に處されました。流三等といふのは、流し者一等が一番輕いので、二等はそれより重く、三等と云ふのは一番重いものに當り、その時分ならば北海道に流し、始め移つた二年間ほどは懲役に服させて、後は内地に歸ることを許さず彼地で生活さすのです。隨分の重刑で、王朝時代の養老律よりも更に重いもので、それを明治の初年には實行したのであります。
 既に父母を罵つて惡口するさへ隨分嚴しく處分されたのでありますから、親を不都合にも手を下して毆きでもすれば、それは非常な嚴罰に處せられます。唐律の※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律には、
〔諸〕毆〔祖父母、父母〕者斬。
とあります。これは父母に傷を負はせようが負はせまいが問題でなく、毆くと云ふこと丈けで斬罪に處するのであります。斬罪と云うても別に驚くべきでありませぬ。支那では立派に法律で規定して居る重い處分であります。
 支那人は如何ほど下等社會のものでも親を打擲すると云ふことは殆どなく、親には絶對に服從します。どんな田夫野人と雖ども、又血氣盛りの亂暴な若者でも、親から叱られる時は必ず跪いて羊の如く從順でありまして、旅行した誰しもの驚くことです。けれども古い且つ廣い國のことですから、稀には不心得者もあります。假りに親を毆くと云ふ者があつたならば、法律の發動を見るよりも先づ社會のセンセーションを起します。知識階級の讀書人にしてもいろいろ家庭の事情で親と感情の衝突を來すことがあります。それも父親の在る時には尚ほ親を尊ぶものですが、母親一人になれば年も取つて居りますから、愚痴も多く出て勢ひの趨く時母親に一寸手を下し兼ねませぬ。さう云ふ時には仲々重い罪に處せられるのであります。明の崇禎十二年(西暦一六三九)に鄭※[#「曼+おおざと」、U+9124、183-4]と云ふ者がその母を鞭つたと云ふことで告發されました。明の末は黨派間の政爭の激しい時代で、政敵から告發されたのですから、その事實の有無は知れませぬ。恐らく若干缺陷はあつたから告發されたのでありませう。鄭※[#「曼+おおざと」、U+9124、183-6]と云ふ人は江蘇省の出で、官吏をやつたことのある人です。其人が母を鞭打つたと云ふのですから、時の皇帝である莊烈帝は非常に之を憤慨されまして、多少疑問もあつたので四年程牢屋に繋いで置かれました。崇禎十二年に至つて此者は甚だ不都合である、道を知りながら親に不孝を働いた、よろしく嚴重に處分せよと云ふ命を下し、その結果、此人は、※[#「咼+りっとう」、U+526E、183-9](臠割)即ち刻み截りの刑に處せられました。斬罪は首を斬るのですが、臠割は一寸々々に刻み截つて了ふのであります。是は唐の時代にはなかつたのですが宋、元から、凌遲と云つて行はれ出しました。此刻み截りも罪の重い者ほど餘計に小さく刻み截り、誠に殘酷であります。此鄭※[#「曼+おおざと」、U+9124、183-12]の時には三千六百刀を加へたと云ふのでありますから、三千六百切にしたのであります。且つ鄭※[#「曼+おおざと」、U+9124、183-13]は親を打つたと云ふけれども、實際はよくは判らない、それほどひどい罪に處される程のものでないと、幾分か鄭※[#「曼+おおざと」、U+9124、183-14]に同情した裁判官や官吏がありましたが、それは親を打つた者に同情するのは誠に不都合の至りであると云ふので、何れも免官又は位置を動かされ、合計四十六人の官吏が處分せられたと云ふことです。
 清朝の時代になつてからも同治四年(西暦一八六五年)に、湖北省の一地方で、夫婦してその母を毆いた者があつて、天下の大問題となりました。同治四年ですから丁度西太后などが政治の實權を握つて居られた時でありますが、非常に中央政府では之を重大視しまして、此時の處分は先きの鄭※[#「曼+おおざと」、U+9124、184-1]以上に殘酷で剥皮と云ふ處分に處せられました。是は法律にありませぬが元時代から行はれて居りまして、脊中の眞中から鋭利な刃物ですつと切つて、それから兩方に割いて烏賊のやうに張ります。非常に痛いに相違ありませぬ。此の剥皮の刑は支那では元代以後稀には行はれました。仲々熟練を要するのでそれを專門にする者が現に北京に居るさうです。さうして剥皮して二三日經つと死にますから、死んだ屍は是は火葬に附して、殘つた骨は克明に臼で搗き、斯んな不幸な奴の骨なり肉なりはたとひ一塊りでも此世の中に存在せしめて置くことは不都合極まると云ふので、風で吹き飛ばします。それだけでなく、此時は讀書人にして父が亡くなつてから、その母を毆いたので、その時は父の弟である叔父が一家族の尊長として居ました。其叔父が居りながら此んなことになつたのは全く監督の不行屆の結果である、又嫁の方の兩親は子女の教育が不行屆であつたから姑を毆くことに加擔するやうな者になつたのであると云ふのでその讀書人の尊族及び嫁の方の父母は或ひは絞罪に或ひは流罪に處せられ、更らにその近隣の者にして、その事件が告發されるまで默つて居つたのが不都合であると云ふので流罪に處せられた者もあります。且つ又、此事件の起つた湖北省の地方長官は、部下の者に斯の如き者が出るのは平素監督不行屆であると云ふので免職されたのであります。隨分重い處分であります。
 斯う云ふ殘酷を極めた刑罰が行はれることは、支那の國民性の缺陷であります。一體支那人は自分自身の行動に對して能く批判が出來ず、是は過ぎて居るか、及ばぬかと云ふことの反省力が全くありませぬ。その結果支那の人は何をやるにも極端までやるので、是等もその極端の一例でありまして、私は是は支那國民性の缺陷を示すものであると思つて居ります。それは別問題として、親に對して手を下した者は此通り處分する、親を毆いても一寸吾々は想像することが出來ないほど重視して近隣の者から地方官迄も處分することを申上げたのであります。
 日本でも王朝時代は支那の法律を取入れたのでありますが、日本は緩刑を主義として居りましたが、それでも養老律を見ますれば、親を毆くものは絞すとなつて居ります。徳川時代及び明治初年のことは茲に書いてありますから讀み上げますると、
 (御定書百個條)
一、親殺。  引廻の上 磔
一、同爲手負候者。並打擲いたし候者。磔
一、斬りかゝり、打ちかゝり候もの。 死罪
(新律綱領)凡子孫祖父母、父母を毆ツ者ハ皆斬。
 親殺しははりつけ、親を毆いた者は磔、たとへ毆かずとも斬りかかり打ちかかりたるものは死罪とあります。それから明治初年に出來ました新律綱領には、凡そ子孫祖父母父母を毆つ者は皆斬と云ふことになつて居ります、これ等のことは先程お話しました私の著述である「孝道論」にも書いてゐますが、近頃の日本は餘程變つて居ります。明治十二三年頃まで親を毆いた者はどんな場合でも斬罪であつた。それから改正律令に依りますと、親を毆いた者は懲役十年、それが爲めに親に一寸でも傷をつけたものは終身懲役であつて、餘程輕くなつたけれども、尚ほ仲々重いのであります。この法律は明治十三年迄は行はれました。然るに近頃は大審院の判決例を見ましても餘程變つて來て居ります。其話は私は餘所でもしたのでありますが、一寸それを比較する爲めに申します。丁度大正八年のことであります。何縣の人であるか知りませぬが元右衞門と云ふ七十九歳の老人がありました。此人は一人息子に先立たれて孫娘の十八九になるツネと云ふ娘があるのみでその孫娘を相手に農業を營んで居つたのです。所がツネは農業を好まない。何時もお爺さんに斯んな仕事を罷めろと言ふ。隨てお爺さんと意見が合はない。ツネは東京に出たい、もう少しモダーンになりたいから東京に出して呉れと云ふのです。所が元右衞門は老人で自分獨りでは農業が出來ないからその願を許さない。それが爲始終喧嘩が絶えませんでした。大正八年の收穫の頃になつて、元右衞門とツネと、東京に行く行かさぬといふことで、とうとう喧嘩になり、ツネは元右衞門に組付き、噛付いて腕に怪我をさした。其時はそれで濟んだが、二三日經つて又喧嘩が起つた。女の子と雖ども十八九歳の勞働に從事して居る血氣盛りの者でありますから、力餘つて元右衞門を突倒した。元右衞門は非常に憤慨して、斯んな者は自分の相續人にすることが出來ないと云ふので裁判に訴へました。我邦の現行民法を見ますると、其九百七十五條に推定家督相續人といふものがあつてやがて先代が死ねば當然其人が相續人になる人ですが、此時には相續人たる嫡男が居らぬのでありますから、ツネが推定家督相續人となります。此推定家督相續人が被相續人に對して虐待をしたとか、或は重大な侮辱を加へたと云ふ場合は相續權を廢除することが出來ると云ふことになつて居ります。其條項に從つて、元右衞門は斯んな自分の云ふことを聞かない者には相續させぬとて裁判所に訴へ出ました。元右衞門の請求は第一審たる地方裁判所も、第二審の控訴院も通過しまして、ツネは相續權を廢除されました。所がツネの方から更に之を大審院に持出して、大正十一年の七月に大審院では今度は前判決をひつくり返して、元右衞門の請求は却下するといふことになり、つまりツネは廢嫡されないと云ふ判決を下しました。其大審院の判決の理由は、成程ツネが元右衞門に對して傷を負はしたり突倒したりしたのは、尊族に對して甚だ宜しくない。併しツネのさう云ふ性質が將來果して直らぬかどうかと云ふことは分らない。丁度此事件のあつた頃には、ツネは姙娠三ヶ月で精神状態も幾分興奮時期にあつたのであるから、其事も考へてやらなければならぬ。且つ今後ツネが元右衞門と同棲しても、同棲するに堪えぬと云ふ證據が擧らない以上は、僅かに一二囘の喧嘩の事實を以て其者の權利を奪つて終ふのは宜しくない。もし元右衞門の指導宜しきを得たならば將來一家和合出來るかも知れぬ。此れが大審院の判決であります。私は甚だ原告たる元右衞門の申條を認めぬ判決だと思ひます。所が其判決をやつた判事も、今は大審院の院長を罷めてゐますが、當時は之で人情判事と云はれたのであります。此の判決は誰が考へても感心出來ない。元右衞門は決して被告其者を殺す生かすと云ふのでない、噛り付いたり突倒したりするものであるから只その推定家督相續權を廢除しやうと云ふのであります。所が、又此判決に對して或大學の民法の授業を擔當して居る民法學者の一博士が之を評して、誠に近頃にない名裁判であると云ひ、且つその人は此事件の内容を深く調べて、元右衞門は孫娘のツネが滿十四年何ヶ月と云ふ時に壻養子を取らした。法律では滿十五年と云ふ事になつて居て、未だ三四ヶ月も足りないのにそれに壻養子を取らせたといふことは、元右衞門は孫娘の人格を認めない仕打である、斯る子女の人格を認めないやうな元右衞門のことであるから、ツネとの不和はそこから出て來る、元右衞門はもう少し子女の人格を認めるやうにしなければならない、此悲劇の根元は元右衞門にあると云ふやうな批評を下しました。是は著しく私達の考とは違ふと思ひます。
 抑も元右衞門と云ふのは大正八年に七十九ですから、彼の生れたのは徳川時代で、徳川時代から明治の初めにかけては丁度二十三十と云ふ年輩でありました。其時代には、家は人より大切であり、人は家の爲めに犧牲になるべきものであると云ふ思想が支配して居たので、斯る時代に人になつたのでありますから、元右衞門が家を人より大切と考へるのは當然であります。且、彼は既に八十歳になつて居り、その長男は先きに亡くなつて居るから、大切な家の血統を傳へるものは只孫娘あるのみである、其者はたとへ法律から云へば滿十五年には足らぬかは知れぬが、早く壻養子を迎へて祖先の後を絶えないやうにしようと云ふ用意は、家が大事と云ふ思想に依つて養はれた彼に在つては至極當然の事と思ひます。殊に法律で決められた子女の結婚適齡などは私達も知らない位ですから、田舍の百姓である元右衞門が滿十五歳以上でなければならぬといふことを知らなかつたとて決して無理ではない。早く養子を迎へて家の血統を繼がせやうと考へるのは當然であります。孟子にも「不孝有三。無後爲大」とありまして、親に對する不孝の一番大きいのは相續人がなくて祖先の後を絶やすと云ふことであると云はれて居ります。元右衞門の考へも家が大事といふのであつて一ヶ月や二ヶ月、法律の規定を無視したとて、それを以て、子女の人格を無視したと批評するのは間違つて居ります。斯んな風に日本の民法が改正されては大變であつて、餘りに西洋の直譯に過ぎる嫌があります。私は今少し古代法律に明るい歴史などを研究して居る人の意見を主にしてやるのが本體だと思ひます。
 次には親殺しの話ですが、支那では昔から親を毆いてさへ今話したやうな譯ですから更らに重大視されます。第一支那には親殺しの場合のことは法律には書いて居りませぬ。支那では親を殺すと云ふやうなことは到底豫め考へられないこととなつて居るのでありますから、明律でも唐律でも何等掲げられて居りませぬ。若し萬一斯る事が起つた時には、其時毎に評議をして處分を決する。無論支那でも、子にして親を殺したと云ふやうな不都合な者が稀には出て居らぬ譯でありません。歴史上の著例を茲に一つ二つ擧げて見ますると、
※(「朱+おおざと」、第3水準1-92-65)婁定公之時。有其父。有司以告。公瞿然失席曰。是寡人之罪也。曰寡人嘗學斯獄矣。……子弑父。……殺其人。壞其室※(「さんずい+夸」、第3水準1-86-70)其宮而豬焉。蓋君踰月而后擧爵(『禮記』檀弓)。
とあります。是は春秋時代に決めた親殺しの處分法であります。
 次に唐律には親殺しの處分は書いてなく、それで其場合々々に處分することになつて居り、色々の書物に出て居りますが、何れも手嚴しい處分であります。其親殺しのことを法律に掲げたのは元代からです。
諸子孫弑其祖父母、父母者。凌遲處死(『元史』刑法志)。
とあります。此は元代以前からあつた凌遲處死と云ふ處刑を親殺しに當嵌めたのです。支那では親に對して積極的に抵抗したり傷を負せたりすると非常に重い罪に處せられる、又其半面に、子や孫と云ふものは、親の爲めに惡い事は政府に對しても社會に對しても隱慝する、親の惡いことはたとひ官府の命令でも決して漏らさぬと云ふ精神があります。それを法律上では容隱と云うて、親子の間、又は兄弟の間ならば此の容隱は當然のこととして僞證罪にも問ふことなく、法律上罪にしないのであります。又裁判の際、親の罪を子に聞くこととか、夫の罪を妻に聞いたり、兄の罪を弟に聞いたりすることは禁じられて居るのであります。
葉公語孔子曰。吾黨有直躬者。其父攘羊而子證之。孔子曰。吾黨之直者異於是。父爲子隱。子爲父隱。直在其中矣(『論語』子路篇)。
とあります。私の父が泥棒しましたというて訴へて出るのは、人情に背いて居る、父は子の爲めに惡い事を隱すやうにし、子は父の爲めに惡い事を隱すやうにするのは、人情の自然であつて、此人情の内に正直の義があると云ふのであります。此孔子の精神は、支那は家族主義の國ですから、家族を維持する爲めには斯うすることが人情に合したものだと考へたのであります。此精神は歴代の支那の法律に取入れられて居まして、以下にその例を擧げます。
父子之親。夫婦之道。天性也。雖患禍。猶死而存一レ之。誠愛結于心仁厚之至也。豈能違之哉。自今子首匿父母。妻匿夫。孫匿大父母。皆勿坐(『漢書』宣帝本紀)。
今施行詔書。有子正父死刑。或鞭父母子所上レ在。……如此者衆。相隱之道離。則君臣之義廢。君臣之義廢。則犯上之奸生矣(『晉書』刑法志)。
諸同居若大功以上親。及外祖父母、外孫、若孫之婦。夫之兄弟及兄弟妻有罪。相爲隱。……皆勿論。即漏露其事。及※(「てへん+二点しんにょうの適」、第4水準2-13-57)語消息。亦不坐。……若犯謀叛以上者。不此律(唐律、名例律)。
 それから徳川時代に、科人が逃げて行方を尋ねる際、役人から尋ねてはならぬ人があります。
 (御定書百個條)科人欠落尋の事
一、主人を  家來に
一、親を  子に
一、兄を  弟に
一、伯父を  甥に
一、師匠を  弟子に
 右の類へ尋申付間敷事。
とあります。支那では親が官から拘引せられた時、その子が證人にされることがありますが、その時知らぬ存ぜぬと云うても、その子は罪にならぬのであります。支那では、司法官が親や兄の罪を、子や弟を呼出して證人に立てると云ふことをしたならば、多くの場合それは却つて司法官として道徳を辨ぜざる者として、罪に處せられる位であります。故にたとひ親に惡事があつて、自分を虐待したと云ふことがあつても、子として親を訴へ出ることを許しませぬ。つまり法廷で親と爭ふことは絶對に出來ませぬ。是は唐律の中に、
祖父母父母者絞(唐律、※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟)。
とありまして、訴へて出られた祖父母父母は何等罪にはなりません。隱すべき親の罪を子が訴へたのでありますから、是は絞に處せられます。之と反對に親が自分の子を惡い事をしたと云うて訴へた時には、子は親と同じですから、これは自首したものと認めて普通の罪は問はず輕くせられます。徳川時代の御定書百個條を見ましても、
一、主人親の惡事訴出候時の捌。
公儀之懸り候重き品は、可詮議。若訴人申處、僞無之においては、本人之御仕置相當より一等輕く可伺之。訴人は本人より猶又輕く御仕置可相伺事。
但右之外私事訴出候共不取上事。
但主人親非道の品有之て難儀の由申之、宥免の事願出候はゞ名主、五人組、竝親類之もの呼出、宜敷取計候樣に可申付事。
 斯う云ふ風になつて居ます。支那法の精神を傳へた徳川時代では總て親のことを訴へたとしても取上げない。國家天下の大事、例へば由比正雪の陰謀のやうな徳川幕府を顛覆さすといふ大きなことは取上げ、子たる訴人から訴へ出たことが事實ならば、訴へられた親は自首したものと見做して一等輕くするのであります。又訴人にしても重大なことを訴へたのでありますが、親を訴へたのではありますから本人より一等輕くする、併し、その外の市井の事件である所の親が私を殺さうとしたとか、傷付けたとか、私の財産を取らうとしたと云うて訴へても一切取上げない、親が子を虐待する、さう云ふ場合には虐待を受けて非常に困るからとて宥免を官に願ひ出るならば、政府は名主、五人組、親族の者を呼出して彼等に然るべく取計へというて名主等をして取計はせる、斯う云ふ風に家庭内に於て、子が親のことを訴へることが出來ぬことになつて居ります。近頃の日本とは隨分違ふと思ふ。近頃の、夫の取調に際して妻を證人として呼び出し、子が親を法廷に出して自分の證人とするといふが如きは、餘り體裁のよいことではないと思ふ。一昨年であつたか、和歌山縣の一地方で妻が夫を殺し、そしてそれを蜜柑畑に埋めたのを、其の女の母の六十幾歳かの老婆を證人に引出して、どこに埋めたか案内せいと云ふ樣なことをやつて居る。昔ならば斯う云ふことは親子御免ですが、其婆さんを大阪控訴院にまで連れて來て證人とした。證人に立たされたお婆さんは泣いて土下座して、裁判官どうかして助けて下さいと言つたと、それ迄新聞に書立てられると云ふことは誠に不人情至極であると思ひます。
 最近二十年來支那が中華民國になつてから、古代から傳統的に傳つて來た法律が新しく變革されて來ました。それは國體が君主政體から共和政體になつたことと、外國と同等の地位に立つには法律が餘り違つてゐては、裁判の仕方、民事上商業上の法律上の手續といふものが面倒であるといふので、清末殊に中華民國になつてから法律の改正に着手しました結果で、外國法殊に西洋の法律を採用して居る日本の法律を手本として改正したのでありまして、まだ全部は公けに發布されて居りませぬ。併し『中華六法大全』といふ本は今から六七年前に既に出てゐるのであります。無論是は日本や西洋の現行法律をモデルにしたのでありますから支那の古代法律の傳統的の十惡と云ふやうなものは改められて居ります。併し支那の國體、又は國粹とでも云ふべきか、支那の社會で自然に發達したもので、政體がいくら變つても決して動かすことの出來ぬと云ふやうなものは、やはり傳統的の法律の效力を保持して居ることになつて居ります。十惡は既に述べました通り唐律から清律迄續いて居りますが、民國になつて出來た民律の中には十惡と云ふものは無くなつて終ひましたが、十惡の第七不孝は中華民國時代でも矢張り同じ效力を有して居りまして、親を訴へたり、親を罵つたり、其他親の同意なくして分家をしたり、或は親の喪に十分服しなかつたりすると、是は從來通りに處刑することになつて居ります。是は支那では今尚ほ古い家族制度の精神が堅く存して居ることを示したものであります。

 次に婚姻に關することを申上げます。今迄は家族の中でも同じ祖先から出た血族者間の話でありました。併し家族には、同じ祖先から出ないで他の祖先から出た異分子も入つて來て家族を構成するのであります。即ち妻と云ふものが家族の一メンバーに入つて來る、それに對して支那の古代法律はどう云ふ風に扱つて居るかと云ふことを申します。
 法律のことを申す前に、一體支那人の間に於ては、婚姻と云ふものは如何なる目的を以て、又如何なる手續で行はれるかと云ふことを述べて置きます。それを云はぬと、婚姻の目的も分らなければ、法律上の處分と云ふものも徹底的に理解出來ませぬと思ひます。その中尤も注意すべきは、支那人の婚姻と云ふものは昔から家の爲めの婚姻で、一個人の爲めの婚姻でないと云ふことが第一の要點であります。家族制度の國でありますから、嫁は一個人たる夫の嫁となりに來るのでなしに、家の嫁になりに來るのであります。人の爲めの結婚と家の爲めの結婚とは餘程違ひます。今此に『禮記』を一例に引いて見ますると、
昏禮者將二姓之好。上以事宗廟。而下以繼後世也。故君子重之。是以昏禮、納采、問名、納吉、納徴、請期。皆主人筵几於廟。而拜迎於門外。入揖讓而升。聽命於廟。所以敬愼重正昏禮也(昏義)。
 昏禮と云ふものは、今迄無關係であつた祖先を異にする二つの家――二姓と云ふのは二軒の祖先を異にし、族を異にする家であります――の間に行はれるものであります。支那では結婚は必ず祖先を異にする異姓と取り結ぶを要することになつてゐます。上以事宗廟即ち夫は相手の妻と云ふものが出來て、その妻と共に宗廟のお世話をし、下以繼後世即ち世話する者をば絶やさぬやうに子孫を作る、さう云ふ目的の爲めに昏禮をするのであります。だから君子は昏禮と云ふものを甚だ重しとして鄭重に行ひます。故に昏禮を行ふには色々の儀式が要ります。納采、問名、納吉、納徴、請期の五儀がそれです。其外に親迎というて新夫が新婦をその家に迎へに行く儀式があります。茲には親迎は別にしてありますが、是は婚禮の手續です。其時には主人と云ふ嫁になるべき人の父に當る人が、祖先の廟に筵を敷き机を置く。拜迎於門外といふのは嫁の父たる人が、廟の門の外の所まで行つて、婿の家から仲人になつて來る使者を、拜し迎へるのであります。入揖讓と云ふのは、さ、そちらへと云うて迎へることです。門を入ると、使者を導いて西の方に客を立たせ、主人は東に分れる、さうして升すと云ふのは階段が三つありますから、それを登つて行くことで主人は東の方の階段、お客は西の方の階段を登ります。
 廟の前には机を置いて、荒菰を敷いてあり、東に主人、西にお客が立ちます。納采の時でも問名の時でも、納吉の時でも同樣に廟の前で主人が客から命を受けます。宗廟で斯の如き儀式を行ふと云ふことは、結婚が家と家との間の儀式であるからであつて、婚禮と云ふことを非常に鄭重に行ふべきことになつて居るのであります。
『禮記』には「上以事宗廟。而下以繼後世」とありますが、支那の婚姻の目的と云ふものは此の一句に盡きて居るのであります。即ち第一には祖先の祀りを繼續して行かんが爲めに嫁を貰ふこと、第二には家の血統を絶さぬ爲め、つまり相續人を造ること、第三は茲に書いてありませぬが、祖先を代表する一番新しい祖先は父母ですからその父母を養ふ事、此三つが結婚の目的であります。故に結婚といふものは祖先の爲め、父母の爲め、家の爲めの結婚で其相手になる所の夫の爲めと云ふ考は主なる目的の中には加はつて居らぬのであります。支那の結婚のことを書いた法律上の參考書がありますから此に擧げます。
民國陳顧遠、中國古代婚姻史(民國十三年)
民國陳東原、中國婦女生活史(民國十五年)
民國趙鳳※(「口+皆」、第4水準2-4-13)、中國婦女在法律上之地位(民國十六年)
Pierre Hoang(黄伯禄); Le mariage Chinois au point du vue l※(アキュートアクセント付きE小文字)gal(1898,2e※(アキュートアクセント付きE小文字)d.1915)
Erich Schmidt ; Die Grundlagen der Chinesischen Ehe(1927)
 支那の結婚で、第一の要件と云ふのは、自分と祖先を異にする異姓から娶ることであります。異姓と云ふのは原則として祖先を異にするものです。むづかしく云うと必ずしもさうでない場合もありますが、主義として異にすると云ふのであります。つまり自分と族を異にするものと結婚することが必要とされて居ります。是は支那に限つた風習ではありませぬ。ユダヤ人なども Exogamy といふ此と同樣の風習があります。日本でも比較的縁の遠いものから嫁を取ります。支那は周代から此の習慣が行はれて、結婚は異姓と云ふことに必ず限られて居ります。『禮記』曲禮に「取妻不同姓。故買妾不其姓則卜之」とあります。妻と云ふものは正式に結納を取り交して貰ふのでありますから、同姓であるか異姓であるかはよく分りますが、妾と云ふものは、金で買ふ場合が多いのでありますから、身分の良い者は少い。從つて自分と異姓であるかどうか分らない者がある。さう云ふ時には念の爲めに、之を卜つて、吉と云ふならば引取るし、凶と云ふならば買はぬと云ふのでありまして、如何に異姓を娶るに注意したかが判ると思ひます。故に唐の時でも清朝でも或は現在の中華民國の民律でも、同姓の者を娶ることはならぬと云ふ主義を存續して居るのであります。唐律戸婚律の中には、
諸同姓爲婚者。各徒二年。※(「糸+思」、第4水準2-84-43)麻以上以姦論。
とあります。此は全く同姓結婚を禁止したものであります。同姓通婚した者は嫁でも壻でも兩方共徒刑二年に處せられ、その上離縁させられる、若し同姓の中で比較的血の近い五等親以内の※(「糸+思」、第4水準2-84-43)麻とか大功とか小功とか云ふ者同士で通婚するものは姦通罪として處分するといふのであります。※(「糸+思」、第4水準2-84-43)麻以上のものが姦通すれば徒刑三年で、もつと近しいければ、もつと重くなります。それで同姓の者は近親のものは尚更のこと幾ら遠い關係のものでも、たとへ親類關係がなくとも結婚出來ない。是は唐律ばかりに就いて述べたのですが、明律でも清律でも、又現今の民律迄效力ある規定であります。異姓から娶りますのは、『禮記』の中にある合二姓之好せんが爲であります。是は一般の結婚に關する習慣として支那では古くから行はれて居る所であります。
 次に結婚する年齡の問題であります。男と女の結婚を許さるべき年は、年代に依つて違うて居るし、又必ずしもその時代に一定された通り實行されたかどうか判りませぬが、此結婚の年齡と云ふものは周時代の例に據りますると普通男は二十から三十迄、女は十五から二十迄と云ふことになつて居ります。男は遲くとも三十、女は遲くとも二十迄であります。『禮記』内則に、
男子二十而冠。……三十而有室。始理男事。……女子十有五而笄。二十而嫁。
とあつて、男は二十にして冠を着ける、弱冠と云ふのは日本の元服と同じで、是で一人前の男となるのであります。三十而有室とは自分の妻を室と云ひ、三十にして妻を娶り始めて社會に出て男の事を處置するのをいふのであります。女子十有五而笄とありますが、笄すと云ふのは簪を插すことであつて、今迄髮をばらばらにして居つたのを初めて髮を結ひ、其時にその髮を押へるため簪をすることであります。つまり女は十五の時から結婚の申出を受けても構はない、それから二十にして嫁するのであります。是は『禮記』内則の文でありますが、十五にして笄すと云ふから十五から結婚してもいいか否かと云ふことは學者に依つてその説が違ふやうです。同樣に二十而冠とあるから其時から結婚してよいか此れもはつきりしませぬ。三十而有室、二十而嫁とあるから、此時までに結婚しなければならぬと云ふことは明かでありますが、今日迄經學者の云ふ所では男は三十の時に嫁を取る、女は二十の時に嫁入りすると云ふことに多く解釋して居るやうです。周代には男三十、女二十と云ふ年が結婚すべき最後の年になつて居つたと云ふべきでありませう。其次に『周禮』夏官大司徒の媒氏の條には、
凡男女自成名以上。皆書年月日名焉。令男三十而娶。女二十而嫁
とあります。是も大體内則の文と似て居る、成名と云ふのは昔は支那では子が生れて丸三ヶ月を經過すると、名を付け、何處の何某の子何年何月に生れたと云ふことを、政府の戸籍に登録します。そのことを成名といふのです。その戸籍に依つて男ならば三十、女ならば二十になれば結婚する、其年が過ぎて男でも、女でも適當な相手がない、と云ふならば政府の方で相手の世話してやるので今日の婚姻媒介所のやうなことをやる役所があり、それをやる役人として媒氏と云ふ官があると云ふのが『周禮』の規定であります。併し實際から考へますれば、支那ではもう少し早いやうです。
 日本の方は養老令戸令に、
凡男年十五。女年十三以上。聽婚嫁
とあります。ユルス婚嫁と云ふのでありますから、男は十五、女は十三になれば結婚が出來たものと解すべきであります。
 支那では南北朝の頃から趙宋の頃まで、養老令のやうになつて居ましたが、それが趙宋の時代から一年上がつて男は十六歳、女は十四歳になれば結婚し得ると云ふことになりました。そして明清まで傳統的に女は十四歳、男は十六歳でありましたが、民國になつて、民律を拵へた時には外國の法律などを參考しまして、今の民律の中の千三百三十二條には結婚の年に就いては、
男未だ年十八に滿たず、女は年十六に滿たざる者は婚を爲すを得ず。
と規定してあつて、女は十六歳、男は十八歳となつて居りますが、是は法律上のことで、無論現在の支那ではそれより以下に於て行はれて居ると思ひます。
 其次は結婚の手續のことであります。結婚手續は『禮記』にある通り最初に納采を行ひます。是は壻の家から嫁の家に申込をすることであります。采を納めると云ふのは前に述べた通り婿の方から使者が來ると、嫁の方の親は、使者を廟に迎へて、廟の前で使者からの婚を請ふ挨拶を受けます。それを納采と云ふのであります。
 第二番目の問名といふのは種々經學者に依つて説が異ふやうですが、大體私共の正しいと考へる解釋に由れば、新しく嫁になるべき人の名を聞くことであります。名を聞くと云ふと、それでは今まで何も知らぬ人を貰ふのかと思はれるかも知れぬが、さうぢやなく、支那では婦人の名は家で付けてあつても、他家の人は只彼處の二番目のお孃さんとか、三番目のお孃さんと云ふ風に呼んで居つて、正確に名を知らぬのが常であります。そこで改めて名を聞くのであります。嫁に貰ふ人の名を聞いて同時に年も聞くでありませう。
 その次に納吉の禮を行ひます。是は既に問名の禮が終ると、今度は壻の家で、何某の家の何番目の娘の何某といふ者を今度嫁として娶らうと思ふと云ふのでそのことの可否を宗廟で占ひをします。さうして其結果吉と出れば、愈※(二の字点、1-2-22)祖先の廟で占つた所が、吉と出ましたからと云うて向ふに傳へるので、此れが納吉の禮であります。
 それから納徴の禮と云ふのは、日本でいふ結納であります。宗廟に占つて吉と決まつたら、愈※(二の字点、1-2-22)納徴といふ順序になり、それには仲人になるものが禮物を嫁の家に持つて行つて宗廟に於て渡すのであります。
 其後の五番目は請期の禮であります。此請期と云ふのは納徴も濟んで愈※(二の字点、1-2-22)結婚する時期を打合せに行くことであります。その結果、結婚の時期が決まると、その當日壻が親ら嫁の家に嫁を迎へに行く、是が親迎の禮であります。昔は支那でも壻が嫁の家に迎ひに行つたのですが、後世は自分では行きませぬ。別人が迎へに行き、壻は單に自分の家の門の所に出て、嫁を迎へる丈けで昔とは大分變つて居ります。周代には、愈※(二の字点、1-2-22)親迎の爲めに壻が嫁を迎へに出て行くと云ふ日になりますると、壻の父は壻を呼付けまして、其時に言渡す言葉があります。それは『儀禮』の士婚禮を見ますると、
往迎爾相。承我宗事
と言渡すと書いてあります。さあ是から時刻だから、お前は出て行つて、嫁の家に往つてなんぢの相手を迎へて來たれ、そして我が家の宗の事を承けよ、宗廟の事務を疎かにしないやうにせよといふのです。宗と云ふのは自分の家の宗廟のことであります。父から是から出て行つて我が家の宗廟のお世話をする相手を迎へて來いと云はれるのでありますから、壻たるものは、承知しました、必ず父の仰せに從ひますと云つて出て行く。嫁の家に達すると先づ嫁の父が壻を導いて、自分の宗廟に迎へて、其前で自分の娘を、其祖先の見て居る前で壻に渡すのであります。
 さう云ふ所に祖先を中心にした家族主義がよく現れて居ります。壻さんは嫁の家の宗廟で嫁を受取つて出ようとする。嫁が、最後に自分の家を出て行く、お別れをする時に、嫁の父母の言葉が又仲々意味深いものであります。『穀梁傳』隱公二年にはその言葉として、
謹愼從爾舅之言
謹愼從爾姑之言
とあります。即ち愈※(二の字点、1-2-22)花嫁が出て行く時に、その兩親はそれぢやお別れだから餞別の言葉として父親は、「嫁に行つたならば、如才もないけれども謹愼して爾の舅に從へ」と云ふ、母親は、「謹愼して爾の姑の言葉に從へ」と云うて、決して壻たる夫のことは言ひませぬ。嫁と云ふものは夫に對してではなく舅姑に對して事へよと云ふのであります。
 それから壻は嫁を連れて馬車に乘せる、自分は別の馬車で先導して自分の家に歸る、是が親迎の禮であります。此親迎の意味は社會學的に云へば種々に解釋されるでありませう。壻が前の馬車に乘り先導し、嫁は後の馬車に乘つて壻の家迄行く、壻の家に到着すれば直ちに壻は嫁を案内して自分の部屋に連れて行つてそこで、
牢而食、合※(「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54)而酳(『禮記』昏義)。
と云ひ、二人差向ひで食事を執り、酒を飮むのです。牢と云ふのは御馳走のこと、詳しく云へば豚の丸※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)を喰べるのであります。それを支那では御馳走として牢と云ひます。一皿に容れて、兩方から向ひ合つて食ふことが牢であります。
 それから※(「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54)と云ふのは、一つの瓠を二つに割つて、半分づつにして、それに酒を汲んで飮むことであります。酳とは形式的に口に當てて飮むことです。合※(「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54)而酳は、是から互に變らぬと云ふことを示したものであります。
 是で結婚の儀式は一通り終つたのでありますが、もう一つ重大なことは、その後滿三月經つて、愈※(二の字点、1-2-22)此嫁ならば大丈夫だと、壻の父も母も認めて來ますと云ふと、そこで始めて夫婦連れで宗廟にお目見えする禮が行はれるのであります。それを廟見と稱します。三ヶ月を經て廟見をする迄は、日本で云ふ家風に合ふとか合はぬと云ふことで、どうもあの嫁は宗廟のお世話をするには適當ではないと云ふので離縁することがあります。所が三ヶ月間見て居つて、愈※(二の字点、1-2-22)此嫁ならば大丈夫と云ふに至ると、それから宗廟にお目見えし、此の廟見が終つて始めて正式の妻といふことになるのであつて、それからはその結婚は動かすことが出來ませぬ。そこで支那では嫁が自分の家に來て未だ廟見の禮が濟まぬ中にたとへば二ヶ月位で急病が起つて死ぬるやうな時には、それは嫁の家の墓に返して葬りますが、若し廟見が濟んでから死んだのならば直ぐ死んでもそれは壻の家の墓に葬るのであります。そして親迎の時嫁の乘つて來た馬車は廟見の濟むまでは壻の家に殘して置きます。それは何時離縁されて歸らなければならぬか分らぬから殘して置くのであります。それが愈※(二の字点、1-2-22)廟見が濟みますると、その馬車を里方に返し、反馬の禮と云つて、是で嫁の位置が安定するのであります。
 既に結婚が家族制度に基く家と家との結合でありますから、結婚の責任者間に契約書などを取交はすこと、即ち婚書と云ふものを取交はせて置くことがあります。斯る時の代表者になつたり又總て實際に當つて結婚を決める責任者を主婚者と云ひます。嫁の方にも主婚者があり、壻の方にも主婚者がある譯であります。此の主婚者は家族制度の社會でありますから、嫁の家でも、壻の家でも何れも其時の家長であつて、多くの場合は父親であります。父がなければ母、父母共になければ比較的家族の中で上位にある尊長が當ります。例へば祖父母とか、此祖父母も父母もなければ叔父とか叔母が立ち、それがなければ兄が立つて、之を主婚者と稱します。結婚を結ぶ責任者は主婚者であつて、結婚の當事者である壻も嫁もこれに與りませぬ。だから主婚者が適當な縁だと思つたならば、壻たり嫁たる者の意思を聽く必要もなく決めて了ひ、主婚者の決めたものには婿も嫁も絶對に服從しなければならぬことになつて居ます。事實としては多少相談するだらうがそれは内輪のことで、表面の權利の方から云うたならば主婚者が萬事決めるのであります。茲に唐律の戸婚律中の條文を引用致しますると、
諸嫁娶違律。祖父母、父母主婚者。獨坐主婚。若期親尊長主婚者。主婚爲首。男女爲從。餘親主婚者。事由主婚。主婚爲首。男女爲從。事由男女。男女爲首。主婚爲從。
と。總て嫁を娶り壻を貰つたりすることに法律違反がある場合は、祖父母、父母など婚姻の契約を結んだ人があるならば、此れが婚姻の全責任を負ふのであります。つまり嫁となり壻となる所の子や孫は、祖父母、父母には絶對に服從で、自分の主張をすることが出來ぬのであるから、此間若し法律上の不正があるとか、違反があるといふ場合には當然主婚者である所の祖父母、父母が罪を受けるのであります。婚姻當事者は罪に當らない。然るに祖父母、父母の如き尊族がなくして、期親の尊長が主婚に任じた場合には、其結婚が法律上不都合があれば、主婚者を主として罪を行ふ。此場合は祖父母、父母が主婚たる場合より結婚當事者も幾分自分の意見を述ぶることが出來ますからその當事者たる男女も從犯として幾分かの處分を受ける。若し主婚者が餘親と云うて從弟とか自分より年上の者が結婚の契約人となつた場合には、主婚の者が主としてやつたなら、主婚者が主犯となり結婚當事者たる男女が從犯となるのです。所が男女が監督者たる尊長の居らぬ爲に、近頃の自由結婚に近い風に自ら勝手に娶る嫁くと云ふ約束して、併し彼等自身丈けでは法律上の契約を結ぶことが出來ないから、從弟の所に行つて、吾々は斯う云ふ約束したから結婚の表立つての責任者になつて呉れと云ふやうな時には法律違反の責は男女を主となし主婚は從となるわけで、斯う云ふ規定が唐律には存在するのであります。
 支那の法律では主婚者と云ふものは、殊にそれが親などの場合には、結婚に對して全權力を持つて居ります。結婚の當事者である嫁や、壻と云ふものは、それに對して自分の意見すら主張することが出來ない。若し當人同志に結婚の意思があつても、家の尊長が認めぬ時には、それは法律でも承認しない。斯く權力を持つて居るだけ、若し結婚が法律上不正であると云ふことが判明した時には、主婚者が全責任を負はなければならぬのであります。支那では此の法律違反の結婚と云ふのは幾らもあります。それは一々算へ切れないけれども、家族制度に關係ある重なるものを擧げますると、先づ尤も嚴重なのは同姓結婚を行つてはならぬといふことであります。若し違反したならば前申す通り「各※(二の字点、1-2-22)徒二年」ですから、二年の懲役に處せられる。その刑は誰が受けるかと云ふと、主婚者たる父や母が受けるのでありまして、結婚した二人は無罪であります。
 次にたとへ同姓でなくとも、母方の近しい異姓のものと結婚は禁止されてゐます。例へば母の妹の如く母方の近しい關係の者、斯る者とは結婚出來ないのであります。
 それから第三番目には嘗て自分の五等親の關係にある者の妻であつたものは、それが離縁された後でも迎へることが出來ない。例へば自分の從弟の妻であつたものが、何かの都合で離縁されるとすると、その離縁された女を自分が嫁に取ることは出來ないのであります。此の女が同姓ならば勿論のこと、異姓でも同樣です。之を重婚と云ひ、判れば直ちに離縁させられるのであります。次に詐僞の結婚と云ふのは、支那には隨分多くありますし、日本でも昔は時々行はれたことがあります。長男と次男を取替へたり、養子と實子と取替へたりすることは屡※(二の字点、1-2-22)あつたやうです。表向きは自分の長男の嫁に貰ひますと云うて、實は次男の嫁にしたり、或は自分の實子であると云うて居りながら、實は養子であつたり、或は年齡を隱し、或は健康に就いて嘘があつたりします。支那はああ云ふ國柄ですから、女は一切外に出ませんから、他家の家庭のことは仲々よく知れませぬ。そんなことで結婚の相手たる長男は不具者であつたと云ふやうなことが屡※(二の字点、1-2-22)あります。それ等は詐僞の結婚でありまして、皆無效とせられます。
 次に父母の喪中には絶對に結婚は出來ないこと、是は此前申した通りであります。父母の死後三ヶ年經つて喪が明けてからでなければ無效であります。從つて、もし喪中の結婚が發見されると離縁せしめられます。
 もう一つは夫の喪中にある未亡人を迎へて妻とすることは出來ないといふことであります。支那では法律上女の再婚は許されて居りますが、只三年の喪に服し終つて、義務を果せば再婚しても宜しいが、まだ忌中にある者を娶ることは絶對に出來ないのであります。
 次に其反對に夫が妻を亡くして、その服喪中に後妻を貰へるかどうかと云ふ問題です。元來夫の妻に對する喪は一ヶ年ですから、理屈から云うとそれを平等に考へればその喪中には、後妻が取ることが出來ない筈でありますけれども、その期間内半年、或は八ヶ月經つたと云ふやうな時に貰へば、どうするかと云ふことは法律に何も書いてありませぬ。若し禮の精神から云うたならば、無論許されぬことであります。喪が濟めば當然差支ありません。併し後妻を取る時に、若し先妻の遺子のある場合には三年の後に取るべきものと云ふことになつて居ります。何故かと云ふと、子は父が死んだ場合は三年の喪に服する、母の場合には父が在世して居ると云ふと一年です。併し子から見れば母も亦矢張り親ですから、三年間は矢張り心では喪に服して謹愼を表します。妻を亡くして後妻でも取ると云ふ時には、此の子供のことを考へてやつて、その子の三年の心喪が經つてからでなければ取らぬと云ふことになつて居るのであります。是は法律には書いて居りませぬが、苟くも士君子であるならば、禮に傚つて身を處すべきものでありますから、さう云ふ人は夫としても先妻が亡くなつたら三年經つて後取るのが禮であるとされて居ります。
 その他尚ほ法律違反の事を申しますと、地方長官は自分の管下の人民から妻を迎へることが出來ない。之を迎へると法律違反となります。是は種々の弊害を避けることが目的であります。又、賤民と良民とは互に結婚することが出來ない。平民が平民以外のものと結婚すると離縁されます。
 又父母が罪を犯して牢屋に居る時には、父母からの許しのない間は結婚出來ない。以上の樣な色々の法律違反の結婚の場合に、主婚者が罪になるのであります。

 更に、結婚して夫の家庭に入つてから後の婦人の位置はどうでありませうか。元來女が嫁に行つたのは何の爲めかと云ふと、其所の老いたる父母の世話をすることが尤も重なる仕事でありますから、舅姑に從はなければならぬ。家を出るに際して、兩親から「謹愼從爾舅之言。謹愼從爾姑之言」と言付けられたのであつて、舅姑には絶對に服從しなければならぬのであります。
 支那は男尊女卑の國でありますから、夫婦間に於ては女は夫に絶對に服從しなければなりませぬ。一體支那では女の位置は誠に氣の毒であります。
婦人有三從之義。無專制之道。故未嫁從父。既嫁從夫。夫死從子(『儀禮』喪服傳)。
婦人在家制於父。既嫁制於夫。夫死從長子。婦人不專行。必有從也(『穀梁傳』隱公二年)。
女如也(『白虎通』)。
婦=伏=服也(『説文』)。
 女は如しと云うて男の指圖の如くすれば宜いから、之を如と云ふ。それから婦と云ふのは伏也、服也で、男の指圖通り服從して居れば宜いと云ふのであるから、女の一生は實に氣の毒なものであります。此に女と云ふのは未婚者であつて、婦と云ふのは既婚者です。是は法律上に於て明白に區別して居ります。支那では法律上でも、政府の命令にも、
貞女、貞婦、孝女、孝婦
の四者は皆違ふのであります。貞女と云ふのはまだ結婚しないけれども、一旦夫と定めた人の爲めに操を守つて一生を送ると云ふのを云ふのであります。支那では前述の通り嫁は家の爲めの嫁ですから、早くから約婚して置いて、愈※(二の字点、1-2-22)納徴まで終つてから、未だ親迎しない内に壻が死ぬと云ふやうなことがあつても、他に嫁がぬ者があります。之が貞女であります。
 それから貞婦と云ふのは嫁いでから夫が亡くなつたけれども、よく家を治めて二十年も三十年も節操を完くして通したと云ふ爲めに褒美をもらつたものであります。
 それから孝女と云ふと、もう婚期に達して居りながらも、母一人では氣の毒だと云ふので、自分の家に止まつて一生獨身で親の世話をするの類であります。
 孝婦と云ふのは既に一旦嫁いで、婿が亡くなつてから老いたる舅姑が尚ほ存するので、その世話をよくするもの、例へば二十年も病氣になつて居る舅姑の世話をすると云ふ者を云ふのです。何時も婦と云ふのは既婚者であります。所が女は如なりと云ふので、未婚の時にも服從し、嫁いでも婦は服なりと云ふことで一生頭が上らないわけです。
 婦の字は女字に帚を加へたもので婦は家の中を掃除するものだと云ふのであります。併し妻と云ふのはやや違ひます。妻齊也、與夫同體とありまして妻と云ふものは夫と體を同じくするのですから、夫婦二人向ひ合つた時は女は男に從つて行くが、第三者に向つては、妻は夫と同じ待遇を受けるので、例へば夫が高等官一等であるならば、妻も高等官一等の待遇を受けるのであります。そして家の内の妾とか、下女下男が主人たる夫を毆いた場合も、妻を毆いた場合も、同じ罪を受けるのであります。それで第三者に對しては夫妻は同等の權利を以て立つものでありますが、二人の場合は妻は夫に從ふのであります。
父子一體也。夫妻一體也。故父子首足也。夫妻胖合也(『儀禮』喪服傳)。
と云はれて居りまして、一家を身體と比較するならば、親は首で子は足であります。夫妻胖合と云ふのは、肉體半分づつ右と左の關係であることを云つたものであります。序ででありますから親に對する喪制のことを少し述べますると、
〔周制〕   〔唐制〕   〔明制〕   服制期間
父――――――父――――――親(不分父母)斬衰三年
母(父不在)―母(不分父之存否)┘    齊衰三年
母(父在)  ┘             齊衰一年
 子が親に對する關係は、周制では父と母に對して多少違ひます。併しそれは時代を經るに隨つて改められて、明代以後は父も母も同樣に扱ひます。是は夫妻一體であつて第三者からは同一に取扱はれなければならぬと云ふ主義が徹底して來たのであります。周代には父が死すると子は斬衰三年、母の場合は、父が既に亡くなつて居たならば、遠慮は要らぬのですから、齊衰三年の喪に服します。若し父が尚ほ存命中に、母が先立つて死する時は、子は父に遠慮して、母の爲めに全力を盡して悲しむと云ふことを避けねばならぬと云ふので齊衰一年に服するのであります。然るに唐代に至りまして、これは母に對して輕きに過ぐると云ふので、父の存否を問はず齊衰三年と云ふことに決まりました。明の時には、更に母と雖ども同じく親であるから子としては區別すべき譯でないと云ふので均しく斬衰三年にした。それが明朝から清朝、現在に至るまで適用されて居りまして、民國の今日になつても效力があるのであります。斯く段々變つて來た原因は、夫妻は一體であり第三者からは同一に取扱はれなければならぬと云ふ主義が、徹底して來たのであります。併し此は子が親に對する關係に於て母の地位が認められて、高くなつたのでありますが、夫婦の關係に於ては妻の位置は依然として低くあります。夫は妻に對して齊衰一年、婦は夫に對して斬衰三年であります。若し夫の父母が既に存命せぬならば、夫は妻の爲めに杖期に服しまするが、若し存命して居りまするならば不杖期に服するのであります。
 此に期と云ふのは足かけ十三ヶ月ですから一年であります。其中で夫が自分の妻の爲めに喪に服する期間は齊衰一年であります。併し自分の母が在るか無いかに依つて夫の妻に對する服喪が少し違ひます。父母共に存命せぬ時は、妻の爲めに十分悲しみを現はして宜しいのですから、期の杖と云うて同じく一年の喪を勤めて齊衰の服を付け、葬式の時には杖をつくのであります。若し父又は母が尚ほ存命して居る時分に妻が死するならば、葬式の時に夫は杖をつかないで行かなければなりません。是は能く人情を考へたものであります。
 婦人が嫁いで新たに夫の家庭に入りますと其位置は前述の通り服從の位置に立たなければならぬ。夫の父母は義理の父母であつて自分に對し尊屬ですから、之には服從しなければなりませぬ。又夫に對しても服從しなければなりませぬ。故に若し夫と妻との間に犯罪が起つたり、或は舅、姑と妻との間に犯罪が起つたりすると、それは嫁が親許の家族に在つた時の尊屬と卑屬との關係から想像される通りに、同樣に卑屬の尊屬に對する罪は重く、尊屬から卑屬に對する罪は比較的輕いのであります。一例を擧げて云へば、夫が妻を毆打する時と妻が夫を毆打する時とはその處分は餘程違ひます。妻が夫を毆ぐる時には、普通の血屬の關係の無い同士の場合よりも重く罰する、其反對に夫が妻を毆つた時には、普通の人の場合よりも輕くするのであります。唐律※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律には、
諸毆傷妻者。減凡人二等
とあります。總て夫が妻を毆いて傷をつけた時には、普通の人に對するよりも二等輕く處分する、普通、人を毆ぐると笞四十ですけれども、夫が妻を毆くだけでは罪にならない、毆いて傷を付ける傷と云ふのは血の出た傷である、その場合は普通人間では一番輕いのは杖六十に處するが夫が妻を毆いて血が出た時には笞四十に處する。それから夫が妻を毆いて、手の指を一本折つたといふやうな場合には、普通なれば徒刑一年ですが、此際はそれより二等減ずるのでありますから杖九十に處せられるのであります。
 其反對に妻が夫を毆つた時には徒刑一年、若し毆傷の重きものは普通の毆傷に三等を加へる、毆いただけでも徒刑一年ですから隨分重いといはねばなりません。唐律※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律には、
諸妻毆夫徒一年。若毆傷重者。加※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)傷三等
とあります。普通の犯罪で比較的輕い手の指を傷けるとか或は齒を一本叩き折つたと云ふのは徒刑一年でありますが、妻が夫を毆いて指を傷けて片輪にすると云ふ場合には、それに三等を加ふるのでありますから、徒刑二年半で、餘程重くなります。以上は唐律でありますが、明律の方は少し制裁が之と違ひます、更に詳しく規定が設けてあります。
凡妻毆夫者杖一百。夫願離者聽(須夫自告乃坐)。至折傷以上。各加凡※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)傷三等(明律、刑部、※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)毆門)。
と。此に須夫自告乃坐と云ふのは、夫が警察又は裁判に訴へて來るのを待つて始めて處分することであります。「至折傷以上各……」といふのは、目を潰して片輪にするとかいろいろありますが、折傷以上ならば其輕重に拘らず、一般の普通人同士との※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)傷の場合よりも三等重きを加へるのです。唐律とやや違ふ所は妻が夫を毆く時は、唐律では徒刑一年でありますが、明律では杖一百としてやや輕くして居り、且つ離縁を願ふならば之は許す、といふのであります。若し其反對に夫が妻を毆いた場合は明律、刑部※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟門には、
其夫毆妻非折傷論。至折傷以上凡人二等(須妻自告乃坐)。……夫婦如願離異者。斷罪離異。不離異者。驗罪收贖。
とあります。折傷と云ふのは手の指を折るとか齒を折ると云ふやうな比較的重い傷であります。之は唐律では徒刑一年の罪に處します。明律では折傷以上の罪は普通の人の場合よりも二等を減じて輕くして處分し、且つ妻の自ら告ぐるをまつて乃ち坐するのであります。若し夫婦が喧嘩して、夫が妻を毆き傷を負はし、双方互にお前の如き者は妻とはせぬ、私も貴郎のやうな人と永く一緒になつて居れぬとて合意の上で離縁をすると云ふ時には、罪を處分して離縁を許します。併し喧嘩しても離縁する迄に至らぬ時は、罪に照し合せて、一方は徒刑一年に相當する、他方は杖八十に相當すると云うて傷に依つて罪を按じ、その罪を行はないで罰金だけを取つて夫婦關係を繼續させることもあります。つまり離縁して仕舞ふと云うても夫にも妻にもそれぞれ法律に決めてあるだけの罪を處分してから後離縁させるといふのが原則であります。若し離縁を願はざるものは、それに相當した罰金を徴します。唐律でも明律でも、すべて罪は罰金にすれば幾らに當るかと云ふことが法律で豫め決まつて居りますから、それに依つて處分するのであります。上述の如く、支那の法律は夫から妻に對した罪は普通の人より輕いが、妻から夫に對した罪は尊屬に對するのでありますから幾分重くする、併し妻は上述しました通り夫に對するよりも舅姑に對する嫁でありますから、舅姑に對しては夫に對するより以上に服從しなければならぬ。若し妻が舅姑に對して無禮をしたりするやうなことがあれば、それは夫に對するよりも罪も無論重いのであります。唐律※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律には、
諸妻妾詈夫之祖父母、父母者徒三年(須舅姑告乃坐)。
とあります。妻が夫を詈ると云ふことに就ては、法律に何等載せて居りませぬ。内輪のことで犬も喰はぬことでありますから、一々取上げては仕方ないといふのでありませう。所が嫁が舅姑に惡口云つた時には徒刑三年です。それから又、唐律※(「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1-94-31)訟律には、
〔諸妻〕毆〔夫之祖父母、父母〕者絞。傷者皆斬。
となつて居りまして、毆打した時は、傷を負はせた負はせないに拘らず絞刑に處する。明律の方は更に總て重くなつて居つて嫁が義理ある舅姑に對する場合は實子が父母に對する場合と同じに取扱ふのであります。前述する通り、唐律では妻が夫の父母を詈る時には徒刑三年、子が親を詈る時は絞ですから妻の罪は隨分輕く、夫の祖父母父母を毆くに至つては絞に處せられる事になつてゐます。然るに明律では妻が夫の父母に對するは子が親に對すると同樣ですから詈るものは絞で、毆打すれば斬罪と云ふのでありますから、餘程重くなつて來て居ります。斯くの如く嫁と云ふものは一家族の中で、夫に對しても服從しなければならぬが、舅姑に對しては一層のこと服從せねばならぬのであります。

 次に離縁の問題であります。支那は男尊女卑の國でありますから一見離縁は非常に手輕く行はれるやうに考へる人もありませうが、實際法律上では輕々しく出來るものとはなつて居らぬ、隨分鄭重に考へて居るやうです。離縁するには離縁する理由を具備し、手續を必ず經なければならぬ。若し其手續を履まず理由なしに離縁したならば徒刑一年半に處せられ、其離縁は無效として又元の通り復縁せしめられ、理由なしに三行り半で離縁することは出來ないのであります。離縁の手續と云ふのは律の方にはありませぬが、令の方には戸令に、
娶妻。棄妻。不由。不婚。不棄。
とありまして、妻を娶る時にも、棄てる時でも由るべき所の手續を經なければ、此婚姻は成立したものと認めない。由るべきと云ふのは、父母及一族近親の同意といふことであります。若し父母が存するならば、結婚には必ず先づ其同意を得なければならぬ。それと同樣に離縁をするにも其同意を得なければならぬ。のみならず一族の尊長、例へば伯父、伯母、兄と云ふものの同意をも得なければならぬ。若し同意を得ずに離縁してもそれは無效であります。戸婚律には、
諸妻無七出及義絶之状而出之者。徒一年半。雖七出。有三不去而出之者。杖一百。追還合。若犯惡疾及姦者。不此律
とあります。離縁する理由は種々ありますが、第一は茲に書いてある通り七出と云つて、七ヶ條の妻を離縁して差支ないと云ふ理由があります。その七出と義絶と云ふことであれば離縁して差支ないとされて居ります。元來家族制度の國でありますから、家族との關係如何に依つて離縁も決まるのであります。七出と義絶とは何れも妻と家族との關係から起るもので、總て妻が七出及び義絶の状なきにも拘らず之を出す者は徒一年半に處するのであります。それからたとへ妻が七出を犯しても三不去が有れば、之を出す者は杖一百に處するのみならず、追還合するのであります。離縁して仕舞つてから追つかけて又元の通り復縁させるのが追還合と云ふことであります。七出義絶の状無きに出す時は、無理な離縁として徒刑一年半に處する、又七出の内何れか犯しても離縁される理由はあるが、若し三不去と云うて三つの去るべからざる事情あるに拘らず出すと云ふのは、夫れは無理だと云ふので、たとひ手續を經て離縁しても、官憲が干渉して元の通りに復縁さすのであります。
 此の七出と云ふのは、
(一)舅姑。 (二)子。 (三)淫佚。 (四)※(「女+戸の旧字」、第3水準1-15-76)忌。 (五)惡疾 (六)口舌。 (七)盜竊。
であります。第一の不舅姑と云ふことは、支那の結婚は屡次述べました通り妻を娶ると云ふことは、舅姑なる老いたる父母を養ふ爲めにするので、舅姑の扶養と云ふことが婚姻の目的の一つになつて居ります。それで若し舅姑によく事へないならば婚姻の目的を達することが出來ない。それで舅姑に事へぬと云ふことであれば是は立派に離縁の理由となるのでありまして、是は七出の中でも他の六つより餘程重く見られて居ります。支那では、
婦人學舅姑。不夫(『白虎通』)。
といふ諺があります。婦人は嫁いでからは舅姑が一番大事であるから、それに如何に事ふべきかと云ふことを豫め稽古はするが、夫には如何に務むべきかと云ふことは學ばない。嫁に行く時には、「謹愼從爾舅之言。謹愼從爾姑之言」と教へられるのみである。それで舅姑に事へずと云ふことになればそれは離縁の第一の理由になる譯であります。
『禮記』の中に家庭内の取極めなどを決めてある内則といふ篇に下の樣なことが書いてあります。妻を娶つて非常に其妻が氣に入つた、琴瑟相和すけれども、若し姑の氣に入らぬ時には廟見せずに直ちに離縁しなければならぬ。其反對に、自分には甚だ氣に入らぬが、自分の兩親は、今度の嫁は中々素直な能く吾々に事へて呉れると褒めるを聞かされたならば、壻たるものは自分の感情に基いて妻を嫌つてはならぬ。その妻を無理にでも死に至るまで愛さなければならぬ。自分の感情は、父母の爲めに犧牲にしなければならぬと云ふのであります。此事がどれ程まで支那人間に行はれて居るかは別問題ですが、教の上ではさう云ふ風になつて居るのであります。
 されば此の無理から隨分家庭悲劇の起ることがあります。けれども家の爲めに娶る嫁ですから、舅姑に事へずと云ふことがあれば離縁すると云ふのは已むを得ないとされて居ります。爲焦仲卿妻作と云ふ古詩がありますが、誰が作つたか分りませぬ。東漢時代に焦仲卿と云ふ地方の小役人があつて、自分の妻劉氏と非常に仲がよい。所が不幸にして妻は兩親の氣に入らない。殊に母の意に合はず、隨分氣に入るやうに劉氏が勤めるけれども氣に入らぬ。それが爲め焦仲卿が之を離縁した。併しお互に心は變へまいと云うて離縁しました。その後劉氏はあつちこつちから再婚を勸めて來るけれども承諾しなかつた所が、遂に焦仲卿より遙かに立派な身分の所から貰ひに來まして、劉氏の知らぬ間にその母はそれに承諾を與へて了つた。そこで劉氏は焦仲卿に對する義理もあるし、又親に對しても背く譯に行かぬと云ふので自殺する、それを聞いて焦仲卿は其妻の後を逐うて自殺すると云ふやうなことを詠じた詩であります。此れは家族主義の結婚から出た家庭悲劇の著例であります。互に死ぬ程焦れて居つても、舅姑の氣に入らぬ嫁は支那では離縁しなければならぬとされて居るのであります。
 支那の法律では、舅と夫とが喧嘩する時には必ず嫁は舅の方の手傳をしなければならぬ。姑と夫とが喧嘩する場合にも姑の味方にならなければならぬ。一寸日本では考へ得ぬことでありますが、支那ではさう云ふ例は幾らもあります。夫と姑とが喧嘩したときに、姑の味方をして夫を毆打し、中には殺した場合すらあります。
 其次に無子と云ふのは、單に子無しと云ふのではありません。支那は男系相續ですから女の子が有つても男の子がなければ祖先の後を相續する者が無いことになる。西洋人などが支那のことを批評する時に此の習慣をよく非難します。如何にも餘りよい習慣ではないかも知れませぬ。併し此の習慣の基く所の精神と、その實際の運用の状態とを見ますると、簡單に机上で考へる程弊害はないのであります。
 支那は家族制度第一の國であつて、支那人は祖先の血統を絶やさぬやうに繼續すると云ふことに對して、非常な執着を持つて居ります。孟子も不孝無後爲大と云つて、自分の祖先の祀を絶やすと云ふことが不孝中の不孝として居りまして、儒教の考へでは後の無いと云ふことほど重大問題はないのであります。これをよく考に入れて置きませぬと支那の歴史が分りませぬ。清太祖でも先年退位された宣統帝を見ても後といふことを非常に重大に考へて居られる。支那人が如何に後を大事にするかと云ふ一つの例があります。今から千七百年ほども前ですが、後漢の世に毋丘長と云ふ者が、母に連れられ歩いて居た時に、或る醉漢に逢つて、母に非常な無禮を加へられた。毋丘長は怒心頭より發して此醉漢を殺しました。人を殺したのですから、毋丘長は直ちに捕へられた。親を護らんが爲め人を殺したのですから唐律明律の行はれた世ならば無罪ですが、漢代のことですから、事情の如何に拘らず、死罪に處せられることになりました。其時の地方長官は呉祐と云ふ人で良い地方長官でした。毋丘長を牢屋に入れたが、辱かしめられんとした親を救はんが爲に殺したのでありますから、非常に毋丘長に同情しました。それで毋丘長を愈※(二の字点、1-2-22)死刑に處する前に、「お前は妻があるか」と問うた。所が毋丘長は「妻は貰つたばかりで未だ子供はありませぬ」と答へた。呉祐は甚だ氣の毒に思ひ、もし毋丘長が死ぬと後が無くなり、毋丘長の家の祀りが絶えると考へ、毋丘長を牢屋に入れて居りながら刑の執行を延ばして、妻と同棲させました。すると妻は間もなく牢屋で姙娠しましたので、姙娠した後に始めて毋丘長を死刑に處したのであります。是れは餘程後を大事にすると云ふことを重んじたのであります。愈※(二の字点、1-2-22)毋丘長は死刑を執行される時に、まことに自分も安心した、是で幾分祖先に對して申譯が立つ、祖先の祀が絶たれると云ふことがひたすら心配であつたが、是で安心したと云ふので、生れた子は呉祐のお※[#「广+陰」、U+5ED5、216-5]で生れたのでありますから之を呉生と云ふ名を付けて、然る後刑に就いたと云ふことであります。
 此の後を絶やさないと云ふことが、斯くまで支那人に於ては重んぜられて居るのでありますから、子供が無いと云ふことは、支那人の立場から云へば先祖の祀を永く營むといふ目的を達せぬことになり、又反對に相續人を拵へると云ふことで此の先祖をながく祀るといふ目的が盡きるのです。無論子の無いことは、必ずしも婦人の方にのみ原因がある譯でなく、男子の方にもある場合が少くありませんから、子無ければ去るといふ規定は必ずしもよいことでないか知れませぬが、昔は支那ばかりでない、西洋でもその原因は專ら婦人に在りと考へて、子の無い時は妻を離縁して宜いと云ふ法律はあつたのであります。
 更らに今一つ此に關聯して考へるべきことは、子無きものは去るとして妻を離縁する時に、何歳までに子が無ければ去るのであるか。妻が二十五になつても子が無いとしても、二十八になつてから生むことがあるかも知れませぬ。それで法律では四十九歳迄は子が無いと云ふことを輕々しく斷定してはならぬといふことになつて居ります。唐律戸婚律に、
四十九以下無子。未之。
とあります。四十九までは子無きも未だ出すべからずですから、五十になつて子が無いと始めて一生子が生れ無い婦人であると云ふことになります。五十以上の婦人には子は生まれない、生殖に於て缺くる所があると云ふことは周代からの令で、唐律で四十九以下無子と云ふのは此の精神を其儘傳へたものであります。妻が五十になれば、夫も餘程年を取つて居ます。若し十違ひであつたならば六十歳ですから、六十歳になつてから更に再婚でもありますまいから、此通り行ふならば、五十になつてから愈※(二の字点、1-2-22)子が無いからと云つて新しい妻を娶ると云ふことは實際に於て行はれないことであります。明の時代になりますると、妻が四十になる迄は子無しといふ理由で出すことは出來ない、四十になつて子が無ければ出しても宜いし又妾を置いても宜いと云ふことであります。未だ四十ならざるに妻を出したり、妾を置くことは不都合だと云ふことになつて居るのであります。故に妻が未だ三十になるかならぬ時に子が無いからとて去ると云ふことは、支那の何れの時代の法律でも容認して居りませぬ。そんな離婚は法律上無效であつて、離縁した夫は罪を受けなければならぬのであります。
 尚ほ實際状態に就いて云ひますと、支那では法律上は兔も角も、身分ある者は公然妾を置いて居ります。又身分の低い者でも金さへあれば幾らも妾を置いて居るのであります。若し妾に子が生れるとすると本妻に男系がなければ當然妾腹の男子に相續させるのであります。故に支那では子が無いからと云うて出すと云ふことは事實上行はれて居りませぬ。子無きものは去ると云ふことは、七出の上から見て隨分無理な規定のやうに思はれまするが、併し此の法律の精神は、婚姻の目的は子を得ると云ふことに在りとして決めた條項であることは十分了解出來ます。併し實際は法律では五十迄或は四十迄とありましても無理に此條項を實行しようと云ふのでなく、又前述の通り實際支那人は蓄妾を公けに認めて居り、たとへ公けに認めないにしても金の有る者は妾を置いて居つて子無きものは去ると云ふことは滅多にないのでありますから、其條項は側で心配する程弊害はないのであります。
 其次に淫佚と云ひますると是は姦通罪のことであります。云ふ迄もなく此を犯すと離縁になります。七出の中でも不舅姑と云ふことと此淫佚と云ふことは一番重いのでありますが、是は説明は要らぬと思ひます。
 其次の※(「女+戸の旧字」、第3水準1-15-76)忌、嫉妬の範圍に就て、どの邊迄を嫉妬とすると云ふことは甚だ疑問であります。支那人の間では祖先の祀を繼續する爲めに子孫を繁殖さすと云ふことが、祖先に對する尤も重なる孝行の一つになつて居りますから、此に關連して蓄妾と云ふ風が昔からあり、社會上必要なもののやうに考へられて居ります。所が蓄妾の結果本妻が餘り嫉妬すると家庭の平和が破れる、だから本妻は決して蓄妾しても嫉妬してはならぬと云ふことは家庭の立場から起つて來る道徳となつて居ります。身分の有る人、殊に天子などは澤山の妾を蓄へます。周代の文獻を見ますると天子は三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一女御、合せて百三十人も妾を置くと云ふことが許されて居るのであります。支那では後世でも身分有る者が妾を蓄ふることを政府も認めて居つて、親任官ならば何人置く、勅任官ならば何人、奏任官ならば何人と云ふやうに決めてあります。果して其の規則通り實行されたものかどうかは疑問でありますが、隨分澤山蓄へたもののやうです。今日でも澤山蓄へておるやうで第二夫人、第三夫人と呼んで居るのであります。それで天子や貴族などの中には子供を澤山産むやうで、とても日本人などの考へられない處であります。明太祖は、その夫人は中々賢明で、太祖も怖がつて居つた位ですから餘り女道樂をしなかつたやうですが、それでも男二十六人、女十六人、合計四十二人といふ澤山の子持でありました。清聖祖は男三十五人、女二十人、合計五十五人の子持であります。是は無論妾を澤山置いた結果で、もし本人が心身虚弱であつたならばとてもいけませぬ。どうも始めて國を興すやうな人は皆立派な身體を持つて居つて精力も旺盛ですから子供を何十人も産むものと見えます。歴代の天子を見ましても、開國期の豪傑の天子は多く子を産むやうで清朝に於ける聖祖はその著例ですが、それが衰滅期になると、漸々に弱くなつて來て子供の生れることが少くなります。これは生物學上の法則で、酒色に浸つて居る中に身體が衰へて遂に又革命が起つて倒される。英雄が出來れば澤山子供が出來るが、驕るもの久しからずで二百年も三百年も經てば繼嗣問題で倒れて了ふやうになる。開國の始には子供が澤山でその處置に苦心をして、後になれば相續人を搜すのに心配するといふやうになります。斯く妾を無制限に置くと云ふことは、社會問題として色々な方面に影響を與へるやうでありますが、善惡は兔も角支那では妾を置くと云ふことは當然の事實となつて居るのであります。
 支那では生活の困難なものは女の子は幼い中に殺し、男の子は殺さないといふ習慣があります。恐らく世界の中で支那ほど子殺しの多い國はないと思はれます。女の子は生れたのをその儘池に入れたり、或は鼻に濡れ紙を貼つたりして殺します。それで支那は女不足の社會を現出して居ります。そこへ持つて來て有力者が妾を持つて居るから益※(二の字点、1-2-22)無産者は結婚することが出來ない。貧乏人は獨身で生活しなければならぬ。此のことは私の曾て發表した「支那の人口問題」(本全集第一卷所收)と云ふ論文の中にも論じて置きました。
 それから支那は饑饉が非常に多い國であります。近頃北京附近にも起るだらうと云ふことが新聞にありました。歴史を見ますれば支那は二年に一遍位は大なり小なり饑饉があり、十年か五年目には必ず大饑饉があるやうです、その大饑饉はとても日本などでは想像の出來ない程悲慘なもので、多數の人が餓死します。此の饑饉と云ふものは殆ど一定の時を決めて起ります。それを豫防する方法を研究した人の云ふ所では、一つは水源を涵養することであるさうです。支那では山の木を大概伐り倒します。支那人は極端ですから木を伐るばかりでなく木の根まで掘つてそれを薪木にするのです。殊に北支那には赤裸の山といふのが非常に多いのですから、水の分配と云ふことがうまく行きませぬ。それからもう一つは支那人は早婚で、十五六歳位から結婚して居つて、且つ蓄妾を制限しないから子供を澤山産む、つまり子供を餘り澤山産まぬやうにすると云ふことと水源を涵養するといふこと、此二つを實行しなければ饑饉をとても徹底的に退治することは出來ぬといふことを Donovan と云ふ米人の『支那饑饉の原因』と云ふ本の中に書いてあります。支那人は日本などの支那研究などに對してよく文化侵略とか何とか云つて、罷めて貰はうと云ふのでありますが、饑饉のときには皆餘所から救つて貰はなければ死んで了ふと云ふ状態です。支那の饑饉の時にはアメリカでも日本でも義捐金を出して救濟を援けてやつて居り、又それを貰つて平氣な顏をして居りながら、一方では文化侵略だなど云うて居るのは矛盾です。もう少し國内の饑饉のこと、それは偶然の事ならば兔も角五年か十年には必ず起るといふことが判つて居るのですから、自ら之に備へなければならぬと思ひます。
 餘談はさて置き支那では天子を始め多少身分ある人は何れも蓄妾をしますから、本妻が餘り嫉妬すれば家庭に風波が絶えぬ譯です。支那では昔から賢母良妻の第一の資格は嫉妬しないことであるとされて居ります。
婦人之美。無妬(司馬光)。
婦人不妬。足以掩百拙(謝肇※(「さんずい+制」、第3水準1-86-84))。
といふ語がある位であります。婦人にして嫉妬しないと云ふ一徳があれば、外にどんな缺點があつても結構であると云ふやうに、支那人は婦人に對して不妬と云ふことを非常な美徳と認めて居ります。支那で理想の良妻と認められて居る人に楚莊王夫人樊姫、後漢明帝馬皇后の二人があります。是等の婦人は嫉妬を忘れて自分の夫の爲に然るべき妾を各地に亙つて探し、之を夫に授けて子供を澤山生ましむるに努力したと云ふことに基くのであります。數年前に日本に來て居りました辜鴻銘と云ふ學者の本には此の二人は支那夫人の典型だと云ふことを書いて、支那の男子は蓄妾を行ふが支那の婦人は嫉妬をしない。是は何千年來養はれた支那夫人の美徳であると云うて居ります。併し支那の婦人だつて、無暗に沒我的に感情を殺すと云ふ譯にいかぬ。多勢の妾があれば、其間に嫉妬すると云ふことも免れず、又婦人として當然であつて、論より證據、嫉妬と云ふ字は皆女篇であります[#「女篇であります」はママ]。嫉妬しないことは女の典型であるかも知れませんが、文字を造る時から女が嫉妬して居つたことは確であります。東晉の謝安と云へば當時の名宰相でありますが、此人は※(「さんずい+肥」、第3水準1-86-85)水の戰で百萬の敵を破つた時にも平氣で碁を打つてゐたと云ふ位の人でありますが、その夫人の劉氏は仲々しつかり者で、謝安は劉氏に遠慮して妾を置くことが出來なかつたのであります。それを謝安の弟とか或は從弟とかが、どうも兄貴は氣の毒だ。殊にあれだけの身分になつて、大臣ともあらう者が、遠慮して妾を置かぬと云ふことでは第一家の體裁が惡いと云うて、遂に劉婦人を説諭しようぢやないかと云ふことに決まり、比較的口の利く者が代表になつて劉夫人を説得に出掛け、何かの話の序でに、周南螽斯篇のことを云ひ出しました。螽斯篇とは蝗のことを題目にして、一夜の内に子供を澤山産んで繁昌して居ると云ふことを詠つたものであります。そこで劉夫人に妾を置くことを許して貰ひたいと云ふ所から、螽斯篇をお讀みになりましたかと尋ねましたら、劉氏はしつかり者ですから直ぐ覺つたのでありませう。能くは知つて居りませぬが、あれはどう云ふことが書いてあつたのかと訊ねました。そこであれは子供を澤山産めば繁昌すると云ふことを詠じたもので、それには妾が澤山居なければ子供を産まぬ。妾が澤山あつて子供が澤山あればよいのですと答へました。劉夫人は、あの螽斯と云ふ詩は誰が作つたのかと尋ねましたので、それは聖人の中の聖人である周公が作つたので、決して間違ひがないと云うた。所が劉夫人はたとへ聖人と云うても男には女の心が判るものでない。男だからそんな詩を作るので、女だつたらそんな詩は作らぬと答へましたので、其連中もぎやふんと參つて了つたと云ふ話しです。是は實に千古の名言であります。幾ら賢い人でも、馬皇后の如く沒我的に感情を殺すと云ふことは仲々出來難い。支那には隨分婦人の嫉妬のことを書いた書物がありますが、是は當然のことであります。併し善惡は別として、支那の實際社會はさう云ふ風になつて居るのであります。
 其の次に惡疾と云ふのは癩病のことであります。貰つた時には少しも分らなかつたが、此病氣は家の血統を惡くすると云ふ恐れもありますし、又癩病でありますならば、夫と共に宗廟の祀をする時に穢れると云ふ恐れもありますから、七出の中に入れたのでありませう。此惡疾と云ふことは唐律には書いてありますが、明以後は餘り重きを置かぬやうになりました。
 其次に口舌と云ふのは、或は多言とも云ひます。支那では家族の中では多勢同居致します。或はさうでなく、別居して居つても親戚間の交通は非常に多いのであります。其時に婦人が餘り物事に出しや張ると互の感情を害するから、お喋舌りをし過ぎて平和を破るやうなことがあればそれは離縁の原因になります。明初の鄭濂の一家は三千人も同居して居つたと云ふ大家族ですが、此人に明の天子が、お前は能く一家和合して居るが、その和合の祕訣は何處にあるかと云うて問ひました。處が鄭濂は即座に「護守祖訓。不婦言」と答へたと云はれて居ります。婦人が一家の中で喋舌べることは平和を破る因でありますから、家族の平和を維持する爲めに斯う云ふ條項を加へて居るのであります。
 最後に盜竊ですが、是は其行爲其ものが惡い。殊に支那のやうな家族制度の行はれる所で、多勢の者が同居して居つたり或は近くの所で互に頻繁に往來する時には、盜竊は其行爲が惡いのみならず、平和を破る原因をなしますから、是が離縁の原因になるのは當然であります。
 此の七出と云ふことは經書にも無いことで、恐らく戰國の末か漢の始め頃から起つたことでありませう。必ずしも儒教と伴つた主張ではありませぬ。寧ろその後の習慣と云ふべきであります。實際に就て言ひますと、此中で舅姑に事へずと云ふことと、第三番目の姦通が尤もよく行はれて居る處で、其外は必ずしも之に依つて出すと云ふことがない。又七出と云うても出さねばならぬ義務と云うて居るのではありませぬ。出しても宜いと云ふ權利を認めて居るだけでありますから、もし夫がその必要を認めなければそれまでであります。夫が出したければ出し得る口實になるのみで、必ず出さなければならぬと云ふのでないのであります。

 三不去と云ふのは、
(一)持舅姑之喪
(二)娶時賤後貴。
(三)受無歸。
の三つであります。此の三つの事情がある時には妻を出すことは出來ないのであります。第一の經持舅姑之喪と云ふのは、嫁が舅姑の死水を取り、三年の喪に服し終つたことです。經持と云ふのは三年父母の喪を經たことでありますから、是は舅姑に事へると云ふことから考へて遺憾のない妻であります。それを出すと云ふことは遠慮しなければならぬので、孝道の上から出すことが出來ないのであります。
 第二の娶時賤後貴と云ひますと、結婚當時は貧困であつたのを夫婦共稼ぎして、後に出世した時に、其妻を出すと云ふことは、遠慮しなければならぬ。たとへその妻に缺點があつても大抵の事は見逃がさなければならぬと云ふのです。是等は餘程人情を穿つた規定でありまして、後に貴くなつたならば糟糠の妻は大抵のことは大目に見逃がして七出があつても離縁することがならぬのであります。
 第三に有受無歸と云ふのは、貰ふ時には里方があつたけれども、今は里方が無くなつて居る場合で、里方へ歸せば親は既に死し、兄弟も既になく、叔父、叔母もないと云ふならば、此れを去るといふのは路頭に迷はすことになるから是はどうしても出すことが出來ないのであります。是は餘程人情に即したものと云はねばなりません。
 最後に義絶と云ふことが一つ殘つて居ります。義絶と云ふのは七出とは違つて、此れを犯すと大分重い罪に處せられます。唐律戸婚律には、
諸犯義絶者離之。違者徒一年。
〔疏議〕坐離者。若兩不離。即以造意首。隨從者處從。
とあります。七出の方は離縁をする權利を認めたもので、その義務を負はせるのが目的ではない。義絶になるとさうではなく、必ず離縁しなければならぬといふ義務を負はすことになるのであります。義絶と云ふことは、妻の家と夫の家とが不和を生じ、仇敵のやうになり和合することが出來ないことがあります。さう云ふ時には致し方がないから離別しなければならぬ。
 之を詳しく云ふと、種々の事情がありますが、極く概説すると第一は夫妻の身内に關する場合であります。例へば妻たり夫たる者の祖父母とか父母或は伯叔父母とか兄弟といふ極く近親な者が互に殺し合つたり斬り合つたりすることがある。夫の弟が妻の里方の兄の所に斬込んで行つて殺したりするやうな場合には兩家は到底和合しない。
 第二は夫毆妻祖父母、父母及殺妻外祖父母、伯叔父母した場合で、夫が妻の祖父母、父母を毆打するとか妻の尊屬を毆くとか、乃至は妻の外祖父母或は伯叔父母或は兄弟を殺すやうな場合、
 第三は妻毆詈夫祖父母、父母及殺傷夫祖父母、伯叔父母した場合、
 第四は妻欲夫者した場合であります。妻の方が夫の祖父母父母を毆いたり或は詈言したりするのです。男女を比較すれば、片方の夫の方では殺す、妻の方は傷付けること、又夫の祖父母や伯叔父母や兄弟※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、225-4]妹などを妻の方が傷付けること、是等が何れも義絶になるのであります。又妻が夫を害せんと決心すれば未だ實行に及ばずとも其意思を現はせば義絶となります。義絶といふのは斯う云ふ風に元々義を以て合する間柄を絶つことでありまして、親子は天合ですが夫婦は義合でありますから、その關係は離絶しなければならぬので、此の際に離縁せぬものがあればそれは罪になるのであります。壻の家と嫁の家とが喧嘩して居るにも拘らず、二人は仲がよくて離れないと云ふならば、兩方共法律上罪になります。其時に云ひ出した者を徒刑一年、それに同意した方は從犯として取扱ひ、それより二等減じ、兔に角罪に處すると云ふことになつて居るのであります。是等も家族制度が婚姻の根柢を支配して居る一つの有力な證據であります。

 以上大體今日迄五日間お話をしたことになりますが、時間の都合などで充分思ふだけのことが言へませんでしたが、古代法律の大要は話した積りであります。概括して云ひますると、「古代の法律」と題しましたが、古代法律の中でも家族主義が最も重く見られて居る點をお話致しました。支那の家族制度には無論弊害はあり、云はば一利一害であると思ひます。殊に支那人にはややもすれば中正といふことを忘れて極端に趨る國民性がありますから、實際支那に行はれて居る家族制度には弊害は少くないのであります。が併し斯る弊害の點は別としまして、極めて概括して考へて見まするならば、家族主義と云ふものは古來から主として東洋の諸國に行はれた所のものであつて、個人主義は西洋に行はれて來ました。是は極めて大雜把な言方ではあるが大した間違はないと思ひます。東洋は東洋で、西洋は西洋であつて、兩者の間、傳統も違へば精神も違ふのでありますから、東洋の今迄行はれた家族制度や家族主義を、何も今日西洋の個人主義に改めなければならぬと云ふ必要はないと思ひます。ただ弊害は矯正して行かなければならぬのは勿論であります。
 抑も日本の國體は家族主義を基礎としたのでありまして、日本は君父一體であります。吾々の仰ぐ陛下は、同時に大和民族と云ふ大きな家族の家長であらせられる。君父一體、忠孝一本が我が國體でありますから、さう云ふ國柄であることを考へると、其基礎をなす家族主義と云ふものは、是非とも維持して行かなければなりませぬ。その弊害は然るべく時代に應じて改めて行かなければならぬのであります。
 日本では昔から忠孝と竝び稱せられて居りましたが、忠道の方は維新以後今日迄幸にして餘り變りなく發達して來ましたが、それに比較すると孝道の方は一年々々衰微して行くやうに思はれます。是は家族だけの問題ではなく、國體の上から見ても餘り無關心に經過すべきことでないと思ひます。孝道は是非維持しなければならぬ。孝道は家族主義の核心であります。家族主義は日本の國體の基礎をなして居るのであります。所が今も云ふ通りどうも孝道と云ふものは近來非常に振ひませぬ。近頃親殺しと云ふやうな者は少からず出ますが、然るに世の教育家、政治家、社會評論家と云ふものは、之に對して餘りに注意して居らぬやうです。今少しく孝道を發揮して家族主義を維持して行かなければならぬと思ひます。此に關して近頃の例は幾らもあります。丁度一月程も前の新聞に載つて居りましたが、岡山縣の津山の在に起つた事件であります。大正十三年の頃にある家の父とその子とが喧嘩した、父は隨分酒癖が惡くて、酒を呑むと云ふと必ず子を叱り付ける、其時も、父は酒に醉拂つて子供と喧嘩して、子に對して出て行けと云うた所が、子の方は非常に腹を立てて七輪か何かを父に投付け、その當り所が惡かつたのでお父さんが死んで了ひました。それを病氣で死んだ樣にかくして居つたのが漸く此頃になつて暴露しました。それが裁判沙汰になつて、第一審も第二審も判決は懲役五年に處すると云ふことであります。所が控訴院の檢事は之を不當なりとして大審院に訴へました。その理由は成る程七輪を投付けたけれども、始めから殺す意思であつたのではない。つまり不幸にも當り所が惡くて死んだのである。それに父は傷を受けながらも死ぬる時には、自分の子が七輪を投付けた其罪を許して居るし、それから子自身も親に對して濟まなかつたと云つて命日には必ず墓參りをして居つて、云はばもう心を改めて居るのである。それ程心の改まつた者を罪に處するに當るまいと云ふので裁判をやり直ほせと云ふのであります。まだ其判決はないやうでありますが、此等の言説の中には餘程親殺しなどと云ふことは、昔から見れば輕く見て居る氣分の存することを知るのであつて、たとへ初めから殺すつもりでなかつたにしても、七輪を投付けそれが爲めに死んだならば無論當然罪になるべきで、昔ならば是が非でも死刑は當然であります。もう悔悟して居るからと云ふやうな理由で許さるべきではないのです。斯ることは社會教育にも、風紀にも重大なる關係あることであり、宗教にも關係あることでありますから、只の人殺しと同一視すべきではないのであります。日本では忠義と孝道とは全然一緒に出來ぬにしても、もう少し孝行と云ふものを重く考へるべきで、先に述べた罪人の如きは當然懲役五年であつて始めの裁判の判決で宜しい。大審院なども當然その判決を承認せねばならぬと私は思ひます。私の講演は是で終ります。
(昭和四年、京都帝國大學第二十囘夏季講演會講演筆記)

底本:「桑原隲蔵全集 第三卷」岩波書店
   1968(昭和43)年4月30日発行
底本の親本:「支那法制史論叢」弘文堂
   1935(昭和10)年10月10日
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2012年5月31日作成
2012年9月7日修正
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