「登志さん、果物でも持つて行つたらどうなの、雑誌ばかり読んでゐないで……」
 ナイフや皿の用意をととのへながら、母は登志子を促した。
「キクに言つてよ。あの集りの中へ這入つて行くのは、あたし何だか気まりがわるいのよ、あたしが行くと皆が変に黙つてしまふんですもの……」
「お前さんが、あんまり気どつてゐるからぢやないの。」
「まあ、ひどいわ、母さんたら……」
 二人が、そんなことを言ひ合つてゐると、やがて離室はなれの窓から、
「登志子、登志子――ちよつと来て呉れないか?」
 と兄が呼んだ。
「何あに……?」
「好いから、ちよつと来て呉れよ。」
 ――兄の部屋には、今夜もまた七八人もの友達が集つてゐた。兄と共に、一年前に文科大学をへた者や、未だ文科の学生である幾人いくたりかが、このごろ毎晩のやうに兄の部屋に集つて、文学の同人雑誌を発行する相談で夜を更してゐた。――その晩も、明るいうちから彼等はさかんに議論か何かをたたかはせてゐるらしかつたが、そのうちに、やがて、一同は疲れて眠つてでもしまつたかのやうに、しんと静まつてゐた。そして、折々、
「そんなの駄目だよ。」とか「それは、あんまり大げさだ。」
 などと言つて、わつといふ笑ひ声が挙つたりしてゐた。
 登志子が果物の盆を重さうにささげて、
「兄さん、開けてよ。」
 と襖の外から声をかけると、笑ひ声が一勢にぴたりと止つた。煙草の煙が湯気のやうに部屋一杯に立ちこめてゐて、姿も定かではないほどであつた。――膝を抱へて、凝つとうづくまつてゐる者、腕組をして、屹ツと天井を睨めてゐる者、さうかとおもふと仰むけに倒れて、自分の喫す煙草の煙をぼんやりと眺めてゐる者、縁側の籐椅子にのけ反つて星空を見あげてゐる者……など、皆が皆、おもひおもひの姿ポーズで、まるで彫像か何かのやうにおし黙つて、余つ程深い瞑想に沈んでゐるといふ風な余つ程深い瞑想に沈んでゐるといふ風な、不思議な光景だつた。
「何あに、兄さん――どんな御用なの?」
 登志子は、わけもなくあかくなつて兄に訊ねた。
「あのね、はじめての者に紹介するよ。」
 床柱に頭をもたせかけて泰然と腕組をしてゐる村木光夫が、まはりを見廻しながら、
「大滝の妹さんの登志子さん――さつきも言つた通り、登志子さんは来年からは女子大の英文科に入つて、ゆくゆくは作家にならうといふ志望を抱いてゐる人で……」
 と重々しい口調で呟いだ。村木の言ふ通りに違ひなかつたが、何だか登志子はからかはれてでもゐるやうな気がして、急に胸先が震へ出した。
「僕、小原敬吉といふんです。」
 籐椅子で星を眺めてゐた学生服の青年が、ぶつきら棒にあいさつすると、部屋の隅のソフアに、ほんたうに眠つてゐるかのやうに頭を抱へてまるくなつてゐた青年が、むつくりと起きあがつて、
「僕、塚原竜太郎……」
 と、ぎよろりとした丸い眼を見張つて、まるで憤つてでもゐるやうな顔付だつた。何故ともなく塚原の容子ようすを見ると、一同の者がふつとわらつたりした。二十貫もありさうな巨漢おほをとこで、頭は五分刈のいが栗坊主だつた。
「僕、大木弥一郎といふんです。」
 その青年は、青白い額に垂れさがる髪の毛を掻きあげながら如何にも弱々しさうな声で、うつ向いたまま慌てて口のうちで呟いた。その他には、登志子が前々から知り合ひの兄の同級生だつた深井七郎や、佐倉夏雄や、友田昇一達が、酷くむつかし気な顔をして散らばつてゐた。
「……みんなで、この間うちから雑誌の名前を考へてゐるんだが、どうもわれわれの考へるのは理窟張つたりして、考へれば考へるほど六ヶしくなつて、一向纏まらないんだ。そこでね、かへつて埒外のお前にでも謀つたら、案外軽く、適当な題が見つかりはしないか? とおもつたんだが――何でもかまはないから、雑誌に名前になると思はないで、いろんな言葉をしやべつて見て呉れないか。」
 と兄の隆太郎が、突然に登志子に言ふのであつた。
「埒外といふことはないさ――僕等は登志子君も準同人として数へてゐるんだもの。」
 深井が登志子の方に膝を乗り出して、
「われわれは今夜中には、是非とも、決定的な題をつくつてしまはなければならないんで、斯うやつてさつきから皆で考へ込んでゐるんですよ、ひとつ仲間になつて考へて貰ひたいんです。」
「まあ……大変なこと、あたしなんか……」
 登志子が思はず後退りすると、
「いや、もう、一旦ここに現れた以上は逃さないよ。」
 と友田が、大仰に腕をひろげて無理矢理に登志子を坐らせた。
「さうだ、もう、動いたらいけないぞ。二つでも三つでも、何かしら考へないうちはかへさないよ。」
 隆太郎はさういふと同時に、
「さあ、諸君、登志子は登志子として置いて、われわれももう一度考へ直さうぜ。」
 と吐息をつきながら坐り直した。
「よしツ――」
 二三人の口から同時に洩れると、一同はまたおもひおもひの位置で、凝つと首を傾げて物思ひに耽つた。再び深い沈黙が部屋ぢうを圧して、彼等は囚人のやうにひつそりとした。――眉間に深い立皺をきざんで、凝つと眼を閉ぢてゐる者、眼ばたきもしないで明るい電灯を瞶めてゐる者、机にどつかりと突つ伏して悩んでゐる者、頭をかかへて唇を噛んでゐる者……登志子は、どうして好いか解らない困つた思ひで、そつとひとりびとりの同人達の容子を眺めてゐるより他はなかつた。
 やがて、塚原が口を切つて、
「意慾――といふのはどうだらう。がつちりとした質実な感じで、どうだ?」
 と何か得意さうに一同を見廻した。
「駄目だい、そんな重つ苦しいのは――竜公の力の容れ方はどうも見当違ひだよ。」
 佐倉がわらひ、誰も賛成しなかつた。
「ちえツ、また出直しか。」
 塚原は舌を出して眼を瞑つた。
「蜂の巣――はどうだ。」
 と今度は大木が口を切つた。
「馬鹿野郎――蜂の巣、だなんて可笑しくつて、カルメ焼ぢやあるめえし……」
 塚原はわざとらしく腹をかかへて笑つた。
「営々として、一つの巣を建設するといふ意味で、飽くまでも真面目で好いと思ふんだがな。」
「いくら真面目だつて、蜂の巣はないでせうよ。」
「アンドロメダ……?」
 と小原が呟いた。
「そんなの古いや、第一、口調が悪くつて、照れ臭いや。」
「竜車――?」
「自惚れが強いぞ。お祭り見たいだ。」
「それでは、パンドラ――なんかどうだ?」
「喫茶店見たいだな。」
「極光――?」
「駄目々々……」
「ぢや、ただいつそ、ネオ・アート……とでもするか?」
「そんな大きいのは意味ないね。」
「アパートぢやあるまいし……」
 いへばいふで、次々にまぜつ返すやら、冷かすやらで、戯談じようだんにばかりなつて、なるほど、これでは容易に可決しないのも道理だ! と登志子も思つた。
「登志子も、何とかいふ番だぞ?」
 隆太郎が、登志子に応援を求めると、傍から友田が、
「これはどうしても登志子さんの言葉に依るより他はないや。われわれ同志がいふんでは、みんな我儘で、口が悪いと来てゐるし、何時になつたつて際限はありはしないからね。雑誌の名前なんてものは、はじめはどんな言葉を選んだつてどうせ変なのさ。だけど、さうと決めてしまへば、直ぐに、それで落着いてしまふものなんだよ。何でもなく、あれこれと不満などを感じずに、一概に定めてしまはなければ埒の明くものぢやないさ。」
 とつづけた。
「そんなこと、いはれると、何だかあたし怖くなつてしまふわ。」
 第一、登志子にはどんな言葉も浮んで来さうもなかつた。その上、どんな言葉を吐いたにしろ、さつきからの様子を見てゐると、忽ち一笑に附されさうで、到底口先には登りさうもなかつた。

 夜明けごろ登志子が、不図眼を醒すと、驚いたことには未だ、カーテンの向方に窺へる兄の部屋には満々と明りが点いてゐて微かに人の声さへが洩れて来るのであつた。
「まあ、冗談ぢやないわ、あの人達は未だ雑誌の題のことを考へてゐるのかしら?」
 登志子は、可笑しいやうな、気の毒なやうな思ひで、それにしても温い飲物でも持つて行つてあげなければならないと気づいて、慌てて寝台ベツドを降りると、夜着ピヂヤマの上に外套を羽織つて、お茶の仕度にとりかかつた。――そして、兄の部屋に行つて見ると、同人達は相変らずバラバラにあちこちに蹲まつて、倒れてゐる者もあれば、机に突つ伏してゐる者もあり、考へごとに耽つてゐるのか、眠つてしまつてゐるのか見判けもつかなかつた。――然しソフアに凭れてゐる塚原さんだけは、たしかに睡つてゐる証拠に、大鼾を挙げてゐたが、
「兄さん……」
 と、そつと声をかけて見ると、隆太郎は顔を挙げた。
「未だ決らないんだよ。――決めないうちは、どうしても眠るまいといふ誓ひを立てたんだが……」
「風邪引きはしません?」
「登志子、考へはないか?」
 隆太郎は全くそれより他に屈托もなく、まるで憐れみでも乞ふかのやうに疲れきつた眼をあげて、登志子を見守つた。――初夏の朝は、いつかもうすつかりほのぼのと明け放れて、長閑な海の上からは朝漁に出発する発動機船の音が颯々と響いてゐた。――登志子は、その時まで昨夜のことなどは殆んど忘れて、勿論何も考へてもゐなかつたが、何気なく、
「ぢや、兄さん――海路かいろ――といふのは如何かしら?」と慎ましやかに微笑した。
「海路――」
 隆太郎は、口のうちに呟いて、凝つと海の上の小舟の響きに耳をそばだててゐた。
「賛成だ――もう、有無なく、それと決めよう。」
 眠つてゐるのかとばかり思はれた深井と友田が同時に叫んで起きあがると、毛布やら丹前やらをかむつて、ごろごろとしてゐた連中が、
「否応はないよ。――それで、やつと俺達は吻つとした。」とか、「もう斯うなれば、考へれば考へるほど烏耶無耶になるばかりで涯しもないんだからな。」などと元気づいて、
「おい、みんな、浜に降りて清々と海を眺めようや。」
 とばかりに涌き立つた。
「竜ちやんが起きないぞ。」
「どんな意慾の夢を見てゐることやら――おお、眠れる海路同人よ……」
 塚原ひとりを残して同人達は、砂浜に降りると、みんなそろつて深呼吸をはじめた。
「もう間もなく泳げさうな海だね。」
「あの題は、一体誰が附けたんだい?」
 誰やらがいふと、
「誰といふこともなしに、ひとりでに決つたやうだね。」
 と隆太郎が応へた。――やはり、あの時は、みんな眠つてゐたのか? と、登志子は誰もが自分といふことに気づかないのを却つて愉快に感じた。――いつかは自分も「海路」の同人に加へて貰はうか知ら? 登志子は何か自信でも湧いて来るやうに、そんなことをおもふと、急に遥かな道が展けて来るやうな、もう少し誇張を以ていふならば、幸福といふものは全く遇然に、何時何処から現れて来るかも謀り知れないやうな胸一杯のものに駆られてゐた。出船が、夫々の人数を乗せて次々に渚を越えると、陸では殆んど感じなかつたが沖に出るに従つては順風が立つてゐると見えて、赤や黄や白など、三角や四角のとりどりの帆を挙げてゐた。
 同人達は、特に感慨の深いやうな眼つきで、夜を徹した疲れも忘れてキラキラとする海の上を見渡し、折々振り返つては、
「もう、塚原が寝呆け眼で現れさうなものだが――大将は屹度、俺は一睡もしないで考へてゐたんだぞ、なんて言ふだらう。」
 などと囁いてゐた。

 同人雑誌「海路」は間もなく発刊され、同人大滝登志子の叙情詩が真先に世間から認められた。

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「令女界 第十四巻第六号」宝文館
   1935(昭和10)年6月1日発行
初出:「令女界 第十四巻第六号」宝文館
   1935(昭和10)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月26日作成
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