目次
 沢山な落葉が浮んでゐる泉水の傍で樽野は、籐椅子に凭つて日向ぼつこをしてゐた。彼は、あたりのことには関心なく何か楽し気な思ひ出にでも耽つてゐる者のやうに伸々と空を仰いでゐるが、何時の間にか眠り込んでしまつたのかも知れない、膝の上に伏せてあつた部厚な書物が音をたてゝ足許に滑り落ちても拾はうともしないから。書物は、もう少しで水の上に落ちかゝりさうなところで躑躅の小株につかえてゐた。そして、情熱的な読者の赤鉛筆で共鳴の傍線があちこちにしるしてある「抽象的観念の実在」――そんな項目の頁を微風に翻してゐた。
 ついこの間までは大きな鯉が悠々と泳いでゐたが樽野が悉く売り払つてしまつたので泉水は霜枯れ時の運動場のやうに静かで、間が抜けてゐた。いつもなら赤、白、青の鯉が行列をつくつておよぎ回つてゐるので水底は不断にもや/\と煙つてゐたが、今は隈なくすき透つて藻の蔭に沈んでゐる蒸汽船や瀬戸物の破片などまでがはつきりと見えたし崖の小笹の間からこぼれる水を招んで気ながに湛えた泉水の水なので、一度濁ると容易に魚の姿が判別出来るまでには澄まなかつたが、斯んなに澄み透つた水が満々としてゐるのを見ると妙に空々しく不自然であつた。
 樽野は庭などを眺めるために椅子に凭つてゐるのではない。彼は、鯉などが居ようと居まいと、水がそんなに空しく澄み透つてゐやうと、全く無頓着なのである。――今度はその辺の庭木でも売ることにしようか、あの石灯籠はあつても無くても好さゝうだ、あれに仕様か――書斎に坐つて読書をしてゐたのであるがそんなことばかりが気になつたので本を抱えて庭先きを今更のやうにあらために出て来たのだが、そして、そんなものを売ることの楽しさを考へてゐるうちに、すつかり好い心地になつてぐつすりと眠つてしまつたのである。彼は、口をあいて、虚空を仰いでゐた。爪先きが汀の右につかえてゐるから保たれてゐるものゝ若しや幻で身悶えでもしたら忽ち水の中へ落ち込んでしまふに相違ない。
「つまり僕達は毎日、好い気になつて泥棒を働いてゐたわけだね。」
「あたし達に注意をしに来た時には、番人の方が返つて赤い顔をしてゐたわ。」
「赤い顔もするだらうさ、この真昼間に女もまぢつて、キヤツ/\と騒ぎながら大働きをしてゐる山賊を見たひには――」
 樽野の友達の弟である林と、樽野の妻、その弟の正吉、妻の友達である加代子達は、蜜柑の一杯詰つてゐる登山袋や、枝なりの蜜柑などを各自の両手に携えながら、皆な赤い顔をして戻つて来た。
「だけど自分の畑が、とつくに売られてゐるのも知らないなんて、言訳にも何もなりはしないわ。」
「ぢや、お金を払ひませうか――だつて、姉さんも随分平気で白々しいことが云へたものだよ、えゝ、戴きませう! と来たらあの時何うした?」
「今年だけは、とるだけは取つても好いんぢやないのかしら?」
「大丈夫か知ら、僕は未だ何となく脚が震えて仕方がないよ。」
「正ちやんは、また馬鹿に意久地がないのね、あたし驚いたわ、こそ/\と逃げ出さうとなんてするんだもの、みつともないぢやないのよ。――それに、あたしはあんた位ひ頼みにならない人はないと思つたわ。」
「だつて今日だけぢやないんだぜ、今迄何れ位ひ彼処の蜜柑をとつたか解りはしないぜ、先月なんかはあんなに沢山売つたりしたぢやないか、いくら今度の持主が人が好いと云つたつて売つたことが解つたら……」正吉だけが酷く悸々びくびくとしてゐた。
「さうなればお前も同罪だよ。」
「ほんとうかい、姉さん? そんなら僕は今日のうちに東京へ逃げてしまはう――」
「尤もあの番人には詳しいことは解つてゐないだらうが――こんな格構で畑へ入れば吾家うちの者だつて何とか云はれるさ。」
「俺は平気だ、これからだつて若し喰ふものがなくなれば、蜜柑だつて、芋だつて手当り次第だ、要領はもうすつかり解つてゐるからね、今だから云ふが僕は今迄だつて他所の場所だと思ふところだつてかまはず入つて行つて掠奪をほしいまゝにしてゐたものさ。」
「それが案外自分の家の畑だつたんぢやないの? ――馬賊に憧れたことがあるといふ人は違つたものね。」
「いつだつて僕は――」と林はわざとらしく強さうに続けた。「今日はお八ツがない! とか、牛肉を煮るんだが野菜がない! なんていふ日には、一寸とお待ちつて、出掛けたでせう、あれは買つて来るわけぢやないんですよ、まだ/\夏の時分の吾々のデザート……西瓜、桃、真くわ瓜――」
「ぢや、また来年の夏になつたら来て頂戴よ、冬のうちは用がないからお帰りよ。」
「チエツ、酷えことを云つてら。斯んな好いお客がまたとあるものぢやない。釣りはあの通りに名人だし、空気銃を持つて出かければ立所たちどころに山の産物を持つて帰るし……これは戯談じようだんでなく、僕はほんとうにこの村でならこの儘で四五人の家族を養つて暮せる自信がついたな――米と酒だけ何うにかすれば、何、それだつて、魚や蜜柑や小鳥を売つたりすればね、物々交換といふやつを始めても好い。」
 林は真実そんな空想に走り始めたかのやうに言葉を切つて首をかしげた。「蜜柑運びに雇はれても好いな。」
「でも、このことを兄さんが知つたら何んな顔をするだらう。」正吉は独りでくよ/\と蜜柑畑のことを気にしてゐた。「つい此間だつて、兄さんは、あれがあるうちは――とあの山を指差して云つてゐたよ――あれがあるうちは斯んな風に皆なでごろ/\してゐられるが……ツて!」
「そのくせ、阿母さんやGさんに向つても何んにも云へないんだから。あの阿母さんといふ人は何といふ酷い人だらう、町にあるものは皆なお金にしてしまつて、また此処までも――そして名前は皆なあの樽野で、執達吏が来る、競売の通知が来る! そんなことは知らん振りをしてゐる。」
「町の方のことはGさんや阿母さんに頼んだと云ふんぢやないの?」
「面倒がつて投げ出してしまつたゞけなのよ、抵当のものがあるんだから頼むも頼まれるもあるもんですか、お父さんからのことが漸く片づきさうになつてゐるところを、また余外よけいなところへ勝手に樽野を持ち出して――」
「町では表へ出られないと云つて此処に来たのにまた斯んなことを知ると、此処でも他人の顔をこわがり始めるだらうな。」
「俺ならそんなGなんて奴はぶんなぐつてしまふがな。」と林は、唾を吐いた。林は樽野のやうな理由ではなかつたが、両親との不和で学校を止めてしまひ、樽野に何か就職に関して相談するつもりで来たのであつたが云ひ出すまでもなく樽野にそんな能力が無いことが解つたので、漫然と遊び暮してゐた。そのうちには、さつき林が冗談に高言したやうなことが、林でなければ出来ないやうなことが何となく続いてゐた。
 彼らは縁端に腰を降して蜜柑をむきながら、そんな馬鹿気た生活の話に沈んでゐた。
「蜜柑畑へ行く径に鶏小屋が出来たね、あれはGが建てたんださうよ。」
「僕は声一つたゝせることなしに鶏を生捕りにする方法を知つてゐるよ。」
 樽野は、川向ふの母の居る町に住む筈だつたが母やGの顔を見たり、あそこの倅であるといふことを知られてゐる町の人に顔を見られたりするのが無性に厭で、それのこの村には自分の蜜柑の山があつたのでそれを生活の資にあてゝ暮すつもりだつたのである。もう学資が送れない云々といふ母の手紙を都で読んだ樽野は、そちらで独立せよ! といふ母の言外の意味を知らずに、手紙を見た翌日此処に移つて来たのである。大酒飲みのGが樽野の亡父の持物であり、現在では樽野の意志の代りになるといふ金鎖についた印形を帯に巻いて出歩きポン/\と捺印し回つてゐるので町では自分の名前が何んな風になつてゐるかといふことは樽野は知つてゐたが、村の蜜柑山や野菜畑までにそんな手が延びてゐるとは思はなかつた。樽野は町にあつたものには触れるのも厭な汚れを感じてゐるのでGの行為などに就いては無関心でゐられたが、突然、執達吏! だとか、差押へ! だとか、競売! だとか、さういふ類の言葉を耳にすると、物の失はれるといふ怖れではなしに、たゞ相手の容赦なき殺気だけを感じて、気が遠くなるのであつた。彼は、口論が神経的に嫌ひであつた。同時に彼は、大胆な債務者である自分が斯んなに無知で、気儘な神経を持つてゐるといふ事実に悪と怖れを感じた。うつかり町中などを歩いてゐたら、何時何処から何んな当然な権利を実行する腕が現れて、有無を云はさずひツ捕へられはしないか? ――さう思ふと彼は反つて爽々すが/\しい気がしたが、その刹那に浮び出す母達の姿を想像すると無気味な恥と名状し難い怖れに襲はれて眼を伏せずには居られなかつた。自分の留守の間の出来事なら何んな力持の盗賊が入つて家を担ぎ去られても関はなかつたが樽野は、母と子が夫々の行為に対して知らぬ気な顔を保ち、そして子が云ふべき舌を持たない、醜い「理由」を眼にするに堪えなかつた。
 彼は眼にしなければ何も彼も済してゐられる質だつた、そして、何んな醜い雰囲気にでも、たゞ此方の態度一つに依つて自己防禦的に真剣になるであらう相手の顔を見るのが厭なだけで、心にもなく愚図々々に妥協してしまふことが多かつた。彼は、成人おとなと成人が利慾の上から夫々唯物的な主張を持つて、反目のまゝ、対坐する光景ありさまは想つても冷汗が流れるのであつた。人の物質慾を卑しむといふわけではなく、理由の如何に依らず人と人との Face to face の刹那に生ずる気拙さが怖ろしく、テレ臭かつた。
 樽野は、町で出遇ひさうになるとGが狼狽して慌てゝ傍道に反れたりする機会を見ると(Gに限つたことではないが)相手に苦しい共鳴を覚えながら、此方こそ恥で五体が火に化して、居たゝまれなかつた。――彼は、Gの気の弱さや好人物の一面を知つてゐた。彼は、Gこそ俺の母親に欺されてゐるのだ! と思つてゐた。彼の亡父に唾棄されたり、子等に敵視され続けてゐるGこそ、心がらとはいふものゝ飛んだ役廻りをしよつたものだ! と思ふことがあつた。「女」といふ哀れを傘にして良人の直接の怒りから逃れ、「母」といふ事実を循にして子等の口を閉し、徒らに子等の胸を「憂鬱症ブリウ・デビル」の翼で覆はうとする母親こそ真にたゞ独りの罪人だと思つた。
「久振りで遇つたね、ハヽヽヽ、えゝ? 何処へ! まあ、いゝでせう、散歩? たつたひとりで――まあ、稀にはつきあつて――」
 ぱつたりと樽野がGに出遇ふと、彼は、とても樽野に口を開かせない程の能弁で、恰も電話口に立つて喋舌つてゐる人のやうに独りで愛想が好かつた。Gのは理由があつて何も樽野に特別の気嫌を示すわけではなしに、誰に対しても心から如才のない、そして相当に親切な性質なのである。
「まあ、一杯! 冗談でせう、まあ/\……」
 斯んな風にGに誘はれると、或る決意を持つて出かけて来たにも関はらず樽野は、有耶無耶に奇体な平和を感じてしまつて彼と一緒に盃を挙げてしまふのであつた。
「どうかね、東京よりも閑静な田舎の方が勉強をするには具合が好いだらうね……ふゝん、何だか此方へ帰つたら君は血色が大変好くなつたやうだね、ほんとに好い顔色をしてゐる、多少回つてゐるんぢやないのかね。まあ、大いに空気の好いところで精気を養ふんだね、健康第一として――」
「田舎に居ると何となく気分がのうツとしてしまふよ。」などと樽野は、思はず心にもないことを云つてしまふのである。
「それ/\、それが結構なんだよ、君達が、君、浮世のことでコセついたり、金の勘定にかゝり合つたひには己ずと好い作物も出来なくなるといふ事になるだらうし――だ。」
「それは勿論さうだらうね。」
「然し、時にはたんぼうといふことも――これまた時に応じて必要とするんだらうね。」
「そんなこと何うだか知らねえよ。」
「蜜柑山の住人が今頃町に現れるなんて、怪しいぞ、つかまへた/\、さあ尋常に白状いたせ。」などとGは“Fool”の身振りをしてふざけ散らしたりした。彼は、以前から酒などの席では必ず賑やかな役目を引きうけてゐた。Gを相手に酒を飲んでゐると大概此方は笑はされてしまふ、女の気嫌の取り方などと来たら実に巧いものだぜ――といふやうなことを樽野の亡父も云つてゐたが、樽野はそんなGは少しも面白くなかつた。だが樽野の母は、自分の眼の前で相手に、賞められたり、無理にでも己れを偉くさせて、高慢な顔をするのが好きだつた。Gは恰も彼女の使用人のやうであつた。彼女は己れの威厳を保つためにはその身の破滅さへも顧慮しなかつた。樽野が母のことを考へて眉を顰めてゐるのも気づかずにGは続けた。
「近いうちに釣りに行つて見ようか、君達皆なを誘つて! 君は嫌ひ? 然しまあ一度はあの気分も味つて見給へな、屹度好きになるよ。第一、君あの辺の景色が素晴しいぜ、山があり、森があり、河原がひろく、昔の道中絵の通りだぜ――蛇籠にでも腰を降して弁当を喰つたりするのは、それあもううめえぜ。頭が休まるねえ。」
「そんなに好い景色?」
「君は絵もやるんぢやないか。地震の前に君の部屋に掛つてゐる舟の油絵を見て、それが君が描いたといふのを聞いた時には僕は吃驚り仰天したね、実に感心した!」
「今なら、もう少し僕は巧く描ける自信はあるよ。所謂、好い景色といふやつは余り描きたくはないがね。」と樽野は、いつの間にかすつかり応揚な心地に変つてゐた。そして、高慢気な思ひに耽つてゐるらしく上の空に眼を挙げながら静かに盃を執りあげてゐた。
「紀念のために、僕に一枚描いて呉れないかね。」
「直ぐにかい?」
「いや、有りがたう。無理は云はないよ、気分の向いた時に――頼むわ。」
「直ぐに取りかゝつても好いよ。描きたいと目星をつけてある場所が村に一つあるんだよ、これは相当の大作なんだがね。」
「いや、有りがたう、まあ一つゆつくり頼まう――それは兎も角君なんかの仕事は羨しいねえ、世の中の厭なことには眼も触れずに自分の考へだけを究めてゐられるんだからね、幸せだねえ。僕の考へに依ると芸術家の生活といふものは帰着するところ大概ストア流だと思ふが何うでせう? ――フ……!」
「…………」
「僕なんかは酒でも飲む時でなければ笑ふこともありはしない、釣りにでも行く時だけが自分の頭に返つたやうな気がするね。始終斯う頭の中にソロバンがあつて、そいつがどうもひつきりなしにパチパチと動いてゐやあがるんでね。」
「それは大変だね。――僕はもうこれ位ひ酒を飲むととても苦しい。帰るよ。」
「嘘々、一つ歌でも聞かせて貰はうぢやないか、いつか君の家の前を通つたら昼間ツから大変に景気の好い歌が聞えたぜ。さあ/\。」
「それは正ちやん達だらう、彼等はカフエー通の学生だからいろんな歌を知つてゐるらしいが、僕は――」
「ハツハツ! 直ぐに真顔になつて弁解したりしないでも……」
 樽野は、Gの帯にからまつてゐる金鎖にピラ/\としてゐる「樽野」の印形を瞥見したが、そしてそれに関して用談があつたのだが今更急に開き直つて、
「それは俺の時計ださうだから返して呉れ。」などと、そんな真面目なことは到底口にすることは出来なかつた。自分のものゝつもりで悠々と畑を荒してゐれば、番人の方で顔を赤くするやうなものだつた。

 花火の音で樽野は眼を醒した。
 では、今日もまた好い天気なのだな! 今日は何んな催しごとがあるんだらう? ――樽野は、寝台の中で煙草をふかしながら怖る/\呟いた。……眼の先の白いカーテンが一杯に陽を含んで卵色に染つてゐる。陽が斜めだつたから窓掛の隅の方に庭先きの椿の技がくつきりと影を映してゐた。そして杖に懸つてゐる小鳥の籠が半分覗き出て、鳥の影が消えたり現れたりしてゐた。
 樽野は、窓掛を払つて朝の空気を入れて貰はうと妻を呼んだが、あたりには人声一つなかつた。彼は枕もとのランプを消したが、起き上る気力がなかつた。彼は、一ツ目小僧キクロオブスと手に手をとつて踊り狂つたり、類人獣ケンタウルと組打ちをしたりする夢を見てゐたのだつたが、そんな夢の続きが目の前の「デイライト・スクリーン」に未だに怖ろしく映つてゐた。槌で打たれてゐるかのやうに胸が鳴つてゐる。
 彼は、悲しくなつて大声を挙げて歌をうたつた。そして、はつきり眼が醒めた。ランプを消したと思つたのは夢だつたと見えて、枕元にはちやんと灯りがついてゐた。家中は寂としてゐた。誰も居ないのだ。
 花火の鳴る日は村では何処の家でも斯うなのだ。村人はこぞつて丘の向ひ側の遊園地へ出かけてしまふのである。――蜜柑の盛り時に一年分の貯えが出来る村だつた。そして次の蜜柑の季節までは遊びの村であつた。今年は蜜柑が稀な豊穫であつたのに加へて、冬中の漁業が更に大当りだつた。樽野は此処の窓掛に正吉が撮つて来た小さな映画で見たのであるが、夕暮時に沖から帰つて来る多くの漁船は日毎に豊漁の満艦飾をおしたてゝ威風堂々と凱旋した。すると港内で待ち構えてゐた無数のランチは水雷艇のやうに棲まじく波を蹴立て、船と渚の間を往き交ひ、忽ちのうちに砂浜は大鮪の山で埋つた。それから、手に手に半月刀を翻す一団の荒武者が阿修羅の如く猛り立つて魚の腹を裂き、氷塊を詰め込み、見る間に魚の山をとり崩して行く鮮やかさなどは観る者に息もつかせない花々しさである。獲物を満載した長大な列車が非常汽笛の如くけたゝましい笛を鳴らし、歓呼の声を浴びて村の停車場から出発した。
 樽野の家は遊園地へ差しかゝらうとする丘の中腹にある一軒家で村とは半里近くも離れてゐるから同村の者とは称び憎くかつたが、その素晴しい村の大景気は恰も光の翼を延して此処の戸口を叩くかのやうであつた。天気さへ好ければ遊園地には毎日のやうに様々な催しごとが挙行され、村は村で例年の春の祭りの期節であつた。林や正吉は村の面白さに誘はれて滅多に家には寄りつかなかつた。――門先に立つて遥かの村を見渡すと其処の一区劃だけは見るからに霞は甘い悦びに充ち、有項天の息づかひが雲に棚引いてゐた。村端れの街道にはにわか建ての飲食店があふれ出て、空高く万国旗を張り挙げ紅提灯を連ね野楽バンドを奏して人を招んでゐた。
 このあたりで貧相な鹿爪らしい顔つきをしてゐるのは樽野唯ひとりであつた。本来は浮気な享楽派の彼であつたから、斯んな風に籠居してゐるのは牢獄に居る苦しみであつたが、何んなに思ひ立つても、彼は明るみで他人と顔を合せる心になれなかつた。彼は長い冬を全くの日蔭の物体で過して来た。――凡そあたりの空気は、個人ひとの悩みなどといふものからは遠く、単に吾々は健全なエピキユリアンであれば幸ひだ! と囁くばかりな、颯爽たる、結構な賑ひが日毎に盛んになつて行くのであつたから、決して研究の為に精進してゐるわけではなく、悟道の為に苦行に励んでゐるわけでもない厭々の籠居を続けてゐる樽野にとつては、あゝ遊びに出たいなあ! お祭りを見に行きたいなあ! 斯う云ふ羨望の思ひのみが身を焦すのであつた。この誘惑と闘ふことが我慢出来なかつたのであるが、彼は、母やGやそして自分のことを知ると、恐ろしい後ろ暗さに襟元をつかまれて、逃げやうとして門柱にしがみついても腕はもぎとられ、石をつかんで暴れ廻つても、捕り手に囲まれた悪人の最後のやうに忽ちいましめられてもとの牢獄へ伴れ戻されてしまつた。――彼は、薄暗い幕の内側で狂人の如く見苦しく、のた打ち廻つた。彼は、持論として奉じてゐる『厭世に価しない人生』のために、胸倉をとられて小突かれ、脚を払はれて真ツ倒様さかさまに転倒した。……彼は時々鏡に写る自分の顔を見ると、見るからに凄まじい芝居の厭世家みたいに仰山な鬚武者に化してゐるので――何といふこともなしに太い溜息をついた。
 そして彼は、思慮を欠き、判断を失つて、寝てゐるわけにも行かなくなると部屋の隅にある祭壇の下に膝まづいて、いつまでもひれ伏した。
 この部屋の隅には、この家を建てた者が、住むだら仏壇にでも仕様と思つたらしい左右に開く布張りの扉がついた袋戸棚のやうな場所があつた。はぢめ樽野は書棚に使つてゐたが或日夢を見てから、何となく勿体ない気がして書物をとり片づけた。そして、あまりガランとしてゐる気分が変だつたので樽野は自分の机の上に載せてあつた、聖母像の浮彫が施してある Pax を置き換えた。それは彼が何年か前に別れたFといふアメリカ娘に贈られたものである。母さへが反対さへしなければ父の許しを得てゐた樽野は、Fと結婚する筈だつた。
 それで、祭壇といふほどのこともなかつたが、何の心の放ちもなく長い籠居を強ゐてゐるうちに寂しさに堪え切れなくなつた彼は、到々迷信的に成り変つて稍ともすれば、壇の前に脆いて[#「脆いて」はママ]秘かに神の判断を乞ふた。
 彼は、祭壇に灯火をかゝげて、昔、遠い国で行はれたといふ「ランプの祭り」を催すことがあつた。月あかりの宵を選んで、明方の光りが射し込むまで、ランプの下で祈るのである。――吾等は、月の光の下でも、陽光を浴びながらでも、そしてまた闇の中でも、云ひ得ぬものを持つてゐる、吾等は自らの手で点したる小さな灯火の下でなければ、云ひ得ぬものを持つてゐる――ランプ祭はBC何世紀の頃斯うした人の心持に源を発した若者達の祈りであると伝つてゐる。
 そんな静かな夜もあつたが、また彼は、アテネの不孝児になつて残虐の剣をアポロに乞はうとする嵐の晩もあつた。彼は、吾身も吾が想ひも、遠く、この国を離れ、昔の星の下で行はれる出来事にしたかつた。彼は、圧えきれない情熱を持つてゐた。 
 ランプを消して寝たまゝ樽野が窓掛を眺めてゐると、遥かに戛々かつ/\と馬蹄の音がする――庭の行き詰りが石投で降りる土堤どてになつてゐたから下の往来は見降すわけに行かないので彼は、手の平を耳の後ろに翳して街道の騒ぎを窺つた。いつもの通り花火の合図で、上の遊園地へ出かける車馬の行列なのだ。
 人の声は聞えないが馬のいなゝきだけは怖ろしく立派に反響する。自働車のラツパが鳴る、馬車の轍音がする、更に耳を澄すと無数の自転車のベルの音が絶え間なく、巡礼の群がおし寄せてゐるかのやうに続いてゐる。そして花火の音が空に砕けると、四方八方から伏兵の声のやうにワーツといふ歓声が挙つた。
 樽野は思はず、
「面白さうだなあ!」と吐息をついた。彼は寝台の中で身を起して、窓掛の間から美しい空を眺めた。明るく澄み渡つた青空には一点の雲もなかつた。今しがたの花火から現れた紙人形の風船が、海の方へ向つてフワ/\と飛んでゐた。微風さへもないのだ。天気さへ好ければ此間うちから引き続いて競馬会が催されてゐるのだが、今日は競馬の他に何か盛大な祭りが挙げられるのだらう、夥しい人出だ。競馬には、林や正吉やそして妻達が道楽気ではなく青く殺気を含んで通つてゐた。
 そのうちに、行進曲を高らかに吹奏しながら近づいて来る音楽隊があつた。――あれだな! いよ/\今日は本舞台に乗り出すのだな! 斯う思ふと樽野は、坐り直つて不安気に耳を傾けた。
「うむ、仲々巧くなつた! 余程緊張はしてゐるらしいが、呼吸いきは十分だし腕力は余つてゐるし、あれだけの道中を続けた上句に更に坂道を昇りながらも平気で演奏を続けて行く威勢は素晴しい。」と樽野は感心した。村の在郷軍人団と青年会の有志で初めて組織された野楽隊なのである。去年の秋時分で樽野が未だ村内では斯んなに引ツ込み思案にならない頃だつた。樽野の部屋から朝夕朗らかな喇叭ホルンが響き渡るのを知つた青年代表が彼を訪れて管楽に関する教へを乞ふた。軍歌だけが出来るやうになれば好いといふ望みだつたから樽野は得意になつて模範を示した。彼の部屋に大太鼓が担ぎ込まれたりした。これは彼も打つた事は無かつたが軍歌調に合せる位ひならば何んでもないので彼は指揮棒の代りに撥をとつて太鼓を打ちながら彼等の喇叭の練習の調子をとつた。ハーモニカの巧みな正吉やマンドリンの嗜みのある細君等も打ち交つて世にも不思議の大合奏が夜毎に樽野の部屋で演奏され続けたのであつた。
 初めて街頭に立つた隊員の姿を想ふと樽野の胸は確く引きしまり、不自然な鼓動がグツと喉元に圧しあげて来た。……本譜に外れた擽るやうな節廻しは避けなければならないと堅く注意をしてゐたのであつたが、今はもう余りに慣れて一寸気取らずには居られないといふ三昧境で、思はずクラリネツトは合間をねらつて山羊が叫ぶやうな諧謔味を添えたり、故意に空高く吹き鳴したコルネツトを、高調の頂点で巧みに呼吸を抜いて、ハラ/\と花の散るやうに人々の胸を撫でたりする生意気な洒落を入れたりしたが、それも別段厭味にもならず返つて、行く人の脚なみを軽くせしめてゐるかのやうだつた。大太鼓ばかりが生真面目な調子をとつてゐるのが寧ろ焦れつたいやうに感じられたが、鼓手は飽くまでも厳めしい力を込めて他の稍ともする浮き調子に、見事な干所かんどころを与へて調和をとりながら意気を挙げて行つた。……何もも美しく和やかな朝の光りに溶けて理屈がないかのやうであつた。
 楽隊は、樽野との思ひ出が最も深い、これならば充分に安心して演奏が出来る練習に練習を重ねた十八番の「春爛満!」をやつてゐた。その周囲を悦び勇んで群れて行く子供達が歌つてゐる大合唱の声が雨のやうに樽野の全身を包んだ。――「春爛満の花の色――紫にほふ雲間より――」
 樽野は風をくらつて部屋から飛び出した。彼は一目散に庭を横切り笹籔に覆はれた土堤を上へ上へと兎のやうに伝つて庚申堂の裏手に達した。其処から見降すと、ゆるやかな勾配で村から続いてゐる街道が一直線に眺められるのであつた。そして直ぐの眼の下がその丘の遊園地へ差しかゝる崖と崖にはさまれた赤土の径であつた。彼は崖際に逼ひ寄ると、草むらに埋つて、そつと見降した。楽隊は既に丘を昇りきつて向ひ側へ迂廻してゐるところで微かな響きだけが次第に遠ざかつてゐた。だが街道は凄まじい人出で埋つてゐた。村の人々は大概通つてしまつた後だと見えて続いて来る群集は近郊近在から遥々と遠足して来た樽野の見知らぬ顔が多かつたが、仔細に注意して見るとぽつ/\と知つてゐるまちの人の顔が現れた。その度毎に樽野は、電気に触れたかのやうなシヨツクを覚えて首を引き込ませた。
 蜜柑畑の番人が、今日は新しい洋服を着てステツキを振りながら通つた。彼自身は知らなかつたが、見ると自分の名前の下に自分の判が捺してある証文を突きつけて有無なく此処の住家を立ちのかすことを強ひてゐる株屋の手代が左右に芸妓を侍らせた自動車を飛して行つた。「御当人にお目に掛らなければ話はつきませんがな。会つたつて話が無いツて! 無いには無いでせうさ。ともかく東京へ発つ日位ひはもう決つたでせう?」
「あなたは誰に頼まれたんです、そんなことを!」林がつとして答へた。
「云ひませう、樽野さんのお母さんにです。」
あきちやん、お止めよ。」正吉が、林をさへぎつた。林は、凄い顔をした。
 そして「見てゐろ!」と叫んで慌てゝ帰つて行つた手代である。手代はGの飲み仲間であつた。
阿母おふくろ! といふと僕が何んにも云へなくなつてしまふというふことを、阿母自身が知つてゐるんだ。あの男は前には僕の親父に雇はれてゐたんだが、此頃は阿母を主人にしたものと見える。地震の時分などには阿母はGと一処になつて、親父さへ追ひ出さうとしたんだからね、あれを思ふと俺は口惜しい。」
「…………」
 怖くはなかつたが、母といふ言葉を口にした手代の顔を樽野は見られなかつた。
 競売の通知で時々樽野を訪れてゐる山羊髯の執達吏と金ぶち眼鏡の銀行員が、其処の樽野の家の下を通る時に一寸と立ち止まつて、指差しをしながら何やら点頭き合つて通り過ぎるのを彼は瞥見した。銀行員は赤い顔をした。
 銀行員と樽野は斯んな話をしたことがある。
「競売と云つても此処でないんなら私の宛名は新町なんですから此方へ持つて来なくても好いだらうと思ふがな! 封を切つても仕様がないので、ああして置くのですが、御覧なさい、斯んなに溜つてゐる。」
「ほんとうにあなたに対しては銀行としてはお気の毒でならないんですが――」
「何でも銀行の利息を払ふといふので、他の物を整理してゐるさうですから。――尤もまア新町には吾家の者が居ないんだから話にならないでせうが、隣りの青町……」
「無論さうなんですがね、銀行としては其処まで立ち入るわけには行きませんしね。」
「それは?」青町とは母である。「当人が知らないなんて、私は恥しい。銀行は飛んでもない者に引ツ掛りましたね。私は、サギ師としてつかまつてしまひたい――」
「まあ/\さう感情に走らないで下さい。あなたは近いうちに東京へいらつしやるんだつてことを青町の方で伺つて、さうすると此処はもうどうせいらない場所だし……」
「何んにもいらない――僕は、あなた方にお気の毒でなりません。」樽野は、この銀行員には好意を感じてゐた。青町! といふ時に彼が樽野に対して、吾知らず気の毒さうな思ひ入れを示すのが、樽野は見て居られなかつた。
 執達吏は感情には要はなかつたが、※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)に似あはず彼も優しい丁寧な人で、訪れて来ても極く低い声で、ソツと書きつけを示すだけだつた。妻と世間話などして行つた。
「厭になつてしまふわね、また!」
「あゝ、足労くたびれた。歩いて来るんだから堪りあしない。」
 妻と執達吏は、懇意になつてゐた。
「此間の日曜に汐干に行つたでせう。」
「何処で見てゐたの?」
「昨日新町へ手紙をとりに行つた時に、途中で母さんに会つて聞いた。」
「あゝ、さうか――さうだ汐干で遭つた。」
「母さんに?」
「えゝ……」
 ――母の昔からの友達で樽野の家庭については近頃の事を悉く知つてゐる琴の師匠が美しい娘達と伴れ立つて来ると彼の門を振り向いて何か伴れの者に囁いた。すると娘達のAは「まあ!」といふやうなあきれ顔を示し、Bは赤くなつて顔を反向け、Cは口をあいて嘲笑つた。B子は樽野の友達の妹で、時々樽野達と往来ゆききしてゐる仲だつた。――見るからに偽善者らしい面持をして洒々と車を飛ばして行く母の姿に、樽野は眼の先を寄切よぎられた。母の傍には、シガアを喫しながら外套の襟をはだけて、そりかへつてゐるGがゐた。彼等は、樽野の門下を通つても其処の家を振り向きもしなかつた。
 樽野は、もう、其処で、その上、群衆を眺めてゐるのは堪えられなかつた。見物してから十分も経つてゐなかつたが、次々に知人の顔が夥しかつた。新しく切り開かれた赤土の道で、両岸の崖も模型図のやうに鮮やかに赧い断層面をそばだてゝゐて、黄ばみの強い陽が降り灑いでゐるので、熱帯地の真昼を想はせるかのやうに熾烈な光線に射られて初めから樽野はまぶし気に眉を顰めてゐたのだつたが、にわかに光りがぐる/\と渦を巻きはぢめ、忽ち物のかたちが煙りに沈んでゆくかのやうに薄ぼやけ、そして、滅茶々々に色硝子の器物が砕け散るかのやうに、混乱した。――樽野は、煮えくりかへる汚辱の大釜に投げ込まれて、望遠鏡を握り絞めたまゝ、らゝかな光りを含んで萌えたつてゐる青草の中に仰向態に悶絶した。

 樽野の部屋に懸つてゐる鳩時計がお午を打つた。すると、それに前後して茶の間のボン/\時計が八時を鳴らした。――茶の間では上向きに寝転んで脚は恰度倒立ちをしてゐる見たいに高く、柱に立てかけてゐる林が、
「一体何時頃なんだらう?」と云つた。
「十時頃でせう。」樽野の細君は窓に腰をかけて編物をしてゐた。
「此方のボン/\は何故とめて置かないのさ、で、なければ向方あつちのでも――二つが間違つてゐるんぢや……気にすると、全く時間の観念が妙になつて来る!」火鉢の前に胡坐をして天井に向つて煙を吹いてゐた正吉が独言めかしく呟いた。
「寝てゐて鎖が引けるもので、あつちのこそとめて置けば好いんだのに、つい兄さんは鎖を引つ張つてしまふのらしい。」
 鳩時計は一晩に一時間あまりも進み、ボンボンは一時間近くも遅れる時計であつた。屡々時計の事は彼等の話材になつたのだが、此処では正確な時間を知る必要もなかつたし、村には修繕する時計屋もないらしかつた。細君が云つた通り樽野は始終手持ぶさたであつたから稍ともすれば寝たまゝ腕を延して鎖を引き垂すのであつた。でも、時間を合せることはしなかつたから、コト/\と進み放しの鳩時計が時を報ずる音は、駈足で地球を廻りながら次々の都の時計とは出合つてゐたかも知れないが――。
「あれでも一度合せれば半日位ひは正確なのよ、大体――。だから、あたし……」細君が何か続けようとすると、
「此間の晩、僕は、あいつでは酷い目に合つた。」と正吉が恨めしさうに柱時計を見あげて物語つた。姉は東京へ出かけて留守で、林は此頃稍ともすれば酒を欲してその晩も村の居酒屋から帰らなかつた。彼等三人が座敷に寝て樽野は、隣りの自分の部屋に中から鍵を降して、時々小声で何かブツブツと呟いたりしながら何時も独りで暮してゐた。ふと正吉は眼を醒すと、独りでゐることが馬鹿に寂しかつた。隣りの樽野は、醒めてゐるらしかつたが例の呟きが、時々訳の解らない歌になつたり、さうかと思ふとクス/\笑つたりするのだ。正吉は、酷く薄気味悪かつた。臆病で夜道は独りでは厭だつたが、柱時計が十時を打つたので、思ひ切つて外へ出かけたのである。彼は林を迎へに行かうと思つたのである。
 傍目も触らずに明るい月の街道をステツキを振りながら歩いて行くと、明るさが、何だか変だと思つてゐるうちに、それは月のあかりではなくて間もなく白々と夜が明けて来たではないか! 宵の九時か十時だとばかり思つてゐたのに――。
「事が解れば何でもないんだが、その時は全く薄気味悪かつたぜ、僕は――」と正吉は、何か適当な形容詞を使はずには居られなくなつて、凝つと言葉を切つてから、静かに重たげに続けた。「僕は、とても青くゾーツとして来てね、体がまるでメダカのやうにスキ透つてしまつたぜ、その時には――、夢だか、死んだんだか解らない感じだつたよ。何しろ君、夜の十時に夜が白々と明けて来るといふんだからな……」
「そいつは一寸厭だね、俺にも解るよ。酔つ払つて田甫道なんかに寝てしまつてさ、眼をあくと日がカン/\とあたつてゐる……そんなのよりは神秘的だ――」
「あの時は一週間目で巻く日なんだもの、とても遅れてゐたらうさ、馬鹿だね。」
「それ位ひならば、せめて毎朝、此方のだけは一度づゝ時間を合せて置けば好いのに!」
「あたしには二日目には何れ位ひ、三日目には何うといふ風に勘定すると直ぐに時間が解るのよ、差引きでさ、感心なことには何方の時計も進み方と遅れ方がそれは/\正確なのよ。」――自分はそれに一種の面白さを持つてゐる! などといふ計算上の感想を彼女は述べたりした。
「えらいよツ!」と正吉はいま/\しさうにほき出した。林は苦笑しながら、
「ジヤガ芋を喰ひ過ぎたんで、胸がやけて仕様がない。正ちやん、そこからタカヂアスターゼをとつて呉れよ。」
「やあ、からつぽだ!」
 不図其処に樽野が顔を出して、
「何時引ツ越さうか?」と云つた。
「新町に決めた?」と細君が訊ね返した。
「…………」
 樽野は、湿つぽい顔をして、また黙つて引ツ込んでしまつた。
 皆なが何となく白けて黙つてゐると、暫くたつて、林が独りで感心した太い声で、
「斯うして沁々と眺めてゐると俺の足は、随分でつかいなあ!」と歎じた。――だがそれきり誰も口を利かうとする者もなかつた。林は柱に立てかけた脚を眺め、正吉は天井に煙を吹き、細君は編物の手を動かしてゐた。部屋の中程まで陽がさしてゐた。
 樽野のアポロは、樽野に、母のゐるまちを去れ! とは云はなかつた。そして、同じ市に居て、母の老ひの日が来るのを待たなければならない、零落の杖をついて、汝の許に宿をもとめに来るであらう母を、待たなければならない――と告げた。
 初めてこの言託を耳にした時には彼は、厭で、厭で! Pax のマリアにとりすがつて、アポロの残虐を訴へたり、あて度もない雲水の旅に恋ひ焦れたりしたが、もと/\人情の善、悪に関はりのない手前勝手だけが樽野の感情なのであるから、いつの間にか白々しくなつて、
「居れと云はるゝならば――」と、何んな人々もさうである通りに、跪いて、恭々しく、絶対の命令に服した。
 折も折、この頃の樽野の読書は、十年のプレトンを出でて、アリストートルの“Meta”に一歩を踏み入れたところであつた。彼は、時の隔りを忘れて、熟読に没頭する歴史の愛好家であつた。彼が始めて「混沌時代」の扉を開いて、次々の哲学者の門をラマンチアのドン・キホーテ的情熱で振り仰ぎながらプレトンに至るまで十年の旅路であつた。この勢ひで計算すると、彼の歴史研究は彼が百歳にならないと、近世の思想には達し得ないわけであつた。
 樽野の机の上には、大型の地球儀が据り、分度器やコンパスが散らかつてゐた。彼は、今や、在るものを見究めなければならなかつた。彼は、在るものに、彼としての穿鑿を加へ、整頓を加へなければならなかつた。哲学史がプレトンの次にアリストートルを要求すると同じく、樽野の頭にも冷静な実験家が現れなければならなかつた。
「在るものは失つてはならない、眼の先に置いて大切に本体を究めなければならない。」などと彼は呟いた。勿論彼の、在るもの――は物体ばかりを意味しなかつた。
「新町へ行かう――どんなにボロ/\の家にしろ、未だあれはたしかに俺のものらしい。」
「行くより他に仕方がないわね。この通り何にでも差押への札が貼られてしまつたのぢや!」細君は、そら/\とあたりの物品に指を指した。それでもなるべく目立たぬやうに、椅子なら底に、トランクならば内側に――といふ風にはなつてゐたが、細君の指のさす処には必ず財産差押への赤い札が多く斜めに貼つてあつた。「あつちへ行けば私達が東京から持つて来た荷物が未だ荷造りのまゝになつてあるから……」
「正ちやん達に、行つて、それを解いて置いて貰はうぢやないか。」
「荷造りは出来てゐるし、それを持つて私達が直ぐに出かけてしまふに違ひないと……」
「話を其方へ向けまいよ――」
「近くなつたら、さぞ追ひ立てが猛烈になるでせうね、我慢出来る?」
「我慢して仕事を始める――」樽野は、うつむいてゐる妻に云つた。「我慢? いや、それは取り消しだ。僕の想像では、追ひ立て! なんていふ場合ではなくて、吾々の家に、阿母さんが――しまつた、云ふまいと云つてゐながら自分がこれだ! 取り消し! ――僕は平気なんだよ、つまり――。何んな事件が起つたつて、平気だ! と思へば、平気ぢやないか、えゝ?」
 などと樽野は、平気ばかりを繰り返してゐたが、肉体は平気の反対らしく、見る/\うちに血の気が失せて行つた。「あゝツ! 変だ/\、心持はこの通り平気なんだが――おや/\、煙草が手から落ちてしまつたぞ――いつもの発作が起つて来たらしい!」
「黙つてはいけない、話を続けなければいけませんよ。」細君は夢中になつて叫んだ。黙ると、その儘気が遠くなつてしまふのであつた。時々彼が、斯んな発作に出遇つてゐるうちに、新療法が発見されたのである。喋舌り続けさへすれば、意識が元に返る――といふ荒療法だつたが、たしかに彼にはそれが効めがあつた。
「どうぞ、言葉を続けて!」細君は、よろ/\とする樽野を救けて寝台へすゝめた。そして、今にも呼吸を引きとらうとする人間を、呼び返す騒ぎであつた。
「お父さアん! お父さアん!」
「わかつた/\、黙ると大変だ。――アレキサンドル大王がアリストートルの最も忠実な弟子であつたといふことを君は知つてゐるだらう。大王が、先生の唯物論を最も単的にこの地上に現出させたのが、アレキサンドリアなのさ。僕は建築学の知識は持たないが、そして、与へられたものなら馬小屋にでも、座敷牢にでもプラトニツクの満足が得られるのを幸ひとして、僕も、其処で、何かの意味で、僕のアレキサンドリアの建設を計らうと思つてゐるんだよ。」
「東京の郊外へでも行つて、バルコンのついた家を建てないこと、あなたは家の設計図をかいてゐたの――嬉しい。」
「大王が、その愛馬を Bucephalus と称んだのは、何故か? 物語らう。」
「あら、それは馬の名前だつたの!」歴史嫌ひの彼女は、彼の云ふ大王は現存の人かとも思つてゐた。それに樽野は、普段でも、己れの尊敬する現代の人物を呼ぶ時(人物の数が相当に多いのである)には、何故か当の個有名を云はずに、X町のオレリアス皇帝、Y社のエピキユラス尊者、A館のソフオクレス先生――そんな風に自分の知つてゐる歴史範囲のうちから選んだ英雄の名で呼んでゐたから――。
「あたし、オートバイの、英語でない、単語かと思つてゐたわ。だつて、あなたはいつも俺の Bucephalus と云つてゐるんですもの。」
「一般には乗馬のりうまのことをさう云つてゐるから――だが、もとを正せば――」
「もう三月も前からガソリンがなくなつて、手紙をとりに行くにも歩いて行くのよ。」
「あれにも、あれが貼つてあるか?」
「えゝ、サドルの端に。」
「プラネタリユウムといふものを買ひたいね、万年前でも、後でも定めた一夜の天体の現象を自由に観ることが出来る機械なんだよ。クレオパトラがナイル河を降つた夜の空でも、サロメが指差した怪しい星空でも、君が生れた晩の空模様でも、あいつが吾家に忍び込んだところをお父さんに見つかつて、あの怖ろしい喧嘩が起つた丑満時の天体でも、自由自在に円天井に映し出して見られるといふ機械なんだからね。ドイツではこれの常設館が出来て毎晩々々あらゆるプログラムに依つて実写されてゐるさうだが、一台欲しいね。船賃まで勘定して、三十万円あれば足りるんだ、安いと思はないか。」
「ほんとうにね、今度小説を書いたら、お買ひなさいよ。」
「よろしい。計画は立つてゐる。――明後日の朝、新町に移らう、明後日の晩から創作にとりかゝらう。」
「おゝ、嬉しい。あたし夏の帽子を一つ買はなければなりませんわ、一日も早く書きあげて買つて頂戴ネ。」
「直ぐにそれだ。馬鹿だね。今度の小説ではプラネタリウムの購入で一円の余猶もないよ。それからお父さんの負債を返し……と、まあこのリストを御覧! 事実だ、事実だ、事実を離れて何の哲学ぞや、実生活を離れて何の創作ぞや! 新町の生活が待つて居る。」
 それから彼は、悲劇の出生を説き、最初の悲劇作家の作物を読んだアゼンスの娘達は悲しみのあまり悉く断髪を決行し、続いてこれが喜劇の材料にされた話などをしてゐるうちに漸く療法の利目きゝめが出て、さつきとり落した煙草を拾ひあげながら、
「その流行の起原はそこに源を発してゐるんだね。」などゝ感心して細君の短い髪を眺めた。
 樽野を部屋に収めて戻つて来た細君が、
「明後日にするつて!」と告げると、林が、
「世の中で最も簡単な引つ越しだね。」と云つた。林は、白けて黙つてゐるのが嫌ひで、努めて他の者の気持を引きたてやうとするのであつた。
「何も彼も持つて行かせてしまつてさ、ガランとした中で小説を書いてゐるのも悪くはなからうがな、此処で。」
「だつて、明ちやん、机にだつて赤い札が貼つてあるわよ。」
「いや……たゞ僕に喋舌らせて置いて下さいよ、黙つてゐると、どうもイカン――」
「ウツツたの、明ちやん。」
「ボンボン時計にも鳩時計にも赤い札が貼られてゐたが、時計は何時ものやうに動いてゐた――と書き出すかな。」
「凄い詠嘆調だな。」と正吉が情けなさうに呟いた。林は、何かもつと云ひ続けようとして、ふと「生活に直面して……」といふ言葉を口にすると、突然大きな声で笑つた。自暴にするつくり笑ひで、
「愉快/\!」と叫んだ。
「何よ、明ちやん、何が愉快なのよ、失敬だわね、こんなに皆なが青ざめてゐるところだといふのに!」
「アツハツハツハ――樽野さんの――」林は兄の友達に寄せる好意を何んな風に現して好いか解らなくなつてたゞ、
「笑はずには居られない……」と笑つた。
「もうお午時分ぢやないかしら。皆な御飯どうする?」
「――僕は、食べたくない、胸が一杯で。」と正吉は、横に倒れながら云つた。
「明ちやんは?」
「ジヤガ芋の胸やけが、未だなほらないからお午は抜かう。――正ちやん、荷物を解きに行つて見ようか。」
「…………」
「正ちやん、兄さんに訊いて来てお呉れな、御飯どうするつて! 朝も食べてゐないんだし、無理にでも少し食べられないかつて、訊いて御覧な。」
 正吉は、立つて行つた。
「食べ物が悪いもので、あんな奇妙な貧血症なんて起すのかしら?」
「まさか――。でも、滅多に自分からすゝんで何か食べようといふことは云はないね、腹が空かないのかな。」
「あの人は、苦労なことが起ると、何うしても食べられないんですつて、箸をとらうとすると直ぐにムカツとして来て……」
「止して下さいよ、僕もなんだか変になつて来た。アツハツハ――一寸出かけて来よう直ぐに帰つて来るけれど――」
 林は、何か思ひ立つたやうに慌てゝ、立ち去らうとした。
 細君は、柱時計を見あげて、
「帰りがけに時間を見て来てね。あツ、それから――」と、正吉へ声をかけた。「何してゐるのよ。正ちやん、兄さんは眠つてゐるの?」
「起きてゐるよ。」
「御飯は食べられるツて?」
「食べるつてさ、お腹が空いて目が眩みさうだから大急ぎで仕度をしてお呉れツてさ。」
「そんならね、明ちやん、鶏をたのむわ。」と彼女はシヤツの袖をたくしあげながら叫んだ。
「ようし! そのつもりで出かけるところだツたの、十分で帰つて来るから、支度をして……」と玄関の外で遠ざかりながら、林が威勢のある声を挙げた。附け足すまでもなく林は、鶏を買ひに行くわけではない。
(昭和三年・五月)

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新進傑作小説集12 瀧井孝作集 牧野信一集」平凡社
   1929(昭和4)年12月15日
初出:「新潮 第二十五巻第六号」新潮社
   1928(昭和3)年6月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月6日修正
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