「食後」の作者に

 ――君。僕は僕の近來の生活と思想の斷片を君に書いておくらうと思ふ。然し實を云へば何も書く材料はないのである。默してゐて濟むことである。君と僕との交誼が深ければ深いほど、默してゐた方が順當なのであらう。舊い家を去つて新しい家に移つた僕は、この靜かな郊外の田園で、懶惰に費す日の多くなつたのをよろこぶぐらゐなものである。僕には働くといふことが苦手である。ましてや他人の意志の下に働くといふことは、どうあつても出來ない相談である。それなら自分の意志の鞭を背に受けて、嚴肅な人生の途に上らねばならぬといふことは、それが假令考へられるにしても、その考を直ちに實行に移すことを難んずる状態である。今までに一つとして纏つた仕事を成して來なかつたのが何よりの證據である。
 空と雲と大地とは終日ながめくらしても飽くことを知らないが、半日の讀書は僕を倦ましめることが多い。新しい家に移つてからは、空地に好める樹木を植ゑたり、ほんの慰みに畑をいぢつたりするだけの仕事しか爲さないのである。そして僅に發芽する蔬菜のたぐひは、これを順次に、いかにも生に忠實な蟲に供養するまでゝある。勿論厨房の助にならう筈はない。こんな有樣なのであるから、田園生活なんどは毫頭想ひも寄らぬことがらである。僕の生活は都會ともつかず田園ともつかず、その中間にあつて、相變らず空漠なその日暮らしで始終してゐる。そして當然僕の生涯の絃の上には、倦怠と懶惰が執ねくもその灰色の手をおいて、無韻の韻を奏でてゐるのである。
 考へて見れば、これが「生の充實」を稱ふる現代の金口に何等の信仰を持たぬ人間の必定墮ちてゆく羽目であらう。その上、僕には本能的な生の衝動が極めて微弱であるから、悔恨の情さへ起り得ない。とどのつまり永遠に墮ちてゆく先は無爲の陷穽である。
 然しながら無爲の陷穽にはまつた人間にもなほ一つ殘された信仰がある。二千年も三千年も言ひ古るした、哲理の發端で綜合である無常――僕は僕の生氣の失せた肉體を通じてこの無常の鏡を今更しみじみと聽きほれるのである。これが僕のこのごろの生活の根調である。矢張僕の神經や肉の纖維には佛教の蟲が食ひこんでゐると見える。古本の紙魚を日光に曝らして拂ひ落すやうに、この佛教の蟲が拂ひ落せるものか、どうか。この蟲がそもそも轉變窮りなき夢を見せるのである。人間の芝居を人形の芝居として見せるのである。それからまた大自然をも方丈の室に納めるのである。結局大乘佛教の宏大な異端、自在な戯論に到達するのである。かの禁慾的な道元禪師は幻の清淨を曲説した圓覺經を僞經だと云ふた。そして異端の經文だと思つてゐた。僕に取つては大乘佛教の思想の眞に美しい部分はいづれも異端の思想であるやうに思はれる。僕は如何に大乘佛教説相が美しいからと云つて、強ちにそれを信ずるものでもない。また敢てそれを信ぜぬものでもない。そこには無類な蠱惑の快味がある。光明三昧がある。唯僕の信念の源としては無常で澤山である。
 郊外に居を移してから、僕の宗教的情調は稍深くなつて來た。僕の佛教は勿論僕の身體を薫染した佛教的蠱惑の氣分に過ぎないのである。僕は涅槃を願はずして、涅槃の風趣に迷ひたいのである。幻の清淨を體得するよりも、寧ろ如幻の境に暫く遊戯の「我」を寄せたいのである。睡つてゐる中に不思議な夢を感ずるやうに、倦怠と懶惰の生を神祕と歡喜の生に變へたいのである。無常の宗教から蠱惑の藝術に徃きたいのである。

 僕は元來が他に向つて率直であり得ない性分である。それであるから、大膽に自己を語ると云ふことなど、到底出來さうにもない。多樣で、斑で、そして小心な「我」は不幸にも主義によつて一筋道に攝しられてゐない。一筋道ならば自己を語るに都合のよいことがあるかもしれない。或は舊我を屠る快手腕に出ることも出來よう。天體に於ける星座のやうに一つの軌道を護ることを知らない「我」は、南の枝、北の枝に、開き且つ落ちる花のやうなものである。見よ、幽靈さながらの「我」の日輪が北方の天に漂ひ、同時に蜉蝣の如き「我」の月輪が大地の裂罅からさし上る。それを今どうして説明が出來よう。人を恐れるからではなくて、「我」を恐れるからである。所詮は藝術の假面の下に「我」を置くばかりである。そしてあらゆる手段と方法とを以て、虚僞の網を張るばかりである。この虚僞の網の目から中を覗いて見て、そこにふと藝術的眞實の玉座を認めて、始めて驚く物數奇も定めて多くはないことであらう。大入場から舞臺を見物するやうな熱心な手合も少なからう。木偶が踊つてゐようが、雲霧が轉じてゐようが、將又かのピヤノの上に蹲つた猫がそらねぶりをしてゐようが、そんなことには一切お構ひなしであらう。そうして僕自身も、いつになつたら僕の藝術が成就するか、それさへ實は判らぬまゝである。

 かやうに懶惰な僕も郊外の冬が多少珍らしかつたので、可笑しなことに、日記といふものをつけて見た。去年の十一月四日に初めて霜が降つた。それから同じく十一日には二度目の霜が降つた。四度目の霜である十二月朔日は雪のやうであつた。そしてその七日、八日、九日は三朝つづいたひどい霜で、八ツ手や、つはぶきの葉が萎えた。その八日の朝初氷が張つた。二十二日以後は完全な冬季の状態に移つて、丹澤山塊から秩父連山にかけて雪の色を見る日が多くなつた。風がまたひどく吹いた。以上が日記の拔書である。
 然し概して云へば、初冬の野の景色はしみじみと面白いものである。霜の色の蒼白さは雪よりも滋くて切ない趣がある。それとは反對に霜どけの土の色の深さは初夏の雨上りよりも快濶である。またぼろぼろになつた青苔が霜どけに潤つて朝の日に照らさるゝ時、大地の色彩の美は殆ど頂點に達するのである。この時の苔の緑は如何なる種類の緑よりも鮮かで生氣がある。恰もエメラルドを碎いて棄てたやうである。また恰も印象派の畫布に觀るところの如くでもある。僕はわびしい冬の幻相の中で、こんな美しい緑に出會うとは思ひもかけなかつたのである。僕の魂も肉もかゝる幻相の美に囚はれてゐる刹那、如幻の生も樂しく、夢の浮世も寳玉のやうに愛惜せられるのである。然しながら自然の幻相が何等の強力を待つて發現するものでないのと等しく、その幻相の完全な領略はまた何等の努力をも待たないものである。夢をして夢を語らしめよ。

 ――君。僕はもう默してよいころであらう。眼も疲れ、心も疲れた。ふと花壇のほとりを見やると、白い胡蝶がすがれた花壇にさいた最初の花を搜しあてたところである。そしてその胡蝶も今年になつて始めて見た胡蝶である。春が來る。僕の好きな山椿の花も追々盛りになるであらう。十日ばかり前から山茱萸と樒の花がさいてゐる。いづれも寂しい花である。ことに樒の花は臘梅もどきで、韵致の高い花である。その花を見る僕の心は寂しく顫へてゐる。
(明治四十五年三月)

底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房
   1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
   1938(昭和13)年12月10日
初出:「島崎藤村著『小説 食後』序文」博文館
   1912(明治45)4月18日
※初出時の表題は、「食後の作者に」。
入力:広橋はやみ
校正:土屋隆
2005年11月24日作成
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