ある日、うす寒い秋でしたのに、一匹のこほろぎが単衣ひとえを着て、街へ仕事をさがしに出掛けましたが、此間このあひだまでつとめてゐた印刷工場で足の上へ重い活字箱を落としてけがをして首を切られ、けがをした足は益々ますますふくれるばかりで、どこにも雇ひ手はありませんでした。夕方になつたのか身体からだ中が寒くなつたのでうちへ帰りかけますと、突然頭の上に、汚い冷い水が一杯浴びるやうに掛つたと思ふと、気が遠くなつて、倒れてしまひました。
 気が付いて見ると病院の診察台の上に寝てをりました。そばに院長のまだらはちが立つてゐて、
「気がついたか? お前は何処どこの何者だ? 風邪かぜひきと、丹毒たんどくといふ熱病だ。大分よくないから入院だ。入院料は一日二円五十銭だがあるかね?」
 こほろぎはお金がないのでびつくりして帰らうとしましたがぐつたりして起き上ることも出来ないので
わたしはお金がないんですが、先生、足が立たないので帰れませんから休まして下さい。」
「君一人の病院ぢやないんだ。一人をただで置いたら、みんな只でおかねばならなくなる。病院にはいるのに入院料がいる位の事は子供でも知つてることだ。それにお前はキリスト教信者ぢやないだらう。」
「何だかひどく苦しくてたまりませんからもう一二時間休ませて下さいませんか。」
「一二時間? もう三十分もすると、わしは街へ伝道に行かねばならないから、待つてやれない。帰りたまへ。君よりももつと重い病気でも、我慢してゐる人間はいくらでもあるんだ。」
 院長は、玄関番の芋虫いもむしに、こほろぎを外に連れて行くやうに言ひつけました。芋虫は門の日のさない所にしやがんで一日中下駄げたの出し入れをしてゐるので、黴菌ばいきんほこりを吸ひ込んで肺病になつて竹のやうに真青まつさをな顔をして足は脚気といふ病気のためにふくれ上つてゐるので、五あしに一度はころびさうになりました。そして、こほろぎを診察台から下さうとしましたが、身体からだ中がしびれて力が出ないのでした。院長はじりじりして、
「早くやれ、時間がないんだ。仕様のない弱虫だな。薬局生の尺取虫を呼んで来い。」
 丁度その時尺取虫は薬局で、ある金持の鈴虫のお嬢さんのシヤツクリ止めのお薬を調合してゐましたが、院長に呼ばれたのであはてて薬の分量を二倍も入れてしまひました。
 尺取虫は院長のお気に入りの男で、歩く時に非常に変な恰好かつかうをして身体からだを伸ばしたり縮めたりするのですが、それが、虫の仲間では恰好がよいといふ事になつてゐるので、尺取虫は年中、薬を調合しながら、横に鏡をかけておいて、髪をなでつけたり、顔をふいたり、ひどくおしやれでした。
 こほろぎは益々ますます身体からだの工合が悪くなつたやうに思ひましたので尺取虫に
「院長さんに願つてしばらく置いてもらうやうにして下さいませんか。お願ひです。」と申しました。尺取虫はこほろぎの汗くさい、よごれた着物をじろ/\見て顔をしかめました。
「いゝ加減に帰つたらいゝぢやないか。君一人にかかつてられないんだよ。忙しくて忙しくて朝から晩まで目がまわりさうなんだよ。図々しいね、君は。」
 尺取虫はこほろぎのそばにつつ立つて時々診察台をひどくゆすりましたので、こほろぎは床の上にころげ落ちて、そのまま、気が遠くなつてしまひました。
「外の涼しい風に当つたら気がつくから、今のうちに外に出してくれ。」と、院長の蜂は尺取虫に命令して、今までもじ/\と立つてゐた芋虫に、
「君、身体からだがわるさうだから、しばらく休み給へ。毎日、聖書でも読んで寝てゐれば直るよ。」と申しました。
「いえ、わたしはまだもつと働けます。今、休むと、うちの者が飢死うゑじにしてしまひます。もつとよく働きますから続けさして下さい。」芋虫は、呼吸が切れさうに苦しいのを押しかくしましたが、院長は返事もしないで腕時計を見て、
「や、君、もう時間だ。そろ/\出掛けやうか。」と尺取虫に言ひました。
 尺取虫は気の遠くなつたこほろぎを外にかつぎ出して、太鼓や、提灯ちやうちんそろへて、院長や病院の看護婦や近所のキリスト教の信者と一ママに、救世軍の歌を歌ひながら街へ出かけてしまひました。病院の玄関の傍に投げ出されたこほろぎは冷えた石に身体からだの熱をとられてたうたう死んでしまひました。だれも来ては呉れませんでした。病院の門には「救世軍慈善病院」と書いた大きな看板がかゝつてをりました。
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 太鼓をたゝいて出掛けた院長は、街の中程へ来ると、尺取虫に
「今晩の演説は何でもいゝ。君にまかせる。病人があるから、そつちへまはらねばならないから。」と言つて、金持の鈴虫のお嬢さんのうちへ参りました。
「いかゞです? お身体からだの工合は! あなたのやうにやさしく弱々しい生れ付きの方は、仲々シヤツクリ一つでも油断なりません。」
 院長は黙り込んでママ嫌の悪いお嬢さんにシヤツクリ止めの薬をのませたり話をしかけたりしました。が、お嬢さんの鈴虫は、院長の来るのがおそかつたのでしやくにさわつてゐたのです。
「お嬢さん、面白いお話をしませうか。今日、水にぬれたこほろぎが来ましてね、ただで病院に入れとくれていふんですよ。何でも、労働者のやうな人相の悪い男でしたがあんまり、図々しいので尺取虫が外へ追ひ出したんですがね、あなた方には一寸ちよつと想像出来ない事が下層社会の人間には平気で出ママるんですよ。」
「あら、こほろぎ? ぢや、私が泥水どろみづを窓からすてた時に下を通つてた男よ!」とお嬢さんは面白さうに話し出したと思ふと二三度くる/\まわつて血をはいて死んでしまいました。蜂はびつくりして呼吸が止りさうになりました。
「薬が利きすぎた。尺取虫が分量をまちがつたんだ。どうしよう。神様、どうぞこの女を生ママ返らせて下さい。あなたのお力を信じてゐます。雨に打たれ、にくわれ、私は毎晩、あなたのお力をひろめるために尽しました。神様! 今こそ私に報ひて下さい。」と祈つてお嬢さんを抱き上げましたが、お嬢さんは矢張り死んだきり起き上りませんでした。

底本:「日本児童文学大系 第二六巻」ほるぷ出版
   1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「少年戦旗」戦旗社
   1929(昭和4)年9月
初出:「少年戦旗」戦旗社
   1929(昭和4)年9月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年8月3日作成
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