八月二十九日

▲黄瓜
 松島の村から東へ海について行く。此れは東名とうなの濱へ出るには一番近い道なので其代りには非常に難澁だといふことである。磯崎から海と離れて丘へ出た。丘をおりるとすぐに思ひ掛けぬ小さな入江の汀になつた。青田があつて蘆の穗も茂つて居る。蘆のなかにはみそ萩の花がしをらしく交つて居る。畦を拾つて行くと田甫が盡きて小徑もなくなつた。仕方がないから楢の木の間を心あてに登つたら往來があつた。丁度いゝ鹽梅に鰌賣でもあらうかと思ふ男が天秤を肩に乘せた儘ぶらつと兩手をさげて左の方から坂をのぼつて來たから一所になつて噺をしながら歩いた。男は松島のホテルへ鰻を賣つて歸りだとのことである。此所らの近道は此邊の人でも知つて知らずだのに能くわかつたと彼はいつた。鰻賣が教へてくれた道を來たら雜木の間で低い草葺のたつた一軒家へ出た。縁先では白い手拭をかぶつた娘が一人で絲を※(「竹/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)こわくに掛けて居る。ぼくり/\と音がするので家のなかを覗いて見たら十五六の舍弟らしいのが土間で麥を搗いてるのであつた。余は此一軒家が何となく面白く感じたので縁の隅へ腰を掛けると娘は急いで小※(「竹/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)と共に膝をずらして余に席を與へた。小※(「竹/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)の側には胡瓜が五六本轉がつて居るので一本剥いて見たくなつたから無心をすると娘は小※(「竹/(目+目)/隻」、第4水準2-83-82)の手をやめて戸袋の蔭から柄の短い錆びた鉈を出してくれた。此れで皮をむけといふのである。狹い庭には糠交りの麥が筵へ二枚干してあつて其先には鳳仙花がもさ/\と簇つて居る。其下が崕である。余はすゞろに興を催しながら鳳仙花の傍に立つて此の意外な庖丁を持つて木か竹でも削るやうにして皮をむいた。胡瓜の眞白な肌に錆のあとがほのかに移つた。然し喉が乾いて居たので非常に佳味かつた。簇つた花の上には糊をつけた白糸が三括りばかり竿に掛けて干してある、余は此邊の人は出稼ぎでもするのかと娘にきいて見たら此邊一般の鼻に掛つた言葉でうつむいたまゝ低くいつたのだからよくは分らなかつたが「出はつて居りやヘン」といふやうに聞えた。崕をおりて田甫へ出たら富山の寺がすぐ頭の上にあつた。

     仝 三十日

東海美人しうり[#ルビの「しう」にママの注記]
 草の露がまだ乾かぬうちから暑くなつた。宮戸島の宿を立つて東名の濱へもどる一錢の渡しまで來ると干潮で水が非常に淺くなつて見える。草鞋も脚絆もとつて危ぶみながら徒渉して見ると水は漸く膝のあたりまでしかなかつた。徒渉して見たのが何となく嬉しかつた。昨日の渡守は今白帆を揚げて沖へ出て行く所である。渡しは舟の必要もなくなつたので漁でもしようといふのであらう。弓なりの砂濱が遙かにつゞいて居る。白泡のさし引く汀を行くと草鞋の底から足袋のうらがしめつて心持がよい。だん/\行くとそこにもこゝにも東海美人が打ちあがつて居る。東海美人といふと何だか洒落れて居るが合せ目に毛が生えた滑稽な貝である。五寸もあるのが目の前に轉がつて居る。余は嘗て蛤位の大きさより外は知らなかつたので餘り珍しく思つたから笠も蓙もほうつて波打際をあさつた。大きいのがあれば曩に拾つた小さいのは棄てゝ濱一杯にあさつた。見返ると笠も※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、334-6]も遙かの遠くになつて居た。遠くといへば沖はぼんやり薄霧がなびいて居る。貝は手拭の兩端へしつかり括つて手に提げた。
 砂濱の盡きる所が松林で、松林を出ると野蒜である。野蒜から石の卷街道へ出る積で或小村へ來ると今の東海美人は毒だといはれたので惜しかつたが棄てゝしまつた。婆さんが笊へ玉蜀黍を五六本入れて提げて來た。それは生かと聞いたら茹でたので直ぐにたべられるのだから買つてくれといつた。そんなら買はうといつたら婆さんは路傍の民家の淺い井戸で余の砂だらけの手拭を洗つて其玉蜀黍を括つてくれた。馬の齒のやうな玉蜀黍である。

     仝 三十一日

山雉やまどりの渡し
 鮎川の港からだら/\と上つて勾配の急な坂をおりる。杉の木の間を出ると茶店がある。茶店の前を行き過ぎやうとすると女房があとから呼びかけてお山へ渡るなら草鞋を買うて鹿の土産を持つて行けといつた。此れはお山の砂を草鞋へつけて來ることは昔から禁じてあるので島へ渡るものは皆新しい草鞋を穿いて、もどりの船に乘る時にはぬぎ捨てる筈だ相である。鹿の土産といふのは小さな煎餅の括つたのである。渚へおりると船頭小屋には四五人で榾火を焚いて居る。客が集らねば船は出さないといつて一向に取り合はぬ。小船が一艘動搖しつゝある。雨が降つて來た。突兀たる岸の巖には波がだん/\強く打ちつけて小船が更に動搖する。雨が大粒になつた。幻の如く見えた金華山は復た雲深く隱れて裾だけが短く表はれた。山の裾はなつかしい程近い。桐油を着た道者がぞろ/\と余の後からおりて來た。各自に背中を高くして小荷物を背負つて居る。一行の饒舌るのを聞いて船頭のうちの老人が一行のものを米澤ぢやないかといつた。米澤の山の中だといつたので言葉でどこのものでも分ると老人は頗る得意である。道者が來ても船はまだ出さうともせぬ。海がだん/\惡くなり相なので何故出さないのだといふと此日の渡しは此れ限りなので金華山から鮎川へ酒買に渡つたものが戻るまで待つて居るのだといふのである。鮎川に二人で酒を飮んでるのがあつたがあれなら迚ても今日のうちには歸り相はないと道者の一人がいつた。遂には船頭も待ちあぐんで一人が南京米の袋をかぶつて出て行つた。所がそれも沙汰がない。屹度あいつも引つ掛つたに違ひない。呑氣なにも程があるといつて道者等が頻りに呟いて居る。幾ら待つても島の酒買は來ないのでやつとのことで船が漕ぎ出された。三人が艪を押して舳の一人が櫂をとる。巉巖に添うて船が進む。鹿渡しの岬に近づくと波は澎湃として船が思ひ切つて搖れる。岬に打ちつける波は花崗岩の如き白い柱を立てる。北方に開けた海上には江の島列島が大小相並んで狹い瀬戸の間から見える。列島は彼の穗に隱れては復あらはれる。桐油を頭からかぶつて余と向き合ひになつてた男は目がどろつとしてさつきから下唇が垂れた儘であつたが遂に桐油でぐるつと顏をくるんで轉がつてしまつた。他の道者も顏が眞蒼になつて小縁へしがみついた儘反吐をついて居る。老人の押して居た艪は艪べそが外れた。老人は狼狽して嵌めやうとしたが船の動搖が激しいので幾らあせつても嵌らぬ。止めろ/\いゝや/\と兩肩からうんと力を入れた男が聲にも力が籠つて叱りつけるやうにいつた。老人は極りわるげに船の底に蹲つた。雲が一方からだん/\に禿げると三角に握つた握飯のやうな金華山が頭から押へつけるやうに聳えて居る。中腹の神社から下には鋏で梢を刈り込んだやうな木立が青い芝の間に鹽梅されて庭園の如く見える。常盤木の繁茂した山上には綿打ち弓から飛ぶ綿のやうな雲がちぎれて居る。船が岸へつくと道者は一同に漸く生き返つたといふ鹽梅で「船ぢや我折がをつたやア」といひながらばら/\と勢よく馳けあがつた。青い芝は地にひつゝいた樣になつて居て糸薄の草村が連つて居る。道者は口々に鹿々と呼んだら思はぬ糸薄の中から大きな角が動いて鹿が五六匹あらはれた。土産を出して見せると五六尺の近くまで寄る。こちらから更に近づくとついと逃げる。投げてやればたべる。一行の旅裝が黄色な桐油を掛けたり笠をかぶつたりして居るので氣味が惡いのであらう。鹿が煎餅をたべる所を道者が三四人で手と手をつないで鹿を坂の下へ追ひつめようとしたが鹿は輕く飛び退いてけろつと立つて居る。道者はこんなことをしては騷いで船の中に居た時とは別人のやうである。よく見ると鹿は糸薄の中にそこにもこゝにもけろつとして立つて居る。其斑紋の美しいことは奈良の鹿などの到底及ばぬ所である。顧れば一行の乘つて來た船は追手に帆を揚げて雨の中に遙かに隔つて居る。木立にはひると庭木のやうに見えたのは皆二抱三抱の樹ばかりであつた。
 雨はしと/\として深更までもやまぬ。厠へ立つたら目の前をひらりと飛ぶものがあつた。驚いて見ると鹿である。手を出したら鹿は指のさきへ鼻づらをこすりつけた。

     九月一日
▲猿
 社務所から出た一行十人ばかり白衣の先達に案内されて金華山を登る。坂が極めて峻しい。曉の霧がひや/\と梢を渡つて雨がはら/\とかゝる。老樹の鬱然として濕つぽい間を行くので深山のやうな淋しい心持がする。忽ち後の方で猿々と呶鳴るものがあつたので振りかへると一行のうちの三四人が立ちどまつて梢を仰いで居る。余も急いでおりて行つて見ると五六匹の猿が樅の喬木に枝移りをして居る所であつた。猿はゆさ/\と枝を搖しながら四つ足を立てゝこちらを見おろして居る。赤い顏がほのかに見える。余は猿の樹に居るのを見たのは此がはじめてゞある。からかつても見たい樣な氣もした。一行のものは皆樹の下へ集つて口々にオンツアマ、オンツアマと呶鳴つて手を叩いたり樹を搖ぶる眞似をしたりして騷いだけれど彼等は一向平氣で枝をゆさ/\と搖して居る。猿といふものは何處で見ても剽輕なものである。道者の一行が騷いで居るうちに先達は一人で行つてしまつたかして後姿も見えなくなつた。ばら/\と先達の後を追ひ掛けながら道者の一人がいふのを聞くと、此前に來た時は猿が丁度栗を搖り落した所へ通りかゝつたのでみんな拾つてしまつたら枝から糞をかけられたといふのであつた。

▲烏
 山巓の小さな社のえんへ腰をかけて一行の者は社務所で呉れた紙包の握飯をひらいた。縁先には僅かに二坪ばかりの芝生がある。何處から來たか烏が二羽來て一羽は芝生のめぐりに立つた樹木のとある枯枝へとまつて一羽は足もとへおりた。おりた烏は嘴をあげたり首を曲げたりして握飯が欲し相に見て居る。余は鹿の土産がまだあつたので投げてやつたら、ひよいと一跳ね跳ねてそれを咥へて元の處へ戻つて足で押へて啄むのである。さうして又嘴をあげたり首を曲げたりして見て居る。握飯を包んだ紙を投げてやつたら嘴で引返し/\して其紙の中の飯粒を啄むのである。幾百千の參詣者が繰り返し/\登山するので烏までがこんなに馴れてしまつたものであらうが、深い木立の間を雲霧にぬれて漸く山巓について何となし人寰を離れた感じで居る所へこんな烏が飛んで來たのは更に別天地のやうに思はれた。一人が握飯の食ひ殘しを呉れたら何と思つたかそれを咥へた儘霧深い谷をさして飛んでしまつた。飛ぶ時に咥へた握飯がぼろりと缺けて芝の上へ落ちた。枯枝に止つて居た一羽はこちらを見おろして居たが遂におりては來なかつた。さうして此も大きな聲で鳴いたと思つたらついと芝の上の飯をさらつて飛んで行つた。外洋の霧は山陰の梢を吹きあげて蓬々として更に吹きおろす。木の葉が交つて飛び散る。

▲鹿の糞
 霧の吹きつけるなかを山蔭へおりる。やつぱり樹木が深くて坂が急である。だん/\おりて行くうちに霧が薄らいで枯れた梢の間から空が朗かに見え出した。又誰か後の方で鹿々と呶鳴つた。あれ/\と一人が指して居る方を見たら其時はピオウと鳴いた聲ばかりで鹿は見えなかつた。ピオウと復た鳴いた時は聲が遙かに遠くなつて、三聲鳴いた時はやつと聞き取れる程であつた。
 深い樹立を出ると疎らな赤松が見え出して窪んだ草原のやうな所になつた。先達は皆さん此所は不淨場でありますといつて自分が先に小便をした。一行の者も皆小便をした。草の中には羊齒の葉が秀てゝ既に枯れた自然生の芍藥も交つて居る。此所からすぐに海へ出る。岸は皆削りたつた大きな巖である。斷面には縱横に切れ目があつて恰も十文字に繩を掛た大荷物が問屋の庭に積み揚げられたやうな形である。小徑は此斷崖の上をめぐりめぐつて北へ走る。一行はばら/\になつて先達に跟いて行く。左を仰いで見ると鬱蒼たる山の巓は頭に掩ひかぶさつた樣で其急峻な山の脚は恰かも物蔭から大手を開いて現はれた人が奔馬をばつたり喰ひ止めた樣に此小徑で切斷されて居る。小徑については到る所青芝と糸薄が茂つて居る。さうして糸薄の中には疎らに赤松が聳えて居る。時々鹿に逢[#「逢」は底本では「蓬」]ふことがある。山蔭に居る鹿は能く馴れては居らぬと見えて屹度逃げて行く。一つか二つか離れて居るのがひよつこり人を見ると非常に狼狽して草村を跳ねて逃げて行く。糸のやうな脚で跳ねるのがふわ/\とした綿の上でも跳ねるかと思ふ樣に見えて如何にも輕げである。驚いて逃げる時にピオウと細い聲で鳴き捨てるのである。五六匹も揃つて居るといふと躰と躰と押し合ふ樣にして或距離の所まで行くとけろつとして何時までもこちらを見送つて居る。無邪氣なものである。鹿の尻はモツコ褌をはめた樣だなシといふ聲が又後の方から聞えた。大箱の岬といふ札の立つた所へ出た。急な山の脚が海へ踏ん込む前に青芝の小山を拵へて其小山の頂近くから截斷して海へ捨てゝしまつた時に恐ろしい懸崖が出來た。此が大箱の岬である。四つに偃うて覗いて見るとさら/\と僅に碎くる白波が遙かの下の方である。其遙かな下の方に小さなものが動くやうに見える。それがだん/\昇つて近づく所を見ると一匹の小さな蝶であつた。暫く見て居たら心持が惡いやうになつた。大箱の岬を覗くものは馬鹿だといふのだと道者がいつた。青芝は地にひつゝいた樣で綺麗である。鹿が此芝をくひに來ることがあると見えて豆粒のやうな鹿の糞がころ/\と轉がつて居る。青芝の上に休んで居ると何時の間にか蝶は懸崖の面を舞ひあがつたものと見えて小さな黄色い羽をぴら/\と動かしながらめぐりめぐつて鹿の糞へとまつた。際涯もない外洋を望むと今日ばかり波がないのかと思ふ程平靜である。余は一朝暴風が此平靜な海を吹き亂して雲と相接して居る水平線の先の先から煽り立てゝ來る激浪が此の大箱の懸崖に吼えたけびてしぶきのとばしりが此の青芝へ氷雨の如く打ちかゝる時に牡鹿が角を振り立てゝ此岬に突つ立つ所を想像して見た。

     九月九日

▲會津に入る
 草葺ばかりのみじめな米澤の市中は戸が漸くあいた所である。老女がまだねくたれ髮を掻かぬ姿といつてやりたいやうだ。はたの聲のみが忙しく響く。
 小さな峠を一つ越えて關町といふ村で提げて來た小包を出した。郵便局といつても事務員がたつた一人しかなかつた。二三町來ると其事務員がお客さん/\といつて追ひ掛けて來た。局へ殘す筈の受領證を渡して仕舞つたから換へて呉れとお辭儀をするのであつた。あたりには白苧しらそが干してある。
 又峠になる。大臼のやうな炭俵を背負つた女達がおりて來る。二尺ばかりの短い棒を手に/\持つて居る。棒を俵の尻へ當てると立つた儘に休むことが出來るのである。牛追が杓子のやうなものを杖について居るので何をするのかと聞いたら牛の腹の蠅をぺた/\と叩いた。網木の村へおりる。出羽の地もこれ限りである。溪流を引いて麻を浸した淺い池が所々にある。モツペを穿いた女どもが晒した麻の皮を扱いて居る。家がみんな荷鞍ぐしだ。荷鞍ぐしといふのは棟が千木を建てたやうになつてるのである。
 檜原峠へかゝる。峠のやうな峠である。山が深いだけに溪流が大きい。汀には竹林の如き虎杖がまだ花をもつて居る。道は又他の溪流に添うてのぼる。兩方から一丈餘りに延びた蓬が茂つて、撓むまでさいた鳥兜とりかぶと草が丈を爭うて立ち交つて居る。一丈餘の蓬で箸を折つて見たらやつぱり蓬のかをりがした。頂上まで蓬や鳥兜草が繁茂して居るが頂上に至るまでそれが兩側二尺ばかりは薙ぎ拂はれてある。馬や牛を牽いて草苅がこんな所まで來ると見える。頂上は國境である。
 會津へ一歩くだれば一變して山毛欅ぶなの深林になる。梢には霧の如く白雲がとざして雨になつた。蓙が雨のためにしめつて板のやうに強ばつて來たら山毛欅が竭きて橡の林になつた。雨がやんだ。橡の葉は既にいくらか黄ばんで居るので林は急にからつとして來た。溪流の響きが漸く聞える。橡の林を出た。白衣の行者が五六人桐油で包んだ大きな幣束を擔いで峠へかゝる所である。見あげるとまだ雲がある。行者はぬれに行くのである。
 忽ち一大湖水が現はれた。鬱然たる周圍の樹木を浸して居る。湖水に迫つて大きな茶店があつて二階には※[#「鼠+占」、343-1]でも住み相である。店には煤けた障子が締め切つてあつて障子の破れがふら/\と搖れる。此怪しげな茶店で峠で切つた草鞋を穿きかへる。旅客の穿き捨た草鞋が障子の蔭に堆く積んである。ぬるい茶をのみながら女房がしみ/″\といふ噺をきく。湖水は以前は萱原であつたが磐梯山が破裂した時に土灰が一方を塞いだ爲め水は落ち行く瀬を失つて此の如く湛へたのである。湖水の底には四ヶ村が埋沒して居る。二十戸の村で纔に七人のみが生きた所もある。最も悲慘であつたのは山の畑へ稼ぎに行つた老人である。磐梯山にあのやうな烟の立つ筈はない。山の凶事であるかも知れぬと二人の子を促して慌てゝ駈け出したのであつた。二人の男の子は血氣であつただけに危い命を拾つて逃げおほせたが老人は足のつゞかなかつた計に何處で泥土に埋まつたか遂に歸つて來ない。破裂のあとは七日まで山の鳴動が止まぬので檜原の村では家財を悉く馬に乘せて夜は殊に恐ろしさに堪へ兼ねて逃げようとしては流石に躊躇して夜を明すといふうちに山の騷ぎが止んだのである。知つた人が埋つて居ると思ふと船で渡るのも心持が惡いといつて女房はぽつさりとする。榾が燻ぶつて青い烟が天井をめぐる。
 茶店のうしろには疎らな桑の立木があつて其間に菽が作つてある。狹い畑は二三歩ですぐに汀へおりる。湖水を隔てゝ遙かな草山の裾にぽつ/\と四角な白いものゝ見えるのは秋蕎麥の畑である。
 道は湖畔に添うて稍高くなる。湖水を見渡すと汀をめぐつて白骨の如き枯木が水中に亂立して居る。大樹は枝幹其儘で小樹は手の骨や足の骨を立てならべた如くに短く朽ちて居る。枯木がなかつたら檜原湖は唯幽邃な湖水であつたに違ひない。凄いものは此水中の枯木である。小舟が一つ枯木に繋いである。
 磐梯山も雨が晴れた。急峻な山腹を今一朶の雲が駈けのぼるやうにして頂から横に走つて山を離れると磐梯の全形が明かである。湖畔から見る磐梯山は殆んど破裂の趾のみが表はれる。頂から地盤の底まで唯一刀の下に截斷し去つたやうなのが破裂面である。其形状は例令ば錆びた大釜の破片を立てた如くである。大釜の形体が若し全くあつたならば磐梯山をも容れることが出來るだらうと思ふ程大きな破片である。其所々から烟草の烟の如き白烟が立つ。其所が現在の噴火口である。湖畔の崕には芝蓬が生えて其傍を過ぎる時はまだ濡れて居る四五本の芒の穗がゆるかに搖れて恐ろしい磐梯山の面を撫でるやうに見える。芒のもとには野菊のやうな花が眞白である。
(明治四十年三月八日發行、馬醉木 第四卷第一號・明治四十年五月二十五日發行、馬醉木 第四卷第二號所載)

底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2003年11月24日作成
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