私には信光のぶみつというたった一人の弟があった。鹿児島の平の馬場で生れた此弟が四つの年(その時は大垣にいた)の御月見の際女中が誤って三階のてすりから落し前額に四針も縫う様な大怪我をさせた上、かよわい体を大地に叩き付けた為め心臓を打ったのが原因でとうとう病身になってしまった。弟の全身には夏も冬も蚤の喰った痕の様な紫色のブチブチが出来、癇癪が非常に強くなって泣く度に歯の間から薄い水の様な血がにじみ出た。私達の髪をむしった。だけども其他の時にはほんとに聡明な優し味をもった誰にでも愛され易い好い子であった。五人の兄妹の一番すそではあったし厳格な父も信光だけは非常に愛していた。家中の者も皆此の病身ないじらしい弟をよく愛しいたわってやった。弟は私が一番好きであった。病気が非常に悪い時でも私が学校から帰るのを待ちかねていて「おしゃしゃんおしゃしゃん」と嬉しがって、其日学校で習って来た唱歌や本のお咄を聞くのを何より楽しみにしていた。鳳仙花をちぎって指を染めたり、芭蕉の花のあまい汁をすったりする事も大概弟と一処であった。
 父が特命で琉球から又更に遠い、新領土に行かなければならなくなったのは明治三十年の五月末であったろうと思う。最初台湾行の命令が来た時、この病身な弟を長途の船や不便な旅路に苦しませる事の危険を父母共に案じ母は居残る事に九分九厘迄きめたのであったが信光の主治医が「御気の毒だけど坊ちゃんの御病気は内地にいらしても半年とは保つまい。万一の場合御両親共お揃いになっていらした方が」との言葉に動かされたのと、一つには父は脳病が持病で、馴れぬ熱い土地へ孤りで行ってもし突然の事でも起ってはと云う母の少からぬ心痛もあり結局母はすべてのものを擲って父の為めに新開島へ渡る事に決心したのであった。小中学校さえもない土地へ行くのである為め長兄は鹿児島の造士館へ、次兄は今迄通り沖縄の中学へ残して出立する事になった。勿論新領土行きの為め父の官職や物質上の待遇は大変よくなったわけで、大勢の男女子をかかえて一家を支えて行く上からは父母の行くべき道は苦しくともこの道を執らなくてはならなかったに違いない。私の母は非常にしっかりした行届いた婦人であったが、母たる悲しみと妻たる務めとの為めに千々に心を砕きつつあった。その苦痛は今尚お私をして記憶せしめる程深刻な苦しみであったのである。
 八重山丸とか云う汽船に父母、姉、私、病弟、この五人が乗り込んで沖縄を発つ日は、この島特有の湿気と霧との多い曇り日であった。南へ下る私共の船と、鹿児島へ去る長兄を乗せた船とは殆ど同時刻に出帆すべく灰色の波に太い煤煙を吐いていた。次兄はたった孤りぼっち此島に居残るのである。
 送られる人、送る人、骨肉三ヶ所にちりぢりばらばらになるのである。二人の兄の為めには此日が実に病弟を見る最後の日であった。新領土と言えば人喰い鬼が横行している様におもわれている頃だったので、見送りに来た多数の人々も皆しんから別れを惜しんでくださった。船が碇を巻き上げ、小舟の次兄の姿が次第次第に小さく成って行く時、幼い私や弟は泣き出した……
 真夜中船が八重山沖を過ぎる頃は弟の病状も険悪になって来た。その上船火事が起って大騒ぎだった。大洋上に出た船、而かも真夜中のくらい潮の中で船火事などの起った場合の心細さ絶望的な悲しみは到底筆につくしがたい。
 ジャンジャンなる警鐘の中にいて、病弟をしっかり抱いた母はすこしも取り乱した様もなく、色を失った姉と私とを膝下にまねきよせて、一心に神仏を祷っているらしかった。
 が幸いに火事は或る一室の天井やベッドを焦したのみで大事に至らず、病弟の容体も折合って、三昼夜半の後には新領土の一角へついたのである。淋しい山に取かこまれた港は基隆キールン名物の濛雨におおわれて淡く、陸地にこがれて来た私達の眼前に展開され、支那のジャンクは竜頭を統べて八重山丸の舷側へ漕いで来た。
 今から二十何年前のキールンの町々は誠に淋しいじめじめした灰色の町であった。とうとうこんな遠い、離れ島に来てしまったと云う心地の中に、三昼夜半の恐ろしい大洋を乗りすてて、やっと目的の島へ辿り着いたという不安ながらも一種の喜びにみたされて上陸した私達は只子供心にも珍らしい許りであったが、これからはなおさら困難な道を取って、島内深くまだまだ入らなくてはならなかった。
 基隆の町で弟は汽車の玩具がほしいと言い出して聞かなかった。父と母とは雨のしょぼしょぼ降る町を負ぶって大基隆迄も探しに行ったが見当らず、遂に或店の棚の隅に、ほこりまみれになって売れずに只一つ残っている汽車のおもちゃを、負っている弟がめばしこく見つけ、それでやっと機嫌を直した事を覚えている。
 基隆から再び船にのって、澎湖島を経て台南へ上陸したのであるが、澎湖島から台南迄の海路は有名の風の悪いところで此間を幾度となく引返し遂々澎湖島に十日以上滞在してしまった。澎湖島では毎日上陸して千人塚を見物し名物の西瓜を買って船へ帰ったりした。漸くの思いで台中港へ着き、河を遡って台南の税関へついた。そこで始めて日本人の税関長からあたたかい歓迎をうけ西洋料理の御馳走をうけたりパイナップルを食べたりした。心配した弟の体も却って旅馴れたせいか変った様子もなく頗る元気であった。
 台南から目的地の嘉義県庁迄はまだ陸路を取って大分這入らねばならなかった。困難はそこからいよいよ始まった。汽車は勿論なし土匪は至るところに蜂起しつつあった物騒な時代で、沢山な荷物とかよわい女子供許りを連れて愈々危地へ入って行く父の苦心は如何許りで有ったろうか。私たちは土人の駕籠に乗せられて、五里ゆき三里行き村のあるところに行っては泊り朝早く出て陽のある中に城下へ辿りつくという風に様々な危ない旅をしたのであった。ある時には青田の続いた中をトロで走り、或時は一里も二里も水のない石許りのかわいたかわらを追っかけられる様に急ぎ、又時には強い色の芥子畑や、わたの様な花の咲く村を土人の子供に囃されつつ過ぎた事もあり、行っても行っても、今の様な磧の(或場所の石を積み上げてあるところなどは土匪でも隠れてはしないかと危ぶみ怖れつつ)果てに雲の峰が尽きず村も三里も五里もない様な処もあった。或時には豪雨で橋の落ちた河へ行きあわせた事もあった。両岸には奔流を空しく眺めている日本人や土人が沢山いた。郵便夫もいた。父は裸になって河をあっちこち泳いで深さを極め、私共は一人一人駕籠かきの土人に負さって矢の様に早い河を渡してもらう事もあった。奔流に足を取られまいとして、底の石を探り探り歩む土人の足が危うく辷りかけてヒヤリとした事も一度や二度ではない。竹藪の中の荒壁のままの宿屋(村で一軒しかない日本人の宿)に侘びしく寝た夜もあった。丁度新竹から先は都合よく嘉義へ行く軍隊と途中から一処になったので夜も昼も軍隊と前後して、割合危険少なく幾多の困難を忍んで漸く嘉義についたのは七月の初旬であった。
 やれやれと思うまもなく長途の困難な旅に苦しめられた弟はどっと寝付いて終ったのである。日本人といっても数える程しかなくやっと県庁所在地というのみで上級の官吏では家族を連れているのは私共一家のみという有様だったので、私共は県庁の内の家に這入り病弟は母が付添って市の外れの淋しい病院へ入れられた。そこはもと廟か何かのあとで、領台当時野戦病院にしてあったのを当り前の病院に使っているので軍医上り許りであったし外には医師も病院もなかった。煉瓦で厚く積まれた病院の壁は、砲弾の痕もあり、くずれたところもあり、病室と言っても、只の土間に粗末な土人の竹の寝台をどの間も平等に、おかれてある許り、廊下もなくよその病人の寝ている幾つもの室を通って一番奥の室が弟の特別室であった。隣室には中年増の淪落の女らしいのが青い顔をして一人寝ていた。弟の室の裏手の庭は草が丈高くはえて入口には扉も何もなく、くずれかけた様な高い煉瓦塀には蔓草が這いまわり隣りの土人の家の大樹が陰鬱な影を落していた。院長などは非常に一生懸命尽して下さった。弟の身動きする度ギーギーなる竹の寝台を母はいたましがった。弟は台南で食べた西洋料理を思い出してしきりにほしがった。馴れぬ七月中ばの熱帯国の事故、只々氷をほしがった。枕元の金盥には重湯おもゆとソップを水にひやしてあったが水は何度取り替えてもじきなまぬる湯の様になる。信光は母のすすめる重湯を嫌って
 みずう、みずう
と冷たいもの許りほしがった。この離れ島へ遠く死にに連れて来た様に思われる病人の為め出来る丈の事をしてやり度いと思っても金の山を積んでもここでは仕方がなかった。父は台南へむけ電報で氷を何十斤か何でも非常に沢山注文した。知事さんのコックに頼んで西洋料理を作らせた。其時許りは弟も非常に悦んだらしいけど、「のぶやお上り?」と聞いた母に、只うんと二三度うなずいた丈けで、力ない目にじっと洋食の皿をみつめたまま、
 あとで。と目をつぶってしまった。小さな体はいたいたしく痩せおとろえて、薬ももう呑んでも呑まなくてもよい様な頼みすくない容体に刻一刻おちていった。母は夜も一目も寝ず帯もとかず看護した。のぶは体を方々いたがった。母がま夜中に、このあわれな神経のたかぶった病児の寝付かぬのを静かになでつつ
 信や、くるしいかい?
と聞くと
 うん。苦痛をはげしく訴えず只静かにうなずく。
 じき直りますよ。直ったらあの嘉義ここへ来る途中の田の中にいた白鷺を取って上げますからね。と慰めると
 うん。とまた。その頃はもう衰弱がはげしくて、口をきくのも大儀げであったがしっかり返事していたそうである。子供心にも直り度かったと見えて死ぬ迄薬丈けは厭やといわずよく呑んだ。体温器も病気馴れた子でひとりでわきの下に挟んでいた。夕方になると、土人の家の樹に啼く梟の声は脅かす様な陰鬱の叫びを、此廃居にひとしいガラン堂の病院にひびかせ、その声は筒抜けに向うの城壁にこだまを返して異境に病む人々の悲しみをそそった。
 病苦で夢中というよりも死ぬ迄精神のたしかであった弟は、この夕方の梟の声を大層淋しがった。見も知らぬ土地に来てすぐ侘しい病室に臥した弟は只父母をたより、姉をたより、私をたより、二人の兄達を思いつつ身も魂も日一日と、死の神の手におさめられようとして、何の抵抗もし得ず、尚お骨肉の愛惜にすがり、慈母の腕に抱かれる事を、唯一の慰めとしているのであった。不慮の災いからして遂に夭折すべき運命にとらわれてしまった不幸な弟、いたわしいこの小さな魂の所有者が我儘も病苦もさして訴えず、ギーギー鳴る竹の寝台に横たわっているのを見て、母はにじみ出る涙をかくしつつ弟を慰め、一日を十年の様な心持で愛撫しいとおしみつつ最後の日に近づいてゆくのであった。父は昼は病院から出勤し、夜は又病院で寝る為め私と姉とは淋しい県庁の中の家に召使とたった三人毎夜寝ていた。昼はムクの木の下に姉と行って木の実をひろい、淋しい時には姉と病院の方を眺めて歌をうたっていた。私の歯はその頃丁度ぬけ替る時で、グラグラに動いている歯が何本もあった。一生けんめい揺すっていた歯がガクリとわけなく抜けた或朝だった。病院から姉と私に早く来いとむかいが来た。
 二三日前に、弟の厭やがり父母もどうせ死ぬものならといやがっていた、歯の根の膿みを持ったところを院長が切開したところが、いつ迄も出血が止らず、のぶは力ない声で、
 いやあ、いやあ、切るのいやあ。
と泣いていたがとうとう死ぬ迄水の様な血が止らなかった。前日私の行った時はそれでも、私を喜んで大きく眼をあけていた。弟の病気が重いとは知りつつも死を予期しなかった私達は胸をドキドキさせてかけつけた。やっと間にあった。院長も外の軍医も皆枕元に立っていた。「それ二人とも水をおあげ」と母が出した末期の水を、夢中でのぶの唇にしめしてやった。何とも書きつくせぬ沈黙の中に、骨肉の四人の者は、次第にうわずりゆく弟の上瞼と、ハッハッハッと、幽かに外へのみつく息を見守っていた。母は静かに瞼をなでおろしてやった……
 のぶさん※(感嘆符二つ、1-8-75) 苦しくない様に、寝られるお棺にして上げるわ。
 私は、叫んだ。今迄の沈黙はせきを切って落とした様に破られて、すすり泣きの声が起った。
 その時八つだった私の胸に之程大きく深く刻まれた悲しみはなかった。声いっぱい私は泣いた。
 淋しいふくろが土人の家の樹で啼いていた。其の日の夕方しめやかに遺骸の柩を守って私共は県庁の官舎へ帰って来た。其当時の嘉義にはまだ本願寺の布教僧が只一人いるのみであった。十日間の病苦におもやせてはいたが信のかおにはどこか稚らしい可愛い俤が残って、大人の死の様に怖い、いやな隈はすこしもなく、蝋燭を灯して湯灌ゆかん経帷子きょうかたびらをきせると死んだ子の様にはなく、またしてもこの小さい魂の飛び去った遺骸を悼たんだのであった。棺は私達の希望した寝棺は出来ないで、座る様に出来ていた。
 お葬式は県庁の広庭であった。信光の憐れな死は嘉義の日本人の多大な同情を誘って、関係のない人々迄、日本人という日本人は殆どすべて会葬してくれた為め、大きな椋のこかげの庭はそれらの人々でうずもれた。かの病院長も来て下さった。郊外の火葬場――城門を出て半丁程も行った侘びしい草原の隅の小山でした――へは父と、極く親しい父の部下の人々が十人許りついて行ってくれた。
 火をつける時の胸の中はなかった。ここ迄来てあの子をなくすとは……
と、火葬場から帰って来た父は男泣きに泣いた。母も泣いた、姉も私もないた……
 信はとうとうあの異境で死んでしまった。
 五寸四角位な白木の箱におさめられた遺骨は白の寒冷紗につつまれて、仏壇もない、白木の棚の上に安置された。信のおもちゃや洋服は皆棺に入れて一処にやいてしまった。
 せめて氷があったら心のこりはないのに……
と父母を嘆かしめた。その氷は信光の死後漸く台南からトロで届いた。信の基隆で買ったあの汽車のおもちゃもサーベルも、あとから来た荷物の中から出て、また新らしく皆に追懐の涙を流させた。
 父は思出のたねとなるからとて、信のつねに着ていた、弁慶縞のキモノも水平服も帽もすべて眼につくものは皆焼き捨ててそこいらには信の遺物は何もない様にしてしまった。鍾愛おかなかった末子の死は、一家をどれ程悲嘆せしめたかわからなかった。
 姉と私とは毎日草花をとって来ては信の前へさし、バナナや、竜眼りゅうがん肉やスーヤー(果物)や、お菓子でも何でも皆信へおそなえした。
 父も母も多く無言で、母は外出などすこしもせず看護みとりつかれて、半病人の様なあおい顔をしつつわずかに私達の世話をしていた。
 土人の子の十五六のを召使っていたけれども友達はなし父母は悲しみに浸ってい、弟はなし、私と姉とは、竜眼の樹かげであそぶにも、学校へ行くにも門先へ出るにも姉妹キッと手をつないで一緒であった。県庁の中の村に私達四五人の日本人の子供の為めに整えられた教場へ五脚ばかしの机をならべて、そこへならいにゆくのにも二人は、土人の子の寮外に送り迎えされていた。全くまだ物騒であった。或夜などは城外迄土匪が来て銃声をきいた事もあった。夕方など私達が門の前で遊んでいると父は自分で出て来て、
 静も久も家へもうおはいり。かぜをひくといけないと、心配しては連れもどって下さった。厳格一方の父も気が弱った。廟をすこし修繕して畳丈け敷いたガランとした、窓只一つのくらぼったい家は子供心にも堪えられぬ淋しさをかんぜしめた。
 城壁のかげの草原には草の穂が赤く垂れ、屋根のひくい土人の家の傍には背高く黍が色づき、文旦や仏手柑や竜眼肉が町にでるころは、ここに始めての淋しい秋が来た。毎夜、城外の土人村からは、チャルメラがきこえ夜芝居――人形芝居――のドラや太鼓などが露っぽい空気を透してあわれっぽくきこえて来た。
 遠く離れている二人の兄に細々と弟の死を報じた手紙の返事が来たのは漸く初秋のころであったろう。
 次兄は大空にかかっている六つの光りの強い星が一時に落ちた夢をみたそうであるし、鹿児島にいた長兄は、つねのままのゴバン縞のキモノで遊びに来たとゆめ見て非常に心痛しているところに電報が行き、いとま乞いに来たのだろうとあとで知った由。二人の兄共殊に愛していた末弟のあまりにももろい死に様に一方ならず力落とししたのであった。
 それから丸一年を嘉義に過し其後台北に来、東都に帰った後も尚お暫らく弟の遺骨はあの白布の包みのまま棚の上に安置して、弟の子供の時の写真と共々、いつも一家のものの愛惜の種となっていたが、桜木町に居を定めて後、一年の夏、父母にまもられて、父の故国松本城の中腹にあつく先祖の碑の傍らに葬られた。
 弟が死んでからもう二十二年になるが、あの様な地で憐れな死に様をした弟の事は今も私の念頭を去らず、死に別れた六つの時の面影が幽かながらなつかしく思い出されるのである。
(「ホトトギス」大正七年十一月)

底本:「杉田久女随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2003(平成15)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「杉田久女全集 第二巻」立風書房
   1989(平成元)年8月発行
初出:「ホトトギス」
   1918(大正7)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:杉田弘晃
校正:noriko saito
2006年3月27日作成
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